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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
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実に久々のエルキンズ作品、スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズである。ほとんど翻訳打切りだと思っていた。
このシリーズ、各国の観光案内も含まれており、単にミステリだけに終始していないところとやはりジュリーとギデオン夫婦のウィットに富んだ会話、また彼らを取り巻く人々の特徴あるキャラクターが気に入っており、正直非常に期待していた。 今回の舞台はイタリア。プロローグは1960年9月のイタリアで最後の貴族と評されたデ・グラツィア家当主ドメニコが相続する嫡男に恵まれず、姪に自らの精子で人工授精を依頼する話から始まる。この作戦は成功したが、姪のエンマは子供を渡すものの目覚めた母性本能から鬱状態に陥る。そこでドメニコは妊娠した使用人からその息子を買い取り、エンマの子供として渡すのだった。 舞台は転じて現在。デ・グラツィア家の当主はこのとき生まれたヴィンチェンツォになっていた。息子のアキッレが学校に行く途中、運転手が殺され、誘拐されるという事件が起きる。憲兵隊大佐カラヴァーレは警察署長の依頼の元、事件の捜査に乗り出す。折りしもギデオン・オリヴァー教授は友人のフィルとともにこの地を訪れており、バカンスを楽しんでいた。フィルが家族に会いに行くので一緒に来ないかと誘われ、気が乗らないながらも同行すると、そこはデ・グラツィア家の城がある島だった。フィルはエンマの息子だったのだ。 事件の捜査が進む中、ヴィンチェンツォの会社アウローラ建設の工事現場で掘削中に骨が見つかる。その骨の正体はなんと前当主ドメニコの骨だった。 エルキンズの登場人物をコミカルに描く筆致は健在。どの登場人物に血が通っており、本音を見せるエピソードを盛り込ませる事で登場人物に親しみを持たせる手法はもはや云う事がない。 個人的にはカラヴァーレが自宅で着替えをしている時に妻に洩らす「制服を着ていない俺はサラミソーセージを売っている方がお似合いだなぁ」という台詞、そしてギデオンがキャンプで出逢うやけに人類学に詳しく、さらにギデオンの知らない地球外生命体について議論を吹っかけるポーラ・アードリー-アーボガストが気に入った。ポーラは今後も定番脇役として出演してほしい。 とはいえ、プロットは今回なんだかちぐはぐな印象を受けた。誘拐事件と骨を絡めるのがやや強引、こじつけのような気がしたのだ。(その理由はネタバレにて) 久々のスケルトン探偵シリーズ、ちょっとネタ切れの感がしたのは否めない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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編者は鮎川氏が監修となっているが実質芦辺氏が95%は掲載作品を決定しているであろうアンソロジー。兎にも角にもマニア垂涎という形容がぴったりの濃厚な内容で、逆に自分が本格ミステリマニアでないのを知った次第。
収録された作品は5作。まずペダントリー趣味溢れる「ミデアンの井戸の七人の娘」から幕を開ける。このフリーメーソンをモチーフにした館物の連続殺人事件は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を意識しているところかなり大で作者が小栗氏に負けじとばかりに衒学趣味を十二分に発揮して健筆を振るっているが、これが私を含め、平成の読者にはかなり重く、正直、目くるめく物語世界に文字通り目くるめいて混乱する始末。 名探偵の名が秋水魚太郎、あまりに古めかしいゴシック調本格ミステリ、全編に散りばめられたユダヤ教の意匠、そして怪人物アイヘンドルフのアナグラム、これら全てが専門的過ぎ、読者を選ぶ作品となっていた。