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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数896件
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桜井京介と栗山深春邂逅の物語。彼らがまだ大学1年生で輝額荘という下宿屋に一緒に住んでいた頃の話だ。
シリーズがある程度進むと、シリーズのゼロ巻目ともいうべき過去に遡った話が書かれるが、この作品もまさにそれ。しかし悔しいかな、こういう作品はなぜか面白い。 今までこの作者の自嘲気味な文体が気になり、それが読書の愉悦に浸る大きな妨げになっていたが、本書では栗山深春の一人称叙述で彼の斜に構えた性格と相俟って、この減らず口が挿入される癖のある文体が逆に雰囲気にマッチしていて、今までの作品の中で一番面白く読めた。 それはまたシリーズ0巻目と云える桜井と深春との初対面という過去に遡った物語であるノスタルジックな設定もこの文体に合っていたのかもしれない。 また建築探偵と名付けられているこのシリーズでは毎回建築家にスポットを当てたエピソードが語られる。今回話題に上る建築家はあのフランク・ロイド・ライトだ。ここで作者は桜井の口を借りて、ライトの自伝に書かれた内容がほとんど彼の虚構だと主張する。その主張で描かれるライトは嫉妬深く、カリスマの名をほしいままに尊大に振舞う嫌味な建築家という肖像だ。 これは作中に挿入された註釈によれば実際に彼の研究家による意見であることが述べられているが、逆にこの註釈は無くてもよかったか。というよりも孫引きで無く、作者独自の解釈を開陳して欲しかった。 そして常々この作家の作品に通底奏音として流れていたBLの影が本書では顕著に表れている。 唐突に輝額荘へ引っ越してきた建築評論家の飯村氏がホモであり、相手が大家の麻生はじめであるという推理はもちろんのこと、栗山深春の一人称で語られる本書では深春の桜井京介に対する感情が浮き彫りにされて、さらにBL風味を増している。 特徴ある探偵を創出するのが推理小説家の腕の見せ所だが、この類稀なる美貌を誇る探偵というのはやはり倒錯した感情を抱く一要素になり、どうも本格ミステリを読む側にしてみればなんとも物語にのめりこむのに抵抗感を抱いてしまう。しかしこの建築探偵シリーズは当時一二を争う同人誌の多さを誇ったのだから、やはりニーズはあっただろう。 そして肝心の事件だが、今回は犯人は解ってしまった。作者の散りばめたヒントは実にあからさまとも云うべき親切なものであり、確かにこの作品は桜井が謎解きをする前に解る。 とにかく本書はやっとこのシリーズの世界に浸れた作品である。桜井と栗山の最初の物語を知ることで以前にも増してこの後のシリーズを愉しめそうな気がする。 あとは妙なBLテイストが無ければいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まだ2作目だが、映画のロケーションスカウトであるジョン・ペラムのシリーズはその職業の特異性から常に見知らぬ町を舞台にし、そこで彼が”A Stranger In The Town”という存在になり、町中の人間から注目を集め、忌み嫌われて四面楚歌になる状況下で物語が繰り広げられるといった内容になっているのが特徴だ。
特に彼が町中の人間から注目を集めるのに、映画産業という華やかな世界に身を置いていることが実によく効いている。この設定は実に上手いと思う。 そして常に彼の敵になるのがその町の権威者。前作では保安官であり、町長が彼を眼の敵にしていたが、本書では警察官が撃たれるという事件からさらに警察官からの理不尽な圧力が増しており、また検察官にFBI捜査官とペラムを付け回す勢力はさらに拡充されている。そして本来正義の側に立つべき彼らが自身の狙っているホシを捕らえるためにはありもしなかった証人と証言をでっち上げ、それをたまたまその場に立ち会った人間に強要するため、しつこくネチネチと陰険な嫌がらせを繰り返すさまが描かれる。 しかしペラムが巻き込まれる展開は違えど、物語構成としては基本的に『シャロウ・グレイブズ』と同じである。上に書いた四面楚歌状態に、数少ないペラムの協力者がその町の女性―しかも美人!―であるところも一緒だ。 ワンパターン、マンネリは基本的に嫌いではないが、ディーヴァーが、という思いが強く、過剰な期待をしてしまう。池上冬樹氏が前作の解説で書いていたが、やはりディーヴァーも普通の作家だったのかと認識を新たにした次第。 しかしこの作品には後のディーヴァーの技巧の冴えの片鱗が確かにある。特に後半の読者の先入観を見事に利用した人物の描き方による仕掛けは実に素晴らしい。実にさりげなく誘導される筆致には後の傑作群への期待を高まらせてくれた。 そして時折挟まれる映画撮影のエピソードも知的好奇心をくすぐる。映画でよくあるアクションシーンが今では許可が下りにくくなっているとは知らなかった。 例えば本書では川に車が転落するシーンについて語られるが、撮影が行われている町では車が落ちることでオイル漏れやガソリン漏れで汚染と景観が損なわれることを嫌う。そのためそれらの撮影は無許可でゲリラ的に行われるらしい。しかし公開されたら解るだろうし、それこそ訴訟沙汰になると思うのだが。 ハリウッド映画が世界でロケするときによくその国の重要人物を困らせる事態まで招くが、なるほどこういうことだったのかと得心した。これではますますCGが多くなるはずだ。 さらに映画で使う銃火器についても実弾を使わなくてもあらかじめ許可申請と登録がなされており、それがなければ撮影許可、使用許可が下りないなんて話も興味深い。 しかしそれにしてもアメリカは映画撮影に対して日本よりも寛容だと思うが。 またペラムの仕事ぶりを読んでいて、はたっと気づいたことがあった。 よく地方の都市を舞台にしたドラマがあるが、これが地元民の目から見ると実に辻褄の合わない距離感を覚えることがある。例えば走って逃げていた犯人が次の場面ではいきなり車で30分くらいかかる所まで走って逃げているといった具合だ。しかし製作側としては自分の頭に描いたシーンで物語を繋げるだけなのだから、2つのシーンの距離感などは考慮なぞしないのだ。彼らとしては全体として出来上がる映像だけに興味があるのだ。その監督の頭にあるシーンを探すのが彼らロケーションスカウトの仕事なのだ。 さて今回の事件も単純な構図ながら、ところどころにミスリードが含まれている。最後まで読んで冒頭に書かれたジャン=リュック・ゴダールの「映画に欠かせないのは銃と女だ」のエピグラフを読むとこの一文に潜む色んな意味合いに思わずニヤリとしてしまう。 最後のシーンを読んだ時、私には次の一文が頭を過ぎった。 “警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない” レイモンド・チャンドラーのある有名な作品の最後の一行だ。チャンドラーが込めたこの一文の意味とディーヴァーの描いたラストシーンのそれは全く違うものだが、ディーヴァーはこの一文を美しい風景へと昇華させてくれたように感じた。 しかしこの時点ではまだ佳作の段階。光る物を感じるが、もう一歩と云ったところ。将来化ける可能性を感じはするが、まさか今ほど大家になろうとは思えない作品だ。 しかし1作ごとに完成度が増しているディーヴァー初期の作品群。作者自身が転機となったと云っている『眠れぬイヴのために』の前に果たして良作はあるのか。次が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今までのクイーン作品の中で最も舞台設定が凝っており、後期クイーンの諸作で深みが増した人間ドラマの一面にさらに濃厚さが増した、リーダビリティ溢れる作品だ。
特に軍需産業で一財を成し、世界各国の政府要人らに絶大な影響力を与えるほどの権勢を誇るキングが君臨する通称ベンディゴ王国はハリウッド映画としても実に映える舞台だ。 しかもドラマチックな設定の中、密室で銃で撃たれるという不可能犯罪が起こる。 被害者のいた部屋は周囲を2フィートのコンクリート壁に囲まれた窓のない堅牢な部屋で弾丸などは通るはずもない。それなのに部屋の外から弾が入っていない状態で引鉄を引かれた銃の弾が被害者の胸から摘出されるというなんとも魅力的な謎が提示される。 しかしこの魅力的な謎の真相は正直期待外れの感は否めない。せっかく魅力的な不可能状況を提供してくれたのなら、読者の盲点を突いた誰もが納得の行くトリックを用意してもらいたいものだ。 しかし犯行の動機には考えさせられるものがある。 そして忘れてはならないのは今回の事件に翳を落としているのはあのライツヴィル。ベンディゴ一族のルーツは因縁の町ライツヴィルにあったのだ。エラリイはいざなわれるようにライツヴィルへ向かう。 正に後期のクイーンにとってライツヴィルはなくてはならない拠り所なのだろう。特に『十日間の不思議』に登場したヴァン・ホーンまでもがキングの被害者になっている件はさらにキングの凄みを彩る。 そして今回着目したいのは作者クイーンが物語に溶け込ました戦争批判。死の商人キングを糾弾するジュダの言葉はそのまま先の大戦に対する作者のメッセージだろう。 人の死という尊厳を大量虐殺で名もなき屍に変えてしまう戦争への怒りがここには込められている。さらに最後死んだ帝王キングの後を継ぐ者の言葉は第二次大戦が終わっても、第二のヒトラーは必ず生まれるのだという作者の警告とも読み取れる。 しかしなんとも暗喩に満ちた作品だ。 まずベンディゴ一族の名前。次弟の名ジュダはキリストの使徒の一人ユダを指し、末弟のエーベルは旧約聖書に出てくるアダムの次男アベルを指す。さらにキングの本名はアベルの兄カインを表すケインだ。 しかもライツヴィルで彼らのルーツを探ると彼らの名前は旧約聖書を辿るかのような運命から故意に名付けられていたことが解る。なんとも業の深い話だ。 しかし最大のメタファーは主人公クイーンに対して相手の名はキングだということだ。つまりチェスや王国ならばクイーンの上に立つ存在だ。 しかしタイトルにあるようにキングは死す。 盛者必衰。 頂点に立つ者はいつか倒れるのだ。この示唆は当時のアメリカのミステリシーンとの何か関係があるのだろうか? クイーン作品で軍需産業の王の島に連れ去られた中での推理劇という“嵐の山荘物”でありながらも内容が戦争を扱っているだけに冒険小説やスパイ小説の色合いも感じさせる本格ミステリの“キング”であるクイーンならではの作品。 兄弟の生立ちが事件の因縁と繋がるというロスマクを髣髴させるこの路線は正直歓迎なのだが、もう少しカタルシスが欲しいところ。特に今回は部屋の壁をすり抜ける銃弾という謎が非常に魅力的だっただけにその真相に失望してしまったのが大きくマイナスになった。 しかしまだライツヴィルは続くのか。ライツヴィルとクイーンが行く着く果てに何があるのか、今後見ていきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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オッド・トーマスシリーズ4作目の本書はなんとエスピオナージュ。
