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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数132件
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かつて書評家諸氏より涙なくしては読めないと云われた冒険小説の傑作が本書。アリステア・マクリーンの代表作にしてデビュー作でもある。
ここにあるのは極限状態に置かれた人々の群像劇。筆舌に尽くしがたいほどの自然の猛威と狡猾なまでに船団を削り取るドイツ軍のUボートとの戦いもさながら、それによって苦渋の決断を迫られる人々の人間ドラマの集積なのだ。 総勢25名にも上る登場人物一覧表の面々についてマクリーンはそれぞれにドラマを持たせ、性格付けをしている。 故郷で待つ家族を爆撃で喪った上に、同じユリシーズ号で従業員として働いていた弟を喪った者。 社会の低層部でケチな犯罪者として生きてきた過去があり、艦長に叛乱を企てようとする不満分子。 自分の力不足に気付かず、そのプライドの高さと逸る功名心ゆえに部下の命よりも手柄を立てることを至上として部下の反感を買い、任務後に審問を掛けられ、降格を余儀なくされた者。 自分のミスで艦体のみならず乗組員を多数死なせて自責の念から自殺する者。 死と隣り合わせの場所でもはや正常な心を保つことさえ困難になり、ロボットのように索敵のために海をひたすら凝視する者。 自分の職責の重圧に耐えきれず、任務半ばで自我を喪失する者。 それら数多く語られる各登場人物の痛切なエピソードの中でとりわけ強烈な印象を残すのは一介の水雷兵ラルストンだ。 先の任務でユリシーズ号に同乗していた弟を亡くし、更には故郷に遺した母親と妹を空襲で亡くし、唯一残された父親を、自らの手で葬ることになる男。物語半ば過ぎで訪れる輸送船団の1つヴァイチュラ号の撃墜を躊躇う理由が明かされた時の衝撃は今まで読書歴の中でも胸にずっしりと圧し掛かるほど重いものだった。 また彼らの敵は当時最強と云われたUボートを率いるドイツ軍だけではない。それは自然だ。 北極海を航行する戦艦にとってその極寒の環境は生きることさえ困難であると云わざるを得ないほど過酷を極めている。 いつの間にか甲板に降り積もる氷。それは乗組員の足元を滑らせるだけでなく、戦艦たちに多大なる重量を与え、艦体にきしみを与え、航行のバランスをも崩す。除去しても除去しても上からのみならず、下方から乗り上げてくる荒波もまた氷の素となるため、乗組員は勝ち目のないレースを強いられる。 さらに風の驚異も凄まじい。氷点下の温度で空気中の水分が凍りついた海上では風は乗組員の肌を切り裂く刃と化す。そして強風は大波を起こさせ、右へ左へ薙ぎ倒すかのように揺さぶり、強固な鉄皮を軋ませ、疲労させる。もちろん中にいる人々は我々の想像を超えた船酔いの餌食となるのだ。 そんな苦難を乗り越えた乗組員を襲うのはドイツ軍の猛襲だ。コンドルという戦闘機が昼夜の境なく空爆を行い、船団はその勢力を削られていく。ユリシーズもさらに深手を負い、その船体に敵機をめり込ませた状態で航行を続ける。 そして彼らの一縷の望みを絶望に変えるのが無敵と呼ばれた当時世界最強の戦艦ティルピッツの影だ。この容赦なき敵の出陣の情報にもしかし、英国軍は援軍を送らない。 そんな四面楚歌状態で作者はユリシーズ号の属するFR77船団をどんどん過酷な状況に追い込んでいく。 とにかく過酷な状況の連続だ。 疲労困憊、満身創痍の船員たちに対し作者は徹底的なまでに嬲るかのように苦難を与える。そして惨たらしいまでの精緻極まる描写が拍車を掛ける。特に200ページ目前後で実に6ページに亘って描写される爆撃によって撃沈した空母から、流出し引火した油の混じる海へ投げ出された船員たちの死に様の凄惨さは、なんとも云いようがない苛烈さに富み、絶句するのみであった。 そして満身創痍なのは船員たちのみではない。巡洋艦ユリシーズ号もまた度重なる極寒の地の風雪に曝され、また相次ぐドイツ軍の急襲に遭い、その姿を変形させていく。 艦の姿が朽ちていくたびにまた船員たちも1人また1人と命を失くし、また五体満足ではなくなっていく。ユリシーズ号の姿はそれを操る乗組員たちの姿のメタファーとも云える。 そしてもはや航行すら危うい姿になりながらもユリシーズ号は任務を遂行せんと突き進む。出発時から既に病に侵された身でありながら任務に向かうヴァレリー船長はすなわちユリシーズ号そのものと云っていいだろう。手負いの虎の如く、最終目的地ムルマンスクに向け、突き進む。さながらそれは自分の相応しい死に場所である墓場に向かう巨象のようだ。 正直このような物語の結末は開巻した時から読者にはもう解っているようなものである。とりわけ精緻を極めた実に印象的なイラストが施された表紙画が饒舌に先行きを物語っている。しかしその来たるべき結末に至るまでの道行きが実に読み応えがあるのだ。 例えば本書に使われている単語には技術者の専門用語が多用されているのが特徴的なのだが、このマクリーン自身が巡洋艦にて勤務した経験の裏付けによるものだ。 更に過去の英国艦隊に纏わるエピソードと事実を交えることで、ユリシーズ号が、FR77艦隊がいかに不遇な状況であったのかを如実に知らせてくれる。 しかしそれらにも増して魅力的だったのはユリシーズ号、その他FR77船団の面々が見事に活写されていることだ。 上述のように極上の群像劇を実現した作者の経験に裏打ちされた乗組員の描写や性格付けは実に忘れがたい印象を残す。730名が住まうユリシーズ号という小社会にいるのは老いも若きも皆むくつけき船乗りたちであるが、その性格は十人十色。そのことについては既に上に書いているので重複を避けるが、特段煽情的な筆致でもないのにやたらと印象に残る輩が多く、彼らが1人また1人と去りゆくにつれて目頭が熱くなるのを抑えられなかった。 涙が無しでは読めぬとまではいかないまでも目頭は熱くなるであろう本書は確かに傑作であった。 海洋冒険物だから、戦争物だからと苦手意識で本書を手に取らないのではなく、昔の男どもの生き様と死に様を存分に描いたこの物語にぜひ触れてみてほしい。 |
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あの“ドーン・パトロール”のメンバーが帰ってきた!
いや、我々がまた彼らの許を訪れたというのが正しいのかもしれない。“ドーン・パトロール”、そして彼らが住んでいるサンディエゴのパシフィック・ビーチは読んでいる我々が再びその地を訪れたかのような懐かしい思いを抱かせる、不思議な雰囲気を備えている。 さて今回彼らが関わる事件は3つ。 メインはブーンがペトラから依頼される伝説のサーファーK2殺しの容疑者サーファー・ギャングの未成年コーリー・ブレイシンガムの、事件当夜の調査。 そして彼が請け負うもう一つの依頼が“紳士の時間”仲間のダン・ニコルズの妻の浮気調査。 そしてもう一つはジョニー・バンザイが関わる麻薬組織バハ・カルテルの抗争。 バハ・カルテルといえば先だって訳出された『野蛮なやつら』でベンとチョンとOが対決した麻薬組織だ。ん~、こんなところで彼らとブーンの物語がつながるとは、まさにファン冥利に尽きる演出だ。 さて今回ブーンは渋々ながらもペトラの依頼、世界中のサーファーが慕う伝説のサーファー、K2殺人事件の容疑者である金持ちの道楽不良息子のコーリー・ブレイシンガムの事件の真相を探ることでパシフィック・ビーチ界隈の人間はおろか、“ドーン・パトロール”のメンバーからも裏切り行為だとみなされ、四面楚歌状態に陥る。しかし調べていくうちにつまらないアホだと思えたコーリーの境遇を知るにつけ、彼もまた環境の犠牲者だったことを知る。 しかもみんなのアイドル、サニー・デイは前作のクライマックスでの大波のサーフィンで有名になり、プロサーファーとしてツアーに参加し、オーストラリアに行っている。理解者は友達以上恋人未満状態の弁護士補ペトラ・ホールのみ。 そんな状況からか仕事よりもサーフィンを愛する探偵ブーンが、今回はサーフィンよりも仕事優先と次第になっていく。コーリー・ブレイシンガム事件の再調査のお蔭で“ドーン・パトロール”のメンバーからは疎遠となり、その後に行われる“紳士の時間”のメンバーとの交流が増えていく。 この本書の原題にもなっている“紳士の時間”とは皆が仕事へ行った後、引退生活者や医師や弁護士、さらには実業家連中が集まるサーフィン時間のこと。つまり年齢的に上の連中、階級的にも上流階級の人間たちの集いだ。 さて前述した3つの事件がなんと複雑に絡み合って驚くべき事件の構図を描き出す。この辺のプロットが上手く組み合わさる味付けと云うか筆捌きは見事としかいいようがない。 また本書に散りばめられた薀蓄もまた読み応えがある。 地盤の話は私の職業にも大きく関わることで、熟知しているため、門外漢の読者にも解るように丁寧かつユーモアあふれる説明がなされていると感心したし、ボクシングと空手から始まった最強格闘技伝説が現在の総合格闘技までに至った経緯の話も楽しく読ませていただいた―グレイシー柔術の件はニヤニヤしながら読んでしまった―。 その中で最も恐ろしいと思ったのはタクシー運転手が空き巣を副業でやっている輩が少なくないといったエピソードだ。この一文を読んだだけでは恐らく多くの方が「?」と思うだろうが、何気ないタクシーの会話にその秘密が隠されていることを知り、戦慄を覚えた。いやあ、迂闊にタクシーの運転手とも会話ができないなぁと思わされたエピソードだ。 さてウィンズロウの描く物語は常々何らかの喪失感を伴うものだと感じていた。前作のブーンも変わらなく続く生活や仲間たちの関係が実は危ういバランスの上で成り立っていることを知らされた。 今回もブーンは色んな物を喪う。探偵とは事件の真相を解き明かす代わりに何かを喪うことだと某作家の作品にあったが、まさにブーンはそのものだ。 大人になると自分の信ずる正義よりも他者との調和を重視する方に傾きやすくなる。丸く収めることを美徳とし、信条を貫いて仲間に不快感を抱かせてまで真実を突き止めることを悪徳とする、組織に属するとなるとその傾向は顕著になる。 しかしブーンは敢えて茨の道を取った。何よりも代えがたい“ドーン・パトロール”のメンバーの不興を買っても、当事者の父親の納得を得ても、当事者のその後の人生を考えると妥協した自分がその後の人生で後悔しないか、自問を繰り返しながら生きることになるのではないかと思い、敢えて同調しない道を選ぶ。 彼を後押しするのは亡くなった被害者のK2の言葉。彼を知るからこそ彼の言葉が頭を過ぎる。 ウィンズロウは読者が永遠に続いてほしいと願う仲間たちとの付き合いや心から通じ合える恋人といった関係に躊躇わらずメスを入れる。前作もそうだったが南国のお気楽ムードで始まった物語は次第にブーンの周囲に不穏な影を差していく。 特に残り100ページから始まる殺戮や拷問の数々は作品のイメージをガラッと変えるものだった。 しかし今回はまさに再生を予兆させる終わり方である。 喧嘩のいいところはその後に仲直りできるところだ、そして喧嘩をするほど仲のいいというのは喧嘩をする前よりも本音で語り合える関係になるからだ。まさに本書はそんな爽やかな読後感を残してくれる。 最後に分裂状態だったドーン・パトロールの面々が一堂に会して浜辺で戦いを繰り広げる様は痛快以外なにものでもない。 全く上手いなぁ、ウィンズロウは。 それぞれに変化が訪れ、ドーン・パトロールのメンバーも以前のような関係にはならないかもしれないが、今回の苦境を乗り越えたその先が実に楽しみで今仕方がない。 また必ず彼らの住まうパシフィック・ビーチを訪れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の第一のブームを生み出すことになったのが本書『秘密』である。広末涼子主演で映画化され、更に2010年にはドラマ化もされたのは記憶にも新しいことだろう。
