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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数889

全889件 561~580 29/45ページ

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No.329: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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愚行は今も変わらず

2作目のジンクスという言葉がある。
本作は真保氏にとって江戸川乱歩賞受賞後の第1作、つまり第2作となるのだが、そのジンクスを跳ね返すべく、彼が並々ならぬ精力を本作に注いだのが冒頭から滲み出ている。

まず本作のメインであるマニラでのODA大規模プロジェクトの内偵に主人公伊田が関わる経緯からして非常にミステリアスであり、読ませる。100ページ以上費やして語られる導入部はぐいぐいと興味を引っ張り、ページを繰る手が止められない面白さだ。
そこから展開するマニラでの日本建設業界への潜入捜査、マニラを含め、フィリピン各所で繰り広げられる追跡行を読むに当たって、よくもまあ、これほど詳細に書けるものだと感心することしきりだ。真保氏の取材力の緻密さには定評があるが、確かにこれはすごい!

まず、空港を降り立ってホテルにチェックインするまでの流れは私が今まで何度も経験したその動きをそのまま投影しているかのようだ。しかも建設業界の内幕の様子もさることながら、フィリピンでのビジネスについても作者は熟知しており、終始ニヤリとするとともに、感嘆を禁じえなかった。
そして主人公やその他登場人物が縦横無尽に行動するフィリピンのマニラの街並みの描写も詳細を極めているが、スールーとかバギオなどの通常日本人が行かないようなところにまで踏み込んで舞台にしているところが、単純に小説に使うという名目で作者がフィリピンへ観光旅行したのではなく、明らかに明確な意図を持って入念に取材した事が窺え、この作者の作品に向かう誠実さを感じさせられた。
これがまだ2作めだというのだから恐ろしい。

そしてこの本を読むタイミングというのもまた良かった。建設業界の談合話に加え、小説の舞台がマニラ。これは今現在フィリピンに滞在する私に対し、今読め!と云っているようなものである。
しかし、それでも本作は星10を手放しで与えようとするとどうしても抵抗があるのだ。
それはテーマと中で扱われている内容にどうしようもない乖離を感じたからだ。

私は冒頭のプロローグから第一部の展開までの物語の流れを読んで、愚直なまでに自らの仕事に対して正直な男の復活劇だと期待した。それは一度閑職に追いやられた男が公正取引委員会という仕事が世に蔓延る不正を正し、悪の芽を詰む物だということを自らの信条とする伊田和彦なる男が密命を帯びてフィリピンで行われているODAの大型プロジェクトの不正を暴く、そういう物語だと思っていたからだ。
しかし、蓋を開けてみれば、それは単なる物語の意匠に過ぎなくて、この物語の核心はフィリピンで起きた誘拐事件の探索行、そしてその事件の真相を巡る物語だったのだ。

確かにフィリピンという国を縦横無尽に駆け巡る誘拐事件の解決劇は面白い。2つ起きる誘拐事件のうち、核となる第1の事件は660ページ強の本書の中で300ページ弱と、半分を費やして語られ、それ自体1編の長編に相応しい内容になっている。しかし、そこから私が期待した展開は、そこから伊田の当初の目的である談合の証拠を掴む調査の話だった。しかし、上にも述べたように実はそうでなく、この誘拐事件に隠された真相を巡る物語が展開する。
これがどうしても私には納得が行かなかった。それは本作の主人公伊田と調査の対象となる相手の1人に彼の高校時代の友人遠山順司という人物が設定されていることも一因だ。

この遠山順司というサブキャラクターが非常に魅力的に描かれている。この好男児に対し、伊田が自分の使命と友情の維持という葛藤に対し、どのような決断を下して乗越えるのかに私は非常に興味があった。多くのページを費やして繰り広げられる追跡行も、伊田と遠山の結びつきを強めるガジェットとして受け取っていたのだ。
しかし作者の思惑と読者である私との思惑が一致しなかった。これは非常に残念だと思った。

しかし、これは単純に作者が悪いというわけではない。私が勝手に展開を予想した事による齟齬なのだ。もし私が何の先入観もこしらえずに白紙状態で向き合っていたら、読書の悦楽にどっぷり浸かることができただろう。
真保氏の小役人シリーズはまだ2作しか読んでいない物の、非常に好きなシリーズである。だから私は良い読者でありたい。彼は小役人を主人公にする事でミステリを描く作家だという事を念頭に変な先入観を持たず、次から読む事にしよう。

1992年発表の本書で語られる建設会社の談合事件が26年後の今なお続いているのを見ると、この世の中というのは何も変っていなく、日本という国が根っからの土木国家という事をまざまざと知らされる。
それは本書で述べられるフィリピンもまた同様だ。100ペソ札(現在のレートで220円前後)1枚で賄賂が成り立つ貧困状況、幼児売買、臓器売買が成されている現状(しかも臓器売買は合法化されているとまで云われている)など全く変っていない(本書で述べられる気分の悪くなるような事実に対して、何ら驚かない、既に麻痺した自分がいることにも気付かされた)。故にこの作品が未だに古びれない輝きを放っているのだから実に皮肉なものである。


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取引 (講談社文庫)
真保裕一取引 についてのレビュー
No.328: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

それぞれのフィリップ、あるいはマーロウ

フィリップ・マーロウを主役に当代気鋭のミステリ作家が物語を描いたトリビュート短編集。正に粒揃いの名品ばかりだ。長くなるが、それぞれの作品についてあらすじを述べていこう。

まず冒頭を飾る「完全犯罪」は昨年逝去したマックス・アラン・コリンズの手によるものでマーロウがハリウッド女優ボディガードを引き受ける話だ。
ベンジャミン・M・シュッツの「黒い瞳のブロンド」とジョイス・ハリントンの「グレースを探せ」は共に人探しをテーマにしており、それがそれぞれ家族を連れ戻す物語である。前者は夫が逃亡した妻と子を、後者は妻が失踪した夫と子を、正に表裏一体の設定。しかも明かされる真相もほとんど似通っていたのがちょっと残念。

マーロウがプロレスラーのザ・クラッシャーという大男からボクシングのプロモーターのトマス・ローマにお金を届けるよう否応無く頼まれる所から始まるのがジョナサン・ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」。
似たような題名の「悲しげな眼のブロンド」はディック・ロクティによるもので、マーロウが<ラサの頭蓋骨>という宝石を埋め込んだ頭蓋骨を手に入れるよう旧知の女性から依頼されるという一風変った設定。

4Fの旗手サラ・パレツキーは「ディーラーの選択」という作品で参加。マーロウが女性の依頼で、兄の借金の形にした母親の指輪を取り戻すのに借金した相手との交渉を頼まれるというもの。
そして田舎出の娘のような歌手イーヴリン・メリルがしている指輪がマイラ・ヒートレーという未亡人が盗まれた物だというシーンで始まるのがジュリー・スミスの「レッド・ロック」。物語の展開は当然この指輪を巡って繰り広げられる。

パコ・イグナシオ・タイボ二世の手による「国境の南」はマーロウと弁護士に警護を頼まれたアレックス2人のメキシコを放浪する物語で、異色の短編だ。
ロジャー・L・サイモンは赤狩りを背景に物語を展開する掌編「街はジャングル」で参加。

この後のジョン・ラッツの「スター・ブライト」はハリウッドの女優の卵エラ・ルーを巡る物語。
次のロバート・J・ランデージという初耳の作家による「ロッカー246」はマーロウが悪友の残した荷物を受け取りにニューヨークへ行く話。

そしてスチュアート・M・カミンスキーの「苦いレモン」は同じビルに住むウォーレンの妹探しの話。
次はなんとエドワード・D・ホックである!不可能犯罪短編の雄がチャンドラーのトリビュートとして捧げた「東洋の精」は酒場の歌姫からマーロウが銀行強盗と殺人の罪に問われた弟を助けて欲しいと依頼される話。ちなみに彼の作品の特徴である不可能状況、トリックは出てこない。

ジェレマイア・ヒーリイの手になる「職務遂行中に」は保険会社から現金輸送車を襲った事件で殉職した顧客の警備員が実はこの一件を仕組んでないかと調査を依頼される話でなかなか読ませる。
「悪魔の遊び場」はある荒野に建つコーヒーショップで起こった悪人たちの篭城事件を描いたジェイムズ・グレイディという作家の作品。

そして最後は御大チャンドラーの作品「マーロウ最後の事件」。マーロウの事務所を訪れたイッキー・ロッセンという男の依頼は、自分の逃亡を助けて欲しいというものだった。ラスヴェガスのあるマフィアの組織から足を洗った彼は大金を手にして逃亡中であるが、どこに逃げても追っ手の尾行が付きまとい、しかも自分を殺しに殺し屋が今日ロスを訪れるのだという。かなり危険な依頼に難色を示したマーロウだったが、妙に女に優しいこの変ったチンピラを気に入り、依頼を受ける事に。マーロウは、友人の女性アン・リアーダンに手伝いを頼み、無事イッキーを逃がす事に成功するのだが・・・。
“The Pencil”という原題に対し、なぜこのような邦題を付けたのか、訳者の真意はわからないものの、これがチャンドラーのマーロウだ!と云わんばかりの作品だ。
マーロウは常に損をする。それは彼がこだわりを捨てずに自分を納得させるまで仕事を止めないからだ。
この作品では読者になぜそこまでするのか?と思わせながら、最後の最後においてもやはりこのマーロウという人間が十分に理解できないまま終わる(少なくとも私はそう)。しかし、これこそがマーロウなのだなと思う。

チャンドラーの作品を別格として、私の個人的なベスト5はコリンズの「完全犯罪」、カミンスキーの「苦いレモン」、ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」、ヒーリイの「職務遂行中に」、ロクティの「悲しげな目のブロンド」か。

