かけら
※タグの編集はログイン後行えます
【この小説が収録されている参考書籍】 |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
かけらの総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
親子、恋人同士、夫婦、身近で繋がりがあるはずなのに、ちょっとした出来事を通じて、相手のことはほんの一部しか、分かっていないことに気づいていくお話です。 最後まで、よく分からないまま終わるので、中途半端に感じる方もいらっしゃると思いますが、、、 二話目の、欅の部屋、が特に印象的です。このような恋愛経験がないので興味津々で読みました。、その後、小麦さんが、どうなったのか、とても気になります。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『明るい部屋』という写真論によれば、写真の本質とは《それはかつてあった》なのだといいます。 その写真論は、ある学者(作家?)が最愛の母を亡くし、追慕から残された写真を渉猟した末に、《これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!》と発見した写真が、なんと母が幼少期に温室で撮られたもの(当然、著者の誕生以前)だったという魅惑的なエピソードから生まれたとされます。 青山七恵の『かけら』もまた、《それはかつてあった》ことを示す一葉の父の写真についての小説なのです。 ただ、ここでの父は死んでもいなければ、三週間前に二人で行った小旅行から読み取れる娘の父への心性は意図的な無関心に近いものです。また、その写真は現像を放置され写真教室の課題として検討されることもなく、それでも「何かの美点を見つけられはしないかと」三度見返した末に偶々発見されたものに過ぎません。 けれど、この発見の瞬間の娘の心の震えは、全編を通じ感情の動きを極めて抑制的な筆致で綴るがゆえに、異様な熱を帯びたものとして読む者に伝わり、川端康成文学賞の選者に「静かな爆発」、また、「大いなるものを見ている存在」、「普遍」、「宙」といった言葉を発せさせもするのです。 余りに微細なそれを読み手が理解、体験可能となるように、青山さんは慎重に小説を組み立てています。ただ、その道標の示し方はありがちな物語を予め禁じてしまうというやり方であるため、ときに小説の成り行きが不鮮明かに感じるかもしれません。 (p23)「ああ、カメラを持っていれば人助けをする父を撮れたかもしれないと、そんな節操ないことを考えていた。」 (p30)「自分は今こうして二十歳になってはいるものの、父ときのこだとか物事の価値だとかについての議論をするほど大きくなってはいない、という感じがした。」 こうして、成人した娘による父の(再)発見の物語(社会的存在、ときに異性として)に栓をし、また、 (p21)「かけら、っていうテーマで撮つて来いって」「何だ、かけらって」「たぶん、世の中はかけらであふれてるって言わせたいんじゃないの」 (p43)「これは、かけらだ」「今、見ているものとか、ここにあるもの全部。お父さん。桐子。あの鐘全部 これがお父さんの主張」 (p43)「全部が何かのかけらだとすれば、その何かとはどんな形をしていて、どれほどの大きさをしたものなのか。」 といった「かけら」が宝石だと発見する物語にも蓋をします。 そうして、見出されたのは、予定調和の結末をそれでも期待する私たち達を裏切るような、あっけない、まさに「かけら」です。 「疲れと失望を感じ始めた三順目で、そば畑からさくらんぼ園を写したうちの一枚に、中年の女たちに混じって父の横顔が小さく写っているのを見つけた。撮ったときには全然気づかなかった。…顔は少し上向きで、ロが半開きになっていて、表情は読みとれないけれど、その横顔はやっぱり父だった。 どこを見るでもなく何を言うでもなく、ただ空間に向けられた視線が、写真の中を斜めに突っ切っている。」(p46-7) これだけ。ここでの父は、物語に望まれる意義ある活動の痕跡はおろか、口を半開きにして威厳を主張できず、それどころか、表情という人間性の表象までも欠落したもの、カメラが「かけら」での光の乱反射を忠実に写し取った結果、単にそれに見合った粒子を定着させたものに過ぎません。 そして、ここから以下の文章の接続に、極めて深い断絶があり、ここを越える跳躍のための説明を省いている。敢えて青山さんは。小説そのもの、そして、読み手たちを信頼して。 「じっと見ていると、わたしは昔からちゃんと父を知っていたという気がしたし、 同時に、写真の中の人はまったくの見知らぬ人であるようにも感じた。もたれた肩から伝わつてくる自販機の熱とかすかな振動は、どこまでも続く沈黙に守られたその風景を散りぢりにしてしまいそうで、わたしは体をまっすぐにした。」(p47) 《それはかつてあった》のです。どうしようもないくらい。動かし難く。絶対に。 それ、すなわち、偶々、父と名指される一片の「かけら」が。 