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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数142件
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久々のマクリーン。海外赴任先の書棚に眠っているこの作品を手に取ることができたのは実に奇遇と云えよう。
イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。 知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。 現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。 しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。 彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。 これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。 さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。 そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。 まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。 先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』でもそうだったが、決して司法の側の人間がクリーンではなく、麻薬カルテルに買収された一味であるのはお約束のようだ。しかし同じ題材を扱いながら作品に籠る熱が全く違う。 『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。 しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。 本書のようなヒーロー小説は主人公に共感できるか否かで読者の感想は全く異なってくる。 私はポール・シャーマンというこの国際刑事警察の捜査官は実に平板で深みを感じず、好きになれなかった。とても『女王陛下のユリシーズ号』など初期の作品で濃厚な人物像を組み上げた同じ作者とは思えないほどの薄っぺらさだ。 作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。 私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ、Vシリーズとシリーズ作品を書いてきた森氏による初のノンシリーズ作品。
本州と四国を結ぶ明石海峡大橋をモデルしたと思われるA海峡大橋にある吊り橋のワイヤーを固定する地面に打ち付けられた巨大なコンクリート構造物アンカレイジ内に設えた極秘の居住設備≪バルブ≫で起きた連続殺人事件を扱ったミステリ。 閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。 しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。 そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。 正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。 トリック自体はなかなか興味深いが問題はなぜこんなまどろっこしいことをしたのか? これに対しての解はまたも予想を超える。 殺人の動機について従来森ミステリは明らかにされない。それは殺すには理由があり、それは殺人者以外には理解しえぬことだというのが作者のスタンスだからだ。 本書もその例に漏れない。このあたりの人の命を単なるモノとしか見ない森ミステリの殺人者の傾向にいつも嫌気が差す。文学的な風合いを装った単なるエゴイストの詭弁に過ぎないではないだろうか。 さらに短文による改行の多い文章が途中続くが、それが逆に物語に大雑把な印象を与えている。 本書に登場する勅使河原潤も若き天才の有名人であるという設定であるが、納得のいかなさを天才であるが故の常人の理解を超えた動機と片付けられると少々、いや非常に雑な感じを受ける。 つまりそれでは実に幼稚な動機でも構わないとなってしまうではないだろうか。 本書はそれまでのシリーズ作品にもまして学術的記述が多く、特に森氏の専門分野である土木・建築関係の専門知識が多く盛り込まれているのが特徴的だ。私も一介の土木技術者であるので既知の物もあれば、巨大構造物特有の知識なども披露されており、非常に興味深く読んだ。 大きな橋を造ることは日本の土木技術の挑戦の証であり、更なる困難なプロジェクトを乗り越えるための礎になるのだ。そうやって日本の土木技術は発展したきたことを忘れていやしないだろうか。 もちろん、これはただのミステリであり、ある種技術者ならば一度は描く願望を描いた作品だということは恐らく作者の根底に流れていることは理解はできるが、やはりそれでも納得のいかない自分がここにいる。 全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。 他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャレンジャー教授シリーズである本書ではドイル自身も晩年傾倒した心霊主義を前面にテーマにした作品である。
自分の見た物しか信じなく、持論を疑おうとする人物を徹底的なまでにこき下ろすチャレンジャー教授はもちろん本書では心霊術を疑っており、頭ごなしに非難する。心霊術を肯定するドイルが真逆の人物を主人公に据えて心霊術をテーマにしたことが実に興味深い。 また本書では1920年前後の心霊術に対するイギリスの冷たい反応と司法による魔女狩りさながらの弾圧裁判の様子が描かれているのも当時の世相を反映した貴重な資料となっている。 新聞記者マローンの目を通して本書では恐らく当時方々で行われた心霊術の会合やエクトプラズムの実体化の有様が語られていく。それらは心霊の存在とそれを視認できる霊媒師の特殊な能力が実在したかのように迫真性をもって描写させられる。 シャーロック・ホームズシリーズにおいては不可解事を論理的な解明がなされるのに対し、このチャレンジャー教授シリーズでは超常現象はそのまま超常現象として語られる。 そしてこのシリーズの進行役である新聞記者エドワード・マローンがチャレンジャー教授に霊媒師に引き合わせ、霊の存在を信じさせようと決心してからが実に長い。142ページでマローンが決心した後、ようやくチャレンジャー教授が重い腰を挙げるのが264ページと、実に120ページが費やされる。 この幕間に何が書かれているかと云えば、マローンが重ねる交霊会の模様と心霊術信者たちが当時被った警察による不当な逮捕の数々である。キリスト教やカトリックと云った神の存在を信じる一方でイギリス人は霊の存在を否定し、詐欺だとして魔女狩りめいた弾圧を行うのが矛盾しているのだが、見えない何かを信じる事、また産業革命以来、科学の最先端を行く時代において、いかがわしい物を信じることが異端であり、また潜在的に恐ろしく思っていたのだろう。 さてこの120ページ強の話を経てようやくチャレンジャー教授のお出ましとなるのだが、実は彼の登場こそがこの物語のクライマックスであったのだと気付かされる。 正直物語としてはこれだけの話なのだが、ドイル作品の中では文庫本にして約340ページとかなりの分量を誇る。 これはドイルがいかに世間一般に交霊会を信じさせることに腐心したかを思い知らされる。つまり本書はドイルにとって心霊術布教の書であるのだ。 そして頑なに心霊術を信じず、撥ね退けてきたチャレンジャー教授こそ作者ドイル自身を投影させたキャラクターだったと気付かされる。つまりチャレンジャー教授のようにドイルもまたなかなか霊の存在を信じようとしなかったのだろうか。 このチャレンジャー教授シリーズは超常現象を題材にしたSF古典とジャンル分けされている。 しかしホームズシリーズと違って、謎が論理的に解明されるカタルシスに欠けている。ただ頑迷な教授が霊の存在を信じるに当たり、娘のイーニッドが霊媒になるという展開は予想外であり、また心変わりするのに十分説得力のある設定だった。 しかしながら―シリーズ第1作目が未読なので正しい理解とは云えないだろうが―このシリーズは物語の構成として起承転結の結が実にすっきりせずに終えてしまうのが実に残念だった。 ただ題材は面白いので、誰かが設定を借りて新しいチャレンジャー教授物語を映像化してくれることを願いたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーンも後期になると戦争物やスパイ物といった冒険小説の王道から離れ、F1レースの世界やサーカス団員を主役にした奇抜な潜入行といった様々なヴァリエーションの物語設定を拡げているが、本書は王道のハリウッドアクション映画さながらの、テロリストによる政府高官を人質にした緊迫の籠城劇である。