コリンズはチャンドラーを正統に受け継ぐかのごとく、マーロウを復活させた。彼の強さ、皮肉っぽさは無論ながら、彼の優しさ、弱さもおしなべて。特に「ぼくはいつもひとりで寝るんだ・・・・・・良心を抱いてね」の台詞には参りました。
カミンスキーは実に正統なチャンドラーの後継者たらんとしているのが解る。特に作品に漂う頽廃的な雰囲気はアメリカ西海岸の光と闇を映し出し、行間から埃の匂いを立ち昇らせるかのよう。出てくる登場人物が全て大なり小なり過去に栄光を得ながら、落ちぶれた生活を送っている。美少年コンテストで優勝したハゲの小男。戦争に行って、怪我を負い、人のために我慢することを諦めた男。警察署長まで登り詰めながら、ある事件で人生の歯車が狂ってしまった男と、その妻。彼らの間を駆けるマーロウは確かに騎士だ。最後の結末の皮肉さといい、全てがチャンドラー・テイストだった。

ヴェイリンの作品は『さらば愛しき女よ』のオマージュで、ザ・クラッシャーはまんま大鹿マロイである。1人の女に愛情を捧げたマロイに対して、本作ではタッグチーム相手のエルモとの友情に厚い人物としてザ・クラッシャーは描かれているが、彼がマロイ同様、愛情に厚いことも明かされる。
ヒーリイは実に堅実なプロットで物語を作り上げた。本作では逆に他の作家がやってきたプロットの逆を敢えて取る形で物語に決着をつけている。フィリップの捜査の流れ、それを牽引する手掛かりが容易に手に入り、淀み無いのが逆にフィリップ物語らしくない印象を与えることになっているのが皮肉だが。
ロクティは自身の作品で、自らがハードボイルドの熱心な研究者である事を証言した。まさかハメットの『マルタの鷹』をマーロウと絡めるとは思わなかった。ハメットをはじめ、フィッツジェラルドやヘミングウェイなど実在の文豪がマーロウの世界に溶け込み、ロクティがこのトリビュート作品に心の底から楽しんで取り組んでいたのが目に浮かぶようだ。

いやいや、みんなフィリップ・マーロウが好きなのだね。そしてチャンドラーの文体が。待っていましたと云わんばかりに精魂注いでそれぞれがマーロウ・ストーリーを存分に描いている。そしてその誰もがマーロウを卑しい街を行く騎士としてきちんと描いているのが嬉しいじゃないか!
そしてそれぞれの作者がチャンドラーのように物語を書きたかったという思いを隠すでもなく前面に押し出しているかのような書きっぷりだ。

例えばロクティとパレツキーの両者の作品に、虫や魚といった小動物を扱った描写が出てくるが、これもそうそう、チャンドラーはこういう描写を入れてマーロウの心中を語るのが上手かったのだと思い出した。ロクティの、事務所に迷い込んだ蝶といい、パレツキーの牧場の池の鯉といい、チャンドラー作品の特徴を上手く捉えている。
あと不思議なのは、破綻せず、きちりと割り切れる割り算のようにかっちりとした作品、またちょっと複雑なプロットの作品ほど、マーロウ物としては似つかわしいと思わされた。チャンドラーの短編で感じたように、マーロウの行動原理が十分には理解できずに終わる、何かモヤモヤした物を抱えたまま終わる物ほど、マーロウの物語として相応しいような気がした。

あと敢えてマーロウの舞台、卑しき街ロサンジェルスからマーロウを飛び出させた作品も印象に残った。タイボ二世の「国境の南」がメキシコ、ランデージの「ロッカー246」がニューヨーク、グレイディの「悪魔の遊び場」はロサンジェルスから遠く離れたサプリーという恐らく架空の街をそれぞれ舞台にしている。
特にタイボ二世は詩的ながらも南米メキシコの焦げるような暑さと、人々の汗ばんだ匂い、そして砂埃が行間から立ち昇るかの如きその文章で、どこかチャンドラーのそれとは違うと思わせながらも、チャンドラーに通ずるペシミズムが溢れている。この作品に出てくるアレックスがテリー・レノックスとだぶるのは、錯覚ではないだろう。

チャンドラー自身の作品も入れ、全16作収録の本書。そこに書かれたフィリップ・マーロウは時に「フィリップ」であり、「マーロウ」である。そのどれもがフィリップ・マーロウなのだが、フィリップとしか呼べないフィリップ・マーロウと、マーロウとしか呼べないフィリップ・マーロウがいるのに気付かされる。
その理由ははっきりとしないのだが、作中、走ったり、格闘を演じたりする若さや躍動感が漲っているのがフィリップ、車であちこち駆け回り、そこで出逢う人に馬鹿にされながら、そして自らを蔑みながらも最後の一線は守るストイックな騎士を行間から感じさせるのがマーロウといったところか。若きフィリップ、老成したマーロウという区別が自分の中で出来ているのかもしれない。

そして私もまたフィリップ・マーロウが読みたいのだと気付かされた。思えば社会人になりたての20代前半、それが私のチャンドラー作品との出逢いだった。あの頃、読んだときの感想は、今でも『長いお別れ』が私の生涯海外ミステリランキングの1位であることからも、かけがえの無い体験だったと思う。しかし、あの頃解らなかった“味”があるのも確か。あれから十数年経った今、マーロウの物語を再読してみると、きっとまた違った“味”を知るだろう。日本に帰ったら再び手に取ってみるのもいいかもしれない。


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フィリップ・マーロウの事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.327:
(7pt)

主人公を食う悪党たち

長い間、東京創元社が翻訳権を取得しながらも発行しなかったのだが、21世紀も7年を過ぎてようやく日の目を見ることとなった。とにかく喜ばしいことだ。
とはいえ、1977年発行の本書。レナード作品としては起承転結という小説の定型が守られているのが逆に目新しいと感じた。レナード作品といえば、登場人物たちの“生きた”会話、先の読めないストーリー展開というのが専らの特徴で、本作もその片鱗は覗かせるものの、まだその特徴は顕著に現れていないと思った。

私の抱くレナード作品の最大の特徴というのは、いきなり物語の真っ只中に放り込まれ、主人公やその他脇役と共に街中を歩き回るかのような物語世界に没入させられることだ。一癖も二癖もある連中の中を一緒に歩くような臨場感を伴って逍遥する、それがレナード・タッチと呼ばれる彼独特の小説作法だと思っている。
しかし、30年前に書かれた本書は、まず主人公となるライアンが令状送達人になった成り行きから、ライアンを取り巻く人間達を描き、そしてライアンが人生の転機となる出来事に遭遇するという至極真っ当な物語展開を繰り広げる。
唯一、ライアンがひょんなことで捜索中の人物、デニーズをいきなり再会するシーンが、これこそレナードだ!と思わせられた。

そしてレナード作品の特徴の一つであるどこか憎めない悪党たち。これについては正にこの時点で完成されていると思う。黒人の殺し屋ヴァージルをはじめ、レイモンド・ギダーなる食いしん坊の殺し屋。ムショに入って物事に対する性急さを抑えることを覚えた前者と、ムショに放り込まれながらも物云う前に手が出る正確が変わらなかった後者2人の対比がなかなか面白い。 
しかし、今回主人公を務めたライアン。この登場人物に関して、レナードは決してヒーロー然と描いていない。むしろ、令状送達人という仕事に満足した男が、ある大金を掴むチャンスを得て、自分の能力以上の行動をしようとして、その都度、決断に逡巡する優柔不断な男として描いている。本作ではライアンが特に魅力的ではなく、その周囲の人間が魅力的であることに特徴があると思った。

ライアンの友人で警察官であるディック・スピードはライアンに令状送達人の仕事を紹介した人物。ライアンの捜索人の前妻デニーズは、飲んだくれのあばずれから逆にライアンにとってかけがえの無い存在になるほどの魅力的な女性に転身する。
先に述べたヴァージルとレイモンド。そしてライアンに捜索を依頼するペレス。
これらの登場人物は自分の生き方に信念・信条を持っており、ゆるがない自信を持っている。

翻ってライアンを見ると、ペレスに頼まれた仕事を完遂せずに、捜索人に繋がる重要な情報を敵にウッカリ漏らし、終いには捜索人の妻に惚れ、ペレスを出し抜こうとするがことごとく目論見が先方に見抜かれ、出し抜かれるといった役回りだ。
本作ではむしろ敵役のペレスの方が一枚も二枚も役者が上である。最後、1セントの利益も得られずにライアンから屈辱を与えられながら、ライアンに仕事の依頼をする図太さ。あれこそ本当の男だろう。
自分が何をすべきか解っている男なのだ。

そういった意味で今回の主人公ライアンは私にとっては非常に物足りない。レナードは本作で描きたかったのはしがない男が1枚も2枚も上の人物と渡り合う駆け引きを描きたかったのか?その手法を以って、主人公ライアンを魅力的に描きたかったのか?
恐らく最初の意図はそうであっただろうが、読了後の今、私には敵役のペレスが妙に引立つのを止められないのだった。

他に、作中、白人の女性の旦那が黒人であった事に驚くシーンがあるが、これこそ時代を感じさせ、不自然に思った。こういう叙述を読むと、やはりこの本の発行が遅きに失した感は否めない。
あと蛇足だが、本作においてレナードの恋愛に対する描写がところどころこちらの意中を射ており、非常に印象に残った。曰く・・・

『“隣りの女の子”に隣りの家とはまた別の暮らしをさせると、もはや“隣りの女の子”ではなくなる』
『彼女を抱きしめたいと思う。しかし、実際にそうすると、どれだけ触れても触れたりず、どんなに強く抱いても抱き足りないのだ』

う~ん、正鵠を射てますな。上は恋の妄想が解けた瞬間、下は恋に恋焦がれ、求め合う気持ちが強い上のもどかしさ。いやあ、レナードの作品を読んで、こんな一文に出逢おうとは思わなかった。この作品を書いたとき、レナード御歳52歳。いやあ、若々しいね、感性が!

