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Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数1418

全1418件 381~400 20/71ページ

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No.1038:
(7pt)
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Money, Money, Money !

金、金、金。金に狂い、金に惑う。金に魅せられ、ドツボに陥っていく人々。
服部真澄が今回選んだ題材は金にまつわるお話だ。

物語の主人公は週刊誌記者、志貴大希と明野えみるという2人の記者。
一方は自身がアングラカジノで借金の海に溺れながら、アフリカの小国ロビアの大使館で開かれている裏カジノの実態を調査し、それが政治家の裏金を追うことになる。他方はカジノ合法化を煽情する記事を書く取材を重ねるうちにIT業界の風雲児とされている「ゲートライン」CEOの日継育に迫り、彼の懐に切り込んでいく。

彼ら2人の取材に共通するのがこの日継という男ともう一人政界のフィクサーとされる小牧長次郎老。やがて彼らはこの2人が互いの金を有効に使うために海外へ流出したマネーと国内に極秘裏にプールしているマネーを自由に操り、大義を成そうとしていることに気付いていく。

今までの服部作品は香港返還に纏わる密約と陰謀、ある技術に関する特許戦争、巨大企業の買収戦争と利権を争うことをテーマにしていたが、その利権に隠されているのはやはり金。莫大な富、利益をもたらす手札の争いだった。従ってここまで明らさまに金に纏わる争いを扱ったのは本書が初めてだ。そのためか、書かれている人物たちはいつもにも増して生々しい。

題名にあるようにギャンブルに溺れ、借金を重ね、会社の金に手を付けながらもその魔力に絡め取られ、抜け出せない者たちばかりが登場する。
自営業が上手く行かず、そんな所に親の急病で呼び出され、生活費を切り詰めながらもなんとか生きていこうとする庶民。
その業界で生え抜きの存在と持て囃され、世界を股にかけた百戦錬磨のバイヤーだったはずが巧妙な詐欺に遭って、資金を丸々失って途方に暮れる者。
億単位の金を操りながらも日本の暴利とも云える税率で大半を毟り取られることに我慢がならず、どうにか脱税を画策する者。
政治資金を元手に株を買っては私利私欲に走る者。
かつての職業で得た人脈を利用し、政治家たちの裏金のブローカーとなり、無造作に金を貯め込む者。その甘い汁に縋り、ギャンブルに溺れる者。
金によって結ばれる縁もあれば、金によって失う絆もある。

誰もが必要としている金。それは我々日々の生活であればあるほど困らないいわば安心を約束する物であり、己のステータスを示すバロメータでもある。

しかし安寧を得ようと金儲けに腐心する野心家たちが情報を駆使して、司法の手の届かない地に辿り着いた時、それまでの縁が失せ、残ったのは金だけとなる。
果たして彼は本当の幸せを、安らぎを手に入れたのだろうか?

作中、主人公の志貴の独白で語られるバカラの意味。その言葉はゼロを意味するという。
一攫千金を夢見てカジノでギャンブルに興じる人々。その1つ、バカラにそんな意味があるとは、つまり勝ちの向こうにあるのは無ということなのか。日継が辿り着く境地はまさにそんな虚しさを表しているようだ。

相変わらず、様々な角度から色んな人物を登場させて、物語を重層的に語る作者だが、今回は非常に狭い人間関係で構成されているところが気になった。

しかし今なお持ち上がっては消えていくカジノ合法化案。以前都知事が唱え、大阪市長もまた同様の案を声高に叫ぶが実現しないでいる。
それはカジノが放つ煌びやかな光景ゆえに孕む闇の深さゆえか。私自身ギャンブルをしないのでカジノ合法化にはそれほど魅力を感じないが、実現することで県の財政が潤うと同時に犯罪の温床ともなり得る諸刃の剣。
本書が刊行された2002年から早くも17年が経ってなおこの状況ということは夢のまた夢の話なのだろうか。


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バカラ (文春文庫)
服部真澄バカラ についてのレビュー
No.1037:
(7pt)

過ちは決して墓場まで持っていけない

今なお小説の題材として語られるキム・フィルビー事件。
イギリス秘密情報機関の切れ者であり、高官の座に一番近いと云われていた男がソ連のスパイだったという衝撃的な事件は恥ずかしながら私も最近になって知ったのだが、本書はこの稀代のスパイを育て上げた伝説のKGB部員オルロフが自身を暗殺しようとする謎の人物を追って国を跨って捜査をするという物語だ。
それは同時にKGBがイギリスに、いや世界各国の共産主義思想を持つ人物たちをどのようにスパイに仕立て上げたかを語ることにもなるのだ。

この虚と実が入り混じった物語展開は一方でフィクションと思いながらも、もう一方では実話ではないかと錯覚してしまう。この錯覚は物語の終盤でさらに加速する。

なんとキム・フィルビー本人が登場するのだ。一連の事件を捜査するオルロフは当時イギリスに潜んだモールたちを束ねていた自分以外にこの男が別の諜報部員を組織していたのではないかと疑って密会するのだ。しかしフィルビーはそれを否定しながら、事件を解くある重要なカギをオルロフに与えて退場する。

この作品にはフィルビー以外にもいわゆる「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれたスパイたちも実名で登場する。主人公オルロフが彼らを仕立て上げた伝説のスパイとされているため、彼らの為人を詳細に語るシーンが出てくるのだが、不思議なのはどうやってバー=ゾウハーはここまで人物を掘り下げることが出来たのかということだ。
まるで実際に逢ったかのようだ。それほどまでにリアルに描写している。

これは老境に入ったスパイたちが過去を清算する物語だ。イギリス政府上層部にスパイ網を作り上げた伝説のスパイ、アレクサンドル・オルロフはアメリカのフロリダで隠居生活を送っていたところをわざわざイギリスに赴き、彼が現役時に成した諜報行動を語ることにしたのはひとえに彼の前妻ヴァージニアの娘に逢うためだった。

しかしそれが眠っていたかつてのスパイたちの安寧を揺さぶる。忘れ去られようとしている各国間の情報戦の最前線にいた彼らが数十年も経って過去をほじくり返されることを怖れ、消し去ろうと躍起になる。当初それは秘密を墓場まで持っていくことを強要するKGBによる粛清かと思われたが、実はスパイであったことを知られたくない元工作員による過去の清算ではないかとオルロフは推理する。

しかし真相はさらにその予想を上回るものだった。

スパイ活動に時効はない。特にそれを今の政府高官が指揮していたとなると国の国際的信用を揺るがすスキャンダルに発展する。バー=ゾウハーは現時点での最新作『ベルリン・コンスピラシー』でも歴史の惨たらしい暗部に携わった人々の罪が決して時間によって浄化されることはないと痛烈に謳っているのだ。

しかしなんという深みだろう。
最後はオルロフが述懐する、この物語の本質を実に的確に云い表した言葉を添えて、この感想を終えよう。
“諜報活動のからくりは、じつに複雑怪奇だ”


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真冬に来たスパイ (ハヤカワ文庫NV)
No.1036:
(4pt)

語りに過ぎたか、マクリーン

デビュー以来戦争物を書き、冒険小説作家としての地位を不動のものとしたマクリーンが4作目で書いたのはスパイ小説。ロシアに囚われた弾道学の権威である博士をイギリスに取り戻す任務を与えられた特別工作員マイケル・レナルズの物語だ。

しかしこの特別工作員レナルズ、最初に説明があるようにあらゆる感情に左右されずしかも格闘術に長け、人殺しの技を身に着けた危険な男とされているが、協力者ジャンシの部下サンダーに致命的な一撃を与えるものの、びくともしないし、博士と接触した時は盗聴器に気付かずにそれが元で作戦成功に大きな打撃を与える困難を生みだし、さらにジャンシの娘に惑わされたりと、どこが凄腕のスパイなのか解らないほど、間が抜けているのだ。しかも幾度となく彼の前に現れるAVOことハンガリー秘密警察の一員である巨漢のココとの最後の対決では打ちのめされ、サンダーにいいところを持って行かれてしまう。
これが不屈の魂で満身創痍の中、人間の極限を超えて任務を遂行した『女王陛下のユリシーズ号』や『ナヴァロンの要塞』を描いた作者によって創作されたヒーローとはとても思えないのだが。

かえって不屈の魂を垣間見せるのがレナルズの協力者ジャンシだ。
ウクライナ国民軍の司令官であった彼は母と姉と娘と、そして妻を喪い、さらに拷問に次ぐ拷問の日々を耐え、両の掌はもはや原形を留めぬほど変形しているが、そんな人生を歩みながら人類みな兄弟とばかりに人間を狂気に追いやる政府と宗教と、そして犯したその人の罪を憎むさえすれ人そのものには温情を抱く。さらに刑務所で敵の陥穽に嵌り、これまでにない精神崩壊を招く自白剤を摂取されながらも強靭な精神でそれを耐え抜き、軍門に陥ろうとするレナルズを叱咤激励する心の強さを持つ男だ。
彼こそマクリーンが描いてきた極限を超える負荷を与えられながらも明日を信じて乗り越えようとする男の肖像だ。

しかも彼ジャンシの両手に刻まれた凄惨な傷痕は彼の昏い人生を行間で語らせている。して実際に彼が受けた仕打ちは残酷ここに極まれりと云うべき極悪非道の所業がこれでもかこれでもかと語られる。およそ人間が思いつく限りの、いやそれ以上の拷問方法だ。

最近昔のヨーロッパ諸国のスパイ小説を読む機会が増えたのだが、こういう歪んだ社会の構図が生み出した、この世界の歴史の暗部の惨たらしさには心底震えあがらせられる思いが読むたびにする。

しかし今回は久々に苦痛を伴う読書だった。というのも、ハンガリーとロシアの極寒の地の中で時には敵の追手をかいくぐりながら博士奪還のために吹雪の中を疾駆する列車の屋根に上り、連結器を外すというアクションも盛り込みながらも、ところどころに挟まれるジャンシがレナルズに語る政治論が実に濃密過ぎて物語のスピード感を減速してしまったのは否めない。この内容の濃さはほとんど作者マクリーンが抱く政治論そのものであろうが、3ページに亘って改行も一切なく語られてはさすがに疲れを強いるものであった。

マクリーン初のスパイ小説ということもあって作者の独自色を出すための構成なのかもしれないが、国家の原理原則論についてこれほどまでに弁を揮うとなると、もはや小説ではなく大説である。作家としての気負いが勝ってしまったのかもしれないが、これはいささかやり過ぎ。この手の主張は小説ではなく、また別のノンフィクションなどで語るべきだろう。

次作はマクリーンらしい人間ドラマと我々の想像を絶する逆境の中で極限状態に陥りながらも歯を食いしばり、自身の教義を貫いて使命を果たす迫力ある小説であることを望みたい。

最後の国境線 (1977年) (ハヤカワ文庫―NV)
アリステア・マクリーン最後の国境線 についてのレビュー
No.1035: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

本格ミステリのコードに忠実でありながら妙に現実的

光文社が鮎川哲也氏を選者として一般公募した作品で編まれた本格ミステリ短編集『本格推理』シリーズの11巻で石持浅海氏は見事応募作品が選出され、デビューを飾った。そしてその一般公募者から選り抜かれた新人作家がKAPPA ONEというシリーズ叢書でデビューを飾る。その中の1人が石持氏で本書こそがその1冊であった。

そして氏が選んだ舞台はなんとアイルランド、しかも扱う題材はアイルランドの武装勢力NCFが殺し屋に依頼するある幹部の暗殺劇。このどうにもエスピオナージュ色濃い設定で本格ミステリを成立させるという異色な意欲作だ。

上に書いた物語のシチュエーションから本書が本格ミステリのいわゆる「嵐の山荘物」だと誰が想像するだろうか?
石持氏はこの本格ミステリの典型とも云える、警察が介入できず、しかも外部との連絡が絶たれた状況の密室状況を、あくまで現実的で起こりうるだろう状況で実現させるためにアイルランドの武装勢力NCFの一味が宿泊先で何者かに殺害され、警察への介入を許さないというこれまでにない特異なアイデアで設定した。

アイルランドはスライゴーにある有名な湖畔に立つペンション(本書ではB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)と呼ばれている)に集まったアメリカ人、日本人、アイルランド人、オーストラリア人ら観光客に交じって武装勢力NCFの幹部たちが集う。しかもNCFは和平反対派である幹部の一人を自然死に見せかけて暗殺するため、刺客を差し向けている。その中で起こるターゲットの殺人。しかしそれは当初NCFが望んだ形ではない明らかに殺人と思える不審死だったというもの。誰が幹部の一人を殺したのか、そして滞在客に紛れている刺客は一体誰かという2つの謎が読者に提供される。

また舞台がアイルランド、そして名のみこそ聞くがあまり馴染みのないIRA、NCFといった武装勢力を題材に扱っているため、その成り立ちや北アイルランドの今に至る歴史的背景が語られる。

話が横に逸れるが、私は本格ミステリ、社会派、ハードボイルド、冒険小説、スパイ小説にエスピオナージュといわゆるミステリ、エンタテインメントと称される小説のジャンルは広く読むのだが、ミステリ系のオフ会に参加した時は本格ミステリ、しかも新本格の作品からミステリに触れ、そればかりを読んでいる人が多いことに驚くことがしばしばある。またミステリ系感想サイトでもいわゆるハードボイルド系、プライヴェート・アイ小説、冒険小説にエスピオナージュの感想に対して、ミステリではないからそのようなサイトで感想を挙げること自体に違和感を覚える読者がいて、びっくりしたりもする。

