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どうで死ぬ身の一踊り
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どうで死ぬ身の一踊りの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全53件 1~20 1/3ページ
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この版を探していました。 一度は手元にあったのに、、、の本が再度戻ってきたような気分です。 稲垣潤一さんの解説が再度読みたくて本に出会えて良かったです。 これを機に15歳から聴いていた稲垣潤一さんファンとしても復活です。 西村賢太さんのご冥福をお祈り申し上げて度々読ませていただきます。 | ||||
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レビューが遅くなりましたが迅速に到着しました。 | ||||
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ネタバレを含みます。 逝去した作家、藤澤淸造を祀ることに熱心な主人公。 おそらく、ライフワークのように、その行為が重要なのでしょう。唯のファンの域を超 えています。でも、こういう殊勝な人が居るから、芸術が後世に伝わっていくのです。こ れだけ男が男に惚れるという気心は、そういう対象がいらっしゃるというのは凄く羨まし いことです。 その主人公(男性)が、或る女と同棲する。 それまで十年くらい女性とのつき合いがなかった主人公に訪れた僥倖。 しかし、その生活のなかで、些細なことで女と諍いになる。 この気持ちは、私にも分かります。 一緒に住んでいると、お互いにフランクになって、それが、軽い気持ちで言った一言が、 相手には非常に腹が立ったりすることもあります。そういう意味で、夫婦も他人なのです から。 主人公は女に手を挙げたりもしてしまう。 女を追いだした主人公だったが、やっぱり、独り身に戻って永くなってくると、どうも こうも不便なのと淋しいのと、心細いのと女に対する恋心も再燃して、藤澤淸造展の記念 講演のスピーチ原稿も書けない。 不本意ながら、女に何度も謝り、縒りを戻す。 あー、何とも、人間というものは、スムーズにいかない。そう思わされました。 DVと言って世の中で騒がれていますが、当人たちの間では、手を挙げさせる相手にも 問題があったりします。それが、こうだから、こっちが悪い等と決められる問題ではあり ませんが…。 人間、殆どの場合で相性が合うけど、深い話しをすると、お互いが相手の懐に踏み込ん だ迂闊な一言を言ってしまったり、で。 本文中の心理描写は切々と、生活そのものを浮き出しています。 | ||||
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私小説というのは、全てをさらけ出すことで成立するのでしょうけど、それにしても業が深すぎる。ああ、最低、とか思いながら、流れるような文体のせいもあって、最後まで一気に読まされてしまいます。作者の私小説は、いつもこんな感じで、「読まされてしまう」のです。とんでもない人物だからこそ作品として成り立ってしまうのでしょうか。でも、やっぱり女性に暴力をふるう男は人間のクズだと思うんですよね。もう新作が読めないのは残念ですが、それはそれで良かったような気もするわけです。 | ||||
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デビュー作ですけど、すでに完成された北町貫多の世界です。絶筆「雨滴はつづく」と合わせて読むと、このデビュー作に懸けた熱情が分かって胸が熱くなります。 「どうで死ぬ身のひと踊り」と威勢のいいこと言って、一面では確かに捨て身のやけ鉢なんだけど、もう一面では煩悩の塊で、卑屈で、俗世間に未練タラタラなんですね。なんでこんなに惹かれるのか自分でもわからないんですけどそんな西村さんの作品が好きです。 一方で、恋人(に限らず全方位の他者に向けた)暴力(含言葉)の凄まじさから「これを面白いと言っていいんだろうか?」と逡巡してしまうんです。いや、それでも面白いんだと説明したいんですけど、うまく言語化できない。東大の阿部公彦さんが「みんな西村ファンを公言しにくい」という趣旨のことを言っていて、「やっぱりそうなんだ」と首肯しました(隠れキリシタンかよ!)。みなさんは暴力表現をどう見ていますか。ファンの方(特に女性)に聞いてみたい。 アマゾンレビューはファンの方がいっぱいいるので、他の方のレビューを楽しく拝見しています。 | ||||
