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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数217

全217件 21~40 2/11ページ

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No.197: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

ある意味作者自身の未来を予見した作品

二階堂作品で初めて『このミス』ランクインしたのが本書。二階堂蘭子シリーズとしては3作目に当たるが文庫刊行順としては2冊目なのでこちらを先に手に取った次第。

第1作目の『地獄の奇術師』は乱歩の世界が横溢した作風で、昔ながらの本格ミステリ復興への意欲が迸った作品だったが、見え見えのミスディレクションに見え見えの犯人、そして最後に後出しジャンケンのように出される観念的な動機の応酬に辟易したので、この作者に対する印象はいいものではなかった。

そして第1作目読了から11年が経った今、ようやく2冊目を手に取ったわけだが、一読非常に読みやすく、更に本格ミステリ趣味に溢れていながらも警察の捜査状況も、慣例事項など専門的な内容も含めてしっかり書かれており、意外にも好感が持てた。

文庫本にして約600ページ弱に亘って繰り広げられる本書には本格ミステリのありとあらゆる要素がぎっしりと含まれている。

世俗とは一線を画すカトリック文化の中で生活をする修道院の面々。

その中で起きるヨハネ黙示録に擬えた連続見立て殺人。

過去の情事という過ちで出来てしまった娘に逢いに来たアメリカ人司教は首を切断された上に全裸で枝垂桜に吊るされている。

≪修道院の洞窟≫と呼ばれる門外不出の文書が収められた地下洞窟。

数々出てくる暗号はそれを解くことで地下洞窟に導かれる秘密の抜け穴へと繋がる。

そして暗号の解がなければ一度迷い込めば出ることが叶わぬ地下の大迷路。

夜な夜な繰り広げられていたとされる修道院長による悪魔的儀式。

その儀式に使われていたとされる、イエス・キリストの遺骨とも云われている幻の水晶の頭蓋骨。

さらに3つにも上る暗号。

江戸川乱歩や横溝正史、はたまたジョン・ディクスン・カーが織り成すオカルティックな本格ミステリの世界観を見事に盛り込んだ作品を紡ぎ出している。

ケレン味という言葉がある。
それは物語をただ語るだけでなく、作者独特の世界観に読者に導くはったりや嘘のような演出のことだ。先に挙げた乱歩や正史、カーや島田荘司氏などの作品はこのケレン味に溢れている。

そしてまた二階堂黎人氏もまたケレン味の作家である。上に書いたガジェットの数々は自分が面白いと感じた古今東西のミステリの衣鉢を継ぐかのように過剰なまでにケレン味に溢れた作品世界を描き出す。

しかし残念なのは探偵役の二階堂蘭子がまだまだ類型的なキャラクターに感じられることだ。

警視庁副総監を父親に持つことで一大学生が警察の捜査に介入できる特権を持っているというご都合主義の設定に、昭和40年代で200万円以上の高値で取引される画家二階堂桐生を叔父に持つ。

この辺りの設定は二階堂蘭子及び黎人2人の主人公たちをいけ好かないブルジョワ階級の、我々庶民である読者とは隔世の存在としているため、どこか親近感を抱くのを阻んでいる感じがある。

とはいえ昨今の本格ミステリは有栖川有栖氏の臨床犯罪学者火村然り、警視を親に持つ法月綸太郎然り、どこも似たような感じであるから、受け入れるべきなのだろう。

しかし今回この万能推理機械のように思われた二階堂蘭子に弱点が発覚する。そのことで本書で初めて二階堂蘭子が類型的な万能探偵から一歩抜きんでた思いがした。

さてその蘭子たちが出くわす聖アウスラ修道院に纏わる謎は二階堂氏のケレン味溢れたサーヴィスによって実に多彩だ。

まずは物語の発端である、二階堂蘭子たちが聖アウスラ修道院に招聘されることになった密室状態の≪尼僧の塔≫から落下した太田美知子という生徒の転落死。

突如落盤した≪修道士の洞窟≫で生き埋めとなって亡くなった前修道院長マザー・エリザベス。

枝垂桜に首なし死体となって逆さ吊りの状態で遺棄されたトーマス・グロア司教。

≪尼僧の塔≫の再び密室状態の≪黒の部屋≫から火を着けられたまま何者かに落とされて亡くなったシスター・フランチェスコ。

水車に巻き込まれて亡くなった厨房係の梶本稲。

トーマス・グロア司教殺害の容疑者とされていたその息子梶本建造は突然の失踪するが地下の≪修道士の洞窟≫の中の棺の中で遺体となってみつかる。

しかしこれらの事件がそう簡単な構造でないことは読み進むにつれて明らかになってくる。

終わってみればまさに惨劇であった。

ただ本書はこれら連続殺人だけを語るわけではない。これら一連の事件を彩るケレン味が面白いのだ。

更に地下洞窟にその道筋を辿る暗号解読の妙味と、作中でも引用される二階堂氏がこよなく愛する古典ミステリの傑作へのオマージュがとことん詰め込まれている。

ど真ん中の本格ミステリをこよなく愛するがゆえに、その愛が深いだけに亜流や境界線上の本格ミステリに対して「○○は断じて本格ミステリではない!」、「本格ミステリとは斯くあるべきだ」と持論を強硬に展開するあまり、本格ミステリ論争まで仕掛けて、論破されそうになると正面からの抗議を避け、外側の部分で議論を煙に巻くという愚行に出た二階堂氏。私はこの「『容疑者xの献身』本格ミステリ論争」における氏の無様な姿に大いに失望した。

更にその後島田荘司氏を旗頭として掲げつつ、『本格ミステリ・ワールド』というムックを立ち上げ、いわゆる『俺ミス』と揶揄されるようになる、自身の認める本格ミステリを「黄金のミステリー」と題して選出するようになった。
その結果、このムックはほどなく休刊に至る。

ミステリという宗教の中で本格ミステリのみを信奉し、それ以外のミステリを排するようになり、そして世間の目がやがて自身の好む本格ミステリから外れた作風へ嗜好が変化しそうになると、それを認めず、自分好みのミステリ選出をしてご満悦に至る。

折角これほどまでにたくさんの本格ミステリガジェットと豊富な知識を盛り込んだ面白い作品を書けるのに、それを他に強いるのは愚の骨頂である。
作者は己の信じるものを自身の作品で語ることで答えにすればよいだけだ。それを絶対的真理や定理のように強要するのは決してやるべきでない。

聖アウスラ修道院の惨劇は数年後に自らが招いた二階堂黎人氏の惨劇になってしまった。
彼があの日あの時、本書を読んでいたらあのような愚行は避けられたのではないか。
未来の自分を予見したのは実はあの論争を引き起こす12年前の自分であった。実に皮肉な話である。



▼以下、ネタバレ感想
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聖アウスラ修道院の惨劇 (講談社文庫)
二階堂黎人聖アウスラ修道院の惨劇 についてのレビュー
No.196: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

2020年現在の世相を反映しているかのよう

小野不由美氏による重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。
そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。それを今からじっくりと語っていこう。

本書は外場村と云う約1300人の村人が住まうある地方の村で起きた、村が壊滅するに至った惨事を綴った物語だ。

小野氏はその惨事について事の起こりとなった壊滅に至った山火事が起きる1年以上前の7月24日から物語を始める。

本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。

丘の上に聳え立つ古い洋館。そこに引っ越してきた住民。それを機に村には怪奇現象が起き、やがて村中を覆い尽くすことになる。
それが『呪われた町』の話であり、そして洋館に住み着く住民とは吸血鬼であり、彼らが村中の人々を襲うことで次々に吸血鬼になっていくという話である。

翻って本書でも丘に聳え立つ洋館というモチーフは一緒で、ただそれは海外から移築された建物であり、かつて町の大地主であった竹村家のお屋敷を取り壊して作られた洋館であることと、完成後なかなか人が越してこないために村中の人々が村にそぐわない洋館についてまことしやかな噂が立てられている。

そしてようやく入居者が現れるのが1巻の300ページを過ぎた辺り。しかも応対するのはその桐敷家の使用人の明朗な青年辰巳という意表を突いた展開である。

夫婦2人と娘1人の桐敷家の妻と娘2人がSLEという先天的な病気を患っており、日中は全身を衣類で覆わないと外出できない体であることから田舎の外場村に越してきたのだった。他に専属の医者の江渕と家政婦1人を合わせた6人で住むようになる。

更にその桐敷家の一行は辰巳からどうも自分たちのことが村中の噂になっていることを聞くと、村に出て村民たちに挨拶回りをする。

家長の桐敷正志郎、千鶴、沙子の3人だ。都会的で洗練された彼らが村に変化をもたらす。

この洋館と云う共通のモチーフ以外はあくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。

それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。

まず開巻の一行目はいきなり外場村が死によって包囲されている村であると強調される。渓流に沿って拓けた末広がりの三角形の形を成す外場村は周囲を樅の林に囲まれており、村はその樅の木から卒塔婆や棺を作ることを産業として発展してきた。
つまりまず外場村は死によって成り立ってきたのだ。

更に村には未だに土葬の風習が残っており、そして周囲を樅の山に囲まれていて孤立してきたが過疎には合わず、常に1300人前後の人口が保たれている。

元々寺院の領地に木地屋が入って拓かれたのが外場村の起源であることから寺が村の地位の上位にあり、その土地を村人に分配していたのが兼正、その寺と兼正の招聘に応じて村に来た医師が尾崎。従ってこの三家がいまだに村の三役として威光を放っていること。

その村を拓いた木地屋が竹村、田茂、安森、村迫の四家であり、それに広沢を加えた五家の子孫が今なお村に住んでいること。

斎藤実盛という武将が保元・平治の乱において稲の下部に躓いて敵に討たれた恨みから害虫になって稲を食い荒らすのを食い止めるために、実盛の別称である長井斎藤別当に因んでベットという藁人形を供養するために村を練り歩いて祠まで連れてくる虫送りと云う祭りの儀式。

土葬がまだ残る外場村で死者が甦る『起き上がり』を鬼と評する伝統。

上中門前、下外水口と呼ばれる、上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口と云った集落の呼称とこれに山入と云う今では2軒のみとなった集落によって外場村が構成されていること。

人が死ぬと葬儀のために近隣住民が相互扶助を行う弔組という制度。

とこのように上に書かれた田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。

これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。
私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。

さらにたった1300人の村人で構成される住民それぞれについても小野氏は深く掘り下げる。

物語の中心人物は室井静信と尾崎敏夫の2人だ。

村の旦那寺の副住職で小説家としても活動している室井静信。

その同級生で村唯一の医院を経営している尾崎敏夫。

この2人はそれぞれ父親が病で倒れたことで元々村にあった寺・医院を継いでいる。静信の父親は脳卒中で倒れ、以後寝たきりの生活となっており、母親の美和子が寺と父親の世話をしている。また小説家を兼業しており、学生の頃にリストカットで自殺未遂をした経験がある。

尾崎の父親は膵臓癌で倒れ、そのことがきっかけで大学病院から戻り、医院を継いだが妻の恭子は田舎暮らしを厭い、隣の溝辺町の市街地でアンティークショップを経営し、店の近くのマンションで暮らしては月に2、3度村を訪れては敏夫と生活を共にしている。

この僧侶と医者の2人は日常的に死に接しているがゆえに、彼らは死に対して敏感であり、従って最初に怪異の正体に気付く。

特に本書では静信が作中で綴る屍鬼を扱った小説の執筆と並行して進む。その内容は自分のせいで死に至った弟が屍鬼として蘇る兄と弟の物語だ。

断片的に語られるその小説の内容は次のようなものだ。
皆に慕われていた弟に嫉妬した兄が弟を殺すが、その弟が屍鬼となって甦って兄を追ってくる。兄は弟は自分を殺した兄を憎んでいるはずだと思い込むが、実は弟は兄に対してそんな感情を抱いていなく、ただ彼を追いかける。

そしてそれは旧約聖書の『創世記』に書かれているカインとアベルのテーマであると静信は桐敷沙子に指摘される。静信の過去の作品は全てこのカインとアベルがモチーフになっているとも。神に見放されたカインはアベルを妬んで殺害する。静信の書く物語は疎外された者の話であると。

神に仕える僧侶の静信が神に見放された者をテーマに物語を書き続けている、この非常に違和感を覚える静信の精神性。彼はどこか神に祈りながら、そこに神はいないのでは
ないかと心の中で思っている。

彼は学生の頃、出版社に勤める大学の先輩に云われるがままに小説を書き、そしてそれが出版されることで小説家になった。そして大学2年のコンパの後、彼は寮の風呂場でリストカット自殺を図る。ただそれは自殺をしたかったわけではなく、死ぬか試してみたと云うのが正直な心境だった。そして彼が自殺未遂をしたのは村人たちの間では周知の事実だった。

物語の中心はこの2人をメインに進むがそれ以外にも点描のように村の人々の話が描かれる。

尾崎医院のスタッフたち。橋口やすよ、永田清美、国広律子、汐見雪、井崎聡子ら5人の看護婦、レントゲン技師の下山、事務員の武藤と十和田、雑務のパート、関口ミキに高野藤代。
彼ら彼女らは貧血の様相、もしくは夏風邪の兆候のように倦怠感を覚える患者たちから、やがて同様の症状を訴える人々が次々と運ばれてきては、そのいずれもが決して回復することなく3~5日の短期間で多臓器不全によって亡くなっていく様をリアルタイムで、最前線で知る人々だ。
新種の伝染病かもしれないという不安の中にあって決して恐れをなして退散することなく戦うスタッフとして描かれるが、物語が進むにつれて彼らもまた安全地帯にいるわけではないことが解ってくる。

国道に面するドライブイン「ちぐさ」を経営する矢野加奈美とそれを手伝う友人の前田元子。村外で結婚したものの続かず、離婚して村に出戻ってきた矢野と小心者で国道を走る車の勢いに怯え、いつも自分の2人の子供が事故に遭いはしないかと心配ばかりをしている前田元子。
特に前田元子は父親が病気一つせずに頑強な身体を持ち、それがまた性格をも頑固にさせているお陰で彼女は家庭の中でも委縮して肩身の狭い思いをしながら生活している。このドライブインは外場村壊滅の元凶となる桐敷家の引っ越しに最初に接触した場所でもある。

また村にあるクレオールは外場村の女性を奥さんに貰って村外から引っ越して来た長谷川が経営するジャズの流れる昼は喫茶店、夜は酒も出すレストランという店でそこで結城、中学教師の広沢、村唯一の電器屋を経営する加藤実と同じく書店を経営する田代たちの社交場となっている。
結城は1年前に越してきた最も新しい新参者。彼は木を使って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったりする工房で生計を立てている。変わっているのは妻小出梓とは夫婦別姓を貫くため、籍は入れずに生活している。子供は高校生の息子夏野がいる。
新参者の彼にそれらの人物が雑談で彼に語ることで外場村の伝統や伝承、情報などが語られる。

その結城は田舎暮らしに憧れて都会から引っ越して来て1年経つが、閉鎖的かつ排他的な村社会に溶け込もうと村祭りの最終日にある虫送りの儀式のユゲ衆に参加したり、土葬の風習が残る外場村でそれらを取り仕切るそれぞれの集落で形成される弔組にも入ったりと積極的に参加するが、どこか壁を感じている。物語中盤では外場村での生活を厭う自分の息子が村の田中姉弟と親しくなっていることで地縁が出来ていることを驚きながらも嫉妬したりもする。
村に溶け込むことを望みながら一方で村人のようになるのに深い嫌悪感を持つ、自己矛盾を内包した彼はつまり自身が都会から「来てやった」、まだこんな田舎者がいたのかという村民たちを高みから見るような感覚があったからではないか。
だから村人とは上手くやるが決して村人のようにはならないと彼の中で線引きがなされており、田中姉弟が息子と仲良くすることで自分の生活圏を、価値観を壊しに来ているような感覚であったのではないか。彼は田舎に憧れながらもその実、暮すには向いていない人種だったのだ。

尾崎医院で事務を務める武藤の家は高校生仲間の溜まり場でもある。同級生の武藤保と姉の葵、そして既に村外に就職している徹が結城夏野の気の置けない友人であり、そこに村迫米穀店の末息子、正雄が加わる。
村迫正雄は結城夏野のクールな佇まいと決して感情的にならずに論理的に物事を見定める話し方、そして何よりも1つ年下でありながらもタメ口を利き、更には自分の方が年下のように思わせる彼の頭の良さに常にイラついている。

逆に竹村タツが経営する村の入口にある雑貨店タケムラは村の年寄達の溜まり場だ。佐藤笈太郎、大塚弥栄子、広沢武子、伊藤郁美が訪れては四方山話に花を咲かせる。村の入口にあるため、村の出入りに詳しく、また口さがない村の老人たちによる情報交換の場である。「おい、知ってるかね?」がいつもの会話の口火だ。

そこにたむろする伊藤郁美は村の中でも変人として見られており、しかもケチで村の立ち飲み屋でもお金を持って行かず、いつも他人の奢りで飲んでいる老人だ。しかし彼女は村の死人続発が起き上がりによるものであり、そしてその元凶が桐敷家であることを素早く見抜いた人物だ。しかし日頃の行いを村人たちは疎んじて見ており、また彼女の性格自体も決して社交的かつ親しみのあるものではないため、話半分でしか聞かれない。

そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲う、着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。
それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。4部に分けて書かれた物語のそれぞれの流れについて以下に少しばかり詳細に書いていこう。

第1部は閉鎖された変化のない村、外場村の村民たちの日常生活の風景と文化が上に書いたように描かれる。いわば村民たちのイントロダクションだ。そして外場村に訪れた新参者の登場とそして例年とは異なる猛暑が続く夏の日々の下、これまた例年ではありえないほどに村人の死が相次ぐことが示される。いわば終末への序章だ。

第2部は更に死者の発生に拍車がかかる。1節ごとに死人が出てくるほど、次から次へと村人が亡くなる。老若男女の区別なく。そして一方でこれら一連の連続怪死に対する探究が医者の尾崎敏夫を中心に。貧血、夏風邪と誰もが経験する猛暑の中で起こる身体への異変。それがこの一連の死に共通する兆候。これを尾崎敏夫は未知の伝染病の仕業ではないかと推測する。
そしてこの病気が具合は悪いが病院にかかるほどでもないという月並みな症状で始まり、ある日を境に急激に多臓器不全を引き起こす。始まりが緩やかに、そしてあまりに普通であるために気付けば手遅れと云う怖さを秘めていることが強調される。

更には夜逃げの如く村から引っ越す人々も出てくる。それも唐突に周囲への挨拶もなく、いきなり引っ越すのだ。しかも夜中に。
それらの家族は例えば例の奇病に罹ったと思しき家族がいる家だったり、また何の脈絡もなく、村から逃れるかのように引っ越す一家がある。しかも家財道具をほとんど残して。例えば典型的な人好きのする村の駐在さんだった高見も突然亡くなると、残された高見の妻と2人の子供は病院から戻るとその夜家を出てそのまま戻ってこなくなる。そして夜中に引っ越し屋が彼の荷物を運び出し、そして彼の後任として独身者の佐々木と云う人間が配属される。

一連の奇妙な引っ越しに共通するのは夜中に引っ越してきた桐敷家と同じく全て高砂運送が行っている。

更には死人の中には突然直前に辞表を出して職場を辞した者も現れる。それも突発的に。しかもそれらの人々は押しなべて辞表を出した後、3日間ぐらいで亡くなっている。それも例の奇病が発症して。

更にそれら引っ越しをする人々と亡くなった人との間に奇妙な符号が見えてくる。

山入と云う村の中でも特に山の奥まったところにある集落にそれぞれが家を持ち、あるいは山を所有していた一家が全ていなくなってしまったこと。更に村人を山から排除するように夏の終わりに降り続いた大雨によって土砂崩れで山入への道が寸断されたこと。

更に唐突に辞職した人たちは外場村の外に働きに出ていた者たちばかりであること。ただ高校教師だったり、NTTに勤めていたり、溝辺町の役所に勤めていたり、と職業の区別はない。

そして唐突に引っ越した人間の中には逆に外場村の外から村に働きに来ていた者たちも含まれていること。外場村の小学校の校長だったり、村の図書館司書だったり。

村の境界に置かれていた道祖神たちが何者かによって壊され、そして村のウチとソトとの結界のような物が無くなり、桐敷家と云う新参一家が入村し、ウチとソトとの境が曖昧になったかと思えば、逆に村内と村外と人の出入りが始まる。それも唐突かつ加速度的に。

私はこの段階でいわゆる動物たちの危機回避行動を想起した。大地震や天災の前触れを動物たちが察知して事が起こる前に行う集団避難だ。
さらに身内に罹患者を持つ家族はレミングの群れを想起した。今ではデマと云われているが、集団行動を行い、そして集団自殺をすると云われていたあのネズミたちを。

そして死ぬ前に唐突に辞職する者たちは象の墓場の逸話を思い出した。象は自分の死期を悟ると群れから外れ、象の墓場と云われる場所に向かい、そこで死を迎えるのだというあの話を。

人も動物である。人が他の動物と一線を画しているのは理性と卓抜した知能を持っているからである。
しかし村で蔓延する奇病がそれら理性と知能を排除し、人を他の動物同様にするものであれば、人もまた上に挙げた動物の習性に従うのではないか。

読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。

丘の上の兼正の屋敷が取り壊された跡に移築された洋館と遅れて真夜中に引っ越してきた桐敷一家。

村でまるで伝染病の如く次から次へ村人の命を屠る正体不明の病。

そしてなぜか村で頻発する夜逃げのように夜中に村から引っ越す人々。

駐在員の死と共に速やかに後任として村に来た佐々木と云う巡査。

そして突然勤めを辞めたかと思うと急死する人々。

それが第3部で一気に明らかになっていく。いわば現実的レベルからの飛躍の章だ。

爆発的に増えゆく死者とそしていきなり村からいなくなる失踪者。そこから尾崎敏夫が導くのは村に残る言い伝え、死人が墓から起き上がり、村へ下りてきて祟りをなすと云われている「起き上がり」が起きていると云い放つ。つまり一連の怪事はこの非現実的な、昔話的言い伝えによって全て筋が通るのだと主張する。そしてそれを裏付けるが如く、村人たちの中に人外たちの視線を感じる者が出てきたり、死んだはずの人間を見かけたりする。

つまり第3部は物語の核心への突入だ。外場村では古来甦る死者、即ち「起き上がり」のことを鬼と呼ぶ。そう、起き上がる屍、即ち屍鬼。ようやくタイトルの意味がここで立ち上る。

そして尾崎敏夫と室井静信との会話で一連の奇病による突然死が吸血鬼のキーワードで結びつく。この辺りのロジックは極めて興味深い。医学的専門知識という現代の知識の中でも最上位に位置するであろう医学の見地から吸血鬼による疫病の蔓延を解き明かす、このミスマッチの妙が見事なバランスで絶妙に溶け合っているのだ。
更に静信が話すヨーロッパのヴァンパイア伝説の起源についても現代医学の知識で当時の人々が死人が甦り、生者の生き血を吸って生きていたとしか思えない現象を鮮やかに解き明かす。
つまり小野氏は本書にて現代医学の見地から吸血鬼のメカニズムを語るというこれまでにない吸血鬼怪異譚を生み出したのだ。

さらに安全地帯と思われた尾崎医院にもとうとう犠牲者が出る。

そして屍鬼の侵略は加速する。

そして最後の第4部は戦いの、そして村の終末の部だ。狩られる側の人間が屍鬼の存在を認知し、狩る側に転じる。村が殺戮の場と化し、そして終末へと向かう。

一転村民たちは自分たちの身内が屍鬼に殺されたことを認識する。いやそれまで敢えて目を背けていた事実に向き合うのだ。

最後の部に相応しい心揺さぶられる物語だ。屍鬼対人間の攻防。しかし単純な二項対立ではない。
屍鬼の側には彼らを理解する人間もおり、そして人間の側にも屍鬼を屠るのに躊躇う者もいる。中には戦いもせずに村を離れることを決意する者もいる。

かつては自分の身内だった者を屍鬼だからといって割り切って殺せない村民。村民のほとんどが家族・親戚のように近しい関係であるため、生前の彼・彼女のことを知っているがゆえに躊躇う。
しかしほとんどの村民は最初はそんな忌避感に囚われながらも、自分の身内が殺され、または屍鬼にされたことを思い出し、その怒りと遣る瀬無さをエネルギーに変え、杭を急所に討ち振るう。

また私が読んだのは文庫版で上にも書いたように全5冊から成っている。そして各巻の表紙絵は藤田新策氏によるもので横に並べると両脇に書かれた樅の木の幹を境に繋げるとさながら一枚絵のように見える。

1巻は深夜のトラックが訪れる場面で、即ち村への怪異の訪れを示し、2巻は夜明けのように見える丘に聳える洋館、桐敷邸とそこへ至る坂道を上る1人の女性の姿、そして野犬が2匹描かれた図柄で、怪異との接触と表出を表しているように見える。

3巻は黄昏時の村を丘から眺める高校生と思しき青年の後ろ姿と収穫の終った稲田と農小屋が描かれ、そして4巻ではとうとう村が漆黒の夜に包まれ、その中を屍鬼と思しき村人が所々に佇む姿が描かれる。

最終巻の5巻は炎上する村を背景に立つ少女の姿だ。この少女は桐敷沙子だろう。物語の、外場村の終焉を謳っている。

また芸の細かいことに1巻では青々としている樅の葉が3巻を境に枯葉色に変わっていき、そして4巻でとうとう全てが枯れ果てた色に変わってしまう。樅の葉の色で屍鬼の侵食具合を示しているようだ。

このようにそれぞれの部について語るだけでもこれだけの内容の濃さである。そしてもちろんその物語には様々に考えさせられるテーマを含んでいる。

例えば二極対立による対比構造もまた本書の特徴の1つだ。

上にも書いたが、閉鎖された村である外場村は今、日本中の地方村が抱えている過疎化とは無縁であるが如く、人がいなくなっては外から補充されるように常に一定の人口で保たれている。つまり変化のない村と見なされながら、実はその村の中には新たに介入する転入者によって微小ではあるが、変化はもたらされているのだ。

外場村に先祖代々住み着き、根を張っている地元民と外部から村へ引っ越してきて田舎暮らしを始める新たな村民。昔ながらの村民は村の中心から奥まったところに家を持ち、新しく来た村民たちは山を頂点に上中門前と呼ばれる集落を中心に住んでいるのに対し、扇状に形成される外場村の末広がりの部分、国道にほど近い外部と接した集落、下外水口と呼ばれる場所に家を構える。

下外水口に住む人々は村の人々が昔から旦那寺である檀家ではないことから、ここの風習や寺至上主義の村民の考えに疑問を持っている。
もともと村に地縁のある者は外部から来た者を余所者と呼び、なかなか仲間に引き入れない強い排他性を持つ。それをいわゆる余所者はそういった村社会の妙な結束に嫌悪感を抱く。地元の人々は寺を敬うが余所者は寺を悪し様に云う人もいる。特に村の人々は自分の思ったことを口に出すことに抵抗がない。それが寧ろ隠し事がない点でいい意味であり、他者に対する配慮に欠ける悪い意味でもある。

そして一方で若者と大人という二つの価値観の違いもまた存在する。

変化のない、家と外が地続きのようでちょっと出かけるのに普段着である村人たちに嫌気が差し、鬱屈感を抱えて日々ここではないどこかを望む、都会生活に憧れる若者たち。

村の気兼ねない生活と村民みなが家族のようで、それぞれの家庭に関する噂話に事欠かない大人たちは村に骨を埋め、村から出ることなくそのまま村で死ぬことを望む。

特に大川篤、清水恵、結城夏野の3人が特徴的だ。
大川篤は溝辺町の高校に通い、卒業後就職先もなく、親の酒屋を無給で働かされている。口うるさく頑強な父親に怒鳴られながら使われる毎日を疎ましく思い、昔から素行が悪く、小さい頃に地蔵様の賽銭箱から小銭を盗んでいたことをまるで昨日のことのように云われ、何かが起これば自分の仕業ではないかと後ろ指を指される日々にうんざりしている。給料を払ってもらえないから自由になる金もない、外に出るのに車もないし、高校時代の友達は進学または職を持っているが、自分は親の仕事を否応なく手伝わされているだけと面白くない毎日を送っている。