この作品を読むまで、やはりこういった「入れ替わり」物は映画に向いているのだろうなぁ、ぐらいにしか考えていなかったが、さすがは東野氏、凡百の入れ替わり物とは一味も二味も違った味わいを感じさせてくれる。 上手い、上手すぎる。ため息が出るほどにいい作品だ。こんな話が読みたかったと強く思わせられた。 特筆するのはやはり娘と妻の意識が入れ替わったというのが一番大きいだろう。娘の頭の中に妻の意識が宿ることでこれほど父、いや夫側の苦悶が生まれるとは思わなかった。 そしてその娘の年齢を思春期を迎えつつある小学6年生に設定したところが上手い。女性が初めて経験する大人へのステップ、生理や恋人など、男親が戸惑うことが起きる年齢だからだ。 さらに夜の営みについてまで東野氏は書く。いやこれこそが本書のテーマと云っていいだろう。 娘の身体に妻の意識が宿った時、夫婦なのか?親子なのか?実にリアルにこの命題について生活感を持って語られていく。 もしこの設定が逆だったらどうだろうか?つまり妻の身体に娘の意識が宿ったら? これもまた面白いだろう。なぜなら思春期の娘は父親を生理的に嫌悪するからだ。 ただその場合はこのような鮮やかな結末は生み出せなかっただろう。文庫版『毒笑小説』収録の京極夏彦氏との巻末対談で東野氏は元々『秘密』はコメディ小説を目指したと述べている。もしかしたら設定を逆にすれば東野氏は本来書きたかった小説を書けたのかもしれない。 しかし読者はこの誤算を大いに喜ぶべきだ。なんせこれだけ素晴らしい話に巡り合うことが出来たのだから。 第2期の東野作品はそれまでのトリックやロジックを駆使した本格ミステリから人の心の謎にテーマを求めた作品を書くようになってきた。それらの作品は『宿命』、『変身』、『分身』、『悪意』と二文字の題名になっているのが特徴的である。この『秘密』もその系譜に連なる作品であり、さらに云えばそれまでの一連の作品の集大成的な作品であると云えるだろう。 娘の心に妻の意識が宿る。このたった一行で済まされる物語のテーマを軸にその事実に直面した夫と妻の心の機微が詳らかに描かれる。淡々とした文体で日常の所作から実に細かく描写を重ね、実生活感を滲ませ、ごく普通の家庭で起きた不可解事を見事に生活に溶け込ませている。そして男性ならば平介の立場を自らに重ね合わせ、自分ならどうするだろう?と煩悶し、女性ならば直子の立場に自らを同化させ、私ならどうするだろう?と自問することだろう。 さらにそんな苦悶の日々にすっと一筋の光が平介の心に降りてくるのが、サブストーリーで描かれるバス運転手がなぜ残業までして前妻に仕送りしていたのかという謎の真相なのだ。 なんていう上手さなんだろう。全く無駄がない、卒がない。これこそが人の心の謎を上手く物語に溶け込ませた瞬間である。まさに至高のストーリーテラーである。 さて余談になるが本を読むと奇妙な偶然に出くわすことがある。全く無作為に選んだ作品なのに扱っているテーマが似ていたり、現実に起こった事件と同種の事件を扱った作品を読むことになったり。私はそれをシンクロニシティと呼んでいるのだが、今回もそれを感じさせることがあった。 主人公の平介が妻と娘を失う危険にあったのがスキーバスの転落事故なのだが、これはまさに昨今起きている夜行バスの事故を髣髴させる。 作中で繰り広げられる被害者の会の内容などは今まさにその事故の遺族や当事者が直面している問題なのだろう。 『天空の蜂』でも東日本大震災に端を発する原発事故がシンクロし、単なる読み物とは思えなかったが、本書もまさにそうだった。東野氏がいかに普遍的な事件を幅広く扱っているのが解る。 閑話休題。 物語のラストに賛否両論があったという声を聞いたが、それはなぜだろう? 本書のタイトルは『秘密』。 もちろんこの秘密とは杉田家が抱えた秘密であり、またラストの書かれた永遠の秘密のことだろう。 さらに私は重ねたいのは物語の真相こそが作者が最後まで取っておく読者に対する秘密だということだ。 秘密であっていいこともある。本書の秘密もまたそんな秘密の1つだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはすごい傑作ではないか!
なぜ当時ほとんど巷間で話題にならなかったのかが不思議でならないくらい、ミステリとしても読み物としてもすごいレベルに達した作品である。 本書で描かれる事件はある作家の死。一応鍵が掛かった部屋での殺人事件なのだが、そこにトリックなどもなく謎解きもあっさりとしており、あまつさえ犯人は全体の3分の1にも満たないところで加賀によって捕えられてしまう。 しかし本書のメインはそこからである。なぜ犯人、被害者日高邦彦の親友であり、同級生であった野々口修が彼を殺すに至ったかが本書の謎なのだ。 東野作品の転機は『宿命』からだというのは周知の事実である。彼は今までトリックやロジックにこだわった本格ミステリを書いていたのだが、人の心の謎こそが魅力的な謎だと着目し、それを意識して著したのが『宿命』だった。 その後東野氏は様々な手法を使って人の心の謎をテーマにした作品を紡いでいく。そして本書で扱われる人の心の謎とはすなわち「悪意」。ストレートな題名でそれを謳っている。 この作品は実は発表当時はさほど話題にならなかったが、ウェブ、書評家そして東野ファンの間では隠れた名作と云われている。 特に『赤い指』、『新参者』、『麒麟の翼』と昨今立て続けに発表された加賀恭一郎シリーズのクオリティが高く、人気が出た現在では同シリーズを遡って読む読者が増え、その中で再評価が高まっている。ちなみに講談社から出版された『東野圭吾公式ガイド』の読者人気投票ランキングでも16位に選ばれ、人気も高い。 さて横道に逸れるのはここまでにして、この悪意というのは犯罪を扱うミステリにおいてなくてはならない物、いや殺人や窃盗、詐欺、これら全ての犯罪は悪意から成り立っていると云える。 悪意と一言で云っても様々な悪意があり、私もさて本書で書かれている悪意とは一体何なのだろうかと思いながら読み進めた。 特に目立つのは被害者日高邦彦の悪意だ。 犯人野々口修が前妻初美と共謀して命を奪おうとしたことをネタにゴーストライターを強要した悪意。野々口の才能に嫉妬し、なかなか出版社に紹介しないという悪意。 自分本位で身勝手な人物像が描かれる。 また日高が盗作をしていたことがマスコミに知られ、遺族である妻の許へかかってくる悪戯電話、誹謗・中傷の手紙、はたまた野々口が受け取るべきだったと主張する野々口の親戚による訴え、これらも悪意と云えるだろう。 そして野々口の動機を調べるにあたり、加賀は彼と日高の学生時代に行われた「いじめ」に行き当たる。 直接暴力に訴える積極的ないじめもあれば無視して無関係性を装う消極的ないじめもある。さらにはいじめ仲間に加わらなければ自らがいじめられるということで加わるいじめもあれば、面白がって仲間になり、さほど罪悪感もなく加わるいじめもあったりと様々だ。 悪意が恐ろしいのはそれが当事者にはそれが悪意だと気づかずに行動の原動力となってしまうことだ。いやもしくは悪意、それと気付いていながらもその悪意の持つ悦楽のような物に酔わされ、止められない蠱惑的な魅力を備えていることだ。 しかしここに書かれた悪意はもうどうしようもない。この誕生を止めるのは小さな頃から負の感情を持たせず善意を養わなければならないだろう。 読後私はなんともやるせない気持ちになった。 このようにストーリーは読み応え抜群でしかも深い余韻を残す結末でありながらさらに本書がすごいのはミステリの技巧として優れていることだ。 いや文学の技巧としても優れているといった方が正しいかもしれない。 さらに加賀ファンにとっては加賀の教師時代の暗い過去が明かされることでも興味深いだろう。私も実に興味深く読んだ。警察官である父親に反発して教師になった加賀がなぜその職を辞したのかが本書では描かれる。 優秀な刑事としてまた優秀な探偵として、また人格者として描かれる加賀の弱さを知った。 昨今の高評価も頷ける、いやもっと高く評価されてもいい作品だ。最近増え続ける東野読者にも早く本書を読んで感想を聞かせてほしい。 私は上に書いたように大絶賛である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第6作目。
今まで『エンプティー・チェア』以外は題名に殺し屋の名前が冠されていたが、本書では殺し屋トムソン・ボイドが現場に残した遺留品の1つ、タロットカードに由来している。タロットカードの12番目のカードとは、作品の表紙にもなっている「吊らされた男」だ。このカードの持つ意味はその絵から連想する苦しみや拷問などというネガティヴなものではなく、それら暴力や死とは無縁であること。つまり精神的な保留と待機を表している。 なぜこれが題名になったのか。それは最後まで読むと明らかになる。 今回の敵は通称“アベレージ・ジョー”と呼ばれる殺し屋トムソン・ボイド。その異名はあまりに平均的な風貌と平均的な人物が身に着ける服装、乗る車とあらゆる個性を殺した男だ。したがって目撃者はいるもののさして記憶に残らないという特徴を持つ。つまり特徴のないのが特徴なのだ。 前作『魔術師』の殺し屋のインパクトが強かっただけにこの“アベレージ・ジョー”はその設定もあって地味なのだが、今までの殺し屋と違い、彼には家庭があることが特徴だ。それは彼が刑務所での日々で無くしてしまった感情―作中では無感覚と書かれている―が恋人とその連れ子を養うことでをかつてのように取り戻す一助になるのではと考えているからだ。風貌や持ち物はごく普通でありながら職業、感情は普通ではない。彼は心底普通になりたがっている殺し屋と云える。 また物語の趣向もこれまでとは違っていることに気付く。今まではシリアルキラーがどんどん人を殺していくのをライムチームが追うという構成だったのだが、今回はジェニーヴァ・セトルという女子高生を殺し屋の手から守るという構成になっている。守る側のいつ敵が襲ってくるか解らない恐怖が今までのシリーズと違った読み所と云えよう。 さらになぜ一介の高校生ジェニーヴァが殺し屋に狙われるのか?その理由が1868年にジェニーヴァの祖先チャールズ・シングルトンが関わったある歴史的事件に関係しているのだ。つまり今回は通常のジェットコースターサスペンスに加え、歴史ミステリ的要素も加わっている。 そして今回はレギュラーメンバーのロン・セリットーがスランプに陥る。事情聴取中に目の前で人が殺されてしまったことでPTSDになってしまい、殺し屋“アベレージ・ジョー”の影に終始怯えながら捜査に携わり、恐怖のあまり誤ってアメリアを射殺してしまいそうになるくらいだ。今回このセリットーがいかに再生するかが物語のサイドストーリーとなっている。 『ボーン・コレクター』で登場したリンカーン・ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズだというのは世のミステリ書評家もそして作者自身も認めているのだが、今回それが改めて強く認識させられた。それは殺し屋トムソン・ボイドの前職について。 捜査を進めるにしたがってどんどん増えていくメモの記述。そこに明らかにヒントが隠されているのに全く気付かなかった。ボイド自身が語る刑務所生活で失っていった感覚、つまり無感覚の境地に陥った話も含め、実に素晴らしいミスディレクションだ。 またミスディレクションと云えばディーヴァーの語りならぬ“騙り”の上手さが今回も光る。 そんな読者を驚かすことに腐心したエンタテインメントに徹しながらも底流に強いメッセージが込められているのだから畏れ入る。 最後に至り、冒頭に書いた「吊るされた男」のカードの意味がじわじわと胸に迫ってくる。カードの意味は精神的な保留と待機。つまり機が熟するのを待ち、それに備えているという意味だ。 そしてその時が来たのだ。 さてもはやお馴染みとなった他作品のキャラクターのカメオ出演だが、今回は前作『魔術師』で登場したカーラと『悪魔の涙』で主役を務めたパーカー・キンケイドが登場する。 特にパーカーは前作『魔術師』に次いで二度目の登場。相変わらずほんの数ページでの客演に過ぎないが、やはりこういう演出は嬉しいものだ。このファンサービスは継続してほしいが、未訳のノンシリーズのキャラが出ていないか気になる。版元はノンシリーズもかつてのように訳出してほしい。 また作者もパーカーをこれほど気に入っているのならばカメオ出演という形ではなく、ライムとパーカーがコンビを組む作品を書いてもらいたいものだ。 リンカーン・ライムシリーズで一般的に人々の口に上るのは『ボーン・コレクター』、『コフィン・ダンサー』やこの前作である『魔術師』で、本書はどちらかといえば地味な印象を持った作品だ。 しかし読後の今、私の中では本書はシリーズの中でも上位になる作品となった。最後に訪れるリンカーンのある変化も含め、希望に満ち溢れた結末が余韻を残す。 まだまだ衰えないなぁ、このシリーズは。天晴、ディーヴァ―! ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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リンカーン・ライムシリーズ第2作。