まず大統領、アラブ産油国王らを乗せた専用バスがターゲットの金門橋に辿り着くまでのゼロ時間に向けてテロリストのピーター・ブランソン側の準備の模様が描かれる。 そしてゼロ時間が訪れた時の騒動の一部始終、息詰まるテロリストたちと人質連中、救出対策本部との攻防戦とセオリー通りに物語は進む。 この実に解りやすさがデビュー作の『女王陛下のユリシーズ号』を髣髴とさせる。変に仄めかすような描写やサプライズのために状況説明を省いた書き方をして、妙にやきもきさせるよりも、ストレートに物語が運ぶ方が実に心地良い。 金門橋で陣取ったテロリスト、ブランソンは政府に5億ドルもの身代金を要求する。大統領を筆頭に国賓として招かれていたアラブ産油国々王らVIPの身代金に加え、爆弾を仕掛けられた金門橋の身代金が上乗せされていた。 爆弾は上空を飛行するヘリに乗ったテロリストの1人がリモコンを持っていつでも爆破できるようになっている。 この一分の隙のない計画の中、唯一の誤算は人質の中にFBIエージェントで主人公のポール・リブソンがいたことだった、とまるで一級のアクション映画の煽り文句のような状況設定でありながら、物語が進むにつれて色んな綻びが見えてくる。 特にブランソンの片腕ファン・エッセンはマクリーン作品定番の背の低い、がっしりとした身体つきの、いわば汚れ役を担うキャラクターだと思われたので、リブソンにとって最後まで大敵となると思っていただけに、簡単に拉致され、しかもブランソンの余裕を挫くために裏切者として扱われるに至っては、読んでいるこちらも複雑な思いがした。 つまりヒーロー役のリブソンとテロリスト役のブランソン一味の力の差が歴然としているのだ。 これほど苦難に陥らない主人公も珍しく、血腥くない籠城劇も珍しい。さらに上でも述べたファン・エッセンを筆頭に、囚われの身となったアラブ産油国々王や王子たちも物語に大きく影響を与えることもなく、その他大勢の1人に過ぎなくなっており、せっかくのキャラクターを活かし切れていない。 またマクリーン作品の最たる特徴である専門知識も鳴りを潜め、金門橋に関しての薀蓄もたった2ページが費やされているだけである。最盛期のマクリーンならば金門橋を取り巻く周辺特有の霧の濃さに関する地形的な特徴などを延々と語り、また濃霧に縁のない人々を唸らせる思いも寄らない弊害なども盛り込まれ、サスペンス性をどんどん重ねていったことだろう。 舞台は一流でありながら、進行は牧歌的という実にアンバランスな内容を読むに、やはり往年のヴァイタリティは枯れてしまったマクリーンの作家としての衰えを激しく感じてしまった1作だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーンも後期になるとレーサーなど色々なヴァリエーションが見られるが、なんと本作ではサーカスの世界。原題も“Circus”とそのものズバリ。
しかし舞台はサーカスではない。 その題名は今回の主人公ブルーノ・ワイルダーマンがサーカス随一の曲芸師であり、メンタリストであることに由来する。彼は難攻不落の研究所への進入と重要機密書類奪取をCIAから依頼されるのだ。それは一流の曲芸師である彼でなければ達成しえないほど鉄壁の防御網によって守られた研究所だからだ。 24時間監視状態で窓には鉄棒が嵌められた上に盗難報知器が取り付けられている。2つしかない入口はタイムロックが仕掛けられている。さらにビルの屋上には四方に2000ボルトの電圧が流れるフェンスが巡らされ、しかも四隅には監視塔が備えられ、警備兵が機関銃を持ち、サーチライト、警報サイレンまでもある。さらにビルの中庭には獰猛なドーベルマンが放し飼いになっている。 この映画“ミッション:インポッシブル”を髣髴とさせる不可能状況が逆に曲芸師ブルーノの心に火を着ける。 しかし彼の心に火を着けたのはそれだけではなかった。 かつての故郷で亡くした最愛の妻の敵がそこにいるからだった。そしてさらに彼には秘密があることが物語の最終に判明するのだが、それはまた後で語る事にしよう。 ところで上にも書いたが、本書は映画“ミッション:インポッシブル”のような難攻不落の研究所への進入に加え、サーカス団員であるナイフ投げの名手マヌエロ、無双の怪力を誇るカン・ダーン、投げ縄の名人ロン・ローバックといった一芸に秀でた個性豊かな仲間がブルーノを助ける。 さらには一見ペンにしか見えない麻酔銃と毒ガス銃が登場したりとエンタテインメント色が実に濃い。 本書が1975年発表であることを考えると前掲の原型であるアメリカのスパイドラマ『スパイ大作戦』やイアン・フレミングの007シリーズの影響をマクリーンも受けていたのではないかと勘繰らざるを得ない。 ただマクリーンが上手いのはそれを小道具に終わらせていない事だ。この秘密兵器が実はこの任務の裏に隠されたある秘密に密接に関わっているのだ。 難攻不落の研究所に2000ボルトの発電所から渡されたワイヤ1本を伝って進入する稀代のサーカス曲芸師という実に奇抜なアイデアの本書の結末は何とも尻すぼみ感が否めないものだった。 次の作品もこうなのかと一抹の不安を覚えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前作『幻想の死と使途』の偶数章を司る作品であり、2つで1つの物語が構成されるという凝った作りなのだが、内容にはお互いの作品に密接に絡み合う要素はほとんどなく、それぞれ独立した作品として読める。
このような形式を取った理由として森氏は作中で殺人事件に限らず、あらゆる犯罪はその首謀者たちがお互いに譲り合ったり、スケジュールを調整しながら起こされるものではないからだと述べている。 つまり前作の有里匠幻殺人事件と本書の簑沢家誘拐未遂事件及び簑沢素生失踪事件は同時期に起きており、これを分離した2つの作品としながら一方を奇数章、こちらを偶数章で構成することで西之園萌絵が大学院受験時に起きた事件としている。 しかしこの試みは成功しているとは思えない。 確かに森氏の云うように犯罪とは1つが終われば次のが起こるように規則正しくないのだが、同時多発的に複数の事件が起こる作品はこれまでも多々あった。モジュラー型ミステリがそれに当たるが、それらのジャンルに当てはまる作品と比べてもこの2作でたくさんの犯罪が起きるようには思えない。単なる奇抜な着想で終わってしまっている。 奇妙な符号としては双方に事件関係者に盲目の人物が関わっていることだ。しかしそれも両者のストーリーには何の関わりももたらさない。 前作『幻惑の死と使途』は個人的には今まで読んだS&Mシリーズの中で最も評価の高い作品だった。 稀代のマジシャンの死と衆人環視の中での死体消失の彼の弟子たちの不審死と、マジックに彩られた派手な事件だったのに対し、本作は政治家一家の誘拐未遂事件で、しかも犯行は第3章で解決する。 80ページにして一応の解決を見る。誘拐犯のうち、逃亡した1人赤松浩徳の行方と、殺された残りの2人の男女の死の真相、そして事件以来姿を見せない簑沢素生の行方と、比較的小粒な謎で物語は進む。 作中で登場人物の1人儀同世津子も述べているが、小粒な事件故に作者は『幻惑の死と使途』の事件と敢えて同時期に起こす設定にして、500ページもの分量で語ろうとしたのではないか。こんなミステリ妙味薄い事件にもかかわらず、事件は有里匠幻殺害事件が起きた8月の第1日曜の3日前に起きながら、事件解決はその事件解決後の9月最後の木曜日と実に2ヶ月もかけられている。 さらに特異なのは犀川創平がなかなか登場しないことだ。彼の登場は第12章、335ページで西之園萌絵が彼の研究室を訪ねるシーンからだ。それからも犀川の登場頻度は増すことはなく、事件の当事者で西之園萌絵の親友簑沢杜萌の身辺、長野県警の西畑、西之園萌絵のパートが大半を占める。 あ、あとやたらと萌絵の叔母の佐々木睦子が萌絵に関わってくる。 とこのように物語は実に無駄の多い内容で、一向に解決に進まない。私は常々森ミステリには事件解決までのタイムスパンが非常に長い事を特徴として挙げており、これを個人的に森ミステリ特有のモラトリアムな期間と呼んでいるのだが、本書はそれが最も長い作品であろう。 西之園萌絵が有里匠幻殺害事件の解決にかかりきりになっていることと大学院受験を控えていることがその理由となっているが、上に書いたように事件に直接関係のない登場人物の頻度が増していたり、西之園萌絵のお見合いシーンや、犀川創平の妹儀同世津子の妊娠のエピソードなど、物語の枝葉にしては長すぎるエピソードの数々が逆に本書のリーダビリティを落としている。キャラクター小説として物語世界を補強するためのエピソードかもしれないが、さほどこのシリーズにのめり込んでいない当方としては退屈な手続きとしか思えなかった。 しかしこれほど拍子抜けする真相も珍しい。誘拐犯殺害の真相は意外な反転があるものの、カタルシスを感じるほどのものではないし、またもや全ての謎が解かれるわけでもない。よほどこのシリーズが、この世界観が好きでないとこの物語は楽しめないだろう。 それほど森氏の趣味が盛り込まれた、それはある意味少女マンガ趣味とも云える幻想味が施されている。 また前作では初めて西之園萌絵が探偵役を務めたにもかかわらず、最後の最後で犀川によって真相が解明されるという詰めの甘さを見せたが、本書では彼女によって真相が見事に暴かれ、犀川はその真相に至っていながらも積極的に事件に介入しない、いわば保護者的役割に終始している。 これは西之園萌絵の成長とみるべきか、シリーズにおける名探偵交代を示す転換期なのか。 何にせよ、ようやく密室殺人事件から離れた作品なのだが、逆にそれ故に小粒感が否めない。あらゆる意味で何とも残念な作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は馳氏による初の探偵小説と云えるだろう。