私は本書を読むことで本格ミステリしか読まない方々が世界の情勢について触れ、また関連した小説に読書の範囲を広げる一助になるのではないかと思った。
が、逆にカタカナばかりの登場人物でなかなか読書にのめり込めなかったという感想があれば結局本書で試みたエスピオナージュの題材で本格ミステリを書くという斬新な試みが理解されない懸念もあるのだが。

そして舞台の特殊性に加えて本書には他の本格ミステリには見られない特異性がある。それは物語の状況が政治的に大事な交渉を控えていることから、NCFが納得のいく事件の解決しなければならないのだが、それは真犯人が違っていても構わないから論理的に誰もが納得のいく解答を見つけさえすればよいというものだ。

これは実は本格ミステリが抱えるある問題について作者が自覚的でもあることを示している。
謎が現場の手がかりをもとに論理的にきれいに解かれるのが本格ミステリであり、醍醐味であるが、それは一番納得のいく解答が示されただけで犯人による誤導であり、実は別の真相がある可能性がある問題だ。つまり後期クイーン作品によく見られる操りのトリックであり、真犯人がある特定の人物にたどり着くように故意に手がかりをばらまき、誤導する、もしくは実行犯を仕立てあげ、実際には手を下さずに目的を果たすといったものだ。

つまり本書では本格ミステリ作家がいつか直面するこの本格ミステリのジレンマをなんとデビュー作の時点ですでに取り入れているのだ。とても新人とは思えない達観した考えを持った作家である。

ただ石持作品に対して書評家の方々が口を揃えて述べている欠点として、登場人物の心情が理解できないという特徴があるのだが、それは私も本書を読んで感じたことだった。

特にそれが顕著なのは2人目の犠牲者としてペンションのコックであるフレッドが庇から転落して首の骨を折って即死してしまうのだが、そのすぐ後に探偵役のフジが陰鬱な雰囲気を紛らわせようと死んだコックの代わりに滞在客みんなで料理に興じるという場面だ。
目の前で人が亡くなっているのに、料理をしようという意欲が出るのだろうか?ましてや心的ショックから食欲など湧かないのではないだろうか?しかもみな嬉々として料理を楽しむのである。これにはさすがに違和感を覚えずにはいられなかった。

さてタイトルにある薔薇だが、それはイエイツが自身の詩でアイルランドの自由を薔薇の木に例えていることに由来する。つまり南北アイルランド統一が薔薇ならば和平交渉成立はその礎となるのだ。つまりアイルランドに薔薇を咲かせるために謎は解かれなければならないという意味だ。
この辺のセンスからも他の本格ミステリ作家とは違ったものを感じる。

本格ミステリのコードに淫するあまり、本格ミステリ作家の多くが特殊な因習や人里離れた奇怪な人物が主を務める館といった、日本と思しき「ここではないどこか」を構築し、その自ら作った箱庭の中で登場人物を駒のように動かし、パズラーという知的ゲームを披露するのに対し、石持氏は本格ミステリのコードをいかに現実レベルで成立させるか、我々が新聞で目にする事件や会社生活で目の当たりにする異常事態を巧みに題材にしてさもありなんとばかりに読者に腑に落ちさせてくれるのが実に特徴的だ。
逆になぜこのようなシチュエーションが今までありそうでなかったのかと思わされるぐらい、実に自然な状況なのだ。

また他の本格ミステリ作家が本格ミステリを知的ゲームの最高峰として心酔しているように創作しているのに対し、デビュー作の時点から論理的解決の万能性に懐疑的であることから他の本格ミステリ作家とは一歩引いた視座で本格ミステリを捉えているようにも思える。これこそ氏の本格ミステリ作家としての強みであろう。

当時KAPPA ONE1期生としてデビューしながら唯一『このミス』常連作家となっていることが本書を読むことで実に納得できる。
本格ミステリに新しい角度から光を当てた石持氏。次はどんなシチュエーションを見せてくれるのか、非常に楽しみだ。

アイルランドの薔薇 (カッパ・ノベルス―カッパ・ワン)
石持浅海アイルランドの薔薇 についてのレビュー
No.1034:
(7pt)

ちょっとモデルが明らさまか

今回服部氏が選んだのは一大メディア企業の買収劇。一頃日本でも話題になったM&Aがテーマとなっている。

その劇には2つの主役がある。

一つは世界中で有名なアニメキャラクター「くまのデニー」を抱え、そこから映画部門を創設して世界にテーマパークを持つまでになったハリス・ブラザーズ社。
これはまんまディズニーそのものだ。特に作中で描写される「くまのデニー」の風貌はミッキー・マウスそのままのようだ。

もう一つはコンピューター・ビジネスの巨大企業『マジコム』社。天才的カリスマ会長兼CEOのビル・ブロックはビル・ゲイツを髣髴させる。
こちらは恐らくマイクロソフト社がモデルだろう。つまりアメリカきっての二大大型企業、ディズニーとマイクロソフトの仮想一騎打ち買収対決が本書であると云えよう。

しかもハリス・ブラザーズ社の最高執行責任者(COO)のノックス・ブレイガーとビル・ブロックがかつての学友でライバル関係であり、しかもノックスの前妻が今のビルの妻であるという2人の天才同士の仮想対決でもある。

そんな2人によって繰り広げられる仕手戦はやがてある情報によって一気に流れが変わる。それはハリス・ブラザーズ社に隠れた財産があるという事実。

その正体が創設者ジェイク・ハリスが遺した新キャラのデザインだった。数十年前の記念行事で埋められたタイムカプセルにそれは封印されている。
さてこれが現実のディズニーに擬えるとどうだろうか?確かにこれは魅力的ではないだろうか?今なお生まれる新キャラクターたちが世紀を超えた我々をなぜか夢中にする魔力。例えば日本オリジナルのキャラクター、ダッフィーが世界中に波及して人気を博す、こんな不思議な力がディズニーと云うブランドには宿っている。この現実を考えるとこの隠し財産の威力は実にリアルな秘密であると云えよう。

そしてこの秘密のデザインを暴こうとするシェリルと反、そして特撮技師のレイモンド・スプーンが描いた作戦がなかなかに面白い。
緻密に企てた作戦は特撮技師と云う特殊技能を持つレイモンドの存在がなければ成り立たない計画だ。この辺は実に映像的でしかもサプライズもあり、これが本書のクライマックスとしてもいいくらいの出来栄えだ。

そしてこの秘密のデザインを手に入れたことで『マジコム』側は隠し財産の途轍もない価値に気付き、一気に買い上げ価格を吊上げ、攻勢に出る。
しかし宿敵ブレイガーはそんな窮地に陥っても、ウィンストンの隠し子を手に入れることで泰然自若としている。このウィンストンの隠し子、チャイニーズ・マフィアのデイヴィッド・ウーに何が隠されているのか、Xデイに向けて緊張感は募っていく。

服部氏が凄いのはこの買収劇にアメリカのある法律を絡ませていることだ。

以前、某企業が発明した権利は会社の物か発明者の物かという問題が起きたが、本書の問題もそれに近い。
「くまのデニー」の作者であるジェイク・ハリスによって生まれたハリス・ブラザーズ社。当然ながらその権利は会社に帰属すると思われるが、会社が設立する前に得た権利であるがゆえにそれは作者に帰属するのだ。
これは今の出版社でもあり得る話ではないだろうか。これは天才によって創立された会社が抱える盲点であり、その歴史が古ければ古いほど起こり得る事態ではないだろうか?

しかしながら服部氏の広範な知識と緻密な取材力には全く以て脱帽だ。何しろアメリカを舞台にアメリカの法律下で買収戦争を描き、さらにそこにアクションシーンも盛り込んでキチッとエンタテインメントしているのだから畏れ入る。
600ページを超える大著だが、そのページ数が必要なだけの情報量、いやそれ以上の情報量を含みながらアメリカの法律に疎い我々一般読者に噛み砕いて淀みなく物語を進行させる筆の巧みさ。作品を重ねるごとにこの著者の作品はますますクオリティの冴えを見せてくれている。

しかし今回は主人公である反健斗の親を知らないという暗い出自と自身が日本人なのかアメリカ人なのかというアイデンティティの揺らぎがあまり物語に寄与していないのが気になった。逆に例え精子提供者と人工授精児という間柄であっても親子の絆の深さが何物にも代えがたい貴重な物であることが単なる復讐劇の駒として見ていなかったノックスに引導を渡す誤算に繋がった点が印象に残った。
しかしそのデイヴィッド・ウーでさえ薄くしか物語に介入していないのだから、中国人であるという設定だけでその心理を悟らせるというのはちょっと乱暴だったように感じてしまった。

とはいえそれは瑕疵に過ぎないだろう。とにもかくにも数ある企業小説、金融エンタテインメント小説とは明らかに一線を画して面白いことは間違いない。
我々の知らない世界を次作でも見せてくれることを大いに期待しよう。


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ディール・メイカー (祥伝社文庫)
服部真澄ディール・メーカー についてのレビュー
No.1033:
(7pt)

本格ミステリ風味を踏襲

泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第4作目。
前作『泥棒は詩を口ずさむ』から引き続きバーニイは古書店店主を営み、友人の犬の美容師キャロリンは前作の事件がもとで彼の泥棒稼業のパートナーとなって一緒に盗みを働いている。

そして泥棒に入った家でまたもや殺人事件が起き、バーニイは容疑者になってしまうが、今回は逮捕されず任意同行と云う形で警察署に引っ張られるものの、生き残った被害者への面通しで別人だとされるのが今までとは違うところ。
つまり今までは警察に捕まりそうになったところを寸でのところで逃げ出し、世間から隠れながら事件を解決するという手法だったのだが、本作では証拠不十分として釈放され、警察からの嫌疑を受けながらもいつも通りの古書店主としての生活をして犯人探しをしているのがミソ。これが今まで行動の不自由さゆえに物語が停滞しがちだったこのシリーズの欠点を見事に補っており、通常よりも物語に躍動感があるように思えた。

今回バーニイが巻き込まれる事件は時価20万ドルはすると云われている「リバティ・ヘッド・ニッケル貨」で発行がされていないはずの1913年付のたった5枚しか現存していないとされる幻の硬貨を巡る殺人だ。バーニイが入る前にすでにターゲットのコルキャノン邸には泥棒が入っていたが、硬貨が隠されていた壁金庫は開放されておらず、彼はまんまと効果をせしめ、買い手が付いたら山分けと云う条件で故買屋に渡してその場を去るが、コルキャノン邸には強盗による暴力で妻が死に、さらに故買屋は何者かに殺され、バーニイの許には硬貨を引き渡すよう謎の人物から脅迫を受けることになる。

とまあ、通常であればバーニイは非常に危ない橋を渡っているのだが、なぜかそこには陰鬱なトーンはなく、バーニイの語り口でムードは快活軽妙なのだ。
2人もの死人を出しながらも一人の死を巡ってそれぞれの関係者に隠された暗い過去や事実を探るマット・スカダーシリーズの語り口よりも明るいというのが非常に面白い。毎度のことだが、本当に1人の作家が両方書いているのかと信じられない思いを抱いてしまう。
また作中やたらとロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズを揶揄しているのが目に付いた。自身の生み出したアル中探偵マット・スカダーと健康的で現代的な探偵スペンサーとを比較しているのだろう。どちらもネオ・ハードボイルドとして新たな探偵像を描きながらも、スペンサーシリーズの方が当時は売り上げも高かったことに対する作者のやっかみのようにも取れる。こんな健全な探偵が活躍する物語のどこが面白いのかねぇ、とバーニイが代弁しているかのようだ。

さて事件は一つの館に一夜でなんと3組の強盗が入っていることが判明する。
一番目の強盗は部屋を荒らして金目の物を獲っていき、二番目の強盗はバーニイとキャロリンの二人組で金庫を開けて幻の金貨を手に入れる。そして三番目の強盗が帰宅したコルキャノン夫妻と出くわし、二人を昏倒させ、それが元でコルキャノン夫人が亡くなってしまう。

正直この事件の真相は早々に解ってしまった。

だが二番目の殺人、故買屋エイベル・クロウの殺害事件の真相は見抜けなかった。

しかしこのバーニイ・ローデンバーシリーズだが、作者ブロックは意識的に昔の本格ミステリの形式を踏襲して書いているようだ。今回の謎解きは殺害されたエイベルの告別式で事件の関係者を一堂に集めてバーニイが謎解きを開陳するという古式ゆかしきスタイルなのだから。

話は変わるが、故買屋エイベル・クロウがダッハウ収容所から生還したという設定には驚いた。ついこの前に読んだのがバー=ゾウハーの『ダッハウから来たスパイ』でまさにこの地獄の収容所について書かれたノンフィクションだったからだ。またもや本が本を引き寄せるという奇妙な体験をしてしまった。

さて前作に続いてバーニイのパートナーを務めたレズの犬美容師キャロリン・カイザーが前作で恋人だったランディと別れ、なんと犬猿の仲だったバーニイの女友達デニーズと懇意になってしまうという意外な展開。そしてさらにバーニイは今後も泥棒稼業を続けていく意欲を見せて物語は終わる。

次回もまたバーニイは古本屋稼業を続けて本に纏わる小気味良いエピソードを交えながら、泥棒もして奇妙な事件に巻き込まれることだろう。そしてその時のバーニイを取り巻く人々の状況はどんな風になっているのか、楽しみである。
これぞまさにシリーズの醍醐味ではないだろうか。


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泥棒は哲学で解決する (ハヤカワ・ミステリ文庫―泥棒バーニィ・シリーズ)
No.1032:
(7pt)

日本兵ってこんなに残虐だった?

