■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数85件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『十日間の不思議』で探偵としての自信を喪失したエラリイが今度対峙したのは、今までの事件とは毛色が異なる連続絞殺魔による無差別殺人事件。そして舞台もライツヴィルではなく、元々のホームフィールドであったニューヨークだ。
とにかく色んなテーマを孕んだ作品である。 一番解決が困難とされるのは動機も関係性もない人物が通りがかりに人を殺す事件だと云われている。本書はエラリイのロジックはこのような無差別通り魔殺人事件にも通用するのかが表向きのテーマであろう。 しかしそれを取り巻いて人種の坩堝と云われるニューヨーク市で起こる様々な移民が殺される状況下で想定される市民の暴動、さらに探偵としての自信を喪失したエラリイの奮起も読みどころの1つである。 そして犯人こと絞殺魔<猫>の正体は意外にも物語半ば、全400ページ弱のうち220ページ辺りで判明する。明確になった犯人対名探偵の対決という構図を描きながら、しかし最後にどんでん返しを用意しているのが実にクイーンらしい。 事件の特色も国名シリーズやドルリー・レーンシリーズ、そしてライツヴィルシリーズなどの作品からガラリと変わってきている。 今までエラリイが遭遇してきた事件は限られた空間・状況で限られた人間の中で起きた殺人事件が語られてきた。したがってエラリイは限定された人物の行動と性格を探り、それを論理的に検証して最も当てはまる人物を堅固なロジックで指し示すというものだった。 しかしライツヴィルシリーズ第1作の『災厄の町』では街の名士一家に起こる事件が小さな町ライツヴィルの民まで影響を与え、スキャンダルと狂乱を生み出す様子を表した。そこから更に事件の及ぼす外部への波及効果を広げたのが本書であろう。しかも殺人の対象は名士一家といった限定されたコミュニティではなく、ニューヨーク市民全員。無差別に絞殺し続ける正体不明の絞殺魔だ。 この影響範囲の拡大・事件の拡張性はクイーンとしても非常に大きな挑戦だったのではないだろうか。 連続絞殺魔対名探偵。これはパズラーでもなく、本格推理小説でもなく、もうほとんど冒険活劇である。 クイーンが古典的本格ミステリから現代エンタテインメントへの脱皮を果たした作品だと云えよう。 しかしそんな特異な事件でもクイーンのロジックは冴え渡るのだから驚きだ。クイーンのロジックの美しさを久々に堪能した。 そして理詰めの犯人追求ではなく、次の事件を予見してからの現行犯逮捕という趣向は今までの諸作でも見られたが、従来の場合はエラリイの意図を悟らせず、エラリイが犯人を罠に掛ける有様さえもサプライズとしていたのに対し、本作ではそのプロセスを詳らかに書くことで臨場感とスリルをもたらしている。 そして本編には戦争の翳が物語の底に流れている。笠井潔氏が提言した本格ミステリが欧米で発展した根底に戦争による大量死があったとされる「大量死体験理論」を裏打ちする内容が書かれている。 つまりこの作品は戦争という災厄によって無駄死にを強いられた多くの人間に対する弔魂歌なのだ。 誰が犯行を成しえたかを精緻なロジックで解き明かしてきたクイーンのシリーズが後期に入り、犯罪方法よりも犯人の動機に重きを置き、なぜ犯行に至ったかを心理学的アプローチで解き明かすように変化してきている。しかしそれは犯人の切なる心理と同調し、時には自らの存在意義すらも否定するまでに心に傷を残す。 最後の一行に書かれた彼がエラリイに告げる救いの言葉、「神はひとりであって、そのほかに神はない」がせめてエラリイの心痛を和らげてくれることを祈ろう。 次の作品でエラリイがどのような心境で事件に挑むのか興味が尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
93年に出版され、今なお評判が高く版を重ねているドン・ウィンズロウのデビュー作にして探偵ニール・ケアリーシリーズ第1作が本書である。
本書が斯くも高く評価されているのは、探偵物語としても上質でありながら主人公ニールの成長物語として実に爽やかな読後感を残すからだろう。 父なし児として売春婦の母親と一緒に劣悪な環境下で暮らし、掏摸で糊口をしのぎながらストリート・キッドとして生きていたニールが初めてしくじった相手が探偵のジョー・グレアム。二度目に遇った時はジョーが窮地に陥っているときで、ニールは咄嗟の機転を利かせてジョーを助ける。そこから探偵とストリート・キッドの師弟関係が始まる。 まずこの邂逅のエピソードが実にいい。 さらにニールが渋々引き受ける家出人探しの上院議員の娘アリーがお嬢様から転落していく一部始終、そして売女に身をやつしてしまいながら、母親から明かされるアリーの悲惨な境遇と心の叫び―父親である上院議員に幼い頃から性的嫌がらせを受けていた。しかも実の娘ではないことが解る―。 この衝撃の事実は本来ミステリ・エンタテインメント小説であれば物語の後半に持って来るべき真相だが、作者は早くもニールが捜索する前の家族への聞き込みの段階で明かす。それは物事は必ずしも一つの方向で見るべきではなく、多面的に見つめることで隠された真実が浮かび上がるのだと本書を読むにあたってあらかじめ注意を喚起しているかのように思える。 この予想は当たっていて、物語は二転三転して進行する。特にニールがアリーを見つけてからの展開はレナードの作品を思わせるような全く先の読めない展開で誰も予想できないだろう。 実際私は何度も予想を裏切られた。それもいい意味で。 また次期大統領候補の娘の捜索というメインのストーリーの合間に断片的に挟まれるグレアムがニールを教育し、一人前の探偵に育てていく探偵指南の挿話が実に面白い。 まずは部屋の掃除から始まり、料理の指導と人間として基本的なことから教え、その後尾行の仕方、顔の覚え方、探し物の探し方、姿の隠し方など、プロフェッショナルな探偵術を微に入り細を穿って教授する。これらの内容は実際作者は探偵をやっていたのではないかと思わせるほど専門的である。 訳者あとがきによれば作者の職業遍歴は実に多種多様で、履歴から人生を推測するだけでも実に様々な物語が展開しそうなほどだ。そしてその経歴の中にはその手のノウハウを身を以って経験するものがちらほらと散見される。 そして物語の各登場人物のエピソードの内容は実は社会の暗い世相を反映し、多様化する現代の病とも云える売春や近親相姦、麻薬密売に中国マフィアの台頭と気の滅入るような内容がふんだんに盛り込まれているのだが、上に述べたニールとジョーの師弟関係の挿話や“生きた”言葉を話す登場人物たちの会話のためもあって実に爽やかな読後感をもたらす。 リアルとフィクションのおいしい要素を上手くブレンドしたその筆致はレナードのそれとは明らかにテイストが違い、デビュー作にしてすでに自分の文体を確立している筆巧者なのだ。 さて本書の原題は“A Cool Breeze On The Underground”、直訳すると『地下に吹く一迅の涼風』とでもなろうか。 作中ニールがロンドンでアリーを捜索中、地下鉄を乗り渡る場面がある。そこでロンドンの地下鉄の暑苦しさについて語られており、涼風の可能性、存在自体をも否定するほどの暑さと述べられている。つまり存在しうる物でない物、一つの希望を表しているようだ。 また“Underground”は「地下」という意味に加え、「裏社会、暗黒街」という意味もある。すなわちこの一迅の涼風とは主人公ニールを指しているに違いない。裏ぶれた社会に青さと甘さを持ちながらも自らの道徳を大事に事件に当たる若き探偵ニール。このニールはチャンドラーのフィリップ・マーロウを現代に復活させた姿としてウィンズロウが描いた人物であるように思える。 ストリート・キッドから育てられた若き探偵ニール。若さゆえに自分の感情をコントロールするのに未熟なため、私立探偵小説でありながら青春小説特有のほろ苦さを醸し出す。 そして舞台はニューヨークからロンドンへ渡り、ヤクの売人にまぎれながらアリーを救出する活躍の様は探偵小説というよりもスパイ小説のような読み応えも感じさせる。 いやあ、これは版を重ねるわけだと頷かざるを得ない、本当の良作だ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
第3期クイーンシリーズで後期クイーンの代表とされるいわゆる「ライツヴィルシリーズ」の第1弾が本作。
第1の事件として架空の町ライツヴィルの創設者となったライト家に起きた妻毒殺未遂事件を扱っている。 題名の『災厄の町』とはすなわちライツヴィルを指している。但しこの町に悪党共が巣食い、荒廃しているとか、基幹産業が斜陽になり、過疎化が進んでいるとかそんな類いのものではなく、町の著名人であるライト家に起こった妻毒殺疑惑事件について、町中の人間が伝聞からあらぬ噂を掻き立て、それが歪んだ憎悪を生み、容疑者のジム・ハイトのみならず、被害者のライト一家へも誹謗・中傷を浴びせていくという、1つの事件が町に及ぼす狂気を謳っているのだ。 扱う事件は妻殺し。夫であるジムは金に困り、飲んだくれ、しかも殺人計画を匂わす手紙まで秘匿していた、と明々白々な状況証拠が揃っていながら、当の被害者である妻が夫の無実を信じて疑わないというのが面白い。そしてその娘婿の無実を妻の家族が信じているというのも一風変わっている。 この実に奇妙な犯人と被害者ならびにその家族の関係が最後エラリイの推理が披露される段になって、実に深い意味合いを帯びてくる。 そして特徴的なのはエラリイが敢えて真相を語るのを先送りにし、今までの作品と違い、ごく限られた人物にしか明かさなかったことだ。 『スペイン岬の秘密』でも見られた、真相を明かすこと、犯人を公の場で曝すことが必ずしも正義ではないのだというテーマがここでは更に昇華している。 知らなくてもよいこと、気付かなくてもよいことを知ってしまったがために苦悩している。興味本位や己の知的好奇心の充足という、完全な野次馬根性で事件に望んでいたエラリイが直面した探偵という存在の意義についてますます踏み込んでいる。 さてこの幸せに見えた新婚夫婦の、知られざる狂気と殉教精神が故に起こった悲劇というモチーフはロスマクの諸作を連想させる。 私はそれが故に今までのロジックの妙で驚きを提供していた作品よりも余韻が残る思いがした。 もう1つだけ本書に関して付け加えよう。今回は『中途の家』以来となる法廷シーンが挿入されている。この辺の内容はけっこう手馴れた物で読み物としての面白さがある。通常法廷物であれば法廷シーンで一発逆転劇が繰り広げられるのだが、クイーンの場合は逆に容疑者が更に苦境に追い込まれていく模様が書かれており、逆に危機感を煽り立てるところに特徴がある。 クイーンが法廷シーンを盛り込んだのは当時人気を博し、ドラマにもなったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの影響を受けたからではないだろうか。出版社の要望もあったのかもしれないが、あくまで真相は法廷シーンではなく、古くから一同を集めて館で披露するスタイルを固執しているのがクイーンらしい。 しかし今なおミステリ評論家の間で俎上に上る後期クイーン問題。ようやくその入口に立った喜びは確かにある。 さて悩める探偵クイーンの道程を一緒に辿っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