元警官でバブル経済時に土地転がしをして失敗し莫大な借金を抱えたしがない探偵徳永。彼が追うのは警察官僚の娘の失踪。特に冒頭の、高い地位のある、富裕な依頼主を訪れ、失踪した娘の捜索を依頼される件はチャンドラーの『大いなる眠り』を想起させる。 そして文体も全く変わっている。極限まで削ぎ落とし、体言止めを多用した文体から比喩を多用し、諦観と皮肉に満ちた文章はチャンドラーのそれを意識したもののように感じた。 主人公は元警官で今は弁護士事務所に雇われている探偵徳永。バブル時代に機を読み誤り、購入した不動産が値下げし、億単位の借金を抱え、少しずつ返済する日々を送っている。 そんな彼に持ち込まれたのが警察官のキャリアである井口警視鑑。次期警察庁長官と云われている。彼から依頼されたのが失踪した娘を捜し出すことだった。 物語はこの失踪した女性山下菜穂と彼女の趣味仲間田中美代と菜穂の高校時代の友人である和歌子こと菅原舞に彼女の連れ英ちゃん。そしてその趣味の世界では有名な飲食店経営者渡瀬を中心に進んでいく。 そしてまず本書のモチーフにあるのは薔薇。今ではもう幻の存在ではなくなったが、本書で失踪する菜穂は薔薇の生成、それも青い薔薇を生み出すことに執着しているアマチュア栽培家。 題名にもなっている青い薔薇は英語ではありえないことを意味する。 そしてこの薔薇のモチーフは物語半ば過ぎて別の意味を持ってくる。 しかし探偵小説といえどもきちんと馳氏のテイストは盛り込まれている。警察官僚の娘の失踪がいつの間にかキャリア同士の抗争に繋がり、しかもそこには主婦によるSMクラブという淫靡な真実が隠されている。それがやがて警察内部の政治抗争において爆弾のようなスキャンダルに繋がっていく。 なんでも存在する東京と云う都市が生んだ社会の歪みの権化。富裕階級に属する20代後半の若く美しい主婦たちが集う禁断の扉。アマチュア薔薇栽培家が目指していた青い薔薇の実現もいつの間にか2人のSM女王、赤薔薇、黒薔薇というモチーフに変わる。う~ん、実に馳星周氏らしい。 しかし探偵小説の体裁は上巻まで。やはり最後はいつもの馳作品。 人捜しの過程で出逢った人物、菅原舞に惚れてしまった徳永は仕事の途中で舞を喪ってしまう。それが徳永が獣になるトリガーとなった。 狂気と殺戮の宴の始まりだ。 理性と云う箍を外した徳永はもはや味方などは関係なく、己の願望を満たすために他者を利用するだけだ。全てが舞という大切な存在をこの世から消し去った敵としてみなす。 しかしそこから物語が微妙に歪んでくる。 敵側にさらわれた菜穂と英ちゃんを取り戻すために悪鬼の如く、慈悲を捨てて田中美代、渡瀬、公安警察らに挑む徳永だが、依頼元の井口の妻佳代ももはや身の保身のために事件については関心を持たず、徳永を切り捨てるし、肝心の菜穂はスキャンダルの種を恐れた井口にとっては既に敵側の手中に堕ち、出世ゲームからは脱落したものの、警視総監の地位確保のために身の回りの整理をしている。 つまりこの時点で既に徳永は菜穂を奪還する行為自体になんら意味が無くなっているのだ。 彼にあるのはただ単純に舞の命を奪った者への復讐の願望であり、その者たちの正体は解っているのでなぜ菜穂の奪還に固執するのか解らなかった。 つまり理性を失った徳永同様に物語ももはや筋を失い、ただ徳永が暴力を存分に振るうための舞台でしかなくなっているのだ。 作中、主人公の徳永の言葉に暴力への衝動について語られるシーンがある。精神の箍が外れ、暴力それ自身が快感となり、行為を制御できなくなるということだが、それは裏返せば馳氏の創作姿勢の説明ではないか。 どんな舞台、設定、登場人物を使っても行き着くところはどす黒い暴力の渇望。精緻に組立てた物語構造も最後の主人公の狂気の暴走に奉仕する材料にしか過ぎない。それを書きたいがためにそれまで我慢して物語を紡いでいるのだ、と。 また読書中、どうしても拭いきれない違和感があった。 本書の刊行は2006年なのだが、作品の時制は少し前のように感じた。しきりにバブル崩壊の膿やら残滓が謳われ、しかも主人公は携帯電話を使うことも覚束なく、パソコンのインターネットもパソコン通信や電話回線を使ってのネット接続だったり、ポケベルを持っている警官がいたりと、なんとも違和感を覚えることが多かった。 しかもサントリーが生み出した青い薔薇は2004年。つまり本書の刊行前なのだ。作中、いつごろの話か年代が出てこないため、どの時代を想像して物語に没入すべきか最後の最後まで解らなかった。 敢えて苦言を呈せば、本書は実に脇の甘い作品である。徳永が暴力に走る動機となった愛すべき存在、菅原舞を喪うことも、40を過ぎた男に起こった一目惚れからなのだ。 ほんの数時間しか過ごしていない相手にこれほどまでに惚れるのか? 20代の男が年上の女性に惚れるというのなら解るが、人生の酸いも甘いも経験した男が20代後半の女性に一目惚れするというのが実に解せなかった。さらに菜穂を取り戻すことの意味がない中での徳永の決死の任務遂行など物語としての体を成していない。 今までの馳作品らしくない破綻ぶりだ。 正直この結末には唖然とした。もう馳氏にはノワールを構成するネタが枯渇してしまったのだろうか。 先にも書いたがブルー・ローズとは英語で“ありえないこと”という意味でもある。私にしてみればそれは本書の内容こそがブルー・ローズそのものであった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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馳星周氏が夜の仕事や裏社会で生活する人々を描いた短編集。
まずは「ストリートギャル」は渋谷を闊歩する雑誌モデルの女性の日常を描いた1編。とはいえ書いていることは生々しく、自分たちに憧れて近づいてきた女子高生を乱交パーティに誘うえげつなさ。世の中舐めた女の話。 「ギャングスター」は新宿に巣食う素人ギャングの1人が宿敵のギャング一味に見つかり、逃走中に中国人の店に匿われて…と云う話。これも言葉を解さず、ただ微笑むだけの中国人にミステリアスな印象を持たせながら訳の解らない終焉を迎える。 「溝鼠」は700万の借金を抱えるヤクの売人が会社社長の娘を見つけ、金蔓にしようとする話。まさに社会の底辺でもがく男の物語。 「スリップ」はキャバクラでバイトする女子大生がルームメイトの結婚をきっかけに次第にバランスを崩していくという話。 キャバクラという女たちのドロドロとした競争社会の陰湿な世界が描かれ、そんな状況の中で特に売れてないキャバ嬢が私生活ではルームメイトにさえない恋人が出来たことで部屋を追い出されようとする。新しい生活を迎えるため、必死にバイトで金を稼いで引っ越そうとするが、キャバ嬢の陰湿ないじめに遭い、というもの。 「ジャンク」はさらに救いがなく、15歳の少年がまみれた犯罪の日々。学校にも行かず、母親と二人で暮らし、父親は女の所へ入り浸って帰ってこない。そんな家庭で暮らす淳一は日々退屈を持て余し、仲間から麻薬を買って日中獲物を探してブラブラしている。その日見つけたカモは23歳のOL。ナイフで脅し付け、仲間の部屋に連れて行き、ヤク漬けにしてヤリまくる。 とにかく情けない男の悪夢の一日を綴ったのが「土下座」。タイトルそのままのように山田和正なる低下層労働者を思わせる男が競馬で金をすり、逝く先々の行きつけの店で土下座を強いられる話。 主人公の山田はどこにでもいる小汚いおっさんで、昔からの顔なじみはいながらも笑顔の陰で嫌われているような存在だ。そんな微妙なバランスで成り立っていた関係がふとしたきっかけで崩れる様子が描かれている。上手く行かないときは全く上手く行かないという日は誰しもあるが、馳氏はそんな厄日を考えうる最悪の事態まで持っていく。 一瞬ウォーム・ストーリーかと思わせるのが「マギーズ・キッチン」だ。 馳作品のどうしようもない荒廃感から一転して、売れないホストがマレーシア女性の経営する店に勤めることになり、そこでアジア人たちと交流の輪が広がる。そして男は次第にマレーシア女性に惹かれていく、という馳氏にしては珍しいハートウォームな話だと思わせておきながら、中国系マフィアの犯罪に巻き込まれ、付け狙われそうになるという展開はああ、やっぱりねといった印象。 特に東南アジアの、金はあるところから取る、貰う、金持ちと結婚して幸せになるという金本位の価値観は現実味があって痛烈。愛よりも金なんだよなぁ、彼らは。そんな現実を知っている馳氏がロマンティックな国境を越えたシンデレラ・ラヴストーリーなんて書くはずないか。 最後の表題作はジャニーズ顔のために幼い頃から女に体を求められながら早漏のため女からバカにされたことが心の傷として抱えている男の話。美しい顔に美しい指を持った圭介は指のテクニックで早漏の欠点をカバーし、ヒモ生活を送っているが車にのめり込むことで指をオイルで汚し、せっかくの金蔓を逃していくといった展開。 馳作品特有の心に暴力的衝動を抱える主人公。但しジャニーズ顔と美しい指を持ったがために女に云い寄られ、女には不自由しないが早漏という欠点を持っているのが面白い。早漏をバカにされて暴力に走るというのが若さゆえだろうが、今までの馳作品の設定ではかなり浅く感じる。車にのめり込んで走り屋に興味を示し、女から遠ざかっていくなど全てにおいて青臭さが残る作品だ。 各編どれも相変わらず救いがない。ほとんどの作品が物語をほっぽり出して唐突に終わる。歯切れの悪い読後感が残され、自分の中でどう収拾つけたらよいのか解らないと云ったところ。 語られるのは渋谷のギャルの自己本位な生活、一昔前のチーマーを想起させる新宿に跋扈するギャングスターたちの抗争の一幕、ヤクの売人が家出少女を捕まえて借金返済の金蔓にしようと働かす悪知恵、分不相応のお水の世界に足を踏み入れたばかりに人間関係に疲弊する女子大生、家庭不和の環境に育ち、学校にも行かず麻薬と暴力、強姦に明け暮れるやさぐれた少年の日々、その日暮らしの日雇い労働者が陥った最悪の一日、売れないホストとマレーシア女性との交流、ジャニーズ顔と美しい指で女に貢がせながら金を車につぎ込む走り屋、と今まさにどこかに実在しているであろう人々の話だ。 彼ら彼女らは家族を憎み社会のせいにして犯罪を愉しむ者、上辺だけの友達付合いに退屈を持て余している者、社会の底辺這いつくばって人を騙して金を巻き上げようとする者などおよそ向上心とは無縁の人間たちの日々と生活が如実に語られる。そこには物語が読者に抱かせてくれる幻想などは一切ない。 そんな人々の話を馳氏は勢いと衝動に任せて筆を奔らせているように感じる。したがって物語の中には起承転結がないものがある。いやほとんどの作品が起承転結がないといってよかろう。本書に収められている物語は過去から未来まで続いていく彼らの生活のワンシーンを切り取って我々読者に見せているだけといった趣が感じられる。 しかしこれほど読後感が悪い短編集も珍しい。この前に編まれた短編集『古惑仔』にも増して救いがない、いやむしろ物語の結末をつけること自体放棄した感が強まったように感じられる。 前に述べたように起承転結がないだけに登場人物も読者も舞台のただなかにいきなり放り出されたような感覚に陥る。唐突に終わるだけに本当に何も残らない。 これは果たして金出して読むだけの価値があるかはなはだ疑問を感じる。 馳氏は自分の読みたい物語がないから自分で書くことにしたというのが作家になった動機だが、これらの作品群が本当に自分で読みたかった物語なのだろうか?こんな奴らがいるんだと酒飲みながら語るようなオチの無い話を文字に表した、そんな作品だと思わざるを得ない。 これでは小説が売れなくなるわけだ。作家と出版社はもっと読者と云うお客のことを考えて書店に並べるべきだろう。 あまりに乱暴すぎる不親切な短編集だと辛口を承知で苦言を呈しておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンのノンシリーズ物。
