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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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HM卿シリーズ11作目の本書は1999年に国書刊行会から刊行されたものの改稿版。約19年を経てようやく文庫化となった。
そんなディクスン作品でも希少な部類に入る本書の舞台はなんと船上ミステリ。第二次大戦下のニューヨークからイギリスへ渡航する大型客船で起きる殺人事件を扱っている。 本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほどこの船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。 更に本書は第二次大戦下での客船の大西洋渡航という設定がミソとなっている。それはつまり大型客船でありながら、イギリスへの軍需品を輸送するミッションを負っているため、乗船が許されたのは喫緊にイギリスに渡る必要のある9人しか乗れなくなっているのだ。つまりこれは海上の館物と云っていいだろう。 その9人のメンバーは以下の通り。 主人公を務めるマックス・マシューズは元新聞記者で乗船した客船の船長フランシス・マシューズの弟。彼は火災現場の取材中に事故に遭い、片脚に大怪我をしたが、幸いにして全快したものの、取材に同行していたカメラマンを事故で喪い、そしてそのまま辞職した。そして新天地ロンドンで新たな職にありつくために渡航している。 ジョン・E・ラスロップはニューヨークの地方検事補で、ある殺人犯を追っている。しかも凶悪な恐喝犯カルロ・フェネッリのお目付け役でもある。 トルコ外交官夫人でもうすぐ離婚する予定の妖艶なエステル・ジア・ベイ夫人。 イギリスの実業家ジョージ・A・フーパーは息子が重病のため、急遽帰国することになった。 その他医師のレジナルド・アーチャーにフランス軍人のピエール・ブノア。謎めいた若き女性ヴァレリー・チャトフォードと貴族の子息ジェローム・ケンワージー。 そして最後に隠密裏にイギリスへと戻るHM卿ことヘンリ・メリヴェール卿。 しかし上に述べたようにそれぞれの乗客に急遽イギリスに戻らなければならない、のっぴきならない事情があるとは明確に書かれていない。今回の事件でエドワーディック号に乗船した本来の動機が明らかになるのはブノア、チャトフォード、ケンワージーぐらいである。 第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。 更に殺人事件はそれだけに留まらず、第2、第3の殺人が起きる。 久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。 特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。 また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。 つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。 また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。 複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。 世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。 しかしこうも順調にジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品が新訳刊行されていることは非常に喜ばしい。 HM卿シリーズで未読の作品は残すところ3作品となった。そのいずれもが早川書房からかつて刊行された作品であるが、もはや著作権は切れているのでこの際東京創元社から引き続き新訳刊行してもらいたいものだ。ギデオン・フェル博士シリーズも、その他歴史ミステリ、いやカー作品を全て網羅してほしいものだ。 私が生きているうちにカー作品コンプリート出来ることを願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。
そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。 これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。 異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。 ボッシュはしかも刑事の中でも犯罪者の悪を許さず、組織の中で予定調和的解決がなされようものならば、それに逆らい、辞職の危機に追い込まれてもなお、徹底して悪を断ずる姿勢を崩さない、いやむしろ法が悪を裁けない場合は自らの手を汚してまで成そうとするほど、自分の正義を貫く男だ。 一方ハラーは依頼人が実際に罪を犯していることを知っても、あらゆる方面から捜査の粗を見つけ出し、その無効性や不当性を主張し、事件そのものが起きなかったぐらいにまで陪審員を説き伏せ、依頼人の無罪を勝ち取り、報酬を勝ち取ろうとする男だ。彼にとって明らかに正義よりも自身の富と名声のために弁護士をやっているような男だ。 作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。 ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。 しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。 確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。 さてそのハラーだが、前作で担当したルイス・ルーレイの事件で負った拳銃で撃たれた傷の治療を受け、十分傷が癒えないまま仕事に復帰したことで痛みが再発し、再手術の後、再度療養期間をおいて2度目の復帰を果たしたばかりで2年間仕事をしていなかった。しかもその期間には鎮痛剤による薬物依存に対するリハビリも含まれていた。つまり彼は弁護士として薬物依存のキャリアという弱みを持つことになった。それが今後彼の経歴や仕事で爆弾として発動するのかも読みどころだ。 またその経験が同じく治療中の鎮痛剤の依存症に陥って窃盗容疑を掛けられた元プロサーファー、パトリック・ヘンスンを助けることに繋がる。ハラーは怪我でプロサーファーの道を断たれ、一度はコソ泥の身まで落ちぶれた彼が更生している姿を見て、その中に復活しようとする自分の姿を見出したのだろう。ヘンスンを助け、自分のお抱え運転手として雇うことにする。 ハラーとヘンスンがどのようなタッグを組むのか、これもまたシリーズの今後の読みどころの1つになりうるだろう。 また前作でルーレイに殺害された刑事弁護調査員ラウル・レヴンの後任となるシスコこと、デニス・ヴォイチェホフスキーは大柄で威圧感のある、ハーレーを乗り回す元暴走族という異色の経歴の持ち主。しかし彼は逮捕記録もなく、もめごとも一切起こさなかったクリーンな人物でハラーは彼に絶大なる信頼を寄せている。そしてハラーの元妻で秘書のローナ・テイラーと付き合っている。 このように1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。 やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。 人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。 そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察はいかに陪審員たちに印象付けるかに腐心する。長々と主張することが必ずしも彼らの興味をひくものではなく、簡潔かつ明瞭に説明する方が印象に残る。さらにとっておきの仕掛けは法廷が閉まる直前に放つことで陪審員に印象づかせて翌日まで持ち込ませるなど、自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。 また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。 日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか? そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。 今回ハラーが弁護を担当するウォルター・エリオットは映画会社会長兼オーナーといったセレブ。彼は妻の浮気の現場を目撃して感情に駆られて妻と間男を射殺した疑いで訴えられている。 しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。 まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。 これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。 それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。上にも書いたが、いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。 今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。
本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。 刊行された1992年、本書が当時それまでに刊行された著書の中で最大の長編作品だった。単行本では上下巻、文庫では全4巻とかなりの分量なのだが、その後もキングは折に触れ『ザ・スタンド』、『アンダー・ザ・ドーム』、『11/22/63』といった大長編を著し、この『IT』もその中の1冊となってさほど珍しくなくなってきた。しかし当時はその分厚さに面食らったものである。 さて文庫版にして全1,886ページに亘って繰り広げられるお話はデリーという架空の町で起きる、26,7年ごとに甦る“IT”と呼ばれる人殺しピエロとの戦いの話だ。子供の頃に“IT”と対決した子供たちが28年前に交わした血の誓いに従い、、28年後に現れた“IT”と再び相まみえる、と非常にシンプルな内容の話だ。 たったそれだけの話になぜこれだけの分量を費やすのか? 大きく分けて3点特徴が挙げられる。 1つは物語が1958年に“IT”と戦う7人の子供たちのキャラクターの背景と彼ら彼女らが出逢うまでの顛末が語られるからだ。 2つ目は“IT”との戦いを経た7人の子供たちそれぞれのそれまでの人生を語るからだ。彼らが誰と結婚し、何をしているのかが詳細に語られる。 3つ目は1958年の“IT”との戦いと1985年現在の彼ら彼女たちの戦いとが交互に語られるから。 不思議なことに大人になった彼らは仲間のうちマイクから“IT”復活の電話が掛かってくるまで彼らが少年時代に行った“IT”との戦いについてはすっかり忘れていた。そしてそのことを思い出してもどうやって戦い、そして勝利したかを思い出せないでいる。従って彼らは過去の戦いの様子を思い出しながら“IT”と対峙していく。 さてそんな物語の発端は28年前にデリーで起きた6歳の子が“IT”に襲われる話があり、その後、時は1984年に飛び、“IT”が再びデリーに現れたことが語られ、そしてデリーに住むマイク・ハンロンから28年前に“IT”と対峙した仲間たちへ招集が掛けられる様が描かれる。 招集が掛けられたのは次の面々だ。 市場調査会社を営むスタンリー・ユリス。 お得意の声帯模写を活かしてDJになったリチャード・トージア。 斬新なデザインで注目を浴び、ヨーロッパとアメリカを行き来する建築家のベン・ハンスコム。 セレブ専門のハイヤーの運転手エディ・カスプブラク。 ファッション・デザイナーのベヴァリー・ローガン。 ベストセラーを出し、注目のホラー作家ビル・デンブロウ。 唯一デリーに留まっているマイク・ハンロンは図書館員だ。 しかしそのうちのスタンリー・ユリスは“IT”の悪夢に耐え切れず、マイク・ハンロンからの連絡の後、すぐに浴室に入り、自殺してしまう。 しかしその他の彼らは28年前の悪夢に対峙するのを恐れおののきながらも、仲間と交わした血の誓いに従って、全てを擲ってデリーに戻る。それぞれ明日の仕事や今やらねばならない仕事を抱えながら、それらを全てキャンセルしてまで、デリーへと向かう。 ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。 それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。 28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい記憶との対峙でもある。 人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。 時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。 そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。 例えばベン・ハンスコムは今は注目のハンサムな建築家として周囲の耳目を集める存在だが、彼の小学生時代は「おっぱい」と揶揄されるほどのデブで、しかも周囲に友達がおらず、いつも一人で図書館に行って、本を借りて楽しむのが習慣となっていた。 エディ・カスプブラクは喘息持ちで大女で過剰にエディの健康に干渉する母親の支配下にあった。 ビル・デンブロウはどもりの激しい少年で嵐の後に自分が作った紙の舟で遊びに行った後、死体となって見つかった6歳の弟を自分が殺したと思い込み、またその弟の死で家庭が一気に冷え込んだことを憂いていた。 リッチー・ドーシアは歯科医を経営する、息子に理解ある親の許で育てられた、比較的裕福で恵まれた子供である。 そして彼らにはヘンリー・パワーズを筆頭にしたヴィクター・クリス、ゲップ・ハギンズらの不良グループたちという共通の天敵がおり、常にいじめの的にならぬよう、びくびくしていた。 そんなかつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。 故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。 但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。 下水道のダム作りに関与したことでベン・ハンスコムは初めてビル・デンブロウとエディ・カスプブラクと知り合い、友人となる。更に彼らの共通の友人リッチー・ドーシアとスタンリー・ユリスとも。ようやく彼はベストフレンドを見つけたのだ。 どもりのビル・デンブロウは初めて自分の手持ちの金で買った中古の自転車をシルバーと名付けた。彼の体格では大きすぎるその自転車を彼は見事に乗りこなす。ビルはシルバーに乗っている時は無敵だった。 その無敵感は男の子ならば誰でも解る想いだ。自転車は初めて自分たちの世界を広げてくれる魔法の乗り物だった。そんな思いがビルの体験を通じて想起される。 最後に彼らの仲間に加わるマイク・ハンロンはデリーの町でも唯一の黒人で周囲から「そういう目」で見られている。 彼の父親ウィルは自分たちが「くろんぼ」と蔑まれる存在であることを自覚し、そんな蔑視や不当な扱いからは逃れられない運命であると受け入れ、そんな社会に負けないように息子に諭す、強い父親だ。 彼はビルたちとは違う教会学校に通っていたが、ある日親子ともどもハンロン家を忌み嫌うヘンリー・パワーズに追いかけられたマイクが逃げ込んだ荒れ地でビルたち仲間と遭遇し、ヘンリー・パワーズら悪童一味と戦い、勝利することで仲間になる。 この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。 そしてビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタンらが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。 そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。 さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。この長い物語を読んでいる間、私は様々な想像を巡らせた。 最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。 それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。 そして大人になってデリーに戻り、再び“IT”と対峙する時、“IT”は彼らが少年あるいは少女だった頃に出逢ったおぞましい姿で現れる。 “IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。 それが強調されるのは一同が28年ぶりに再会するデリーの<東洋の翡翠>という中華料理店で最後に皆でフォーチュン・クッキーを割るシーンだ。彼らが割ったフォーチュン・クッキーからは彼らが潜在的に意識していた当時抱いていたトラウマそのものが現れる。 そしてそれは彼ら6人以外には見えない。特別な絆を持つ彼らしか見えないのだ。 この“IT”が巣食うのはデリーの街の下水道の奥の奥。もはや迷路と化した地下の大下水道網に潜んでいる。そして彼はそこから街の川や排水口から現れて子供たちをさらって、あるいは殺していく。 人々の営みをクリーンに保つならば、不浄なるものを集める場所が必要であり、排水施設はその1つだ。つまり下水道は街が、そして人々が清潔に暮らしていくためにそれら負の要素を一手に引き受けた場所だと云えよう。 昔から蓄積された不浄なるものは即ち町の暗部であり、人々の排泄物や汚物が集まる場所はある意味人々が表面をクリーンに取り繕うための掃き溜めとも云えるだろう。それはどこか後ろ暗いところを感じさせ、そんな負の要素を“IT”は食らい、それをまざまざと人に見せつけて恐怖を誘い、餌にして街を周期的に恐怖に陥れる。 ある意味“IT”は人々が長く続く平和のために忘れがちなことを思い出させてくれるリマインダーのような役割を果たしているのかもしれない。 そう人々が戦争の愚かさを忘れないために敢えて戦争を起こすような、逆説的に教訓を与える、一種の体罰のように人々の心に恐怖として心に深く刻みつけさせるように。 しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。 彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。 しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。 まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。 しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。 しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。 キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。 “―魔法は存在する” この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。 30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。 私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。 このデリーの街はキング作品にはお馴染みの街で当然ながら他の作品とのリンクも見られる。 まず同じく架空の街キャッスル・ロックの気の狂ったおまわりが女性を何人も殺した事件は『デッド・ゾーン』のフランク・ドッドのことだろう。 そしてマイク・ハンロンの父ウィルが軍隊に入っていた頃に知り合った炊事兵ディック・ハローランは『シャイニング』の舞台≪オーバールック≫ホテルのコック、ハローランのことだ。 また目に見えない絆で結ばれた7人の友達。彼らの溜まり場である荒れ地。悪童一味との決闘。これらを読んでいくうちに同作者の傑作中編「スタンド・バイ・ミー」との近似性が頭をよぎる。あの作品に横溢するノスタルジイを存分に描きつつ、それをベースとしてキングお得意の原初体験を絡め、そして大人になった仲間の再会と共通の敵との戦いを描くにはキングにとってこれだけの分量が必要だったのだ。 ただそうはいってもやはり本書は長い。冗長と云ってもいいだろう。 私は本書に先んじて本書よりも長大な『ザ・スタンド』を読んでいたが、同書はいくつも展開が起き、悪対正義の構造を根底に置きながらパンデミック小説、ディストピア小説、ロードノベル、また閉じられたコミュニティの中で起きる人間関係の軋轢など、場面展開や物語の趣向が変わるなど、変化と起伏に溢れた作品だった。 しかし本書は物語の構造としては実にシンプルであり、舞台もデリーがメインであまり動きがない。1つの場所で繰り広げられるのは1958年の過去と1985年の現在の話。そして今回はディテールに筆を割き過ぎているきらいがあり、なかなか前に進まないもどかしさを感じてしまった。 作者の狙いは過去と現在の主人公たちの“IT”との戦いをシンクロさせることで大人の彼らが徐々に戦い方を思い出し、そして打ちのめされそうになった時に再び過去を思い出して力を得るという構造を打ち出したことでそうなったのだが、正直全てのエピソードが“IT”との最終決戦に寄与したかと云えば、やはりかなり無駄な話もあったように思える。 私はエピソードは嫌いではない。寧ろ歓迎する方だが、1,900ページ弱もの分量を必要としたかは今回は疑問に感じた。 “IT”はキングの長い作家生活の中で数あるターニング・ポイントの1つとして挙げられる作品だろう。確かにそれは感じたが、それは決していい意味ではない。 キングをあまり好きではない読者はその冗長さを挙げることが多いが、私はそれまでそのことを感じなかった。確かに普通の作者ならば省略するであろう時間の流れをキングはじっくり書くが、それが冗長とは思えず、物語を膨らませるために必要な要素として描かれ、またそのエピソードも読み応えがあった。 しかし本書で私は初めてキング作品を冗長と感じた。 書きたいことが沢山あり、恐らくキング自身がこれらビル、ベン、エディ、リッチー、ペヴァリー、マイク、スタンら7人に愛着を抱いていたことから色々と詰め込んだのだろうが、それら全てに必然性があったとは思えなかった。 “IT”。 このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。 そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。 “IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。 そう、それこそが“IT”なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森氏はシリーズのそれぞれ5作目、10作目と5作ごとの節目で短編集を刊行する。本書はVシリーズ10作目の節目に刊行された短編集だ。