第1作では極寒の海、第2作目ではカリブ海に浮かぶ難攻不落の要塞と戦時下での男たちの戦いを描いてきた作者が第3作目に選んだのは日本軍が包囲する東南アジアの海からの脱出行だ。

とにかく先の読めない展開ばかりだ。
日本軍が北オーストラリアに進攻する計画書のフィルムを携えたイギリス軍の准将をオーストラリアに送るために、モグリの商船にて脱出しようとするが、あえなく撃沈され、通りがかったイギリスの大型タンカーによって拾われる。そこから大型タンカーによる決死の脱出行になるかと思えば、そのタンカーもゼロ戦によって撃沈され、准将を含んだ残された乗組員は救命ボートにて逃走するが、さらに潜水艦に追われて、機転を利かせて迎撃し、島に上陸するという展開。さらにそこで追ってきた日本軍との攻防が繰り広げられ、ボートを沈めるという奇策で日本軍を欺き、ダーウィンへと死の航海へ旅立つ、そして再び日本軍に捕えられそうになったところで、一人の男の死と引き換えに逃亡に成功し、辿り着いた島で再度日本軍と相見える、とこのように場面展開は実に目まぐるしいのだ。

そして相変わらずキャラクターが立っている。

日本軍のオーストラリア襲撃の計画書のフィルムを持つ退役准将フォスター・ファーンハイムは身分を偽るために酔いどれの飲んだくれを演じる狡猾さを持ち、さらに一級の射撃の腕前を発揮して乗組員たちの窮地を救う。
遭難した彼ら一行を救う英国大型タンカー、ヴィローマ号の船長フィンドホーンは何事にも動じない落ち着きを常に持ち、その片腕の一等航海士であるジョン・ニコルソンは冷静な判断力と海を熟知した航海術を備え、そして船長同様、動揺という言葉の対極に位置する人物だ。

しかし何よりも最も印象の残るのは看護婦のドラクマンだ。欧亜混血の澄み渡るような青い眼と烏の濡羽色のような美しい黒髪を持つ彼女は、常にその目に力強い意志を備えている。そしてその美しい顔の左側には日本軍の銃剣によってこめかみから顎に亘って長くつけられた切り傷があるのだが、それを彼女は動じることなく公然と曝す。その描写だけで彼女の為人を読者に知らしめるマクリーンの上手さに思わず感嘆してしまった。

日本軍が極秘裏に計画している北オーストラリア襲撃の計画書を日本軍が攻め込む前にオーストラリアに渡さなければならないとするスパイ小説から始まり、そこから海洋冒険小説に、軍事小説、さらには島での日本軍との戦いという冒険アクション小説と、あの手この手と色んな手札を惜しげもなく導入するマクリーンのサーヴィス精神旺盛さが本書でもいかんなく発揮されている。

しかし本書では日本軍がこの上なく残虐な軍隊であると書かれており、前述のドラクマンの美しい顔に傷を負わすのは勿論の事、じわじわと真綿を締めるような拷問、捕虜に対する非人道的な行為が語られており、本当にそこまで酷かったのかと首を傾げてしまうくらいだ。特に中国での大虐殺を引き合いに出して、その残虐性を仄めかしていたが、これは今なお史実としては疑問視されている話だ。
これは当時の欧米人が日本のみならずアジアの国の軍隊をひどく恐ろしく思っていたことによるのだろう。だから映画『ランボー』シリーズでもいずこのアジアの兵士による拷問が非人道的に描写されているのかもしれない。

また今回はどんでん返しが非常に目立った。赤道直下の地の戦時下でのエスピオナージュが主軸にあったためか、仲間と思っていた人物が不可解な行動で裏切り、さらに最後でも裏切りが発覚したりと、スパイ小説特有の裏切りの連続が書かれているが、あくまでそれは設定であり、中身は熱帯の地での冒険小説と云った方が正しいだろう。

これほどまでに先の読めなかった作品が、結末が非常に淡泊なのはちょっと残念ではあった。
さて3作続けて戦時下での人間の極限状態に迫った冒険小説を著したマクリーンは次回はどこの地を舞台に迫真の冒険物語を繰り広げてくれるのだろうか。

シンガポール脱出 (ハヤカワ文庫 NV 157)
No.1031:
(7pt)

ウソのような実話

これは数奇な運命を経た、あるスパイの人生を描いたノンフィクション作品だ。

ナチス人強制収容所ダッハウの囚人26336号はその日、何の仕事もあてがわれず、病院に行くよう命ぜられた。そこで彼は数日前から発症した首筋の潰瘍の治療を受け、そして数日後、突然釈放された。そして彼はそのまま参事官に連れられ、列車に乗ってベルギーのブリュッセルまで行くことになる。車内で彼は自分の名前がその日以来パウル・ファッケンハイムからパウル・コッホと名乗る事を命じられ、身分証明書を渡される。
それは彼が今後数奇な運命を辿る始まりだった。

ドイツ系ユダヤ人のドイツ人パウル・エルンスト・ファッケンハイムは入った者は生きて出られない地獄とまで呼ばれたユダヤ人強制収容所ダッハウに収容されていたが、ドイツ陸軍の秘密情報機関国防軍防諜部より目を付けられ突然釈放される。そして彼はパレスチナに潜入し、ロンメル将軍を助けるためにユダヤ人スパイとなってイギリス軍を混乱に陥れ、彼の地にドイツ軍の勝利をもたらすよう、命じられる。

しかし奇妙なのはこのドイツ陸軍の秘密情報機関国防軍防諜部(アプヴェール)の作戦を邪魔しようとしているのがなんとナチス・ドイツの諸機関であることだ。つまりアプヴェールは反ナチ派であり、ユダヤ人を忌み嫌うナチスは逆にパウルがスパイであることを敵国英国に伝え、作戦を失敗させようと画策する。そんな只中に放り込まれた一介のユダヤ人パウル・ファッケンハイム。彼の存在は当時の歪んだドイツ政府の構造が生んだ仇花と云えるだろう。

パウル・コッホという偽りの身分を与えられたファッケンハイムはパレスチナに潜入することがナチスのSSの工作によって知られることになり、アプヴェールの思惑とは違い、すぐさま英国軍に囚われの身になる。そこで待ち受けていたのは運命の悪戯としか云いようのない皮肉だった。
まずコッホというSSの高官が実在した事。英国情報部がアプヴェールにパウラ・コッホなる女性工作員がいることを知っており、パウルはその関係者でパウラ同様、危険なスパイとみなされていた事。
さらに姿を消し、行方知れずとされたスパイ、ファルケンハイム大佐なる人物が存在した事。偽名のみならず実名さえも非常によく似たナチス軍人がいたことがファッケンハイムにとっての最大の不運の始まりだった。これを皮肉と云わずして何と云おう。

ところでパウル・ファッケンハイムと云う男はユダヤ人という特性なのか、とにかく行き先々でコネクションを作るのが非常に上手く、それは発展途上国である東南アジアでもその地に溶け込み、料理人として生計を立てられるほど器用でもあるのだ。

そして驚くべきことに彼はかなりモテるのだ。なぜか彼の周りには女性が1人だけでなく複数おり、しかも美人であるというモテぶり。付された写真を見る限り、いわゆるイケメンとは思えないのだが、これも上に書いたような社交的な性格が醸し出す人間的魅力によるところが大きいのだろう。しかし奇妙なことになぜか結婚生活は上手く行かないのだ。
色男にはよくある話だが、彼の風貌はそんな地に足がついていないような生活を送っている風には見えない。

そしてこの彼の社交性が彼の窮地を最後に救う。頼みの綱の父親でさえ、彼の素性を証明する事を拒否した彼を救ったのは過去に自身が開いた料理学校の生徒で恋慕を抱いていた女性の母親だった。彼女が彼がナチスの高官であるという誤解の産物である軍事裁判にて証言台に立ち、彼の素性を証言するのだ。

この決定的な証言によって無罪の判決が下されるシーンは圧巻。こんなドラマティックなことがあるのかと感嘆した。『奇跡体験!アンビリバボー』を観ているかのような錯覚を覚えた。

かようにバー=ゾウハーが描く実在したスパイのノンフィクションは一級の小説のように語られる。その内容は全て実話だという事を忘れてしまうほど、濃度が高く、読み物として実に面白い。

そしてよくもこのような題材を見つけた物だと感心した。結局、ダッハウ強制収容所の囚人からユダヤ人のスパイに抜擢されたファッケンハイムはパレスチナに降下した後、すぐに捕まってしまい、その後は収容所での尋問と軍事裁判に明け暮れる日々が綴られる。つまり彼はスパイとしては全くの役立たずだったわけだ。寧ろファッケンハイムの後に新たに送られたユダヤ人スパイ、ヨーン・エブラーこそが語られるべきスパイだったのだろう。しかし逆にバー=ゾウハーはスパイとしては何の成果も挙げられなかったファッケンハイムが実に数奇な運命を辿ったことを発見したのだ。
名も知られずに隠密裏に葬り去られた星の数ほどの諜報員たち、ファッケンハイムもその中の1人になり得た1人であり、しかも歴史の翳に埋もれていたスパイだ。そんな彼に日を当てた本書はナチスが自我崩壊していく様と、ナチスの狂気に翻弄された数多くの人々への鎮魂歌として読まれるべきだ。
現在バー=ゾウハーのノンフィクションは『ミュンヘン』が現在でも版を重ね、手に入れることが出来るが、本書も誰もが読めるよう復刊させてほしいものである。

ダッハウから来たスパイ (ハヤカワ文庫NF)
No.1030: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

心くすぐられ、そして満たされ

2000年代のミステリシーンを代表する作家となった伊坂幸太郎の、奇想天外なデビュー作。
しかし奇想天外でありながらこの上なく爽やかで、そしてヤバい。

数あるミステリを読んできたが、人語を話し、未来を予測する能力を持つ案山子が殺される事件を扱ったミステリはまさに前代未聞だ。

それを筆頭に嘘しか云わない画家、園山や島の秩序を守るために殺人が許されている桜と云う男。天気を当てる猫に、300キロを超える大女など不思議の国に迷い込んだかの如き世界が繰り広げられる。

こういう風に書くとディキンソンのような過剰に異様な世界ではなく、牧歌的で寓話的なところが特徴的だ。案山子が優午と名付けられ、少し先の未来を予見できることが普通の日常として受け入れられるような普通に満ちた世界が荻島にはある。

この荻島と云う不思議の国の成立ちまでも伊坂氏は細やかに設定している。
150年もの間鎖国状態であり、独自の秩序で生活されている荻島という孤島。しかし鎖国状態でありながら、腕時計や洋服、車も走っており、どこか胡散臭さを感じる、テレビのセットのような作り物めいた世界を感じさせるこの島はその由来を伊達正宗の時代にヨーロッパへ渡った支倉常長によって隠密裏にヨーロッパと交易を成すために開かれたとされている。

さらに言葉をしゃべる優午の成立ちさえも時代小説の体裁で語られるのだ。それはお伽噺のようなエピソードであるが、その物語の強さを感じるお話には妙な求心力がある。

そんなゆっくりとした時間が流れる荻島でも犯罪はある。婦女強姦から弟殺しと云った残酷なエピソードも挿入される。
それはどこか「桜の木の下には死体が眠っている」という言葉のような、至極平和な生活に潜む闇のように。それら犯罪者に引導を渡すのは警察ではなく、桜と云う名の殺し屋だ。人を殺すことを認められたその男は寧ろ日常は異常な世界と共存して成り立っているのだと我々に知らしめているようにも取れる。日常生活を営む中で、我々が食む牛肉や豚肉を生産するために、知らない所で屠殺が行われているという惨たらしい事実のように思える。

対象的に極悪非道的な恐ろしさを見せるのは伊藤が逃げた仙台で元同級生で警官の城山のパートだ。
警官でありながらも人間の偽善性を試すように一般人の日常を暇つぶしに蹂躙する非情さを持っている。しかも感情で心を乱すことはなく、冷静かつ冷徹。城山によって囚われの身となった伊藤の元彼女静香の言葉を借りれば、まさに無敵の存在だ。

そして物語の終盤、それまで伊藤の目を通して我々読者に島民たちの奇妙な振る舞いや行為がパズルのパーツが収まるかのようにカチカチとある一点に収束していく様はまさに壮観。

しかしなんという世界観なのだろう、この作品は。
こののどかな営みの中で起こる人の死は決して少なくないのにも関わらず、それをあるがままに受け入れ、日常が続いていく。それは一種、天藤真氏の作風にも似ている。
そしてただ単純に穏やかで平和な世界ばかりが描かれるわけではなく、きちんと傷ましい事件や残酷な所業も挿まれる。それはこの世は決して綺麗事だけでは成り立っていないのだと我々に諭すかのように。

