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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数132

全132件 21~40 2/7ページ

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No.112:
(10pt)

貴方はその死を受け入れられるだろうか?

私は死を意識したのはそう、中学生の頃だっただろうか。
自宅にいてなぜかふと突然、死を意識し、一人その恐ろしさに身悶えした記憶がある。
どうして人は死ぬのか。死ぬのであれば生きていることは意味がないのではないか。
この世からいなくなるとどうなるのか。
そんな無意味さ、無力感、そして虚無感に見えない死の先の暗黒を想像して一人悩んだ時期があった。

メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しにも訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。

この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。

シカゴから大学付属病院の所長の職を得てメイン州の田舎町に引っ越してきたクリード一家。新しい家は申し分なく、しかも隣人のクランドル老夫妻は好人物で何かと助けてくれ、そしてすぐさま夜中の晩酌を共にするほど親しくなる。おまけに関節炎に悩まされているノーマ夫人の心不全の発作を適切な処置によって一命を取り留めることができ、ますます家長のルイス・クリードとジャド・クランドルの絆は深まるばかり。

そして職場の連中も気のいい連中ばかりでルイスに信頼を置いていると新生活としては順風満帆でこれ以上望むべくもない環境にある中、唯一の懸念は家の裏山に町の子供たちが世話をするペット霊園があることだった。

正直に云って題材は特段珍しいものではない。
引っ越してきたところの奥に山があり、そこにはペットの霊園がある。但しそこはかつてインディアンの種族の1つが埋葬地として使っていた霊的な場所で、そこにペットを埋めると生き返る。そんな矢先、最愛の息子が死に、悲嘆に暮れた父親は息子を取り戻したいがためにそのペット霊園に埋葬する。

典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。
実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。

そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。

読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。それについては後で詳しく述べることにしよう。

さて一口に死と云っても色々ある。

大往生と呼べる自然死。
突然の災禍に見舞われる事故死。
重病に罹って苦しみながら死ぬ病死。
そんな色んな死についてキングは登場人物たちが体験したエピソードで死を語らせる。

主人公のクリード夫妻の妻レーチェルがたった6歳という幼き頃に直面した髄膜炎で亡くなった姉ゼルダの壮絶な死。半ば開かずの間のような部屋に寝たきりで、健常者である妹に対して逆恨みめいた憎悪を見せるモンスターに成り果てた姉の看病で疲弊し、そして最後に舌を喉に巻き込んで窒息死した姉の断末魔を目の当たりにしたために死に対してトラウマを抱える。

ルイスとレーチェルの娘エリーは隣人ジャドに連れられて裏山にあるペット霊園に行ったことで初めて死を意識する。手作りの墓碑に書かれたペットの名前と献辞を見て愛する猫チャーチが神の御許に行くことに強く反発する。
いつかは訪れる死を見つめる時。ジャドはあの霊園こそがラドロウの町の子供たちにテレビや映画で観る死を超越してリアルに感じさせる場であると説く。それはあたかもラドロウに住む子供たちにとっての通過儀礼であるかのように。

しかし一方でエリーは年老いた隣人ジャドの妻ノーマがハロウィンの夜に心不全の発作を起こしてルイスが適切な処置を施して一命を取り留めた時、ノーマの死に対してはいつか訪れるものだと、既定の事実のように受け止める。

更に娘に内緒で死なせた猫のチャーチをミクマク族の埋葬地の不思議な力で蘇らせた時、どこか生前と異なるチャーチを見て、それがいつ死んでも受け入れられると話す。

そしてクリード家をペット霊園に案内した隣人ジャドは子供の頃に飼っていた愛犬を喪った哀しみを知っている。その深い哀しみゆえに彼が犯した過ちもまた。
だからこそ彼は最愛の妻ノーマが亡くなった時に、その運命を受け入れ、あるがままにしたのだ。しかし一度禁忌の扉を開いた者はそれを誰かに教え、協力するようになる。その相手こそがルイス・クリードだった。しかしそれは自然の摂理に逆らった人間の傲慢さゆえの過ち。犯していけないタブーの領域に踏み入った時にさらなる災厄が降りかかる。

しかし最愛の息子を亡くした深い悲しみと喪失感からルイスがペット霊園に埋葬して再生しようとする展開にキングは安直に持って行かない。
ルイスの導き手として、また時には悪魔の囁きを施し、または神のように善意の忠告を行うジャドを介して、昔ラドロウで戦争で亡くなった息子を蘇らせたある男の話をする。それを延々20ページに亘って実におぞましくも恐ろしいエピソードとして語る。それはまさに人ならぬ道に足を踏み入れようとするルイスを留まらせるのに十分なほどの抑止力を持つ話だ。

しかしそれを以てしても禁忌の領域に足を踏み入れるルイスを実に丹念に描く。その心の葛藤の様に多くの筆をキングは費やす。

実際に息子を蘇らせた男が迎えた不幸。実際に甦った愛猫の変わり様。失敗することが目に見えているのにルイスはとうとう息子ゲージの再生に取り組む。
今度は上手く行くのではないか。先人が失敗したのは時間が経ち過ぎていたからだ。
猫のチャーチは確かに以前とは変わってしまったが、我慢できないほどではない。確かに蘇った動物たちは以前とは少し違う。少しばかりバカになり、少しばかり愚鈍になり、そして少しばかり死んだように見える。
しかしそれが何だと云うのだ。たとえ息子がそんな風になっても、知的障害者を育てると思えば問題ないではないか。
問題は息子がいないことだ。生きてさえいれば困難も乗り越えられる。もし失敗したら、その場で撃ち殺せばいい。

情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。
判っているけどやめられないのだ。
この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。

つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。

それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。

デビュー作『キャリー』の悲劇はキャリーの母親が狂信的な人物だったことが彼女の生い立ちに影響を及ぼしていた。
『シャイニング』は癇癪持ちだが、それでも大好きな父親が怨霊に憑りつかれて変貌する恐怖を描いていた。
『ファイアスターター』は図らずも特赦な能力を持つことになった親子の逃走の日々の中、追われる者の恐怖の中でも強く持ち続ける親子の絆を描き、『クージョ』も狂犬に襲われた親子の、噛まれた息子を助けたい母親の強さを描いている。
『クリスティーン』はいつかは訪れる息子と両親との別離を車に憑りつかれて変貌していく息子というモチーフで恐怖を以て描いた。

超能力者、幽霊屋敷、怨霊といわゆるホラー定番のお化けや超常現象を現代風に描いたと云われているキングの本質は、普遍的な家族にいつかは訪れる避けられない転機そして悲劇を超常現象を織り交ぜて色濃く描いているところにあると私は考えている。それはどこの家族にもあり得る悲劇や凶事だからこそ、キングのホラーは我々の生活に迫真性を以て染み入るのだ。

仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。
同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。
本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。

愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。
初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。
美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。

過去作品を並べたついでに本書における他作品とのリンクについても触れておこう。

メイン州を舞台にした本書では妻のレーチェルが車でローガン空港からラドロウに戻る道すがらに通り過ぎるのが『呪われた町』のジェルサレムズ・ロットであり、『クージョ』で起きたセントバーナード、クージョが狂犬病に罹って何人も死なせた事件が忌み事のように語られる。あの事件は『デッド・ゾーン』に出てきた殺人鬼フランク・ドットに由来するものだから、これらメイン州を舞台にした物語は1つのサーガのようになっているのだ。

それを証明するかのように、本書においてもある不可解なことをキングは潜り込ませている。
それは死者が生き返るミクマク族の埋葬地のことではない。ルイスの息子ゲージが亡くなった事故についてである。
ゲージを轢いたトラックの運転手は自分の犯した罪の重さに自殺を図ろうとする。彼はそれまで飲酒運転もしたことなくスピード違反もしたことがない模範的なドライバーだったのに、なぜかあの時は急にアクセルを思い切り踏み込みたくなったと述懐している。そのことを聞いてルイスはあの場所には力があると理解する。その力こそはフランク・ドッドの力ではないか。クージョを経て今度はラドロウの、クリード家の前の道路に地縛霊のように居座り、そしてペットを殺してはラドロウの人々たちに禁忌の領域に足を踏み入れさせているのではないだろうか。

そんなキング・ワールドの悪意に魅せられた不幸な主人公ルイスとレーチェル・クリード夫婦は5歳の娘と2歳の息子を持つことからも解るようにまだ若い。

一方隣人のジャド・クランドル夫妻は80歳を超えた老夫婦の2人暮らし。

片やまだ死の翳など見えもしない、未来ある家族。片やささやかな日課を愉しむ老夫婦でいつか近いうちに訪れる死が安らかであることを願う2人。

この2組の家族の対比構造によって死というものの重さを全く異なる風にキングは描く。

2組の夫婦はそれぞれお互いに対する愛情は深いのが共通項だが、クランドル夫妻は残りの人生の旅路のパートナーといった風情であるのに対し、クリード夫妻はまだ若いだけあって、愛情は求め合う欲望と等しく、従って夜の生活もお盛んだ。

この2人の夜毎のセックスをキングが述べるのは単にルイスとレーチェルの夫婦愛を示すだけではなく、セックスが新たな生を生み出す行為だからだろう。死を語ったこの物語においてこのルイスとレーチェルのセックスは生を意味しているのだ。

この新たな生をもたらす行為に対し、自然の摂理に逆らって取り戻した生に対して何も代償はないかと云えばそうではない。愛猫チャーチを取り戻したルイスは代わりに最愛の息子ゲージを亡くす。それはやはり神の理に逆らった天罰ゆえの代償だったのではないかとジャドは云う。

そう、これは自分の犯した過ちのために、人として踏み入れてはいけない領域に入ってしまったために代償を払い続ける物語なのだ。

最初は可愛い愛娘に嫌われまいという思いから死んでしまった愛猫を隣人の指示に従うままにその領域に踏み入り、生き返らせるという自然の摂理に逆らった行為をしてしまった。医者という人の命を扱い、そして死に直面することが日常的な職業に就きながらもそれが我が身に降りかかると理不尽さを覚えてしまう。それがルイスの弱さだった。

そして死せるものが甦る、その手法を、その禁断の扉を知ってしまったがためにルイスは坂を転がり続けることになる。

人はやはり本来あるべき方法で生を得るべきなのだというのがこのクリード夫妻のセックスが示していたのではないだろうか。

そうやって考えると本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。

生と死。
若い夫婦と老夫婦。
死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。
本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。
そして過去と未来。

ルイスはゲージをミクマク族の埋葬地に埋めて家に戻った時に、そこがかつて在ったクリード家を温かく包んでいた家とは思えなかった。既にもう何かが変わってしまったことに気付き、自分が取り返しのつかないところまで来ていることに気付かされていたのだ。

彼がもう戻れなくなってしまったのはいつだったのか。
ゲージを蘇らせようと決心した時?
愛猫チャーチを蘇らせてしまった時?
隣人ジャドと出逢ってしまった時?
ラドロウに引っ越しした時?
我が身を振り返ると同じような感慨が時折起きることがある。どうしてこうなってしまったのだろうか、と。

本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。

神よ過去を救いたまえ、と。

せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。

しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。
彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。

キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。


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ペット・セマタリー〈上〉 (文春文庫)
No.111: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

悪魔的なほどにその痛みは深く

これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。

コナリーのノンシリーズ第2作はクリント・イーストウッド監督・主演で映画化もされた、現時点で最も名の知られた作品となった。

何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。

これほどまでに因果関係の深い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。
もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。

心臓を移植された元FBI捜査官テリー・マッケイレブはまだ静養中の身であるため、従来の探偵役と違い、長時間労働が出来ないのが一風変わっている。定期的検査のために病院に通い、拒絶反応が出ないように朝に18錠、晩に16錠もの薬を飲まなければならない、虚弱な探偵だ。
しかし彼にはFBI捜査官時代の人脈と明敏な頭脳、そして捜査のノウハウを熟知しているというアドバンテージがあり、停滞していた同一犯と思われるコンビニ強盗・ATM強盗の捜査を一歩一歩着実に進展させる。

しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。
例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。
日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。

また主人公のテリー・マッケイレブの造形も全くボッシュと異なりながら、魅力的であるところも特筆すべきだろう。
ハリー・ボッシュは事件解決に対する執着が強すぎて、違法すれすれ、もしくはほとんど違法とも云える強引な捜査で自分を辞職の危機に追いやりながらも、ハングリー精神と粘り強さ、そして事件のカギを嗅ぎつける特異な直感力で解決してきた、正直に云えば野獣性を備えたアウトローな刑事である。

一方テリー・マッケイレブはFBIで捜査のノウハウを教わり、それを実に巧く活用して事件を解決に導く誠実さが備わった男である。一方で心臓移植手術のためにリタイアし、今はTシャツと短パンで父親から譲り受けた船で暮らす、自由人的な雰囲気をも兼ね備えた好人物だ。
しかしそれでも悪人に対する底なしの憤りを備えた熱血漢であり、彼にとって事件の解決は被害者に対する敵討ちを行うものとして捉えられており、従って事件が未解決に終わると無力感に苛まれる傾向が強かった。それがゆえにストレスで心臓発作を起こした経緯がある。つまり彼もまた紳士の顔をしながらも悪に対しては人一倍強い憎しみを抱く人物なのだ。

そして2人の決定的な違いは個で戦うボッシュに対し、マッケイレブは仲間の協力を借りて戦うところにある。

ボッシュには一応ジェリー・エドガーという相棒がいるものの、副業の不動産業で定時で帰る彼を放っておいて一人で捜査するのを好む。そして平気で時間に遅れ、約束は破り、勝手に人の名前を使って私有地に立ち入ると云った無頼漢で、部下にするには願い下げの男だ。

一方テリー・マッケイレブはFBIの分析官という職業柄、規則や手順を重視し、それを逸脱することに抵抗を感じる男だ。そしてFBI時代のその堅実な仕事ぶりとその人柄から周囲の信頼も得て、退職後も彼の頼みを快く聞いてくれる仲間がいる。ロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストン、FBI捜査官のヴァーノン・カルターズ。更に退職後の船上生活の“隣人”バディ・ロックリッジもまた彼の人柄に魅かれて親しくなった男である。

この対照的なキャラクターを設定しつつ、またその双方を魅力的に描くコナリーの筆もまた素晴らしいと云わざるを得ないだろう。

やがて事件はただの行きずりの強盗殺人事件からマッケイレブの細かい観察によってそして不特定多数の犠牲者と思われたグロリア・トーレスとジェイムズ・コーデルに犯人がある意図を持っていたことが判明する。

更にコーデルの事件で回収された銃弾をマッケイレブの根回しでFBI独自の検索システムに掛けたことでその銃弾が重詐欺罪で有罪となった元銀行頭取ドナルド・ケニヨン殺害に使われた銃弾と一致したことが判明する。

行きずりの強盗殺人事件が、被害者に対する異常な執着心による犯罪へ、そしてそれがまた詐欺師を殺害したヒットマンと思しき人物の犯行へと繋がっていく。しかも水道会社の技師、新聞の印刷会社社員、そして多くの人の財産を奪った貯蓄貸付銀行の元頭取の殺害を結ぶ線とはいったい何なのかと俄然興味が増してくる。
このミッシング・リンクにコナリーは驚くべき答えを用意している。

さてノンシリーズと云いながらもコナリーの作品はそれまでの作品とのリンクが張られているのは周知のとおりで、本書も例外ではない。

まず出てくるのは先のノンシリーズ『ザ・ポエット』でも登場したロサンジェルス・タイムズの記者ケイシャ・ラッセルだ。彼女はマッケイレブがFBI捜査官時代に良好な関係を保ち、その縁で彼が心臓発作で倒れ、手術後の引退生活を描いたコラムを書いた間柄でもある。

さらにやはり元FBI捜査官だっただけに『ザ・ポエット』に登場した女性FBI捜査官のレイチェル・ウォリングとも一緒に仕事をしたことがあることも触れられている。その事件、オーブリー=リンという少女を含むフロリダ旅行に行ったショーウィッツ家族が惨殺される事件は彼の未解決事件の1つだ。

また評判の弁護士としてマイケル・ヘイラー・ジュニアの名前が出てくる。その父親の名前が伝説の名弁護士ミッキー・ヘイラーと紹介されるが、これは後のリンカーン弁護士ミッキー・ハラーのことだろう。
かつてボッシュシリーズの『ブラック・ハート』でもこのハラーがボッシュの父親であったことを明かされるエピソードがあったが、このノンシリーズでもその名が出てきていたとは。しかし自分で手掛けた『ブラック・ハート』ではきちんと「ハラー」と書いているのに、なぜ本書では「ヘイラー」と誤読したのか、首を傾げざるを得ない。

そしてテリー・マッケイレブが分析官として手掛けた事件の1つが『ザ・ポエット』の事件であったことも明かされる。しかし私の記憶では彼の名前はこの作品には登場しなかったように思うのだがなぁ。

それ以外にもマッケイレブが現役時代に担当していた事件名は他に「コード」、「ゾディアック」、「フルムーン」、「ブレマー」と4つある。解決・未解決を問わずにそれらの資料のコピーを持ち出したとあり、しかも本書でそのうちの1つの事件が解決する。そのことには後に触れるが、その他の事件についても今後のコナリー作品で登場するのかもしれない。記憶に留めておこう。

というのもマッケイレブの捜査に協力する保安官事務所の刑事ジェイ・ウィンストンが彼と親しくなったエピソードに彼らがチームとなって解決した連続殺人犯「墓場男」が紹介されているが、6ページで語るには非常に惜しい内容なのだ。
こういう1編の長編になり得るネタをサラッと書くと云うことはコナリーは恐らく記者時代やもしくはその時から懇意にしている警察関係者やFBI関係者からもっと面白い、長編のネタになり得る話を多く得ているように推察される。

そのことを裏付けるように元FBI捜査官であるマッケイレブの捜査内容は実に詳細に書かれている。FBIが独自で編み出した検索システムやそれぞれの捜査方法の意義と手法、例えば銃弾のデータベース、ドラッグファイアシステムや地理的交差照合と云った地図を使った犯人の絞り込み、催眠術を駆使した証言の引き出し方などが実に論理的かつ詳細に語られる―しかもそれらの描写の中に真犯人への手掛かりが隠されているというミステリ通を唸らせる演出!―。それも本当にここまで書いていいのかというぐらいに。
もしくはこれらの手法がコナリーによって詳らかにされる以上に既にFBIの捜査方法はさらに進歩して先に行っているからこそ許されているのかもしれない。

またテリー・マッケイレブを取り巻く人物たちもノンシリーズと思えないほど強烈な個性を放つ。

まずはマッケイレブの担当医ボニー・フォックス。彼の捜査復帰に反対し、自分の忠告を聞かないマッケイレブの担当を外れることを忠告する、医師としての立場を貫く強い意志の持ち主ながらも、彼の捜査の協力に一肌脱ぐ気風の良さを示す女性だ。登場回数は少ないながらも、印象に残るキャラクターだ。

