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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全89件 21~40 2/5ページ
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この三部作から村上春樹を読んでみようと思いました。面白そうです。 | ||||
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前作「風の歌を聴け」のテーマを引き継ぎながらも、物語の構造はがらりと変わります。 次作「羊をめぐる冒険」への布石でもある本作ですが、唯一無二の世界観が光ります。 僕はピンボールをめぐる探索に挑み、一方で鼠は700キロ離れた街で思索を深めていきます。 【「僕」の物語】 直子を失った4年間の絶望の日々に終止符を打つために、僕は出口を捜し始める。 そんな日曜日の朝に双子が僕の部屋に現れて、僕の運命を導き始めた。 過去にしか繋がりを持たない僕の心を象徴する古い配電盤を彼女たちと見つけ、 死にかけたその配電盤を記憶の貯水池の底に沈める。 それから、繰り返されるピンボール・ゲームのような自己完結してしまった僕の世界観と向き会う。 東京の果てにある養鶏場の冷凍倉庫で、「3フリッパーのスペースシップ」に再会するシーンが物語のクライマックス。 そこには他にも恐ろしい数のピンボール台が、忘れられた過去の思想のように眠っていた。 僕はピンボール・マシーンに最後の別れを告げる。 全てが終わり、気がつくと僕の耳は素晴らしく鋭敏に世界中の物音を聞き分けていた。 【鼠の物語】 この小説は「僕」の話であるとともに鼠の話でもある。 鼠の自己対話は独立していながらも、同時進行する僕の意識世界と共振していく。 金曜日の夜に鼠は女に電話するのをやめる。 深い眠りがやってくるまで、「肉体が少しずつ実体をなくし、重さをなくし、感覚をなくしていくのに耐える。」 彼はきっと過去の記憶を追体験しているのではないだろうか。 鼠は誰にも何も語らないことを決意し、古い街を出て行く。 鼠の謎は持ち越されました。 次作「羊をめぐる冒険」ではこれまでの閉じた小さな人間関係の物語が、 歴史と文化を背負ったスケールの大きな物語へと展開していきます。 長編作家村上春樹がいよいよ誕生します。 | ||||
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他の方々の本作レビューをひと通り読んで、まだ書かれてなさそうなネタバレを。 双子がビートルズの「ラバー・ソウル」を主人公に内緒で買ってきて流した時になぜ主人公は黙ってしまったのか・・・本作ではその明確な理由は書かれてないが、この伏線は作品を越えて回収される。 ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」は「ラバー・ソウル」に収録されているからだ。 小説「ノルウェイの森」の中で、直子が大好きだった楽曲。 出版された順番は違うけど、時系列は1968-69「ノルウェイの森」→1970夏「風の歌を聴け」→1973秋「1973年のピンボール」なので、本作の前に「ノルウェイの森」を読んでると、ピンボールに込められた想いや嵌った理由がだいぶ理解できると思う。 あと幾つか思うところを書くと、個人的には本作自体が「ピンボールというゲーム機器本体」に見立てられてるのでは、と思った。 ~虚無的に感じられる部分は「死んだ時間を提供するだけのピンボール(=今の生き方)をいいかげんやめたい、でもやめられない、変わりたい、変われない」という日々の堕落と呪術性(中毒・依存)を表す~ ↑煙草・酒・ゲーム・パチンコ・スロットなどに嵌り過ぎてダメ人間になった経験がある人はこの感覚がわかると思う。 ~配電盤を捨ててみたり養鶏場の冷凍倉庫に行ったり(主人公)、ジェイに町を出ることをなかなか告げられず何度もバーに通ったり(鼠)~ ↑人間は本当にやめたい何かを卒業する時、時間を無駄にして決意と挫折を繰り返したり、誰にも秘密の個人的葬式儀式を何度も繰り返した果てにある日ようやくやめることができるものだと思う。 『依存した何かを喪失した恋人に見立てる自己正当化(=擬人化)、堕落と中毒の繰り返しの果ての卒業・旅立ち』・・・これらも人間の持つ普遍性であり、これが本作のテーマ(=寓意・アレゴリー)の1つではないかと思った。人類普遍のと言った大きなものではなく、地べたに這いつくばるような個人のちっぽけな日常的テーマではあるけど。 それを読者に感じさせるためには変わらないダラダラとした虚無の日々・何度も行う卒業的儀式の描写は必要だし、その果てにようやくピンボールを卒業できる(本作を読了する)というカタルシスを味わえる構成になってるんだと思う。 大体、作者が読者に対して「ハヴ・ア・ナイス・ゲーム」とか「もしあなたが(本作=ピンボールを通して)自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう」とか皮肉的なこと言っちゃってるし。他にも「リプレイ、リプレイ、リプレイ」とか、「繰り返しだ」というフレーズも多いし。だから虚無の日々や葬式的儀式が何度もリプレイされてるのだろう。 本作自体をピンボール機器に見立てる(=読者に虚無と中毒を体感させた果てに卒業させる)という実験的試みがわかりづらいのが、本作が3部作の間に挟まっていまいち人気がないとされる理由ではないだろうか。 あと、「主人公と鼠」は直喩やメタファー・キーワード的単語を入れ換えても文脈が通じるものが多いので、2人1役と思って問題ないと思う。それを狙ってわざと共通する言葉を使ってると思うし、直接的絡みはないけど2人は無意識下でつながってるという設定かと。たとえば、鼠が「いったいどれだけの水を飲めば足りるのか」と思ったら、主人公が双子に「バケツ一杯分もの水を飲まされ」ますよね(私も3.11の時は被災者じゃないのになぜか異様に水が飲みたくなった)。 そして、何かの中毒になってる人間は誰かの助けなしには脱出しづらいもの・・・救いの存在の象徴として双子が現れ、癒され、卒業儀式を行うことを啓示され、まだ引きずる時もあるだろうけど一応は卒業できたから去っていったんだと思う。だから本作ラストで、トラウマでもある「ラバー・ソウル(ノルウェイの森)」を聴くことができたのだと思う(小説「ノルウェイの森」の冒頭では、1986年37歳になっても飛行機内で流れた「ノルウェイの森」に心を乱されるから完全にトラウマを無くすことは不可能みたいだが)。 | ||||