清水恵は都会の暮しに憧れ、高校を卒業した村の外で暮らすことを夢見ている。そんな中、都会から引っ越してきた結城夏野の、明らかに村の高校生たちとは違う洗練さに魅かれ、彼と手を取って外に出ることを望んでいる。部屋着にサンダル履きで家の中と地続きのように外出する幼馴染の田中かおりとは違い、ちょっとの外出でもいつも身綺麗にして誰に見られてもいいように、自分もまた都会の人々と一緒に行動してもおかしくないようにと振る舞っている。だから1つ下ながらいつまでも幼馴染として親しく近寄ってくるかおりを疎ましく思っている。ダサい田舎暮らしから早く出たいと願っている。しかしそのために外の大学に通うための勉強をやっているというわけでもなく、願望と行動が伴っていない、今どきの女子高生である。

そして結城夏野は両親の田舎暮らしへの憧れに付き合わされた環境の犠牲者だと思っている。都会人特有の他者無関心・無干渉の考えが徹底しており、常にクールに振る舞う。いつも一緒につるんでいた年上の武藤徹が亡くなっても涙一つ流さず、その状況をありのままに受け入れるほど、他者との距離感を保っている。その思考はニュートラルで父親のこうでなければならない、こうであるべきだという正義と良識を盾にした論理に対して、では自分の意思を無視して田舎暮らしを強いた決定はどうなのだという、いわゆる思春期の高校生が抱く正論をいつも胸に抱いて鬱屈している。そして都会の大学に出てこの村を離れるために勉強を頑張っている。

地元民と余所者、村を離れたい若者と村に根差した大人たちといった対比構造は即ち「ウチ」と「ソト」の2つで解釈が出来る。

その「ウチ」と「ソト」の概念は都会と村では定義が異なる。都会では文字通り自分の家の扉・門が「ウチ」と「ソト」とを隔てる境界であり、扉を出た途端、人は外向きの顔になる。

しかし村では余りにその隣人関係が近いがためにいつしか村全体が1つの家族・親戚であるかのように錯覚し、お互いが気兼ねなくお互いの家を訪れ、自分の家のように上がり、振る舞い、世間話をする。村の各所に置かれた道祖神は「ウチ」と「ソト」の境の神であり、外敵から村を護るために祀られたものだが、もはや村の「ウチ」は家の「ウチ」と同義になり、村全体が村民の家の「ウチ」と同化する。だからこそ村民たちは老若男女問わず、外出するのにも普段着どころか部屋着の類でつっかけ履きで歩くのが当然となっているし、外出するのに戸締りもしない。なぜなら村が家だからだ。

更に物語が進むに至り、その「ウチ」と「ソト」は即ち「生者」と「死者」、いや「屍鬼」とに分かれる。

本書に出てくる屍鬼はそれぞれが生前の姿を保ち、そして生前の記憶を持ったまま起き上がる。異なるのは既に生命活動がなされていないことと、人の生き血を吸わないとその状態を保てないこと、そして日光に弱く、皮膚が焼け爛れてしまうことだ。

従って彼らは夜のみ行動する。夜はさながら一般人が日中普通に生活しているかのように彼らが村中を跋扈する。

外場村というコミュニティの中で昼と夜の世界が生まれ、そして生者と死者とに分かれる。更に屍鬼はその家の者に招かれないとウチに入れない。

更に静信はその生者と屍鬼とを自分の小説のテーマとしているカインとアベルの関係に桐敷沙子によって擬えさせられる。2人の兄弟の父母であるアダムとイヴは禁断の実を食べることで楽園であるエデンを追放された。彼らが住む外界を流刑地と呼ぶならば、弟殺しの罪でその流刑地を追放されたカインは即ち楽園へ戻ったことになる。
アダムとイヴは人間の起源である。即ち我々生者は流刑地に住んでおり、その世界から逸脱した屍鬼たちの住む世界は即ち楽園ではないかと静信は諭される。
「ウチ」と思われた人間界こそが「ソト」であり、「ソト」と思われた屍鬼の世界こそが静信が信仰する神の世界、即ち「ウチ」となるという価値観の反転がなされる。

本書は外場村という閉鎖的な村を舞台にしながら、二極分離された世界、その中でもとりわけこの「ウチ」と「ソト」についてあらゆる側面から描いた作品だと認識した。

村の中に「外」という言葉を持ちながらも村全体をウチとして捉えるどこにでもあるような田舎村。しかしその名前が示すように実はウチではなく「外の場」だったのだ。
カインとアベルの物語に擬えられるならば、生者が住む村は屍鬼が蔓延ることによって流刑地、即ち「外の場」となり生者村本来の姿に戻ったのだ。

そして最後に行き着く二極は生者と屍鬼。
生き残った村人たちはいつしかそれとなく起き上がった鬼たちの存在を知覚し、夜に出歩くことをしなくなる。一方増え続ける屍鬼たちは次第に山入だけに留まらず、下山し、空き家となった民家に大胆にも住むようになる。引っ越したように思われた屍鬼たちは恰もまた村に出戻ったかのように振る舞い、明らかに人であった頃の氏素性とは異なるのに、名前を偽り、さも以前からその名前で村にいたかのように振る舞う。そして彼ら彼女らは夜を行脚し、もはや羊と呼ぶ生者たちの生き血を吸うために活動する。

生者と屍鬼は即ち昼の種族と夜の種族とも云い換えられる。

そしてこの2つの種族の対立は物語の最後で主客転倒する。
今までは人間が屍鬼の食糧にされ、単にモノ扱いされているのに嫌悪を覚えていたところに、尾崎敏夫をリーダーとして屍鬼狩りが始まると、逆にその人間が屍鬼に対して行う処刑がより陰惨になるのが皮肉だ。

屍鬼が人間を襲うときは皆がよく知っているように吸血鬼同様、人間の皮膚を嚙み、生き血を吸ってその意識を支配する。

しかし屍鬼はどんな劇薬も効かず、どんな傷を与えてもたちまち再生してしまうため、心臓を杭で打ち抜くか首を飛ばすか頭を潰すしか方法がない。その有様は実に異様である。傍目には人と変わらぬ屍鬼を村民たちが次から次へと杭を身体に打ち込み、大漁の血液を流させ、または首を切り飛ばし、あるいは頭を槌で潰していく光景はまさに地獄絵図だ。
作中でも一番怖いのは人間だと誰かが述べる。しかし人は自分を護るためならば残酷にもなれるのだ。この屍鬼狩りの陰惨さは結局人間の生への執着の凄さをまざまざと見せつけられるシーンだ。

どれもこれもが怪しいのに村にカタストロフィをもたらす怪異の正体像を結ぶにはそれぞれの要素の位相が異なる、妙な歪みを持つがため、読者は終始答えの解らない不安感を持って読み進むことになる。

そして不安と云えば村から人が次々といなくなるのもそうだ。

毎日のように葬式があり、村の外から通っていた図書館司書や小学校の校長先生、駐在所のお巡りさん、昔からある米穀店の家族も亡くなり、シャッターが閉められたまま。村で唯一のガソリンスタンドもまた引き払って引っ越す。そして「外場は怖い」とふと呟く。

更に学校に行けばただでさえ少ない生徒が日を追うごとに少なくなっていく。亡くなった者もいれば、突然村外に引っ越した者がその大半を占める。しかも唐突に引っ越すことになったとだけ告げられ、必要な手続きをせずに学校を去る生徒たち。

村唯一の医院では次々と来る奇病に罹った患者が致死率100%で亡くなるのを目の当たりにし、やがて医院で働く者の中の家族に犠牲者が出ると、村外から来ていたレントゲン医師、事務員、パートのおばさんが次々と辞める。

昨日まで一緒に遊んでいた友達が亡くなったり、急にいなくなったりする。
これは喪失感と云うより変わらないと思っていた日常がどんどんおかしくなっていく不安感、そして世界が終っていくような焦燥感に他ならない。

外場村壊滅という結末から始まっている本書は悲劇が約束された物語である。
しかし尾崎敏夫、室井静信、そして伊藤郁美が元凶の真相に肉迫していく様は結末は解っていながらも、どうにか救われるのではないかと思わされ、しかしそれでもあと一歩のところで屍鬼たちに出し抜かれるため、常に絶望感が漂う。

日本のどこかにある山奥の村の、核家族夫婦、母子家庭夫婦、親子三代が同居する、嫁姑の関係が良好な家族もあれば、そのまた逆の家族もあり、村外で結婚したものの、夫婦生活が上手くいかずに離婚して親元に戻ってきた親子家庭とどこにでもいながらも多種多様な村人たちの日々の暮らしが屍鬼の侵略によって脅かされる様を、ただただ読者はその破滅への道のりを全5巻かけてじっくりと読むしかない。

しかし読書の奇縁と云うものを今回も感じてしまった。
先にも書いたがこの1998年に書かれた作品を20年後の今、本家キングの『呪われた町』を読んだ後に手にしたことが本当に良かったと思う。小野氏は『呪われた町』の本歌取りを公言しながらも、吸血鬼に侵略される閉鎖的社会の恐怖をより学術的に、よりミステリアスに、そしてより日本的に掘り下げて書き上げ、見事に成功したからだ。
もし本書を読んだ後で『呪われた町』を読んだならば、本家キングには申し訳ないがより浅薄に感じられたことだろう。まさに本歌あっての本書だった。

そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。

まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。

吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。

吸血鬼、即ちヴァンパイアが既知の物であるとした上で、誰もが知る吸血鬼の特色を科学的、論理的にアプローチしているのが斬新だ。

吸血鬼が血を吸うことで仲間が増えゆく状況をまずは村人たちに次々と死をもたらす原因不明の疫病という形で表す。その疫病についての詳細な記述を施す。貧血ないし軽い風邪のような症状から始まり、3~5日以内に急激な多臓器不全を巻き起こすこの奇病について作者は医者尾崎によって医学的専門知識を用いてその不可解性を詳細に述べる。そして感染症や伝染病における行政の対応の違いなども語り、我々に現在の日本の新病対処法の手間と遅さ、そして冷徹さを説く。

そこから村の外へ情報が漏洩することに対して楔を打ち、更に尾崎が屍鬼になった妻を実験台にして吸血鬼のシステムを解き明かす。人の血を吸うことで活性化する異常な血液の病気だというアプローチの仕方。そして杭を打つか、首を刎ねるか、頭を潰すしかしないと死なないと気付かせる実験の数々。

それだけではない。

例えば断片的に語られる桐敷家と地元民たちの交流のエピソード。使用人の辰巳も含め、村人たちの誰かが彼らと接触し、言葉を交わす。そして社交辞令のように「今度遊びにいらっしゃってください」と声を掛ける。

確か映画『ロストボーイ』だったか、吸血鬼を扱った映画に吸血鬼がその家を訪れる条件としてその家の人に招待されることで吸血鬼はその家を出入りできるという話があった。私はこの桐敷家と村人たちが話す場面と上のように交わされる会話でそのことをふと思い出した。
このありきたりな社交辞令こそが彼らが跋扈するトリガーであり、そして村人にとって禁忌を自ら破る行為なのだ。

つまりこれは起き上がりを作る吸血鬼たちにとって道祖神やお払いの儀式などの呪術が有効であることを指しており、従って西洋のヴァンパイアたちへの武器となる十字架や仏具もまた彼らにとっても具合の悪いものであることが解ってくる。

更にそれについて小野氏は突っ込んだ解釈を室井静信の口から語らせる。それは屍鬼が元々人間であることを記憶しているがために屍鬼になることで世界の調和から外されることを意識して、そこに介入するのに許可が必要なのだと。
つまり彼らは十字架や仏が怖いのではなく、その背後にある人間の存在を意識させられるがゆえにその調和から締め出された自分の孤立を悟り、恐怖するのだ、と。

実に観念的な話ではあるが、やはり屍鬼が人間とは似て非なる存在と云うのが大きいだろう。

我々が牛や豚、鳥や魚、野菜に果物といった様々な生ある物を食べて生きつつ、罪悪感を覚えないのはそれらが人間の言葉を解さないからだ。そして直接意思疎通を行わないからというのは大きな理由の1つだろう。

従って犬や猫といった愛玩動物は人の言葉は話さないにせよ、人間と近しい存在であり、意思疎通を図れるからこそそれを食べようとは思わない。

私は畜産業を経験したことがないので、牛や豚などの家畜を育てている人が、ではそれらの肉を食べないかと云われれば決してそうではないだろうが、少なくとも自分たちが育てた牛や豚は食べないかもしれない。

そう考えると屍鬼が人を襲うことの罪深さ、そして人が屍鬼を駆逐することの罪悪感も理解できる。お互い意思疎通ができ、つい最近まで一緒に話をし、同じ村で暮らしていた人々を自分たちが生き残るためにという理由で捕食し、または虐殺しなければならないという業が本書には横溢している。

襲う側の屍鬼も辛いというのが本書に深みを与えている。人の血を吸わないと死ぬほどに苦しいから吸わざるを得ない。

それぞれのドラマが非常に濃い。そしてそんなドラマを吸血鬼譚にもたらした小野氏の着想が素晴らしい。

そして桐敷沙子。
彼女は自分もまた犠牲者だと訴える。お腹がすくからそれを満たすために人間を襲っただけ。それが何が悪いのかと何度も訴える。

そして自分がその存在を隠しながら数百年も生きてきたこと。家族愛に飢えていること。常に逃げて生きてきたこと。安住の地を外場村に求めたこと。

彼女が望んだのは誰もが願う幸福の形だ。しかし彼女は屍鬼と云うだけで、人間を襲わないと生きられない化け物というだけで忌み嫌われる。

そして仲間が増えることで食糧となる人間が減るがゆえに必然的にマイノリティにならざるを得ない存在。

つまり屍鬼もまた環境の犠牲者であるのだと。

そしてこの物語を語るには最後のジョーカーとなる室井静信について語るざるを得ないだろう。

正直この室井静信と云う男、読者の共感を得にくい人物である。

仏に仕える身でありながら神の存在に疑問を持ち、また自身の命に執着がなく、学生時代に自殺を図った男。

しかし屍鬼が村に連続する怪死現象だと解ってくると屍鬼もまた生きる権利があるとし、人が生き残るための屍鬼の殺戮を厭い、結局何の手立てもしない。

実に矛盾に満ちた人物だ。

彼自身が最も罪深い。こんなに腹立たしい登場人物もなかなかいないのではないか。

ただこの変容こそが、矛盾こそがまた人間なのだと思う。

最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。
単純に長いというわけではない。
上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。

マイノリティに向ける小野氏の眼差しはそれが人間にとっても害であってもその存在を認めるべきだという包容力を感じさせる。
一方で怪異が起きているのに今は常識が邪魔をしてそれを正視しない大人たちばかりになってしまった世の中を批判している。だからこそのあの結末だろう。

ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。
それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。

まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。


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屍鬼〈5〉 (新潮文庫)
小野不由美屍鬼 についてのレビュー
No.195: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

その愛は深い母性か、それとも狂気か

東野圭吾氏が今回選んだのは脳死をテーマにした人の死について。以前『変身』では他者の脳が移植された男の実存性について語ったが、今回は脳死とは本当に死なのかについて語られる。

実に、実に解釈の難しい物語だ。人の生死について読者それぞれに厳しく問いかけるような内容だ。

物語は娘瑞穂が突然の水難事故で心拍停止状態に陥り、回復したが脳の機能が停止した植物人間状態になった播磨夫妻の、娘の回復に一縷の望みを掛けた苦闘の日々が語られる。

まず脳死とは脳死判定を行った上で脳死であると判定された時点で見なされる状態。その時心臓はまだ動いていても、即ち臓器が生きて活動していても脳が機能していなければ脳死、即ち死人と見なされる。改正された臓器移植法ではドナーカードを持っていれば即ち患者の意志と見なされて臓器移植へのドナーとなり、一方ドナーカードを持っていなくても患者の家族が脳死判定をすることに同意し、脳死の判定が下されればドナーとなる。
また一方で脳死判定に同意しなければ当然判定は行われず、従って死亡したとみなされることはない。臓器移植法とは実に奇妙な法律である。本書では人工呼吸器に繋がれて生かされていたとしても脳死と判定されればそれが抜かれることで文字通り息の根を止められるような思いがすると当事者家族の思いが生々しく語られる。

播磨夫妻は一旦それを受け入れるが、お別れの際に握っていた瑞穂の指がピクリと動いたと感じたことからそれを翻し、娘の回復に望みをかける。

つまり本書における瑞穂の状態は正確には脳死ではないのだが、便宜上ここでは彼女の症状、状態について敢えて脳死という言葉を使わせていただく。

物語の中心であるこの播磨夫妻のパートを読めば、本書は脳死と云う不完全死に挑む夫婦の物語として読める。そして別居中の夫が脳と機械を信号によって繋ぐことで人間の、障害者の生活を改善する技術を開発している会社の社長とであることから、最先端の技術を駆使して脳死状態の人間を徐々に健常者へ近づけるよう努力をするのだ。
これを本書の第一の視点としよう。

つまり本書における脳死患者と家族の戦いは播磨夫妻のような富裕層でないとできない戦いなのだ。
私はこれについて金をつぎ込まないと奇跡は起きないと云っていると解釈しない。東野氏のミステリのテーマとして常にある、最新技術を駆使したミステリを描くこと、即ち最先端の技術で人はどのように脳死を乗り越えることが出来るのかを語った物語として読んだ。

しかし上に書いたように本書はそんなたゆまぬ夫婦の努力を描きながら、どこか歪な雰囲気が全体に纏われている。

それは瑞穂の母親である播磨薫子の造形だ。通訳の仕事をしているだけあって彼女は通常の主婦以上に理知的だが、一方で頑として譲れないところがある女性だ。自身そんな自分を陰険だと評している。

そして自分の目的のためには周囲をとことん利用しようと考える女性でもある。
夫の浮気に気付き、解消した後もその後の人生でその悪しき出来事を思い出すのが嫌なために別居だけでなく別れることにしながらも植物人間状態となった娘の生存維持のため、多額なお金をかけて生かすために敢えて離婚を選択せず、しかし一方で別居はそのままとしたところ。

また夫の会社の社員星野が植物状態となった娘の身体を磁気による刺激によって人為的に動かす装置を発明したことで、その後も娘を少しでも健常者に近づけるために、彼が自分へ好意を持っていることを知りながら利用し、そして囲い込もうと企みもする。

但し、そんなことを企みつつも悪女でないという実に不思議な魅力を持った女性である。
それは何よりも全てが娘の回復という奇跡のためにささげられているからだ。

つまり彼女は娘の回復を願うあまりに自分が魅力的であることを自覚しながらそれを最大限活用してとことん他者を利用し尽くす、一つの目的に対して貪欲なまでの執念を持った女性であることが見えてくる。

それは彼女の母千鶴子もまたそうだろう。
自分の不注意で瑞穂を預かっている最中にプールで溺れさせ、植物人間状態にしてしまった負い目を一生背負うことを覚悟し、その後娘の子供を預かることがトラウマになりながら、孫の介護の協力を娘から申し出られると、そのことにその身を捧げることを決意し、それが自分に与えた罰への唯一の償いとして身を擲つ。
しかし彼女の場合はもし同じような境遇にあった場合、それしか選択肢はないようにも思える。

そしてまずは横隔膜ペースメーカー、即ち気管切開せずに横隔膜に電気刺激を与えることで見た目普通の人と変わらぬように呼吸ができる技術AIBSから始まり、先に述べた磁気刺激装置で筋肉を刺激して動かす人工神経接続技術、即ちANCを導入し、さらにそれを発展させ顔面の表情筋をも動かすまでに至る。

しかし一方でこの播磨夫妻が物云えぬ人形のような瑞穂を機械の力で動かすところを見て戦慄を覚え、神への冒瀆だとまで云う人々もまた現れる。
これが本書の第二の視点だ。

脳死状態で本来なら手足も動かせない我が子に電機や磁気で刺激を与え、動かすその行為そのものに親の愛情に狂気を見出し、悲鳴を挙げて逃げ出す、その技術を施したハリマテクスの社員星野祐也の恋人川嶋真緒。

電気仕掛けで動く孫に衝撃を覚え、そうすることを選んだ嫁の行為に嫌悪感を抱く播磨和昌の父多津朗。

脳死と云われているのに大金を投じて手足を動かす薫子を異常だと評する薫子の妹の夫。

それだけではなく、瑞穂の弟生人は小学校の入学式で母親が瑞穂を連れてきたおかげで周囲からいじめを受け、瑞穂が死んだと云わざるを得なくなり、それによって生人の中で瑞穂への見方が変わってしまう。

さらに先天性の病気で臓器移植を待つ幼い娘を持つ家庭のことも描かれる。
これが第三の視点だ。

もし脳死判定によって死亡が確定し、ドナーが現れれば助かったかもしれない命。それを待つ側の夫婦の話が描かれる。

このように植物人間となった少女1人を通じて物語はそれぞれの取り巻く状況を深く抉るように描かれる。

そして瑞穂のところに特別支援学級から定期的に派遣される特別支援教育士の2人。

最初の米川先生はどうにか瑞穂に意識を戻らせようと音楽を聞かせたり、話しかけたり、楽器を演奏してみたりと積極的に関わる。

一方その代わりに来た新章房子はひたすら本を読み聞かせ、薫子が席を外している時はそれさえも止めてじっと娘を見つめる無表情な女性。

この2人の対照的な教育士の話は実に興味深い。

こういう端役にも厚みを持たせるエピソードを持たせる東野氏は実に上手いと唸らされる。それが登場人物の造形を深くする。
上に挙げた以外にもまだあるので少し述べよう。

まず思わず目頭が熱くなったのは播磨夫妻の娘瑞穂の四つ葉のクローバーのエピソードだ。

そしてアメリカでの娘の臓器移植手術に一縷の望みを託す江藤夫妻の話もそうだ。

上にも書いた瑞穂の許に派遣される特別支援教育士新章房子が瑞穂に話す童話の話。この何気ない物語に隠された新章房子の真意とそして薫子が生んだ誤解。

随所に挟まれるこれらのエピソードが登場人物に厚みを持たせ、そしてそれぞれの行動原理に意味を持たせ、物語全体を補強する。物語巧者として匠の域に達した感がある。

それだけではなく、臓器移植法について単に法律を紹介するだけでなく、それに向き合う医師の言葉で解釈を据えるのもまた物語を補強する要素となっている。

上に書いたように脳死判定で脳死と判定されれば患者は死んだとみなされ臓器移植が成される。しかし一方で心臓は生きているため、完全死ではない。そこにこの法律のジレンマがあるが、その基準となる竹内基準を人の死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうかを見極める境界を決めたものだという解釈だ。

ポイント・オブ・ノー・リターン。つまりそこに至れば今後脳が蘇生する可能性はゼロである。
つまり正式には「回復不能」、「臨終待機状態」と称するのが相応しいが、役人たちは「死」にこだわったため、脳死という言葉が出来たようだ。

この話は私の中でようやく脳死判定に対する解釈が腑に落ちた感がした。
心臓が生きているから死んでないと解釈するからややこしいのであってそこからは回復が望めないと判断される境界であると実に解りやすく解釈すれば、受け取る側も理解しやすい。
やはりこういうデリケートな内容は医師を中心に法律を決めさせたらいいのではないかと思う。

介護をされながらも生きることは介護をする側に負担を強いることだ。それは介護する側の精神をすり減らし、いつ終わるかもしれぬ無間地獄を強いることでもある。
どんな形でも生きてほしいと望みながら、いつこの苦しみは終わるのだろうといつしかその死を望むようになる。それが現代介護の厳しい現実なのだ。

そうやってまで生きること、生かされることに価値があるのか?
寧ろ上にあるようにもはやそこからは回復できないと判断された時は自分を「生かす」のではなくせめて他人のために「活かし」てほしい。そのための臓器移植法だと我々は解釈せねばなるまい。

本書の最大の謎とは播磨薫子と云う女性そのものだったと読み終わってしみじみ思う。
子供の愛情が強く、少しでも可能性があるのならばいつか回復するものと信じて娘が脳死と見なされることを拒否し、生かそうとする。

ここまでは普通の母親の姿だが、そこから更に彼女は夫の会社の技術と財力を利用して娘に最新技術による人工呼吸法、磁気で刺激して手足を動かし、更には顔の表情まで作ろうとする。そしてそれを介護の成果として周囲に見せるが、そんな状態を見てただの親のエゴによる自己満足に過ぎず、子供を玩具にしているものだと嫌悪される。

一方で幼き娘に臓器移植の手術をアメリカで受けさせるために寄付を募るボランティアに参加し、脳死判定と云う曖昧な基準で幼児の臓器移植が一向に進まない日本の現状について議論を吹っかけ、更に臓器を待つ両親にその気持ちを問い質す。

更に娘を完璧に近づけようとするが、やがて周囲の目が娘を死人とみていることにショックを受け、警察を呼び、自ら包丁を持って、娘を今目の前で刺したら殺人になるのかと問う。
その有様はほとんど狂える母親にしか見えないのだが、云っていることは論理的で矛盾がない。その圧倒的な迫力に気圧される。

しかしその一件で何か憑き物が落ちたかのように一転して今度は自分一人で娘の世話を見ることを決意する。もはや周囲に娘が生きていると納得させることも放棄したかのように。
その姿はしかし世捨て人や隠遁者と云った雰囲気ではなく、悟りを開いた、そう菩薩のように見える。

娘の死を受け入れた以降は娘の葬儀の準備に奮闘する。

彼女がふと漏らすのは母親は子供のためには狂えるのだという言葉だ。それを本当に実行したのが彼女であり、そのことだけが彼女の謎への解答となっている。

しかし播磨薫子は周囲を気にせず、全て自分の意志で行い、そしてそれを貫いた。
彼女はただ納得したかったのだ。周囲の雑音に囚われず、娘がまだ生きていることを信じ、そのために出来ることを全てした上で結論を出そうとしていただけなのだ。
それは飽くなき戦いであり、それを全うしただけなのだ。
これだけは云える。彼女は信念の女性だったのだと。

倫理観と愛情、人の生死に対する解釈、それによって生まれる臓器移植が日本で進まない現状。
子を思う母親の気持ちの度合い。
難病に立ち向かう夫婦と現代医学の行き着く先。

そんな全てを播磨薫子と瑞穂の2人に託して語られた物語。色々考えさせられながらも人と人との繋がりの温かさを改めて感じさせられる物語でもある。
情理のバランスを絶妙に保ち、そして我々に未知の問題と、それに直面した時にどうするのかと読者に突き付けるその創作姿勢に改めて感じ入った。

子を持つ親として私はどこまでのことをするのだろう。読中終始自分の娘の面影が瞼に過ぎったことを正直に告白しよう。我が娘が眠れる人魚にならないことを今はひたすら祈るばかりだ。
こういう物語を読むと遠い異国の地で家族と離れて暮らす我が身に忸怩たる思いがする。これもまた東野マジック。またも私は彼のマジックに魅せられたようだ。



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人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)
東野圭吾人魚の眠る家 についてのレビュー
No.194: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)
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闇をのぞき込むボッシュもまた闇の深淵から覗かれる

