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どうで死ぬ身の一踊り
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どうで死ぬ身の一踊りの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全42件 21~40 2/3ページ
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作者は一見、葛西善蔵。嘉村磯多の系統に属するような作品を多く描いていますが、実際はユーモア感覚を重んじる面がある方だと察しています。ですから登場人物自身が気付かぬ内に、「滑稽」とも言える行動を当たり前のように取ってしまう描写が多く見うけられまます。傾向としてはむしろ尾崎一雄氏の書かれたものを意識されているのではないかと察するのですが・・・・・。そうだとしたら、誠に嬉しいことです。 表題作を始め、この作品群には作者のそんな傾向がよく現れていると感心します。従って読んでいる方は読みやすく、文章の流れに無理なく乗っていけます。根底にユーモア感覚があるからではないかと、自分は考えます。 「独りよがりでない私小説」の書ける数少ない作家であると思います。かってテレビのバラエティ番組に出ている姿を見ました。気分転換も結構でしょうが、それならば風俗へ行く方がよほど糧になります。乱作・駄作になることを恐れずに創作に専念して欲しいものです。 自分が最も期待している作家のひとりなのですから。 | ||||
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読み出しはなんだかめんどくさい話とおもい読み始めましたが、徐々に赤裸々な男と女のズルがとても解り易く表現され始め途中コミカルあり、臨場感あり、泥臭さあり、そして人間のだらしなさがとてもおもしろく表現されていました。西村賢太をもう一冊読もうとおもいます。 | ||||
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単純にドキュメンタリーとして読んだ。 平成2年7月の墓標の改修によって、自由の身となって木の墓標から解き放たれた清造さんと、執念のつるさんの魂が、同時期に横浜で泥酔し燦然と金玉を晒していた男(西村氏)を発見し、清造さんの無念を晴らすのにちょうどお誂え向きだと、この男を利用していると思えてくる。この男が最初に「根津権現裏」を読んだのもこの時期のようだ。そして、この男の芥川賞も清造の平成の世でのリターンマッチの一ステップに過ぎないとも。 それにしても、死んだ人間(清造)は決して裏切らないが、生きている人間(女)とは、情熱を失いもし、裏切られもする。純愛ものでよくヒロインが若くして病気で死ぬのもそういうことだが、そういうヒーローを発見・獲得できた西村氏のほうもラッキーだと思う。 | ||||
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以前新聞で目にした記事だ。小説家をタイプ別に分類し、終着地を定めない〈未完成型〉を角田光代。一貫した世界観を持ち続ける〈完成型〉の筆頭が泣く子 も黙る村上春樹という図式だ。その例に頼るなら、作品世界において同じ、(いや、こちらは文字通りの)野獣性を存分に披露する西村賢太は後者に当たる。 デビュー作の『墓前生活』は、西村にとって重要な藤澤清造の墓所へ到着したところから始まる。この小説の巧さを修飾することは坪内祐三の的確な解説に屋 上屋を架すだけなので控えるが、その代わりに恥辱作家にちなんで白状すると、解説者(言わせて)の私自身が、【展墓】なぞいう語句に躓くほど無知なのだ から笑わせる。私にとって西村賢太の小説は未知をちりばめた博物館であり、目を逸らさずに狭い館内を歩くことは疲れるのだということだけは、彼の全ての 本を読んだ生の声として届けられるだろう。さて、書いてある一大事、(住職から清造の塔婆を預かり受ける)を境に彼の作品は、『苦役列車』を含めた〈清 造前〉と〈清造後〉に分かれる。タイトル作の『どうで死ぬ身の一踊り』はまさしく私、(多くは貫多)と霊魂の男所帯(といっていいのかどうか)に女(ま たは秋恵)を加えた著者にとっては不足の少ない全能感に満ちた作品の一つだ。この小説において触れておかねばならない箇所は、清造の墓標建立に関しての 記述である。私はそれを、既に『墓前生活』で読んだ。一字一句は違えど同じ内容に、「なんと書けることの少ない小説家だろう」と驚いたが、この思いがマ ンネリズムを起因させ、それを良しとしない読者の慊らなさを惹起させている。