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敦煌
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【この小説が収録されている参考書籍】
敦煌の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.52pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全83件 41~60 3/5ページ
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中国、宋時代。中国北方の辺境が舞台。主人公は漢民族の趙行徳。進士試験を受けるべく都に上った彼はナント進士試験を寝過ごして失敗してしまう。失意の彼は市場を彷徨するうち、素裸の西夏民族の女が台の上に横たわり、肉として切り売りされようとする場に行き会う。そんな場でありながら全く卑屈ではない女の生命力あふれた逞しさ、図太さに妙に惹かれる。そして運命は転じ彼を辺境の西夏との戦場へ運ぶ事になる。 漢民族にして西夏軍の将となった朱王礼、行徳の目前で自死したウイグル族の貴族の娘、滅亡した他民族の末裔である尉遅光、多彩な登場人物を得て舞台は敦煌へと巡っていく。 あぁ・・敦煌。唐の太宗皇帝の書「温泉銘」がペリオによって敦煌より発掘された。紀元前の竹簡や木簡も。この小説で経典を敦煌に埋めた年からいっても発掘まで約850年。まさに浪漫溢れ、格調高い小説でした。ちょっと私には硬かったけどかじりがいはたっぷりありました。 | ||||
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古代敦煌周辺の状況がよくあらわされている傑作だと思いました。 | ||||
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ぶっとびました。面白かったです。50年くらい前の小説なんですよね。読んでいるうちに、ほんの序盤からですが、すっと中に入り込んでしまいました。 一人の男の流転の日々、見たこともない西夏の文字への興味、美しい女…。後半の畳み掛けるような展開。主人公の命はどうなってしまうのか? 玉は奪われるのか?敦煌は侵略されてしまうのか?(歴史を知っていると、これはもう周知の事実なのですが、敵が迫るなか主人公が経典を無事に僧侶たちと運び出せるのかというスペクタクルがある) ハラハラしました。 | ||||
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とてもよかったシルクロードの旅やをしたのはかなりむかしでありましたが敦煌によらず持つと西に行きましたタクラマカンの大砂漠地帯を砂塵巻かれながら楽しい旅しっことをおもいたたしました | ||||
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敦煌から発見された多数の古い経典。目の前に展開する事実から、著者が想像をわかせて創作されたと思われる壮大な文学作品。 敦煌莫高窟に一度は行ってみたいと思ってしまう作品です。映画化された物も拝見しましたが、小説の方が何故か心に感動が湧きました。 初めて読んだときは若かったので「お経ってそんなに大切な宝物なんだ…」という素朴な感想もありましたが…。 | ||||
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1900年に発見された敦煌文書、莫高窟に隠された背景を井上靖が豊かな想像力と美しい表現で紡いだ不朽の名作です | ||||
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中国西方に行く前に一度読んだことありますが、 もう一度読み返したくて、購入しました。 行く前と行った後では読んだ印象が違っていて 面白く感じました。 | ||||
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再読したくなり、買いました。 代表作を集めたもので、かなり良い編集と思いました。 一時期のイノウエを知るにはよい本です。 | ||||