しかしおかしなものでシャム双生児の真相はそれでも驚きに値するものであったのは素直に作者の技量の高さを認めるべきだろう。 次に続く宮原龍雄氏、須田刀太郎氏、山沢晴雄氏三者による合作「むかで横丁」。これはかなり無理を感じた。それぞれのパートで明らかに文体・構成が変わり、戸惑いを禁じえないし、なぜか最後に出てくる星影龍三も単なる狂言回しとしか扱われない粗雑さが読後感として残った。 「ニッポン・海鷹(シーホーク)」もやはり、倭寇の時代から江戸時代まで活躍していた日本の海賊をモチーフにペダントリー趣味を横溢させている。どうも私はこのペダントリー趣味が合わないらしく、作品から立ち上る作者の熱気に反比例するかの如く、興味は薄らいでいった。 そんな中、ベストと準ベストを上げるとやはり「二つの遺書」と最後の「風魔」となる。 「二つの遺書」は失明した戦争から帰還兵、本條時丸が妻を心臓麻痺で亡くし、人生に絶望し、自殺する旨を記した遺書めいた手記から物語が始まる。しかし実際に密室状態で発見された死体は異母弟の柳原康秀で、手記の筆者である本條は行方不明となっていたというもの。冒頭の遺書の裏側のストーリーを語る二番目の遺書という趣向が良く、プロットがしっかりしていた。あまりにストレートすぎる題名も他の作品に比べシンプルで好感が持てた。 しかし密室の機械的トリックは字面での説明のみであまり理解できなかったのは事実。この辺がやはり読者を選ぶことになると思う。 「風魔」は雰囲気を買う。他の4作品は先にも述べたように重苦しい雰囲気で、読書の楽しみよりも混乱を目的としていると邪推できるほど、読者を突き放したものだったが、本作は推理作家毛馬久里と相棒のストリッパー美鈴、それに加え、したたかな刑事、菅野の3者の掛け合いがユーモラスで物語に彩りを添えており、娯楽読み物としてきちんと性質を備えている。 内容は台風の夜、池の真ん中にある小島で起きる殺人事件を扱っており、この島が動くトリックには正直奇想天外すぎて呆然とした。小島に建物が建っていること、四面にドアのある一軒家など専門的見地から見るとご都合主義を押し着せられるような感じがして素人考えの浅はかさを感じずにはいられないのだが、前にも述べたように登場人物のキャラクター性といい、娯楽読み物という性質を鑑みてギリギリ許容範囲とした。 しかし、これら昭和初期の本格推理(探偵)小説を読んで意外だったのは、真相が名探偵によって暴露されるのではなく、犯人の独白や手記によって暴かれる事。名探偵はある人物が犯人であることの外堀を固めていきはするが、犯行の動機・トリックなどの事件の核心は犯人に語らせている。 これは欧米の名探偵ホームズ、ポアロ、ブラウン神父などがあまりに神がかり的に事件を看破することに対する彼らなりの問い掛けなのか、それともそれら有名な名探偵たちに対する遠慮なのだろうか?その辺の言及が編者から一言も無かったのが悔やまれる。 |
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『本格推理』シリーズも今回が最終巻。とはいえ、このあと編者が二階堂黎人氏に代わり、『新・本格推理』シリーズが始まるのだからあまり感慨は無い。
15冊も巻を重ねて、その中には目を見張るもの、プロ顔負けの巧さが光るもの、素人の手遊び、独りよがりのものと玉石混交という四字熟語が相応しいシリーズだった。 で、今回はといえば、はっきり云って小説として読めたのは石持浅海氏の「利口な地雷」のみだったという印象が強い。もうこれはこの時点においてプロの筆致である。題材も対人地雷禁止条約をプロットに絡ませるなど、他とはオリジナリティが群を抜いており、読み物として非常にコクがあり別格の出来映えだ。 その他には読み物として「六人の乗客」が読み応えがあった。バスの横転事故の際に耳を切られそうになるという奇事に見舞われ、それが悪夢となって夜毎うなされる1人の女性。顔は知りつつも名前も知らないいつも乗り合わせる乗客たちがなぜ事故の時に憎悪に満ちた顔で彼女の耳を取ろうとしたのかというのがこの物語の焦点。正直、六人の乗客の造形、書き分け方が見事であり、ホラー仕立ての先の読めないストーリーにわくわくしたが、耳を切ることの必然性が全然無くてがっかりした。