田舎町を牛耳る警察署長と港湾局の職員との軋轢。閉鎖されたムラ社会における一人のストレンジャーという図式に、来たるべき災厄を予知夢で察したオッドが奮闘する。その来たるべき災厄とは町の警察ぐるみで仕組まれた核実験用核爆弾の密輸の支援という、実に意外なものだ。 前回はスーパーナチュラルな怪物が相手だったが、今回は人間の悪意と欲が敵だ。 このためオッドはハリー・ライムと名乗って、核爆弾密輸を独りで阻止しようとタグボートに乗り込み、悪漢どもをやっつける。このオッドが名乗る偽名が映画『第三の男』の主人公であることからも本書の狙いが明らかである。 そしてそのためオッドは自ら課していた銃を使わないという禁忌を破り、密輸団の一味である港湾局の職員を銃殺する。これは本当に意外だった。 そして最後に現れる若き女性の悪党の仲間をオッドは迷いながらも国の平和を守るために撃ち殺す。この場面なんかはもろスパイ映画のワンシーンを切り取ったようだ。 このシリーズの売りはオッドの霊が見える能力で、いつも早いページの段階で霊が登場していたのだが、今回は181ページ目でようやく出てくる。しかも定番の災厄の象徴ボダッハは一切現れないという異色さ。 予知夢で大惨事が起こりうることを知りながら、なぜボダッハが現れないのか不思議でならなかったが、その理由についても作者はすでに準備済みだった。その内容については本書を当たられたい。 しかしこのシリーズには欠かせない存在、霊も新しい相棒フランク・シナトラ以外はこの181ページで現れた港湾局の一味の一人である死者となったサミュエル・オリヴァー・ウィトルのみ。 先に書いたように今回はオッドが未曾有の危機を救うため、そして自らと仲間を守るために銃を手に取り、人を殺めるのにも関らず、霊の存在は希薄だ。 しかし今回それを補うのは、第1巻からサブキャラクターとしてオッドに付き添っていたエルヴィス・プレスリーに代わって、連れ合いとなったフランク・シナトラ。 エルヴィス・プレスリーは彼に纏わる薀蓄を語るための道化師のような役割に過ぎなかったのに対し、シナトラはなんとオッドの窮地を救う活躍を見せる。彼は怒りが頂点に達すると周囲の物を動かし、嵐のように吹き飛ばすポルター・ガイストになるのだ。 この性質を上手く利用してオッドは彼をけなし、貶め、怒りを助長させて不当逮捕された警察署から逃げ出す。この展開は全く予想外であり、また霊を利用してピンチを脱するという新機軸の試みは大いに愉しめた。 ピコ・ムンドでは恋人ストーミー、オッドのよき理解者であるミステリ作家のリトル・オジーにワイアット・ポーター保安官を筆頭に魅力あるキャラクターがいたが、本書でもクーンツのキャラクター造形力は健在。 オッドが運命的な出会いを感じる女性アンナマリア。彼女は全てを知るが如く、物事を受け入れ、オッドの問いに明確な答えを出さず、「何事にもしかるべき時がある」と諭すミステリアスな女性だ。 そして幼少の頃に親にごみを燃やしていたドラム缶に落とされ、不具者となったブロッサム・ローズデイルも忘れがたい印象を残す。彼女は人生を悲嘆することなく、明るく生きるヴァイタリティに満ちている。 『対決の刻』のレイラニといい、クーンツは身障者の女性を実に魅力的に描く。 しかし何といっても今回のベストキャラクターはオッドが新たに雇われることになった元映画俳優のハッチことローレンス・ハッチスン。 齢80を超え、隠居の身である彼は独自の世界に閉じこもっているが、時折俳優時代のことを思い出してはオッドに語る。特に面白かったのはオッドがアンナマリアを助けに行く為に港湾局の男達が訪ねてきたら、嘘の芝居でどうにかごまかして欲しいと頼むと、役作りから始めるところだ。それがいささか過剰演出になってオッドに窘められて肩を落とすシーンで一気にこのキャラクターが好きになった。 それ故にハッチとの別れのシーンが胸を打つ。自分を大きく見せることが上手かった元俳優が抱擁した時に実に脆かった、なんて読まされると思わずホロリとしてしまう。 ただ非常に癖のある文体で語られるこのシリーズはクーンツ読者でないと好んで読まないのではないかと思う。 クーンツ作品にしては珍しく一人称なのはオッドが自身の体験を著すことでセラピーの役割を果たしているからだ。そのため内容はオッドの心の有り様と移り変わりを饒舌に語るようになっており、そのため物語の進行は亀の歩みのように遅い。短い時間の出来事をオッドの心情を交えてものすごく濃く語るので、読んでも全く読んでもストーリーが進まないという感を得てしまう。 これはクーンツ好きではない読者にとっては苦痛だろう。私でさえもっと刈り込んでページ数を減らし、コストパフォーマンスに貢献して欲しいと思う時があるくらいだ。 そしてエスピオナージュを装いながら、それらのジャンルの小説と違うのは最後オッドが人を自分が殺めてしまった罪の意識に苛まれ、縮こまってしまうところだ。 幼少の頃、一晩中母親に銃を突きつけられて一言も泣き声を漏らすこと許されなかった過酷な経験をしたこの男が非情に徹しきれないところにオッドの魅力があり、だから読者はこのキャラを愛してしまうのだろう。 オッドが向かう先は育った町ピコ・ムンドなのか。それともまた霊的磁力に誘われて、地図にもない町に行くのか。 そしてアンナマリアはストーミーに代わるオッドの魂の安らぐ場所になるのか。 解説の瀬名氏によれば本書以降、オッドシリーズは書かれていないとのこと。このまま棚上げにするにはなんとも割り切れなさが残る。いつかまたクーンツがシリーズ再開することを切に願おう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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映画の舞台となる町を探す、いわゆるロケハンを生業にしているロケーションスカウトのジョン・ペラムシリーズ第一弾が本書。
解説によれば本書は1995年に『死を誘うロケ地』で訳出されていた旧版をディーヴァーが新たに手を加え改稿した作品らしい。ちなみに旧版は本国アメリカはもとより日本でも全く話題にならなかった。 その前のもう一つのシリーズキャラクター、ルーンもまた映画業界を扱った作品だった。初期のディーヴァーはなぜか映画に纏わる話が多いが、それは自身の作品をいつかハリウッド映画に、といった願望から生じていたのだろうか。 しかしどこか流れ者気質のルーンとは違い、ジョン・ペラムは過去に新進気鋭の映画監督として名を馳せた過去、そして冒頭に会話で語られているだけで真偽は判らないが、スタントマンもこなしていたロケーションスカウトと、映画産業に若くから関ってきた生粋の映画人である。そのためルーンシリーズよりも物語に映画産業の色合いが濃く表れている。そしてこの設定が物語を動かすのに実に有効に働いているのがディーヴァーの上手いところだ。 ジョン・ペラムが新作映画のために撮影にあったロケーションを探しにニューヨークの田舎町を訪れる。刺激のない町に住む人たちは華やかな映画産業から関係者が来たことを噂で知り、ある者はペラムに取り入ってどうにか銀幕デビューを果たそうとし、またある者は彼と関ってこの田舎町を出るきっかけを摑もうとする。そして中には彼の来訪を面白く思わない輩もいる。 恐らく田舎町が映画の舞台となるとはこんな騒動が起きるのだろう。そしてそれが一見平穏に見えた町の暗部を表出させることになる。 ペラムを招かねざる客として、町ぐるみで彼を排除しようとする。町長はじめ保安官や有力者が彼に対して慇懃ながらも明らかに歓迎していない態度を示し、何かを隠している節を見せる。この四面楚歌の中、ペラムは相棒を殺され、麻薬所持の疑いをかけられ、また暴力で迫害を受け、あらぬ罪まで着せられそうになる。 セオリーに則った物語展開だが、実にそつがない。 そしてディーヴァーといえばどんでん返しが代名詞だが、本書でも最後の最後で思いもよらぬ真相が待ち構えている。確かに布石はあるものの唐突すぎ、またパンチも弱く、どんでん返しというほどの驚きはなかった。 もっとなるほど!と手を打つような内容であれば点数はもっとよかっただろう。読者を最後まで飽きさせないサービス精神は窺えるが、巷間の口に上るほどの印象もないといった感じだ。 というわけで作品の出来は佳作というのが妥当だろう。 ペラムの造形は普通の人よりも経験が豊富で危機を察知し、臨機応変に対処するが、いわゆる万能なタフガイではなく、格闘すれば負けることもあるという、昨今の現実味ある主人公である。ただ彼には映画産業界に従事しているという特徴があり、またそれがこのシリーズの強みだろう。 残る2作でいかに有効に活用して物語に溶け込ませているか、見ていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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多彩な作風を繰り広げる東野圭吾氏のジャンルの1つに医学系サスペンスというのが挙げられる。