ギャングの大物が遺した二百万ドルもの莫大な遺産を巡って遺産の相続人ミーロ・ハーハなる男を捜しにアメリカ、オランダ、スイス、オーストリアそしてチェコスロヴァキアと探索行が繰り広げられる。 痴呆症となりかつての鋭さの影すらも見えないほど落ちぶれたギャングのボス、バーニーの殺害事件はクイーンでは珍しく、犯罪の模様が書かれている。 本格ミステリ作家であることから倒叙物かと思っていたがさにあらず。これがエラリイ・クイーンの作品かと思うほど、冒頭の事件は全く謎がなく、エスピオナージュの風味を絡めた人探しのサスペンスだ。 したがって本作には全く探偵役による謎解きもない。純粋に遺産を巡ってミーロ・ハーハなる男を殺そうとする輩と政治的影響力のあるハーハを利用せんとする者達との思惑が交錯するサスペンスに終始する。 痴呆症でかつての冴えが成りを潜め、しかし二百万ドルもの莫大な遺産を持っているギャングのボスの遺産相続人から奪還する為に相続人を探し出し、暗殺しようとする企みがやがてチェコスロヴァキアの政敵同士の構想にまでに発展していく。 それはミーロ・ハーハという男がチェコスロヴァキア人でありながら第二次大戦中にドイツ軍に入り功を成した英雄で、しかもその父親ルドルフもまたかつて国で勢力を持ったカリスマ政治家。ミーロはその血を色濃く継いでおり、政界に乗り出すと現政権を揺るがす危険な存在だからだ。 しかしそんな彼もチェコスロヴァキアのザンダー警察長官に反乱分子の掃討作戦に利用され、クーデターを起こすことなく葬られてしまう。そしてミーロを殺そうと画策したバーニーの妻エステルもまた野望半ばで命を失い、エステルに命じられてミーロを追っていたスティーヴもまた政敵同士の紛争に巻き込まれ、再び故郷の地を踏むことはなくなってしまう。ミーロに関った人たちがそれぞれの思惑の中で命を失っていく。 先にも書いたが最後の最後まで全くどんでん返しや意外な犯人といったものはなく、それぞれの思惑が最後の舞台にて相対すると全くクイーンらしくない作品。 それもそのはずで、Wikipediaによれば本書はクイーン名義による別作家の手になる作品とのこと(ある筋の情報によればスティーヴン・マーロウという作家らしい)。だとするとこのロジックもトリックもない作品をどうしてクイーン名義で出版したのか、そちらの方に疑問が残る。 というのもミーロ・ハーハの追跡の道中でスティーヴとアンディのロングエーカー兄弟がオランダ、スイス、オーストリアで出会う人々との話も各章が短編の趣があり、長編でありながらも連作短編のようになっているのもクイーンというよりもこの手の手法を好んで使っていたウールリッチに近いからだ。さらに各地で起こる事件も解決がなされるわけでもなく、事実とスティーヴとアンディが訪れたことで起こることのみが語られ、置き去りにされる。 特にミーロの隠し子であるカトリナとその養父の爺さんの話はその後も語られるべきなのだが、最後にバーニーの遺産の行く末が語られる際にちらっと触れられるだけである。 これをクイーンの作品とするには作風の変化として受け入れるにしてもかなり違和感がある。逆になぜクイーンはこの作品を自身の名で出すことに承知したのだろうか。 クイーン作品として読むと鮮やかなロジックで解かれる本格ミステリを期待するせいで肩透かしを食らわされるが、通常のサスペンスとして読めば佳作と云える作品だろう。 ただやはりこの違和感は拭えない。作品としての正当な評価ではないだろうが、個人の感想なので感じるままに書いておこう。 |
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更科ニッキシリーズの第1作がこの作品。
前回読んだ『だれもがポオを愛していた』はこれに続く作品となるが、一致する登場人物は主人公の更科ニッキのみで、『誰もが~』ではこの事件については触れもされないから単独で楽しめる作品となっている。 実業家の邸宅で起こる3つの殺人事件。現場は全て同じ部屋でしかもジグソーパズルがばら撒かれていたというシチュエーションが一緒というのが本書の事件。 作者は各章及び犯行現場の見取り図をそれぞれパズルのピースに見立て、102片のピースが出揃った時点で読者への挑戦状を提示する。久々にトリックとロジックに特化した本格ミステリを読んだ。 そしてやはりこのシリーズ探偵更科丹希の性格には反感を覚えずにはいられない。殺人事件の謎解きが好きだという点は甘受してもいいが、事件の捜査の過程で人の秘密を暴いてバラすのが好きだと云ったり、犯人の仕業、例えば今回の事件では殺人現場にジグソーパズルがばら撒かれていることに意味がないと嫌だと云ったり、ましてや謎解きの材料がもっと集まるために誰かもう一人死なないかな、などと人の命を軽視する考えを示すに至っては、例え才色兼備であっても、こんな探偵なんかには助けてもらいたくない!と思わざるを得ない。 エキセントリックなキャラクターを案出するのはいいが、本格ミステリが殺人事件を題材にした読者との知恵比べ的要素を前面に押し出した小説とは云っても探偵が人非人であってはならないと思うからだ。人道的、道徳的な感性が欠如しているこの更科丹希という女性がどうしても好きになれない。 そして彼女の推理方法というのが動機には頓着せず、現場に残された証拠と事実のみを重視してトリックを解き明かし、犯人を限定するというもの。 これはつまり裏返せば読者への挑戦状を提示しているが故に、本書に散りばめられた各登場人物の裏側に隠された事情は推理の材料には一切ならないと公言していることになる。 確かに純粋な作者と読者との推理ゲームに徹する姿勢はいいとは思うが、それを極端に演出する為に探偵役の性格を上記のように設定するのはいかがなものか。 そしてやはり推理小説は小説であるから、理のみならず情にも訴えかけるが故に驚愕のトリックやロジックもまた読者の心の底にまで印象が残るのでは、と個人的な見解だ。 「小説を読むことは人生が一度しかないことへの抗議だと思います」 という名言を残したのは北村薫氏だが、この言葉が表すように心に何か残るものがなければ小説ではないのだと私は思う。 自分には起きない出来事を知りたいから、疑似体験したいからこそ人は物語を書き、読むのだ。だからパズルだけでは今の時代では認められないのではないだろうか? こういう作品を読むと私はもはや本格ミステリを読むことは出来ないのではないだろうかと懸念する。読書を重ねるうちに嗜好が変わってしまうのは否めないだろうが、本格ミステリから読書の愉しさに目覚めた私にしてみればこれはすごく寂しいことである。 この真偽については次に小学生の頃からミステリに離れていた私を再び読書好き、ミステリ好きに開眼させてくれた島田荘司氏の作品を読むことで再度確認したいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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全てのモチーフがポオの作品に繋がっていた。そんなポオ尽くしの奇妙な事件。
本書は数あるガイドブックで時折取り上げられる作品。それほど評価が高いのであれば食指が動くというもの。どれどれといった感じで読んでみた。 本書では捜査に当たったボルティモア市警のナゲット・マクドナルド警部の私記という体裁を取っている。そのため、創元推理文庫特有の国内作品の英題表記のページにわざわざその旨が謳われているという芸の細かさにニヤリとしてしまった。 しかも“読者への挑戦状”付のど真ん中の本格ミステリ。久々にこの挑戦状を見た。 だが哀しいかな、この頃には私は既にこの作品に対する興味を失っていた。 あいにく私はポオに疎く、読んだ作品は『モルグ街の殺人』、『黄金虫』、『黒猫』の3作品しかない。本書でメインモチーフとして扱われている『アッシャー家の崩壊』は未読の為、十分に愉しむことが出来なかったのだ。 そのため、作中で繰り広げられるポオの作品に擬えた犯罪の数々と登場人物が折に触れ語るポオ作品との関連性に逆に辟易としてしまった。 こういった作品とはやはりモチーフとなるものに読者もある程度の造詣を持っていないと、乱痴気騒ぎを窓の向こうから見ているような冷めた目線で読んでしまいがちだ。それはある種その仲間に入っていけないものにとってパーティとは騒音以外なにものでもなくなってしまうのと同様に、作中で出てくるポオ作品のモチーフの数々が作品の進行を妨げているようにしか、思えなかったのが辛い。 確かに明かされる一連の事件の流れは確かに理路整然とした本格ミステリなのだが、謎を魅力的にするファクターに乏しかった。それもそのはずで、作者は作中で主人公のニッキに動機や陰謀などは興味がなく、誰がどのように動いたら一番合理的かを推理する方法を探り当てるのが彼女の推理作法だと云わせている。つまり人間の“情” ではなく、あくまで“理”を追及する作品であるのもこの要因の1つだと考えられる。 しかしそれでもなお本書の面白さがあまり伝わらなかった。特に本書ではエピローグの作者の分身ともいえる人物にポオの『アッシャー家の崩壊』に関する新解釈が収録されているが、原作を読んでいない私にとって全く以ってどうでもいいような内容だった。 こんな趣向も含めてもしも私がポオを読んでいたらこの評価もガクンと上がるのではないだろうか? ともあれ久々に自分に合わない本を読んだ。それほどこだわりのない人ならばポオ経験なしでも十分楽しめるが、経験者の盛り上がり様はいかほどだろうか。 次に読む本が読書の愉悦に浸れる作品であることを祈りつつ、この感想を閉めよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第8作目。8作目にして舞台は初の海外。イタリアのヴェネツィアである。