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作者の早逝が悔しくてなりません。 | ||||
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『墓前生活』(2003年)『どうで死ぬ身の一踊り』『一夜』(いずれも2005年)の三篇。 いずれも主人公「私」による一人称。 超傑作『焼却炉行き赤ん坊』(『小銭を数える』に伴録)が秋恵と同棲して2か月の頃の話でしたが、『どうで死ぬ身の一踊り』『一夜』はそれよりも少し後、同棲4か月くらいの頃のお話。 私は、西村賢太作品における「私」と「秋恵」との何気ない普段の会話が大好きで、「私」が爆発に至るまでの、自分勝手な屁理屈全開の会話(それでいてどこか文学的)が可笑しくかつリアルな生活そのものであるがため、『焼却炉行き赤ん坊』や『小銭を数える』での「私」のブチ切れも作品として非常に面白く読めたのですが、主人公の怒りが彼女の大切にしているぬいぐるみに向かった『焼却炉行き赤ん坊』と違い、本作では直接秋恵に暴力が振るわれ、かつ自分の保身で頭がいっぱいの「私」の態度たるや、さすがに引きます。 「私」が頻繁に通っていた中華レストランで働いていた彼女。 「私」の「藤澤清造」愛を熱く語っても、嫌がらずうんうんと聞いてくれた彼女。 数千万人に一人の女を得た思いで狂喜乱舞した「私」。 ママゴトのような照れ笑いの絶えぬ毎日。 そんな蜜月も日が立つうちによろこびが慢性化してゆき、お互いの嫌なところが目にも鼻にもつきだしてくる。 そして、最後はどうしても険悪なことになってしまう彼女との関係を思い、どうしていつもこうなるのだろうと思いながらも、やはりこうなってしまう。 そのたび「もうこの女に一切嫌な思いはさせまい」と決意を固めるも、再び自分を制御できなくなる。 ただ、このカツカレー事件直後のお話もあるようで、そちらも気になります。 やはり読まずにおれない。 それが西村賢太作品の魅力か。 一方『墓前生活』はもともと同人誌に発表された作品で、とにかく作者の「藤澤清造」愛が満載の作品であり、『どうで死ぬ身の一踊り』のイントロダクション的立ち位置として読め、これ一作だけだと、西村賢太の面白さが爆発する前の雌伏の作品のように感じます。 | ||||
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「処女作には、作家のすべてが宿る」と言われるように、この作品集には西村賢太のすべてが詰まっている。 藤澤清造に私淑して、作家として歩み続けるために、西村賢太は、あるかけに出る。 処女作「墓前生活」には、その顛末が書かれている。 曰く、 「私がその墓標を欲しがった理由は、単にモニュメントとしての意味合いだけではないようだ。 無論、それとても紛れもない供養のひとつのかたちには違いないが、それ以上にこの墓標は、今しばらくの自分の心の支えとして必要なのである。 また、最初の展墓の際、墓前で決意したことを貫けるかどうかの、これ以上にない監視哨ともなる。 こうしたものを抱えたら、もういい加減なことはできない。 無闇に捨てられるような性質のものではないのだから、ある意味、終生の足枷ともなる。 しかし、その足枷をつけることはむしろ誇らしい」 この企ては、概ね成功した。 西村賢太は無頼派の私小説作家、藤澤清造の弟子として最後までまっとうした。 しかし、自宅にしかも縁もゆかりもない人の墓石を持ち込むなど狂気の沙汰で、世界中探してもやる人はほとんどいないと思う。 異常なことをやるので異常なことができるとも言える。 そして異常なことをできる人は少ないので、異常な結果を出す人が少ないとも言えるだろう。 ちなみに、西村賢太には、生前一度だけお会いしたことがある。 そのまんまの人だった(笑)。 | ||||
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読み始めるとあっという間に読んでしまった。 | ||||