しかし、この特徴を完全に否定することは、自分の行動に対する棚上げだと思う 。貫多や私の人生と瓜二つだ、とまでは言わないが、路傍にほき捨てられる主人公の言辞に震えるほどの共感を覚えた私には、むしろそれが作者の魅力に見 える。『一夜』のラストに見た迫力(戻ってくることはない女を捜しに泣きながら夜道を徘徊する)が一助となり、結句全ての本を入手したことは先に述べ たか。知らない語句や文士に出会う度に辞書を繰り、書き付けるという大儀な読書をほぼ全作に至りやらしめた作家である。私が考える西村の評価が五つ星 (百点の意味を込めて)以外あり得ないことは、覚えたての言葉を使いたがる小学生染みた駄文に、最後までお付き合い下さったあなたなら分かるだろう。 | ||||
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本当の無頼派作家が今の時代にいたのかと圧倒された。 硬質な文章が美しい。 私小説ではあるが、決してその辺の温室育ちの作家には書けない鋭さを持った「私」のある小説。 傾倒する作家への墓参りとそれに重ねる自分の人生が巧みで引き込まれた。 ただし、そのあたりの上手さについては他の方が上手に書かれているので割愛して... 私がすごいなともう一つ思ったのはそのDV具合。 なんせうちの身内そっくりの怒り方をする。今までその理由が全く分からず ただの(?)発達障害だろうと思ってたのだけど、どうもそんなものだけではない複雑な、あるいは特殊な心理からくることが分かった。 私にしてみれば急に怒り出す、意味もなく大声を上げる、かと思えば私への愛情は深くあるんだと泣いたりする。 全く理解しがたいので、距離を置いて常に客観的に相手を俯瞰することにしているのだが。 なんだかひとごとと思えなくなって、息が苦しくなりながらも一気に読ませていただきました。 この心理を本当にここまで上手に表現されていたらもう圧倒されますよ。 それだけでもこの作者の力量が分かります。 | ||||
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2009年の講談社版を買うよりもこちらの新潮文庫の方がお勧めです。 この新潮文庫版は講談社版の解説(坪内祐三)が収録されているのに加えて、解説が稲垣潤一。参考文献として久世光彦の文章もあり、充実。 値段も講談社版よりも少し安いです。 | ||||
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この「どうで死ぬ身の一踊り」は講談社文庫の方を持っていたが、今回新潮文庫に登場と云うことで、迷いはしたが結局購入してしまった。 しかしやっぱり新潮文庫は読みやすい。本体の手軽さ、文字の大きさや文の間隔も良くて、講談社文庫の方よりも内容が頭に入ってくる感じ。 講談社文庫の方からの坪内さんの解説もあり、新たに久世光彦さんの参考文献と稲垣潤一さんの解説が加わっていて得した気分にもなれたから星五つ。 | ||||
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主人公:北町寛多は、(この本では単に私だが)著者:西村賢太の単純変換だそうです。ということで 、著者の私事をデフォルメ脚色したまさしく私小説。本書は、著者一連の寛多シリーズ?で、寛多40前後?。「どうで死ぬ身の一踊り」は第134回芥川賞候補、第19回三島由紀夫賞候補。一夜は第32回川端康成文学賞候補。哀愁の秋江編が盛り上がります。外では藤澤趣味への傾倒、家ではDVの両輪がフル回転。藤澤のお墓と暮らそう編と、藤澤趣味本格驀進DV編、俺の蟹食えねぇのかDV編。どれも主人公寛多がうれしい喜んだ頭にきたむかついたしょぼん殴る蹴る暴言土下座でまたDVってあくまで自己中心、やりたいほうだいの心情がネチネチネチネチ昭和初期風文体で描かれる。どうで死ぬ身の人踊りは芥川賞候補。秋恵編の最後「一夜」の秋恵の描写が秀逸。秋恵の心情は相変わらずないが、その言動描写は彼女が別れを決意していることが察せられ、寛多の気づかぬDVぶりに別の緊張感が高まる。このDVまずくね?時効なのかな?フィクション?これで逮捕されたらすっげー。 相変わらずストーリーではなく、著者独自の世界観を堪能するというか、これマジっすか?サイテーっスッゲーなどといいつつ、夢を求めましょうなどと言う文部省推薦の薄っぺらさでない、生きてる人間の生臭ささに圧倒される。驚愕と苦笑という複雑な感情を惹起させる作品なので、この本だけでは、はあ?でよくわからないかもしれない特に「一夜」。