本書の前に編まれた初の短編集には桜井の海外放浪時代の事件が書かれていたが、それはこの作品への手馴らしといったものか。元来海外、特にヨーロッパ建築に造詣の深い作者だから、京介が大学を卒業して輪をかけて融通のつく立場になったことも含めてこの舞台は満を持しての物だと云えよう。 やはり海外が舞台になると観光小説の色が濃くなるのか、作者が取材で得たイタリアの風習や各所名所についての薀蓄が施され、実際殺人事件が起きるのは344ページあたり。最後のページが489ページだから、約3/5を過ぎたあたりなので、これは非常に遅いといえよう。アーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズを読んでいるような感じを受けた。 さらに異色なのは建築探偵シリーズでありながら今回は対象となる建築物がないことだ。羚子が住まう島に京介、神代教授、蒼の一行は向かい、ブランドメーカーの前社長の遺した屋敷に滞在するがその建物に関する衒学的知識を披瀝する場面は一切ない。 今まで事件の真相よりも建物に込められた人の想いを解き明かすのがシリーズの主眼だったのだが、今回は全くそれが見られず、逆に殺人事件に主眼を置いた本格ミステリになっている。 しかしそれでも篠田氏の騙りは浅いなぁと思う。特に賊が襲ってきて無差別に人を撃ち殺すところなんかはその時点で真意が透けて見えるほどバレバレだ。やはり驚愕の真相やどんでん返しをこの作家に求めるのは酷なんだろう。 そしてやはりこの作家、自分の美学に酔っているとしか思えない。最後で明かされる本書の真犯人の動機はなんとも観念的で独りよがりだし、最後に自決するのも昭和の頃の少女マンガを読まされているような感じがした。毎度毎度酷評を連ねて恐縮だが、このような自己陶酔ミステリはどうにも苦手で斜に構えて読んでしまいがちになる。 さらに二十歳になった蒼は成人しても京介とじゃれ合うことを止めない。この辺のBLテイストをどうにかしてほしいものだ。この2人の関係性、特に蒼の同性愛的親愛の情にはついていけなかった。 とどのつまり、シリーズを親しむのは読者がそのキャラクターにどれだけ感情移入し、友好関係を築けるかが鍵なのだ。申し訳ないが女性がハッとするほどの美貌を持つ探偵桜井京介にしろ、成人しても幼稚さと同性愛的愛情表現が抜けない蒼は嫌悪感を招きこそすれ、また逢いたいと思わせるキャラではなかった。ある意味私にはBL小説は向かないことが解っただけでも収穫かもしれない。 これでこのシリーズは打ち止めにしたいと思う。というよりも篠田氏の諸作からは本書を最後の一切手を出さないことにしよう。 他の本格ミステリ読者同様、探偵を擁立しながら本格テイストが薄かったこのシリーズと上に書いた付加的要素が私の求めるものとは違ったようだ。シリーズ当初から仄めかされている京介が抱える闇の正体など気になるエピソードは残るものの、それが今後私をしてシリーズを読ませるだけの魅力を放っているわけではない。 さらば桜井京介。シリーズ半ばだが、我、君の許を去らん。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1999年6月に行われたケルンサミットにおける米国大統領暗殺計画が本書のおけるメインテーマだ。この暗殺計画が作者の創作物か否かは判らないが、これをモチーフに女性暗殺者と物理学者の対決という図式を描き出した。
暗殺者は世界で一番厳重に警護されている人物の暗殺を依頼されたヤナことラウラ・フィドルフィ。表向きはIT企業ネウロネット社の若き女社長だ。しかし彼女は世界でも十本の指に入る凄腕のスナイパーだった。 彼女を雇うのはテロを生業にしているプロのテロリスト、ミルコ。 片や彼らテロリストを迎え撃つのはノーベル賞候補になっている物理学者リアム・オコナー。長身で誰もが振り返る容姿を持っていながら、頭の中は常に物理や化学のことにとり憑かれていて、突然奇行を始める危うさを持っている。 さらに彼のパートナーとしてオコナーの本をドイツで出版している会社に勤める広報係の女性キカ・ヴァーグナーがオコナーとのロマンスで本書に色を添える。 物語はPHASE1から4まで分かれており、PHASE1でまずミルコとヤナのテロリストのパートとオコナーのパートが交互に語られる。前者はプロの殺し屋の緊張感に満ち、また民族主義が抱える社会的問題なども交えて語られる重苦しい内容であり、後者はオコナーの奇行に振り回される出版社のキカとクーンの2人というコメディタッチの内容と陰と陽が交互する。 しかし注意が必要なのはこの2つの物語の時制が違うことだ。 テロリストのパートは1998年の12月から語られ、オコナーのパートは1999年の6月、ケルンサミットの開催日の前後から語られる。 つまり一方はテロを起こすゼロ時間へ向かい、もう一方はそのゼロ時間付近にいるのだ。最初はこの時制の違いに戸惑いを覚え、時制を混同することしばしばだった。導入部としてこの方式は物語世界に没入するのに支障になった。 この時間軸をずらして書かれるパートはPHASE1のみで後は暗殺計画とオコナーたちの身の回りに起こる出来事が並行して語られる。 読後の今、この手法が何の効果をもたらしたのかは解らない。単純に混乱を招いただけのように今は思う。 本書の帯に書かれていた惹句「女暗殺者VSノーベル賞級物理学者」という構図から想像されるのは緻密な暗殺計画を論理的思考にて解き明かすという天才的頭脳を駆使した計画の看破と駆け引きを期待したが、上巻の400ページを過ぎたあたりで解るのは、単純にアイルランド人である物理学者オコナーがかつて政治活動を一緒にしていた同僚をサミットの開催が明日に迫った空港で発見することからテロの疑惑が巻き起こるというものだった。 つまりこれだとテロリストの相手役は物理学者である必然性はないのだ。なんとも期待感を裏切るような展開だ。 しかし下巻の200ページあたりでどうにか期待外れ感は幾分か解消される。光を減速させる原理でノーベル賞候補になったオコナー、つまり光学の権威である彼だからこそテロリストの暗殺方法に気付くことが出来たという必然性が生まれる。 シェッツィングの小説はしばしば取り上げるテーマについてかなりのページを割いて語られるのが特徴だが、本書ではこの兵器の技術や専門知識についても相変わらず詳述される。それはあまりに専門過ぎて読者の理解度を考慮することなく、滔々と語られる。理解できない奴はついてこなくてもよいと云っているかのようだ。 またテロリストとの戦いを描いているがゆえに政治的問題についても語られる。彼は登場人物たちの口を借りて前世紀末から現在に至るまでのヨーロッパが抱える問題について様々な意見を述べている。 特に世間ではほとんど注目されないコソボ紛争について書かれているが、非常に主張が強すぎて読書の興を殺いでいるのが難点だ。 単なるスリルとサスペンスとアクションに満ちたエンタテインメントに留まらず、問題提起をして読者に何らかの意識を植え付けるという制作姿勢は買うものの、今回は逆に物語のスピード感を奪ってしまい、読む側にしてみれば退屈を強要してしまっているのが残念だ。 特に本書は果たしてこれだけのページを費やす必要があったのか、甚だ疑問だ。 とにかく無駄に長いと思わされるエピソードが多すぎるのだ。それぞれの政治的主張や主義を盛り込みつつ物語はクリントンやエリツィンら各国の政府要人が訪れるサミット当日、ゼロ時間へ向かっていくが回り道が多すぎて物語の加速度を減じている。特に主人公となるオコナーと彼の見張り役であるヒロインのキカ・ヴァーグナーの話が長すぎて辟易した。 そんな知識や薀蓄の中には非常に興味深いのもある。 例えば大統領のアドリブに対する周囲のスタッフの用意周到ぶりだ。よく芸能人がわがままで例えば冬に柿が食べたいので用意しろなどと無茶をいい、冬に柿を探してADが奔走するなんてシーンがあるが、大統領の側近たちともなると、あらゆる大統領の予期せぬリクエストや我侭を想定して準備をしておくというのだから恐れ入る。云うかもしれないし云わないかもしれないその我侭のために訪問先を事前にリサーチして、そこの主に大統領が来るかもしれないが他言しないようにと含み置きしておく。多分心理学のエキスパートもスタッフにいるだろうから出来るトラブルシューティングだ。 また本書では1999年当時の世界の首脳陣が実名で登場する。 英国のブレア首相、ロシアのエリツィン大統領にドイツのシュレーダー首相にフランスのシラク大統領。日本は小渕首相(懐かしい!)だ。そしてアメリカはクリントン大統領。 この中でも渦中の人物クリントン大統領に関しては小説の一登場人物として詳細に語られる。彼の性格や政治的手腕、当時彼が周囲の政治家にどのように思われていたのか。これがけっこう辛辣な内容を孕んでおり、作者は本人にあらかじめ許可をもらったのかと不安に駆られる部分があった。当時スキャンダルとされていたモニカ・ルインスキーとの情事についてもここでは語られるし、さらには彼の陰部に纏わる持病(ペロニー病という陰茎が極度に湾曲して勃起する病気)についても暴露される。既に20年近く前の出来事を今更蒸し返さないでもと思わんでもない。よく出版できたなぁと感心した。 しかし相変わらずの情報過多ぶりで引き算の出来ない作家だなぁというのが読後の感想だ。正直に云ってこの手の暗殺謀略物はストーリーは定型化されているので、後はどう語るかが鍵となる。 私の好きなバー=ゾウハーならばこの半分以下の分量でもっと起伏に富み、ミステリマインドに溢れた作品に仕上げてくれるだろう。 訳が悪いのかもしれないが、いまいち物語に没入できないところも相変わらずである。今回も残念ながら徒労感を覚える読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の物語の舞台は東京ザナドゥ・ランドと警視庁内部。前者は千葉にあるのに東京という名前を冠し、さらに愛くるしいキャラクターで日本では無類の人気を誇るアミューズメントパークという説明から、名前を呼ぶのも公共のメディアでは著作権の関係から憚れる東京ディ〇ニー・ランドのことを婉曲的(?)に指したものであるのは明白。