スティーヴン・キングの息子である新進気鋭のホラー作家の短編集。
まずシークレット・トラックとして謝辞に「シェヘラザードのタイプライター」が収録されている。 この短編集に対する暗示めいた作品だ。果たしてこれは作者不詳のタイプライターが紡いだ作品がこれから披露される短編なのだろうか、そんな謎めいた予感をももたらす小品だ。 「年間ホラー傑作選」はホラー小説アンソロジストが出くわす悪夢の物語。 ホラーを読み尽くした編集者がいつの間にかホラー映画の主人公になり、自滅の道を歩んでいくという内容でプロットとしては実にオーソドックスだが奇妙な肌触りの読後感がある。作中に梗概のみ語られる「ボタンボーイ」のグロテスクさとピーターを始めとするキルルー兄弟のフリークたちの饗宴ともいうべき邂逅のひと時は悪夢のような幻想味に満ちている。 「二十世紀の幽霊」は街の映画館に現れる幽霊の話。 名作映画『ニューシネマパラダイス』を髣髴とさせるようなセピア色に彩られた郷愁を誘う物語。幽霊が出るといってもホラーではなく、その幽霊イモージェンは『オズの魔法使い』公開中に脳内出血で死亡した女性であり、映画好きな幽霊。そして何よりも最後にアレックがイモジェーンと再会するシーンが美しい。絶妙にラストシーンへの伏線が効いている、実にアメリカ的なロマンティック・ホラーだ。 粗筋が書けないストーリーもこの中には収められていて、それは「ポップ・アート」と「うちよりここのほうが」がそれに当る。この2つに共通するのは親密な2人の交流を綴った内容だということだ。 「ポップ・アート」は個人的ベストだ。風船人アーサー・ロスことアートと主人公「おれ」が過ごした十代の楽しかった日々を描いた短編。これについては粗筋を書くよりも素直に読んでそしてジョー・ヒルの描くおかしく奇妙ながらも清々しく美しい友情譚に浸るべし。風船人という実にマンガ的なアイデアが見事に少年時代のキラキラした出逢いと別れの物語に昇華した傑作。 片や「うちよりここのほうが」は大リーグの監督アーニー・フィルツとその息子ホーマーの日常を描いた短編。事件らしい事件として公園で散歩中に浮浪者の死体をホーマーが見つける件があるが、そこはなんともするりと交わされている。なんとなく作者の父親キングとヒルの幼き頃の思い出といった感じがしないでもない。 小説や物語が書かれて幾千年も経った今、未だ読んだ事のない作品を生み出すということは太平洋に落とした結婚指輪を見つけ出す以上に不可能に近い。そんな現在でも傑作と呼ばれる作品が生み出されているのはひとえに小説家たちが既存の物語や過去の名作を独自にアレンジした新しい視点、趣向を取り入れて、可能性を広げているからだ。例えば本書で云うならば「蝗の歌をきくがよい」と「アブラハムの息子たち」がそれに当るだろう。 前者は朝起きたら巨大な昆虫になっていたフランシス・ケイの奇妙な2日間を描いた作品。この設定を聞いただけでほとんどの読者がカフカの名作『変身』を想起するに違いない。 しかしカフカが昆虫になり、戸惑いながら生きるグレゴールと突然の変異がありながらも日常を保とうとする不条理を描くことを主眼にしているの対し、ヒルは主人公フランシスが逆にこの事実を好意的に受け入れ、周囲がパニックに陥るという全く逆に設定で物語を切り出す。つまりカフカは不条理小説として人が巨大な虫になる設定を用い、ヒルは凡百の怪物が出てくるパニック小説に人が巨大な虫になる設定を用いているところが違う。現代の感覚ならばヒルのプロットの方が至極当然だろう。 しかしヒルが本家のオマージュとしてこの物語を捧げていると確実に云える。なぜならカフカのファーストネームはフランシスだからだ。 後者の「アブラハムの息子たち」は吸血鬼を扱った物語。主人公である2人の子供マックスとルーディの父親アブラハムはオランダから逃げるようにアメリカに移住した家族で、ラストネームはヴァン・ヘルシング。そう有名なヴァンパイア・ハンターのその後の物語をヒルなりに創造した作品だ。 しかし本書は吸血鬼が出てくるわけではなく、またヒーローだったヴァン・ヘルシング教授は厳格で戒律を守らない子供らに容赦なく暴力を振るう恐ろしい父親として描かれている。つまりドメスティックヴァイオレンス物として描いているのが斬新なところ。ヒーローの末期が必ずしも幸せとは限らないという実に皮肉な物語。 「黒電話」は監禁物だ。 本書の中では比較的定型的な作品と云えるだろう。失踪事件の多いアメリカの世相を反映した作品と云え、ある意味同様の事件に遭遇した大人たち、そして将来同様の事件に巻き込まれる可能性のある同世代の子供たちに向けるエールのような作品と見るのはいささか穿ちすぎか。 本作には最後に削除された最終章が併録されている。作者はこの作品を極力削ぎ落として完成させたかったようで、30ページに収めるべく、終いに最終章を丸々削除したようだ。 個人的な感想を云えば、この最終章があった方が好きだ。物語が引き締まる。削除前の作品では黒い風船を姉が見つける件が全くストーリーに寄与していないのも気になっていたので、この最終章はあってしかるべきだと思う。 いかに素晴らしい短編集といえども、全てが全て良作であるとは限らない。例えば「挟殺」と「マント」がそうだ。 「挟殺」はレンタルビデオ屋のバイトで母と2人暮らしをしているワイアットという青年が、バイトを馘になった直後に出くわすある事件現場での顛末を描いた小編。「マント」は子供の頃に母親に作ってもらったマントを着ていたら実際に宙に浮かぶ事が出来た男が、数年後マントと再会する話。 両方の短編の主人公は共に定職に就かずブラブラしているニートが主人公であること。彼らには思想も無く、従ってモラトリアム人間ではない。事件は起こるが、なんとも収まりの悪い締め方がされ、読者はどのような感慨を抱いていいのか、しばし途方に暮れる。 不思議な話続きでは次の「末期の吐息」の方が私の好みだ。死者の末期の吐息を集めた博物館の話。そこを訪れた家族に降りかかる災難と最後のセリフが絶妙。星新一のショートショートに似た質感を持ちながら、味わいは星氏の作品ほどドライではなく、叙情に満ちている。 で、次の「死樹」はわずか3ページのショートショートだ。樹木の幽霊について主人公の語りから始まり、最後になんともいえない余韻を残す。 「寡婦の朝食」は一読、トム・ソーヤの冒険、もしくはジェームス・ディーンの映画を想起させる話だ。 なんというか、この作品も特に何か起こるわけでもない作品なのだが、妙に心に残る。長編の1シーンを切り取った作品といった方が適切だろう。この後キリアンの旅にこの女性がどんな影響を及ぼすのか、逆にその後の話が読みたくなる作品だ。 「ポップ・アート」がベストなら、次の「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」はそれに次ぐ作品と云えるかもしれない。 アメリカン・グラフィティに彩られた在りし日の青春に戻るセンティメンタルな一編。映画『ゾンビ』の撮影現場でお互い死人の特殊メーキャップをしたままで再会するというシチュエーションがアイデアとして素晴らしい。よくこんな事考え付くものだ。 そしてこの作品がいいのは最後のセリフが絶妙だからだ。映画撮影という場面設定と2人の関係が見事にマッチしたセリフ。いや、好きだ、こういうの。 ここに収められている作品の多くは幻想小説の類いだが、その中でも「おとうさんの仮面」は読後、不安に掻きたてられる云い様の無い得体の知れなさを感じる。 旅に出て、いつもと違うところで過ごすというのは日常から逸脱した非日常性からどこか足元が宙に浮いているような落ち着かない感覚が付き纏う物だが、この作品は現実なのにどこか現実の位相とはずれた世界にいらされている旅先で抱くその落ち着きの無さを終始感じさせられる。 子供の視点から語ることで大人だけの間で交わされる密約のような物が行間から立ち昇り、表現のしようのない不安が胸にざわめく。森で出逢った2人の子供は恐らく僕の母親と父親の若かりし頃の姿だろうし、骨董品の鑑定士は冗談交じりに語られていたトランプ人間なのだろう。置き去りにされた父親は子供心に底知れぬ喪失感を抱かせるし、その理由は母親しか知らないというのも、誰もが子供時代に経験する知らないままにされていた事を連想させる。 約100ページと収録作品中最も長い「自発的入院」は本書の冒頭を飾った「年間ホラー傑作選」に似たようなホラーだが、出来は数段上。 ジョナサン・キャロルの作品に似た味わいと云えるだろうか、大人になった主人公が今なお忘れられない事件とそれに纏わる友と弟の不思議な失踪事件の顛末を告白した手記という体裁の作品。モリスによって地下室に築かれる段ボールの地下迷宮が独特の魔力を持ち、現実から異世界へ結ぶ入り口となるのも、モリスという不思議なキャラクターのせいか、説得力がある。乱歩の『パノラマ島奇譚』にも一脈通じる物があると感じるのは私だけだろうか。 実質的に最後の短編となる「救われしもの」はそのタイトルとは裏腹に読後、心に寂寥感が差し込むような作品だ。 結局「救われた」のは一体誰だったのか?非常に疑問の残る作品だ。誰もが不幸を抱えたままで物語は閉じられる。 そして「黒電話」の削除された最終章を経て、作者自身の手によるこれらの短編の創作秘話が語られ、この本は終わる。 結論から云えば、玉石混淆の短編集で、総体的な出来映えとしてはやはり佳作と云えるだろう。実質的な収録作品数が17作品というのが多すぎて、逆に総体的な評価を下げているとも云える。 個人的に好きな短編を挙げると、「二十世紀の幽霊」、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「末期の吐息」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」の7編。