当初ディーヴァーはライムを単なるノンシリーズの登場人物として考えていたようだが、あまりにも好評だったため、シリーズ化したと述べている。これが今に至ってディーヴァー人気を決定付けるのだから、全く嬉しい限りだ。 さて今回のライムとアメリアの相手はコフィン・ダンサー。唯一の目撃者の証言からその上腕部に棺の前で女と踊る死神の刺青―表紙絵はそのイメージを捉えるのに大変助かった―があったことがわかり、それ以来通り名として呼ばれている。 前作と違うのは今回はあらかじめ敵の素性が誰なのか示されている点だ。匿名の誰かではなく、スティーヴン・ケイルという固有名詞を持った人物がターゲットを狙う様子が同時進行的に描かれる。 しかしだからといって油断してはいけない。何しろ作者はあのジェフリー・ディーヴァーだからだ。どこにどんなサプライズが潜んでいるか解らない。 特に冒頭のシーンには驚いた。 作品のイントロダクションとしてダンサーの最初の犠牲者が現れるが、この導入部のミスディレクションの冴えは久々にいきなり頭をガツンとやられるほどの不意打ちを食らった。最初の1章で既に私はディーヴァーの術中に嵌ってしまった。 また前作『ボーン・コレクター』の事件から1年半以上経ち、アメリアとライムの関係はもはや前作よりも深まっている。それは師弟関係としてもそうだが、お互いに恋愛感情を抱くまでになっている。 それがライムの葛藤を生み出す。四肢麻痺で現場に出られない自分の代わりに手足となって現場捜査をする存在であるアメリア・サックス。しかし現場の最前線に出ることは生命の危険度も増すことになる。従ってライムは大切な存在になりつつあるアメリアを危険な現場に晒すことを拒むようになる。 通常ならば相棒との信頼関係が深まることで、危険な現場ではお互いがお互いを守ろうとバックアップしあう姿勢が生まれるが、このライムという身動きの取れない人間だからこそパートナーに対する信頼と愛情が芽生えるにつれ、現場に送ることへの危惧と期待のジレンマに陥るというのは実に巧妙なプロットだ。 しかしこのライムの心境については作者はさらに巧妙な仕掛けを施している(かつての恋人クレア・トリリングはライムの指示で現場に向かい、ダンサーが仕掛けた爆弾によってこの世を去ってしまった)。なんとも細部に至るまで抜かりのない作品だ。 そして前作ではやたらと目に付いたライムの自殺願望は今回全く見られない。しかしそれは不自然とは思えない。なぜなら前述したとおり、前作から1年半経っており、彼はアメリアと一緒に仕事することで生き甲斐を見つけ、また技術の進歩から機械を介して照明を点けたり、CDをかけたり、電話を掛けたり、移動したりと健常者と変わらぬ生活をすることが出来るようになったからだ。 しかし今回はそれが逆に仇になる。音声で反応する機械は発生する側が冷静でないとなかなか認識しないのだ。それがゆえに詰まらぬミスで警察官を三名殺させてしまう。つまり自殺願望の鬱状態から新たに身障者が抱く錯覚がライムにとって一つネックになっている。 そして今回も詳述を極めた色んな専門的知識がふんだんに盛り込まれている。 まずは爆破犯に関する知識。概ね爆破犯は一つのテクニックを学ぶとそれを繰り返し使うことが多いとの事。つまり爆弾の種類、手法こそが爆破犯を限定する指紋の役割を果たすことになる。 また現場の血痕の形で犯人の意図や被害者の状況が判ったりもするし、指紋は同一人物の指紋であっても他の箇所から採取された指紋を繋ぎ合わせては証拠としては扱えないことも勉強になるし(アメリカだけの話かもしれないが)、映像解析をするならばJPEGファイルでは解像度が落ちるのでビットマップファイルで保存した方がいい、などとここまで細かい知識が開陳される。 しかし何といってもディーヴァーのその専門的知識が大いに活かされたのは物語の終盤にパーシーが航空機内に仕掛けられた爆弾との格闘の一部始終だ。 正に手に汗握るエンタテインメント。もうこれを読むと生半可な知識で書かれた航空パニック小説は読めなくなるなぁ。 特にこのシーンで重要な鍵となるのがライムの部屋の窓に巣食うハヤブサだ。このハヤブサは1作目から登場している小道具だが、本書では保護者の対象が飛行機業界の人間ということもあるのか、このハヤブサの物語に果たす役割が大きくなっている。 まさか1作目での心理描写用の小道具だと思っていたハヤブサがここまで物語に寄与するとは思わなかった。これぞディーヴァーの構成力の素晴らしさだろう。 そして素晴らしさといえば忘れていけないのはキャラクター造形だ 。2作目にしてますますライム、アメリア、ロン・セリットー、アル・クーパー、そして忘れてならない介護士のトムらのチームワークは団結力を増し、さらに前作では敵役でもあったFBI捜査官のフレッド・デルレイがチームにとって無くてはならない存在までになっている。 彼らに加えて新キャラクターの証人保護システム専門の刑事ローランド・ベル。温厚な性格ながら常に周囲に細心の注意を配り、保護者を守るためには自分の命を投げ出すことも厭わないプロフェッショナル。 また保護される側のパーシー・レイチェル・クレイも忘れがたい。決して美人でもなく、身長も低いがそのコンプレックスが原動力となって全ての航空機の操縦が出来、さらには整備も出来るパイロットの中のパイロット。彼の仕事に対する姿勢にライムは彼に通じるプロ意識を感じ、なんとライムでさえ説き伏せるほどの意志の強さを備える。 そして悪役コフィン・ダンサー。かつてライムが仕留め損ねた凄腕の殺し屋。爆破犯のセオリーを覆し、その都度新しい爆弾を作って殺しを遂行し、耳の形をいじったり、整形したり、傷痕を増やしたり、体重も増減させ、指紋さえも変えるという超人的な暗殺者。 わざと現場に証拠を残してライムに敢えて勝負を挑んだ前作の相手ボーン・コレクターとは違い、ダンサーは殺しの痕跡を残さずに現場を後にする。その中で残された僅かな証拠を採取し、知識と推理力を総動員して立ち向かうスティーヴン・ケイルとライムの応酬は敵の裏の裏を掻く“動”のチェスゲームの如き精緻さを極める。 いやあ本当にページを繰る手が止まらなかった。このダンサー対ライムの姿を描いた本書を読んでいる最中、大沢在昌氏の新宿鮫シリーズの第2作『毒猿』が頭をしばしば過ぎった。 また余談になるが『ボーン・コレクター』のウェブ上で挙げられた感想を読むと、ほとんどの人がリンカーン・ライム=デンゼル・ワシントンと脳内変換していたと書いてあったが、私は実はそうは思わなかった。もちろんこれは映画の影響によるのだが、作中の描写を読むと端正な顔立ちをした髪の長い髭を生やした白人という描写があったので、私は映画『7月4日に生まれて』で主演した時のトム・クルーズを擬えていた。本書で正にトム・クルーズのようなという一節を読んで我が意を得た気がした。 当初は作者は映画化されるときに、ライム役をクリストファー・リーヴを希望したという話をどこかで読んだ気がするが、リーヴに関しても本書では触れられているので映画化に対する不満やしこりがやはりあったのだろう。 これほどエンタテインメントに徹しながらも1作目以降映画化されていないのは不評だったのか、それとも作者の意向なのか判らないが、私見を云わせてもらえば、その理由の一端が本書の行間から見えたような気がした。 冒頭に書いたようにやはりディーヴァーはサプライズを仕掛けていた。しかもかなりメガトン級だ。 久々に地球がひっくり返るような錯覚を覚えたぞ! しかもその明かし方は前作よりもさらに磨きが掛かっている。 いやはや参りました、ディーヴァー殿。 さて次はどんなサプライズを、エンタテインメントを提供してくれるのか、非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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前作『犬の力』は同じマフィアの話でも麻薬を軸にしたメキシコマフィアの話だったが、本作はアメリカの裏社会を題材にした小説の定番ともいうべきイタリアマフィアのお話。
加えて齢60を越える元凄腕の殺し屋が命を狙われる本書はウィンズロウ色が色濃く溢れたオフビートな作品。しかも主人公フランクの趣味はサーフィンと私の好きな『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドと同じだから期待せずにはいられない。 そしてその期待は見事に適えられた。 とにかく主人公フランキー・マシーンことフランクがカッコいいのだ。 どんなタフな奴が来ても動じない度胸と対処すべき術を心得ている。よくよく考えるとウィンズロウ作品の主人公というのは自身の信ずる正義と矜持に従うタフな心を持った人物だったが、腕っぷしまでが強い人物はいなかった。つまり本書はようやくタフな心に加え、腕っぷしと殺人技術まで兼ね備えた無敵の男が主人公になった作品なのだ。 今まで伝説の殺し屋と噂されるキャラクターは色んな小説に出てきたが、その強さを知らしめるのは単に1,2つのエピソードだけでお茶を濁される作品がほとんどだった。しかしウィンズロウはその由縁をしっかりと描く。だから読者は彼がまごう事なき伝説の殺し屋であることを理解し、その伝説を保たれるよう応援してしまう。 物語はフランクがフランキー・マシーンになった「成り立ち」とフランクを殺そうとする者たちを探索する現代の話とが平行して進む。フランクが過去を回想するたびに、殺した人間の係累に思いを馳せ、もしやそれが現状の引鉄かと推測し、そこへ向かうといった具合だ。 『犬の力』では30年以上にも亘る麻薬捜査官とマフィアとの闘争を描き、上下巻併せて1,000ページを超える大著であったが、本書はフランクの回想シーンが1963年の19歳だった頃から始まることを考えれば、62歳の現代から振り返れば43年分の歴史が語られているわけだが、上下巻併せても630ページ弱で『犬の力』よりも長い。しかも字の大きさは『犬の力』よりも大きい(昨今の出版状況の厳しさが偲ばれる)から、1冊にまとまるくらいのコンパクトな長さである。 つまり本書がいかにスピード感あふれ、なおかつエッセンスが詰まった作品であるかが解ると思う。 そして抜群のストーリー・テラーであるウィンズロウ、この過去のパートそして現代のパートが共に面白い。 このイタリア・マフィアの悪党どもがそれぞれの思惑を秘めて絡み合うジャムセッションは全くストーリーの先を読ませず、以前から私が云っているエルモア・レナードのスタイルを髣髴させる。特に本作は悪役の描き方といい、ストーリーの運び方といい、そして女性の描き方も付け加えて、さらにレナードの域に近づいているように感じた。元々“生きた”文章を書くことに長けたウィンズロウだったが、本書はさらに磨きがかかっている。ここぞというところにこれしかないという台詞や一文がびしっと決まっているのだ。 さらになかなか解らないのがなぜフランキー・マシーンを消そうとしているのか?そしてそれは誰の企みなのか?というメイン・テーマだ。殺し屋稼業だから、過去の恨みは数知れなく、フランクは思いつく限り現代に禍根を残す人物たちに接触を図る。浮かんでは消え、接触しては否定される動機の数々。 