この東京ザナドゥ・ランドについて述べる内容が特に辛辣。グリム童話やアンデルセン童話を堂々と流用し、恰も自家薬籠中の物のように振舞うといった件はその極致だと思った。 かようにこのシリーズは田中氏が日頃抱えている日本の政治と歪んだ社会のシステムへの不満という毒を存分に吐くために書かれているといっても過言ではないほど、本書は痛烈な皮肉と罵倒に満ちている。 例えば本書に登場する外務大臣はマンガ・アニメ好きのA元大臣をモデルにしている。その描写と人物説明に込められた皮肉はこれまた強烈で田中氏がいかにこの政治家を好きではなかったのかが目に見えて解るほどだ。 しかし本書にも書かれているが本書刊行当時2007年12月では次期首相の有力候補だったA元大臣が実際に首相となったのに、文庫が刊行されたちょうど3年後にもはや彼が首相だったのは遠い昔となり、彼の退陣後、与党も変わってしかも首相も2人も変わっているというたった3年間での日本の政治の激変振りに思いを馳せると呆れるしかない。 今回の敵はゴユダという名のワニ人間。メヴァト王国に昔から存在し、時に君主に成り代わって国政を支配していた怪物である。メヴァト王国は作者の産物であるから、これは全くの田中氏の創作か、もしくはメヴァトが位置する周辺の国、インド、ネパール、チベット、ミャンマーのいずれかの国に昔から伝わる言伝えから取ったのかは解らないが、それにしてもワニ人間とはちょっと発想が貧困のように思う。 そういえばこの薬師寺涼子シリーズは筆致や設定はライトノヴェル風だが、書かれている内容は必ずしも中高生が読むほど健全ではない。 主人公の涼子は己の財力を傘に堂々と買収を持ちかけるし、相手の弱みを握って常に優位を立とうとし、恐喝を行いもする。つまり情操教育上、あまりよろしくないのだ。 前にも書いたが、このシリーズは田中氏が日本の現状に対して声高に存分に不満を並べ立てるために書かれている節があるので作者の想定する読者層はもっと高い年齢層にあるのだろう。逆に大学生や社会に出た若者には日本という国の歪みを認識させるのに実にとっつきやすい読み物かもしれない。 しかし前作も軽井沢で今回も東京と舞台が日本。それまで海外を舞台にしていたことを考えると取材費の縮減という創作の外側の台所事情が気になるところだ。 とはいえ、今回の舞台の東京ザナドゥ・ランドのモデルとなったテーマパークのオフィシャルホテルについて作中で書かれていることから取材のために宿泊したと察せられるので、それなりにやはり取材費は割かれているのだろう。う~んこんなことを感想に書くなんて私もずいぶん卑しくなったものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はミステリ作家ならば誰もが一度は触れたくなるという、いまだにその正体が不明の、1888年のロンドンを恐怖のどん底に陥れた切り裂きジャック譚。
通常切り裂きジャック事件の検証をありとあらゆる文献に残された証拠やデータから推測し、正体を解き明かしていく方法を取るが、本書ではその正体をあらかじめ17歳のイタリア人、アルドゥイーノ・デッラ・アルタヴィッラとして物語る。 アルドゥイーノ、すなわち切り裂きジャックが娼婦達を殺し続ける理由を篠田氏は異国の生活で疲弊していたアルドゥイーノがかつて彼を慕っていた女給マッダレーナを探し求めて徘徊していたこととした。夜の街行く女性をマッダレーナと勘違いし、近づいた途端、その醜悪な姿形を嫌悪し、思わずナイフを振るったというのが切り裂きジャック事件の篠田氏的解釈である。 しかし本書の切り裂きジャック譚は通常のミステリとは違い、幻想小説風味になっている。 まず切り裂きジャックとなるアルドゥイーノは「怪物」と呼ばれ、不死身の肉体を持つ。ナイフで自らの手を切りつけても血一滴流れず、また首を吊っても正気を保ったままである。 重ねて彼を殺人の衝動に駆り立てる内なる「私」の存在。そして全てを見透かしたような謎の女性、そしてアルドゥイーノには身に覚えの無い切り取った臓器を送りつけ、さらに切り裂きジャックと名乗り、世間を恐怖たらしめた彼を見つめる存在といったように、これは前世紀最大のミステリであった切り裂きジャック事件の真相を論理的に解明する謎解きではなく、世に残る切り裂きジャック譚をモチーフにした幻想小説といった方が妥当だろう。 切り裂きジャック=アルドゥイーノの一人称で終始語られるこの物語は、作者の独りよがりの観念的な話が延々と続き、その世界観に浸りこめる読者以外にとっては読後の爽快感を得るところとは対極に位置するものだろう。 不死身の肉体を持つアルドゥイーノの正体は、再生を繰り返しては転生した各時代でその都度自分の永遠の伴侶となる者を探し、出逢い、そして別れを繰り返すという無限の苦行を繰り返す存在だった。魂の枯渇を癒すため、片割れを探し求める手段は彼のその時の時代と身分で異なり、1888年に現れた彼は、娼婦を殺し続けるというものだった。 しかし篠田氏は本当に美しい男性が好きなのだなぁ。彼女のシリーズ建築探偵桜井京介もまたハッとするほど美しい容姿を持った男だし、思う存分作品で趣味に淫している感じがする。 こういうところが私の波長と合わないように感じる。雰囲気を出そうと過分に捏ねくり回した文体もまた読書の波に乗ることを妨げているようにしか思えなかった。 本書で唯一読書の興趣を引いたのは切り裂きジャック事件で当時のロンドン市民がどのように噂をし、どのような悪戯をし、また云われの無い疑いをつけられ、暴力を被ったのかが断片的に語られるところだ。このような知的好奇心がそそられるエンタテインメント性がもっと欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第3作。
本作にてようやく京介が所属している研究室の主である、神代宗教授が登場する。名探偵の師匠とはいえ、快刀乱麻を断つが如くの、八面六臂の活躍を見せるわけではなく、かといえば、迷える京介に道を示す標の役割をするわけでもない。京介を取り巻く蒼、栗山深春のコンビに新たな脇役が加わっただけの役割でしかない。そのため、絵に描いた英国紳士を髣髴させる三つ揃えが似合うダンディの風貌に、べらんめえ調の下町言葉を使うという戯画化された人物像となっている。 この作者のこの辺りの安易なキャラクター造形にどうしても馴染めないのだが。 そしてなぜか毎回のめり込めない作品世界に加え、今回は非常に複雑な姻戚関係の一族の内紛が物語の中心であったため、いつもよりもさらに作品世界に入れなかった。登場人物の中には姻戚でありながら、冒頭に附せられた家系図に乗っていない人物もあり、途中で理解するのを投げ出してしまった。 しかしやはりそれよりもこの作家の登場人物の描き分け方に問題があると思う。上に書いた神代教授に繋がることだが、どこかで見たようなマンガの登場人物のような感じがして、なんとも印象に残らないのだ。つまり貌が想像できない登場人物が多すぎる。 したがって本書のように複雑な家系を持つ同じ苗字を持つ者たちの区別がつかず、それぞれの人物に関わる因果関係が頭に描けなかった。またもや記憶の残らない本を読んでしまったという感じだ。 またミステリの根幹を成す事件とその謎も読書の牽引力としては非常に弱い。登場人物がどれも同じに見えるから、誰が犯人でも全く驚きをもたらさないし、とりわけ酷いのはこの物語は何を解決しようとしているのか、しばしば失念してしまうほど、無駄に長いと思わされてしまった。 特に今回は専門分野の小さな勘違いがそんな悪印象に拍車を掛けた。 建築探偵という通常の名探偵物とは一線を画し、事件そのものよりも建物に纏わる謎を解くことを目的としているこのシリーズ。当然のことながら建物に関する専門的な知識が求められるわけだが、やはり図書館やネットで調べられる範囲のことしか書かれていないというのが正直な感想。 細かい仕上げの部分などは素人目を通じての解釈が見られ、記述の間違いが散見させられた。この辺のリサーチは近くの工務店とかに訊けばすぐにわかるのだが、なまじっか門外漢よりも知っているだけに、自分だけの論理が形成されてしまい、その正誤性の裏付けを取ることなく、公的な作品として記述してしまったようだ。 「砕石をまぜて粗く仕上げた大柱~」という件が特にそれを裏付けている。「砕石をまぜて」という表現がすでにコンクリートが何で出来ているのか知らないことを公言しているし、建築物の作り方の本質を机上でしか理解していないことを露見させている。 なんともミステリとして読むべきなのか、キャラクター小説として読むべきなのか、非常に判断の困るシリーズである。どっちの方向にも中途半端な印象を受けるため、読む側も軸足をどちらに置くべきか非常に迷う。 はっきり云ってミステリとしては凡作である。 したがってコミケで桜井京介らの同人誌が一時期隆盛を誇ったという背景からやはりこのシリーズはキャラクター小説として読むべきなんだろう。好きな人は好きなんだろうな、この少女マンガ的探偵譚が。 3作読んで今のところ、しっくり来る作品は皆無である。とにかく早く手元にあるシリーズ作品を読み終えてしまいたいというのが現在の本音だ。今後の作品でこれがプラスの方向に変わることを祈る。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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小説家というものは一度長大重厚な作品を物にし、それが当たってしまうともうその呪縛から逃れられないらしい。