すべての相対的な属性、たとえば、父、男、親切、不器用といった娘が過去から知っていたり、いま理解し得えたり、終生理解不能かもしれないそんな属性とは無関係な絶対的なるもの、「存在」の絶対証明としての「かけら」が。たかだか自動販売機の熱と振動ですら壊れてしまうかに儚く思われようとも、《それはかつてあった》。 この一瞬の気づきを説明しないこと、そこにこの小説のすべてが賭けられている。こんな風にくだくだしく書くことが、写真の本質、存在の体験という気づきの瞬間を読者から奪ってしまうから。状態の推移の速度が圧倒的であるとき初めて爆発が生じるものだから。 さらに気づきの向きは変転する。「私」と「宇宙」とへ。「かけら」は世の中にあふれている。ただそれは単に「私」たちが宇宙のかけらだという意味ではなく、宇宙が「かけらたち」の総称にすぎということ。宝石であるかに価値・意義づけられはしなくとも、「かけら」とは「存在」に他ならないということ。そして、この「存在」の絶対証明を成立させているのが「私」のまなざしであり、このまなざしそのものが「私」を「存在」足らしめていること。こう続けて『かけら』は終わる。 「父の視線は写真をはみ出して、雲の切れ目に薄い色の星が浮かぶ東の空に向かっている。」(p47) まなざす「父」という「かけら」はまた、雲、空、星なる「かけら」と「存在」を連関させているのだと。 これほど「存在」が祝福されている小説を私は読んだことがありません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「綿棒のようなシルエットの父がわたしに手を振って、一日が始まった。」。青山七恵の短編「かけら」はこの一文から始まる。 女子大生とその父二人がはからずもさくらんぼバスツアーにいくというお話し。娘からみた父は、冒頭のような印象で、なんともうっとうしい限り。 短い旅の中で、父の知らない姿を発見して、ちょっとだけ思いをあらたにするのだが、そのさじ加減が絶妙である。父と娘の距離は圧倒的には縮まらないけれど、娘のほんの些細な気持ちの変化にほっこりさせられる。 「欅の部屋」は、結婚を前にして昔の彼女の事を反芻する男性を、「山猫」は高校生のいとことしばし同居することになった新婚の女性を描いている。 三作品とも日常にありふれた物語である。だからこそ、日常の中の大切なものを見つけ出す瞬間に、心を揺さぶられるのだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「かけら」と言うタイトルを目にした時、非常に抽象的なタイトルで何を表しているのだろうと、興味を惹かれました。 どうもこの「かけら」と言う言葉で作者は、人間の持っている複雑な心象風景を表現しようとしているように思いました。 親子であろうと、夫婦であろうと、相手を完全に理解している訳ではなく、「かけら」(それぞれの人間の持っている記憶や想いの断片)の集大成としての人間を、ある「かけら」の集合として理解しているが、それはその人間の完全な姿ではありえないと言うことでしょう。 過去の記憶は、写真に写されたそれとは違うだろうし、そこにあるそれぞれの記憶は、それぞれの人間のものであって他人がなかなか入り込めるものではないのでしょう。 又、向かい合って話をしている時も、「言葉」で聞いている相手とその相手が思っている事とは別物であるということでしょう。 でも、そうした曖昧な関係でありながら、人間は毎日の生活をし支障なく暮らして行けます。 そこにこそ、人間の不可思議さがあると言えるのかも知れません。 この短編集を読んで、ふとそんなことを感じました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「綿棒のようなシルエット」という冒頭の比喩表現には、おっと思わせられる。その後も、薄味でありながらうまい文章だなと感心させられるところが多い。川端康成文学賞を受賞したこの表題作、読み終わってみると「だからどうした」と言いたくなるところはあるのだが、それでも考えてみると、これはこれで一つの話として完結している。要するにタイトルが作品テーマなのだろうから、その感じは充分味わえるのである。 続く『欅の部屋』は、収録3編中唯一の一人称形式小説である。語り手は結婚直前の男で、別れた彼女のことを回想している。この昔の彼女が一般的な観点からするとなかなか変な人物で、小説に奇妙なぎこちないような感覚を与えているのがおもしろい。 最後の『山猫』では、西表島から大学を見に東京に出て来た高校生の従妹が奇妙な存在ぶり(野生の猫を思わせもする)を発揮してくれる。ただし視点が時々変わるのには、単なるご都合主義ではないのだろうが、どうも違和感を覚えた。 | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 6件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|