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理不尽に暴力的で最後まで読んだが、最悪な気分。評価される方は評価するのかもとは思うが。私的には好みではない。 | ||||
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もちろんお察しの通り読む人を選ぶが、様々な意味で私にとっては衝撃的で、新鮮だった。なお、話は途中で終わったので、続編があるのかな | ||||
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人物描写が鮮烈で上品、下品だけど品格があるような主人公 それは文章の秀逸さのせいなんだろうか 西村賢太作品を多読していると聞いたような話が多くなるがそれでも西村作品は癖になる、読む事が癖になる あまり他の作者で感じないような感覚、ドキュメンタリ性が強いせいだろう | ||||
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【前置き】 西村賢太について、芥川賞受賞の映像で初めて知った新参者です。私小説についてもふんわり自身の生活を赤裸々に綴り、作品として世に出す程度の理解しかしておりませんでした。芥川賞受賞時の一言がかなり強烈だったので、いつか読みたいと思いつつそのままになってたのを、私生活で色々あってやさぐれていたタイミングで思い立って購入、読了。 【レビュー】 バラエティ番組で見ていた姿からは想像できないすっきり簡潔な文体でリズム良く読み進めることができる。当方無知なためわからない単語も出てくるが、調べながらでもサクサク読める。私小説だろうがSF小説だろうが基本となる文章が大事なのだろう。同居女性への暴力、藤澤清造(清の字が変換で出なかった…)への偏執、自身の感情の変化が生々しく語られ、一切無駄の無い文章の畳み掛けもあり、胸につっかえを感じながらも一気に読んでしまった。全て実話なのかは分からないが、どうにもこの小説の「私」を追いかけたくなってしまう。作品が発表された時系列順に、引き続き読んでいきたい。 【星の数について】 内容が理不尽な(ように私は感じる)暴力、所謂小説の終わりで一区切りがつくような作品ではなく、そういった世界とはまるで別軸なのもあって、万人受けしないだろうし星4かなとか考えてました。しかし、そもそも万人受けする必要あるのか?自分が読んで衝撃を受けたのは事実だし、などなど考えて、シンプルに未読の方には勧めたいなと思い、星5にしました。まあこんな私のレビューを参考にする方がおられるか疑問ですが。 | ||||
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収録作品のうち「墓前生活」は歿後弟子を自認する小説家・藤澤清造氏の菩提寺を訪問し、傾倒するあまり藤澤氏の(木製の)墓を入手するまでのエピソード。「どうで死ぬ身の~」は菩提寺のある石川県七尾市で数十年ぶりに「清造忌」を挙行、ふとしたきかっけから西村氏自身が死後入る墓がない、と気づき、藤沢清造の墓の隣に自身の生前墓を建てるまでのエピソード、「一夜」は同棲女性・秋恵をめぐるお話です。 単行本で読みましたが、表紙は藤澤清造の処女小説「根津権現裏」をそっくり模したものですし、題字は藤澤氏の自筆を拾って組み上げたものを使うなど、この一冊が藤沢清造に捧げられているといっても良いでしょう。これと決めたら金・暇いとわずやりきる没頭ぶりがすごい。 「一夜」での(名前は出てこないが)秋恵への歪んだ愛情は、読んでいて息苦しくなります。自分のことを好いてくれる大事な女なのに、いつも一言も二言も多い。相手を見下す発言もしょっちゅう。それに女が逆上すれば 手を出すことをぐっと我慢しようとするが、怒りの奔流が止まらなくなったら最後、女の髪をつかんで床に叩きつけ、あばらが折れるまで蹴りつける。それでいて女を追い出したら、半狂乱になって必死に探す...。 小説はあくまでもフィクションであるとはいえ、本来は隠したくなるような生きていくみっともなさを余すところなく書きつけている凄み。自分が西村文学に惹かれる理由はこれだとあらためて思いました。 | ||||
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DVを肯定して物書きとして商機を得ている姿勢は辟易とする。 私小説なだけにリアリティだの斬新だの評価してる人間の気がしれない。 私は30半ばの主人公と同じ年齢であるがただただ気味が悪く気持ち悪かった。 | ||||