前作でロス市警に復帰し、未解決事件班に配属されたボッシュは本書でもそのままキズミン・ライダーとコンビを組んで過去の未解決事件に当たる。それは折に触れ独自で再捜査を重ねていたマリー・ゲスト失踪事件。それは1993年に当時ジュリー・エドガーと共に担当し、衣類まで見つかりながら彼女自身が見つからずに今に至っている事件だ。それが思わぬ方向から犯人と思しき男が浮上し、ボッシュは否応なくその捜査に加わることになる。

たまたま深夜に職質されたことで車内にあったゴミ袋に2人の女性のバラバラ死体が入っていたことで捕まったレイナード・ウェイツが2件の未解決事件の犯人であることとまだ表出していない9件の殺人事件の犯人であることを供述する代わりに死刑を免れるよう司法取引を申し出る。そのうちの1つがマリー・ゲスト殺害だったというもの。
つまりボッシュは13年間追ってきた事件の犯人を思いも寄らぬことで知ることになるのだが、それは彼に正統なる法の裁きを与えないことで解決するという、皮肉なものだった。

さて前作から恐らく作品世界内では1年くらいしか経っていないと思われるものの、色んな変化が見られるのが特徴だ。

まず未解決事件班の頼れる班長であるエーベル・プラットはなんと4週間後に25年間の警察勤務から引退し、カリブ諸島のカジノの警備関係の職を得て第2の人生について思いを馳せているところ。従って前作よりも警察の仕事にあまり身が入っていない印象を受ける。

そして前作でロス市警からの退職を余儀なくされたアーヴィン・アーヴィングはなんと市議会選挙に立候補し、恨みを晴らさんとロス市警の改革を選挙公約として掲げている。

また本書を前に刊行されたリンカーン弁護士ことミッキー・ハラーも本書の事件の最有力容疑者であるレイナード・ウェイツの過去の事件の担当弁護士として名のみだが登場する。

またリンカーン弁護士がらみで云えば、ハラーが弁護を請け負うことになったルーレイの顧問弁護士セシル・ダブスもボッシュがマリー・ゲスト殺しの容疑者と睨んでいるアンソニー・ガーラントの父親、石油王トマス・レックス・ガーラントの顧問弁護士事務所として登場する。

更に最も忘れてはならないのは『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートすることだ。

件の作品で干されていたレイチェルがFBIのロス支局へと栄転したが、その事件でお互い分かち合えた2人は一旦物別れする。しかしボッシュはレイナード・ウェイツと面会するに当たり、彼の為人を知るためにプロファイラーであったレイチェルの助けを借りるのが再会のきっかけとなる。

一旦ボッシュからウェイツの資料を預かり、概要的なプロファイルを行ってその夜ボッシュの家を訪れ、資料の返却と彼女のプロファイリング結果を話した後、なんと2人は寄りを戻してベッドインするのだ。
前回はレイチェルが意図的に仕組んだあることで自らボッシュの前を去った彼女はやはりボッシュへの好意は尽きていなかったのだ。この2人は似た者同士で魂で引き合っている人間なのだ。

さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。

このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。

そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。

ボッシュはレイナードをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがレイナード・ウェイツだったのだと。

闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。
これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。

ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。

さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。

なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。

深夜自身の経営する清掃会社の名前を付けた車でエコー・パークを通りかかったために不審に思った警官が職務質問をし、その際に車内を調べた後、そこに2人の女性のバラバラ死体の入ったゴミ袋が見つかったことが彼の逮捕に至った。

しかし彼はそこから更に9件の、警察の知らない殺人事件を犯していると云っていることから、今まで巧みに警察に知られぬように暗躍していた狡知に長けた殺人鬼だったとみなされていた。

また彼の生い立ちを調べていくうちに孤児だった彼を引き取った里親のうち、最も長くいたのが、彼が偽名として使っていたサクスン夫妻の家で、その家があるのがエコー・パークだった。そして彼が殺害した数多の女性死体を隠匿していたのがそのサクスン夫妻の家のガレージの奥に作ったトンネルだった。

狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツが辿り着いた園(パーク)だったのだ。

そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。

“Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。

そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。

この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。
やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。

また本書ではボッシュの相棒キズミン・ライダーが瀕死の重傷を負うショッキングな展開がある。現場検証の際にオリーヴァスの銃を奪って逃走したウェイツに彼女は撃たれて頸動脈に傷を負い、一時は生死の境をさまよう危ない状況に陥る。
意識を取り戻した彼女がボッシュに告白するのは思いもかけない内容だった。

ボッシュが自分の復職の条件として自分の相棒となるよう要請したほど刑事としての資質を認めていた彼女の弱さを思い知らされたシーンだ。これはシリーズ読者にとっても驚きの告白だった。

そして事件の真相はまたも衝撃的だった。

未解決事件、いわゆる“コールドケース”と呼ばれる事件の関係者たちは何年経っても事件の記憶は消えず、その中に家族が当事者である人々にとっては犯人が見つかるまでは終わらないもので、ボッシュも13年間追い続け、その都度事件の捜査経過を家族に連絡していることが描かれている。
失踪したマリーの母親アイリーンはその連絡の後、ボッシュに「幸運を」と投げ掛ける。それはボッシュが無事犯人を見つけられるようにでもあるし、自分たちの娘が無事、もしくは最悪の形であれ見つかることを祈念してのメッセージだろう。

FBI捜査官という緊張を強いられる仕事で安らぎを与えてくれる存在を求めていた彼女は同じ魂の匂いを感じるボッシュにそれを見出すが、彼が逃亡したウェイツの居所を発見して応援要請を待たずに犯人の待つ暗いトンネルへと突き進むのを見て、レイチェルは彼が現場でやっていることを目の当たりにする。それは彼女にとっては安らぎを得られるものではなく、寧ろその帰りをいつも心配して待たねばならない姿だったからだ。まさに似ているからこそ一緒になれない存在だ。

コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。

シリーズはまだ続く。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。


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エコー・パーク(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーエコー・パーク についてのレビュー
No.193:
(10pt)

誰がための決着か

ボッシュシリーズ新章の開幕である。何度この言葉を書いたことだろうか。
刑事を辞し、私立探偵を営んでいたボッシュはロス市警が新設した復職制度を利用し、刑事に復帰する。配属先はロス市警未解決事件班。ドラマにもなっているいわゆる「コールド・ケース」と呼ばれる未解決事件を取り扱う部署で過去の事件に取り組むことになる―因みに当時既にCBSで放映されていたドラマ『コールドケース』について登場人物がその番組を担当しており、ボッシュに取材を申し出るのはコナリーなりのサーヴィスか。それともこの番組を観て着想を得たコナリーが読者から何かを云われる前に敢えてこの番組に触れたのだろうか―。

相棒は元部下のキズミン・ライダーで、班長は年下ながらボッシュに深い理解を示しながら、チームを掌握し、団結心を鼓舞するリーダーシップを持つエーベル・プラット。更に班内は署の精鋭ばかりが集まっている。
つまりボッシュはこれまでに比べて恵まれたチームで働くことが出来、そして捜査も自然チームワークが主体となる。一匹狼として独断捜査をしていたそれまでのボッシュとは異なっている。

しかし未解決事件を扱う班に配せられたというのは皮肉なことだ。なぜならこのボッシュシリーズは過去の闘いの物語だからだ。
彼は常に過去に向かい、そして新たな光を当てることに腐心している。失われた光をそこに見出そうと過去という闇の深淵を覗く。そしていつも闇からも自身が覗かれていることに気付き、取り込まれそうになるところを一歩手前で踏みとどまる。

自身が抱える闇と対峙し、そして事件そのものが放つ闇に向き合う。何年も前に埋められた骨が出てきても諦めずその過去に挑む。それがこのハリー・ボッシュという男の物語だ。

そしてボッシュはこの部署に配属されたことで自分が最初に手掛けた事件が未解決となっている両手首を犬用の革紐で縛られ、飼い犬と一緒に浴槽で殺されていた老女殺害事件も再捜査しようと考えている。

そしてこのシリーズの特徴の1つに確実にそれぞれの人物に時間が、歳月が訪れていること、そしてそれが各々の登場人物に深みを与えている。

ボッシュは勿論ながら、彼に関わった登場人物、例えば当初彼の相棒だったジェリー・エドガーはまだハリウッド署の強盗殺人課におり、後から来たキズミンに追い抜かされた形で、彼女との関係は上手くいっていない。

キズミンはハリウッド署からLA市警の強盗殺人課に、そして本部長室付を経た後、ボッシュの復帰を機に強盗殺人課の未解決事件班に異動となり、かつてのボスだったボッシュとまた組むようになる。

ボッシュの宿敵アーヴィン・アーヴィングは戦略的計画室という閑職に異動されたが、必ずボッシュがミスを犯すと信じ、虎視眈々とそのミスに付け込んで復活の機会を窺っている。

またボッシュの妻エレノアは娘マデリンを連れて香港に1年間の契約で行っているようだ。

また一方でノンシリーズの『バッドラック・ムーン』に登場したキャシー・ブラックの仮釈放監察官セルマ・キブルが、銃で撃たれる重傷から復帰した姿を見せる。そして当時はふくよかだったのが事件の後ではすっかり痩せてしまい、おまけにボーイフレンドまでいるようだ。
そしてそこでまたボッシュはキャシー・ブラックの姿を写真で見るのである。ボッシュがどこか運命的な物を感じている女性としてキャシーは今後も登場するのかもしれない。

そんな時の流れの中、刑事復帰後早々の事件の捜査において自分の捜査のテクニック、スキルが3年ものブランクで錆び付いたことを痛感する。
相手の事情聴取で踏み込み過ぎ、相手を揺さぶるためのテクニックを看過され、ガードを固くさせてしまったり、夜中に尾行をして相手の家の周辺にいる時に携帯電話を切るのを忘れて受信してしまったりと以前の自分なら信じられないポカミスに自己嫌悪に陥るのだ。

ボッシュは本書で1972年に警官になったとあるから、本書の中の時間が原書刊行時と同様であれば32、3年のキャリアだ。未解決事件班のボス、エーベル・プラットが50手前でボッシュより2,3歳下と書かれているので、つまり51、2歳ぐらいか。しかもパソコンも使えず、事件の調書はタイプライターで作成するアナログ刑事。前時代的な刑事になりつつある。

1988年の事件の調書を読んで当時の担当者であるガルシアとグリーンが当初家出と見なした初動捜査のミスに憤りを感じる反面、自身すら単純なミスを犯してしまう情けなさ。

そしてこのボッシュの衰えぶりは最近の自分と照らし合わせても痛感させられる。実にしょうもないミスが多くなり、そしてよく忘れてしまうのだ。私もずいぶん歳を取ったと思わされる昨今。ボッシュに共感する部分が多々あった。

もう1つ忘れてならないのはアメリカに根深い人種差別問題がテーマになっていることだ。
1988年の事件を掘り起こし、証拠の1つだった押収された凶器の銃の中に残されていた皮膚片をDNA検索を掛けたところ、ローランド・マッキーなる容疑者が浮上する。そして彼が身体に入れている刺青が白人至上主義者である特徴を十分に備えていることから、事件に新たな光が当てられる。

コナリーは黒人に暴行を加えた白人警官が無実となったことで勃発したロス暴動を扱った『エンジェル・フライト』以降、同じくロスを舞台に刑事として働くボッシュの活躍を通じて人種差別根強いロスを描いてきた。そしてそのネガティヴなイメージを払拭させようと躍起になっているロス市警を舞台に1988年というまだ差別の風潮が根強いロスを描くことで、コナリーは人種差別によって引き起こした事件を深堀している。
それは浄化という名の下で、不名誉をリセットしようとしているロス市警、いやロサンジェルスと巨大都市自体を風刺しているかのようだ。根本的に変わらないと悲劇はまた起きると痛烈に警告するかのように。

偶然と云うにはあまりにも多すぎる手掛かりが事件の本当の姿を目くらませ、そして未解決のまま17年もの歳月を眠らせることになったのだ。

未解決の殺人事件が当事者に及ぼす影響とはいかなものだろう。ボッシュとライダーが当時の関係者に事情聴取のために訪ねると、一様に彼ら彼女らはまだレベッカの事件のことを覚えており、開口一番に犯人が見つかったのかと尋ねる。つまりそれは皆の中で事件が終っていないことを示しているわけだが、それがまたそれぞれの人生の転機となっていることが見えてくる。

例えばレベッカの友人の1人ベイリー・コスターは教師となって母校に戻り、二度と同じような目に遭う生徒を出さないよう気をつけながら、事件解決の朗報を待っている。

自分の盗まれた銃が犯行に使われたサム・ワイスはそのことがずっと頭に残り、警察から電話が掛かってきただけで、すぐにその事件を連想する。

本書の原題“The Closers”とはクローザー、つまり野球で勝敗が掛かっている時に投入される、あのクローザーを意味している。
つまり未解決事件、即ち今なお終わっていない事件に決着を着ける刑事たち、彼らこそが終決者たちなのだ。

そのタイトルに相応しいこれまでのシリーズにおいてボッシュの枷となってきた者たちが粛清されていき、まさに一旦幕引きされるかのようだ。

しかし上に書いたようにいくら犯人が捕まろうがその事件の当事者たちには終わりはないのだ。
区切りはつくだろう。
しかし彼ら彼女らはその人の理不尽な死を抱えて生きていかなくてはならない。

罪を憎んで人を憎まずというが、本当に愛する者を奪われた人たちがそんな理屈では割り切れない感情を抱えて生きていけるわけがないと大声で訴えかけてくるが如く、結末は苦い。

ボッシュとライダーはその事実を知らされ、自分たちの成果に水を刺され、虚しさを覚える。未解決事件を解決することは関係者に復讐相手を特定するだけではないか、そんな虚しさを。

読んでいる最中は今回は純然たる警察小説として終わるかと思っていたが、流石はコナリー、そんな簡単に物語を終わらせない。

今までのシリーズ作は常に過去に対峙するボッシュシリーズの特徴を踏襲しており、ボッシュ自身の過去から今に至る因果が描かれていた。

ボッシュに関わった人物たちが過去に犯した罪や過ちが現代に影響を及ぼし、それがボッシュ自身にも関わってくる、もしくはボッシュの生い立ちに起因する様々な事柄が事件に思わぬ作用をもたらす、そこにこのシリーズの妙味と醍醐味があると思っていた。

しかし本書の読みどころは過去の事件に縛られた人たちの生き様だ。そしてそれ自体がそれまでのシリーズ同様の読み応えをもたらしている。

ボッシュ自身の過去に固執することなくボッシュが事件を通じて出遭う人たちを軸に濃厚な人間ドラマが繰り広げられることをコナリーは本書で証明したのだ。

但しシリーズを通じて一貫しているテーマがある。それは今なお根強い人種差別問題、警察の汚職と横暴、法の目をかいくぐる悪への制裁だ。
悪はすべからく罰せなければならない、そうしないとまた悪が野に放たれるだけだ。それこそがボッシュの信条であり、それはコナリー自身の信条なのだろう。だからこそ過去に埋もれて忘れ去られようとしている悪をも掘り返すのだ。

しかしこれだけの巻を重ねながら毎度私にため息をつかせ、物思いに浸らせてくれるコナリーの筆とストーリーの素晴らしさ。

物語の最後、容疑者の殺害に意気消沈するボッシュにライダーが次のように云う。

「あなたがなにをするつもりであろうと」(中略)「わたしはあなたについていくわ」

私もコナリーが何を書こうともずっと付いていこう。そう、決めた。


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終決者たち(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー終決者たち についてのレビュー
No.192:
(9pt)

悪の側と善の側を隔てる線

ボッシュシリーズ記念すべき10作目はこれまでコナリーが発表してきたノンシリーズが、本流であるボッシュシリーズと交わる、いわばボッシュ・サーガの要をなす作品となった。恐らく作者も10作目という節目を迎え、意図的にこのようなオールスターキャスト勢揃いの作品を用意したのだろう。

ノンシリーズで登場した連続殺人鬼“詩人(ポエット)”が復活し、その捜査を担当したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再登場し、また『わが心臓の痛み』で登場して以来、『夜より暗き闇』で共演した元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが交わる。しかしなんとそのテリー・マッケイレブは既に亡く、ボッシュが彼の死の真相を探る。

とにかく全てが極上である。
味のある登場人物たち、物語の面白さ、謎解きの妙味。
ミステリとしての謎解きの味わいを備えながら、シリーズ、いやコナリー作品全般を読んできた読者のみ分かち合えるそれぞれの登場人物の人生の片鱗、そして先の読めない、ページを繰る手を止められない物語自体の面白さ、それらが三位一体となって溶け合い、この『天使と罪の街』という物語を形成しているのだ。

まず触れておきたいのは自作の映画化についてのことだ。

テリー・マッケイレブと云えばクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された『わが心臓の痛み』(映画題名『ブラッド・ワーク』)が想起され、今までコナリー自身が作中登場人物にその映画について再三触れているシーンがあったが、本書では更にそれが加速し、随所に、なんとそれぞれ映画で配役された登場人物がこの映画について触れている。

また本書は前作に引き続き、ボッシュの一人称叙述が採られているが―レイチェル・ウォリングのパートは三人称叙述とそれぞれの章で使い分けがされている―、その中でも映画がさほどヒットしなかったこと、イーストウッドとテリー・マッケイレブの歳が離れすぎていたことなどが吐露されている。これは作者自身の不満であると思え、なかなか面白い。

私は幸いにして『わが心臓の痛み』読了後、BSで放送のあったこの映画を観ていたのでこれらのエピソードを実に楽しく読めた。
ボッシュ(=コナリー)が云うように、私自身大きな賛辞を贈った原作が映画になると何とも淡白な印象になるものだなと残念に思っていたからだ。

更にFBI捜査官側のモハーヴェ砂漠で見つかった大量死体の謎にテリー・マッケイレブが絡んでいることが発覚すると、しきりに「あの映画を観ていたら解るのだが」といった映画での引用が所々出てくる(さすがにマッケイレブの葬式にクリント・イーストウッドが出席していたという件はやり過ぎかと思ったが)。

もう1つ加えるならば砂漠に埋められた遺体の1つから発見されたガムの噛み跡があの稀代のシリアルキラー、テッド・バンディの物と発覚し、更にロバート・バッカスとレイチェル・ウォリングが彼の聴取をしていたという件も登場する。

この自作が映画化された事実、さらに実在のシリアルキラーと自作の登場人物を絡ませてメタフィクショナルな作りになっているのが本書の大きな特徴の1つと云えるだろう。

上に書いたように本書はレイチェル・ウォリングと新聞記者のジャック・マカヴォイが挑んだシリアルキラー“詩人”に、レイチェル・ウォリングが再戦し、そこにテリー・マッケイレブとハリー・ボッシュが挑むという実にサーヴィス精神旺盛な作品となっている。

例えるならば東野作品で稀代の悪女が登場する『白夜行』、『幻夜』の犯人に加賀恭一郎と湯川学の2人が挑む、それくらいのサーヴィスに匹敵する内容だ。

更にボッシュがラスヴェガスに長期間滞在しているモーテルの隣人ジェーン・デイヴィスはその様子から『バッドラック・ムーン』の主人公キャシー・ブラックだと思われ、繰り返しになるが、これまで以上にオールスターキャスト登場の趣を見せる。

そしてそれがサーヴィスに留まらず、物語の、いや本書の謎解きの主軸となっているところがまた凄いのである。

詩人に敗れ、命を落としたマッケイレブの遺品と遺したメモを手掛かりにボッシュは犯人の足取りを辿るのだが、それらは断片的に遺された、ほとんど暗号に近い内容だ。
それをじっくりと読み解いていくプロセスはまさにミステリにおける謎解きの醍醐味に満ちている。物語の中盤、上巻から下巻にかけて詩人がどのように被害者たちを狩っていたのか、その足取りを辿る件は久しぶりに胸躍る思いがした。

そうそう、忘れてはならないのが、テリーの相棒バディ・ロックリッジ。彼もまた例によって例の如く、自身が好むミステリの登場人物たちのようなヒーロー願望を前面に押し出し、ボッシュの捜査に絡んでいく。

しかしこのバディ・ロックリッジが、ボッシュにとっても面倒な男だと思われているのは思わず苦笑いしてしまった。彼はやっぱり誰にとってもうざい存在のようだ。

また気になるのはボッシュとエレノアのその後の関係だ。

前作では長く別居生活を送っていたエレノアとの再会し、更には実の娘がいたという、実に晴れやかなラストを迎え、本書ではてっきり幸せな結婚生活が再開されているものと思われた。

それを裏付けるかのようにボッシュはとにかく愛娘にぞっこんで、彼女と電話して話をしたり、また寝顔を見るためだけにエレノアの家を訪れる。
そう、彼は娘と逢いにエレノアの家に通っているのだ。つまり再び別居生活を送っているのだ。

前作では警察を辞め、LAに留まる理由が無くなり、エレノアへの渇望感、愛情再燃の様相さえあったボッシュ。実際彼が自身をLAに留めているのが単に再会することで失うものを恐れていたのだが、LAを捨て、エレノアのいるラスヴェガスに向かい、同居生活を試みたものの、上手くいかなかった。
それはエレノアがもはやラスヴェガスで名うてのギャンブラーとして生計を立てているため、そこを離れられないのだが、ボッシュはこのギャンブルとエンタテインメントを生業にする町は娘を育てるのにいい環境だとは思わなかったため、そのことでエレノアとは衝突を繰り返し、関係がぎくしゃくしていたのだった。

男と女。その考えは常に異なる。それは古来から伝わる世の常である。
世の夫婦はお互い、それぞれの価値観との相違によって生じる衝突を繰り返し、時にはぶつかり、そして時には妥協し、折り合いを付けて共に人生を歩んでいく。それが夫婦なのだ。

しかしボッシュとエレノアはそれが出来ない。彼らはお互いに愛し合いながらもそれぞれの主張が、主義が強すぎ、折り合いを付けられてないのだ。
愛し合いながらも離れていた方がいい男女の関係と云うのは確かにある。それは時には強い斥力で以ってお互いを突き放すが、時間が来るとお互いどうしようも抗えない引力によって引き合う、磁石のような存在となる。
元刑事のボッシュと元FBI捜査官のエレノア。それぞれ強くなくてはいけない世界で生きていたことで、相手に譲歩することが出来なくなってしまっているのだ。

そのボッシュとタッグを組むレイチェル・ウォリング。『ザ・ポエット』では活躍した彼女はしかし、8年前のその事件を解決した後のFBIでの道のりは決していいものではなかった。

その事件の後、ノースダコタのマイノットという捜査官1人、つまりレイチェル唯一人の部署に異動させられ、その後も、いわゆるお荷物捜査官の巣窟へと異動させられた、出世街道の梯子を外された存在である。

彼女がそのような左遷を繰り返される閑職に追いやられたのは詩人の事件がきっかけだった。自分の上司が連続殺人鬼でそれを取り逃がしたことも一因だが、それよりも彼女はその事件の捜査の最中でFBIの天敵である新聞記者ジャック・マカヴォイと寝たことが知れ、FBIの厄介者になってしまったのだった。

この似た者同士の2人が手を組み、お互いを認め合う。背中を預けられる存在として。特にボッシュは無意識のうちに彼女をエレノアと呼び間違えるまでになる。

バッカスの仕掛けた爆弾で危うく吹き飛びそうになった2人は、恐怖を共有した者同士が生き長らえたことで共通の生存意識が芽生え、お互いを求め合う。
死を乗り越えた人間は生きている歓びとそして死んだかもしれない恐怖を分かち合い、性にしがみつくために将来の生を残そうとするかのように躰を求め合うのだ。レイチェルはエレノアとの関係が上手くいかないボッシュの新たなパートナーとなりそうな雰囲気を醸し出して物語は進む。

邦題の『天使と罪の街』はボッシュが住むLAとエレノアと最愛の娘マデリンが住むラスヴェガスを指している。前者が天使の街で後者が罪の街とボッシュは語る。

いやそうではないのかもしれない。天使と罪の街とは即ちLAとラスヴェガス両方を指すのかもしれない。

ボッシュが罪の街と呼ぶギャンブルが主な収入源となっているラスヴェガスはしかし彼にとっての天使マデリンが住んでいる。一方その名に天使を宿すLAは文字通り天使の街だが、長年そこで刑事をやってきたボッシュにとっては彼が捕らえるべき犯罪者が巣食う街だ。
罪を犯す者が住む天使の街、そして天使が住む罪の街。その両方を行き来するボッシュは再び刑事としてLAへ還っていく。

一方原題の“The Narrows”は「狭い川」を指す。普段は小川だが、暴風雨が降るとたちまちそれは濁流と化し、人を飲み込む大蛇へと変貌する。このナローズこそは普段はFBI捜査官の長として振る舞いながらも実は連続殺人鬼だったバッカスそのものを指し示しているのだ。
彼に対峙する直前ボッシュは母が頻りに云っていた「狭い川には気を付けなさい」の言葉を思い出す。

相変わらずコナリーは含みのある題名を付けるのが上手い。

なおコナリーは2003年から2004年に掛けてMWA、即ちアメリカ探偵作家クラブの会長を務めていた。本書は前作『暗く聖なる夜』と本書がまさに会長職にあった頃の作品だが、ウィキペディアによれば前作がMWAが主催するエドガー賞にノミネートされたものの、会長職にあるとのことで辞退している。

また本書ではイアン・ランキン、クーンツのサイン会が書店で開かれたことや、初期のジョージ・P・ペレケーノスの作品は手に入れにくい、などとミステリに関するネタが盛り込まれている。これはやはり当時会長としてアメリカ・ミステリ普及のために、細やかな宣伝行為を兼ねていたのではないだろうか。
そういえば前作ではロバート・クレイス作品の探偵エルヴィス・コールが―その名が出ていないにしても―カメオ出演していた。こういったことまで行うコナリーは、自分の与えられた仕事や役割を、個性的なアイデアで遂行する、几帳面な性格のように見える。

物語の冒頭、ボッシュの語りでこう述べられている。

真実が人を解放しない。

その真実とはマッケイレブの死の真相のことだろう。

そのことに気付いていたレイチェルはマッケイレブの遺族のために隠すことにしたのだが、それをボッシュに悟られたことでレイチェルは敢えてボッシュと決別する。
その直前まで彼女はボッシュが移り住んだLAの自宅を訪れ、自分の異動先をLAに希望するとまで云っていたくらい、彼女はボッシュが気に入っていたのだった。しかし似た者同士はあまりに似ているため、同族憎悪をも引き起こす。相手に自分の嫌な部分まで見てしまうがゆえに、一度嫌悪を抱くとそれは過剰なまでに肥大する。

似ているがゆえに共になれない。ボッシュとレイチェルはボッシュとエレノアの関係によく似ている。

読み終えて思うのは本書はハリー・ボッシュ、レイチェル・ウォリング、テリー・マッケイレブ、そしてロバート・バッカス4人の物語だったということだ。そして彼らは人生に訪れた困難・苦難を乗り越えて生きてきた人たちでもあった。

ボッシュはそのアウトローな独断的な捜査方法ゆえに検挙率はトップでありながら常に辞職の危機に晒されてきた。その都度ギリギリのところで踏み留まり、困難をチャンスに変えてきた男だ。

レイチェル・ウォリングは8年もの長きに亘って島流しに晒されたFBI捜査官だったが、彼女はいつかの再起を信じ、決して腐ることはなかった。以前よりも生気が失われたと思われた目にはまだ野心が残っており、そして部外者扱いされながらも捜査の中心に我が身を置いて、8年前に自分を閑職に追いやった因縁の相手に決着をつけた。

テリー・マッケイレブはFBI引退後も過去の事件に向き合い、未解決の事件の犯人逮捕に執念を燃やし続けた。彼は心臓病という大きな病を抱えながらもそれを続けた。

そしてロバート・バッカス。彼の苦難は幼少時代に途轍もない暴力を父親から振るわれ、それを母親が助けてくれなかった過酷な境遇だ。
しかし彼はそれを乗り越える、最悪な方法で。
彼は父親からの暴力の鬱憤を小動物を殺すことで晴らし、やがてその行為が父親に及んで事故死に見せかけることに成功する。その歪な成功体験が彼を稀代の殺人鬼へと変えた。FBIの行動分析課の長として捜査に携わりながら、その地位を利用して自分に捜査の手が及ばないように犯行を重ねた。
彼も困難をバネに生きてきた男だ。ただ彼はダークサイドに陥ってしまったのだが。