古くはスポーツミステリ『鳥人計画』も人間の能力を科学的に向上させるある計画が通奏低音であったし、東野圭吾氏の作風の転機となった作品『宿命』と『変身』も医学の闇をテーマにして人間の心の謎を扱った作品だった。さらに変化球としては女性版ターミネーター、タランチュラが登場する『美しき凶器』もまた当て嵌まるだろう。 そして本書はその2文字の題名からして『宿命』、『変身』に連なる作品といえるだろう。 本書は全く同じ容貌をした氏家鞠子の章と小林双葉の章が交互で語られる形で物語は進む。題名とこの構成からも明らかだろうからネタバレにならないので敢えて書くが、この2人は同一の遺伝子から生まれたクローンなのだ。体外受精で生まれた子供たちが成長した姿である。 本書で語られる学問は発生学という耳慣れない学問。刊行されたのが93年なので現在同じ呼称なのか判らないが、細胞分裂の過程でどの細胞が目となり、口となるのか、その現象を探る学問と作中では書かれている。即ち『宿命』、『変身』と脳から遺伝子へと続く系譜が本書で垣間見える。 『宿命』では何が過去に起きていたのかを巧みに隠し、それが最終的に晃彦、勇作、美佐子の三人の隠された関係へ発展していくのに対し、『変身』、『分身』では先に何がなされているのかが判るようになっている。つまり医学的なミステリがこれら2作の主眼ではなく、それに伴う人間ドラマがメインテーマなのだ。 そして本書で描かれるのは母性。たとえ本当の自分の子ではなくとも母は子供を愛するのだという深い母の愛だ。 しとやかなお嬢様として育てられた氏家鞠子の母、男勝りの活発な女性として育てられた小林双葉の母、それぞれ方法は違っても、根底に通じるのは鞠子、双葉への献身的な愛だった。だからこそ2人は性格の違うのにも関わらず、我が子と自らの境遇の行く末を思い、悲嘆に暮れるのだ。特に事件の発端となった、頑なに禁じていた我が子のTV出演を叱りつける事無く、受け流した小林志保の母性が印象に強く残った。 鞠子と双葉がお互いの出生の秘密を探る道筋は交錯しながらもなかなか交わらず、なかなか邂逅に至らない。この最後に2人が出逢うラストシーンは作者が本書でやりたかった事なのは判るが、そこに至るまでが濃厚だっただけに最後は駆け足で過ぎた感じがするのが残念だ。 鞠子、双葉それぞれの旅程のパートナーだった下条、脇坂講介が途中退場するのもこの構成のために致し方ないがなんとも尻切れトンボのような結末に感じてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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D県警を舞台にした殺人課ではなく、警務課諸氏を主人公にした警察小説連作短編集。
表題作は警務課の人事担当二渡真治警視が主役を務める。 なんとも渋みの効いた作品。何を考えているのか解らない元刑事の鬼、尾坂部の存在感が途轍もなく大きい。 そして過去に未解決に終わった娘のレイプ事件が人事拒絶に絡み、その犯人が意外な形で明らかになる。全て無駄の無い作品だ。 正に横山伝説の始まりを告げるに相応しい一篇。 続く「地の声」は警務部監察課に務める新堂隆義が主人公。 人を疑うのが仕事の警察。それは犯人を挙げる外部の人間のみならず、自らの出世を企む内部の人間でさえ同じことだ。昇進の人事査定が迫った時期に密告がなされる弱肉強食の世界の警察内部の醜さと過酷さがここには描かれている。 第1話で主役を務めた二渡がここでは人事の鬼という存在で物語に大きな影響力を与えているのが非常に興味深い。 続く「黒い線」は警務課婦警担当係長である七尾友子が主人公。 実直で真面目な婦警が手柄を立て、マスコミにも報じられた翌日になぜ無断欠勤するのか? この矛盾を感じる突然の行動に実に納得の行く結末が用意されている。しかもそれは実に残酷な結末。社会に生きる女性の厳しさや、パワハラといったサラリーマン社会にも通じる苦いその内容は組織に生きる一人の人間として心に響いた。 特に驚いたのが男性の横山氏がよくもこれだけ女性の、しかも警察という男性社会の只中で奮闘する女性の心理を描いたものだと感心した。本書の中でも個人的ベストだ。 最後の「鞄」は警務部秘書課の柘植正樹が主役を務める。 国会答弁があらかじめ質問事項が決まっており、それに基づいて部下の官僚などが答弁の原稿を書き、大臣や議員はそれを読むだけになっているというのはもはや周知の事実だが、県議会での警察への質問も同じとは知らなかった。そして警察もまた専用の担当官がおり、それが本編の主人公柘植の仕事だ。 権力と面子が物を云う世界で、質問する側される側双方の顔を汚さずに無事議会を終えるために奔走するこの仕事は非常にデリケートで神経を使うものだが、D県警初の30代警視になるという野心を持つ柘植にとって、それは出世への階段の近道であるため、かつての友人とも云える同期や周辺の人物を利用することを辞さない。 本編でも二渡は登場するが、ほんのカメオ出演というくらいで、それよりも2編目の「地の声」で主役を務めた新堂がここで再登場し、作品のその後の彼の姿がそのまま上昇志向の強い柘植と対比させるようになっている。 ミステリといえば、殺人事件。したがって警察が主人公となる警察小説の主役といえばやはり殺人事件を扱う捜査一係が専らで、変わったところでは大沢在昌の『新宿鮫』の鮫島の生活安全課というのがあるくらいだが、あえて横山氏は殺人課を使わずに事件性を持たして警察小説が書けることを証明した。 ここに出てくるのは警務課で主人公それぞれが就いている職務は人事、監察、婦警の管理、秘書課と事件に直接的に関わる部署ではなく、警察の内務をテーマにしながらも事件を描くという点が新しい。 しかも扱われる謎は云わば“日常の謎”なのだ。 辞任の時期が来たのに、なぜ辞めようとしないのか。 悪意ある告げ口としか取れないメモ書きの真意とその犯人は誰か。 前日に手柄を立て、マスコミにも大きく扱われ、一躍メディアの主役になった若き婦警はなぜ翌日無断欠勤し、失踪したのか。 ある県議員が議会で本部長を陥れるためにぶつける質問、即ち“爆弾”の正体とは何か。 これらが警察組織で起これば、事件性を伴い、背後に隠された事件・犯罪を浮かび上がらせ、十分警察小説になりうることを横山秀夫氏は見事に証明した。これは正に新たなジャンルの誕生とも云える発想だ。 綿密な取材と落ち着いた文章と過不足ない引き締まった内容で横山氏はそれを高次元のレベルで成し遂げたのだから、確かにこれは歴史的快作といえるだろう。 ただ横山氏は必ずしも犯罪を描くことに腐心しておらず、特に後半は警察官それぞれの矜持や権力闘争、面子を重んじる風潮から生じた齟齬や弊害を上手く絡めて、謎に仕上げている。その微妙な駆け引き、上司のために自分を殺さなければならない理不尽さを受け入れる姿勢などは警察の世界のみならず私も含めサラリーマン社会にも通ずるものがある。 各4編でのテーマをそれぞれ抜き出すと人事問題、賞罰審査、部下の監督不行届け、会議を円滑に進めるための水面下での根回しなど、おおよそ警察小説とは思わず、企業小説としか思えないだろう。 こんな普通の会社でも起こりうる出来事が警察機構に組み込むことで事件性を持ってくるのだから、繰り返しになるが、本当にエポックメイキングな作品である。 これほど警察内部の男社会に切り込んだ作品を読んだのは『新宿鮫』以来だ。今までミステリを読んできた人間にとって警察とは本格物であれば、名探偵の引き立て役や道化役であり、警察小説であれば探偵役であり、警官同士が協力して事件を解決するものと思っていただろう。 そんな外側から見た警察の内部はこれほどまでに面子を重んじ、複雑な駆け引きと微妙な均衡の上に成り立っていることを知らされれば、単なる探偵役としての警官や刑事の見方も変わってくるだろう。 また全4編に共通して登場する人物は表題作で主役を務めたD県警のエースと呼ばれる二渡真治警視の存在感が物語の裏に影響を及ぼし、次第に増してくるのも興味深い。今後横山氏の作品で彼がどのように絡んでくるのか興味深いところだ。 組織で動きつつも個人の個性と上昇志向が強く、せめぎ合う警察機構の内部をここまで詳しく書いた横山氏。残る作品を読むのが非常に愉しみな作家だ。また追っかけなければならない作家が増えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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新聞記者の前に鎮座する泥棒、藪医者、殺人者そして反逆者からなる4人の重罪人たちが自分達の過去を打ち明けていくという構成で物語は語られる。
第1話目「穏便な殺人者」はエジプトに隣接したポリビアと呼ばれる国で起こった総督射殺未遂事件をテーマにしている。犯人であるジョン・ヒュームは人が撃たれることを妨げる為にその人物を撃ったという奇妙な動機を話す。 非常に状況設定が判りにくい話。なかなか進めないストーリーにいつ起きたのか解りかねるうちにいつの間にか事件が起きていたという漠然とした展開でしか読み取れなかった。 しかし作中で出てくる単眼鏡をつけた巨躯の大男グレゴリーはどう考えても作者自身のように思われる。どちらもイニシャルはGだし。自作にカメオ出演するというのはヒッチコックが自身の映画でよくやっていたことだが、実はそれに先駆けてチェスタトンがやっていたとは思わなかった。一種の読者サービスといったところか。 次の「頼もしい藪医者」は古くからある古い大木を庭に持つ画家兼詩人であるウォルター・ウィンドラッシュ氏とジャドスン医師2人の物語。 これも非常に解りにくい展開の話だ。自分の庭の大木を愛す芸術家ウォルター・ウィンドラッシュ氏と若く、妙に自分の論理に固執するジャドスン医師との交流が描かれ、さらにそこにウィンドラッシュ氏の娘イーニッドが加わるという流れが、いきなり精神病院送りの展開が訪れ、さらには殺人容疑の話にまで発展していく。 作者は二重三重の解明を用意しており、私もこの真相の一歩手前の真相と医師が氏を精神病院に入院させた意図が判ったときには思わずニヤリとしてしまった。しかしエピローグでさらにどんでん返しが行われるのだが、これといった衝撃度は薄い。 しかしチェスタトンの話で使われる樹には一種独特の雰囲気がある。私の好きな短編に「驕りの樹」があるが、本作の巨木も奇妙で歪な形をし、文中の表現を借りるならば「足を一杯に広げた蛸あるいは烏賊にそっくり」で強い印象が残る。この樹が正に物語のキーで、なんとなく「桜の木の下には死体が埋まっている」という、美しいもの、生命力に溢れるものにはそれに伴う犠牲があるものだ、といった日本人的観念に通じるものを感じた。 「不注意な泥棒」は本書の中での個人的ベスト。 逆説のチェスタトン。実に先の読めない展開で読者の予想の裏を常に行く物語展開の真骨頂が本作だと感じた。数年ぶりに島送りにされたオーストラリアから戻ってきた放蕩息子アランの、家名を汚すことに執着するかの如き犯罪行為に隠された真意は、多分納得できる人はさほどいないのではないだろうか。 最後の1人は「忠義な反逆者」。 本書の唯一ミステリらしい趣向である包囲された一軒家から一瞬の間で4人もの人間が消失するという謎の真相は人の先入観を利用したものでなかなか面白かった。 風評や噂で人は簡単に権威者を創り、有名人を創っていく。実体の無い物を有難み、敬うという奇妙な群集心理を痛烈にチェスタトンはこの作品で批判している。 本書をミステリとして捉えるか、寓話の形を借りた啓蒙書として捉えるか、ひとそれぞれ抱き方は違うだろう。私はそのどちらでもなく、その両方をミックスした書物、即ちミステリの手法で描いた啓蒙書として捉えた。 しかし約80ページ前後で語られる各編の内容はなかなか要旨を理解しがたい構成を取っている。舞台設定の説明はあるが、事件、というか出来事は筍式にポツポツと語られ、それが物語の総体をなす。つまり探偵役、犯人役が不在のため、物事を思うがまま、起こるがままに筆を走らせているように取れた。 しかし最後にチェスタトン特有の皮肉と警告がきちんと挟まれているのはさすが。特に先にも書いたが「不注意な泥棒」についてはまさかあんな自らの過去(ネタバレに記載)をフラッシュバックさせるような話が読めるとは思えなかった。 常人には全く理解できない各編の登場人物の行動が最後になって腑に落ちるのは実に鮮やか。21世紀の今でもその特異性は十分通じる。 しかし知の巨人チェスタトンよ、もう少しすっきりとした文体で書けなかったものだろうか?情報過多で実に読むのに苦労した。 この齢にもなると理解する力も衰えてきたようで、学生の頃に読んだようにはなかなか読めなかった。訳者の苦労も窺えるが、もう少し柔らかい日本語で読みたかったかな。 しかし最近筑摩書房は過去に単行本で出版されて絶版となっていた作品を落穂拾いのように文庫化して再販してくれる。チェスタトンに関してはこの次は是非とも「マンアライブ」もしくは「知りすぎた男」の文庫化を期待したい。 頑張れ、筑摩書房! ▼以下、ネタバレ感想 |