そして本書のボーナス・トラックは直江明氏の解説だろう。最近『ミステリマガジン』誌上の連載でレナードの小説世界について微に入り、細を穿った解説を展開しているが、本作の解説でも同様で、レナードの小説世界を更に面白く読める内容になっている。レナード作品を連綿と読み続けた私でも新たに気付かされることがほとんどで、興味は尽きない。
各出版社にお頼み申す。全レナード翻訳作品の解説を直江氏にしてもらえないだろうか?そうすることでもっとレナード作品のファンが増えると思うのだが、適わないかなぁ、やっぱり。

身元不明者89号 (創元推理文庫)
エルモア・レナード身元不明者89号 についてのレビュー
No.326:
(7pt)

じっくり味わうには短すぎる

20代後半の若き登山家、加藤武郎とそのパートナー久住浩志2人の登攀を綴った連作短編集。

表題作の「白き嶺の男」は独学で単独登攀を行っていた加藤武郎がある登山会に所属した際に行われたテスト登攀での出来事を綴った話。
続く「沢の音」は加藤とコンビを組む久住と加藤の邂逅の物語。
そして「ラッセル」は「沢の音」で知り合った加藤と久住が北穂高岳の滝谷の岩盤登攀を2人で行う様子を描いた物。
「アタック」は「ラッセル」で述べられたヒマラヤ登攀についての話。
「頂稜(スカイライン)」は再び久住と加藤のヒマラヤ登攀の物語。
最後の1編は「七ツ針」という加藤・久住物ではない山岳ホラー短編。

本短編集では加藤武郎と久住浩志という2人の男たちの関係について訥々と語られていく。当初、所属していた登山会を加藤が辞め、久住の会に入ったことなどが、徐々に語られ、やがてその内容は2人のヒマラヤ登攀にまで至る。
本作の中で面白かったのはやはり雪山登山について語られた作品の中、唯一渓谷のルートを調べる渓谷登攀を語った「沢の音」だ。我々が地図の上で知る山の渓流の道筋などはこういった渓谷登攀を趣味とする、または生業とする人たちによって徐々に詳らかにされていくのかと知的好奇心を刺激させられた。

この短編集には登山の困難さが経験した者でしか解らない迫真のスリルとリアリティで語られるところにある。それぞれの1編は40~50ページぐらいの長さながら、そこに書かれる登山の息苦しさは正に登山が死と隣り合わせのスポーツである事を濃厚に物語る。
しかも、語られるのはそれだけではない。山が、自然が気候の影響により、どのように変わりゆくのかを理路整然と叙述していることも見逃してはならないだろう。

本編の主人公である加藤武郎と久住浩志はそれぞれ次のように性格づけされている。小さい頃から樵であった祖父の手伝いをするうちに独学で山を登る事を学んだ加藤は自然の声を聞く男であり、また怖さを知る男。そして高所では無類の粘り強さを発揮する男である。片や久住は、渓谷登攀を趣味にしつつ、1人で未開の地を発見する事に喜びを見出す排他的な男だが、同じ匂いのする加藤には絶大の信頼を置いている。クライミング技術は加藤も凌ぐ男である。
この2人が色んな登山を重ねるのだが、正直ページ数が限られた短編であるからか、ちょっと消化不良の感が否めなかった。物語を掘り下げていきながら、ページ数の都合により、はいここまで!といった感じが各編に漂っているのだ。最後に添えられた別物の「七ツ針」ぐらいだろう、きちんと終えているのは。だから、この2人の登山家の魅力を存分に味わうというほどではない。

『遥かなり神々の座』では主人公のクライマー滝沢育夫の登山生活のみならず、私生活まで踏み込んで語ったので厚みが出たが、本作では絵に描いた人物を語っているだけに留まった感じがする。題材として非常に面白かっただけに勿体無い気がした。
願わくばこの2人を主人公にした長編を読みたいものだ。手元にその作品があることを切に願う。

白き嶺の男 (集英社文庫)
谷甲州白き嶺の男 についてのレビュー
No.325:
(7pt)

人間臭いスパイの日常

イギリスの諜報機関MI-6のモスクワ駐在員ジョン・イングラムの後任として新人のジェレミー・ブリンクマンが選ばれた。イギリスの外務事務次官の息子である彼は、父親の権力に頼ることなく、MI-6内で優秀な成績を収めており、今回の人事は大抜擢だった。
イングラムの送別会の席で彼はアメリカのCIAの駐在員エディ・フランクリンを紹介される。彼こそはこのソ連駐在の各国の駐在員の中でもとびきりにソ連の政情に精通しており、業界でもその名は知れ渡っていた。聡明なブリンクマンはフランクリンと親密になり、ソ連国内の小麦不足を契機にした米ソ間の政治的緊張の勃発について予見し、MI-6内での評価をどんどん上げていった。
一方、ソヴィエト国連大使を経て帰国したピョートル・オルロフはアメリカ滞在中に知り合った通訳の女性ハリエットとの再会に心焦がしていた。しかし、国連大使での手腕が高く評価され、オルロフはソ連国内で将来の指導者と期待されていた。周囲の評価と自らの恋情に板挟みに苦しむ中、オルロフはアメリカへの亡命を計画する。
また、フランクリンにはワシントンに前妻ルースと息子2人を残しており、現在モスクワで一緒に住んでいるアンは後妻だった。アンはモスクワでの暮らしに退屈しており、フランクリンの異動を今か今かと待ち望んでいた。そんな中、フランクリンの許にルースから知らせが入る。長男のポールが麻薬を求めて強盗を起こし、警察に捕まったというのだった。フランクリンは急遽アメリカへ飛ぶ事に。
そしてその急なアメリカへの出国に対し、ブリンクマンは何かアメリカで事件が起こっていると推測したブリンクマンはその情報を探ろうとアンに近づく。

上に書いた粗筋は実はこの作品のテーマに触れてなく、本作のテーマはCIAとMI-6の諜報員同士のソ連の大物政治家の亡命を巡っての、丁々発止のやり取りである。この展開で物語が動き出すのは全400ページ強の本作に於いて、270ページを過ぎた辺りである。
それまではスパイたちのプライベートライフを綴った物語というべきだろうか。本作で繰り広げられるのは従来のスパイ物に見られる、情報工作、情報収集に危険と隣り合わせで挑むスパイの緊迫感溢れた仕事ぶりよりも、モスクワに送られた各国スパイ達の交流とその夫婦生活と奥さん連中の内緒話、三角関係、遠距離恋愛といった、非常に通俗的な内容になっていた。

そしてスパイも家庭問題を抱えるのだ。息子が非行に走り、急遽勤務先から舞い戻ったりと大変なのだ。
やがて独身者で新進気鋭のブリンクマンがフランクリンの不在中にその妻アンに対して横恋慕を始めるうちに―当初はフランクリンの動きを摑む為に接近したのだが―、私情を絡めた2人の攻防戦が繰り広げられるといった次第だ。ここからがエスピオナージュ作家フリーマントルの手腕が光る諜報合戦と云えるだろう。

さて本作は今までのフリーマントル作品同様、最後に思わぬどんでん返しが待ち受けている。それは最終的にフランクリンが凄腕のCIA諜報員だったことを如実に示す事になるのだが、いささか唐突過ぎるのではないか。
最後の最後まで気の抜けないのがフリーマントル作品の長所であるのだが、どんでん返しを受け入れる布石はやはりところどころに示唆してほしいものだ。

こういうどんでん返しならば、私でも書ける。
今回はどんでん返しというよりも辻褄併せのような感じがした。実にフリーマントルらしくない歯切れの悪い結末だ。



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クレムリン・キス (新潮文庫)
No.324:
(7pt)

最も神の高みに近づく場所は神秘に満ちている

登山家でもある作者が、登山の時にどうしても感じてしまう神々の存在について著したかったと思われるのが本書。人の生死を左右する極限状態の中、昨日まで、いやつい10分前まで冗談を云い合っていた仲間がクレパスに落ち、ザイルが切れて落下し、物云わぬ屍と化す。かと思えば、絶対助からないだろうと思われる強烈な雪崩の中に巻き込まれながらも、九死に一生を得て生還するようなこの世界、明らかに神の配剤なるものを感じずにいられないのだろう。
ミグマというラマの修行僧を通してまずは曼荼羅に記されたこの世の真理を説き、生死の境で相見える山に住まう神々の存在を知った者たちを通して登山と神との関わりを幻想文学の形で描く。

読中、頭をしきりに過ぎったのは坂東眞砂子氏の『山妣』だ。『山妣』で語られる山神の厳しさは山に敬意を払わない者には鉄槌を下すが、山と共存する者には糧を供給し、異形の者でさえ受け入れる懐の深さが感じられたものだが、谷氏が本作で描く山ヤシュティ・ヒマールは、異世界への通廊を守るために何人(なんぴと)たりとも受け入れない冷徹さがあり、登頂を目指すミグマをあらゆる手法で追い詰める。
もちろん『山妣』とこの作品では日本の山とヒマラヤの山という高さ、急峻さ、自然状況の過酷さの違いはあるだろうが、同じ雪山を舞台にして、これほどまでに違いがあるのかという思いがあった。

しかし、その違いも確かに解る。前者はその雪山を生活の場にしている者達の物語であるのに対し、後者は雪山を登山の対象にしている、つまりそこに住まう期間が非常に短いのだという所にある。
登頂という目的―本作では単純に登頂のみを目的とはしていないが―を達成するために山の気候、形状はその目的を阻害する敵以外何物でもなく、打ち克つべき存在であるのに対し、生活の空間としている者にとってはその過酷さまでも運命として受け入れ、共存していかなければならない存在であるからだ。
しかし、やはり両者に共通するのは、山には神がいるという感覚だ。前にも書いたが、それぞれ人間の死を左右するのに神の悪戯としか思えない不思議な偶然を感じ、またそれを否定しない。根底に流れるのは同じなのである。

