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ひとり日和
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ひとり日和の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全77件 1~20 1/4ページ
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フリーターの娘が親戚のお婆さんの家へ転がり込んで、一年間過ごした時の話。 別れて、出会って、また別れて。 吟子さんから何かを学びそうで、でも結局何も変わらなくて。 人間、自分の答えは自分で見つけるしかないし、実際に何かを得て変わるなんてことはあり得ないのかも。 でも、そんな現実が欲しかった訳じゃなくて、これはあくまで本だから…少しは良い刺激が欲しかった。 | ||||
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遠戚のお婆さんとの同居を通じて、主人公の女性が成長というか自立していく姿が伝わってきます。 直接的な表現でないく、何気ないやりとりや仕草で、雰囲気で伝わってくるので不思議な感じがします。このため、人により合う合わないがありそうです。 とても印象に残りましたのて、この方の他の作品も読んでみたいと思います。 | ||||
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私は主人公の気持ちが分かりすぎて、息がつまった。 私のことを書いているのかと思うほど核心をついていて認めたくないけど、認めざるを得ない作品でした。 感情移入しすぎて普段小説は一週間くらいかけてダラダラ読んでいるのに、この作品は三時間ちょっとで読んでしまった。 とにかく胸が苦しい作品でした。 でも、読んで良かったです。 | ||||
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表紙からしてもう少し心が晴れるような物語かと思って購入してしまった。 平成になりたてくらいの時代のお話か、今読むとだいぶノスタルジックな感じ。 自分がもうどちらかと言えばおばあさんに近いせいかも知れないけど、主人公に感情移入出来なかった。 なんだか口の中に嫌な味が残る食べ物を食べた感じ。早く次の美味しいもので口の中をリセットしたい。 | ||||
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芥川賞作品だが、良い意味で安心して読める作風。肩ひじ張って新しいものを書こうとせず、作者の視界の世界を丁寧に端正に描く。生きる形が定まっていない二十歳前後の女性が、人とのつながりや別れを通して、少しずつ自分の世界を作っていく。平明なので取り立ててうまい文章とは思わせないが、心の動きを描くとき、細かい揺れ動きをみごとに捉える文章がある。 ただ肉体の生理感覚のような生々しさには欠ける。それも作家の個性なので、ないものねだりしても仕方ないが。 | ||||
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高卒で世の中に出ていった女性の葛藤を描いた小説。実に素敵な作品ですね。 いろいろな世の中の制約のあるなかで、コンパニオンや駅の販売員として健気に生きている。恋愛も一度ふられて、駅のなかで見初めた一人の男との恋愛が成就する。結局、二度目の彼氏にも飽きられてしまうのだが、駅のホームの電車音の聞こえる家に老婆と住んでいる彼女は、よりをもどす手立てがない。三度目の相手は会社の同僚で既婚者。 社会に本格的に出ていくまでの女性の危うさと、女性が大人になってゆくまでの過程を描いた作品。 | ||||
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若者の成長の過程を感じる作品です。 とてもさわやかな作品に仕上がっていると思いました。 | ||||
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吟子さんと知寿の問答が禅問答か、人生問答のように聞こえ、二人の周りで起こるすべてのイベントは、そんな問答を彩っている。そんな感想を持った。よい作品だと思う。 | ||||