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単純な感想を言えば。面白かった。いっきに読みました。行徳のように、私も駆け抜けたような気がしました。 自分も行徳なら、戦闘の場面などは、作中のようであったろうと思います。 とりあえず、何をどうしたかワカラナイが、石を投げて帰ってきた。 あとは馬がやってくれた。 ホント、そんな感じで自分も存在したと思います。 それはまあともかく。 自分は古代日本史の本をよく読みます。 その中には、卑弥呼は誰だとか蘇我氏とはなんぞとか、、そういう内容もありますが。 歴史とは、後の人間が思いもしない事で積み重なった結果のもののようにも思えました。 その時、その時の心の動き。 なぜ、自分がここに至るか。また何故ここに至ろうと思ったか。 最初は、こうだと思い行動したが、結局はよくはワカラナイが、今自分はこれを成すべく事に存在しているのかもしれないという。 自分ではどうしようもない時代という風ふかれ、砂のように重なり形をかえる。 その形は、すぐにまた違う形になり、時代という風は吹き続けていくのだなーなんて。 敦煌の経典類の謎。いつだれが。。。そんな事よりも。 その時代にいき、それを「そうすべく」した人間達にとっては。その時、そうすべき為に成した事。 よくはワカラナイが、それだけの事なのだな。 経典は「存在」していれば良い。 歴史は本当はどうだったかはワカラナイのですが。 敦煌の経典という「存在」を遺した人々、時の事情。 あらゆる興亡という風が吹き抜けた後に、その時にその形をしていたのだなー。 ロマンでした。おもしろかったです。 そして、文章は。 私のようなものには、適当な言葉を見つける事はできませんが。 余計なものを落とした結果でてきた、磨かれたもののように感じました。 シンプルで洗練されているというのでしょうか。 文章にも感動しました。 | ||||
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人は自分の思い通りにはならない。だから反駁し、協調し、共生する。況してや、私達の言う「歴史」が人々の歴史なら、その「歴史」とやらは非常に思い通りにならない、面倒な代物である。 そうやって人間の関係は存在し、それが束になって、都市を形成する。この本の場合の都市とは、紛れも無く敦煌のことであろう。しかしこの作者が採った都市が敦煌であっただけで、本当はどんな都市でも変わりはしない。 都市には必ず始まりが存在する。普通始まりが存在するものには、終わりが存在するのが世の理だが、都市の場合は物資的な始まりがあっても、物資的な終わりはほとんど無い。ただある終わりは、その都市で過ごした人々の意識の中での終末のみだ。過ごした人々というのは、生活した人々に限らず、その場所で力いっぱい蠢いた人間の生命自体である。そして予測不可能な、人々の行動である。 千仏洞の経典がなぜ二十世紀になってやっと出土したか、というのは歴史のナゾである。誰が千仏洞に経典を保管しようとしたか、この本ではそれが書かれているが、それはあくまで作者の想像上の追憶に過ぎない。しかしそれに、読者が違和感を抱かないのは、明瞭な資料に基づいているという作者の執筆スタイル、そして人は人の思い通りにいかず、それ故に人というものは無限の可能性を秘めているということを前提にしたスタンスを基に、詩的に書かれているということだ。 やはりこれには壮大という言葉がよく当てはまる。歴史の出来事を単語にして並べた教科書より、歴史の中で自由に蠢く人間を見ると、その細部は複雑で、複雑なものが時間に沿って広がっていくのが歴史だということがよく分かる。歴史というものを考え直す時に、この物語はとても有効なものだと思う。 物語の姿自体は、河上徹太郎が解説で「やや牽強気味を免れない」というように、読者にとっては理解し難い展開になっているが、しかしそれを操っているはずの作者の影は、不思議と見られない。物語もそのうち読者を虜にしてしまう。 河上はウイグルの王族の女の死が物語の核になっていることについて「これはややメロドラマティックな設定だが、この作者の女性によく与えられる役割」と書いているが、考えてみればそんなことは一読者にはどうでも良いことだ。河上のような著名な評論家が、こんなことを書いてしまうところを見ても、この作品の完成度は読者にとってかなり達成されている。是非一度は読んでみる価値あり。 | ||||
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現地の中国人ガイドによれば敦煌を訪れる日本人はここ数年減少しているという。旅行会社もここ最近の元高円安もあって中国人のガイドとして日本へ行く仕事が多いようだ。莫高窟には混雑を避けるために全12のルートの内1つを選んで説明してくれる。必ずしも自分の行きたい窟にいけるとは限らない。人気のある窟は有料で200元とか支払わないと入れない窟もあるようだ。一般の中国人旅行者は今までは鑑賞のポイントなど莫高窟の予習をしてこないので、折角莫高窟に行っても見どころが分からずすぐさま出てきてしまうため、窟の保護及び学習用に必ず莫高窟に入る前に数字中心という2014年に竣工した施設で8Kの映画をみて学習するようになっていた。意図的な演出のもと造られた仮想空間のようでありテーマパーク化しつつある印象で少し失望。 しかしながら莫高窟の中に入るとその芸術性に感銘を受けた。事前に読んだ東山健吾先生のこの本は敦煌への愛にあふれ、莫高窟などの見どころを豊富な知識とともに教えてくれる良本。西域の中国史は普段意識することが無いが、チベット系の吐蕃、タングート系の西夏、トルコ系のウイグルなどが支配した民族攻防の歴史。そしてその文化融合をふまえつつ各時代の仏教美術様式を教えてくれる。莫高窟を訪れる旅人の必見の本と推奨したい。現地のガイドでも語りつくせない内容が記載されている。 | ||||