本作は同じヒマラヤの登山を舞台にした『遥かなり神々の座』とはガラリと違い、チベットの修行僧を主人公にしたヒマラヤの登山を通して世界の真理を知るという物語であり、主人公ミグマは幽体離脱と、前世回帰を繰り返し、魂の旅路を繰り返す。彼の前世であるナムギャルが果たせなかった世界の中心を司るメール山(須弥山)の登頂を目指し、そこにあるという世界の真理を知る扉を目指すのだ。
その目的を果たすため、ミグマは曼荼羅の謎を解き、更には転生を繰り返す自らの魂の原初となる詩人ミクラパまで魂を遡る。もはや物語において時間や空間といった概念は無意味である。更にミグマは登山家としての経験を物質世界でも積む。

何ともまあ、壮大な物語だ。
物語は更に思弁哲学の様相が濃くなりやがて相対性理論に行き着く。それも西洋数学の知識に基づくのではなく、仏教的世界観を以って、そこにアプローチしていくのが面白い。

そしてミグマが垣間見る異世界への通廊には、世界を統べる法則が全く異なった世界だ。それは私達の世界で理論として確立している万有引力の法則や量子力学なる物がそれぞれの宇宙では全く異なった理論で形成されていると述べているのだ。
これは作者の意見なのか、どこかの学者が述べた理論なのか、寡聞にして知らないが、この箇所を読むに当たり、我々の論理では宇宙の謎は解けないのではないかという思いを強くした。この考えに同調する自分がある。我々人間の描く尺度を全く越えたところに宇宙は存在し、かつ機能している。

作中、山の神としてミグマが乗越えるべき存在として立ちはだかる大いなる存在ヤクティは、それ相応の知識・経験を備えていない者に対して非常に排他的に振舞う。
これはこの非常に思弁性に富んだこの作品を書いた作者の、解る人だけに解ってもらえればいいという態度そのものなのかもしれない。

天を越える旅人 (ハヤカワ文庫JA)
谷甲州天を越える旅人 についてのレビュー
No.323:
(7pt)
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山男には惚れるなよ

「山男には惚れるなよ」という唄があるが、それを地で行く主人公滝沢育夫。定職に就かず、故郷の帰省に費やす交通費を惜しんでまで登山にのめり込む男。挙句の果てに6年待たせた恋人、君子にも愛想を尽かされ、その夜寝る場所にも困るような男だ。
もはや身体も心も快適な日本よりも過酷なネパールやインド、チベットに馴染むようになっている。登山家(クライマー)として一流の登山技術と抜群の高所順応能力を持ちながら、7回の遠征において一度も登頂者(サミッター)になれず、遠征のたびに仲間が死んでいく事から山仲間の間では「死神」という仇名を付けられる。
この人物造形は本書の扉裏に付けられた著者近影にそのままイメージが重なった。著者の谷氏自身、クライマーであるのだが、滝沢=著者という短絡的な想像はやめておいた方がいいだろう。恐らく著者の数ある登山仲間をそれぞれ寄せ集めて作られた人物に違いない。

この滝沢という男が物語で一介のクライマーから殺しを厭わない兵士へと変貌を遂げていく。元々クライマーとしての能力が高く、辺境で生き延びる術を知っている彼。
そして今までの登山で他人の死に直面してきた経験から、瞬き一つせずに殺しを行えるという設定は納得がいく。無論、それがそのまま殺しの才能に結びつくわけでないのは作者も承知の上で、その辺の説明にはぬかりは無い。

そして、この滝沢を巡る2人の女性、君子と摩耶。この2人を物語に導入したことに作者の技量を感じる。
外国への登山遠征を重ねる滝沢に愛想を尽かしながらも、ほっといては置けない母性本能を感じる君子と、ネパールでも現地に溶け込んで暮らしていける女の強さを備えた摩耶。男からの独立を望みながらも依存してしまう女と、男に自分に似た匂いを感じ、パートナーとして対等に扱う女。冒頭に現れるこの2人の女性が物語の終盤に意外な形で滝沢と再会するのだが、それぞれの結末の付け方も憎らしい。

そして忘れてならないのはニマという男。当初滝沢のチームにコックとして同行していた初老の男はしかし、サバイバル経験豊富なゲリラの一員であり、滝沢に兵士としての訓練と生き延びる術を教授するこの男。
物語の終盤で意外な正体が明かされるのだが、これはむしろ蛇足だと思った。ニマがある事実を知ったところで何も起きないことは解っていたからだ。

上に述べた女性の扱い方、そしてこのニマの扱い方から察するに、この作者は人間の間で起こる愛だの情だのといった感情が織成す化学反応に対して、非常にストイックなのだと思う。そこにハッピーエンドだの、哀しい結末だのを持ち込むわけでなく、二人が出会い、そしてまたすれ違うといった具合に敢えて結論を避けているかのようだ。
それはやはり登山の中で人の生死を左右する局面にこの作者自体が何度も直面しているからだと思う。昨日までふざけあって笑いあっていた仲間が、翌日はクレパスに墜ちて還らぬ人となったり、凍死して動かぬ肉塊となっていたりといった諸行無常観があるのではないか。だからこの作者自身、決して他人に対してのめり込むことが無く、人間関係に対して結論を求めぬ距離感を保っているのだろうと思う。
しかし、1人だけしびれるくらいカッコイイ男が居た。それは名も無い君子の結婚相手である。彼の置手紙にはグッと来ました。ベスト・サブキャラクター賞をあげたい。
唯一この作品で結論を求めているのは、登頂者(サミッター)になれるのか否かという事ではないだろうか。人との触れ合いにではなく、登山その物に結論を求めているのはやはりこの作者が登山家でもあるからだろう。

今回不幸だったのは、私がこれを海外生活を送っている今、読んでしまった事。
作中に描かれる日本では考えられない異国での珍騒動-笑顔とたどたどしい日本語で近寄る現地人、空港を降りた途端に群がるタクシーの運転手たち、相場以上の運賃を求めるタクシー、etc-は、全く驚きがない。むしろここでは当たり前の事でしかなく、そこに面白みを感じる事が無かった。ネパールの街中の描写、登山仲間達の現地での過ごし方など、興味を感じる部分もあったが、ふと自分の暮らしている境遇を見て、あまり変わらないなぁと苦笑した次第だ。

さて物語は二転三転事実が裏返る。
ちょっとくどいぐらいだ。冒険小説だから、もっとどんでん返しは少なくていいし、最後にでっかい物を1つ、用意してくれれば満足だったのだが。


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遥かなり神々の座
谷甲州遥かなり神々の座 についてのレビュー
No.322:
(7pt)

昔のイギリス裁判は無茶苦茶

英国の犯罪史上のミステリといえば、やはり切り裂きジャックが一番に思い浮かび、本作で取り上げられているエドマンド・ゴドフリー卿殺害事件については日本の読者には馴染みの薄いものであろう。私自身、この本に当たるまで全く知らなかった。
しかし英国ではこの一介の治安判事の殺人事件が当時の国王チャールズ二世と反対勢力であるグリーンリボン・クラブの主導者シャフツベリー卿との大規模な政治闘争の幕開けであり、またプロテスタント主体の英国の中でカトリックを振興する国王チャールズ二世とその弟ヨーク公の失墜を目論んだ宗教弾劾の側面を持つスキャンダラスな背景も手伝って、いくつもの研究本が出ているミステリであるとのことで正直驚いた。

まず本作の登場人物表に記載された人物について触れておこう。なんと全部で75人である!今まで『銀英伝』が最高だったがそれをはるかに上回った。しかしそれにも関わらず、登場人物の混乱は起きなかった。それぞれに個性があり、またカーの書き分けが素晴らしかったのだろう。
カーが本作で取った手法は、まず事件が起こるまでのチャールズ二世とシャフツベリー卿の確執、そしてカトリック教徒のジェズイット派による国王暗殺計画が進行しているという密告があったことなどから始まり、ゴドフリー卿殺害事件の発生、それを引鉄としたカトリック教徒たちへの迫害、そしてチャールズ二世政権の終焉までの、一連の事実を詳細に述べ、その後で、それら事実を検証し、カーが至った真相を自らの推理と共に披露するといったものである。つまり、通常こういった作品で取られる事件そのものの検証に直接当たるのではなく、当時英国で起こった事を膨大な資料の山から取捨選択し、1つの物語として仕上げているので、最初はなかなか核心に触れず、様々な登場人物が織成す政治的策謀を延々と読まされ、しかもその登場人物が非常に多い事から読書が非常に難航した。

しかし、これが後々にこの事件を語る上で非常に重要な部分であることが判明してくる。前にも述べたがこの事件が国王政治とその反対勢力との政治闘争とそれに加え、当時のプロテスタントとカトリックとの一大宗教闘争までに発展するのだから、事件そのものの謎よりも、この事件を誰の仕業にするのかで当時の政治バランスが変わってしまうといった代物だったのだ。

17世紀のイギリスでの容疑者への尋問、刑事裁判の内容についてカーは微細に書いているのだが、これが現代では考えられないほど恣意的であるのに非常に驚いた。
まずチャールズ二世を何とか引きずり落とそうと企むシャフツベリー卿が犯罪調査委員会の委員長に任命され、色々な容疑者を尋問するのだが、これが非常に非人道的なのだ。
なんせこの男、今回の事件を利用して国王一族の凋落を企んでいるのだから、容疑者に自分の役に立つ証言をさせるために平気で脅迫を行う。それに従わなかったらニューゲイト監獄へぶち込むという極悪非道振りである。とにかく事件に関わったもの全て、そして当時事件はカトリック教徒の手によるものだと噂されていたものだから、カトリック教徒であるだけで取り調べられ、監獄に入れられるといった傍若無人ぶりなのである。
そして当時の事件で冤罪者を数多く出す事になったきっかけを作ったタイタス・オーツなる人物。
彼は証言に際して、自分で創作した真相を語り、矛盾点が発覚すると、あの時は事件を思い出すのに連日徹夜で調査していた疲れが溜まっており、正確な判断が下せなかった、云った覚えが無い、などなど愚にもつかない言い訳を行ういい加減なぶり。しかもそれらが当時のカトリック教徒撲滅(=国王失墜)のムードに同調しているがために、裁判官もその曖昧な証言を採用し、被告人に刑を課すのだ!
つまり裁判も公平なものでは勿論なく、証人、被告人が事実を告白しても、その者がプロテスタントではなくカトリックならば、嘘をついている、証言は出まかせだといって取り上げないのだ。
いやはや、ものすごい時代である。そしてまた、それに甘んじて無実の罪を着せられ、死刑に甘んじる英国庶民もまたすごい。当時の階級社会ではお上に逆らう事自体出来なかったという時世なのだろうが、やってもいない罪で死刑を命じられ、刑に服すとは、なんともまあ、滅私奉公の極みともいうべきか。