口火を切るのは「トロイの木馬」。 本書でまず驚かされるのは2002年時点で書かれたとは思えない情報技術の世界の先駆的内容だ。 ネットワーク世界を舞台にすると虚実の境が曖昧になり、何が現実で非現実なのかが解らなくなってくる。21世紀では既にそのような作品が映画、ドラマ、小説も含めゴマンと出ているが、本作はそれらに系譜に連なる作品だ。 私は常々森氏は短編では文学的抒情が引き立つ作風になる傾向があると第1短編集から思っていたが「赤いドレスのメアリィ」はその傾向が顕著に表れた作品だ。 かつて裏に自分のレストランがあったビルにあるバスの待合所に来る日も来る日もメアリィさんと呼ばれる老婆が待っていたのは、その昔愛した男だった。 妻子ある、その常連はメアリィと呼ばれる女主人に最愛の妻の若かりし頃の面影を見ていただけだった。しかしそれがために彼は女主人に好かれるようになり、妻の嫉妬を買うようになって、ついに諍いが起き、メアリィさんが亡くなるという事態が起きた。遺体は川に遺棄したが、発覚する前に主人は恐れをなして自首した。 色んな憶測が語られる中で物語は閉じられる。 人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。 数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。 老いてなお若かりし頃の衣装を身に着け、バスの待合所に一日中座るその老婆はしかし最後どこを見るでもなく、老人を迎えに来た運転手に手を取られて去っていくが、もうその頃には本来の意味、誰を何のために待っていたのかは彼女の中では解らなくなり、ただ毎日その行為をしなければならないという本能だけが残っていたのではないか。 やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。 「不良探偵」はサトル君と呼ばれる人物の一人称叙述の作品だが、サトル君とは云っても30代の新進作家である。 知覚障害者の従兄シンちゃんを持つ、図らずも書いた作品がベストセラーになり、一躍有名になった作家サトル君の恋人が殺される事件の真相について語った話だ。 但しシンちゃんが知的障害者で一般の人よりも能力が劣っていることが語られるが、この語り手であるサトル君も人に関する興味や好奇心を持つ感情が非常に薄い人物で彼もまた他の人たちとは違っているようだ。恋人の真由子は彼にとっては単に親しいだけの友人のようにしか捉えてなく、作家になって有名になり、色んな美女がサトル君の許を訪れ、勝手に泊まり込みで世話をするようになっても、彼自身はその女性に対しても興味もなく、また真由子がそれに対して気分を害しても特段気にしない、非常にドライな性格である。 題名の不良探偵とはシンちゃんのことを指すのか、それともサトル君のことを指しているか。恐らくどちらもだろう。 無関心であることがクールと思われている時代だが、それも限度を超える全く人の気持ちなどが解らない人間になってしまう。本作は無関心さが招く罪を描いた作品とも読めるだろう。 非常に私的な内容だと思えるのが「話好きのタクシードライバ」だ。 多分に森氏のタクシーに関する思いが吐露された、半ばエッセイとも云える作品だ。仕事で電車やバスではなくタクシーを利用する語り手はその内容からも森氏自身と云っていいだろう。物語の核心である高齢のドライバが語る昔話に至るまでのタクシードライバのエピソードの数々が非常に実感を伴って面白い。 そして高齢ドライバのまだ高速が開通していない頃の名古屋から岡山まで乗せることになった話もなかなか面白い。実際の話ではないかと思われる。 そして最後のオチもまた同様ではないだろうか。しかしそれがミステリとなっていることは確か。まさにこれは作者自身が遭遇した“日常の謎”ミステリだったのではないだろうか。 「ゲームの国」はとあるセメント会社の社員食堂を切り盛りしている星茂一家と祖父から受け継いだ丸味スープ会社を経営するリリおばさんが社員食堂で起きた殺人事件を解き明かす話だ。 ミステリとしては実に簡単な部類に入るが、三重県にあるセメント会社の社員食堂が舞台と妙に設定が細かいところが妙におかしい。 そんな非常に狭い人間関係の中でアクセントとされているのがリリおばさんが会長を務める回文同好会の作品数々。その数も内容も様々でしかも各登場人物の特徴がよく表れるように色んなパターンと内容の回文が横溢する。特にリリおばさんの作品は会長だけあって単に文字を無理矢理並べただけでなく、意味もそして文章も含めてもはや芸術の域にある。全て作者が考え付いた作品なのだろうか。 「探偵の孤影」はハードボイルド調の私立探偵小説だ。 なぜ海外を舞台にしているかは不明だが、失踪人捜しという典型的な私立探偵小説のスタイルを取りながら、最後に森氏ならではのツイストを利かせているのがミソ。 唯一妹を殺した東洋人の後に来た銃を撃った男が結局何者だったかが解かれないまま謎として残る。 最後の1編「いつ入れ替わった?」はS&Mシリーズの短編である。 衆人環視の中での消失トリック、または入れ替わりのトリックは昔からある、いわば「開かれた密室」トリックであり、本作のトリックもそのヴァリエーションを再利用しているだけであるが、タクシーを運搬の道具に使っているところが斬新。 しかし何よりも本作はシリーズのその後が補完されていることで、とうとう西之園萌絵と犀川の仲に進展が見られることが読者にとって最も大きなサービスとなっている。 森氏は既にいくつかの短編集を出しているが、本書はいわゆる森作品の本流を成すS&Mシリーズ、Vシリーズの幕間劇的に5作目ごとに刊行される短編集に連なるもので4冊目に当たる。 私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。 それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。 ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。 また今回初めて気付いたが、収録された作品のほとんどが一人称叙述で書かれていることだ。7作中6作が一人称叙述だ。しかも三人称叙述で唯一書かれているのがS&Mシリーズの1編だけであり、それ以外のノンシリーズ物は全て一人称叙述なのだ。 以前も書いたが長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。 長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。 例えば「不良探偵」は語り手のサトル君の恋人だった真由子との別れの話だが、他者に対してさほど関心を持たない彼は真由子が自分が養うから気に食わない仕事だったら辞めてしないなよとまで云うほど、彼のことを慕っているのが明確なのに、彼はそれを友人としての忠告としか受け取らず、そして作家となって売れ出した時に他の女性が家に入ってくることを拒まず、さらにはその中の1人と一緒に映画にも云ったりするほど、真由子の想いに対して鈍感だ。そしてその真由子はそんな現状に絶望して彼の前を去るわけだが、この物語にも森氏の若かりし頃のある女性との思い出が反映されているように思える。 最たるは「話好きのタクシードライバ」だ。これはもうほとんど森氏自身の話と云っていい。エッセイとも云えるタクシーに纏わるエピソードの物語だ。ここではほとんどグチのような内容が書かれている。 またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。 ちなみに前回は森博嗣氏のアナグラムである礒莉卑呂矛が探偵役でしかも磯野拡の事件簿1と副題についていたが、今回はリリおばさんの事件簿1と付いている。今後本当にそれぞれアナグラムと回文を扱った遊びに淫したミステリが書かれるのか、森氏の気まぐれというか遊び心の1つと取って期待しないでおこう。多分また新たなシリーズ探偵が出てくることだろう。 そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。本作では上にも書いたように引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。 シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。 さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。 ただある女性の長い待ち合わせが終わりを告げたことだけが事実として残る。 恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。 しかし本書のタイトルは何を示すのだろうか。英題を直訳すれば「隙間だらけの行列の逆数」となるか。しかし使われている単語はいずれもコンピュータ用語にも使われる物で「ボイド形態となったマトリックスの逆数」となるか。 いずれにせよ深読みさせて、結局何の意味もないというのが森氏の真意なのかもしれない。 しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。 作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。 さて次回の演習も私は十分説くことができるだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵沢崎シリーズ第2作。
今回沢崎はいきなり事件の渦中に巻き込まれる。低い声の女性から家族の行方不明についての相談という依頼の電話で指定の場所を訪れるといきなり誘拐事件の現金の運び屋として指定されるのだ。そしてそのために沢崎自身も誘拐事件の共犯者の1人として警察に目を付けられる。 本来依頼人が来て事件を調べていくうちに、事件の関係者から脅迫を受け、またいわれのない誹りを被る、更に自身にも危険が及ぶというのが作者原尞氏が尊敬するチャンドラーのハードボイルド小説だが、今回作者が選んだのは沢崎自身をいきなり事件の真っ只中に放り込み、そして警察から犯罪者の1人として疑われる、ノンストップで訪れるハードな状況なのだ。 しかもそれら一連の流れは実にスピーディ。冷静な沢崎を翻弄する犯人の手際の良さ、そして沢崎に訪れる不測の事態、更にそれによって起こる誘拐された少女の死と原氏は次々と沢崎にピンチを与え、休む暇を与えない。 そしてそれは読者もまた同じで、次から次へと繰り出される犯人の工作に沢崎同様にどんどん事件に引きずり込まれていく。 物語の流れは実に淀みがない。 起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。 無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。 真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。 そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。 更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。 例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。 そして失踪した沢崎のパートナー渡辺賢吾が過去に絡んだ事件も明らかになってくる。 そして偶然にも沢崎は容疑者を追っている最中にこの渡辺と邂逅を果たす。それは一瞬の間のことだ。彼はその一瞬で渡辺と目が合い、また離れていく。 その一瞬にそれまでの彼らの足取りが凝縮されたような印象的なシーンだ。 また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。 ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。 特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。音大の教授をしている父親の指導でヴァイオリンを始めるが挫折してその親へ反抗するかのようにロック・ミュージックの世界に身を置き、その日暮らしを続けるような身。音楽イベントを企画するが採算が取れなく数百万単位の借金を抱えるが、それを返済するだけの、色んなバンドやアーティストのバックバンドとして引き合いで演奏する技術と信頼がある。 さて私が前作を読んだのはちょうど11年前。まだ30代だった頃だ。当時の感想を読むとその時の私とはこの探偵沢崎シリーズを読んだ心持はいささか異なっている。 定義云々は別にして原氏の紡ぐ作品がハードボイルド小説の前提で話すと、ハードボイルドとはつまり自分を貫くために人に嫌われることを厭わない生き方と云えるかもしれない。 そして夜の世界に生きる人々の話であるとも。 それは作者自身が夜に生きる民族の一員であるがゆえにこのような世界が書けるのだ。 作者が本書の主人公沢崎のように自分の矜持を貫くがゆえに警察に疎まれ、調査に関わる人々に嫌悪感を示されるような人であるとは思えないが、作者の中に沢崎は確実にいる。 それはミステリマガジンで14年ぶりの新作『それまでの明日』刊行記念で組まれた原尞特集での過去から今まで至るインタビューからも原氏のどこか一般人と異なる生き方や性格からも推し量れる。つまり原氏は昔ながらの作家なのだ。 そして改めてこの探偵沢崎の物語を読んで今まで読んできたチャンドラー、ハメット、マクドナルドの系譜に連なるハードボイルドの探偵というのはなんと罪深き職業なのだろうかと感じた。 他人の依頼で人の生活に土足で立ち入り、あれやこれやと聞く。そして全てを疑い、手練手管を駆使して相手の弱点を掴むとそこに付け入り、協力を強制する。 自分が疑われることを好む人は決していないだろう。従って探偵が事件の調査のために出逢う人は決して良い感情を持たない。いや寧ろ災厄の運び手としてご容赦願いたい存在だ。 更にどんどん付け入り、そして知られたくない家庭の事情まで云わされる。 沢崎もまたそうだ。探偵という職業が長い彼もそういった人の心の隙間に付け入り、情報を得る、もしくは利用する術を心得ている。 しかしそうすることでまた彼も何かを失っているように思える。それは自分という人間に対しての好意であり、代わりに自己嫌悪を得るのだ。 かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。 そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。 他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。 探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。 特に今回沢崎が自分がまるで突然絡まれた事故のように関係した少女誘拐事件において、自分のヘマで身代金を渡すことができなかったがために殺されることになった少女に対して一種の引け目を抱いているだけに、被害者の家族関係者に容赦なく立ち入っては、無礼なまでに踏み込んで質問し、そして嫌われる。 特にそれが顕著に表れるのが被害者真壁清香の告別式に出席した時だ。沢崎にとっては言いがかりでしかないが、身内を、しかも幼い身内を無残にも殺された遺族のやりどころのない怒りが自分に向くのを知りつつも出席し、そして予想通りに清香の母親恭子とその従兄たちであり、また沢崎自身が調査した伯父の甲斐正慶の息子3人に献花を差し戻されて退出するよう促されながらも、そんなことを強要される覚えはないと再度清香の棺に花を捧げ、乱闘を引き起こす件は沢崎の愚直なまでの自我の強さを印象付けるシーンだ。 以前ならばこの沢崎の対応をカッコいいと感じただろうが、40半ばを過ぎた今の私は大人気ないと感じた。 しかしそうでもしないと事件は解決しないのだと最後まで読むと悟らされる。人の感情を揺さぶるほどに他者のプライベート・ゾーンに土足で入り込むほどタフでないと明かされるべき真実は白日の下に晒されないのだ。 真相に行き着くまでの関係者たちそれぞれが抱える大小の家庭の問題。 表面では解らないそれぞれの生活における負の要素が浮き彫りにされる。 本書は従ってチャンドラーの文章を備えたロス・マクドナルド的家庭の悲劇をテーマにした私立探偵小説だ。つまり本格ミステリ的要素を備えたロスマクのプロット力をチャンドラーの魅力ある文章で紡いだ、理想的な私立探偵小説なのだ。 これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。 しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。 私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。 前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。 次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。 沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。 私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在エラリー・クイーンの諸作の新訳が創元推理文庫のみならず角川文庫からも相次いでなされており、本書もその一環として刊行された。
通常私はこういった新訳版は既読作品では手を出さなく、本書も最初はそのつもりだったが、旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。 従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。 さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。 邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。 しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。 アリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。 派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。 今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。 およそ現実の警察捜査とは思えない、パラレル・ワールドで繰り広げられているエラリーの特権的立場がどうしても今読むと違和感を大いに覚えてしまう。父親が警視としても素人に堂々と事件現場を入らせて、手袋もせずに証拠となりうる物品を触らせたり、移動させたりすることは到底あり得ないし、更には警察と同等の職権を保証する許可証を持っているといった飛び道具まで登場する。そんな探偵、いや推理作家はどこを探してもいないだろう。 子供、学生の頃であればそんなエラリーを特別な存在として尊敬し、その超人的頭脳によるロジックの美しさに感嘆もするだろうが、やはり今この歳で読むとあまりにも受け入れ難い。もしかしたら私自身古典の本格ミステリを受け付けなくなってきているのかもしれない。 さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。 まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。 また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。 また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。 また久々にクイーンを読んで気付かされるのはエラリーが事件を介して美女と出逢う機会が多く、そして明らかに口説こうとしている節が見られるところだ。 「ひげのある女の冒険」で住み込みで働く看護婦クラッチの連絡先を知りたがったり、「見えない恋人の冒険」で絶世の美女と評される容疑者の恋人アイリス・スコットにはもう少し早く出会いたかったと他人の恋人であることを嘆き、「七匹の黒猫の冒険」で出逢ったペットショップの店長ミス・カーレイもその大きな瞳に惚れ、助手よろしく彼女と共に事件解決に乗り出す。また最後の短編「いかれたお茶会の冒険」でも女優のエミー・ウェロウズといい雰囲気になって一緒に列車に乗っていく。 そしてご存知のようにそれら全ては行きずりの女性であり、エラリーはニッキー・ポーターという相性のいい女性と何作か組みながらも結局生涯のパートナーを得られずにシリーズを終える。つまりはエラリー・クイーンにはロマンス要素を持たせるのはあくまで読者の興味を惹くための一要素として扱うに留まり、それを発展してクイーン自身の人生と事件とを結びつけるまでには至らなかったということだ。 その後のクイーン作品がロジックと探偵の存在意義について長く思考を巡らせていくことからも解るように、人間としてのエラリー・クイーンの深みをもたらせるのを捨て、ミステリそのものについて考えを深めていくことになった。それが日本の本格ミステリファンにとってクイーンの絶対的存在性を高めることになったのは事実だが、逆に本国アメリカでほとんど忘れられた存在となっているのがこのキャラクター小説としての深みに欠けるからだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『骸骨乗組員』、『神々のワード・プロセッサ』との三分冊で刊行された短編集『スケルトン・クルー』の最後の三冊目であるのが本書。
