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騎士団長殺し
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【この小説が収録されている参考書籍】
騎士団長殺しの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.46pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全407件 141~160 8/21ページ
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読了。 不可思議な世界を楽しませてもらった。 東北を車で旅する、とか、谷の向こうの家に、ただ目立つというだけで妄想をめぐらすとか、入り口がつくってあって、それが私にはばっちりはまった。 前々から、楽曲の具体名だけでなく、車種を描写することへの引っ掛かりがあったので、それも集大成で良かった。 男性が男性性への恐れを抱く、ということを描いてるのかなー、と非常に簡素ですが、感じました。主人公は、別れた奥さんと初めて結ばれた時のことを、「ようやく自分のものにできた」と振り返っていました。 寂寥感からくる独占欲、といえば、いいのか。しかし、その男の、欲望は、スバルフォレスターの男のような、邪悪なものになる可能性を孕んでいる。 女性性についても、ドンナアンナのように、クローゼットのイフクのように、守る側ではなく、同級生の雨田くんが語るように、得体の知れない存在ですしね。 見る角度が変われば違って見える。たち位置でも変わる 性は複雑ですね。 | ||||
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廃れたのは文学ではない。民衆の智慧である。 民衆は書を読んでいるのではない。書に読まれているのである。 | ||||
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9月26日午前2時30分読書開始。同午後12時55分読了。10時間かからず読んでしまった。 おもしろかった。騎士団長が出現して話し出したときは、思わず声に出して読んでいた。 日本語はまだまだ可能性がある。 肖像画家という新しいタイプの主人公の出現はいい。著者にもまだまだ可能性がある。 | ||||
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「イデア」と「メタファー」、 「光」と「闇」、 ひとつの光景の中に、もうひとつの別の新たな光景を浮かび上がらせる。 登場人物の画家がそうであるように、優れた詩人や音楽家、写真家も同様である! 小説のテーマが様々な場面の描写に浮かび上がってきて、読んでいてワクワクさせられる。 また、時折挿入される会話や、引用されるちょっとした話、作品の中で響く音楽が、村上春樹らしい機知に富んだもので、いつもながら質の高さを感じながら読める。 ちょっと残念だったのは、 「私」の深い暗闇については言及しなさ過ぎだったのでは? (バスローブの紐で首を絞めるコトで自覚の内に現れた自らの闇について、、、) そして!免色の闇については、ついぞ作品の中で描写されずじまい! これは作家が意図的に敢えて描写しなかったのかもしれないけれど、個人的には残念で過失にも思える。。。 | ||||
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読み始めは「よしよし」とおもったけれど、展開がちょっとかったるかった。 | ||||
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☆の数が少ないため、読まない人がいるといけないので☆5個で投票します。村上作品を読むということは、日本人で外国の人とコミュニケーションをとる必要がある人には必須ではないでしょうか。今や村上さんの作品から、アメリカ映画に引用されたりして、教養人のたしなみとも言えると思います。 初期作品から父親との距離感や生活習慣の描き方など一般的な日本人とは相違点も多く、毛嫌いする人も多いですが、日本人の多くが画一的に押し付けられてきた家族観から解放され、救われてきた人たちもきっと多かったかと思います。 本作が村上作品の最初で、残念ながらぴんと来なかった人は、ぜひ「風の歌を聴け」を読むことをお勧めします。楽しく読むためには、村上ワールドへの入り方みたいなものも必要なのかもしれませんから。 | ||||