他の著作も併せて読む必要あり。 一連の作品のどの辺がフィクションかは著者のみぞ知るですが、著者曰く相当ノンとのこと。現実著者は性犯罪者の親、自身も暴力沙汰で前科持ち、学歴中卒、容貌醜悪、風呂も入らず衛生観念なし、女性は単に性のはけ口で、風俗通いは日常の重要関心事、肝心の人間性もネガティブかつ、自意識過剰という、社会的にも人間的にも破綻者。最近TVでよく見るが、暴言の数々は伝説的ともいえ、芥川賞授賞式における風俗発言を始まりとし、中でも「笑っていいとも」で、お昼時間にもかかわらず、風俗通いや女性蔑視の言行は、放送事故スレスレ、現場の女性客、日本中の良識ある人々を激怒させ、良識のない人々、下品な中高年男性を驚喜させた。著者によると、やっと得た異性のパートナーに些細なことでDVのあげく逃げられた。酒ぐせも悪く、暴言暴行も茶飯事だが、たいていは自分で起こしたトラブルの返り討ちにあうという情けない結末。また、関係した人々に小金を土下座で借金し、それを風俗で使い踏み倒す。風俗通いで、たまに相手に惚れたりすると、金をだまし取られたりする。著者は、まさしく社会的破綻者で、そのうちカッとして殺人などおこして、殺意はなかったんですなどと主張しつつ刑務所に入る確率120%であろう人物だななどと周りから思われ、常識ある人々から関わらんとこなどと見られていたのだろうと想像する。 しかし、そうはならず、この破綻者の著作が数々の賞をとり、現実受けて判を重ねているのは、自業自得のくだらぬトラブルと同列に、幸運の出会いや運も相当にあるという奇跡。さらにの注目は、人を楽しませるのが好きであったという、かの太宰治と同質のサービス精神が根底にある点。自身のだめ人間ぶりが、実は他人を喜ばせ楽しませるネタとしての価値に気づき、それを提供したいというサービス精神。そこにそれをうまく提供できる文才に恵まれるという希有なコラボ。そこにそんなものが世に出るなどけしからんと、常識ある人々が押さえつけたが、それがまさしくたまったマグマの大爆発ということになった奇跡。我々は、新たなる何者かの登場を見ているのかもしれません。ただ著者の成功を複雑な思いで見ているであろう、関わってひどい目にあった被害者?の方々、特に逃げた同棲相手の心情を思うと、今後、猛獣注意の看板、檻に入れての厳重管理は必要(笑。 著者にぞっこんで別作品で解説もしている石原慎太郎は、今後の活躍を期待しつつ、金も名誉も得た彼を逆に心配もしている。それを知ってか知らずか、著者は、私小説しか書けないので、今後は題だけ変えたようなモノを書くなどと、ファンをも愚弄するかの、さらなる暴言を重ねている(笑。きおつけろっ! | ||||
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氏の初期作品ですがこの後の作品に度々登場する同棲女性「アキエ」(この作品中では 名前は言及されませんが)との別れに至る経緯・エピソードが一番詳しく書かれていま す。(そこが笑える)実家に帰られた後の「哀願」そしてその後また繰り返される狂気 の?暴言暴力。。氏本人が校正していて情けなくなるほどのダメっぷり。「原点」ですね。 | ||||
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デビュー作を含め三作を収載した著者の第一短編集。 「墓前生活」は、著者が師と仰ぐ藤澤清造の墓碑を譲り受ける顛末を描き、他の2作はそんな清造フリークの著者と懇ろになった女性との中々に壮絶なバトルを繰り広げる日常とを描いた作品。 著者の私生活をほぼ忠実になぞったと思しき「私小説」ということだが、ここで作品の完成度がどうのこうのといってみたところでせん無いことで、どの作品にも共通する西村賢太の捨て身の生き様が爽快に描かれる所に、大いに溜飲が下がる思いだ。人間として、男としての靭さと弱さが率直に描かれており、なぜかしらねど不思議と勇気を与えてくれる小説だ。 男ならウジウジせずに、一発勝負で好きな事を一途に追い求めてみるのも良いんじゃあ無かろうか?確かに、いじましくも慎ましい堅実な生活を送ったところで、「どうで死ぬ身」に変わりは無く、せめて死ぬ前にこの世の思い出に「ひと踊り」するのも悪くは無い、という気にさせてくれる。 そういう意味で、読む者に何かしらクソ度胸めいたものを抱かせる小説であり、そんな作家は文学界広しと言えどもとんと御目にかかったためしのないくらい稀有な存在だ(H23.6.13)。 | ||||