本作は正確には未解決事件の真相を探るノンフィクション物だとして読むよりも、17世紀のチャールズ二世政権時代を語った歴史書として読む方が正しいだろう。この事件の真相は?というよりもこの事件が当時イギリスに何を起こしたのか?国王は、その政敵は、プロテスタント達は、カトリック達は、そして影で暗躍するフランスは何を行ったのか?を知るには格好の書物である。
カーの、未解決事件の推理力は元より歴史物作家としての技量の高さを知る上でも貴重な作品だろう。


エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件 (創元推理文庫)
No.321:
(8pt)

チャーリー・マフィン版『ロミオとジュリエット』

英国情報部のロシア課に勤めていた経歴を買われ、ソ連側に寝返って英国へ情報を流している人物を探るよう要請されたサンプソン、片や英国情報部部長よりサンプソンと共に脱獄し、ソ連に潜入して、英国に情報を流しているソ連高官と接触し、亡命の案内役を務めるよう要請されたチャーリー。
この相反する任務を反目し合う2人のうち、どちらが先に目標に行き着くかという面白さ。それに加え、2人の共通の人物としてベレンコフが絡んでくるあたり、演出効果は抜群である。
特にベレンコフとチャーリーの再会シーンはシリーズ第1作目から読み続けた者にとってみれば、チャーリーらが作中で味わうワイン同様に芳醇な読書の愉悦に浸れる名シーンである。それぞれ敵国随一のスパイながら、お互いを認め合う存在が酌み交わす美酒にそのまま酔いしれる思いがした。

]そしてチャーリーに絡むのはチャーリーの尋問役として配されたKGBの局員ナターリヤ・フェドーワである。この2人の関係は正に恋愛小説の常道で、イギリス古典悲恋劇であるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真に踏襲する敵同士の恋愛劇なのだ。
ロシアに潜入したチャーリーをロシアに食い止める楔がナターリヤであり、英国情報部の復帰のために自国へ帰るか、はたまたソ連で得たスパイ学校の講師という役を生活の糧にしてソ連へ留まり、ナターリヤと暮らすか苦悶するチャーリー。

今回の作品の目玉はもう1つある。前にも触れたが、チャーリーがベレンコフの要請により、ソ連のスパイ学校の講師に抜擢され、講義を行うシーンである。
冒頭、刑務所のシーンから始まる本作でのチャーリーはかつて敏腕のスパイであった面影はどこへやら、刑務所連中に溶け込めずにいじける男に過ぎなく、後で入ってきたサンプソンの若さから年取って衰えた自分の肉体に自覚をやむなくされる不甲斐ない男として描かれてき、またソ連に逃亡してからも、英国のスパイ探索に重用されるサンプソンとは対照的に尋問を繰り返される毎日で、異臭のするアパートで陰鬱な毎日を過ごすだけの男だったのが、この講義では実に色めき立つのだ。
いやあ、チャーリー・マフィンという男の敏腕ぶりをフリーマントルはページ狭しとばかりに多種多様に描く。今となってみれば意外性を持たせるある種の常套手段を単に述べただけとも取れるかもしれないが、非常に楽しく読めた。またこのスパイ学校の講義がその後のストーリー展開に重要なファクターとして関わってくるのには、正直、舌を巻いた。

そして上司や権威主義者に対し、常に反抗的な態度を取るチャーリーはその故か、敵国の人物に好かれることになり、またチャーリー自身も自国の人間よりも他国の人物を好きになってしまう傾向がある。それはスパイという職業では通常得られない利害関係を超えた友情や愛情という純粋な部分で触れることになるだろう。
しかし、それが今回では仇になってしまう。これが今後のシリーズ展開にどのような影を落とすのか、非常に気になるところである。

この前の作品『追いつめられた男』でチャーリーはどうやらイタリアで捕まってしまうらしく、この物語はその事件の裁判から幕を開ける。しかし残念な事にその作品は既に絶版で、こっちにも無く、もはや読めることは適わない。
しかしそれでもこの物語が単独で愉しめるという事実に、今後のチャーリー・マフィンシリーズを断続的であっても愉しめる望みが出来たのは嬉しい。ただ、次回はいきなり10年以上もシリーズを飛び越してしまうので、果たして本当に愉しめるかどうか・・・。


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亡命者はモスクワをめざす (新潮文庫)
No.320:
(7pt)

知られざるベストの司作品

今まで読んだ司作品の中で、ベストの1冊。なぜ今までこのような書き方をしなかったのかと首を傾げたくなるぐらいの出来。
今回採用しているのは三人称叙述で、一尺屋シリーズの一人称叙述と違い、文体が格段に進歩していた。同じ三人称叙述の『首切り人魚~』と比べてもその違いは雲泥の差。
今まではストーリーを語るというよりもプロットを語る、つまりパズルを解いているプロセスを説明しているかのような味気ない文章だったが、この作品では、いわゆる「じらし」の手法に磨きがかかり、その抑制した文章には張り詰めた緊張感が一様にあった。

そして物語を彩る登場人物たちも、今までの諸作品には見られなかった個性があった。主人公を務めるしがないルポライターの高野舜と元恋人で「羽室新報」の社員、稲葉菜月の二人と、ほとんどサブキャラクターでしかないが、印象深い上司の松岡を始めとして、一部記憶が無くなるという症状を持つ能面師三村、梨花の担任のサラリーマン教師米沢、幻覚を見るという同級生の間宮弓子、家庭内確執を隠す仮面家族、原嶋一家とその家に勤める家政婦や用務員ともども。今までの作品では単に推理ゲームの駒の1つのようにしか語られなかった登場人物がそれぞれの過去にエピソードを孕ませることで深みを増したように思う。
そして1人の少女の死が、戦後の毒ガス実験に繋がっていくという物語の展開も事件の背後に隠された驚愕の事実という事ではなかなか秀逸だ。

いやあ、とにかくガラッと変わったというのが第一印象だ。
おまけに今回作者目指したホラーと推理の融合という目標は達成していると思う。実際、色が黒ずみ、痙攣を起こし、人相が変形する奇病は恐ろしかったし、羽室町という町が大きなお化け屋敷のように変わっていくのも読みながら手に汗握った。

しかし、しかしである。後半は急ぎ過ぎた。じわじわと雰囲気を盛り上げていった割には最後の真相が駆け足になってしまったようで、なんとも呆気ない。最後もぶつっと切れてしまったような終わり方で、エピローグが欲しかった。
今までの司作品では島田作品ばりのエピローグが特徴的で、時にはお涙頂戴的なそのエピローグが蛇足に感じていたのに、今回は逆にそれがないがために消化不良の感がある。

前にも書いたように今回の文章は別人が書いたかのような出来映えである。が、しかしこれはようやく作品として読むに耐える文章を得たという事に過ぎなく、今からが実質的なスタートラインだろう。次回もレベルを維持している事を期待する。


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屍蝶の沼 (光文社文庫)
司凍季屍蝶の沼 についてのレビュー
No.319:
(7pt)

物語が終っても生活は続く

高知の山村、郊外の村を舞台にした短編集で、5編が収められている。

まず表題作の「神祭」と「火鳥」と「隠れ山」の3編は嬉才野村を舞台にした作品。前者は老女由喜の回想譚。畑の物、海の物、山の物を氏神様に捧げて五穀豊穣を願う神祭。とはいえ、親戚一同が会して宴を行うだけの特にこれといって変わり映えのない祭りだったが40年前の神祭で由喜は今も忘れらない事件がある。それは当時男子に恵まれなかった由喜夫婦のために、精がつくと云われる鶏の生血を夫に飲ませようということになり、親戚一同、盛り上がっていた。夫が暴れる鶏を抱え込み、従兄の敬一が首を刎ねたのだが、首の無い鶏はそのまま裏山に飛び込んで消えてしまい、親戚一同で探索するが、見つからないづくだった。その後、由喜は子宝に恵まれたのだったが・・・。
「火鳥」は村にある二畳ほどの広さしかない蔵番小屋に住む未亡人みきの話。その小屋の隣に家を建てて住んでいたみき夫婦はその肉を食べると祟ると云われていた全身真っ赤な鳥ミズヨロロを食べたために火事で家と家族を失ったと専らの噂だった。しかし村の少年竹雄はいつも満ち足りた表情をしているみきを見て、みきが不幸であるとは信じかねるのだった。ある日、竹雄はみきが川で全裸で水浴びをしている所に遭遇する。それは竹雄の性の目覚めであった。それがきっかけでみきと時々交わる事になった竹雄だったが、ある夜、我慢できなくなり、みきに夜這いをかけようとするのだが。
「隠れ山」は北村定一という村役場の課長が突然失踪するという話。家庭菜園と亡き母の墓の世話を唯一の趣味にしている何の特徴の無いこの男らしく、いつものようにふらっと出掛けたまま、それっきり帰らなくなってしまったのだった。村の消防団で山中を捜索するが、どこそこで見たという噂があるだけで、その行方は杳として知れなかった。しかし、失踪1ヵ月後、頭から血を流して佇む定一の姿を見たという人物が現れる。しかし、それは北村定一という男がその後、繰り返す奇行の始まりでしか過ぎなかった。