この前に書かれ、日本でも話題になった『深海のYrr』も三分冊で合計1600ページもの大作だったが、今回の『LIMIT』はさらにそれを上回る合計約2280ページの四分冊で刊行された。 今回のお話は大きく分けて3つ。 1つは大富豪ジュリアン・オルレイが各界の有力者と共に月面に行き、そこで起こる事件。 もう1つはサイバー探偵オーウェン・ジェリコが依頼された失踪人瑶瑶の捜索と彼女を付け狙う殺し屋ケニー辛との攻防。 そして最後の1つはカルガリーで起きた石油メジャーEMCOの営業戦略本部長ジェラルド・パルスタイン射殺未遂事件を追うジャーナリスト、ロレーナ・ケオワの話。 そしてこのようなモジュラー型小説の定石どおり、3つの事件はやがて関係性を伴って1つに収束する。 ただ長々と読まされた割にはなんともありきたりな真相でがっかりしたというのが正直な話だ。 また毎度この作家の専門分野に関する詳述には唸らされるものだが、今回も例外なく、『深海~』よりもさらに多岐に渡っている。 たとえば宇宙ステーションで初めて遭遇する無重力空間で人間の体に起こりうる事象について事細かに述べていく。 宇宙酔いは知ってはいたが、それ以外にも体液の再分配に応じて脚が冷たく感じたり、汗が噴き出るようになったりすることや無重力では徐々に日々筋力が衰えていく為、筋肉トレーニングやエクササイズが義務付けられていることなど。 また面白いのはラヴバンドという代物。これは無重力空間においてセックスをするときに相手を固定する為にどこかへ縛り付けておく為の物。果たしてこれは実在するのか?私は実在すると思う。なかなか面白いエピソードだ。 また宇宙では当たり前だが真空の為、窓を開けての空気の入れ替えが出来ない。したがって100%空気清浄システムに頼らざるを得ないのだが、クルーに体臭が強い人がいるとかなり不快感を感じることや、また宇宙から地球に戻った人たちはすべからく重力の恩恵によって膀胱と肛門が開いて排泄をしてしまうため、それらを回収する器を装着していることなど、非常にリアリティに富んだ叙述が実に興味深い。 さらには月面では一日の温度変化が激変することからそれにより地震が頻発しているなどという薀蓄もあった。月に関する研究はここまで進んでいるのかと驚嘆したものだ。 さらに興味深かったのは癌や心不全などの病気に対する治療方法や抗生剤の研究がさかんで年々発達していくのに対し、マラリアやデング熱といったある地域限定の病気に対する治療方法や抗生剤がなかなか進まないことについて、前者がいわゆる富裕層にも罹り得る病気であるのに対し、後者が未開の地に多く、富裕層が行かないところの病気で縁がないからと作中人物の口を借りて述べているところだ。 いやあ、これはまさに経済原理の厳しさというかあざとさを見せられた思いがした。確かにこれらの研究開発には莫大な費用がかかり、それらをバックアップするのは財界人や彼らの組織なのだから、自分に降りかからない不幸には全く関心がないのだ。つまりマラリアなどの病気を根絶し打破するには野口英世が黄熱病を根絶したように医療関係者の志に賭けるしかないのだろう。 う~ん、また自分の知らない世界を知らされてしまった。 最先端の科学そして技術情報をふんだんに盛り込んで紡がれたこの近未来SF超大作だが、それでもやはり人間のやることは万能ではない。 例えば月面のホテル、ガイアで供される魚料理を実現させる方法として海水養殖と答える件がある。しかしその後海の環境を月面で生み出す困難さについて得々と登場人物の口から語らせており、それに対する答えをぼやかして処理させている。 思うに現在これは確立されていない技術であり、作者自身もここが弱点だと思っていたような節がある。しかしながら現在では日本の山梨大学が好適環境水という海水魚と淡水魚が同一の水で暮せる環境を生み出す粉を発明しており、恐らくこの問題はこの方法で解決されるだろう。この辺のリサーチは残念ながら甘かったと云わざるを得ない。 その他サブカルチャー的な面についても記述は多い。どうやら2025年になってもビートルズやボブ・ディランはまだ聴かれているようだし、なによりもあの長大河SF小説ペリー・ローダンシリーズは映画化されているようだ。 確かにこれが実現すればかなり息の長い映画シリーズになることだろう。まあ人気があればの話だが。 3つの事件が本書の大きな流れであることは前述したが主流となるのは瑶瑶、屠天とサイバー探偵オーウェン・ジェリコたちと殺し屋ケニー・辛の攻防だ。 特にケニー・辛は影の主役ともいうべき存在感を放ち、再三再四に渡ってジェリコらをつけ狙う。『スターウォーズ』シリーズにおけるダース・ヴェイダー、『マトリックス』シリーズにおけるエージェント・スミス、それほどの存在感を持っている。 しかし長い。長すぎる。不要なエピソードが目立った。例えば赤道ギニアの歴史なぞは要約すれば2ページに収まるくらいの話である。それを起源から詳細に話すものだからどんどん長くなる。 とにかく知りえたことを全て書かなければ気が済まないという思いが行間から滲み出している。全体のバランスをもっと考えて細を穿つところを考えて欲しいものだ。 そして今回も多くの登場人物が登場し、そしてカタストロフィに向かうに従い、次々と死んでいく。 特に今回は月面へ招待された客が財界の著名人だったり、芸能人だったりと個性豊かな人物が勢ぞろいしているだけにキャラクターが立っていて、その悲劇性は増している。主要登場人物40名以上にも上る彼ら彼女らそれぞれにバックストーリーがあるため、ただでさえ長いこの小説がさらに長くなっている。 しかしこの構成は『深海のYrr』そのままだし、特に作者自身が揶揄しているハリウッド映画の手法とそっくりではないか。映画化を狙ったあざとさが非常に気になるのである。 情報小説というジャンルがあるが、これは情報過多小説だ。 物語に関係する全ての分野について事細かな情報を盛り込んでいるがためにこれだけの分量にまで膨らんでしまっている。 月面旅行の実現性やそして石油を取り巻く各国の駆け引きや智謀策略の数々、石油から次世代エネルギーへの転換の展望(『深海のYrr』でさかんに叫ばれていたメタンハイドレードに関する叙述が皆無なのは一体どういったことなんだろう?)、そして2025年にあるべきハイテクマシンの姿や仮想空間を利用した人々の生活様式などなど、自らがその道の専門家から取材し、またおそらく自身の想像も付け加えて詳細に述べたそれらの情報の数々は正直に云えばかなり削ることができたはずだ。 ストーリーの本筋である3つの事件に焦点を当ててこれらの情報をほんの彩り程度に語れば、もっとスピード感も増したことだろう。 恐らく実際取材に当たり、執筆に5年費やした作者にしてみれば、これでも泣く泣く削らざるを得なかったエピソードがあったのだとのたまうことだろうが、それは己が調べて得た知識を披露したいという自己顕示欲に過ぎない。つまりこの1巻平均570ページの4分冊という大作になった時点でこれは読者の目を無視したほとんど自己満足の領域に入ってしまっている。 もし作者がさらに語りたいことがあればそれらはまた別に本書で書けなかった情報を集め、本書を補完する形のガイドブックのような物を出版すればいいのだ。 小説とは物語である。小説を読むことで新たな知識を得るという知識欲の充足を求める人も確かにおり、私もその中の一人だ。 しかし基本は物語なのだ。 従って足し算引き算というのは必要なのだ。 『深海のYrr』の成功以降、シェッツィングは小説家として間違った方向に進んでいるのではないだろうか? 訳者あとがきによれば本書は本国ドイツでベストセラーを記録したそうだが、これは国民性なんだろうか、とても信じられない。 日本の村上春樹作品のようにシェッツィングも出せばベストセラーになるような風潮になっているのかもしれない。 このくらいの長さになるとスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』シリーズのように大きく1つの話という括りにしLIMIT4部作としてシリーズ物として出版し、1冊ごとに小さな事件の結末を描いて最終巻で全体を貫く大きな事件の結末を描くという構成にした方が読者にも優しいだろう。 事実、私は途中流し読みした箇所が何箇所もあった。内容の割には意外に心に残らない小説。そういう風に落ち着いた。 失敗作、駄作とまでは云わないが佳作とするには首肯しかねる。 しかし今回はいやにシンプルな題名に落ち着いたものだ。原題と全く一緒。通常ならば今までの傾向からして『宇宙の~』とか『月面の~』とか一見意味の解らないドイツ語と組み合わせて煙に巻くようなタイトルにするかと思ったのだが、今回はそのものズバリで来た。 もしかしたら今までのシェッツィング作品の感想で書いてきた要望が受け入れられたのかしら。まさかね。 しかし重ね重ね云うが、これほど徒労感が残る小説も珍しい。誰かシェッツィングにもっと刈り込むようにアドバイスしてくれ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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フランク・シェッツィング第2作目。1作目が13世紀のケルンを舞台にした歴史物で、2作目はグルメ警部が主人公のコージー・ミステリとガラリと趣向を変え、多彩振りを見せている。