とにもかくにも島の住民日比野によって紹介される一種変わった島民たちのエピソードや過去、そして時折挟まれる伊藤の祖母の語りなどは実に示唆に富んでおり、日常生活で出来た心のささくれのどこかに引っかかってなかなか離れない。
それは教訓と呼ぶほどには説教じみてはないのだが、普通に過ごしていて忘れがちな約束事を思い出させてくれるかのような但し書きのように気付かせてくれるのだ。

名セリフに溢れた本書の中で私が最も印象に残ったのは優午が島唯一の郵便局員、草薙を評した言葉だ。
「彼は花と同じで、悪気がありません」
こんな文章に出逢うだけで私は何だか幸せな気持ちになってしまう。

物語の中で唯一暗い光を放つ存在、城山も静香を人質にして荻島に渡る。この物語の中で最もスリリングなのがこの城山のパートなのだが、実に爽快な始末の付け方を伊坂氏はしてくれる。

そして物語は唯一残った謎、「この島に足りない物」の謎を解いて実に気持ち良く終えるのだ。

ああ、まだ私の胸に留まる伊坂氏が残した歓喜を挙げたくなる嬉しさにも似た何かが心くすぐって堪らない。
なんと優しさに満ちた物語か。
なんと喜びに満ちた物語か。
こんな物語を紡ぐ作家が現れたことを素直に寿ぎたい。


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オーデュボンの祈り (新潮文庫)
伊坂幸太郎オーデュボンの祈り についてのレビュー
No.1029:
(8pt)
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先見性に優れたからこその見誤ることの哀しさ

1997年の香港返還に向けて日本、中国、アメリカの策謀ゲームについて新人離れした筆致で颯爽とデビューした服部真澄氏が次作の題材として選んだのは複雑怪奇な特許の世界だ。

特に秘密主義であるアメリカの特許の世界に微に入り細を穿った綿密な内容で特許に群がる人々の策略を描いていく。

読中、この物語はどこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのだろうかと、戦慄を覚えた。

正直『龍の契り』は力作とは感じながらも1997年の香港返還に纏わる密約とそれに関する陰謀というスケールの大きなテーマが話題となって先行したせいか、緻密な取材に裏付けられた膨大な情報には感心させられたものの、それらを上手く消化できずにどこか実の無さを感じたが、2作目の本書では当時の特許に纏わる各国の暗躍ぶりと各組織の情報が、前作以上の量でありながらもごく整然と整理され物語に溶け込み、実に理解しやすくなっている。その筆致はどこか海外の謀略小説家のそれを髣髴させ、落ち着きや余裕さえ感じされられる。
2作目でこれほどまでに成熟するとはこの作者の技巧に素直に驚かされた。

特徴的なのは実在する企業や商品の固有名詞を多用しており、それがこの作品で描かれるフィクションとの境目を曖昧にし、どこまでが実話でどこからが作り話なのかが解らなくなっていくところだ。つまり実にリアルなのである。
そのリアルさゆえにアメリカの最先端技術の独占しようとする秘密主義的な特許システムの特異さが異常に際立って読者の頭に刻み込まれていく。この技法が私をして先述の想いを抱かせたのである。

物語はある「石」に関するアメリカの秘密特許を軸に実に多彩な組織や人物が関わる形で繰り広げられる。

まず主人公であるコンピュータ・セキュリティのエキスパート、笹生勁史は図らずも通商産業省の機械情報産業局局員、鍛代温子の依頼でアメリカの特許王エリス・クレイソンが所有する日本の企業を食い物にしている『サブマリン特許』を無効にすべくその素性を洗うことで関わっていく。

その特許王エリス・クレイソンは渦中の特許を所有する謎めいた人物である。

かつて笹生によって逮捕された伝説のハッカー、ケビン・マクガイアは出所後、マフィア上がりの実業家ロッコ・オラルフォに飼われる形で彼が不法にアメリカの特許商標庁から手に入れた件の特許をシュレッダーから再生することで核心に迫っていく。

ケビンを利用してアメリカの秘密特許を手に入れ、ひと儲けを企むロッコ・オラルフォはやがてその中にあった人工ダイヤモンドに関する特許を、アメリカを代表する巨大複合企業体ユナイテッド・エレクトリック(UE)の会長兼CEOのジョン・エイカーズに売ると共に以降も秘密特許を手に入れるビジネス・パートナーとなる。

ジョン・エイカーズは世界のダイヤモンド市場を牛耳るダイヤモンド・コンソリデーテッド(DC)の総帥トマス・リッポルト卿と組み、数兆ドル規模の利益を得ようと画策する。

そして世界に公表されない数々の秘密特許を所有するアメリカでもエリス・クレイトンを巡ってCIAと国防省がしのぎを削り合う。

とこのように非常に複雑な構図と関係性でそれぞれが有機的に結び合い、謎の特許王エリス・クレイトンと巨万の富をもたらす一大ビジネスの種となるある「石」に関する特許を巡ってパワーゲームが繰り広げられる。

しかし哀しいかな、本書のような国際謀略小説、特に最先端技術を扱った謀略小説では作者の先見性が問われる物となるが、その予測を見誤ると今回のように刊行から十数年経って読むようになると、現在との乖離に苦笑いをしてしまうしかなくなってくる(なんせウィンドウズ95の頃の時代だ!)。

しかしそれは単なる瑕疵に過ぎないだけの読み応えと一級のプロットがこの作品には内包されている。まさに世界に比肩する国際謀略小説がここに誕生したのだ。
デビュー2作目でこのクオリティと、色々な組織や産業スパイなどの手駒を交えながらもきちんと整理された情報の数々の手際の良さに読みにくいと感じる読者は皆無に等しいだろう。
私は読み終わった時にまた一つ新たな知見を拡げてくれる作品こそが読書の醍醐味であると思っているが、本書はまさにその願望を叶えてくれる一冊であった。


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鷲の驕り (ノン・ポシェット)
服部真澄鷲の驕り についてのレビュー
No.1028:
(7pt)

やはりこのシリーズこそ現代科学ミステリだ

刊行を心待ちにしているある特定の作家の作品、もしくはシリーズ作品というのが誰しもあるだろうが、人類学者“スケルトン探偵”ギデオン・オリヴァーシリーズは私にとってそんな作品群の1つであり、刊行予定に『~の骨』のタイトルを見た私は思わず快哉を挙げてしまった。
なんと前作から3年ぶりの刊行である。これは『洞窟の骨』から『骨の島』までの4年ぶりに続くブランクの長さであり、しかも『骨の島』以降ほぼ1年に1作のペースで刊行されていただけに、作者エルキンズの年齢も考えると―なんと78歳!―シリーズは終了してしまったものだと思っていたので本当に本作の刊行は喜びもひとしおなのだ。

と、長々とこのシリーズをいかに私が待ち侘びていたかをつらつらと書いてしまったが、そろそろ本書の感想に入ろう。

物語の舞台はイタリアはフィレンツェ。しかし物語の中心はそこから車で約40分ばかり離れたワイナリー<ヴィラ・アンティカ>で、そこでワイナリーを経営するクビデュ一族が事件の容疑者たちとなる。

今回も例によってギデオンの骨鑑定から事件の謎が明らかになる。いや実際はイタリア憲兵隊によって処理された事案がシンポジウムの講師として招かれたギデオンの骨鑑定によって逆に謎が深まるのだ。

山奥で発見された二体の白骨死体は1年前から行方不明になっていたクビデュ夫妻の物だった。60mもの高さから落ちたであろう遺体の骨の損傷は激しかったが、遺体には両方とも銃で頭部を撃ち抜かれた形跡があった。夫の遺骨が妻の遺骨に覆いかぶさるようになっていたことから、夫が妻を殺害した後、自分も自殺して頭を撃ちぬいた衝撃で崖から転落したと事件は処理されていたのだが、ギデオンの鑑定でまず妻の死因は崖から落ちたことであり、頭を撃ち抜かれたのは転落後の事であった。つまり犯人と目される夫は妻を崖から突き落とした後、崖を駆け下り、銃にて止めを刺した後、もう一度60mもの高さの崖をよじ登って、崖の上で自分の頭を撃ち抜いて転落するという、なんとも珍妙な状況が推測されるのだ。

しかし火葬されて荼毘に付されたとされていた夫の遺骨があることを知り、その骨を鑑定することでさらに新たな事実が判明する。

即ち夫は妻が死ぬ前に死んでおり、更に死んでから数週間経った後、崖から転落した、更にはその際に何者かによってジャケットを着せられた可能性がある、と。つまりここで2人を何者かが殺した可能性が高まるのだが、なぜ夫の死体は数週間も放置されて崖に落とされたのかというこれまた理解不能な状況が生まれるのだ。

3年間の沈黙の末に刊行された本書はそれだけにギデオンの骨の鑑定を存分に振るっている。特に今回は2体の崖下の白骨死体をギデオンが鑑定することで二転三転事実が覆されるといった充実ぶり。

特に事実が覆る2回目の鑑定ではまたもや興味深い骨に関する知識が披露される。

即ち骨も樹木と同じように枯れ木と若木の状態では損傷の仕方が違うということ。生きている人間の骨が折れるのは体液と脂肪が染み込んで湿った組織に覆われている為、枯れ木のようにポキンとは折れず、弾力があって折れ曲がってしまい、折れる時も片側が裂ける、つまりポキンと折れるのは死んでしまった人間の骨だそうだ。
これは外科医の先生は常識的に知っているのかもしれないが、今回初めて知った。そしてこれにより2体それぞれの白骨体の損傷から遺体の時間差が解るのだ。

またこの骨の弾力性ゆえに、生きている人間の頭蓋骨は頭部が何か硬い物に押し当てられた状態で銃で撃たれても、それによって骨が支えられて外側に射出せずに角のように突出した形で留まることもあるらしい。

また高い所から落ちた時に足から着地すると衝撃で下半身の骨が砕け、背骨が頭蓋骨にめり込んで脳髄まで達する、といったような新たな骨の知識を今回も得てしまった。

さらに物語の最終局面になって二つ目の殺人事件が起きる。勘当されていた継子のチェザーレが過剰薬物摂取による死亡と思しき状態で発見されるのだ。
正直この事件は物語に変化をつけるための蛇足かと思ったが、後にこの事件で犯人が絞られることが判明する。いやあエルキンズの小説は実に無駄がない。

またエルキンズのストーリーテラーぶりは健在。
冒頭の1章でいきなり昔ながらのワイナリーを経営するクビデュ一族の家族会議によって読者は陽光眩しいイタリアの地に招かれることになる。そしてそんな家族のやり取りを通じてクビデュ家それぞれの人となりがするっと頭に入ってくる。この1章で既に読者の頭の中にはこの憎めないイタリアのワイナリー一家が住み込んでしまうのだ。

家長でありワイナリーの経営者である父ピエトロはこよなくワインを愛する男であり、彼には3人の息子がいる。

長男のフランコはワイナリーの実質的な経営を担っており、父の後継ぎとしてワインの勉強に努力を惜しまず、新しい手法や設備を導入してワイナリーの発展に力を尽くすが知識一辺倒の性格で効率主義者であり、ワインを“自社”商品としてしか見れない。

次男のルカは父親のピエトロと同じようにワインをこよなく愛し、昔ながらの製法にこだわり伝統を守ろうとしていたが、ワイナリーを継げないことを悟ると身を引いて第二の人生として妻とレストランを経営しようと計画している。

三男のニッコロはワインは好きだが、知識や愛情は持っていない。しかし持ち前の人の良さとその二枚目ぶりから凄腕のバイヤーとして経営を支えている。
そしてピエトロの妻ノーラの連れ子としてチェザーレがいたが、ライバルワイナリーに勤めることになったことで勘当されている。

と、まあこんな個性的な面々がたった20ページ足らずの1章で実に生き生きと描かれるのだ。

そんな素晴らしき血肉を得た登場人物たちの中に真犯人がいるのは何とも切ない限り。

しかし今回はそれでも物語としては冗長に過ぎたという感は否めない。
この二体の崖下の白骨体を二度の鑑定で事実を二転三転させる趣向は買う物の、とにかくギデオンの語り口によってじらしにじらされたように思えてならない。ギデオンってこんなに回りくどかったっけ?などと思ったくらいだ。

加えて観光小説の一面も持つこのシリーズだが、今回はそれが特に顕著。特にイタリア語が今回はまんべんなく散りばめられており、読むのにつっかることしきりで、更にはこれが特にページ数を膨らましているように感じた。
取材の成果を存分に発揮したかったのだろうが、これではイタリア旅行の費用をとことん経費で落とそうとしているようにも勘ぐってしまうではないか。

とまあ、下衆の勘ぐりはさておき、今回もギデオンの骨の鑑定を愉しませてもらった。
昨今ではジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズやドラマ『CSI』シリーズなど、鑑定が活躍するシリーズが活況を呈しているが、古くからあるこのスケルトン探偵による骨の鑑定はそれらブームとは一線を画した面白味があり、エルキンズの健在ぶりを堪能した。

さて作者の年齢を考えると次回作が気になるが、ここは素直に一ファンとして次のギデオンの活躍を心待ちにしておこう。


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葡萄園の骨〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕
アーロン・エルキンズ葡萄園の骨 についてのレビュー
No.1027:
(8pt)