次点として「うちよりここのほうが」、「黒電話」―但し最終章も含んだ―、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」の4編。そうつまりこれら11編で本書が編まれたとするとこの作品の評価はもう1つ、いや2つは挙がるかもしれない。 ここに述べられた作品群を読むに当たり、読者はある程度の知識が必要である。しかしその知識というのは決して学問的、専門的な分野に関した内容ではなく、映画や音楽、ホラー小説といった大衆文化、ポップカルチャーに親んでいれば自ずと得られる知識である。 例えば「年間ホラー傑作選」ではある程度ホラー映画やホラー小説を読んで、お決まりのパターンを知っている事が前提としてあるし、「20世紀の幽霊」では過去の名作映画、特に『オズの魔法使い』が最後のシーンになくてはならないエッセンスとなっている。また「ボビー・コンロイ~」もロメロ監督を知らなくても楽しめるが、知っている人にとってはゾンビ映画撮影の内幕とロメロ監督の人となりを知ることができ、楽しめるだろう。 が、しかし逆に云えば、これらが未経験であったとしても本書を読むことでこの物語の真の結末のカギがそれらの実作に込められている事から本書の後でそれらに当る事で更に本書の味わいが増すとも云える。前知識として知っておくに越した事はないが、逆に本書でそれを知ってフィードバックして見る・読むのもまた一興だろう。 しかし、このジョー・ヒルという作家、非常に独特な雰囲気を持っている。最初の「年間~」を読んだ時は、世間の評価に対し、眉を潜めたものだが、続く「20世紀~」、「ポップ~」と読むうちに、尻上がりに良くなっていき、この微妙に最後を交わす語り口が堪らなくなってくるのだ。全てを語らない事で逆に読者に胸に迫る物を与えてくれる。カエルの子はカエルというが正にそれは真実であると云えよう。 しかしヒル自身はそのあまりに偉大な父親の名声がかえって足枷になっているような節が本作からも見られる。まずあえて「キング」という苗字を使わずにデビューした事が父親に阿っていない事を示している。が、しかしこれはヒルの一作家としての矜持だといえよう。父親の名声に頼らず、まず自分が作家として世に通用するのか試したいという挑戦意欲の発露というのは容易に受取れる。 が、しかしやはりヒルには父親の影に疎ましさを感じていることが窺える象徴的な1編がある。それは「アブラハムの息子たち」だ。 この物語は有名なヴァンパイア・ハンター、ヴァン・ヘルシング教授と息子との軋轢を描いた1編であり、その物語の終わり方がヒルとキングとの親子関係を暗示させる。有名な父親をどの子供らも尊敬しているとは限らない、むしろそれが永年の苦痛であったという告白文書として読み取れるところが非常に興味深い。 そしてこの作品を著すことで、さらにこの作品が世に賞賛を以って迎えられたことでヒルはキングの呪縛から解き放れたと解釈できよう。この作品は彼が書かなければならなかった物語なのだ。 また物語の語り手にティーンネイジャーが多いのが特徴的だ。純然たるティーンネイジャーが語り手を務める作品を挙げてみるとシークレット・トラックの「シェヘラザードのタイプライター」から始まり、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」、「黒電話」、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」、そして成長した主人公が10代の頃を回想して語る話として「二十世紀の幽霊」、「挟殺」、「マント」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」と収録作品17作中13作品と実に大半を占める。 それらに共通するのはちょっと現実とは少しずれた感覚・世界だという事だ。子供の頃というのは毎日が冒険であり、全てが新しく瑞々しかった。そういう風に映るフィルターを通して日々を過ごしていた、そんな感覚がある。 翻って大人になって過ごす日々は現実そのものであり、そこには何の不思議も新鮮味も無いのが大半である。このジョー・ヒルという作家は子供が抱く大人とは違って見える毎日の風景と子供が大人の世界から感じる違和感を表現するのが非常に巧みだ。子供だった私が知らないところで進行している何か、その解らなくてもいいのだが、知らないことがなんだかとてもむず痒くなるような云い様の無い焦燥感、不安を実に上手く言葉に表す。 いや正確にはそうではない。このむず痒さの根源となる「一体なんなのか、はっきりしてくれ」という答えを知りたがる読者の性癖を巧みに操作するような書き方をするのだ。だから作品によっては読者の抱く感慨というのは実に様々だろう。 特に「マント」、「死樹」、「おとうさんの仮面」なんかは中高生に読ませて読書感想文を書かせると色んな解釈の仕方が生まれてよいテキストになるのではないか。そういった意味ではエンタテインメント系の作家としてはこの人は文学よりだと云えるだろう。 ただ饒舌さを感じさせる文体はまだまだ刈り込める要素が多く、1作品における登場人物や舞台背景に対して非常に雄弁である。これは近年のクーンツ作品を連想させる。日本人作家が敢えて語らない事で怖さを助長させるのに対し、この作家は雄弁に語り、最後に語るべき内容をさらりと交わすことで読者への想像力に委ねるという手法を取る。ただ読み直すとまだまだページ数は減らせると思う。少なくともあと100~150ページは減らせるのではないか。 昨年のミステリシーンに一躍注目を浴びる存在となったジョー・ヒル。確かに彼は“書ける”作者である事は認めよう。ただ未完の大器だという感が強い。この後、彼がどのような奇想を提供してくれるのか、非常に興味深いところだ。 また追いかけたくなる作家が増えてしまった。困った物だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
2007年に亡くなった藤原伊織氏の江戸川乱歩賞受賞作にして直木賞受賞作。こんな説明が要らないほど有名な作品だが、確かにこれはとてつもないデビュー作だ。
まず冒頭の導入部。久々に晴れた日、公園まで散歩する主人公と休日を楽しむ人々の風景。そして突然の爆発。 静から動への反転が素晴らしく、一気に読者を物語世界に引きずりこむ。 主人公はアル中のバーテン島村圭介。それは偽名で元の名を菊池俊彦という。彼は過去園堂優子、桑野誠の3人で活動していたノンセクトの全共闘時代の闘士の1人だった。 彼が現在のように名を変え、人の目から隠れるようなその日暮らし、その場しのぎの生活を送るようになったのはこの全共闘時代に起こした犯罪が基ではなく、その後それぞれの道を歩き出した3人が人並みの生活を送れるようになったその瞬間に訪れたある爆発事故だった。その時の被害者にも警察官がいたという運命の皮肉。 そんな彼を取り巻く人物も血肉を持っている。島村のかつての友人桑野に優子は無論の事、新興の組を束ねるエリートヤクザ浅井に、優子の娘、松下塔子。 彼らに共通するのは栄光を掴みかけた喪失感だろうか。何かに失敗し、また這い上がろうとし、努力を重ね、そして再び成功に似た何かを掴みかけたその瞬間、運命が眼の前でそれを攫っていく。ただ彼らはそれをあるがままに受け入れる。何かのせいにせず、とにかく生き延びる事にだけ執着して。 主人公の島村の場合はそれはボクサーとしての栄光であった。 エリートヤクザの浅井にとって、それはノンキャリアながらも異例のスピードで出世していく警察官だった時だった。 園堂優子にとって、それは彼女が3ヶ月間、島村こと菊池と暮した短い日々だった。 桑野にとって菊池と優子の3人とともに戦った日々であった。 それらを語る文章になんの衒いも飾りもない。ただ少しばかりの感傷を織り交ぜ、物事が、時間が語られる。その行間に隠されているのは彼らが辿った人生の重み、深みだ。 素晴らしい。時間を忘れる読書を久々に体験した。 逃亡生活を送っていた島村を事件と向き合わせたのは偶然がもたらしたかつての友たちの死。彼らへの弔辞の代わりに誰が彼らを殺したのかを探る。 知らなければいい事は確かにある。笑顔で笑いあった日々、その眩しい思い出に隠された本当の心などはそれぞれの胸の内に仕舞い込んでおけばいい。答えを知る事で失う事があることだってあるのだ。 しかし、失う事ばかりではなく、確かに私こと菊池が得た物もあった。それはかつて一緒に暮した女性の娘の恋心だ。それだけが救いか。 10月の長く続いた雨が止んだ土曜日、新宿中央公園で起きた爆破事件。それは物語の始まりであったが同時に彼ら3人の終焉の瞬間であったのだ。 その運命の瞬間に居合わせた人々が形成する曼荼羅はいささか偶然に過ぎる感じもするとも云えるが、まあそれは措いておこう。 本書の題名にあるパラソルという単語は最後の最後にようやく登場する。ある登場人物がこの言葉に込めた意味とは、以前とは変わり果ててしまったある人物の中に最後に見出した少しばかりの優しさだったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『待たれていた男』では永久凍土から出てきた死体がアメリカ人とイギリス人、そしてロシア人の第2次大戦当時の身元不明死体という設定でチャーリーに再び危機を齎したフリーマントルだったが、今回はモスクワで起きた米露大統領射殺事件―1つは未遂―の現行犯がなんとイギリスからの亡命者の息子だという設定でチャーリーを事件の渦中に巻き込む。いやはやよくもまあ斯くも多彩な設定を思いつくものである。