ボッシュとレイチェル、そしてマッケイレブ。彼らは人間の闇の深淵を覗いてきた人々だ。しかし彼らはバッカスにならなかった。ただそれは、今はまだ、というだけの差しかないのかもしれない。
悪の側と善の側を隔てる線。その線引きを自ら行えるうちは大丈夫だろう。しかしその一線を超えたら、彼ら彼女らもまたバッカスになり得るのだ。

今回もコナリーは期待を裏切らなかった。

ただ惜しむらくは本書はあまりに『ザ・ポエット』の続編の色を濃く出しているため、作者が明らさまに『ザ・ポエット』の内容と真相、真犯人を語っている。従って『ザ・ポエット』の内容を知りたくないならば本書を読む前に是非とも読んでおきたい。
まあ、実に入手が難しい作品であるのだが。


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天使と罪の街(下) (講談社文庫)
マイクル・コナリー天使と罪の街 についてのレビュー
No.191: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語

日常の謎系ミステリ、即ち日常生活における些細な違和感の裏に隠された謎を解き明かすミステリを生み出した北村薫氏。それは「人の死なないミステリ」とも呼ばれていたこの「円紫師匠と私」シリーズだが、シリーズ初の長編にして3作目の本書で初めて人の死が扱われた。それも女子高生という若い命が喪われる事件。文化祭の準備の最中に起きた屋上からの墜落死に潜む謎に私と円紫師匠が関わるミステリだ。

人の死というのは押しなべて非常にショッキングな印象を与えるが、特に若い命が喪われるそれは殊更に人の心に響く。
本書では3つも年が違い、中学、高校時代には一緒の学校にいることのなかった後輩の死が扱われるわけだが、それでも「私」にとって小学生時代に同じ登校班にいた記憶がいまだに鮮明であり、そして何よりも自分より若い子の死が心に響いてくる。

幸いにして私は高校生の頃に友人の死に直面したことがない。大学生の時にも経験がないわけだが、就職して2年目の頃に私は友人の死をニュースで知った。
大学を卒業して就職の道を選んだ私と違い、成績優秀で実直かつ努力家の彼は当然の如く大学院に進んだ。皆が認める勤勉家だった彼が、卒業旅行先の台湾で落石事故に遭遇し、朝のニュースで報道されたのだ。私は当時同姓同名の人物かと思ったが彼のことだった。

その時初めて同世代の近い死を知り、そして世の無情さを思い知ったのだ。何か偉業を成し遂げるほどの才能を持った人物が、いつも勉強ばかりしていた友人がほとんどしない旅行、しかも卒業旅行でそんな目に遭う、この世の不条理さに茫然とした覚えがある。
本書の津田真理子の死も主人公の私にとって同じように思ったことだろう。特に人格者である津田真理子の造形が私のその亡くなった友人とダブらせるかのようだった。

更に誰もが経験したであろう高校生活。だからこそ事件が起きた高校の描写は私を含めて読者をその時代へと引き戻してくれることだろう。特にテーマが文化祭と云うのが憎らしい。あの特別な時間は今なお記憶に鮮明に残っている。

進学校に進んだ私は高校時代は登下校に1時間以上費やしたため、敢えて部活動をすることを選ばなかった。従っていわゆる帰宅部の一員だったわけで、その日の就業が終れば友人たちと家路に帰っていた。
しかし私の通っていた高校は文化祭やら体育祭などのイベントに力を入れる校風であり、帰宅部であった私もその頃になると必然的に学校に居残って皆と一緒に準備に明け暮れていた。その時のもうすでに暗くなっているのに、各教室にはまだ明りが点いて、一生懸命に何かを作っている、もしくは息抜きに歓談している、あの独特の風景を未だに思い出す。あの雰囲気は何ものにも代え難い思い出だ。
本書はそんな雰囲気を纏って私の心に飛び込んでくるから、なんとも云えないノスタルジイに浸ってしまうのである。

本書に描かれる高校生活は何とも瑞々しく、読んでいる最中に何度も自身の思い出に浸らせられた。それは良き思い出もあれば、後悔を強いる悪い思い出もある。読中、何度自分のやらかしたことを思い出し、読む目を止めたことか。

高校時代に大学時代、それぞれの時代が本書を読むことでシンクロし、とても冷静に読めなかった。理系の工業大学に進んだ私は主人公の「私」ほど本を読んでたわけではないが、専攻した学問を突き詰めるという意味ではやはり似ている何かを感じた。

そんな「私」を通じて得られる色んな含蓄はもはや北村作品の定番と云っていいだろう。

子供の頃の読書のいかに楽しかったことか。知識がない時代に読む本はいつも発見の毎日だったこと。

誰かの話を聞いてさも自分が体験したかのように錯覚し、誰かの評判を鵜呑みにしてそれを食べ、その通りだと盲目的に信じることを耳食ということ。これは何とも頭の痛い話だった。

そして文学部専攻の彼女の毎日はいつも本があり、いつも彼女は本を読む。
確かに普通に生活して日々を過ごすのもまた生き方の1つだろう。しかし本書の主人公の「私」のように自分の興味の赴くまま、文学の世界に身を委ね、そして時に喜び、感心し、そして時に思いもよらなかった価値観に怯えるのもまた生き方だ。
同じ時間を過ごすのにこの差は非常に大きいと思う。そんな読書生活の日々で得られる日常のきらめきが詰まっているのも本書の最たる特徴だ。

さて日常の謎系のミステリにおいて初めて人の死が扱われたわけだが、だからと云ってそのスタンスはいつもと変わらない。

探偵役を務めながらも「私」はごく普通の女子大学生だ。だから探偵や警察のように事故の起きた現場、つまり津田真理子が墜落した場所へは怖くて行きたいと思わないし、身分を偽って学校を訪れ、ずかずかと人の心のテリトリーに分け入るわけでなく、あくまで自然体に接する。彼女は昔から知っている子の先輩として憔悴する和泉利恵を助けたいがために行動しているに過ぎないのだ。

そんな本書の焦点となる津田真理子の死。

いきなり彼女の死で始まる本書は死後彼女を知る人物から彼女の為人を聴くことで彼女のキャラクターが形成される。それは包容力を持ちながらも芯の強さを持った女子高生の姿だった。

まだセカイが狭い高校生活の中で、自分が生きている時間が長い人生の中の一片に過ぎないことを自覚し、その時その時を生きること、そしてどんなに辛いことに直面してもそれは月日が経てば思い出として「いつかきっと」消化されること、そんな達観した視座の持ち主、それが津田真理子の肖像だ。

しかし運命はそんな彼女にいつか来る将来をもたらさなかった。彼女が信じた「いつかきっと」は来なかった。

高校生は忙しい。勉強に部活、そして友達関係。小学校、中学校に比べて断トツに生徒数が多く、従って人間関係も広がる世界である。
だから彼ら彼女らはその日を、そして目前にある中間・期末試験を乗り切るのに精一杯だ。少なくとも私はそうだった。

進学校に進んだ私はきたる試験で絶対に取りこぼさないよう、更に上に、最低でも現状維持を目指して常に勉強をしていた。最もきつかったのが高校生活であったが、同時に最も楽しく、印象に残っているのもまた高校時代である。なぜなら彼ら彼女たちはそんな見えない明日を生きる同志だったからだ。
そんな近視眼的な高校生においてこの津田真理子の視座は特殊と云えよう。

彼女はいつか来る遠い未来を信じたが、それ以外の高校生は今を、そして明日をどうするかのみに生きた人々だ。そんな時間軸の違いがこの悲劇を生み、そして彼女はその犠牲者となったのだ。

秋は夏に青く茂った葉が色褪せ、散り行く季節である。そして木々たちは厳しい冬を迎える。
しかしそんな秋にも咲く花はある。秋桜しかり、そして秋海棠もまた。

本書の題名となっている秋の花とは秋海棠を指す。その別名は断腸花と何とも通俗的な感じだが、人を思って泣く涙が落ちて咲く花と最後に円紫師匠から教えられる。
津田家の秋海棠は親友の和泉理恵の涙を糧にして美しく咲くことだろう。それが既にこの世を絶った津田真理子の意志であるかのように。

秋海棠の花言葉を調べてみた。
片想い、親切、丁寧、可憐な人、繊細、恋の悩みと色々並ぶ中、最後にこうあった。

未熟。

高校生とは身体は大人に変化しながらも心はまだ大人と子供の狭間を行き交う頃だ。大人びた考えと仕草を備えながら、一方で大人になることを拒絶している、そんな不安定で未熟な人々。

津田真理子と和泉利恵。

亡くなった津田真理子はいつか来る明日を信じて、今の苦しみを乗り越えられる強い女子高生だった。そしてその力を和泉理恵にも分け与え、彼女たちの直面する困難を、先が見えない未来を一緒に克服しようとする、女神のような子。

一方和泉利恵は明るい性格だが、脆さを持ち、誰かの支えを必要としている子。彼女にとって津田真理子は親友であり、そして心の大きな支えだった。

ただ彼女たちはまだあまりにも若すぎた。若すぎるゆえに先生たちに怯え、そして若すぎるゆえにまだ子供だった。そんな幼さが起こした過ちは取り返しのつかない物になってしまった。

若くして親友を亡くす、和泉利恵の将来は「その日」の前とこれからとは異なるだろう。

我々は大人になる過程で色んなことを味わう。
楽しい事、辛い事、孤独、哀しみ。

日常の謎を扱いながらもそんな日常に潜む些細な齟齬から生じる悪意を浮かび上がらせ、あくまで優しさのみで終わらないこのシリーズの、人生に対する冷ややかな視線を感じた。
例えば思わず「私」が出くわす中学の時の同級生のバイクの後ろに乗ったことを正ちゃんに話した際に、正ちゃんがその無防備さを非難し、どこまでも悪い解釈をして無邪気な私を問い詰めるシーン。普通に見れば中学の頃の同級生の成長と、既に大人の男と女になった2人がぎこちないながらも交流する温かなシーンでさえ、疑ってみれば実に冷ややかな物へと変貌することを示唆している、印象的なシーンだ。
そんなことが本当に起きないとは限らない世の中になってしまったことの作者の嘆きとも取れるこのシーンは単純にこの世は優しさだけでは成り立たないことを突き付けているかのようにも思える。

そんな人の心の脆さを嘆きながらも、やはり最後は人の善意を信じて、いつか会う良き人が自分の生まれた場所を実に素敵で美しいと褒めてくれることを信じて生きていいのだと円紫師匠は私に伝える。

最後に和泉利恵が眠りに就いたことを津田真理子の母から告げられて物語は終わる。少女はようやく苦しみから解放され、眠りに就いたのだ。
彼女にどんな将来が待っているかは解らないが、目が覚めた後の世界は、決してあの頃には戻れない世界だろうけれどもきっとその前よりもいいはずだ。津田真理子ならばそう云うに違いない。

この作品は是非とも高校生に読んでほしい。貴方たちの世界はまだまだ小さく、そして未来は無限に広がっていること、そして「生きる」とはどういうことかを知ってほしい。

若くして亡くなった津田真理子は明日を無くしただけだったのか?彼女が生きた証はあるのか?という問いに対する答えがここに書いてある。

ただ生きると云うだけでその人の言葉や表情、仕草が心に残るのだ、と。

そしてそれは真実だ。私には前述の夭折した友人のことが今でも記憶に鮮明に残っている。

だから精一杯生きて青春を、人生を謳歌してほしい。苦いけれど哀しいけれど、本書は高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語だ。


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秋の花 (創元推理文庫)
北村薫秋の花 についてのレビュー
No.190:
(10pt)

堂々たる新ボッシュシリーズの幕開け

ハリー・ボッシュシリーズ9作目はボッシュがハリウッド署を、刑事を辞めて私立探偵になった初めての事件。
ボッシュ自身の過去の事件に決着をつけた後の『トランク・ミュージック』がシリーズ第2期とすれば、本書はボッシュシリーズ第3期の始まりの巻だと云えるだろう。

そして本書はボッシュの一人称叙述で語られる。つまりこれはボッシュが私立探偵となったことでこのシリーズが今までの警察小説ではなく、私立探偵小説となったことを宣言するために意図的にコナリーが選択したことだろう。

さて登場人物紹介を見て思ったのは、やたらと「元~」と付く人物が多いことだ。
まず主人公のボッシュからして元ハリウッド署刑事だし、キズミン・ライダーは元相棒、エレノア・ウィッシュは元妻であり、さらにボッシュが捜査を始めた自身の関わったお蔵入り事件の1つ、アンジェラ・ベントン殺害事件の当時の捜査官ロートン・クロスも強盗事件に遭って全身不随の車椅子生活を強いられている元刑事である。

かつて北村次郎氏が述べたように、ボッシュの物語とは過去と対峙する物語である。デビュー作の『ナイトホークス』でヴェトナム戦争時代の過去と対峙し、その後もハリウッド署へ左遷させられることになったドールメイカー事件、そして自身の母親を殺害した事件と過去へ過去へと突き進む。
その後『トランク・ミュージック』から始まる第2期では現在進行形の事件を扱うが、刑事を辞職する『シティ・オブ・ボーンズ』では20年前に起きた虐待を受けた少年の死の真相を探り、そして第3期の始まりとなる本書では再び自分の刑事時代の未解決事件という過去の事件と対峙する。

その過去の事件とは4年前の1999年に起きた映画会社女性社員アンジェラ・ベントン殺害事件。この僅か3日後に映画の撮影現場に持ち込まれた200万ドル強奪事件が起き、お蔵入りした事件を別の観点から調べようとこの事件についても調べていくうちに3年前のFBI女性捜査官失踪事件に行き当たる。
しかしなぜかお蔵入りしたアンジェラの事件は現在積極的に捜査中であると元部下のキズミン・ライダーから警告を受け、そしてまたFBI女性捜査官事件にも厳重な戒厳令が敷かれているようで、刑事を辞め、一介の私立探偵となったボッシュはロス市警、FBIから圧力を掛けられ、捜査を幾度となく妨害される。

ハリウッド署の刑事という鎧を自ら剥いだボッシュはその鎧が自分にとって拠り所であり、いかに護られていたかを痛感する。そしてかつては部下であり、チームの一員だったキズミンはボッシュの異動する予定となっていたロス市警強盗殺人課から異動し、市警本部長室とキャリアの道を歩んでいる。そしてかつてのアーヴィングのように彼に圧力を掛ける立場にいる。

そして刑事を辞めたボッシュの物語であるせいか、今までのシリーズとは異なり、様々な引退した警官・刑事の生き様が描かれる。

まずはボッシュにアンジェラ・ベントン事件の協力をするロートン・クロスのその後の生活が最も色濃い。
仕事中に見舞われた強盗事件で負った傷が元で全身不随の身となり一生車椅子の生活を強いられることになった彼は、テレビを見ることだけが日常となり、もはやこれは生きているとは云えないと折に触れ、ボッシュに零す。そして自分は妻から虐待を受けていると嘆き、その妻ダニーは献身的に夫に尽くしながらも日々の介護で疲弊し、しかも夫の被害妄想に更に苦労を募らせている。かつての美貌を残しながら訪れるボッシュを訝しげに睨む彼女の笑顔をボッシュは見たことがない。

またボッシュが再捜査を始めたアンジェラ・ベントン殺害事件は担当していた刑事2人を1人は死亡し、1人は全身不随の車椅子生活を強いられるという事態になったことから他の刑事たちが関わりの持ちたくない事件になる。それは刑事たちが縁起を担ぐ傾向にあるからだ。

またロス市警の警官は引退後は大半がロスを去り、アイダホ州で田舎暮らしを愉しみ、もしくはラスヴェガスでカジノのパートタイムの警備仕事をする者や年金でメキシコで家を買い、悠々自適の生活を送り、引退後に留まるにはロスは逆にかつての刑事時代の苦い思い出が多すぎる場所であることが綴られる。
また一方で引退してからも刑事時代のヒリヒリした日常が忘れられない者もいる。ボッシュはそんな縁故を伝手にして自分の捜査を続けていく。

また何よりも本書では刑事を辞職したボッシュが殊更にエレノア・ウィッシュのことを想うシーンが多いことに気付かされる。彼の生涯の“一発の銃弾”、つまり心に刻まれ、そして傷を残した銃弾こそがエレノアであることを自覚しながらも、未だ離婚届を出していない、法的には夫婦である2人なのに、本書では既にウィッシュのことをボッシュは元妻と呼び、エレノアとは呼ばず、「かつて妻とは」とか「元妻」といった呼称が多くなる。そして彼女を1月前にラスヴェガスで見かけたことをFBI捜査官のロイ・リンデルから知らされる。

もはや刑事でもないボッシュは自由の身でいつでも彼女の許へと飛んでいけるのに、拒まれる恐怖に怯え、それが出来ないでいる。

一方でボッシュは往年のジャズの名プレイヤー、クェンティン・マッキンジーがいる老人ホームに週二回通ってはサックスの演奏のレッスンと話し相手をするようになっているのだが、同じくそこに母親を入居させているバツイチ40代の女性と食事をする機会を設けて、何か思わせぶりな素振りを見せたりもする。
更には夜中にクロス宅を訪れたボッシュを妻ダニーが思わせぶりに誘ったりする素振りがあったりとボッシュは本書でも女性に対して何かと縁がある。52歳にしてなお女性を惹きつける魅力がボッシュにはあるようだ。

そしてとうとうボッシュはエレノアと再会する。彼はFBIのマークを外すため、エレノアの許を訪れ、彼のカードをわざと使わせ、ラスヴェガスにいるように仕向けるよう協力を求める。その時のボッシュはエレノアの仕草や笑顔1つ1つにときめいたり、変えた髪型に惚れ直したりとまるで初々しい恋人のように述懐する。

しかし一方でどうも彼女には他の誰かがいることを察する。読者の側にもエレノアにとってボッシュはかつての夫であり、今では友達以上恋人未満の存在であると片を付けているように思え、一方のボッシュは一発の銃弾である彼女に踏ん切りが付けられず、彼女の乗っている車のナンバープレートの所有者を、目的を明かさずにリンデルに調査を依頼したりとなんとも未練たらたらのどうしようもなさを見せるのである。

本書の冒頭は次の一節で始まる。

心に刻まれたものは決して消えない。

これはエレノア・ウィッシュがボッシュに呟いた言葉である。彼の生涯の“一発の銃弾”がエレノアだったように、他にも“一発の銃弾”を抱える人物が登場する。

それはFBIの囮捜査官ロイ・リンデルだ。彼こそは当時失踪した女性捜査官マーサ・ゲスラーの捜査の担当者であり、恋人でもあったのだ。彼の心に刻まれたものとはゲスラーその人だった。つまり本書は2人の男が消えない“一発の銃弾”を再度得ようとする物語でもある。

上で本書はボッシュシリーズ第3期の幕開けと書いたが、それぞれのシリーズの幕開けには常にこのエレノア・ウィッシュが登場する。デビュー作は無論のこと、『トランク・ミュージック』はエレノア再会の作品で、結婚を決意する物語。そして本書は別れた妻と再会する物語だ。
つまりボッシュの人生の節目にエレノアは綱に現れる。いやボッシュがエレノアを見つけ出すと云った方が正確か。何にせよエレノア・ウィッシュはこのシリーズの“運命の女”だ。

今回の原題“Lost Light”は前作『シティ・オブ・ボーンズ』で登場した言葉だ。“迷い光―個人的には“迷い灯”の方がしっくりくると思うのだが―”と訳されたその言葉はボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵士として暗いトンネルの中にずっと潜んでいた時に見た光のことを指す。つまりそれは埋もれた過去の未解決事件という暗闇に新たな光が指すことを意味しているのだろうが、今回は邦題の方に軍配を挙げたい。

ルイ・アームストロングのあまりに有名な曲“What A Wonderful World”の一節“Dark And Sacred Night”から採られているが、この曲が本書では実に有効的に、いやそんな渇いた表現はよそう、実に胸を打つシーンで使われているからだ。

ボッシュの捜査がFBIの妨害に遭い、その協力者として情報提供者の元警官で捜査中に遭った銃撃事件によって全身不随の車椅子生活を強いられているロートン・クロスのところにFBI捜査官が押し入り、その高圧的で半ば拷問に似た捜査によって元刑事の尊厳を傷つけられ、涙に暮れるシーンがある。元刑事の彼は流す涙を誰にも見られたくないが全身不随のため、拭うことすらできず、部屋に入ってきた妻が彼の姿を見て、バスローブの前をはだけ、乳房を彼の顔に引き寄せ、ひたすら抱きしめながら、この有名な歌を口ずさむのだ。

動けぬ身体と医者から止められた大好きな酒を止められ、日がな一日テレビを観て過ごすしかない毎日を悲嘆する夫ロートンと、献身的な介護をしながらも夫の非難を浴び、それに耐えつつも、時折殺意めいたものを抱く妻ダニー。
2人が抱える明日をも解らぬ絶望的な毎日がお互いを反目させているように見せながらも、その実、心の底では2人は支え合い、そして求め合っていることを示す、実に胸を打つシーンだ。私は思わず涙を浮かべてしまった。

絶望の中にも聖なる夜はある。暗いながらもそこには希望がある。そんなことを想わせる、実にいい邦題である。

さて紆余曲折を経てボッシュはようやく犯人へと辿り着く。

余りに安く軽んじられた若い女性の死。そして反目しながらもお互いを必要としている愛情の深さを見せたクロス夫妻の絆の美しさも夫ロートンの愚かな過ちで一転してしまう。
夫婦の絆に隠された醜さを見せつけられながらもこの物語が実に心地よい読後感を得られるのはやはりエレノアとボッシュの関係の回復が最後に見られるからだ。

やはり本書は堂々たる新しいボッシュシリーズの幕開けだった。
原題“Lost Light”は前述したように暗いトンネルの中で見える“迷い光”という意味だが、ボッシュが見つけた“迷い光”は刑事を辞めたボッシュが明日をも知れぬ暗闇の中で見出した光を指すのだろう。

しかし毎度のことながらこのシリーズのストーリーの緻密さには恐れ入る。物語に散りばめられたエピソードが有機的に真相に至るピースとなって当て嵌まっていくのだ。
刑事の使用する車が特殊仕様の大型の燃料タンクが備え付けられている件など、単なる蘊蓄かと思っていたら、これがある些細な違和感を解き明かすカギとなるのだから畏れ入る。

いつもながら勝手気まま、傍若無人ぶりな捜査で周囲を傷つけ、そして仲間を得ては失っていくボッシュが愛し、護るべき存在を新たに得たことでどんな変化が訪れるのか。

私の心には既にボッシュシリーズが深く刻まれている。そしてそれは当分消えそうにない、エレノアが云ったように。


▼以下、ネタバレ感想
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暗く聖なる夜(下) (講談社文庫)
マイクル・コナリー暗く聖なる夜 についてのレビュー
No.189:
(9pt)

毒を以て毒を制しても、毒は毒

『犬の力』、『ザ・カルテル』で犯罪のどす黒さを存分に描いたウィンズロウが次に手掛けたのはニューヨーク市警特捜部、通称“ダ・フォース”と呼ばれる荒くれ者どもが顔を連ねる市警のトップ中のトップの野郎たちの物語。つまりは昔からある悪漢警察物であるが、ウィンズロウが描く毒を以て毒を制す特捜部“ダ・フォース”には腐った現実を直視させるリアルがある。

従って通常の警察小説とは異なり、文体や雰囲気はハードボイルド然としておらず、オフビートなクライム小説の様相を呈している。
音楽に例えるなら、同じ警察を描いているマイクル・コナリーがジャズの抒情性を感じさせるとすれば、ウィンズロウの本書はどんどん速さを増すアップテンポの、畳み掛けるような怒りにも似た激しいヒップホップのビートを感じさせる。だから原題“The Force”をそのまま日本語にした邦題が『“ザ”・フォース』でなく、『“ダ”・フォース』なのだ。

そう思っていたら、やはり主役のマローンはジャズよりもラップを、ヒップホップを好む男だと描かれる。彼の生きている世界には抒情よりも本音をぶつけてくる攻撃的な音楽が似合うからだ。

ノース・マンハッタンで王として君臨する“ダ・フォース”の面々。その王たちを仕切る王の中の王デニー・マローンは、悪人には容赦しない暴力を平気で振るうが弱者にはとことん優しい男で、上層部の弱みや市長に関しても脅迫の材料を持った、“顔役”である。9・11のツインタワー崩壊時に消防士だった弟リアムを亡くしている。

その彼の親友で“ダ・フォース”の一員であるフィル・ルッソは幼い頃から兄弟のように共に生きてきた男だ。お互いに人生の節目には相談し合い、そして支え合った魂の友。リアムが亡くなった時も真っ先に崩れ行くツインタワーに駆け付けて捜し出そうとした男。死に目に遭ってもマローンにはルッソが、ルッソにはマローンがいるから死なずに済んだ。そしてお互いのためなら命を惜しまずに捨てることが出来る、強い絆で結ばれている。

ビッグ・モンティことビル・モンタギューもデニーとフィルが絶大の信頼を置く、巨躯の黒人刑事だ明晰な頭脳を持つ、大学教授然としたエリート風の服装を好む男。しかしプライヴェートでは息子と妻を愛する良き家庭人だ。

もう1人のメンバー、ビリー・オーことビリー・オニールはチーム最年少だが、動きは敏捷でガッツもある恐れ知らずの男。しかし犬が大好きだった彼は麻薬ディーラーへの手入れの際、犬がいたためばかりにピットブルを殺すことが出来ず、傷だらけの顔にヘロインを浴びてそのまま殉職した男。彼には妊娠した未婚の妻がおり、マローン達が妻と一緒に面倒を見ている。

そんな彼らは決してクリーンではない。先の事件で大きな話題となったドミニカ人麻薬組織の親玉ディエゴ・べニーナから押収した100キロものヘロインと駄賃ついでにせしめた300万ドルを等分して着服している。彼らにとって何かあった時の担保として隠し持つようにしたのだ。

更に彼らは賄賂は受け取らないが、ヤクの売人の上前をはねたりはする。我々にとって悪人からお金をもらっていることには変わりはないが、彼らにとっては賄賂を貰うことは下請けになることで、上前をはねることは支配する側であることの違いがある。

前述したようにデニー・マローン率いる“ダ・フォース”は社会の毒を浄化するための毒だ。必要悪とも云える。
濃度の高い酸は濃度の高いアルカリでないと中和できない。それはどちらも人体にとって毒となる。それが彼ら“ダ・フォース”だ。

彼らには法を超えた法がある。単に悪人を逮捕するだけではダメなのだ。
彼らが相手にしている悪は道徳的観念に欠けた正真正銘のワルばかりだ。無学でヤクを売りさばくことでしか、人を安い金で殺すことでしか生活できないチンピラから、商売敵、無能な部下、いや有能すぎて自分の地位を虎視眈々と狙う部下を疑い、殺すことでしか生きていけない無法のディーラーたちこそが彼らの相手。そんな人の命をクズとしか思わないやつらに道徳は通じない。

だから彼らは逮捕した時に徹底的にボコボコにする。顔の形が変形するほどに。そうしないと舐められるからだ。なんだ、逮捕されてもこの程度か、と。全然大したことないな、と。

“ダ・フォース”の面々が生きる世界は力こそが正義であり、そして治安のみならず自分の身を護る鎧なのだ。そんな世界をウィンズロウは色々なエピソードを交え、語っていく。

