■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書はキングが1985年に発表した短編集。しかし例によってその分量が多いため、3分冊で日本では刊行された。本書はその第1冊目に当たる。そしてこの奇妙な題名はこの短編集を総じて表されたもので、この題名の作品があるわけではない。序文にあるようにキングが案内人となり、死に纏わる話を見せる旅に出る読者そのものを指しているように解釈できる。
まずその口火を切る「握手をしない男」はなんと『恐怖の四季』シリーズで最後を飾った「マンハッタンの奇譚クラブ」で登場した紳士クラブが舞台。しかもその時の鮮烈な妊婦の話があった後の話だ。但し前者ではマキャロンとなっていた語り手の名はマッカロンと表記されてはいるが。 握手を徹底的に拒む男。なんと魅力的な謎だろう。握手どころか他人と触れることすら拒む男。重度の潔癖症のように思えるこの不思議な男に隠された謎がまた実にキングらしい奇想に満ちている。 今回も実に不思議なお話だった。前作同様、今回も冬の夜に語られる物語。不思議な、そしてどこか忘れ難い物語を語り、聞くには寒い日の煖炉の前がよく似合う。 そしてこの紳士クラブを取り仕切るスティーブンスもまた時空を超えた存在であることを仄めかす終わり方が味わい深い。名前からして作者の分身を指しているのではないだろうか。 このマンハッタンの紳士クラブの奇譚、シリーズとして1冊に纏めてくれるといいのだが。 続く「ウェディング・ギグ」は1927年のイリノイ州はモーガンのジャズバンドの物語。 古き良きアメリカの物語。田舎で評判のバンドの許に妹の結婚式での演奏を頼む男。しかし彼はシカゴのやくざで妹はデブでブス。しかしこの兄は妹をこの上なく愛し、妹も兄を慕った。 1920年代のアメリカにはそんな伝説がゴマンとあったことだろう。これはキングによる、そんなゴマンとあっただろう物語の1つ。 何だろうなぁ、この何とも云えない余韻は。こういうのが書けるからキングは只者ではないのだろうな。 次の「カインの末裔」はなんとも云えない読後感を残す。 キングは決して彼の動機については語らない。 題名の示すカインとは旧約聖書に登場するアダムとイブの間に生まれた兄弟の、兄の方の名。神ヤハウェに供物に関心を持たれた弟アベルを憎み、殺害した兄の名だ。 今なお問題を抱えるアメリカ銃社会が引き起こす、未成年の衝動的な銃発砲事件が30年以上も前に理不尽な殺戮シーンとして描かれている。 次の「死神」は本書に付せられた序文によれば18歳の時に書かれた短編らしい。 鏡はホラーやオカルト話によく使われる小道具で単に物を映すというその道具が放つ蠱惑的な魅力は古今東西の創作者の興味を抱いて止まないモチーフのようだ。 そしてキングが鏡を使って書いたのは死神が見える鏡という物。但し、キングが上手いのは不思議な余韻を残す形で終わっていることだ しかしこの話を書いた時、キングは18歳である。18歳と云えば思春期で、大人たちがはっきりと答えを出さないこと、また正しいことをするのが決して正解ではないという大人の世界を知り出す時期。そんな白黒はっきりさせたい青年期にこのような不思議な余韻を残す、その才能にひたすら感心してしまった。 次の「ほら、虎がいる」も奇妙な話だ。 この主人公は学級の中ではいわゆるスクールカーストの中では下の方に位置する生徒として描かれている。従って他の生徒だけでなく、悪意ある先生にもバカにされている。 突然学校のトイレに現れた虎はそんな鬱屈した毎日に嫌気が差した彼の願望が生み出した産物なのだろうか? 潜在意識下で彼が望んだ、自分の天敵を抹殺するために生み出した妄想の動物なのか? この不条理さゆえに色々と考えさせられる作品である。 最後を飾るのは本書において最長の中編「霧」。 映画にもなった本作は霧という自然現象を得体のしれない不定形の生命体の如く描き、見えない何かに襲われる恐怖として描いている。何よりも舞台をショッピングセンターの店内という不特定多数の人間が訪れる限られた空間にしているところが面白い。 次第に霧の中に蠢く物が正体を現してくる。 そしてこの得体のしれない霧と異形の生物の謎を裏付けるものとして政府保有地でアローヘッド計画なる、正体不明の実験が行われていることが示唆されている。 未曽有の嵐が訪れた土地の翌日に現れた霧はその謎めいた施設で生み出された新型兵器なのか、それとも全く新しい生命体なのか。もしくは核を使った実験中に異次元に通じる穴を開けてしまったのか。 80年代当時、今もそうかもしれないが、アメリカでは政府による隠密裏に行わている実験施設が各所にあると噂されており、特に宇宙人、グレイを捕獲しているという話は有名だ。1985年と云えば私は中学1年生。小学生の高学年時にはそういった陰謀物が流行っており、私も図書館でそういった類の本をたくさん読んだ覚えがある。 そんな背景を盛り込ませた上で、嵐から一夜明けて倒木や断線の被害に遭った街をこの得体のしれない霧が迫ってくるという着想が素晴らしい。普段の生活ができない不自由な時と場所において、それまで見たことのない脅威が襲ってきたときに人はどのように振る舞い、またどうやって立ち向かうのか。それが群像劇として生々しく描かれている。 いや群像劇というよりも閉鎖された空間で起きる人々の変容を描いていると云った方が正確か。ショッピングセンターを囲む異形の物たちの存在を信じず、家に帰ろうとする者また外の異常に対して慎重に振る舞い、どうにか生還する方法を模索する人々―主人公のデイヴィッド・ドレイトンもこのうちの1人―、一方非現実的な事態に目を背け、ただひたすらビールを飲み、現実から逃避する者など様々だ。 その中でも常日頃終末論を唱えているがために変人扱いされていたミセス・カーモディは、ここぞとばかりに神の裁きを唱え、徐々に信者を増やしてく様は狂信的な信者を増やす怪しげな新興宗教が蔓延していく様を観ているようだ。 そう、このショッピングセンターの中で、一種のコミュニティ社会が形成されていく様が描かれているのも本書の特徴の1つである。 ただ決してキングは新しいことをやっているわけではない。ショッピングセンターに閉じ込められた人々が異形の物たちの脅威に晒されるという設定は70年代後半に一世を風靡したジョージ・A・ロメロ監督作『ゾンビ』と設定が酷似している。 キングが自身の恐怖、そして影響を受けた映画などを存分に語ったエッセイ『死の舞踏』でもこの作品については触れられており、明らかにその影響が見られる。 しかし私はもう1つの作品を想起した。それは楳図かずお氏が1970年代前半に発表した『漂流教室』だ。突然の大地震でどこか次元の異なる世界へと学校丸ごと移動してしまった生徒と教師たちが、外の世界で蠢く地獄絵図のような異形の怪物たちに囲まれる中、困難に立ち向かう者、自己保身に奔る者、狂気に陥る者などを描いたこの作品が常に頭をよぎっていた。 今でこそ日本のマンガ・アニメは海外にも普及し、広く知られているが、この80年代当時は勿論そんな状況ではなく、全くキングにはこの作品の存在は知られていなかっただろう。 あとがきによればキングがこの作品を発表したのは1980年。10年未満のスパンで東西それぞれの恐怖作品の作り手が類似した作品を書いているシンクロニシティに不思議なものを感じる。 シンプルな設定な物語なのにいくつもの要素が入った小説である。モンスター物、パニック物、そしてディストピア小説。最後の読み応えはかの大長編『ザ・スタンド』から派生した物語のように感じられた。 キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。 勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。 そして今でもその傾向は更に拍車がかかっているが、アメリカでは特に短編に対しては作者にとっては非常にコストパフォーマンスが低い仕事となっており、そのことについてキングは序文で自身言及している。周囲の友人からはなぜこんなに割の悪い仕事をするのか、と。 その割の悪さを具体的にこの短編集に収められた「神々のワードプロセッサー」の原稿料を実例として詳らかに語られている。既にビッグネームとなったキングでさえ、短編1作で得られる実質的な収入はエージェントやビジネス・マネージャーの手数料、所得税などを差っ引くと同じ期間で仕事をした配管工の手当と変わらないらしい―その後、友人がバカにしていた短編のおかげで1冊の本に纏められることでどれだけの収入が得られたかをキングは書き、その友人に仕返しをしている―。 しかしキングは短編を書くことは自分の文章練習のようだと述べている。年々長編を書くごとにストーリーが肥大化してきていることから、その悪い傾向をリセットするために短編の創作は必要なのだという―しかしそういっておきながら、この短編集の次に発表した長編はキング長編の中でも大部を誇る作品の1つである『IT』である。全然リセットされていないところが可笑しく、またキングらしい―。 さてそんなキングのリセットすべくために書かれた短編だが、そのことを裏付けるかの如く、本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。 しかしこの6編、実に多彩である。 まずはマンハッタンのとあるクラブで話される各メンバーが語る奇妙なお話「握手しない男」。冒頭にも書いたように中編集『恐怖の四季』の最後に収録された『マンハッタンの奇譚クラブ』と舞台を同じにする、キング版現代百物語。 握手を頑なに拒む男の奇妙なまでの振る舞い、そしてその隠された理由の恐ろしさ―これは先に読んだ『瘦せゆく男』を想起させる―は荒木飛呂彦氏が大いに影響を受けていることを想わされる。読んでいて荒木氏が描く奇妙な短編を読まされている気がした。 そして最後の一節が示唆する不思議な味わい。まさにこれは奇妙な味とも云うべき作品で、繰り返しになるが、ぜひともこれはシリーズ化して1冊の本に纏めてほしいものだ。 そして古き良きアメリカの、ある田舎バンドが遭遇した事件とその後を伝聞風に描いた「ウェディング・ギグ」。とても最高のカップルとは云えない醜男と並外れたデブでブスの女の結婚式とその後の物語は無法の時代のアメリカの、無数ある伝説を語ったウェスタン風の作品。 学校生活を扱ったものが「カインの末裔」と「ほら、虎がいる」の2編だが、そのどちらもが実に驚く展開を見せる。 前者は優等生と思しき生徒がいきなり寄宿学校の寮の自室に帰るや否や部屋の窓から銃で次々と人を殺しまくる。 後者は授業中に小便を我慢しきれなくなった生徒がトイレに行くとそこに大きな虎がいたという話だ。 どちらもあまりに唐突な展開に面食らう内容だ。 前者はまったく唐突に人を撃ちまくり、後者は彼が立ち往生しているところに同じクラスの生徒と先生が現れて、虎がいるトイレの中に入ってしまう。 これらに共通するのは自分のいる世界を壊してしまいたいという思春期特有の暴走を示しているかのようだ。 普段は大人しい彼らも、心の中で貯め込んだ鬱屈はある日突如爆発して、ある者は殺戮の衝動に駆られ、自ら手を下し、またある者はあるべきところでないところに虎という異質な存在を生み出し、邪魔者を消そうとする。 この不条理さが10代の若者が抱える暴動のエネルギーを具現化しているように思える。 そして収録作品中最も古い「死神」は十代に書かれたとは思えないほどの余韻を残す。それを覗いたものは押しなべて神隠しに遭ったかのように消え失せてしまうという逸話を持つ鏡を骨董美術の専門家が見た後の、あの余韻はもはやヴェテラン作家の域だろう。 そして最後の「霧」。三分冊されたこの短編集で大部を成す本作はまさにキングの独壇場だ。 奇妙な実験をしている施設が近くにあることを仄めかし、嵐の明けた翌朝に突如現れた奇妙な霧。そこからその得体のしれない、まるでそれ自体が一個の生命体のように徐々に町全体を包み込む霧によってショッピングセンターに閉じ込められる人々。そしてその霧の中には異形のモンスターたちが跋扈している。 この辺りはまさに作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。 閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。 特にその中で徐々に権力を持って行くミセス・カーモディなる老婆。骨董品店を営む彼女は普段は何でも神に擬えて物事を語る、いわゆるちょっと頭のおかしなおばあさんなのだが、この異常な状況が彼女を教祖のように仕立てていく。 主人公は普段は誰も歯牙にもかけない頭のおかしな老婆が斯くもカリスマのように巧みな弁舌を振るう力を与え、彼女を神格化しようとしているのはこの霧なのだという。これはまさに当時冷戦下にあったアメリカの先行き不透明な不安な空気をそのまま語っているようだ。即ち霧とは当時のアメリカの見えない将来そのものだったのではないか。 このように全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。 本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。 キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
キルドレという永遠の子供たちの戦闘機乗りたちが主役を務める『スカイ・クロラシリーズ』の第2作。
本作の主人公は前作の主人公カンナミ・ユーヒチが配属された基地の教官だったクサナギこと草薙水素が主人公。彼女がまだ戦闘機乗りだった頃の話。つまり前作から時代が遡った物語となっている。 この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。 それらは戦闘シーンと同僚たちとの交流と云った日常的な出来事が淡々と流れるように語られる。 町へ繰り出し、上手いものを食べ、女を抱く同僚たちの日常に、笹倉のバイクを初めて運転させてもらうクサナギの様子など青春グラフィティさながらだ。 その中でもやはり中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。 短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 前作では寿命がないために、事故や殺人に遭わなければ永遠に死ぬことのないキルドレの、厭世観や虚無感が全面的に押し出されていた感じがあり、彼らは死ぬことに対して抵抗感がなく、むしろ死ぬ唯一の方法が撃墜されることなのだと云わんばかりに空を飛び、そして敵を戦っていた。また死地である空を飛んでいる時にだけ、彼らは生への充実感を覚え、いつまでも飛んでいたいという矛盾を抱えていた。 本書に登場するクサナギはまだそれほど自分がキルドレであるという運命に対して悲観していない。彼女は純粋に飛行機に乗るのが楽しく、また戦闘機乗りとして空で死ぬのが本望だと思っている。つまりまだ人間の戦闘機乗りの持つ人生観と同じなのだ。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。 命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。 命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 しかし本書においての草薙水素は飛行機に乗ることが大好きな戦闘機乗りだ。今日も空へと飛び立ち、敵と戦い、帰ってくる。そのために生きているかのように、彼女はその瞬間を愉しむ。 前作の感想では第1作はシリーズの序章と云ったところだろうと私は書いたが、時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。 ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、確かに第1作は序章だ。 しかし今回2作目を読んでこのシリーズは人物を覚えていることが重要であることに気付いた。備忘録のために今回出てきた人物を挙げておくのが肝要だろう。 草薙と同時期に配属されたメカニックの笹倉は前作にも登場。 チームのエースでティーチャはかつての綽名がチータ。 チームの上司合田。既に撃墜された同僚薬田、辻間。キルドレの比嘉澤に栗田。栗田は1作に出てくるクリタ・ジンロウのことだろう。 そうそう娼婦頭と思しき女性フーコもまた前作に登場していたのではないか。 草薙の元同僚赤座に指揮官の毛利、本部の人間甲斐に草薙が不時着した基地にいたのが本田。そして草薙の知り合いの医者が相良。 これらの登場人物は前作から引き続いて登場した者もいる。今後のシリーズでどのように関わってくるのか、そのためにここへ刻んでおこう。 このシリーズは過去へと向かうシリーズだと聞いた。つまりカンナミ・ユーヒチのその後の物語ではなく、第1作目に至るまでの物語だ。特にカンナミという名は重要かもしれない。 このシリーズは基本的に主人公の一人称で物語が進む。従ってクサナギと親しくしていた笹倉が彼女のことをどのように思っていたかは解らない。もしかしたら今前作を読むと何か読み取れるものがあるかもしれない。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は黄昏時の空を示しているのかもしれない。草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。 None but Air。空以外何もない。 今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
本書はまだ真保氏が、自身が傾倒するディック・フランシスの作品に倣って、二文字タイトルの、そしてどこかの公的機関に所属する人物を主人公にしたいわゆる「小役人シリーズ」の3作目に当たる。主人公を務めるのは気象庁の研究官、江坂慎一だ。