そしてまたまたフリーマントルは素晴らしい手札を用意してくれている。 亡命者を監理するKGBのベンドール一家に関する資料は一体どこへ消えたのか? ベンドールが火曜日と木曜日に会っていた連中とは誰か? ピーター・ベンドールの日記や書類を持ち去ったKGB職員とは一体誰なのか? ロシア軍に所属していたベンドールに背後に潜む存在が解らない中、発射された銃弾5発のうち、2発と3発は口径が違う事が判明し、他の狙撃手の存在が浮かび上がる。更には銃弾の旋条痕から実は5発ともベンドールが放った物ではない事が浮かび、更に混迷を極める。そして尋問として呼び出されたベンドールの母親が獄中自殺したと思われたのが実は他殺であった事、それを筆頭にベンドールを取り巻く連中が次々と殺されている事。そしてなかなか口を割らないベンドールが時折口ずさむハミングは何の象徴なのか? そもそも何故、軍に所属していた頃から奇行が目立っていたベンドールのような不安定な精神状態の男を敢えてこのような重大な暗殺事件に狙撃手として選んだのか? 様々な事実が大きな組織、それもロシアの政治の一画を担う組織の翳をちらつかせるが、それが何なのかが新事実が解れば解るほど曖昧になっていく。 どんどん複雑化する状況に読者は一体この先どうなるのだろうかと安心する事を保証されない。そしてこの複雑に絡み合った数々の要因が最後ある一つのシンボルを中心にするすると解けていき、最後に明かされる事件の裏に隠された壮大な計画が露わになってくる。 特に冒頭で起きた狙撃手とTVカメラマンとの格闘の一部始終が、最後になって全く別の側面を持っていたことが明らかになるところはカタルシスを久々に感じてしまった。本格ミステリの謎解きそのものと云っていいだろう。そしてこの真相が解って初めて本書の原題”Kings Of Many Castles”の意味が見えてくる。 そして今回もものすごい知能合戦の応酬だ。三国共同捜査という形を取りながらもいずれも自分の地位、自国の優位を得んがために、協力の微笑みの裏でナイフを隠し持つ危うさを持っている。無害かつ見返りとして自分の利益になりそうな情報や証拠は共有化するが、自らの取っておきの武器となりうるものは決して明かさない。 そして各々がそれを隠し持っている事を三国捜査の代表者は笑顔や何気ない言動に隠された合図で知っているのだ。 特に今回は現行犯逮捕されたベンドールの尋問とナターリヤが行う旧KGBの亡霊とも云うべき連邦保安局のトップとの尋問がスリリングだ。 前者はなかなか突破口を見出せなかった尋問から、精神科医の助言を手掛かりにチャーリーが言葉巧みに相手の自尊心をくすぐり、徐々に有効な情報を引き出していくテクニックに感嘆する。 後者はKGBというロシアの高官の誰もが恐れる存在の象徴ともいうべき連邦保安局の長官カレーリンを相手に自らもKGBに所属していたナターリヤが知略の限りを尽くして堅牢なガードを突き崩していく。特にカレーリンは旧KGBでも百戦錬磨の猛者であり、情報戦には長けており、尋問者を手玉に取るように、更にはテストを行うかのように冷徹な微笑を浮かべながら応対する。その自負心を見抜き、相手に誘導されている事を気付かせないように詰め将棋の如く尋問を行うナターリヤ。この尋問に彼女らが背負う大統領代行の威光というのがロシア的で面白い。 ここで彼女らがこの連邦保安局の最高責任者に手玉に取られることは即ち彼女らをバックアップしている大統領代行の強さを挫く事になり、それは代行が大統領に選任された後、連邦保安局に対するその上下関係が継続される事を意味している。この2人のせめぎ合いは本書で最も息が詰まったパートだった。 こういう高度な駆け引きを彼らが出来るのは一様に彼らが自分の感情を制御する訓練を受けているからだ。一番危険なのは感情に左右され、自分を見失うことだ。相手をよく観察し、言葉の抑揚に注意し、発言に隠された意味を嗅ぎ取らなければならない。彼らも人間であるから相手のテクニックに揺さぶられ、感情を露わにするがそれを冷静に観察する第三者の目を持っている。 この辺のテクニックは私も仕事をする上で是非とも身に付けたい技術だ。 そして哀しいかな、彼らはそのような訓練を受けているがために、男女関係の駆け引きにおいても第三者の目を行使し、無防備に相手に身を委ねない。ほとんどこれは職業病と云っていい。 そしてチャーリーの私生活は前作に比べてあまり好ましくない状況にある。前作での事件でナターリヤ自身が彼との危うい均衡の中での生活に疲労を感じており、チャーリーとの心の触れ合いが減じている。例えば成長した二人の娘サーシャが学校で親の職業について友達同士で話すようになったことに過敏に神経をすり切らし、幾度となくチャーリーへの愛情と自分に向けられる愛情の有無を自問する。単にロシア側の情報源として自分との生活を続けているのではないかとあらぬ想像を掻き立てる。しかし常に先読みする能力に長けているチャーリーを頼りにしている自分がいることにも気付くのである。 作中たびたび登場人物の口から出るように本作の事件はダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件に酷似している。むしろダラス事件のロシア版といった趣きで、主犯と思われた人物が逮捕された後、それを暗殺する男が出てきて、またその人物も殺され、真相は闇の中、といった具合だ。 ただフリーマントルは本作ではきちんと決着をつける。それはこの作者が私ならケネディ暗殺事件をこのように解決するだろうと声高に叫んでいるかのようだ。 ただ1つ気になるのは、前作『待たれていた男』でも感じたが、もはやチャーリー・マフィンにもはやライバルはいないということ。今思えばナターリヤとの恋の宿敵であった『流出』で登場したポポフが最後のライバルだったように思う。 最大の敵はもはや自分というのがこの2作で共通する事だろうか。イギリスの情報部員という危うい立場でロシア内務省の上級職でしかも民警を取りしきる高職にあるナターリヤとの生活を死守するためにドジを踏まないよう事に当るチャーリーはアメリカとロシアのライバルどもと共同戦線を張りながらもその実、いかに自分が上手く振舞うかに腐心している。 前作と本作が似通っているのは米英露三国共同捜査という設定に加え、チャーリーの生活の維持というのが共通しているからだろう。悪く云えば本作は前作の数あるヴァリエーションのうちの1つとも云える。シリーズに新しい色を加えるためにも『亡命者はモスクワをめざす』で現れたエドウィン・サンプソンのような、一枚も二枚も上を行くライバルが欲しいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
エラリー・クイーンが当初バーナビー・ロス別名義で世に放ったいわゆる悲劇4部作の第1作。名探偵ドルリー・レーンシリーズの幕開けである。
ドルリー・レーンとエラリー・クイーン。作者クイーンはこの2人の名探偵を実に特徴付けて設定している。 犯人が確定する絶対的な証拠を掴むまで絶対に真相を話さない、お互い引用癖があるという共通点はあるものの、片や大学卒でミステリ作家でもエラリー・クイーンは若さ故に先走る事があり、書物収集家でもある典型的なインテリタイプ。 片やレーンはかつてシェイクスピア俳優として名声を馳せた人物で、常に冷静に事件を見つめ、元俳優という職業を活かし、変装までも行って独自で捜査を行い、また演劇と犯罪とを結びつけて考える、そして耳が聞こえないというハンディキャップを負いながらも読唇術で会話ができ、なおかつ推理に浸るときには目を瞑り外界からの情報を一切シャットダウンすることができる深慮黙考型の探偵だ。古典ミステリの観点から云えば、このドルリー・レーンこそ昔ながらの名探偵像に近いと云える。 またこの作品、国名シリーズと違って、非常に古めかしい装いを呈している。 なにしろ冒頭は山奥に建つイギリス様式の、個人劇場を備えた豪邸ハムレット荘を訪ねることから始まるのだ。ニューヨークに住居を構える都会型探偵エラリーとは大違いの舞台設定だ。 事件は衆人環視の満員電車の中での殺人、また乗客の多数乗った連絡線からの墜落死とモダンな感じはするものの、レーン氏の風貌、文体などからもこれぞ古典本格ミステリといった風合いが漂う。こういうガジェット趣味は現代の新本格ミステリに通ずる趣向であり、読んでて非常にワクワクした。 さて読者への挑戦状は挿入されていないものの、国名シリーズ同様、犯人を当てられるだけの材料は真相解明には全て揃っていた。 そして本作が発表された1932年という年は他にも『ギリシア棺の謎』、『Yの悲劇』、『エジプト十字架の謎』というクリーン諸作の中でも代表作と呼ばれる4作品が発表されたクイーン最盛期の年である。 本作では殺人事件は3つ起き、それぞれの舞台は電車、定期船、電車と乗り物であるのが特徴。装飾は古めかしいが、殺人現場は非常にモダンである。 そしてこれら「動く密室」を設定しているのが、国名シリーズとは一線を画するといったところか。そして犯人逮捕シーンも最後の殺人の舞台となった電車内で行われる、劇的趣向が施されているのもやはり主人公レーンが元舞台俳優であることを意識しての事なのかもしれない。 本作のタイトル『Xの悲劇』の「X」の意味について、作者はきちんと答えを用意している。 その正体はなるほどね、という軽い意味合いのものではあるが、雰囲気や字面だけで題名をつける作品が多い中、こういう誠実さは非常に好感が持てる。それが果たして「悲劇」になったのかどうかは別にして、記憶に残るタイトルと正体であるのは間違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『龍臥亭事件』に引き続き、業の深さが主題になっている。
閉鎖された村社会に伝わる因習。妄信のように今に伝わる差別。主従関係の厳格さから生じる男と女の色の縺れ。 そして御手洗シリーズの定番となっている物語を彩る逸話ともいうべきエピソードが今回も添えられており、それこそが森孝伝説、そして森孝魔王といった話だ。 森孝伝説は島田氏が常々テーマに挙げている日本の歪な上下関係・主従関係を扱った悲しい物語。さらに挿入される森孝魔王の物語も悪徳代官が百姓をいたぶる話だ。 森孝伝説の内容を受け、死体に森孝の霊が乗り移り、甲冑を身に纏い、代官に処刑を下すといった内容だ。虐げられた弱者を救済するために、人智を超えた存在が現れ、惨殺する。 同様の挿話は『魔神の遊戯』にも見られたが、この弱者救済の話はデビュー以来、島田氏が一貫して扱ってきたテーマだ。 そして本作ではこの森孝に纏わる話に加え、他に第二次大戦中の日本軍が秘密裏に行った人体実験の話などの戦時日本の暗部、そして獣憑き、獣子といった村社会独特の妄信による人種差別についても述べられている。 特に気のいいお手伝いとして登場した斉藤櫂が、その過去には小さい頃に獣憑きの疑いがあって里子に出された、先祖が首切り役人で呪われた家系だった、引き取られた両親と反りが合わず、子供を置いて夫と共に逃げた、といった業の深い人生を歩んできたことに驚いた。最後の方で明かされるこの女性の凄まじいまでの虐待の日々は、本作のもう1つのテーマだろう。 この櫂の人生を通して語られる、村人の、その村に強く根付いた独特の道徳観に基づく嫁婿夫婦への躾なども、深く考えさせられる重い内容だ。 物語はこの他にも日本の鎧に関する薀蓄、からくり人形の歴史と江戸との係わり合いなど、興味深いエピソードが物語を彩る。 とは云え、前作に比べると比較的内容は明るいようだ。犬坊家は特に前作に見られた一家の業の深さなどは微塵も描かれず、犬坊里美の若者特有の軽さや寺の住職日照、神社の神主二子山などの漫才の掛け合いのような方言交じりの会話などで重苦しい雰囲気を淡くしている。 