それらを通じて語られるのはマフィアの世界の非情さ。使える者はとことん利用してあぶく銭を得てのし上がっていく。それを面白く思わない輩が武力を以って横取りしようと画策する。勝ち残るには権力とそれを保つ勢力が必要。だから下っ端は顔になろうと姑息な手段と殺しを請け負い、ボスへの信頼を得ていく。 前作『犬の力』では“犯罪はペイする”という言葉を立証するかの如く、メキシコの麻薬組織が他国の政府に資金援助をして磐石の組織基盤と資金システムを築いていくのに対し、本作のイタリア・マフィアはポルノ産業や賭博産業、高利貸し、クラブ経営といった浮世商売で一攫千金を狙い、他組織からの妬みと裏切りと麻薬とで崩壊していく。 フランクの元相棒マイク・ペッラが死に際に放つ「マフィアの世迷い言なんぞ、もうたくさんだ。そう、何もかも世迷い言だった。名誉も忠誠もあるもんか。初めっからなかった。おれたちは自分をだましてたんだ」述懐が象徴的だ。 そしてウィンズロウ作品の特徴の1つにプロットに政治が絡むことが挙げられる。表向きの目的に隠された政治的工作や陰謀、もしくは犯罪が絡む政治的倫理。それは初期のニール・ケアリーシリーズから盛り込まれていた。 特に本書ではその現在の腐ったアメリカ政治に対する作者の怒りとも嫌悪とも取れる“魂の叫び”が作品の最後の方にフランクの台詞として述べられている。その、政府が犯罪組織を撲滅したがるのは彼らが商売敵だからだという過激な論調は数々の職を転々としながら、自身も裏社会に通じてきたウィンズロウしか云えない言葉だろう。 というよりもこの部分がよくも検閲に引っかからなかったものだとアメリカ出版業界の懐の深さに感心する。 そしてまだまだ尽きないキャラクターのアイデア。本当に個性的だ。 主人公フランクは先に述べたとおりだが、彼のサーフィン仲間でFBI捜査官であるデイヴ・ハンセン。彼もある意味影の主役といえよう。『カリフォルニアの炎』のジャック・ウェイドを思わせる自分の信念と正義のために上司からの圧力にも屈しない不器用な男である。 そしてフランクの元相棒マイク・ペッラ。彼はフランクが抑制していた強欲を象徴する人物といえよう。フランクが長いこと彼と相棒そして友人として付合っていたのは彼の中に己の戒めるべき姿を見ていたからに違いない。久しぶりに見たマイクの凋落振りに自分の未来像なのかとフランクが絶句するところが象徴的だ。 また伝説の殺し屋フランキー・マシーンを殺して自らの伝説を築こうと息巻く若きマフィア、ジェームズ“ジミー・ザ・キッド”ジャカモーネも忘れられない男だ。ヒップホップに嵌り、エミネムのファッションを真似る男は組織のボスや幹部達を老いぼれと軽蔑し、かつてのイタリアマフィアの隆盛を取り戻そうと野心を募らせている。伝説の殺し屋を畏怖する人物が多い中で唯一恐れない男だ。 さらにフランクの別れた妻パトリシア、フランクの若き頃のボス、バップことフランク・バプティスタ、ラスヴェガスの高利貸しハービー・ゴールドスタイン、元警官でいくつものクラブを経営していたホレス“ビッグ・マック”マクマナスなどなど、フランクの過去に関わり、通り過ぎていった人物たちそれぞれも重ねられたエピソードが実に味わい深いゆえに鮮烈な印象を残す。 個人的にはフランクが標的として追っていたカジノの金を持ち逃げした警備主任のジョイ・ヴォールヒーズのエピソードの印象が最も強い。ほんの末節に過ぎないこのエピソードに追う者と追われる者の奇妙なシンパシーと逃亡人生の末路の悲惨さが痛烈に込められ、忘れがたい。こんなエピソードが書けるウィンズロウはどんな人生を歩んできたのだろうか? 今までウィンズロウの作品で唯一不満だったのは物語の閉じ方だ。ペシミスティックで感傷的な終わり方はどの作品も魅力ある主人公を書いているだけに、同じ物語の世界を旅してきた読者の一人として、なんとも不完全燃焼な感じを抱いていた。ニール・ケアリーしかりジャック・ウェイドしかり。 しかし本書はこれこそ私が待ち望んだ結末といわんばかりの、静謐さと希望が入り混じった思わず笑みが零れる極上の終わり方だ。だから私は迷わず星10を献上する。ウィンズロウ作品初の星10を。 |
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これは傑作!正に掘り出し物だ。
予想以上に面白かった!ドキドキハラハラの連続活劇だ。 エニグマ強奪の任を受けてドイツ支配下のパリ潜入行を行うベルヴォアールが、盗賊時代の仲間達の協力を得ながらドイツの包囲網を常に相手の想定の斜め上を走りながら潜り抜けていく。 一歩遅れれば囚われの身となり、拷問に晒される状況下、時には鮮やかに、時にはギリギリの所で、はたまた敵の目前で包囲網をかいくぐるスリリングな展開が目白押しだ。 そんな物語を彩る登場人物たちの個性が際立っている。 まず主人公の盗賊、自らを男爵と名乗るフランシス・ド・ベルヴォアールの造形が素晴らしい。 フランス人で大泥棒の父と駆け落ちした鉄道王の娘との間に生まれたこの男は幼い頃から父の稼業を手伝いながら盗賊としての腕を着々と磨き、世界中で盗みを働く。サイゴン、マカオ、香港の東南アジアで活躍し、その後エチオピア、コンゴ、アルジェリアと西アジアから北アフリカを蹂躙。そして生まれ故郷のヨーロッパに戻り、大仕事を幾度と無く成功させ、ゲシュタポの金塊強奪事件で英国で捕まるまで一度も逮捕された事がない。変装を得意とし、人殺しは無論の事、銃器を使わぬことを信条とし、大胆不敵さと情の厚さを兼ね備えたその性格は、周囲の人物を魅了し、次々と仲間―女性の場合は恋人―に引き込み、協力者のネットワークを世界中に築き上げている。 彼の標的である暗号機エニグマを所有するドイツ軍にあって、彼の宿敵とされるのはルドルフ・フォン・ベック大佐。厳格なる職業軍人の血筋に生まれた生粋の軍人である彼は34歳にして軍情報部の大佐の地位にあり、ドイツ軍の本道を進むエリートである。 しかし彼は幼き頃からジュール・ヴェルヌの冒険小説を好み、バイロン卿やラファイエットといった自由のために戦ったロマンティックな勇士に憧れる心を持ち、またフランスの華やかな文化を愛でるロマンティストでもある。そして彼はベルヴォアールの波乱万丈の人生を読んで、かつて叶えられなかった理想の人生を彼に見る。敵でありながら憧れであるベルヴォアールを尊敬の心でもって相見える。 さらにパリでベルヴォアールを助けるブリュノー・モレールを中心としたかつての仲間たちも個性的であり、彼らは敵のドイツ軍、特にゲシュタポのパリ本部長クルト・リマーの残酷さが物語の闇の部分を際立たせ、陽と陰が適度にブレンドされ、読者のハートをゆすぶる。 彼リマーの残忍な手口によって拷問に晒され、命を落としていくレジスタンスにイギリス軍の協力者達。第2次大戦時のドイツ占領下におけるパリの明日をも知れない緊迫したムードが、このコンゲームにスリルをもたらしている。 さて、上に書いたベルヴォアールの経歴を読んで、何か連想しないだろうか。 そう、フランス人の大泥棒ベルヴォアールはもうルパンそのものである。これはバー=ゾウハーの手による怪盗ルパン譚、パスティーシュでもあるのだ。 本家ルパンが書かれた時代は第1次大戦から第2次大戦時の動乱の最中である。作者ルブランは篤い愛国者であり、実際ルパン物で自国フランスを救うエスピオナージュを書いている。しかしそれはあくまで怪盗ルパンの活躍を中心にした創作であり、全面的に政治的側面を押し出したものではない。 翻ってバー=ゾウハーによる本書はまずV-2ミサイルというドイツの脅威の新兵器がありきで、その侵攻を阻止するために暗号機エニグマの強奪という側面が浮かび上がってくる。つまりルブランの創作姿勢とは全く逆なのだ。 従ってバー=ゾウハーの書く怪盗ベルヴォアールの活躍は非常に現実的であり、緊張感溢れるスパイ小説としても読めるのだ。 いやあ、スパイ小説でありながら、ピカレスク小説でもあり、さらにルパンのパスティーシュでもあるという、非常に贅沢な作品だ。そしてそれを難なく作品として纏めているバー=ゾウハーの手腕に改めて感服する。 そして明かされる事実は情報戦の非情さを象徴するが如く、皮肉な物だった。 大局的勝利のために少数の犠牲を出すことも厭わない戦時中の歪んだ闘争原理。バー=ゾウハーはそんなパワー・ウォーに巻き込まれた尊い命の数々を描いたのだ。 しかしこの邦題はなんとも魅力がない。このガチガチの国際謀略小説を思わせる堅苦しい題名を見てこのようなドキドキハラハラの冒険譚を想像するだろうか。 バー=ゾウハーの多くの作品が絶版になった中で、なぜ1980年に訳出された本書が21世紀も18年過ぎた今なお刊行されているにはやはりそれなりの訳があるのだ。 それを想像させるにはこの題名が足を引っ張っているように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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旅先での一人旅の女性とのアヴァンチュール。そんな珍しくもない、誰にでも起こりそうな情事が思いもよらぬ災厄をもたらす。
そんなありきたりな設定に被害者を身分詐称を生業とする詐欺師に持ってきたところにフリーマントルのストーリーテラーとしての巧さがある。 特に今回はアメリカでももはや死滅状態であるクリミナル・カンヴァセーションという特殊な法律を持ってきたことが大きい。アメリカの州でもほとんどの州が既にこの法律を撤廃しているが、たまたま情事の相手の出生地がノースカロライナ州でそこにまだ現存していた事が主人公ハーヴェイに更なる災いをもたらしている。 よく他国の法律でこんな物を見つけたものだと感心した。 そして新聞であれば数行で済まされるような事件が当事者達には先進的苦痛を伴い、煩雑で不安な毎日を強いられる事をフリーマントルは事細かく書いていく。これこそ記事の裏側にある本当の事実なのだ。 そして法廷に突き出された者はそのプライヴェートが白日の下に晒され、何もかもが真っ裸にされる。私生活は無論の事、隠しておきたい過去、信条、既往症に他人に対する秘めたる思いまで、全てが暴露されていく。 特に本書で論点となっているのはクラジミアという性病である。どちらかといえばこれは密室で医者と患者のみで話されるべき内容であり公に開けっ広げに話されるようなことではない。しかし裁判では被告側の4人と原告側の4人、更には裁判官に陪審員に傍聴者らに自らの隠しておきたい恥ずべきプライヴェートを大の大人が誰がどのように性病を移したのかと熱弁が振るわれる。その様子は想像するだに滑稽である。こうなると裁判というのはもし勝訴したとしても、後に残るのは全てを世間に知られた個人であり、果たしてそれで何を得るのか、疑問に思ってしまう。 アメリカは訴訟王国と云われて久しいが、気に食わないことがあったからと云って、社会的制裁を加えるために容易に訴えを起こすより、それによって被る不利益、失う物を考えた方がいいのではないか、法廷ミステリではそう警鐘を鳴らしているようにも取れる。 しかし皮肉な事にその法廷シーンが実に面白い。下巻冒頭から繰り広げられる裁判シーンは本書の白眉と云えるだろう。 とどのつまり、一時期法廷ミステリが活況を呈したのは、一般人にはなじみが無い世界である珍しさもさることながら、他人のプライヴェートがどんどん暴露されてしまうことを知る読者の野次馬根性を大いに刺激している事も認めざるを得ないだろう。結局のところ、他人の不幸ほど面白い物はないということか。 本書でもその例に洩れず、法廷シーンで繰り広げられる原告側、被告側双方がやり取りする揚げ足の取り合い、トラップの仕掛け合いはものすごくスリリングである。言葉の戦争だとも云えよう。 元々フリーマントル作品には上級官僚が自らの保身、自国の保身のために行う高度なディベートが常に盛り込まれており、すごく定評がある。このフリーマントルのディベート力が裁判という舞台に活かされるのは当然であった。逆に云えばなぜ今までフリーマントルが法廷物を書かなかったのかが不思議なくらいだ。 さて読んでいて思ったのは、今回の主人公ハーヴェイ・ジョーダンはチャーリー・マフィンに非常に似ているということだ。