だからまたこの“ダ・フォース”の仲間たちは警察バッジを持ったマフィアのように描かれる。“ザ・カルテル”で描かれた麻薬カルテルファミリーたちを語る雰囲気と彼らのそれはほとんど同義だ。
しかし唯一違うのは彼らがそんな力で制する正義を誇示しながらも、一方で悪のために亡くなった人々を哀しみ、そして正義を守るための暴力がマスコミに槍玉にあげられないか、細心の注意を払っているところだ。自分の法律、流儀に従い、街を守る彼らを街の住民たちは褒め称えるが、その方法が過剰すぎると上層部やマスコミ、政府のお偉い方達は眉を潜め、しっぽを掴もうとする。FBIは警察の不法な取り締まりに対して目を光らせ、いつでも手ぐすね引いて挙げようと狙っている。

マフィア、麻薬ディーラーといった外部の敵と、上層部、マスコミ、FBIと内部の敵。
“ダ・フォース”は無敵に見えて実はとんでもない敵と常に戦っている。

『ザ・カルテル』の時も衝撃を受けたが、本書でも冒頭で5ページに亘って警察官の名前が連ねられている。それはウィンズロウが本書を執筆中に亡くなった警察官の名前である。
これほどの警官が命を落とすアメリカ。アメリカでは警察官になることは戦争に行く兵士同様、いつ死ぬか解らない命を賭けた職業であることがまざまざと見せつけられる。

それを裏付けるかの如く、本書には実に荒んだ現実が次々と述べられる。

コナリーのハリー・ボッシュシリーズでも取り上げられた黒人の不当逮捕と過剰暴力を振るった警官が無罪放免になったことで、街中が警官の敵になったこと。440人もの警官が殺害され、しかもそれには9・11で犠牲になった警官の数は含まれていない。

警察官は被害者に同情し、犯人を憎む。しかし憎しみすぎるとほとんど犯人と変わらなくなる。
やがて2つに分かれる。
被害者を守れなかった自分を責め苛むか、被害者に対して憎悪するようになるか。
無防備すぎる、弱すぎる、みなクソ野郎ばかりだ…。

肥大化する麻薬ビジネス撲滅のために麻薬ディーラーに潜伏する囮捜査官たちは次第に自身がヤクに溺れるようになる。

ジュリアーニ市長によるニューヨーク浄化政策により、マフィアが一掃されそうになった時に起きた9・11事件。その瓦礫撤去工事に絡んでいたマフィアが法外な費用を吹っかけ、それを資金にしてマフィアが復活する皮肉。

そんな国だからこそ、警察もクリーンなだけでは太刀打ちできないのだと、安全にはコストがかかるのだとマローンは述べる。それを裏付けるのが冒頭の犠牲になった実際の警察官の名前たちだ。

しかし毒はどんな理由であっても毒に過ぎない。

これは王の凋落の物語。
しかしその王は汚れた血と金でその地位を築き、恐怖で支配していただけの王だった。従ってその恐怖に亀裂が入った時、堅牢と思われた牙城は脆くも崩れ去る。

デニー・マローン達は確かに正義の側の人間。彼が取り締まっていたのは通常の遣り方では捕まえることの出来ない者ども。
しかし上にも書いたように、ただ捉え方が違うだけで実質的にはやっていることは同じ。同じ穴の狢だったのだ。

それからの展開は非常に辛い。最高の、そして最強のチーム“ダ・フォース”は分解をし始める。

昨日の友は明日の敵。友情は厚ければ厚いほど、裏切られた時の失望と怒りもまた深い。
作用反作用の法則。命を預けられるほどの信頼で結ばれた仲間の絆は深く、そのために絆が剥がれる時、お互いの命を蝕むほどに根深く、そして傷つけるのだ。

やはり悪い事はできないものだと思いながらも、それまでどうにか切り抜け、ネズミになりながらも矜持を失わないように踏ん張るマローンを応援する自分がいた。
そして彼が自分の悪行を悟って初めて彼もまた悪人である、毒であったことを知らされた。つまりはそれまで彼らの悪行を正当化するほどにこのデニー・マローン初め、フィル・ルッソ、ビッグ・モンティ、デイヴ・レヴィンの面々が魅力的だったということだ。

いやそれだけではない。

汚いことをやりながらもマローン達は自分たちの正義を行ったことだ。マローンはこの町が大好きで、人を愛し、空気を、匂いを愛したのだ。だからこそどんなことをしてでも町の平和を護ってやる、それが王の務めだと思っていたからだ。

後悔先絶たず。そんなことはいつも自分の心を隙間を突かれて堕ちていく人間が最後に行き着く凡百の後悔の念に過ぎず、謂わば単なる言い訳である。
しかしそんな弱さこそがまた人間なのだ。

作中、マローンの恋人クローデットがこんなことを呟く。

「人生がわたしたちを殺そうとしている」

生きると云うことは苦しく、厳しいものだ。いっそ死ねたらどんなに楽か。
本書では登場人物たちの生死によってその後の運命を見事に分っている。

悪行の報いと云ったらそれまでだろう。自分たちだけの正義を貫き、まさに生死の狭間に生きている警察官という仕事。そんな彼らに対する待遇が恵まれていないからこそ、このような負の連鎖に陥るのだ。

悪い事をしている奴らが使いきれないほどの金を持っており、一方それを捕まえる側は子供の養育費でさえヒイヒイ云いながら賄っている、この割の合わなさ。

そんな現実が良くならない限り、この“ダ・フォース”達は決してなくならないのだ。

それでも自分の正義を信じて生きていく彼らはまさに人生の殉教者。

いや警察官だけではなく、我々にも当て嵌まるこの言葉。
我々は生きているのか生かされているのか。今自分の足元を見て、ふとそんなことを思った。

人種の壁、どんどん町に蔓延る大量の麻薬、捕まえても捕まえても次々と出てくる大物麻薬ディーラーたち、そしてディーラー間の抗争。

ニューヨークの、いやアメリカの平和は少しでも衝撃を与えれば壊れてしまう薄氷の治安とバランスの上で成り立っている。そんな現代の深い絶望を感じさせる異色の警察小説だった。

そして私の中に流れる音楽がヒップホップからいつしか胸に染み入るバラードへと変わっていたことに気付いた。


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ダ・フォース 上 (ハーパーBOOKS)
ドン・ウィンズロウダ・フォース についてのレビュー
No.188:
(10pt)

闇から光へ出た男と闇を見つめ続ける男

ハリー・ボッシュシリーズ7作目の本書の献辞にはこう書かれている。

“(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた”

つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。
またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。

しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。

今回扱われる事件は大きく分けて2つ。

1つはボッシュが法廷にその事件の担当刑事として出廷している映画監督デイヴィッド・ストーリーによる女優殺し容疑の事件。

もう1つはテリー・マッケイレブがロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンに依頼されて調査を進めることになる家屋塗装工エドワード・ガン殺害事件だ。

まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。

読者は果たしてこれはボッシュシリーズの7作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。

なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。

とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。

探偵役が事件の容疑者となるという話は実は昔からよくある手法で、それは主人公の視点で捜査をしている過程において、主人公自らが窮地に陥っていることに気付く構成である。しかしコナリーはそれをノンシリーズに登場した有能な元FBI心理分析官からの視点で捜査して容疑者を主人公へ導くという全く新しい手法を編み出した。
しかも主人公のボッシュは自分が容疑者として見られていることを知らないのだ。もしかしたら他の過去の作品群に同様の手法を用いた作品があるのかもしれないが、私は寡聞にして知らない。
そして知らないことが私にこのシリーズがミステリとして更なる飛躍を遂げたことを感じさせてくれた。なんと幸運なことだろうか。

しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。
今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。

私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。

更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。

更に本書において特に強調されるのは闇。
人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。
そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が7作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。
シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。

これは一方で読者はみすみすこのシリーズを読み飛ばすことが出来ないことを意味している。注意して読まないとこの辺のシリーズの醍醐味が味わえない。
それはつまり裏を返せば、ずっぽりシリーズに嵌ればあらゆる仕掛けをコナリーが施していることに気付き、実に愉しめるシリーズになっていることを意味している。

例えば今回でもノンシリーズで主役を務めた2人の他に、『エンジェル・フライト』でボッシュの捜査の支援を行ったジャニス・ラングワイザーがデイヴィッド・ストーリーの殺人容疑の裁判で次席検事補という立場ながら実質的に検事側の代表として登場し、絶妙な采配を振るっている。

その他検事のロジャー・クレッツラーと2人の上司である主席検事補のアリス・ショート。

昔、メキシコ・マフィアの事件を扱った際に有罪判決に腹を立てたマフィアの一味が暴動を起こそうとしたのを懐から取り出した拳銃で天井に一発撃ち込んで静まらせたとの逸話から“シューティング・ハウトン”という異名を持つハウトン判事に今回デイヴィッド・ストーリーの弁護を請け負った、その名前から“言い逃れ(リーズン)”の綽名を持つジョン・リーズン・フォウクスなども今後展開するコナリーによる法定サスペンス『リンカーン弁護士』シリーズで再会する可能性はあるのでここに記録を留めておこう。

また昔ボッシュが刑事ドラマのモデルになった時に知り合い、その後も警察捜査の専門的アドバイザーとしてボッシュが付き合っている映画制作会社のアルバート・セドも頭に留めておかねばならない人物だ。

テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュの2人を繋ぎ留める楔として今回15~16世紀に活動した、今なお謎とされている画家ヒエロニムス・ボッシュの絵画が扱われる。そう、ハリー・ボッシュの本名の基となった実在の画家である。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと同年代に活動しながら、希望と人間の価値観、精神性の礼讃とは真逆の、世界の終末と地獄と人間の罪という闇を描いてきた作家。題名の『夜より暗き闇』はこの画家ボッシュが見つめ、そして作品に遺した人間の闇を指している。
更にコナリーはこの謎めいた画家について筆を割き、各作品に悪魔のモチーフとして描かれているフクロウについて詳しく述べる。事件現場に置かれていたフクロウ像とボッシュの暗闇が交差する、非常に重要なパートである。特に本書で言及される『最後の審判』と代表作とされる『快楽の園』は本書のそれぞれ上巻、下巻の表紙に使われており、それを参照しながら読めるのは講談社のファインプレイだろう。

敢えて主人公の名をこの特異な画家と同名にしたことがこの8作目でようやく日の目を見る。当初の構想にこのモチーフが頭にあったのかは解らないが、1作目よりエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」という絵画をモチーフに扱っていたほど、絵には造詣があると思えるコナリーのことだから、いつかは用いようと温めていた設定だったに違いない。

また本書では2人が知り合うきっかけとなった過去の事件についても触れられている。

名もなき少女がマルホランド・ドライブのゴミ捨て場に遺体となって発見されたその事件でハリー・ボッシュは当時FBI心理分析官だったテリー・マッケイレブに犯人のプロファイリングを頼んだのだった。そして容疑者を2人に絞り、片方の容疑者宅を2人で訪ねた際に、テリーは家の様子から彼がホンボシであると確信し、その場で逮捕して家宅捜索をしたところ、猿ぐつわを嵌められて監禁されている16歳の少女を救い出すことに成功した。
しかしその犯人は丘の上の名もなき少女の犯行については否定し、両親からの捜索願も出ないその少女にボッシュはスペイン語で“青空”を意味するシエロ・アズールという名を付けた。そしてマッケイレブはその名前を自分の愛娘に付けた。つまりマッケイレブにとってその事件とボッシュのことが忘れ得ぬことであったことを示している。

テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュ。この2人の主役はそれぞれ光と闇を象徴している。

既にFBIを引退し、友人とチャーター船業を営むテリー・マッケイレブにはグラシエラと養子のレイモンド、そしてグラシエラとの間に出来たシエロという愛娘がいる。彼は引退はしたものの、かつて事件の闇を、深淵を覗き、そこから犯人を突き止める、FBI時代の仕事の魅力から逃れられず、当時の有能ぶりからかつて共に事件を捜査した面々から捜査の協力の依頼が来ると断れない。再び自らを人間の闇に投じながらも家族という還る場所がある故、彼はまだ光に留まっている。

一方ハリー・ボッシュは亡くなった売春婦の息子という昏い出自、元ヴェトナム戦争のトンネル兵士という闇の中で生死を潜り抜けてきた経歴ゆえか、どこまでも闇が付きまとう。彼は自身の母親が殺害された事件を解決することで自身が祝福されて生まれたことを知り、更にエレノア・ウィッシュという伴侶も得て一旦は日の当たる場所へ出るが、愛していた妻は去り、再び孤独に事件に身を投じる。
彼はいつも仕事が終わるとバルコニーでビールを片手に闇を見つめる。自分が正しいことをしていると確認するために。ただそこには闇が広がるだけ。

再び闇に向かうことを決意したボッシュの新章。
闇は彼を捕え、取り込むのか?
もしくは彼が云うように犯罪という疫病の只中に身を投じ、自らを疫病の媒介者を退治する者としてそこに生きがいを見出していくのか。
本書はボッシュが犯罪者と紙一重であることを示唆することでまた読者を不安に誘う。

今回闇に沈むボッシュを留まらせたのは皮肉にも当初ボッシュを容疑者と睨んだマッケイレブだった。
現場に置かれたフクロウ像が契機となってボッシュの絵画に行き着き、そこからハリー・ボッシュ=犯人とマッケイレブは連想したのだが、ボッシュ自らによってもう一度事件を見つめ直すことを示唆され、マッケイレブは本命に行き着く。

「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という言葉がある。

これはヘーゲルの『法の哲学』の序文に掲げられた言葉でこれは本来、哲学は今あるか、過ぎ去った時代精神を、後から概念に取りまとめて人に見える形で示す学問であるということを示しているのだが、この言葉は実に的確に本書を象徴しているように思える。

この言葉の梟が智慧の象徴であることを考えれば、それはマッケイレブその人。そして迫りくる黄昏がボッシュ逮捕であれば、窮地に陥ったボッシュを救ったのはマッケイレブだったという意味になる。
つまり闇に飲まれようとしたボッシュを救ったのはマッケイレブだったのだ。

もしくはヒエロニムス・ボッシュの絵に梟が多くモチーフとして使われていることから梟をボッシュと捉えることもできる。黄昏は夕暮れ、つまり夜が来る前、闇が訪れる前を指す。つまり彼は迫りくる闇に呑み込まれる前に飛び立つことが出来たのだ。

さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。
また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。

常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
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夜より暗き闇(下) (講談社文庫)
マイクル・コナリー夜より暗き闇 についてのレビュー
No.187:
(10pt)
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死を覚悟した人の紡ぐ物語はなんと優しく、美しい事か。

いやぁ、痛快、痛快。

刊行当時の1998年ならば私はこれを稲見風ジュール・ヴェルヌ調海洋冒険小説とでも評したろうが、21世紀の今ならばこれは稲見版『ONE PIECE』ではないか!と声を大にして評しよう。

大人の夢と冒険の物語を描いたら右に出る者がいない稲見一良氏が今回選んだ題材は一本芯の通った男が気の置けない仲間たちと共に船で大海原に漕ぎ出す、冒険心溢れる男と女たちの物語だ。

まず導入部から一気に引き込まれる。
ミカン山に腰を据え、スパイグラースで一人美しい船を眺める男、安楽。

その静かな朝の風景とは対照的にけばけばしい色をしたオートバイが停まるバンガロー村に1人の新聞配達の少年がスクーターに乗って現れたかと思いきや、徐に件のオートバイの傍にしゃがみこみ、ほんの数分でエンジンをバイク本体から抜き取って担いで立ち去ろうとする。しかし偶々目が覚めた一味の1人に見つかり、たちまち追跡劇が始まる。

静から動への見事な転換。

そしてまさに族たちに少年が捕まりそうになったところを自前のピックアップ・トラックで、重いエンジンのせいでバランスを崩して倒れて往生している少年を軽々と持ち上げ、救い出し、追ってくる族のバイク1台を軽くあしらってやり過ごす。

冒険活劇の映画のオープニングシーンを見ているかのような鮮やかな幕開けで主人公となる安楽と、彼の許で働くことになる、通称士官候補生の細谷風太との印象的な出逢いが描かれる。もうこのシーンで一気に私はこの物語の虜になってしまった。

さてそんな物語の中心となるシリウス号はスウェーデンの大富豪のプライベート・ヨットとして建造され、その優美な姿から“七つの海の白い女王”と謳われた船。すでに役割を終え、フローティング・ホテルとして常連客や地元の客に慕われていたその船を、再びヨットとして蘇らせて大海原へ乗り出す。
なんと夢のある話ではないか。

その船を率いるのはホテルの支配人“アンラック”ならぬ安楽。オーナーである提督と呼ばれる元海軍少将に不良時代に拾われ、商船高等専門学校に入れられて改悛させられた男。ゴリラのようなガタイの持ち主でベンチプレスを欠かさない怪力の持ち主。しかもどんな輩が来ようと動じない胆力の持ち主でもある。そして自らを18世紀イギリスで名の知られた女王陛下の勇猛な海賊ジョン・<アンラッキー>・シルバーライニングの生まれ変わりと信じている。

彼の航海に協力するのは以下の面々だ。

まずはホテルのソムリエで安楽を慕う忠実な部下でありながらナイフの名手である長谷川。

日本に来て10年にもなるのに片言の日本語でしか喋れないカナダ人のコック、トレーシィ。

スーベニール・ショップ、つまりホテルのお土産売り場の担当をしているハナさんと元高飛び込みの選手だった志津さん。

ホテル・シリウスに長期逗留し、静養生活を続けているアメリカ人の小説家で元医者のジョン・B・ブック氏。

15歳ながら天涯孤独の身で新聞配達とクリーニング屋のアルバイトをしながら、更に社会の害悪である、暴走族たちのバイクを解体しては売りに出して、正義のための戦利品で生計を立てている細谷風太。

その従兄で浜松の自動車会社の製造工場で働いていながら、シリウス号を訪れた途端に気に入り、そのまま居着いてしまった、エンジンやメカに関して天才的な才能を発揮する細谷徹。

自身の捕鯨船が座礁して気を喪っているところを安楽に助けられ、そのままシリウス号の従業員になった、銛打ちの名手で元捕鯨船の船長であり、類稀なる木彫りの才能を持つ清水逸格ことイッカク。

そして徹のアメリカ人の友人で事故で片腕を失った鉄の爪を着けたパイロット、ボブ・エンジェル。

そしてそのガールフレンドでカリフォルニアの大農場主の娘であり、愛くるしい風貌でありながら合気道二段の腕前で格闘技の天才であり、更に盗みの天才であるシャーリィ・オカダ。

そして忘れてならないのは本書の語り手で、常に安楽と共にいるコクマルガラスのチョック。

そう、稲見氏はなんと本書の語り手をこのカラスに託すという、実に珍しい書き方をしている。
私は当初これでは半ば物語が破綻するかと懸念したが、そんなことはなく、カラスの視点は空を飛べるという優位性から視野が広くてむしろ神の視点に近いことに気付かされた。

このような個性的なキャラクターの敵となるのが、冒頭に細谷風太がエンジンを盗み出した暴走族のアパッチと、シリウス号を買収し、見世物にしようと考えている三星商事に、シリウス号に隠されているとされる宝物の在処を示した地図を探すマルタズ・オクトパスなる世界的盗賊団。
この一部リアルと寓話を織り交ぜたような設定の妙味が更に登場人物たちの破天荒さを助長する。

そして『ONE PIECE』がそうであるように、本書も読んでいて実に気持ちがいい。
たった250ページ弱の分量ながら、胸を躍らせて止まない要素がふんだんに盛り込まれ、ひきつけて止まない。私がどれだけのことを本書を読んで感じたかを表すには、本書の倍のページ数は必要だろう。

また本書には運命としか云いようのない、出逢いや偶然の導きが描かれている。
この実に素敵な人々がシリウス号の去就を左右する、まさにその時に一堂に会したことがそうであるように、私もまたヴェルヌを読んでいる今、このような海洋冒険小説を読むという偶然に導かれていることに、読書の奇妙な繋がりをひしひしと感じずにはいられなかった。

しかし物事には全て終わりがある。どんな愉しいひと時にも必ず終わりは訪れる。それはまさに夢のような一時の終わりだ。

最後の一行を読み終わった今、私の心はなんとも云えない堪らない気持ちでいっぱいだ。

まずはこの結末が堪らない。

安楽以下、他のシリウス号の面々が堪らない。
彼らの力に屈せず、どんな苦難にも立ち向かう強い心と、そして何よりも人生を愉しむことを忘れない素晴らしい人々の気持ちよさが堪らないのだ。

そして何よりも、こんな気持ちのいい物語を書いた稲見氏がもう今はいないことが何とも堪らないのだ。

こんな物語を読まされたからには、どうしても大きな喪失感が込み上げてくる。もっと夢を、物語を見させてくれよと、叶わない駄々を訴えたくなる。

死を覚悟した人の紡ぐ物語はなんと優しく、美しい事か。

一方で稲見作品には自身を投影した作中人物が必ず登場する。正直に云って私は氏とは面識がなく、恐らく面識がある方はこの物語の登場人物全てに稲見氏の断片を見つけることだろう。
それを承知で敢えて云うならば、私は稲見氏自身が色濃く出ているのはホテル・シリウスに長期逗留している作家ジョン・B・ブック氏を挙げる。

癌に侵された身体で半ば物語を綴ることを諦め、終の棲家として気に入った美しい船のホテルにて逗留し、ガンロッカーまで備えた彼は、気持ちのいいホテルの生活と周囲の環境、そして気の置けない面々と過ごすうちにみるみる体調を回復し、健筆を再び振るうようになる。
私は彼に稲見氏の強い願望を見た。まだ逝くのは早い、俺には書くべき物語があるのだ、だから俺もブックのように復調してみせる、と。
ブックはまさに稲見氏の姿であり、あるべき姿として描いた理想像だったと考えると、胸に強く迫るものを感じる。

本書を読まれた方の中には恐らく書き込みが足らないと感じる人もいるだろう。現在では250ページ弱の小説などはほとんどなく、薄くても300ページはあるだろうし、この内容であれば少なくとも1.5倍の分量は書けると思うはずだ。

しかしそんな思いは本書のモデルとなったホテル・スカンジナビアとその支配人だった安楽博忠氏による解説を読めば、なぜこの分量だったのかが解るはずだ。
それは癌に身体を蝕まれた稲見氏がどうしても生きている間に書きあげたかったという一念で、とにかく自分の頭にあるストーリーを紙に書き落としたかったからだろう。だからこそ、出来栄えには無念さが残ったとは思うが、それでも書き上げたことこそが一番の滋養になったのではないか。
幸いにしてその後も作品をあと2冊発表してくれている。

そしてモデルとなったホテル・スカンジナビアだが、既にもうホテルとしては経営してなく、2006年にスウェーデンの企業に売却され、整備のために上海のドックに曳航されている途中に浸水して沈没してしまったとのこと。そして安楽氏もまたその後を追うようにその2年後に永眠されたとのことだ。
何と全てが夢の出来事ではなかったかと思われる話である。

題名に掲げられた旗とは、いつか男は旗を掲げて船出すべきだというメッセージの象徴だろう。それはまさに稲見氏自身が実践したことでもある。
癌を患った時、伏せてばかりはいけない、男は心に旗を掲げ、命燃え尽きるまで夢へと漕ぎ出せ。
そう自身を鼓舞している作者の声が聞こえてくるようだ。

残りの稲見作品は2冊。それは私にとって来るべき時に開けるヴィンテージ・ワインのように大切な2冊だ。
だからしばらくはまだ本書の清々しい余韻に浸って、その2冊はまた当分の間、封印しておこう。


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男は旗 (光文社文庫)
稲見一良男は旗 についてのレビュー
No.186:
(10pt)

貴方はその死を受け入れられるだろうか?