手術後まもないために車を運転できないマッケイレブが運転手を依頼する、同じマリーナに停泊する「隣人」バディ・ロックリッジもなかなか面白い。
ミステリ小説好きで元FBI捜査官だったマッケイレブの過去の捜査の話が大好きな年老いたサーファーで、事あるごとに捜査のことを聞きたがる疎ましい存在ながら、要所要所でマッケイレブを助けるなど、見事なバイプレイヤーぶりを発揮する。
余談だが彼がマッケイレブを待っている際に読むのが英訳版の松本清張の『砂の器』であることに驚いた。この作品がアメリカで読まれていることが驚きだし、またそれをコナリーが知っているのもまたそうだ。そして英訳版のタイトルが『今西刑事捜査す』となんとも普通で、全然興味をそそられないのが残念。やはり邦題通り“The Vessel of Sand”とすべきだろう。

また事件の依頼者グラシエラ・リヴァーズも鮮烈な印象を残す。コナリー作品の常として主人公と関わる美女は恋に落ちるというのが定番だが、このグラシエラも例に洩れない。しかし30代前半の魅力的な女性として描かれる彼女の職業は看護婦。この男の妄想を具現化したようなヒロインはまた時にマッケイレブを出し抜くほど大胆な行動に出て、病院のシステムに入り込んで貴重な患者のデータを提供する、なかなかに心臓の太い女性でもある。

そして彼女の妹グロリアの遺児レイモンド。彼の行動でそれまで父親との思い出がないまま、優しい母親と暮らしてきた彼の境遇は、マッケイレブでなくとも守ってやりたいという気にさせられる。

またマッケイレブの良き協力者となる保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンと彼女と対照的に尊大で無能な刑事として描かれるエディ・アランゴもある意味忘れ難い存在だ。この2人の捜査資料の内容で刑事としての熱意をマッケイレブは読み取る。たとえ行きずりのATM強盗事件でも被害者のことを思って犯人逮捕にこぎつけようと手を尽くす前者とただの行きずりのコンビニ強盗として形だけの捜査を行う後者の資料の厚みによって。
こんな細部がそれぞれのキャラクターに血肉を与えている。

本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。
本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。

そして物語が進むにつれて、この血の繋がりが一層色濃くなっていく。

例えば手掛かりの少ない強盗殺人犯を突き止めるために、敢えて次の犯行を待つという手段があるが、それを本書では「あらたな血を必要としていた」と述べている。

そして今回全く関係のない被害者を結ぶミッシング・リンクもまた血の繋がりこそが答えなのだ。

話は変わるが、マッケイレブが父親から譲り受けた船の名前の由来について事件の依頼人のグラシエラから訊かれ、答える場面がある。この<ザ・フォローイング・シー>号という一風変わった名前は<追い波>という意味で追い波は船の背後から迫り、やがて追いつくと船にぶつかり船を沈没させてしまう。つまりそうならないために船は追い波より速く進まなければならないのだ。沈没しないようにいつも背後に気を付けろ、それがその名の由来なのだが、まさにマッケイレブはいつの間にかこの容疑者という追い波に捕まってしまう。

“Blood Work”という原題が指し示すように、まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。
同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。

こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。

なんという罪深き救済だろう。今までこれほどまでに業の深い主人公がいただろうか?
我々の幸せの裏には誰かの犠牲が伴っていると云われる。しかし間接的であれ臓器移植ほど、密接に他者の不幸で成立する幸せはないのではなかろうか。

そして本書が1998年に書かれたことを私は忘れていた。それはつまり世紀末に書かれた作品であると云うことだ。
その時期に多く書かれていたのはサイコパス。世紀末と云うどこか不安を誘うこの時期にミステリ界に横行していたのが狂える殺人者による犯罪の物語。極上の捜査小説を描きながらも当時流行のサイコパス小説へと導く。

繰り返しになるが、いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。
元FBI分析官だったマッケイレブは捜査に行き詰ると最初に戻り、証拠を一から検証する。そしてその過程で気付いた違和感を見つけ、新たな手掛かりとするのだが、それらが意図的に隠されているわけでもなく、読者にも明示されているのである。
つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。

わが心臓の痛み。数々の残酷な事件で分析官としてプロファイリングに明け暮れた彼が最初に感じた痛みは激務と人間の残虐さに耐え切れなくなって疲弊した心臓が起こした心臓発作だった。
そして術後60日しか経っていないことからあまり長く動けないマッケイレブが抱える身体的な痛みとなり、やがて愛してしまった人の妹の命を奪い、生き長らえたことを知らされた深き悲痛へと変わった。
しかしその抱えた業を振り払い、残された人生を前に進めるためにマッケイレブは犯人を自ら粛清した。そして最後に彼が感じた心臓の痛みはグラシエラとレイモンドという最愛の人たちの笑顔を見て心臓が収縮する幸せのそれへと変えた。

最後にマッケイレブがその最愛の者たちと共に向かったのは自分の生まれ故郷。そこから始める彼らの新しい生活はまた同時にテリー・マッケイレブという男の生き様の新たな船出であると期待しよう。
既に私は知っている。この深き業を抱えながらも再生した素晴らしい男と一連のコナリー・ワールドで再会できることを。

まずはそれまでマッケイレブとグラシエラに安息の日々が続くことを願ってやまない。


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わが心臓の痛み〈下〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーわが心臓の痛み についてのレビュー
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(10pt)

斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたく珠玉の作品集

先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。

この四季をテーマにした中編集で「秋の目覚め」と副題がつけられたのがかの有名な作品である表題作「スタンド・バイ・ミー」だ。

本作については詳細を語る意味はないほど、有名な映画で知られている内容だ。
しかし当時映画で観た時よりもキング作品を順に読んでいったことで気付かされたことがある。これはやはり今までキングが書いてきた作品の系譜に連なる作品なのだと。

キングの作品の系列の1つにロード・ノヴェルがある。それはある設定の下にただ単純に歩くだけ、走るだけ、移動するだけの作品だ。
『死のロングウォーク』や『バトルランナー』が有名だが、超大作『ザ・スタンド』も新型インフルエンザのパンデミックで大半が死に絶えたアメリカを安住の地を求めて生存者が旅をする箇所が盛り込まれていることからその系譜に連なる作品になるだろう。

そしてこの「スタンド・バイ・ミー」はそれらの系譜に連なる作品であり、実はキング作品の中ではありふれたものなのだが、その内容の瑞々しさが他の作品よりも高く評価され、抜きんでいるように思える。発表されたのは上記の作品以後だが、本書の収められた作者の前書きでは脱稿したのは2作目の『呪われた町』の後だからずいぶんと早い段階である。
ただ『死のロングウォーク』はキングが大学時代に書いた作品なので、ロードノヴェルとしては2番目に当たるだろう。まだ作家になりたてのキングのフレッシュさがここには満ち満ちている。

映画の時には細部まで気付かなかったが冒険に旅立つ4人の少年たちの境遇は決して幸せではなく、問題を抱えた家庭で強かに、そして逞しく生きる姿が描かれている。

物語の主人公であるゴーディはキング自身を投影したかのような、物語を書くのが大好きな少年で、他の3人とは違った比較的裕福な家庭の子供だ。しかし両親は次男の彼よりも学内のスターであり、軍へ新兵として入隊した兄デニスに関心を大いに抱いていたが事故で亡くなったことにショックを受け、それ以来茫然自失の毎日を送り、「見えない子」になってしまっている。

4人のうち、最もゴーディと親しいクリスは頭がいいが、乱暴で飲んだくれの父親に殴られる毎日を送っており、2人の兄は町で札付きの不良として有名で、彼らが酒を飲んで狂暴になるのを目の当たりにしているがゆえに、酒を飲むことを頑なに恐れている。

眼鏡をかけたテディはどこかネジの外れた大胆さと口の悪さを誇るが、第2次大戦から帰ってきた父親にストーブに10回側頭部を打ち付けられたせいで耳が爛れ、補聴器無しでは聞こえなくなってしまっている。目は自然に悪くなったがほとんど見えないらしく、それなのにいつも度胸試しのため、道路の真ん中に立ってギリギリ当たるか当たらないかのスリルを味わうゲームに興じている。そして彼は自分にひどい仕打ちをした父親をノルマンディ上陸を果たした兵士として尊敬し、彼の送られた精神病院に定期的に母親と見舞いに行っている。

彼ら3人に死体を見に行く旅を持ち掛けたバーンもまた兄が町で有名な札付きの不良で、彼らはクリスの兄たちとつるんでは悪いことをやって幅を利かせている。しかし彼は兄と違って弱虫で、それを知られているにも関わらずタフを装っている。

そんな愛すべきバカたちの冒険はかつて少年であった私たちの心をくすぐり、離さない。映画も名作だったが、原作の小説もまた名作であることを認識した。

本作は誰もが一度は経験する大人になるための通過儀礼として描かれているのもまた読者の胸を打つ。
少年・少女から大人の階段を登り始めるために訪れる大きな変化。それがゴーディ、クリス、テディ、バーンにとって死体を見に行くことだったのだ。

私も子供の頃に経験したある思いがここには再現されている。案外子供たちは大人たちの知らない間に大人になっているということに。
子供たちだけの冒険は彼らを自然と精神的に成長させる。そして時に思いもかけないことを話したりするのだ。

クリスはゴーディに自分たち3人とは別のクラスに進んで真っ当な人生を歩めと告げる。クリスは旅の途中で話してくれたゴーディのパイ早食い事件の創作物語を聞き、いつか訪れる友との別れを今回の旅で悟ったのだ。

クリスが死体を見つけ、そして不良たちに立ち向かいながらも無事に済んだことを評して「おれたちはやった」という。
しかしその言葉から感じた意味はそれぞれで違っていた。それは彼らにとって少年期の終わりを示すことになったのだろう。

そして本作には映画にはなかった“その後”が描かれているのも興味深い。

とにかく色々な思いが胸に迫る物語である。後ほどまた本作については語ることにするが、何よりも本作が自分にとってかけがえのない人生の煌めきのようなものを与えてくれた作品になった。

最後の冬は「マンハッタンの奇譚クラブ」。マンハッタンの一角にあるビルで知る人のみ参加できる紳士のクラブの物語。

いやあ、なんとも云えない、物凄いものを読んだという思いがひしひしと込み上げてくる作品だ。
マンハッタンの一角のビルで毎夜開かれているクラブでは会員の誰かがいつの間にか煖炉の前に集まり、話をし始める。自らの戦争体験や若かりし頃に出くわした驚きの事件など。弁護士の1人はある日血塗れになった上院議員が狂ったように上司を呼び出すよう指示してきたという、いかにもありそうな非常時の物語から女子教師が移動式トイレに嵌って出られなくなり、そのまま運ばれてしまうと云った笑い話まで様々だ。

そして主人公がクラブに通うようになって10年経ったとき、古参の常連が初めて皆の前で話を披露する。その話とは医者である彼が若かりし頃に出逢った若く美しい妊婦の話だった。

今ではシングルマザーに対する理解は深まったものの、物語の舞台となる1935年ではそれは教義、道徳、倫理に反した不浄の者として蔑まされていた時代だ。そんな厳しい時代に遭って、マキャロンの前に現れたサンドラ・スタンスフィールドは毅然とした態度で左の薬指に指輪がないことを隠さず、彼に出産の協力をお願いする。
俳優を目指してニューヨークに出てきた彼女は演技教室で知り合った男性と関係を持ち、妊娠が発覚した途端、相手の男が去ってしまう境遇に置かれた。しかしそれでもなお自身の赤ん坊を産むことを決意した彼女の強さにマキャロンは女性としても魅かれながら、人間として魅かれていく。そしてマキャロンはまだ当時一般的でなかった独自の出産法をサンドラに勧める。そのうちの1つが今ではラマーズ法と呼ばれる呼吸法だった。
しかし彼女に訪れたのは悲劇だった。

陣痛が始まったクリスマス・イヴで雪の降りしきる中、病院の外で出産をするシーンは今まで私が読んできたどの物語よりも想像を超えた、凄まじく、そして感動的な場面だった。

収録された4編の中で比較的無名の存在だった本編も他の3編に負けない物語の強さを誇っている。
それは奇跡というには凄惨で、母の生まれてくる子供に対する力強い愛情の物語というには悲愴すぎる。クリスマス・イヴに誕生した赤ちゃんの物語としてはこれ以上の物はないだろう。
こんな状況で生まれながら、健在であるハリソンという苗字だけ解る人物のことを私は胸に刻んでおこうと思う。今後のキング作品に出てくることを期待して。

更にこのクラブとしか称せない富裕層の老人たちの憩いの場所も不気味な不思議に満ちている。どこの図書館にもなく、また文学名鑑にも記載されていない作品や作家の作品が多く収められ、そのどれもが傑作。そんな夢のような空間で語られるのはこれまた百戦錬磨の老人たちによる、夢にまで出てくるような印象深い話。
最後に語り手のデイビッド・アドリーが世話役のスティーヴンスにそれらの秘密を尋ねるが、彼は世話役の表情を見て踏み留まる。
彼が代わりに聞くのは他にも部屋はたくさんあるのかという問い。その問いにそれはもう迷ってしまうほどたくさんあると世話役は答える。そして最後にここにはいつも物語があるとスティーヴンスは答えるのだった。

世話役スティーヴンスはその名前が示す通り、スティーヴン・キングその人であり、クラブ自体がキングの頭の中を指しているのだろう。
彼の頭の中はいつでも物語が詰まっている。それもこの話で語られた老いた医者が語るような、読者の想像を超えた恐怖とも感動とも取れるまだ読んだことのない極上の物語が、いつでもそのペン先から迸るのを今か今かと待ち受けているかのように。


『恐怖の四季』後半はかの有名な映画『スタンド・バイ・ミー』の原作が収められている。しかし本書の題名に冠せられている作品が映画化され、大ヒットを記録したため、日本ではこちらが先に刊行されたことでこの秋・冬編がVol.1とされており、収録順が前後している。

従って本来前半部に当たる『ゴールデンボーイ』に収録されるべきであろうキング自身の前書き「はじめに」が本書に収録されており、なんとも奇妙な感じを受ける。
なお本書は1985年3月に刊行されており―私が手にしたのは50刷目!―、『ゴールデンボーイ』はちょうど1年遅れの1986年3月に刊行されているから、当時の読者はなかなか刊行されないこの前書きに既に書かれている2編を待ち遠しく思ったことだろう。
この前書きには既に『ゴールデンボーイ』に収録されている2編の、原題とは大いに異なる邦題にて触れられているが、これは同書が刊行されてから修正されたのかは寡聞にして知らない。

さてその前書きには本書の成り立ちが書かれている。これはやはり前半の『ゴールデンボーイ』を読む前に読みたかった。
ここに収録された作品群はキングが長編を脱稿した後にその勢いのまま書かれた作品で、順番としては「スタンド・バイ・ミー」(長編2作目『呪われた町』の直後)、「ゴールデンボーイ」(長編3作目『シャイニング』の2週間後)、「刑務所のリタ・ヘイワース」(キング名義長編5作目『デッド・ゾーン』直後)、「マンハッタンの奇譚クラブ」(キング名義長編6作目『ファイアスターター』の直後)となっている。
正直、上に挙げた長編のどれもが日本では上下巻で1,000ページ以上もあろうかと思える作品ばかりの後にこれらの中編が書かれたことが驚きだ。
いや逆にこれほどの長編を書くと、頭の中に色んな物語が生まれ、それらを物語の構成、進行上、泣く泣く削除しなければならなくなった話、もしくは副産物として生まれた物語が出来たために、それらが消えてしまわないうちに書き留めようとしたのがこれらの産物なのだろう。

そしてこれらはキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。

そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。

小説に原作のある映画は元ネタの小説を読んでから観るのが私の性分だが、1986年に公開された映画はさすがにそちらが先。私は劇場でなく確かビデオを借りて観たので中学生か高校生ぐらいだったように思う。その時、出演していた少年たちは当時の私よりもちょっとだけ年下だったが、タバコを吸って女の子の話に興じる彼らは私よりも大人びて観えたものだ。その内容は私にとって鮮烈であり、今回の読書はその映画の画像を追体験するように読んだ。

もう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。
犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。
鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。
後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。
池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。
ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。
そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。
それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。

開巻後にまず驚いたのはその原題だ。邦題の「スタンド・バイ・ミー」に添えられた原題は“The Body(死体)”と実に素っ気ない。このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。

そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。
“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。
それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。
だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。

もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。
『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。

それは今まで物語を語らなかった男が語る昔出逢った若き美しき妊婦の話。1935年当時ではまだ知られていなかったラマーズ法と呼ばれる呼吸法を教えたがゆえに招いた悲劇の物語。ちなみに原題はこの呼吸法がタイトルになっている。

その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。

自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。

そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2020年現在実現していない。
「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。

さて前作でも述べた他のキング作品へのリンクだが、まず私が驚いたのは「スタンド・バイ・ミー」の舞台がかのキャッスル・ロックだった点だ。
前半の「刑務所のリタ・ヘイワース」に登場したレッドも関係しているが、やはり何よりも『デッド・ゾーン』や『クージョ』の舞台にもなった町で、作中でも狂犬のクージョについて触れられている。
そして町のごろつき達が行き着く先はショーシャンク刑務所―本書では“ショウシャンク”と綴られている―と先の短編へと繋がる。キャッスル・ロックはキング自身を彷彿とさせるゴードン・ラチャンスが住んでいる町でもあり、キングにとってのライツヴィルのような町であるかのようだ。

春と夏、秋と冬。
それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。
春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。

そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。
田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。

本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。

この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。

つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。
キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。

春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。
永遠のベストの1冊をこの歳になって見つけられたキングとの出逢いを素直に寿ぎたい。


▼以下、ネタバレ感想
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スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)
No.109: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ボッシュの過去の因縁への終止符

前作『ブラック・ハート』ではボッシュがハリウッド署に島流しされることになった事件、ドールメイカー事件の真相を探る物語であったが、シリーズ4作目である本書ではさらに彼の歴史を遡り、迷宮入りとなった娼婦だった母親マージョリー・ロウ殺害事件を休職中のボッシュが再捜査する物語となっている。

そして本書は様々な暗喩に満ちた作品でもある。

例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。
実はこの何気ないエピソードが物語の最終、真犯人を突き止める最後の決め手になる指紋への暗喩となっている。

さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。
地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。

孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。

またボッシュの捜査自体も実に危うい。今回休職中の身であるから拳銃もなければ警察バッジもない。しかも上司パウンズの反感を大いに買っていることから警察が支給する車も取り上げられる。
刑事から初めて一己の市民となったボッシュはバッジと拳銃がいかに自分を守る鎧となっていたかを知らされる。

しかし彼はそんな不利な状況でも持ち前の強引さでことを進めていく。
パウンズの名を騙って警察のデータベースに記録を照合したり、勝手にロス市警に入り込んで指紋照合を頼んだり、母親の事件の捜査資料を持ち出したり、更にはパウンズの警察バッジを盗んだり、更には容疑者と目される、今では街の有力者となっている大手法律事務所経営者のゴードン・ミテルのパーティーに潜り込んで―この時もパウンズの名を借用する!―、揺さぶりを掛けたりと、そのアウトローな捜査ぶりは確かにコヨーテを彷彿させる。

しかしこのアウトローな行動が意外な展開を及ぼす。この展開にはかなり驚いた。そして同時にハリーの疫病神ぶりがこの展開によっていっそう際立つ。
いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。