さんざん耳の切断の謎で引っ張っておいてあの真相はないだろう。 その他、やや感心したものの全面的に納得できなかったものを挙げていく。 「情炎」は二重三重に真相が明かされるのはなかなかなのだが、溶剤を隠したいという理由がよく判らなかった。具体的にどんな溶剤を使っていてなぜそれが犯人究明の手掛かりになるのか、明確にしてほしかった。あとこの作者は文章が上手いと自負しているようだが、自分に酔っており、それが鼻についた。 「丑の刻参り殺人事件」は犯行時刻に容疑者がTV局の隠し撮りに遭っていたというシチュエーションは最高だったが、大掛かりな機械トリックにがっかり。 特筆するのは実は13編中これだけなのだ。 以前から感想で述べているように未だに素人なのにシリーズを作り、しかも名探偵を設定するマスターベーションが続いている。これが実に不愉快。金出して読む者に対し、無神経さを感じる。 辛辣すぎるかもしれないが、シリーズ最後で有終の美を飾れなかったというのが正直な感想である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかも昔『毒殺魔』という題名で創元推理文庫から出ており長らく絶版となっていた幻の作品の改訳版である。1996年に国書刊行会から出版された物の文庫版である。
幻の作品ということでイコール傑作という発想が浮かぶが果たしてそうではない。 物語はシンプルで、婚約者がある病理学者により稀代の毒殺魔であることを知らされる男が主人公である。毒殺魔であると告げられた直後に学者は銃で撃たれ、しかもそれは婚約者が誤射した弾だった。この偶然が主人公に、もしかしたら本当に毒殺魔ではないだろうか?という疑惑を持たせる。 ここら辺のストーリー展開は見事で、しかも彼自身が毒殺される恐れがあるという設定も面白い。 その後、誤射された弾は単なるかすり傷に過ぎなかったことが判るのだが、なんと学者は青酸カリを注射して(されて)死んでしまう。ここに至り作者はさらに婚約者が毒殺魔ではないかと畳み掛ける。 ここら辺は実にカーらしい展開なのだが、なんとももって回った文章が多く、読みにくいことこの上なかった。 文庫として手に入りやすくなった今はもとより、絶版本である本作を古本屋巡りの末に手に入れ、読み終えたとき、その人はどのような感想を得たのだろうか? 私ならば果てしない徒労感がずっしりとのしかかって来るに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アイリッシュ=ウールリッチの詩的で叙情的な文体はタイムリミット物のサスペンスに緊迫感だけではなく、美酒を片手に飲みながら物語を読んでいるような陶酔感を与え、豊穣な気分をもたらしてくれるのだが、それが曖昧模糊とした雰囲気を纏っているせいもあり、時には物語の進行を妨げるファクターにも成り得る。
本作はそれを実証したかのような作品だ。 今回アイリッシュが用意した設定はこのようなものだ。 仕事の帰り道で偶然出くわした自殺間際の女性を刑事ショーンは間一髪で助ける。事情を聴くと、父が死に直面しているのだという。父はひょんなことからある予言者と出逢い、彼の信望者となっていた。その預言者トムキンズは人智では説明できないような力を持っており、彼の予言は全て当たった。ある日、トムキンズは女性の父親ハーラン・リードに3週間後に獅子に喰われて死ぬという予言をする。その娘ジーンは夜が来るたびに死に近づく父に絶望し、川に身を投げようとしたというのだった。ショーンは上司マクマナスと共にハーラン・リードを予言から守ることを決意する。予言を阻止すべく必死の捜査、護衛が始まった。 どうだろう? 通常であればアイリッシュならではの独創的なプロットだと感嘆するのだが、今回は物語を構成するそれぞれの材料に無理を感じてしまうのだ。 まずジーンが川に身投げする動機があまりにも浅薄で頼りない。この自殺未遂がきっかけで警察に助けてもらうようになるのだから、結構重要な因子であるのだが、純文学的といおうか、何とも摑みどころのない動機ではないか。 次に“予言を阻止すべく警察が捜査・護衛に当たる”。