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舞台はメキシコのテオティトラン・デル・バリェ。メキシコが舞台となったのは第5作目の『呪い!』以来、実に20年ぶり。
そして期待どおり、その時に地元警部として出てきたハビエール・マルモレーホが再登場する(ちなみに私が持っているミステリアス・プレス文庫版ではハーヴェア・マーモレホとなっている。訳者は同じ青木久恵氏なのだが)。 本作はこのシリーズの原点回帰ともいうべき作品と云えるだろう。スケルトン探偵シリーズと銘打っているだけに、本書の最たる特徴そして魅力は形質人類学教授ギデオン・オリヴァーの学術的な骨の鑑定にある。それが最近の諸作では観光小説の色合いが強く出ており、それがおざなりになっていた感がある。特に前々作の『密林の骨』では骨の鑑定そのものが添え物でしかなかったくらいだ。 それが本書では3つも骨の鑑定が盛り込まれている。 1つはミイラ化した身元が解っている死体の死因についての鑑定。 もう1つは白骨化した身元不明の死体の性別・年齢を解き明かす鑑定だ。 そして3つ目は最後の最後に本書の真相解明として大きく寄与する博物館に展示されている古代サポテク族の頭蓋骨の鑑定。 しかもこれら全てが専門家に一度検分され、身元が推定された物であり、それらをギデオンが鑑定することにより、覆されるという複雑な特色を持った骨ばかり。正に題名に相応しく専門家達を「騙す骨」なのだ。 また1つ目の鑑定は早くも80ページで行われ、昨今長々と舞台となった外国の観光ガイド的な情報とエルキンズお得意の魅力あるキャラクターの説明に紙面が割かれる傾向とは全く異なり、スケルトン探偵シリーズの特色が色濃く現れた作品で、久々にギデオンの緻密な鑑定を存分に堪能した。 そして魅力あるキャラクターは本書でも健在。 エルカンターダ農場の面々、ジュリーの従妹のアニーとその父親カールのテンドラー父子に、オーナーのトニーと会計係のジェレミーのギャラガー兄弟に、無愛想ながらも極上のメキシコ料理を提供するシェフ、ドロテアに、文句ばかり云うホセーファ・ガリェゴスなどはもちろんのこと、特に印象が強かったのは地方の警察署長であるフラヴィアーノ・サンドバール。 この任期満了を間近に迎えた事なかれ主義のノミの心臓持ちの警察署長が、自らの不運を呪いながらもギデオンに協力していくところが非常にいい。事件を穏便に済ませようと願いながらも決して自らの権力で揉み消そうとせず、正義を貫こうとする健気さが実に好ましい。個人的に本書の助演男優賞を捧げたい。 同じメキシコを舞台にしながらウィンズロウの殺伐とした殺戮と麻薬の日々を描いた『犬の力』とは打って変わって終始牧歌的な調子で物語が進むエルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズ。その心和む作品世界は第16作になっても衰えるところが無く、慣れ親しんだところに帰ってきた感があり、非常に読んでいて心地がよい。 ミステリとして一読忘れ難いトリックやロジック、そしてどんでん返しがあるわけではないが、ユーモア溢れる文体とコミカルで愛すべきキャラクターが常に登場し、なおかつ骨やギデオンが訪れる地方ならではの知識が得られるこの雰囲気は離れがたい魅力がある。 愛すべきキャラとの再会を喜ぶ人がいるからこそ現在なお訳出され続けているし、私もそれを愉しみにしている人の一人だ。 またこの素晴らしきマンネリ作品の新作を待たなければならないのは、なんとも云えず待ち遠しいではないか。 解説によれば現時点での次作の原書の刊行もまだとのこと。 エルキンズ御齢75歳。ファンのエゴかもしれないがまだまだ健筆を奮っていただきたいなぁ。 |
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現代気鋭のヒットメーカー、ジェフリー・ディーヴァーの最初期の作品でルーン三部作とされるシリーズ物の第2作。
第1作は『汚れた街のシンデレラ』という邦題で早川書房から訳出されていたが、現在絶版。3作目は未訳と数あるディーヴァー作品の中でも不遇な扱いを受けているのがこのシリーズ。特に早川書房は早く復刊して欲しい(全くの余談だが、最近の早川書房の絶版の速さは驚くものがある。出版不況の中、余剰在庫を抱えるのはリスクであるのは承知しているが、出版業が文化事業だという意識の欠落が感じられる。トールサイズという独自の規格で本屋さんを泣かせてもいるし、最近すごくエゴとサーヴィスの低下を感じるのだが)。 さてジェフリー・ディーヴァーと云えばどんでん返しと云われているが、最初期の本書も正にそう。なかなか予断を許さない展開を見せる。 ハリウッドに数多ある映像プロダクションに勤める駆け出し社員ルーンが遭遇するポルノ映画館の爆破事件。その時たまたま上映されていた映画の主演女優シェリー・ロウに興味を覚え、この爆破事件のドキュメンタリーを撮ることを決意する。しかし爆破現場には<イエスの剣>なるテロ組織の犯行声明文が残されていて、続く犯行を予見させる。 ポルノ業界のみならず映像業界、しかもハリウッドスターが彩る華やかな銀幕の世界ではなく、弱小のプロダクション会社の日々を綴り、さらにそこに爆発物処理班の生活を絡める。 これら描かれる映像業界の内幕と爆発物処理班の日常そして爆発物処理の過程は確かに読み物として読み甲斐はあるものの、読書の愉悦をそそるまでには届かなかった。説明的で食指が動くようなエピソードに欠けた。あくまでストーリーを修飾する添え物の領域を出ず、プロットには寄与していない。 この辺はまだ作家としてのスキル不足を感じた。 また登場人物たちがステレオタイプで、あまり印象に残る人物がいないのが気になった。主人公のルーンは好奇心旺盛のやんちゃ娘タイプだが、読書中、なかなか貌が見えなかった。ルーンという中性的な名前のせいか、読む前はてっきり男性の主人公だと思っていたので、女性と解った時はびっくりした。ハウスボートに住むなど個性的な設定もあるが、作り物の感じは否めなかった。 彼女の相手役となる爆発物処理班のサム・ヒーリーやルーンが一連の爆発事件の容疑者として一方的に疑っているマイケル・シュミット、ダニー・トラウヴ、アーサー・タッカーもどこか類型的だ。 一つだけ鮮烈な印象を残すのは爆発事件の犠牲者となったシェリー・ロウだ。 爆発事件を彼女にスポットを当ててドキュメンタリーを作ることにし、ようやく撮影が始まった矢先に死んでしまったシェリーに共感を覚え、彼女の死の謎を追うことにしたルーンが辿る彼女の関係者から聞かされるシェリーの人となりはポルノ女優という卑しき職業に就きながらも気高く聡明さを感じさせ、掘り下げられるうちにその存在感が鮮烈さを増してくる。彼女の才能が類稀であることが解っていくにつれ、映像業界がポルノ映画、すなわちブルームービーへの強い偏見と嫌悪を抱いている現状と才能あるポルノ女優の恵まれない環境が読者の頭に次第に刷り込まれていく過程は見事だ。 それゆえにラストの余韻が生きてくる。詳しくは書けないのでこれくらいにしておこう。 しかし一方で他の登場人物の色合いがくすんで見えてしまったのは計算違いだったのではないだろうか。 といったようにこの作家が売れるようになった『静寂の叫び』やリンカーン・ライムシリーズを未読なので比較はできないが、若書きの印象を強く抱いた。 ただこの作者のミスリードの上手さは本書でも味わえる。後の作品の物と比べれば、それはあまりに当たり前すぎる手法かもしれないけれど。 逆に私はこの作品からどのように今、常に絶賛を以って新作が迎えられるようになったか、つまり“化ける”ようになったかを発表順に追っていくことで見ていこうと思う。 |
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久々のクーンツのスピード感と畳み掛けるサスペンスが冴え渡る良作だ。本書はクーンツの数ある作品の中で1つのジャンルを形成している“巻き込まれ型ジェットコースターサスペンス”の1つだ。
今まではとにかく訳が判らなくて命を狙われるという展開だったが、本書の主人公、突然の災禍の被害者ビリーの場合は、自身に被害が及ぶのではなく、警察に連絡するか、もしくはしなくても誰かが殺されるという脅迫を受けるのだ。つまり問われるのはビリーの良心なのだ。 最初は関係のない人たちが殺され、次のターゲットは友人のラニーに。そして自分にも被害が及びつつ、犯人は自らが行った殺人をビリーにかぶせようと周到な用意をする。やがてメッセンジャーが告げたのは自分に関係のある人の中から一人殺す奴を選べという衝撃の言葉。 真綿で首をじわりじわりと締めるようにビリーの生活は侵されていく。しかしビリーには気を休める暇もない。題名の“速さ”が示すように次から次へと犯人から残酷な要求が襲ってくるからだ。 さらに正体の解らぬ犯人が勝手に連続して殺しを行うだけでなく、全てがビリーを犯人だと示唆するかのように偽造証拠を残し、さらに犠牲者とビリーとの関係性が徐々に狭まっているところが恐ろしい。 しかし多作家のクーンツだが、よくもまあアイデアが尽きないものだ。彼の作品はワンパターンだという評価が巷間では囁かれている。確かに物語の構成は確かにそうだ。 絶望的なまでに強力な悪の存在に突然主人公が襲われ、それにいかに立ち向かい、勝利するかというのが物語の骨子だ。 しかしそのヴァリエーションの豊富さには目を見張るものがある。毎回よくこれほど悪意溢れるサイコパスを生み出せるものだ。これほどまでの人非人を考え付くものだと作者の創造力に恐れすら覚えるくらいだ。 実際の事件に題を取ったのか判らないが、彼の小説を見て同じ事を真似しようと考える犯罪者が現れないか心配すらしてしまう。 それは犯人だけでなく、例えば保安官のジョン・パーマーも同様だ。ビリーが14歳の時の彼との間のエピソードは人の悪意をまざまざと見せつける。