文体も1作目に比べると軽妙だが(まあ、訳者も違うのだが)、どうもこの作家の文章は私には合わないように感じた。 今まで私は数多くの海外作品を読んできた。従って普通の読者がよく云うような、人物の名前の区別がつかない、舞台が海外で馴染みがないので解りにくいといったような抵抗感無しに物語に入っていけるのだが、この作家の場合は少しばかり勝手が違うように感じる。 一番感じるのは、本書で作者が前作にも増して散りばめているウィットやユーモアがこちらに頭に浸透してこない事。そのため、各章の最後に書かれた締めの台詞が私にはビシッと決まらず、頭に「?」が浮かんだり、もしくは「ふ~ん」という程度で終ってしまうのだ。 もしかしたらこれは作者のユーモアセンスではなく、ドイツ人共通のユーモアセンスなのだろうか?アメリカやイギリス、そしてフランスの作家の作品を読んできたが、これらの国のユーモアに比べて、洒落てはいるとは思うが、機知を感じるとまではいかない。 ではミステリとしてはどうかというと、2つの殺人事件が起きるわけだが、この真相はなかなかに入り組んでおり、なるほどとは感じた。 さて題名に「グルメ警部」と謳われているように、主人公キュッパーは美味い物に目がないが、この手の作品にありがちな料理に関する薀蓄が展開されるわけでもないため、際立って美食家であるという印象は受けない。 むしろ、普通に美味い物が好きで料理も出来る男が警部だったというのが正確だろう。 また巻末にはケルンの街の有名な店の名前と料理のレシピが載せられているが、これらが作中に登場したのか確信が持てない。読み慣れないドイツ語表記の料理名は私がドイツと料理の双方に疎い事と相俟って、想像を掻き立てられなかった。 そんな私はこの本を読む資格がないと云われれば素直に認めざるを得ないが。 登場人物も個性があり、例えばドイツ人なのに、イギリスの執事に憧れる召使いシュミッツを始めとして―ただこの特異さについては日本人である私にはいささか解りかねるところがある。なぜならドイツも城が多くあり、貴族も多いため(「フォン」とは貴族の称号だし)、執事がいることがさほどおかしいとは感じないのだが―、被害者インカの夫フリッツとその影武者で元俳優のマックス、絶世の美女であるフリッツの秘書エヴァに大富豪の娘でありながら、動物園の飼育係であるマリオンなど、役者は揃っているが、彼ら彼女らの台詞が前述のようにこちらの頭に浸透してこないので、作られた紙上だけのキャラクターとしか映らなかった。 しかしこの作者はきちんとクライマックスシーンをアクションで見せるところに感心する。『黒のトイフェル』にも大聖堂の屋根上での迫力ある格闘シーンがあったし、今回は動物園を舞台に追跡劇とライオンの柵の中での攻防ありと、サービス満点だ。 この2作に共通するのはこれらアクションシーンが非常に映像的だという事。広告業界で働いた経歴を持つ作者だから、こういったお客に“魅せる”手法を常に意識しているのだろう。 まあ、しかしまだ2作目。この作者の真価を問うにはまだ早すぎるか。次の『砂漠のゲシュペンスト』で上に述べたような不満が解消されるのか、はたまた世評高い『深海のYrr』まで待たなくてはならないのか。 ともあれ、過大な期待をして臨むことだけは避けて、次作に取り掛かることにするか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫上中下巻という大巻でありながら、世の好評を得た『深海のYrr』。
その作者フランク・シェッツィングの作品を読むに当たって、まずはデビュー作となる本作から読んでみた。 13世紀のドイツ、ケルンを舞台にした貴族の陰謀に巻き込まれた盗人の物語。 『オリヴァー・ツイスト』のような物語を想像したが、濃厚さに欠けるように感じた。 大聖堂の建設が行われるケルンでその建設監督であるゲーアハルトが転落死する。しかしたまたま大司教の林檎を盗みに入ったヤコプは現場を目撃してしまう。事故と思われたその事件にはゲーアハルトに寄添う影があり、ヤコプはそれを捉えていた。 この殺し屋ウルクハートはある陰謀の下、集った貴族の結社が雇った殺し屋。彼はヤコプが目撃した自分の犯行と死に際にヤコプに漏らしたゲーアハルトのメッセージを抹殺せんと執拗に追う。 痛いのは物語の主役を務めるヤコプがさほど聡明ではなく、偶然の連鎖で身に降りかかる災難を避けているに過ぎないことだ。 こういう物語ならばやはり社会の底辺でしたたかに生きてきた盗人が狡猾さと悪知恵で大いなる陰謀を乗越えていく姿を見たいものだ。 そして物語の背景を彩ると思われた大聖堂建設が全く響かないことだ。 物が作られるというのは、物語が作られることの暗喩となる。特に今回のような話では大聖堂の建設が最高潮に達するに従って、貴族らの陰謀もまた最高潮に達するという劇的相乗効果が出来たはずなのだが、シェッツィングはそれをしなかった。これが非常に勿体ない。 大聖堂建設、貴族らの陰謀、そして1人の殺し屋の暗躍と物語を盛り上げるに事欠かない要素をこれだけ盛り込みながら、熱気がほとんど感じさせないとは、ほとんど罪のような小説である。 そしてケルンの貴族連中で結成された結社がなぜゲーアハルトを手に掛けたのか、この謎が曖昧模糊として物語の牽引力になっていないように感じた。少しずつ陰謀の手掛かりを晒しながら徐々に全貌を明らかにしていく語り口を期待していただけに残念。 これがデビュー作なのだからそこまで要求するのは高望みか。 しかしこの物語の主人公はヤコプというよりもこの殺し屋ウルクハートだと云えよう。金髪の長髪を湛えた長身のその男は目に奈落の底を感じさせる。彼の脳裏に時折過ぎるのは暗闇に鳴り響く人のものとは思えない悲鳴の波。元十字軍騎士だった彼がなぜ殺し屋に身を堕としたのかが物語の焦点の1つとなっている。 原題である“Tod Und Teufel”は英語に直すと“Death And Demon”だろうか。ドイツ語には明るくないのでWEB辞書でそれぞれの単語を調べて繋げると「死と悪魔」となる。この悪魔とは即ちウルクハートのことだろう。 しかし『黒のトイフェル』という題名はミステリアスで、読者に「どういう意味だろう?」と食指を動かす魅力はあるが、読み終わってもその意味が伝わらないのは明らかにマイナスだろう。 ドイツ語の「トイフェル」と聞き慣れない一種蠱惑的な響きを敢えてそのままとしたのだろうが。やはり題名というのは人の興味を惹きつけつつ、読了後にその意図が明確になるのが一番だろう。版元はもう少し配慮をして欲しいものだ。 しかしあとがきによれば、本書は本国ドイツでベストセラーを記録したらしい。ドイツにはよほど面白いミステリ・エンタテインメント小説がないのだろう。 まだ見ぬ傑作が山ほどあるドイツ国民はなんとも羨ましい限りだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作も前作同様、第一次大戦開戦の火花がいつ起こるか解らない1913年を舞台に歴史上の人物らとシャーロック、マイクロフト、セバスチャン、ワトスンらが共同し、諜報活動に乗り出す。
前回はアメリカが舞台だったが今回はタイトルにもあるように、ロシア。 自由の国の諜報活動とは勝手が違い、社会主義国家のロシアでは警察以外にも総国民が皇帝秘密警察の手先のように、異分子に対して監視の目を配り、何かあれば報告されているという、セバスチャンにとっては四面楚歌状態がさらに強まった困難な任務となった。 しかもまだロマノフ王朝が国を治める時代の話。 しかしレーニン、スターリンら、後のロシア革命の立役者たちの暗躍も同時に語られ、ロシアの歴史の大転換期と第一次大戦が起こるか否かの瀬戸際の非常に緊迫した雰囲気の中にセバスチャンは晒されており、前作にも増して状況はスリリング。 さらに前作同様、皇帝一族の娘とのロマンスもあり、諜報活動に加え、仕事先の恋もありと、イアン・フレミングのジェームズ・ボンド張りの活躍を見せるセバスチャン。 しかしそれでもなお、なんだか割り切れない物を感じてしまう。 シャーロック・ホームズのパスティーシュ物でありながら、エスピオナージュ作家フリーマントルの特性を生かしたスパイ小説という新たな側面を持ったこのシリーズ。前回はホームズ物という先入観から感じた違和感を拭いきれなかったと述べたが、どうも本作を読むに当たり、違和感の正体はどうもそれだけではないことに気付いた。 それは本作で描かれるシャーロック・ホームズ像である。 正典で描かれるホームズとは超然とし、達観した人物像であり、全てを見抜く全能の神的存在であるのだが、本作では息子とうまくコミュニケーションが取れずに苦悩する父親像、自身の叡智を絶対な物と信ずる自信家、躁鬱の気が見られる非常に情緒不安定な人物像が前面に押し出されている。 従って本作のホームズは時に麻薬の力を借りられずにはいられない弱さを持った人物であり、それを息子のセバスチャンは当然のこと、パートナーのワトスン、兄のマイクロフトらが常に心配している。 特に「わたしは失敗によって苦しむという経験をほとんど味わったことのない男だ」といいつつ、セバスチャンを兄に預け、長く別れていた事を悔いていると自戒するのが象徴的だ。鋭敏さよりも他国で危ない橋を渡る息子に心配し、息子との心の和解を望む弱さを持ったホームズ。 つまりフリーマントルの狙いは云わば御伽噺の人物であった正典のシャーロック・ホームズを長所もあれば欠点もあるという現実的な非常に人間くさい人物として描く事にあったと云えるだろう。私見を云えば、もはや世界一有名なこの探偵はもはや偶像視されており、正典のイメージが定着しているので、この手法はやはり合わないのではないかと思う。 世の中にはいわゆる“スター”と呼ばれる人々がいる。ミュージシャンや映画俳優など、多数の人々が崇拝する存在。彼らは私生活が謎めいているのもまた自身の魅力の1つになっていると思う。 もしそのような人物の私生活、家族内での立場などを知らされ、それがもし我々もしくは近所に住んでいる人たちとあまり変わらないものであれば、自らが描いていた偶像が壊れるような失望感を得るのではないだろうか? 本書で抱くのは正にそういった類いの感覚である。 こういうホームズをシャーロッキアンが期待しているのかどうかというと疑問を持たざるを得ない。他の人の意見も訊きたいものだ。 私なりにこの設定を効果的に活かされる方法を考えてみた。それはセバスチャンが何者か知らされず、彼の協力者を叔父マイク、父の友人ジョンといった具合にファースト・ネームや愛称だけの表記にして、物語の最後に実は彼のラスト・ネームはホームズであり、父親はあのシャーロック・ホームズだったと明かされる手法だ。 これだともし作中でシャーロックが上記のように描かれていても、サプライズと共にすんなり受け入れられたように思う。 第一次大戦前のロシアの情勢を詳らかに描く歴史ミステリであり、スパイ小説であり、またホームズ物のパスティーシュでもある本書。確かにこの上なく贅沢な作品なのだが、上記のような理由でどうしても私には手放しに賞賛できなかった。 |
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