実はここで私はかなり引いてしまった。 通常、警察とは事件が起きてから捜査に乗り出すものである。事件を未然に防ぐための予備捜査・予備護衛は警備会社とか小説では私立探偵の仕事になるだろう。ここのリアリティの無さでこの小説の内容には没頭する興味を80%は失ってしまった。 これ以降、物語は退屈を極めてしまった。アイリッシュのいつもの文体が事件の確信を直接に触れず、婉曲的に周囲を撫でつけているように感じ、もどかしくなり、また予言が現実となるその時までの主人公と親子3人の重圧感ある心理的駆け引きの模様は単純に暑苦しいだけである。 恐らく今まで読んだアイリッシュ=ウールリッチ作品の中にもこのように設定それ自体にリアリティが欠如していたものがあったかもしれない。しかし今までの作品にはその瑕疵を感じさせない「説得力」があったように思う。 今回はそれが無かった。詩的な題名も読後の今はもはや虚しく響くだけである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前2集に比べると質は落ちるか。
今振り返ると各短編集にはそれぞれテーマがあったように思う。 第1集は人肉趣味・エログロ趣味、第2集は皮肉な結末。 で、第3集はと云えば、双子物かとも思ったが、全体を通してみると双子物はさほど多くはなく、一貫してのテーマでは無かったように思う。 印象に残ったのは「生きている腸」と「墓地」と「壁の中の女」ぐらいか。 「生きている腸」はなんといっても死者から取り出したばかりの腸が生きているというアイデアがすごく、これがやがて一個の生物として動き出すという奇想を大いに評価したい。最後のオチに至る仕掛けは盆百だが、このアイデアだけで価値がある。 「墓地」はショートショートぐらいの小品だが、最後まで自分の死を信じない男の独白が結構シュールで好みである。 「壁の中の女」はネタバレ参照。 逆に不満が残ったものをあげていくと・・・。 まず「皺の手」。物語の軸が定まらず、失敗作だと思う。たぶん作者は青髭譚を書こうと思ったのだろうと思えるのだが、あの発端からなぜあのような手首を愛好するような奇妙な話に終わったのかが疑問。 「抱茗荷の説」も坂東真砂子氏を思わせる土俗的ホラーだが詰め込みすぎ。30ページで語るべき話ではないと思う。記憶の断絶が多すぎてちょっとわからなかった。 「嫋指」は乱歩の弟による作品。文章が読みにくく、独りよがりに過ぎる。 やっぱり第2集が一番面白かった。 怪奇小説というよりも残酷小説集の感が最後まで残った。鮎川氏の怪奇小説に対する考え方は前時代的だったと証明したに過ぎない選集だったのではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社のドイル・コレクション第一集。
第一集に「王冠とダイヤモンド」、「まだらの紐」の2つの戯曲を冒頭に持ってくるあたり、かなりの冒険だが、試みとしては成功していない。これを純粋に愉しめるのは恐らく生粋のシャーロッキアンだけではなかろうか。戯曲はやはり芝居で観るから愉しいのであって、これをシナリオで読んで愉しめるのは彼らか好事家しかいないだろう。実はこの本を購入するのをずっと躊躇っていたのがこの戯曲が原因だった。 購入の動機となったのはコレクション第二集に収められた未読短編に触発されたからで本書も短編集未収録作品である「競技場バザー」、「ワトスンの推理法修業」、「ジェレミー伯父の家」、「田園の恐怖」を読むために他ならない。 既読の「消えた臨時列車」、「時計だらけの男」はほとんど内容を忘れており、新鮮な気持ちで読めた。前者は二人の男を乗せた臨時列車が目的地に着く前に消失するというもので、その事件が当時世間を騒がせていたフランス政府の醜聞に大きく関わっていたという構成は現在でも十分読むに値する設定だし、島田荘司氏の原点を見たような気がした。 後者は列車に駆け込み乗車をしたカップルと隣にいた男が途中で消失し、残っていたのは見知らぬ男の死体だったという事件の背景に隠れた人間模様を描いた作品。ホームズ物の長編に見られる事件解決後の事件に至る経緯を語る中篇のような話でドイルお得意のパターン。 こうして読むと第二集でもそうだが、ドイルは事件の故人や真犯人の手記で語らせるパターンが非常に多い。短編はほとんどがこの趣向である。量産作家であったが故のワンパターンに陥っていたのかもしれない。 ともあれ、コレクション中最も魅力のなかった第一集がこれで読了したので今後はまだ見ぬ傑作に巡り合う事を大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ドイルのホームズ物でない短編集。東京創元社はドイル・コレクションと銘打ってシリーズで5集刊行した。これはその第2集。