そして本書はそのタイトルに示すように地震をテーマにしているのだが、それはまだ物語の冒頭に描かれるプロローグのエピソードのみで、本編に入ってからは門倉司郎という男が水面下で動いている国家的規模の機密計画の準備と、主人公江坂が海洋科学技術センターの無人潜水調査船「ドルフィン」を使用しての吐噶喇列島と薩摩硫黄島周辺海域の鬼界カルデラの海上保安庁との合同観測で鹿児島を訪れるも、海上保安庁の一方的な回答による測量船の不備による度重なる順延とその空いた時間を利用したプロローグで描かれる津波地震観測ミスによって転勤になった元同僚の森本の捜索に専ら話は費やされる。 しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。 とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。 さて上にも書いたように物語は大きく2つに分かれる。 1つは主人公江坂慎一が登場するメインストーリーのパートと警視庁から出向し、内閣情報調査室調査官を務める門倉司郎のパートである。 江坂のパートでは以下のように謎が彼が調べていくうちにどんどん謎が深まっていく。 鹿児島へ現地入りした江坂達の調査を測量船の故障という理由以外詳しいことを説明しようとしない海上保安庁は何を隠しているのか? 更に元同僚の森本は何故辞職したのか? その答えは彼によって直接答えが出される。明日の見えない仕事に嫌気が差したと。そして新たな会社を興したのだが、その手掛けている仕事は一体何なのか? 彼の会社に出資ししているスポンサーとはどこなのか? また彼の来訪をきっかけに休職願を出し、姿を消した南九州工業大学の佐伯教授は森本の事業と何か関係しているのか? それも森本の電話から彼も現在の大学、しかも一地方のさほど権威があるわけでもない大学では出来ることに限界を感じ、森本と志が一致したことによる。 しかし森本が現れてから大学の最新鋭の地震計が壊され、観測データが全て消去されたのか? 福岡大学の物理学教室の日下部修と名乗る男の正体が不明なこと。 そして何者かによって江坂の荷物が物色されていたこと。 更に森本が自動車事故で焼死し、その際警察関係が警護についていたこと。しかもなぜ彼はVIP扱いだったのか? そして森本が調査していた奄美大島西の沖合で多くの海上保安庁の船が行っている演習とは一体何なのか? もう1つの門倉司郎のパートはこの門倉という男の計画、思惑や真意自体が謎となっている。彼は大学の同級生の伝手を使って色んなものを調達する。 石油公団からは信頼ある採掘業者を。 防衛庁技術研究本部からは武器装備の最新技術を。 特に特殊塗料と各種光電波欺瞞システム、いわゆるステルス技術に関する技術提供を。 そして内閣総理大臣にはアメリカ諜報機関への情報漏洩を防ぐ、ある計画について実施の意向を取り付ける。 更にかつての部下の1人を警護役に雇い、低レベル放射能参拝物を乗せて失踪した海上保安庁の巡視船を追って鹿児島へと飛ぶ。 そして彼は森本の娘のマークを福岡県警の公安課に依頼する。 とにかくやること全てが謎めいている。 江坂が秘密を探る側ならば、門倉は秘密を持つ側。この2つの側面が交互に語られ、やがて東シナ海沖の奄美大島西の沖縄トラフで交差する。 さて真保作品の特徴の1つに綿密な取材に裏付けられたきめの細かい描写が挙げられるが、それは本書でも健在だ。本書では気象庁の人間と火山活動を研究している大学がメインとなって登場するが、これが実に現実的に描かれている。 例えば冒頭の福岡管区気象台のシーン1つにおいても当直する人員配置から津波予報の迅速な発令へのプロセスやその判断基準に至るまで専門性が高い内容で事細かに説明がされる。もうこのプロローグだけで一気に読者は気象庁の人間たちの住む世界へと引きずり込まれるのだ。 それからも随所に気象庁に勤める人間ならではの描写が続く。各所に配備された地震計による地震観測網による震源地の特定方法、地震計のデータを使った震央分布や深度別の震源分布図の作成のプロセスなど、それらを読者は江坂の作業を通じて専門的な解析作業のみならず、それが謎解きのアプローチにも同時になっているという愉悦に浸れるのである。 それだけではなく、先に述べた火山活動を研究している大学の研究室を訪ねた時に応対する人間の指先が震源分布図を作成中で色分け作業しているため、迷彩色になっているといったディテールに唸らされた。 こういったディテールを疎かにせず、積み重ねることでそれぞれの登場人物がリアルに感じられるのである。 また無論の事ながら随所に挟まれる豆知識もまた興味をそそられる。日本海溝に沿って阿蘇や桜島などが綺麗な直線で結ばれることを火山フロントと呼称していることや九州が阿蘇山、雲仙岳、霧島、桜島など含め、8つもの活火山を有する島であることなど、改めて九州が火の国であることを思い知らされた。先だってハワイ島が噴火したこともあり、早速それに因んだ雑談で使わせてもらった。 しかし本書は1993年発表の作品。25年も前の作品だ。従って描かれるツールがパソコン通信だったり、フロッピーディスクだったりと一昔感があるのは否めない。従ってここに描かれている観測技術は四半世紀前のものであることは仕方ないだろう。 技術を扱う小説の内容が古びていくのは時の流れに抗えない宿命であるが、それでもなお門外漢である業界の内容を知ることは知的好奇心がくすぐられ、実に面白い。 ただその道の人にここに描かれている内容をさも知っているかのように開陳して恥をかかないように気を付けなければならないのだが。 またそれらの謎に加えて多数の登場人物たちへの掘り下げが濃厚であるのも特徴だ。 主人公江坂は父親の事業を継ぐことに反発して気象庁へ就職した男だ。そして大学時代に付き合っていた女性と結婚するつもりで就職したが、あっさりと彼女が自分の許を去っていった過去、そしてそのことを見事に父親に云い当てられていたことがあり、そのことで父親に対して蟠りがまだ残っている。地方の気象台に勤務することを望んだのも父親のいる東京に行きたくないという頑なな思いからだ。 また彼が探す森本俊雄は50にして愛人が出来、それが元で仕事にミスが多くなり、それが原因で鹿児島に飛ばされた男だ。 監視業務一筋で生きてきながら、鹿児島へ左遷されるや2ヶ月で辞職し、自分の会社を興してもっと専門的なことに専念するようになる。しかしどこか投げやりな態度はかつての森本ではないと江坂は思っている。明日を信じて一歩一歩足元を見ながら実直に仕事をしてきた男が、自分の歩みがいかに遅く、そして到達すべき距離が到底間に合いそうにないことから仕事に嫌気が差し、逃げ出した男と変り果てていた。 その娘靖子も紹介した結婚相手を拒否され、そして父親が黙って興信所で相手の身元調査をしていたことで婚約が破綻した過去を持つ。しかし親子の確執は深く、自分もまた興信所を雇って父親の愛人の存在を調べ、そして暴き、一家崩壊へと導いてしまったことを後悔している。 もう1人の主人公とも云える門倉は大学時代から人と群れるのを嫌う、一匹狼的性格で感情を表に出さずに振る舞える男だが、交通事故で息子を一生杖が必要な身体にしてしまい、夫人とも離婚。おまけに出世コースだった警視庁外事課の課長の職を更迭され、内閣府へ出向した身である。 その他の登場人物にもそれぞれ苦い過去があり、それを抱えて今の姿があることが描かれる。 そしてそれは主要登場人物にとどまらず、登場人物表に記載されていない一シーンだけの端役たちについてもそれぞれの抱える背景が書かれており、1人として駒だけの人間として描かれていない。 家を留守がちな主人に愛想を尽かし、家を出た妻、会話の無くなった夫婦、プライドが高くて周りと打ち解けられないベテランの漁師、等々。 「人間を描けていない」とこの当時数多発表されていた新本格ミステリ作品に対して書評家たちは口を揃えるように評していたが、それを意識してのことか、真保氏は1人1人の人生を語ることでそんな評価を出させないようにしていると思えるほど、徹底している。 しかしどこかそれらのエピソードにはもう一歩踏み込められていない浅さを感じたのもまた事実だ。 まず江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。 一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。 しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。 江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。 更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。 元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。 しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。 また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。 さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。 もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。 しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。 また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。 家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。 さて釣瓶打ちの如く連発する謎の真相はなんとも不思議な読後感を残すものだった。 この物語の終盤、2人の主人公、江坂慎一と門倉司郎が対面し、それぞれの主義主張をぶつけ合う。 江坂の、組織に属する身でありながら自分が納得したいという理由だけで行動し、そして上司の制止も聞かず、辞表を出してまで、己の欲するところを突き進む愚直さ。そして国益のためという大義名分を振りかざしてまで隣国を欺いてまで事を成そうとする国に対して示す純粋な正義感。 こういった江坂の言動はかつての私ならば手放しで愉しんだだろう。 しかし私も40半ばになってみると江坂の考えが実に甘く、子供じみたように思える。 誰も好き好んで悪い事をしようと思ってなどなく、それが必要だからこそ自らが手を黒く染めることを選んだ門倉の方を私は指示してしまう。彼は日本という国を護るために自ら計画し、敢えて悪役になることを選んだのだ。 どちらに正義があるかと云えば正直明確な答えは出ないだろうが、少なくとも私は門倉の方に正義を感じる。 中国や韓国が独自の論法で、主義主張で東シナ海の領有権を振りかざしていることを考えると、純粋な者ほど、真面目な者ほどバカを見る、そんな世の中に、国際社会になってきている。 気象庁という閉じられた世界で過ごしてきた江坂は生のデータを解析し、地震の予測や火山活動の予測を立ててきた人間だ。つまり彼には嘘をつかないデータ、つまり事実を相手に、自らの考えを構築してきた男だ。そして自分なりの答えを出すためにとことん調べることを止めないできた男だ。 しかし門倉は警視庁の外事一課から出発し、諜報活動という騙すか騙されるかの世界で生きてきた男だ。そこで素直に人を信じることは即ち死を意味してきた。しかしだからこそ唯一信じられる仲間への信頼が強かった。鉄面皮と呼ばれていた男は実は熱い心を持った人間だったことが最後に解るのだ。 江坂のエピソードをプロローグにした物語は最後門倉の話で終わる。 海外のことわざにこのような言葉がある。 「1回目は騙す方が悪い。2回目は騙される方が悪い」 世界は複雑化してきている。 読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。 脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させる。 目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。 そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。 1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。 少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。 それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Vシリーズ最終作。このシリーズは今までの森作品同様、密室殺人が多いのだが、本書は一風変わった連続殺人事件が描かれる。色を含んだ名前の被害者がその色一色に塗りたくられて死ぬという実に奇怪な事件である。
さてS&Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。 保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。 S&Mシリーズでの犯人真賀田四季が警察に捕まらず、自由の身であることの違いはあれど、犀川創平と邂逅し、議論を戦わせているという点で、犯人と名探偵の再会という同じようなシチュエーションを使っているのが面白い。 これだけのミステリアスな道具立てをしながら、その動機やトリックが実に呆気ないのが森作品の特徴。むしろ動機なんて犯人しか解らないとばかりに端折る傾向さえあるドライさが見られる。 本書でも犯行のトリックはさほど詳しく語られない。 第1~3の殺人に関してはその方法についてはほとんど語られないから、普通に彼らの前に現れ、普通に殺したようだ。 問題は第4の殺人。そのトリックは何ともしょうもない。 このトリックが明確に書かれないところが、森ミステリの甘いところで私はいつも欲求不満を持ってしまう。 この犯行動機、この現代社会においては実に多い動機だ。 昨今の犯罪の動機は稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。 ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。 ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ? そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。 それもあってかこのシリーズにはS&Mシリーズにはない不穏な空気がある。 表向きは私立探偵兼便利屋稼業の保呂草が実態は泥棒と云う犯罪者の空気を纏っていることが更にミステリアスかつ危険な香りを感じさせているのだが、それにも増して瀬在丸紅子と云う探偵が次第に自身も殺人者としての素養が、資質があること、そしてその衝動を実は紅子自身が押さえていることが明かされる。 常に犯人を突き止める名探偵こそが、犯罪者、とりわけ殺人者の心理を理解している、即ち名探偵も殺人者の心の持ち主である、つまり悪は悪を持って制される、そんな不穏さを感じさせる。 さらに瀬在丸紅子と祖父江七夏の林を巡る女の闘い。ドライな森作品には珍しく嫉妬や愛情への渇望感など、ウェットな部分が書かれているのがS&Mシリーズの、どこか新本格ミステリの流れを継承した、パズルに徹した作風と異なり、大人の読み物としての色合いを濃くしたように感じていたが、本書では既にそれらは薄まり、むしろ紅子が七夏に歩み寄るような姿勢を見せているのが驚きだった。 しかしそんな冷戦も犯人との最終決戦で破られる。林の捜査に協力した紅子が犯人と対峙する時に明らかに七夏は嫌悪感を示し、さらに真犯人との対面に対してははっきりと拒絶する。 これは民間人が犯行現場に土足に立ち入ることへの窘めでもあるが、女性として同じ男性を愛する相手に対する女の意地である。この2人の女の感情的な行動もまた本シリーズの特徴だ。 そう、犯行の動機も含めてこのシリーズの登場人物は実に感情的で衝動的、いや本能に忠実なのだ。保呂草の美術品盗みもまた彼の美しいものが好きという衝動によるものだ。 本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。 この犯行方法は瀬在丸紅子によって見破られ、未遂に終わるのだが、この盗みを働いた保呂草の動機もただ単純に関根朔太が書いた≪幼い友人≫の裏に書いた絵がどんなものなのか見たかったからだけである。 過去にも保呂草はそれがあるべきところに収まるべきだと盗んだ物を無償で誰かに渡したり、美しいから手元に置いておきたいという理由で盗んだりと至極単純な動機で犯行を行っている。美術品を盗んで大金を稼ぐことは二の次なのがほとんどだ。 我々が罪を犯さないとはこの欲望とか衝動を理性で抑えているからだ。そして罪を犯した後で生じることの重大さを想像することで踏み留まらせている。 つまりこの理性と云う壁が破れ、後先の想像をしない時に本能的に人は犯罪を起こすのだ。 作中保呂草は云う。例えば殺人はドライに云えば排除なのだと。自分を確立するために障害となるものを排除する、それが人間だ。 戦争も然り、政治的画策も然り。権力もない人間が邪魔者を排除するために取る方法が犯罪であり、その1つが殺人なのだ。 その排除はまた1つの木から彫刻を作ることにも似ている。余分な部分を削ぎ落し、形を作る。その余分な部分が人ならば殺人であり、そして犯罪は出来上がった作品とも云える。犯罪者の中には犯罪行為にそんな美しさを見出して敢えてする者もいる。 更に保呂草は云う。カラースプレーを手にして色を塗ると実に楽しく、すっきりすることを感じる。 しかし通常しないのはそうすることで後片付けが大変、勿体ない、という倫理、経済的な観念が一般人にあるからそうしないだけで、それを考慮しなければ誰でもできるはずだ。 自分なりの作品を作りたい、人を殺したい。そんな実に無邪気な動機が一連の犯罪の動機である。しかしただの子供ではないかと歯牙にもかけない人はいるだろうが、私は非常に現代的だと感じた。 他にも練無が紫子に語る生贄の話なども興味深い。 命を粗末にしたくないから、死者への感謝の気持ちになり、それが逆に天に命を捧げて天災やら幸せを願うと云う生贄の発想へと繋がったというものだ。これも小さな排除で大きな幸運を得るという行為。 本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。 さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。 S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。 そして練無と紫子の関係にもなんだか微妙な空気が流れていた。この2人の関係の今後は明らかになるのだろうか。 新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
キングが初めて共作した作品が本書『タリスマン』。キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著だ。
解説によればキングとストラウヴがそれぞれ交互に話を書く、リレー方式で書かれたらしい。それぞれがそれぞれの文体とは解らぬように意識的に文体を真似て書いたようだ。 2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。 ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。そしてテリトリーに分身者と呼ばれる第二の存在を持つ人間が10万人に1人の割合でこの世には存在し、ジャックの父親フィリップ・ソーヤーと母親リリーが共に分身者を持つ存在であること、そしてフィリップがリリーに遺した会社の半分の持株を狙い、そして親子の命まで狙う父親の会社の共同経営者モーガン・スロートもまた分身者を持つ者であること、ジャックが移転先で知り合った放浪の黒人ミュージシャン、スピーディ・パーカーもまた分身を持つ存在であり、ジャックは唯一2つの世界を自由に行き来できる存在であるという設定だ。 しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。 またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。 ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。 ただ現実世界から異世界へ現実世界の人間が紛れ込むという設定は今では田中芳樹氏の『西風の戦記』が1987年、小野不由美氏の『十二国記』シリーズが1991年からで、海外のSF、ファンタジーに疎いため、そちらは不明ながらもいずれも後発作品であることを考えると、当時としても斬新な設定だったのではないかと思われる。 読み進むにつれて次第にこれは2人が紡いだ新たな『指輪物語』だと云うことが解ってくる。 最初にジャックがテリトリーで襲われるのはエント。これは『指輪物語』に出てくる木の巨人だ。そして作中何度でも『指輪物語』が主人公ジャックから語られる。 ジャックが母、即ちテリトリーを統べる女王の命を救うために手に入れるのがタリスマン。『指輪物語』は諸悪の根源、冥王サウロンを滅ぼすため、ホビットのフロドたちが彼の持つ「一つの指輪」を破壊する物語。更にその指輪を破壊するために「滅びの山」へと向かう。 一方本書ではタリスマンを手に入れるため、世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」へと向かう。どちらも灼熱の土地でそこに行くのでさえ苦難を伴う。そして本書では「焦土」は火の玉が飛んできては転がり、その日の弾に近づけば髪が抜け、皮膚が爛れ、吐き気をもよおし、内臓もやられ、死に至るという過酷な場所。 ジャックはその話を聞いて当時アメリカ西部で行われていた核実験のことだと気付く。一方『指輪物語』の「一つの指輪」も原子爆弾を象徴していると云われている。