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下巻の後半以外ほとんどがアトリエのある家とその周辺での話なので、静謐なというか、動きの少ない話で読むのに時間はだいぶんかかりましたが、なんか読み終えてみると、今までになく気持がスッキリしました。 何と言っても騎士団長の造形、話し方が最高だったな。なんか騎士団長が出てくるとホッとするし、楽しい!今までの春樹作品で最高のキャラじゃないかな? 一方で、スバルフォレスターの男とか、免色さんとか、怖いキャラクターの造形もなかなか。スバルフォレスターの男の絵、観てみたいなぁ。。。 いろいろよく分からないこともたくさんあるけど、なんか読後の爽快感が自分でも不思議なくらいある作品でした。 勝手な想像だけど、村上さんも歳を取って、昔ほど肩肘張らないというか、すごく素直に書かれるようになったんじゃないかな?決して手を抜いてるとかそういうことじゃなく。。。 僕の中の最高傑作は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」なのだけど、昔に比べると、明らかに世界や人生に対する肯定感が高まっている気がする。それはなぜなんだろう?個人的にはそこに興味があります。 なお、読後に、川上未映子さんとの対談本を読むと、これもまたかなり楽しめますよ! | ||||
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図書館で数カ月前に予約。 たしか、30人以上の待ちだった。 自分の番がまわってきて、2日間で読み終えました。 おもしろかったです。 みなさんが指摘されるように、過去の作品で書かれていた設定が たくさん出てきます。私はそのことをなんだか懐かしくて、 居心地良いものとして感じました。 何より、結局、おもしろかったですし、 この小説を読みながら時間を過ごすことが好きでした。 グレートギャツビーの設定もあったように思います。 今頃になって2部を図書館で予約したんですが、 40人待ちになってました… | ||||
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1Q84よりまとまっています。その分スケールは小さいかもしれないけれど小説としての完成度は高いといえると思います。 推理小説のように楽しみながら読むことができます。そして円相が閉じるように収束、何時もの様に”やや甘”ながら読後の充足感が得られます。 アマゾンの感想に惑わされずに!!一読をお勧めします。 | ||||
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今や世界的文豪となったハルキ・ムラカミの集大成とも言える作品。 これまでのムラカミワールドがあますところなく炸裂しており(読者へのファンサービスとも言える)、また過去の村上作品や、自身が敬愛するギャッツビーやライ麦畑へのオマージュもあり、とにかくムラカミワールドのフルコースとも言える作品である。 上下巻で原稿用紙1000枚とも言われる作品は、かなり長く、重厚な作品となっており、読了まではかなり時間を要する。 肝心のストーリーであるが、作品のコアとなる設定が、ファンタジーに依拠しており、後半のクライマックスシーンも、現実からは大きく逸脱していて、この部分は人によっては好き嫌いというか、ついていけるかいけないかの差が人によってかなり出るところだと思う。個人的には微妙についていけなかった。 いろいろとツッコミどころは多いが、ノーベル賞候補となる作家の作品であり、小説を読む人であれば読まないといけない作品と言える。 | ||||