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藤澤清造とあきえのバランスが1番いい。読んでいて飽きない。 『棺にまたがる』か『蠕動で渉れ、汚泥の川』 が1番好きだったが、これも捨てがたい | ||||
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初出 ●墓前生活 『煉瓦』28号(平成十五年七月) ●どうで死ぬ身の一踊り 『群像』平成十七年九月号 ●一夜 『一夜』平成十七年五月号 タイトルは、著者が私淑する私小説作家藤澤清(旧字)造の一句 「何のそのどうで死ぬ身の一踊り」 からとったもの。 装填図版は藤澤清造の著書の表紙を流用し、 題字は藤澤清造の自筆原稿を集字によって一行に纏めるという徹底ぶりである。 本書に収められた三篇は全てが「私」の一人称である。 ●墓前生活 藤澤清造の位牌を菩提寺である能登の西光寺から貰い受けた顛末を仔細に書き綴った作。 ●どうで死ぬ身の一踊り 「清造忌」と称する西光寺での藤澤清造の定期的な追悼会に纏わる事柄と同棲している女性との生活、破局について。 ●一夜 どうで死ぬ身の一踊りに先んじて発表された本作では、額装を依頼した藤澤清三の自筆原稿を 池袋の額屋に引き取りに行く様子等を記述している。 語り手である「私」の些細な諍いをきっかけとした暴力行為が 同棲相手との破局を招くという結末が「どうで…」と重なっている。 三篇とも面白い。 共通するのは語り手の藤澤清造への、異常とも言えるような偏愛の深さが見て取れることだ。 また、いずれも会話での遣り取りがふんだんに盛り込まれているのだが、 西光寺の関係者が方言で喋るくだりや、語り手と同棲相手との罵声の応酬などが活き活きとしているせいで、 必ずしも明るい内容ではないのにもかかわらず、読んでいるうちに気分が高揚してくるような気がした。 「どうで…」では時間調整と称して母方の祖母の墓参りを行う記述が添えられ、 そこで家庭内での養育歴や父親の犯罪、家族との絶縁について書き記されている。 「あらゆる叙事についても、針小を、かなり棒大に語っているつもり」(208ページ) と著者自身が述べているように、 本書に記述された事柄が全て真実であるとは限らないが、 同じ頁で「事実をそのまま引き写したような出来事もあり」などと書いているのを見るとやはり、 普通であれば隠蔽されるべき一家庭の恥部を見せつけられる事に生々しさを覚えずにはいられなかった。 そうした事も読者を惹きつける一要素として挙げる事ができると思う。 | ||||
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エネルギーがすごい!いきなりキレル殴る張り倒す!! されたほうは溜まったもんじゃないけれど、、、 こんな人が平成の御世にもいるんだねえ…。 | ||||
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寛多シリーズは、そのハチャメチャで破天荒な生き様が、何故か憎めず 中毒症状の様に読んでしまう本である。 私は、この一番初期の作品集である「どうで死ぬ身の一踊り」は、読んでおらず、 著者の7冊目としてこの本を今回、手にしたので、内容的には、すでに読んでいる テーストであり、その意味では、あれ~同じ感じと思えた。 だが、「墓前生活」の師と仰ぐ、藤澤清造の墓標を能登七尾の寺で手に入れる経緯は 大変面白く、感心しながら読んだ。 いくら熱狂的信仰のあるファンだとしても、「それ下さい。」と言える著者の その感覚感性には、驚きとある意味の異常さを感じたが、読み進む中、 藤澤清造が西村寛太氏に乗り移っているのでは!とさえ思えてきた。 私の是非、読みたい本のNo1に、「根津権現裏」 藤澤清造 著がなった。 どの位、寛多と酷似しているか?を読み解きたい。 | ||||
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電車に乗って読んでる時に思わず声を出して笑ってしまい、恥ずかしい思いをしました。この人の本を笑って読めるような器の大きな女性が理想ですね。 | ||||
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