収録作品のうち、「大空の恐怖」、「北極星号の船長」、「樽工場の怪」、「青の洞窟の恐怖」、「革の漏斗」は新潮文庫の『ドイル傑作選』シリーズで既読だが、その他6編は未読作品で今回購入の動機となったのもこれらが気になったため。 今回収められた作品は大きく分けて3つに大別できると思う。①「怪物譚」と②「超常現象物」と③「奇妙な味物」。①は初めの方に収められている「大空の恐怖」、「北極星号の船長」、「樽工場の怪」、「青の洞窟の恐怖」の4編が該当し、②は「革の漏斗」、「銀の斧」、「ヴェールの向こう」、「火あそび」、「寄生体」の4編、③は「深き淵より」、「いかにしてそれは起こったか」、「ジョン・バリントン・カウルズ」の3編が当たる。 ①はそれぞれ高空領域、北極、未開の島、洞窟と未知の領域が多く潜んでいた時代において誰も見たことのない怪物が潜んでいる、誰も遭遇したことのない奇怪な現象に囚われるといった古式ゆかしい形式のお話。②は過去の因縁がを宿した物や降霊会によって起こる奇怪な現象といった内容でこれも特に目新しいものでもない。③は偶然によって起こる出来事や皮肉な結末、悪女譚といった理屈を超越した話。これも19世紀ごろでは斬新だったのだろうが、今となっては・・・という域を脱していない。 総合的に判断すると、一昔前の怪奇短編集と評せざるを得ない。個人的には最後に読んだ「寄生体」が興味本位でかけられた催眠術が次第に主人公の主体性を乗っ取られていく様子をつぶさに語っており、現代にも通じる怖さを持っていると感じた。特にラストの主人公が催眠術師を殺害しに行ったときに当人が既に亡くなっていたこと、道中、教授仲間の一人とすれ違ったことが色々な想像を巡らさせられ、手法としても優れていたように思う。 またホームズ物がワトスンの手記であるように基本的にこれらの短編もドイルは誰かの手記、日記といった一人称記述物の体裁を取っており、おそらく作者自身、これが作品にリアリティをもたらすものだと考えているようだ。確かにクライマックスまで徐々に徐々に盛り上げていく効果はある。 今回の短編集シリーズは多分にコレクターズ・アイテムになるであろうが、まあ、「五十年後」といった優れた作品もあることだし、ドイル作品コンプリートの一環としてこれから付き合っていこう。 |
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カー作品の欠点が如実に現れた作品である。
それはまず建物や敷地の配置が全く解らない、つまり風景描写が非常に独り善がりで単に説明的であり、読者に伝えようという気がしない点だ。読書をするに当たってはやはり読者は作者の書かれた内容を想像して風景を思い浮かべるのだが、これが全く思い浮かばない。 解らないまま、物語を読み進めるのでこれで小説の理解は約50%程度まで落ちる。これは敷地のレイアウトを付けてくれると非常に助かるのだが・・・。 そしてやはり一番大きいのが機械的トリックを説明しているのにそれが図解されていない事。どうにかこういう風にやったんだろうなとは想像はつくが、はっきり云って十分理解しているとは到底思えない。これは正に推理小説のカタルシスであるから致命的だ。ここでほぼ90%は興趣が殺がれた。 しかし、前回『眠れるスフィンクス』はノレたのに、今回なぜノレなかったのか。やはりそれは前者がトリックよりもロジック、ミスリードの妙で読ませたのに対し、こっちはやはり足跡の無い砂浜で鈍器で殴られたような死体があるという不可能状況を設定したトリックミステリであるからだろう。