また本書では次々に登場するキャラクターが実に魅力に溢れている。

シリーズを重ねるにつれてレギュラーキャラクターの存在感が増すのは当たり前だが、ちょっとした端役にも瑞々しい存在感を感じさせるほどコナリーの筆致は熟練されている。

まずボッシュが母親殺しの調査のために最初に訪れる母親の親友だったキャサリンの造形が強烈な印象を与える。娼婦という暗い過去を持ち、名前も変えて今の生活を手に入れたこの女性はしかし、警察連中にも容赦と引き替えに自分の身体を売り物にしてきた自分の過去に対して恥じず、人生最悪の時期であった娼婦としてのプライドも今も持ち、泰然自若としてボッシュに向き合い、そして語る。彼女の気高さこそが今の生活を手に入れる原動力になっていたことが実に深く心に沁み込んでいくのである。

また当時事件を担当した元ハリウッド署殺人課刑事のマッキトリックも忘れ難い。残された資料の内容の薄さからボッシュは彼を愚鈍な警官かチンピラどもに小銭をたかる腐敗警官かと思っていたが、実際は事件を道半ばで取り上げられた優秀な警官だったこと、そして彼自身マージョリー・ロウ殺害事件が迷宮入りしたことに悩まされている男だと気付かされる。休職中のボッシュが身分を偽り、近づくが簡単にその偽装を見破り、逆に返り討ちにしようとする老練ぶり。
またボッシュが当時の被害者の子供だと知ると一転して協力的になり、一緒に魚釣りへ乗り出す―このシーンは個人的にはかなり気に入っている―。彼がボッシュに事件の顛末を話すのは彼の悔恨をボッシュに託したかったからなのだろう。

そして何よりも本書において特筆なのはボッシュの母マージョリー・ロウの造形だ。ボッシュが母親殺しの捜査を進めていくうちにこの母親のボッシュに対する深い愛がひしひしと滲みだしてくる。
娼婦という仕事で女手一つで息子を育てようとしていたが母親不適格として子供を養護施設に入れられ、毎週通っては慈しんでいた母親。いつか親子2人で暮らせるよう、ボッシュの父親である弁護士に手助けを頼んでいたが、その願いが叶う前に路上で遺体となって発見されてしまう。
一介の娼婦の殺人事件はいつそんな目に遭ってもおかしくない数多ある最下層の人間に起こる事件として片付けられ、十分な捜査が成されないまま、今日に至る。

しかしそんな風に片付けられた事件の背後には今では街の各界の有力者たちとなった人々のある暗い過去と母親への繋がりがあったことが次第に見えてくるのだ。

それと同時にボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。

「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」

これがボッシュの信条だ。
しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。
しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。

そして捜査が進むにつれて法曹界の大物へと事件は繋がっていく。

また今回物語の重要なファクターの1つとしてボッシュのカウンセリングを担当している精神科医カーメン・イノーホスの存在がある。ストレスによる強制休職中であるボッシュは精神科医のカウンセリングを受け、復帰が可能であることを証明してもらわなければならないのだが、その相手がカーメンである。
しかし彼女こそが本書におけるボッシュの行動を後押しする存在となっているのが興味深い。

現在のボッシュを形成する原初体験をその不遇な過去に見出し、彼の過去を語らせることでボッシュは殺害された母親に向き合い、そして未解決であるその事件の調査を始めることを思いつく。定期的に行われるカウンセリングはボッシュに内面と対峙させ、またそのことで彼もまたそこからヒントと自分の存在意義をも悟っていく。

さらに彼女は物語の最終でボッシュに事件の真相を突き止める、女性ならではの視点を提供することにもなるキーパーソンとして機能する。

そしてこのカーメンとの面談は今まで断片的に語られてきたボッシュの生い立ちを1本の線として繋いで読者に示すことにもなる。

娼婦であった母親と暮らしていたボッシュは彼女が行政によって不適格とみなされて養護施設に入れられ、離れ離れになる。いつか一緒に暮らすことを夢見ていた母親はボッシュの父親であった弁護士に助けを借りてことを進めていくがその願いが叶う前に殺害されてしまう。
ボッシュはその後も養子に出されるが、引き取った家族から何度か養護施設に戻され、そして16歳になって、ボッシュがサウスポーでいい球を投げるという理由で大リーグ選手を育てたいと願う男の許に引き取られるが、その願いには従わず、ボッシュは陸軍へ入隊しベトナム戦争へ出兵する。
帰還後警察官となり、ロス市警で優秀な成績を修めて、メディアにもたびたび登場するヒーロー刑事となるが、ドールメイカー事件の責任を取らされて停職処分を受けた後、現在のハリウッド署勤務となる。

そんな生い立ちで孤独を幾度となく経験しながらもボッシュには常に女性が近寄ってくる。

1作目ではFBI捜査官で相棒を務めたエレノア・ウィッシュが、2作目は死亡した麻薬捜査官の元妻シルヴィア・ムーアと同棲していたが、彼女が去った後、本作ではマッキトリックの許を訪れた出先のフロリダで亡き父の家を売りに出して面倒を見ている画家志望の女性ジャスミン・コリアンと食事と一夜を共にするようになる。
確かにデビュー作においてテレビにも出演していたスター刑事で見た目も悪くないと書かれていたが、なんというモテぶりだろうか。

ボッシュが彼女に魅かれたのは彼女の中に自分と同種の暗闇を見出したからだが、また同時に彼女もまたボッシュが他の警官とは違う人間臭さを感じ、そこに魅かれていく。父親の遺産で暮らし、画家を目指す彼女は実は過去に人を殺したことのある女性だったことが判明する。実に謎めいた女性だ。

ところで書評家の池上冬樹氏が指摘しているように作者コナリーは過去の名作を取り込み、自分というフィルターを通じて物語へと消化している。

例えばチャンドラーを敬愛するコナリーだが、先にも書いたボッシュの信条、
「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」
を読んでニヤリとしたのは私だけではあるまい。これはまさにマーロウのあの有名な台詞へのオマージュであろう。

またボッシュが母親の当時の親友に話を聞きに行った帰りに立ち寄ったバーで出くわす、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を口ずさむ25歳くらいの女性のエピソードもチャンドラーが『長いお別れ』で書いたバーでマーロウが浸る女性に関するエピソードを想起させる。

更に本書の核を成す娼婦の母親殺しは作家ジェイムズ・エルロイの半生がモデルとなっているのは明確で―池上氏はこの作家の心酔者であり、その特異な過去、つまり情念の作家としてのエルロイの特異性を借り物のように取り込んでいるコナリーの創作姿勢が気に入らないようだが―、作中でも娼婦だったエルロイの母親が殺害された実際の事件『ブラック・ダリア事件』にも触れている。

そして私が思うに、最たるオマージュは本書は実は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の裏返しの物語であったということだ。

身分違いの男と女が出逢い、男はその屈託ない女の魅力に惹かれ、結婚まで誓う。それは実に素敵なシンデレラ・ストーリーだったが、それがお伽話に過ぎなく、現実の世界は利害関係によってそんなものは抹殺される。それが現実なのだ。
本書は実に現実的な『マイ・フェア・レディ』だったのだ。

そしてもう1つ物語がある。事件の真相に纏わる2人の女のエピソードだ。

しかし人の死の多い事件だった。
葬り去られたマージョリー・ロウ殺害事件の真相を探っていくうちに現れる容疑者たち、関係者たちが次々と死んでいく。

誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。
ハリーが現れることでその時が来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。

過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。

ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。
デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。

カウンセラーのカーメン・イノーホスはボッシュに母親の事件を解くために彼が警察官になったのだと示唆する。つまり母親の事件を解決した今、彼は警察官であることの意味が無くなったのだ。だからこそ最後ボッシュが警察を辞めることを決意したのだ。
実際、当時作者はここでハリーを永遠に退場させようと思ったのかもしれない。

ただ彼に新しく現れたジャスミン・コリアンという新たな謎がまた生まれた。彼女が過去に犯した殺人については結局詳しく語られないままだった。
アーノウ・コンクリンはボッシュに自分に合う人がいたら、過去はどうあれ命懸けでしがみつけと説く。

ボッシュはジャスミンこそが今の自分に合う者であり、命がけでしがみつく存在であると確信した。
ただ自分と同類と感じていたシルヴィア・ムーアとも結局は別れてしまったボッシュ。自分と同じ暗闇を持つと目を見て確信したジャスミンもまた行きずりの女となるのだろう。

母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし彼の捜査によって犠牲となった者達の死は一生背負うことになる十字架になるだろう。
しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーラスト・コヨーテ についてのレビュー
No.108:
(10pt)

圧倒的な物語の強さに酔いしれる

2015年は発表されるなり各書評で大絶賛されていた米澤穂信氏の『王とサーカス』がその年の『このミス』で上位を、いやかつて誰もなしえなかった2年連続1位を成し遂げると予想されており、実際その通りになったのだが、その下にある第2位の『戦場のコックたち』という書名とその作者深緑野分氏という全く知らない名前を見て驚いた。それもそのはずで2013年に刊行された本書でデビューしたばかりの新人であり、『戦場のコックたち』はまだ第2作目に過ぎなかったのだ。

しかしその斬新な設定とアイデアは読者の耳目を集め、予想外の好評を持って迎えられた。
私も全くノーマークの作家だっただけにこの結果には衝撃を受け、彼女を作品を読みたいと強く思った。そして私のみならず巷間のミステリ読者の期待の雰囲気が察してか、東京創元社がその願望に答えてくれた。それがこの本書である。

ミステリーズ!新人賞で佳作に輝いた表題作から本書は幕を開ける。
読後思わずため息をつき、茫然とどこかを見つめざるを得なかった。たった60ページで書かれた物語はそれほど中身の濃い、哀しくもおぞましい物語だった。
彼女たちは外部との接触を一切禁じられ、自由はあるものの私設から一歩も出ることはもちろん、手紙を送ることさえも許されていなかった。そして集められた少女たちは一様にどこかに障害を持っていた。
オーブランの忌まわしき過去を語る物語はマルグリットと名付けられた、血液の病気で収容された少女の手記で語られるが、これが後の管理人老姉妹の妹になる。そこで仲良くなったミオゾティスと名付けられた美しい、しかし左足が悪いために鋼鉄の歩行具をつけることを余儀なくされた少女こそが管理人老姉妹の姉にあたる。
何かの秘密を湛えたサナトリウムは私も人身売買のための不具者を集めた施設かと予想していたが、作者はそんな読者の予想に敢えて導いて意外な正体を用意していた。
ゴシック的で耽美な、そして情緒不安定な少女たちのどこか不穏な空気を纏った物語は戦争という狂気が生んだ悲劇へと導かれる。
ここにまた傑作が生まれた。

表題作の舞台は第二次大戦下のフランスだったが、次の「仮面」は19世紀末のイギリスが舞台。
朴念仁で長年女性に縁のなかった不器用な医師アトキンソンを中心に語られる一連の計画殺人に至るまでの顛末は一転して女の情念の恐ろしさを知らされる物語へと転じる。特に社会的弱者として描かれ、傲慢な有閑マダムに折檻されて日々暮らしているという不遇な女性像をアトキンソンへ刻み付けたアミラの隠された生きる意志の強さが最後に立ち上る辺りは戦慄を覚える。
いつの世も男は女性には敵わないものだと思い知らされる作品。
そしてまた女性同士もまたお互いに出し抜き合い、したたかに生きていることを知らされる。特に恵まれない境遇だと思われた醜いメイドのアミラに秘められた過去に興味が沸く。恐らくは美しく人目を惹く風貌であったと思われる彼女がなぜ顔の皮膚を焼き、そして鼻を曲げ、唇をナイフで切り裂いたのか。なぜ彼女は身分を隠してしたたかに生きる道を選んだのか。
彼女の過去は明らかにされないがまたどこかで彼女に纏わる話が語られるのだろうか。非常に興味深い。

翻って「大雨とトマト」は場末の食堂を舞台にした大雨の日に起きたある出来事の話。
3作目の舞台はなんと現代の日本。しかもどこかの町にある冴えない安食堂が舞台。
嵐の中訪れた2人の客。一方は十年以上も通ってくれているが名も知らない常連客。一方は初めてやってきた少女。しかしその少女は一度の浮気相手の女性に似ていたため、男は隠し子騒動に動揺する。
いわゆる日常の謎系の物語だが、判明するのは店主の間抜けぶりと常連客と少女の意外な正体という、ちょっぴり毒気が混じった内容だ。これもまたこの作者の持ち味なのかもしれない。

次の「片想い」も舞台は日本だが、時代は昭和初期で創成期の高騰女学校が舞台となっている。岩本薫子と水野環という2人の女子高生の友情の物語だ。
昭和初期の高等女学校という実にレトロな雰囲気の中、ちょっと百合族的な危うい雰囲気を纏って展開する物語はいわば深緑野分風『王子と乞食』となるだろうか。
本書の主眼は2人の女学生の友情物語であることだ。思春期という多感な時期に同じ屋根の下で暮らす女性2人の間に芽生え友達以上恋人未満にも発展した深い深い友情は切なくも苦く、限られた時間であるがゆえに眩しい。作者の長所がいかんなく発揮された作品だ。

最後の「氷の皇国」は北欧と思しきユヌースクという国が舞台の物語だ。
極寒の小国ユヌースク。そこを統治する残虐な王と彼が溺愛する美しい皇女ケーキリアと無邪気で残酷な王子ウルスク。そしてかつて近衛兵で妻を王の乗せた馬車に轢かれて亡くしたヘイザルと娘エルダトラ。ヘイザルの親友でガラス細工職人のヨンに彼の娘でエルダトラの親友のアンニ。これらの人物たちに訪れたある悲劇の物語だ。
首のない死体が流れ着き、それに涙する老婆というだけで悲劇が約束されたような物語である。冷たい皇女の企みを軟禁状態だった皇后が突如現れ、見事な推理で暴く。しかし公然と彼女を犯人にするわけにはいかず、最も彼女が苦しむ選択を下す。
誰もが多大なる苦痛を抱きながら、最小限の犠牲で皆を救う選択をした皇后はある意味最も政治家として正しいものだったのかもしれない。尊い犠牲の上で安住の地に流れ着いた彼女たちは果たして幸せだったのか。複雑な感傷を抱かせる作品だ。


いやはやこれまたすごい新人が現れたものだ。
洋の東西を問わず、しかも現代のみならず近代から中世まで材に取りながらも、まるで目の前にその光景があるかのように、さらには色とりどりの花木や悪臭などまでが匂い立つような描写力と、それぞれの時代の人間たちだからこそ起きた事件や犯罪、そして悲劇を鮮やかに描き出す深緑野分氏の筆致は実に卓越したものがある。

プロットとしては正直単純であろう。表題作は美しい庭に纏わるある悲劇の物語で、次の「仮面」は偽装殺人工作。「大雨とトマト」はある雨の日の出来事で「片想い」は女子高生の淡い友情物語。そして「氷の皇国」は流れ着いた死体に纏わるある悲劇の物語。既存作品に着想を得て書かれたものだとも解説には書かれている。

しかしこれらの物語に鮮烈な印象を与えているのは著者の確かな描写力と物語を補強する数々の装飾だ。そして鮮烈な印象を残す登場するキャラクターの個性の強さだ。
従って単純な話であっても読者は作者の目くるめくイマジネーションの奔流に巻き込まれ、開巻すると一瞬にしてその世界の、その時代の只中に放り込まれ、時を忘れてしまう。濃密な時間を過ごすことが出来るのだ。

それはまるで作者が不思議な杖を振るって「例えばこんな物語はいかがかしら?」としたり顔で微笑みながら見せてくれるイリュージョンのようだ。

収録された5編は全て甲乙つけ難い。どれもが何らかのアンソロジーを組めば選出されてもおかしくないクオリティに満ちているが、敢えて個人的ベストを選ぶとすると表題作の「オーブランの少女」と「片想い」の2作になろう。

表題作はオーブランという美しい庭を管理する2人の老姉妹に突然訪れたある衰弱した女性による殺人事件と、後を追うように自殺した妹の死に隠されたある悲劇の物語という非常にオーソドックスな体裁ながらも、かつてそこにあったある施設が読者の予想の斜め上を行く真の目的と、寂しさゆえに取り返しのつかない過ちを犯してしまった主人公が招いたカタストロフィが実に心に深く突き刺さる。

後者の「片想い」はまだ設立間もない東京の高等女学校を舞台にした、長野の病院のお嬢様に隠されたある秘密が暴かれる物語だが、何よりも主人公であるルームメイトの大柄な女性の純心がなんとも心をくすぐる。なんともまあ瑞々しい物語であることか。

この2作に共通するのは女性の友情を扱っている点にある。
表題作は戦火を潜り、まさに死線を生き長らえた2人の女性が決意の上、秘密の花園を生涯かけて守り抜き、そして彼女たちに悲劇を与えようとした女性の長きに亘る復讐という陰惨さがミスマッチとなって得難い印象を刻み込む。

後者は何よりもなんとも初々しい昭和初期の女子高生たちが築いた友情が実に眩しくて、郷愁を誘う。

多感な時期に得た友情は唯一無比で永遠であることをこの2作では教えてくれるのだ。

他の3作も上で述べたように決して劣るものではない。
「仮面」ではわざと美しい顔を傷つけ、身元を隠してしたたかに生きるアミラという女性に隠された過去に非常に興味が沸き、「大雨とトマト」の場末の安食堂の主人の家族に起こるその後の騒動を考えると、嵐の前の静けさと云った趣が奇妙な味わいを残す。掉尾を飾る最長の物語「氷の皇国」の北の小国で起きたある悲劇の物語も雪と氷に囲まれた世界の白さと氷の冷たさに相俟って底冷えするような余韻をもたらす。

そしてこれら5作に共通するのは全て少女が登場することだ。それぞれの国でそれぞれの時代で生きた少女の姿はすべて異なる。

死線を共に潜り抜け、死が訪れるまで共に生き、死ぬことを誓った少女。

美しい妹を利用し、貧しいながらも人を騙して生きていくことを選んだ少女。

一時の好奇心で図らずも妊娠してしまい、居ても立ってもいられずにその自宅に衝動的に訪れたものの、これからの将来が見えずに途方に暮れる少女。

共に学業に励み、恋心に似た感情を抱きながらも隠していた感情を爆発させ、瑞々しい友情を築いていく少女たち。

父親の犠牲の上に自由を得、そして悠久の時間を経て父親と再会した少女。

ある意味これらは少女マンガ的題材とも云えるが、繰り返しになるが一つ一つが非常に濃密であるがゆえに没入度が並大抵のものではない。どっぷり物語に浸る幸せが本書には詰まっているのだ。

物語の強さにミステリの謎の強さが釣り合っていないように思えるが、それは瑕疵には過ぎないだろう。
私は寧ろミステリとして読まず、深緑野分氏が語る夜話として読んだ。ミステリに固執せず、この作者には物語の妙味として謎をまぶしたこのような作品を期待したい。

もっと書きたいことがあるはずだが、今はただただ心に降り積もった物語の濃厚さと各作品が脳内に刻んだ鮮烈なイメージで頭がいっぱいで逆に言葉が出てこないくらいだ。

こんな作者がまだ現れ、そしてこんな極上の物語が読めるのだから、読書はやめられない。
そしてこれからこの作者深緑野分氏の作品を追っていくのもまた止められないのだろう。実に愉しい読書だった。