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だいぶ前の芥川賞受賞作ということで、読んでみたが、好きになれる話ではなかった。20歳の主人公が、歳の割に幼すぎないか。彼女には、人を不快にさせる力がある。彼に逃げられるのも当然。71歳の同居人のおばあさんは、老けすぎている。今時、71歳なんてもっと若いだろう。85歳くらいな感じだし、おばあさんの一人暮らしで清潔感のない家というのもまた不快だった。と、文句をつけ出したらきりがない.。文章力はあるのに、もったいない。不倫デートに向かう最後のシーンも、不快な終わり方であった。再読はありません。 | ||||
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日経に載った短文を読み、描写力に傑出した力量を感じ、この本を手にとった。 しかし主人公は共感を許さない上、描かれているに日常にリアリティーが無い。 そして全体のトーンのイヤーな感じ。 これは今の時代のせい?才能を惜しむ。 | ||||
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両編ともに20代後半特有の人生や仕事に対する悩みをいろんなかたちで描き、最後の数分のパートで悩みからの脱却・前進をそれとなく描写して終わる。良くも悪くも読んだあとに形容しがたいものが残る | ||||
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ダラダラと最後まで自己満足的な言葉遊びが続く。 小説とは何か物語が展開される物の事を言うのだと思うが、 これは何もない。ただのお子ちゃま娘の日記だ。 ラノベの方が面白い。 | ||||
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小説は自由に読めばいいものです。 だから、この小説を「なにも起きない平凡な日常を淡々と描いた身辺雑記のたぐい」と読んで、 そこから、小春日和みたく心地よいと評価しても、退屈でつまらないと貶すのも、読者のまったく自由です。 けれど、「うるさがたの芥川賞選考委員が、そんな雑記のたぐいをあこまでほめるんだろうか?」、 あるいは、「プロの読み手でもある選考委員たちはどう読んだのか」と気になる人には、 選考委員の選評がヒントになるかなと思います。 「観念から出てきた作品ではなく、作者は日常の中に良質な受感装置を広げ、採るべきものを採って自然体で物語をつむいだ、かに見えるのは、実はかなりの実力を証明している。」「要点が押さえられているのに作意は隠されている。」(高樹のぶ子) 「落ちついて書いてある。この作者は見るべきところをしっかりと見ている。無駄がない。小説は表現するものであって、理屈で説明するものではないことも知っている。」(河野多恵子) つまり、これらの委員は、 1. 身辺雑記のふりをしているけど、裏に「書きたいこと」を隠してる。自然体にみえるけど、それは技巧だ。 2. 無意味にだらだら書いてない。無駄がない。つまり、どの箇所も狙い、目的がある。 3. 理屈での説明がない。つまり、登場人物の行動は描くが、それを「~だから」と単純な観念に収めてない。 と読んでいるんです。 たとえば、あの「庭でのブリッジ」の箇所です。 私、今まで、ブリッジする若い女の子がでてくる小説って読んだことない。だから、すごく印象的です、ホントは(追記 これを書いたとき武者小路実篤の『愛と死』を未読だった。宙返り!)。 ですが、わたし、この箇所が担っている意味を、一回目に読み落として、二回目で気づいたんです。 ここ、スーパー開店って既知の話題から始まって、ひとつひとつは明解だけど、 関連が見えにくいばらばらの情報がヅラヅラ続く上に、 風船が出てきて、浮ついている、はしゃいでるとは分かる。で分かった気になって読む飛ばしてしまった。 多分、「女の子のブリッジ」に「すごく喜んでいる」という「感情表現という観念」、「説明」の誘導がついてないから。 日常でこんな行為をを目にすれば生じる当然の疑問をスルーした訳です。 「なにをそんなにはしゃいでいるの?」って。 で、読む直せば端的に書いてある。