私は死を意識したのはそう、中学生の頃だっただろうか。
自宅にいてなぜかふと突然、死を意識し、一人その恐ろしさに身悶えした記憶がある。
どうして人は死ぬのか。死ぬのであれば生きていることは意味がないのではないか。
この世からいなくなるとどうなるのか。
そんな無意味さ、無力感、そして虚無感に見えない死の先の暗黒を想像して一人悩んだ時期があった。

メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しにも訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。

この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。

シカゴから大学付属病院の所長の職を得てメイン州の田舎町に引っ越してきたクリード一家。新しい家は申し分なく、しかも隣人のクランドル老夫妻は好人物で何かと助けてくれ、そしてすぐさま夜中の晩酌を共にするほど親しくなる。おまけに関節炎に悩まされているノーマ夫人の心不全の発作を適切な処置によって一命を取り留めることができ、ますます家長のルイス・クリードとジャド・クランドルの絆は深まるばかり。

そして職場の連中も気のいい連中ばかりでルイスに信頼を置いていると新生活としては順風満帆でこれ以上望むべくもない環境にある中、唯一の懸念は家の裏山に町の子供たちが世話をするペット霊園があることだった。

正直に云って題材は特段珍しいものではない。
引っ越してきたところの奥に山があり、そこにはペットの霊園がある。但しそこはかつてインディアンの種族の1つが埋葬地として使っていた霊的な場所で、そこにペットを埋めると生き返る。そんな矢先、最愛の息子が死に、悲嘆に暮れた父親は息子を取り戻したいがためにそのペット霊園に埋葬する。

典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。
実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。

そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。

読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。それについては後で詳しく述べることにしよう。

さて一口に死と云っても色々ある。

大往生と呼べる自然死。
突然の災禍に見舞われる事故死。
重病に罹って苦しみながら死ぬ病死。
そんな色んな死についてキングは登場人物たちが体験したエピソードで死を語らせる。

主人公のクリード夫妻の妻レーチェルがたった6歳という幼き頃に直面した髄膜炎で亡くなった姉ゼルダの壮絶な死。半ば開かずの間のような部屋に寝たきりで、健常者である妹に対して逆恨みめいた憎悪を見せるモンスターに成り果てた姉の看病で疲弊し、そして最後に舌を喉に巻き込んで窒息死した姉の断末魔を目の当たりにしたために死に対してトラウマを抱える。

ルイスとレーチェルの娘エリーは隣人ジャドに連れられて裏山にあるペット霊園に行ったことで初めて死を意識する。手作りの墓碑に書かれたペットの名前と献辞を見て愛する猫チャーチが神の御許に行くことに強く反発する。
いつかは訪れる死を見つめる時。ジャドはあの霊園こそがラドロウの町の子供たちにテレビや映画で観る死を超越してリアルに感じさせる場であると説く。それはあたかもラドロウに住む子供たちにとっての通過儀礼であるかのように。

しかし一方でエリーは年老いた隣人ジャドの妻ノーマがハロウィンの夜に心不全の発作を起こしてルイスが適切な処置を施して一命を取り留めた時、ノーマの死に対してはいつか訪れるものだと、既定の事実のように受け止める。

更に娘に内緒で死なせた猫のチャーチをミクマク族の埋葬地の不思議な力で蘇らせた時、どこか生前と異なるチャーチを見て、それがいつ死んでも受け入れられると話す。

そしてクリード家をペット霊園に案内した隣人ジャドは子供の頃に飼っていた愛犬を喪った哀しみを知っている。その深い哀しみゆえに彼が犯した過ちもまた。
だからこそ彼は最愛の妻ノーマが亡くなった時に、その運命を受け入れ、あるがままにしたのだ。しかし一度禁忌の扉を開いた者はそれを誰かに教え、協力するようになる。その相手こそがルイス・クリードだった。しかしそれは自然の摂理に逆らった人間の傲慢さゆえの過ち。犯していけないタブーの領域に踏み入った時にさらなる災厄が降りかかる。

しかし最愛の息子を亡くした深い悲しみと喪失感からルイスがペット霊園に埋葬して再生しようとする展開にキングは安直に持って行かない。
ルイスの導き手として、また時には悪魔の囁きを施し、または神のように善意の忠告を行うジャドを介して、昔ラドロウで戦争で亡くなった息子を蘇らせたある男の話をする。それを延々20ページに亘って実におぞましくも恐ろしいエピソードとして語る。それはまさに人ならぬ道に足を踏み入れようとするルイスを留まらせるのに十分なほどの抑止力を持つ話だ。

しかしそれを以てしても禁忌の領域に足を踏み入れるルイスを実に丹念に描く。その心の葛藤の様に多くの筆をキングは費やす。

実際に息子を蘇らせた男が迎えた不幸。実際に甦った愛猫の変わり様。失敗することが目に見えているのにルイスはとうとう息子ゲージの再生に取り組む。
今度は上手く行くのではないか。先人が失敗したのは時間が経ち過ぎていたからだ。
猫のチャーチは確かに以前とは変わってしまったが、我慢できないほどではない。確かに蘇った動物たちは以前とは少し違う。少しばかりバカになり、少しばかり愚鈍になり、そして少しばかり死んだように見える。
しかしそれが何だと云うのだ。たとえ息子がそんな風になっても、知的障害者を育てると思えば問題ないではないか。
問題は息子がいないことだ。生きてさえいれば困難も乗り越えられる。もし失敗したら、その場で撃ち殺せばいい。

情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。
判っているけどやめられないのだ。
この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。

つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。

それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。

デビュー作『キャリー』の悲劇はキャリーの母親が狂信的な人物だったことが彼女の生い立ちに影響を及ぼしていた。
『シャイニング』は癇癪持ちだが、それでも大好きな父親が怨霊に憑りつかれて変貌する恐怖を描いていた。
『ファイアスターター』は図らずも特赦な能力を持つことになった親子の逃走の日々の中、追われる者の恐怖の中でも強く持ち続ける親子の絆を描き、『クージョ』も狂犬に襲われた親子の、噛まれた息子を助けたい母親の強さを描いている。
『クリスティーン』はいつかは訪れる息子と両親との別離を車に憑りつかれて変貌していく息子というモチーフで恐怖を以て描いた。

超能力者、幽霊屋敷、怨霊といわゆるホラー定番のお化けや超常現象を現代風に描いたと云われているキングの本質は、普遍的な家族にいつかは訪れる避けられない転機そして悲劇を超常現象を織り交ぜて色濃く描いているところにあると私は考えている。それはどこの家族にもあり得る悲劇や凶事だからこそ、キングのホラーは我々の生活に迫真性を以て染み入るのだ。

仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。
同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。
本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。

愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。
初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。
美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。

過去作品を並べたついでに本書における他作品とのリンクについても触れておこう。

メイン州を舞台にした本書では妻のレーチェルが車でローガン空港からラドロウに戻る道すがらに通り過ぎるのが『呪われた町』のジェルサレムズ・ロットであり、『クージョ』で起きたセントバーナード、クージョが狂犬病に罹って何人も死なせた事件が忌み事のように語られる。あの事件は『デッド・ゾーン』に出てきた殺人鬼フランク・ドットに由来するものだから、これらメイン州を舞台にした物語は1つのサーガのようになっているのだ。

それを証明するかのように、本書においてもある不可解なことをキングは潜り込ませている。
それは死者が生き返るミクマク族の埋葬地のことではない。ルイスの息子ゲージが亡くなった事故についてである。
ゲージを轢いたトラックの運転手は自分の犯した罪の重さに自殺を図ろうとする。彼はそれまで飲酒運転もしたことなくスピード違反もしたことがない模範的なドライバーだったのに、なぜかあの時は急にアクセルを思い切り踏み込みたくなったと述懐している。そのことを聞いてルイスはあの場所には力があると理解する。その力こそはフランク・ドッドの力ではないか。クージョを経て今度はラドロウの、クリード家の前の道路に地縛霊のように居座り、そしてペットを殺してはラドロウの人々たちに禁忌の領域に足を踏み入れさせているのではないだろうか。

そんなキング・ワールドの悪意に魅せられた不幸な主人公ルイスとレーチェル・クリード夫婦は5歳の娘と2歳の息子を持つことからも解るようにまだ若い。

一方隣人のジャド・クランドル夫妻は80歳を超えた老夫婦の2人暮らし。

片やまだ死の翳など見えもしない、未来ある家族。片やささやかな日課を愉しむ老夫婦でいつか近いうちに訪れる死が安らかであることを願う2人。

この2組の家族の対比構造によって死というものの重さを全く異なる風にキングは描く。

2組の夫婦はそれぞれお互いに対する愛情は深いのが共通項だが、クランドル夫妻は残りの人生の旅路のパートナーといった風情であるのに対し、クリード夫妻はまだ若いだけあって、愛情は求め合う欲望と等しく、従って夜の生活もお盛んだ。

この2人の夜毎のセックスをキングが述べるのは単にルイスとレーチェルの夫婦愛を示すだけではなく、セックスが新たな生を生み出す行為だからだろう。死を語ったこの物語においてこのルイスとレーチェルのセックスは生を意味しているのだ。

この新たな生をもたらす行為に対し、自然の摂理に逆らって取り戻した生に対して何も代償はないかと云えばそうではない。愛猫チャーチを取り戻したルイスは代わりに最愛の息子ゲージを亡くす。それはやはり神の理に逆らった天罰ゆえの代償だったのではないかとジャドは云う。

そう、これは自分の犯した過ちのために、人として踏み入れてはいけない領域に入ってしまったために代償を払い続ける物語なのだ。

最初は可愛い愛娘に嫌われまいという思いから死んでしまった愛猫を隣人の指示に従うままにその領域に踏み入り、生き返らせるという自然の摂理に逆らった行為をしてしまった。医者という人の命を扱い、そして死に直面することが日常的な職業に就きながらもそれが我が身に降りかかると理不尽さを覚えてしまう。それがルイスの弱さだった。

そして死せるものが甦る、その手法を、その禁断の扉を知ってしまったがためにルイスは坂を転がり続けることになる。

人はやはり本来あるべき方法で生を得るべきなのだというのがこのクリード夫妻のセックスが示していたのではないだろうか。

そうやって考えると本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。

生と死。
若い夫婦と老夫婦。
死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。
本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。
そして過去と未来。

ルイスはゲージをミクマク族の埋葬地に埋めて家に戻った時に、そこがかつて在ったクリード家を温かく包んでいた家とは思えなかった。既にもう何かが変わってしまったことに気付き、自分が取り返しのつかないところまで来ていることに気付かされていたのだ。

彼がもう戻れなくなってしまったのはいつだったのか。
ゲージを蘇らせようと決心した時?
愛猫チャーチを蘇らせてしまった時?
隣人ジャドと出逢ってしまった時?
ラドロウに引っ越しした時?
我が身を振り返ると同じような感慨が時折起きることがある。どうしてこうなってしまったのだろうか、と。

本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。

神よ過去を救いたまえ、と。

せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。

しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。
彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。

キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。


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ペット・セマタリー〈上〉 (文春文庫)
No.185:
(9pt)

警官による黒人虐待による暴動が起きた今だからこそ読まれるべき作品

ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。

1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。

作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。
警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。現場の状況は警察が偽装した痕跡が認められた上に、射撃の腕前がプロ級であることから容疑者が射撃の訓練をしてきた人間である可能性が高いため、警察関係者にいる可能性も高まる。そしてボッシュはそんな事件を担当する刑事たちに嫌悪され、刑事と思しき人物から脅迫電話まで受け取る。
おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。

作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。
従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。しかしボッシュはそんな市警の上層部の意向に嫌悪感を示し、記者会見に彼の部下を同席することを良しとしない。2回目の記者会見でLA市警の誠実さを示すためだけに同席を強いられたエドガーとライダーはそうすることを命じたボッシュに対して反発心を見せる。彼らは1人の刑事であり、決して特別な「黒人の」刑事ではない。しかしそれを世間に示さなければならないほど、世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。

ついでに云えば被害者の弁護士ハワード・エライアスの息子の名が黒人解放運動の牽引者である人物の名前がそのまま入ったマーティン・ルーサー・キング・エライアスであることも象徴的だ。

ところで本書ではエピソードとして2つの事件が挿入されている。1つは最近ボッシュが解決して有名になったハードボイルド・エッグ事件。もう1つはエライアスがLA市警強盗殺人課相手に裁判を控えていたブラック・ウォリアー事件だ。

前者の事件は自殺と思われた事件が冷蔵庫に冷蔵されていた固ゆで卵に書かれた日付によってそんなことをする人間が自殺するわけがないと閃いて犯人を捕まえた事件でそれはロサンジェルス・タイムズにシャーロック・ホームズ張りの名推理として紹介され、有名になったのだ。そして犯人だったストーカーは自分の犯行の証拠となる被害者の手記を後生大事に持っていた。

後者は誘拐された自動車販売王として有名なジャクスン・キンケイドの息子サムの一人娘ステーシーが捜査の甲斐虚しく、遺体として発見され、その発見場所がかつて住居侵入と暴行の罪で前科のあるマイクル・ハリスの近くだったことから容疑者として逮捕されたもの。当初はこの被害者家族に世間の目は同情的だったが、裁判でサム・キンケイドがサウス・セントラル地区に販売代理店がない理由を、1992年に暴動が起きた場所に店を構えるつもりなど毛頭ないと応えたことで黒人差別の気運が高まり、無罪判決で釈放された後、ハリス側が今度は自身がが不当な拷問を捜査官から受けたことに対してLA市警を訴えた事件である。そしてこの事件の裁判の直前に担当弁護士で辣腕を誇るエライアスが殺害されるのである。

この事件が実はエライアス殺害事件に大いに関わってくる。むしろボッシュはこの事件を解くことがエライアス殺害事件を解く鍵と信じ、捜査に協力するFBIの方にエライアス殺害事件の方を任せて、自分たちはその事件を追う。

余談になるが、アーヴィングと本部長の取り計らいでこのエライアス殺害事件の捜査はFBIと合同で行うようになる。それに派遣されるFBI捜査官がロイ・リンデルであるのが今回のサプライズでもある。彼はシリーズ前作『トランク・ミュージック』で登場したあの潜伏捜査官。なるほど、こんな手をコナリーは繰り出してくるのかと驚いたものだ。

もう1つFBIで云えば、本書では前作『わが心臓の痛み』が映画化されたことにも触れられており、しかもテリー・マッケイレブはかつてボッシュも一緒に仕事をしたことがあると述べている。これも思わずニヤリとするコナリーの演出だ。

話は変わるがネオ・ハードボイルド小説の代表作の1つにアル中探偵ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズがある。1976年に始まったこの次世代ハードボイルドシリーズも90年になるとIT化の波には逆らえず、スカダーの仲間の1人TJがパソコンを駆使して彼をサポートするが、このボッシュシリーズでも同様に本書ではボッシュのチームのメンバーの1人、女性刑事のキズミン・ライダーが買春のウェブサイトから隠れサイトであった小児ポルノのサイトへのアクセスし、事件が急転回する。

しかしデビュー作ではまだポケベルで連絡を取り合い―それは本書でもまだ続いている―、その後携帯電話をボッシュが使うようになるが、とうとうインターネットまで登場するようになったとは。
本書は1999年発表だからそれは全くおかしなことではないのだが、ボッシュとインターネットというのがなんともそぐわなく、本書でもボッシュはネット音痴でキズミンがかなり噛み砕いてインターネットのウェブサイトの仕組みについて説明しているのに隔世の感を覚える。世紀末のあの頃のインターネットの認知度はまだそんなものだったのだ。

また今まで色んな苦難に直面させられてきたボッシュだが、『トランク・ミュージック』で新たなチームのリーダーとなり、またグレイス・ビレッツという理解ある上司に恵まれ、しかも運命の女性と感じていたエレノア・ウィッシュと結ばれ、ようやく人生の春を迎えつつあった。しかし本書でまたもや危難に見舞われる。
警察の敵を殺害した犯人の捜査だ。しかも犯人は警察の中にいるかもしれず、お互い理解しあったとされたかつての宿敵アーヴィン・アーヴィングは昔に戻ったかのようにボッシュをマスコミの生贄の山羊に捧げるかのように管轄外にも関わらず呼び出し、特別任務として捜査のリーダーに命じる。
味方の中にも敵がいるかもしれない、そんな四面楚歌の状況にボッシュはいきなり追いやられる。

更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。
ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。

本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。

彼が夢でこのケーブルカーに乗っている時、まず最初に反対側のケーブルカーに乗っていたのはエレノア・ウィッシュだった。しかし夢の中の彼女はボッシュの方を見向きもしないまま、そのまま下っていく。

2回目の夢の時は反対側のケーブルカーではなく、同じケーブルカーに通路を挟んで相手は乗っている。それはブラック・ウォリアー事件の被害者ステーシー・キンケイドだ。彼女は悲しげで虚ろな目でボッシュを見つめている。

一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。
一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。
ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。

夢で見たようにエレノアはボッシュを十分愛せない自分に耐え切れなくなり、しばらく距離を置くため家を出る。ボッシュはエレノアといることに至上の幸せを見出していたのに、それが一方通行でしかなかったことを知り、心が引き裂かれそうになる。
上に向かっていくケーブルカーに乗っていたボッシュとは裏腹にエレノアの心は下降線を辿って行ったのだ。

そしてステーシー・キンケイドもまた同様だ。今度は同じ車両に乗りながら通路を挟んで見つめ合う2人。
我々は同じ車両に今乗っている。ただまだそちらのシートには近づけない。そこにはまだ通路分の隔たりがあるのだと。

すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。
人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。

しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。
これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。

今回も多くの人々がボッシュの目の前から消え去る。

娘を亡くした忌まわしい過去を一刻も早く消し去りたいがために引っ越しながら、移転先では2人の死体が残され、そして以前の家では1人の死体が残され、そして誰もいなくなってしまった。

皆が集まる家もあれば、なぜか人が居着かない家もある。ずっと孤独を抱えていたボッシュの家は後者になるのか。
そしてアメリカの政財界にまで影響を与える自動車販売王の家もまた張り子の家庭だけが存在する、不在の家なのか。
事件を調べる者と調べられる者と対照的な2つの家に私はなんとも奇妙な繋がりを覚えずにはいられなかった。

コナリーは刑事を主人公としながら実は警察小説を書くのではなく、あくまでハードボイルドで警察に盾突く卑しき街を行く騎士としてボッシュを描いていることに今ようやく思い至った。

世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。
実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。

では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。
そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。
そう、それは混沌。
死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。

結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。

自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。

そして本書では解かれなかった謎がもう1つある。それはマスコミ、TV屋のハーヴィー・バトンとそのプロデューサー、トム・チェイニーに警察の内部情報をリークしていた人物についてだ。つまり今後も警察内部に情報源を抱えて仕事をしていかなければならないことを強いられるわけだ。

ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。
まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。

その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。
しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。

最後にボッシュは呟く。チャステインの断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。
エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。
世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。


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エンジェルズ・フライト〈下〉 (扶桑社ミステリー)
No.184: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

悪魔的なほどにその痛みは深く

これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。

コナリーのノンシリーズ第2作はクリント・イーストウッド監督・主演で映画化もされた、現時点で最も名の知られた作品となった。

何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。

これほどまでに因果関係の深い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。
もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。

心臓を移植された元FBI捜査官テリー・マッケイレブはまだ静養中の身であるため、従来の探偵役と違い、長時間労働が出来ないのが一風変わっている。定期的検査のために病院に通い、拒絶反応が出ないように朝に18錠、晩に16錠もの薬を飲まなければならない、虚弱な探偵だ。
しかし彼にはFBI捜査官時代の人脈と明敏な頭脳、そして捜査のノウハウを熟知しているというアドバンテージがあり、停滞していた同一犯と思われるコンビニ強盗・ATM強盗の捜査を一歩一歩着実に進展させる。

しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。
例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。
日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。

また主人公のテリー・マッケイレブの造形も全くボッシュと異なりながら、魅力的であるところも特筆すべきだろう。
ハリー・ボッシュは事件解決に対する執着が強すぎて、違法すれすれ、もしくはほとんど違法とも云える強引な捜査で自分を辞職の危機に追いやりながらも、ハングリー精神と粘り強さ、そして事件のカギを嗅ぎつける特異な直感力で解決してきた、正直に云えば野獣性を備えたアウトローな刑事である。

一方テリー・マッケイレブはFBIで捜査のノウハウを教わり、それを実に巧く活用して事件を解決に導く誠実さが備わった男である。一方で心臓移植手術のためにリタイアし、今はTシャツと短パンで父親から譲り受けた船で暮らす、自由人的な雰囲気をも兼ね備えた好人物だ。
しかしそれでも悪人に対する底なしの憤りを備えた熱血漢であり、彼にとって事件の解決は被害者に対する敵討ちを行うものとして捉えられており、従って事件が未解決に終わると無力感に苛まれる傾向が強かった。それがゆえにストレスで心臓発作を起こした経緯がある。つまり彼もまた紳士の顔をしながらも悪に対しては人一倍強い憎しみを抱く人物なのだ。

そして2人の決定的な違いは個で戦うボッシュに対し、マッケイレブは仲間の協力を借りて戦うところにある。

ボッシュには一応ジェリー・エドガーという相棒がいるものの、副業の不動産業で定時で帰る彼を放っておいて一人で捜査するのを好む。そして平気で時間に遅れ、約束は破り、勝手に人の名前を使って私有地に立ち入ると云った無頼漢で、部下にするには願い下げの男だ。

一方テリー・マッケイレブはFBIの分析官という職業柄、規則や手順を重視し、それを逸脱することに抵抗を感じる男だ。そしてFBI時代のその堅実な仕事ぶりとその人柄から周囲の信頼も得て、退職後も彼の頼みを快く聞いてくれる仲間がいる。ロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストン、FBI捜査官のヴァーノン・カルターズ。更に退職後の船上生活の“隣人”バディ・ロックリッジもまた彼の人柄に魅かれて親しくなった男である。

この対照的なキャラクターを設定しつつ、またその双方を魅力的に描くコナリーの筆もまた素晴らしいと云わざるを得ないだろう。

やがて事件はただの行きずりの強盗殺人事件からマッケイレブの細かい観察によってそして不特定多数の犠牲者と思われたグロリア・トーレスとジェイムズ・コーデルに犯人がある意図を持っていたことが判明する。

更にコーデルの事件で回収された銃弾をマッケイレブの根回しでFBI独自の検索システムに掛けたことでその銃弾が重詐欺罪で有罪となった元銀行頭取ドナルド・ケニヨン殺害に使われた銃弾と一致したことが判明する。

行きずりの強盗殺人事件が、被害者に対する異常な執着心による犯罪へ、そしてそれがまた詐欺師を殺害したヒットマンと思しき人物の犯行へと繋がっていく。しかも水道会社の技師、新聞の印刷会社社員、そして多くの人の財産を奪った貯蓄貸付銀行の元頭取の殺害を結ぶ線とはいったい何なのかと俄然興味が増してくる。
このミッシング・リンクにコナリーは驚くべき答えを用意している。

さてノンシリーズと云いながらもコナリーの作品はそれまでの作品とのリンクが張られているのは周知のとおりで、本書も例外ではない。

まず出てくるのは先のノンシリーズ『ザ・ポエット』でも登場したロサンジェルス・タイムズの記者ケイシャ・ラッセルだ。彼女はマッケイレブがFBI捜査官時代に良好な関係を保ち、その縁で彼が心臓発作で倒れ、手術後の引退生活を描いたコラムを書いた間柄でもある。

さらにやはり元FBI捜査官だっただけに『ザ・ポエット』に登場した女性FBI捜査官のレイチェル・ウォリングとも一緒に仕事をしたことがあることも触れられている。その事件、オーブリー=リンという少女を含むフロリダ旅行に行ったショーウィッツ家族が惨殺される事件は彼の未解決事件の1つだ。

また評判の弁護士としてマイケル・ヘイラー・ジュニアの名前が出てくる。その父親の名前が伝説の名弁護士ミッキー・ヘイラーと紹介されるが、これは後のリンカーン弁護士ミッキー・ハラーのことだろう。
かつてボッシュシリーズの『ブラック・ハート』でもこのハラーがボッシュの父親であったことを明かされるエピソードがあったが、このノンシリーズでもその名が出てきていたとは。しかし自分で手掛けた『ブラック・ハート』ではきちんと「ハラー」と書いているのに、なぜ本書では「ヘイラー」と誤読したのか、首を傾げざるを得ない。

そしてテリー・マッケイレブが分析官として手掛けた事件の1つが『ザ・ポエット』の事件であったことも明かされる。しかし私の記憶では彼の名前はこの作品には登場しなかったように思うのだがなぁ。

それ以外にもマッケイレブが現役時代に担当していた事件名は他に「コード」、「ゾディアック」、「フルムーン」、「ブレマー」と4つある。解決・未解決を問わずにそれらの資料のコピーを持ち出したとあり、しかも本書でそのうちの1つの事件が解決する。そのことには後に触れるが、その他の事件についても今後のコナリー作品で登場するのかもしれない。記憶に留めておこう。

というのもマッケイレブの捜査に協力する保安官事務所の刑事ジェイ・ウィンストンが彼と親しくなったエピソードに彼らがチームとなって解決した連続殺人犯「墓場男」が紹介されているが、6ページで語るには非常に惜しい内容なのだ。
こういう1編の長編になり得るネタをサラッと書くと云うことはコナリーは恐らく記者時代やもしくはその時から懇意にしている警察関係者やFBI関係者からもっと面白い、長編のネタになり得る話を多く得ているように推察される。

そのことを裏付けるように元FBI捜査官であるマッケイレブの捜査内容は実に詳細に書かれている。FBIが独自で編み出した検索システムやそれぞれの捜査方法の意義と手法、例えば銃弾のデータベース、ドラッグファイアシステムや地理的交差照合と云った地図を使った犯人の絞り込み、催眠術を駆使した証言の引き出し方などが実に論理的かつ詳細に語られる―しかもそれらの描写の中に真犯人への手掛かりが隠されているというミステリ通を唸らせる演出!―。それも本当にここまで書いていいのかというぐらいに。
もしくはこれらの手法がコナリーによって詳らかにされる以上に既にFBIの捜査方法はさらに進歩して先に行っているからこそ許されているのかもしれない。

またテリー・マッケイレブを取り巻く人物たちもノンシリーズと思えないほど強烈な個性を放つ。

まずはマッケイレブの担当医ボニー・フォックス。彼の捜査復帰に反対し、自分の忠告を聞かないマッケイレブの担当を外れることを忠告する、医師としての立場を貫く強い意志の持ち主ながらも、彼の捜査の協力に一肌脱ぐ気風の良さを示す女性だ。登場回数は少ないながらも、印象に残るキャラクターだ。

手術後まもないために車を運転できないマッケイレブが運転手を依頼する、同じマリーナに停泊する「隣人」バディ・ロックリッジもなかなか面白い。
ミステリ小説好きで元FBI捜査官だったマッケイレブの過去の捜査の話が大好きな年老いたサーファーで、事あるごとに捜査のことを聞きたがる疎ましい存在ながら、要所要所でマッケイレブを助けるなど、見事なバイプレイヤーぶりを発揮する。
余談だが彼がマッケイレブを待っている際に読むのが英訳版の松本清張の『砂の器』であることに驚いた。この作品がアメリカで読まれていることが驚きだし、またそれをコナリーが知っているのもまたそうだ。そして英訳版のタイトルが『今西刑事捜査す』となんとも普通で、全然興味をそそられないのが残念。やはり邦題通り“The Vessel of Sand”とすべきだろう。

また事件の依頼者グラシエラ・リヴァーズも鮮烈な印象を残す。コナリー作品の常として主人公と関わる美女は恋に落ちるというのが定番だが、このグラシエラも例に洩れない。しかし30代前半の魅力的な女性として描かれる彼女の職業は看護婦。この男の妄想を具現化したようなヒロインはまた時にマッケイレブを出し抜くほど大胆な行動に出て、病院のシステムに入り込んで貴重な患者のデータを提供する、なかなかに心臓の太い女性でもある。

そして彼女の妹グロリアの遺児レイモンド。彼の行動でそれまで父親との思い出がないまま、優しい母親と暮らしてきた彼の境遇は、マッケイレブでなくとも守ってやりたいという気にさせられる。

またマッケイレブの良き協力者となる保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンと彼女と対照的に尊大で無能な刑事として描かれるエディ・アランゴもある意味忘れ難い存在だ。この2人の捜査資料の内容で刑事としての熱意をマッケイレブは読み取る。たとえ行きずりのATM強盗事件でも被害者のことを思って犯人逮捕にこぎつけようと手を尽くす前者とただの行きずりのコンビニ強盗として形だけの捜査を行う後者の資料の厚みによって。
こんな細部がそれぞれのキャラクターに血肉を与えている。

本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。
本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。

そして物語が進むにつれて、この血の繋がりが一層色濃くなっていく。

例えば手掛かりの少ない強盗殺人犯を突き止めるために、敢えて次の犯行を待つという手段があるが、それを本書では「あらたな血を必要としていた」と述べている。

そして今回全く関係のない被害者を結ぶミッシング・リンクもまた血の繋がりこそが答えなのだ。

話は変わるが、マッケイレブが父親から譲り受けた船の名前の由来について事件の依頼人のグラシエラから訊かれ、答える場面がある。この<ザ・フォローイング・シー>号という一風変わった名前は<追い波>という意味で追い波は船の背後から迫り、やがて追いつくと船にぶつかり船を沈没させてしまう。つまりそうならないために船は追い波より速く進まなければならないのだ。沈没しないようにいつも背後に気を付けろ、それがその名の由来なのだが、まさにマッケイレブはいつの間にかこの容疑者という追い波に捕まってしまう。

“Blood Work”という原題が指し示すように、まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。
同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。

こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。

なんという罪深き救済だろう。今までこれほどまでに業の深い主人公がいただろうか?
我々の幸せの裏には誰かの犠牲が伴っていると云われる。しかし間接的であれ臓器移植ほど、密接に他者の不幸で成立する幸せはないのではなかろうか。

そして本書が1998年に書かれたことを私は忘れていた。それはつまり世紀末に書かれた作品であると云うことだ。
その時期に多く書かれていたのはサイコパス。世紀末と云うどこか不安を誘うこの時期にミステリ界に横行していたのが狂える殺人者による犯罪の物語。極上の捜査小説を描きながらも当時流行のサイコパス小説へと導く。

繰り返しになるが、いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。
元FBI分析官だったマッケイレブは捜査に行き詰ると最初に戻り、証拠を一から検証する。そしてその過程で気付いた違和感を見つけ、新たな手掛かりとするのだが、それらが意図的に隠されているわけでもなく、読者にも明示されているのである。
つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。

わが心臓の痛み。数々の残酷な事件で分析官としてプロファイリングに明け暮れた彼が最初に感じた痛みは激務と人間の残虐さに耐え切れなくなって疲弊した心臓が起こした心臓発作だった。
そして術後60日しか経っていないことからあまり長く動けないマッケイレブが抱える身体的な痛みとなり、やがて愛してしまった人の妹の命を奪い、生き長らえたことを知らされた深き悲痛へと変わった。
しかしその抱えた業を振り払い、残された人生を前に進めるためにマッケイレブは犯人を自ら粛清した。そして最後に彼が感じた心臓の痛みはグラシエラとレイモンドという最愛の人たちの笑顔を見て心臓が収縮する幸せのそれへと変えた。

最後にマッケイレブがその最愛の者たちと共に向かったのは自分の生まれ故郷。そこから始める彼らの新しい生活はまた同時にテリー・マッケイレブという男の生き様の新たな船出であると期待しよう。
既に私は知っている。この深き業を抱えながらも再生した素晴らしい男と一連のコナリー・ワールドで再会できることを。