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読みやすい文章で書かれていました。登場人物の生き方から、運命について学べるところがあった。 | ||||
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いい本です。気に入りました。あとでじっくり読もうと思っています。 | ||||
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井上靖の西域ものでシルクロードにはまった方は多いと思いますが、私もその一人。年末年始の長期休暇を使って、舞台の敦煌まで行ってきました! 敦煌と西安の間を、列車が走ります。三日三晩かけて行くのです。直行の飛行機が取れなかったので列車を使わざるをえなかっただけですが、それがよかった。横穴がぽっかりとあいた、砂漠の山々の脇を列車が行く。その山の間に、でかい夕日が沈んでいくのです。あまりにも悠久の時間。今にも行徳の乗る馬のひずめが聞こえてきそうでした。 もしも敦煌を読んでいなかったら、あれはただの砂漠にしか見えなかったに違いない。開発されようがない地なので、中世のままの砂漠が今に残る。 | ||||
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限り無きシルクロードへの哀愁を掻き立てる、井上靖の不朽の名作と言って良いであろう。評者も少年の頃、全てが理解できないながらも本書を何度も読み、佐藤浩市が趙行徳、西田敏行が朱王礼、渡瀬恒彦が李元昊を演じた劇場版『敦煌』を何度も鑑賞し、更には今ではもう二度と見られない歴史時代のシルクロードの最期の残照を映像に収めたNHK『シルクロード』に胸をときめかせていた。その想いは長じても絶えず、2001年、24歳の夏に80日間、シルクロードを旅した。特に本書の舞台となった河西回廊の地は、西安、宝鶏、蘭州、天水、武威、張掖、酒泉、嘉峪関、安定そして敦煌へと続き、都市は急速に近代化されつつあったが(恐らく現在はすっかり近代都市になっている事だろう)、雪を戴いた遥かな祁連山脈に沿いつつ西走し、往古に想いを馳せたものである。 劇場版とはまるでストーリーが異なるが、やはり原作の湛える、無限の沙漠の広がりの中で、足掻きもがいて生きていき、死んでいく無数の生命が織り成す躍動感と無常観、戦乱と略奪に明け暮れる人々の欲望の渦、尽くすそれら全てを覆い尽くす沙漠、吹き渡る灼熱の、そして厳冬期には酷寒の沙交じりの風。古来多くの国が興り、滅びてゆく際限の無い修羅道を繰り返す、そんな時代に生きた人々。そして、沙漠に立ち上る蜃気楼の様な人の歴史の中で、全てを灰燼に帰す破壊の炎から免れ、僅かに、奇跡的に現在に伝えられた敦煌文書の謎。本書に描かれる全ての情景が、私たちの心を揺さぶる何かを語りかけてくるのである。 本書の登場人物たちは皆、個性的でありながら、各々が此の時代を象徴的に彩っているように思える。趙行徳は、進士に及第する程の学識を備えながら、偶然出会った西夏文字に導かれる様に西域に到った。兵士にされあらゆる運命に翻弄されるが、彼は自らの持つ学識によって西夏の都興慶府(銀州)で西夏文字を修め、更には仏典に出会った事で深く心を動かされ、遂には莫高窟に敦煌文書を保存する事の意義を見出す。それは運命に翻弄されるようでありながら、戦場での蛮勇で自ら危地を切り拓き、知識の蓄積を持っていた事によって大きな志を遂げたと言えるだろう。朱王礼は、漢人部隊の勇猛な老隊長でありながら、自分の愛したウイグルの皇女を死に追い込んだ李元昊を仇と思い定め、無謀な反乱を敢行した。彼もまた、損得や生死の枠を超えて、自らの意志を貫いた武人といえるであろう。李元昊は偉大な征服者であり、史上此の前後に急激な拡張政策を行い、新興国の西夏の基盤を固めた。西夏は此の後、表面上は宋の属国として臣従を誓うものの、見返りとして莫大な歳幣を獲得し、名よりも実を取った。西夏は此の後モンゴルに滅ぼされる迄、200年国を保った。彼にあっては行徳や王礼になんら波風を立てられる事も無いのだが、その雄図や、勃興する国の若々しい力が、その人物像に凝縮されている。そして尉遅光は、西域・シルクロードというものを最も見事に象徴する人物となっている。