まずは本書のタイトルにも掲げられているミルクマンの話から始まる。 「ミルクマン1(早朝配達)」は不穏な空気だけを纏った作品だ。 本作はスパイクと云う名の牛乳配達員“ミルクマン”が顧客が玄関前に掲げたメモ通りに注文の品を置いていく様が描かれるのだが、それぞれの品は呑むと死に至る毒類が入っている。タランチュラが入れられた空のチョコレート牛乳のカートン、酸性ジェルを詰めた多用途クリーム、ベラドンナ入りのエッグノッグに有毒のシアン化ガス入りの牛乳瓶。 夜明け前の澄み切った空気感の描写が鮮明なこの作品はそんな不穏な空気さえも朝の爽やかな空気で吹き飛ばしてしまう妙な爽快感がある。 次もミルクマンの話だ。「ミルクマン2(ランドリー・ゲーム)」はしかし、更に一層不穏な感じのみ漂う作品だ。 1作目はまだ色々想像を働かす余地があったものの、2作目の本作は本当によく解らない。1作目でもスパイクの口から出てくるランドリー工場の従業員ロッキーが本作の主役。 色々解らないことだらけの作品だが、その妙な雰囲気と理屈の通らなさが余韻を残す。 「トッド夫人の近道」は実に奇妙で、そして心くすぐられる作品だ。 こんな奇妙で美しい話はまさにキングしか書けないだろう。車を乗る人達は目的地にどのルートを辿れば一番早く着くかというのは最大の関心事の1つだろう。 斯く云う私もその1人で東京在住は日常的に渋滞する道路にうんざりし、出かける時は極力渋滞のない、またはスムーズな車の流れのあるルートを探したものだ。そして私が得た結論はずばり「信号が少ないルート」こそが一番の早道であるに至った。 思わず脱線してしまったが、トッド夫人もその例に漏れない人物で彼女はメイン州のキャッスル・ロックからバンゴアまでの最短ルート探しを趣味にしていた。156.4マイルのルートを見つけたかと思えば、次は144.9マイル、そして129.2マイルまで縮まるルートを見つけたと喜びを隠さない。やがてそれはどんどんエスカレートし、直線距離、つまりキャッスル・ロックからバンゴアまでを地図上で直線に引いた距離79マイルよりも短い67マイルのルートを見つけるに至る。 何とも奇妙で何とも美しく、感動させられる物語。こんな物語を書くからキングは止められない。 次の「浮き台」はお得意の怪物もの。 キングお得意の怪物譚。油の塊のように湖に浮遊する黒い円。その正体は不明だが人間を襲い、喰らい、そして成長する怪物のようらしい。湖の只中にある浮き台に10月下旬と云う、朝晩冷え込む季節に思い付きで泳ぎに行った大学生4人が下着姿で取り残される絶望を描いている。 昨今小さな島に取り残された女性1人が周囲がサメだらけといった絶望状況を描いた映画があったが、それを彷彿とさせる。 但し本書は一切の容赦がない。キング作品には必ずしもハッピー・エンドがあるわけではないという情け容赦ない作品だ。 「ノーナ」は電気椅子での死刑を控えたある男の告白譚。 語り手の男が話すのはノーナという行きずりの女性と共にヒッチハイクをして目的地であるキャッスル・ロックに行くまでの物語。しかし彼が刑務所に入れられ、まさに処刑されようとしているのはその道中で次々と人を殺していったからだ。 かつては町の不良に目を付けられ、全く歯が立たなかったくらい腕っぷしには自信がなく、また喧嘩が大嫌いだった彼がなぜそのような行動を起こしたのか? また本作には「スタンド・バイ・ミー」の登場人物が2人ほど登場することから裏「スタンド・バイ・ミー」とも取れる。 オーガスタからキャッスル・ロックを目指す2人の男女のロード・ノヴェル。食堂で出逢った彼らは運命的な物を感じ、そして一路キャッスル・ロックを目指す。 こういう風に書くと何ともドラマチックな恋物語のように思えるが、彼ら2人の道行は死屍累々の山が築かれる血塗れのヒッチハイク。 器用な作家であると思った矢先の次の作品はSFだった。「ビーチワールド」は一面砂の海原に包まれている星に不時着したパイロット2人が救援を待つ話だ。 不定形の物体が意志を持つというのはこの短編集『スケルトン・クルー』に収録されている意志を持って街中を覆い尽くす霧の存在を描いた「霧」があるが、本作はそれに続いて生きている砂が支配する星の話。 砂、いや一面に広がる砂の海原、即ち砂漠は何かのメタファーなのか。地球温暖化で大陸が死に絶える先は砂漠化だ。つまり砂原こそは人生の終焉の場。ランドにとって砂原が広がるその惑星は人生を終えるのに格好の場所だったと見なしたのかもしれない。 次の「オーエンくんへ」は詩だ。しかしその内容はあまりに抽象的すぎてよく解らない。学校の生徒のことをフルーツに譬えるオーエンくんが見た日常風景を描いた詩なのか。毒がありそうな雰囲気ではあるのだが。 次の「生きのびるやつ」は無人島で遭難した男のサヴァイヴァル小説。と書くと『ロビンソン・クルーソー』を想起するが、キングの漂流記は一味も二味も違う。 ヴェルヌの作品にも確か『チャンセラー号の筏』という作品で岩礁に漂着した人々が生き残る話があるが、あれは実話をもとにした作品で内容はヴェルヌ作品らしからぬほど凄惨さに満ちていた。 本作もまたそうで幅190歩、長さ267歩という実に狭い岩場ばかりの島に漂着した主人公がどうにか生存する物語だが、無論草木もなく、魚も捕れない、食べられる物はカモメと蟹と蜘蛛の類。悪循環、負の連鎖、無間地獄。実にブラックな『ロビンソン・クルーソー』である。 本作のテーマは冒頭に掲げられた文章、それに尽きる。「(前略)患者というものはどのていどの外傷性ショックにまで耐えうるのか、という疑問である。(中略)肝心の答えのほうは煎じ詰めると、(中略)当の患者がどれほど切実に生き延びたいと思っているか?」 最も生きようと願う者はその身を食い尽くすほどの狂気に陥った者である。上の文章の答えの1つが本作だ。 貴方には家族親戚に苦手な人はいないだろうか?もしいたらその人と2人きりで留守番しなければならなくなったらどうする?そんな実に身近な避けたい状況を描いたのが「おばあちゃん」だ。 家族の中、いやあるいは同じ職場の中にどうしても馬が合わない、もしくは苦手な人物が誰しもいるかと思う。そんな相手と2人きりにならなければならなくなったら?という非常に身近な避けたい状況に加え、11歳の少年が寝たきりの老人の世話を何かあった時に母親がしていたようにしなければならないというちょっとばかり大きな重荷な任務を授かった状況。こういうところに恐怖を感じさせるのがキングは実に上手い。 しかし物語は次第にそんな身近な領域から逸脱し始める。 更に加えてラストの意外性。 全ての伏線が余すところなく物語に寄与した素晴らしい作品。 最後の「入り江」は三分冊化されたこの短編集の最後を飾るに相応しい作品だ。 島で生まれ、島で育ち、一度も島から出たことのない老婆が島を出たのは死を悟ったときだった。彼女にとって本土はまさに彼岸だったのだ。そこに行く時は死ぬときだ、と決めていたのだろうか。長く生きているうちに島で親しかったご近所たちが老境に差し掛かり、次から次へと亡くなっていく。またはそれらの息子・娘たちを大きくなり、島で育つ者や島から出て行く者もいる中で、不慮の事故でまだある未来を喪う者もいる。そんな色んな死を見てきて、親しい者たちが少なくなってくる中、いつの間にかあの世の方に友人たちがいっぱいいることに気付く。そして彼ら彼女らは自分に向かって手招きをするのだ。 もはや自分がいるべきはこの世ではなく、あの世だ。 キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。 得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。 不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。 そしてそれぞれの作品にはその設定と何気なく書かれた文章で読者に想像力を働かせる仕掛けが施されている。 また「浮き台」は湖に怪物が現れ、4人の大学生を襲う話だが、登場人物の一人が湖の管理人が凍結する直前まで浮き台が片付けない、またはそのまま湖に残して凍り付かせてしまうのは職務怠慢だと述べるが、それはその管理人がその怪物の存在を知っているからこそ、危険がないその時期を選んで浮き台を回収している、いやもはや回収せずに置いているように解釈できる。既に怪物の存在をキングはさりげない台詞で伝えているのだ。 さて本書においてもキング・ワールドのリンクは見られる。既にキングの物語の舞台でおなじみとなったキャッスル・ロックは本書でも登場する。 本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。 「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。 「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。 短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。 ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。 私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。 しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。 短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。 もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。 しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。 そしてまだまだキング作品としては序盤に過ぎないのだ。まだまだこの後も、そして今も新たな物語を紡ぎ、そして新たな人生が描かれているのだ。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズ13作目。
エコー・パーク事件を経たボッシュは未解決事件班から殺人事件特捜班へ異動。政治的な問題が絡んだり、有名人が関わっていたり、またはマスコミの注目を浴びて騒ぎ立てられるような事件を担当する部署とのこと。極めて困難で時間のかかる、趣味のように捜査が続くような事件を担当する部署とも云われている。執念の男ボッシュに相応しい部署だ。 そしてボッシュも本書で56歳になったことが判明する。白髪の面積が茶色地毛のそれを凌駕し始めているが、その体形は維持されており、衰えを感じさせない。 そして前作での宣言通り、エコー・パーク事件で重傷を負ったキズミン・ライダーは捜査の最前線での職務から離れ、元いた本部長室に配属になり、内勤業務に携わる。そして新たなパートナーはボッシュの20歳年下でキューバ系アメリカン人のイギーことイグナシオ・フェラス。 更にエコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングも再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。 そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。 しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。 但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。 そしてこのテロという規模の大きい事件がボッシュの捜査の前に大きく立ちはだかる。 彼が担当するスタンリー・ケント殺害事件はそのまま犯人と目されるアラブ系テロリストによって企てられようとするテロ事件を未然に救うための事件に大きくクローズアップされ、FBIによって事件そのものを奪われようとされる。しかも彼らが狙っているのはテロリスト並びにセシウムであり、殺人事件の犯人ではないのだ。 つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。 また天敵のFBIからどうにか捜査から弾き出されまいと孤軍奮闘するボッシュの捜査は相変わらずルール無視、いや己のルールに従う自分勝手な行動が目立ち、新パートナーのイグナシオ・フェラスも早々とコンビ解消を申し出るほどだ。 それがまた大局を見つめるFBIのレイチェルとそのパートナー、ブレナーたちの知的かつ冷静さを際立たせ、ボッシュの独りよがりさが読者にある種嫌悪感を抱かせるようになっている。この辺りの筆致は実に上手い。信頼のおける孤高の刑事ボッシュを我儘に自分の事件だとして勝手気ままに振る舞う解らず屋のロートル刑事に見立てさせるコナリーのストーリー運びの何たる巧さか。 また一方で上述したように9.11の同時多発テロ以降、テロに敏感になり、警察はじめ政府の捜査機関、情報機関が過剰に反応する風潮が当時のアメリカには蔓延していた。それは周囲もまたそうだった。 またミットフォードが携えていた小説がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったというのもある意味暗示めいている。新しいインフルエンザの蔓延によってほとんどの国民が死に絶えるアメリカを扱ったディストピア小説であるこの小説は、もしセシウムが悪用された時のロスアンジェルスの状況を示唆している。ただこれについては既読済みと未読済みの読者で受け取り方は異なると思うが。 私も同時多発テロの影響で観光事業が冷え込むハワイが激安価格で旅行プランをサービスしていたのに便乗してハワイ旅行に行ったが、その時のピリピリした通関審査の状況を思い出した。 9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。 色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。 そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。 “The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。 しかし冒頭にも書いたがボッシュももう56歳であることに驚かされる。歳を取ったことに驚くのではなく、56歳にもなるのにその傍若無人ぶりはいささかもデビュー作以来衰えないからだ。 歳を取ると人間丸くなるとよく云うがそれはこのハリー・ボッシュことヒエロニムス・ボッシュには全く当て嵌まらない。むしろ自分のやり方を新しい相棒にレクチャーし、継承しようとしている感さえある。 自分の生活を守るためにルールを重んじ、馘にならないように考えている新相棒イグナシオ・フェラスは彼に貴方が欲しいのは相棒ではなく使い走りだ、そしてそれは俺には当て嵌らない、だから誰か他の人間を貴方と組むよう上司に相談するとまで云わせる。 更にFBIに有利に事を進めさせないために情報の提供はせず、目撃者を隠すことまでする。また更にFBIに捜査から外させないよう、直属の上司を飛び越え、出勤前の本部長を訪ね、FBIに口添えすることまで依頼する。 常に彼は自分の目の前の悪を捕まえることに執着し、その気概は年齢とは無縁である。 しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。 それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか? そして常に事件で出逢った女性と浮名を流すボッシュが長く関係を持つのがエレノア・ウィッシュとレイチェル・ウォリング、つまり2人がFBI捜査官の女性である、もしくは“だった”ことだ。仕事の上でボッシュはFBIの介入を心の底から忌み嫌う。自分たちの事件を横からかっさらい、または協力者と思わせていつの間にか蚊帳の外に置かれる彼らのやり方が気に食わないからだ。 しかし人として向き合った時に好感をボッシュは抱く。敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。 障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。 今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。 物語の最後に彼ら2人が再びエコー・パークを訪れるのは2人にとって袂を分かつことになったそれぞれの過ちを解消するためにスタート地点に戻ったことを示すのだろう。 レイチェル・ウォリングは決して新キャラクターではなく、彼の5作目に登場した人物である。そしてボッシュの扱う事件も―本書は違うが―過去の未解決事件が多く、常に過去の因縁が付きまとう。 にもかかわらず我々の前に見せてくれるのは新しい刑事小説の形だ。コナリーの視線は常に過去に向いていながらもそれを現代アメリカに見事に融合させている。 また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。 現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。 私は今本当にとんでもない作家の作品を読んでいるのではないかと毎回読み終わるたびに思うのだ。それは今回もまた変わらなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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3分冊で刊行された作品集『スケルトン・クルー』の第2弾。