4編目の「紙の町」は嬉才野村の近くにある白糸町を舞台にし、そこに住む知恵遅れの老女ヒサの一日の散策とそれに伴う生い立ちの回想譚。
最後の「祭りの記憶」は戦後10年目のよさこい祭りで起きた外国人殺害事件を扱った作品。外国人の殺害事件が起こった祭りのとき、田宮良則は現場の近くに居た。その時、不意にすれ違った恍惚な表情を浮かべた若者の顔に見覚えがあった。記憶を辿り、それがかつての教え子村上卓雄だと気付く。隠居前、蓮浜で学校の先生をしていた田宮は当時大人しく、これといって特徴の無かった卓雄が犯人ではないかと思い、蓮浜へ赴く。当時と変わりの無い街並みを歩きつつ、かつての教え子やその親たちと邂逅しながらも当の卓雄には逢えないのだった。数日後、はりまや橋の料亭で働く卓雄の母親を訪れたその足で再び蓮浜を訪れた田宮が見たものは・・・。

土俗ホラー作家として名高い坂東氏だが、本短編集ではホラー色がでているのは最後の「祭りの記憶」ぐらいで、その他は日本昔話や「世にも奇妙な物語」を髣髴させる御伽噺とか「奇妙な味」作品群である。
今までの短編集もそうだが、30~40ページ前後の短編とは云え、その濃厚な筆致は全く薄まっていない。逆に時にどぎつさを感じさせられる情念は成りを潜めている分、その文章は洗練された印象が強い。

5編とも外れはなく、どれも読み応え十分。表題作の首の無い鶏のアイデア、「火鳥」の南国を舞台にした少年の性の目覚めとギラギラした情欲の話、「紙の町」の知恵遅れの女ヒサが辿ってきた人生譚、「祭りの記憶」の引退した教師が遭遇する蓮浜という一見善良な町民が行ったある秘密、等々非常にコクがある。
そして個人的なベスト作品は「隠れ山」。何の特徴もない公務員の男があるとき、ふらっと失踪する。その発端自体は決して珍しい物ではないが、その後の展開に着想の冴えが光る。その定一が出くわした人々に当たるとも遠からずの町民の噂話をしては山へ帰っていくというのが面白い。それが町の混乱を引き起こすのだが、そこでカタストロフィが訪れるのではなく、それをありのままに受け入れる村社会の、懐の深さというか、暢気さが非常にいいのだ。

そして坂東作品に通底する人の起こす物事は性の衝動に起因するという考えはここでも常に述べられており、特に知恵遅れのヒサの口を通して語られる、「下半身にいる別の生き物」や「昼と夜とでは人は変わる」といった表現は痛烈である。
そしてこれらの話は全て何かが解決するわけでもなく、物事は起こった後も、そのまま秘密のままに残される。本格ミステリとは対極に位置するが、これもまたミステリ。謎は謎のままなのが世の常なのだ。

初期の『死国』、『狗神』、『蛇鏡』、『桃色浄土』、『山妣』、そして短編集の『屍の聲』などでは、それぞれの人が抱える人間の業が情念の渦となり、最後の最後にカタストロフィとして、それぞれに人生の終焉や無限に続く不幸を投げかけるといった作風だったが、先の『葛橋』や『道祖土家の猿嫁』以降、本作も含め、物事が起こるが、それで皆が不幸を迎えたり、生活が破綻するではなく、その後も人の営みは続くのだという風に変わっている。これはもちろん創作者としての成熟もあるのだろうが、当時タヒチに在住する著者が異国で体験する事も関係しているのかもしれない。

神祭 (角川文庫)
坂東眞砂子神祭 についてのレビュー
No.318:
(8pt)

チャーリー・マフィン縦横無尽!

チャーリー・マフィンシリーズ第4作目。いやあ、痛快、痛快。
『ディーケンの闘い』、『黄金をつくる男』など、ノン・シリーズにおけるフリーマントルもいいが、やはりこのシリーズでの筆致は一線を画すほどの躍動感がある。

チャーリー・マフィンの常に人を喰ったような策士ぶりは健在。いや、それどころか組織に属していない分、上司に縛られていないので、むしろ更に狡猾さが増した感がした。特にFBIのテリッリ捕縛作戦にロマノフ王朝切手コレクションがダシに使われることを摑んでからのFBIとのやり取りと、その作戦に一役噛んでいる上院議員コズグローブとのやり取りの面白い事、面白い事。
権力ある者に屈せず、むしろその権力を嵩に横暴を貪る者達を嘲笑するように振舞うチャーリーの姿には、上司-部下の上下関係に逆らえないサラリーマンの、こうでありたいという姿であり、溜飲が下がる気持ちがした。

そして今回、チャーリーの敵役のペンドルベリーも、いやはやなかなか面白い人物である。常によれよれのスーツを着、時には食べこぼしたケチャップの染みを付けて、上役の面前に登場したり、また必要以上に領収書を徴収して、必要経費を搾取する一見冴えないこの男は、FBI版チャーリー・マフィンであり、チャーリー自身も自分と同じ匂いを嗅ぎ取る。この男の水をも漏らさない計画に穴を開けるのが、このチャーリーというのがまた面白い。丁々発止の頭脳戦は似た者同士の騙し合い合戦そのものであり、これが今回の物語のメインディッシュとしてかなり美味しいものだった。

そして1,2作に登場し、大きな役割を果たしていたソ連のカレーニン将軍も大いにこの物語に寄与しているのも非常に楽しい。ソ連の旧王朝ロマノフ王朝の遺産であるから、ソ連が関与する事に違和感はなく、むしろこのKGBの上官が関係することで、クライマックスのテリッリ邸での銃撃戦へとなだれ込むのだから、フリーマントルのストーリーテリングの上手さには改めて感服した。
そして結局本作では活躍しなかった潜行工作員(スリーパー)のジョン・ウィリアムスン。ただのアメリカ人としか見えないこのKGB工作員のその後も大いに気になるところである。

ソ連のカレーニン、ベレンコフ、そしてかつての上司の息子であり友人であるルウパート・ウィロビーに加え、彼の妻クラリッサとこのウィリアムスン。どんどんシリーズの世界が広がっていく。今後のシリーズの行く末が非常に愉しみだ。


罠にかけられた男 (新潮文庫)
No.317: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

タイトルだけが残念だ

復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。

初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。
復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。

今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。
しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。

しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。


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11文字の殺人 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾11文字の殺人 についてのレビュー
No.316:
(7pt)

とことん不幸に描かれた猿嫁

この小説は猿に似た風貌から猿嫁と呼ばれた蕗の一生を明治中頃から現代に至るまで日本の歴史の移ろいを重ねて語ったもの。そこには自由民権運動から始まり、日露戦争、太平洋戦争、東京オリンピックなどが蕗の人生に織り込まれ、彼女の人生に色んな影響を与えていく。
また作者の緻密な筆致は健在で、吹きぼぼ小屋、若者の間で行われた和歌の会などの当時の風俗、火振村の伝統行事である七夕祭りに、その時に行われる女房担ぎなる駆け落ち、「女の家」という風習、道祖土家の先祖を讃える玄道踊りなどを交え、エピソードに事欠かない。

火振村の大地主の長男の嫁として迎えられた蕗は、予想に反して大地主の嫁として村に一目置かれる存在として扱われずに、家内では舅、姑、そして夫にこき使われ、半ば下女のように使われる。家族に隠れて飲む酒を唯一の愉しみにして、明日をまた生きるのだ。
そんな彼女にも転機は訪れる。
一度目は夫を亡くして実家に帰ってきた義姉の蔦の父知らずの子を引き取ると決めた時。そこに母親としての強さが芽生えるのだった。
二度目は後に火振合戦と呼ばれる警官と自由民権運動を支持する者達の戦いにおいて、夫と家族を助けるために、牛馬を放ち、警官達を一網打尽にする。
しかし、それらは蕗にとっては一時の転機に過ぎず、蔦の子、秋英は学生時分に家出して、音信不通となり、火振合戦で牛馬を放つきっかけとなった大楠からの啓示から家に植わる大楠を生き守様と拠り所にして、報われない日々を生きていくのだ。

そう、この主人公はいやに報われない。村の者達から猿嫁と馬鹿にされ、家では下女同然の扱いを受け、老境に入ってからも戦争で若い労力を取られることでなかなか隠居できずに家事に追われる始末。そして、子供4人のうち、1人は家出して行方知れず、1人は台風に河に落ちて死亡。さらに将来を期待された孫、辰巳に関しては太平洋戦争でビルマへ出兵し、そのまま還らぬ人に(最後にサプライズあるが)。
こういった境遇はもちろんながらも、最も酷いと感じたのは、蕗がセックスにおいて女性の悦びを知らずに死んでしまったことだ。92歳になって始めて孫夫婦の交わりを目の当たりにし、夫婦の営みとはかくも心地よい悦楽を得られるものかと愕然とするその事実。その股座に手を当てても渇ききってしまっており、もはや潤いは沸かない。その事実に蕗は涙を流すのだ。
この扱いは確かに残酷だと思う。ここに蕗の人生の答えが出ていると私は思った。

人生、楽しい事は僅かしかなく、大抵が辛い事だろう。価値観が多様化した今、全ての人がそうであるとは云わないにしても、ほとんどがそうだと思う。
しかし、そんな毎日の中に、確かに幸せを感じる瞬間はある。実際、自分の人生を振り返っても、幸せの時というのは頻繁にはないにせよ、決して少なくはない。そんな事を思い浮かべながら、老後に、人生楽しかったと感じるのではないだろうか?