斯くも共通項が多いこの2つの物語だが、『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間といった異種族の代表チームで旅を続けるのに対し、本書は若干12歳のジャックが孤独に旅を続けることが違う。また現実世界と異世界テリトリーを行き来できるところもまた異なっている。つまりこれは『指輪物語』と現実とを結びつけて語るファンタジーなのだ。 そんなキングとストラウヴが創った異世界テリトリー。それは科学の代わりに魔術が使われる農業王国だ。 テリトリーと現実世界を魔法のジュースで行き来することが出来るジャック。他方で危機に陥ればジュースを飲んで別の世界に逃れることが出来る、もはや万能の能力のように思えるが、移動のたびにジャックは頼みの綱の魔法のジュースを零してしまい、そのため自由自在に行き来できなくなっている。 従ってジャックは現実世界ではヒッチハイクをして移動し、荒くれたちの住む町オートリ―では酒場のバイトをして金を稼ごうとするが、ずる賢い主人に給料の半分を天引きされたり、ちょっとしたミスで殴られたりと、酷い仕打ちを受ける。 そのうちテリトリーと現実世界との境界が曖昧になってくる。 例えばジャックを旅から戻らせようと執拗に酒場には電話が掛かってくるし、人の姿をした黄色い眼の山羊男エルロイがジャックに襲い掛かる。 ジャックの父フィリップと共同経営者モーガンはテリトリーを自分たちの商売に利用して成功してきた。しかし慎重派のフィリップはあくまで大きな変化を与えることを望まぬ一方、会社を一刻も早くもっと大きくしたいモーガンはテリトリーにない電気や近代兵器、いわば現代科学という魔術を持ち込んで、荒稼ぎをしようと企む。 しかしテリトリーと現実世界は相互に作用しあい、片方で起こった出来事が他方に何らかの形で影響する。 例えば国王の暗殺がきっかけで起きた3週間の戦争がテリトリーで起きたその日は現実世界では第2次大戦が勃発した日。それは6年間も続いた。そして他方で人が死ねば片方でも人が死ぬ。つまり大きな変化をもたらせばそれは更に大きな形で現実世界に作用するのだ。 その片鱗が恐らく山羊男の現実世界への侵略だろう。既に双方の世界の境が壊れつつあるのが物語の状況だ。 その後も旅は続く。テリトリーでは市場町に向かって、そこで初めてその世界の通貨の使い方を―詐欺に遭いながらも―学び、西方街道を行く途中では塔に上ってそこから羽を広げて宙を優雅に羽ばたく人たちの姿を見て、そこに人生の喜びを見出す。 エージェントの父と女優の母親を持つジャック・ソーヤーはいわばサラブレッドといった普通の子とは異なる洗練された家庭の生まれである。彼はいつの間にか、母親の女優の血を受け継いだかの如く、現実世界とテリトリーとの間を行き来しながら、出逢う人々を持ち前の想像力と演技力で引き込みながらアメリカ横断の旅を続ける。 しかしジャックに協力する人たちはジャックが嘘をついていることに薄々気づいている。つまり世間の大人もそう馬鹿ではないということだ。しかし嘘をつかれながらもジャックに協力したくなる魅力が彼には備わっている。 ヒッチハイクをしているジャックを拾ったあるバディー・パーキンズはジャックの笑顔を見て美しいとさえ思う。彼の内面から輝き出すものが、経験を積み重ねた者が見せる苦難に打ち克ってきた者の強さを垣間見たのだ。 一方で彼の風貌ゆえに小児愛者の、男児性愛者の興奮を掻き立てることもあり、ジャックを拾ったドライヴァーの中には故意に性的行為を求める人物も少なからず出てくる。そんな輩に対しても上手く対処する方法をジャックは身に着けるようになる。 しかし少年の旅を描くのに、現代アメリカの暗部をきちんと描く辺り、実にキングらしい。もしくはストラウヴによる演出なのかもしれないが。 可愛い子には旅させよ。 12歳のジャックの旅はまさに彼の成長の物語である。この旅でジャックは色んな人々と出逢い、年齢以上の人生経験を積むことになる。 何度も挫け、何度も泣き言を云いながらもジャックは母親を救いたい一心で旅を続ける。しかしテリトリーと現実世界を行き来することが影響して奇妙な地震が起き、アンゴラで7名もの死者が出る建設中のビル倒壊事故に責任を感じ、自分の旅で数多くの関係のない人が亡くなるのではないか、母親1人の命を救うために多くの犠牲者が出るのではないかと絶望する。 そんな時に出遭ったのが彼の支援者である放浪の黒人ミュージシャン、スピーディの分身とも思えるスノーボールという盲目の黒人ギタリスト。彼があるメッセージをジャックに告げる。 誰かが何かをしたために人が死ぬこともある、だけど何かをしなかったからもっとずっと大勢の人が死んだかもしれない。 つまりやって後悔する方がやらずに後悔するよりもはるかにましだと諭す。 そして物語の中盤、テリトリーで父親のことを知るウォーウルフのウルフと出逢い、彼とジャックは旅を共にする。ウォーウルフでありながら、山羊たち家畜の世話をする、実にミスマッチな役割を宛がわれたウルフの設定が実に面白い。 しかしウルフと知り合うや否や、ジャックの旅を食い止めようとするモーガンがようやく彼の居所を突き止め、彼を殺害しようとするが、その時、モーガンの魔の手から逃れようとウルフと共に現実世界へと舞い戻る。狼男のウルフが未知なる現実世界でジャックと行動を共にする辺りは本書の読みどころの1つである。 彼が狼男で満月の夜3日間は狼になり、その本性を剥き出しのまま、ジャックすらをも獲物として食らおうとする、この信用ならぬ共存関係のスリルはまさにこの2人の巨匠の独壇場とも云うべき、特殊な設定だ。 ウルフが守る『良き農耕の書』というテリトリーに伝わる農業の指南書には満月の日には家畜を襲ってはいけないと書かれ、それを一身に守ろうとする。獣の本性を剥き出しにしながらもウルフはジャックを家畜として扱い、そしてこの鉄則を守ろうと努力する。 やがて彼らはケイユガという町で不審者として逮捕され、そこにあるサンライト・ホームという更生施設に入れられる。そこはなんとテリトリーでモーガンの腹心の部下であるオズモンドの分身者サンライト・ガードナーが経営する、悪しき更生施設だった。 ここは本書における最初の山場だ。 ジャックがヒッチハイクを再開して目指す場所は、宿敵モーガン・スロートの息子でありながら大の親友であるリチャード・スロートがいるセア・スクール。そこで昔と変わらぬ親友と出逢ったジャックはリチャードにこれまでのことを打ち明ける。全てを信じないながらも一応リチャードが理解を示した頃、学校では奇妙なことが起きる。いつの間にかクラスメイト達は消え失せ、代わりに上級生によく似た半獣の人間がジャックを突き出せとリチャードを脅す。リチャードは幼い頃、父親がいなくなった時に体験したあるトラウマからそれは現実ではなく悪夢であると思い込もうとする。しかしジャックへの魔の手はどんどん迫り、やがてセア・スクール校長のミスター・ダフリーまでもが人狼と化して2人に襲い掛かる。 間一髪、とうとうジャックはリチャードと共にテリトリーへ跳躍し、そこから西へと向かう。昔列車の停車場だったセア・スクールはテリトリーでは汽車の乗り場であり、そこの番人アンダースから世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」が広がる西に向けて走り、モーガンの依頼で彼の荷物を黒い館(ブラック・ホテル)まで翌朝運ぶことになっていたことをジャック達に教える。ジャックはそこにタリスマンがあると確信し、モーガンたちを一歩出し抜いて彼の列車を借りて黒い館へと向かう。 この焦土の風景は楳図かずお氏のマンガ『漂流教室』を想起させる、醜悪な生き物たちの巣窟だ。放射能を帯びていると思われる火の玉が終始飛び交い、足が退化したミュータントの犬、それらを食らう巨大な地虫、猿のような革製の翼をもった小鳥、悪いウォーウルフ、半人半蛇、半人半鰐の異形の者たちやらが次々と登場する。 とこのように次から次へとジャックの旅は不思議な出来事と人たちと出逢い、あるいは巻き起こしていく。 この1985年に書かれた物語は上に書いたように今でも続く現実世界と異世界とを舞台にしたファンタジーに影響を与えたと思われる節が見られる。 なんといってもまずは宿敵モーガンと主人公ジャックの父親フィリップとの関係だろう。ジャック親子の前に立ち塞がる敵モーガンは太って髪の薄くなった冴えない風貌である。彼はエール大学在籍時にジャックの父親フィリップと知り合うが、その冴えない風貌から常に彼を見下し、小バカにしているように見えた。これがモーガンの心中に澱のように溜まる劣等感による殺意を募らせることになる。 この2人の関係性は『ハリー・ポッター』シリーズのセブルスとハリーの父親ジェームズとの関係によく似ている。この2人の関係性は本書に原形があるのではないだろうか。 テリトリーと現実世界とを自由に行き来できるジャックは自分こそがただ1つの存在であることに気付く。かつてテリトリーを発見し、行き来していた彼の父親フィリップはテリトリーの他にも別のテリトリーがあることを感じていた。 その通り、無数のテリトリーが存在し、その全てが自分の世界のブラック・ホテルに入り、そしてタリスマンを手にしなければ得られない。そんなことは不可能だが、ただ1つの存在であるジャックのみがそれを可能となる。なぜならジャックは唯一無二の存在だからだ。 毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。 癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。 本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。 他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。 そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。 ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。 最後のむすびの文章が実に憎い演出だ。主人公の名前から私の中にはある物語の主人公のことが浮かんでいたのだが、それはこの2人の作家が意図したことらしい。 最後にあの有名な作品―マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』―のむすびをそのまま使い、またそれが実にこの物語を結ぶのに似合っている。 2人の稀代のホラー作家が紡いだファンタジー・アドヴェンチャー・ノヴェルは彼らによる新たな『指輪物語』でありながら、少年少女文学不朽の名作へのオマージュだったのだ。 読み終えて冒頭を見てみるとそこには『ハックルベリイ・フィンの冒険』からの抜粋があることに気付かされる。キングとストラウヴによるトムとハックの物語。しかしそれにしてはちょっぴり、いやかなり辛口の味付けだったのはご愛嬌か。 しかしマーク・トウェインが後にハックを主人公にした『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたように、2人がリチャード・スロートを主人公にした物語を紡ぐかと云えばそれはないだろう。 なぜならジャックとリチャードには決定的な違いがある。それは異世界を知る喜びを持つジャックに対し、リチャードは異世界に恐怖を抱き、目を背け現実のみを頑なに信じようとしたからだ。幼い頃に消えた父親を追ってテリトリーに迷い込んだリチャードはそこで異形の者に遭遇し、命からがら逃げだし、それがトラウマとなって、一切の物語を遮断することにし、超常現象全てに現実的な答えを見出すようになる。 物語の面白さを愉しむジャックと物語を愉しめないリチャードという2人の差は本を読む人、読まない人の心の豊かさの違いを示唆しているようにも思える。 はてさてこの感想を挙げるにあたり、思いつくままに本書から想起される物語を挙げてきた。 『ハリー・ポッター』、『十二国記』、『西風の戦記』、『指輪物語』、『漂流教室』、そして『トム・ソーヤーの冒険』。 古今東西の小説やマンガのエッセンスが本書にはそこここに詰まっている。さらにブラック・ホテルでの対決でモーガンが見せる、両手の拇指を耳の奥深く突っ込んで残りの指をひらひらさせて「アッカンベー」をし、その後で舌を噛み切る、滑稽ながらも恐ろしい仕草や彼の腹心の部下ガードナーが呂律の回らない状態で狂い叫んでジャックに襲い掛かるところなどはまんま『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる個性的な悪党そのものだ。 2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。 色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。 そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Vシリーズもとうとう9作目。シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に登場した土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。
2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。 そして今回の謎は飛び切りである。 まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。 さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。 しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。 更に今回土井超音波研究所の地下室に潜入することを依頼した藤井苑子こと纐纈苑子も物語の背後で暗躍する。 テロリストの藤井徳郎の妻であった彼女がN大学の周防教授の部屋に忍び込み、なぜ教授の友人が送ったNASAの資料を盗んだのか? また今回はNASAの事件に関係した国際的なテロリストが絡んでいることもあり、他国の国際機関が事件に介入し、偶然当事者と間違えられた瀬在丸紅子たちが危害に遭うというスリリングな展開を見せる。レスラーを思わせる体格の中国系アメリカ人リィ・ジェンと小鳥遊練無の緊張感ある格闘シーンと、小鳥遊練無の少林寺拳法の師匠で紅子の世話役である根来機千英の達人ぶりを目の当たりにできる。格の違いを見せつけながらも紅子への忠誠を失わないその姿勢は根来の信念の深さを思い知らされるワンシーンだ。 彼が紅子の元妻林とその部下で恋人の祖父江七夏に対して嫌悪感を露わにするのを大人気ないと感じていたが、このシーンは彼こそが男であり、林が実に芯のない男であるかという格下げせざるを得なくなるほどの日本男児ぶりである。 祖父江七夏と瀬在丸紅子の潜在意識での格闘は続くが、その大いなる原因は2人の女性に手を出した林なのだから、彼が読者から嫌われて当然なのは今に始まったことではないのだが。 更にこの件で紅子の息子へっ君の誘拐騒動が起き、紅子のへっ君への溺愛ぶり、愛情の深さを読者は思い知らされる。七夏が云うようにかつては林のためなら息子も殺すことをできると云う冷淡なまでの林への執念を見せた彼女はその実、本当に息子に危難が訪れると普段の冷静さが吹き飛んでしまうほどの母性愛の持ち主だったことが解る。 そんな起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。 この辺が森ミステリの味気なさなのだが。 更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。 いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。 そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。 読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。 そしてこの纐纈苑子が小鳥遊練無にそっくり、いや小鳥遊練無が纐纈苑子にそっくりなことが最後の最後まで実に効果的に活きてくるのである。 ところで本書のタイトルは朽ちる、散る、落ちると3つの動詞で構成されており、これまでの森作品の中でも非常に素っ気ないものだが、各章の章題は「かける」で統一されながら、それぞれ「欠ける」、「架ける」、「掛ける」、「賭ける」、「駆ける」、「懸ける」、「翔る」と7つの同音異句動詞で構成されており、まさに動詞尽くしの作品である。 ただあまりそれまでの森作品と比べて題名の意味はよく解らない。 朽ちるとはまさに死のこと。肉体は朽ちても残るものがある。 落ちるとは藤井徳郎の行った犯罪とその死を指すのか。 しかし散るとは? もしかしたら藤井のテログループが散開したことを示しているのだろうか。 このシリーズは保呂草の手記によって書かれていることがあらかじめプロローグに提示されているのが特徴だ。そして物語を読み終えた時、このプロローグを読むと浮かび上がってくるものがある。 本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。 彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。 さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。 西之園萌絵がお嬢様然とした世間知らずな学生であるのに対し、瀬在丸紅子もまたかつてお嬢様で常識を超越した存在であるのだが、彼女は祖父江七夏と元夫である林を取り合う、人間としての嫉妬や女としてのプライドと云った人間らしさを感じるからだ。 特に祖父江七夏と逢うのは嫌いではない、なぜならその間彼女は林と一緒にはいられないからだ、という凄い考え方の持ち主だ。 そして何よりも物語を引き立てるコメディエンヌ(?)小鳥遊練無と香具山紫子の2人の存在、そして危うい香りを放つ食えない探偵保呂草といったキャラが立った面々が前シリーズの登場人物たちよりも親近感を覚えさせる。森氏の文章力、キャラクター造形の力が進歩したこともあろうが、やはりこのキャラクターたちは実に愛すべき存在だ。 本書でとうとう紅子の息子のへっ君のイニシャルがS.S.であることも判明し、最後の最後で明かされるサプライズへ助走の状態であるーいや本音を云えば何も知らないで最終作まで読みたかったが、世間一般の森ファンはどうも作品間のリンクを吹聴したがる傾向があり、ネタバレを逃れるのは至難の業なのだ—。 さて心して次作を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
残念ながら2013年に亡くなった作者の、元々は『「通りゃんせ」殺人事件』という凡百なタイトルで発表された作品。本書はモチーフの童謡を「通りゃんせ」から「子取り鬼」に変えて加筆・修正されている。