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本でも持っているが、通勤中など読みたいときにすぐに読めるように電子書籍でも買ってしまいました。 | ||||
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僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に付き合っていた直子。彼女とは、1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている自分の生活を描いている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子という日常の情景を詩的な文章で綴っている。 この物語を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンは、付き合っていた直子という女性を表し、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くというのは、彼女が現在勤めている異質な世界(夜の稼業?)に会いに行ったという解釈ができる。「スペースシップ」でゲームを行うことは彼女との性行為のメタファーだ。そう解釈するなら彼女はもちろん現在も死んでおらず、15章に出てくる傍線が引いてある部分はそういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、無力(経済的に?)な自分は何もしてやることが出来なかったということを表現しているのではないか。双子の姉妹について人物造形が立ち上がって来ないように描いているのは、直子への思いが強く残っているからその後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表している。 というのが私の解釈です。 | ||||
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(あらすじに触れている部分あり) 僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に、僕は直子と付き合っていた。僕は、彼女と1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子。詩的な文章で日常を描写しながら、僕の心の深い所に刻まれている思いを、明に暗に紡ぎ出している。 この物語を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンはつまり僕が付き合っていた直子のことであり、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くのは、彼女が現在勤める異質な世界(夜の稼業?)まで僕が会いに行ったことを示している。「スペースシップ」でゲームを行うことは、彼女との性行為のメタファーだ。よって彼女はもちろん死んでおらず、15章に出てくる傍線部分は、そういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、僕が無力(経済的に? 踏み越えるべき何らかの一線を踏み越えることが出来なかった?)で、結局何もしてやれなかった悔恨や、叫びたいような衝動、そして混乱を、ピンボールのゲームとオーバーラップさせているのだといえる。双子の姉妹について(わざと)人物造形が立ち上がってこないように描いているのは、直子への思いが強く残っているために、その後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表す。 と、読んだ。解釈の楽しみをじわりと与えてくれる小説だった。 | ||||
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最近、新潮文庫から出刊された村上春樹さんの『雑文集』によれば、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」であると述べている。さらに、「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」と語る。そして、「仮説を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」(前掲書「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」から)と言っている。 この『1973年のピンボール』は、「群像」新人文学賞を受賞した『風の歌を聴け』に続く、「僕」と「鼠」の二段構えの物語だ。前作では、1970年の8月8日から8月26日までの出来事を縦糸とし、アメリカのデレク・ハートフィールドという作家(もちろん、私は知らない)を横糸として筋立てているわけだが、本作では、1973年の秋から冬にかけての出来事を縦糸とし、擬人化されたスペースシップ型ピンボールを横糸として、物語が展開されている。それぞれにメインとなる女性も登場するのであるけれど、前作では左手の指が4本しかない女性が何とも印象的だ。 この作品では、「僕」は「双子の姉妹」と同棲、同衾している。村上さんは、小説の素材を前掲書で「マテリアル」と称しているけれども、本作では、この「双子の姉妹」が「マテリアル」として相応しかったかどうか、私は些か疑問が残る。確かに、「物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」であろうし、読者は、村上さんが敢えて残した“余白”に、想像力を働かせ、己れ自身を投影する形で行間を埋めざるを得ない。ただ、私個人としては、「仮説」として不安を抱かせる「双子の姉妹」に恃むよりは「一人の女性」を望みたい。 | ||||