身分窃盗という詐欺師を生業にしているが故に、公に顔を知られてはならないところはチャーリーがスパイであるという職業柄、同様の禁則を持っているのと同じだし、自ら保身のために自分が雇った弁護士以上の分析力を発揮し、逆に弁護士に突破口の糸口のアドバイスを送る。それは自分だけではなく、情事の相手アリスを守るためでもある。この点はチャーリーが英国のスパイでありながら、内縁の妻であり、ロシア民警の総元締め的立場にあるナターリアを同時に救うことに腐心するところを非常に似ている。 そして自らの生活を脅かす人物に必ず復讐を持って制裁することもチャーリーと非常に似ている。双方に共通するのは共に英国人であるということ。つまりこの自らの保身だけでなく、愛する女性を守らなけらばならないという騎士道精神が根底にあるからではないだろうか。 本書のタイトルであるネーム・ドロッパーとは有名人の名前を借りて、恰も自らが非常に親しい友人のように振舞う人を差す言葉らしく、ここでの意味は他人の名前を自分の名前のように使い、その存在を他者に認めさせるように使う人として使用されているようだと訳者は述べている。 ここで思い当たるのは果たして名前とはなんだろうかという事だ。 他人の名を借りて身分を偽り、それが偽造パスポートや偽造運転免許証、さらに社会保障番号を知ることで他人に成りすます事が出来る社会。しかしそれは結局他人の人生でしかなく、非常に空虚な物であると私は思う。なぜなら他人に成りすまし、それが社会で認められ、金融取引も出来てしまう反面、では一体本当の自分とは何なのだというアイデンティティが揺るぐような根本的な命題に行き着くからだ。 本書は身分窃盗であるジョーダンが本人であるハーヴェイ・ジョーダンとして訴えられることで、改めて借り物の人生を過ごしてきた自らについてアイデンティティの再認識が成される。だからこそのあの最後のセリフが活きるのであろう。 最近のフリーマントルは長く生きてきたせいか、人生に対して斜に構えた見方をしがちで、最後に英国人流の皮肉を以って物語を閉じる傾向があったが、本書は主人公が詐欺師という犯罪者にもかかわらず、非常に胸の空くエンディングが用意されている。 私はフリーマントルにこういう小説を書いて欲しかったのだ。 世間では全く俎上に上がることが無かった本書だが、それが不思議でならない。『殺人にうってつけの日』もフリーマントルを最初に手にするのに適していると書いたが、本書はこの結末も含めて、更にお勧めの1冊だ。近年のフリーマントル作品の中でもベストだとここに断言したい。 |
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死者が見えるという特殊能力を持った青年オッド・トーマスの物語。
オッドは死人が訴えるメッセージを読み取り、彼らの無念の死の元凶となった犯罪者を捕まえる事を厭わない。しかし彼はそれには決して銃を使わない。 オッドは朝起きると、まず今日も生きていた事に感謝し、その日一日奉仕して今日も生き延びられる事を祈る。 これらのオッドの性格付けと見なされていた設定が後半、彼のそれまでの人生に与えた影響によるものだというのが解る。 彼の両親は離婚しており、プレイボーイの父親と美しい母親は今でも健在だ。しかし彼らは社会的常識の欠落者、というよりも利己中心で自己保身の性格が突出した人物、つまり結婚生活に全く適していない人物なのだ。 特に凄絶なのはオッドの母親だ。彼女の場合は精神的不均衡に由来するものだが、自分を守るが故に他者との係わり合いを徹底的に嫌うその性格、そしてそれにより被ったオッドのトラウマを想像すると背筋が寒くなる。子供が風邪や病気で苦しんでいるのに、その世話に関わる事で“要求される事”を嫌い、それに対応する事で自分の何かが奪われていく負担を感じる母親が、オッドの咳を止めさせるために隣りに添い寝し、一晩中銃口を彼の眼に突き付けていたというエピソードは凄まじい。 この一種作り物めいている人物設定だが、実際にいるのではないか。モンスター・ペアレンツと揶揄される自分勝手な親が蔓延る世の中、全くおかしな話ではないと思えるのがなんとも痛ましいところだが。これを筆頭に狂気の90年代と作者が常々訴えている人間の利己主義の暴走が本書でも幾度となく語られる。 このような虐げられた幼少時代を過ごしたオッドがサイコパスにもならず、ダイナーのコックとしてつつましいながら恵まれた生活を送っているのは彼を取り巻く人々の慈愛と、彼の運命の恋人ストーミー・ルウェリンの存在。 特にストーミーはオッドの精神の拠り所であり、彼のこの上もない宝物だ。このキャラクターは白眉であり、理屈っぽいところは数あるクーンツ作品で見られるヒロインの典型なのだが、彼女に対するオッドの深い愛情がそこここに配されていることで、なんとも愛らしい人物になっている。 そして開巻一番驚いたのは今まで作品に挿入されていたクーンツ自作の詩が『哀しみの書』から『歓喜の書』に変わっていたことだ。世界は哀しみに溢れ、彼の描く世界・物語は恐怖の連続であり、登場人物たちはまともに見えて実は狂気と正気の淵でギリギリの均衡を保っている。終わってみればハッピー・エンドだが、物語はほとんど救いが見られない様相を呈しており、クーンツはその絶望を悲しむ、それこそ彼の作品自体が『哀しみの書』となっているように感じられる。 それがしかし本書では『歓喜の書』となっている。この答えは最後になってようやく解ったような気がする。それについては後述しよう。 さて本書を読んで連想するのはハーレイ・オスメント演じる死者が見える少年コール・シアーが登場するM・ナイト・シャマラン監督の映画『シックス・センス』。主人公オッド・トーマスはその少年が成長した姿のようだ。死者が見えるだけでなく、その能力を使って死者の悔いを晴らす、起こりうる惨劇を防止するために行動する彼の信条はあの映画の後の少年だとしても違和感がないだろう。 ちなみに映画は99年の作品で本書は2003年の作品だから、恐らくクーンツはあの映画を念頭に置いていたのではないかと思われる。そしてそれは最後の最後で明かされる、ある事実からもその影響が強く表れている事が解る。 そしてこの2003年という年に注目したい。この頃のアメリカは哀しみが国中を覆い、死の影が誰も彼もに付き纏っていた。それは本書でも語られている2001年の同時多発テロという空前絶後の悲劇によるところが大きい。 そして本書でもショッピングモール内での銃乱射事件というテロが物語のクライマックスになっている。これが本書におけるオッドの使命なのだが、この事件でオッドは最大の不幸を経験する。 物語半ばでもしやと想像していたことであり、でもハッピー・エンドで終わるクーンツだからそれはないだろうと思っていたが、作者は敢えてそれを用意した。 ここでクーンツが本書の冒頭に『哀しみの書』ではなく『歓喜の書』を挿入したのかが私には解った。哀しみを乗越えた後に歓びが訪れる、人はその困難に打ち勝たなければならない。そしてこれこそで哀しみに打ちのめされた人々に対するクーンツからのメッセージだったのだろう。オッドはそれの具現者だというのが最後に解るのである。 しかしなんとも遣り切れない思いが募る。クーンツがこの物語に込めたメッセージは解るがやはりこの結末だけは避けて欲しかったというのが本音だ。 しかしそれが故になぜ本書がオッドによる一人称小説になっているのかもまた読後に解るのだ。それは小説的技巧のみならず、なぜ彼がこの物語を紡ぐ事を友人の作家リトル・オジーに勧められたのか、それが実にストンと心に落ちてくる。そんな多重的な構造を含め、本書は最近のクーンツ作品でも群を抜いて素晴らしく感じるのだから全く皮肉な物である。 オッド・トーマス、君に幸あれ。思わず読後、こう声を掛けたくなる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第5作の『炎蛹』以降、シリーズの通奏低音ともいうべき存在感で物語の影の部分で暗躍していたロベルト・村上こと仙田勝が今回鮫島の標的となり、とうとうこの時が来たかと一言一句噛み締めるように読んだ。
そして今回の泥棒市場の撲滅に関わってくるのが鮫島のライバルで同期のキャリア香田。 しかし今回香田は今までと違い、公安の立場ではなく組対部の理事官として鮫島と対峙する。それは外国人犯罪者に家族を傷つけられたという個人的な怨恨が原動力となっていた。そしてまた仙田も元公安の人間。香田の真意に鮫島は疑問を募らせる。 今までお互い水と油のように相対し合ってた2人がお互いの正義を振りかざし、真っ向から対抗する。 香田は大局的な見方で、関西の大規模ヤクザの稜知会と手を組み、複雑化する外国人犯罪を根こそぎ掃討し、かつての警察とヤクザの持ちつ持たれつの関係というシンプル化を図る。対する鮫島は法を遵守する側が大局的な視点とは云え、法を破り悪に組する事に疑問を呈し、香田の正義に問いかける。 このシリーズを通してのライバル2人が今まで以上に熱い真剣勝負を交わす。 仙田、そして香田。 このシリーズを通して常に鮫島に立ちはだかった2人のライバルが本書ではクローズアップされる事で、警察が歩んできた歴史の闇と光、功罪を浮かび上がらせる。しばしば何が正義なのかを読者にも問いかける。 社会人も20年過ぎてこのシリーズを読むと、鮫島のかざす正義の旗印という物が実に純粋であることが解ってくる。そしてそれを貫くがために輝かしいキャリアとしての出世街道を外れ、あくまで警察官としての正義、遵法者としての警察官であろうとする鮫島の主張が現実離れしているように思えたことを正直に告白しよう。 香田と鮫島のどちらを選ぶかと問われれば私は間違いなく前者を選ぶだろう。大人になると「自分」を貫くことがいかに困難かを思い知らされる。そんな世の中にこの鮫島という男は貴重だし、彼を求める読者がいるのだ。 かつて第2作『毒猿』では東京で幅を効かせる中国系マフィアと暴力団の一大抗争をテーマにしていたが、18年後の本作では外国人犯罪者と暴力団が協力しあい、複雑な犯罪システムを築き上げている。一日千秋の思いがする。 そんな多様化した犯罪を以前のように単純化するために組対部が画策するのはコピーブランドの摘発を端緒に外国人犯罪者の一掃だったというのが面白い。これが果たして今の警察にとって現実味がある方法なのか、もしくは実際に計画されているかどうかは寡聞にして知らないが、よく考えたものだと感嘆した。 そしてその最高責任者として常に鮫島の前に立ちはだかる存在である香田を配したのが面白い。その動機―自身の家族を自宅で外国人犯罪者にて襲われた―も十分練られていて無理がなく、思わず唸ってしまった。 このように犯罪が複雑化し、細分化されるにつれ、事件も複雑化する。つまりそれはストーリーをも複雑化を招く。 しかし作者大沢氏は練達の筆捌きで同時進行する複数のストーリーを一点に見事収斂させる。毎度の事だが、本当に見事と云うしかない。 ちょっと下世話な話をしよう。本作のキーパーソンである呉明蘭なる中国人の女性盗品鑑定人。恐らくタイトルはこの女性を指したものだろう。 本作には銀座・六本木の夜をホステスとして渡り歩いたこの明蘭の過去を探るに当り、東京のクラブの内情が語られる。この辺は銀座・六本木の夜を颯爽と闊歩している大沢氏の本領発揮とも云うべきで、恐らく連日連夜足繁くクラブに通い、ホステスを口説きながら取材したに違いない。 そしてその“夜のクラブ活動”の成果を作品の緊張感を損なうことなく、淀みなくストーリーに溶け込ませるのはやはり熟練の技。十分経費として落とせる内容になっている。 さて90年に「卑しき街の聖人」という英題を付して現れた「新宿鮫」こと鮫島もなんと45歳を越える年齢になってしまった。 そしてシリーズの巻を増すごとに恋人、晶の存在が希薄になっているが、本作でも彼女の占めるウェートはわずかに過ぎない。この辺りは作者も幾分持て余し気味のような気がしないでもない。この2人の年齢を考えるとそろそろ次作あたりで何らかの決着がつくような気がする。 警官を集団における一つの駒としてではなく、一個の人間として描き、それぞれの正義観の狭間でもがき、葛藤しながらそれぞれが生き方を貫く極上の警察小説、『新宿鮫』シリーズ。 この作品の熱気はまだまだ冷めそうにない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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各種オールタイムベストランキングで常に1,2位、少なくとも上位5位以内には位置を占める不朽の名作『Yの悲劇』。21世紀の世になり、かなりの小説を消化してきてようやく着手した。