まずは珍しくキングの手による詩「パラノイドの唄」から始まる。 これはその題名が示すように、強迫観念の強い男の妄想で綴られた詩だ。常に誰かに見られていると思い込み、窓の外にはトレンチコートの男がいて、街を歩けばタクシー運転手も新聞を見ている風に装って見張っている。 食事をすれば塩だと云ってそれが自分を殺すために持ってきた砒素だと思い、電話は誰かに盗聴されていると信じ、決して使わない。 さて次の表題作はなんと書いた文章が現実となるワープロの話。 打った文章が現実となるワード・プロセッサ。それはもはや我々日本人にしてみればドラえもんのひみつ道具のようなお話である。 この子供向けアニメのような題材をキングが書くと実に素晴らしい内容になるから不思議だ。 子供の頃から自分を支配し、屈服させてきた暴力的な兄。しかもその妻ベリンダは元々自分が最初に付き合った彼女でそれを兄が横取りして結婚したのだった。更にそんな粗暴な兄から生まれたジョナサンは機械いじりが大好きで、自分がワード・プロセッサを欲しいと云ったことを覚えており、僅か15歳にして手製のそれを作るほど聡明。しかしそんな家族3人は飲んだくれ兄の飲酒運転による交通事故で亡くなってしまっている。 一方自分の家族を振り返れば作家志望の高校教師である自分をはずれ籤を引いたとばかりに愛想を尽かし、日々太り醜くなっていく妻と勉強せず下手くそなギターの練習に明け暮れ、成績はどうにか落第するかしないかの辺りで留まっている愚息が1人いるのみ。 そんな現状を変えたいと願う彼の許に書いた文章を現実のものとするワード・プロセッサが現れる。 ドラえもんならばそれを使うことでエスカレートするのび太に天罰が下るが如く、痛烈なオチが待ち受けているが、キングはそうした報われないリチャードの決断を叶えて終わる。 これはワード・プロセッサで書いた文章によって変化をもたらされると世界そのものも変わるのがミソで、何かを消し去ればそれ自体が元々なかった世界に置き換えられ、何かが手に入れば同様にそれが最初からそこにあった世界へと切り替わる。 この結末には是非があろうが、今の人生、やり直せるならやり直したいという願望を叶える読者の願望を形にした作品だ。 意志持つ機械というのはキングの恐怖のテーマの1つだが、「オットー伯父さんのトラック」もその系譜に連なる作品だ。 共に事業を大きくしていったパートナーと経営方針の違いから仲たがいするようになり、それが殺意にまで発展して、事業拡大の鍵となった1台のトラックで殺害したことで、そのトラックが自分を殺しに近づいてきていると考えるようになる。 一見パラノイドの狂言のように思える話だが、それは現実となる。ただ彼を殺しに近づいたのはトラックそのものではなく、その幻影のような存在。 機械や雑貨などに霊的な物が宿り、人を殺すというのはキングの作品でたびたび描かれるが、そこではいつも理由はなく、ただそれが起こり、エスカレートしていく様が描かれる。 しかし本作では因果関係も描かれるものの、逆に被害に遭うオットー伯父さんの真意はそれとなく仄めかされる。 次の「ジョウント」はキングにしては珍しいSFホラーだ。 アルフレッド・べスターの『虎よ、虎よ!』に登場するテレポーテーションの名前からそのまま借用されたテレポーテーションシステム、ジョウント。扉を開けるとすぐさま遠方へ移動できる、いわばどこでもドアのような装置だと解釈できる。 ただ発明者のカルーンが無生物では何ら支障なく転送できるのに、なぜか生命体は移動するとすぐさま亡くなってしまうという問題に対して、色々試行錯誤する様が描かれる。 それは覚醒状態であればジョウントをくぐると永い時間を過ごすことになり、一気に老化現象が進んで死に至るのに対し、昏睡状態であればその悠久の時間を経験することなく、通常の状態で移動できるというものだった。 逆にその老化現象を利用して犯罪者の処刑に使われていたという都市伝説めいた逸話があることも紹介される。 ついつい余計なことまで話してしまう父親の性分。 ダメだと云われると逆にやりたくなる、少年の反抗心。 どこにでもいる家族の日常がこんな悲劇を生み出す、キングならではの味付けがなされた作品だ。 「しなやかな銃弾のバラード」は処女作がヒットする幸運に恵まれた若い小説家夫婦の許に集まったエイジェントの夫妻と編集者の間で交わされる、ある若い作家が狂気に至って死に至った物語だ。 「狂気はしなやかな銃弾なのだよ」 このあまりに魅力的で蠱惑的な風合いを讃える一文。この一文のためにこの作品は書かれた、そう思わせる作品だ。 この表現はマリアンヌ・ムーアがしばしば自動車か何かを描写するのに使った言葉だと本作の中で語られている。調べてみるとマリアン・ムーアなる詩人が実在したことは解ったが彼女がこのような表現を使っていたかは解らなかった。 ともあれ、このしなやかな銃弾とは作中で登場する狂気に駆られた作家レグ・ソープ自身が放った弾丸のことだ。 私はこの作品はある意味創作に携わる小説家にとっては真実の物語なのだと思う。たった一度きりの人生しかないのに、その手から生み出されるのは他者の人生であり、また見知らぬ世界の物語だ。そんな物語を日々生み出すのは頭の中のアイデア以外の、人智を超えた何かがあると思っているのではないか。 さて本書の最後を飾るのは原書の表紙に描かれているシンバルを持った猿の人形の話「猿とシンバル」だ。 シンバルを持ち、ゼンマイを巻くとコミカルな動きで音楽に合わせて両手のシンバルを叩く、子供の玩具として知らぬ者もいない猿の人形。しかしそんな愛らしい人形もキングの手に掛かれば恐怖の人形へと化す。通常は壊れているかのようにゼンマイを巻いても動かないこの猿の人形が、まるで意志を持っているかのように突然動き、シンバルを叩くと身の回りの誰かが亡くなるのだ。つまりこの猿の人形は死の宣告者なのだ。そしてそれは猿の意志ではなく、ゼンマイを巻き、シンバルを鳴らすことを持ち主にも強いる。アットランダムに殺人が行われるデスノートのような代物だ。 とはいえ、これはある意味今まで数多書かれたホラーの典型である。この猿の人形が捨てても捨ててもなぜか主人公の近くに戻ってくる怪奇現象もまた同じくホラーの典型で、敢えてキングは典型的なホラーを描くことを選んでいるかのようだ。 それは物語の舞台の1つにクリスタル・レイクを選んでいることからも推測できる―クリスタル・レイクは映画『十三日の金曜日』の舞台―。 ただ最後のオチは予想外だった。 本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。 それは狂気。 本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。 まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。 続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。 「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。 「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。 云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。 これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。 「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。 最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。 ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。 常に誰かに見られているのではないか? こんな現状を誰か変えてほしい! 他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。 どうしても喋らずにいられない。 ダメだと云われたら余計したくなる。 自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか? 俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ! そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。 またキングの作品にはキング自身が色濃く反映されているといつも思う。 例えば表題作ではゆくゆくは作家として生計を立てたいと考えながらヒットに恵まれず、高校教師を続けているリチャードと云う人物が出てくるが、これはベストセラー作家にならなかったキングを反映したものだろう。彼はチャンスを手にし、そしてそれを物にしたことで今の人生があるのだが、それが出来なかった場合の人生をリチャードに投影しているように思える。 また「しなやかな銃弾のバラード」ではデビュー作が大ベストセラーになった作家の狂気が描かれているが、これはまさにキング本人そのものではないか。もしそれが起こったら?という創作者自身が常に抱いているスランプへの恐怖を色濃く表しているように思えた。 それを裏付けるのが最後の結びの部分だ。 小説家は、<言葉>というものが本当はどこから生まれるのだろう、といぶかることが時々―いや、しばしば―あったのだが、きっぱり言ってのけた。「(妖精なんて)絶対にいないよ」 創作に携わる者はどこか自身の理解を超えた別の場所からアイデアが降ってきて、それを自分と云うフィルターを介して書かされているのだ、それはどこから来るのか、そんな葛藤が垣間見れる一文である。 また本書でも例に漏れず、他作品とのリンクがある。 もはやキング作品ではお馴染みとなった町キャッスル・ロックが「オットー伯父さんのトラック」では物語の舞台となっている。おまけにあの『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドも名のみ登場する。本書ではその父親ビリー・ドッドがオットー伯父さんと親しいレッカー業者として登場するが、語り手は「いかれたフランク」とフランク・ドッドを評している。後の事件に繋がるさりげないが見過ごせない一文だ。 随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。 そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。 そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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井上夢人氏第2長編となる本書は登場人物の手記もしくは証言をもとにした文書をコンピュータで作った文書ファイルとして構成されたミステリ。
それはかつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇のようだ。 それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。 5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。 まず向井洵子の手記ではもう1人別の自分がいることが示唆され、そして自分自身が殺害されるという新聞記事に出くわす。 そして出張から帰ってきた主人の裕介にはいきなり突飛ばされ、昏倒した後、目が覚めると自分のマンションの目の前の部屋の住人本多初美の部屋にいることが判明する。その後どうにか自分の部屋に戻るとそこには半ば腐乱した夫裕介の死体が転がっているのに遭遇する。 奥村恭輔は向井洵子と同じマンションの同じフロアの住民で小説家。しかし彼はドアポストに入れられていたフロッピーの中に保存されていた向井洵子の手記を読んだことで向井洵子の事件を単独で追うようになる。 そして手記の向井洵子がやがて偽物であることに気付き、やがてその手記で語られている隣人の本多初美の部屋を無断で侵入したことで若尾茉莉子なる人物の履歴書と彼女の高校の卒業アルバムを拝借し、彼女たちの足取りを辿っていく。 やがて2人の同級生から若尾茉莉子が本多初美とのドライブ中に高校卒業後間もなく大事故に遭って亡くなったことを知り、更に本多初美は藤本鋭二という、暴力夫と結婚し、毎日暴力を受けていたこと、そしてその夫も一緒にドライブに行った際に、酔っ払い運転で河に落ちた車から初美だけが助かり、鋭二が死んでしまったことを知る。そして本多初美は若尾茉莉子が成りすました人物ではないかと推理を巡らせていく。 そして若尾茉莉子は本多初美と一緒の部屋に住んでいる彼女と同郷の元同級生だ。彼女はしかし同級生の本多初美との生活をどうにか解消したいと思っている。 北海道から上京したものの、その容姿は男性の興味を惹きつけるようで、事あるごとに転居を繰り返しており、今のマンションは3番目の引っ越し先だった。そして勤めていた喫茶店を自分に云い寄る店長の誘いを頑なに拒んだがために反感を買い、馘首になり、そしてまたお客の1人に見つかったことから彼女はマンションを出て故郷の札幌に戻る。しかしそこには高校卒業後に間もなく遭った交通事故で自分を助けてくれた桑名雅貴にばったり出遭い、強引な誘いを受ける。 藤本幹也はいわゆるごろつきで若尾茉莉子と共生関係にある。彼は茉莉子に惚れてはいるものの結婚しようとは思っていないが彼女のピンチになると助けに来る男で、これまで彼女の犯罪の片棒を担いでいた男だ。彼女の障壁となる人物は悉く葬り去ってきた。 これら4人の手記や供述により、この4人に話に出てくる本多初美も加えた5人の関係性が次第に浮かび上がってくる。 そして唯一上で語っていない語り手、高幡英世は彼女彼らの観察者であり、この4人の手記を、いや読み手を導くガイドの役割を果たしている。 本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。 岡島二人のコンビを解消し、作家井上夢人として世に問うた作品『ダレカガナカニイル…』では女性の人格が主人公に入り込み、その女性を殺害した事件の真相を探る物語だったが、本書はさらにそれを発展させ、複数の人格によって語られる相矛盾する話を統合していく話だった。 つまり井上氏は人格とは何なのか、人一人に唯一無二の人格でなく2つ以上の人格が宿ることで生まれる、アイデンティティそのものがミステリという作品を描くことに興味があったようだ。 前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。 本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。 可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。 つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。 ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまたこの小説の登場人物の1人なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。
さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。 軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。 さらにそんな伝染病で生き残った人々が、いや竜鱗病患者であるにも関わらず全焼せずに済んでいる罹患者たちがトム・ストーリーなる人物が運営するキャンプ・ウィンダムなるコミュニティに集まっていくのも、<キャプテン・トリップス>に罹らず、生き残った人々たちが訪れるマザー・アバゲイルが管理する<フリーゾーン>なるコミュニティに集まっていくのと似ている。ちなみにマザー・アバゲイルに対してトム・ストーリーはファーザー・ストーリーと呼ばれているのも意図したことだろう。 また妻が竜鱗病に罹患したことで狂ってしまった夫ジェイコブが家のドアからチェーンのついたまま隙間から覗いて話しかけるシーンは父親原作の映画『シャイニング』も想起させる。 そして本書のメインとなる竜鱗病。皮膚に竜の鱗のような模様が出来、人間が発火して死に至る不死の病だが、その炎を自由に操るファイアマンことジョン・ルックウッドが現れるとこれまたキングの名作『ファイアスターター』の炎の少女チャーリーを思い浮かべてしまった。 さてこれらはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。 いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。 それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・クロス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。 所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。 このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。 そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。 ただ『ザ・スタンド』と異なるのはコミュニティを形成する主人公たちが幸運にも<キャプテン・トリップス>の被害に遭わなかった人々、つまり健常者であるのに対し、こちらは逆に竜鱗病という未知の病に罹った人々であることだ。そして竜鱗病患者たちは健常者たちによって行われている焼滅クルーによる竜鱗病患者狩り、それは竜鱗病患者を見つけては虐殺するというまさに現代の魔女狩りの手から逃れて生きることを余儀なくされているところだ。 またヒルはキングが<キャプテン・トリップス>に罹患しなかった者の根拠を曖昧にしたのに対し、竜鱗病に感染するメカニズムについてきちんと述べている。 その詳細については作品に当たってもらいたいが、いやはやよくもこうしっかりと考えたものだ。この竜鱗病のメカニズムがしっかりしているがゆえに物語も無理が生じない。 またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。 怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。 一方、竜鱗病患者たちが身を寄せ合うキャンプ・ウィンダムが安住の地かと云えばそうではない。やはり閉鎖されたコミュニティの中で生まれる軋轢が存在し、ハーパーはルールを破って長く外出したことを咎められ、やがて孤立するようになる。ルールを破ったハーパーの行動は、たとえ足りなくなった薬や医療品を補充するために家に戻り、また重傷を負ったファイアマンの様子を見るためとは云え、大幅に約束の時間を逸脱しているので確かに褒められたものではないが、そのことに対して罰を優先させて秩序を守ろうとするキャンプの面々とそれを頑なに受け入れようとしないハーパーとの間の関係性が歪みだし、やがてハーパーこそ悪だと決めつけてリンチさながらの好意に発展していく様はどこかの宗教集団、もしくは共同体における集団心理の暴走を想起させる。 ただハーパーがこのコミュニティに全面的に身を委ねることに忌避感を覚えていることで、今まで秩序と理解の上で成立していた集団生活を乱す行為を、まさか自分のような大人を小学生のように罰したりしないだろうと高を括って、平気で約束を破る彼女自身の行動も認められるべきではないため、一概にこの集団がハーパーに対して行おうとしている処置は悪いわけではない。集団のために良かれと思って取った行動が結果的に身勝手なそれになってしまった個と頑なに秩序を守ることに固執する集団の価値観が乖離によって物事がエスカレートしていく様をヒルはじっくりと描いていく。 そして豊かな父性を以て住民たちを指導してきたファーザーに対して全ての人物が心酔していたのではなく、最もそれに反発をしていたのが実の娘キャロルだった。 両者は共通しているのはコミュニティの住民を愛していたことだったが、父トムが住民がどんな行いをしても赦すことから始め、決して厳罰を与えない対応を取るのに対して娘キャロルはその寛容さを甘すぎると考え、ルールに従わない者は時に罰を与え、繰り返すようならば追放も辞さない、いや情報漏洩を恐れて粛清することも必要だと考える。 コミュニティに対する愛情が強すぎるがゆえに、誰もが自分に従うことを強要するようになった、支配者たちが陥る強迫観念を伴う独裁心の増長。それがキャロルが陥った罠だった。もはやそこにはまともな思考が出来る彼女の姿はなく、全てを自分に従わない者たちを罰するために利用するエゴの化け物と成り果てた狂信者の姿である。 そして頑なに周囲からの罰の強要を拒んでいたハーパーもやがて度重なる虐めとリンチに屈して罰を受け入れる。母親となりつつあることでその強さを手に入れたハーパーもまたその母性ゆえに大切な者に対する愛情が強すぎて自らを犠牲にし、また屈することを受け入れる、弱さを兼ね備えた女性なのだ。 そう、忘れてはならないのはハーパーと元夫ジェイコブの関係だ。妻をこよなく愛し、君こそ人生の宝だと妻ハーパーを褒めそやしていたジェイコブ。しかし彼は妻が竜鱗病患者になったことを知ると一転して、汚らわしい物でも見るかのように彼女を罵倒する。そして別居を選んだ後、家に舞い戻り潔く死を選ぶことを強要するのだ。 その表情は怒りでも狂気でもなく、どんな感情さえもない無だ。つまり彼はあまりに針が振り切ってしまったためにそれが当然だと思うことになったのだ。 キング作品もそうだが、アメリカ作家の作品には感情の起伏の激しい人物、特に男性が登場する作品が多い。そしてその激昂する父親こそが恐怖の根源となっている作品も多く、キングは特にその傾向がある。それは彼の生い立ちに由来しているようだが、その息子ヒルでさえも同様に狂える夫というテーマを描く辺り、やはりこの親子にもキングが送ってきたような父と息子の諍いがあったのだろうか。 そして自分を愛してくれる夫こそが全てと思っていたハーパーも彼の許を離れることで今まで結婚生活で夫が正しいと思っていたことが単に彼のエゴを押し付けられていたことに気付かされるのだ。結婚生活とは病気の一つに過ぎないことに感染してから気付いたとまで云い放つ。 しかしそれでも恋をするのが男女だ。 ジョン・ルックウッドは愛したセーラのことが忘れられないが新たに仲間に加わったハーパーに惚れてしまい、セーラから彼女に心が移ることを恐れて距離を置く。 ハーパーもこのカッコつけしのジョンを鼻白みながらも魅かれていく自分に気付かされる。そしてやはり2人は恋に落ちる。もう一度人生をやり直す伴侶としてお互いを選ぶのだ。 結婚生活が一種の病気だと悟りながらも人は一人では生きていけない、どうしても誰かを恋し、愛してしまうものなのだ。 やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。 但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。 先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。 そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。 また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。 つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。 しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。 『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。 そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。 一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。 ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。 それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。 母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。 この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。 逆に云えば、彼はもう開き直ったのではないか? 自分の思いついた物語が既に父キングによって書かれていることに気付き、寧ろ自分がキングの息子であることから逃れられないことを悟り、敢えて父親と比べられることを覚悟の上で「俺の○○」として書くことを選択したのではないだろうか。 今まで息子ジョー・ヒルの本書と父親キングの『ザ・スタンド』との類似性を強調してきたが、私が件の『ザ・スタンド』を読んだのは約1年半前になる2017年の1月から2月に掛けてだった。その時に抱いた感想は壮大な世紀末叙事詩という感慨だけが残った。 しかし本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。 昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。 そして今年訪れたコロナ禍の世界。 本書は竜鱗病という作者が想像した感染症から普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる感染者たちの、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。 そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。 ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズを主軸としたコナリーのもう1つのシリーズ作品であり、今なお作品が発表されている刑事弁護士ミック・ハラーの、いやリンカーンを事務所にした一風変わった弁護士、「リンカーン弁護士」シリーズ。本書はその幕開けの第1作である。
さてこのミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。 まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。 犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。 父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。 マリファナ栽培で挙げられた密売人ハロルド・ケーシーの事件を扱ったかと思えば、その足で今回のメインの事件となる不動産会社経営のルイス・ロス・ルーレイの婦女暴行容疑事件の法廷に出廷し、保釈金を払って保釈することに成功し、そして更に無償で弁護を行っている売春婦のグロリア・デイトンの麻薬所持による起訴を検察と交渉して、取り下げさせる。コンプトン裁判所に行って麻薬密売人ダリウス・マッギンリーの代理人として判決の言い渡しに立ち会ったかと思えば、刑事裁判所ビルに向かってインターネットでクレジットカード番号と識別データを収集してそれを売り渡す常習詐欺犯サム・スケールズに有罪答弁を促す。さらに麻薬常習者のメリッサ・メンコフの捜査に不手際があったとして証拠の排除を申し立てる。 まさに東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。 いや100万ドルのローンが残っているハリウッドの100万ドルの夜景が眺められる自宅をホームオフィスにしているが、彼の秘書は自宅のコンドミニアムを仕事場としており、そして彼の仕事のファイルが収められている倉庫は過去に弁護を担当した依頼人の父親が経営している貸倉庫で、弁護料を賃貸料代わりにして借りている。しかも4台のリンカーンを所有し、走行距離10万キロに達するまで使った後は空港送迎用のリムジン・サービスに払い下げようと考えている。ちなみに今は2台目を乗りつぶそうとしている。そんな根無し草的なライフスタイルの弁護士だ。 そして彼の有能な調査員ラウル・レヴンは元警官でそのコネを利用して素早く警察から事件に関する資料を手に入れることが出来る。 そしてこのミッキー・ハラー、仕事も速いが私生活も速い。既に2回の離婚を経験している。1人目はヴァンナイス裁判所に配属されている地区検事補。彼女との間には8歳になる娘ヘイリーがいる。2人は時に一緒に食事をし、そして週末には娘に逢うことを許せる仲だ。 2番目に別れた妻はローナ・テイラーでハラーの秘書をやっている。彼女との間には子供はいない。 かつて生活を共にしながらも別れた相手と仕事を一緒にし、また裁判所で逢っても気まずくない関係を築けるハラーは女性から見て魅力のある男なのだろう。 しかしこれら2つの結婚が破綻してしまった彼はどこか生き急いでいるような感じがする。 また本書ではハラーの一人称叙述を通じて、裁判を有利に運ぶ、いわゆる法廷術とも云うべきノウハウが語られる。 まずは陪審員の選出で聖書を携えた人物がいることに気付き、売春婦という職業に嫌悪を抱くはずだと選出されるように便宜を図ったり、とにかくメモを取る記録係と称する人物に印象付けるよう話したり、自分の言葉を心に浸透させるための間の取り方や効果的な証拠の出すタイミングなど、いわゆるメンタリストが得意とする人心操作術が開陳される。それらを駆使するハラーはまさにプロフェッショナルだ。 上に書いたように登場するや否や複数の事件を抱え、リンカーンでロサンジェルス中を走り回り、依頼人に有利な判決を勝ち取ることに専念するハラーは、作中で述べているように自分の依頼人が有罪か無罪かには頓着せず、むしろ誰もが有罪であると考え、検察が掲げた証拠の山の中に潜むひび割れを見つけ、いかに覆すか、もしくは依頼人への刑をいかに軽減できるかに腐心する、いわばやり手のビジネスライクな弁護士のように最初は映る。 自分が豊かな生活を送るために半ば売名行為のように依頼を受け、成功すればその名を犯罪者に知らせてほしいとばかりに宣伝する。 しかしそんな彼も変わってくる。 かつて担当した婦女暴行殺人事件で有罪となったジーザス・メレンデスが無実であることを確信し、そして真犯人が依頼人である可能性が高まった時、彼は初めて自分が依頼人を見ずに状況証拠と検察からの書類だけを見ていただけだったこと、そしてそれが無実の人間を刑務所に追いやったことを悟るのだ。 弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。 以前の彼ならばそれを仕事と割り切って平然とやり遂げただろうが、冤罪者が彼の依頼人の1人であり、そして友人とも云える調査員を亡くした今では自分の職業が呪わしく思えて仕方がない。彼は初めてルーレイという邪悪な者を前にして、正義を意識したのだ。 悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。 「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」 これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。 さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。 ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。 元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。 身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。 単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。 「売春婦も被害者になりうるんだ」 私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。 今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。 またコナリー作品の主人公の特徴に彼らが一生抱えていく業を持っていることだ。 ボッシュは自身の生い立ち、ベトナム戦争に従軍した経験から心に暗い闇を持ち、自分が悪という闇を見つめながらも、いつか自分がその闇の中から覗いている自分を見る側に堕ちてしまうことを畏れている。 そしてミッキー・ハラーは今まで全ての人は有罪であるとみなし、彼は彼らを色んな法的手段を駆使して無罪にし、もしくは刑を軽減することを信条としてきた。しかし彼はルーレイという弁護を請け負う自分にも危害を及ぼす真の邪悪の存在に遭遇したことで自分がやっている弁護士という仕事の意義に揺らぎを覚え、そしてルーレイの代わりに無実のジーザス・メネンデスを有罪にして刑務所に収容したことを今後自分が一生抱えていく罪、業として再び弁護士の仕事に臨むことを決意する。 そこにいるのはかつてのミッキー・ハラーではなく、社会的弱者を救う正義の弁護士になった彼だ。それはつまり今まで超えられない壁として彼の前に立ち塞がっていた偉大なる父親であり、伝説の弁護士とされたマイクル・ハラーをミッキー・ハラーが超えるための第一歩の始まりとなるのかもしれない。 彼の卓越した弁護技術がこの後、真に救われるべき被告人に対してどのように披露されるのか。 息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。 またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2014年第60回江戸川乱歩賞を受賞した下村敦史氏の『闇に香る嘘』は全盲者を主人公にした斬新なミステリとして選考委員の満場一致で決定した作品だが、それに遡ること約20年前に香納諒一氏によって全盲者を主人公にした作品があった。それが本書『梟の拳』である。
但し下村作品の主人公村上和久はいわゆる一般市民であったのに対し、本書の主人公桐山拓郎は元ミドル級のボクシングチャンピオンで、網膜剥離によって全盲を余儀なくされた人物。勝負の世界に生きてきた彼は勝ち気で短気な性格であり、まだ若い彼は言葉遣いもぞんざいである。桐山は引退後その経歴を活かして妻をマネージャーにしてタレント生活を送っている。 そんな彼が巻き込まれる事件は明らかに日本テレビの『24時間テレビ 愛は地球を救う』をモデルにしたチャリティー番組に出演した折に出くわす、久岡昌樹の死に端を発した、原子力業界に絡む政治と金の、そして過去日本が行ってきた非道徳的な行為に纏わる、日本の暗い闇だ。 こう書いただけでも一介の引退した盲目のタレントボクサーが巻き込まる事件としては実にスケールが大きいことが解るだろう。 2人だけの面会を頼まれた相手、久岡昌樹という人物が≪原子力エネルギー推進公団≫の重役でありながら、もう1つ≪日本原子力平和研究センター≫の専務理事という半官半民の組織の上役、即ち日本原発界の中心的人物であり、桐山は彼の死に不運にも立ち会ったこと、そして現役時代のマネージャー永井康介が原発建設に絡む利権問題を追っていたことで否応なく複数の組織の思惑が絡む暗闘に巻き込まれてしまう。 関わる組織は永井がかつて所属していた右翼団体≪愛魂連合≫、その総裁と組長が兄弟分の関係にある暴力団≪戸川組≫、前掲の原子力がらみの組織に、原発建設を計画しているI県の県知事争いをしている≪民自党≫の現県知事、保科武一とその対抗馬、蒲生善之に蒲生を推すI県出身の代議士、通称≪寝業の馬場≫こと馬場啓志。更に桐山が出演した24時間のチャリティー番組を企画している≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山にその会場となった、一度大火災で廃業したホテルを買い取り、近日営業開始予定の≪ホテル・ビューポイント≫のオーナー≪須藤グループ≫といったきな臭い連中が絡んでくる。 そして桐山をしつこくつけ狙うのは正体不明の組織に属する巨漢の男、それとは別の組織に属する柴山なる人物、更には亡くなった久岡の娘静香。そしてかつて永井の友人であった≪呼び屋の金≫こと金円友が桐山夫妻と行動を共にする。更にはかつて桐山が障害者の両親と共に過ごしていた横須賀の施設≪あけぼの荘≫まで絡んでくる。 とにかく次から次へと出てくる、利権を貪ることを一義とした団体、組織が次から次へと出てくることで、最初はかなり目まぐるしく変わるストーリー展開に戸惑いを覚えた。 やがて調査するうちにチャリティー番組に隠された不穏な金の動きが発覚する。毎年3千万ものお金が寄付金に水増しされ、そのお金が≪日本原子力平和研究センター≫から出てきており、そして≪朝日荘≫、≪ひなげし学園≫、≪あけぼの荘≫といったいずれも障害者の面倒を見る福祉施設に寄付されている。 チャリティーのお金が福祉施設に寄付されていること自体は何もおかしな話ではない。しかしこのうちの1つ≪あけぼの荘≫が桐山の両親が入れられ、そして彼が生まれた施設であることが更に彼の事件への関わりを強める。 桐山の両親が障害者同士だった。この事実は何とも私には辛い。私も障害者の子供を抱える身であるからとても他人事とは思えなかった。 しかも桐山はいわゆる人並みの行動が出来ない両親を嫌っていた。勿論人付き合いなどは出来ず、終始人前ではおどおどしている両親、社会的弱者である2人から切り離されるように桐山は会津の父親の兄夫婦に引き取られ、そこでは決して毛嫌いされていたわけではないが、余所余所しさが常に伴い、従って桐山は体が大きかったこともあって喧嘩が強く、荒れた生活を送るようになる。 しかし私は両親が社会的弱者であったことが桐山を喧嘩好き、不良にしたのではないかと思う。社会に対して怯えながら暮らしていた両親とは違う自分、力こそ全て、強い者こそが正しい、周囲には決して舐められない、誰も俺をバカにできない、そんな絶対的な強さを求めた結果がケンカの毎日となり、プロボクサーの道に進むようになった、そんな風に思える。 つまり元チャンピオンという矜持で上から目線で他者に振る舞っていた桐山が初めて見せる彼の弱点、これがこの≪あけぼの荘≫であり、両親なのだ。 その桐山の弱点が最高潮に達するのが病院で入院中の父親を見舞った時だ。目の見えない桐山でさえ想像できる、何とも云えない無力な父親の姿。病院のベッドに暴れないよう両手を柵に縛られ、点滴を受けながら、オムツをされて寝ている父親。もはや息をしているだけの存在。そんな無力な存在が強くなった自分の原点、しかもそれを妻に見られることの羞恥心が最高潮に達する。 幸いにして私はまだ両親が寝たきりになっていないし、入院生活を続けているわけでもない。だからこの気持ちはよく解らない。子供の頃、絶対的存在だった親が、誰かの助けがないと生きてもいられない無力な存在と成り果てた時、私も桐山のような惨めな気持ちに苛まれるのだろうか。 やがてチャリティー番組の製作会社である≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山から久岡、そして永井の周辺を探っていた組織たちが探していたのがあるデータの入ったフロッピーだった事が判明する。 何ともおぞましい事実。 いきなり宇宙の彼方へと飛ばされたかのような真相である。 しかし私も齢40も半ばを過ぎて世間に擦れてしまったのだろうか、この手の話にリアリティを感じなくなってしまった。 主人公は一介の元プロボクサー、その妻は元雑誌記者。男は勝ち気で短気でチャンピオンにもなったことから腕に覚えがあり、網膜剥離で盲目ながらも相手と拳で事を構える度胸を持つ。 妻は記者時代の人脈を活かしてあの手この手で一連の謎を探りつつ、昔取った杵柄で上手く相手から話を聞き出す術を持っている。 しかしとはいえ、彼らの相手に立ち塞がるのは巨漢の男や剣呑な雰囲気を湛えた謎めいた人物、大物政治家にテレビ局のプロデューサー、右翼団体に暴力団と、一般人にとって出来れば関わりたくない人物ばかりだ。 しかも彼らが謎を追ううちに、関わっていた人物が事故死していたり、そんな怪しい輩たちが手を下したと思われる死体が現れたりする。しかもいつもどこで調べたかも解らず、知らない人物から携帯電話にかかってきては脅迫の言葉が残される。 正直、普通の感覚を持っていれば寧ろ知らない方が身のためと思ってこんなヤバい仕事からは手を引くのが普通だろう。 彼ら、特に主人公の桐山拓郎の行動原理は自分が逢うことになっていた久岡なる人物がホテルの部屋で亡くなっていたことと、かつて自分のマネージャーだった友人の永井康介が突然交通事故死したことである。 この明らかに何かきな臭い事情が隠されている一連の事故の真相を知りたいというのが最初の動機であった。 そして次第に物事が桐山自身が育った施設≪あけぼの荘≫が絡んでいることが解ってくるのだが、それでも私だったら早々に手を引き、元の平穏な生活に戻るのが普通だろう。 作中妻の和子が3,4日の約束で、危険だと自分が判断したら調査は辞めると云ったのに、それを聞かないこと、そして行く先々で人が縛られたり、暴力沙汰が起き、終いには自分の夫も瑕を負って見つかること、得体のしれない大男と対峙したことが恐ろしくて堪らないと述べる。 これこそ真実だろう。 しかしそれでもなおこの夫婦は友人の死の背後に潜む陰謀を暴こうとするのである。 もはや市井の人々が関わる範囲を超えてしまっている。上に書いた理由があるとはいえ、なぜここまで彼らがしなければならないのか、終始疑問に思いながら読んでいた。 巨大企業、右翼団体、政治家、暴力団と蓋を開けてみれば実に危ない世界の面々が絡んだ事件だったことが明かされる。 そんな組織に盲目のボクサーが挑むとは何とも無謀な物語だったことか。 しかし本書で一番解せなかったのが桐山の妻和子という女性だ。 結婚前はある総合雑誌の編集記者をやっており、桐山とは彼への取材で知り合い、そして結婚に至った。当時チャンピオンとして、自分に云い寄ってくる女性は選り取り見取り、相手もその気で来るせいか、ちょっと誘えばすぐベッドインが出来る、つまり世界が自分の思いのままになっている無敵感を備えていた桐山の誘いを素っ気なく断った、度胸ある性格。 桐山が盲目になり、ボクサーを引退してからはタレント業に移行した彼をマネージャーとして支え、不具者特有の傲慢さを桐山が出してもグッと押し黙って耐え、桐山の意向に沿うように行動する献身な妻となっている。 正直主人公の桐山は上に書いたようにまだ若く、ボクサー時代の勝ち気で短気な性格が抜けきれず、敬語は使わず、しかも考えるより先に口が出る性格で、情報を極力与えずに相手の話を聞き出し、自分の切り札は最後まで取っておくのが定石の調査活動には全く不向きな男。盲目になっても自分一人でもどうにかなることを見せたがり、勝負の世界に生きてきただけに勝ち負けにこだわり、更には自分が障害者の両親の子であることを恥じて隠し、そんな過去を忘れたいがために親のことを何十年も顧みないという、読者の共感を得られるような人物ではない。 そんな自分勝手で大人になりきれない男にどうして才色兼備の和子が夫唱婦随の関係で桐山に連れ添っているのかが解らなかった。 前述したように、桐山が、自分の友人が亡くなり、また逢おうとした人物が何者かに殺されていたというだけの理由で命をも奪われそうになる危険な橋を渡り、事件の関係者たちから、貴方は関係ないからこの件から手を引くようにと何度も念押しされているにも関わらず、知らないでいること、門外漢に晒されることに我慢がならず、首を突っ込むのを止めないがために、和子自身も人の死にも遭遇し、また夫が暴力を受け、傷つくのを目の当たりにし、それに恐怖する。勿論そのことを夫に告げて止めるように促すが、結局は付いていく。 ここまでするほど、桐山という男に魅力があるとは思えない。 確かに世の中にはなぜこんな女性があんな男と付き合っているのか、結婚しているのかという組み合わせはある。この桐山夫妻もそのうちの1つであり、それは女でないと解らないからだろうか。つまり、放っておけない、私がいないとあの人は駄目だから、そんな理由なのかもしれない。 もしそうだとしても雑誌記者という、いわば理詰めで仕事を進める女性が、理屈でなく感情で桐山に献身的に連れ添う理由が不明で、読んでいる最中どうしても割り切れなかった。 桐山に連れ添うと云えば、親友の永井の妹留美もそうである。突然兄を亡くした彼女は桐山が姿を見せるなり、飛び込むように抱き着く。そして和子は留美の態度から彼女が桐山のことを好きなのではないかと推察する。つまりどこか桐山には母性本能をくすぐる魅力があるのかもしれないが、同性の私には彼がそれほど魅力的とは思えなかった。 タイトルに示す『梟の拳』は盲目のボクサー桐山が幾度となく彼らの前に立ち塞がった≪須藤グループ≫が放った刺客、名もない大男との決戦で、絶対不利の中、留美の機転で照明が消された中で見事にノックダウンしたその拳を指していることと思われる。 梟は夜目が利くが盲目の彼は目が見えない、しかし目以外の耳、その他五感で見て、拳を放つ。過去の栄光に縋って、失うことばかり恐れていた彼。勝つことのみに固執しながら、暗くなかったら俺の方が勝っていたと相手に云われ、それを認めたその時、桐山は変わったのだ。彼が得たのは盲目でも勝てるという矜持ではなく、勝ち負けなどはいらないという境地だったのだろう。 1995年に発表された本書。読み始めは盲目になった元ボクシングチャンピオンが徒手空拳で個人が組織と戦う、ハードボイルド小説を想像していたが、最後に明かされるのは原発建設に隠された国家的陰謀という実に重たい内容だった。 舞台となる24時間のチャリティー番組について例えば恰も寄付に駆け付けたかのように見える芸能人たちが企画の段階でスケジュールに織り込まれていること、寄付で集まる金額と同じくらい番組制作費にお金がかかっており、単に売名行為に過ぎないこと、など作者はあくまでフィクションであると断っているが、案外信憑性の高い話かもしれないと思わされる。 そして現在その安全性と存在意義が問われている原発とこちらもまた23年経った今もまだタイムリーな話題で、しかも内容はかなりセンシティブだ。 今読んだからこそ、響くものがある。またも私は読書の不思議な繋がりに導かれたようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はキングが1985年に発表した短編集。しかし例によってその分量が多いため、3分冊で日本では刊行された。本書はその第1冊目に当たる。そしてこの奇妙な題名はこの短編集を総じて表されたもので、この題名の作品があるわけではない。序文にあるようにキングが案内人となり、死に纏わる話を見せる旅に出る読者そのものを指しているように解釈できる。