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自分は氏の小説の大半が嫌いですが、この本と『風の歌を聴け』は大好きです。 美人のガールフレンド(候補)と行ったレストランでの食事を「凝縮された食費の味」と表現する主人公は他の作品には出ないですよね。 読みやすい上に安いので沢山の人に読んで欲しいです。 | ||||
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若いころ読んで、あまり印象に残らない作品だと思った。 今読んでみるとすごくおもしろかった。 今後の長編でくり返される’失われたものとの会話’のなかで、ピンボールとの会話が最初で最大のストレートでわかりやすい表現をしていると思った。 胸にささる。 物語としては弱めなのかもしれないけど、逆に無駄のない小説だと感じるようになってきた。 | ||||
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村上春樹の小説に共通するのですが、“僕”と“鼠”を、同じ時代を生きている“ふたり”と解釈しても良いし、“ 僕 = 鼠 ” としても、一向に問題ないのでしょう。 村上にとっては、 “僕” と “鼠” が同じ空間、時間にいても、実は “ひとり” のことについて記しているのです。この作品では、 “鼠” はより現実の人間が生きていくうえでの、主人公の感情の揺れを丁寧に記述するために登場させております。それは“鼠”につて記述した項目を抜粋して読んでいけば、「1973年の秋には、何かしら底意地の悪いものが・・・」で始まり、「・・・これでもう誰にも説明しなくていいんんだ・・・、もう何も・・・」で終わる、優れたリアリズム小説(純文学?)になることでも分かります。 一方、 “僕” についての記述は、(恋人との別離を含め)青春期から大人への成長に伴い、まるで、これまで使ってきて、機能疲労が顕在化しつつある配電盤(その基板の上には良心のようなものが載っている) を新しい配電盤に切り替えるように、加齢と伴に汚れていかざるを得ない、人間の精神の移動を冷静な第三者的な目でとらえたもの、と感じました。“僕” につて記述した段落では、現実には存在しない双子を僅かに残されている心の安らぎの暗喩として登場させ、歌舞伎の狂言回しのように使っております。 その後の作品で、テーマは種々ありますが、このような一人の人間についての「二元的」な書き方は筆者が確立した表現法(小説の構造)だと思います。 | ||||
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初期の村上作品の特徴がよく出ていて、 最初から最後まで楽しめました。 愛読書として永久保存です。 | ||||
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Thank you so much for your help. Great Supplier. | ||||
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デビュー作、風の歌を聴けの続編です。 風の歌を聴けよりも、物語に繋がりがあり、読みやすくなっている。ピンボールというゲームを通して、主人公の青春が描かれています。 この僕の冒険シリーズは羊をめぐる冒険という長編良作へと続きます。良作に挟まれた故に、この作品は地味な印象を与えますが、僕は割りと三部作の中で、一番好きかもしれない。 春樹節が至るところで見られ、春樹氏自身が憧れる双子との生活の描写はさすが細部までこだわりがあるようにみえる。シュールさを感じさせてくれるが、淡々としてる部分も多い。それが地味な印象を与えるのかもしれない。 この作品が気に入れば、羊をめぐる冒険があなたの期待を裏切ることはない。 | ||||
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「スペースシップ」という名前のピンボール台との再会を描くところが秀逸。 疲れた体を引きずって、東京から横浜に帰る電車の中で読んでいた自分が懐かしい。 | ||||
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http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062749114/ref=cm_cr_ryp_prd_ttl_sol_26 | ||||
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ピンボールと双子の女性との生活の物語である。 また、次の小説である「羊をめぐる冒険」のエピローグでもある。 デビュー作と同様に、タバコと酒と女が現れる、出口のない作風である。 | ||||
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やっぱり日本語の方が乾いた感じが伝わるな~。クールなんだけどね! | ||||