舞台となるハッター家の邸に住まう、気ちがいハッター家と世間で揶揄される面々がいつもに比べて非常に強烈なキャラクター性を放っている。 傲岸不遜を地で行くエミリー・ハッターを筆頭に、精神的虐待で自身の私的研究室に終始篭っていた被害者ヨーク。世間で天才の名を恣にしている長女で詩人のバーバラ。学生の頃から今に至るまで夜の街で暴れては警察の厄介になり、各種の犯罪を犯しては母の権力でもみ消してもらっている無頼派の長男コンラッド。美貌を活かし、男をとっかえひっかえして、数多のスキャンダルを繰り返す末娘のジル。ハッター家に嫁ぐもエミリーの君主的支配からヨーク同様の生きる屍の如く毎日を送るコンラッドの妻マーサ。そしてコンラッドとの間に出来た二人の息子ジャッキーとビリーは狂暴かつ乱暴で悪知恵が働き、常に残忍な悪戯をして周囲を困らせている。そして聾唖盲の三重苦を背負ったエミリーの前夫との娘ルイザ。 なんともヴァラエティに富んだキャスティングではないか。今まで読んだ他の作品と比べても、エラリーが本作に多大なる力を注いだのがこの人物設定からも十分窺える。 そして『Xの悲劇』が様々な公共交通機関で起こる、云わば外に向けられた連続殺人劇であるのに対し、この『Yの悲劇』は古典ミステリの原点回帰とも云うべき、ハッター家という邸内で起こる連続殺人劇というのが非常に特徴的だ。これも作者が正面から古典本格に戦いを挑んだ姿勢とも取れる。 このクイーンの過去の名作への挑戦とも云える本書の感想を率直に述べよう。 確かに傑作。これはすごい。読み終わった後、鳥肌が立った。これほど明確なまでに探偵の収集した情報を読者の眼前に詳らかにした上で、最後の舞台裏の章で明かされる事件の真相の凄さ。本作で展開されるロジックの畳み掛けはクイーン特有のロジックの美しさというよりも、論理を超えた論理とも云うべき凄味すら感じさせられた。 この書を手に取るに辺り、多大なる期待と多大なる不安があったことをまず正直に述べておこう。なぜなら私自身、これまで数多の推理小説を読んできたと自負しているので、世の読書家、書評子の方々が諸手を挙げて傑作、傑作と囃し立てるほどの驚きは感じられないだろうと高を括っていた。が、全く以ってそれが自身の自惚れにしか過ぎないことが読後の今、痛感させられた。 ここで子供じみた自画自賛的主張を述べるが、真相に至る前に犯人は解っていた。私には十全に推理が組み立てられなくとも、読書の最中で、ふと犯人が閃く事がある。それは各登場人物の描写における違和感や何気なく描かれた一行程度の仕種だったり、探偵役の調査の過程で思弁を凝らした時だったり、添付された見取り図をじっと凝視している時に、電撃のように頭に閃くのである。時にはそれが作者の文体の癖からだったりもし、これになるともはや推理というよりも単なる勘であるのだが。 で、今回はレーンが実験室を調査中にふと閃く事があり、その直感を元に見取り図を見て、ある文字が頭に飛び込んできた時に、ざわっとしたような啓示を受けた。その時、浮かんだのは、この手の真相はこの小説が起源だったのかということだった。そしてこの時浮かんだ島田氏の本書の題名に非常によく似た作品について、恨みめいた感情を抱いたものだ。 だから舞台裏の最初でレーンの口から犯人が明かされた時、正に我が意を得たりといった満足感があった。この真相は発表当時は衝撃だったであろうが、今となっては一つのジャンルとなりつつあるこの手の真相を扱った小説、映画を観てきた現代人にしてみれば、それほど衝撃的ではないし、逆にこの趣向を使ってもっと戦慄を感じさせる小説は後世にも出てきており、何故これほどまでに今に至って傑作と評されるのかが疑問だった。 しかしそれから展開される探偵の推理と真相はページを捲る手を休ませないほど、微に入り細を穿ち、なおかつ堅牢無比のロジックが目くるめく展開する。 未だに「推理小説で凶器といって何を思い浮かべるか」という質問があったときに、「マンドリン」と答える人が複数いるという。それは暗にこの小説で扱われた凶器がその人たちの記憶に鮮明に残っているからなのだが、これは確かにものすごく強烈に記憶に残る。いやむしろ叩き込まれるといった方が正鵠を射ているだろう。 小学校で習う掛け算の九九や三角形の面積の出し方、円周率が3.14であることと同じくらい、死ぬまで残る記憶に残るのではないか。私も30過ぎて読んだが、多分今後このマンドリンという凶器とそれをなぜ犯人が使ったのかという理由のロジックの見事さは忘れられないだろう。 更にこの犯人であることを補完する証拠や犯人の心理がレーンの口から理路整然と次々に語られる。そしてこれが犯人が犯人であるだけに論理だけに落ちず、感情的にも深く心に染み込む理解となった。 そして読後の今、私が犯人を当てたなどは単なる直感に過ぎず、何の推理もしていなかったことが気持ちのいいほど腑に落とされた。自信喪失というよりも爽快感しかない。 そして最後の毒殺の真相。これがこの作品に他作とは一線を画する余韻をもたらしている。レーンのこの事件で感じた絶望が読後、時間が経つにつれ心の中に染入るほどに降り積もる。 読後の今、この作品を振り返ってみると、これはエラリー・クイーンが書いたとは思えないほど、暗い物語だ。家庭内の悲劇が事件によって暴かれる。これは正にロス・マクドナルドではないか。もしかしてロスマクの諸作品はこの『Yの悲劇』が下敷きとなっているのではないかとも取れる。 犯行の動機があまりに短絡的でありながら純粋かつ無邪気なところがこの驚愕を際立たせる。そして今現在、日本各地で起こっている衝動的殺人のほとんどがこの『Yの悲劇』と同様の動機であることに思い当たる。だからこそ現代でも燦然と輝く傑作なのか。 そして私はこれは未完の傑作だと考える。なぜなら冒頭のヨーク・ハッター氏の真相が明かされていないからだ。ヨーク・ハッター氏は果たして自殺だったのか、それとも?なぜヨークは失踪したのか? まだ『Yの悲劇』は終わらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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自転車旅行を題材にしたロードノベル。作者が行った東京~青森間自転車走破の実体験に基づいているらしい。つまり桐沢=作者というわけだ。
短文と体言止め、そして愚痴とも減らず口とも取れる独白を織り交ぜた一見ぶっきらぼうとも思える桐沢の一人称で語られる文体は主人公の人と為りを雄弁に語り、読者の心に美酒が五臓六腑に染み渡るように刻まれていく。この無粋な男桐沢が妙に人を惹きつける抗いがたい魅力を備えており、知らず知らずに青森への単独行を応援したくなる。 恐らくこういう男が会社の部下もしくは同僚にいると扱いにくいだろう。多分私の性格上、この桐沢みたいな男は上手く付き合えない人間なのだ。しかし、それでも彼は私を惹きつけて止まなかった。それは男ならば誰もがこういう生き方を一度は望むからだ。 しがないグラフィック・デザイナーながら気に入らない仕事は断る。金儲けよりも心の自由に重きを置く。宿酔いならぬ三六五日酔いと自分で認める重度のアル中で酒が切れると何も出来なくなる。人付き合いは上手い方ではないが困った奴を見捨てるほど冷酷ではない。 桐沢はいつかこうありたいと願う一人の男の姿だ。だからこそ惹きつけて止まないのだろう。 そして途中旅の道連れとなる高校中退の若者との出逢い、乞食のような風貌だが断固たる決意を胸に秘めた眼差しを持つ男、計画書奪還のため桐沢に接触する自衛隊の藤井三尉、そして同じく計画書奪還のために桐沢に接触し、次第に桐沢に魅了されていく尾崎、旅の先々で出逢う旅館の女将やトラックのドライバーなど、これらが読者をたちまち旅の愉悦に引き込んでいく。 また桐沢の旅の障壁となる自衛隊の計画書奪還作戦。その中核となる「三田北方作戦」の内容もなかなか凝っていて面白い。 狂人とも云われていた三田一等陸佐が立てたソ連侵攻に対する北海道封鎖作戦なるものに画された驚愕の真実。果たしてこれが本当に現実味があるのかどうかは眉唾だが、作者があらゆるデータを使ってその信憑性を固めていくプロセスは面白かった。ロードノヴェルに単純な味付けをしただけに留まっていないのが良い。 しかし何といっても本作の主眼は自転車旅行そのものにある。読んでいて非常に気持ちがいい。作者と同様に暑さに汗を滴らせ、坂道を苦行僧のように身体を苛めながら一心不乱に登り、体を切る風を感じるかのようだ。そして汗と共に桐沢の中から余分な物がどんどん流れ落ちていく。 当初、友人の青森行の話を聞いて負けてなるものかと奮起した旅だったが次第にその目的は単純に青森へ行きたい、その一念のみとなる。雑念やら妙な矜持やら余計な物がどんどん削られて洗練されていき、一種悟りの境地へと至る。 さらに自転車への想い。思い出の品など歯牙にもかけない桐沢が共に旅した自転車を見て妙な愛着を覚え、手放せないと思うこの気持ち、非常によく解る。私も25歳くらいまで自転車を足に使っていた。小学校の時から中学、高校、大学、そして社会人になってまでずっと自転車が交通手段だったからこそ解る。 思い出の品?いや全然そうじゃない。一緒に色んなところを駆け巡り、旅し、転び傷つき、その都度治療した、云わば“戦友”だ。 とにかく何度も涙が出そうになった。それは自分の力のみで成しうる旅への羨望もそうだろう。 日本を離れた今、桐沢が訪れる東北の街のエピソードが旅愁というよりも郷愁に近い感傷となって押し寄せてくる。やはり日本はいい。適わないことだが、私もいつかこのような旅をしたい。いや旅ではない、冒険なのだ。かつて子供の頃、眼前に広がっていた未知の世界へ乗り出す、あの面白さ、それがここにある。 自分の中にまだ“少年”がいるのならば是非とも読んでほしい小説だ。 |
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加賀刑事シリーズ第1作。そして加賀恭一郎シリーズ第2作。今まで作品ごとに主人公を変えていた作者が初めて採用したシリーズキャラクター、それは第2作で主人公を務めた加賀恭一郎だった。
そして、率直な感想、ビリビリ来た!もう心が震えた! 私にとって名作とは2種類ある。 それは万人が認める世評高い本当の名作と、全く期待していなかったのに、予想以上に自分の心に残ってしまう作品だ。そしてこの本は私にとって後者に当たる名作となった。 正に不意打ちだった。何のガードもしてなかった。だから非常に打ちのめされた。ああ、悔しい!東野氏にここまであからさまに翻弄された、そしてそれが正直心地よい。それが偽らざる感想だ。 冷静に考えると、本作は推理小説としては決して歴史に残る名作とは云い難い。本格ミステリとしては、普通の部類に入るだろう。東野氏お得意の密室殺人や見立て殺人といった意匠も無い。犯人も途中で解るだろう。私でさえ、途中で疑いを持ったくらいだ。明かされる真相は意外ではあるにしろ、衝撃の事実というほどの物ではないと思う。 しかし、この作品には小説としての熱がある。単なるパズルの解答を提示するだけに留まらない小説としてのドラマがある。確かにある意味、これほどの事で心打たれるのかという意見もあるかもしれない。でも嵌ってしまったのだ、東野氏の策略に。それはパズルを解き明かす計算を超えた熱情を行間から感じたのだ。 実は最後を読む前に書いていた感想がある。それは東野氏の小説家としての技能について賞賛を述べたものだった。 しかし、こんな物語を読んだ後では自分の心情にそぐわないと思い、削除した。この作品にはそんな小説作法を物ともしない小説家としての気概を感じたからだ。それは東野が初めてシリーズキャラクターを採用した事からも想像できる。東野氏は『卒業』で登場させた加賀というキャラクターを育てようと決心したのだと思う。あの作品を世に送り出したときに、彼の中で一度きりにするのは惜しいと感じたに違いない。そしてそれは成功していると思う。 本作を要約すると次のようになるだろう。 始まりは普通の物語。普通の正当防衛による事件のお話。しかしやがてそれは立派な大輪の花を咲かせるかのような素晴らしい話へと結実する。 そして心に残るこの1行。 “君だけのために、俺はいくらでも語りかけるだろう―。” この台詞の素晴らしさ!今まで抑えていた愛に似た感情が迸る瞬間だ。この素晴らしさは自分で本書を手に取って確かめてほしい。 加賀刑事に読者が惚れる理由が解った。そして加賀という男を知るためにシリーズを順を追っていきたいと思う。 |