日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。 その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。 今邑氏はそれまでの作品でカーの『火刑法廷』を彷彿とさせる、本格ミステリとホラーを融合した作品を書いてきた。怪奇現象としか思えない事件を本格ミステリとして解き明かした後に、不可思議な現象が起き、なんとも云えない余韻を残した作風が特徴であった。従ってそれまでの作品を読んでいる読者は平安時代から纏わる鬼女の伝説を擬えた怪奇的な見立て殺人と思わされながらも、ホラー文庫から出た作品ということもあり、やはりホラーなのでは、と実に不安定な状況の中、読み進むことになる。これが実に効果的であった。 本書のホラー要素とは前掲にもある子取り観音の逸話だ。 自分の娘を鬼にさらわれ、腸を切り開かれて殺されたことから絶世の美女と謳われながら、我が子を喪った苦しみから鬼女と化し、墓から自分の子の亡骸を掘り出して食らい、そして山奥に逃れて、時折人里に降りてきては里の子供をさらっては腸を食らっていたとされる桜姫の伝承から由来する子取り観音。子取り鬼の一節、「赤いべべ」はべべ、つまり着物ではなく、服を真っ赤に染めた幼女の血を指す。 そんな逸話が残る子取り観音を祀る廃寺で22年前幼い頃に子取り鬼をして遊んでいた千鶴たちと一緒に遊んで置き去りにされたことで、何者かによって我が娘を殺された妾、加賀道世とその息子史朗が再び夜坂に戻ってきてから起きた同様の幼女殺害事件。 この22年という歳月を経て再現される奇妙な符号。 東京で夫と死別し、夜坂に千鶴を連れて出戻る母と全く同じ状況で娘紗耶と出戻る千鶴。 夜坂を離れずにいる当時の幼馴染たち。 その幼馴染たちと廃寺で遊んでいる後に起きた幼女殺害事件。 幼馴染の1人は娘がその幼馴染たちと廃寺で遊んでいる時に首を絞められて亡くなっているのを発見される。 そして22年前に娘を亡くした妾の女性が老女となって再び夜坂に戻り、一人息子と以前住んでいた洋館に住んでいる。 全てが夜坂に残る暗い歴史、22年前の事件を再現するかのように全てが集まる。 大人になった幼馴染たちは今度は22年ぶりに自分たちの子供が殺されていくのを目の当たりにし、当時の忌まわしい事件の再現度を高めた千鶴の帰郷とこの加賀親子の再来こそが全ての元凶であると糾弾するようになる。そしていつの間にか周囲には加賀親子こそが、犯人である、22年前に殺された娘の事件を自分たちのせいにした恨みから復讐しているのだと思うようになる。 一方で子供たちが殺された晩に決まって掛かってくる子取り鬼の歌を歌う老女の声。一連の事件は子取り観音の仕業ではと千鶴は疑ったりもする。 人間の手になるものか、それとも不気味にほほ笑む観音像による人智を超えたものの仕業か。 何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。 結局一連の幼女殺害事件は、人智を超えたものによる仕業ではなく、狂える人たちによる凶行であった。 つまりはミステリであったが、ホラーではなかったかと云えばそうではない。本書はミステリでありながらやはりホラーであったと云えるだろう。 では本書における怖さとは何か? 次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。 しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。 その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。 幼い頃に妾として町中の大人から疎まれていた加賀道世。相手にしてはいけないと親から云われていた子供たちは彼女の兄妹とは遊ばなかった。町の廃寺で子取り鬼をしているところを訪れた道世から、うちの子と遊んでくれないかと頼まれ、周りの子供たちは拒む中、夫と死別して東京から出戻り、兄夫婦の許でぎこちなく暮らす千鶴はその兄妹にシンパシーを感じ、周囲の反対を押し切って妹のルリ子を仲間に入れてあげる。 しかしその後仲間たちは別の遊びをしに行くが付いてこなかったルリ子だけが後に首を絞められて廃井戸の中で遺体となって見つかる。 ルリ子を殺害したのは犯人なのに、誰とも解らぬ相手よりも顔を知っている子供たちに娘の仇と認めた道世は土屋裕司、髙村滋、山内厚子、深沢佳代、松田尚人、柏木千鶴らの家を訪れ、お前らが娘を殺したと罵倒する。そしてとりわけ仲間に引き入れた千鶴を最も憎悪をしていたことを22年後に兄の史朗から伝えられる。 更に娘紗耶の失踪をきっかけに実の子を亡くす山内厚子と深沢佳代は、同じく犠牲者がなぜ事件の素を作った千鶴の娘紗耶ではなく自分の娘なのかと世の理不尽さに憎悪し、その刃を千鶴に向ける。 つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。 更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。 本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。 片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。 洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。 しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。 友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。 それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。 以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。 人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。 しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。 特に上手いと思ったのは主人公の相馬千鶴の造形だ。 夫に先立たれ、幼い娘を連れて帰郷し、いとこ夫婦のところに居候することになった彼女。しかし余計なお荷物を預けられたと疎まれ、娘はなかなか自分の云うことを聞かない。更に幼女の殺害事件が起きるとたまたま娘の紗耶が失踪したことがきっかけだったことから自分のせいで娘が死んだと犯人扱いされ、そのことが町の噂になり、いとこ夫婦も家を出ていってほしいと望むようになる。 そんな環境の犠牲者と思われた千鶴が彼女も郁江から根無し草のような人生を送っている女性として悟らされることで、生活力のない女性、そのことで彼女もまた運がないだけでなく、自らも他者に頼ってばかりの、自立していない女性であることが解ってくるのである。 そして心のどこかで自分の美貌を誇り、初恋の男性だった高村滋が子供の産めない体になった妻の郁江を捨て自分に走ってくれるのではないかと期待していた甘さも判明する。それが単に思い上がりであったことを知った彼女が娘と逃げ出し、加賀邸に向かうラストは、彼女が裸足であることが象徴的だ。 300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。評価は☆7つだが、☆8つに近いと云っていいだろう。 既に夭折して新刊が望めない作者であるが、幸いにして私の手元には彼女の全著作が揃っている。3作読んでやはりこの作家は私に合っていると確信した。 恐らくは近い将来、昨今の出版事情を考えれば、ほとんど全ての作品が絶版となり、限られた作品のみが電子書籍化として残るだろうことを考えれば、これらの蔵書はまさに貴重。 まあ、そんな収集家的愉悦よりもまだまだ読める作品が沢山あることが素直に嬉しい。次作を読むのはまたしばらく後になるが、その時も期待通りのミステリが読めると思えると愉しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書は2011年にNHKで放映された『探偵Xからの挑戦状』という番組のために書き下ろされた作品。これは現代の本格ミステリ作家たちによる視聴者参加型の推理番組で、そのうちの1つとして放映された。
従ってまず先に映像化があり、その3ヶ月後に刊行された、島田作品では唯一映像化先行の作品である。 従って映像化を意識してか、その導入部はかなりのインパクトを持って始まる。なんせ霧の中からゴーグルを掛けた男が現れて、巡査の前を疾走して消え去る。しかもその男のゴーグルの中の目は血走っており、さらにその顔は真っ赤で爛れているように見えたという、何とも映像的なシーンである。 ゴーグル男はその後も福来市の至る所に姿を現す。しかもゴーグルをつけた状態で。 つまり本来ならば犯罪者が自らの顔を隠す覆面としてゴーグルを着けていると思われるのに、このゴーグル男は犯行を行うときのみならず普通の生活をしている時にもゴーグルを着けているところが異なっている。スーパーでの買い物、定食屋での食事、更には銭湯での入浴時でもゴーグルをしている。 想像しただけでもシュールな光景で、しかも笑える。 日常生活でゴーグルをなぜしているのか? その理由を示唆するサイドストーリーが交互に語られる。 このサイドストーリーはNHKの番組にはなかったもので、小説化に当たり、加えられたものだ。 島田氏はその作品のサイドストーリーに社会的弱者の生い立ちを絡め、豊かな国日本で社会の底辺でままならぬ生活を強いられている人物、もしくはある出来事・事件がきっかけで人生を狂わせてしまった人物のエピソードをかなりの紙幅を割いて語るのが特徴となっているが、本書では母子家庭で育った、幼い頃にその女の子のような風貌からある大人に性的虐待をされた男の話が添えられている。 ただその男に関してはその性的虐待の過去だけが人生に暗い翳を落とすだけでなく、彼が大人になって勤める住吉化研という原子炉の燃料を製造している会社の話が絡められている。 その会社が臨界事故を起こし、その場に自分もいたが、鉛スーツを着てゴーグルを掛けていたため、直接的に放射能を受けたのはゴーグル部分のみであることが示唆される。そしてウラン溶液を直接扱っていた作業者が2名が被曝し、その惨たらしい死に様が克明に書かれる。 さてこの住吉化研の臨界事故と、聞けばすぐにある会社が思い浮かぶだろう。日本のみならず世界をも騒がせた1999年9月30日に起きた茨城県東海村での臨界事故。この作品のサイドストーリーは実に読むのが辛かった。 舞台は東京都の福生市をモデルにしたであろう架空の市福来市と場所は変えているが、起こった事故の詳細は当時の事故の話とほぼ同じである。特に至近距離で被曝した被害者の生々しい描写には暗鬱にさせられる。当時の事故のことを知っている私でも改めてこんなひどい死に方があるものかと思うくらいだ。 ただ近くの公園で奇形の犬の死骸が沢山掘り出されたり、敷地内の森では自殺した家族の幽霊が出たりと、いかにも秘密主義の会社で不安を煽る描写が続くのには眉をひそめる。 その後の会社の対応については被害者サイドの話、もしくはこの事故のことを書いた文献—参考文献が書かれていないのでどの書物なのかは不明だが—を元に構成されたようで、一方的に会社側が悪者になっているように書かれている。町の至る所に現れ、都市伝説化したゴーグル男の棲み処とまで名指しで称されるようになる。 この辺の件については、いかにフィクションであれ、実際に起きた事故を、そしてモデルになっている会社があることを考えると不快でならなかった。そしてこの内容は場所や名前は異なるが明らかに特定の会社を示唆しているので、番組放映ではカットされても止むを得なかっただろう。放映時点で構想はあったかは解らないが。 そして今回の事件の真相—つまりゴーグル男がなぜゴーグルをしているのか?-については当時の番組を観ていたこともあり、記憶に残っていた。もう7年も前になるが、やはり島田氏の奇想は刺激的で、こんなこと思いつくのはこの作家しかいないと思えるほどインパクトの強いものだった。 しかしその番組を観ていてもそこに盛り込まれていないサイドストーリーの内容が強烈で、番組の時とは全く違うのではないかと思わされた。特にゴーグルの中は赤く爛れて血が流れていたと何度も繰り返されているところが不安を掻き立てられたように思える。映像を観た人も更に読み応えが得られるようにかなり肉付けしたのだろうが、私には少し、いやかなり刺激が強すぎた。 しかし覚えていたのはそこまで。 私が特に面白く思ったのは3軒目の煙草屋のお婆さんが見たくねくね動いていた若い男の真相。 本書は最盛期の島田氏の奇想溢れるミステリとしてまさにこの作家しか考えつかないアイデアと驚き、そして納得に満ちたミステリであり、最近の作品の中でも本格ミステリ度の高い快作なのだが、上に書いたようにミステリ性を装飾するサイドストーリーが私にとっては非常に辛い内容だっただけに島田氏の健在ぶりを素直に喜べなかった。 そのサイドストーリーについても事件の悲惨さを掻き立てる内容に終始しているのが残念でならない。 そして当事者性を排除して読むと、会社の決まり事というのは部外者にとっては実に奇妙に映ることがよく解った。何とも会社というのは世間一般と離れた独自の文化を持つ共同体であることかと改めて気付かされた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
2008年に『ホット・キッド』と『キルショット』の文庫化以来、翻訳が途絶え、2013年に逝去したレナードの作品はもう訳出されることはないだろうと諦めていた。だからまさに青天の霹靂だった。
10年ぶりに未訳作品が刊行される、しかも訳者は村上春樹氏!何がどうしてこんな奇跡が起こるのかと不思議でしょうがなかったが、兎にも角にもそれは実現した。 しかも村上春樹氏が数あるレナード作品から選んだのは既出の作品の新訳版でもなく、はたまたレナードがベストセラー作家となった以後の作品でもなく、彼がまだデビュー間もない頃に書いていたウェスタン小説というのもまた驚きだ。特にこの手の作品はレナードが犯罪小説の大家として名を成していたために初期の作品については決して訳されないだろうと思っていただけに、三重の驚きだった。 そんな本書『オンブレ』には中編の表題作と短編の「三時十分発ユマ行き」の2編が収められている。 表題作は白人とメキシコ人の混血で、3年間アパッチと共に暮らした“オンブレ”の異名を持つジョン・ラッセルの物語。 “オンブレ”とはスペイン語で「男」という意味でトイレにも男子トイレを意味する言葉として書かれているほど一般的な名詞だ。確かディズニー・シーのどこかのトイレにも書かれていたはずだ。 このジョン・ラッセルと旅に同行することになった一行が同行者の1人、インディアン管理官のドクター・フェイヴァーが横領した牛肉の上積み金を追ってきた強盗一味と戦いを繰り広げる物語だ。 但しこのジョン・ラッセル、まだ21歳ながら、蛮族として白人連中に忌み嫌われていたアパッチと3年間共に生活をしていた経験から、白人たちとは異なった価値観、考え方を持つ。人の命を優先しがちな白人たちと違い、彼は常に自分の命を優先して物事に当たる。というよりも最大限に仲間の命が助かる道を選ぶ。 従って1人のために皆に危機が訪れることは選択しない。それが時には非情に映るようになる。 例えば少ない水を巡って昼に飲むとすぐに干上がるから夜に飲むことを仲間に強いるが、その約束を破って率先して水を飲んだ者を、仲間たちに災いをもたらすとして同行を禁じる。 灼熱の暑さに苦しんでいる者を助けようとする者をそうすることが敵に居所を知られる罠であると見破ると敢えて手を出さずに見殺しにする。 つまり彼は無法の地で生きていくために身に着けることになった考え方、そしてアパッチたちとの生活で培ったサヴァイバル術を実践し、自分の考えに従って行動しているだけなのだ。 その一方でアパッチに対する敬意も深く、野蛮だ、忌まわしいと一方的に忌み嫌う人々には容赦ない眼差しを向ける。 彼は決して気高い男ではない。但し常に冷静な頭で考え、行動する。そうやって生きてきた男だ。作中こんな言葉が出てくる。 “ラッセルは何があろうと常にラッセルなのだ” これほど彼を的確に表現している言葉もないだろう。誰にも干渉されず、従わない。しかしなぜか皆が頼りにしてしまう男、オンブレがジョン・ラッセルなのだ。 法という道理が通用せず、ただ生き残った者が正義である荒野。そんな最悪の環境下でインディアン管理官の横領した金を奪おうと追ってくる強盗達から逃亡と対決。 そんな極限状態の中で金と水の誘惑に人は惑わされ、自身にとって最も都合のいい解釈に従って行動するようになる。 そんな人の心の弱さを見せつけられる中、一人正論を吐き、常に気高くあろうとするマクラレン嬢の存在はある意味、本書における良心だ。 アパッチに襲われ、1カ月以上行動を共にした17、8歳の女性は、恐らくはその地獄のような生活で凌辱の日々を過ごしながらも道徳心を保ち、そしてそれに従って生きようとする。 今にも息絶えそうな人間に早く水を飲ませなくてはならない。 人を見殺しに出来ない。 皆で協力すればどうにかなる。 それは現代社会においても見習うべき前向きな姿勢だし、そして人として守らなければならない教義だろう。 しかしこの荒野や悪党どもとの戦いの中ではそれらが実に偽善的で自己満足に過ぎない戯言のように響く。 正しいことをすることで被る犠牲や危機がある、それがこの無法の地であることをこの正しき女性マクラレン嬢を通じて我々読者は痛感するのである。 そして正しきことをすることで訪れるのは哀しい結末だ。それが西部開拓時代のアメリカの姿なのである。 もう1編の短編「三時十分発ユマ行き」は3時10分に訪れる列車に乗せる囚人を預かった保安官が孤軍奮闘して囚人を救出しようと町に訪れる彼の仲間たちの襲撃を退け、無事列車に乗せるまでの顛末を語った物語だ。 援軍もなく、ただ1人の囚人の護送のためにホテルの一室で息が詰まる見張りを命じられた保安官補スキャレン。彼には3人の子供と女房がいて、月給150ドルで養っている。 強盗のジム・キッドは彼よりも若く、ともすれば10代の青年のようにしか見えないが彼は強盗稼業で彼以上の金を稼いでいる。彼にはなぜそんな150ドルぽっちの安月給で割に合わない仕事をしているのかとスキャレンを揺さぶる。 正直スキャレンにもはっきりした答えはできないのだろう。ただ彼は今までそうやって生きてきたのだから。 アパッチの反乱鎮圧のために組織された自警団に参加し、それが縁で保安官に気に入られ、月給75ドルから保安官補として働き出したスキャレンは150ドルまで月給が上がったことが誇りであった。堅実に生きることが当然のことだと思っていたに過ぎない。 しかしそんな彼に訪れたのが今回の災難。囚人護送のために囚人たちの仲間に囲まれた状況で無事に彼を列車まで届けなければならない。 そんな窮地に陥った時に不意に浮かんだ家族との風景。それはまさに彼にとって死を迎える前に走馬灯のように見えた過去だったことだろう。 そして彼はどうにか無事に囚人を列車に乗せることに成功する。生きるか死ぬかの境でどうにか生き延びたスキャレン。囚人のジムも感心して月給分の仕事を間違いなくしていると賞賛する。 それが仕事なのだ。手応えのある仕事をしているからこその代価。 そんな男の達成感がこの短い話の中に詰まっている。 レナード最初期の作品であるこの2編はブレイクしたレナード作品に登場する悪役ほどの個性はないが、その萌芽は確実にみられる。 白人とメキシコ人の混血であり、更にアパッチと共に暮らした経験を持つ“オンブレ”ことジョン・ラッセル。 牛肉の代金を水増しして請求し、その上澄み金を横領して私腹を肥やしていたインディアン管理官ドクター・フェイヴァーは自分の金を護るためならば若い妻をも見殺しにする、情理のうち理性の部分で物事を考える合理的な人物。 そしてアパッチにさらわれて1ヶ月間行動を共にさせられた気高き女性マクラレン嬢はどんな窮地に陥っても人として正しいと思ったことを貫こうとする。 翻って彼らを迎える悪人はさほど印象が強くない。乗客の1人だった除隊兵を押しのけ、彼の切符を横取りしてまで馬車に乗り込んだフランク・ブレイデンはフェイヴァーの横領金を狙った強盗団の一味だった。しかし彼は度胸はあるものの、タフではない。彼は自分より若いオンブレに最終的には恐れをなす男だった。 その他彼の仲間も大同小異と云った印象だ。やはり本書では主人公のオンブレが群を抜いている。 陸軍への物資補給を請け負う馬車隊の仕事をしていたジェームズ・ラッセルという男に拾われた虜囚イシュ・ケイ・ネイがやがてジョン・ラッセルという名を与えられる。5年後ジェームズ・ラッセルの許を離れ、インディアンの自治警察に入ってそこでチャトとチワワの部族との戦いで3人分もの活躍を見せたことから「トレス・オンブレス」の異名を貰い、“オンブレ”と呼ばれるになる。 21歳ながらそんな波乱万丈の人生が彼に年不相応の落ち着きと雰囲気を纏わせ、何物にも動じない、自分の芯を持った男として常に生き残ることを考えて行動する。 しかし彼が最後に起こしたのは1人の女性の訴えに応える、決して自分ではやらないことだった。 西部開拓時代にいくつもあったであろう“男”の短い人生の1つ。まさに西部の男である。 そしてもう1編の保安官補スキャレンもまた西部の男の1人。彼は任務のため、仕事のために命を張る。その頭に過ぎるのは3人の子供と女房。家族のことを思いながら家族のために命を賭ける。死ねば何も意味はなくなることは解っていながら、そう簡単に割り切れない。 なぜならそれを彼が求められたからだ。そんな不器用さが滲み出てて実に好感が持てる。 この2編を読んで思わず出たのは「男だねぇ」の一言である。 村上春樹氏が今更ながらにレナード作品を訳出することにしたのかはあとがきに書かれている。ただ単純に読み物として面白く、小説として質が高く、全く古びないからだと。 それは本書を読む限り、本当のことだ。 そして村上氏がこれほどまでにレナード作品のファンであるとは思わなかった。レナード作品のみならず映画化作品まで触れており、レナード作品がなかなか日本で人気の出ないことに不満を持ち、少しでもレナードファン開拓のために西部小説を翻訳したと書かれている。 いやはや一レナード読者としてこれほど嬉しいことはない。しかもあの村上春樹氏がこのように述べているのである。 チャンドラーに続き、これが村上氏によるレナード作品訳出の足掛かりとなって今後もコンスタントに氏の訳で出版されることを望みたい。 私はそれにずっと付いていくとここに宣言しておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