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オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)
深緑野分オーブランの少女 についてのレビュー
No.107: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

本書における本当の恐怖とは

もはやキングの代名詞とも云える本書。スタンリー・キューブリックで映画化され、世界中で大ヒットしたのはもう誰もが知っている事実だろう。

コロラド山中の冬は豪雪のため営業停止する≪オーバールック≫ホテル。その冬季管理人の職に就いたジャック・トランスと彼の癇癪と飲酒癖の再発を恐れる妻ウェンディ、そして不思議な能力“かがやき”を持つ少年ダニー達3人の一冬の惨劇を描いた作品である。

とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。
何とも息詰まる恐怖の物語であった。
これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。

物語は訪れるべきカタストロフィへ徐々に向かうよう、恐怖の片鱗を覗かせながら進むが、冒頭からいきなりキングは“その兆候”を仄めかす。

ホテルの冬季管理人の職に就いた元教師ジャック・トランス。彼は自粛しつつも酒に弱い性格でしかも癇癪もちであり、それが原因で教師を辞職させられた。

更にその息子ダニーは“かがやき”と呼ばれる特殊能力を持つ少年だ。人の心の中が読めたり、これから起こることが解ったりする予知能力のような力を指し、この“かがやき”はホテルのコック、ハローランも持っており、ダニーは強い“かがやき”を持っているという。
さらに彼にはイマジナリー・コンパニオン―想像上の友達―トニーがおり、それまでは孤独なダニーの遊び相手であったが、≪オーバールック≫へ来ると彼を悪夢へ誘う導き手となる。

この“かがやき”が題名のシャイニングの由来である。いわゆる第6感もそれにあたるようで、理屈では説明できない勘のようなもの、そこから肥大した第7感を示しているようだ。

そして舞台となる≪オーバールック≫ホテルもまた過去の因縁と怨念に憑りつかれた建物であることが次第に解ってくる。
1900年初頭に建てられた優雅なホテルはロックフェラーやデュポンなどの大富豪、ウィルスン、ニクソンなどの歴代大統領も宿泊した由緒あるホテルだが、その後オーナーが頻繁に入れ替わり、何度か営業停止をし、廃墟寸前まで廃れた時期もあった。しかし大実業家のホレス・ダーウェントによって徹底的に改築され、現代の姿になり、いまや高級ホテルとして名実ともに堂々たる雄姿を湛えている。

しかしジャックは地下室で何者かによって作られたこのホテルに纏わる記事のスクラップブックを発見し、ホテルの歴史が血塗られた陰惨な物であることを発見する。

そして決して開けてはならない217号室の謎。そこにはハローランでさえ恐れ、また支配人のアルマンでさえ誰にも触れさせようとしない開かずの間。

それ以外にも≪オーバールック≫には人の死に纏わる事件が起こっている。やがてそれらの怨念はこの古き屋敷に宿り、住まう者の精神を蝕んでいく。

優雅な装いに隠された暗部はやがてホテル自身に不思議な力を与え、トランス一家に、ことさらジャックとダニーに影響を及ぼす。

誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。
とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。
従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。

映画ではジャックの武器は斧だったが原作ではロークという球技に使われる木槌である。またウィキペディアによれば映画はかなり原作の改編が成されているとも書かれている。

≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。
特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦氏のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。
荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。

しかしよくよく考えるとこのトランス一家は実に報われない家族である。
特に家長のジャックは父親譲りの癇癪もちでアルコール依存症という欠点はあるものの、生徒の誤解によって自身の車を傷つけられたのに激昂して生徒を叩きのめしてしまい懲戒処分となり、友人の伝手で紹介されたホテルが実に恐ろしい幽霊屋敷だったと踏んだり蹴ったりである。自分の癇癪を自制し、苦しい断酒生活を続けているにもかかわらず、何かあれば妻から疑いの眼差しを受け、怒りを募らせる。教師という職業から教養のある人物で小説も書いて出版もしている、それなりの人物なのに、家庭で暴君ぶりを発揮した父親の影響で自身も暴力と酒の性分から抜け出せない。

また妻のウェンディも何かと人のせいにする母親から逃れるように結婚し、そのせいかいくら優しくしても父親にべったりな息子に嫉妬し、かつての暴力と深酒による失敗からか愛してはいても十二分に夫を信用しきれない。彼女もまた親の性格による犠牲者である。

そして最たるはダニーだ。彼も“かがやき”という特殊な能力ゆえに友達ができにくく、常に父親が“いけないこと”をしないか心配している。さらにホテルに来てからは毎日怪異に悩まされるたった5歳の子供。

普通にどこにでもいる家庭なのに、運命というボタンを掛け違えたためにとんでもない場所に導かれてしまった不運な家族である。

ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。

そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。

深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに

つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。
そして時が経つこと36年後、息子が作家になってから続編の『ドクター・スリープ』を著している。これは“かがやき”を感じていた我が息子ヒルをダニーに擬えて書いたのか、この献辞を頭に入れて読むとまた読み心地も違ってくるのではないだろうか。

1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。
怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。

そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。

それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。

読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところがキングのもたらす怖さだろう。
上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。


▼以下、ネタバレ感想
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シャイニング〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングシャイニング についてのレビュー
No.106: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
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我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。

介護。
それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。

介護ビジネスと云われるように富める者と貧しい者が受けるその制度の恩恵に雲泥の差があるからだ。

資産を持つ裕福な者は高級な老人ホームに入り、24時間体制の厚い介護システムを受け、VIP待遇のように扱われるが、安い老人ホームは定員オーバーで入居待機を強いられ、場所によっては収容所のような環境で虐待もされているという。

さらにそこにも入れない日々の生活をぎりぎり行っている人たちは自宅介護で身のやつれる経験をし、いわゆる介護疲れで精神をすり減らし、明日の見えない日々を送らなければならない。

さらに介護ビジネスに携わる人々の環境も劣悪だ。人の身体を扱う重労働と長時間労働の上に手取りは少なく、今最も離職率が高い事業だと云われている。

本書にはそんな介護の厳しい現実がまざまざと突きつけられる。

作者はそれを介護サービスを施す側と受ける側にそれぞれ対照的な登場人物を配置して介護の厳しい現状を語る。

介護を施す側の人物は佐久間功一郎と斯波宗典。
佐久間はいわば介護ビジネス経営側の人間で政府が施行した介護保険制度の改正で軋みを立てるビジネス経営の苦しみの只中に立たされている。

一方斯波は現場サイドの人間で介護業が抱える苦しさと離職率の高さを実感している。

そしてサービスを受ける側の人間は大友秀樹と羽田洋子。
大友は有料の高級老人ホームの素晴らしさに感嘆し、介護ビジネスの光を垣間見るが、同様に法改正によって岐路に立たされている現実も知る。

羽田洋子は実母の介護で苦汁の日々を送るいわば典型的な介護疲れのロールモデルだ。

この離婚して実家に出戻りした羽田洋子の地獄のような介護生活の日々は最初に痛烈に印象に残る。
最初は帰ってきた娘と孫との暮らしを喜んでいた母親がふとしたことで怪我をして、寝たきり生活を余儀なくされる。次第に悪態をつくことが多くなり、そして認知症が進んで娘と孫すらも認識できなくなる。罵倒されながら実母の世話と糞尿の始末を負わされ、さらには昼夜仕事に出る洋子の生活は実に重く心に響く。

そしてこの介護老人連続殺人事件の真相を暴くのもまた大友秀樹だ。
彼は幼い頃から裕福な家庭で育った彼は性善説を信じる厚いクリスチャンでもある。しかし彼はその原初体験ゆえに人は誰しも罪悪感を抱き、改悛するものだと固く信じてやまない。逆に云えば己の考えが強すぎて融通が利かないとも云える。

一方彼の高校時代の友人佐久間功一郎は常に勝ち続けてきた男だ。
成績優秀、スポーツ万能、何をやらせても一流だった彼は常に人を見下してきた。勝てば官軍を信条とし、勝つためならば何をやってもいいと思っている男。介護事業のフォレストが社会的制裁を受けた時に顧客名簿を盗み出して振り込め詐欺産業に乗り出す。

この大友と佐久間はこの作品における光と闇を象徴している。

このように作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。

介護する側される側。
助かる者と助からない者。
富める者と貧しい者。
善人と悪人。

しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。

重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。

本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である

作者はこの作品を応募するにあたってかなりミステリを読み込み、研究していたように思える。

しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。

介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。
そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。

また介護制度のみならず、幼稚園の待機児童の問題もある。
なぜこれほど人々の生活を支援するシステムほど理想と現実がかけ離れているのだろうか。社会の歪みと云えばそれまでだがそれは実に曖昧で端的に切り捨てた言葉に過ぎない。
作中で登場人物が云うようにこの社会には穴が空いているのだ。もっと具体的に問題を掘り下げていかないと日本はどんどん廃れていくだけである。

高齢化社会と少子化問題。この2つは切っても切れない問題ではないだろうか。
日本は今自分で作ったシステムの狭間で悲鳴を挙げている。

果たして<彼>は悪魔だったのか天使だったのか。人を殺すという行為は最もやってはいけないことは解っていても心のどこかで<彼>の行為を認める私がいる。

羽田洋子の心の叫び、“人が死なないなんて、こんな絶望的なことはない!”は現代の医療やケアが向上したが故の延命措置のために犠牲となった人が誰しも抱く真の嘆きではないだろうか?

もはや彼ら彼女らは生きていると云えるのだろうか?
実の子供すらも認識できず、罵倒さえする。そんな人たちに病気だから悪意で云っているのではないと自らに念じ、献身的に尽くす家族たち。これが介護ならまさに地獄だ。

そんな地獄に光明を授ける<彼>が名付けるロスト・ケア、喪失の介護、即ち日々の介護で心身をすり減らす人たちを介護の対象を葬ることで解放する介護。それは単なる恣意的な殺人であることは認めるが、それで救われる人が必ずいることは否定できない。

しかし一方で長く我が子を育てるために身を粉にして働いた親たちを自分たちの都合で葬っていいとも思わない。
ただそのために人の尊厳が失われていいとも云えない。
全てはバランスなのではないか。
誰かを生かすために誰かが必要以上に犠牲を強いられ、終わりなき日常に苦しめられる人がいるのなら、それを救済するのもまた必要ではないだろうか。

我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。
しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。
しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。
私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。
そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。

東野圭吾氏の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。
実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。


▼以下、ネタバレ感想
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ロスト・ケア (光文社文庫)
葉真中顕ロスト・ケア についてのレビュー
No.105: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

貴方は何を相談しますか?

時空を超える相談屋ナミヤ雑貨店を舞台にしたハートフル・ストーリーで連作短編集のような体裁の作品である。

とにかくナミヤ雑貨店には色々な悩みが相談される。

勉強せずに百点を取る方法、ガメラはなぜ回って空を飛んでいるのに目を回さないのかと下らない物もあれば、当事者の人生を左右する悩み事まで様々だ。

オリンピック代表選手候補の女性が抱える、難病を患った愛する人を取るべきかそれとも代表選考合宿に臨んでそのまま走り続けるべきか。

ミュージシャンを目指して家業の魚屋を継がずに上京した息子は祖母の葬式で故郷に戻った際、父親もまた心臓を患い、体調が悪いことを知る。長く目が出ないミュージシャンの夢を絶って家業を継ぐべきかそれとも夢を諦めず続けるべきか。

妻子ある男性との道ならぬ恋に落ちた女性はその男の子を孕んでしまい、生むべきか中絶すべきか悩んでいる。かつてその女性は医者から子供を産みにくい体質だと云われていたが。

親の事業が失敗して夜逃げを計画している一家。しかし一人息子は環境の変化を嫌い、また社員を捨てて逃げ出そうとする親に嫌悪を抱いて付いていくべきか辞めさせるべきか悩んでいる。

社会人になったのはいいものの高卒女子では大した仕事を与えられないので水商売でスカウトされたところ、非常に有意義な仕事だと思ったのでどうやって穏便に退社できるか。

さらには何も書いていない白紙の手紙でさえナミヤ雑貨店は回答する。

特段変わった悩みではないが、誰もが自身もしくは周囲の人々の誰かが抱えている普遍的でかつ明確な回答を見いだせないものばかり。

物語は社会の脱落者である3人組の軽犯罪者がひょんなことから成り行きでそんな悩みに彼らなりのスタンスで回答していくものから、元々の被相談者である浪矢雄治自身の真摯に臨んだ回答まである。

3人組の回答は実にシンプルでそのあまりに明らさまで小ばかにした回答ゆえに相談者が憤慨する場面もあるが、逆にその率直さが相談者の迷いに踏ん切りをつけさせることにもなる。

しかし相談したからと云って解決するわけではない。作中浪矢雄治が述べるように、結局そのアドバイスを活かすのはその人自身なのだ。ただ聞いて安心しただけではなく、それをステップにして次にどうするか、もしくは意にそぐわなかった回答を発奮材料にしてどう困難に立ち向かうか、全てはその人たちの覚悟なのだ。

これまた作中の浪矢雄治の台詞になるが、基本的に相談事を持ち掛ける人は自分なりの結論を持っていてそれが正しいのか否かを後押ししてほしいからこそ相談する、つまり同意を求めているわけだ。
しかし案に反した回答、もしくは想像を超えた回答を浪矢氏もしくは3人組から貰うからこそそこにやり取りが生まれる。そしてそれがまた彼もしくは彼らにとってはやりがいを感じる。

元々の被相談者浪矢雄治は妻に先立たれ、生きる気力を失いつつあったところにひょんなことから子供の他愛ない相談に回答したことによってたちまち町の、世間の評判になり、週刊誌にも取り上げられ一躍ユニークな雑貨店として知られることになる。そしてそれは消沈していた雄治に生きる張り合いをもたらした。

一方しがない空き巣狙いを繰り返していた敦也、翔太、幸平の3人組はいわば社会の脱落者だ。彼らは誰からも必要とされず、むしろ見放されて生きてきたのだろう。
そんなときに偶然にも自分たちに相談を持ち掛ける手紙が迷い込んできた。それに応えることは奇妙なことに彼らにとって悪くない出来事になった。

つまり人は誰かに求められてこそ初めて生きる気力を持てるのだ。この4人に共通しているのはそれだ。
誰かを必要とし誰かに必要とされることで人は生き、また生かされている。だからこそ人生を有意義に送れるのだ。

そして相談者、被相談者が紡いだ思いは未来へ受け継がれる。

1章は現代の相談される3人の小悪党側から、2章では時空を超えて小悪党どもに相談を持ち掛ける側から、3章では元祖相談役の浪矢雄治側から、4章ではその浪矢雄治に相談した側が過去と現在にてナミヤ雑貨店を訪れ、そして最後は再び3人の小悪党の側から描かれる。

とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾氏が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。
上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。

そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。
映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。

ちょうど今自身も公私に亘って難局に直面しており、叶うなら私もナミヤ雑貨店に色々相談したいとさえ思ってしまった。

とにかく語りたいエピソードの嵐である。が思いが強すぎて何を語ればいいのか解らない。それほど心に響いた。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。

またもや東野圭吾氏に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。


▼以下、ネタバレ感想
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ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫)
東野圭吾ナミヤ雑貨店の奇蹟 についてのレビュー
No.104:
(10pt)

もはや一大産業となった麻薬ビジネスの厳しい現実

メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。

まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。
延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。

アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。

まず物語は復讐の念を募らせたアダンの反撃で口火を切る。そして養蜂家として隠遁生活を送っていたケラーもアダンの復活と共に戦地へと赴く。賞金首になりながらもDEAの捜査官に復帰し、自らメキシコに入り、現地の組織犯罪捜査担当次長検事局(SEIDO)のルイス・アギラルと連邦捜査局(AFI)のヘラルド・ベラと共同してアダン逮捕に踏み切るのだ。

お互いに復讐の念を募らす2人だが、一旦現場を離れた2人の思惑通りにはことは進まなかった。アダンがいない間に勢力を伸ばしたカルテルたちはアダンに対して服従の意志を見せるどころか立場の逆転を誇示する。

一方DEA、SEIDO、AFIはアダン逮捕に踏み切ったものの、アダンの勢力がかつてほどでないと知るや否や、他の大きな勢力壊滅に力を注ぐ。すでに時代は2人の物ではなく、アダンとアートそれぞれが昔語りの主人公になってしまっている。
麻薬抗争は権力ある頭目たちが手下たちを使って報復と粛清を繰り返しながら勢力を拡大している構図は一緒ながらもその手下たちが元軍人や元警官もしくは現職警官だったりといわゆる戦いのプロたちによる私設軍となり、さらにエスカレートしている。湾岸カルテルには元軍人のエリベルト・オチョア率いるセータ隊、アダンの朋友ディエゴ・タピアはロス・ネグロス、フアレス・カルテルはラ・リネア。
報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。
昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。

しかしこれほど麻薬ビジネスが国民と政府機関に浸透した国メキシコで麻薬の取り締まりをすることにどれほどの意味があるのだろうかと読みながらこの思いが錯綜した。なんせお隣のアメリカですら国家安全保障会議とCIAとホワイトハウスがメキシコの麻薬カルテルを利用してニカラグアの新米反共勢力コントラに資金援助しているのだから。
おまけにアメリカとメキシコの間で結ばれた北米自由貿易協定(NAFTA)は両国間を数万台のトラックが行き来することを許可した。それは両国の流通を活発にする目的だろうが、数年来から麻薬大国として知られるメキシコに対してどうしてアメリカはこんな無謀な協定を結んだのか?
NAFTAはもはや北米自由“麻薬”貿易協定とさえ呼ばれているようだ。アメリカとメキシコの背景とはこんなものである。

さらには大統領選の資金までもが麻薬カルテルの売り上げから供与されている。しかもその仲介役がAFIの幹部の1人なのだ。

こんな世界では彼らDEA、SEIDO、AFIの戦いほど空しいものはないのではないだろうか。既にその協同作戦に参加するアート・ケラーは両機関の代表者ルイス・アギラルとヘラルド・ベラに対して不信感を抱いている。

麻薬カルテルに恩恵を受けている市民たちは掃討作戦で潜んでいる最中に周辺住民よりターゲットに通報され、もしくは捜査側にもカルテルの息のかかった連中がいるのを証明するかの如く、作戦を無視してわざと騒音を立てて注意を惹かせる者もいるくらいだ。

彼らはそんなことがバレても共犯として留置所に送り込まれるだけで、逆にカルテルからは情報提供者として報酬を貰える。それも一生彼らが手にすることの出来ないくらいの大金をだ。

そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが読んでいるうちに解らなくなってくる。
社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。

従って正義の側のケラーもこの善悪が混然一体と混じり合ったメキシコの現状を利用して情報操作をし、アダン側を翻弄する。
上に書いたように昨日と今日、今日と明日で味方と敵が入れ替わる団結力の弱い組織同士の結び付きを利用して、亀裂を生じさせる。身内を重んじるがゆえに他者を軽んじるメキシコ人の気質がどんなに勢力を拡大させようと決して一枚岩になり切れない脆弱さを無くしきれない。そこにケラーの付け入る隙があるのだ。