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デビュー作にしてこのクオリティ。この原尞氏はまさにチャンドラーの正統なる後継者だ。
物語の導入部にある大富豪更科の邸への訪問は正にチャンドラーのマーロウシリーズ第1長編の『大いなる眠り』へのオマージュそのものだ。そして冒頭と終盤に現れるあの男は『長いお別れ』のテリー・レノックスだろう。こういう舞台設定からして、チャンドラーを愛する者としては(自分のことをチャンドラリアンとまで評するほど、私はまだ判っていない)胸がくすぐられる思いがする。 さらに加えてプロットにはロスマク的家庭の悲劇も加味されている。権力に溺れゆく人々の狂った歯車がぎしぎしと音を立てて、沢崎によって一つ一つ解体されていく。 そして登場人物たち。悪友ともいうべき新宿署の錦織、「カイフ」とだけ名乗って去っていった男、渦中の更科一家はもとより、中盤以降事件の焦点となる都知事の向坂、その弟で俳優の向坂晃司。特に向坂知事はその描写からして元都知事の石原慎太郎氏をモデルにしているとしか思えない。この作品当時、まだ新宿都庁は出来ておらず、当然の如く都知事も違う。まるで原氏はこうなる事を予見していたかのようだ。 しかし正直に云えば、双子の兄弟でありながらある事情で苗字が違う仰木弁護士、失踪した佐伯を密かに慕う辰巳玲子、失踪した男の世話をしていた海部雅美などの登場頻度の少ない脇役の方が妙に印象に残った。 とどめはかつての沢崎のパートナーだった渡辺。手紙のみの登場をしなかった彼が今後シリーズにどのように関わってくるか、興味深い。 しかし何と云っても圧倒的存在感を放つのが主人公である探偵沢崎だ。その他者の侵入を容易に許さぬ姿勢、上下関係や権力者特有の主従関係など全く意に介さず、どんな相手にも自分の態度を崩さず対面する男。背伸びせず、粋がりもせず、かといって卑屈にもならない。読者の眼の前にいつの間にかあるイメージが上がっていく。 しかし、気付いたであろうか?文中、沢崎の人と成りを表した描写など一切ないことを。原は沢崎の台詞と仕草、動きだけで読者にそれぞれの沢崎像を作らせているのだ。この筆致の凄さは並々ならぬものがある。 さらに文章。チャンドラーの正統なる後継者と先に述べたが、その文章はチャンドラーの諸作に見られるような大仰な比喩が頻出するわけでもなく、きざったらしい台詞が出てくるわけでもなく、派手派手しいわけではない。しかし、この本にはノートに書き写しておきたい美文に溢れている。真似したい減らず口がある。 かつてチャンドラーを読んでいた時に駆られた、「私もこんな文章で物語が書きたい」と思わせる雰囲気がある。日常特に感慨もなく見ている風景が語る人によってこれほど印象深く描写されるのか、そう気づかされる事しばしばだった。 そしてやはり古典は読むべきである。名作ならば尚更だ。この沢崎シリーズを十二分に楽しむためにもやはりチャンドラーの諸作、少なくとも全ての長編には当たるべきだろう。そしてそうした私は正解だったと今更ながらに気付かされた。 今夜の酒はきっと美味いに違いない。 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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明治末期の越後の山奥の村、明夜村へ江戸から二人の客が訪れる。扇水とその弟子の涼之助は村の領主、阿部長兵衛に神社への奉納芝居のために村人に芸指導をするよう招かれた、浅草の小さな芝居小屋を経営している役者だった。
借金の山を抱え、芝居小屋の経営難に陥っていた扇水に取って、越後の山奥での一仕事は、借金取り連中から一旦逃げ隠れる事が出来、その上、金稼ぎが出来るという好機であった。一方、女形を担っていた涼之助はその女性と見まがうほどの美貌を持っていたが、扇水の慰み物となり、小さい頃から芸を仕込まれていた扇水の許を離れないでいた。 阿部の屋敷には長兵衛の息子夫婦も同居していた。涼之助は不思議な魅力のもった息子の嫁のてるに惹かれる何かを感じ、いつしか密通を重ねるようになる。 また婿である鍵蔵は妻てるの魔性のような美貌の虜になり、妻が誰かと浮気してどこかに行ってしまうのではないかという不安に常に苛まれていた。 また近くの狼吠山には閉山した鉱山町跡があり、そこには山妣(やまんば)が棲むという言い伝えがあった。 山神様への奉納芝居に向けて稽古が続けられる中、それぞれの思いに変化も起き、やがて芝居当日を迎える。それは新たな悲劇の幕開けでもあった。 ああ、物語、物語。 凄まじいほどの物語の力だ。 上に概要を纏めようとしてもほんの一部を語るのに精一杯だという物語の密度の濃さだ。 上に書いた芝居の幕開けはこの壮大な物語の序章に過ぎなく、また登場人物もほんの氷山の一角に過ぎない。この序章を過ぎた後、目くるめく物語世界が開けるのだ。 特に閉山前の鉱山町の物語が始まる第二部からが本作の本当の始まりといえるだろう。この二部から出てくる遊女の君香=いさこそがこの物語の主役なのだから。第一部は単に布石に過ぎない。 第一部の物語は妙という少女から始まる。最初この少女を軸に語られると思ったがさにあらず、この少女と瞽女という歌い手として生涯独身、処女を突き通す盲目の姉琴の二人は単なるバイプレイヤーに過ぎなかったのが勿体無い。特に琴は通常ならば主人公級の人物像なのだが、その扱い方はあまりにも無残だ。琴の行く末こそこの物語が明るい色なのか暗い色なのかを決定付けているように思う。 そして第二部。これがなんともいいようがないすごい話である。遊女の身から盗みを働いて山中に篭り、渡り又鬼を手篭めにして、仮初めの夫婦となり、人の暮らしを捨て、山で暮らしていく事を決意して、又鬼から狩りを教わるいさ。女の強さをまざまざと見せつける存在感である。 20年もの間、山奥で暮らしてきたいさには人恋しさとか我が子への愛情、男女間の愛情をもはや超越した存在として語られる。しかし読者は彼女がそれらを捨て去ったのではなく心の奥に秘め、他人に決してあからさまに見せたりしないのだという事に気付かされるのだ。 これはほとんど男のストイックさ以外何物でもない。いさという女性の強さは母親の強さではなく、自然と共生する事で得た一人で生きていく事から来る強さなのだ。この強さを女性に持たせた作者の意図が面白いと思った。 翻ってこの物語に出てくる男供はどうかというと、これが対照的にどの男も弱さを抱えている。 したたかに振舞いつつ、芝居小屋復興を目指し、大きな夢を語るが実質が伴わない扇水。 世の中を斜に構えて見つめながらも、扇水の呪縛から離れる事が出来ず、また一人で生きていく術がないと惑う涼之助。 領主の息子という地位よりも村人同様の暮らしを望みながら、貧乏暮らしを選択できず、しかも妻の機嫌をいつも伺っている鍵蔵。 そして病持ちの鉱夫としてふがいない人生を送りながらもいさと山主の金を盗んで逃亡しながらも山の暮らしに耐え切れず、金を持ち去って逃げる文助。 渡り又鬼として山中を徘徊している最中に凍死寸前のいさを拾い、山神への畏れを抱きながらもいさと離れられない重太郎。 男は弱さを抱え、しかもそれを克服する事の出来ない弱い存在だとして物語は語られていく。 そしてこれら登場人物の過去と現在が語られる中、物語は獅子山という熊狩りを軸に引き寄せられるように各々、山へと向かい、そこでそれぞれの愛憎がものすごい結末へと収斂していく。 ところで本書の紹介文や帯には人の業が織成す運命悲劇というような文句がさかんに謳われている。確かに人の業の深さゆえに起こる運命劇・怪異譚は坂東氏の十八番であるが、私は本書に関してはさほど人の業が主幹として扱われているとは思えなかった。 私にはむしろこれは山という大自然が愚かな人間どもに下す鉄槌の物語だという印象が強い。いさという女を作ったのは山の厳しさである。そして山の厳しさと共存できる者、それに負ける者の物語だと強く感じた。 その証拠としてふたなりである涼之助が救われる「山ではお前なんかは珍しい事ではない」といういさの言葉を挙げたい。 自然の摂理に逆らう者、山の神に敬意を抱く者、山が下した裁きの物語。私はそう強く感じた。 直木賞受賞作の名に恥じない傑作であるのは間違いない。これで直木賞を取れなかったらどんな物語が受賞できるのかとまで思った次第だ。 |
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T大学生の加賀恭一郎、相原沙都子、金井波香、藤堂正彦、若生勇、伊沢華江、牧村祥子は高校からの仲の良いグループであり、大学に入ってからも交流が続いていた。
卒業を前に控えた9月、加賀と金井は学生剣道選手権大会の県予選に出場し、ともども優勝候補の筆頭になっていた。しかし順当に優勝した加賀とは対照的に金井は優勢だと思われていた試合でまさかの敗北を喫してしまう。 その一ヵ月後、波香の住んでいるアパートを訪ねた沙都子は、同じアパートに住む祥子が手首を切って死んでいる姿を発見する。残された日記から、夏に講座旅行に行った際に、犯した一夜の過ちから、恋人である藤堂へ罪悪感が生じた故の自殺だと思われていた。部屋は窓も扉も鍵が掛かっており、密室状態でその事実を一層裏付けたが、死亡推定時刻前後で部屋が開いていたという新たな証言を得て、俄然他殺の線が濃くなった。事件に不審を抱いていた沙都子と加賀は独自に捜査をし始める。 そんな中、高校時代の恩師、南沢雅子の誕生日を祝う「雪月花之式」の日が今年も訪れた。事件以来、疎遠になりかけていた6人が加賀を除いて一同に会し、例年通り「雪月花之式」を実施する。しかし和やかだったその茶会の席で、金井波香が苦悶の表情で絶命するという事件が起こる。死因は青酸カリによる中毒死で、飲んだお茶に含まれていたらしい。 一体誰が、どのようにして波香を殺したのか?状況的には無作為に殺されたとしか思えないのだが・・・。 東野圭吾作品のシリーズキャラクターとなる加賀恭一郎刑事が、まだ学生の頃に起きた事件を扱ったもので、最初に加賀刑事ありきで始まったのではないところに非常に好感を抱いた。恐らく東野氏は1作限りの主人公にするつもりだったのだろうが、加賀の、剣道を軸に鍛えられた律とした姿勢とまっすぐな生き方が気に入り、シリーズキャラクターに起用したように思われるふしがあり、非常に楽しく読めた(もちろん私も加賀のキャラクターにはかなり好感を抱いた)。 さて事件は1作目同様、密室殺人&衆人環視の中での毒殺と本格ミステリの王道である不可能状況が用意されており、なかなかに、いやかなり難しい問題だ(よく考えると1作目の『放課後』も第1の殺人が密室殺人、第2の殺人が衆人環視の中の毒殺である。よほどこの手の謎が好きなのか、それともアイデアを豊富に持っていたのか)。 最初の殺人は管理人が厳しく入場者を見張る女人禁制のアパートで起きる、一見リストカット自殺とも思える事件。死亡推定時刻にすでに被害者は部屋にいて手首を切っていたという状況だったのだが、その前の時間にたまたま隣人の女子大生が、扉が開いて明かりが点いていたとの証言を得て、密室殺人の疑いが強まる。 