コナリーのノンシリーズである本書はIT業界の若き社長ヘンリー・ピアスを主人公にした、消えたエスコート嬢の行方を追うミステリだ。
まず本書の題名はそのままピアスに間違い電話が掛かってくる原因となったエスコート嬢に電話番号を変えてもらうために探す内容そのままだが、原題は“Chasing The Dime”。直訳すれば「十セント硬貨を追って」となるが、これは将来高性能コンピュータが十セント硬貨ぐらいの大きさになることが予想されており、それを実現させたものが次世代のコンピュータ産業を制することになることから、コンピュータ技術者たちが鎬を削っていることを示している。それがIT産業でナノコンピュータの分野である分子コンピュータ開発で一足先に抜きんでいるピアスを取り巻く現状を表している。 まず驚くのがコナリー作品とは思えぬほど、全体的に軽みがあることだ。それは本書の主人公ヘンリー・ピアスはこれまでのコナリー作品では考えられないほど、浅薄で未成熟な人物として映ることに起因していると思われる。 34歳の新進のIT企業の若き代表は会社の部下の1人だったニコールという女性と別れ、未練たらたらな状況を変えようと彼女と住んでいた家を出て新しいアパートメントに移るが、新しい電話番号にはひっきりなしにエスコート嬢のことを尋ねる電話が掛かってくる。気になって調べたところ、これが飛び切りの美人で、自分と同じ電話番号をサイトから削除してもらうよう頼むためと口実にして消えた彼女の行方を追う。 若くしてIT業界の寵児となったために女性経験が浅い男の、実に青く身勝手な捜査なのだ。そしてその我儘な捜査に周囲の人間も巻き込まれて辟易する。 つまり他者との距離感に対して非常に鈍感で、自分の目的達成のためにどんどん他人のプライヴェートな部分にも踏み込んでいく。特にリリーの行方を追うために情報提供と協力をお願いするロビンは彼の行動が原因で自分も手ひどい目に遭う。それに責任を感じるピアスは何もできやしないのに助けると親切の押し売りのように何度も連絡を取り、終いには相手の怒りを買ってしまう。 更には過去に犯した悪戯半分の犯罪歴によって逆に刑事に失踪者捜しを装った失踪者殺人の容疑者として目を付けられ、窮地に陥ることになる。 更にはロビンとリリーがエロサイトに掲載したSMシーンを会社のPCで食い入るように見ているところを秘書に見られて、秘書の解任を求められるなど、いわゆる社会人としての常識に欠けた所が多々見られる。 このように技術オタクの若造が社会不適合者ぶりを発揮して自己中心的に振る舞い、周囲の目に気付かずに狼狽する様子がアクセントとして織り込まれ、ユーモアを醸し出しているため、私はてっきり彼が追っているリリーも元締めによってどこかで消されたと思わせつつ、物語の最終で元気な姿で登場し、そしてこのサエナイ君と最後は恋人となる予感をはらませてハッピーエンドを迎えると云うお気楽ミステリのように考えていたが、やはりコナリー、そんな非現実的なロマンティック・コメディを一蹴する。 リリーは結局遺体となって発見される。しかも何者かによってピアス名義で借りていたトランクルームの中に置かれた冷蔵庫の中に保存されるような形で。しかもそのトランクルームは6週間も前に借りられていた。 つまり一連の電話番号がエスコート嬢のそれと同じであることから始まる騒動はピアスを陥れるために仕組まれた罠だったことが判明するのだ。 窮地に陥ったピアスはこれが姉の死を模したものだと察し、その死について知る者こそが今回の一連の工作を実行した者だと推理する。 さてコナリー作品にはハリー・ボッシュシリーズを軸にしたいわゆるボッシュ・サーガが繰り広げられるが、ノンシリーズである本書も例外でなく、まずリリー殺害の容疑を掛けられた主人公のヘンリー・ピアスが紹介される弁護士はジャニス・ラングワイザーである。 彼女は『エンジェル・フライト』でボッシュと組んだ後、『夜より深き闇』でボッシュが手掛けた事件の次席検事補として登場し、華々しい活躍を見せ、読者に強い印象を残した人物。その後彼女は検事を辞め、刑事弁護士に転職したことが判明。そして彼女からは前作『シティ・オブ・ボーンズ』でのボッシュの―具体的に名前は出ないにせよ―退職も明かされる。 しかしシリーズのリンクはそれだけでなく、もっと驚くのピアスがなんとドールメイカー事件と関わりがあったことが判明することだ。 このことから本書はその他大勢として片付けられる人物にも一つの人生があり、そしてその人の死によって人生を変えられた人がいることを1つの作品として描いていることが判る。 やはりこれは9・11の同時多発テロで多くの尊い命が奪われたことに対する、コナリーなりの追悼の書と云えるだろう。大量死の中に埋もれた人々に名を与え、そしてその人の人生と遺族の人生を語ることを強く意識していると思われる。 インターネットが普及した時代でも幻の女を探すのは非常に困難であることが解る。しかし昨今のウェブ事情、町全体に仕掛けられた監視カメラやGPSなどの位置情報システムを駆使すればもっとたやすくなっており、ドラマ『CSI』を観ると実に鮮やかにミスター/ミスXの身元は明かされていく。 本書はインターネットが普及し始めた頃だからこその『幻の女』だった。 美しさを武器に大金を稼ぎ、母親に仕送りをしていた娘の結末にコナリーはあくまでも現代アメリカの残酷な現実を突きつける。 チャンドラーを敬愛し、その影響を包み隠さず自作に反映し、そしてロス・マクドナルドばりのアクロバティックなサプライズを物語に取り込む、まさに現代ハードボイルド小説の雄コナリーがノンシリーズで挑んだのはアイリッシュの変奏曲。 しかもそれを現代風にアレンジし、いささか軽めのテイストで信仰させながらも、やはり最後はコナリー独特の苦みを残す。 本書を最後にノンシリーズは書かれていない。いわばボッシュシリーズを幕を下ろそうとして新たな作風を模索していた頃の作品だ。 この後リンカーン弁護士シリーズという新たな地平を見出し、ボッシュシリーズと並行して書いていく。 本書はコナリーがそこに至るまで暗中模索、試行錯誤しながら著した非常に珍しい作品だ。現代ハードボイルド小説の第一人者として名高いコナリーもそんな時期があったことを示す貴重な作品としてファンなら読むべきであろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
髙村薫氏は前作『神の火』で元原発技術者でスパイだった男、島田を主人公に原発襲撃を企てるクライムストーリーを描いたが、本書ではとうとう本格的な国際謀略小説を書いた。《リヴィエラ》というコードネームを持つ白髪の東洋人を巡るIRA、MI5、MI6のみならずCIAすらも加わってくる一大謀略小説だ。
物語の冒頭、日本の汐留インターで転がっていたIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの死体、その事件前に見つかった東洋人女性の射殺体と、その直前に警察に入った女性の声でジャック・モーガンが捕まり、リヴィエラに殺されるとの一報から警視庁外事一課、手島修三がこの事件を捜査が始まる。 しかし物語はそこから様々な国の諜報機関が追う謎の人物リヴィエラの捜査に向かうのではなく、手島がかつてイギリス大使館時代にリヴィエラを通じて知り合ったスコットランド・ヤード副総監のジョージ・F・モナガンの手紙を辿るように、このIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの生い立ちへと飛ぶ。 ジャック・モーガンの一生はリヴィエラという名の殺し屋との戦いに費やされたといっていいだろう。しかし彼は父親の仇であるリヴィエラに憎悪の炎を滾らせているわけではない。彼は自分が生きていくためにIRAのテロリストとなり、いつしか自分の存在意義を確認するために人生の目標をリヴィエラを討つこととした人間だ。 従って彼は父親を喪いながらも打倒リヴィエラを鼓舞しながら一流のテロリストとして日々腕を磨く復讐の鬼ではなく、同じくIRAの工作員だった父親の血を持つためか、持って生まれたテロリストの資質に気付いていくのである。どことなく冷めたテロリスト、それがジャック・モーガンの印象だ。 しかし彼は冷めていながらも最後の詰めで秘めていた感情が迸り、ミスをする。暗殺の任務で仲間だった1人が重傷を負い、足手まといになるので殺さなければ自分も捕まり、ましてやそのままにしては情報が漏洩するというテロリストの鉄則を、その仲間が昔親しかったピアニストと同じ目の色をしているというだけでそのまま放置してしまい、その後の任務に支障をきたし、自らがスコットランドヤードで指名手配され、IRAのテロリストから落伍する憂き目に遭う。 その後もCIAに雇われ、《リヴィエラ》をおびき出すためにIRAの残党の暗殺を頼まれる殺し屋になるが、任務は果たすものの、友人のピアニストとの再会で衆人環視の中で派手な殺人を犯し、逃亡の身となる。 子供の頃から愛を誓った女性ウー・リーアンとの平穏な暮らしを望み、それが目前まで迫りながら、その直前で自分の感情にほだされて行動する衝動が捨てきれない若さ、ナイーヴさを持つ男なのだ。 そんな流転する人生だから、しばしば彼は自分の存在意義を見失う。唯一のよすががウー・リーアンなのに破滅的な行動でいつも手の先から滑り落ちてしまう代わりに彼が見つけたよすがこそが父親を殺した《リヴィエラ》という白髪の東洋人。 そう彼が、自分が何のために生きているかを常に確認するために追い求める存在が《リヴィエラ》なのだ。 物語の中心は《リヴィエラ》という白髪の東洋人とだけが判明している謎の人物である。しかしこの謎の人物は姿を見せず、この殺害されたジャック・モーガンの、死に至るまでがメインに語られる。 つまり彼の死から始まるこの物語は詰まるところ、主人公の死から始まる物語と云っていいだろう。東京の高速で見つかった異国人の波乱万丈の人生に昔彼に関わった男がその過去へと踏み込んでいく。《リヴィエラ》という名を手掛かりにして。 複雑に絡み合った人物相関。それらは最初には明かされず、上に書いたようにジャック・モーガンの生い立ちに沿って現れてくる数々の登場人物がジャックに語ることで次第に明らかになってくる。 まずジャックの父親イアン・パトリック・モーガンはIRAのテロリストであり、彼は《リヴィエラ》の画策によってベルファストに亡命してきた中国人ウー・リャンを爆殺する。 この暗殺があらかじめ仕組まれた物だと気付いたイアン・パトリック・モーガンは息子を連れてベルファストを離れ、息子を義兄夫婦の許に預け、自分はパリでの潜伏生活に入るが、《リヴィエラ》によって殺害される。 IRAベルファスト司令部参謀本部長ゲイル・シーモアはこの仕組まれた暗殺とその後のイアン・パトリック・モーガンの殺害に《リヴィエラ》と通じていると思しきノーマン・シンクレアに疑いの目を向けるが、彼は白をきり、そしてゲイル・シーモアはジャックの伯父による密告で逮捕される。 ウー・リャンは中国政府のある秘密の資料を持っていた男で彼は香港のイギリス領事館にいた時、そこに居合わせていたのは世界的ピアニストでMI6のスパイでもあるノーマン・シンクレアと彼の音楽活動のマネジメントをしている《ヘアフィールド・プロモーション》のオーナーであり、しかも同じくMI6のスパイであるダーラム侯エードリアンの2人。 そしてダーラム侯の妻レディ・アン。中国人女性である彼女はかつて2人が愛した女性。しかし彼女は中国のスパイ。ダーラム侯は彼女と結婚することで自らの人生を棒に振った。 ウー・リャンの姪リーアンはジャック・モーガンが幼い時から好きだった女性。そして東京で偽名を使って恵比寿のアパートに住んでいたが、何者かによって殺される。 CIA職員の《伝書鳩》ことケリー・マッカンは中国と台湾の事情にCIAの中で最も詳しい人物。彼は自分の父親が《リヴィエラ》の工作の援助をしたという事実を知った時から《リヴィエラ》の正体を探ることに執念を燃やす。そのためには手段を選ばず、IRAのテロリストであろうと手を組み、姿を現さない《リヴィエラ》を炙り出そうと躍起になっている。 スコットランドヤード警視監ジョージ・F・モナガンはジャック・モーガンが起こした数々の事件を警察側から追う人物。MI5、MI6それぞれの強者とやり合いながら、IRAのテロリスト、ジャックを捕まえようと躍起になっている。 MI5職員のキム・バーキンは元スコットランドヤードの警官でモナガンの部下だった男だ。優秀だった彼はしかしテロリストのアジトを襲撃した事件で、アジトにいた少女の目の前で敵を射殺し、自分も重傷を負い、その事件で少女が精神病院に送られた。その事件が大々的にマスコミに取り上げられ、その責任を負う形で警察の職を辞した男。その後MI5にスカウトされ今に至るが、妻との関係も冷え切り、夜な夜な酒を飲み歩く虚無な日々を送っている。 その上司M・Gは最も得体のしれない男だ。親しみやすい風貌と仕草にも関わらず、全てを見通す“眼”を持っている。彼はモナガンとも親しく、そしてCIAのケリー・マッカンとも親しい、実に食えない男である。 そんな海千山千の諜報のプロ達が追う《リヴィエラ》の正体は物語半ばで明かされる。 田中壮一郎。かつてワシントンの日本大使館参事官だった男。今は大学教授をしている老人こそが長年追い求めていた《リヴィエラ》だったのだ。 しかし当時中国の機密文書に関与したダーラム侯とシンクレアが事の真相を話すと、それまで幾人もの人々が追い求めていたこの男よりも手島や《リヴィエラ》に古くから接触してきたMI6職員の《ギリアム》の強かさが立ち上ってくるのだ。 髙村氏の描く諜報の世界で生きる者たちは物語当初は第三者の目を持って物事を見つめ、決して主体的になるわけではなく、覚めた視座で物事を見、分析をする、そんな冷静冷徹な様子を醸し出している。平常心を保つために、ある者はユーモアを常に持ち、またある者は折り目正しい姿勢を保ち続ける。 しかしそんな男たち女たちも人間であるかのように次第に感情を露わにしてくる。 露わにしてくるといっても、彼ら彼女らは決して本意を悟られないように表に出さない。表面は凪いだ海のように平静を装いながら、心中は嵐のように波立たせて。 友情、そして愛情。諜報の世界に住む人々にとって決して抱いてはいけない人間的感情だ。しかし彼らは正気を保つためにそれを大事にする。 読んでいくうちに結局彼らが諜報の世界に生きているのはひとえに誰かを愛し、また慕うがゆえに逃れられない楔のような宿命を背負った代償であることが解る。 深く入り込んでしまった関係は秘密を共有するようになり、それが自身の運命すらも絡み取られてしまい、気付いた時にはどっぷり諜報の世界という沼に嵌り込んでしまってもはや抜けられなくなってしまっているのだ。 特にジャック・モーガンは不思議な雰囲気を湛えた人物だ。彼と関わり合った人物は決して状にほだされず、理で以って行動しなければならない諜報の世界で生きる人たちがどこか放っておけないと思わせる。 テロリストとして殺し屋として凄腕の殺人技術を持ち、何人もその手で屠り、血にまみれていながら、ピュアな部分を失わないジャック・モーガンは彼らが無くしてしまったものを持っているからこそ、心を、感情を動かされ、それまで思いもしなかった行動に出させるのだ。 IRAのボスだったゲイル・シーモアはテロリストを辞めたいという彼に恩赦を与える形で粛清せず、両足に2発銃弾を見舞えただけで彼を解雇し、その後彼を殺し屋として雇った《伝書鳩》ことケリー・マッカンはジャックが自分の想定外の行動を取り、その都度自身の計画を狂わせていくのに、なぜか彼と行動を共にする。それまで培ったキャリアでも見通せない性格、心情を持つ、若きテロリストに魅かれる自分がいることに気付くのだ。 ノーマン・シンクレアも元MI6のエージェントながら、まだテロリストに身を落としていない時のジャックに日がなピアノを聞かせていた蜜月の日々を思い出に、その後テロリストとなった彼にその時の純粋な面影、芯に残るピュアな部分を見出す。 スパイやエージェントたちが常に客観的に物事を見据え、死と隣り合わせの世界で生きていくために冷静を強いられるのは、逆に云えばプライヴェートな部分で冷静さをかなぐり捨てたがゆえに既に過ちを犯したことを教訓にしているからかもしれない。だからこそ任務で私情を交えた時、それは彼の諜報の世界で生きる人間の運命の終焉になるのだろう。 清濁知り尽くした諜報の猛者たちがジャック・モーガンと関わることで私情に囚われてはいけないという絶対的原則を侵し、身持ちを崩していく。 そして『神の火』でもあったが、男同士の酒を酌み交わしての語らう、手島、キム・バーキン、ダーラム侯、そしてシンクレアの時間の親密かつ濃密さ。 東京でのコンサートに現れた《リヴィエラ》の前で演奏したシンクレアが最後に彼の目の前に立って1本のユリの花と共に、最後通告を突きつけた後、宇都宮のホテルまで逃亡し、そこでそれぞれがお互いの立場を無くしてざっくばらんにそれまでのいきさつを話すのだが、その語らいのなんと和やかなことよ。 そこにいる4人はそれまでの諜報活動でのヒリヒリとした緊張感から互いに解放されて、本音を打ち明ける、血の通った交流がある。こういうシーンを女流作家である高村氏が書けるところに驚きを感じるのである。 またロンドンの市街を中心に舞台となる外国の描写が実に微に入り細を穿っており、驚く。髙村氏は取材せずに資料のみから想像して書くのが常だが、流石にこれらの町並みは実際に過去自身が訪れた場所らしい。 聖ボトルフス教会やシンクレアが中国人諜報員に拉致されそうになるミドルセックス通りの露天街の喧騒、郊外にあるダーラム侯の所有するスリントン・ハウスの田園風景、ドーヴァー駅の雰囲気どう考えてもロンドンの交通事情やその他イギリスの土地鑑など、その時の体験が存分に発揮されていて実に瑞々しい。 政府の政治原理に踊らされ、利用されていった人々が、愛情や友情に厚い人間臭さを持っていただけに、喪失感が殊更胸に染み入ってくるのを抑えきれなかった。 東京で起こった1人の外国人の死。そこから派生したのは72年に起きたある機密文書を巡っての中国、アメリカ、イギリス3国の攻防だった。その秘密のカギを握るとされていた白髪の東洋人《リヴィエラ》。 政治家、諜報機関はなんとも些末な事実を隠すために事を荒立て、多くの命を犠牲にしてきたのか。 そして恐らく21世紀の今も更に多くの国を巻き込んで、こんな不毛な命のやり取りを伴った諜報戦が繰り広げられているのに違いない。 髙村氏の作品は今回もまた私を憂鬱にさせてくれた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
受験生だった頃、また仕事に行き詰り、先行きに不安を覚えた時、こんな風に思ったことはないだろうか?