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DVの被害(これより軽度ですが)にあったことがある私としては仲よくやっていた男女がささいなことからいさかいになり最後は暴力が爆発し破綻にいたるまでが当事者だけがわかるリアルさで書かれていて、他にはいっぱいいい所もある人だし、いい思い出もいっぱい作ったのになんでこの人とはこうなっちゃうんだろう、という悲しさつらさを思い出して号泣してしまいました。 「謝まったのに男作って逃げ出しやがって」というこの主人公(作者)の、被害者の恐怖と心の傷をまったく理解していない言い分もリアルでした。やっぱり暴力を振るう人の頭の中では自分は怒りが収まったので謝ったら済むと思ってるんだな、と思いました。でも被害者は怒ってないときでもいつそれが始まるかと思って片時もやすらげなくなるんですよ。暴力は一瞬にして信頼関係を壊してしまい、2度、3度続くともう絶対取り返しがつかないんです。 DVにいたるまでにはいろんな、特に幼少期の心の傷があるので(他の作品を読むと作者も母親に暴力を受けていたようです)被害者はもちろんですが本人もつらいんだなあ、としみじみ思いました。でもこの絶対明かしたくない認めたくもない工程を作品にして公共にさらす勇気といさぎよさは普通ではできませんね。自分を突き放していて自己憐憫もないし。ユーモアのセンスがいいのが救いでした。だから読んだ後つらかったですが後味は悪くなかった。今はDVとはまったく無縁の私ですが、賢太さんは憎めません。 | ||||
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「二度は行けぬ街の地図」を読んで免疫が出来ていたので、落ち着いて読むことができました。 西村さんの自伝的小説は私にとっては衝撃的な内容で、あまりのも書いてある出来事にばかり囚われてしまいましたので、今回、多少の覚悟を持ってから読むとまた違いました。 確かに書いてある内容は、働かない、女の稼ぎをあてにする、DV…など悲惨なものですが、その文章のせいか人間の誰もが持っている「どうしようもなさ」のようなものが伝わってきました。 現代作家というより明治〜昭和初期の日本文学の芸術性をたずさえているからだと思いました。 流行の文章に染まっていない、凛とした古典を思わせる日本文学の手触りは、読んでいて心地の良いものでした。 著者の私生活、人生の辛さ…、文学とはそういう生活の中から生まれてくる芸術の一つだと改めて考えました。 | ||||
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これぞ元祖西村節炸裂・・芥川賞受賞「苦役列車」から入門された読者は、この本は必読である。 中でも、師と仰ぐ藤澤清造の墓標を自室に飾る短編が超オススメ・・さすがの御仁も身震いする訳だァー!! 著者不遇時代の最大の産物・処女問題作品集。 | ||||
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『どうで死ぬ身の一踊り』この小説で感心したことが三つある。大正期の文学を彷彿とさせる、一字もゆるがせにせぬ硬質な文体、目に浮かぶような巧みな描写力、そして、別れるまでここまでひどい暴力に耐えた「数千万人にひとり」の東北の女性の忍耐力である。私は別に女性の味方ではないが、これは「女が裏切った」などと、この主人公が言えるようなレベルではない。いくら生活力があっても、このようなDV男にあっては、あらゆる女性はひとたまりもなく、確実に不幸になる。と、つい作者を裁きたくなる。しかし、私はふと考える。最も献身的だった女性への暴力を、何冊もの小説で繰り返し包み隠さず書くのは、屈折した愛と未練と、贖罪を求める気持ちがあるからではないかと。 この小説の中で特徴的なのは、同棲相手の女性に対するサディズムであるが(石原慎太郎が評価したのは、サディズムの内容に反応したのである。石原文学はサディズム文学だから)、しかし西村賢太は本質的にマゾヒストである。女性に対する暴力を正直に描くことで、世の中の女性から軽蔑されることを彼は知っている。女性からの評価を自ら傷つけるマゾヒズムの表現が、男性読者に感動を与える。作家の多くは異性にもてたい、良い人だと思われたいと思って書いているので、女の前で突然性器を丸出しにしたような彼の捨て身の表現に、読者はびっくりしてしまうのだ。野坂昭如もここまではできなかった(野坂はもてないくせにプレイボーイで売っていた)。西村賢太の書き方は、女にもてるわずかな可能性さえも、自らあっさり切り捨てる自己犠牲的な書き方だからだ。 近代文学のマニアックな知識には驚かされる。藤澤清造以外にも、あまり人が読まない作家名ばかりが小説の中に出てくる。スポットライトの当たらなかった無名の作家に自分と相似た境遇を感じていたからだろうか。負の知的プライドを感じる。大学が教える文学史から忘れられた作家ばかりを彼が好んで取り上げることは、アカデミズムへの反抗である。大学教授は文学にとっての余計者であり、文学が学問ではないことを単独で証明した西村賢太は偉大である。 まだ四十代で自分のいちばん好きな人の隣にお墓を作ってしまったところが素晴らしい。私はその点に最も共感する。羨ましささえ感じる。小説の主人公は甘ったれた男であるが、西村賢太の死生観には、まったく甘えがない。 | ||||