まずその口火を切る「握手をしない男」はなんと『恐怖の四季』シリーズで最後を飾った「マンハッタンの奇譚クラブ」で登場した紳士クラブが舞台。しかもその時の鮮烈な妊婦の話があった後の話だ。但し前者ではマキャロンとなっていた語り手の名はマッカロンと表記されてはいるが。 握手を徹底的に拒む男。なんと魅力的な謎だろう。握手どころか他人と触れることすら拒む男。重度の潔癖症のように思えるこの不思議な男に隠された謎がまた実にキングらしい奇想に満ちている。 今回も実に不思議なお話だった。前作同様、今回も冬の夜に語られる物語。不思議な、そしてどこか忘れ難い物語を語り、聞くには寒い日の煖炉の前がよく似合う。 そしてこの紳士クラブを取り仕切るスティーブンスもまた時空を超えた存在であることを仄めかす終わり方が味わい深い。名前からして作者の分身を指しているのではないだろうか。 このマンハッタンの紳士クラブの奇譚、シリーズとして1冊に纏めてくれるといいのだが。 続く「ウェディング・ギグ」は1927年のイリノイ州はモーガンのジャズバンドの物語。 古き良きアメリカの物語。田舎で評判のバンドの許に妹の結婚式での演奏を頼む男。しかし彼はシカゴのやくざで妹はデブでブス。しかしこの兄は妹をこの上なく愛し、妹も兄を慕った。 1920年代のアメリカにはそんな伝説がゴマンとあったことだろう。これはキングによる、そんなゴマンとあっただろう物語の1つ。 何だろうなぁ、この何とも云えない余韻は。こういうのが書けるからキングは只者ではないのだろうな。 次の「カインの末裔」はなんとも云えない読後感を残す。 キングは決して彼の動機については語らない。 題名の示すカインとは旧約聖書に登場するアダムとイブの間に生まれた兄弟の、兄の方の名。神ヤハウェに供物に関心を持たれた弟アベルを憎み、殺害した兄の名だ。 今なお問題を抱えるアメリカ銃社会が引き起こす、未成年の衝動的な銃発砲事件が30年以上も前に理不尽な殺戮シーンとして描かれている。 次の「死神」は本書に付せられた序文によれば18歳の時に書かれた短編らしい。 鏡はホラーやオカルト話によく使われる小道具で単に物を映すというその道具が放つ蠱惑的な魅力は古今東西の創作者の興味を抱いて止まないモチーフのようだ。 そしてキングが鏡を使って書いたのは死神が見える鏡という物。但し、キングが上手いのは不思議な余韻を残す形で終わっていることだ しかしこの話を書いた時、キングは18歳である。18歳と云えば思春期で、大人たちがはっきりと答えを出さないこと、また正しいことをするのが決して正解ではないという大人の世界を知り出す時期。そんな白黒はっきりさせたい青年期にこのような不思議な余韻を残す、その才能にひたすら感心してしまった。 次の「ほら、虎がいる」も奇妙な話だ。 この主人公は学級の中ではいわゆるスクールカーストの中では下の方に位置する生徒として描かれている。従って他の生徒だけでなく、悪意ある先生にもバカにされている。 突然学校のトイレに現れた虎はそんな鬱屈した毎日に嫌気が差した彼の願望が生み出した産物なのだろうか? 潜在意識下で彼が望んだ、自分の天敵を抹殺するために生み出した妄想の動物なのか? この不条理さゆえに色々と考えさせられる作品である。 最後を飾るのは本書において最長の中編「霧」。 映画にもなった本作は霧という自然現象を得体のしれない不定形の生命体の如く描き、見えない何かに襲われる恐怖として描いている。何よりも舞台をショッピングセンターの店内という不特定多数の人間が訪れる限られた空間にしているところが面白い。 次第に霧の中に蠢く物が正体を現してくる。 そしてこの得体のしれない霧と異形の生物の謎を裏付けるものとして政府保有地でアローヘッド計画なる、正体不明の実験が行われていることが示唆されている。 未曽有の嵐が訪れた土地の翌日に現れた霧はその謎めいた施設で生み出された新型兵器なのか、それとも全く新しい生命体なのか。もしくは核を使った実験中に異次元に通じる穴を開けてしまったのか。 80年代当時、今もそうかもしれないが、アメリカでは政府による隠密裏に行わている実験施設が各所にあると噂されており、特に宇宙人、グレイを捕獲しているという話は有名だ。1985年と云えば私は中学1年生。小学生の高学年時にはそういった陰謀物が流行っており、私も図書館でそういった類の本をたくさん読んだ覚えがある。 そんな背景を盛り込ませた上で、嵐から一夜明けて倒木や断線の被害に遭った街をこの得体のしれない霧が迫ってくるという着想が素晴らしい。普段の生活ができない不自由な時と場所において、それまで見たことのない脅威が襲ってきたときに人はどのように振る舞い、またどうやって立ち向かうのか。それが群像劇として生々しく描かれている。 いや群像劇というよりも閉鎖された空間で起きる人々の変容を描いていると云った方が正確か。ショッピングセンターを囲む異形の物たちの存在を信じず、家に帰ろうとする者また外の異常に対して慎重に振る舞い、どうにか生還する方法を模索する人々―主人公のデイヴィッド・ドレイトンもこのうちの1人―、一方非現実的な事態に目を背け、ただひたすらビールを飲み、現実から逃避する者など様々だ。 その中でも常日頃終末論を唱えているがために変人扱いされていたミセス・カーモディは、ここぞとばかりに神の裁きを唱え、徐々に信者を増やしてく様は狂信的な信者を増やす怪しげな新興宗教が蔓延していく様を観ているようだ。 そう、このショッピングセンターの中で、一種のコミュニティ社会が形成されていく様が描かれているのも本書の特徴の1つである。 ただ決してキングは新しいことをやっているわけではない。ショッピングセンターに閉じ込められた人々が異形の物たちの脅威に晒されるという設定は70年代後半に一世を風靡したジョージ・A・ロメロ監督作『ゾンビ』と設定が酷似している。 キングが自身の恐怖、そして影響を受けた映画などを存分に語ったエッセイ『死の舞踏』でもこの作品については触れられており、明らかにその影響が見られる。 しかし私はもう1つの作品を想起した。それは楳図かずお氏が1970年代前半に発表した『漂流教室』だ。突然の大地震でどこか次元の異なる世界へと学校丸ごと移動してしまった生徒と教師たちが、外の世界で蠢く地獄絵図のような異形の怪物たちに囲まれる中、困難に立ち向かう者、自己保身に奔る者、狂気に陥る者などを描いたこの作品が常に頭をよぎっていた。 今でこそ日本のマンガ・アニメは海外にも普及し、広く知られているが、この80年代当時は勿論そんな状況ではなく、全くキングにはこの作品の存在は知られていなかっただろう。 あとがきによればキングがこの作品を発表したのは1980年。10年未満のスパンで東西それぞれの恐怖作品の作り手が類似した作品を書いているシンクロニシティに不思議なものを感じる。 シンプルな設定な物語なのにいくつもの要素が入った小説である。モンスター物、パニック物、そしてディストピア小説。最後の読み応えはかの大長編『ザ・スタンド』から派生した物語のように感じられた。 キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。 勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。 そして今でもその傾向は更に拍車がかかっているが、アメリカでは特に短編に対しては作者にとっては非常にコストパフォーマンスが低い仕事となっており、そのことについてキングは序文で自身言及している。周囲の友人からはなぜこんなに割の悪い仕事をするのか、と。 その割の悪さを具体的にこの短編集に収められた「神々のワードプロセッサー」の原稿料を実例として詳らかに語られている。既にビッグネームとなったキングでさえ、短編1作で得られる実質的な収入はエージェントやビジネス・マネージャーの手数料、所得税などを差っ引くと同じ期間で仕事をした配管工の手当と変わらないらしい―その後、友人がバカにしていた短編のおかげで1冊の本に纏められることでどれだけの収入が得られたかをキングは書き、その友人に仕返しをしている―。 しかしキングは短編を書くことは自分の文章練習のようだと述べている。年々長編を書くごとにストーリーが肥大化してきていることから、その悪い傾向をリセットするために短編の創作は必要なのだという―しかしそういっておきながら、この短編集の次に発表した長編はキング長編の中でも大部を誇る作品の1つである『IT』である。全然リセットされていないところが可笑しく、またキングらしい―。 さてそんなキングのリセットすべくために書かれた短編だが、そのことを裏付けるかの如く、本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。 しかしこの6編、実に多彩である。 まずはマンハッタンのとあるクラブで話される各メンバーが語る奇妙なお話「握手しない男」。冒頭にも書いたように中編集『恐怖の四季』の最後に収録された『マンハッタンの奇譚クラブ』と舞台を同じにする、キング版現代百物語。 握手を頑なに拒む男の奇妙なまでの振る舞い、そしてその隠された理由の恐ろしさ―これは先に読んだ『瘦せゆく男』を想起させる―は荒木飛呂彦氏が大いに影響を受けていることを想わされる。読んでいて荒木氏が描く奇妙な短編を読まされている気がした。 そして最後の一節が示唆する不思議な味わい。まさにこれは奇妙な味とも云うべき作品で、繰り返しになるが、ぜひともこれはシリーズ化して1冊の本に纏めてほしいものだ。 そして古き良きアメリカの、ある田舎バンドが遭遇した事件とその後を伝聞風に描いた「ウェディング・ギグ」。とても最高のカップルとは云えない醜男と並外れたデブでブスの女の結婚式とその後の物語は無法の時代のアメリカの、無数ある伝説を語ったウェスタン風の作品。 学校生活を扱ったものが「カインの末裔」と「ほら、虎がいる」の2編だが、そのどちらもが実に驚く展開を見せる。 前者は優等生と思しき生徒がいきなり寄宿学校の寮の自室に帰るや否や部屋の窓から銃で次々と人を殺しまくる。 後者は授業中に小便を我慢しきれなくなった生徒がトイレに行くとそこに大きな虎がいたという話だ。 どちらもあまりに唐突な展開に面食らう内容だ。 前者はまったく唐突に人を撃ちまくり、後者は彼が立ち往生しているところに同じクラスの生徒と先生が現れて、虎がいるトイレの中に入ってしまう。 これらに共通するのは自分のいる世界を壊してしまいたいという思春期特有の暴走を示しているかのようだ。 普段は大人しい彼らも、心の中で貯め込んだ鬱屈はある日突如爆発して、ある者は殺戮の衝動に駆られ、自ら手を下し、またある者はあるべきところでないところに虎という異質な存在を生み出し、邪魔者を消そうとする。 この不条理さが10代の若者が抱える暴動のエネルギーを具現化しているように思える。 そして収録作品中最も古い「死神」は十代に書かれたとは思えないほどの余韻を残す。それを覗いたものは押しなべて神隠しに遭ったかのように消え失せてしまうという逸話を持つ鏡を骨董美術の専門家が見た後の、あの余韻はもはやヴェテラン作家の域だろう。 そして最後の「霧」。三分冊されたこの短編集で大部を成す本作はまさにキングの独壇場だ。 奇妙な実験をしている施設が近くにあることを仄めかし、嵐の明けた翌朝に突如現れた奇妙な霧。そこからその得体のしれない、まるでそれ自体が一個の生命体のように徐々に町全体を包み込む霧によってショッピングセンターに閉じ込められる人々。そしてその霧の中には異形のモンスターたちが跋扈している。 この辺りはまさに作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。 閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。 特にその中で徐々に権力を持って行くミセス・カーモディなる老婆。骨董品店を営む彼女は普段は何でも神に擬えて物事を語る、いわゆるちょっと頭のおかしなおばあさんなのだが、この異常な状況が彼女を教祖のように仕立てていく。 主人公は普段は誰も歯牙にもかけない頭のおかしな老婆が斯くもカリスマのように巧みな弁舌を振るう力を与え、彼女を神格化しようとしているのはこの霧なのだという。これはまさに当時冷戦下にあったアメリカの先行き不透明な不安な空気をそのまま語っているようだ。即ち霧とは当時のアメリカの見えない将来そのものだったのではないか。 このように全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。 本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。 キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キルドレという永遠の子供たちの戦闘機乗りたちが主役を務める『スカイ・クロラシリーズ』の第2作。
本作の主人公は前作の主人公カンナミ・ユーヒチが配属された基地の教官だったクサナギこと草薙水素が主人公。彼女がまだ戦闘機乗りだった頃の話。つまり前作から時代が遡った物語となっている。 この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。 それらは戦闘シーンと同僚たちとの交流と云った日常的な出来事が淡々と流れるように語られる。 町へ繰り出し、上手いものを食べ、女を抱く同僚たちの日常に、笹倉のバイクを初めて運転させてもらうクサナギの様子など青春グラフィティさながらだ。 その中でもやはり中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。 短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 前作では寿命がないために、事故や殺人に遭わなければ永遠に死ぬことのないキルドレの、厭世観や虚無感が全面的に押し出されていた感じがあり、彼らは死ぬことに対して抵抗感がなく、むしろ死ぬ唯一の方法が撃墜されることなのだと云わんばかりに空を飛び、そして敵を戦っていた。また死地である空を飛んでいる時にだけ、彼らは生への充実感を覚え、いつまでも飛んでいたいという矛盾を抱えていた。 本書に登場するクサナギはまだそれほど自分がキルドレであるという運命に対して悲観していない。彼女は純粋に飛行機に乗るのが楽しく、また戦闘機乗りとして空で死ぬのが本望だと思っている。つまりまだ人間の戦闘機乗りの持つ人生観と同じなのだ。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。 命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。 命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 しかし本書においての草薙水素は飛行機に乗ることが大好きな戦闘機乗りだ。今日も空へと飛び立ち、敵と戦い、帰ってくる。そのために生きているかのように、彼女はその瞬間を愉しむ。 前作の感想では第1作はシリーズの序章と云ったところだろうと私は書いたが、時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。 ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、確かに第1作は序章だ。 しかし今回2作目を読んでこのシリーズは人物を覚えていることが重要であることに気付いた。備忘録のために今回出てきた人物を挙げておくのが肝要だろう。 草薙と同時期に配属されたメカニックの笹倉は前作にも登場。 チームのエースでティーチャはかつての綽名がチータ。 チームの上司合田。既に撃墜された同僚薬田、辻間。キルドレの比嘉澤に栗田。栗田は1作に出てくるクリタ・ジンロウのことだろう。 そうそう娼婦頭と思しき女性フーコもまた前作に登場していたのではないか。 草薙の元同僚赤座に指揮官の毛利、本部の人間甲斐に草薙が不時着した基地にいたのが本田。そして草薙の知り合いの医者が相良。 これらの登場人物は前作から引き続いて登場した者もいる。今後のシリーズでどのように関わってくるのか、そのためにここへ刻んでおこう。 このシリーズは過去へと向かうシリーズだと聞いた。つまりカンナミ・ユーヒチのその後の物語ではなく、第1作目に至るまでの物語だ。特にカンナミという名は重要かもしれない。 このシリーズは基本的に主人公の一人称で物語が進む。従ってクサナギと親しくしていた笹倉が彼女のことをどのように思っていたかは解らない。もしかしたら今前作を読むと何か読み取れるものがあるかもしれない。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は黄昏時の空を示しているのかもしれない。草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。 None but Air。空以外何もない。 今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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本書はまだ真保氏が、自身が傾倒するディック・フランシスの作品に倣って、二文字タイトルの、そしてどこかの公的機関に所属する人物を主人公にしたいわゆる「小役人シリーズ」の3作目に当たる。主人公を務めるのは気象庁の研究官、江坂慎一だ。
そして本書はそのタイトルに示すように地震をテーマにしているのだが、それはまだ物語の冒頭に描かれるプロローグのエピソードのみで、本編に入ってからは門倉司郎という男が水面下で動いている国家的規模の機密計画の準備と、主人公江坂が海洋科学技術センターの無人潜水調査船「ドルフィン」を使用しての吐噶喇列島と薩摩硫黄島周辺海域の鬼界カルデラの海上保安庁との合同観測で鹿児島を訪れるも、海上保安庁の一方的な回答による測量船の不備による度重なる順延とその空いた時間を利用したプロローグで描かれる津波地震観測ミスによって転勤になった元同僚の森本の捜索に専ら話は費やされる。 しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。 とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。 さて上にも書いたように物語は大きく2つに分かれる。 1つは主人公江坂慎一が登場するメインストーリーのパートと警視庁から出向し、内閣情報調査室調査官を務める門倉司郎のパートである。 江坂のパートでは以下のように謎が彼が調べていくうちにどんどん謎が深まっていく。 鹿児島へ現地入りした江坂達の調査を測量船の故障という理由以外詳しいことを説明しようとしない海上保安庁は何を隠しているのか? 更に元同僚の森本は何故辞職したのか? その答えは彼によって直接答えが出される。明日の見えない仕事に嫌気が差したと。そして新たな会社を興したのだが、その手掛けている仕事は一体何なのか? 彼の会社に出資ししているスポンサーとはどこなのか? また彼の来訪をきっかけに休職願を出し、姿を消した南九州工業大学の佐伯教授は森本の事業と何か関係しているのか? それも森本の電話から彼も現在の大学、しかも一地方のさほど権威があるわけでもない大学では出来ることに限界を感じ、森本と志が一致したことによる。 しかし森本が現れてから大学の最新鋭の地震計が壊され、観測データが全て消去されたのか? 福岡大学の物理学教室の日下部修と名乗る男の正体が不明なこと。 そして何者かによって江坂の荷物が物色されていたこと。 更に森本が自動車事故で焼死し、その際警察関係が警護についていたこと。しかもなぜ彼はVIP扱いだったのか? そして森本が調査していた奄美大島西の沖合で多くの海上保安庁の船が行っている演習とは一体何なのか? もう1つの門倉司郎のパートはこの門倉という男の計画、思惑や真意自体が謎となっている。彼は大学の同級生の伝手を使って色んなものを調達する。 石油公団からは信頼ある採掘業者を。 防衛庁技術研究本部からは武器装備の最新技術を。 特に特殊塗料と各種光電波欺瞞システム、いわゆるステルス技術に関する技術提供を。 そして内閣総理大臣にはアメリカ諜報機関への情報漏洩を防ぐ、ある計画について実施の意向を取り付ける。 更にかつての部下の1人を警護役に雇い、低レベル放射能参拝物を乗せて失踪した海上保安庁の巡視船を追って鹿児島へと飛ぶ。 そして彼は森本の娘のマークを福岡県警の公安課に依頼する。 とにかくやること全てが謎めいている。 江坂が秘密を探る側ならば、門倉は秘密を持つ側。この2つの側面が交互に語られ、やがて東シナ海沖の奄美大島西の沖縄トラフで交差する。 さて真保作品の特徴の1つに綿密な取材に裏付けられたきめの細かい描写が挙げられるが、それは本書でも健在だ。本書では気象庁の人間と火山活動を研究している大学がメインとなって登場するが、これが実に現実的に描かれている。 例えば冒頭の福岡管区気象台のシーン1つにおいても当直する人員配置から津波予報の迅速な発令へのプロセスやその判断基準に至るまで専門性が高い内容で事細かに説明がされる。もうこのプロローグだけで一気に読者は気象庁の人間たちの住む世界へと引きずり込まれるのだ。 それからも随所に気象庁に勤める人間ならではの描写が続く。各所に配備された地震計による地震観測網による震源地の特定方法、地震計のデータを使った震央分布や深度別の震源分布図の作成のプロセスなど、それらを読者は江坂の作業を通じて専門的な解析作業のみならず、それが謎解きのアプローチにも同時になっているという愉悦に浸れるのである。 それだけではなく、先に述べた火山活動を研究している大学の研究室を訪ねた時に応対する人間の指先が震源分布図を作成中で色分け作業しているため、迷彩色になっているといったディテールに唸らされた。 こういったディテールを疎かにせず、積み重ねることでそれぞれの登場人物がリアルに感じられるのである。 また無論の事ながら随所に挟まれる豆知識もまた興味をそそられる。日本海溝に沿って阿蘇や桜島などが綺麗な直線で結ばれることを火山フロントと呼称していることや九州が阿蘇山、雲仙岳、霧島、桜島など含め、8つもの活火山を有する島であることなど、改めて九州が火の国であることを思い知らされた。先だってハワイ島が噴火したこともあり、早速それに因んだ雑談で使わせてもらった。 しかし本書は1993年発表の作品。25年も前の作品だ。従って描かれるツールがパソコン通信だったり、フロッピーディスクだったりと一昔感があるのは否めない。従ってここに描かれている観測技術は四半世紀前のものであることは仕方ないだろう。 