全てが見通せる、全知全能の神になりたい、と。 本書はまさにそんな能力を持った人間の物語である。 その人物の名は羽原円華。 不思議な能力を持った彼女と温泉地で起きる不可解な硫化水素中毒事故の謎を扱ったミステリだが、この羽原円華がどこか他の人間とは違った特殊な能力を持っていることが物語の冒頭でも仄めかされ、いわゆるミステリなのか超能力者が登場するファンタジーなのか、リアルとファンタジーの境を平均台の上を歩くかのようにふら付きながら読まされていく。 そんなミステリとファンタジーの境界線上にある物語を主軸にして複数のストーリーが同時進行していく。 まずは元警察官の武尾徹が過去の警護の仕事で知り合った開明大学の事務員、桐宮玲から羽原円華という10代後半と思しき女性の警護を依頼される話。 彼女を警護していくうちに羽原円華の周囲に不思議な現象が起きることに武尾は気付く。やがてある事件を境に羽原円華は武尾と桐宮たちの前から姿を消してしまう。 もう1つは温泉街で起きた硫化水素中毒事故の話。2件起きる話のうち、年の離れた夫を事故で喪った水城千佐都を計画的犯行と疑っている麻生北警察署の中岡が単独で捜査を進めていく。 もう1つは泰鵬大学教授の青江修介がこれら2件の不審な硫化水素中毒事故をそれぞれ地元の警察からと地元の新聞社から専門的見地から調査を依頼される話。 その2つの温泉地で青江は羽原円華と邂逅する。 これら3つの話がやがてそれぞれ関係する人物との共通項が見出されて、複雑に絡み合っていく。 とにかくこの同時並行して進む物語は一転も二転も三転もして読者を謎から謎へと導き、離さない。 最近の東野氏はこのようなモジュラー型のミステリを好んで書くようだが、そのどれもが先が読めずに抜群のリーダビリティーを持っている。特にそれぞれが独立しているように思える登場人物との意外なリンクが明かされていく手際は熟練の妙というよりも、物語の構築美を感じさせ、思わず嘆息してしまう。 そんな複合するエピソードのうち、本書の読みどころの1つとして作中登場人物の1人、映画監督の甘粕才生のブログを挙げたい。自宅で娘の硫化水素を使った自殺によって妻と娘を喪い、息子が意識不明の重体で発見されるという不幸のどん底から、息子の謙人が植物人間状態から奇跡的に回復していく一部始終を綴ったその内容はそれだけでもう1つの小説の題材として申し分ないものだ。 特に感じ入ったのは家族が亡くなって初めて家族が自分のことをどれだけ愛し、尊敬してくれたかを気付かされていく過程を綴った箇所。家族を亡くしたことで初めて家族を知る父の悲しみに溢れ、そして家族のことを知るために生前親しかった者たちを訪ねていく甘粕の道行は単なるエピソードの1つとして片付けるには勿体ないリーダビリティーと感銘を受けた。 逆に云えばこれだけのエピソードさえも東野劇場にとっては物語に奉仕するファクターの1つに過ぎない、つまりそれ以上の物語を提供する自信と自負に溢れていると云うことなのかもしれない。 このように東野氏は1つの小説になり得る題材を見事にミステリのツイストとして活用する。何とも贅沢な作家である。 この新鋭の映画監督として将来を期待されていた甘粕才生、そして主人公の羽原円華の父親で脳科学医療の権威、羽原全太朗も含め、その分野の先駆者、パイオニアといった常人を超えた偉業や功を成し得た人物がそれ故に陥る狂気が本書の隠れたテーマであろう。 本書の題名に冠されている耳慣れない言葉「ラプラス」、私はこの名前を中学生の頃に発売されたゲームソフト『ラプラスの魔』で初めて知った。ホラー系のゲームだったため、従ってそのタイトルに非常に似た本書もホラー系の小説かと思ったくらいだ。 この両者で使われているラプラスとはフランスの数学者の名前で全ての事象はある瞬間に起きる全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、それらのデータを解析できればこれから起きる全ての事象はあらかじめ計算できる決定論を提唱した人物で、それを成し得る存在を“ラプラスの悪魔”と呼ばれている。 羽原全太朗博士が中心となって手掛けている、人間の脳が備え持つ予測能力を最大化させる謎とその再現性を目的にしたラプラス計画はこの数学者から採られており、そして突出した予測能力をこの計画によって得た甘粕謙人が「ラプラスの悪魔」であり、羽原円華こそがタイトルになっている「ラプラスの魔女」なのだ。 冒頭に書いたように私もかつて全ての理を知る「ラプラスの悪魔」になりたかった。未来を知ることで不安がなくなるからだ。 しかし本当に全ての流れが見えることは人にとって本当に良い事なのかを改めて考えさせられてしまう。この件についてはまた後で述べよう。 物語は青江修介を狂言回しとしながら、やがてもう1人の能力者甘粕謙人にシフトしていく。 島田荘司氏のミステリでも大脳生理学を題材に人間の感情や精神についてそれぞれ大脳で司る部位などが詳らかに語られ、人間の意志が実はプログラム化された機能の一部であることが語られ、衝撃を受けたが、本書もまた同様である。 脳の研究が進むことは即ち人間の感情や意志をシステム的に解明することになり、それはプログラミングによって系統化され、そして人間は自分の意志で選択していると思いながら、実はプログラムによって動かされていたことを知らされるという、なんだか夢も希望も無くなる暗鬱な結論に達する不毛な荒野が目の前に広がっていくようでうすら寒さを感じてしまう。 そんな最先端の脳研究によって生み出された類稀なる予測能力を持つことになった甘粕謙人と羽原円華。 そんな2人が観ている世界は、風景について最後ボディガードの武尾は円華に尋ねる。 その答えは未来を知る者だけが放てる言葉だろう。既に40半ばの不惑の年ながらいまだに未来に不安を抱える私は安心を得るために未来を知りたいと思うが、解らないからこそ人生は面白いと云い聞かせるべきだろうか。 また一方で狂気の男甘粕才生についても理解できる部分がある自分がいる。映画という虚構を最高の形で作ることに尽力した男。そして書き上げたブログには彼の理想とする家族の姿があった。 青江修介は正直云って全くの部外者だった。彼は学者特有の好奇心を満たすためにこの事件に関わってきただけだ。 彼が知ったのは公表できない事実。好奇心が満たされた時、現実の虚しさに襲われたのではないだろうか。 それぞれの登場人物に私の一部が備わった作品であった。そしてそのどれもが迎える結末は苦い。 まだまだ未知なるものが多い世界。しかしそれらが徐々に解明されつつある。 しかし全てが解明された果てに見える景色は決して幸せなものでないことを本書はまだ10代後半の女性を通じて語っている。 我々の見知らぬ世界に一人立つ彼女がどことなく厭世的で諦観的なのが心から離れない。 悪に転べば誰も捕まえることの出来ない究極の犯罪者となる、実に危うい存在。 見えている風景がどんなものであれ、羽原円華は生き、そして立っている。その強さをいつまでも持っていてほしいと願いながらも、危うくも儚さを感じる彼女の前途が気になって仕方なかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
久々のディーヴァーのノンシリーズ作品である本書は警護のプロと<調べ屋>と称される殺し屋との攻防を描いたジェットコースター・サスペンスだ。
主人公は連邦機関<戦略警護部>の警護官コルティ。6年前の事件で師であるエイブ・ファロウを殺害された警護のプロ。 対する敵はヘンリー・ラヴィング。凄腕の<調べ屋>でコルティの師ファロウを拷問の末に殺害した男。 <調べ屋>とはターゲットの人物の家族構成、仕事、交友関係、趣味などを徹底的に調べ、通信機器を傍受し、予定や行動を調べ、完全包囲してミッションをやり遂げる殺し屋。ヘンリー・ラヴィングはターゲットのみならず、その関係者、隣人などの交友関係の弱点やかけがえのない人物や物を利用して―コルティはこれらを“楔”と呼んでいる―、自分のミッションに組み込んで協力を余儀なくさせることを得意とする。 例えば普段から交流のある隣人の奥さんを人質に取り、命を助ける代わりにターゲットの家に銃弾の雨を放たせるなど、護る側、護られる側が予想もしていない方向から不意打ちを食らわせるといったものだ。 一方コルティはかつての因縁からラヴィングのやり口を熟知しており、あらゆる可能性を想定してターゲットの警護に当る。それは彼の同僚や上司であっても、与えられる情報が、ラヴィングによって楔を打ち込まれて恣意的に誤報を流していないか疑うほどの慎重ぶりだ。 そんな2人の極限の攻防はまさにターゲットの死を賭けた精緻なチェスゲームのようだ。 ディーヴァー作品の特徴に専門家と違わぬほどのその分野の専門的知識が豊富に物語に盛り込まれることが挙げられるが、本書でもこの警護ビジネスに関する知識がコルティの独白を通じて語られる。いくつか挙げてみよう。 サインカッティングという追跡技術は、森林の中で人を追跡する際に注目する微妙な変化を読み取る技術だ。例えば人が通ることで普段は日の光に向いている枝が裏返っていたり、小石やシカの糞が妙な場所に落ちていたり、落ち葉があるはずのないところに敷かれていたりという人為的な痕跡を見つけ、辿る方法だ。 ハリウッド映画の世界では出来栄えが気に入らなかった作品に自分の名前を出したくない時に使うアラン・スミシーという架空の映画監督の名前があるが、諜報活動の世界でもマスコミの目を欺くための架空の犯罪者の名前―エクトル・カランソと本書では述べているが、恐らくこれは偽名だろう。でないと本書でその存在がバレてしまうからだ―があるとは知らなかった。 また意外にも警護する側も敵に弱みを握られたり、拷問を受ければ警護対象者の情報を明かすらしい。任務よりも自分の命が大事であるのがこのビジネスの信条。 但しもしそうすれば会社の信頼は落ちるだろうから、それを覚悟した上での救済措置なのだろうが。 また本書がこの敵と味方の攻防をチェスゲームのように描いているのは作者も意図的である。 コルティの趣味はボードゲーム。プレイのみならず古今東西のボードゲームの蒐集も行なっている。さらにコルティは大学院で数学の学位を取得中にゲーム理論をかじっており、これを自分の仕事に活かしている。本書ではこのゲーム理論がところどころに挿入され、それがさらに本書のゲーム性を高めている。 囚人のジレンマ、合理的な選択、合理的な不合理、等々。 ディーヴァーのシリーズ作品であるリンカーン・ライム物、キャサリン・ダンス物が複数の手掛かりが示唆する方向性を見出す、いわば推理物の定型の中に数々のミスディレクションを散りばめ、サスペンスやどんでん返しの要素を盛込んでいるのに対し、本書ではコルティが想定する数々の選択肢から最良の物を選び、それをさらに敵が凌駕するコンゲームの要素を成しているのが大きく異なるところだろう。 複数の手掛かりから唯一解を導く、複数の選択肢から最良の手を選ぶ。 この2つは近似していながらも受動的、能動的という面で異なり、特にコルティはどちらかと云えば、追う側から逃れる側であることから、ライム物やダンス物での犯人側に心理に通ずるものがあるように感じる。 また追う者と追われる者のハンターゲーム以外にも、もう1つの謎としてライアン・ケスラー刑事を標的にした依頼人の目的が不明なことだ。金融犯罪を担当する彼が扱っている2件の事件について調べていくうちに、意外な展開を見せていくのもまたミステリの妙味となっている。 1件目はペンタゴンに勤める民間アナリスト、エリック・グレアムが遭った小切手詐欺事件。4万ドルもの大金を盗まれた彼はしかしコルティのライアン警護の最中、突然刑事訴訟を取り止めることになる。子供の学費のために大金が必要な彼がなぜ突然翻したのか? それには“さる大物”から警察に捜査の取り止めを行う指示もあった。そしてグレアムはペンタゴンが定期的に行っている嘘発見器テストも風邪を理由に休んでいると、謎は深まっていく。 もう1つは牧師クラレンス・ブラウンによる貧民層へのねずみ講詐欺事件。しかし彼の身元を調べていくうちにこれも新たな事実が判明してくる。 更にはケスラーの車には彼の署でも使われている追跡装置が仕込まれていたことも判明する。 敵から身を護るためにケスラー夫妻と妻の妹マーリーはほぼ監禁状態を強いられるわけだが、そんな変化に乏しい生活ではストレスの溜まり、あらゆることが疑わしく思えてくる。特にコルティたちはそれを職業としており、あらゆる可能性を想定しなければならないから、情報量から推測されるパターンは膨大な数になるわけで、このような仕事はよほど精神的にタフでないとできないなと痛感させられる。文章からも制約された場所や行動による圧迫感がひしひしと伝わってくる。 これら疑わしい存在は下巻になって次々とその真相が明らかになっていく。 どんでん返しが専売特許のディーヴァー作品だが、本書におけるそれはどこかちぐはぐな印象を受ける。 しかし本書でディーヴァーが見せたかったどんでん返しがまだあったことに驚かされた。 色んな情報を盛り込み、読者を翻弄して追う者と護る側の攻防を見せながらも専売特許であるどんでん返しを盛り込んだディーヴァー印の作品でありながら、至る結末が尻すぼみであるがゆえに浅薄でちぐはぐな印象が残る作品だった。 残念。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
シリーズの大転換を迎えるとかねてから云われているボッシュシリーズ8作目の本書は今のところシリーズで唯一早川書房から訳出された作品だ。
事件はおよそ20年前に虐待されて殺害された少年の犯人を追うという、これまたかなり古い過去の捜査に当たるボッシュが描かれている。 その捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。 そんな古い骨から判明する事実は少年が度重なる虐待を受けていたと思しき数々の骨折の自然治癒の痕跡。そして度を越した虐待が彼を死に至らしめたという実に憤懣遣る方ない過去の事件が炙り出される―骨の鑑定を行ったウィリアム・ゴラーの、鑑定で過去と悲劇がはっきりと判るのに、皮肉なことにその人が生きている時点ではそれが解らないのだという吐露が心に痛く刻まれる―。 ボッシュはかつてFBI心理分析官のテリー・マッケイレブと組んだ事件で名もない少女の死の事件を扱っており、結局その少女の身元が判明しないまま今日に至っている。この苦い経験が少年少女という無力な存在に圧倒的な暴力や変態的趣味で死に至らしめる現在の悪魔たちに対して異常なまでに憎悪を掻き立てるのだ。 勿論それは自身もまた孤児だった過去に起因しているだろう。自分を捨てたと思っていた亡き娼婦の母親が自分に多大なる愛情を注いでいたことを知って、業からは解き放たれてはいたが、それでもやはり孤児院で育ったという過去は変わりなく、それがボッシュの人生に翳を落としている。 そして今回は相棒のエドガーがいつもより前面に出てくる。既に離婚していながらも子を持つ親として虐待して子供を死なせた大人に対して憤りを露わにするのだ。そしていつもより前のめりで捜査に当たる。今まで見たことのない「熱い」エドガーが本書では見られる。 またボッシュは本書でもまた新たな女性と出逢い、恋に落ちる。彼女の名はジュリア・ブレイシャー。34歳でポリス・アカデミーに入った新人女性警官。過去に民事弁護士をしていたが、業務に嫌気が差し、世界を旅していろんな経験をした後に警官になる決意をした、変わった経歴の持ち主だ。 彼女が今までのボッシュと付き合った女性と違うのはボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵だった時に遭遇した恐怖を彼女が知っていることだ。ボッシュ達が戦争で赴いたヴェトナムではそのトンネルは観光名所となっており、観光客が金を払って入ることが出来るようになっていた。彼女はヴェトナムを訪れた際に、そのトンネルを潜り、奥深く入り、そしてボッシュが戦争時代に経験した“迷い光(ロスト・ライト)”に遭遇したことがあった。誰もが共有できない特異な過去をジュリアは共有した相手としてボッシュにとって特別な存在となる。 弁護士だった親の敷かれたレールを嫌って弁護士を辞め、世界を見て回った後、戻ったアメリカで警官募集の広告を見てすぐに応募して警官となった彼女は自分が何か特別な存在になりたかったのだ。そして彼女は評判は良くないものの、抜群の検挙率を誇るボッシュを見た時に彼に自分を重ねたのだ。 肩の銃の瑕を負ったボッシュはそれだけで周りにいる警官とは違う特別な存在だった。上昇志向の強い彼女は自分も早くそんな特別な存在になりたかった。 まだ前途ある彼女がなぜ自分を特別な存在としたかったのか? それはやはり同時多発テロという大量死が関係しているのかもしれない。それについては後述しよう。 さて事件は振出しに戻る。 この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。 家庭の中に隠された悲劇がボッシュの捜査で明るみに出される。 虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。 また本書が発表された時期にも注目したい。 本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。 そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。 いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。 ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。 これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。 やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。 そして前述したジュリア・ブレンジャーが特別な存在になりたかった理由もこれである程度氷解する。 未曽有のテロで死んだ人は名もなきその他大勢。そんな集団の中の無個性な自分になるのが彼女は怖かったのではないだろうか。だからこそ個としての存在を主張するために、彼女はボッシュに将来の自分を見出し、そして早くそこに近づこうとしたのではないだろうか。 本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。 シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。 本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。 しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか? テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。 舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。 そんな大量死を迎えたがゆえに1人の少年の死に意味を与えるための捜査の結末は何とも煮え切られないものとなった。 これまでそのルールすれすれの、いや時にはルールすら破る危うい捜査を続けてきたお陰で、幾度となく辞職の危機に立たされていたボッシュ。しかし彼は結果を出すことでそれを免れてきた。 それは自身が刑事として悪と戦い、街を浄化することこそが生き甲斐であり、存在証明だと信じてきたボッシュの魂の砦だった。 従って警察上層部の、スキャンダルを葬り、穏便に事を済ませるために描いてきたシナリオに反発し、常に事件の真相を、真の犯人を捕まえることを信条としてきたボッシュ。 本書においても警察内部の者による捜査情報のリーク、またそれによって生じた容疑者の自殺、更に警官が捜査中に亡くなるという数々のスキャンダルが起こり、それに対して上層部の指示に従うように強要される。 しかしそれはこのシリーズの定番とも云うべき展開で、今回もボッシュはそれを克服する。 なぜか愛する者と長く続かないボッシュ。 かつてエレノア・ウィッシュ、シルヴィア・ムーアの2人と付き合ったが、いずれも自分を離れていった。しかし彼女たちは自らの意志でボッシュの元を去った。 ジュリアがボッシュにとって他の女性と違ったのは同じ暗闇を見た女性だったからだ。ヴェトナムの戦時のトンネルに入り、そして彼女は自分と同じ光、“迷い光(ロスト・ライト)”を見た女性だ。自分の人生に落とす闇の中で見出した光を見た女性という、ボッシュにとって彼女はこれまでになくかけがえのない存在だったと思う。 ジュリアはまさしくボッシュの「ロスト・ライト」、喪われた光だったのだ。 しかし何とも感傷的な幕切れだろう。そして何よりも実に歯切れが悪い。 そして何よりも本書は『CSI;科学捜査班』の影響とみられる骨や遺物の鑑定が今まで以上に前面に出ていること、そして同時多発テロの影響が色濃い事など、コナリー作品としては外部による影響がそれまでになく多く見られ、それがゆえに歯切れの悪さとバランスの良さを欠いているように思える。 しかしまだシリーズは続く。ボッシュが自らの暗黒に向き合うとき、闇の側に立つのか、それとも光の側に留まれるのか、そんな不穏な期待をしながら読みたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