事件自体は非常に陰惨なのだが、特にこの日照と二子山の語り口の面白さがそれを軽減している。 そして石岡も以前に見られた情けなさから幾分復調して、女々しさが消えている(それでも好きな女性に振られて、ストーカーになるのかと自問した時に、自分にはそんな事やる元気がないと云ったのには苦笑したが)。 また加納通子が娘を歌手にしてステージママになりたがっているなんていう意外なエピソードも面白い。 そのほか、里美が語る日本の司法試験とその採用制度の話も面白かった。裁判官が司法試験の成績上位者しかなれないなんて初めて知った。 しかし、本作の目玉と云えば、やはり島田荘司氏2大シリーズの主役、御手洗と吉敷のコラボレーションだ。 この趣向は両シリーズを読み通して来た者にとって、なんとも感慨深い、心憎い演出である。『涙流れるまま』以降、吉敷と通子のその後をこんな形で知らせてくれるとは思わなかった。これこそ一級のファンサービスだろう。 そして吉敷は事件の1つを解決して去っていく。それも石岡から御手洗の残したヒントを聞いて。 両者のファンの中にはこのコラボレーションに物足りなさを感じる者もいるだろう。しかし、私はもうこれだけで十分だ。強烈な個性の2人が一所に集まるよりも、石岡という緩衝材を間に介する必要があった方がいいと感じた。 そしてこの2人と石岡が挑む事件、これも豪腕島田氏の健在振りを強くアピールするものだ。 地震で起きた地割れで厚いコンクリートの下から出て来た死体。2つのバラバラ死体を合わせ、甲冑を着せた死体が甦り、悪を討つ。そして最後には100年前に行方不明となった森孝が現れる。 今回はもうほとんど論理的解決は不可能だと思っていた。実際、日照とナバやんの2つの死体を合わせて甦った森孝魔王の真相は石岡も解明できず、手記にて真相が暴かれる。 で、これら3つの大きな謎の真相だが、大いに偶然が重なっているなあとの印象が強い。『暗闇坂の人喰いの木』、『疾走する死者』、『北の夕鶴2/3の殺人』らに共通する豪腕ぶりだ。実に島田氏らしくて呆れるというより微笑ましく思った。まだこういう物を堂々と書く、その若さが嬉しく思った。 そう、そしてこの死体を繋ぎ合わせて1つの魔王を甦らせるというのは奇しくもデビュー作である『占星術殺人事件』のモチーフとなったアゾートを連想させる。これは御手洗と吉敷を一同に会するために敢えて原点に戻ったということなのだろうか? これら謎の真相については首肯せざるを得ないが、やはり島田氏の物語の力は素晴らしいと思った。どんどんその世界に引き吊り込まれていく。そして必ず胸に去来するものがある。こういうのを読むと推理小説は驚愕のトリックも大切だが、やはり物語があってのものだと実感する。 推理小説界の巨人とも云うべき存在においてその精神を失わない島田氏。いやだからこそ巨人とも云うべき存在なのか。 もう一生ついていくぞ! ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
東野圭吾初期の代表作である本作は、実に哀しい物語であった。
この高校球児を中心に据えたミステリ。この作品の中心となる謎は、二つの殺人事件の謎でもなく、愉快犯とも云うべき東西電機での爆破未遂事件と社長誘拐事件の謎でもなく、題名となった“魔球”の謎、でもない。 天才投手と云われた須田武志そのものの謎である。 本作はこの須田武志なる人物が実にストイックかつミステリアスに描かれており、この人物無くしてはこの物語の成功はなかったであろう。 他の高校球児と特に仲良く接することなく、常に孤高の存在として振舞う。自らに妥協せず、他者とは違う次元で物事を見据えた眼を常にしている。そして自ら立てた目標に向かって嘘はつかず、また約束は必ず守り、自らを厳しく律する。自ら弱音は決して吐かない。出来ないという言葉は決して使わない。 彼の死の真相を知ったとき、正にこの男は武士であると痛感した。名前は須田武志。東野氏はこの男に武士の魂を託し、“武士の心”という意味を込めて“武志”という名にしたに違いない。 そしてこの須田家を取り巻く家庭事情など、ほとんど巨人の星の世界である。貧乏のどん底から、プロ野球選手を目指して這い上がる男、自らの努力で天才投手の名を恣(ほしいまま)にし、家族の幸せのためには自分を売ることも厭わない。 ここまでべた褒めならば星10個献上したいのだが、あまりに哀しすぎるので、その分、星1つマイナスした。物語半ばで判明する須田武志の死は、私にはあまりにもショッキング過ぎた。こういう奴を応援したいんだよと思っていた矢先の悲劇だったために、プロットのためにここまでするかと脱力感と憤慨を覚えたのである。最後の結末を読んでも、やはりあそこで須田武志は死なせるべきではなかった、そう強く思った。彼を亡くした後の須田家の哀しみを推し量るとどうしてもこの展開には反発心を覚えてしまう(また文庫表紙の朴訥としたイラストが泣かせるのだ)。 そう思うのも、ここまで感情移入してしまう登場人物に久々に出逢ったためで、正に東野氏の術中に嵌ってしまったことは否定しない。先にも書いたが本作ではそれぞれの事件の謎ではなく、この須田武志という人物の謎こそ東野マジックなのだ。 もう少し書こう。 本作でキーとなる題名にもなっているこの“魔球”の正体。この謎も実はなかなかに考えられているのである。 “魔球”というちょっと間違えば陳腐な内容になるこの題材について東野氏は実に面白い解答を用意している。そしてそれはこの“魔球”という二文字の意味がまた別の意味を持って立ち上がってくるのだ。 人が打てない悪魔のような変化を伴うから“魔球”と呼ばれるのが一般的だが、本作にはもう1つの意味が隠されている。これはそれぞれこの本を読んで確認して欲しい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
上下巻820ページ弱の本書は、13世紀の日本、中国、モンゴル、ペルシア、イタリア、そしてアルプスの村落と舞台は移りゆく。日本の古き因習に囚われた業の深い人間とその怪異現象を村や町といった閉鎖空間で物語を紡ぎ出してきたこの作家にしては珍しい作品である。
13世紀の街並みを匂いすら感じさせるほど緻密に描いた本書はしかし、当初私はなかなかその物語世界に没入できなかった。似たような名前が多いのと、外国の街並み・生活風景がなかなかイメージと結びつかなく、特に第1章は正直、字面を追うような感じだった。また夏桂の人物像、特に物事の考え方に共感しがたいものがあったのも一因だったのかもしれない。 しかし物語が急転する第2章以降はそんな事は気にならなくなり、のめりこむことが出来た。特に第3章からはアルプスの麓の村落での生活という閉鎖空間での話になったのが大きな要因だったように思う。 特に第1,2章を合わせたヴォリュームで語られる第3章の印象は強烈で、第1章で出て来た主要人物は吹っ飛んでしまった。上の梗概を書くために紐解いた時にああ、こういう人物もいたなあと思ったくらいだ。実際、坂東氏もここから筆が乗ってきたように思う。 本書の時系列は第1章→第3章→第2章という構成になっている。第2章では<善き人>たちの安住の地<山の彼方>が今や廃墟になり、そこに一人、老人となった夏桂が住んでいる様子が描かれ、つまり事が起こったその後が語られる。そこではかつて異端審問者として<善き人>どもを排除しようとしたヴィットリオが現れ、マルコ・ポーロが逃亡した夏桂たちの追跡行が書簡の形で語られる。ここでの結末を読んだ時、私はこの小説が上下巻ではなく、1冊のみだと錯覚してしまった。上巻のみで物語は完結してもいいぐらいだった。しかし下巻で語られる逃亡した夏桂の<善き人>の里<山の彼方>での暮らしぶりと、何故のこの里が退廃するに至ったかが語られるに至って、最後の隠された謎、何故夏桂が老後にこの地に戻ってきたのかが解るのだ。 この上手さには参った。私の中でここで俄然評価が高まった。 しかし、個人的にはここで夏桂が何を待っているかを述べて欲しくはなかった。読者に悟らせる形を取って欲しかった。その方が心に深く残る。これが惜しかった。 物語の核となる「マリアの福音書」には男女が交わる事の神聖さ、尊さを謳っていた。これは肉の慾を穢れと忌み嫌う<善き人>の信仰を根本から覆す物であった。 しかしこれは全く以って当然のことである。全ての生きとし生けるものは子孫繁栄を第一義としておいてあるからだ。しかし信仰が過剰すぎるとそういう万物の原理そのものが目くらましになり、汚らわしい所のみクローズアップされ、歪められる。マッダレーナが末期に述べるように、男女が交わる事は決して穢れではなく、それを淫らに、奔放に娯楽として楽しむ事こそが穢れなのだ。 読中、人は生まれたその瞬間から死に向かっている、という言葉をふと思い出した。だからこそ人はいかに生きるかが大切なのだが、ここに出てくる<善き人>たちはいかに生きるかよりもいかに死ぬか、死んだ時に救済が得られるよう、信仰の教義に従って己を殺して生きている。 しかし、それが実は己の欲望を際立たせ、強く自覚させている事に他ならない事を最後に気付くのだ。生きる事は欲望の闘いの連続である。だからこそ自分を正当化するためにごまかしたりもする。それを他人から知らされた時に人は自分の信じていた基盤を失う。信仰というものが人が生きる支えであると同時にいかに脆い物かをここで作者は語りたかったのだろう。これは土俗的な信仰が根強く残る村社会で起こる悲劇を描いてきた坂東氏にとって新たなる展開であると思う。 しかし作者は信仰に囚われない夏桂その人も自由人としては描かない。むしろ自分で気付かない何物かに縛られて、流されてきた人物として描く。教義に従って欲望を抑圧して生きる者たちを嘲笑しながらも、完全に否定出来ない、むしろ何故これほどまでに真摯なのかと思い惑うのだ。 そして彼も最後には囚われの身として彼の地<山の彼方>に帰ってくる。マッダレーナの遺言を全うする事、それこそ彼が唯一得た信仰だったのかもしれない。そしてその信仰は、やはりマッダレーナへの愛情だったのだろう。 惚れてはいないが魂の尻尾が縛り付けられている。 それは恋ではなく愛であったことを彼なりに不器用に表現していると私は思うのだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
坂東眞砂子氏の怪奇短編集。超常現象を扱っているが、この作家特有の日本古来の土俗的な因習に根差された言伝えや風習を基に綴られた恐怖を描いている。