まずはそれまでマッケイレブとグラシエラに安息の日々が続くことを願ってやまない。


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わが心臓の痛み〈下〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーわが心臓の痛み についてのレビュー
No.183: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたく珠玉の作品集

先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。

この四季をテーマにした中編集で「秋の目覚め」と副題がつけられたのがかの有名な作品である表題作「スタンド・バイ・ミー」だ。

本作については詳細を語る意味はないほど、有名な映画で知られている内容だ。
しかし当時映画で観た時よりもキング作品を順に読んでいったことで気付かされたことがある。これはやはり今までキングが書いてきた作品の系譜に連なる作品なのだと。

キングの作品の系列の1つにロード・ノヴェルがある。それはある設定の下にただ単純に歩くだけ、走るだけ、移動するだけの作品だ。
『死のロングウォーク』や『バトルランナー』が有名だが、超大作『ザ・スタンド』も新型インフルエンザのパンデミックで大半が死に絶えたアメリカを安住の地を求めて生存者が旅をする箇所が盛り込まれていることからその系譜に連なる作品になるだろう。

そしてこの「スタンド・バイ・ミー」はそれらの系譜に連なる作品であり、実はキング作品の中ではありふれたものなのだが、その内容の瑞々しさが他の作品よりも高く評価され、抜きんでいるように思える。発表されたのは上記の作品以後だが、本書の収められた作者の前書きでは脱稿したのは2作目の『呪われた町』の後だからずいぶんと早い段階である。
ただ『死のロングウォーク』はキングが大学時代に書いた作品なので、ロードノヴェルとしては2番目に当たるだろう。まだ作家になりたてのキングのフレッシュさがここには満ち満ちている。

映画の時には細部まで気付かなかったが冒険に旅立つ4人の少年たちの境遇は決して幸せではなく、問題を抱えた家庭で強かに、そして逞しく生きる姿が描かれている。

物語の主人公であるゴーディはキング自身を投影したかのような、物語を書くのが大好きな少年で、他の3人とは違った比較的裕福な家庭の子供だ。しかし両親は次男の彼よりも学内のスターであり、軍へ新兵として入隊した兄デニスに関心を大いに抱いていたが事故で亡くなったことにショックを受け、それ以来茫然自失の毎日を送り、「見えない子」になってしまっている。

4人のうち、最もゴーディと親しいクリスは頭がいいが、乱暴で飲んだくれの父親に殴られる毎日を送っており、2人の兄は町で札付きの不良として有名で、彼らが酒を飲んで狂暴になるのを目の当たりにしているがゆえに、酒を飲むことを頑なに恐れている。

眼鏡をかけたテディはどこかネジの外れた大胆さと口の悪さを誇るが、第2次大戦から帰ってきた父親にストーブに10回側頭部を打ち付けられたせいで耳が爛れ、補聴器無しでは聞こえなくなってしまっている。目は自然に悪くなったがほとんど見えないらしく、それなのにいつも度胸試しのため、道路の真ん中に立ってギリギリ当たるか当たらないかのスリルを味わうゲームに興じている。そして彼は自分にひどい仕打ちをした父親をノルマンディ上陸を果たした兵士として尊敬し、彼の送られた精神病院に定期的に母親と見舞いに行っている。

彼ら3人に死体を見に行く旅を持ち掛けたバーンもまた兄が町で有名な札付きの不良で、彼らはクリスの兄たちとつるんでは悪いことをやって幅を利かせている。しかし彼は兄と違って弱虫で、それを知られているにも関わらずタフを装っている。

そんな愛すべきバカたちの冒険はかつて少年であった私たちの心をくすぐり、離さない。映画も名作だったが、原作の小説もまた名作であることを認識した。

本作は誰もが一度は経験する大人になるための通過儀礼として描かれているのもまた読者の胸を打つ。
少年・少女から大人の階段を登り始めるために訪れる大きな変化。それがゴーディ、クリス、テディ、バーンにとって死体を見に行くことだったのだ。

私も子供の頃に経験したある思いがここには再現されている。案外子供たちは大人たちの知らない間に大人になっているということに。
子供たちだけの冒険は彼らを自然と精神的に成長させる。そして時に思いもかけないことを話したりするのだ。

クリスはゴーディに自分たち3人とは別のクラスに進んで真っ当な人生を歩めと告げる。クリスは旅の途中で話してくれたゴーディのパイ早食い事件の創作物語を聞き、いつか訪れる友との別れを今回の旅で悟ったのだ。

クリスが死体を見つけ、そして不良たちに立ち向かいながらも無事に済んだことを評して「おれたちはやった」という。
しかしその言葉から感じた意味はそれぞれで違っていた。それは彼らにとって少年期の終わりを示すことになったのだろう。

そして本作には映画にはなかった“その後”が描かれているのも興味深い。

とにかく色々な思いが胸に迫る物語である。後ほどまた本作については語ることにするが、何よりも本作が自分にとってかけがえのない人生の煌めきのようなものを与えてくれた作品になった。

最後の冬は「マンハッタンの奇譚クラブ」。マンハッタンの一角にあるビルで知る人のみ参加できる紳士のクラブの物語。

いやあ、なんとも云えない、物凄いものを読んだという思いがひしひしと込み上げてくる作品だ。
マンハッタンの一角のビルで毎夜開かれているクラブでは会員の誰かがいつの間にか煖炉の前に集まり、話をし始める。自らの戦争体験や若かりし頃に出くわした驚きの事件など。弁護士の1人はある日血塗れになった上院議員が狂ったように上司を呼び出すよう指示してきたという、いかにもありそうな非常時の物語から女子教師が移動式トイレに嵌って出られなくなり、そのまま運ばれてしまうと云った笑い話まで様々だ。

そして主人公がクラブに通うようになって10年経ったとき、古参の常連が初めて皆の前で話を披露する。その話とは医者である彼が若かりし頃に出逢った若く美しい妊婦の話だった。

今ではシングルマザーに対する理解は深まったものの、物語の舞台となる1935年ではそれは教義、道徳、倫理に反した不浄の者として蔑まされていた時代だ。そんな厳しい時代に遭って、マキャロンの前に現れたサンドラ・スタンスフィールドは毅然とした態度で左の薬指に指輪がないことを隠さず、彼に出産の協力をお願いする。
俳優を目指してニューヨークに出てきた彼女は演技教室で知り合った男性と関係を持ち、妊娠が発覚した途端、相手の男が去ってしまう境遇に置かれた。しかしそれでもなお自身の赤ん坊を産むことを決意した彼女の強さにマキャロンは女性としても魅かれながら、人間として魅かれていく。そしてマキャロンはまだ当時一般的でなかった独自の出産法をサンドラに勧める。そのうちの1つが今ではラマーズ法と呼ばれる呼吸法だった。
しかし彼女に訪れたのは悲劇だった。

陣痛が始まったクリスマス・イヴで雪の降りしきる中、病院の外で出産をするシーンは今まで私が読んできたどの物語よりも想像を超えた、凄まじく、そして感動的な場面だった。

収録された4編の中で比較的無名の存在だった本編も他の3編に負けない物語の強さを誇っている。
それは奇跡というには凄惨で、母の生まれてくる子供に対する力強い愛情の物語というには悲愴すぎる。クリスマス・イヴに誕生した赤ちゃんの物語としてはこれ以上の物はないだろう。
こんな状況で生まれながら、健在であるハリソンという苗字だけ解る人物のことを私は胸に刻んでおこうと思う。今後のキング作品に出てくることを期待して。

更にこのクラブとしか称せない富裕層の老人たちの憩いの場所も不気味な不思議に満ちている。どこの図書館にもなく、また文学名鑑にも記載されていない作品や作家の作品が多く収められ、そのどれもが傑作。そんな夢のような空間で語られるのはこれまた百戦錬磨の老人たちによる、夢にまで出てくるような印象深い話。
最後に語り手のデイビッド・アドリーが世話役のスティーヴンスにそれらの秘密を尋ねるが、彼は世話役の表情を見て踏み留まる。
彼が代わりに聞くのは他にも部屋はたくさんあるのかという問い。その問いにそれはもう迷ってしまうほどたくさんあると世話役は答える。そして最後にここにはいつも物語があるとスティーヴンスは答えるのだった。

世話役スティーヴンスはその名前が示す通り、スティーヴン・キングその人であり、クラブ自体がキングの頭の中を指しているのだろう。
彼の頭の中はいつでも物語が詰まっている。それもこの話で語られた老いた医者が語るような、読者の想像を超えた恐怖とも感動とも取れるまだ読んだことのない極上の物語が、いつでもそのペン先から迸るのを今か今かと待ち受けているかのように。


『恐怖の四季』後半はかの有名な映画『スタンド・バイ・ミー』の原作が収められている。しかし本書の題名に冠せられている作品が映画化され、大ヒットを記録したため、日本ではこちらが先に刊行されたことでこの秋・冬編がVol.1とされており、収録順が前後している。

従って本来前半部に当たる『ゴールデンボーイ』に収録されるべきであろうキング自身の前書き「はじめに」が本書に収録されており、なんとも奇妙な感じを受ける。
なお本書は1985年3月に刊行されており―私が手にしたのは50刷目!―、『ゴールデンボーイ』はちょうど1年遅れの1986年3月に刊行されているから、当時の読者はなかなか刊行されないこの前書きに既に書かれている2編を待ち遠しく思ったことだろう。
この前書きには既に『ゴールデンボーイ』に収録されている2編の、原題とは大いに異なる邦題にて触れられているが、これは同書が刊行されてから修正されたのかは寡聞にして知らない。

さてその前書きには本書の成り立ちが書かれている。これはやはり前半の『ゴールデンボーイ』を読む前に読みたかった。
ここに収録された作品群はキングが長編を脱稿した後にその勢いのまま書かれた作品で、順番としては「スタンド・バイ・ミー」(長編2作目『呪われた町』の直後)、「ゴールデンボーイ」(長編3作目『シャイニング』の2週間後)、「刑務所のリタ・ヘイワース」(キング名義長編5作目『デッド・ゾーン』直後)、「マンハッタンの奇譚クラブ」(キング名義長編6作目『ファイアスターター』の直後)となっている。
正直、上に挙げた長編のどれもが日本では上下巻で1,000ページ以上もあろうかと思える作品ばかりの後にこれらの中編が書かれたことが驚きだ。
いや逆にこれほどの長編を書くと、頭の中に色んな物語が生まれ、それらを物語の構成、進行上、泣く泣く削除しなければならなくなった話、もしくは副産物として生まれた物語が出来たために、それらが消えてしまわないうちに書き留めようとしたのがこれらの産物なのだろう。

そしてこれらはキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。

そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。

小説に原作のある映画は元ネタの小説を読んでから観るのが私の性分だが、1986年に公開された映画はさすがにそちらが先。私は劇場でなく確かビデオを借りて観たので中学生か高校生ぐらいだったように思う。その時、出演していた少年たちは当時の私よりもちょっとだけ年下だったが、タバコを吸って女の子の話に興じる彼らは私よりも大人びて観えたものだ。その内容は私にとって鮮烈であり、今回の読書はその映画の画像を追体験するように読んだ。

もう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。
犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。
鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。
後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。
池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。
ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。
そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。
それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。

開巻後にまず驚いたのはその原題だ。邦題の「スタンド・バイ・ミー」に添えられた原題は“The Body(死体)”と実に素っ気ない。このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。

そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。
“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。
それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。
だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。

もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。
『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。

それは今まで物語を語らなかった男が語る昔出逢った若き美しき妊婦の話。1935年当時ではまだ知られていなかったラマーズ法と呼ばれる呼吸法を教えたがゆえに招いた悲劇の物語。ちなみに原題はこの呼吸法がタイトルになっている。

その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。

自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。

そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2020年現在実現していない。
「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。

さて前作でも述べた他のキング作品へのリンクだが、まず私が驚いたのは「スタンド・バイ・ミー」の舞台がかのキャッスル・ロックだった点だ。
前半の「刑務所のリタ・ヘイワース」に登場したレッドも関係しているが、やはり何よりも『デッド・ゾーン』や『クージョ』の舞台にもなった町で、作中でも狂犬のクージョについて触れられている。
そして町のごろつき達が行き着く先はショーシャンク刑務所―本書では“ショウシャンク”と綴られている―と先の短編へと繋がる。キャッスル・ロックはキング自身を彷彿とさせるゴードン・ラチャンスが住んでいる町でもあり、キングにとってのライツヴィルのような町であるかのようだ。

春と夏、秋と冬。
それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。
春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。

そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。
田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。

本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。

この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。

つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。
キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。

春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。
永遠のベストの1冊をこの歳になって見つけられたキングとの出逢いを素直に寿ぎたい。


▼以下、ネタバレ感想
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スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)
No.182: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

キング版枕草子

『恐怖の四季』と題して春夏秋冬それぞれの季節をテーマにキングが綴った中編集が春夏編と秋冬編の2分冊で刊行された。本書はそのうちの前編に当たる春夏編である。

冒頭を飾るのは『ショーシャンクの空に』(傑作!)として映画化された「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。
あまりにも映画が有名なため、そして私がベストの映画の1つとして挙げることもあって、物語は既に解っていたが、改めて読むとアンディーというエリートと調達屋のレッド2人の囚人の友情がなんとも眩しい。
妻と愛人殺しの冤罪に問われ、刑務所に入れられることになった元銀行の副頭取のアンディー・デュフレーン。入所したのが1948年。そして脱獄して出所するのが1975年だから、何と28年間も囚人生活を強いられていたことになる。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、ほど良い距離感を保って囚人たちと接する彼は、刑務所名物の男色家たちの的になりながらも必死で抵抗し、やがて看守を味方につけることで完全に自分の身を護ることに成功する。
そんな彼の囚人生活を刑務所特有の異様な文化や風習、そして劣悪な環境で行われる囚人たちへの惨たらしい仕打ちなどが折に触れて挟まれながら、180ページもの分量を費やして語られる。
1人の男が入所して28年後に脱獄するまでの刑務所生活を語るキングの筆致は、舞台が固定されているにも関わらず、全く退屈せずに読み進めさせられる。魅力的な登場人物と刑務所と云う特異な空間。このたった2つのアイテムでぐいぐい読者を引っ張る。囚人たちに纏わる色んなエピソードを絡め、停滞しがちな話に見事に抑揚をつけて飽きさせない。
アンディーが刑務所に入れられることになった裁判の一部始終、彼がレッドと知り合う顛末。彼が刑務所内でひとかどの人物として成り上がっていく劇的な事件とその過程、更にそれまで常に泰然自若としていた彼が自分が冤罪となった事件の真犯人を知ることで取り乱し、手に入れた刑務所内の安定生活を失っていく様、そしていつか出所した時にメキシコの海沿いの町で小さなホテルを建てて過ごす夢を語り、その夢にレッドを誘うエピソード、そして訪れる脱獄の日。
アンディーの過ごした28年が彼の親しいムショ友達だったレッドの手記の形で語られていく様は不器用ながらも味わいがある。
アンディーの28年は常に理不尽と絶望との戦いだったことだろう。若くして銀行の副頭取にまで登り詰めたエリートが図らずも冤罪によって刑務所に入れられてしまう。自分の無実を信じながらもささくれだった劣悪な環境下でも自分を保っていた彼が、なぜ自分を見失ずにいられたかが脱獄方法1つで腑に落ちていく辺りはキングが物語巧者であることを感じずにはいられない。
しかし自分の信念だけがアンディーの精神的支柱だったわけではない。やはりレッドの存在もまた彼が彼であり続けるために必要不可欠だっただろう。
最初は恐らくただの何でも調達屋で、自分の脱獄を実現するために利用しただけかもしれない。しかしやがてレッドはアンディーの中で存在感を増していったことだろう。
人間、なかなか自分の胸に秘める思いを隠してはおけないものだ。それも20年以上となれば尚更だ。そんなアンディーが唯一心を許し、夢をも語ることを許したのがレッドだったのだ。この2人の男の友情物語のなんと美しいことか。なかなか余韻が冷めない。

夏を司る次の表題作「ゴールデンボーイ」もまた映画化された作品だ。私は未見だが旧ナチスの老人と少年の異常な交流を扱った作品というのだけは知っている。
元ナチスの老人と少年の奇妙な交流を描いた作品だ。ひょんなことから第2次大戦中のナチスが行った数々の所業に興味を持った少年トッド・ボウデンが偶然町で見かけた老人が戦争実話雑誌に掲載されていた写真に写っていたアウシュビッツ収容所の副所長クルト・ドゥサンダーであることに気付き、警察に通報しない代わりにナチス時代の話を話すよう強要する。
老人にとってナチス時代は悪夢であり、彼自身世界中をユダヤ人の追手から逃れてきた末に今のアメリカのカリフォルニアの町サント・ドナートに辿り着き、株の配当金で細々と隠遁生活を送っていたところだった。しかしやがて老人も自分の過去を話すことでかつて収容所の副所長として鳴らした威厳が蘇ってくるようになる。その引き鉄となったのがドットが興味本位で持ってきたレプリカのSSの制服を着せられたときだった。
やがてドットも老人の戦争時代の話に没入するにつれ、悪夢を見るようになり、勉強に集中できなくなり、瞬く間に成績が下がっていく。それをもはやかつて数多くのユダヤ人やドイツの同胞を見てきたドゥサンダーは見逃さずに逆に少年を支配し出す。
少年の成績が下がったことが親にバレることは避けたい。しかし一方でそのことは否応なく老人の正体を話すことに繋がる。つまり二人は運命共同体となるのだ。
そして老人は少年の祖父に成りすましてカウンセラーの面談に赴き、少年の両親の仲たがいが成績不振の原因であると吹き込み、少年が5月に落第点のカードを貰ったらカウンセリングを受けることを約束する。つまり老人は自らの進退も賭けて少年の成績を上げることを決意し、彼の家庭教師を務めるのだ。
このいびつな主従関係、いや共棲関係が実に自然に展開する辺り、キングの筆の凄さを感じる。しかし何よりもよくもこんな物語を思いつくものであると感心してしまう。
そして一方でドットはドゥサンダーの指導によって成績が上がっていくものの、それが彼の自尊心を傷つけ、老人に殺意を覚える。思春期真っ只中の権威への反抗心が、老人の過去に魅了されながらも憎悪するという複雑な心境を描き出す。
1人の老人のナチス時代の過去を共有することで2人が同じ行動を取っていくのが興味深い。つまり2人は非常に似た者同士であり、彼らの関係は近親憎悪なのだ。それも針の振り切った。
それを裏付けるかの如く、それぞれの正体が明かされていくのも同時だ。
お互いの運命がシンクロし合うように破滅へと進んでいくのだ。
少年の老人の交流をキングが描くとこれほど不思議な話になるのかと読了後、思わずため息が出た。
敵対し、互いに支配しようと相克し合っていた2人がいつの間にか同調し、奇妙な形で支え合う。それはお互いの心に眠る殺人への限りない衝動が老人の陰惨なナチス時代の話を通じて首をもたげ、そして発動する。ナチス時代の話を共有することと、お互いが殺人を犯している行為もまた2人にとって共通の秘密となり、2人でしか成立しない世界を作り上げたことだろう。


キングの中編集『恐怖の四季』はその名の通り、それぞれの四季がテーマになっている。キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。

まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。

この作品に対して私は冷静ではない。上にも書いたように本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。
静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。
そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。

さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。

その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。
少年は老人を支配しようとするがかつてユダヤ人を大量虐殺してきた百戦錬磨の老人もまた逆に少年を支配し出す。やがて2人にはナチスの陰惨な過去の所業の話を共有することで奇妙な親近感を覚えていく。悪夢を呼び起こされた老人は夜な夜なうなされるようになるが、そこに昔の、全てを掌握していたかつての自信ある自分の姿を見出し、まだまだやれるのだと浮浪者たちを殺していく。

一方少年もまた老人の話から思春期特有の想像力を働かせて悪夢にうなされながらも内に眠る殺人への強い衝動を目覚めさせ、同じように浮浪者たちを狩っていく。

転落していく2人はやがてお互いが生き長らえるために必要な不可欠な存在へとなっていく。成績が下降した少年は老人の助けを借りて再生を果たす。その後の彼は優秀な成績を修め、更にスポーツでも万能ぶりを発揮し、地区の代表選手にも選ばれるようになる。転落から一気に運命は上昇するかに思えたが過去の過ちは決して彼らを逃さず、やがて破滅へと向かっていく。

逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。前にも書いたが、よくもまあこんな話を思いつくものだ。

ところでこの2つの作品には繋がりがある。表題作に登場する元ナチス将校の老人アーサー・デンカーが生計を立てているのは株の配当金。その株の手続きをしたのが銀行員時代のアンディー・デュフレーンなのだ。こうやって考えると残りの2編もこれら2編と何らかの繋がりがあるのは間違いないだろう。

また「刑務所のリタ・ヘイワース」で語り手を務めるレッドが刑務所に入ることになった事件の記事が書かれている新聞の会社はキャッスル・ロックにある。これは『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドがいた町であり、また『クージョ』の舞台となった町だ。
それ以外にもリンクがあるのか、次の後編はそれを見つけるのもまた一興だ。

さてそれぞれの原題だが、まず「刑務所のリタ・ヘイワース」は原題をそのまま訳すと「リタ・ヘイワースとショーシャンクの救済」となり、逆にこれは邦題のシンプルさを買う。映画の題名もまたあれはあれで映画の雰囲気とマッチしているが、やはり小説ではこちらの方が合っているだろう。

表題作の方は「利発な生徒」とシンプルながら含蓄な題名である。これは確かに作品の本質を表しているが、ちょっと地味すぎるだろう。トッドの利口さとそして老人の心理へも同調してしまい、共に奈落へ堕ちるほど彼は利発だったということだ。

一方で邦題の「ゴールデンボーイ」もまた色々と考えさせられる。これはトッドの風貌、金髪の好青年をそのまま表しているようにも思えるし、金の卵という、輝かしい未来に満ちた少年という風にも取れる。
このあまりに煌びやかな題名と内容とのギャップが読後の暗鬱な余韻を助長しているように思えるので、私は邦題に軍配を捧げたい。

『恐怖の四季』と冠せられた中編集の前半の2編はそれぞれ二律背反な関係にあると云えるだろう。

「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。
一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。
彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。

次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。
キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。
その答えはもうすぐ見つかることだろう。


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ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)
No.181: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ボッシュの過去の因縁への終止符

前作『ブラック・ハート』ではボッシュがハリウッド署に島流しされることになった事件、ドールメイカー事件の真相を探る物語であったが、シリーズ4作目である本書ではさらに彼の歴史を遡り、迷宮入りとなった娼婦だった母親マージョリー・ロウ殺害事件を休職中のボッシュが再捜査する物語となっている。

そして本書は様々な暗喩に満ちた作品でもある。

例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。
実はこの何気ないエピソードが物語の最終、真犯人を突き止める最後の決め手になる指紋への暗喩となっている。

さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。
地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。

孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。

またボッシュの捜査自体も実に危うい。今回休職中の身であるから拳銃もなければ警察バッジもない。しかも上司パウンズの反感を大いに買っていることから警察が支給する車も取り上げられる。
刑事から初めて一己の市民となったボッシュはバッジと拳銃がいかに自分を守る鎧となっていたかを知らされる。

しかし彼はそんな不利な状況でも持ち前の強引さでことを進めていく。
パウンズの名を騙って警察のデータベースに記録を照合したり、勝手にロス市警に入り込んで指紋照合を頼んだり、母親の事件の捜査資料を持ち出したり、更にはパウンズの警察バッジを盗んだり、更には容疑者と目される、今では街の有力者となっている大手法律事務所経営者のゴードン・ミテルのパーティーに潜り込んで―この時もパウンズの名を借用する!―、揺さぶりを掛けたりと、そのアウトローな捜査ぶりは確かにコヨーテを彷彿させる。

しかしこのアウトローな行動が意外な展開を及ぼす。この展開にはかなり驚いた。そして同時にハリーの疫病神ぶりがこの展開によっていっそう際立つ。
いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。

また本書では次々に登場するキャラクターが実に魅力に溢れている。

シリーズを重ねるにつれてレギュラーキャラクターの存在感が増すのは当たり前だが、ちょっとした端役にも瑞々しい存在感を感じさせるほどコナリーの筆致は熟練されている。

まずボッシュが母親殺しの調査のために最初に訪れる母親の親友だったキャサリンの造形が強烈な印象を与える。娼婦という暗い過去を持ち、名前も変えて今の生活を手に入れたこの女性はしかし、警察連中にも容赦と引き替えに自分の身体を売り物にしてきた自分の過去に対して恥じず、人生最悪の時期であった娼婦としてのプライドも今も持ち、泰然自若としてボッシュに向き合い、そして語る。彼女の気高さこそが今の生活を手に入れる原動力になっていたことが実に深く心に沁み込んでいくのである。

また当時事件を担当した元ハリウッド署殺人課刑事のマッキトリックも忘れ難い。残された資料の内容の薄さからボッシュは彼を愚鈍な警官かチンピラどもに小銭をたかる腐敗警官かと思っていたが、実際は事件を道半ばで取り上げられた優秀な警官だったこと、そして彼自身マージョリー・ロウ殺害事件が迷宮入りしたことに悩まされている男だと気付かされる。休職中のボッシュが身分を偽り、近づくが簡単にその偽装を見破り、逆に返り討ちにしようとする老練ぶり。
またボッシュが当時の被害者の子供だと知ると一転して協力的になり、一緒に魚釣りへ乗り出す―このシーンは個人的にはかなり気に入っている―。彼がボッシュに事件の顛末を話すのは彼の悔恨をボッシュに託したかったからなのだろう。

そして何よりも本書において特筆なのはボッシュの母マージョリー・ロウの造形だ。ボッシュが母親殺しの捜査を進めていくうちにこの母親のボッシュに対する深い愛がひしひしと滲みだしてくる。
娼婦という仕事で女手一つで息子を育てようとしていたが母親不適格として子供を養護施設に入れられ、毎週通っては慈しんでいた母親。いつか親子2人で暮らせるよう、ボッシュの父親である弁護士に手助けを頼んでいたが、その願いが叶う前に路上で遺体となって発見されてしまう。
一介の娼婦の殺人事件はいつそんな目に遭ってもおかしくない数多ある最下層の人間に起こる事件として片付けられ、十分な捜査が成されないまま、今日に至る。

しかしそんな風に片付けられた事件の背後には今では街の各界の有力者たちとなった人々のある暗い過去と母親への繋がりがあったことが次第に見えてくるのだ。

それと同時にボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。

「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」

これがボッシュの信条だ。
しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。
しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。

そして捜査が進むにつれて法曹界の大物へと事件は繋がっていく。

また今回物語の重要なファクターの1つとしてボッシュのカウンセリングを担当している精神科医カーメン・イノーホスの存在がある。ストレスによる強制休職中であるボッシュは精神科医のカウンセリングを受け、復帰が可能であることを証明してもらわなければならないのだが、その相手がカーメンである。
しかし彼女こそが本書におけるボッシュの行動を後押しする存在となっているのが興味深い。

現在のボッシュを形成する原初体験をその不遇な過去に見出し、彼の過去を語らせることでボッシュは殺害された母親に向き合い、そして未解決であるその事件の調査を始めることを思いつく。定期的に行われるカウンセリングはボッシュに内面と対峙させ、またそのことで彼もまたそこからヒントと自分の存在意義をも悟っていく。