志水辰夫氏最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。
物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。 ただこの佐古田史郎には北海道に纏わる過去があった。それはかつて彼が親元を去っていった地だったのだ。 飲んだくれの父親とそれに従う母親、早死にした2人の兄に家を飛び出したきり帰ってこない兄の6人家庭に生まれた佐古田史郎こと鈴木四郎は、中学の時に母親を亡くし、父の再婚相手とその連れ子の妹になる娘と暮らすようになった。1人の弟が新しく出来、幸せになったかと思った矢先、父親が多額の借金を残して失踪し、継母方の親戚の家に移る。しかし居心地の悪さから東京で職を得て家族を東京に連れていくと宣言して17歳の頃に上京するが、上手くいくはずもなく、お金も無くなり、痩せた、小柄なおじさんを見つけ、金を奪い取ろうとしたところを返り討ちに遭う。そのおじさんこそが佐古田史郎の育ての親となる会長で、その後そのまま会長の妾の家に連れられ、住み込みで働くようになり、今の佐古田史郎に名前を変えて養子になったという経歴の持ち主。 彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。 そんな偶然が佐古田史朗の心に変化を生む。自分が捨てた義理の妹と弟の苦難に一肌脱ぐことを決意するのだ。 数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。 東京へ逃げ、極道の世界に身を落とし、自分を慕う弟子もでき、養子になって組の看板を担うほどにもなった。そんな裏の世界でのし上がった男が久しぶりに故郷に帰ってみれば借金に食い物にされて困っているかつての妹と弟の姿に出くわす。 昔は逃げることしかできなかった自分だが今は曲がりなりにも力がある。捨てた負い目を癒すために彼は自分の素性を隠して妹と弟、そしてその恋人の力になることを決意する。 それはかつて自分たちを捨てて失踪した父が自分の姿と重なったことも大きな一因だろう。勝手気ままに生き、実の母親を苦労で死なせ、再婚して更正したかと思えば小豆相場に手を出して失敗し、新しい家族を捨てて行方知らずとなった父親を憎悪した迫田はその実、居心地が悪くなって東京へ出ていった自分もまた父親と同じなのであることを悟り、そして恥じたのだ。 その父親が今では目も見えなくなり、捨てた妹が世話をして生きている。親だから世話をするのは当然と云わんばかりの傲慢さを持って。 それを目の当たりにしたことで佐古田は妹と弟の窮地を救う手助けをすることで父親とは違うのだと証明したかったのだろう。 何とも身勝手な男だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。 そう、この小説の時代はまだ昭和なのだ。 佐古田や島のストイックな生き様、さびれた場末でスナックを営むすみれこと鈴木陽子の、いつかすすきのに店を持つことを夢見ながらも借金や悪い男に騙され続けてきた、人生にくたびれた女性象、鄙びたアパートで同棲する佐古田の弟哲也と恋人の節子。節子は哲也の子供を妊娠し、大学を辞めて働いて所帯を持つことを決意した哲也に反対し、逆に子供の生めない身体になってしまった節子。 これらはまさに昭和のメロドラマを感じさせる。 そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。 雪。 それは史朗の心に降り積もる過去の澱。 父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。 訪ねる先は常に雪。 それは彼にとって過去を償うための障害だった。 それまで身元を隠したやくざ者として振る舞ってきた史朗が別れ際の最後になって自分の正体が知れた時、彼は逃げるように東京へ向かう。 もう1つの史朗の物語、自分を養子にした組の会長が亡くなったからだ。 過去を悔いるならば恥をかかなければならない。恰好ばかりを気にする極道者が善行をやるにはそれ相応の代償を払わなければならないのだ。 しかしこの恥はいい恥だ。なぜなら愛すべき者に認識してもらってかいた恥だからだ。 恥をかいてこそまた男は1つ上の階段を昇るのだから。 史朗の組の跡目問題など物語に散りばめた色々な話が回収されぬまま、佐古田史朗、即ち鈴木四郎の過去の償いの物語で終わってしまった。 もしかしたら作者は続編として佐古田の東京での物語を想定していたのかもしれない久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。 幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。が、結局今も書かれていない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書はまさに掘り出し物だった。
デビュー以来歴史ミステリを多く書いてきた鯨氏が今回テーマに挙げたのはとんちで有名な一休宗純。 一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。 本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。 しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。 まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。 まずは皆に嫌われていた人買いの山椒大夫が虎に殺され、その読経を和尚の龍攀に代わって挙げることになった一休。そんな悪人に対してきちんと弔いをすることを寄すように云われながらもしかし坊主の務めは果たさなければならない。そこで一休が採った行動とは仏に背を向けて後ろ向きに読経をすることだった。 こんな失礼な読経に対して、一休は実に頓智に満ちた回答をする。 また和尚が小坊主たちに毒だから食べてはいけないとこっそり食べていた水飴を皆で平らげたことに対する絶妙な言い訳や和尚の碁友達の商人を追い返すために案じた「皮着たる者、門内に入るべからず」の策を切り返した商人に対して更にとんちで切り返したり、和尚に届いた謎掛けの手紙を瞬時に解読し、有名な「はしをわたるべからず」のエピソード、夜な夜な京の町を迷い出ては人を困らせるという衝立の虎を退治する話など世に知られたとんち話がきちんと本書には登場する。 更に出家の身でありながら魚の肉を食べたことに対しての受け答え、更にそれを聞いて畳み掛ける斯波義将の、ならば武士も通るからこの刀を飲んでみよという無理な申し出も巧みな論説で切り返す。 一方で足利尊氏が天皇家を南に押しやり、北朝、南朝と都が二分された京都。その後の南北朝の戦いの後、足利義満が南北朝の合体を実現し、その際に当時の帝、後小松帝の皇位継承者を出家させ、京都の事実上の統治者となる。しかし義満の周囲を固める者たちはその傲慢ぶりゆえに結束は決して一枚岩のような盤石さを持っていない。 そんな当時の不穏な世相が物語には色濃く流れている。 まず何よりも物語の中心となる密室殺人事件の被害者足利義満の悪役ぶりが凄い。 天皇に慇懃無礼に振る舞い、一介の武士の出でありながら自身の子義嗣を帝位に就かせようと企む。その権勢があまりにも大きくなり過ぎた故に天皇家も逆らうことが出来ないでいる。 しかし何よりもその権力を自身の好色ぶりに行使し、若い女性を自身の妾として次々と交わる傍若無人ぶりに胸がむかつく。 義満の側近とも云える三管領とその下の四職の1人、山名時熙はその妻美濃が義満の目に留まり、妾として差し出すことに。義満の実弟満詮はその美濃と義満が交わっている最中にその妻誠子を褥に差し出すように要求される。そして四職の1人、一色満範はまだ16歳の愛娘紗枝の躰を差し出すように強要される。しかもその直前に紗枝は父親の目の前でストリッパーよろしく一枚一枚衣服を脱ぎながら能を踊ることを強要される。 とにかくこの足利義満、真の悪の権化として描かれている。 威丈高に振る舞う武士や侍たちはもとより、それらを遥かに凌ぐ地位にある現将軍足利義持、三管領の細川頼長、斯波義将と四職の一色満範と山名時熙達、更に現天皇の後小松帝らでさえ、逆らうことが出来ぬほどの圧倒的な権力を誇り、黒を白と云わせることも可能な足利義満という絶対的君主が憚る権力構造の中に、まだ弱冠15歳の一休が知恵と勇気と度胸で切り返す、反権力主義の姿勢が今読んでも痛快で、実に気持ちがいい読み応えを与えてくれている。 そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。 ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。 一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。 そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。 つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。 さてそんな足利義満による絶対的支配構造の京都で不意に訪れる義満自害の事件。状況はつっかい棒にて開くことの出来ない究竟頂の中に押し入ってみるとそこには足利義満が首を吊って事切れているというもの。その奥の襖の向こうは鏡湖池で、しかもその池の周りは警備の侍でぐるりと取り囲まれている。 誰も忍び込むことの出来ない密室状態で明らかに自害と思われる状況なのだが、我が子の帝位即位と紗枝との交わいを控えた足利義満が自殺するとは思えぬことから、とんちで名を馳せた一休にこの事件の真相を探る命が義嗣より下る。 犯行の動機は義満を取り巻く人物にそれぞれある。 義満の息子で現将軍の義持は自分をないがしろにして実質的な権勢を誇る父親を憎んでおり、しかも弟の義嗣を自分より高位の帝位に就かせようとしていることが堪らない。 後小松帝も帝家に俗物の血が混じることを快く思っていない。 細川頼長は後小松帝の忠実な部下であり、その本意を汲み取っている。 その宿敵斯波義将は忠実さを見せながらもかつては足利家と同等の武将であったため、その部下の地位に甘んじているのが積年の屈辱として積もっている。 山名時熙は自分の最愛の妻を妾として召し捕られ、一色満範は最愛の娘の貞節をまさに奪われようとしている。 そんな誰もが殺害する動機を持ち、刃を心に隠し持っている容疑者達の中で一休の推理によって判明した犯人は読んでのお楽しみだ。 しかし犯人は判明するものの、あくまで足利義満は病死として片付けられ、真相は闇に葬られることになる。それは真の悪を滅ぼしたことに誰しもが安堵と感謝を覚えていたからだ。 これだけ書くと本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。 これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。 もうこれは見事としか云いようがない。 一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。 そして忘れてならないのは物語導入部に陰陽師の六郎太が一休の最後の愛人だった森女に尋ねた、足利義満が自身の死後に大文字の送り火をするように云い遺した真相もまた一休の強かさを印象付ける。大文字の送り火の由来は諸説あり、この真偽は定かではないが、これもまた鯨氏のオリジナリティ溢れた歴史解釈であり、最後の最後まで歴史の解釈の愉しさを我々に提供してくれる。 新説歴史短編集『邪馬台国はどこですか?』で鮮烈なデビューをしながらその後読んだ作品は歴史・史実の蘊蓄に溢れてはいるものの、作者自身の趣味趣向が先行して、はっきり云って読者を置き去りにするきらいのあった鯨作品だが、ここに来てようやく見事な歴史ミステリと出逢うことが出来た。 数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。 デビュー作で魅了された私が読みたかった鯨氏による長編歴史ミステリの半ば理想形のような作品である。 そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。 題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。 天晴、一休! そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ノンシリーズだと思われた『女王の百年密室』は実は「女王」シリーズとなっており、本書はその第2巻。エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。
長い間マスコミからの取材を遮断して、島民たちは閉鎖された島の中で、聳え立つ城モン・ロゼの城主であるドリィ家の庇護の下、暮らしている。但し病院も学校もなく、医師、看護婦、教師も全てモン・ロゼに待機しており、必要な時に対応してくれる。そんな特殊な閉鎖空間だ。 この一切の取材を断っていた島の王がなぜかサエバ・ミチルの取材の申し出を承諾する。 そして取材に訪れたミチルの前で起きる殺人事件。今回の事件はいわば開かれた密室物だ。 大きな砂絵の真ん中に首なし死体が転がっているが、そこに至る足跡は被害者と検屍をした医者の物のみ。果たして犯人はどうやって足跡を着けずに被害者に近づいて首を切り、そして持ち去ったのか? メインの殺人事件以外にも色んなエピソードに謎が散りばめられている。 本書の舞台となるイル・サン・ジャックは約30年前にそれまで森だった周囲が一夜にして海に変ってしまった不思議な島である。この一夜の不思議の謎と、いつしか島自体が一日で一回転して常に南に向いているようになったという自転する島の謎が仕込まれている。 本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。実際謎は上に書いた物だけに留まらない。 島民たちの不思議な振る舞いも謎の1つだろう。とにかく舞台、登場人物、風習、事件、それら全てにミステリの風味がまぶされている。 そして読者はこれが森ミステリであることを認識しなければならない。 その特徴はミステリの定型を裏切り、本当の謎は別のところにあることで、それは本書も同じ。 例えば長きに亘って取材拒否を行ってきた理由はドリィ家の忌まわしき過去にあった。 そしてミステリで云えば核となる殺人事件。砂の曼陀羅の真ん中に坐した老人の首なし死体。そこに至る足跡は検屍した医者のそれしかない、開かれた密室。 さらに第2の殺人も坐した老人の首なし死体。どちらも被害者が発見者に最初に現場に落ちている物を別の場所に捨てに行くよう頼み、その間に死んでいる。 この実に奇妙で不思議な事件。 これを皮切りにこのイル・サン・ジャックの壮大な謎がメグツシュカによって明かされていく。この謎こそが本書のメインの謎であった。 クラウド・ライツ、サエバ・ミチルの生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。 存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。 それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。 それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。 この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。 金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。 しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか? そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。 そんな驚愕の事実を森氏はサエバ・ミチルという特殊な存在を以て語る。 恋人のクジ・アキラをマノ・キョーヤの凶弾によって喪い、自身も瀕死の重傷を負ったことから、無事だった自分の頭部をクジ・アキラの身体に繋げて生き長らえている人造人間。更に彼は自分の意識をウォーカロンのロイディにアップロードして遠隔操作が出来るようになっている。 つまり彼自身の個体は頭を撃たれようが、心臓を刺されようがロイディがいる限りは消滅しない不死の存在なのだ。 しかし彼はそんな自分の身体と精神の乖離にしばしば疑問を持ち、自問する。 生きることとは? 死ぬこととは? 存在とは? 身体はなくとも精神があれば存在しているのか? 身体は所詮、単なる器に過ぎないのか? 作られた身体で感じる肉体性に時折喜びを感じながらも、どこか神経との繋がりに乖離を感じるミチルはしばしば自分の存在意義について問い掛ける。その姿は実は我々悩める現代人と何ら変わらないことだ。 何のために働く? 何のためにこんな苦しい思いをしてまで働く? 我々は何を生み出しているのか? などなど、ふと苦しい時に自問する我々のそれとミチルの自問は変わらない。 ただ本書で興味深いのはアンドロイドであるウォーカロンと人間の差がどんどん縮まっているとミチルが認識しつつあるところだ。 彼の意識を封じ込めたロイディは即ち彼自身であり、彼は人造人間の身体を持つ人間だ。ならば人間の意識を持つロイディもまた人間になりつつあるのでは?などと錯覚する。そして人工知能を備えたロイディはミチルが心を揺り動かされるほど人間らしく振る舞い、更に女王メグツシュカの侍女であるウォーカロン、パトリシアとなんだかいい雰囲気だったりする。そしてそのミチルとロイディの秘密を見破ったメグツシュカはウォーカロンが人間に近づくためのヒントがこのミチルとロイディの関係にあると説く。 さて森氏のミステリのシリーズにはファム・ファタールとも云うべきミステリアスな女性がシリーズ全体を通じて登場する。 S&Mシリーズではなんといっても真賀田四季だろう。Vシリーズは主人公である瀬在丸紅子がそれに当たるだろうか?各務亜樹良もまたその称号に相応しいが少し弱いか。 そして本書ではスホがそれに該当する。前作『女王の百年密室』のルナティック・シティの女王、50を超えているのに人生の半分近くを冷凍睡眠で過ごしているため、20代の若さと美しさを保っているデボウ・スホ。 本書ではその母メグツシュカ・スホが登場する。しかも彼女はデボウを超える年齢であり、しかも彼女のように冷凍睡眠もしていないのに美しさを保っている、美魔女である。いやそんな世俗的な言葉を超越した存在として描かれている。 現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。 2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。 そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。 永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか? ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。 正直私はまさかこのサエバ・ミチルの存在性がここまで拡散するとは思わなかった。精神性とどこか乖離した肉体性を備えた特異な存在であったサエバ・ミチルはメグツシュカ・スホが理想形とし、そして到達した究極のフィギュアである。 しかし壮大と思えたその実験の行き先は無限に広がる虚無でしかないと思えたのは私だろうか? 森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。 また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。 “夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい” メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。 このシリーズは次作『赤目姫の潮解』に続くわけだが、あいにく私はこの作品を持っていない。 本書で辿り着いた虚しさの行き着く先に森氏が用意したのは希望か更なる虚無か? 決して読むことのない続編の行く末は今後の手持ちの森作品で推測していくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