まず表題作の「屍の聲」は惚けてきたおばあさんを孫の布由子が見殺しにする話。 布由子はおばあさんが時折正気に戻った時に自らの醜態を恥じ、死にたがっていた事を知る。誤って河に落ちたおばあさんを助けようとするが、正気のおばあさんが死にたがっていると信じ、そのまま見殺しにする。しかし葬儀の行われたその夜・・・。 次の「猿祈願」は当時上司だった男と不倫の関係になり、前妻と離婚させ、婚約をした女、里美が夫巧に連れられて夫の故郷秩父を訪れた時の怪事件を扱っている。 里美は巧の親に挨拶に行くため、秩父へ向かった二人は巧の母が勤める霊場で待ち合わせる事になった。そのお腹には巧の子供を宿してもいた。巧が里美を残して母親を探しに行った際、里美は「のぼり猿」を奉る観音堂で一人の老女と出逢う。それは巧の面影を持った老女で里美は件の母親だと判断するのだが。 続く三作目「残り火」は薪の風呂を沸かす妻とその風呂に入る夫との間に交わされる会話を軸に語られる。 房江は人生を夫のために尽くしてきた。娘から旅行の誘いが来、房江は夫秀一にその旨を伝えるが一蹴されてしまう。房江はいつものように夫のために風呂を沸かしていた。話題は次第にかつてひどい仕打ちをされた舅の事へと移る。今の今まで夫の秀一に尽くす事が出来たのは舅に家を追い出された際、隠遁先の温泉宿で出くわした夫の生霊と「戻ってこい」という言葉に支えられてきたと信じてきた房江は夫から意外な告白を聞かされる。 バツイチの美人ホステスを口説き落とし結婚した男が、妻と一緒に引っ越した家にある荒れた畑を開拓している最中にハメという蝮に似た毒蛇に妻が咬まれるシーンで幕を開けるのが「盛夏の毒」。 ハメに咬まれて命を亡くした者が多数いることで夫慎司は必至の思いで街の住民に助けを求める。雑貨屋の電話を借りて病院に電話している際に聞こえてきた住民の話は妻が浮気をしているといった内容だった。駆けつける医者より一足早くハメの毒に苦しむ妻の許へ戻った慎司は妻に噂の真偽を問い詰め、ある決断をする。 父親の死を機に母親の故郷新潟に戻った小学生の孝之を主人公にした「雪蒲団」は子供達の間での噂が発端となっている。 孝之の家の隣にすむ繁さんは独身で親代々から熊を捕って生計を建てていた。しかし孝之の従兄弟達の話では彼が人の肝も取って売っているという噂があった。気になる孝之は学校で喧嘩し、飛び出した際に繁さんの家を覗いてみる。そこで見た光景とはしかしそのどれでもなく・・・。 最後の1編、「正月女」は拡張型心筋症という不治の病に罹った登見子が、最後の正月を過ごすため、夫の家へ帰るという話。 皆が自分の死を期待しているように思える登見子は姑から「正月女」にはなるなと厳命される。その村では元旦に女が死ぬと村から七人の女が道連れにされると言い伝えられていた。登見子の夫保は村中の女性の注目の的であり、自分の死後、誰かの物になるのが登見子には堪らなかった。自分の命が長くない事を悟っていた登見子はあえて「正月女」になって保に近づく女性を道連れにしてやろうかと情念をたぎらすが・・・。 これまでの長編同様、この短編集でも各短編とも人の業が嫌というほど、描かれている。恨み、辛み、妬み、嫉み、欲情、愛情などでは足らない烈情とも云うべき想いが各登場人物には強いのだ。 前にも書いたが、この作家は人間が本来口に出さないながらも持っている一番嫌らしい感情を実に率直に書く。 表題作の「屍の聲」は惚けたお婆さんの介護への嫌気、「猿祈願」は自分があった仕打ちを相手に末代まで仕返ししようという呪い、「残り火」はどの夫婦にもあるであろう、妻が夫に尽くす事で無くした人生の損失を、「盛夏の毒」は愛情深い故に起きる激しい嫉妬、「雪蒲団」は知らぬ土地で暮らす子供の唯一の拠り所である母親を取られたくないという独占欲、「正月女」は病人が抱く周囲の同情が早く死んでほしいという気持ちの裏返しである事、といった具合である。 あまりに負の感情ばかりなので、この作家は純粋な愛情を知らないのかしらと不審に思うほどである。 どの短編も読み応えあるが、あえてベストを選ぶとすれば「雪蒲団」。これ以外の短編は従来の作品同様、主人公の動機、怪奇現象の原因などが直截に語られていたが、この作品はそれをせずに描写と台詞だけで、何を孝之は繁さんの家で見たのか、何が繁さんの家であったのか、なぜ孝之は繁さんを殺したのかを読者に悟らせるのである。 この効果がもたらす真相の驚き度は強烈だった。孝之が母親に甘える一行の台詞、この真意が非常に恐ろしい。この作品は今までの坂東作品より一段上の出来である。 あとこの作品には印象に残った文章があるのでちょっと抜き出しておこう。 “「すみません」は魔法の言葉だ。厄介事から解放してくれるが、その魔法を使うたびに、言葉を使った者の体は縮む” 大人は皆そうやって大きくなってきた。しかし子供の目には縮んで見えるのだ。なかなかに面白い。 坂東氏はこの短編集で短編も書ける事を大いに証明した。やはりこの作家はこの路線が非常に合っていると思う。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
高知の山村、尾峰で和紙職人として暮らす坊之宮美希は41歳にもなるのに、独身だった。彼女にはかつて高校の時に妊娠し、産んだ赤子を死なす辛い経験をしており、それ以来、恋愛や結婚とは無縁の生活を送っていた。
そんな中、隣村の中学校に教師として赴任してきた奴田村晃という青年が美希の前に姿を現す。10以上も歳の離れた二人だったが、似たような孤独感を抱いており、やがて激しい恋の炎が燃え上がる。 しかし、それは「狗神筋」と呼ばれる坊之宮一族が今まで保ってきた村の平穏を打ち破る悪夢の始まりでもあった。 なんとも業の深い物語である。前作『死国』と同じく作者の故郷、高知の山村、尾峰という閉じられた空間を舞台に、昔ながらの風習が息づき、「狗神」を守る坊之宮家とそれらに畏怖の念を抱く村の人々の微妙な関係をしっかりした文体で描いている。 前作『死国』でも感じた日本の田舎の土の匂いまでも感じさせる文章力はさらに磨きがかかっていると感じた。後に『山妣』で直木賞を獲るその片鱗は十分に感じられた。 そして今回は物語の語り方が『死国』よりも数段に上達したように感じた。 まず主人公の美希の人物造形である。この41歳の薄幸の美人の境遇に同情せざるを得ないような形で物語は進んでいくのだが、次第に明かされていく美希の過去のすさまじさには読者の道徳観念を揺さぶられる事、間違いないだろう。 結婚を諦めざるを得ない原因となった高校時代での妊娠。しかしその相手が従兄である隆直だという事実。そしてその隆直が実の兄だったという三段構えで、この美希の業の深さをつまびらかにしていく。 その他にも、物語の前半で美希の人と成りを彩る色んな小道具が、実は美希の業の深さを知らしめるガジェットであることを知らされる。特に美希が毎日手を合わせる地蔵の真相には胸の深い所を抉られる思いがした。この坂東眞砂子という作家は、人間が正視したくない心の奥底に潜む悪意というものを眼前に突き出すのが非常に上手い。「これが人間なのだ」と決して声高にではなく、静かに読者に語りかける。云うなれば、そう、人間が獣の一種なのだという事実、獣が持つ残忍さを秘めている事を改めて思い知らされる、そんな感じがした。 そして坂東眞砂子氏の文学的素養というのも今回確認できた。 まず美希が晃と山中での雨宿りの最中に初めて交わるシーン。これは歴代の日本純文学から継承される恋愛シーンの王道だろう。三島由紀夫氏の『潮騒』を思い出してしまった。 私自身が一番好きなのは晃が美希と結婚することを決意した際に、不審な目で二人を見つめる村人の視線に真っ向から対峙したときに美希が晃を頼もしく思うシーンだ。これは私が結婚を決意する時の心情に似ていたからだ。 「もし世界中の人が俺の敵になっても、こいつだけが俺の味方だったら、それで十分だ」 この思いと等価だからだ。これはストレートに我が胸に響いた。 他にも美希に対しては住みよいとは云い難い尾峰を、美希が好きだというところの台詞、 「ここにおったら・・・、空に飛びだせそうな気がするき」 なんていうのも胸に響いた。 前作『死国』では物語のメインテーマ「逆打ち」を中心に色んな人々が状況に取り込まれていく様を描く、いわゆるモジュラー型の構成を取っているのに対し、今回は美希からの視点のみでしかも尾峰で起こることのみを語っている。このような構成上、前作よりも単調になりがちだと思うのだが、全く物語がだれることなく、終末へ収束していく。全く退屈する事が無かった。 それは前にも書いたように、手品師が一枚一枚、布を捲りながら種明しをするように、徐々に事実を明かしていくその手法によるところが大きい。この構成からも坂東眞砂子氏が格段に進歩したのが如実に解る。 構成といい、文章といい、もっと評価されてもいいのだが、子猫を殺すなんていうスキャンダルのせいで変なところで話題になった作家である。実に勿体無い話だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
H.M卿の元に訪れた甥のジェームズ・ベネットはハリウッド女優マーシャ・テートらが集う「白い僧院」と呼ばれる屋敷でクリスマスを過ごす事になったと告げる。その館の主、モーリス・ブーンの脚本がこのたび映画化されることになり、それを祝ってのパーティだった。
その三週間前にマーシャ・テートに毒入りチョコレートが贈られ、あわや毒殺されそうになるという事件が起きていたため、ベネットはこのパーティに不穏な空気を感じていた。 果たして彼が屋敷に着くと、昨晩から降り続いた雪が積もっている中に、別館に向かう足跡が一筋あるのに気付いた。別館の玄関の陰に立っていたモーリスの弟ジョン氏は、別館でマーシャが殺されていると告げた。死亡推定時刻は雪の止んだ午前3時15分なのに、そこには発見者であるジョン以外の足跡はなかった。この奇妙な謎にH.M卿が挑む。 どうして解らなかったんだろう!こんなに簡単な事だったとは。 カーの代表作としてあまりにも有名な本作。確かこの雪の足跡のトリックは数々の推理ゲームの本にも取り上げられていたと思うが、まんまと引っかかってしまった。 18章の最後の一行は靄の中を訳も解らず歩いていたら、すっと一筋の光が差し込んできた感じがして、思わず声を出して唸ってしまった。 そして今までキャサリンかルイーズかどちらか解らない女性が別館を訪れる件も整然と説明され、久々に本格の美しさを感じた。 犯人役は正直納得行かないが、それを補って余りあるロジックの美しさだ。これほどシンプルな内容を11人の登場人物で捏ね繰り回して複雑にするとは、カーは根っからドタバタ喜劇が好きなようだ。 しかし、やはり文章は読みにくい。しかしそれは訳文が悪いというよりもカーの文体それ自体が、回りくどく、しかも改行が少ない1ページ当たりの文字密度の濃さによるところが大きいように思った。上の要約文を書くのに、かなりの付箋を要したのがその証左だろう。 世にはびこる傑作・名作は数あるが、これは確かに傑作の部類に入る。カー最盛期の作品はやはり凄かったと今回認識を改めた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