さらに彼女は物語の最終でボッシュに事件の真相を突き止める、女性ならではの視点を提供することにもなるキーパーソンとして機能する。

そしてこのカーメンとの面談は今まで断片的に語られてきたボッシュの生い立ちを1本の線として繋いで読者に示すことにもなる。

娼婦であった母親と暮らしていたボッシュは彼女が行政によって不適格とみなされて養護施設に入れられ、離れ離れになる。いつか一緒に暮らすことを夢見ていた母親はボッシュの父親であった弁護士に助けを借りてことを進めていくがその願いが叶う前に殺害されてしまう。
ボッシュはその後も養子に出されるが、引き取った家族から何度か養護施設に戻され、そして16歳になって、ボッシュがサウスポーでいい球を投げるという理由で大リーグ選手を育てたいと願う男の許に引き取られるが、その願いには従わず、ボッシュは陸軍へ入隊しベトナム戦争へ出兵する。
帰還後警察官となり、ロス市警で優秀な成績を修めて、メディアにもたびたび登場するヒーロー刑事となるが、ドールメイカー事件の責任を取らされて停職処分を受けた後、現在のハリウッド署勤務となる。

そんな生い立ちで孤独を幾度となく経験しながらもボッシュには常に女性が近寄ってくる。

1作目ではFBI捜査官で相棒を務めたエレノア・ウィッシュが、2作目は死亡した麻薬捜査官の元妻シルヴィア・ムーアと同棲していたが、彼女が去った後、本作ではマッキトリックの許を訪れた出先のフロリダで亡き父の家を売りに出して面倒を見ている画家志望の女性ジャスミン・コリアンと食事と一夜を共にするようになる。
確かにデビュー作においてテレビにも出演していたスター刑事で見た目も悪くないと書かれていたが、なんというモテぶりだろうか。

ボッシュが彼女に魅かれたのは彼女の中に自分と同種の暗闇を見出したからだが、また同時に彼女もまたボッシュが他の警官とは違う人間臭さを感じ、そこに魅かれていく。父親の遺産で暮らし、画家を目指す彼女は実は過去に人を殺したことのある女性だったことが判明する。実に謎めいた女性だ。

ところで書評家の池上冬樹氏が指摘しているように作者コナリーは過去の名作を取り込み、自分というフィルターを通じて物語へと消化している。

例えばチャンドラーを敬愛するコナリーだが、先にも書いたボッシュの信条、
「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」
を読んでニヤリとしたのは私だけではあるまい。これはまさにマーロウのあの有名な台詞へのオマージュであろう。

またボッシュが母親の当時の親友に話を聞きに行った帰りに立ち寄ったバーで出くわす、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を口ずさむ25歳くらいの女性のエピソードもチャンドラーが『長いお別れ』で書いたバーでマーロウが浸る女性に関するエピソードを想起させる。

更に本書の核を成す娼婦の母親殺しは作家ジェイムズ・エルロイの半生がモデルとなっているのは明確で―池上氏はこの作家の心酔者であり、その特異な過去、つまり情念の作家としてのエルロイの特異性を借り物のように取り込んでいるコナリーの創作姿勢が気に入らないようだが―、作中でも娼婦だったエルロイの母親が殺害された実際の事件『ブラック・ダリア事件』にも触れている。

そして私が思うに、最たるオマージュは本書は実は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の裏返しの物語であったということだ。

身分違いの男と女が出逢い、男はその屈託ない女の魅力に惹かれ、結婚まで誓う。それは実に素敵なシンデレラ・ストーリーだったが、それがお伽話に過ぎなく、現実の世界は利害関係によってそんなものは抹殺される。それが現実なのだ。
本書は実に現実的な『マイ・フェア・レディ』だったのだ。

そしてもう1つ物語がある。事件の真相に纏わる2人の女のエピソードだ。

しかし人の死の多い事件だった。
葬り去られたマージョリー・ロウ殺害事件の真相を探っていくうちに現れる容疑者たち、関係者たちが次々と死んでいく。

誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。
ハリーが現れることでその時が来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。

過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。

ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。
デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。

カウンセラーのカーメン・イノーホスはボッシュに母親の事件を解くために彼が警察官になったのだと示唆する。つまり母親の事件を解決した今、彼は警察官であることの意味が無くなったのだ。だからこそ最後ボッシュが警察を辞めることを決意したのだ。
実際、当時作者はここでハリーを永遠に退場させようと思ったのかもしれない。

ただ彼に新しく現れたジャスミン・コリアンという新たな謎がまた生まれた。彼女が過去に犯した殺人については結局詳しく語られないままだった。
アーノウ・コンクリンはボッシュに自分に合う人がいたら、過去はどうあれ命懸けでしがみつけと説く。

ボッシュはジャスミンこそが今の自分に合う者であり、命がけでしがみつく存在であると確信した。
ただ自分と同類と感じていたシルヴィア・ムーアとも結局は別れてしまったボッシュ。自分と同じ暗闇を持つと目を見て確信したジャスミンもまた行きずりの女となるのだろう。

母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし彼の捜査によって犠牲となった者達の死は一生背負うことになる十字架になるだろう。
しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。


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ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーラスト・コヨーテ についてのレビュー
No.180: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

誰もが一歩間違えれば黒い心に囚われる

ハリー・ボッシュシリーズ3作目はボッシュのキャラクターを形成するエピソードとして描かれていた、彼がロス市警のエースから下水と呼ばれるハリウッド署に転落することになったドールメイカー事件。本書ではなんとこのボッシュの過去の瑕とも云うべき事件がテーマである。
彼が解決したと思われた事件の犯人は別にいた?
それを裏付けるかの如く、かつての手口と同じ形で新たな死体が見つかる。更にボッシュは彼が射殺した犯人の家族から冤罪であったと起訴されている身である。

最初からどこをどう考えてもボッシュにとっては不利な状況で幕が開く。

特に被害者の一人が殺害された時間に容疑者が友人のパーティーに出席していたビデオを証拠として出された場面ではボッシュの誤認逮捕への嫌疑は最高潮に達するのだが、その疑問を実に鮮やかに本書はクリアする。

ただそこからが本書の面白いところで、当時記者にも隠していたドールメイカーの犯行の特徴を模倣犯がほぼ忠実に擬えていたことから捜査に関わっていた人物、すなわち警察関係者に容疑者が絞られることになる。
警察仲間の中に快楽殺人鬼がいる。
この油断ならぬ状況はさらに事件に緊迫度をもたらす。

またボッシュはこの裁判を通して過去に母親を亡くした忌まわしい過去を白日の下に曝され、直面せざるを得なくなる。

それまでの作品にも断片的に描かれていた母親。彼に実在する画家と同じ名前を付けた元娼婦だった女だ。
彼女マージョリー・フィリップス・ロウはレイプされた絞殺死体として発見された。そしてボッシュは施設に入れられた。その過去から娼婦やポルノ女優を襲ったドールメイカーに個人的な恨みを抱くようになり、ノーマン・チャーチという無実の男を怒りに任せて射殺したのではと原告側の弁護士ハニー・チャンドラーに詰問され、ハリーは動揺する。それまで一度も考えたこともなかった心理だが、彼自身も潜在的にもしかしたらそうだったのではないかと思うようになる。

濃密な人間関係が物語が進むにつれて形成されていたことが判り、更に物語世界が深化する。この世界に没頭できる感覚とサプライズは何ものにも代え難い至福だ。勿論やり過ぎると鼻白む気はあるが。

また前作『ブラック・アイス』で知り合ったシルヴィア・ムーアとの関係がまだ続いていることが本書では書かれている。しかもほぼ同棲状態で共に食事をし、寝泊まりして愛を交わすほどの仲になっている。かつて警官の妻であったシルヴィアは警察官相手の距離感を心得ており、ボッシュにとって帰るべき家といった存在にまでなっている。

ただ以前の夫の過去を敢えて問わないことで結婚生活に失敗したシルヴィアは愛するボッシュを話したくないがために彼の昏い過去をも知ることを欲する。しかし過去を捨てようとして生きてきたボッシュはその過去を思い出すことを拒む。

本書では2人の性格を的確に捉えている印象的な文章がある。
シルヴィアは物事の中に美を見出すが、ボッシュは闇を見出す。天使と悪魔の関係だ。
教師という職業に就き、人の清濁を理解した上で美点を見出し、そこを延ばそうとする女性に対し、常に人を疑って隠された悪を見出して数々の犯人を検挙してきた男。どちらもそれぞれの職業に、生き方に必要な才能を持ちながら水と油のように溶け込まないでいる。唯一共通するのはお互いが求めあっていることだ。

しかし法廷劇の濃密さはどうだろう!
百戦錬磨の強者弁護士ハニー・チャンドラーの強かさは男性社会の中で勝ち抜くことを自分に課した逞しい女性像を具現化したような存在だ。裁判に勝つために自らの容姿、敵の中に情報源を隠し持つ、更には被告側の隠したい過去をも躊躇なく暴く、容赦ない女性だ。

後にコナリーは弁護士ミッキー・ハラーを主人公にしたシリーズを書くが、早くも3作目でこのような法廷ミステリを書いているとは思わなかった。
1作目が典型的な一匹狼の刑事のハードボイルド小説ならば2作目はアメリカとメキシコに跨った麻薬組織との攻防と思わぬサプライズを仕掛けた冒険小説、そして3作目が法廷ミステリとコナリーの作風のヴァラエティの豊かさとそしてどれもがストーリーに深みがあるのを考えると並外れた才能を持った新人だと思わざるを得ない。

さて本書の原題は“The Concrete Blonde”、即ちボッシュの誤認逮捕を想起させるコンクリート詰めにされて発見されたブロンド女性の死体を指している。
一方で邦題の『ブラック・ハート』はヒットした2作目の『ブラック・アイス』にあやかって付けたという安直な物ではない。いや多少はその気は出版社にもあったかもしれないが、本書に登場する司法心理学者が書いた本のタイトル『ブラック・ハート―殺人のエロティックな鋳型を砕く』に由来する。
即ちブラック・ハートこと“黒い心”とは誰もが抱いている性的倒錯であり、それが砕けるか砕けないかという非常に薄い壁によって犯罪者と健常者は分かたれているだけで、誰もが一歩間違えば“黒い心”に取り込まれて性犯罪を起こしうると述べられている。

恐らく原題も最初はこの『ブラック・ハート』としていたのではないだろうか?
というのも第1作『ナイトホークス』の原題が“Black Echo”で2作目が邦題と同じ“Black Ice”。それらはいずれも作中で実に印象的に扱われている言葉でもある。その流れから考えるとコナリー自身もボッシュシリーズの題名は“Black ~”で統一しようと思っていたのだが、それまでの題名に比べて“Black Heart”はいかにもありきたりでインパクトがなさすぎるため、エージェントもしくは出版社が本書でセンセーショナルに描かれるコンクリート詰めのブロンド女性の死体を表す「コンクリート・ブロンド」にするよう勧めたのではないだろうか。

しかし本書の題名はそのどちらでも相応しいと思う。邦題の『ブラック・ハート』は本書の焦点となるドールメイカーの追随者を正体を探る作品であることを考えると、その犯人の異常な、しかし誰もが持つ危うい心の鋳型を指すこの単語が実に象徴的だろう。

一方で『コンクリート・ブロンド』ならば、新たに現れたドールメイカーの追随者による犠牲者たちを衝撃的に表した単語であることから、それもまた事件そのものの陰惨さを指す言葉として十分だろう。
しかもコナリーはこの言葉にもう1つの意味を込めている。

今回のボッシュの宿敵となって立ち塞がる原告側の弁護士ハニー・チャンドラー。コナリーが敬愛する作家のラストネームを冠したこの女性こそが「コンクリート・ブロンド」だったのではないか。
彼女は裁判所にある正義の女神テミスの像を指して、これこそが“正義”である、被告人の話を聞かず、姿も見ない、気持ちも解らないし、話しかけもしないコンクリート・ブロンドとボッシュに話す。自分で信じた正義のためにはどのような手を使ってでも戦い、勝利を勝ち取ると誓った、コンクリートのように強く揺るがない意志を持ったブロンドの戦士。
卑しき犯罪者を糾弾する自分だけは自分の正義を守ろうとしたのが彼女だとしたら、だからこそコナリーは彼女にその名を与えたのではないだろうか。

一方でボッシュはこのチャンドラーに公判中、怪物を宿した刑事だと糾弾される。そして自身もまた自分の中にその怪物がいるのかと自問し出す。自分もまた“黒い心”の持ち主であり、チャーチを撃ち殺した自分は彼らとなんら変わらないのではないかと。
つまり原題がボッシュの宿敵を指すのであれば邦題はボッシュ自身をも指示しているとも云えるだろう。

ハリー・ボッシュがロス市警の花形刑事から下水と呼ばれるハリウッド署へ転落させられたドールメイカー事件。彼の刑事人生で汚点ともなる疑惑の事件が今回見事に晴らされた。1作目からのボッシュの業は1つの輪となって一旦閉じられることになるとみていいだろう。

次作からは再び己自身の過去に向かい合う作品となるだろう。
そして最後に彼の許に戻ってきたシルヴィアとの関係も決して十分だと云えない。お互い愛し合っているからこそ、続けるのが困難な愛もある。危険に身を投じるボッシュは彼のせいでシルヴィアもまた危険に巻き込むかもしれないと恐れ、一方でその姿勢を高貴なものと尊敬しながらも、以前警察官だった夫を喪ったシルヴィアは再び同じような失意に見舞われるのを恐れている。

最後にボッシュが呟いたように、少しでも関係が続くよう、もはや願うしか手がないのだろう。最後の台詞に“Wish”という言葉が入っていることに私はボッシュのもう1人の女性のことを思い出さずにはいられなかった(この最後の台詞はまさに珠玉!)。

つくづくこのシリーズは数珠繋ぎだと思わされる。次作『ラスト・コヨーテ』は本書の裁判でも取り上げられたボッシュの母親に纏わる話なのだという。このように作者コナリーは実に周到にボッシュという一人の刑事の人生を魅力あるエピソードで語り出していく。

さらに本書で登場したホームレスの弁護士トマス・ファラディも記憶しておかねばならない人物の1人かもしれない。彼が凋落したエピソードは語られたものの、一連のボッシュサーガに再び登場するやもしれないからだ。

巻を重ねるごとに深みを増すハリー・ボッシュシリーズ。
もう読むことを止めることは私にとって実にこの上ない苦痛に感じることを正直に告白してこの感想を終えよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ブラック・ハート〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・ハート についてのレビュー
No.179: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

戦いの音楽よ、高らかに響け!

どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。
本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。

まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。
主人公は不動産会社の社長を祖父に持ち、ピアノの特待生として高校の音楽科に入学した香月遥。このように書くと遥はいいとこのお嬢様のように思えるが、彼女の一人称叙述で展開されるその内容からはどこにでもいる普通の女子高生のようにしか映らない。
突然の火事で全身大火傷を負うが、医者の必死の大手術の末、ほぼ全身に亘って皮膚移植を施されるが、火事の影響で気管を焼かれ、しゃがれ声しか出せなくなる。懸命のリハビリと岬洋介という名ピアニストという師を得て、不可能と思われたピアノの演奏をたった二週間で弾けるようになるという驚異的な回復を見せる。しかしそれが全く絵空事のように思えず、この岬というピアニストの指導の許であれば可能であると納得させられるような説得力のある説明と描写。

またそれ以外にも登場人物を取り巻く色々なエピソードに纏わる情報や知識がしっかりとしており、単なるモチーフになっていない。スマトラ島沖地震の詳細、高校進学に必要な経費の公立高校と私立高校との差、火傷に関する情報にその治療に関する細かい内容、相続税対策を考慮した遺産相続の方法など我々の実生活に直接関係のある事柄がつぶさに書かれており、一つとしておざなりに書き流されていない。

また描写と云えば本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。
私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。
そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。
後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。

そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。

やはりなんといっても主人公香月遥が全身大火傷という重傷を負ってから学校代表としてピアノコンクールに出場するまでの岬洋介との血のにじむようなレッスンの様子が非常に読ませる。特に常に包帯を巻き、松葉杖を突いて学校生活を営む彼女に対して周囲がそれぞれの立場で好奇心、功名心、そして妬みや嫉みを彼女にぶつけてくる様が生々しく、単なる不具者の美談となっていないところがいい。
学校の校長は障碍者としての彼女がピアノコンクールに出場するまでになったことを自分の高校のいい宣伝材料として彼女を客寄せパンダとして利用しようとして隠さないし、金持ちの家のお嬢さんでその上に同情心を買おうと勝手に思い込んでいるクラスの同級生の悪意ある言葉など障害者が取り巻く世間の厳しさをまざまざと見せつける。
そんな現実があるからこそ彼女の強さが引き立つわけだが、むしろ障碍者の人々への社会の理解が十分になされてなく、登場人物の岬の言葉を借りれば、世界はまだ悪意に満ちているのだ。

そう、これは戦いの物語なのだ。
突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた上に他人に成りすますことを強いられた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。

そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。
法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。
彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。

本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。
そして最後の一行として掲げられる本書の題名は再出発するための手向けの言葉なのだ。

音楽用語で模された各章題を並べてみよう。

~嵐のように凶暴に~
~静かに声をひそめて~
~悲嘆に暮れて苦しげに~
~生き生きと高らかに響かせて~
~熱情を込めて祈るように~

これらはまさに主人公香月遥が本書で辿った生き様を見事に表しているが、と同時に突然障害者となった人々がその後の人生で辿る生き方をも示しているように思える。

障害者となる事故や事件はまさに嵐のように凶暴に自身に降りかかってくるだろうし、その後静かに息をひそめて今後のことを考えつつ、悲嘆に暮れて苦しみながら己の身に降りかかった不幸を嘆き悲しむことだろう。
しかしそれが逆に新たな人生を生きるチャンスを、健常であった頃よりももっと一日一日を大切に生きることを教えてくれたと思えば生き生きと高らかに生きていることの喜びを響かせ、そして“今この一瞬”を熱情を込めて祈るように大切に生きていくことだろう。

本書が殺人を扱いながらも実に清々しいのはこの章題に込められた作者の障害者への思いゆえだ。
これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。
本書の本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。
全くなんというデビュー作なのだ、本書は。


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さよならドビュッシー (宝島社文庫)
中山七里さよならドビュッシー についてのレビュー
No.178:
(9pt)

エレノア・ウィッシュはボッシュにとっての“Wish”だったのか

マイクル・コナリーデビュー作にしてMWA賞の新人賞に輝いた今なお続くハリー・ボッシュシリーズ第1作の本書は読後そんな感慨が迫りくる物語だ。

さてこれほどまでに長くシリーズが続くハリー・ボッシュという人物。その人物像はこの1作目でかなり詳細に書かれている。

本名ヒエロニムス・ボッシュ。孤児院で育った徹頭徹尾の一匹狼。
当時40歳の彼はヴェトナム戦争時代にトンネル兵士として参戦し、その後、ロス市警に入署し、パトロール警官からたった8年で刑事へ、そして花形の強盗殺人課へとエリートコースを辿る。その活躍はスター刑事として本も数冊書かれ、さらに彼を主人公にしたTV映画やTVシリーズが作られ、新聞も日夜彼の活躍を報じるも、ドールメイカー事件で誤って容疑者を殺害した廉で1か月の停職処分と下水と呼ばれるハリウッド署への左遷を食らう。

自身は戦争の後遺症で時々不眠症に悩まされ、その影響で人を撃つことと暴力に対して抵抗がなく、躊躇わずに人を殺せる性格である。

風貌は身長6フィートプラス数インチでさほど背は高くなく、やせぎすだが筋肉質で針金のように細くて丈夫だと評されている。目は茶色がかった黒色で髪には白いものが混じり出している。

さて彼が関わる事件はかつて自分がヴェトナム戦争に従軍していた頃、同じようにトンネル兵士として戦友だったウィリアム・メドーズという男がハリウッド湖のパイプで薬物過剰摂取で死んでいるのが発見されるが、ボッシュはこれが事故死に見せかけた殺人だと信じ、捜査する。やがて彼が銀行の貸金庫強盗の容疑者となっていることが判り、その事件をFBIが扱っていることから一度は拒否されるも、強引な手を使って一転FBIとの合同捜査に切り替わる。

このボッシュという男、とにかく内外に敵の多い人物だ。単独捜査を好み、犯人検挙率も高いため、TVシリーズが作られるほどのスターぶりを発揮するが、その活躍を妬む周囲の反感を買い、虎視眈々と失墜するネタを狙われている。

ボッシュ本人は自分が正しいと思ったことを決して曲げず、事故死として処理されそうだった事件も数々の証拠を挙げることで殺人事件として周囲に納得させる執念を持っている。また事件解決のためには小事よりも大事を重んじる性格で、捜査のパートナーとなったエレノアの杓子定規な性格―つまりどんな微罪であっても犯人を逃さない―と反目し合いながらもいつしかお互いに魅かれ合っていく。

一匹狼の刑事、ヴェトナム戦争のトラウマ、男と女のロマンス。
このように本書を構成する要素を並べると実に典型的なハードボイルド警察小説である。しかしどことなく他の凡百の小説と一線を画するように思えるのはこのボッシュという人物に奥行きを感じるからかもしれない。

仕事の終わりに片持ち梁構造の、金持ち連中が住まう一軒家でハリウッドの景色を眺めながらジャズを流してビールを飲むことを至上の愉しみとしている。読書にも造詣が深く、自分の名前の由来が高名な画家であることがきっかけかもしれないが、絵画にもある程度の知識を持つ。ボッシュがエレノアと魅かれるのも彼女の自宅にある蔵書と彼女の家に掛かっている一幅の絵のレプリカが自分との精神的つながりを見出すからだ。こんな描写に単純なタフガイ以上の存在感を印象付けられる。

捜査が進むにつれて時に反目し合い、時に長年の相棒のように振る舞いながらボッシュとエレノアは長く2人でいる時間の中でお互いの人間性を確認し合い、そして個人的なことを徐々に話し出していく。
2人での語らいのシーンは数多くあるが、その中で私は2人で強盗グループが襲撃すると目される富裕層相手の貸金庫会社に張り込んでいる時に車中で訥々と語り合うシーンが好きだ。その時の2人は長く流れる時の隙間を埋めるための会話を考えるような関係ではなくなり、沈黙が心地よくなっている関係となっている。張り込みの最中でお互いの人生の分岐点になった過去の出来事を語り、そしてその出来事で自らが思いもしなかった心情について述べられる。そして初めてその時にボッシュはエレノアを仕事上のパートナーから人生のパートナーとして意識し、その責任感に身震いする。一匹狼の敏腕刑事の男が連れ合いを意識したときに初めてそれを守っていく勇気と怖さを目の当たりにするのである。何とも味わい深いシーンだ。

そして彼の率いる元ヴェトナム兵士による銀行強盗が貸金庫に押し入ってからの攻防が実に写実的だ。本書のクライマックスと云っていいシーンだ。

そしてボッシュは彼らが侵入した貸金庫会社の下にある地下下水道の中に飛び下り、追跡する。それはまさに彼がヴェトナム戦争時代に経験したトンネル兵士の再来だった。真っ暗闇の中、いつ銃弾が飛んでくるか解らない緊張の下、ボッシュは過去と対峙しながら犯人を追う。

この一連の流れは実に映画的であり、また手に汗握るシーンだ。1作目から主人公の過去とマッチしたクライマックスシーンをきちんと用意している辺り、新人離れした構想力を持っているように感じた。

つまり本書に登場する人々に全て共通するのはヴェトナム戦争だ。
かの戦争で普通の生活が出来なくなり、犯罪に関わる生活を繰り返す者、混乱に乗じて一攫千金を得る者、またそれに一役買って社会的地位を得た者、その渦中に取り込まれて無残な死を遂げた者、愛する者を喪った者、もしくはそんな過去を振り払い、己の正義を貫く者。
十人十色のそれぞれの人生が交錯し、今回の事件に収束していったことが判る。

本書では最初の犠牲者となったウィリアム・メドーズという人物を忘れてはならないだろう。
暗闇の中でいつ敵が襲い掛かってくるか解らないトンネル兵士を担いながら、ボッシュを含めた他の兵士とは異なり、いつも躊躇なく穴蔵に飛び込み、暗闇で戦闘を繰り返してきた男ウィリアム・メドーズ。暗闇の中でヴェトコンどもを次々と殺し、戦利品としてその片耳を持ち帰っていた。その数は最高で33個にも上った。彼はヴェトナム戦争後も彼の地に留まり、戦闘に従事していた。そしてアメリカに戻ってからも水道局や水道電力局に就職し、またもや地下に潜る死後淤に従事していた。ヴェトナム戦争の経験で地下こそが彼の居場所になってしまっていた男。ただそこには安らぎはなく、しばしば麻薬に染まり、入出所を繰り返していた男でもある。

本書の原題は“Black Echo”。これはボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いを示している。何とも緊迫した題名だ。

トンネル兵士とはヴェトナム人が村の下にトンネルを張り巡らしており、家と家、村と村、ジャングルを繋いでおり、そのトンネルの中に潜ってヴェトコン達と戦う工作兵のことを指す。

翻って邦題の“ナイトホークス”とは画家エドワード・ホッパーが書いた一幅の絵のタイトル“夜ふかしする人たち”を指す。街角のとある店で女性と一緒にいる自分を一人の自分が見ているという絵だ。この絵のレプリカが捜査のパートナーとなるFBI捜査官エレノア・ウィッシュの自宅に飾られており、しかもボッシュ自身も好きな絵であった。そしてその訪問がきっかけとなって2人が急接近する。

つまり原題ではボッシュがヴェトナム戦争の暗い過去との対峙と、かつて戦友だったウィリアム・メドーズとの、忌まわしい戦争と一緒に潜り抜けた男への鎮魂が謳われているのに対し、邦題では事件を通じてパートナーとなるボッシュとエレノア・ウィッシュとの新たな絆を謳っているところに大きな違いがある。

そしてこのパートナーの名前がウィッシュ、つまり“望み”であることが象徴的だ。邦訳ではしきりに「ボッシュとウィッシュは」と評され、決して「ハリーとエレノアは」ではない。それはまだお互いがファーストネームで呼び合うほど仲が接近していないことを示しているのだろうが、一方でボッシュの捜査には、行動には常に“望み”が伴っているという風にも読み取れる。
原文を当たっていないので正解ではないのかもしれないが恐らくは“Bosch and Wish ~”とか“Bosch ~ with Wish”という風に表記されているのではないだろうか。そう考えると本書は下水と呼ばれる最下層のハリウッド署に埋もれる“堕ちた英雄”の再生の物語であり、その望みとなるのがエレノアというように読める。
つまりエレノア・ウィッシュこそはハリー・ボッシュの救いの女神であったのだ。だからこそ邦題はエレノアとボッシュの関係を象徴する一幅の絵のタイトルを冠した、そういう風に考えるとなかなかに深い題名だと云える。

つまり原題ではボッシュとメドーズとヴェトナム戦争との関係を謳い、邦題ではボッシュとウィッシュの繋がりを謳っている。
その後に刊行される作品が『ブラック・アイス』に『ブラック・ハート』であることを考えると統一性を持たせるために『ブラック・エコー』とすべきだろうが、私は邦題の方が本書のテーマに合っていると思う。最後のエピローグがそれを裏付けている。

いわゆるハリウッド映画やドラマ受けしそうな典型的な展開を見せながらも、実はそのベタな展開こそが物語の仕掛けである強かさこそが数多ある刑事小説と、ハードボイルド小説と一線を画す要素なのかもしれない。とにかく作者コナリーが本書を著すに当たって徹底的に同種の小説のみならずエンタテインメントを研究しているのがこのデビュー作からも推し量れる。

さて本書はこの後長く続くハリー・ボッシュサーガの幕開けに過ぎない。これ以降の作品が世の海外ミステリファンの胸を躍らせ、作品を出すたびに今なお年間ランキングに名を連ねているのはご存知の通りだ。
まずは本書で言及されているボッシュが降格人事を受け入れることになったドールメイカー事件に彼の母親が関わっていたという事実が気になる。新しいシリーズを、それも世評高いシリーズを読み始めるというのはなんとも胸躍ることか。
次巻以降のボッシュの長い道行をじっくり味わっていこう。


▼以下、ネタバレ感想
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ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)
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