段落の最初のところに。その理由が。 「次の日、藤田君の家から帰ってきたら」って。 ご丁寧に、一行分の空白まで取って。 その前は、藤田君と初めて結ばれて、彼がホームで手を振ってくれる場面だから、 この「藤田君の家からの帰宅」って、二回目の交渉が早速あったってことですよね。 しかも、かなり上機嫌になるような素晴らしい時間であったと。 で、この一か所でがらっと、主人公の見方が変わってくるんです。 あれ、この子、随分、感情の起伏が激しい子なんじゃないの、っと。 そう思って読んでみると、結構「重たい女」だし、「肉食系」だし、 「男の切れ目がない」し、「節操がない」ともいえるんじゃないの、と。 これらは「分かり難さ」の一例にすぎません。 無駄がないという選考委員の言葉を信じて丁寧に読めば、 無茶苦茶たくさんの作意が見つかります(「化粧」なんかキャラ理解にすごく大事です)。 また、石原慎太郎、村上龍があそこまで誉めた「駅、鉄道とそこに近傍する家」が象徴する「都市性」 (三田誠広によれば京王線芦花公園駅。ああいう類の駅がイメージできない地方の人には結構きつい)や、 おばあさんを通した「関係性」、丹念に書かれた季節の推移を介する「時間」など 現代ニッポン文学の主要テーマも見えてきます。 結構やりすぎってくらいやってます。いったん、気がつけば。 そうやって読めば、「ひとり」、「日和」といった題名でこの小説がやろうとしているのが、 いまの時代の若い女性の孤独、ひとりという感覚を、「うつろいやすいもの」「一度しかないもの、その場だけのもの」「再現できないもの」として、「いろいろな二人の関係」の陰画として描く、つまり、女の友情、主人公の未来の姿、親子といった定型的な関係に収め取らないで描写することではないかと。 さらに、主人公は、一年を通して、非常に緩やかな速度で冒頭とは異なった心性の人間に変化するが、 その経過を「成長」という過去から未来への単一の時間の流れとして読ませることを拒絶すること、 つまり、小説のみならず、現実の私たちの時間の理解の様式に他ならない「見せかけのゴール」を捏造して、 それを基準に出来事に序列・意味づけ・取捨選択をして、時間を過去から未来に切れ目になくスムーズなものに仕立て上げること、つまり「物語的時間」による時間理解を無効化して小説を成り立たせることだとおもえるのです。 日和とは、流れというにはあまりにも抑揚にかけた時間の感じ方、切り取られかたなのだから。 ここで豊かな細部すべて(クレプトマニアは小説の要請から構成されたもの、現実とは差、ここを軸に破綻的社会性向を読みたくない、など)について語るのは無理なことです | ||||
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第136回芥川賞受賞作。 二十歳の知寿が居候することになったのは、二匹の猫が住む、七十一歳・吟子さんの家。駅のホームが見える小さな平屋で始まる奇妙な同居生活。知寿はキオスクで働き、恋をし、吟子さんの恋に心乱され、恋に破れて。 「見知らぬだれか」との同居、という意味では先日読んだ『すみれ』と共通する部分は多々ある。本作の方が先に書かれているということは、こちらで書き切れなかったこと、伝えたかった何か、または、違う視点からの違う何か、を作者は『すみれ』で描きたかったのかな…。 どうなんだろう。 淡々とした日常と描写が逆に内面のざわつきをえぐる。淡々と。じわじわと。 「世界に外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ」。 吟子さんの言葉は、何も経験して来なかった人の言葉ではないことがわかる。 何が楽しくて、年をとってから恋なんかして、何のために生きているのか。淡々と暮らしているだけに見える吟子さんの内に秘めたエネルギーは、知寿のそれには及ばないかもしれない。でも、いつか、知寿は吟子さんのような人間になってゆくんだろうな。 「一人暮らしは、いいものよ」 「若いうちに、家を出なきゃ」 「若いときには、」「苦労を知るのよ」 ひとつしかない世界の中で、私たちはもがき苦しみ、苦労を知り、苦労をして、かなしみ、楽しみ、生きてゆく。 それが、日常。 | ||||