「鮫島」という22年物の美酒に酔う

新宿鮫シリーズ初の短編集で10編の作品が収録されている。中には某有名漫画作品とのコラボ作品もあり、実にヴァラエティに富んでいる。

「区立花園公園」は鮫島が新宿署防犯課に赴任して間もない頃の話。
若き日の鮫島と上司桃井のある事件のエピソードのお話。まだ第1作目の改造拳銃の事件が起こる前の頃で、鮫島が桃井に対してある種の諦観を持っているのが解る。
しかしやはり桃井は桃井。腐っても素晴らしい上司。部下の知らぬところで壁になり、そんな素振りを見せないところが何ともかっこいいではないか。

「夜風」もまたやくざと癒着したある悪徳警官とのお話。

漫画「エンジェル・ハート」とのコラボ作品である「似た者どうし」は晶の一人称で語られる。
鮫島が槇村香の兄と同じ署だったという設定には正直驚き。「シティ・ハンター」で亡くなった香の兄は確かに刑事だったが新宿署だったんだっけ?もしそうだとしたらこれまた驚きだ。
冴羽䝤とも知り合いというのはちょっとサービスしすぎでは?本書での冴羽はどうも違和感を覚えてならない。まあ、尤も私の知っている冴羽䝤は『シティ・ハンター』のそれなのだが。

「亡霊」もまた鮫島が街で出くわしたやくざから事件が始まる。
シノギを払えないやくざと武闘派で鳴らしたチンピラの末路が家族に衝撃をもたらす。新宿という魔都はその血縁でさえ呑み込もうとするのか。

収録作品中たった16ページと最も短いながらも強烈な印象を残すのが「雷鳴」。
あるバーテンダーの昔話と云った趣で語られる一夜の物語。東京から逃げるように西に逃れた下っ端のチンピラが鉄砲玉を命じられるがしくじり、生まれ故郷の新宿に戻ってくる。組は男を迎えに行く待ち合わせ場所に指定したのが語り手がバーテンダーを務めるバーだった。
たった3人で繰り広げられる物語は、最後にあるサプライズがあり、しかも最後の一行が鮫島と云う男の深みを際立たせている。本書におけるベストの1編。

「幼な馴染み」これまたマンガとのコラボ企画物で、その漫画はギネス記録を更新した通称『こち亀』こと『こちら葛飾区亀有公園前派出所』だ。
「似た者どうし」では鮫島が香の兄と知り合いだったという設定だったが、まさか両津と藪が幼馴染みだったという予想外の展開を見せる。大沢在昌氏も思い切ったことをやるものである。
「エンジェル・ハート」とのコラボ作品ではキャラクターに違和感があったが、本書に登場する両津はあまり違和感はないものの、逆に両津の前で萎縮する藪がキャラクターが変わってしまっているのに苦笑。
本当にこの設定は今後の新宿鮫シリーズに生きていくのだろうか?まあ、両津が再登場することはないだろうが。

「再会」は鮫島が高校の同窓会が出席した時の話だ。
鮫島の高校時代の肖像が垣間見える貴重な一編。キャリアでありながら警部止まりの鮫島と外資系のファンド会社のCEOを務める同窓生。その差は来ている服や行く店からも差が明らかながら、一方は警察という機構にまだ希望を抱き、信念を持つ男とお飾りで会長職に就き、その虚ろな生活ゆえに麻薬に手を出してしまった男。
どちらが幸せなのかはその人が持つ価値観で変わるのだろうが、とにかく鮫島のかっこよさが際立つ作品だ。

「水仙」は鮫島と中国人女性とのあるお話。
モデルのような中国人女性からメールで中国人の犯罪現場のタレコミを貰い、食事の誘いを受ける鮫島に対し、読者の多くは晶に対する裏切りではないかと勘繰る者もいるだろうが、鮫島はそんな安っぽい男ではない。

「五十階で待つ」はちょっと毛色の変わった作品だ。
いわゆる都市伝説ものの一編で異色作。闇社会の頂点に立つボスがおり、ある日突然後継者として選ばれた男はあるテストに合格しないと後継者になれないという噂のとおり、主人公にお呼びがかかるというお話。
「世にも奇妙な物語」にも出てきそうな物語だ。しかし最後に主人公に真相を告げるのは別に鮫島ではなくともよかったのでは。

最後は『狼花』で亡くなった間野総治の墓参りでの出来事を綴った「霊園の男」。
警察と云う組織を内側から希望を失わずに変えようと苦闘する鮫島と、警察に絶望し、犯罪者と共謀して外側から警察組織を変えようとする間野は表裏一体のような存在であり、鮫島は間野の事を敵ながら憎むことはできなかった。


全10編。「鮫島の貌」とはよく云った物だ。
ここにはそれぞれの時代の、また関係者からの視点での、本編では描かれなかった鮫島の肖像がある。

新人時代の、鮫島が“爆弾”を抱えて新宿署へ飛ばされてきて間もなく、ものすごい勢いで検挙率を挙げて警察内外から疎まれている意気盛んな鮫島が居れば、同窓会でかつての恩師の盃に酌をする鮫島もいる。はたまた漫画のキャラクターと知り合いだった鮫島もいて、実にヴァラエティに富んでいる。

特に他者から見た鮫島の印象が興味深い。どのグループにも属さず、どこか超然として物事を見ている男。鮫島の内面が書かれないだけに彼の精神性はそれら他者の目から見た内容でしか推し量れないが、欲よりも信念を、愛よりも信義を重んじる昔の男といった趣がある。
特に「再会」では鮫島の父親の職業が新聞記者だったことが明かされ、その生き様が今の鮫島の行動原理となっていることが暗に仄めかされている。10作のシリーズを全て読みながらも改めて鮫島と云う人間を再認識した次第だ。

また鮫島を取り巻くサブキャラクターの意外な一面も見られるのが本書の特徴でもある。
また恐らくはファンサービスに過ぎないのだろうが、鮫島の数少ない理解者である鑑識の藪が『こち亀』の両津と幼馴染だったという驚愕の事実が知らされる。この辺りは苦笑するしかないのだが、本編ではほとんど語られることのなかった藪の素性が色々語られて興味深い。

またシリーズの持ち味である、警察が関わる世界の専門的な話も盛り込まれている。

今回はやくざが登場する話が多いせいか、極道の世界に関する豆知識が多かった。例えば任侠映画で見られるような女に不自由しないようなやくざはほとんどいないこと。その仕事の性質上、女性も寄り付かなく、しかもシノギが稼げなければソープに売られるなどとなれば、よほどの恋仲でなければ結婚までしようとしないそうだ。

また暴力団による“バラす”、つまり殺しは組員同士はあっても一般人にはよほどのことがない限り、命を落とさないまでの脅しで済まされることも意外だった。
確かに民事不介入という警察が殺人まで発展すれば刑事事件となり、介入せざるを得なくもなるから当然と云えば当然。
それでも下っ端の構成員が始末されるのは身内からの失踪届が出ない限り捜索されないからだという。本書では暴力団によるこれら組員の殺しを「表に出ない殺し」、警察が介入する一般人の殺害を「表の殺し」と表現されている。

またよく映画やドラマで見られる、マル暴担当の警察にやくざ連中が挨拶する慣例は実際にあるらしい。てっきり警察へのやくざなりの礼儀作法だと思ったが、あれは周囲のやくざに警察が来たことを知らせるための合図だったとは。

このように常識的に考えればなるほどと思えることが、世に流布する映画や小説の類でいつの間にか先入観が出来てしまい、イメージが植えつけられていることをこの新宿鮫を読むと目が開かされるように知らされるのだ。このような実際の犯罪のリアルを感じられる所にシリーズの魅力がある。

また全編を通じて特徴的なのはほとんどの短編で外国人による犯罪が絡んでいることだ。

全10編中4編がなんらかの形で外国人が絡んでいる(『こち亀』とのコラボ作品である「幼な馴染み」にも外国人によるスリ集団が登場するほどだ)。
しかしその立場は各編を通じて変容してきている。都知事による不法滞在者の一斉排除を境にかつては新宿を闊歩していた中国人マフィアも少なくなり、足を洗ってレストラン経営者として、ビルオーナーとして留まる者や集団で犯罪者として生きる者たちなど、形を変えて日本に関わっている。新宿はそんな国際社会の縮図として描かれている。

10編それぞれヴァラエティに富んでいるが、基本的に変わらないのはやはり鮫島と云う男の深みだ。
シリーズを重ねていくと、時にバイプレイヤーが目立って影が薄くなることもあったが、やはり鮫島は鮫島。
『絆回廊』で晶が鮫島に放った檄、「あんたは新宿鮫なんだよ」を再認識させる名編ばかりだ。

その中で個人的ベストを選ぶとすれば「雷鳴」、「再会」、そして「霊園の男」になろうか。
先の2編には鮫島の犯罪者を改悛させる度量の大きさが感じられ、しかも自分を律する芯の太さを感じさせる。さらにはサプライズまで仕掛けているという名編だ。
「霊園の男」はやはり『狼花』で壮絶な最期を遂げた間野が鮫島に遺した言葉の真相が、鮫島の魂の救済として語られる、非常に清々しい結末だからだ。
他にもシリーズの前日譚とも云える桃井の男気が光る「区立花園公園」やチンピラに成り下がった家族を持つ人間が謂れなき被害を受ける結末が苦い「亡霊」や異色な味わいのある「五十階で待つ」なども捨てがたい。

とにかくどれも30ページ程度の分量ながらもこれほど読み応えの深い短編集もない。この短編集はシリーズの22年間の熟成の結晶だ。その味わいはまさに22年物のウィスキーに匹敵する味わいを放っている。

10作目で大きな転換を迎えた新宿鮫がこの短編集で以て一つの区切りとなり、更にどのような深化を見せるのか、一読者として非常に愉しみでならない。


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鮫島の貌 新宿鮫短編集
大沢在昌鮫島の貌 についてのレビュー
No.1026:
(7pt)

冒険小説の原点的作品ゆえか

『女王陛下のユリシーズ号』と並んでマクリーンの代表作とされる本書。私は映画でこの作品の存在を知っていたが、大方の人も同様ではないだろうか。
そしてつい最近まで入手可能なマクリーンの作品は『女王陛下のユリシーズ号』のみだったが、一昨年に27年ぶりに行われた週刊文春によるオールタイムベスト100の選出でデビュー作が再びランクインしたことの影響を受けてかは解らないが、昨年冒険小説フェアの1冊として復刊された。

ドイツ軍が誇る難攻不落の要塞にあらゆる攻撃を掛けては苦渋と辛酸を舐めらされたイギリス軍が最後の手段として取った方法がゲリラ攻略。世界的に有名な登山家キース・マロリー大尉をリーダーとして潜入不可能と云われるナヴァロン島に侵入し、要塞が誇る巨砲を撃破せよというのがストーリーの概要だ。

『女王陛下のユリシーズ号』でもそうだったが、マクリーンのキャラクター造形の深みには堪らない物がある。

世界的登山家と云う勇名を馳せたチームの指揮官キース・マロリー大尉は陸軍にいてもなお、冷静沈着かつ慎重な注意力を持ちながらも、決断の速さで電光石火の如く、目の前に立ち塞がる難題に立ち向かう。

そして彼の片腕であるギリシア人のアンドレアは無類なき怪力を誇る大男ながら、俊敏な動きで敵に対処し、容赦なく命を奪う。しかし自らの殺戮を後悔しないことはない。さらにマロリーとは長年苦楽を共にしてきた鏡のような男なのだ。

フケツのミラーと仇名されるアメリカ人はだらしない風貌ながら破壊工作のエキスパートで爆弾の扱いはピカイチの腕を誇る。

ケイシー・ブラウンはメカのプロでどんなに老朽化した装置や乗り物でも豊富なメカの知識と粘り強さでチームの後方支援を行う。

唯一マロリーと初めて仕事をするの若き大尉アンディー・スティーヴンズは一流の登山家であることで選ばれた。しかしその登山技術は有名な探検家であり登山家であった父親と運動神経抜群の2人の兄に対するコンプレックスから生まれた賜物であり、常に何らかの恐怖心を持ち、それを克服することで勝ち得たものだった。つまりチームの中での不確定要素的存在だ。
本書で私が最も印象に残ったキャラクターはこのアンディー・スティーヴンズ大尉だ。恐怖心を常に持ち、それを克服することで自らの地位を固めてきた彼が他のメンバーに自分の弱さを見せたことを悔い、さらに深手を負ってメンバーの足手まといになることを潔しと思わない男が最後に辿り着く恐怖心が雲散霧消した心理で仲間の為に楯になって戦う姿は物語で終始謝り続け、満身創痍の中で苦難していた者が最後に自分らしく生きることを見出した清々しさを感じた。『女王陛下のユリシーズ号』の水雷兵ラルストンを想起させる。

この愛すべき精鋭たちを迎え撃つのはナヴァロンの要塞のみならず、配備されたドイツ軍はもとより限られた時間と自然の猛威、そして進攻を妨げる地形だ。

航行中にドイツ軍の機帆船による臨検を乗り越え、自船の機械トラブルに、更にはドイツ軍がイギリス軍が駐屯するケロス島襲撃のリミットが一日早まるに至る。そして島に上陸するにも突如発生した暴風雨で船舶が上下左右に揺さぶられ、断崖に叩き付けられながら沈没寸前で断崖絶壁に取りつく、そしてそのために食糧や燃料を落としてしまうなど、ありきたりな表現だが、スリルとサスペンスの連続なのだ。

第1作でもそうだったが、マクリーンはとにかく主人公たちにこの上ない負荷をかける。人間の精神と肉体の限界、いやそれ以上の力を試し、もしくは骨の髄まで疲労困憊させ、最後の一滴まで搾り取るかの如く、これでもかこれでもかと危難や難題を突き付ける、いや叩き付ける。

これら主人公一行に襲いかかる敵や障害をいかに乗り越えていくかという機転や卓越した技術へのスーパーヒーローの戦いぶりにあるのではなく、困難な目標に向かって苦闘する人々が織りなす人間ドラマに読みどころがある。

何度も挫折しそうとなりながらも仲間たちを鼓舞するリーダーシップやそれに減らず口を叩きながらも応えていく部下たち、そして島を侵略された住民からの協力者たちが秘める敵への憎しみ、それらが折り重なって極限状態の主人公たちが諦めずに幾度も立上る行動原理を語っているからこそ、ハリウッドが好き好んで描くアクション映画の典型のようなシンプルな筋書を持つこの作品が今なお冒険小説の金字塔として称賛されるのだろう。

マクリーンは『女王陛下のユリシーズ号』と本書を以て冒険小説の巨匠として名を残し、70年代以降の作品は読むべきものはないと云われているが、正直この作品は私の中では面白いとは思うが歴史に残るほどの作品とは思わなかった。
シャーロック・ホームズシリーズでも『バスカヴィル家の犬』よりも『恐怖の谷』を評価する私なので今後の作品に私なりの傑作を見つけていこう。

ナヴァロンの要塞 (ハヤカワ文庫 NV 131)
No.1025:
(7pt)

ローレンス・ブロックは2人いる!?