しかもとにかく容疑者を犯人に仕立てようとする保安官なんて、こういう人間がいそうだから恐ろしい。 また物語の肉付けとなるエピソードの豊かさと小道具の良さにも注目したい。 腸卜なんていう占いがあったなんて知らなかった。これは作者の想像の産物なのだろうか?動物の死骸の内臓の配置から未来を読み取るなんて、実に奇抜で異色かつグロテスク。小学校の頃、よく食用蛙や猫の轢死体を見かけたが、あの腹を引裂かれて内臓が四方八方へ飛び散った死体を凝視するなんてちょっと想像するだに怖気が出る。 作者のオリジナルだとすれば、それもまたその創造力に感心する。 そして溶岩トンネル。これが非常によい。苦境に陥ったビリーの唯一の拠り所と云ってよいだろう。これがどのように使われるのかは作品を当ってもらいたい。 さらに物語のキーパーソンとなるビリーの恋人で植物人間のバーバラ。彼女が昏睡状態に陥った原因となるヴィシソワーズの缶詰が不良品だったというエピソードなど、当時の米社会で問題となった事件から材を得ていると推測されるが、食の安全を脅かし、明日は我が身である問題の身近さが忘れがたい印象を残す。 しかしこのバーバラの使い方は実に上手い。昏睡状態の彼女が呟く寝言の意味など、物語的にはさほど重要性はないと思っていたが、この意味が判明し、最後の感動的なエンディングに繋がっていくのだから、クーンツの物語作家としての余裕が感じられて非常によい。 本書と似たようなジェットコースターサスペンスに『ハズバンド』があったが、それと比べると断然出来はこっちの方がよい。あの作品は主人公が絶体絶命の犯罪者として仕立て上げられる状況がどんどん重なっていくのに、敵を倒したらいきなり何のお咎めもないエンディングを迎えるのに面食らったが、本書ではビリーを犯人とする偽造証拠を回収し、さらにあのハッピーエンドを用意している。 しかも今回のエンディングは読者の予想をいい意味で裏切る希望的な結末であるのがよい。最近の傑作『オッド・トーマスの霊感』と比肩すると云えば云いすぎかな。 まあ、でもクーンツに興味を持った読者が取っ掛かりとして読むにはバランス的にちょうどいい作品だろう。 クーンツはモダン・ホラー界のジョン・ディクスン・カーと個人的に思っているので、その出来は玉石混交。しかも昨今の作品ではその長大さとは裏腹な内容の薄さと回りくどい云い回しが目に付き、金額に見合ったパフォーマンスを見せてなかったと感じていたので、本書の物語のサスペンスの高さと長さ(総ページ数600ページ弱で上下巻なのが納得しかねるが)はお勧めだ。 クーンツ作品のスピード感(ヴェロシティ)を是非とも感じていただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ、再びハリウッドの土を踏む。
国名シリーズとライツヴィルシリーズの架け橋的な存在だったいわゆるハリウッドシリーズと云われている『悪魔の報酬』、『ハートの4』、『ドラゴンの歯』以来、実に約12年ぶりにハリウッドを舞台にしたのが本書。ロジックとパズルに徹した国名シリーズからの転換期で方向性を暗中模索していた頃の上の3作と違い、ライツヴィルを経た本作ではやはりロマンスやエンタテインメント性よりも人の心理に踏み込み、ドラマ性を重視した内容になっている。 今回も宝石商を営む裕福な家庭に隠された悪意について語るその内容はロスマクを思わせ、なかなか読ませる。 半身不随の夫に美人の妻、そして好男子の秘書、そして裸で樹上に設えた小屋に住む巨人ほどの体躯を持つ息子に自然と戯れる妻の父と、明らかに何か含みがありそうな一家が登場する。しかしロスマクと違うのは、事件は毒殺未遂に蛙の死骸散布と、本格のコードを踏襲した奇想で、ぐいぐいと読者を引っ張っていくところだ。 特に今回は作者クイーンのなみなみならぬ謎に対する異常なまでの迫力を感じた。 犬の死骸、砒素の混じったマグロのサラダ、何百匹もの蛙の死骸、札入れ、焼き捨てられた本、無用になった株券、見えない脅迫者から送られてくる箱の中身は脈絡のないものばかり。 これだけの材料を与えられながら、読者は犯人の正体とその意図を推理することは出来ないだろう。逆に混乱を招いてしまって一つの筋道を見つけることが困難になっていると云った方が適切か。 つまり本書もまた『九尾の猫』との類似性を感じるのだ。 『九尾の猫』は連続して殺されていく被害者を結ぶ手がかり、つまりミッシングリンクを探る物語だった。翻って本書は被脅迫者へ脅迫者が次々と送ってくる品々が意味するところを推理する物語である。つまりこれもミッシングリンクを探る物語なのだ。 つまり『ダブル・ダブル』と本書は『九尾の猫』を要の位置としてそれぞれ連続殺人物、ミッシングリンク物と『九尾の猫』が備えているエッセンスを解体して、別の手法で作り上げた作品のように感じられた。 また本書では今までクイーン作品ではあまり語られることのなかった当時の世情についても触れられている。エルロイ作品で有名なブラック・ダリア事件に朝鮮戦争の勃発と、暗い世の中の状況が出てくるのが意外だった。 そして特に朝鮮戦争では明白に大量殺人の中で名もなく埋もれてしまう何万人もの人間の死に対する憤りを感じた。1人の死に対して推理に推理を重ねて苦労する一方で、兵器によって簡単に何百人もの人間が殺されていくことの不合理さ。 笠井潔氏が現在もなお揺るがない「大量死と密室」論が本書でも同等の意味で語られている。寧ろ1990年代に至るまでなぜこのエラリイの述懐に気付かなかったのかが不思議に感じた。 さて本書の舞台がハリウッドであることの理由について作中でちらりと触れられている。映画の都ハリウッドでは世間の一般基準から逸脱した者たちさえも個性ある人物として逆に評価される、従ってこの夢の都では何が起きても不思議ではないというわけだ。 今後エラリイの活躍の場がホームタウンのニューヨークからこの地へ移るのか解らないが、なるほどなと思わされた。 人間の心理へ踏み込み、探偵が罪を裁くことに対する苦悩を描いてきたこの頃のクイーン。 前作『ダブル・ダブル』では作品の軸がぶれて、殺人事件なのかどうか解らなかったところがあったが、本書では次々と起こる奇妙な出来事の連続技で読者をぐいぐい引っ張ってくれた。 しかしその内容と明かされる真相および犯人の意図は現実的なレベルから云うとやはりまだ魅力的な謎の創出に重きを置き、犯行の必然性とマッチしないところがあって、手放しで賞賛できないところがある。 しかしミステリに対するエラリー・クイーンの凄みを感じる作品だったので今後の作品に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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一大麻薬王国メキシコ。中米の麻薬カルテル組織の壊滅に闘志を燃やす男アート・ケラーと、メキシコ巨大麻薬組織の長アダン・バレーラとの約30年に亘る闘争の歴史を描いた物語。
それは血よりも濃い忠義の絆で結束される世界があり、そこにはアイルランド系マフィアもイタリア系マフィアも絡む惨劇の物語だ。 麻薬。この現代の錬金術とも云える、人を惑わす物質はそれに関わる人々の人生を流転させる。 正義を謳い、悪を征する側に付いていた者は賄賂と便宜にまみれた一大情報ネットワークを構築し、巨大組織を殲滅せんとする。が、しかしそのネットワークが次なる麻薬王誕生の足がかりとして悪用され、正義が巨悪へと転ずるのだ。 フリーマントルはかつて自身の著書で「犯罪はペイする」と唱えたが、正にそう。ここに登場する人々はペイするがゆえに危ない橋を渡り、巧妙な麻薬密輸ルートと販売網を確立する。発展途上の国では警察を含め、役人は薄給に不満を持っており、誰もがその制服と肩書きが持つ力を悪用し、賄賂という“副収入”を得ようとする。 しかしそれは自らが逃れられない粛清の鎖に絡め取られる端緒となることに気付かないのだ。いや気付きはすれど貧しさゆえに目先の収入に抗うことが出来ないのだ。そして誰もがその恩恵に与ろうと待っているのだ。 そしてそれは麻薬の密輸ルートの確保を生み出す。地続きの大陸だからこそ起こるこれほどまでに巨大な密輸作戦。なんせ中南米の貧しい国々は北に向ければ莫大な消費力を誇るアメリカがすぐ近くにある。この巨大なマーケットは実に魅力的。ハイリスクハイリターンの典型的なモデルだ。 このメキシコを中心とした中南米の麻薬戦争の一大叙事詩。本書のドン・ウィンズロウは最初からフルスロットルだ。ゴッドファーザーといえばイタリア系マフィアが有名だが、ウィンズロウはメキシコ人の血よりも濃い“家族(ファミリー)”の絆を描く。赤茶けた砂漠と土塊で作られた建物が林立する埃立つ町並みが、常に汗ばみ、黒々と日に焼けた皮膚で佇む男どもの体臭が、そして灼熱の太陽が行間から立ち上ってくるようだ。 暑さが人の心を狂わせるように、麻薬を摑んで一攫千金を狙う男達の心は次第に歪んでいく。それは権力だったり、愛だったり、憎しみだったり、そして麻薬そのものだったりする。それは悪を狩る者でさえそうなのだ。 捜査官アートは自らの正義を重んじ、自らの矜持に従い、どんな権力にも屈せず、単純に悪党どもを殺さず、法の手に委ね、裁きを受けさそうとするが、そこで直面するのはアメリカの政治原理の壁。中米の共産主義国ニカラグアを第2のキューバに、つまりソ連の属国にさせないためにコントラを配備し、その資金源をなんとメキシコ麻薬組織に頼っていたのだ。 持ちつ持たれつのこの関係にアートは一度屈するが、部下のエルニーの凄惨な拷問死に直面し、鬼となる。そこにはもはやかつて正義と使命に燃えていたアートはいず、不可侵の復讐鬼がいるのみだった。正義をなす為にあえて悪の手に染める。毒には毒を以って制さねばならないという、弱肉強食の原理が存在するだけだった。 麻薬の利権争いが拡充するにつれて、覇権争いも次第にエスカレートしていく。 下克上の世の中、身内が身内を売り、部下がボスを売り、のし上がる。そんな欺瞞と裏切りの日々の連続であり、狩る側狩られる側双方が情報を操作して内乱を起こさせようと企む。そしてついには彼らの家族にまで手をかける。 キリスト教圏の国でありながら、姦淫そして父親殺し、子供殺しなど、その内容は罪深いことばかり。麻薬王国の礎にはどれだけの屍が必要なのか、目を塞ぎたくなる光景が続く。それは正に殺戮の螺旋とも呼ぶべき血みどろの戦いの連続だ。 そんな凄惨な物語ゆえに、登場人物たちもウィンズロウならではの個性的な面々が出てくるが、裏切りと疑心の生活にまみれた者たちばかりなので、自然に各々の性格は歪んでくる。 CIA勤めからヴェトナム戦争を経験し、復員して犯罪を撲滅しているリアルを感じたいがためにDEAへ志願した主人公アート・ケラーも麻薬組織そしてその長で近しい者たちの仇でもあるアダン・バレーラら巨悪を壊滅するために自ら悪の道へと堕ちていく。 