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「芥川賞の偏差値」で偏差値60以上に位置づけられていたので、気になって読んでみた。 のんきなおばあちゃんと悩み多し若者のほのぼのとした生活を描いた物語。 自分よりも何周りも歳上なおばあさんと暮らす主人公。おばあさんの気楽さのようなものに、はじめは反発しつつも、だんだんと懐いていく。 母から独立することでオトナになりたいと思うも、2回の失恋を経験し、自分の弱さに気がつく。それらを経ることで、おばあさんの持つ「気楽さ」が「強さ」だったのだと心づき、自分も歳を取り、今の苦痛からラクになりたいと思い至る。 読後してまず、なぜ評価が高いのか、がわからない。 確かに年頃な女性と年老いた女性、両者の心理描写やは巧いのは分かる。途中で閉じることなく、一気に読んでしまったことも確か。 ただなんだろう、読後にスカッとしたり、物思いに耽ったり、「学び」があったり、することがない。 「純文学だから」と言われれば、返す言葉が無いのだが、自分には合わない小説だった。 | ||||
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読んだら、すごく落ち着く気分になりました。日常のことがうまく描いて、素晴らしい表現力です。その作者の他の本も読みましょうかな。 | ||||
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人間、「面倒くさい」と思うことが多い。他者との関係で不器用な人も多い。親子、 親族、職場、恋人同士、子育て、などなど数え上げればキリがない。しかし、「面倒 なこと」を「面倒」と思わずに生きていくしかないだろう。面倒くさい症候群で、 一人で生きていきたいわ、と思っている女性とおばあちゃんとの、コミカルであるが、 しみじみとした感情が押し寄せてくる作品である。約一年の物語。 高校で国語を教えている母親が、交換留学生で中国へ行くという。父とは、私が五歳 のとき離婚している。二十歳で、フリーターをしている私(三田知寿)は、遠い親戚で、 東京にいる「おばあちゃん」(萩野吟子・七十歳)家に居候させてもうことになった。 しかも、死んだ飼い猫の額縁写真が二十三枚飾ってある部屋である。 知寿は吟子との意思疎通なんか面倒くさいと思っている。自己紹介も吟子からされた くらいである。自ら積極的に動こうとはしない。しかし、食後の茶碗洗いとか、猫が 鼠をもてあそんだ後始末とか、次第に吟子の「愛」の鞭に鍛えられていく。 人間関係はどうだろうか。実は、知寿には「小物」の盗癖がある。知人から、タバコ やキーホルダーをちょろまかし靴の空箱に収集している。まともな会話を回避し、小物を 見ながら淋しさと孤独感を慰めるために、持ち主を回想するのである。 二人の恋人に去られた。知寿には原因がよくわからない。よくわからない事が多すぎる。 吟子が病気になっても対処法がわからない。「何も知らない」ことを思い知らされる。 吟子はじっと知寿の行動を観察し、言葉に聞き入っている。すべて御見通しの感がある。 吟子との生活で知寿は徐々に自立の様式や他者との付き合い方を学んでいく。悩みを ぶつける知寿。飄々と、哲学的で、禅問答のような返事をする吟子。読者に考えさせる 会話である。例えば、「人は去っていくからね」、「型からはみ出たところが人間。はみ 出たところが本当の自分」など。「吟子さん名言集」でも出来そうである。 吟子と別れ、自立の日がやってくる。掠め取った「小物」を猫の額縁の裏に隠していく。 「面倒くさがりや」の過去や、盗癖などと決別するために。吟子さんとの思い出とともに。 やさしい文体ほど行間に顔を埋めて、登場人物の「心」を読み解いていきたい。 作品は、「不器用」で「面倒くさがりや」のあなたへ、ほのかに、かすかに、一灯をもたらす。 「知っている人を入れ替えていく。知らない人の中に自分を突っ込んでみる」。 けだし、語り手の名言である。素晴らしい作品。 | ||||