技術を扱う小説の内容が古びていくのは時の流れに抗えない宿命であるが、それでもなお門外漢である業界の内容を知ることは知的好奇心がくすぐられ、実に面白い。 ただその道の人にここに描かれている内容をさも知っているかのように開陳して恥をかかないように気を付けなければならないのだが。 またそれらの謎に加えて多数の登場人物たちへの掘り下げが濃厚であるのも特徴だ。 主人公江坂は父親の事業を継ぐことに反発して気象庁へ就職した男だ。そして大学時代に付き合っていた女性と結婚するつもりで就職したが、あっさりと彼女が自分の許を去っていった過去、そしてそのことを見事に父親に云い当てられていたことがあり、そのことで父親に対して蟠りがまだ残っている。地方の気象台に勤務することを望んだのも父親のいる東京に行きたくないという頑なな思いからだ。 また彼が探す森本俊雄は50にして愛人が出来、それが元で仕事にミスが多くなり、それが原因で鹿児島に飛ばされた男だ。 監視業務一筋で生きてきながら、鹿児島へ左遷されるや2ヶ月で辞職し、自分の会社を興してもっと専門的なことに専念するようになる。しかしどこか投げやりな態度はかつての森本ではないと江坂は思っている。明日を信じて一歩一歩足元を見ながら実直に仕事をしてきた男が、自分の歩みがいかに遅く、そして到達すべき距離が到底間に合いそうにないことから仕事に嫌気が差し、逃げ出した男と変り果てていた。 その娘靖子も紹介した結婚相手を拒否され、そして父親が黙って興信所で相手の身元調査をしていたことで婚約が破綻した過去を持つ。しかし親子の確執は深く、自分もまた興信所を雇って父親の愛人の存在を調べ、そして暴き、一家崩壊へと導いてしまったことを後悔している。 もう1人の主人公とも云える門倉は大学時代から人と群れるのを嫌う、一匹狼的性格で感情を表に出さずに振る舞える男だが、交通事故で息子を一生杖が必要な身体にしてしまい、夫人とも離婚。おまけに出世コースだった警視庁外事課の課長の職を更迭され、内閣府へ出向した身である。 その他の登場人物にもそれぞれ苦い過去があり、それを抱えて今の姿があることが描かれる。 そしてそれは主要登場人物にとどまらず、登場人物表に記載されていない一シーンだけの端役たちについてもそれぞれの抱える背景が書かれており、1人として駒だけの人間として描かれていない。 家を留守がちな主人に愛想を尽かし、家を出た妻、会話の無くなった夫婦、プライドが高くて周りと打ち解けられないベテランの漁師、等々。 「人間を描けていない」とこの当時数多発表されていた新本格ミステリ作品に対して書評家たちは口を揃えるように評していたが、それを意識してのことか、真保氏は1人1人の人生を語ることでそんな評価を出させないようにしていると思えるほど、徹底している。 しかしどこかそれらのエピソードにはもう一歩踏み込められていない浅さを感じたのもまた事実だ。 まず江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。 一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。 しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。 江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。 更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。 元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。 しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。 また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。 さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。 もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。 しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。 また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。 家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。 さて釣瓶打ちの如く連発する謎の真相はなんとも不思議な読後感を残すものだった。 この物語の終盤、2人の主人公、江坂慎一と門倉司郎が対面し、それぞれの主義主張をぶつけ合う。 江坂の、組織に属する身でありながら自分が納得したいという理由だけで行動し、そして上司の制止も聞かず、辞表を出してまで、己の欲するところを突き進む愚直さ。そして国益のためという大義名分を振りかざしてまで隣国を欺いてまで事を成そうとする国に対して示す純粋な正義感。 こういった江坂の言動はかつての私ならば手放しで愉しんだだろう。 しかし私も40半ばになってみると江坂の考えが実に甘く、子供じみたように思える。 誰も好き好んで悪い事をしようと思ってなどなく、それが必要だからこそ自らが手を黒く染めることを選んだ門倉の方を私は指示してしまう。彼は日本という国を護るために自ら計画し、敢えて悪役になることを選んだのだ。 どちらに正義があるかと云えば正直明確な答えは出ないだろうが、少なくとも私は門倉の方に正義を感じる。 中国や韓国が独自の論法で、主義主張で東シナ海の領有権を振りかざしていることを考えると、純粋な者ほど、真面目な者ほどバカを見る、そんな世の中に、国際社会になってきている。 気象庁という閉じられた世界で過ごしてきた江坂は生のデータを解析し、地震の予測や火山活動の予測を立ててきた人間だ。つまり彼には嘘をつかないデータ、つまり事実を相手に、自らの考えを構築してきた男だ。そして自分なりの答えを出すためにとことん調べることを止めないできた男だ。 しかし門倉は警視庁の外事一課から出発し、諜報活動という騙すか騙されるかの世界で生きてきた男だ。そこで素直に人を信じることは即ち死を意味してきた。しかしだからこそ唯一信じられる仲間への信頼が強かった。鉄面皮と呼ばれていた男は実は熱い心を持った人間だったことが最後に解るのだ。 江坂のエピソードをプロローグにした物語は最後門倉の話で終わる。 海外のことわざにこのような言葉がある。 「1回目は騙す方が悪い。2回目は騙される方が悪い」 世界は複雑化してきている。 読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。 脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させる。 目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。 そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。 1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。 少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。 それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ最終作。このシリーズは今までの森作品同様、密室殺人が多いのだが、本書は一風変わった連続殺人事件が描かれる。色を含んだ名前の被害者がその色一色に塗りたくられて死ぬという実に奇怪な事件である。
さてS&Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。 保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。 S&Mシリーズでの犯人真賀田四季が警察に捕まらず、自由の身であることの違いはあれど、犀川創平と邂逅し、議論を戦わせているという点で、犯人と名探偵の再会という同じようなシチュエーションを使っているのが面白い。 これだけのミステリアスな道具立てをしながら、その動機やトリックが実に呆気ないのが森作品の特徴。むしろ動機なんて犯人しか解らないとばかりに端折る傾向さえあるドライさが見られる。 本書でも犯行のトリックはさほど詳しく語られない。 第1~3の殺人に関してはその方法についてはほとんど語られないから、普通に彼らの前に現れ、普通に殺したようだ。 問題は第4の殺人。そのトリックは何ともしょうもない。 このトリックが明確に書かれないところが、森ミステリの甘いところで私はいつも欲求不満を持ってしまう。 この犯行動機、この現代社会においては実に多い動機だ。 昨今の犯罪の動機は稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。 ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。 ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ? そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。 それもあってかこのシリーズにはS&Mシリーズにはない不穏な空気がある。 表向きは私立探偵兼便利屋稼業の保呂草が実態は泥棒と云う犯罪者の空気を纏っていることが更にミステリアスかつ危険な香りを感じさせているのだが、それにも増して瀬在丸紅子と云う探偵が次第に自身も殺人者としての素養が、資質があること、そしてその衝動を実は紅子自身が押さえていることが明かされる。 常に犯人を突き止める名探偵こそが、犯罪者、とりわけ殺人者の心理を理解している、即ち名探偵も殺人者の心の持ち主である、つまり悪は悪を持って制される、そんな不穏さを感じさせる。 さらに瀬在丸紅子と祖父江七夏の林を巡る女の闘い。ドライな森作品には珍しく嫉妬や愛情への渇望感など、ウェットな部分が書かれているのがS&Mシリーズの、どこか新本格ミステリの流れを継承した、パズルに徹した作風と異なり、大人の読み物としての色合いを濃くしたように感じていたが、本書では既にそれらは薄まり、むしろ紅子が七夏に歩み寄るような姿勢を見せているのが驚きだった。 しかしそんな冷戦も犯人との最終決戦で破られる。林の捜査に協力した紅子が犯人と対峙する時に明らかに七夏は嫌悪感を示し、さらに真犯人との対面に対してははっきりと拒絶する。 これは民間人が犯行現場に土足に立ち入ることへの窘めでもあるが、女性として同じ男性を愛する相手に対する女の意地である。この2人の女の感情的な行動もまた本シリーズの特徴だ。 そう、犯行の動機も含めてこのシリーズの登場人物は実に感情的で衝動的、いや本能に忠実なのだ。保呂草の美術品盗みもまた彼の美しいものが好きという衝動によるものだ。 本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。 この犯行方法は瀬在丸紅子によって見破られ、未遂に終わるのだが、この盗みを働いた保呂草の動機もただ単純に関根朔太が書いた≪幼い友人≫の裏に書いた絵がどんなものなのか見たかったからだけである。 過去にも保呂草はそれがあるべきところに収まるべきだと盗んだ物を無償で誰かに渡したり、美しいから手元に置いておきたいという理由で盗んだりと至極単純な動機で犯行を行っている。美術品を盗んで大金を稼ぐことは二の次なのがほとんどだ。 我々が罪を犯さないとはこの欲望とか衝動を理性で抑えているからだ。そして罪を犯した後で生じることの重大さを想像することで踏み留まらせている。 つまりこの理性と云う壁が破れ、後先の想像をしない時に本能的に人は犯罪を起こすのだ。 作中保呂草は云う。例えば殺人はドライに云えば排除なのだと。自分を確立するために障害となるものを排除する、それが人間だ。 戦争も然り、政治的画策も然り。権力もない人間が邪魔者を排除するために取る方法が犯罪であり、その1つが殺人なのだ。 その排除はまた1つの木から彫刻を作ることにも似ている。余分な部分を削ぎ落し、形を作る。その余分な部分が人ならば殺人であり、そして犯罪は出来上がった作品とも云える。犯罪者の中には犯罪行為にそんな美しさを見出して敢えてする者もいる。 更に保呂草は云う。カラースプレーを手にして色を塗ると実に楽しく、すっきりすることを感じる。 しかし通常しないのはそうすることで後片付けが大変、勿体ない、という倫理、経済的な観念が一般人にあるからそうしないだけで、それを考慮しなければ誰でもできるはずだ。 自分なりの作品を作りたい、人を殺したい。そんな実に無邪気な動機が一連の犯罪の動機である。しかしただの子供ではないかと歯牙にもかけない人はいるだろうが、私は非常に現代的だと感じた。 他にも練無が紫子に語る生贄の話なども興味深い。 命を粗末にしたくないから、死者への感謝の気持ちになり、それが逆に天に命を捧げて天災やら幸せを願うと云う生贄の発想へと繋がったというものだ。これも小さな排除で大きな幸運を得るという行為。 本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。 さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。 S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。 そして練無と紫子の関係にもなんだか微妙な空気が流れていた。この2人の関係の今後は明らかになるのだろうか。 新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが初めて共作した作品が本書『タリスマン』。キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著だ。
解説によればキングとストラウヴがそれぞれ交互に話を書く、リレー方式で書かれたらしい。それぞれがそれぞれの文体とは解らぬように意識的に文体を真似て書いたようだ。 2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。 ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。そしてテリトリーに分身者と呼ばれる第二の存在を持つ人間が10万人に1人の割合でこの世には存在し、ジャックの父親フィリップ・ソーヤーと母親リリーが共に分身者を持つ存在であること、そしてフィリップがリリーに遺した会社の半分の持株を狙い、そして親子の命まで狙う父親の会社の共同経営者モーガン・スロートもまた分身者を持つ者であること、ジャックが移転先で知り合った放浪の黒人ミュージシャン、スピーディ・パーカーもまた分身を持つ存在であり、ジャックは唯一2つの世界を自由に行き来できる存在であるという設定だ。 しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。 またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。 ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。 ただ現実世界から異世界へ現実世界の人間が紛れ込むという設定は今では田中芳樹氏の『西風の戦記』が1987年、小野不由美氏の『十二国記』シリーズが1991年からで、海外のSF、ファンタジーに疎いため、そちらは不明ながらもいずれも後発作品であることを考えると、当時としても斬新な設定だったのではないかと思われる。 読み進むにつれて次第にこれは2人が紡いだ新たな『指輪物語』だと云うことが解ってくる。 最初にジャックがテリトリーで襲われるのはエント。これは『指輪物語』に出てくる木の巨人だ。そして作中何度でも『指輪物語』が主人公ジャックから語られる。 ジャックが母、即ちテリトリーを統べる女王の命を救うために手に入れるのがタリスマン。『指輪物語』は諸悪の根源、冥王サウロンを滅ぼすため、ホビットのフロドたちが彼の持つ「一つの指輪」を破壊する物語。更にその指輪を破壊するために「滅びの山」へと向かう。 一方本書ではタリスマンを手に入れるため、世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」へと向かう。どちらも灼熱の土地でそこに行くのでさえ苦難を伴う。そして本書では「焦土」は火の玉が飛んできては転がり、その日の弾に近づけば髪が抜け、皮膚が爛れ、吐き気をもよおし、内臓もやられ、死に至るという過酷な場所。 ジャックはその話を聞いて当時アメリカ西部で行われていた核実験のことだと気付く。一方『指輪物語』の「一つの指輪」も原子爆弾を象徴していると云われている。斯くも共通項が多いこの2つの物語だが、『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間といった異種族の代表チームで旅を続けるのに対し、本書は若干12歳のジャックが孤独に旅を続けることが違う。また現実世界と異世界テリトリーを行き来できるところもまた異なっている。つまりこれは『指輪物語』と現実とを結びつけて語るファンタジーなのだ。 そんなキングとストラウヴが創った異世界テリトリー。それは科学の代わりに魔術が使われる農業王国だ。 テリトリーと現実世界を魔法のジュースで行き来することが出来るジャック。他方で危機に陥ればジュースを飲んで別の世界に逃れることが出来る、もはや万能の能力のように思えるが、移動のたびにジャックは頼みの綱の魔法のジュースを零してしまい、そのため自由自在に行き来できなくなっている。 従ってジャックは現実世界ではヒッチハイクをして移動し、荒くれたちの住む町オートリ―では酒場のバイトをして金を稼ごうとするが、ずる賢い主人に給料の半分を天引きされたり、ちょっとしたミスで殴られたりと、酷い仕打ちを受ける。 そのうちテリトリーと現実世界との境界が曖昧になってくる。 例えばジャックを旅から戻らせようと執拗に酒場には電話が掛かってくるし、人の姿をした黄色い眼の山羊男エルロイがジャックに襲い掛かる。 ジャックの父フィリップと共同経営者モーガンはテリトリーを自分たちの商売に利用して成功してきた。しかし慎重派のフィリップはあくまで大きな変化を与えることを望まぬ一方、会社を一刻も早くもっと大きくしたいモーガンはテリトリーにない電気や近代兵器、いわば現代科学という魔術を持ち込んで、荒稼ぎをしようと企む。 しかしテリトリーと現実世界は相互に作用しあい、片方で起こった出来事が他方に何らかの形で影響する。 例えば国王の暗殺がきっかけで起きた3週間の戦争がテリトリーで起きたその日は現実世界では第2次大戦が勃発した日。それは6年間も続いた。そして他方で人が死ねば片方でも人が死ぬ。つまり大きな変化をもたらせばそれは更に大きな形で現実世界に作用するのだ。 その片鱗が恐らく山羊男の現実世界への侵略だろう。既に双方の世界の境が壊れつつあるのが物語の状況だ。 その後も旅は続く。テリトリーでは市場町に向かって、そこで初めてその世界の通貨の使い方を―詐欺に遭いながらも―学び、西方街道を行く途中では塔に上ってそこから羽を広げて宙を優雅に羽ばたく人たちの姿を見て、そこに人生の喜びを見出す。 エージェントの父と女優の母親を持つジャック・ソーヤーはいわばサラブレッドといった普通の子とは異なる洗練された家庭の生まれである。彼はいつの間にか、母親の女優の血を受け継いだかの如く、現実世界とテリトリーとの間を行き来しながら、出逢う人々を持ち前の想像力と演技力で引き込みながらアメリカ横断の旅を続ける。 しかしジャックに協力する人たちはジャックが嘘をついていることに薄々気づいている。つまり世間の大人もそう馬鹿ではないということだ。しかし嘘をつかれながらもジャックに協力したくなる魅力が彼には備わっている。 ヒッチハイクをしているジャックを拾ったあるバディー・パーキンズはジャックの笑顔を見て美しいとさえ思う。彼の内面から輝き出すものが、経験を積み重ねた者が見せる苦難に打ち克ってきた者の強さを垣間見たのだ。 一方で彼の風貌ゆえに小児愛者の、男児性愛者の興奮を掻き立てることもあり、ジャックを拾ったドライヴァーの中には故意に性的行為を求める人物も少なからず出てくる。そんな輩に対しても上手く対処する方法をジャックは身に着けるようになる。 しかし少年の旅を描くのに、現代アメリカの暗部をきちんと描く辺り、実にキングらしい。もしくはストラウヴによる演出なのかもしれないが。 可愛い子には旅させよ。 12歳のジャックの旅はまさに彼の成長の物語である。この旅でジャックは色んな人々と出逢い、年齢以上の人生経験を積むことになる。 何度も挫け、何度も泣き言を云いながらもジャックは母親を救いたい一心で旅を続ける。しかしテリトリーと現実世界を行き来することが影響して奇妙な地震が起き、アンゴラで7名もの死者が出る建設中のビル倒壊事故に責任を感じ、自分の旅で数多くの関係のない人が亡くなるのではないか、母親1人の命を救うために多くの犠牲者が出るのではないかと絶望する。 そんな時に出遭ったのが彼の支援者である放浪の黒人ミュージシャン、スピーディの分身とも思えるスノーボールという盲目の黒人ギタリスト。彼があるメッセージをジャックに告げる。 誰かが何かをしたために人が死ぬこともある、だけど何かをしなかったからもっとずっと大勢の人が死んだかもしれない。 つまりやって後悔する方がやらずに後悔するよりもはるかにましだと諭す。 そして物語の中盤、テリトリーで父親のことを知るウォーウルフのウルフと出逢い、彼とジャックは旅を共にする。ウォーウルフでありながら、山羊たち家畜の世話をする、実にミスマッチな役割を宛がわれたウルフの設定が実に面白い。 しかしウルフと知り合うや否や、ジャックの旅を食い止めようとするモーガンがようやく彼の居所を突き止め、彼を殺害しようとするが、その時、モーガンの魔の手から逃れようとウルフと共に現実世界へと舞い戻る。