敵役のアダン・バレーラは血を見ることを嫌う麻薬組織の王だという面白い性格付けがなされている。 そして後半物語の牽引役となる美貌の高級娼婦ノーラ・ヘイデン。類稀なる美貌を持ちながら、男の心を読み、なおかつ何年もの間メキシコ麻薬王のそばで密告者として潜入する度胸を備えている。 その他風変わりな司教ファン・パレーダ、本能の赴くままに生きるアイルランド人の殺し屋ショーン・カラン、無頼派捜査官アントニオ・ラモス、などなど個性の強い人物が登場する。ただそこに道化役がいないのだ。 話は変わるが、ウィンズロウという作者の名を聞いたときにどんな作品を思い浮かべるだろう。私はシンプルな導入部から次第に錯綜する組織の利害関係が絡み合う複雑な構図を持ったプロットを、減らず口まじりの軽妙な会話とペーソスの入り混じった叙情を持たせた文体で語る作品を真っ先に思い浮かべる。 恐らくこの作家の読者の大半はそうではないだろうか? そしてこの麻薬が生み出す凄惨な物語は一部ウィンズロウお得意の軽妙な語り口が混じってはいるものの、基本的にはハードヴァイオレンス路線の作品である。そして今までの作品の中でも最も長い上下巻合わせて1,000ページ以上にもなる大著は、面白いとは思うものの、世評の高さほどには愉しめなかった。 先にハードボイルド路線に徹した作品『歓喜の島』というのがあるが、私が楽しめなかった作品の1つでもある。この作品の出来栄えの素晴らしさは認めるものの、5ツ星を与えるほどの何かを残す作品ではなかった。 しかしこれは全く好みの問題。恐らく『ゴッド・ファーザー』が好きな人は本書を21世紀版のそれとして読み、愉しむことが十分出来る濃厚な作品である。 とにかく一口では語れない色々な内容を含んだ作品だ。本書に書かれた麻薬密輸の証拠の獲得方法―飛行場で待っているよりも偽装の滑走路を設けて逆に敵を引き寄せる―、コカインが通貨として成立する社会の話、隠密裏になされた“赤い霧”作戦、“コンドル作戦”、などなど書き足りないことは数多ある。 最後にこのなんとも素っ気無い題名「犬の力」について。 これは旧約聖書に謳われた悪を行使する心の奥底から立ち上る力のことだ。悪を滅するためにあえて悪に染まるアートの断固たる決意をメインに謳われている。もはや純然たる正義は存在しないのだ。 今までの作品でも正悪が反転し、価値観を惑わすプロットを駆使したウィンズロウが心底抱いた滾りを本書にて前面に押し出したといっていい。血と金なき正義はもはや存在しないのだとウィンズロウの叫びが感じ取れる。しかしやっぱりそれでもニール・ケアリーもしくはジャック・ウェイドの再登場を願ってしまうのだった。 |
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前作『浪花少年探偵団』から5年。あのしのぶセンセが帰ってきた。
本書も前作同様、しのぶセンセこと竹内しのぶと彼女の元教え子の2人が主要登場人物の連作短編集となっている。そしてタイトルが示すとおり、本書がシリーズの幕引きとなる一冊でもある。 まずは復活の一発目「しのぶセンセは勉強中」。 本書が刊行されたのは1993年だから本編が発表されたのはそれ以前であろう。当時はまだ私も学生の身だったので、その頃のパソコンの普及率を考えると世の中の変化についていけない者が出てきて、社会に淘汰されていくというニュースも出ていた記憶がある。 時代と共にやはり内容も古びてしまう。それでも今なお本書が当時の内容で刊行されているのは東野人気のためだろうが。 続く「しのぶセンセは暴走族」ではしのぶセンセは子供達に交通事故の恐ろしさを教え、守ろうという動機から自動車教習所へ通って免許取得にチャレンジ中。 恐らく読者のほとんどが経験しているであろう自動車教習の部分がやはり面白い。確かに金払っているのにあれだけ傲慢に振舞い、罵倒されなきゃならない境遇は珍しい。私もそう毅然と云えればよかったが、やっぱり無理だよね。謎としては小粒か。 次の「しのぶセンセの上京」は文字通りしのぶセンセ東京進出の話。 前作で新藤の恋敵役だった本間義彦再登場。彼は大阪から東京に転勤しており、しのぶセンセの東京ガイドという役回り。とはいえ、やはりここに新藤が絡まないと単なる道化役にしかなっていないのが惜しいところだ。 さすがのしのぶセンセも病気には勝てなかった。「しのぶセンセは入院中」では急性虫垂炎で入院したしのぶの所にも事件は訪れる。 ここは素直に登場人物たちのやり取りと小出しに発生する事件に頭を捻りながらストーリーに身を委ねて、愛すべき登場人物たちが織り成す笑劇に浸るのが吉。 とうとう学生生活から先生へ復帰するしのぶセンセは実家に戻ることを決意する。「しのぶセンセの引っ越し」では住んでいたアパートに最近越してきた母子が、新藤が担当する強盗殺害事件に絡む。 非常に狭い範囲で展開する物語。真相は小粒で、安西と松岡老人とのミッシングリンクを探る物であるが、本格ミステリ度はやはり低く、読者が推理して解明できるプロットではない。真相を知ることで加害者と被害者どちらが悪いのかという正義のあり場を考えさせられる話だが、シリアス度はさほど感じられない。 そしてシリーズの最後を飾るのが「しのぶセンセの復活」。 シリーズ最後の本編は原点回帰ともいうべき、しのぶのクラスで起きる事件を描いたもので刑事事件でもなく、虐めの萌芽と馴染んでくれない生徒達に何とか立ち向かうしのぶの姿が描かれる。したがってこの短編にはレギュラーメンバーである田中と原田は登場しない。それこそしのぶセンセの新たな出発の象徴といえよう。 シリーズ1作目同様、肩の力を抜いて楽しく読めるキャラクター小説である。こちらの独断かもしれないが、物語の構成が手がかりを提示した本格ミステリの風合いから次々と事件が起きて読者を愉しませるストーリー重視の犯罪物に変わっているように思う。 それぞれの短編の雑誌掲載時期が載せられていないので、どの作品がいつ頃書かれたか解らないため、これが東野氏の作風の変遷と同調しているのかが解らないのが残念なところだ。 しかしあとがきにも作者自身が作風の変化を自覚していることを述べているからこの推察は間違いないだろう。読者の推理の余地がないので、本格ミステリ度は薄いが、逆に東野氏のストーリーテリングの上手さと、関係のないと思われた事象がどのように繋がっていくのかを愉しんで読める作品になっている。 従って推理するという作品ではなく、しのぶセンセとレギュラーメンバーである浪花少年探偵団(といってもたった2人だが)こと田中鉄平と原田郁夫、そいて新藤刑事に恋敵本間義彦らが織り成す涙と笑いのミステリ風大阪人情話なのだ。 そして今回しのぶセンセは教師ではなく、兵庫の大学に内地留学している身である。 これが本作にどう影響しているかというと、教え子が絡む小学校に関係する事件ではなく、しのぶセンセを取り巻く環境で起きた事件を題材にしている。そして前作でレギュラーだった田中鉄平と原田郁夫が元教え子として絡む。従って自由度は以前よりも上がっているから事件も学校・生徒という限定空間から外側に広がっている。 各短編の出来は平均的といってよく、駄作もなければ傑作もない。強いてベストを挙げるとなるとやはり最後の「しのぶセンセの復活」となるか。子供の跳び箱事故からある家族の家庭事情に繋がり、教師の転勤へと繋がっていく話の妙はさすがだが、この短編の読みどころは教師生活にブランクを置いたしのぶの再起する姿にある。シリーズの終焉に相応しい好編だ。 大阪弁を前面に出した軽妙なストーリー運びと下町の姉ちゃんと呼べる威勢のいい女教師のこのシリーズ、シリアスな作品が多い東野作品の中でも異色のシリーズだっただけにたった2冊でシリーズを終えるのは惜しいものだ。 現在押しも押されぬ国民的人気作家となった東野圭吾氏がこのシリーズを再開するのは限りなく0%に近いだろうけど、執筆活動の気晴らしとしてまたぼつぼつと書いて欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の主人公は火災査定人。なんでも作者ウィンズロウ自身が保険調査員だった時の経験を基に書いたのだそうだ。
そして内容も経験した者でしか書けないディテールに満ちている。特にジャックが火災現場で火元を調査する詳細な件は実に精緻でリアルに満ちている。科学的根拠に基づいたその調査は素人の好奇心を掴んでやまないほど、面白い。 さらに保険に纏わる数々の信じられないようなエピソードが読書の興趣をそそる。 保険会社を変えてはスプーンの盗難を訴え、保険金をせびるオリヴィア・ハサウェイ老婦人のエピソードも面白いが、何といってもアメリカで保険金詐欺が続出している件が非常に興味深かった。 何しろ不景気になると保険金を目当てにした偽装火災が増加するのだそうだ。好景気の時に将来の収入を見込んで、ちょっと背伸びをした金額の家を購入するが、不況の波で給料が削られ、「こんなはずではなかった」状態に陥り、減少する給料に比例せずにローンは一定の金額で出て行く。そんな苦境に陥ったとき、自ら火災を起こし、全てを無に帰し、一からやり直そうとするのだそうだ。その額、なんと1年で80億ドル!80億「円」ではなく、80億「ドル」なのだ。そしてこの手の犯罪は1年に約8,600件起きており、つまり1時間に1件起きていることになる。まさに保険会社はこれら詐欺事件との日々戦いだといっていいだろう。 また保険会社内の力関係についてもウィンズロウは詳らかにしている。契約を取ってくる外務部門。社に利益をもたらすよう保険率の算定を行う引受部門。そして保険金を支払う補償部門。 どこの会社でもそうだが、利益を生み出す部門が社内では発言権が大きく、また優先される。補償部門に所属するジャックは自身の会社の大口契約の顧客であるニッキーの不正を暴こうとするのだが、そうすることで大口の契約を失う外務部門の担当者や引受部門の協力者たちの妨害に逢う。 う~ん、サラリーマンを主人公にしながら、これほどマーロウを想起させる孤高の騎士を生み出す業界があっただなんて、いやはやウィンズロウはいいところに目をつけたものだ。 そして何といっても外せないのはウィンズロウが描くキャラクターの魅力だ。主人公のジャック・ウェイドはカリフォルニア火災生命の中でも腕利きの保険査定人として知られているが、実は過去は郡保安局の火災調査部のトップの調査員だった。しかしある事件をきっかけに職場を離れなければならなくなり、サーフィンと仕事に明け暮れる日々を過ごしている。その正義感の強さが彼の魅力であり、また弱点でもある。 この世渡り下手な男は上にも書いたが私に云わせればフィリップ・マーロウそのもの。以前よりウィンズロウの作風がレイモンド・チャンドラーに近づきつつあることを云っていたが、本作でその思いをさらに強めた。減らず口を叩くところはデミルのジョン・コーリーに類似しているが彼ほど型破りでもなく、また女たらしでもない。 