泥棒探偵バーニー・ローデンバーシリーズ3作目。
そう、3作目なのだ。
2作目は絶版ゆえにいまだに手に入っていない。そしていきなり本書ではバーニーは古書店主として真っ当な暮らしをしている風景から始まる。
2作目の時に何が起こったのか?非常に気になるではないか。

さて古書店主となったバーニー・ローデンバーの日常には本が溢れており、自然物語は本についての薀蓄なりが付いてくるのだが、これがやはり読者、特にミステリ読者には思わずニヤニヤしてしまう話が散りばめられている。

警官が現れ、「そんな本を読むよりもジョゼフ・ウォンボーやエド・マクベインの方が面白いぞ」とか、刑務所では識字率の低い者でさえ、悪党パーカーシリーズを読み漁っていたとか、ベルを2回鳴らして下さいと云われれば、郵便配達のように?と訊いてみたりと、妙にミステリ興趣をくすぐられるウィットが読んでいて非常に面白い。

古書店主になって泥棒稼業からは足を洗ったのかと思いきや、バーニーにとって泥棒はもはや習慣病のようになっているようで、今回は自分の店に現れたJ・ラドヤード・ウェルキンなる紳士からこの世に1冊しかないキプリングの自家製本を所有者の貿易商から盗み出してほしいと頼まれるところから始まる。そしてバーニーは見事盗み出し、ウェルキン氏に連絡を取って指定の場所へ赴くものの、そこで殺人に巻き込まれてしまうのが今回の事件。

さて今回バーニーが出くわす謎は主に次の4つになるだろう。

バーニーにキプリングの稀覯本の盗みを依頼したウェルキンの代わりに本を奪おうとしたマドリン・ポーロックとは何者なのか?

そしてそのマドリンを殺したのは誰なのか?

ラドヤード・ウェルキンはなぜ約束の時間に約束の場所に現れなかったのか?

バーニーの店に押し入り、キプリングの本を強盗したシーク教徒は何者なのか?

この謎の解答は実はかなり複雑。
軽妙なミステリにこのプロットはあまりにアンバランスと感じ、それが私にとってのマイナス要因となった。

さてまだ2作しか読んでいないが泥棒バーニーシリーズは一定のパターンが決まっているようだ。
盗みに入ったことがきっかけで殺人事件に巻き込まれ、無実の罪を着せられるが、数ある友人の助けを借りて軟禁生活の中で事件の真相と真犯人を推理する、というのが通例らしい。しかしそのマンネリが逆に読者の期待する方向通りに展開して飽きが来ないのだろう。

また本格ミステリとしての伏線の妙が実に魅力的だ。さりげない描写が伏線となっており、また事件解決の手がかりも実に自然に物語に溶け合って、思わずアッと気付かされる。

しかし本当にこの軽妙な読み物はマット・スカダーシリーズの作者の手による物だろうか?
ローレンス・ブロックは2人いると云われても全然驚かないぐらい作風が全く違う。本当に器用な作家だ。


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泥棒は詩を口ずさむ (ハヤカワ・ミステリ 1369)

No.1024:

脳男 (講談社文庫)

脳男

首藤瓜於

No.1024: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

シンプルな名前であるからこそ

21世紀最後の年2000年に第46回江戸川乱歩賞を受賞した本書は5年前に同賞を受賞した藤原伊織氏の『テロリストのパラソル』以来の話題作となり、その年の週刊文春のミステリーベスト10で1位を獲得し、『このミス』でも16位にランクインした。

この『脳男』という異様なタイトルの本書の魅力はなんといっても鈴木一郎と云う男の奇怪さだろう。

弱冠29歳で物語の舞台となる愛宕市で小さな新聞社を経営している。しかし解っているのはそれだけで鈴木一郎と云う無個性な名前―世界的に有名な大リーガーの名前も同じだが―も偽名である。

彼の正体を探る手がかりは彼の精神鑑定の合間に挟まれる遠い過去の記憶にある。それは彼が重度の火傷を負って全身に手術を施されるシーンであったり、幼き頃に老人から哲学の書を読み聞かされるシーンであったり、断片的にフラッシュバックする事柄が後ほど鈴木一郎の正体を決定づける裏付けとなってくる。

とにかく主人公の精神科医鷲谷真梨子が鈴木一郎の過去を辿るうちに出くわす入陶大威という自閉症の少年の様子が非常に興味深い読み物となっている。
感情を持たない人間の行動とはこれほどまでに想像を超えるものなのかと専門分野の観点から語られる。特にこの大威という少年の特異性には目を見張るものがある。
何かの指示が出されるまで動こうとしないし、人間の三大欲である食欲さえも起こらない、睡眠欲も起こらなく、生理現象でさえ自らの意志で対処しようとしない。また情報の取捨選択をする認識がないため、見た物すべてを覚えてしまう。運動も指示一つで止めろというまで延々と続ける、等々。
まさにロボット人間そのものと云えよう。

本書の読み処は昨今研究が進んで明らかになった自閉症の仕組みを脳科学の分野で詳しく症例を交えて詳らかに語られている所にある。現在ではもはや自閉症という呼称はせずに発達障害という呼び方をするが、一口に自閉症と云っても色々な症状があることが知らされる。
その想像を超える現象の数々に私は思わず食い入るように読まされたのだが、そんな専門知識を見事に自家薬籠中の物として鈴木一郎と云うキャラクターを生み出した作者の手腕を讃えたい。

普段人間は必要なデータと不必要なデータを取捨選択して生活しており、そのためにすれ違う人の服装や通り過ぎる車の種類などを覚えることはしないが、自閉症である彼はその区別がつかなく、見る物全てを記憶してしまう。しかしそれらをデータとして蓄積するだけで活用する手段を知らない彼が、登山家とのトレーニングや彼の身に起きた事件をきっかけに自我に目覚め、究極の人間として生まれ変わる。それは自分の潜在能力をも十分に引き出して、常人を超える身体能力を持ち、自律神経を意識的に操作して一切の苦痛を感じずに戦い、犯罪者たちをこの世から葬る、いわば現代の仕置人、いやスーパーヒーローなのだ。

そんな荒唐無稽な物語をしかし作者は上に書いたように現代医学の当時の最先端の知識を導入してミステリアスに仕上げることに成功した。作品発表から19年経った今でもその新鮮さは色褪せていない。

しかしこのような作品が江戸川乱歩賞を受賞する事が非常に珍しいのではないか。
私も全ての乱歩賞受賞作を読んだわけではないので推測にすぎないのだが、本書のような一人の人間の謎を辿るミステリが受賞した作品は初めてではないだろうか?
事件が起き、それを主人公が犯人なり、動機なりを調べる、いわゆるミステリの定型に則りながらも一般人が通常知りえない主人公が属する業界の専門知識が盛り込まれる妙味が加わった作品が受賞するというのが乱歩賞の常だった。本書は特に脳医学の分野が専門的ながらも非常に解りやすく書かれており、人そのものが最大のミステリであることを示した作品である。

以前ある作家がミステリにおける特異な苗字が多いことに難を示し、「面白い作品であれば主人公の名前が佐藤とか鈴木とかありふれた名前でも全然構わない」といった類の話をしていたが、本書の主人公はごくごく平凡な名である鈴木一郎だ。
逆に他の登場人物の名前は非常に特殊なのに留意したい。鈴木一郎を逮捕した刑事は茶屋であり、鈴木一郎の精神鑑定をするのは鷲谷でその上司の名は苫米地といい、敵役である連続爆弾魔の名は緑川と普段あまり接する事のない名字だ。さらには緋紋家(ひもんや)や空身(うつみ)といった実在しない苗字まで登場し、鈴木一郎を取り巻く登場人物たちの苗字は非常に特色がある。
それがかえってシンプルな鈴木一郎と云う名前を浮き立たせているようにも感じた。しかしそんな演出以上に作者は見事この何の個性も感じない名を持つ主人公が上に書いたような超人として印象に強く残るのだ。つまり新人にして首藤氏は一般的な名を持つ人物こそ最も強い個性を放つという高いハードルを難なく越えてみせたのだ。

島田荘司氏が21世紀ミステリとして、現代科学の知識をふんだんに取り入れ、まだ見ぬ本格ミステリを21世紀になって提唱したが、本書はまさにそれに先駆けた当時最先端の科学を盛り込んだミステリとなっている。

しかし物語はそれだけではなく、鈴木一郎の正体を巡る謎から一転鷲谷真梨子と鈴木一郎がいる愛和会愛宕医療センターが爆弾魔緑川によって占拠され、広い大病院の各所で頻発する爆破事件というパニックサスペンス小説へと変貌する。一言で云い表せない一大エンタテインメント作品なのだ。

また連続爆弾魔緑川の一連の事件にもミッシングリンクがあったことが明かされる。

しかしそんな本格ミステリ趣味をも盛り込みながらもやはり鈴木一郎と云う男の謎には添え物に過ぎないように思われてしまう。
それほどこの“脳男”は鮮烈な印象を私に残した。

物語は続編が書かれるかのように幕を閉じるが、その続編『指し手の顔』は本書の後7年を経てようやく書かれた。
残念ながら本書ほどは話題にならなかったが、先入観を持たずにその作品も読むことを愉しみにしたい。


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脳男 (講談社文庫)
首藤瓜於脳男 についてのレビュー
No.1023:
(7pt)

馳作品最強の男登場

軽井沢と云えば皇后家ゆかりの地。ここにはやくざはおらず、その手の取り締まりも厳しいそうだ。
そんな金持ちの別荘地である軽井沢が戦場と化す。馳版『マルタの鷹』ともいうべき本作では5億円をやくざから持ち逃げした投資ファンドの男を追って、東京から極道が、中国系マフィアが大挙してくる。馳氏に掛かると閑静な富裕層たちの避暑地も血で血を洗う修羅場となるのだ。

物語はかつて20年前に新宿で大暴れした四人の男を軸に回る。田口健二、城野和幸、山岸聡、徳丸尚久。

田口健二は“五人殺しの健”と異名を持つ伝説のやくざ。かつて5人の中国人を相手に立ち回り、それらを殺害した武勇伝を持つ。しかしある日突然姿を消し、軽井沢で別荘の管理サービスを個人で営み、生計を立てている。

城野和幸は田口を兄と慕い、そのまま所属している東明会に残り、同系列の井出組の若頭となっている。組の金を持ち逃げした鈴木という男を追って軽井沢に乗り込み、かつて新宿に来て暴れた名を馳せた地元のやくざ遠山と組んで鈴木を捜し出そうとしている。

山岸聡は極道から足を洗い、しがない場末のスナックを営んでいるが、経営難に陥り、5億円持ち逃げの情報を聞きつけ、軽井沢に駆けつける。

徳丸尚久はつい最近死に、その息子達也が田口を訪ね、一緒に組んで5億円を手中にしようと持ちかけるが一蹴されてしまう。

そんな4人を中心に、いや極道から足を洗いながらもその伝説的な強さゆえに放っておけない輩が田口を訪れ、否応なく抗争に巻き込まれていく。

かつて田口の伝説に挑みながらも、果たせず長野に舞い戻った田舎やくざ遠山は田口とどちらかが強いのかを20年経った今でも心に燻らせている。

長野県警捜査二課の暴力団担当の安田と本田は遠山の不穏の動きから周囲をかぎまわり、田口に至り、田口を種に周囲にけしかける。

この4人+2人が殺戮の渦にある者は自ら身を投げ、ある者は中心となって、またある者は否応なく、そしてある者はそれと知らないうちに巻き込まれていく。

そんなヴァイオレンス色濃いプロットの殺戮の幕が開くのは実はかなり早い。600ページ弱の物語で1/3を過ぎたあたりで田口の心に火が着く。
自身の写真集作成のために軽井沢を訪れていたフォトグラファー馬場紀子が拉致されることが田口の中の獣を目覚めさせる。正直馬場紀子は登場時点からフラグが立っていることは明白だったのだが。