しかし、この蕗の人生はどうだろう?
道祖土家の知り合いの紹介で断るに断りきれない気まずさから結婚した夫清重は、蕗との間に夫婦愛というものを介在せず、単純に身の回りの世話をし、時に欲情を覚えた時には一方的に交わるだけの女としてしか蕗を見ない。最初は猿に似た風貌を注視するのを避けて向き合っても視線を宙に浮かして喋るほどだ。
夫婦間との関係がそんな状態だから、蕗は常に居るべき所にいず、居てはいけない所に腰を据えている居心地の悪さを常に感じながら、とうとう生まれ故郷の狭之国に還ることなく、一生を終える。

一度、離縁を決意して里帰りを決行した時もあるが、結局は引止めに来た夫に負けてそのまま還ってしまった。もしあの時故郷へ帰っていたらという思いが最期の間際でも過ぎる蕗。これは人生のターニング・ポイントを見過ごした者の行く末を描いた小説なのだろうか。
いや、必ずしもそうではない。作者は道祖土家に残った蕗を中心に道祖土家の血縁者ら、蕗の子供ら、孫らのそれぞれの旅立ちを描くが、彼ら・彼女らが決して幸せになったという風には書いていないのだ。

作者のメッセージは終章に出てくるある人物からの手紙に書かれている、「常に自分の真の故郷は(中略)母と子供のいる場所だ」の一文になるのだろう。
とすると、作者は蕗の一生は幸せだったと云っているのか?幸せとはこういうものだと云っているのだろうか?
ここに来て私は、またもや首を傾げてしまうのだった。

道祖土家の猿嫁 (講談社文庫)
坂東眞砂子道祖土家の猿嫁 についてのレビュー
No.315:
(8pt)

24時間戦うビジネスマン

フリーマントルの手による経済小説である本書は、従来、彼の得意とするエスピオナージュの手法を存分に取り入れており、主人公である多国籍企業の会長を縦横無尽に世界中を駆け巡らせ、丁々発止の駆け引きをさせる。
主人公のジェイムズ・コリントンは孤児院の出で、生まれながらにして勘が鋭く、英国国鉄のポーター、陸軍を経て、南アフリカに金鉱山を複数持つ巨大企業の会長の座へと着いたという正に絵に描いたようなアメリカン・ドリーム男である。

金を主に扱う南ア社が、独自に金の取引を出来ないというのがまず面白い。各鉱山は金を産出するが、その販売権は国である南アフリカ政府によって一手に任せられている。したがって取引先の新規開拓というのははっきり云ってタブーである。しかし、サウジアラビアがドルによる取引で石油を売っており、その売り上げが不安定なドルレートによって非常に左右されることに目を付け、相場の安定している金でエネルギー不足に悩む南アフリカと取引させようというのが大きな粗筋である。
しかし、石油と金という巨額の富を生み出す資源の世界的な取引が単純に二国間だけの話で済まされるものではなく、また米ドル為替の安定を目指して国際的信用を高くしようと企むアメリカも南アフリカの動きを察知して、南ア社の鉱山を襲撃して株の暴落を図ろうとする。そしてもう1つの大国ソ連は名目上の生産量を下回る金を何とか確保して、アメリカからの穀物の安定供給を図るため、これまた南アフリカの金に手を延ばす、といった風に非常に各国・各要人入り乱れて、物語は錯綜する。

おまけに南ア社内部ではアフリカーナの取締役とイギリス人の取締役たちとの間で確執があり、どうにかイギリス人の会長であるコリントンを失墜させようとする。
これらを一気に打破するために若き“会長”コリントンは不眠不休で世界中を駆け巡り、情報を収集し、状況を好転させるのだ。

いやあ、すごいね、この会長は。西へ東へ、北へ南へとよく飛び回るものだ。こんなに働くものかね、多国籍企業の会長というものは。
正直、読んでいる最中、このコリントンのあまりのスーパーマンぶりに失笑を禁じえなかったが、その辺はフリーマントル、危ういところで読者との距離感を埋めている。仕事はすごいが、女性と家庭には不器用な男という肖像をきちんと描いており、なかなかである。

今までのエスピオナージュ物では、組織の大ボスとそれに振り回される男の様相を描いていたのだが、今回は組織の大ボス同士の、一歩間違えれば破滅寸前の駆け引きを描いており、これが非常に面白かった。フリーマントルの、ディベート能力の高さに舌を巻いた。
また世界経済の情勢を知る上でも―'80年初頭というかなり古い時代ではあるが―かなりの情報が詰め込まれており、非常に勉強になった。
久々に面白い物語以上の物を得て、清々しい思いがした。

題名の『黄金(きん)をつくる男』というのは単純にコリントンが金鉱山の会長であることを現しているのではなく、現代の錬金術である株価の上昇、そして更なる世界資源の取引の開拓という多様な意味合いが込められている。
恐らくはこんな男はいないとは思うが、たまにはこういう男の話を読むのも一ビジネスマンとしてカンフル剤となっていいものだと思った次第だ。

黄金(キン)をつくる男 (新潮文庫)
No.314: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

学生街は心を学生レベルに押し留める

東野作品4作目の本作は2作目の『卒業』の流れを汲む青春ミステリで、分量も今までの作品が350ページ前後であったのに対し、470ページ弱と増した事からも、当時この作品にある思いを秘めていた事が予想される。
とにかく東野氏の若さの主張が横溢しているのだ。

舞台は大学の正門の場所が変わったことで寂れゆく一方の旧学生街。そこの一角にある喫茶店兼雀荘兼ビリヤード場の店でバイトする主人公光平。大学を卒業するも、素直に社会の組織に組み込まれる事に嫌気が差し、自分が何者であるかを模索しているモラトリアムな男。そして同じバイト仲間の松木に至っては一旦勤めていた会社を辞め、あるチャンスを待ちながら同じバイト先で燻っているといった男である。
そして光平の彼女広美はいきなり堕胎を告白するシーンから登場し、しかも光平との不思議な出会いから、光平には内緒に通っている障害児童の幼稚園へのボランティアなど数々の謎めいたエピソードを孕み、そして唐突に殺される。そして光平と一緒に広美の死の真相を探る事になる妹の悦子に加え、他にも登場するのは派手な男性経験を重ねてすぐに寝る同じバイト仲間の沙緒里に、ビリヤードを打ちに来るサラリーマンの『ハスラー紳士』こと井原、同じくビリヤード仲間の大田助教授と本屋の時田、広美の友人かつスナックの共同経営者日野純子、かつて広美の恋人だった香月刑事、そして後半、重要な役回りを演じる斎藤医師と、老若男女問わず、それぞれが非常に青臭い信条や傷を持って生き、主張する事を止めない。
これだけみんなが青臭い純粋さを持っていると、なんだか二流のテレビドラマを観ているようで、今回ばかりはちょっと恥ずかしさを抱いてしまった。

この作品には『卒業』同様のペシミズムが流れているのは確かだが、『卒業』が私の中で高評価なのは主人公加賀の一本筋の通った性格と、サブキャラクターである恩師の南沢雅子の含蓄ある台詞に痺れたからだ。
それに対し、本作の主人公光平の確たる目標もなく、ただ現状に不満を抱きながらも行動を起こさない弱さ・青さ、そして周囲の人間誰もが自ら恣(ほしいまま)に振舞う未成熟なところが物語の要素として物足りないのだ。やはり物語を引き締めるには他に同調しないキャラクターが必要なのだ。被害者である光平の恋人広美にその片鱗が窺えるものの、その自己犠牲的な性格が他者に比べて両極端すぎて、バランスを欠いているように感じた。

しかしこの若い頃経験するまったりとした雰囲気、常に何か満ち足りない物を感じていた想い、これこそ東野氏が本作で書きたかったことなのだろう。いわゆる大人の常識に逆らうように世間の波から外れた生き方、そういう青い時期を本作ではテーマにしたように思う。
それゆえに本作での最後の真相のシーンは、通常では考えられない酷い仕打ちを犯人に犯している。
そして光平の父親の言動。定職に就かずフラフラしている息子に対し、叱責することなく、むしろその生き方を認めて去っていくその姿は、大人のそれではない。やはり親というのは子供に対して壁であるべきで、子供の人生の選択に対し、その覚悟を確かめるべきなのだ。私ならば、こういう物分りのいい親は自分の成長をストップする悪しき存在でしかないので願い下げである。

この470ページ弱の物語の中には、旧学生街の退廃感、そこを訪れる人々それぞれの思惑、彼ら彼女らが微妙に交錯することで始まり、あるいは終わる群像劇を背景に、エレベーターにおける密室トリック、アリバイ工作、そして1987年当時、最新の科学技術であった人工知能AIの話などなどが盛り込まれており、正直ページを繰る手を止まらせなかった。
しかし、読了した今、やはり登場人物の青さしか残らなかった。それが東野氏が書きたかったテーマである事は認めよう。ただ、それが私には非常に幼く映ったのだ。


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学生街の殺人 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾学生街の殺人 についてのレビュー
No.313:
(7pt)

もっと書き方に工夫すればあるいは傑作だったかも?