そして敵役のニッキー・ヴェイルの造形も見事。KGBの工作員でアメリカにロシア・マフィアの一味になって不法に外貨を流出させることを命令され、マフィアの元締まで昇りつめたが、アメリカの自由に魅了され、アメリカ人の実業家となることを決意した男。彼の歪んだ心理構造が彼の想像を絶する過酷な生立ちを語ることで肉付けされていく。 その他、ジャックを保安局から追い出す要因となった天敵のブライアン・<失火>ベントリー、良き理解者である上司の<こんちきしょう>ビリー。元恋人のレティ・デル・リオ、そしてジャックが義憤を燃やす被害者のニッキーの妻パミラ・ヴェイル、その他登場人物表に名前が記載されていない人物も実に個性的で読者に感情移入を否応なくさせられる。 特に今回はウィンズロウが主要登場人物の過去にページ数をかなり割いて丹念に掘り下げているため、これまでの諸作よりもさらに登場人物たちの造形は深みを増している。 ウィンズロウの作品の根底に流れるテーマに“父性”がある。ニール・ケアリーシリーズでは彼を探偵に育て上げたグレアムがその象徴だし、ノンシリーズでも『ボビーZの気怠く優雅な人生』では主人公のティムが実の子供ではないキットを我が子のように扱い、父子の絆を築き上げていく。また先だって読んだ『歓喜の島』でも主人公ウォルターの回想にモノローグの如く、父親の訓示が挿入されていた。 すなわち作者ウィンズロウにとって父親という存在は自己を形成する上でかなり影響を受けた人物であり、また自身の息子に対し、こうありたいという理想像を作品に投影しているのではないだろうか。そして単に説教になりがちな父親の存在と言葉が全く騒音にならず、寧ろそれがあるために登場人物に深みが増し、読者の親近感を誘うのはこの作者の上手いところだ。 しかし本作では父親の蔭はそれまでの作品に比べると成りを潜めているようだ。主人公ジャックの頭に過ぎる父親の言葉は物語の冒頭部分にしか現れない。 これは父性からの脱却なのだろうか?つまりジャックを今までの主人公とは違う、より自立し、独りで考え、直面した問題を克服する男として描きたかったのだろうか? 確かにこのジャックは保険査定人として一流でありながら、“自分”が有りすぎるために妥協せず、そのために罠に嵌り、巨大な壁に何度も直面する。それを粘りと不屈の精神で乗り越えていく。 このジャックの姿勢を見ると、確かに上に考えたようなことが当て嵌まるように思える。これは後の作品でも注目していこう。 そしてウィンズロウの十八番である読者の予想の斜め上を行く意外な真相は本書でも健在。訴訟社会と云われるアメリカの立証第一主義の裁判が明らかな殺人の痕跡を“血の粛清”でもみ消し、またそれを逆手に取って莫大な損害賠償を求める訴訟を生み出す。そんな自縄自縛な保険業界のジレンマをまざまざと見せ付けられる哀しい結末だ。 これほどまでに絶賛しておきながら評価が8ツ星なのは、物語の閉じ方に不満を感じるからだ。 なぜだか解らないが、ウィンズロウの作品にはハッピーエンドが少ない。そして本書もなんとも報われなさを醸し出す読後感をもたらすのだ。 あのニール・ケアリーも最後は孤独だった。これはウィンズロウの人生観なのだろうか?男はすなわち行き着くところは孤独なのだ、と。それとも次の再開を仄めかす終わり方なのだろうか? 最後に苦言。 こんなに面白い作品なのに、表紙で大いに損をしている。この生っちょろいイラストではこれが不屈の男の生き様を描いた作品だということは想像つかないだろう。表紙に引かず、是非とも手にとって欲しい。保険業界の仕組みや裏側も判り、なによりもジャック・ウェイドという、この上ない魅力ある主人公に出逢えるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ウィンズロウのノンシリーズ物の長編だが、本書の主人公ウォルター・ウィザーズは実はニール・ケアリーシリーズの『ウォータースライドをのぼれ』に登場した落ち目の探偵。
あの時の凋落振りからは想像も出来ないほどのやり手の調査員として登場。なにしろ腕利きの元CIA工作員であり、調査会社に転職しても、FBI、イタリアンマフィア、その他アメリカの暗部に顔が利く人物たちにも対等に渡り合うほどの人物なのだ。 そして文体も1950年代の夜霧の雰囲気漂うハードボイルド調と、またしてもウィンズロウの新たな一面に触れられる作品である。古き良きアメリカ。まだ夢が夢として存在し、誰もが成功する可能性を秘めていた時代がセピア色の文体で語られる。行間には常にジャズが流れ、男と女は本心を揺蕩わせながらその日を生きるムードが漂っている。 そして事件はやはり男と女の間で起きる。マルタ・マールンドという女優で上院議員の浮気相手を軸に上院議員婦人のマデリーンはもとより、ウォルターの恋人アンまでもが関わっていることを知らされる。 魔性のような男には抗い難い女の周りで起こる不協和音。そして次期大統領候補を落としいれようとするスキャンダルの渦。 探偵ニール・ケアリーシリーズならばニールの減らず口をメロディに軽快に語られていた同種の事件が、ウォルターが主人公の本書では哀切と退廃を伴って語られる。 レイモンド・チャンドラーを意識しているのか、物語はウィンズロウの作品らしく常に核心に触れながら展開するのではなく、色んな登場人物をウォルターが渡り歩き、なすべきことが明確になってもそこに急進していかない。寧ろ彼は自らの恋人アンとのことが気がかりで、仕事よりも彼女との関係に腐心することが多い。 そして物語のアクセントとして使われるのが酒。夜の酒場をウォルターは彷徨する。 しかしそんな回り道も全てが一連の事件に収束していくのが最後の方で判明する。いやあ、この手際にはちょっと驚いた。 また折に触れ、ところどころに挿入されるウォルターの父親からの警句がまた実に効いている。豊かな人生経験に裏打ちされた含蓄溢れるその言葉はいちいち頷くことしきり。 全てノートにメモって自身の人生の教訓、または道標にしたいくらいだ。 やがてウォルターは次期大統領候補をスキャンダルの汚辱にまみれる決定的な証拠を摑むがゆえに、敵味方から襲われる存在になる。この絶対的な状況を打破する最後のカードが実に巧妙。 これはまさにエドガー・フーヴァーなるFBI長官という影の大物の脅威に50年代のアメリカが包まれていたことを示すわけだが、いやあ、本当に最後までどうなるんだろうと思いました。 そんなウィンズロウの新境地を切り開く作品だが、それでもやはり今までの作品と同様に政治家のスキャンダルが物語の要素だというのもそろそろ飽きてきた。 思えば第1作の『ストリート・キッズ』もこの次期大統領候補と目される上院議員の、スキャンダルを未然に防ぐだめに不肖の娘を確保するという内容だった。この政治的スキャンダルはウィンズロウ作品にはけっこう取り扱われているテーマであり、純粋にスラップスティック・アクションに徹した『砂漠で溺れるわけにはいかない』からウィンズロウの新境地への幕開けと思っていただけに本書のプロットは期待とは違ってしまった。 しかしこれは私の捻くれた感想であることを忘れないでいただきたい。本書はそんな政治的策略が巧妙に絡んだ、ハードボイルドを主体とした優れた作品であることは間違いない。ただこちらが期待した物が違ったというだけなのだ。 ウィスキー片手に50年代の煙る街ニューヨークを舞台にジャズが漂う男と女が交錯するハードボイルド小説を読んで、浸りたい方にはお勧めの1作だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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てっきり学園青春ミステリとは縁を切ったと思っていた東野圭吾氏が久々に学生、しかも高校生を主人公にして書いたミステリが本書。しかもデビュー当時の瑞々しさは失わずに、寧ろ豊かな経験を重ねた分、人物像にさらに厚みが増し、そしてプロットの切れ味が増しているという、東野氏のこの手の作品が好きな人にはまさに堪らない一品となっている。
何しろ主人公の西原荘一はじめ、彼を取り巻く高校生たちがなんとも瑞々しい。親や先生の云うことを聞く、聞き分けのいい生徒ではなく、彼らはすでに自分達の世界を持ち、恋にスポーツに受験に明け暮れているのだ。 この歳になると、高校時代とか大学時代という、世の中のしがらみに囚われずに一所懸命何かに取り組めた頃を懐かしむ傾向に私はあるようだ。 技巧派である東野が本書で主人公西原の一人称叙述を用いたことで学校で起こる恋人の交通事故死と妊娠騒ぎ、そして教師の自殺に同級生の自殺未遂とショッキングな事件が連続する事件の数々を、高校生の青臭さと純粋さを持った視点から同世代の友達との交流も合わせて語らせて、あえて難しくない事件を解りにくく書かせることに成功している。 そしてまた冒頭のエピローグで語られる先天的に心臓に異常を抱える妹春美に纏わるもう一つの物語の軸を煙幕で覆い隠すことにも成功している。 ただ非常に危うい設定の作品であると云わざるを得ない。 主人公の行動に矛盾がありすぎるのだ。 特に恋人宮前の死の真相を明かすべく、クラス全員の前で自分がお腹の子の父親だと公言し、その死因に教師の過剰な生活指導に原因があると糾弾する。しかしこういうことをしながらも自身の所属する野球部が地区大会に出られるように事を大きくすることを危ぶむ。 自分で騒ぎを大きくしておきながら、この心配がどうにもちぐはぐな印象を受ける。高校生の考えること、そう考えれば納得は行くかもしれないが、世を斜に構えた姿勢で見る、あの頃特有の生意気さと背伸びした大人の素振りを見せる主人公がこのような行為をすることがどうしても結びつかない。 しかしこれらは推理小説として捉えればの話であり、青春小説として捉えれば、この主人公の行動も理解が出来る。要するに自分に正直に生きることを信条とするがゆえの若気の至りなのだ。 最後に至って西原の真意が明かされるに当たり、それが明確に見えてくる。これは若さゆえの何物でもないな、と。こういう心情を書ける東野圭吾氏の若さを本作では買いたい。 しかし毎回思うがこの作者の筆致の淀みの無さはいったい何なんだろう?全く退屈を感じさせること無く最後まで読ませる。しかも巧みに物語に謎を溶け込ませ、読者に推理を容易にさせない。推理するためにページを繰る手を止めるよりもストーリーが気になって先に進めることを選択せざるを得ないのだ。 そして最後の一行のカッコ良さ。青臭さを感じる生意気な高校球児である主人公西原荘一のお株をグンと挙げるキメ台詞だ。 人を教育することに信念を持つ先生という大人と、大人と子供の境で日々を生きる高校生という人種が交わる閉鎖空間、高校。 この特異な空間で歪められた人間関係が生み出した悲劇。 個人的には悪人は誰もいなかったように思う。誰もが己の正義を貫こうと、己の護るべき物を護ろうとした結果ゆえに、これほどまでに捩れてしまったのだ。 成熟の域に達した東野氏が久々に放った青春学園ミステリは、やはり上手さの光る逸品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ニール・ケアリーシリーズでデビューしたウィンズロウが、同シリーズを“一旦”終了させて書いたノンシリーズが本書。探偵学入門編という体裁を取りつつ、娼婦の母親に育児放棄された形でストリート・キッドとして生きていかなければならなかったニールの、ちょっと触れれば壊れてしまいそうなナイーヴさを特徴に、潜入捜査を通じて人生の哀しみを知り、成長していく姿を描いていたが、後半はスラップスティックコメディからロードムーヴィーのような追跡劇へと、ニールの内面の掘り下げからユーモアを前面に押し出すような展開を見せていた。