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なにも起きない平凡な日常の中に小さな宝石を見つける、そんな物語なのだろう。 なにか起こるような予兆がありながら、結局この物語はなにも起こらない。 たとえば、付き合った彼氏の家に同居する男との浮気、同居するばあさんの死、じいさんの死、母親の再婚、死など、 なにか起こりそうな予兆をはらみながら、なにも起きない。 敢えてエンタメっぽくしない物語なのだろう。あくまで自然に、あるがままに、日常を描いているのかもしれない。 ただ、 そう言いながらも、作為的な部分が目につく。 まず駅で知り合った彼氏。髪型がマッシュルームカットって。確かにそういう髪型の人もいるけど、決して多くはない。 わざわざそんな数少ない髪型の男を登場させる、まるで物語のアクセントのひとつにしたような作者の作為が見えて透ける。 あと最初の彼氏と別れた帰り道。カップルや家族しかいない通り。そんなのあるかな? ひとりで歩いている人もいるだろ。 これも実に主人公を悲しげに見せようとする作者の作為が見えて仕方なかった。 で、なにより会話。こんな会話絶対日常生活じゃしないだろ。いわゆる小説会話というやつだ。小説の中だけで成立する会話。 その極端に位置するのが村上春樹で、彼の小説の会話は100%現実では起こりえない。小説の中だけしか成立しない会話だ。 これはそれを薄めた感じで、村上春樹はへんてこな設定の世界でへんてこな会話しているからべつにいいのだが、 これは自然な日常で不自然な会話をするもんだから、読んでいてアホじゃないのかと突っ込みを入れたくなる。 物語自体も、そうした会話に興ざめ。ストーリーも優しさに満ちているが、それだけ。 本の中の主人公だけがほんわかするだけで終わる、他愛のない小説だと思う。 | ||||
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この小説に書かれている空気は、等身大で、リアルに感じられました。 何気ないようだけど、やるせなさとか、不安とか、希望とか、伝わってきます。 私は、いい小説だと思いました。 会話や間に、独特のキレがあり、おもしろい。 | ||||
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半世紀の年齢差がある二十歳の女の子、知寿と七十一歳のおばあさん、吟子さんの同居生活が描かれる。 吟子さんの家には猫がいる。猫の写真もずらりと並んでいる。 その猫たちはすべてチェロキーという名前だ。どうやら過去に飼っていた猫たちの「遺影」らしい。 吟子さんは独り身だが、ホースケさんというおじいちゃんのボーイフレンドがいる。 笹塚駅の売店の売り子を始めた知寿は、藤田君という男の子と付き合うようになる。 知寿には「盗癖」がある。 といってもお金や高価な品物を盗むわけではなく、彼氏とか吟子さんとか、身近な人間からどうでもいいような小物(たとえばホースケさんの仁丹とか、中にはモト彼からこっそり切り取った髪の毛もある)を盗んでは、カラの靴箱につめこんでいるのだ。 「靴箱の小物たちは・・・苦かったり、甘かったりする記憶を、自分ひとりで楽しむ手伝いをするだけだった。それでもわたしは箱を捨てることができない。」 最後に吟子さんの家を出るとき、知寿はコレクションした盗品の全てをチェロキーたちの額縁の裏に置いていく。 こうして見えてくるのだ。 知寿と吟子さんとのパラレルな関係が。 吟子さんは知寿の未来の姿なのだ。 いや、語り手の知寿は、実は吟子さんの記憶の中の吟子さん自身なのではないか。 知寿は未来から照射されて浮かび上がる吟子さんのイメージではないか。 チェロキーと同様、知寿は吟子さんの記憶の中に並べられる一枚の写真なのだ。 すべてが淡々としている。 知寿は職場ではそつなく人間関係を築けるのに、一歩進んだ関係となると結べない。 母親さえ、いや母親だからこそか、自分からは遠い。単に母親が中国に住んでいるからだけが理由ではないだろう。 藤田君との関係もあっさりと終わってしまう。 すべては半世紀前の記憶のように薄い。 細い道をひとつ挟んで駅のホームが見える吟子さんの家。 そこに暮らして、ホーム上で手を振る人を見送りながら、知寿の人生も過ぎていった。 描写も淡々としているのに、何かしら不思議に深い小説だなあ。 こうしてレビューを書いていたら(読後感を反芻していたら)、「感性豊かな若い女性作家が細やかに描く若い女性の日常」というクリシェがぴったりの、つまり、いかにも底の浅い芥川賞作品の典型だと思って☆☆評価だったのが、☆☆☆☆にまで増えてしまった。 | ||||
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