こういうミステリではやはり周囲の位置関係、人員配置、登場人物のアリバイなどが重要なのに、前に述べたような欠点があれば全然物語として成立しないのである。 ただ今回もなかなかに面白い趣向が凝らしてあった。人間というものの不思議さ―特に趣味趣向の多彩さ―に後期のカーは結構魅せられていたのだと思う。 今回は現代翻訳家が訳したというだけあって期待したのだが、非常に残念だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回は目玉が無かった。12編の中で印象、というよりも若干の記憶に残ったのは『十円銅貨』、『無欲な泥棒―関ミス連始末記』、『小指は語りき』ぐらいか。
『無欲な泥棒』は足らない会費の真相が非常にスマートでよかった(これって結構日常生活で陥る勘違い)。 『小指は語りき』は死者から切断した小指という設定がよかった。あんな語りの小説が本当に本格物の体を成しているのがすごい。 柄刀氏の『白銀荘のグリフィン』は普通に語られるべき内容の小説を無理に幻想味を持たせた文体にしているのが鼻につくし、『森の記憶』、『密室、ひとり言』の両編も語り手が実は・・・というネタだったがもはや使い古された感は否めない。 『それは海からやって来る』は犯人が解って結構、悦に浸ったが。 う~ん、ここに来てちょっとレベルダウンか。しかしこれだけ続けて読むと単なるゲーム小説にしか過ぎなくて食傷気味。さて明日からは島田氏を読もう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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先に読んだデミルの『ゴールド・コースト』が芳醇なワインなら、こちらはスーパーで売られている1缶100円前後の缶チューハイといった所。誰でも気軽に飲める分、味に深みがない。
ストーリーは不倫相手が嫁さんを殺し、そのアリバイ作りのために愛人である主人公が東京から飛騨高山の別荘まで嫁さんになりすまして周囲の人々に印象付けながらアリバイ工作を助けるといったもので、その道中に島田氏ならではの幻想味が適度に調合されている。 しかし、構成が単純なため、真相は簡単に解った。 ただ、謎のオートバイ乗りは、ただ道中で知り合ったからって―しかも、主人公に案外痛い目に遭わされている―、命を助けるまでの事をするかなぁ?それも他人様の別荘の窓を壊すほど。ここら辺がやはり出張中のサラリーマンが車中で読み終わる程度のライトさを意識しているのだろうな。 すなわち缶ビール(もしくは缶チューハイ)・ミステリである。まあ、たまにはこういうのもいいか。 |
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今回は通常の『本格推理』シリーズとはちょっと違い、今まで採用された方々の2作目を纏めたもの。しかし、これがやはり苦しいものだった。
前の『本格推理⑥』の時も書いたが、一番鼻につくのが商業作家でもない人間が勝手に自分で創造した名探偵を恥ずかしげも無く堂々と登場させていること。しかもそういうのに限って内容は乏しい。魅力のない主人公をさも個性的に描いて一人悦に入っているのが行間からもろ滲み出ている。 こういうマスターベーションに付き合うのが非常につらい。もっと応募者は謙虚になるべきだ。 しかし、今回こういった趣向を凝らすことで実力者と単なる本格好き素人との格差が歴然と目の当たりにできたのは非常にいいことだ。現在作家として活躍している柄刀一氏、故北森鴻氏、村瀬継弥氏とその他の応募者の出来が全く違う。 他の方々の作品が単なる推理ゲームの域を脱していないのに対し、この3名の作品は小説になっており、語り口に淀みがない。新本格が現れた時によく酷評された中でのキーワードに「人間が描けてない」という表現がある。しかしこの言葉は真に本格を目指すものにとってはロジックとトリックの完璧なるハーモニーを目指しており、半ば登場人物はそれらを有機的に機能させる駒でしかないと考える者もいるからで非難よりも寧ろほめ言葉として受取ることにもなる。 