そして物語の中盤、裏切者が判明する。

メキシコ海兵隊FES指揮官ロベルト・オルドゥーニャ提督と隠密裏にホワイトハウス直下の組織として麻薬カルテル撲滅軍を組織する。敵の首領を索敵し、速やかに襲撃して命を奪う。頭を喪っても次の頭が生まれるだけという論理から、頭を次から次へ襲撃することで成り手を無くすという論理で敵との戦いに臨む。
最も懸念されるのが組織内に生まれるスパイの存在は高報酬と襲撃した敵からの押収品の略奪を合法化して奨励することで賄賂を受け取らない人材にする。つまり毒を以て毒を制する組織と云えよう。

さらにケラーが疑心暗鬼に陥った前協同者たちと違い、オルドゥーニャにはケラーと同じくカルテル達に私怨を持っていることだ。つまり任務を超えて天敵に対する復讐の念が強いこと。それが2人の絆を強固にする。
私怨は使命感を超える。ケラーとオルドゥーニャ、ここに最強のタッグが誕生した。

また本書で忘れてならないのは女傑たちの登場だ。

モデル並みの美貌を持つマグダ・ベルトラン。彼女はかつての情夫の指示で麻薬の運び屋をさせられた際に捕まり、刑務所に入れられたところをアダンに見初められ、彼の情婦となって共に脱獄する。そして情婦からアダンのビジネスパートナーとなって麻薬の元締めになり、ヨーロッパへの密輸ルートを展開する。

ケラーがパーティーで知り合った女医マリソル・サラサール・シスネロス。メキシコシティーで開業していたが、麻薬カルテルとの癒着が強い国民労働党が大統領選挙で勝つと、失望感から故郷のバルベルデに戻り、診療所を開設した後、政治の世界に参加し、町長となってセータ隊と戦う。

マリソルを慕って未成年ながらバルベルデの女性警察署長になるエリカ・バルデス。常にマリソルに付き添い、彼女のボディガードをしながら、セータ隊に蹂躙されているバルベルデの治安を守ろうと孤軍奮闘する。

延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。

またこの戦いはカルテル対メキシコ捜査機関とアメリカの捜査機関だけでなく、麻薬カルテルの横行を許す政府への警告を発するマスコミたちの戦いでもあるのだ。
シウダドファレスの地元紙≪エル・ペリオディコ≫の編集者オスカル・エレーラを筆頭に新聞記者パブロ・モーラ、アナ、カメラマンのジョルジョは敢然とカルテル達の暴虐ぶりを紙面で非難する。しかし次々とセータ隊はジャーナリストたちの屍の山を築き、その毒牙がジョルジョに及ぶに至ってとうとう報道を自粛せざるを得なくなる。

そしてメキシコ人の母親を持つアメリカ人のケラーはこの混沌社会のメキシコを大いに利用しようとするアメリカそのものを象徴しているようだ。彼は自身に流れるメキシコの血で彼らの考えを理解し、先読みしながら、アメリカ人の頭脳で情報攪乱を生じさせ、手玉に取る。
アダン・バレーラ対アート・ケラーの戦いは実はメキシコ対アメリカの代理戦争を象徴しているのかもしれない。

後半はもう殺戮の嵐だ。

5人が10人、10人が15人、20人、30人、50人…。屍の山が累々とメキシコ各地でセータ隊によって築かれる。もはや死亡者数はメキシコの人々にとって単なる数字でしかなくなり、町中で転がる死者も市民にとっては単なるモノでしかなくなり、死に対する感覚が麻痺し、死体を跨いで出勤する風景が日常的に行われるようになる。何の罪もない一般市民が突然セータ隊に呼び止められ、セータ隊に従うか否かではなく、従うかもしくは死を選ばざるを得なくなる。

主要登場人物もその宴の犠牲になる。

そしてクライマックスのセータ隊を殲滅するグアテマラへの潜入作戦で物語はようやく結末を迎える。

作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。
軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。

そして本書の題名“ザ・カルテル”は単に麻薬カルテルを示しているわけではない。作中、無残に殺害された新聞記者パブロ・モーラの言葉を借りて作者のメッセージが伝えられる。麻薬カルテルの横行を許す富裕層、権力者、警察、政府、資本家たち全てが「カルテル」だ、と。あぶく銭で私腹を肥やし続ける者たち全てがカルテルなのだ。

アダン・バレーラが復活してアート・ケラーが現場に復帰した2004年からセータ隊そしてアダン・バレーラがこの世を去るまでの2012年までの、8年間の血生臭いメキシコ暗黒史。メキシコを牛耳ろうとした麻薬カルテル達の戦国時代絵巻。前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。
ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。

しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。
世界は実に哀しすぎる。


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ザ・カルテル (上) (角川文庫)
ドン・ウィンズロウザ・カルテル についてのレビュー
No.103: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

いやぁ、もう舞台モロバレでしょう。

S&Mシリーズ10作目にして最終作の本書は1作目の真犯人真賀田四季と再び相見える事件であり、シリーズ中最も厚い文庫本にして約850ページの大作だ。
そしてそのボリュームに呼応するかのように次々と事件が発生し、様々な仕掛けが物語全体に仕掛けられている。

本書の舞台は那古野市から今までで最も離れた地長崎。ハウステンボスをモデルしたユーロパークなるテーマパークで事件は幕を開ける。

数ヶ月前に起きた船員風の男がドラゴンに噛まれたかのような死体の消失事件、通称「シードラゴンの事件」を皮切りにナノクラフト社の社員

松本卓哉の教会での転落死とほんの数分後に腕一本以外が消えうせる死体消失事件。そして自室で密室状態で殺害される新庄久美子。

さらに夜の空を飛ぶ全長5mほどのドラゴンにバーチャル・リアリティの空間で起きる衆人環視の中での密室殺人と森氏はギアを1速からいきなり4速へと加速するかの如く次から次へと事件を謎を畳み掛ける。

森氏は惜しみもせずにアイデアをどんどん放り込み、読者を翻弄する。そしてそれらのいくつかは実に早い段階で犀川と萌絵によって解き明かされる。

果たしてこれはいわゆる世に流布するミステリ全般に対する森氏の皮肉なのだろうか?
一般的に市民が殺人事件に出くわす確率はそう高くはない。私自身、直接的間接的にせよ、殺人事件どころか刑事事件に関わったことはない。
本書でわざわざ長崎まで出向いた西之園萌絵がそこで事件に出くわすことがもはや作り物めいているといえないだろうか。
ミステリを読み慣れた我々にとってそれらが至極当たり前のことになっているが、実際は旅行先で事件が起こるなんてことは確率的にはかなり低いことであり、森氏はそれを逆手にとってわざと事件を起こさせるという真相を持って来たのではないだろうか。

さて本書の本当の謎とは?
それについて述べる前にちょっと気になった点について述べよう。

本書の中ではいくつか誤解を招くような表現もあった。
例えば萌絵が建築学科の学生と云う理由で東西南北を間違えるはずがないとあるが、これは根拠としては薄弱だろう。私は建築学科は出ていないが、初めて訪れた地の、建物の中の方角を認知する方法を大学で教えられるとはとても思えない。

また犀川が塙理生哉の妹香奈芽に海外へ行く疑似体験をしたいなら電脳空間上でバーチャル・タウンを作り出すよりも実物の街を作った方が安いと述べているが、これは現代ならば真逆だろう。
もはや映画はセットを作るよりもブルースクリーンの前で俳優たちに演技をさせて映像を当て嵌めて合成する方が安価で主流となっているからだ。本書が出版された1998年当時ではまだCG技術とコンピューターの処理能力がそこまで追いついてなかったからこその時代錯誤的表現であろう。

さて本書の最大の謎とは「真賀田四季は一体どこにいたのか」だ。

いやはやこの最終作でシリーズに散りばめられた仕掛けが解り、森氏の構想力に脱帽した。
まさにシリーズの締め括りに相応しい大作だった。


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有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER (講談社文庫)
森博嗣有限と微小のパン についてのレビュー
No.102: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

1人の死に介在する人々もまたそれぞれの事件を抱えている

2010年度『このミス』で堂々1位に輝いた本書は加賀恭一郎シリーズでも異色の構成で物語は進む。

日本橋署に赴任したばかりの加賀が携わるのは小伝馬町で起きた1人暮らしの女性の殺人事件。その捜査過程で彼は被害者三井峯子の遺留品を手掛かりに捜査を進めていくのだが、彼が訪れる先々ではそれぞれがそれぞれの問題を抱えており、加賀はそれらに対しても対処していく。
その問題は市井の人々ならば誰しもが抱える問題で、いわばこれらは殺人事件が起きない日常の謎なのだ。つまり殺人事件の謎を主軸に加賀恭一郎は日常の謎を解き明かしていくのだ。

まず1章の「煎餅屋の娘」では被害者宅に残された保険のパンフレットを手掛かりに保険外交員の足取りを追うが、そこに空白の30分があることに気付く。
その外交員が最後に訪れたのが人形町の甘酒横丁にある煎餅屋だった。加賀はその空白の30分が外交員が殺人を犯す時間だったのではと疑うが、捜査をするうちに煎餅屋が抱えるある哀しい真実に行き当たる。

第2章「料亭の小僧」では被害者宅に残された人形焼き、しかも餡入りと餡抜きが混在した奇妙な構成から人形町の料亭に加賀は行き当たる。
その容器に残された指紋は3つあり、1つは人形焼き屋の店員、1つは被害者の女性だが残る1つは不明だった。主人の愛人への手土産にいつも同種の人形焼きを買いに行かされる修行中の小僧はその愛人こそが被害者なのではと疑うが、その人形焼きの1つにわさび入りの物が含まれていたことから、料亭の女将のある仕返しが浮かび上がる。

第3章「瀬戸物屋の嫁」では三井峯子が最後に送ったメールの宛先が商店街の瀬戸物屋『柳沢商店』の嫁麻紀だったことから加賀は彼女を訪ねる。
そこはひょんなことから嫁と姑の仲は最悪で、息子の尚哉はその板挟みでいつも苦しんでいた。麻紀は顔馴染みの客だった三井にキッチンバサミを数件先の刃物専門店『きさみや』で買うように頼んだのだった。なぜそんな不可解な事を客に頼むのか。調べていくうちに加賀は男には解らない女心の裏腹さを知らされる。

第4章「時計屋の犬」では三井峯子のパソコンに残された書きかけのメールに彼女が小舟町の時計屋の主人にあったと記されたことからその時計屋を訪れることになる。
何の変哲もないそのメールの内容はしかし時計屋の主人が彼女に逢ったと云っている浜町公園では主人以外誰も見かけた人がいないという奇妙な状況があった。しかし生粋の江戸っ子である頑固親父の時計屋の主人は頑として自分の証言を覆さない。加賀は犬の散歩コースを一緒に辿ることであることに気付く。

第5章「洋菓子屋の店員」では三井峯子が過去に離婚した経験があり、彼女には既に成人した息子弘毅がいることが明かされる。
彼は俳優になると家を飛び出し、その後夫の清瀬直弘とは離婚したのだった。加賀は三井峯子の小伝馬町の家を訪ねてきた弘毅に彼女がつい最近になってここに引っ越してきたことを知らせる。そして彼女の部屋には育児雑誌が置かれていたが、彼女が妊娠した節はなかった。三井峯子が突然小伝馬町に引っ越し、そして育児雑誌や安産で有名な水天宮を訪れていた理由について加賀は知ることになる。それは哀しい錯誤であった。

第6章「翻訳家の友」では三井峯子の死体の発見者で友人の吉岡多美子がそれ以来自責の念に駆られる日々を送っている。
家庭に不満を持っている三井峯子を翻訳業へ誘い、離婚させたのが彼女であり、その自分が今度は恋人と結婚してロンドンへ移住しようとしているのだ。無論のこと、峯子は彼女に対して不平と不安を表出し、再度の話合いに向かった日、恋人と指輪を買うために約束の時間を1時間遅らせたために峯子が死んだのだと吉岡は思い込んでしまった。そんな時に彼女の許を訪れた加賀から三井峯子の隠された吉岡への思いを知らされる。

第7章「清掃会社の社長」は三井峯子の元夫、清瀬直弘に焦点が当てられる。
それは三井峯子が友人の翻訳家が海外へ移住することになったため、収入が不安定になることから慰謝料の請求を弁護士と相談していたことが発覚する。そして最も有力な方法は離婚前に直弘が浮気をしていたような証拠を突き止める事だった。そして直弘には最近になって若い秘書を雇入れていた。その女性宮本祐理は実は元ホステスだった。つまり周囲は社長の愛人だと噂していた。しかし加賀はある点に気付き、直弘の意外な過去を導き出す。

8章「民芸品屋の客」は最終章に向けての布石の章だ。
甘酒横丁の民芸品屋『ほおづき屋』を訪れた加賀はそこに売っている独楽を買った客について訊き込みをしていた。訝る店員に小伝馬町の事件と何か関係があるのかと尋ねられた加賀はこの店の独楽が関係ないことが重要だと謎めいた言葉を残す。清瀬直弘の会社の税理士をしている岸田要作は息子夫婦の許をしばしば訪れていた。加賀はその家を訪れ、事件のあった6月10日にも岸田が訪れたかどうかを訊くと、義理の娘は確かに家を訪れ、独楽を置いていったというのだが、その独楽は『ほおづき屋』のそれとは違っていた。

そして最終章「日本橋の刑事」で事件は解決される。

突然の癌発症、主人の浮気、嫁姑問題、勘当した娘、生き別れた息子との再会、友人の死、若い頃の過ち、クレジットカード借金の滞納、愚息の尻拭いと各章で明かされる各家庭が抱える秘密や問題は我々市井の人間にとって非常に身近で個人的な問題だ。そんな些末な、しかし当事者にとってはそれらはなかなか深刻な問題である。
普通に暮らしている人々の笑顔の裏には誰もがこのような問題を抱えている。それは表向きは当事者以外にしか解らない。従ってその問題がひょんなことで表出した時に謎が生まれる。そんな謎を加賀は細やかな観察眼と明晰な推理力で解き明かす。それらは家族の中でも一部の人間しか知らされていない、実に人間らしい家庭の秘密である。

1章では店の前を往来するサラリーマンのある特徴から保険外交員の空白の30分の真相とそれを招いた煎餅屋の哀しい事実を解き明かす。

2章では事件現場に残された人形焼きの中にわさび入りが1つ混じっていたことから、気丈夫の料亭の女将が抱える女性ならではの苦悩を解き明かす。

3章では犬猿の仲のように見えた瀬戸物屋の嫁と姑が他人に頼みごとをする嫁の不可解な行動からそれぞれが秘める互いを気遣う気持ちを表出させる。

4章では駆け落ちして高校卒業と共に家を飛び出した娘に対して憤懣やるかたない時計屋の主人が殺人事件の被害者の遺したメールの内容から実は密かに娘の動向を確認していた優しさを知る。

5章では三井峯子の母親としての優しさを知る。

6章では死体の第一発見者であり、彼女を離婚させ、翻訳業の道に誘った友人吉岡多美子を通じてさらに三井峯子の人間としての優しさを浮き彫りにする。

7章では被害者の元夫に焦点を当てられる。

8章では解決編となる最終章に向けての布石が語られる。

そして最終章では親の子を思う、愚かなまでの愛情が明かされる。
そしてそれは加賀の捜査の相棒となった捜査一課の上杉が抱える苦い過去をも浄化させることになる。

このどれもが人間の心の不可解さを表している。それは他者を思う気持ちを表面に出さない江戸っ子の人情ゆえの歪んだ愛情とも云えよう。
日本橋署に赴任したばかりの“新参者”加賀恭一郎にとってそれらは殺人事件の捜査の過程で出逢った謎でありながら、実に興味深い物であったことだろう。

しかし全てが明かされると、この世界は人間の優しさや人情で出来ているのだと温かい気持ちになるから不思議だ。

小伝馬町のワンルームマンションの一角で起きた離婚歴のある45歳の女性の孤独な死。その真相に至るまでに煎餅屋、料亭、瀬戸物屋、時計屋、洋菓子屋、翻訳家、清掃会社、役者志望の若者、税理士、建設コンサルタントの面々が直接的、間接的に事件に関わっていることが物語の最終で明らかになってくる。この構成が素晴らしい。
そしてそれらの事件を通して被害者三井峯子の人物像が浮き彫りになってくる。たった1人の女性に対してこれだけたくさんの人たちの人生が交錯し、またすれ違っていることを教えられる。

また特筆なのはこの事件を通してシリーズキャラクターとして読者にはお馴染みである加賀恭一郎の人となりが今まで以上に鮮明に浮き上がってくることだ。

日本橋署に赴任したばかりの一介の刑事が人と人の間を練り歩き、事件とは関係のない謎を解き明かすことで1人の人間の死が及ぼしたそれぞれの小さな事件を知り、1つの大きな絵が見えてくる。それを飄々とした態度で、明晰な観察眼と頭脳で解き明かす加賀の優秀さ、いや清々しさがじんわりと読者の心に満ちてくるのだ。

特に第7章で被害者の元夫である清瀬直弘と対峙した時に加賀が清瀬に告げた家族の力の強さは、以前の加賀からは決して出なかった台詞だろう。これはやはり長年確執があった父の死を超えた加賀だからこそ云えた言葉だった。

本書は家族への愛を色んな形と角度から描いたミステリだ。人の心こそミステリだと宣言した東野氏がこんなにも心地よい物語を紡いだのは一つの到達点だろう。
『秘密』、『白夜行』、『容疑者xの献身』が彼にとって単なる通過点に過ぎなかったことを改めて知らされた。
いやはやどこまで行くのだ、この作家は。


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新参者 (講談社文庫)
東野圭吾新参者 についてのレビュー
No.101:
(10pt)

犯人の中に自分の一部を見た

マット・スカダーシリーズ12作目の本書では「三十一人の会」というランダムに選出された男性によって構成された、年に一度集まっては一緒に食事をして、その1年の事を語り合うという実に不思議な集まりのメンバーが最近次々と殺されていると疑いを持つ会員の依頼に従って真相を探るという、本格ミステリの味わいに似た魅力的な謎で幕を開ける。

この「三十一人の会」のように他者にとっては取るに足らない目的のために集まる奇妙な会のメンバーが次々と亡くなっているという謎はエラリイ・クイーンの短編「<生き残りクラブ>の冒険」を髣髴させる。この作品は作中エレインが動機の1つとして語る「トンティン」、つまり会員で募られた出資金を最後に生き残った者が独占できるというシステムを扱った短編だが、カバー裏に書かれた梗概を呼んですぐにこの短編が思い浮かんだ。

とにかく死が溢れている。
ニューヨークには八百万の死にざまがあると述懐したのはマット=ローレンス・ブロックだったが、本書にも様々な死が登場する。恐らく今までのシリーズで最も死者の多い作品ではなかろうか?