狼男のウルフが未知なる現実世界でジャックと行動を共にする辺りは本書の読みどころの1つである。 彼が狼男で満月の夜3日間は狼になり、その本性を剥き出しのまま、ジャックすらをも獲物として食らおうとする、この信用ならぬ共存関係のスリルはまさにこの2人の巨匠の独壇場とも云うべき、特殊な設定だ。 ウルフが守る『良き農耕の書』というテリトリーに伝わる農業の指南書には満月の日には家畜を襲ってはいけないと書かれ、それを一身に守ろうとする。獣の本性を剥き出しにしながらもウルフはジャックを家畜として扱い、そしてこの鉄則を守ろうと努力する。 やがて彼らはケイユガという町で不審者として逮捕され、そこにあるサンライト・ホームという更生施設に入れられる。そこはなんとテリトリーでモーガンの腹心の部下であるオズモンドの分身者サンライト・ガードナーが経営する、悪しき更生施設だった。 ここは本書における最初の山場だ。 ジャックがヒッチハイクを再開して目指す場所は、宿敵モーガン・スロートの息子でありながら大の親友であるリチャード・スロートがいるセア・スクール。そこで昔と変わらぬ親友と出逢ったジャックはリチャードにこれまでのことを打ち明ける。全てを信じないながらも一応リチャードが理解を示した頃、学校では奇妙なことが起きる。いつの間にかクラスメイト達は消え失せ、代わりに上級生によく似た半獣の人間がジャックを突き出せとリチャードを脅す。リチャードは幼い頃、父親がいなくなった時に体験したあるトラウマからそれは現実ではなく悪夢であると思い込もうとする。しかしジャックへの魔の手はどんどん迫り、やがてセア・スクール校長のミスター・ダフリーまでもが人狼と化して2人に襲い掛かる。 間一髪、とうとうジャックはリチャードと共にテリトリーへ跳躍し、そこから西へと向かう。昔列車の停車場だったセア・スクールはテリトリーでは汽車の乗り場であり、そこの番人アンダースから世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」が広がる西に向けて走り、モーガンの依頼で彼の荷物を黒い館(ブラック・ホテル)まで翌朝運ぶことになっていたことをジャック達に教える。ジャックはそこにタリスマンがあると確信し、モーガンたちを一歩出し抜いて彼の列車を借りて黒い館へと向かう。 この焦土の風景は楳図かずお氏のマンガ『漂流教室』を想起させる、醜悪な生き物たちの巣窟だ。放射能を帯びていると思われる火の玉が終始飛び交い、足が退化したミュータントの犬、それらを食らう巨大な地虫、猿のような革製の翼をもった小鳥、悪いウォーウルフ、半人半蛇、半人半鰐の異形の者たちやらが次々と登場する。 とこのように次から次へとジャックの旅は不思議な出来事と人たちと出逢い、あるいは巻き起こしていく。 この1985年に書かれた物語は上に書いたように今でも続く現実世界と異世界とを舞台にしたファンタジーに影響を与えたと思われる節が見られる。 なんといってもまずは宿敵モーガンと主人公ジャックの父親フィリップとの関係だろう。ジャック親子の前に立ち塞がる敵モーガンは太って髪の薄くなった冴えない風貌である。彼はエール大学在籍時にジャックの父親フィリップと知り合うが、その冴えない風貌から常に彼を見下し、小バカにしているように見えた。これがモーガンの心中に澱のように溜まる劣等感による殺意を募らせることになる。 この2人の関係性は『ハリー・ポッター』シリーズのセブルスとハリーの父親ジェームズとの関係によく似ている。この2人の関係性は本書に原形があるのではないだろうか。 テリトリーと現実世界とを自由に行き来できるジャックは自分こそがただ1つの存在であることに気付く。かつてテリトリーを発見し、行き来していた彼の父親フィリップはテリトリーの他にも別のテリトリーがあることを感じていた。 その通り、無数のテリトリーが存在し、その全てが自分の世界のブラック・ホテルに入り、そしてタリスマンを手にしなければ得られない。そんなことは不可能だが、ただ1つの存在であるジャックのみがそれを可能となる。なぜならジャックは唯一無二の存在だからだ。 毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。 癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。 本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。 他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。 そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。 ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。 最後のむすびの文章が実に憎い演出だ。主人公の名前から私の中にはある物語の主人公のことが浮かんでいたのだが、それはこの2人の作家が意図したことらしい。 最後にあの有名な作品―マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』―のむすびをそのまま使い、またそれが実にこの物語を結ぶのに似合っている。 2人の稀代のホラー作家が紡いだファンタジー・アドヴェンチャー・ノヴェルは彼らによる新たな『指輪物語』でありながら、少年少女文学不朽の名作へのオマージュだったのだ。 読み終えて冒頭を見てみるとそこには『ハックルベリイ・フィンの冒険』からの抜粋があることに気付かされる。キングとストラウヴによるトムとハックの物語。しかしそれにしてはちょっぴり、いやかなり辛口の味付けだったのはご愛嬌か。 しかしマーク・トウェインが後にハックを主人公にした『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたように、2人がリチャード・スロートを主人公にした物語を紡ぐかと云えばそれはないだろう。 なぜならジャックとリチャードには決定的な違いがある。それは異世界を知る喜びを持つジャックに対し、リチャードは異世界に恐怖を抱き、目を背け現実のみを頑なに信じようとしたからだ。幼い頃に消えた父親を追ってテリトリーに迷い込んだリチャードはそこで異形の者に遭遇し、命からがら逃げだし、それがトラウマとなって、一切の物語を遮断することにし、超常現象全てに現実的な答えを見出すようになる。 物語の面白さを愉しむジャックと物語を愉しめないリチャードという2人の差は本を読む人、読まない人の心の豊かさの違いを示唆しているようにも思える。 はてさてこの感想を挙げるにあたり、思いつくままに本書から想起される物語を挙げてきた。 『ハリー・ポッター』、『十二国記』、『西風の戦記』、『指輪物語』、『漂流教室』、そして『トム・ソーヤーの冒険』。 古今東西の小説やマンガのエッセンスが本書にはそこここに詰まっている。さらにブラック・ホテルでの対決でモーガンが見せる、両手の拇指を耳の奥深く突っ込んで残りの指をひらひらさせて「アッカンベー」をし、その後で舌を噛み切る、滑稽ながらも恐ろしい仕草や彼の腹心の部下ガードナーが呂律の回らない状態で狂い叫んでジャックに襲い掛かるところなどはまんま『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる個性的な悪党そのものだ。 2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。 色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。 そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズもとうとう9作目。シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に登場した土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。
2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。 そして今回の謎は飛び切りである。 まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。 さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。 しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。 更に今回土井超音波研究所の地下室に潜入することを依頼した藤井苑子こと纐纈苑子も物語の背後で暗躍する。 テロリストの藤井徳郎の妻であった彼女がN大学の周防教授の部屋に忍び込み、なぜ教授の友人が送ったNASAの資料を盗んだのか? また今回はNASAの事件に関係した国際的なテロリストが絡んでいることもあり、他国の国際機関が事件に介入し、偶然当事者と間違えられた瀬在丸紅子たちが危害に遭うというスリリングな展開を見せる。レスラーを思わせる体格の中国系アメリカ人リィ・ジェンと小鳥遊練無の緊張感ある格闘シーンと、小鳥遊練無の少林寺拳法の師匠で紅子の世話役である根来機千英の達人ぶりを目の当たりにできる。格の違いを見せつけながらも紅子への忠誠を失わないその姿勢は根来の信念の深さを思い知らされるワンシーンだ。 彼が紅子の元妻林とその部下で恋人の祖父江七夏に対して嫌悪感を露わにするのを大人気ないと感じていたが、このシーンは彼こそが男であり、林が実に芯のない男であるかという格下げせざるを得なくなるほどの日本男児ぶりである。 祖父江七夏と瀬在丸紅子の潜在意識での格闘は続くが、その大いなる原因は2人の女性に手を出した林なのだから、彼が読者から嫌われて当然なのは今に始まったことではないのだが。 更にこの件で紅子の息子へっ君の誘拐騒動が起き、紅子のへっ君への溺愛ぶり、愛情の深さを読者は思い知らされる。七夏が云うようにかつては林のためなら息子も殺すことをできると云う冷淡なまでの林への執念を見せた彼女はその実、本当に息子に危難が訪れると普段の冷静さが吹き飛んでしまうほどの母性愛の持ち主だったことが解る。 そんな起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。 この辺が森ミステリの味気なさなのだが。 更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。 いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。 そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。 読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。 そしてこの纐纈苑子が小鳥遊練無にそっくり、いや小鳥遊練無が纐纈苑子にそっくりなことが最後の最後まで実に効果的に活きてくるのである。 ところで本書のタイトルは朽ちる、散る、落ちると3つの動詞で構成されており、これまでの森作品の中でも非常に素っ気ないものだが、各章の章題は「かける」で統一されながら、それぞれ「欠ける」、「架ける」、「掛ける」、「賭ける」、「駆ける」、「懸ける」、「翔る」と7つの同音異句動詞で構成されており、まさに動詞尽くしの作品である。 ただあまりそれまでの森作品と比べて題名の意味はよく解らない。 朽ちるとはまさに死のこと。肉体は朽ちても残るものがある。 落ちるとは藤井徳郎の行った犯罪とその死を指すのか。 しかし散るとは? もしかしたら藤井のテログループが散開したことを示しているのだろうか。 このシリーズは保呂草の手記によって書かれていることがあらかじめプロローグに提示されているのが特徴だ。そして物語を読み終えた時、このプロローグを読むと浮かび上がってくるものがある。 本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。 彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。 さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。 西之園萌絵がお嬢様然とした世間知らずな学生であるのに対し、瀬在丸紅子もまたかつてお嬢様で常識を超越した存在であるのだが、彼女は祖父江七夏と元夫である林を取り合う、人間としての嫉妬や女としてのプライドと云った人間らしさを感じるからだ。 特に祖父江七夏と逢うのは嫌いではない、なぜならその間彼女は林と一緒にはいられないからだ、という凄い考え方の持ち主だ。 そして何よりも物語を引き立てるコメディエンヌ(?)小鳥遊練無と香具山紫子の2人の存在、そして危うい香りを放つ食えない探偵保呂草といったキャラが立った面々が前シリーズの登場人物たちよりも親近感を覚えさせる。森氏の文章力、キャラクター造形の力が進歩したこともあろうが、やはりこのキャラクターたちは実に愛すべき存在だ。 本書でとうとう紅子の息子のへっ君のイニシャルがS.S.であることも判明し、最後の最後で明かされるサプライズへ助走の状態であるーいや本音を云えば何も知らないで最終作まで読みたかったが、世間一般の森ファンはどうも作品間のリンクを吹聴したがる傾向があり、ネタバレを逃れるのは至難の業なのだ—。 さて心して次作を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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残念ながら2013年に亡くなった作者の、元々は『「通りゃんせ」殺人事件』という凡百なタイトルで発表された作品。本書はモチーフの童謡を「通りゃんせ」から「子取り鬼」に変えて加筆・修正されている。
日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。 その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。 今邑氏はそれまでの作品でカーの『火刑法廷』を彷彿とさせる、本格ミステリとホラーを融合した作品を書いてきた。怪奇現象としか思えない事件を本格ミステリとして解き明かした後に、不可思議な現象が起き、なんとも云えない余韻を残した作風が特徴であった。従ってそれまでの作品を読んでいる読者は平安時代から纏わる鬼女の伝説を擬えた怪奇的な見立て殺人と思わされながらも、ホラー文庫から出た作品ということもあり、やはりホラーなのでは、と実に不安定な状況の中、読み進むことになる。これが実に効果的であった。 本書のホラー要素とは前掲にもある子取り観音の逸話だ。 自分の娘を鬼にさらわれ、腸を切り開かれて殺されたことから絶世の美女と謳われながら、我が子を喪った苦しみから鬼女と化し、墓から自分の子の亡骸を掘り出して食らい、そして山奥に逃れて、時折人里に降りてきては里の子供をさらっては腸を食らっていたとされる桜姫の伝承から由来する子取り観音。子取り鬼の一節、「赤いべべ」はべべ、つまり着物ではなく、服を真っ赤に染めた幼女の血を指す。 そんな逸話が残る子取り観音を祀る廃寺で22年前幼い頃に子取り鬼をして遊んでいた千鶴たちと一緒に遊んで置き去りにされたことで、何者かによって我が娘を殺された妾、加賀道世とその息子史朗が再び夜坂に戻ってきてから起きた同様の幼女殺害事件。 この22年という歳月を経て再現される奇妙な符号。 東京で夫と死別し、夜坂に千鶴を連れて出戻る母と全く同じ状況で娘紗耶と出戻る千鶴。 夜坂を離れずにいる当時の幼馴染たち。 その幼馴染たちと廃寺で遊んでいる後に起きた幼女殺害事件。 幼馴染の1人は娘がその幼馴染たちと廃寺で遊んでいる時に首を絞められて亡くなっているのを発見される。 そして22年前に娘を亡くした妾の女性が老女となって再び夜坂に戻り、一人息子と以前住んでいた洋館に住んでいる。 全てが夜坂に残る暗い歴史、22年前の事件を再現するかのように全てが集まる。 大人になった幼馴染たちは今度は22年ぶりに自分たちの子供が殺されていくのを目の当たりにし、当時の忌まわしい事件の再現度を高めた千鶴の帰郷とこの加賀親子の再来こそが全ての元凶であると糾弾するようになる。そしていつの間にか周囲には加賀親子こそが、犯人である、22年前に殺された娘の事件を自分たちのせいにした恨みから復讐しているのだと思うようになる。 一方で子供たちが殺された晩に決まって掛かってくる子取り鬼の歌を歌う老女の声。一連の事件は子取り観音の仕業ではと千鶴は疑ったりもする。 人間の手になるものか、それとも不気味にほほ笑む観音像による人智を超えたものの仕業か。 何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。 結局一連の幼女殺害事件は、人智を超えたものによる仕業ではなく、狂える人たちによる凶行であった。 つまりはミステリであったが、ホラーではなかったかと云えばそうではない。本書はミステリでありながらやはりホラーであったと云えるだろう。 では本書における怖さとは何か? 次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。 しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。 その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。 幼い頃に妾として町中の大人から疎まれていた加賀道世。相手にしてはいけないと親から云われていた子供たちは彼女の兄妹とは遊ばなかった。町の廃寺で子取り鬼をしているところを訪れた道世から、うちの子と遊んでくれないかと頼まれ、周りの子供たちは拒む中、夫と死別して東京から出戻り、兄夫婦の許でぎこちなく暮らす千鶴はその兄妹にシンパシーを感じ、周囲の反対を押し切って妹のルリ子を仲間に入れてあげる。 しかしその後仲間たちは別の遊びをしに行くが付いてこなかったルリ子だけが後に首を絞められて廃井戸の中で遺体となって見つかる。 ルリ子を殺害したのは犯人なのに、誰とも解らぬ相手よりも顔を知っている子供たちに娘の仇と認めた道世は土屋裕司、髙村滋、山内厚子、深沢佳代、松田尚人、柏木千鶴らの家を訪れ、お前らが娘を殺したと罵倒する。そしてとりわけ仲間に引き入れた千鶴を最も憎悪をしていたことを22年後に兄の史朗から伝えられる。 更に娘紗耶の失踪をきっかけに実の子を亡くす山内厚子と深沢佳代は、同じく犠牲者がなぜ事件の素を作った千鶴の娘紗耶ではなく自分の娘なのかと世の理不尽さに憎悪し、その刃を千鶴に向ける。 つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。 更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。 本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。 片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。 洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。 しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。 友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。 それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。 以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。 人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。 しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。 特に上手いと思ったのは主人公の相馬千鶴の造形だ。 夫に先立たれ、幼い娘を連れて帰郷し、いとこ夫婦のところに居候することになった彼女。しかし余計なお荷物を預けられたと疎まれ、娘はなかなか自分の云うことを聞かない。更に幼女の殺害事件が起きるとたまたま娘の紗耶が失踪したことがきっかけだったことから自分のせいで娘が死んだと犯人扱いされ、そのことが町の噂になり、いとこ夫婦も家を出ていってほしいと望むようになる。 そんな環境の犠牲者と思われた千鶴が彼女も郁江から根無し草のような人生を送っている女性として悟らされることで、生活力のない女性、そのことで彼女もまた運がないだけでなく、自らも他者に頼ってばかりの、自立していない女性であることが解ってくるのである。 そして心のどこかで自分の美貌を誇り、初恋の男性だった高村滋が子供の産めない体になった妻の郁江を捨て自分に走ってくれるのではないかと期待していた甘さも判明する。それが単に思い上がりであったことを知った彼女が娘と逃げ出し、加賀邸に向かうラストは、彼女が裸足であることが象徴的だ。 300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。評価は☆7つだが、☆8つに近いと云っていいだろう。 既に夭折して新刊が望めない作者であるが、幸いにして私の手元には彼女の全著作が揃っている。3作読んでやはりこの作家は私に合っていると確信した。 恐らくは近い将来、昨今の出版事情を考えれば、ほとんど全ての作品が絶版となり、限られた作品のみが電子書籍化として残るだろうことを考えれば、これらの蔵書はまさに貴重。 まあ、そんな収集家的愉悦よりもまだまだ読める作品が沢山あることが素直に嬉しい。次作を読むのはまたしばらく後になるが、その時も期待通りのミステリが読めると思えると愉しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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