そして本書で選んだのがロードムーヴィーアクション。伝説的サーファー兼麻薬王ボビーZの替え玉に選ばれたティムが、生き残るために、そしてボビーZが遺した子供のためにしつこく手強い追跡者達を迎撃しながら逃走していく。 いやあ、すごいね、これは。 題名は「気怠く優雅な人生」だが、中身は全く正反対。ニール・ケアリーシリーズと違って死体が出るわ出るわ。確かに同シリーズの3作目『高く孤独な道を行け』でもクライマックスにアクション要素をふんだんに織り込んだシーンがあったものの、こちらは全編に渡ってそれ。 特に登場人物表に載せられた人物がバッタバッタと死んでいき、全く先が読めない。たった310ページ強の作品なのに、今までの作品よりも出てくる死人の数が多い。 しかし血生臭さを感じるけれども、それよりもやはりアクションシーンが眼前へ蘇る。それはなんとも迫真に満ちている。 人を殺した者にしか解らない心の機微や感触を実感を伴わせて描写する。 しかし単なる殺し合いのエンタテインメント小説にしていないのがこの作者のいいところ。 ボビーZに成りすましたティムが道連れにするのはボビーZの隠し子であるキットという子供。彼との逃亡劇がキットにとって父親との失われた交流を取り戻す時間となり、ティムは他人の子供ながら我が息子と同様に慕い、やがて親子の絆を築き上げる。 そしてエリザベスというかつてボビーの恋人として振舞うキットの世話役の絶世の美女の存在もこの物語にアクセントを与えている。麻薬王ドン・ウェルテーロの下に入りながらも、ボビーZことティムに加担する彼女は高級娼婦で男性を手玉に取る器量を持ちながら、情に厚いところもあるファム・ファタール的存在だ。 ニール・ケアリーシリーズのヒロイン、カレンといい、本当にウィンズロウの描く女性像は魅力的だ。 上に書いたように物語の構造自体は伝説の麻薬王ボビーZの替え玉となったティムが自らに降りかかる色んな災厄から逃亡するという実にシンプルなのだが、ティムを追う敵たちが多種多様でそれらが見事に絡み合い、アンサンブルを奏でる。 ティムを替え玉にした麻薬取締捜査官グルーザから始まり、過去のある恨みからボビーを亡き者にせんとするメキシコの麻薬王ドン・ウェルテーロ。それにティムの刑務所時代の敵役だったヘルズエンジェルの面々。そしてボビーの腹心であったがボビーの財産に目が眩み、我が物にするため、ボビーを亡き者と画策する“僧侶(ザ・モンク)”。 それらを軸に登場人物表に記載されていないのが不思議なくらい個性的なキャラクターがボビーZことティムに関わってくる。たった320ページ弱の中にこれだけ面白い交錯劇をよくも編込んだものだと、改めてこの作家の技量には感服する。 本書は1997年発表の10年後、ハリウッドでポール・ウォーカー主演で映画化された。確かにこれだけアクションシーンが多く、しかも先を読ませないストーリーと絶妙なプロットを備え持つ作品であれば映画化されてもおかしくはない。 興行成績的にどうだったのかは寡聞にして知らないが、それにして映画化までけっこう長くかかったものだ。 しかしやはりニール・ケアリーシリーズを比べるとくいくい読めるものの、心に何かを残すのには軽すぎたように思う。確かにティムとキットの交流は特に物語の終盤に胸を熱くさせるシーンはあるが、ニール・ケアリーシリーズで見られたほどにはトーンは低く設定してあるようだ。 『砂漠で溺れるわけにはいかない』から続いて出版された本書に共通するのはそれまで上梓された作品に比べて非常にページ数が少ないことだ。この頃の作者は過剰に書き込まずにスピード感持った作品を書くことを目指していた、もしくはそういう物を書けるように訓練していた風にも取れる。前作にも書いたがなんだかエルモア・レナード作品を読んでいるような感じも受けた。 色々書いたがこの作者の作品が面白くないわけでは決してない。寧ろ何も考えずに面白い話を読みたいという人や時には最適の一作だろう。 |
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御手洗・石岡コンビ若き日の事件。やっぱり彼らはこうでなくてはならない。
初期の御手洗シリーズのテンポ、御手洗の奇矯ぶり、そして2人の漫才のような掛け合いが戻ってきた。開巻してすぐ私はこの快哉を挙げた。初期シリーズに見られたユーモアも織り込まれ、一気に御手洗ワールドに引き込まれた。 この頃の島田氏は物語の復興を唱えていた。ミステリはトリック、ロジックも大事だが、まず小説でなければならない、コナン・ドイルの時代から描かれてきた物語がなければならない、確かそのようなことを提唱していたと記憶している。そして本書が出た2006年は月刊島田荘司と銘打たれたように、6ヶ月連続で新刊(一部加筆訂正も含む)が発表され、気炎を吐いていた。 特に本書ではコナン・ドイルへの影響が顕著で、事件の発端となった日の御手洗・石岡コンビの日常が語られるあたりは全くホームズシリーズの導入部と似ている。そして奇妙な依頼と事件発生、解決、そして事件に至るまでの犯人の長いエピソードなど、構成は全くもってホームズシリーズの長編と瓜二つだ。 そう、ミステリ始祖に敬意を表した原点回帰がこの頃の島田氏の活動指針だった。 本書はしかしミステリとしてどうかと云われるとその出来映えについてはやはり首を傾げざるを得ない。御手洗が登場するのは全277ページの物語のうち、たった76ページぐらいで、その後はある野球選手の半生と事件に至るまでの経緯が手記の形で語られるのである。したがって御手洗の推理らしきものはほとんどない。 まあ、確かに御手洗は超人型探偵で事件に遭遇しただけで全て見極めてしまうのだが。しかし事件の真相はこの手記で明かされており、一応御手洗はその手記で出て来はするものの、間接的に事件の真相を見抜いたようにしか書かれていない。つまりこれはもはや推理小説ではないわけで、読者は事件が起きた後、犯行手記を延々と読まされるだけなのだ。 これは構成上、大いに問題だろう。ホームズでも犯人究明の推理はなされていた。それが故に彼は今なおミステリ界に君臨するキング・オブ・ディテクティヴなのだ。 しかし本書ではその推理すら披露されない。全てを見抜いた御手洗の暗示的な台詞が仄めかされるだけなのだ。ちょっと物語に比重を置きすぎたバランスの悪い作品と云える。 しかしそんな構成上の不満はあるものの、やはり島田氏のストーリーテラーぶりは素晴らしい物がある。 少しの才能でプロ野球選手を目指した貧しき男と、天性の才能で見る見るうちに球界を代表する選手にまでなった全てを手に入れた男の友情物語は、はっきり云ってオーソドックスな浪花節以外何ものでもないが、くいくいと読まされる。作者の揺ぎ無い創作姿勢とも云える弱者への優しい眼差しも一貫されている。 つくづくこの作家は物語を語るのが上手いと感じた。 ただ現代本格ミステリ界の巨人としてはやはり上記の理由から凡作といわざるを得まい。100ページ足らずの短編をエピソードで無理矢理引き伸ばした長編、もはやテクニックだけで書いている作品だなぁと一抹の寂しさを感じてしまった。 |
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とうとうこの時が来た。ニール・ケアリーシリーズ最終巻。
元々最終巻は前作『ウォータースライドをのぼれ』だったようだが、本作はファンの要望に応えて書かれた後日譚と云われている。そのせいか、他の作品と比べて総ページも約250ページと約半分の分量である。しかしそれでもやはりウィンズロウ、しっかり仕事をしてくれている。 毎回このシリーズには印象的なキャラクターが登場するが今回は何といってもニールが家へ連れ戻す老人、元コメディアン、ナッティ・シルヴァーことネイサン・シルヴァースタインのキャラが秀逸。 今までの作品でのウィンズロウのウィットに富んだ文体で彼のユーモアのセンスは解っていたつもりだが、コメディアンをメインに据えた本書ではそれが全開。今まで我慢していたギャグを大放出しているかのようだ。そしてそれがほとんど面白い。 それがまたナッティのキャラクターの造形を色濃くしている。そしてその飄々とした好々爺の風格が古き良き時代のアメリカン・コメディアンそのものであり、眼前にナッティがしたり顔でジョークを連発するのが目に浮かぶくらいの存在感を放っている。 この分量であるから、前4作に比べるとすごくシンプルな作りになっていると感じるのは否めないが、内容的には思う存分愉しめた。7ツ星評価は今までのシリーズに比べての相対評価であり、もしこの内容でノンシリーズだったり、第1作目であれば8ツ星を献上しただろう。 3作目から登場したカレンだが、実にいい女性だと思う。大人に成りきれないニールの純粋さを受け入れて愛する姿勢、しかし決して盲目的に献身に徹するのではなく、気風のいい姐御であり、常にニールと対等に振舞う。いやあ、カレンは個人的には今まで読んだ小説でも一、二を争う最高のヒロインだ。 特に今回は作者自身も愉しんで書いていることが窺える。ナッティとニールのやり取りはもちろんのこと、ニールとカレンの会話、時折挿入されるホープの日記、保険会社と弁護士との往復書簡、サミとハインツの通話の記録など、いくつもの文体を駆使して、それらが全て笑いに直結している。 もうウィンズロウは全開でギャグを放り込んでいたんだろうなと容易に想像できる内容だ。 解説によれば作者はシリーズ再開を考えているらしい。 いや1999年時点の話だから、既に出ているかもしれない。実に嬉しいことではないか。一ファンとしてはそれが早く形になり、そしてさほどのタイムラグが生じないように訳出されることを願って、感想の締めとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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