魅力的な謎を魅力的な論理、魅力的な解明で解き明かしてこそ、本格推理小説は引き立つ。そして謎が魅力的であればあるほど、読者の期待が否が応にもその解決に集まり、増していく訳だが、本作は果たしてどうだろうか。
屋敷に着いた途端にコートと渦中のランプを残して忽然と姿を消し、しかもその屋敷には隠れ通路や隠し部屋などは存在しない、これほど条件を限定して、しかもそれが一度ならず二度も起こる。

内容紹介文にカーがエラリー・クイーンとミステリについて語り明かした末に行き着いた最高の謎、人間消失に挑んだこの作品で、上記のように確かに謎の魅力はどんどん高まるのだが、その真相の魅力が逆に小さく、期待しただけに終わったというのが正直、私の感想だ。

そして第二の失踪事件の謎。これは良かった。犯人の意外性も素晴らしく、またその動機も面白い。しかしある一点のみ説得力に欠ける(詳細はネタバレにて)。



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青銅ランプの呪 (創元推理文庫 (119‐6))
カーター・ディクスン青銅ランプの呪 についてのレビュー
No.312:
(7pt)

暗鬱な物語を求めるのでなく

坂東眞砂子氏の中編集。彼女お得意の土俗ホラーというものではなく、2編が怪奇物で1編が奇妙な味系か。

まず怪奇物2編は冒頭の「一本樒」と末尾の表題作。
前者は妹のやくざ紛いの情人が姉夫婦の家を付き纏うというお話。ネタ自体は特に目新しい物はないのだが、樒やまたたび酒などの小技が効いている。
後者は妻を亡くした男が仕事の忙しさに疲れ、故郷の徳島に帰った時に出くわす怪異譚。この作品のモチーフとなっている葛橋は私も祖谷にある物を渡った事があるだけに興味深かった。古事記の伊邪那岐命の話から葛橋はあの世とこの世を結ぶ橋という設定を生み出した(実際そう伝えられているのかもしれないが)坂東作品の王道であるが、処理の仕方がいまいちか。

残る1編は奇妙な味とも云うべき「恵比寿」。高知県の漁村に住む主婦、宮坂寿美が主人公で、サラリーマンから漁師へ転身した夫、3人の子供に舅姑の七人家族を支えて毎日慌しく過ごしていたある日、いつものように夫と子供らを送り出してパートに出かける道すがら、海岸に打ち上げられた奇妙な物体に気がつくことから物語は始まる。淡い灰色のその塊はぐにゃぐにゃと柔らかく泡を固めたような物だった。家に持ち帰ると舅はかつて自分が漁師だった頃に南方の島で異国の者に見せてもらった鯨の糞だという。恵比寿様の贈り物だといって神棚に奉納していたが、寿美は娘の個人面談の時に娘の担任教師にその物体について尋ねたところ、龍涎香という抹香鯨の結石で香料として使われ、非常に価値のあるものだという。宮坂一家はその知らせに大金獲得の夢に思いを馳せるのだが、というストーリー。
坂東作品の中では珍しくどこかコミカルであり、新機軸として面白く読んだ。皮肉なラストはちょっと余計かなとも思ったが、この作者らしからぬ処理の仕方に逆に好印象を持った。

各3編に共通するのはどれもがどこか片田舎を舞台にしているということで、それぞれが小市民ながらも一生懸命生きているという生活感が滲み出ているところ。坂東作品の持ち味である登場人物が抱える業が無いのも珍しいと思った。
『屍の聲』が短編であるのにもかかわらず、それぞれの登場人物が業を抱えているのにだ。しかしそれゆえにちょっとあっさりとした感じがするのも確か。
全く贅沢なものである。

葛橋 (角川文庫)
坂東眞砂子葛橋 についてのレビュー
No.311:
(7pt)

捻りに捻って、なんだか掴みどころがありません

かつて反政府分子たちの弁護士として高名を馳せていたディーケンは、立て続けに敗訴して以来、自信喪失症に係り、故郷の南アフリカを離れ、スイスの片隅でしがない弁護士稼業を続けていた。
そんな折も折、ディーケンはルパート・アンダーバーグと名乗る人物からアラブの武器商人アジズがナミビアのレジスタンスへ供給する兵器類を阻止して欲しいと頼まれる。思いもよらない依頼にディーケンは断ろうとしたが、アンダーバーグは彼の妻を誘拐していた。妻と引換えに、こちらの条件を飲めという。
進退窮まったディーケンはアジズの許へ向かう。彼の孤独な戦いが始まった。

ストーリーを概略すると以上のような形に収まるが、本作の構成はかなり複雑である。アンダーバーグなる黒幕はナミビアへの武器供給を止めろとディーケンに命じつつ、そのレジスタンスのリーダー、エドワード・マキンバーとも通じており、更に武器商人アジズの息子を誘拐させたイスラエル過激派を率いっており、なかなか狙いが摑めない。
更にアジズは誘拐グループに報復をしようと凄腕の用兵部隊を雇う。この三者三つ巴の只中で一人、ディーケンは南仏からセネガル、そして南アフリカへと翻弄される。

また本書は、矜持を失った男が、妻を救うべく奮闘する中で次第に自分を取り戻していく、といった定石を踏まない。
かつて反政府分子たちのために次々と政府相手に勝訴を勝ち取った英雄弁護士ディーケンは、翻弄されるがまま、それこそボロ雑巾の如く、這いつくばり、愚直なまでにアンダーバーグの言葉に従い、アジズとその弁護士グリアスンの掌上で踊らされる。
ディーケンが自分の意志で行動を起こすのは全400ページ中290ページ弱の辺りで全体の3/4が終わった頃である。しかしその後もディーケンは支援側からも利用されるといった具合で終始報われない。

さらに誘拐された妻はストックホルム症候群に陥り、イスラエル過激派のリーダーと恋に落ちてしまう。むしろディーケンの許へ帰る事を拒むようになるといった次第で、ますます主人公ディーケンは救われないのだ。
この作品は読者がこの展開を楽しめるか楽しめないかに懸かっている。そして私は後者に属した。シニカルな面白さよりも爽快感を求めたが故に、悲壮感が最後残ってしまった。

実は爽快感を期待したのには訳がある。作中235ページにディーケンがバーでぼんやりとしている時に二匹のヤモリが、虫を食べようとして失敗し、虫は無事逃げおおせるといった描写がある。これをそのままストーリーの展開の直截な暗喩と思ったのだ。
逃げおおせた虫はディーケン、二匹のヤモリはそれぞれアジズとイスラエル過激派と思ったがそうではなかった。この暗喩は一体何を意味したのか。

そしてエピローグにて明かされる本書の仕掛け。最後に登場する名前は予想の範疇で特別なサプライズは感じなかった。
私はあまりにも出来すぎていて、計画の破綻がないことに逆に作り物の偽物感を抱いた。ちょっと懲りすぎたかな、フリーマントル。


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ディーケンの戦い (新潮文庫)
No.310: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

意外と骨太

それぞれの人にそれぞれの事情。
約340ページに纏められた本書はその題名から駅の売店で売られている読み捨て感覚のノベルスの1つに過ぎないと高を括っていたが、いやはや色んな謎が重層的に織り込まれたなかなか味わい深い作品だった。

密室殺人の謎、「マザー・グース」の暗号の謎、遠隔殺人トリック、2年前の事故死の謎に加え、ペンション「まざあ・ぐうす」の前の所有者である英国未亡人の自殺の謎と盛り沢山である。
またそれぞれの謎についても1つの真相に留まらず、そのまた隠れた真相と二重構造になっているのもかなり贅沢だ。デビューした作家が必ず通るカッパ・ノベルスでの、所謂『量産物』的作品と位置づけるには勿体無いくらいの満腹感がある。

東野氏は本作で当初叙述トリックを試みようとした節がある。よくあるパターンのトリックなのだが、しかしそれは早々に種明しされる(なんと始まって30ページ弱のところで)。通常ならばこの手法を用いるのにそんなに早い段階で明かさないのだが、恐らく書いている途中(もしくは一旦書きあがった途中)にこのトリックが作品のバランスを欠くものだと判断したようだ。
私は逆にこの判断を尊重する。本作を読むに別に最後の方で明かすことは困難ではなかっただろう。ちょっとしたサプライズとして取っておくことは可能だっただろうが、やはり最後のエピローグまで読むと、この段階で明かすことが賢明だったように思える。この辺の思い切りのよさが単なる「推理」作家に満足していないとの認識を得た。

しかしとは云いつつ、本作のメインの2つの謎―密室殺人と暗号―は結構複雑。
まず密室殺人。過去2作の密室殺人から判断できるように、東野氏の密室殺人は密室が何段階にも分けられて構成されていることに特徴を感じる。最初は開いていた扉が次には閉まっていた、ここが逆に読者を更なる難問へと導くのである。
だからその解明も結構複雑だ。詰め将棋が解かれる様を見ているようである。
しかし、逆にこれが所謂“ファイナル・ストライクー最後の一撃”効果を大いに減じているのは確か。読者はロジックを理解するのに腐心して、カタルシスを感じないのである。
それは「マザー・グース」の暗号にしてもそうである。いやいや、かなり難しい。英文と訳文2つを駆使して、しかもそれぞれの詩の構成を参考にして分解・再構成をしなければならないとくれば、いやもうこれは一種、数学の難問と取り組むのと変わらない趣きがある。

先ほど述べたように、カッパ・ノベルスと云えば出張や旅行の車内で暇つぶしに読むといった感じの蔵書であるから、この作品だと暇つぶしどころか、かなりの頭脳労働を強いられる事だろう。おっとこれは本作の出来には関係のない余計な詮索だった。本筋に戻ろう。

東野氏の作品は物語にコクがあるのも事実で、本作もそれぞれの宿泊客は元よりペンションのオーナーにシェフ、従業員の男女にも深みのあるバックストーリーが用意されている。これが今回のプロットを重層的に構成させるのに大いに貢献しているのだが、このストーリー性とロジックに偏ったトリックとがいささか上手く溶け合っていないように感じる。前2作はまだ良かったが、3作目の今回は特に強く感じた。宿泊客がそんな複雑な仕掛けをするかなぁというのが私の感想である。確かにそれを裏打ちするエピソードも用意されてはいたのだが、1年に一度訪れる現場では準備に苦労するという気持ちは否めない。
しかし、まだ東野ワールド創世記である。現時点このクオリティだから、今後更に大いに期待できるのは間違いない。ああ、次はどんな話を用意してくれるのだろうか。

最後にちょっと蛇足めいた感想を。他の人の書評にもあったが東野氏の過去の作品には昔の時代を感じさせる表現が時々出てくる。今回もあるにはあったが、1つだけ。
数千万円相当の宝石を評して、プロ野球のトップ選手の年棒とあるが、今の数億円プレーヤー頻出の世の中では失笑を免れない表現である。これは次回重版時に削除したらよいかと思うが、どうだろうか?

白馬山荘殺人事件 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾白馬山荘殺人事件 についてのレビュー