そして物語のちょうど2/3の辺りで田口の中の獣が狂獣となって立ち塞がる者すべてに牙を剥き出すようになる。それは田口が紀子を人質に5億円を横取りしようとした達也を殺害した後で、達也が実は田口がかつて愛した女性との間に生まれた子だったことを知らされ、図らずも田口は子殺しという忌まわしい存在になったことを悟ってしまうのだ。

この田口健二というキャラクターは今までの馳作品の中でも最強ではないだろうか。
今までのキャラクターには悪人でありながらも対抗勢力に対しての恐怖心、自分と云う存在が消されることへの怖れ、また守るべき物、大切にしている物、よすがとなっている物を持ち、良心が感じられたが、田口はそんな一切の弱みはなく、痛みや脅しが一切通用しない。また人を殺すセンスに溢れ、殺人に対する躊躇いが全くない。
とにかく自分の前に立ち塞がる者を、それがやくざであろうが警察であろうが、全て殺すのみ。しかも一切の手心を加えずに、再起不能となるまで、いや既に死んでいるように見えても、更に死者を嬲り殺すように徹底的に破壊する。冷酷な殺人マシーンと書くだけ以上の怖さがある。

馳作品の特徴は疾走感を持ちながらも複数の登場人物が錯綜し、それぞれが有機的に絡み合って破滅と云う名の交響曲を奏でるという実に複雑なプロットが持ち味であるのだが、本書はそんな複雑な構図は鳴りを潜め、単純明快に物語は疾走していく。
本来であれば作品に最後まで関わっていくであろう配役たちが早々に退場していく。それは田口と遠山と云う二人の獣の一騎打ちという非常にシンプルな結末に向けて次々と現れる障害物を薙ぎ倒していくかのようだ。
今までの馳作品は上に書いたような複雑な構図を持ちながらも、結局最後はとち狂った主人公による大量殺戮で敵味方関係なくぶち殺されていくというプロットの破綻とも云うべき流れだったのに対し、本書は逆に明確に目指す所に向かっていくというシンプルなところがいい方向に出ているように感じた。

そんなかつての馳氏を髣髴させる血沸き肉躍るヴァイオレンス巨編だが、細部や設定の甘さに少々失望したのは否めない。

例えば馬場紀子が自身の職業をカメラマンと述べているのには違和感を覚えた。フォトグラファーと自称するくらいの性格付けはしてほしかった。またカメラマンと云ってもヴィデオグラファーやシネマグラファーなどその対象によって様々な呼称がある。
上にも書いたようにこれでは単純に田口が獣に目覚めるためだけにあてがった生贄に少し肉付けしたにしか過ぎないではないか。馳氏の作品は人が簡単に死ぬだけに単なる物語を動かす駒にしか過ぎないように思え、人物描写や造形に詰めが甘いのが残念だ。

また達也が実は田口の息子だったという設定には正直辟易した。馳氏の作品には血の繋がりがもたらす業の深さや運命の皮肉、因果応報が色濃く出ているが、達也については紀子同様、登場時からフラグが立ちまくっている。紀子への凌辱、達也を殺害することで子殺しの親という忌まわしい過ちという二段階の奈落を設定することで田口が過去の殺戮者に戻るためのスイッチとしたことは解るが、これでは明らかに読者に見え見えである。

本書の疾走感はそれまでの馳作品の中でも随一であることは認めよう。
しかしそれだけに最後の田口と遠山との一騎打ちがなかなか始まらなかったのは、物語を意図的に引き延ばそうとしていたようにしか思えなかった。どういった意図によるのか解らないが、駆け抜けていくのであれば、とことん最後まで休まずに全力疾走してほしかった。
物語はシンプルなものほど面白いというのが私の持論なのだが、本書ではそれがもたらすカタルシスにもう一歩届かなかった。
ただ田口は今までの馳作品の中で最も印象の残った男だったことは正直に認めよう。これが本書を最後に馳作品と別れる私にとって最大の収穫だった。

沈黙の森 ((徳間文庫))
馳星周沈黙の森 についてのレビュー
No.1022:
(7pt)

正義を貫くゆえの犠牲

マット・スカダー3作目の本書では亡くなった強請屋から預かった封筒に記された3人のうち、強請屋を殺した犯人を探り出すという、フーダニット趣向の物語。

しかしそんな趣向とは裏腹にその語り口はほろ苦さと哀切を湛えて、心に染み込むしっとりとした文体。
マットは警官時代に付き合いのあった情報屋のために警察でさえまともに捜査しない殺人事件に、自分を餌にして挑む。

ブロックの人物造形の素晴らしさは定評があるが、本書ではスカダーに強請のネタが入った封筒を預ける強請屋スピナーの造形が秀逸。その名は会話する時に一ドル銀貨を回しながら、話し相手を見ずにその回転するコインを見て話する事に由来する。この登場人物一覧表にも名前がない小男の悪党がなぜか印象に残る。

また捜査の過程で挿入されるスカダーの独白が実に心地よい。
殺された強請屋の的となっていた3人に出逢い、実際にその目で観察する人となり。いずれもが社会的に成功した人物であり、内面に強さを秘めていながらも、強請の種があり、それに屈して大金を払う弱さがあるはずだと観察する。

また自らを生贄とすることで犯人を炙り出そうとするスカダーが別れた妻の許にいる息子たちと会話した後、ふと自分も強請屋のように殺され、二度と息子たちと話せないのではないかという思いに駆られたりもする。
孤独だと思っていたからこそ自分を生贄に捧げようとしたのが、まだ自分には愛する者が残っていたことを思い出し、恐怖に駆られる、そんな心の襞を描くのが実に上手い。

しかし本書のスカダーの捜査は第三者の目から見て実は余計なお節介であり、善か悪かと問われれば悪の側としか云えないだろう。

強請られる3人は1人は建築コンサルタントとして資金繰りに四苦八苦している経営者であり、娘の平穏を大事に考える男。
1人はポルノ女優の過去を持ち、若い頃、荒んだ生活を繰り返しながらも現在は富豪の妻としてセレブリティの1人として生きる女性。
最後の一人は若い頃に事業に成功し、その資金を元手にニューヨーク州知事選に臨もうとする若き政治家。しかし彼には少年性愛という忌まわしい趣味があった。

誰しも隠したい、忘れ去りたい過去はあるものだ。人間、なんらかの失敗をせずに生きることなど不可能に等しい。
強請屋とはすなわち誰しもが陥る過去の過ちをほじくり返し、眼前に突付け、弱みに付け入り、半永久的に金をせびる、下衆の生業だ。

しかしマットはそんな仕事よりも彼が警官時代に築いた強請屋との関係を大事にし、また人殺しを嫌うがゆえに彼ら彼女らの人生に分け入り、真相を明らかにしようとする。

つまりマットは強請屋との腐れ縁の為に社会的に成功した人々たちと逢い、人殺しをした犯人を捜そうとするのだ。

これは人生の落伍者同士が持つ同族意識なのか。
いや違う。殺人と云う犯罪をもっとも忌み嫌うマットにとって町のダニとも云える強請屋の死さえも自分の身の周りにいた人間が殺されたことが許せないのだろう。警官さえも見向きもしない社会の底辺で生きる者たちへの義憤が、相手が社会の成功者であり、その安定した生活を壊すことになろうとしても敢えて火中の栗を拾おうとするのだろう。

このシリーズ3作のどれもがほろ苦い結末をもたらす。マットの側で書かれるがゆえにマットの正義に同調する趣があるが、今までの物語はそっとしておけばいいことをわざわざ掘り返して相手の生活を、将来を壊していくことばかりだ。
このマット・スカダーという男がそこまでして殺人という行為を嫌悪する思いの強さは単に自分が不慮の事故で少女を殺してしまったことによる罪悪感だけではないように思える。

まっとうな商売では生きられない人々には優しく、自身の安寧の為に殺人を犯した、もしくは犯さざるを得なかった巷間の人々に厳しい眼差しを向ける、この落ちぶれた元警官の無免許探偵をもっと理解するために今後の彼の生き様を見ていこうと思う。


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1ドル銀貨の遺言 (二見文庫―ザ・ミステリコレクション)
ローレンス・ブロック一ドル銀貨の遺言 についてのレビュー
No.1021: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

さらに笑度が上がってます

東野圭吾のブラック・ユーモア作品集第3弾だが、本書ではそれまでの『~笑小説』シリーズとは趣向が変わっており、1作目の「もうひとりの助走」から続く「線香花火」、「過去の人」、「選考会」が連作短編集となっている。共通する舞台は灸英社なる出版社が関係する各種の文学賞の話である。

まず「もうひとりの助走」は作家歴30年のベテラン作家寒川心五郎の5度に亘る新日本小説家協会から送られる文学賞の選考結果を複数の出版社の担当者たちが待ち受けるひと時を描いた物。
実際直木賞や芥川賞など名誉ある文学賞の選考結果を待つ状況とはこういったものだろうなと思わせる、妙なぎこちなさや緊張感が伴った状況が面白おかしく語られる。特に受賞の見込みの薄い作家と選考結果の電話を待ち受ける状況は実に気まずい空気なのだろう。各出版社の本当の思惑も放つ言葉とは裏腹にかなりネガティヴなのが面白い。

続く「線香花火」は新人賞を受賞した素人作家が歩む過ちを描いた作品。
現在星の数ほどあるという新人賞。しかし在野の素人作家が横行する昨今、それでもいずれかの新人賞を受賞すれば作家への道が開けると日々研鑽を積む人々がいることだろう。この作品はそんな新人賞を受賞した素人が陥る勘違いと過ちを描いている。

次の「過去の人」は文学賞の授賞パーティを舞台にしたもの。
またもや勘違い新人作家熱海圭介登場。今度は授賞パーティに招かれ、前受賞者として新人賞受賞者に的外れなアドヴァイスをしたり、名刺を作って配ったりと更なる勘違いぶりを発揮。こういう新米作家は実際にいるのだろう。

「選考会」は東野氏らしい捻りが効いた作品。
ここでは「過去の人」で受賞作となった『虚無僧探偵ゾフィー』なるミステリの選考会の様子が描かれる。
なんとも痛烈な皮肉が効いており、これを読んでジョークだと思えない作家もいるのではないだろうか?

さてここからはノンシリーズ物。「巨乳妄想症候群」はある日突然丸みを帯びた物が巨乳に見えてしまう症状に罹った男の話。
いやあ、実に面白い。最初の一行、「冷蔵庫を開けたら巨乳が二つ並んでいた」からもう笑いが始まってしまった。
肉まんから始まり、カップラーメンの器、パソコンのマウスにはたまた管理人の禿げ頭まで―これが一番可笑しかった―が巨乳に見える症状に始まり、最後は全ての女性が巨乳に見えるという男にとっては何ともうらやましい症状に落ち着く。また作中に織り込まれた巨乳に関する歴史的考察も実に面白い。

下ネタ系が続く。
次の「インポグラ」は友人の科学者が発明したインポグラなるアンチバイアグラ、つまりインポになる薬。
一見役に立たないと思われる薬もアイデア一つで役に立つ。まずはレイプ班に飲ませて犯罪抑制に役立てるというアイデアに始まり、オナニーばかりして勉強に精が出ない受験対策として、遺産目当てで結婚した年の差夫婦の夜の生活防止を経由して最終的に夫の浮気防止薬としてヒットするという着想の流れが見事。この話を読んでポスト・イットの開発話を思い出した。


「みえすぎ」は世の中に蔓延する微粒子がある日突然見えることになった男の話。
これも塵埃が普通以上に見えるというワンアイデアからエピソードを膨らまして物語としている。ただ展開は普通かな。

「モテモテ・スプレー」は男性ならばぜひとも欲しい一品だ。
星新一+ドラえもんのような作品。最後はスプレーなどに頼らず、その一途な人柄でアユミのハートをゲットしたかと見せかけ、やはり友達で終わる皮肉なラストにさらにもう一捻り加えている。

「シンデレラ白夜行」はあの有名な童話「シンデレラ」の東野圭吾ヴァージョン。
美談として世に知られるシンデレラのお話も東野氏に手に掛れば実に計算高い女性の話に早変わり。タイトルにつけられた「白夜行」の文字が悪女の話だと暗示しているのはこの作者だけの武器か。

「ストーカー入門」は奇妙な味わいの作品。
女心は解らないというが、これは当事者では解らない話だろう。いきなり分かれて欲しいと持ち出され、数日後に別れて欲しくなかったら自分をストーカーしろ!という何とも理不尽な話。彼女がストーカーを強いることで何か主人公に不幸が訪れることを予想していたのだがこの結末は全く予想外だった。ただ正直主人公が私ならブチ切れてそのまま放置してますが。