惜しくも亡くなられた稲見一良氏の'93年の作品。よくこの人の作品は“男のメルヘン”と云われるが本作もまさにそう。大学の頃に読んだ『ダック・コール』の煌きが蘇る。
今回収められた作品は5編。 駆け落ちした女との逃亡途中の男と束の間の休息と食事と癒しをもたらす老人との出逢いの一時を描いた「焚き火」。 雑誌のカメラマンが作家のエッセイを飾る写真を撮りに訪れた花見川で遭遇する軍用鉄道の幻を描く「花見川の要塞」。 ミッションで空撃を受け、車輪が出なくなった爆撃機ジーン・ハロー。胴体着陸をすれば機体下部の銃座にいる仲間が死んでしまう中での奇抜な着陸の顛末を語る「麦畑のミッション」。 「終着駅」は37年間、東京駅の赤帽を勤めてきた男が、ふとしたことから大金と遭遇する事で、ある決断をする話。 そして表題作「セント・メリーのリボン」は猟犬の探索を生業とする猟犬探偵竜門卓の話で、狩猟中に消えた愛犬の奪還の話と盲導犬の奪還の話が語られる。 今回目立ったのは物語が途中から始まる作品が多かった事。というよりもウールリッチの短編に特徴的に見られた、1つの大きな物語の断片を切り取って語っている手法で物語自体に決着がついているというものではないこと。特に「終着駅」はやくざの金を盗んだその後が非常に気になるが、稲見氏は赤帽の杉田雷三という男がある決断をする1点のみを語るに過ぎない。そこから先は読者に任せるとでも云っているかのようだった。 冒頭の1編「焚火」も駆け落ちした男の物語としてはエピソードのうちの1つに過ぎない話なのだが、これもそこ1点に集約してそこから拡がる物語を語っているかのようだ。 表題作は主人公竜門卓が明らかにフィリップ・マーロウをモデルにした不屈の騎士(卑しき街を行くではなく一人孤独に山野を駆ける)として描いている。粗にして野だが卑ではないという言葉を具現化した人物像になっており、非常に魅力がある。特に狩猟と犬に関しては作者の確たる知識・経験が色濃く反映されており、自然体であるがゆえに本物が書く本物の物語といった感じがした。 その反面、盲導犬の件は作者自身も詳しくはなかったのだろう、明らかに作者が取材し、対面した人物をそのまま頂いたという感じで素人じみた書き方になっている。しかしここでもリチャードという老人の造形が際立っており、稲見氏の技量が遺憾なく発揮されている。特に盲導犬窃盗の犯人側の事情も心に傷みを伴うものであるのが上手いと感じた。最後の竜門の不器用さも含め、心に残る作品だ。 「麦畑のミッション」はもろ映画『メンフィス・ベル』だ。結末は容易に予想つくものの、ここでは戦争物も飛行機の装備や操縦技術などの専門知識の精緻さも含め、この人の底知れない懐の深さに唸らされる。物語も麦畑同様、豊穣この上ない。 一番好きなのは実は「花見川の要塞」。花見川にそれと気付かないほど朽ち果てた軍用鉄道の線路とトーチカがあるという設定で子供の頃に作った秘密基地を思い出させてくれたし、なんせ戦争中の軍用鉄道が目の前で蘇り、しかも年代物のライカと古いフィルムで撮影が出来たというおまけも含め、これぞ男のメルヘンだ。時間を忘れた読書だった。 稲見作品の特徴として野外の食事の描写が挙げられる。素朴で粗野な食事をなんとも上手そうに描写する筆致はこちらの涎を誘う。そして野鳥がモチーフとして出てくる事。この野鳥に対する愛情が行間から滲み出てきている。いや、野鳥だけでなく食事の件も含め、自然への愛情と敬意がそこはかとなく心に染みゆく。 とにかく全てが色彩鮮やかだ。風景も物語も。 私は今回、稲見氏の作品を読んで日本のマーク・トウェインだと思った。作品数は非常に限られているので一度に読まず、また数年後、出逢う事にしよう。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『新・本格推理』シリーズも3冊目になって、今回は一種の転機のようなアンソロジーになったようだ。
というのもなんと前シリーズ『本格推理』でも成しえなかった一人の作者による複数掲載、しかも3作というからすごい。その作者の名は小貫風樹。その3作に共通するのはダークなロジックともいうべきチェスタトンの逆説や泡坂のロジックを髣髴とさせる悪魔のロジックだ(実際アンケートでこの作者は尊敬する作家の中にこの2者を含めている)。彼の書いた3作からまず感想を述べていきたい。 まずこのアンソロジーでも冒頭を飾る「とむらい鉄道」から。最近「全国赤字路線安楽死推進委員会会長」と名乗るテロリストの手による廃線寸前の鉄道の鉄橋爆破事件が頻発していた。その事件に巻き込まれて死んだ叔父の葬式に出た帰りに駅でまどろんでいた春日華凜は久世弥勒なる妖しい雰囲気を纏った人物に出逢い、宿泊先へ案内される。宿屋で寝ていた華凜が目覚めた時に弥勒が持っていたのはなんと爆弾だった。弥勒はテロリストその人なのだろうかというストーリー。 弥勒の、男性とも女性ともつかぬキャラクターや犯罪を止めるのならば殺人も厭わない冷酷さは今までの応募作品にはないダークな感じがして良い。最後の結末は詰め将棋のような精緻さと冷酷さで衝撃的だった。「解決」と「解明」の違いについて論じるところは、なるほどと得心が行くところがあり、面白かった。 次に「稷下公案」。これは古代中国を舞台にした作品で「とむらい鉄道」とはガラリと舞台設定、雰囲気を変える。稷下という今で云う学園都市で起きた事件。学士の楽園とされる稷下では孟嘗君に代表される食客とが入り乱れていた。そんな中、学士の青張と食客の青牛が街中で喧嘩をしていた。実の兄弟であるため、ただの兄弟喧嘩であろうと思ったが刀の名手である青牛は激昂のあまり、刀を抜きだす。そこへ現れた学士淳于髠が見事にその場を収めてしまう。騒動の一部始終を一緒に見ていた知叟と愚公はその後行動をともにするが、そこでものすごい音響と共に自分の家の厩で淳于髠が圧死した現場を目の当たりにする。 要約するのが難しいほど情報量が詰まった作品。古代中国の世界ならびに当時の思想家の思想を詳細に描くこの作者の懐は十分に深く、そのあまりに見事な筆致にプロの覆面作家ではないかと邪推してしまうほどだ。「とむらい鉄道」にも見られた「悪は悪を以って制する」、「人を殺めた者は処刑を以って罰する」という精神はここでも健在。特に前半、善人と思われていた孟嘗君のどす黒い嫉妬が明らかになる辺りは読んでて戦慄を覚えた。 そして最後は「夢の国の悪夢」。これも現代を舞台にしながら「とむらい鉄道」とはガラリと趣きを変えた作品。ディズニーランドを思わせるウイルスシティーというテーマパークで起きたマスコット、ウイルスラットの首切断事件。それは一瞬にして起きた突然の事件だった。犯人はどのようにして首を切断したのか? ここでは「とむらい鉄道」で探偵役を務めた久世弥勒が再登場する。3作の中では出来は最も劣るものの、ディキンスンを髣髴とさせる異様な世界で繰り広げられる闇の論理がまたしても読後不気味に立ち上がってくる。 2017年のミステリ界ではまだ見ぬこの名前。もしかして既に別名義でデビューしているのか気になるが、もし作品が上梓されれば買ってみたいと思う。 その他5作でよかったのは「Y駅発深夜バス」が文句なしだ。接待で終電に乗り遅れた坂本は、妻が教えてくれた深夜バスに乗る事にした。陰気な雰囲気のバスは果たして予定通り家の近くに着いた。0:10の便に乗り遅れ、1:10の便に乗った坂本は翌朝妻から、その便は日曜は運休だと告げられる。 冒頭の深夜バスに乗り込む件は『世にも奇妙な物語』テイストでかなりいい。一部、二部構成も必然性があるのだが、最後のオチは、まあ、歴然たる証拠の1つではあるのだが、私の好みではない。 その他、前回「湾岸道路のイリュージョン」の続きである「悪夢まがいのイリュージョン」、チェスタトンの「見えない人」に挑んだ「作者よ欺むかるるなかれ」、共に孤島物である「ポポロ島変死事件」、「聖ディオニシウスのパズル」も水準作であるのだが、今回は小貫風樹という1人の天才の前に霞んでしまった感が強い。 ロジックに精緻さを感じるものの、心情に訴える魅力を感じなかったのだ。 今回はこの天才の才能に素直にひれ伏して9ツ星を捧げよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
吉敷竹史シリーズの第一部完結編とでも云える本書、その中でもとりわけずっと謎めいた存在で登場していた元妻、加納通子との関係への総決算的作品となっている。
加納通子の生い立ちから述べられる本書は今までの『北の夕鶴2/3の殺人』、『羽衣伝説の記憶』、『飛鳥のガラスの靴』、そして『龍臥亭事件』全てを一貫して補完する形で、これらの作品の間に隠されたサイドストーリーを余すところなく、描いている。摑み処のない悪女といった感じの加納通子という女性が、今回ではじっくりと描かれる。 その描写は、「業」と表現されるある種呪われた血が流れている途轍もない生い立ちを以って語られるが故に匂い立つほどの存在感を醸し出している。この通子の物語は島田作品らしからぬあまりに世俗的な表現を多用しており、駅の売店やコンビニなどで売られている三流官能小説のテイストを備えており、正直辟易はした。 一方、吉敷側のストーリーは反りの合わない上司がある女性と食堂で話していることを偶然見かけたことをきっかけに、40年前の冤罪事件を自分の性に従い、解明しようとする物語である。 これは当時島田氏が手がけていた『秋好事件』の経験を活かしたもので、吉敷が冤罪事件の捜査で出くわす関係者の反応、やり取りは多分に自らが行った秋好事件の再調査での体験がそのまま反映されているのだろう。現実の世界での秋好事件が再審にならなかった無念をこの小説内で語られる恩田事件で晴らしているかのように感じた。 加納通子がこの恩田事件に冤罪であることを証明する決定的な証人であるという設定は結構盛り込みすぎだという印象が拭えなかった。というのも今まで島田氏が語った吉敷シリーズ3作と御手洗シリーズ1作に関わっている通子がさらに40年前の冤罪事件にも関わっているというのがいかにも作り物めいていて一人の人物に設定を詰め込みすぎだろうという印象が強くなってしまった。 恐らく作者もその辺を理解していたのだろう、通子の生い立ちに費やした筆はかなりのもので今まで日本各所に点在していた通子についてそれらを結ぶ線を無理なく仕上げようと腐心しているのが解った。最後に通子が鶏肉が苦手である理由がこの恩田事件によることだというエピソードはかなり秀逸で、これを持ってきたがために、通子が語られた当初から作者はこのストーリーを想定していたのではないかと思わされた。 そして吉敷。この男はシリーズを重ねるたびに存在感を増しており、しかも言葉遣いも心なしか変わってきているようだ。登場当初は単なる刑事に似つかわしいダンディという設定以外、何の特徴もなかったが通子の登場、上司との軋轢、殺人課での孤立という状況変化を経て、その人と成りがヴィヴィッドに浮き上がってきている。 今回、この600ページ前後の上下巻では島田氏の語りたいテーマがかなり網羅されているように思う。 冤罪事件、組織改革、記憶もしくは脳に対する研究。これらをモチーフに通子と吉敷のストーリーを仕上げる手腕は相変わらず凄まじさを感じる。 人物を語ることに重きを置いたこともあり、不可能犯罪的要素は薄められてはいるものの、やはり最後で切断された首の問題、殺人現場の不具合を論理的に解明するあたりは島田本格面目躍如といった感じだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ページを繰る手が止まらないとは正にこのこと。デミルの面目躍如たる本作は一級のエンタテインメント小説だ。上下巻ともに700ページを超える海外小説で1日に100ページ読める小説なんてほとんどなく、このことからもデミルの筆致の冴えが他の作家の追随を許さないものであることが証明される。