今回これら素人の作品を読んで、この何ともいえない不快感というか、物足りなさをもっと適切な言葉で云い表せないかと考えていた。その結果、到達したのが「小説になっていない」である。 物語である限り、そこには何かしら人の心に残る物が必要なのだ。それが確かに世界が壊れるような快感をもたらす一大トリックでも構わないし、ロジックでも構わない。 しかしそのトリック、ロジックを一層引き立てるのはやはりそこに至るまでの名探偵役の試行錯誤であり、苦労なのだ。 これが私の云う所の物語なのだ。 今回のアンソロジーでは村瀬氏の「鎧武者の呪い」が最も物語として優れていた。あの、誰もが何だったのだろうと思う、野原に立てられた朽果てた兜のような物が刺さっている棒切れの正体がこんなにも納得のいく形で、しかもある種のノスタルジーを残して解明される、このカタルシスはやはり何物にも変えがたい。これはやはり村瀬氏が小説を、物語を書いているからに他ならないのだ。 今回4ツ星なのはこの村瀬氏の作品による所が大きい。これが無かったらまたも1ツ星だったろう。 頑張れ、本格。頑張れ、ミステリ。 |
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事件は相変わらずシンプルで、偶々葬式の時に掘り起こした墓の中から身元不明の死体が発見される。死体は顔を潰され、両手首は切断されて、ない。
さてこれは一体誰だろうか?どうやって殺されたのか?一体犯人はどうしてこのような事をしたのか? これだけである。 この犯人の背景を探る旅がこの物語では私にとっては特に面白かった。ことはフランスまでも波及し、被害者の波乱万丈な人生を物語る。 あと日本人は全然馴染みのない転座鳴鐘術、これが非常に読書に苦痛を強いるものであった。浅羽莢子氏の訳は読者にどうにか理解させようと苦心しているのでこの原因にはならない。元々が難解すぎるのだ。これがセイヤーズ作品の特色上、どうしてもトリックに大きく絡むことは間違いなく、案の定であった。江戸川乱歩はよくもまあこれを人生ベスト10級の作品だと太鼓判を押したものである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは小説というよりも小説の体裁を借りた島田流都市論と云った方が正鵠を射ているだろう。まあ、内容としては都市論に留まらず、日本人の特質から根幹を成す行政論も展開しており、江戸の鎖国から連なる日本人の閉鎖性など、日本人の欠点をこれでもかこれでもかという所まで徹底的にバッシングしている。云わば“島田荘司の青年の主張”であり、内容としては密度が濃い。しかし、それがために同じ事の反復が目立つのもあり、いささかくどくなっている。つまり、小説にスピード感がなく、流れとしては非常に悪く、ノレなかった。
話としては、ある寺が虎を飼っており、主人公はその虎に魅せられ、世話をするようになる。ある日、大きくなった虎は檻から抜け出し、東京の街を疾走する。東京の街は当然ながらパニックになり、主人公は虎を守るべく虎と共に東京の街を疾走する。これだけである。 このトパーズという虎に島田氏は象徴性を持たし、主人公の理想はその虎に集約される。主人公はかつて若き日に研鑚し、勝ち得た肉体、躍動感が社会人となって蝕まれ、朽ち落ちていく毎日に絶望を抱いている。そのかつての姿を彼は虎の中に見、その姿が永遠である(と彼は信じている)ことに羨望を抱く。従ってこの虎はあくまでも幻想的である。そこが私のイメージとどうしても重ならなかった。 主人公の虎に抱くしなやかさ、躍動感、強靭さ、敏捷性はどうも私にはチーターのそれとしかイメージできない。虎はガタイが大きく、短足である。そこがどうも東京の街を疾走するイメージと重ならないのだ。 しかし、そんな瑕疵を抜きにしても、今回の作品はどうもつらい。主張が強すぎて、あまりに島田氏の考えに傾いており、ニュートラルではないからだ。 すまん、島田氏。今回、私はいい読者ではなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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典型的なノベルス・ミステリで火曜サスペンス劇場もしくは土曜ワイド劇場、金曜エンタテインメントの2時間ドラマの題材に使われる類いの作品である。