自動車事故で家族と共に死んだ者。
ヴェトナム戦争に出兵して還らぬ人となった者。
天寿を全うした者。
倒錯的な趣味が高じて亡くなった者。
ガンや心臓発作など病死した者。
強盗と鉢合わせ、殴り殺され、妻はレイプの挙句に絞殺された者。
タクシーを運転中に撃たれて亡くなった者。
自分の店に入った強盗に撃たれた者。
仕事中に自分のオフィスのビルから飛び降りた者。

このように実に様々な死が描かれる。
『八百万の死にざま』以降、新聞の片隅に書かれた三行記事のような死がマットの口から語られ、それらのうちいくつかはどこにでもあるような死でもあり、大都会ニューヨークが侵されている社会の病に魅せられた人間によって成された残酷な所業による死もある。

そんな基調で語られる物語だから古き昔から続く秘密の会のメンバーがいつの間にか半数以下になっており、誰かが会員を殺害しているのではないかと云う魅力的な謎で始まる本書でも正直私は意外な真相は期待していなかった。

ここ数年の作品ではマットが捜査の過程で出逢い、また語らう人々から得た情報や彼の捜査と云う行為が口伝で巷間に知れ渡ることで物事が動き始め、犯人が炙り出るという、いわば社会を形成する人間の心理的行動が事件の解決にマットを導き、それによって得られる犯人は全く被害者とは縁がなく、社会の病巣によって起きてしまった事件の当事者であることが多かった。
つまりミステリの興趣である犯人捜しという謎解きの妙味よりもマットの捜査の過程を愉しむ作品という都市小説的色合いが濃かったため、本書もその流れに沿うものだと思っていた。

しかし本書にはサプライズがあった。
そして驚くべきことにその犯人はきちんとそれまでに描かれ、犯人に行き着く手掛かりはきちんと示されていたのだ。しかもそれらが実にさりげなく、大人の会話の中に溶け込んでいるのだ。これぞブロックの本格ミステリスタイルなのだと私は思わず唸ってしまった。

このような恵まれない人物が犯した犯罪を探るマットの生活は実は一方でどんどん向上していっているのだ。
エレインとの仲はさらに深まり、TJは2人にとって良き相棒に成長した。

さらに驚くべきことに前作『死者との誓い』で知り合った被害者の妻リサ・ホルツマンとの肉体関係がまだ続いていたことだ。
ジャン・キーンというマットの心の一角を占有していた女性が病で亡くなり、エレインとの結婚に向き合う節目が訪れたと思ったら、一時の気まぐれと思っていた情事をいまだに引き摺っていたのにはある意味ショックだった。
警官時代、誤って少女を撃ち殺し、自責の念を抱えてアルコールに溺れていたマットの姿はどこにいったのか?齢55になっても女性に対して欲望を抱き、エレインと云う魂で通じ合ったパートナーを得ながら、浮気を重ねるマットの姿に失望を禁じ得なかった。
冒頭にエレインとの関係が訥々と語られ、その中に同棲しながらもまだ結婚には踏み切れないでいるとの述懐にマットの心の傷の深さを読み取ったのだが、単純にリサとの関係を浮気から不倫に発展させたくないがための愚かな抵抗と勘繰っても仕方がない所業だ。

そんなマットもとうとうAAの助言者となる。事件の調査で出逢ったジェイムズ・ショーターという男をAAの集会に参加するよう誘い、断酒の相談に乗るのだ。

死体の発見者となった精神的ショックから酒に溺れ、警備員の職を辞めざるを得ない状況に追いやった彼の姿にマットはかつての自分を重ねる。ジム・フェイバーが彼を救ってくれたように、マットもまたショーターを救おうと行動を起こす。

そしてまたマットもこの事件で変わる。
前述のようにここにはもうかつての負け犬、人生の落伍者であったマットの姿はもう、ない。55歳にしてようやく彼は幸せを掴みつつあるのだ。

しかしマットとエレインとの仲睦まじいやり取りが次第に多くなるにつれ、かつての暗鬱な生活からはかけ離れていくのが少し寂しく感じてしまう。しかしこの話が9・11以前のニューヨークでの物語であることを考えると、それもまた来るべくカタストロフィの前の休息のように思えてくる。
このマットの生活の向上は物語に描かれているニューヨークの街並みの移り変わりが多くの闇が開かれ、かつてのスラムがハイソな界隈に変わっていく姿と歩調を合わせているかのようだ。それ故に9・11が及ぼすマットの生活への影響が恐ろしく感じる。本書が発表された1994年に9・11が予見されていたことがないだけに。そしてこのシリーズが9・11後の今も続いているだけに。

さて今まで無免許探偵として彼の助けを求める人々のために働いていたマットが高級娼婦を辞め、コンドミニアムの所有者でありながら、個人美術商と云う新たな事業を始めて、それもまた成功させて着々と人生を切り拓いているエレインに夫としての吊り合いを保つために、いや少しばかりの男の矜持のために探偵免許を取得しようと決意するマット。
変わりつつある彼の性格と環境に今後どのような物語が待ち受けるのか。
もはや暗鬱さだけが売りのプライヴェート・アイ小説ではなく、ニューヨークと云う巨大都市に潜む奇妙な人間を浮き彫りにする都市小説の様相を呈してきたこのシリーズの次が気になって仕方がない。
なぜならこんなサプライズと味わいをもたらしてくれたのだから。
そして恐らく彼が死者の長い列に並ぶ日はまだかなり遠いことになるのだろう。ブロックの作家生命が続く限り。


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死者の長い列 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死者の長い列 についてのレビュー
No.100:
(10pt)

凄惨な事件の末の安寧

『倒錯三部作』の掉尾を飾る本書では2人組のレイプ・キラーをマットが見つけ出す物語。レバノン系の麻薬ディーラー、キーナン・クーリーの妻フランシーンを誘拐し、40万ドルの身代金をせしめた後、バラバラ死体として送り返した倒錯者だ。

彼らは常習犯で過去に起こした事件も凄惨を極めている。マリー・ゴテスキンドという女性は度重なる性暴行を受けた後、無数の致命傷となる刺し傷を受け、切断された指を膣と直腸に突っ込まれた状態で発見された。

レイラ・アルヴァレスという女性は切られた指を尻に突っ込まれ、おまけに乳房を切り取られていた。

そしてこの悪魔の2人組から唯一生きて逃れたパム・キャシディも片方の乳房を切除されるという残酷極まりない仕打ちを受ける。

そんな陰惨な事件に今回は前回登場したスラムに住む少年TJが大活躍する。電話会社から公衆電話の番号を訊き出す方法だったり、ジミー・ホングとデイヴィッド・キングという凄腕ハッカーを紹介して犯人の行動範囲を限定したりとする。

特に次の誘拐事件が起きた時には犯人の顔と車のナンバーを抑えるなど八面六臂の活躍を遂げる。
正直前作に登場した時はただの小生意気なスラムの少年だとしか思えなかったが、この活躍で一気に彼が好きになった―特に400ページのTJの台詞はこの暗鬱な物語の中で思わず笑い声を挙げたほど爽快な一言だ―。

今回ミック・バルーは警察からの嫌疑を免れるため、アイルランドに逃亡中で不在であったため、物語の面白味が薄れるかと思いきや、TJがその代役を果たしてくれた。
マット・スカダーを取り巻く世界はますます濃厚になっていく。

これら三部作で語られる事件は魂が震え上がる残酷な事件ばかりだ。従って事件も展開もアクティブになっていく。
私は『墓場への切符』の感想で“静”のスカダーから“動”のスカダーに切り替わったと述べたが、それはただ人に便宜を図る程度の捜査ではこれら社会に蔓延る強烈な悪意の塊のような輩には到底立ち向かえないからだ。だからこそマットも動き、人と人との間を歩くのではなく、駆けずり回らなくてはならない。特に本書ではハッカーを使ってまで犯人の行動を摑んでいく。これは以前のスカダーシリーズでは全く考えられなかったことだ。

そしてもはやこれほどまでに強大な悪には1人の力では立ち向かえない。前作ではミック・バルーと云う犯罪者の力を借りて敵を討った。そして今回は麻薬ディーラーの持つ闇の繋がりを以て敵と相見える。
悪を以て悪を征する構図は本書でもまた引き継がれたのだ。

原題の“A Walk Among The Tombstones”とは即ちマット達被害者である悪党たちの混成チームがこの2人組と対峙する場面を表したものである。それはさながら西部劇に見られるガンマンたちの決闘シーンを髣髴させる。
しかし決定的に違うのは西部劇では悪党たちが金や町の支配権を握りたいという比較的単純な動機を持っているのに対し、発表当時の20世紀ではもはや理解し難い動機を持った怪物となっていることだ。

快楽殺人主義者である彼らのうち、首謀者であるレイモンド・カランダーはマットがこんな殺人を繰り返すのかと云う問いに次のように答える。
彼らにとって女と云う物は己の欲望を満たす存在にすぎず、おもちゃなのだ。従って彼らの手中に陥った時はもはや人間ではなく、単なる肉塊に過ぎないのだ、と。

こんな考えを持つ人間が実際に存在する世の中はもはや狂ってしまっている。“狂気の90年代”とはクーンツが当時盛んに取り上げたテーマだったが、1992年に書かれた本書もまた同じだ。
『倒錯三部作』とは時代が書かせた作品群だったのだろう。

もはや一人で生きていくのが危険になった時代に見せた一筋の光明。それは長らく独り身だったマットがついにエレインと結婚する決意を打ち明けることだ。
離婚の後、連れ合いを求めることなどなかったマットの前に現れたジャン・キーンという女性と『八百万の死にざま』で別れて、しかもアルコールとも訣別して以来、マットの傍にいたのはエレイン・マーデルだった。彼女はシリーズの最初からいたが、マットの物語が進むにつれて疎遠になっていた。しかし『墓場への切符』でエレインに訪れた災禍を機にマットとエレインは急接近していく。
私はこれら3作が『倒錯三部作』と日本の書評家たちが勝手に名付けたことがどこか心に引っかかっていたが、それはこれらの3作品が性倒錯者による陰惨な犯罪にマットが立ち向かう作品群であり、個の戦いから仲間と巨悪との戦いへの変遷であると書いてきた。しかし本書を読んでからはエレインとの再会で始まり、エレインへのプロポーズで終わる三部作でもあるのだと気付かされた。

全ては地続きで繋がっている。このマット・スカダーシリーズを読むとその感慨が一層強くなる。
1作目から読んできたからこそ味わえるマットに訪れた安寧を我が事のように思いながらしばし余韻に浸りたい、そんな気分だ。

獣たちの墓―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック獣たちの墓 についてのレビュー
No.99: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

悪を裁くための悪は果たして悪なのか

前作『墓場への切符』に続く『倒錯三部作』の第2作。
前作ではマットとエレインがかつて刑務所に送り込んでいた殺人鬼との決闘を描いたが、本書ではスナッフ・フィルム、即ち殺人の一部始終を映したポルノフィルムが扱われている。その内容も過激で思わず怖気を震ってしまった。

それまでしっとりと町の片隅で生きる人々に起こった警察にとっても捜査する価値のない社会の落伍者たちの死や人捜しを描いてきたシリーズが一転して殺人鬼と対決したり、殺人を映したフィルムとディープな世界に入ったりと動のシリーズに変わったのがこの『倒錯三部作』と云われる所以だ。

事件は2つ。
1つは妻を強盗によって殺されたリチャード・サーマンが計画的に妻を殺害したとしてその妻の兄から事件の真相を突き止めることを依頼される。

もう1つはAAの集会のメンバー、ウィル・ハーバマンから渡されたビデオテープに収録されていたスナッフ・フィルムの犯人を、そのリチャード・サーマンが主催したボクシングの試合で見かけたことから探し求める。

そしてこの2つの事件は繋がる。それもとてもおぞましい内容を伴って。

とにかくこのスナッフ・フィルムの犯人バーゲン・ステットナーとその妻オルガの造形が凄まじい。世の中にこれほどまで人格が捻じ曲がった夫婦がいるのかと思えるほど、理解し難い人物だ。

自分の欲望と快楽の追究のため、少年や娘をさらっては強姦して殺害し、普通の夫婦をスワッピングし、倒錯した性の世界へ誘い、それまでの価値観を、常識を失くさせていく。彼ら2人の取り込まれた者は背徳の世界にのめり込み、禁忌の興奮を得、エクスタシーを求め狂うようになるのだ。
こんな世界をブロックはマット・スカダーの叙情的で淡々とした筆致で描いてなお、読者の心の奥底に冷たい恐怖を植え付けていくのだから畏れ入る。

そしてとにもかくにもマット・スカダーの世界は実に円熟味が増してきている。『聖なる酒場の挽歌』で登場した殺し屋ミック・バルーはもはやマットの相棒であり、なくてはならない存在だ。
そして『八百万の死にざま』で登場したコールガールの元締めチャンスも本書で再登場し、ますます広がりを見せている。それは恰も我々読者がマット・スカダーであり、彼の世界の広がりを自身のそれと重ねあわせているかのように錯覚してしまうほど、鮮やかだ。

それを象徴するのが物語の中盤、13章のミックとマットとの会話だ。延々33ページに亘って繰り広げられる一夜の語り合いは実は物語には全く関係がないことばかりが2人の間で取り交わされる。
しかしこれはこの物語にとって必要であった語らいなのだ。
殺し屋と元警官という奇妙な関係がその親交をさらに深め合うために、そしてこのシリーズが更なる深みと奥行きを増していく。2人がそれまでの人生に経験した数々のエピソードは即ち2人それぞれの流儀を我々読者の心にじんわりと浸透させていく。
この章を読み終わった瞬間、我々の心にはミック・バルーという男とマット・スカダーという男が実存性をもって住み着いていることに気付かされる。
もはやこのシリーズを読むことは読者にとって行きつけの酒場に行くような、いつまで経っても変わらずにそこにあり続ける物語であり、人たちとなったのだ。そしてこの実に芳醇な会話が物語の終盤にマットの取る行動原理に密接に結びついてくるのだから驚かされる。

バーゲン・ステットナーという快楽殺人者を目の前にしながらも、警察が司法の手に委ねることのできないことを知ってとうとうマットは一線を超える。彼は法で裁かれない悪人を自らの手で裁くため、ミック・バルーと組み、この倒錯者と対峙する。

しかしなんとも息苦しい世の中になったものである。罪なき者を冤罪から守るために作られた法律が罪深き者を裁きから守るために壁となって立ちはだかる。

人々が安心して暮らしていけるように整備された法がいつしかそれぞれの正しいことを成すために障壁となっている、この社会の矛盾。
この認めざるを得ない暗鬱な現実が己の正義を貫こうとするマットに一線を超えさせた。法が悪を裁かないなら、逆に法を上手く逃れている者たちと組んで自分の法の執行者になろう、と。
この決断をマットは酒に溺れることなく、素面で下したところに驚愕がある。

ここで今までのシリーズを振り返ってみると、『聖なる酒場の挽歌』までのマットは依頼者の災いの種を頼まれるがままに探り、問題を解決してきた。時には己の正義に従って鉄槌を下すこともあったが、それはあくまで彼が関わってきた他者のためだ。またそれらは依頼者の過去に向き合い、忘れ去られようとしている事実を掘り起こして白日の下に曝す行為であった。それはまた物語に謎解きの妙味を与え、意外な犯人、意外な真相と云ったミステリ趣向も加味されていた。

そして前作『墓場への切符』では一転して彼の過去の亡霊が現代に甦って自身とエレインに立ち塞がり、それを打破するために立ち向かう物語だった。
つまり彼自身の事件であり、彼を取り巻く世界に現れた脅威との戦いの物語だった。従ってそれまでとは違い、敵は明確であり、物語はどのようにマットが決着を着けるのかが焦点となった。

そして本書はそれまでのシリーズの持ち味を合わせた内容となっている。過去に見たスナッフ・フィルムが今マットが依頼された事件と交錯し、意外な像を描く。そして彼の眼の前に明確な敵が現れ、マットはそれと対峙していく。

しかしこの敵はマット個人とはなんら関係がない。むしろ関わりを持たずに暮らすことも全く可能だった。しかしマットはたまたまAAの集会のメンバーから渡されたビデオテープで見てはならない社会の醜悪な病理を知ってしまい、その根源と出遭ってしまったことで、無視できなくなってしまった。そう、本書でマットが向き合った相手は複雑化する社会が生み出したサイコパスだったのだ。
この社会の敵に対してマットは最後、次のように吐露する。

世界を善人と悪人に分けたら、彼は悪人の部類にはいるだろう。しかし、そもそも世界を善と悪とに分けることが出来るかどうか―私も昔はできたよ。でも今はそれが昔よりずっと難しくなった

もはや法でさえ裁くことのできなくなった一見善人と見えるシリアル・キラーを目に前にしてマットはミック・バルーと云う悪人の手を借りる。もはや彼個人では解決できなく悪に対し、もう1つの悪を以て制裁を下すことにしたのだ。

自分の正義に従ってきたマットが本書で行き着いたのは社会で裁かれない悪を悪で以て征することだった。そしてマットは決して傍観者に留まらず、自らもその渦中に飛び込み、そして自身も手を血に染める。それは自身の正義の為に友人のミックだけを血に塗れさせないために彼が選んだ行為だった。

このようにマット・スカダーシリーズは作を追うごとに新たなる試みと進化と深化を遂げていく。
『八百万の死にざま』でアル中探偵マットが酒を止めるという大きな変化に到達し、その後マットの古き良き時代の物語『聖なる酒場の挽歌』を経て、シリアル・キラーとの対決と云う新たなる進化を遂げた『墓場への切符』をさらに本書で越えてみせたブロック。
1作ごとに新たなる高みに向かうこのシリーズが次にどこに向かうのか、その答えが本書の最後の1行にある。これこそ作者自身にも解らないほどの物語を紡いでしまった感慨の表れだろう。
しかし幸いなことに我々はこの後もなおシリーズが進化していくのを知っている。私はローレンス・ブロックと云う作家の凄みを目の当たりにして歓喜に震える自分を感じている。
さて三部作の最終作『獣たちの墓』でどんな物語を見せてくれるのだろうか。とても愉しみでたまらない。


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倒錯の舞踏 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック倒錯の舞踏 についてのレビュー
No.98:
(10pt)

このタイトルこそ優れた短編の秘訣

長編のみならず短編の名手でもあるローレンス・ブロックの第2短編集。

まず奇妙な味わいの1編「雲を消した少年」で幕を開ける。
虐待を強いられた子供は何か特別な力を得るとそれを精神の背骨とせず、今までの虐待から脱却するための力として行使しようとする傾向にあるようだ。
屑のような存在から何か特別な存在になったと錯覚し、それを誰かに試してみようと思う。今まで特に心入れることなく観ていた周囲の風景や人々が突然色づき始め、彼にとって意味を持ってくる。
しかしそれは必ずしもいい意味ではない。彼にとって生まれながらに持って与えられた底辺の生活から脱するための餌食に見えてくるのだ。
果たしてジェレミーの得た雲を消す力は他に応用できたのか?不穏な空気をまとって物語は閉じられる。

「狂気の行方」はおかしな振る舞いで精神病院に入れられた男の話。

「危険な稼業」は実にブロックらしい短編だ。
もしかしてこれはブロック自身の物語なのか?