しかし、「一級」のエンタテインメントであるが「超一級」のミステリではないことに留意したい。 最初の理由はネタバレ参照。 次にやはりこのデミルという作家は生粋のエンタテインメント作家であり、ミステリ作家ではない、いやミステリ作家にはなれないのだろうなということ。はっきり云ってこの物語は転がし方次第では第1級のミステリに成りえたのだ。 物語の構成として、なぜ若き日のハリールが見舞われたリビア空爆という災禍を第2部という前段で早々と語ってしまったのだろうか? これはミステリ心ある作家ならば、このハリールというテロリストがアメリカで次々と起こす殺戮を淡々と述べていき、物語の起承転結の「転」の部分でリビア空爆の話を持っていくのではないか。そうすることでハリールの動機の不明さが引き立つし、下巻264ページで第1被害者となった軍人の妻が電話で語る被害者のミッシングリンクの真相、そしてハリールの訪米の目的が一段と戦慄を伴って読者の心中に突き刺さることは確実である。 ハリールの成す個々の殺人ごとにリビア空爆に対するハリールの内なる憤りを語るデミルの筆致を見るとどうしても冒頭に出す必要があったと判断したのかもしれないがこれは語り方の技法に過ぎなく、これを徐々に語ることで読者に徐々に動機を仄めかす事は出来たはずだ―クーンツならばこの手法も間違いなく取るだろう。そういった意味ではデミルはやはりエンタテインメント作家なんだなぁと強く思ってしまった。 しかし本作はデミル作品の中でも抜群の語り口の上手さが存分に発揮されている。読書中、これほど笑い声を上げて笑ったのも珍しい。 今回は特に『プラムアイランド』から引き続いての主役となる皮肉屋コーリーのキャラクタ性が前作よりもさらに磨きがかかったことが特に大きい。作者自身も彼を書くことに大いに愉しんでおり、大量殺戮テロ、暗い情念を抱えた暗殺者の連続殺人劇という重い題材にもかかわらず、コーリーの、ふざけながらも有能ぶりを発揮する仕事ぶり、休み無しでの業務の中でも何と新たな恋人を発掘し、業務中に婚約してしまうという逸脱ぶりに小説全体のムードはかなり陽気だ。 本作についてはデミルの作品をある程度読み通して―もちろん『プラムアイランド』も必ず―読了した上で読む方が魅力・愉悦は増す。それははっきり断言しよう。なぜなら私自身がそうだからだ。 一番最初に手にし、そのときはなかなか乗れず、やはり過去の作品から読もうと決めた当時の判断に間違いはなかった。特に作中に出てくる元KGBのボリスは『チャーム・スクール』の出身だし、コーリーがかつて通っていたイタリアンレストランで起きた発砲事件は『ゴールド・コースト』で語られているし、コーリーが気に入っているトラボルタ主演の映画はまさに『将軍の娘』のことだし、さらに穿った見方をすれば、冒頭の航空機の機内客大量虐殺を語る一連のストーリーは『超音速漂流』へのオマージュだろう。つまり本作はデミルにとっても作家活動の集大成的な意味合いがあるように思える。 だからこそ、先に述べた不満、特に最後の結末については消化不良だという思いが強くするのである。最近のデミル作品に感じるのはこの一歩カタルシスに届かない点。『スペンサーヴィル』の主人公が凄腕の情報員のわりに悪徳警察署長に騙される点、『プラムアイランド』の予想外の展開を見せる事が必ずしも読者の期待を良い意味で裏切っているとは云えない事、そして今回の結末。これらがどうも物語の設定とちぐはぐな印象を与えている。 勿体無い。非常に勿体無い。 でも面白かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
デミルの作品がアメリカで受ける。これはよく考えたらすごいことだと思う。
自身ヴェトナム戦争を経験し、その時の軍隊経験を基に軍隊を舞台にしたミステリを物しているが、軍隊に向ける眼差しの厳しさは半端じゃない。『誓約』のときもそうだったが、今回扱われているテーマは被害者である将軍の娘が基地のほとんどの将校と体の関係を持っている淫売として描かれ、しかもそのセックス描写についても手を抜かず、ポルノ小説を読んでいるかのごとくである。通常高潔とされる将校を嘲笑っており、よほど自分の軍人時代に人間の卑しさ、醜さを観たのだろうと思う。 今回はこの将軍の娘のレイプ殺害事件の真相をブレナーという陸軍犯罪捜査部の准尉がかつての愛した相手シンシアと共に、階級を超えて縦横無尽に駆けずり回り、明らかにするという内容。しかもFBIの介入が成されるまでのわずか4日間半で解決しなければならないというタイムリミット的サスペンスまで加えているのが贅沢だ。しかも外部機関による解決は先述の基地内部の将校全てが肉体関係を持っている事を開示させる危険性も孕んでいるというスキャンダラスな内容である。 レイプ事件然り、またこの事件のシチュエーションを起こさせた前段の事件の内容然り、確固として存在する軍の縦割り社会の壁然り、扱う題材はかなりハードで陰鬱なのだが、デミルの筆は相変わらず洒脱で軽妙ささえ感じる。しかし、こういうシリアスシーンでの心理的駆け引きの薄氷を踏むような危うさでの緊張感はかっちり押さえており、読者の心をジェットコースターのように上へ下へ引き摺りまわし、その手はページを繰るのも止められない。 今日本当は読み終わる予定ではなかったのだが、やはり最後が気になり、読んでしまった。デミルマジックにまんまと引っかかったのだ。 しかしこれほどの人物を登場させ、その全てに区別がついたというのはすさまじい。デミルの今まで読んだ作品で人物が混同したことがない。 今、私は極上の作家に出逢っている、そんな感慨が沸沸と湧き上がってくるのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
上下巻合わせて1,040ページあまり。しかも各ページには文字がぎっしりでほとんど隙間が無い。
この世評高い大作を読みたいがために各本屋(福岡・愛媛・東京!!)を回り、なおかつネットで検索したがどれも「品切れ」の文字がついている。諦めて本を売りに行った地元の古本屋で持ち込んだ本の査定を受けている暇潰しに本棚を見ていた時に偶然にも見つけ、迷わず購入した。 そして待望の開巻から約半月費やした後の感想は、最後の最後で救われたという感じがした。 正直、読書中はあまりにも冗長すぎやしないかと何度も洩らした。それは読後の今でも変わらない。この真相に至るまでに果たしてここまでのプロセスが必要だったのか、これは今でも疑問である。世に蔓延る世評を見ると、重厚壮大だが読み苦しくないというのがほとんど感想として載っている。しかしやはり私には長いと感じた。 主人公のベトナム戦争で成した愚行―正確に云えば成された愚行―に対する裁判を、内部葛藤を、時に俗者のように、時に聖者のように描写する。それはある時は彼の行動を監視する者に対し、暴力を加えたり、妻への荒々しいセックスにて表出される。デミルの素晴らしい所は、単にベトナム戦争の悲劇の犠牲者としての主人公を決して読者におもねるような聖人君子に描かず、愚痴もいい、素行もそれほど正しくなく、しかも軍隊に復員した時はだらしの無い格好で軍人の反感を買う。つまりみんなの周りにいる誰かとして描く。この手法が重苦しいテーマを読み易くしているのだろう。 読んでいる最中は映画『戦火の勇気』が頭によぎった。タイスン中尉がベトナムの病院でどのような指示をしたがために大量虐殺に至ったのか、この事実についてあらゆる人が本で語り、軍事裁判にて証言し、そして主人公自身も語る。小隊の中の人間関係の歪みが生んだ大虐殺の事実はそのまま同じように歪められ、タイスンを追い詰める。 最後の切り札、ケリーの登場で漸く真相が明らかにされ、何が正しくて、何が悪いのかを悟られる。それはやはり人ではなく、戦争という特異な状況であったが故の哀しい事実だった。誰もがあの戦争では狂っていた、その事は誰も否定できないし、また非難もできない。知らない方がいいこともある、これは正にその典型だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
いやはやアイリッシュ、もといウールリッチは設定がすごい。発表後60年近く経った今でもその設定は斬新だ。
ある街で愛し合う若い男女がいる。非常に初々しい二人の間にやがて悲劇が訪れる。ある飛行機から落とされたビンがたまたま彼女に当ったのだ。最愛の女を失った彼は廃人となり、やがて復讐の鬼と化し、同日同時間に同場所を通過した飛行機に乗り合わせた乗客全てに同じ苦痛を事件の起こった5/31に味わわせるのだった。 この設定を読んだだけでもう早く読みたいと思うのは当然ではないだろうか?しかも唄う詩のような美文は健在で今回も陰惨な内容ながら幻想的な衣装を纏いながら物語は流れていく。 しかも成される復讐は5つあり、それら全てが極上の短編小説のようにスパイスが効いているのだ。 顔の見えない主人公ジョニー・マー。彼のした事は非道で許されないことだが、彼のされた事もまた同じである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|