ホータンの王族の後裔でありながら、沙漠の盗賊まがいの行商人に身を落としていることに何ら屈せず、寧ろ自らの血統を誇り高く主張している。彼の持つ狡猾さ、残忍さや逞しさ、ギラギラとした野心、行徳の持つ首飾りへの執拗な執着などは、どれも強烈な光彩を放ち、此の時代に不毛の沙漠をキャラバンで渡り、あらゆる軍隊や盗賊と渡り合ってきた男の生命力を示し、大変魅力的な人物像となっている。此れ等の人物や、作中に描かれないまでも沙漠に生きた誰しもが、その時々を必死に生き抜いた事であろう。前漢武帝が西域を開いて以来、遥かに明代以降キャラバンが海の道へと移ってシルクロードが廃れるまで、長い間、沙漠は無数の人々の人生を飲み込んできた。彼等について歴史は何も語らず、名も無い人の思いは、遺跡や生活の痕跡と共に、沙に還って行った。そして、沙漠の興亡の歴史をもはや誰もが忘れ去った19世紀最後の年の1900年に、ひっそりと敦煌文書が発見されたのは何とも劇的な思いがする。こうして今も西域に思いを馳せれば、熱風と熱沙と、灼熱の太陽とが織り成す乾いた薫りが胸に満ちるようである。 | ||||
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読みはじめはひとりの人間の物語のようで題名とは異質な感じだったが読み終わって名前だけ知っていた敦煌の歴史に触れた気がした。 | ||||
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百田直樹がおすすめの三冊の中の一冊に上げていたので、読んでみた。 西夏人の女が市場で切り売りされるシーンは衝撃的で、そのとき渡されたメモを解読すべく西夏文字を学びに西夏地方に行き、 西夏軍の漢人部隊に入れられ、西へ西へと進軍していく。 ウイグルの女との顛末や、主人公趙行徳と朱王礼との関係等、細かく説明するのではなく、詩的で、読者に色々想像させながら話を展開させるのが さすがだと感じた。大陸の移動や砂漠なども目に浮かぶようだった。 単一民族で島国育ちで、歴史でしか闘いを知らない現代日本人からすると、広い国土や、他民族との抗争にスケールの大きさを感じる。 『蒼き狼』ほどの影響は受けないが、読んでよかったと思う。 | ||||
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現地に行かずに、資料を駆使して書き、後日 現地行く事が出来チェックしたら、大きな差異が無かった。すごい事ですよね。 | ||||
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この話の主人公からハンドルを拝借している以上、いつかはレビューを書かねば・・・と思っていました。 舞台は中国、宋の時代。自信満々で挑んだ官吏登用試験を、ちょっとしたことでふいにしてしまった府挙人行徳。呆然と歩いていた都での偶然の出会いから、砂漠の上に息づき始めた新興国家−西夏とその文明に強く惹かれるようになります。何もかも投げ打って赴いた西夏王国、待っていたのは慣れない兵役と漢人部隊の長、朱王礼でした。 やがて行徳は一兵卒として働きつつも、文人としての才覚も発揮し始め、西夏文字と漢字を対応させた辞書−番漢合時掌中珠の編纂や経典の翻訳事業に尽力します。一区切りついたところで、再び戦地に舞い戻った行徳。そこに待っていたのはウィグルの王女の死と、それに端を発する朱王礼の節度使−曹氏をも巻き込んだ大規模な叛乱でした。民衆が逃げ惑う中、行徳は城内に残された経典類を、郊外の石窟に保管します。そして、それは800年後に英国の探検家が発見するまでの間、文明の証として眠り続けます。 この話で著者が一番描きたかったのは、砂漠の新興国家−西夏文明の担い手となった、行徳のような漢民族出身の文人ではないかと思います。何がしかの事情で、官吏登用の道から外れた文人たちが、渇きにも似た思いで後世に残していったもの・・・そんなロマンを感じました。 ちなみに「番漢合時掌中珠」は実在の書物だそうです。 | ||||
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いねむりをして遅刻し、官吏登用試験に失敗した一青年・趙行徳は市場でふと歴史のうねりに巻き込まれていく。 なぜそこにそれらは封じられていたのか。 20世紀に入り欧州人によって発見された敦煌莫高窟を、西夏王国の台頭、宋国の動揺、そして一人の青年としての生き様を見事に練り上げた壮大かつ逸品の歴史小説である。 当時の人々が後世に信仰と祈りを懸命に託そうとしたのだ、と乾いた清潔感あふれる文章に、想像力と感動をかきたてられる。 | ||||
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