「処女とコニャック」はある医者が主人公に語る奇妙な話。
なんとも人を食ったようなお話だ。ライバルとも云える2人の取引の間を取り持つ男が見事な知恵で上手く出し抜くという話は古来昔話やお伽噺などでよくあるが、まさか処女とコニャックがその対象とは実にブロックらしい。

もはやブロックの短編には欠かせない存在となった悪徳弁護士マーティン・エレイングラフが登場するのは「経験」。
依頼人の無実を晴らす為ならば手段を選ばない。悪徳弁護士エレイングラフのまさに典型とも云うべき作品。しかし単なる典型に陥らず、作者は意外なオチを用意している。

旅行に帰ってきたら空巣に入られて我が家が荒らされていた。「週末の客」はそんなシチュエーションで始まる。
いくつか貴重品も無くなっていたがいつまでもくよくよしてはいられない、とばかりに家の主人エディは早速同僚と仕事に出かける。被害を少しでも取り返すために…と、泥棒が自宅に盗みに入られるという間抜けなシチュエーションを扱った物。

「それもまた立派な強請」もまた奇妙な味わいの物語だ。
デイヴィッドが行ったのは困っているかつての恋人を助ける騎士道精神からだろうか?
彼の中で何かが変わったことは確かだ。読者はデイヴィッドの姿に一種の願望を見出すのかもしれない。

さらに輪をかけて奇妙なのは「人生の折り返し点」だ。
ロイスは狂人なのか?
とにもかくにもある日自分の年齢に気付いて愕然とする瞬間と云うのは誰しもあるのだろう。その時今までの人生で自分は何かを成し得たのかと考える時が訪れるのかもしれない。そしてごく普通の生活を送り、そしてこの後の人生もまた同じことの繰り返しだと気付いた時、人は何を思い、そして何を決意するのか?
「終わりなき日常」に嫌気が刺し、一念発起して自分が生きた証を遺そうとする者、もしくは今まで出来なかったことをやろうと決意する者。本作の主人公ロイスは明らかに後者だ。
ある一線を超えた者の悟りを描いているのだが、そんな重い話ではなく、作者自身の声とも呼べる地の文のツッコミがとにかく面白く、独特な作品となっている。

「マロリイ・クイーンの死」はブロックによる本格ミステリだ。
ブロックによる本格ミステリと書いたが、その実態はアメリカ推理文壇をモデルにしたパロディミステリ。
そこここにモデルとなった作家や評論家が登場し、彼らが容疑者となって一堂に会する。そして狙われるのは雑誌発行人で、彼女は確かに書店やエージェント、作家たちの恨みを買うようなことをその権限で行っている。そして衆人の前で殺害された発行人の事件のあまりにも意外な真相は本格ミステリそのものを皮肉っているかのようだ。
ブロック特有のブラックユーモアの詰まった1作だ。

「今日はそんな日」もまた本格ミステリ趣向の作品。
これはある意味物事の本質を云い当てた作品なのかもしれない。現実に起こる出来事の真相はほとんど明らかにされることはない。従ってミステリとははっきりとした答えの出ない現実の不満を解消するために書かれ、読まれている物だと解釈できる。

何とも云えない味わいを残すのが全編手記という形で書かれた「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」だ。
しかしどこか実に人間臭い。

表題作「バランスが肝心」は公認会計士の許に一通の封筒が届くことから幕を開ける。
う~ん、実にバランスの取れた作品だ。

「ホット・アイズ、コールド・アイズ」はそのスタイルと美貌故にいつも男の視線を感じてしまう女性の話だ。
昼の貌と夜の貌。その風貌故に人の視線を感じる女性と云うのはいることだろう。そういう女性はそんな視線を厭わしく思うのだろうか?
それは視線の主次第だろう。彼女は昼は貞淑な女性を務めているが夜はむしろ派手になり、男の視線を浴びることを快感に思うようになる。そしてさらに彼女には秘密があった。
ある意味ユーモアにも転じることが出来るプロットで、今までの流れからも感じる視線のオチとは他愛もないものだろうと思っていただけにこの結末は意外だった。女性のミステリアスな部分がさらに深まる短編だ。

風来坊の主人公がダブリンに住む作家の身の回りの世話をする「最期に笑みを」はまた一種変わったテイストだ。
街の長老と化したミステリ作家が簡単に事故として処理されそうになった事件の真実を解き明かそうと身の回りの世話をする青年を助手して捜査をする。しかしその様はいわゆる探偵小説のようなものではなく、あくまで淡々と街の人たちと会い、世間話をして様子を訊き、それを作家に報告するだけ。そして作家はその話を訊き、また指示を出す。それは死期が迫った老人の話を聞く青年との暖かい交流を思わせるのだが、次第に様相は変わり、最後はなんとも苦いものとなる。
センチメンタリズム溢れる好編だ。

一転して「風変わりな人質」では軽妙な誘拐劇が繰り広げられる。
現代っ子に掛かれば誘拐事件も一種のゲームのようになるのか。誘拐されたキャロルの立場は絶望的ながらも決してシリアスにならず、寧ろ状況を愉しんで犯人を出し抜くために知恵とそして女の武器を使って乗り越えようとする。なかなか痛快な1作だ。

続くは短編集でのシリーズキャラクターとなっている悪徳弁護士マーティン・エイレングラフの本書での2作目「エイレングラフの取り決め」では珍しく国の制度で斡旋される容疑者の弁護に携わる。
エイレングラフは有罪明白と思われる事件の裁判を未然に防ぐために容疑者の周囲の人々、事件の関係者と逢って真相をでっち上げ―作中では明白にでっち上げられたことは書かれてないが―真犯人の告白と自殺で事件を解決させ、高額な報酬を得るのが常套手段。本作もその例に漏れないが、まずは高額な報酬が望めない国の斡旋する貧しい容疑者の弁護を受けるところから異色。
しかしエイレングラフは動じない。彼はまた自分の信念に従って依頼人を無罪にするのだろう。

「カシャッ!」はシンプル故に最後の幕切れが強烈な作品。
最初の「ある意味では」というところから布石が始まっている。その被写体だけで戦慄の結末を悟らせるこの上手さはブロックしか書けない。

「逃げるが勝ち?」は浮気相手が大金を手にした暁に夫を殺害して海外へ高飛びしようと画策する話。しかしそこはブロック、巧みなどんでん返しが用意されているが、これは予想の範疇であったかな。

そして最後は本書中最も長い「バッグ・レディの死」。マット・スカダーが登場する中編だ。
これはマットじゃないと務まらない最上のセンチメンタリズムが横溢した作品だろう。
しばらく考えないと思い出せないくらい縁の薄い女性ルンペンからの突然の遺産相続という導入部のインパクトの強烈さ。そしてマットはそんな薄い繋がりが街の片隅で何者かに無残に何か所も刺され、死んだ事件の真相を、1,200ドルの遺産を依頼金として彼女が遺産を遺した他の相続人たちを渡り歩いて犯人捜しを行う。
こんなミステリの定型をある意味台無しにする結末なのだが、それを十分読者の腑に落ちさせるのはやはりマットの、自分に関わった人たちに対する誠実さゆえだろう。これはブロックの、しかもマット・スカダーシリーズでないと書けない事件であり、物語だ。


ブロックの第2短編集である本書はまたもや実にヴァラエティに富んだ内容となった。
まずファンタジーから始まるのが実に意外。そこから殺人、叙述トリック、詐欺、強請、狂気、本格ミステリのパロディ、リドルストーリー、小咄、サイコパス、探偵物、奇妙な味に更にはジャンル別不可能な物とよくもまあこれだけのアイデアが出るものだと読んでいる最中もそうだったが、今振り返って改めて感嘆する。

そしてここにはブロックしか書けない作品が揃っている。「処女とコニャック」、「それもまた立派な強請」、「人生の折り返し点」、「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」、「バランスが肝心」、「バッグ・レディの死」などがそうだ。

そんな極上の作品が並ぶ中で個人的ベストを敢えて挙げるとすると「人生の折り返し点」と「バッグ・レディの死」の2作になろうか。

「人生の折り返し点」は勝手に寿命を悟り、残りの半分の人生をもっと楽しく生きるために思い切ったことをやると決意した男の狂気を作者と思しき語り手の神の視点での語り口が物語に面白味を与えている。とにかくブロックにしか書けない作品の最たるものだ。

そして「バッグ・レディの死」はマット・スカダーが登場する1編。彼に遺産を遺したバッグ・レディ、つまり女性ルンペンの死を探る物語だが、最後に犯人が自らマットの許を訪れて自白して事件が解決する結末はある意味これはミステリの定型から脱した物語だろう。
しかしマットがあてどなく被害者である身寄りのない知的障害者の中年女性が遺産を遺した市井の人々を巡ることで誰もが彼女を思いだし、彼女を懐かしがり、死を悼むようになるがゆえにこの結末は実に納得のいく物になるのだ。そしてそれはうらびれた街角でボロ屑のようにめった刺しにされ、打ち捨てられるように亡くなった一人の女性に名を与え、警官でさえ捜査を辞めた事件を甦らせることで彼女の一人の人間にし、その死に尊厳を与えることになった。

また一種忘れがたいのは「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」。10数ページの小品でその内容は単なるバカ話にしか過ぎない話なのだが、こういう話こそ折に触れ繰り返し語られる不思議な力を持っているものだ。偶然の織り成すおかしみというものがこの作品にはある。

しかしなぜこうも印象に残る作品が多いのか。それは確かにアイデア自体も秀逸だが、ブロックの語り口がまた絶妙だからだろう。
例えば火曜日の朝に郵便物が届く事だけで、郵便物がその曜日の朝に届くこととはどういうことなのかを書く。こんな我々の日常にでも起こるようなことについてブロックは実に興味深く考察し、物語に投入し、読者は改めてそのおかしみに気づかされ、一気に物語にのめり込んでいくのだ。

さらにブロックは物語の結末を明白に書かず、読者の想像に委ねていることもまた強い余韻を残すのだろう。特にエイレングラフ物は決して彼が手を下したとは書いていないのに読者の心には彼が依頼人の無罪を勝ち取るならば殺人をも厭わない悪徳弁護士であると印象付けられている。
また「今日はそんな日」の何とも云えない曖昧な結末や「カシャッ!」の最後に一行の意味などは全てを語らないのに実に強烈な印象を残す。物語の幕引きのタイミングを心得ているのだね。

この第2短編集は第1短編集の『おかしなことを聞くね』よりも世間の話題を集めていないが、それに勝るとも劣らないほど素晴らしい内容だ。
限られた枚数でこれだけのヴァリエーションとアイデアに絶妙なオチをつける、まことに短編は「バランスが肝心」だ。


▼以下、ネタバレ感想
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ローレンス・ブロック傑作集〈2〉バランスが肝心 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロックバランスが肝心 についてのレビュー
No.97:
(10pt)

こうすれば未来はもっと明るくなる!

文庫版の本書の帯には「地球を温暖化から救う『秘策』がこの小説にある!」と謳われているが、これは決して誇張ではない。
陸海空に渡って環境破壊が叫ばれて久しい閉塞感と危機感で将来不安を抱えている人類に輝かしい未来の姿が本書には描かれている。

今回服部真澄氏がその切っ先鋭いペンのメスを入れるのは地球温暖化と農林水産省、国土交通省などの利権によって侵食された海洋汚染。このテーマはいつかは取り上げるだろうと思っていたので、とうとうやってくれたという感が強い。

そして数多ある国の愚かな政策によって壊滅的な打撃を受けたかつては豊穣だった海のうち、作者が注目したのはテレビでもセンセーショナルな閉門劇が繰り広げられた諫早の水門。この禍々しい水門をこじ開けてやろうではないかと云うのが物語のメインターゲットだ。

国の主導で閉ざされた水門をどうやってこじ開けるのか?それは世論を変えることだ。
服部氏が選んだ手法は国民的タレントの久保倉恭吾をホストにした環境番組を作ることで世間の目を温暖化が着々と進む現状とその根源を詳らかに明らかにし、その解決策を提示することだった。

国土の73%が山地でありながら、もはやCO2を削減できるほどの森林を増やせず、かといってバイオ燃料にするための穀物も耕せない国土の狭さがネックであった日本においてCO2削減と進んでいく海水汚染を一気に解決する手立てとして注目したのが菱。
海辺に自生する菱は海外ではウォーターチェスナット、すなわち「海の栗」と云われ、その実を食糧のみならずバイオ燃料も作ることが出来、しかも伐採しても焼酎も作ることが出来る事から確実に採算が取れ、しかも育成するのにほとんど手間がかからないまさに魔法の植物。

そしてそれをクローズアップさせ、国民や各自治体、さらには省庁をも目を向かせた上で、諫早湾を含む有明海で菱が自生していることを気付かせ、海水と淡水が混じり合う汽水域を作ればさらに菱の生育が活発になることから世論を水門開門へと傾けさせていく。しかも諫早湾で確認された菱こそは極秘裏に久保倉たちが種を蒔いた物であった。

愚かな政策で自然を破壊し、自身たちの利益のために無駄な開発を推し進める行政を懲らしめる展開のなんと痛快なことか!

菱のみならず、アオサ、ホンダワラと海藻類がもたらす恵みの恩恵はバイオ燃料や地球温暖化の緩和、死にゆく海の再生に留まらず、それらが一大産業として資源のない日本に新たな資源をもたらすこと、更にはそれらがバイオエタノールのみならず重油、ガソリン化も可能で、石油業界もまたその恩恵に与り、OPECで牛耳られ、価格を乱高下させている原油に頼らずとも自国でその原料が採れること、魚介類の産卵場となって漁業も活発化する事、などなどまさに夢のような未来が書かれているのだ。
久々に胸のすく気持ちのいい話を読んだ気がした。

ただいいこと尽くしで終わっていないのが本書の素晴らしい所だ。
新たなビジネスはまた新たなを生み出し、さらに予想外の生態系への弊害をも生み出すかもしれないと説く。すなわち人工的に増やした物はあくまで自然のセオリーに則ったものではないため、それによって害を被る生物や産業もあり得ることを警鐘として鳴らしている。

また海洋汚染問題に取り組んだ人々もその大きな流れによって人生をも変えられようとしている。

一タレントから始まった久保倉はそのカリスマ性と政治と地球温暖化問題への取り組みから都知事候補に推薦され、アドバイザーだった住之江は副知事の佐分利の講師役から恋人になり、一躍時の人となる。
佐分利も住之江の講義で海洋問題に詳しくなり、一副知事から海洋政策担当大臣へと昇格し、新しい日本の未来の舵取り役を担う。
時代の転換期は関わった人の人生をも変えていくのだ。

今までの服部作品では巨大企業や勢力によって牛耳られようとしている世界の構図をまざまざと見せつけられ、巨象、いや巨大な鯨のような存在にミジンコほどの個人が対抗するといった構成が多く、それらは痛快ではある物の、やはりどこか無力感が漂い、些細な抵抗といった感が否めなかった。

しかし本書はそのタイトルが示すように、希望の持てる再生の物語であるのが特徴だ。
高度経済成長期以来行われてきた海洋開発によってもはや死の海となりつつある日本の海。それは温暖化を助長させ、もはやどうにもならない所まで行きつつある。
しかし海はゆっくりながらも着実に再生していることが示され、干潟や浅瀬を取り戻すことで日本の海、とりわけ東京湾を昔の豊穣な海に戻そうという動き、そして暴力的なまでに生命線を遮断するが如く次々と閉ざされた諫早湾の水門をこじ開け、かつての有明海を取り戻そうとする物語展開が絶望から再生へと向かう希望の物語になり、読んでいてものすごく気持ちがいいのだ。

時代の大きな変換点を創り出した人々とそれを目の当たりにしている人々のなんと清々しくも眩しい事か。
複雑化したシステムと利権の絡み合いで雁字搦めになっている日本の政治と世界各国とのバランス、そんなしがらみばかりの現代の中で子供たちに安心な未来を授けるための秘策が本書には詳細につづられている。あらゆるケーススタディを行い、トラブルシューティングを重ねることで、夢物語ではない、地球温暖化とそれに伴う各産業界の弊害をも解決する方策がここにはあるのだ。

今までその綿密で緻密な取材力とそれを材料にこれから起こるであろう時代の出来事、産業界の動きなどを悲観的に描き、我々を心胆寒からしめた服部氏が、その作者の強みを存分に発揮し、「こういう風にすれば未来はもっと良くなる」と示す本書はこれまでの作風とは全くもって真逆のものであり、実に爽快な読後感を残してくれる。

題名の通り、未来は明るいのだと思わせる本書を、政治家、官僚の全てに読んでもらいたい。
我々は本書に描かれている日本を待っている。

ポジ・スパイラル (光文社文庫)
服部真澄ポジ・スパイラル についてのレビュー
No.96:
(10pt)

一級の工芸品のような作品集

稀代の目利きと名高い、通称“佛々堂先生”に纏わる古美術をテーマにした連作短編集。

まず「八百比丘尼」は椿画で一躍名の売れた関屋次郎という画家のエピソード。
彼の代表作“八十八椿図屏風”は彼の代表作であり、まだ在野の素人画家であった関屋次郎の許に訪れた画商によって頼まれて製作した作品だった。一躍その大作で世に知られるようになった関屋は今や京阪神の女将連中が訪れては作品をたくさん頼まれるほどの人気画家となっていたが、関屋はある絶望を抱えていた。
元々“八十八椿図屏風”は百椿図として頼まれたが依頼人からの知り合いの米寿のお祝いに送りたいという突然の変更により、八十八になった経緯があった。そのことに不満を覚えた関屋は当時内縁の妻であり、送られてきた椿を生けて絵のモデルに仕立て上げていた可津子と別れてしまった。そしてそれ以来彼は同じ椿を構図を変えて書いているだけなのだと告白する。そして最後に書かれた白寿という椿は依頼人だった佛々堂先生への当て付けの意味を込めて書いたのだと、品評会に来た美術雑誌の記者、木島直子に話すのだった。
その話をそのまま佛々堂先生に伝えると先生はある一計を案じる。

続く「雛辻占」はある離島の小さな和菓子屋で幕が開く。
とある神社の門前町で和菓子屋を営んでいた「もろたや」は数年前の火事で店を焼失し、漁師町のある離島で小さな店舗を開いては細々と商いを続けていた。
そんなある日古いワンボックス・カーで訪れた客が店の看板商品である蛤辻占3/1~4にかけて一日200袋収めてほしいと奇妙な依頼があった。既に老境に入った父が焼く蛤の最中は以前の店でも好評だったが、島に移ってからは火事のショックで気力も萎え、一日売れる分だけを焼くのみだったが、その父の後押しで引き受けることにした。
一方新進気鋭の陶芸家小布施千紗子は父親であり高名な陶芸家でもある康介の2世だと云われることに嫌気が差していた。その満ち溢れるエネルギーは創作意欲を沸々と滾らせるほどに十分なのにその作品はどこか父親の作風に似てしまうのだった。
そんな矢先友人で彫金をしている小松啓子から3/1に大阪のとある某所へ一緒に行かないかと誘われる。しかもきちんとした和装で来るようにと念を押されてしまった。
当日駅で待ち合わせをしていると、続々と和装の女性の姿が行き交っているのに千紗子は気付く。駅にいた一人の男に何があるのかと尋ねると佛々堂先生という風流人の家が3/1~4の間、一般開放され、がらくたフェアが開かれているのだという。これらはみなそこに向かう人波だった。