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1973年のピンボール。最初、このタイトルからどういった物語が繰り広げられるのか、全く想像がつきませんでした。村上春樹さんが創り出す世界観はかっこいいなあ、と思いつつ、普通に本書を読み進めていくと、途中からみるみる話がタイトル通りピンボールに引き寄せられていきます。そして、本の最後の方で、主人公とピンボールが対面するシーンがあるのですが、そこでホロリと涙をこぼしそうになりました。主人公や彼をとりまく登場人物たちには悲劇的な展開もないし、なんで泣くのか自分でも分かりませんでした。しかし、ふと泣きそうになったのです。こういった自分の素の心に語りかける村上春樹さんの文章の凄さを、自分は本書を通じて初めて感じる事が出来ました。 | ||||
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「ぼくと鼠もの」シリーズ第二弾です。 デビュー作である風の歌をきけを読まずとも大丈夫だとは思いますが、それでも読むに越したことはないので、先にそちらをオススメします。 結構、地味な作品のですが、ぼくがピンボールの彼女に語りかけてる場面や鼠がジェイに別れを告げるシーンなど印象的です。 | ||||
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「風の歌を聴け」読み始めて、順序が逆であることを知った。 「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の順で書かれ三部作と呼ばれているらしい。 ここに、「僕」と「鼠」の原点があった。 これから読む方は、この順で読む方がよいだろう。 **読後のレビュー** アパートの部屋には電話がなく、大家の電話を取り次いでもらう。 自分の学生時代を懐かしく思った。 とても心地よく読むことができた。昨今の村上春樹文学につながるものがある。 長いプロローグで始まる。 登場人物は、僕、主人公だ。そして鼠、これも主人公だ。「僕」と鼠はジェイズ・バーのピンボールマシンでつながっている。 ジェイズ・バーのジェイ、鼠の彼女(中古のタイプライターを譲り受けたのが縁だ)、(僕の昔の恋人)直子、僕の共同経営者、事務の女性、大学でスペイン語を教えている講師くらいだ。 忘れてはいけない、僕には双子の同居人がいた。 名前がわかるのは、直子ぐらいだが、エピローグに一度登場するだけだ。 エピローグにもう一人いた、金星人の彼だ。彼は、金星に帰ったのだろうか。 内容を話すのは、むつかしい。 村上氏のストーリーにはよくあるが、この小説でも二つのストーリーが同時進行で流れる。 多くは、最後に交わって終わるのだが、「1973年のピンボール」については交わりがなく終わった。少なくとも私にはそう思えた。 1つは、僕のストーリーで、双子が部屋を出て行き分かれることになる。 もう1つは、鼠のストーリーで、鼠が町を去ることになる。 話は、二つの別れでおわるが、きっと、新しい生活が始まるのだろう。 懐かしいものが、たくさんでてくる。 固定電話 タイプライター コダックのポケットカメラ(確か、110;ワンテンと呼んでいたと思う) ジュークボックス ピンボールマシン ストーリーの一部分を思い出してみた。 直子は、駅のホームを縦断する犬の話を僕にした。僕は、その駅に犬を見に行った。 ピンボールの第1号機はレイモンド・モロニーにより発明された。 「ペニー・レイン」村上氏の他の小説でも見たように思う。 鼠かジェイの言葉、「殆ど誰とも友だちになんかなれない。」 アパートの2階の女性との会話、「電話ですよ」と僕が取り次ぐ、「どうも」と彼女が答える。それだけの関係だが、彼女が立ち去る前にいちど僕を訪ねてきた。 ジェイズ・バーで: 鼠、「僕は25年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がするんだ。」 ジェイ、「あたしは、45年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。・・・」 僕が、1970年にジェイズ・バーでビールを飲みつづけていた頃、ピンボールは上手じゃなかった。その頃、鼠は、ピンボールが上手だった。僕と、鼠の接点はこのときだけだったように思う。 僕: 1970年終わり:硬貨を放り込みプレイ・ボタンを押すと機会は身震いでもするように一連の音を立てて10個のターゲットを上げ、ボーナス・ライトを消し、スコアを6個のゼロに戻し、レーンに最初のボールをはじき出す。(臨場感が伝わってくる) 僕もその頃には上手になっていた。 鼠は2回しか入ったことにない彼女の部屋を思い出していた。(この頃には、別れと、町を出ることを決めていた。 僕が、ジェイズ・バーでプレイしたピンボールマシンは、スペイン語の講師によると、 特別なマシンだった。 3フリッパーの「スペースシップ」 スペイン語の講師、「シカゴのギルバート&サンズの1968年モデルです。悲運の台として少々知られたものでしてね。」 1500台中3台が、日本に輸入されており、2台は既にない。 1台は、行方知れず。 スペイン語の講師が探し出した。 スクラップになる前のマシンを愛好家が、持って行った。 愛好家は、78台のピンボール・マシンを鶏の加工品の大きな冷蔵用倉庫に綺麗に整列させて保存していた。 僕は、大きなスイッチで電源を入れ、彼女達(ピンボール・マシン)の中にいた。しばらく話し込む。ゲームはしなかった。 寒さにふるえ、双子の待つ部屋に帰る。風呂で体を温め、缶詰のオニオンスープを飲んだ。(缶詰のオニオンスープは見たことがない) ジェイズ・バーで、鼠はジェイに町をでると告げるのは辛く、話せなかった。 ジェイ、「ねえ、誰かが行ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め。」(ジェイは、いいことをいう) 鼠、女と別れる。「金曜日の夜に電話をかけないだけ、簡単だ。」 何だったんだろうかと思う読後感だが、みょうに清々しい。 スターバックスで一人秋の読書の時間を楽しませてくれた。 | ||||
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