列車「白鳥」をテーマにした旅情ミステリで、時刻表も掲載されているため、鮎川哲也・西村京太郎ばりの複雑な時刻表トリックの作品かと思っていたが、さにあらず、時刻表が事件の解明の要素になりこそすれ、それを犯人がアリバイ作りのトリックとしていないために非常にシンプルで解りやすい内容になっていたのは救いだ。 しかし、やはりこういうのは出張の際の軽い読物を意識して作られたのだろうか、キャラクターも非常に類型的で、どの女優・男優が演じてもイメージを損なうことは内容になっている。つまり明日になれば名前さえも忘れるような主人公達であったという事。 たまにはこんな軽いのもいいか。 |
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今度のクーンツは人間が野獣に変身するというモチーフを用いたSFホラー物。しかし、内容は意外に浅かった。
人物設定はいつものようにタフな主人公―FBI捜査官というベタな設定―に強い意志を持った女性―お決まりのように美人である―。それに加わるのが生命力豊かな少女と片手のみが動くという半身麻痺のヴェトナム退役軍人―この2人は設定としてはいいのだが、なぜか色付かない―で、彼らが力を合わせ、野獣の町となりゆくムーンライト・コーヴを救う話だが、物語があまりにも当たり前の方向に進んでいくのが面白くなく、しかもこれだけ当たり前に進むのに、680ページもの分量が必要なのか疑問。 ローマンという転換者の中にヒーローを設けたのは設定としては良かったが、なぜか魅力が無い。恐らく死ぬ間際まで負け犬根性が残っていたからだろう。もう少し工夫が欲しかったな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作の時にも述べたが、天藤真氏は短編になるとミステリというより小噺のような体裁を取るようだ。「共謀者」、「目撃者」、「重ねて四つ」、「三匹の虻」などがまさにそれ。
「目撃者」は完璧犯罪がある落とし穴から崩れ去るというプロットなのだが、最後の犯人の台詞はやはり小噺だろう。 表題作は天藤の長編作品の特色である複数の主人公が事件解決のチームを形成し、事を成す形を採っており、ページ数も結構ある。前回にもあったジュヴナイル・ミステリ「白い火のゆくえ」がまたもやこの短編集の中では秀作だった。誤植切手を巡る大人・子供入り混じっての迷走や最後の意外な犯人―しかも後味が結構ビターで少年少女には大人への洗礼になるかも―と内容も豊富。 ただそれでも全般を通して「これは!!」というものには出逢えなかった。次作に期待。 |
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トリックはすごかったけど内容はいまいちだな~。
主人公に魅力がないのもねぇ・・・。 |
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近代ミステリの祖としても名高いドイルだが、何故かこのようなホームズ以外のアンソロジーには秀作が少ない。海洋奇談編と名付けられた本書は、その名の通り海や航海に纏わる話(小噺?)が集められている。ホームズ譚では見られなかった海洋物を6編とは云え、物していたとは不思議な感じがし、昔は1つのジャンルを成していたのだろうと推測する。
さて個々の作品についての詳細については措いておくとして、全般的には小粒な印象。『恐怖の谷』、『緋色の研究』などの長編にエピソードとして添えられる冒険譚のようなものは『ジェ・ハバカク・ジェフスンの遺書』ぐらいなもので、最後の『あの四角い小箱』なぞはしょうもないオチの小噺でこれが棹尾を飾るとは何とも情けない。 文章も現在ではかなり読みにくく、日本語の体を成してないとも思える。我慢を強いられる読書だった。 |
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