子を持つ親なら一度は通るのが、TVヒーローのキャラクターグッズ購入。「臨界家族」はそんな日常を綴っている。
なんとも身に詰まされる話だ。わが身に近いことなので、単に感想以外の事も浮かんだがそれについては後述する事として、一見離婚の危機を迎えているような夫婦を指しているかのようなタイトルの意味が最後に解るが秀逸。これには唸らされた。
しかしとても他人事とは思えない話だ。

「笑わない男」は笑わない男を笑わそうという話。
お笑い芸人を主人公に持ってくることは実は小説としてはかなりハードルが高い。今まで読んだその手の小説ではどうしても作中に出てくるギャグやコント、ボケ、ツッコミが笑いを誘うところまでに至らないからだ。お笑いとはやはり同じ場の空気を共有して生まれる雰囲気ゆえが大いに作用しているのがその要因だと思うが、本作ではその高いハードルをしっかり越えていることが凄い。
東野氏が描く売れない2人の芸人の仕込みやボケ、ツッコミはなかなかに面白く、映像的でもあり、多分TVで観れば思わず笑ってしまうだろう。
それほどなのに笑わないボーイ。彼の存在がまた実に面白い。そして最後の一行が実に皮肉に効いている。いやあ、実に上手い。

最後の「奇跡の一枚」も誰しもあるであろう、妙に映りのいい写真の話だ。
なぜかいつもよりも妙に見栄えのする写真というのが撮れることがある。これはそんな誰しもあるような話から、これまたウェブでやり取りしていたメル友からある日どんな人か写真を見たいと申し出されるという云わば当然の流れが生じ、見栄を張ってその奇跡とも云える見栄えのいい写真を送って、ぜひ逢いたいとなってあたふたするというのもまた普通の展開だが、最後のオチはちょっとゾッとした。


東野氏の『~笑小説』シリーズ3作目の本書では前2作よりも作家と出版社との関係を抉ったブラックな内容が濃く出ている。

特に連作短編となっている冒頭の4作品では出版界の内幕が繰り広げられ、出版社の担当者の思惑や新人賞を受賞し、作家専業となった人間たちの過ちを滑稽に描いており、これからも出版社とのお付き合いをしていかなければならない東野氏が果たしてこんなことを書いていいのだろうかと笑いながらも心配してしまうほど、露骨に描いている。
まあ、これが他の作家が書かないであろうことまで書いてくれる東野氏のこの辺の思い切りの良さなのだが。

その4編以降はいつも通りのノンシリーズ短編が並ぶ。

それら各短編は基本的にワンアイデア物なのだが、それを実に上手く膨らましていて笑いに繋げている。

ある日突然色んな物が巨乳に見えたり、空気中に漂う塵埃の微粒子までもが見えたり、はたまたインポになる薬が発明されたり、女性にもてるスプレーが発明されたりとたった一言で説明できるものだ。そこから東野氏は巧みにエピソードを次々とつぎ込んで見事なオチに繋げている。それらはどこか星新一氏のショートショートに似て、作者からのリスペクトも感じる。

またそれら寓話的な題材ばかりではなく、我々の生活に非常に身近な事柄も作品になっている物もあり、ただのお話のように感じない物もある。
例えば「臨界家族」では某TV局の某アニメシリーズが目に浮かぶかのようで他人事とは思えない話。作中の台詞にあるように確かに現代では商品化も視野に入れてTVヒーローの武器は案出されており、話が進むにつれて新キャラクターやそれに伴う新しい武器や道具が登場し、その登場した回が終わるや否や次のCMでそのおもちゃが紹介されている。
幸いにしてわが子はそこまで耽溺していないため、出るたびに買わされることはないのだが玩具コーナーで品切れ状態の張り紙を見ると餌食になっている親がいるのだなぁと思ってしまう。

思わず自身の身の回りのことまで思いが及んでしまった。閑話休題。

個人的なベストは「巨乳妄想症候群」と「臨界家族」。次点で「笑わない男」。
「巨乳妄想症候群」は丸い物がある日突然巨乳に見て出すというそのあまりにもアホらしい、しかし実に面白い設定を買う。「臨界家族」は前述のようにとても他人事とは思えない話であり、オチが予想の斜め上を行っているところが見事だ。「笑わない男」は最後の一行の素晴らしさ。これぞブラック・ユーモア。

しかし「巨乳妄想症候群」と云い、「インポグラ」といい、いやあ、男ってホントしょうもない生き物だなぁと思ってしまう。

本書に収められた作品はいずれもが『世にも奇妙な物語』の一短編として実に面白い作品が出来そうな題材だ。恐らく未見のこの番組の中に既に映像化された物があるのかもしれない。

今までの『~笑小説』シリーズには正直笑劇ばかりが収められていたとは云えなく、中にはほろりと涙を誘う感動物もあったが、本書は全てがユーモアやスラップスティックとお笑いに徹している。
しかも笑いのエネルギーは衰えるどころかさらにその技巧が上がっており、笑顔どころか思わず笑い声を発する事が何度もあった。本書の冒頭の4作品のように、ある意味作家生命なんのそのと云わんばかりの冒険をしてまで笑いに徹するその姿勢を買いたい。

逆に現在出せばベストセラーという状況だからこそ、どんな所にも踏み込んで書ける知名度の高さを利用して、怯むことなくもっと我々を笑わせてくれることを心の底よりお願いするとしよう。


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黒笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾黒笑小説 についてのレビュー
No.1020:
(8pt)

アラブ諸国とナチスの根深い闇

マイケル・バー=ゾウハー6作目の本書では前作『ファントム謀略ルート』に続いてアラブ諸国の問題について扱われている。後に作者自身が共著でノンフィクションとして著すことになるミュンヘン・オリンピックで起きたイスラエル選手団暗殺事件に端を発する復讐の連鎖の物語だ。

物語の冒頭でイスラエル選手団を虐殺したアラブのPLOの首謀者であるサラメハを長年の追跡の末、仕留めるところから始まる。そのニュースを聞いたドイツ人テロリスト、アルフレート・ミューラーなる人物がアラファトにある計画を持ち出す。それはサラメハ暗殺作戦の総責任者であるモサド長官エレミア・ペレドの暗殺のみならず、ユダヤ人に対する決定的な報復をなすことになるという謎めいた実に不気味な計画だった。

本書ではこのテロリスト、アルフレート・ミューラーが最も強烈に印象強いキャラクターだ。

骸骨のように痩せ、全身黒づくめの服装の酷薄な顔をした男。各国の要注意人物を掌握するモサドのファイルにも登録されていない謎のテロリストである彼はドイツ人でありながらアラファトと親しい関係にある。

友人であろうが自分の目的のためなら完膚なきまでに息の根を止めることも全く厭わない冷酷な性格の持ち主。その容貌が象徴するようにモサドに死をもたらす死神なのだ。

また本作でもナチスの影は物語に落ちてはいるものの、その色合いはそれまでのバー=ゾウハー作品に比べるとあまり濃くはない。本書の影の主役とも云うべきアルフレート・ミューラーの母親がナチスの婦人将校であったということぐらいだ。
これはナチスという過去の戦争の呪縛からオイルマネーで世界を牛耳り始めたアラブ諸国の紛争へとシフトしていったことになるだろう。第二次大戦から80年代当時の問題へと作者の視点が移行したことになるのかもしれない。

それは自身が従軍した第3、4次中東戦争の経験と執筆当時に連なる政治的問題が肥大していくにつれて作家として書くべきテーマを見出したように思える。

解説にもあるが、これまでの作品でCIAとKGBの攻防を、OPECとアメリカ次期大統領候補との丁々発止の駆け引きを、そして本書ではアラブのPLOとイスラエルのモサドとの復讐戦を描いてきた作者が次回どんな題材を見せてくれるのかが非常に楽しみだ。
さすがに政治家の経験もあるだけに国際情勢の複雑さを食材に謀略小説にする料理の腕前は一級品だ。そしてまた自身が子供だった70年代から80年代にかけての当時の世界情勢を振り返るのに格好の教材になっている。

しかしこれまでの作品でどれにもナチスが絡んでいるのは作者個人のナチスに対する個人的な怒りがあるのだろうか、もしくは自身の政治家経験で知りえた世界を語るうえでどうしても避けられない題材なのだろうか、その真意は解らないが、ここまで来るとこれからの作品に作者がナチスをどのように絡ませていくのか、興味は尽きない。


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復讐のダブル・クロス (ハヤカワ文庫 NV 322)
No.1019:
(7pt)

血に刻まれた殺戮の民族史

裏表紙の本書の紹介にはスピルバーグによって映画にもなったミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団惨殺事件の背景を描いた事がメインのように書かれているが、実はそうではない。通称“血まみれの王子”と呼ばれたパレスチナ・ゲリラ“黒い九月”のリーダー、アリ・ハサン・サラメの生涯を70年代に繰り広げられたアラブとイスラエルの対立の時代から詳細に綴ったドキュメントである。
また本書の原題は“The Quest For The Red Prince”、つまり『血まみれ王子の追跡』であり、題名のミュンヘンでの事件は彼の人生における断片にしか過ぎない。明らかにこれは版元である早川書房の、映画に便乗した商業戦略が加味された題名である。

中学・高校と歴史を習ってきたが、なぜか第二次大戦以後の歴史は概要をなぞるだけで詳細に教えられた記憶がない。従って本書で語られる70年代のパレスチナ問題に関しては単純にその単語を知るだけで、どのような物だったのかは今まで知らないままだった。私にとって歴史の空白部分であるその時代を知るのに本書はいい教科書となった。

これは報復の時代に生まれた人間の血の物語だ。

血とは流血も指すが、それ以上にテロリストの息子として生まれた男が引き継ぐ血筋をも指す。

住み慣れた領地の奪い合いがイスラムとユダヤの宗教間の争いのみならず、アラブ人・ユダヤ人の民族間の争い、更には国を跨っての戦争にまで発展していく。そしてそれを利用して己の領土を拡張しようと企むものまで出てくる。

特に驚いたのは第二次大戦においてパレスチナ・ゲリラがドイツ軍と手を組んでいたことだ。確かに双方ユダヤ人を憎んでいたのだから利害は一致する。そして逆にイギリス軍がユダヤ人を利用して軍隊を組織しようとしていた事も今の今まで知らなかった。

これら歴史の暗部とも云うべきイスラエルとパレスチナの血を血で洗う暗闘の日々を詳らかにしていく。

本書の主人公とも云うべきアリ・ハサン・サラメは父親ハサン・サラメの遺志を継いでテロリストとなる。忘れてならないのは父サラメは元々貧困層の出身で彼が成り上がっていくために選んだ手段が暴力だったという事だ。これが発展途上国が抱える闇だろう。

私がいたフィリピンでも銃は簡単に手に入り、たった4,000円の報酬で人を殺す輩が大勢いる。

そんな事実に輪を掛けて驚くのはカリスマ性を持った指導者がいれば、アラブ人は国民全てが残虐の徒と化し、一般市民でも即席の兵士となってユダヤ人を殺すことを全く厭わないということだ。これは文化的な暮らしをしている欧米、日本では全く考えられない事だ。

彼らが憎むユダヤ人のバスが通りかかるとそれを襲撃し、平気で乗客や運転手を八つ裂きにするのだ。なんとも恐ろしい種族ではないか。
中東が危ない危ないと云われているが、それは犯罪者が蔓延っているのと、テロやクーデターのような事件がいきなり起こること、イスラム過激派がのさばっている事などを想像していたが、実は普通に歩いている人々が一瞬にしてみな人殺し集団と化すというのが危険の根源だと悟った。

そして彼らの民族は復讐こそが絶対だという倫理観に捉われているようだ。このほぼ1世紀にも渡る民族間の闘争で犠牲になった一般市民の多いこと。しかもこの闘争の火種は中東だけに留まらず、ヨーロッパまで飛び火し、無垢な命が数多く奪われた。
暴力には暴力を、という非文化的な行動原理、思想が何も生み出さないことをなかなか解らない。単なる動物的な闘争本能で彼らは行動しているだけに見える。唯一無二神という幻想に抱かれ、殺戮を繰り返す狂信的民族、そういう風にしか私には見えなかった。

本書で残念なところはイスラエルとパレスチナを始め、レバノンやエジプトなど中東諸国の当時テロに関わった人間が数多く登場するが、彼らムスリム系の名前はどれもが似たり寄ったりで、どちらがイスラエル側でどちらがパレスチナ側なのか混乱する事が多かった。恐らくムスリム系の名前にはさほどヴァリエーションがないのだろう。数多くのアブーやらムハンマドやらが敵味方の区別なく登場するので、非常に理解に困った。多分半分ほど誤解している部分があるだろう。

前世紀に中東で起こったシオニズム運動に端を発した民族間抗争を総括するのに本書は優れた書物であるといえよう。本書の末尾でも語られているように、第2の“血まみれ王子”は既に生まれている。
オサマ・ビンラディンという新たな恐怖の王にいかにして世界は対抗していくのか。いや、それだけではなく、なぜビンラディンを差し出す人間が現れないのか。
この本を読めばその理由がはっきりと解るだろう。世界の正義は必ずしも1つではないことが。

ミュンヘン―オリンピック・テロ事件の黒幕を追え (ハヤカワ文庫NF)