東京創元社が新しいミステリレーベル、ミステリ・フロンティアを創設し、それまで聞いたことのない作家たちの作品が累々と出され、あっという間に『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』が週刊文春のミステリベスト10などの各種ランキングを騒がせるようになり、一躍ミステリ読者注目の叢書となった。
伊坂幸太郎氏、米澤穂信氏、道尾秀介氏など今のミステリ界にその名を連ねる新しい才能が次々とこのレーベルからは出ていったが、それまでライトノベルの分野で作品を発表していた桜庭一樹氏が初めてミステリ界でその作品を発表したのが本書である。そして本書をきっかけにミステリ界にその名が知られるようになり、それ以降の活躍はご存知の通りである。 物語の舞台は山口は下関市の沖合にある離島で下関とは橋で繋がっており、島の人々は漁業で生計を立てる者がほとんどで、中学までは島の学校に通い、高校からは下関市の学校に通うのが一般的になっている。そして橋が出来たことで島民たちは中学生たちも含め下関市にショッピングや娯楽を愉しみに出かけるのが通例で、また島民の流出が始まっており、さびれかけている。最近できたマクドナルドが老若男女問わず島民たちの憩いの場となっている。 そんな地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。 美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。 宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。 バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。 桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。 この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。 私は男だが、彼女たちの女子中学生の世界観はそれでも理解できる。子供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。 少女たちの日常は虚構に満ちている。 それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。 そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。 中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。 それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。 一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。 この辺は私もなんだか思い出すなぁ。 小学生の頃によく話していた女子に中学になって一緒のクラスになったので以前のように話しかけようとすると素っ気なく、無口になってしまっているのに、何スカしてんだろうと気分を悪くしたが、あれはもしかしたら大西葵が抱いていたような異性を意識する心のハードルが合ったのかもしれない。 また学校では明るく振る舞う大西葵が家では母親と上手く話せず、無口であるのも思わず同意してしまう。 既に中学生は社会性を備えてTPOに合わせて仮面使い分けているのだ。友達用の自分と家用の自分。それはどちらも自分でありながら、作った自分でもある。そんな自分を大人たちは知らない、昔は自分も中学生だったのに。 そしてそんな仮面がふと外れて巣の自分が現れる時、ずっと同じように続いていくと思っていた友人との関係に罅が入る。他のことに気を取られて生返事したり、メールした後にその内容と違うところをたまたま見られたり。そんな他愛もないすれ違いで彼女たちの友情は壊れたりする。そんな脆さを含んだ世代だ。 こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。 夏休みの終わりはまた日常の始まり。非日常の毎日だった夏休みに掛けられていた魔法は不思議なほどに解ける。 ゴシック趣味の服装をした宮乃下静香は再びクラスの目立たない女子となり、殺人幇助をした彼女を恐れていた大西葵は次第に自分を取り戻していく。 学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。 学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。 しかし違いは身体性、肉体性があること。 そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。 ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。 つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。 本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。 義務教育という庇護下に置かれた状態で自分を獲得していくのが中学生活とすれば、そこに何を見出すかはそれぞれによる。 大西葵はゲームの世界に逃げ込み、ネットワークで東京や大阪といった中心都市に住む人たちとバトルを挑むことで自分の居場所を実感する。 しかしそれも虚構に過ぎなかった。彼女が得ていた万能感は限られたセカイの中での物でしかない。 宮乃下静香は本の世界、物語の世界に没入することで知識を得、それを実行に移すことにする。大西葵という自分と価値観を共有できると確信した同志を引き込むために彼女は今まで蓄積してきた虚構の物語を自分流にアレンジし、そして本で得た知識と方式を自己薬籠中の物にして、葵を引き込んで未来を拓こうとする。 しかしそれも現実に照らし合わせれば、ただの物語好きな子供のゲームに過ぎなかったことを思い知らされる。 彼女たちが成し得た事、大西葵が成し得たことは偶然の産物に過ぎない。しかしそれを成し得たことで彼女たちにはもう一度同じことが出来ると錯覚した。 彼女たちは失敗を経験することでまた一歩大人の階段を登ったのだ。 これは彼女たちにとっては非常に良かったことだと思う。もしこの失敗がなければ彼女たちの虚構の万能感はエスカレートしていっただろうから。 現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。 そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。 今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。 彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。 リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。 もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
2000年代初期に祥伝社から400円文庫として250~300ページ前後の作家書下ろしの文庫がいくつか刊行された。これはそのうちの1編で、ものの1時間で読めた。
本書は戯曲の体裁で書かれており、文章魔王というこの世から小説を無くしてしまおうと企んでいる電脳世界に住む魔王を小説家志望の女性がノートパソコン片手に戦いを挑むというストーリーである。 とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。 まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。 一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。 この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。 そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。 ミユキが文章魔界道に入りこんで、旅のお供となるのが漫才師の青空球児・好児の2人。実名で登場する2人はお馴染みのギャグを披露しながらミユキと行動を共にする。 なぜこの実在の漫才コンビが登場するのかは不明。鯨氏と親交があるのだろうか? ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。 この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。前の400円文庫で刊行された『CANDY』でも当て字やダジャレが横溢しており、文章遊びの嗜好の強さを感じたが、本書では更に拍車がかかり、存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。 例えば第一の番人との戦いは同音異義語を使って彼が繰り出す問題に回答する戦い。つまり「たいせい」という言葉ならば、「体制」、「耐性」、「大成」といった具合に、同じ音で意味の異なる単語を使って文章を作成して回答する、因みに第一の番人は『古事記』の編纂者である太安万侶。鯨氏はどうもこの太安万侶が好きらしい。これで何度この人物と鯨作品で出逢ったことだろうか。 そしてさらに最後に蒟蒻問答での戦いもある。これは作中の例を挙げれば、「パンを食べてても米国とはこれ如何に」という問いに対して同様に「米を食べててもジャパンというが如し」と同種の洒落を切り返すもの。 次の第二の番人は井原西鶴。彼との戦いは回文で問題に答えるという物。古今東西の作家をテーマに回文で切り返す。 そして最後の文章魔王との戦いは彼が書いたミステリを読んで、その内容の質問に同音異義文で応えるという物。例えば<今日は基地に帰る>に対して、<凶は吉に返る>と同じ発音でありながら意味の異なる文章で回答するゲームである。 驚くべきはこれらの戦いの分量の多さである。 第一の番人との戦いである同音異義語はさすがに4問程度だが、それ以降はとにかくすごい数だ。 蒟蒻問答では9つの問答が、回文ではなんと45個の回文が登場し、そして最後の魔王との戦いでは21の同音異義語文が応酬される。もはやこれは趣味の世界だろう。 最も面白かったのは回文対決。作家をモチーフにした問いの内容が非常に面白い。特に現代ミステリ作家では作家間で知られている内輪ネタを存分に披露しており、かなり笑わせてもらった。中には無理矢理回文にしたものもいくつかあるが、何よりもこれだけの物を作り出した鯨氏の執念に敬意を表しよう。 ジャンルを問わず書下ろしで中編程度の分量で400円文庫として刊行するこのシリーズでは『CANDY』の時もそうだったが、鯨氏は敢えて実験的な小説を意図的に書いているように感じる。こういう企画でしか刊行されないであろう小説を、昔からある日本語を使ったゲームを自ら創作して愉しんで書いているようだ。 しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。 例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。 作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。 かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。 だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。 また作中作として盛り込まれている大文豪の『小説とは何か』の内容も意味深い。 200年に小説が無くなり、ストーリィを作れなくなった人たちの社会で夢を売り物にしている会社を経営する2人の男女の会話で展開する物語だが、どんな物語も自分の想像で登場人物を設定できる夢があれば十分であり、ストーリィは小説でなく、これからは夢が代行すると書かれている。 これは恐らく当時問題になっていた活字離れに対する作者の考えを語った物だろうと思える。夢を見ることでストーリィ欲を満足させる社会は将来来ないと思うが、この2020年の現代で小説が無くなるという表現で思い至るのは昨今の電子書籍の普及である。 「小説」が無くなるのではなく、「紙媒体としての本」が無くなることを予見した内容とも取れる。厚みを手で感じ、ページを指で捲り、そして紙の匂いを感じ、目で文章を追い、読み終わった後も本棚でその書影を眺めるという五感で味わう読書をデータでしか行わなくなった味気なさを夢に置き換えると、まさにこの内容の未来が来ているように感じる。 流石に以前ほど全ての書物が電子書籍に取って代わられるという危機感は薄らいだものの、毎年減っていく全国の書店の数の恐ろしいまでのスピードを考えると果たして出版界の未来は?と不安に駆られてならない。 戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一編も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。
まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。 そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。 そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。 前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。 今までのじっくり読ませる文体と違い、どこか軽やかな印象でクイクイと物語が進み、やもすれば物語の動向を十分に理解しないままにキャシーが物語のメインであるギャンブラーの持ち金掠奪計画まで一気に進んでいってしまうほどだ。訳者が今までの古沢嘉通氏と異なり木村二郎氏であるのも一因かもしれないが。 そのせいだろうか、どうも物語が浅いように感じられる。 故殺罪で刑務所に入った過去のある元泥棒の女性が、仮釈放でポルシェのディーラーに勤め、普通の生活を送っていたところにある事情から大金が必要になり、再び根城にしていたラス・ヴェガスで高額ギャンブラーをターゲットにしたハイローラー強盗を計画するが、その男はマフィアの金の運び屋で、その大金を持って帰ったことからトラブルに巻き込まれる。敵はホテルが雇った私立探偵だが、人格障害者である彼は凄腕の殺し屋でもあり、彼女を追う先々で次々と関係者を殺害していく。そしてその毒牙は彼女の大切な存在にも伸び、意を決した彼女はそれを救うために対決に臨む。そこはかつて自分の恋人が死んだホテルの部屋だった。 とまあ、実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。 コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。 ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。 また女泥棒のキャシーの造形も印象的ではある。 恐らくは男たちの目を惹く容姿をしている女性で、ヴェガスでブラックジャックのディーラーをしていたが、そこで出逢った強盗マックス・フリーリングと恋に落ち、そして彼の仕事を手伝ううちに一流の強盗の技術を身に着ける。出所後に大金が必要になり、仕事を紹介してもらうと、生活リズムを変え、必要な道具を揃え、万全の準備で臨む。 仕事もやるべきことを心得て躊躇がなく、不測の事態についてもあらゆる手段を熟知している。例えば隠しカメラでなかなか金庫のナンバーが見えなければ、もう一度金庫を開けざるを得ない状況を作るために、小火を引き起こして、ホテルの従業員に成りすまして避難を促し、金庫を開けざるを得ない状況を作り出すなど。これら一連の手口が詳らかに語られることでキャシーの凄腕ぶりが印象付けられていく。 更に仲介屋のレオ・レンフロのキャラクターもなかなか興味深い。迷信好きで古今東西の色んなまじないやジンクスを信じ、実践している。中国の風水、易経に占星術。ヴォイド・ムーンについて教えたのもこの男だ。 ジャック・カーチはキャシーの恋人マックスを罠に嵌め、死に至らせた私立探偵。そのことがきっかけで彼はホテルの当時警備課長で今は支配人となっているヴィンセント・グリマルディによって専属の探偵となり、色々な後始末を命じられ、どうにかこの状況から脱したいと願っている。 しかしこのようなキャラクターにありがちなうだつの上がらない男ではなく、躊躇いなく引き鉄を弾いて人を殺すことも厭わない。勿論証拠を残さないように細心の注意を払った上で。しかも車を見られた場合はナンバープレートを付け替え、追われないようにする。そして敵が手強いほど燃える男で常に人の優位に立って弄ぶことに喜びを覚える、人格障害者だ。 このしつこいまでに残虐な探偵もまた敵としては実に申し分ない。 これほどお膳立てがされながらもどこかB級アクション映画を観ているような感覚はなぜだろうか? やはりそれはコナリー作品の持ち味である、サプライズに欠けるところにあるだろう。 上述したように今回はキャシーが服役するようになった過去、そして仮釈放して真っ当な仕事に就きながらもいきなり大金が必要になる動機などが明確にされないながら物語が進み、次第にそれらが徐々に明かされていくというスタイルを取っている。 従って五里霧中で読み進めながら次第にキャシーの動機という霧が晴れ、全体像が明らかになっていくという謎が解かれていく面白みはあるのだが、正直インパクトはさほど強くなく、驚きよりも納得のレベルに落ち着いている。 一方でラス・ヴェガスという享楽の都に縛られた人々の話でもある。 キャシーは幼い頃からここに住み、そしてブラックジャックのディーラーとなって泥棒のマックスと知り合い、高額ギャンブラー相手の泥棒になった。 ジャック・カーチもまた父親がアメージング・カーチと呼ばれた、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・Jrとも何度も共演したことのある名のある手品師で、自身も子供の頃に父親のアシスタントとしてステージに立っていた男。 しかし彼の父親は酔っ払ったマフィアによって両手の指を粉々に折られ、再起不能のマジシャンにされる。また6年前のマックス死亡の事件で、《クレオパトラ》の専属の探偵となり、逆に当時警備課長で支配人に乗りあがったヴィンセント・グリマルディにいいように扱われる身となる。 ラス・ヴェガスで育ち、そしてラス・ヴェガスをこの上なく憎んだ男なのだ。 全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。 コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。 あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。 その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。 その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。 やはりコナリーはコナリーだった。 だからこそ邦題の軽薄さが目に付く。 『バッドラック・ムーン』は本書のモチーフとなっている悪運に見舞われるヴォイド・ムーンを示しているが、本書ではそのままの名前で使われている。つまり原題と同様に『ヴォイド・ムーン』でよかったのではないだろうか?なぜならVoidという単語には他に虚ろなとか中身のないとかいう、空虚さ、虚しさが込められているからだ。 全てが虚しい享楽の夜の塵となった。 しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。 彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。 キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|