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「どうで死ぬ身の一踊り」が大傑作。これでもかと自分の身勝手、卑怯をさらけ出す。だが、それが嫌味を感じさせないのは言葉の美しさのせいだろう。本当の文学の力をこの作品は持っているといえる。それにつけても女との関わりのリアルさは類を見ない。男が正直に生きればこういうことになるという迫力がある。同時代にこれほどの作品を持てることは幸せだ。名作。もしかしたら作者の最高傑作。これを超えるものは書けないのではないか。 | ||||
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私小説しか書かない、と宣言している芥川賞作家の作品に興味を持って本書を手に取った。 己の弱さや卑屈さ、図々しさなどが赤裸々に綴ってあり、衝撃を受けた。 自分の気持ち次第で女性に暴力を振るうといった現代社会では最低男と烙印を押されることが間違いなしの空気の中、この生き様はある意味凄い。少なくとも草食系といった情けない生き方よりも共感できる。 加えて、細部に亘るまで文章が整っていたのが印象的。 西村賢太という「素晴らしいロクデナシ」作家の他の作品も是非読んでみたくなった。 | ||||
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経歴のすごい作者の完全なる私小説、というかこの作者は私小説しか書かないけれど。 芥川賞の選考会(138)で宮本輝は「私は、西村氏の書くまったく別の主人公による小説を読みたい。」と言ったがそれは多分無理な話。自分の全てを曝け出して書く私小説がこの作者の唯一の武器。 同居する女性への暴力、女性への執着からはじまり、臆病さ、ズルさ、いやらしさ、性欲…本来なら皆一番隠したい部分を丁寧にさらけだす。正確な筆致で書き表された主人公=作者がもつ矮小さに不快さを覚えた読者は、同時に自分自身の中にある同じ醜さに不安になる。それほど丁寧に自分の汚さをさらすということを徹底している。作者にとってはなんでもないことなんだろうけど。 この作者の他の小説ももちろん作者自身の人生を描いた私小説であるのでこの主人公に中毒になれば他の作品もオススメする。 | ||||
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著者が熱愛する藤澤清造に対し自分は感心がない。だから藤澤に関する記述になるとダレる。しかも、今回はその藤澤記述が多い。 また、内容も他作と比較すると幾分、暗く重めに感じた。たとえばDVとかも。 それと藤澤のフレーズを引用した表題作のタイトルはいただけない。大袈裟すぎて。 最後に収録された「一夜」が短いながらに印象的。特にラストの数行が線香花火のように美しい。 | ||||
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西村本人を思わせる主人公の「私」は徹底して己の卑俗さを暴露していく そこには手加減も自己陶酔もない 「俗の極みにこそ聖がある」式の予定調和もない その徹底振りは圧巻で、感動すら覚える 本書は表題通り正真正銘の自棄糞文学である | ||||
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実に整った文章である。細部に至るまでゆるがせにせず記述しており、気持ちで文章を流していないし、日本語をよく知っている。藤沢清造への心酔とその顕彰作業を核に据えつつ、女に縁の薄い男が、ようやく同棲してくれた女に些細なことから暴力を振るう。DVをしながら隠している作家より、自らの愚かな暴力行為を描いて、しかし何らそれを快としていないのがよい。清造顕彰の資金のために、月二回行くソープランドを一回に減らす、というあたりも、近年の作家が描かないところだ。近年の芥川賞受賞作よりも遥かに優れた文藝である。 | ||||
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