飛騨高山で料亭を営む「かみむら」は店を切り盛りしていた兄の死で急遽東京の会社を辞め、店を引き継ぐようになった上村寛之。3編目の「遠あかり」では佛々堂先生によってこの料亭が盛り返す。
店を引き継いだものの、右も左も解らぬ独身者である寛之は父と兄が遺した数々の工芸品や着物をどのように活用したらよいか解らない。そんな折、店を訪れた上客が寛之に着物の着付の指南を買って出る。
客の云われるままに和装をしたため、蔵に眠る飾り物の印籠を身につけられるうちに寛之は垢抜けた粋な料理人に早変わりする。その後も手紙や電話で客のアドバイスを訊いては店の調度品や自身の着こなしが洗練されるにつれ、口コミで客が増え、「かみむら」は危難を脱出することが出来た。
寛之は客にお礼をしたいと申し出るが、決してその客は受け取らず、強引に品物を送っても、それ以上の高価な物で還ってくるのだった。
そんなある日、客から着付けをした時の印籠を貸してほしいと依頼される。寛之はすぐさま送るが、それはまたすぐに送り返されるのだった。年に一回、そんなことが幾年か続いた後、今度は寛之に印籠をつけてこちらに来てほしいと云われるのだった。

最後を飾る「寝釈迦」は実に気持ちのいい作品だ。
和田家は信州の旧家角筈家が所有する山の手入れを任されている山守りで民宿も経営している。和田克明は脱サラをして親の手伝いをするうちにこの山守りという仕事にのめり込んでいった。
そんなある時、角筈家の当主が土地の一部を手放して家を美術館に改装するという噂が立っており、その中にどうやら謂れのある山が入っているというのだった。その山は克明の父が1人で手入れをしている山だったが、昔松茸が取れると云われて買わされた不毛の土地だった。しかしその噂が立ってから克明の父は腰が悪いと云って急に母親と湯治に出たまま、なかなか帰ってこなかった。
そしてなぜか佛々堂先生がこの土地に乗り込んできた。どうやら角筈家が美術館に改装するのに一肌脱ぎに来たらしいのだが…。


服部真澄氏と云えば国際謀略小説やコン・ゲーム小説、そしてビジネスの世界に焦点を当てたエンタテインメント小説のジャンヌ・ダルク的存在だが、古美術や骨董品の目利きとして名高い通称“佛々堂先生”が登場する連作短編集はそれまでの彼女の作風を180°覆す、日本情緒溢れる古式ゆかしい物語だ。

佛々堂の由来は仏のような人だから佛の字をあてたとも、いつもぶつぶつと文句を云っているからと2つの説があり、どちらが正しいかは先生と関わった人によって違うだろう。

扱われる題材は日本画、和菓子、焼き物、和食に山守りと日本に昔から伝わる伝統の物や仕事。そしてそれらが抱える問題は先細りする産業であることだ。
いい腕やセンスを持っているのにそれに気付かない製作者がいる、才能はあるのに一皮剥け切れない芸術家がいる、止むを得ない事情で店をたたまざるを得ない名店がある、
佛々堂先生はその本質を見極める目を持って、彼ら自身ではどうしようもできない見えない壁を突き抜けるお手伝いをする。
ある意味再生の物語であると云えるだろう。

そして話中に挟まれる名品の数々に目が奪われる。殊更に贅を尽くしているわけでもないのに、手に入れるのさえ難しいとされる名品が実にさりげなく佛々堂の広大な自宅には配置されており、その筋の目を持った人でないと気付かないほどの自然さだ。
しかもきちんとそれらが使われていることがこの佛々堂先生が粋人である証拠だ。元々使われることを目的に生み出された工芸品や陶芸品が、いつの間にか目の保養とばかりに飾られ、触るのさえ憚れるようになり、それを鼻高々で己の権力の具現化した物のようにしたり顔で来客に見せびらかすような厭味ったらしいことは一切しない。道具は使われることが本望であり、素晴らしいものは使われてこそ活きることを知っている物事の本質を見極めた人物なのだ。

そして各話に挟まれる薀蓄がこれまた面白い。椿が品種改良しやすく、1万を超える品種があるとは初めて知ったし、木の実を指で潰して残った香りと共に盃の日本酒を飲むという飲み方のなんと粋なことか。

しかしこれほどまで作風がガラリと変わるものだろうか?
作者名を知らずに読むと、例えば泡坂妻夫氏あたりの作品だと思う読者がいることだろう。

元々作者には海外を舞台にした作品が多いため、作品にはカタカナが多用されているが、本書ではそれらを封印するかの如く、漢字とひらがなで表記することで情緒やわびさびと云った粋な世界を感じさせる。

泡坂作品を例に挙げたのは2編目の三角籤に関するトリックが披露されたマジシャンでもあった泡坂氏の作風そのものに感じたからだ。

ただ違う点があるとすれば、泡坂氏が江戸の粋を描いたならば、服部氏は上方の粋を描いたところだ。

この違いは例えば泡坂氏の描く登場人物はどこか衰退しつつある職人の道を愚直なまでに突き通し、それが女性に対する思いを正直に伝えらない不器用さに繋がっているような、いわば熱き思いを胸に秘めた人物が特徴的に語られるように思えるが、本書の佛々堂先生は古びれたワンボックス・カーに道具や資材を積み込んで、とにかく「これは!」と思った物を手に入れ、または廃れさせぬよう自ら動いて後押しする、能動的で行動的なところが特徴的だ。最後の1編では自分が守ろうとしている場所に立ち入ろうとする悪徳鑑定人を一喝するほどの気負いをみせるほどだ。

そして作者が本書のような作品を綴ったのには恐らく佛々堂先生が溢す言葉にもあるように、昔なら常識とされたことが世代間の伝達が途切れてしまったために、物事を知らない人が多すぎることに危機感を抱いたからだろう。私も実は年配の方が常識と思っていることを知らないことに気付かされ、失笑を買うことがある。日本人が古来、その知恵によって生み出した機能美を21世紀に残すため、伝えるためにこの作品を著したと私は思ってしまうのである。

服部作品では約260ページと最も分量が少ないのに、実に濃厚で深みを感じさせる短編集。そして今まで服部作品で弱みとされていたキャラクターの薄さが本書の佛々堂先生で一気に払拭されてしまった。

これはまさに掘り出し物の逸品だ。
作家服部真澄氏が扱う主題からストーリー、プロットを丹精込めて練り込んだそれこそ一級の工芸品のような物語の数々である。

正直に告白しよう。
私は本書が服部作品の中で一番好きな作品である。既に手元にある続編を読むのが非常に愉しみだ。


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清談 佛々堂先生 (講談社文庫)
服部真澄清談 佛々堂先生 についてのレビュー
No.95: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

親にとって子はいつまでも子

人にとって家族とは何なのだろうか?
そして人にとって死に際に何が胸に去来し、そして残された者たちはその人にしてやれる最良の事とは一体何なのだろうか?

『容疑者xの献身』で直木賞を受賞し、ミステリ界のみならず出版界全体の話題になった後の第1作目。それはもう1つのシリーズ、加賀刑事物の本書だった。
そんな期待値の高い中で発表された作品はそれに十分応えた力作だ。

まず驚くのは最初に出てくるのは加賀恭一郎ではなく、父親の隆正であり、しかも病床にいて明日をも知れぬ命だという状況。しかも彼の世話をしているの甥の松宮という警察官。

そして場面は変わり、いきなり登場人物は照明器具メーカーに勤めるサラリーマンの前原昭夫のある1日について語られ始める。
家族を省みず、なんとなく結婚した夫婦で一人息子と実家をリフォームした家に帰る日々。中学生の息子とは会話もなく、しかも痴呆症を患った母親の世話で妻はストレスを溜めている。

そんなどこにでもある、会話や家庭の温かみのない冷え切った家庭で、もはや父親は給料を運んでくるだけの役割でしかない一家に訪れる突然の災厄。
それは息子が幼い児を家で殺害したという事件だった。

そしてその後の夫婦の会話、息子の実に自分勝手な言い分が繰り広げれ、読み進めば進むだけ、この一家に腹を立て、あまりの自分勝手さ、特に妻の八重子の言動の独善さに、救いようのなさに情けなくなってくる。

読む最中、様々な思いが頭を駆け巡る。
まず本書が中学生による幼女殺害事件、即ち未成年による犯行だということだ。東野圭吾氏は未成年によって我が娘を蹂躙された上、殺害された父親の側からの復讐を描いた『さまよう刃』という何とも遣る瀬無い作品があるが、本書では逆に殺人を犯した未成年の息子をどうにか捜査の手から守ろうと奮闘する普通の家庭を描いている。
但し東野氏は今回を同情の余地のある犯行とせず、犯罪者の直巳をあくまでどうしようもない身勝手な社会不適合者とし、さらにその愚息を守ろうとする母八重子も実に身勝手で自己中心的な人物として描き、読者に感情移入をさせない。

更に犯行隠蔽のために父昭夫が思いついたあるトリックは先の『容疑者xの献身』のそれの変奏曲と云える。

もしかしたら本書は『容疑者xの献身』の批判的な意見に対しての作者なりのアンサーノヴェルなのかもしれない。

慎ましいながらもひとかどの幸せな家庭を築き、息子を立派に就職させ、家庭も持たせ、孫も生まれ、もう一人の娘も無事結婚し、奮闘しながら立派に生活している。
そんなごくごく普通の人生を歩んできた老婆が認知症の夫を介護し、痩せ衰えながらもその最期まで看取ることが出来、その後は息子の家庭に引き取られることになったが、そこで直面した息子夫婦の家庭は何とも冷え切り、温かみのないことか。
そんな環境で人生の最期まで過ごさざるを得なくなった老婆がよすがとしたのは幸せだったころの想い出とその品。
そしてもはや人として大事な物さえ失いつつある息子夫婦のまさかの行為。
老婆の想いはいかほどのことだったのだろう。
しかし善悪や好き嫌いで単純に割り切れない、長年連れ添った家族の絆という人生の蓄積が人の心にもたらす、当人しか解りえない深い愛情に似た感情を、東野氏は加賀の父親との関係を絡ませて見事に描き切った。
今までのシリーズで断片的に加賀と父親隆正の不和は加賀の若い頃にあった父の母親に対する仕打ちが原因だということは語られていたが、本書では松宮という正隆の甥でしかも同じ警察官の目を通じてその根が思いの外、深いように知らされる。しかし最後の最後で上に書いた当人同士しか解りえない絆や理解を披露してくれたことで、この陰鬱な物語が実に心が晴れ渡るような読後感をもたらしてくれた。

こんなたった300ページの分量で、しかもどこにでもありそうな事件からどうしてこんなに深くて清々しい物語が紡ぎ出せるのか。
東野圭吾氏はまだまだ止まらない。


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赤い指 (講談社文庫)
東野圭吾赤い指 についてのレビュー
No.94: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

作者の人生を変えた1作

人生を変えた1冊とは通常読み手が出逢った本の事を指すが、東野圭吾氏は本書を著すことで長年逃していた直木賞に輝き、一躍ベストセラー作家に躍り出て人生を変えた。
そしてまたそれまで東野作品の読者ではなかった私が彼の作品を読むことを決めたのもこの作品だった。

その作品が探偵ガリレオこと湯川学が主人公を務めるシリーズ初の長編作品だったのはその後のこのシリーズの在り方を変えたのかもしれない。

短編集で始まった探偵ガリレオシリーズは人智を超える超自然現象としか思えない事件を現代科学の知識と理論で湯川学が解き明かすというのがそれまでの作品の趣向だったが、初の長編では湯川に匹敵する天才をぶつけ、一騎打ちの構図を見せる。
天才科学者と天才数学者の戦い。論理的思考を駆使する男とこの世の理を知る男。最強の矛と最強の盾の戦いはどちらに軍配が上がるのか。

しかしこの戦いは非常に哀しい。
それは湯川が唯一天才と認めた石神と再会した時の語らいが実に濃密であるからだ。このシーンがあるからこそ2人の先にある運命の悲劇を一層引き立てる。

天才数学者の石神は事件の捜査過程を予測し、警察の捜査の常に先を行く。それはさながら高度な詰将棋を見ているかのようだ。
しかしそんな鉄壁の論理の牙城を崩すのは意外にも当事者の情。計算式では表せない感情の縺れだった。この件については後に述べよう。

しかしなんという、なんという献身だ。
正直今まで愛する人のために自らを捧げる献身の物語は東野作品にはあった。『パラレルワールド・ラブストーリー』に『白夜行』、これらを読んだ時もなんという献身なのかと思った。
そしてそんな献身の物語を紡ぎながらも敢えて「献身」の名をタイトルに冠したこの作品の献身とはいかなるものかと思ったが、そのすさまじさに絶句してしまった。

論理を至上のものとした2人が行き着くのはなんと論理を超越した感情だったというのは何とも皮肉だ。
いやだからこそこの物語はそれまでの東野作品が適えられなかった直木賞受賞と大ブレイクをもたらしたのか。

『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄した後に発表された探偵ガリレオシリーズは最先端の現代科学の知識で犯罪を論理的に解き明かすという紛れもない本格ミステリだった。
つまり自身で本格ミステリに対する高いハードルを設定したのが『名探偵の掟』であり、そのハードルを超える敢えて挑んだ本格ミステリが探偵ガリレオシリーズだった。

そして東野ミステリのもう1つの軸が『人の心こそが最大のミステリ』とする流れを汲む諸作品だ。トリックやロジックではなく、心を持つ人だからこそ起こり得る運命の悪戯や人生の機微を物語のスパイスとして紡ぐ『宿命』から連なる一連の作品群。

これら東野ミステリの2つの軸が融合した結晶が本書になるのだろう。つまり本書はそれまでの東野ミステリのある意味集大成というべき作品と云えよう。

ただ東野氏が凄いのはブレイクを果たした本書が作家人生の頂点ではなく、それ以降も続々と面白い作品を放っていることだ。本書で初の『このミス』1位を獲得し、そのたった4年後にもう1つのシリーズ加賀恭一郎作品『新参者』で1位を再び獲っているのだから畏れ入る。

そもそもは素行の悪い元夫から逃れるために起こした殺人事件が端を発した哀しい事件。事件そのものは靖子が富樫と云う男と結婚したことから始まったのかもしれない。
東野氏は一度誤った人生は容易に取り戻せないと諸作品で語るが、本書もその1つである。

しかしこれほど哀しい物語に対して本書が本格ミステリか否かという一大論争が起きたことが実に馬鹿馬鹿しい。
本書は推理小説なのだ。それ以下でも以上でもないではないか。
暇人だけがジャンル分けに勤しんでいる。もっとこの作品を超えるような作品を切磋琢磨して世のミステリ作家は生み出してほしいものだ。それが作家としての本分だろう。


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容疑者Xの献身 (文春文庫)
東野圭吾容疑者Xの献身 についてのレビュー
No.93: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

心くすぐられ、そして満たされ

2000年代のミステリシーンを代表する作家となった伊坂幸太郎の、奇想天外なデビュー作。
しかし奇想天外でありながらこの上なく爽やかで、そしてヤバい。

数あるミステリを読んできたが、人語を話し、未来を予測する能力を持つ案山子が殺される事件を扱ったミステリはまさに前代未聞だ。

それを筆頭に嘘しか云わない画家、園山や島の秩序を守るために殺人が許されている桜と云う男。天気を当てる猫に、300キロを超える大女など不思議の国に迷い込んだかの如き世界が繰り広げられる。

こういう風に書くとディキンソンのような過剰に異様な世界ではなく、牧歌的で寓話的なところが特徴的だ。案山子が優午と名付けられ、少し先の未来を予見できることが普通の日常として受け入れられるような普通に満ちた世界が荻島にはある。

この荻島と云う不思議の国の成立ちまでも伊坂氏は細やかに設定している。
150年もの間鎖国状態であり、独自の秩序で生活されている荻島という孤島。しかし鎖国状態でありながら、腕時計や洋服、車も走っており、どこか胡散臭さを感じる、テレビのセットのような作り物めいた世界を感じさせるこの島はその由来を伊達正宗の時代にヨーロッパへ渡った支倉常長によって隠密裏にヨーロッパと交易を成すために開かれたとされている。

さらに言葉をしゃべる優午の成立ちさえも時代小説の体裁で語られるのだ。それはお伽噺のようなエピソードであるが、その物語の強さを感じるお話には妙な求心力がある。

そんなゆっくりとした時間が流れる荻島でも犯罪はある。婦女強姦から弟殺しと云った残酷なエピソードも挿入される。
それはどこか「桜の木の下には死体が眠っている」という言葉のような、至極平和な生活に潜む闇のように。それら犯罪者に引導を渡すのは警察ではなく、桜と云う名の殺し屋だ。人を殺すことを認められたその男は寧ろ日常は異常な世界と共存して成り立っているのだと我々に知らしめているようにも取れる。日常生活を営む中で、我々が食む牛肉や豚肉を生産するために、知らない所で屠殺が行われているという惨たらしい事実のように思える。

対象的に極悪非道的な恐ろしさを見せるのは伊藤が逃げた仙台で元同級生で警官の城山のパートだ。
警官でありながらも人間の偽善性を試すように一般人の日常を暇つぶしに蹂躙する非情さを持っている。しかも感情で心を乱すことはなく、冷静かつ冷徹。城山によって囚われの身となった伊藤の元彼女静香の言葉を借りれば、まさに無敵の存在だ。

そして物語の終盤、それまで伊藤の目を通して我々読者に島民たちの奇妙な振る舞いや行為がパズルのパーツが収まるかのようにカチカチとある一点に収束していく様はまさに壮観。

しかしなんという世界観なのだろう、この作品は。
こののどかな営みの中で起こる人の死は決して少なくないのにも関わらず、それをあるがままに受け入れ、日常が続いていく。それは一種、天藤真氏の作風にも似ている。
そしてただ単純に穏やかで平和な世界ばかりが描かれるわけではなく、きちんと傷ましい事件や残酷な所業も挿まれる。それはこの世は決して綺麗事だけでは成り立っていないのだと我々に諭すかのように。

とにもかくにも島の住民日比野によって紹介される一種変わった島民たちのエピソードや過去、そして時折挟まれる伊藤の祖母の語りなどは実に示唆に富んでおり、日常生活で出来た心のささくれのどこかに引っかかってなかなか離れない。
それは教訓と呼ぶほどには説教じみてはないのだが、普通に過ごしていて忘れがちな約束事を思い出させてくれるかのような但し書きのように気付かせてくれるのだ。

名セリフに溢れた本書の中で私が最も印象に残ったのは優午が島唯一の郵便局員、草薙を評した言葉だ。
「彼は花と同じで、悪気がありません」
こんな文章に出逢うだけで私は何だか幸せな気持ちになってしまう。

物語の中で唯一暗い光を放つ存在、城山も静香を人質にして荻島に渡る。この物語の中で最もスリリングなのがこの城山のパートなのだが、実に爽快な始末の付け方を伊坂氏はしてくれる。

そして物語は唯一残った謎、「この島に足りない物」の謎を解いて実に気持ち良く終えるのだ。

ああ、まだ私の胸に留まる伊坂氏が残した歓喜を挙げたくなる嬉しさにも似た何かが心くすぐって堪らない。
なんと優しさに満ちた物語か。
なんと喜びに満ちた物語か。
こんな物語を紡ぐ作家が現れたことを素直に寿ぎたい。


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オーデュボンの祈り (新潮文庫)
伊坂幸太郎オーデュボンの祈り についてのレビュー