第2の殺人はもっと複雑で茶道の一種のゲームである「雪月花之式」という独特のルールの中で起こる事件で、本作のサブタイトルにもなっている。これがそれほど難しくは無いのだが、一口に説明できないルールで、混乱する事しばしばだった。 しかし一見無作為に殺されたとしか思えないこの殺人が意図的に特定の人を絞り込むように操作されていたのは素晴らしい。ある意味、ロジックを突き詰めた一つの形を見せられたわけで、手品師の泡坂氏の手際の鮮やかさを髣髴とさせる。 こういったトリック、ロジックもさることながら本書の魅力はそれだけに留まらず、やはりなんといっても加賀と沙都子を中心にした学生グループ全員が織成す青春群像劇にある。東野氏特有の青臭さ、ペシミズム、シニシズムが絶妙に溶け合っており、とても心に響くのである。熱くも無く、かといってクールすぎず、一人前を気取りながらも、あくまで大人ではない、大人には適わないと知りながらも斜に構えていたあの頃を思い出させてくれた。 特に本作では彼らの青臭さ、未成熟さを際立たせるキャラクターとして、刑事である加賀の父親、そして彼らの恩師である南沢雅子の2人は特筆に価するものがある。 あくまで前面に出ることは無く、置き手紙での参加でしかないのだが、加賀の父親が息子をサポートする場面は加賀にとって助けではありながら、しかし越えるべき壁である事を示唆している。 また南沢雅子の含蓄溢れる台詞の数々はどうだろうか!大人だからこそ云える人生訓であり、生きていく上で勝ち得た知恵である。 このキャラクターを当時28の青年である東野氏が想像したことを驚異だと考える。どこかにモデルがいるにしてもああいった台詞は人生を重ねないと書けない。東野氏が28までにどのような人生を送ったのか、気になるところだ。 東野氏に上手さを感じるのはその独特の台詞回しだ。常に核心に触れず、一歩手前ではぐらかすような台詞はそのまま学生が云っているようだし、活きている言語だと思う。また祥子が自殺に及んだ真相についても、あえて婉曲的に表現するに留めている点も、読者に想像の余地を残したという点で好感を持った。 実際、人生において真実を知ることは多くない。むしろ謎のままでいることの方が多いのだ。東野氏の作品を読むとその当たり前の事に気付かせてくれるように感じる。 本作は彼のベスト作品の1つではないだろうが、胸に残る率直な思いに嘘は付けない。私にとってはベスト作品の1つであると断言しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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時は大正時代。まだ西洋文化が日本に入りだして間もない頃、高知市の高等学校で学んでいた健士郎はある決意を胸に夏休みを利用して故郷の櫻が浦に帰省した。
そんな中、1隻の真っ白な異人船が舞い込んできた。それは村の中では災い事の兆候だと云われていた。村で海女をしているりんはいつもの漁の最中に異人船の船長イタリア人エンゾと知り合う。彼は桃色珊瑚を求めて櫻が浦までやってきたと告げ、実際に彼女の眼の前で一財産作れるほどの大きな桃色珊瑚を捕獲する。 一方、櫻が浦の外れにある古びた寺、月夜見寺では流浪の僧侶、映俊が住みついていた。彼はかつて流れ着いた紀州熊野の補陀落山寺で聞いた南にある楽園、補陀落浄土に辿りつくと言い伝えられている補陀落渡海を決行しようと日夜修行に励んでいた。 ある日、りんはいつものように海に潜っていると、海中に漂う白骨を発見する。それは彼女が幼い頃に溺死した母の亡き骸だった。長い間探し求めていた母の骨を引き上げようとしたが、その先にある珊瑚に宿る亡霊の姿を見て、溺れそうになる。 間一髪でりんを助けたのはエンゾだった。しかし、それこそが珊瑚を取り巻く人間の欲望と愛憎が織り成す悲劇の始まりだった。 物語の海原に呑み込まれる、そんなダイナミズムを感じた作品だった。今までの作品が文庫本にして約300ページ強だったのに対し、本作は600ページ弱と約2倍の長さを費やされているが、全く無駄が無い。全てが物語に寄与されている。 全ての登場人物、エピソードが濃厚なため、上の梗概を書くのにどれを語らずにいればよいのかものすごく迷い、かなり時間が掛かった。 物語の主軸となるのはやはり健士郎とりん、イタリアから来た海の男エンゾ、そして櫻が浦の若い漁師連中を束ねる多久馬の4人か。 鰹節工場で一財を成した父親の庇護の下で学問に勤しみながら、父の望む代議士ではなく世界を見ることを望む健士郎。 村で唯一の海女をしながらもやがては誰かの妻となり家を守る将来に違和感を感じつつ、村を捨てる決心がつかないりん。 イタリアの商人に雇われ、世界の港を転々とする人生に嫌気がさし、終の棲家を南の島に求めるために珊瑚を探すエンゾ。 村の若者漁師連中の長としてりんと櫻が浦の海を牛耳ろうと野心を燃やす多久馬。 これらのキャラクターの生命力が行間から溢れ、躍動している。 本作の主人公とされる健士郎は、聖人君子ではなく、己の主張とわがままの境が曖昧な青さの残る若者であり、今回の物語のメインとなる悲劇の原因を起こすのもまた彼だ。決して読者の共感を得られるような人物ではない。 この小説は一種、彼の成長小説だとも云えるが、あくまで若さゆえのエゴ―親の金を使って学問に励み、海外へ出ることの夢を実現しようとしたり、憧れの君であるりんをどうにかして自分の方へ目を向けさせようとする―に任せて突っ走る。特にりんが慕う燻製となったエンゾの死骸を打ち砕くところは、己の愛情の深さとはいえ、決して許される、他人の共感を得られるものではない。しかし、だからこそ、ここにリアルがある。 そして死もまた運命と云うエンゾ―かなりの確率でこのキャラクターは映画『グラン・ブルー』の主役2人をミックスさせてるに違いない―は、個人的にはもっと物語で動いて欲しかったキャラクターだ。しかし、作者はこの人物を後の悲劇のファクターとして使い、再三再四に渡り、かなり酷い使い方をする。 溺れた女性を助けたのを、強姦したと勘違いされ、それがきっかけとなって自身の船を襲われ、仲間を全て殺され、瀕死の重傷を負い、傷が癒えそうになったら、介抱されていた健士郎の嫉妬で逆上した攻撃を受け、傷が再発し、坊主の代わりに海に生贄に出され、終いには死体すら燻製にされ、その死体も健士郎にバラバラにされるのである。ここまで物語の“道具”として使うのかと終始驚いた。 二人の関係の中心となるりんもまた強い女性である。男に負けないほどの気性を持ちながらも男の魅力に負けるりんが、エンゾに対してあれほど深い愛を持つのも頷ける。強い女ほど、惚れた男に尽くすのだ。 そしてこの物語の悪の首領ともされる多久馬。漁師として自然の弱肉強食の摂理を自らの信条として行動する多久馬。他人の物であろうが手に入れれば自分のものであると欲望のままに動く彼もまた印象強い。彼がいたからこそ、この物語がこれほどまでに濃厚となったのだろう。 しかし、忘れてはならないのは本作の陰の主役とも云うべき破戒僧、映俊である。補陀落渡海にかこつけて村人から施しを受け、いざとなったら生贄を差し出し、まんまと逃げ出すしたたかさを持つ。 このキャラクターを最後まで生き残らせたのは作者としてもどこか憎めない性格を気に入っていたのではないだろうか。皆の周りに必ずいる誰かであるとも云うべき存在。そしてこの物語のテーマである浄土の鍵を握る人物である。彼が最後に本当に改悛したのかは怪しいが、またそれも彼の魅力である。 他にも健士郎の父、喜佐衛門や映俊との情事に耽るさえ、りんの父親で船大工の寅蔵など脇を固めるキャラクターも魅力的で、本作はキャラクターに尽きるといってもいい。 もちろん坂東得意のドラマ作りの技量はますます冴え渡っている(特に嵐の中を映俊が多久馬から逃げまどう最中に多久馬の家に迷い込み、妹の八重に見つかるシーン、そして嵐の中で遭難しかかった多久馬が健士郎に打ち砕かれたエンゾの燻製の生首に遭遇するシーンなどはその構成の見事さに唸らされた)。 しかしこれらも全てこのキャラクター達が縦横無尽に動き出したからこの物語が出来たのだと思わずにいられない。題名ともなっている補陀落渡海の方法など、もちろん作者の取材の賜物なのだろうが、まるで物語があり、それを坂東氏が掘り当てたのだとさえ思わずにはいられない。それほど全てが有機的に結びついている。 今まで坂東氏がテーマとして掲げていた伝奇色は確かにある。海で不慮の事故、または虐殺され、無念の思いで死んだ遺体たちが亡霊となって珊瑚にしがみつき、漁師達へ復讐を狙っているという話だ。 しかし今回はそれはあくまで物語の終焉へと向かうべきメインテーマではなく、登場人物たちの行動原理の一因になっているに過ぎない。だから怪奇小説という色合いは薄い。今回は珊瑚が織り成す人生劇場、そういう風に呼びたい。 |
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妻アルバータを「天使の顔(エンジェル・フェイス)」と呼んで愛でる夫カークはいつの頃か、妻をそう呼ばなくなった。妻は気付いていた。夫が浮気している事を。しかしいつか夫は戻ってきてくれるものだと信じていた。
だが夫が荷造りをしたスーツケースを隠しているのを知ったアルバータは浮気相手である女優ミアのところへ怒鳴り込んでいく。しかし既にミアは死体となっていた。そして挙げられた容疑者は夫カーク!アルバータはミアのノートに記されていた4人の男と接触し、夫の無実を証明する証拠を摑もうとするのだった。 泣けた。静かに泣けた。夜の切なさに包まれたかのようだ。やはりウールリッチはすごい。 『喪服のランデヴー』に代表される連作短編集のように物語を紡ぎだすウールリッチのスタイルは健在。今回は夫の冤罪を晴らすべく浮気相手の4人の男と妻アルバータの物語として描かれる。 1人目はミアに魂を抜かれた元夫で人生のどん底の貧民街で暮らす男の話。次はミアを麻薬の運び屋に使っていた違法医師の話でスリラータッチのこの話がもっともぞくぞくした。3人目の男は資産家の遊び人だがとても魅力的な男との話。そして最後の男はナイトクラブを経営する裏稼業に足を突っ込んだ男の話。 最初の2人目まではおろおろしながらも勇気を振り絞って犯人かどうかを探る初々しさと危うさが出ていたアルバータだが、3人目からは百戦練磨の女詐欺師の如く、恋は売っても愛は売らず、冷えた頭で犯人かどうかを洞察する女性に成長しているのが面白い。そして一人称で語られるがゆえにその人と成りが実は男を狂わすほどの美貌を持っている事を徐々に悟らせる事となる。 アルバータという主人公の魅力はこの美貌を備えているのにも関わらず、天使の如く純粋な心を捨てきれないところにある。浮気をした夫を刑務所から出すために犯罪まで犯す彼女の不器用なまでの純粋さは、夫の愛を超えた女の意地というものも感じられ、興味深い。 特に白眉なのは3人目の男、ラッド・メイソンの章である。この男は心底アルバータを愛し、またアルバータも心を許した存在となる。しかし彼女は彼が犯人でない事を知ると去っていくのだ。犯人でない事を願いつつ、それが証明されると去らなければならないジレンマ。お互いが魂で通じ合っているのに女だけが始まった時から別れがあるのを知っているという事実は胸を苦しませる。 しかし自分が窮地に陥ったときに助けを求めたのが彼だったことから、深く愛していた事を知る。そして衝撃の事実と結末。切ない。切なすぎる。 メイソンの喪失感は特にふられた事のある者―特に男(もちろん私もそう)―なら痛切に判るだけに胸に鉛のように沈み込んでいく。 そして今回は今まで以上に特に名文が多かったと感じた。ところどころではっとさせられた。 そんな数ある名文の中から最も印象が残ったのはこの文章。 「(前略)ただ上を見るだけ―」(中略)憶い出が行く場所は下ではなく、上なのだ。 私はこの文章にこう続けたい。 だから私は上を向く。でないと涙がこぼれてしまうのだ。 誰もがロマンティストになる小説だと思った。本当にウールリッチは素晴らしい。 |
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