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夏目漱石と並び評される著者が、70歳近くなってどのような則天去私的思想に帰結しようとしているのか、などと考えるフリして穿った読み方をしたら、わりと面白かった。 今回、物語を考察するうえで、著者の取り扱ったテーマを、アミニズムを根底とする母性社会と構成員のあり方、その思想として抽出し、モチーフについては記紀および方丈記と捉えたが、自然描写がアレだから万葉までは見出すことができなかった。 まず主人公。とにかく受身的な、言い訳がましい女性関係描写。これは著者の小説において一貫して描かれてきた主人公像である。今回はもう、そいつらを全員ひっくるめた権化みたいな主人公。だからコードも〔諸君〕なんだと思う。〔諸君〕はこれまでの著者が描いてきた主人公たちの〔イデア〕としても読める。 それに倣い、免色君は諸君同様これまでの〔永沢君とか五反田君とか綿谷ノボル君〕とかのイデアとして読むと、全能性やら暴力性やらの特徴を整合させることができる。そしてそれはイザナギとスサノヲといった、神話における父と息子の特性とも重なる。 そして女たち。今回の作品において、〔穴〕は女の象徴あるいはメタファーとなっている。騎士団長が生れた丸い〔穴〕は母性、イザナミ的な女像であり、騎士団長殺しの四角い〔穴〕は処女性、アマテラス的な女像。本書でも、これまで通り〔諸君〕の身の回りには魅力的な〔穴〕たちが登場する。 この作品は、上記要素らが、いつものように現実と、現実とシームレスな別世界を往来する。 まず、〔諸君〕は〔穴〕の存在を知る。そしていつものように、免色(永沢五反田綿谷)君はその〔穴〕を計画的に蹂躙し、暴く。 たぶん〔諸君〕はこれまでどの作品でも〔穴〕を最初に暴いたことはないが、その行為に対し、常に多少の関係を持つため罪悪感を感じてきたのではないか。そのため〔諸君〕は、その後の展開において、誰かが暴いた〔穴〕に入ることになるとき(そうなることが多いが)、そこでの立場を受動的に振舞うことにより〔穴〕を暴くという罪から無意識的に逃れようとしてきたのだろう。おおよそこれまでの作品に出てきた〔穴〕たちは節操なく積極的に〔諸君〕を導き入れ、〔諸君〕はそれに従うだけでいいという構図になっている。 だからこそ、その一方で〔諸君〕は〔穴〕を気持ちが悪いくらいに純潔化、高潔化しようとする傾向もある。直子だのキキだのユキだの笠原メイだの。今回のまりえ(コミ)も気持ちの悪いぐらいの純潔化が施されており、著者の年齢も併せて考えると感慨深いものがある。 そして〔諸君〕自身に対しては、ご存知の通り、ゆるぎない勃起そしてその記念碑的硬さにこだわり続ける。 これらは、自分や自分が好ましいものに対しては理想化し、好ましくないものや罪悪感は脱価値化したうえで無意識に放り込むというスプリットのプロセスだが、いつものようにその無意識は現実とシームレスな異世界として顕在化される。 そんなだから、〔穴〕たちはいつもどっかフワフワといなくなってしまう。 そこまでは、これまでの物語群に対しパラレルになっているが、今回は失った〔穴〕が「ちゃんと」戻ってきたという点において、相違がある。 なぜ今回、〔穴〕は戻ってきたか。 〔諸君〕が初めて能動的に〔穴〕を暴いたからである。 それは騎士団長殺しから始まる。 騎士団長は、日本人のある特性のイデアとして表現される。それは「他者を覗く」という特性である。古来日本では「しょうけら」という妖怪がその特性のイデアとして存在していたが、これは黄泉国でイザナギが禁を破り、イザナミの真の姿を覗いたところから始まるものであり、そういう観点から、日本の原始的父親の特性であるともいえる。 そして、この作品では騎士団長を含め、登場人物が他者に対し様々な「覗く」行為を行う。それは免色君にとっては日常であり、〔諸君〕は自分が肖像画を描くプロセスにおいて、他者の内面を覗いているということをうまく受容できず、結果その罪悪感を白いスバルフォレスターの男に投影する。 その父親の特性を持つイデアを〔諸君〕は殺す。 これは以前のテーマでも何度か行われてきた「父親殺し」に相当するが、今回は限りなく現実世界に近いところで、〔諸君〕自ら手を下したところに意義がある。小っさい剣ではダメですよ、ちゃんと記念碑的にしっかりした凶器でないと。出刃包丁とか金属バットとか。 そして、「父親殺し」に成功したことにより、〔諸君〕は初めて新鮮な〔穴〕を手に入れることができた。 しかし、手に入れるだけでは輪は閉じない。その〔穴〕を暴く必要がある。それは〔諸君〕側からすれば興奮状態にありながらも冷徹に、〔穴〕側からからすれば暴力的に行われる行為である。もちろん、そこでは血は流されなくてはならない。 そして自ら暴いた四角い〔穴〕に〔諸君〕は入る。 この穴の中のくだりは、多少の立場的変換はあるものの、記紀においてイザナギがイザナミを追って黄泉国へ行く話と重なる。 イザナミが黄泉国の食べ物を口にしたように、〔諸君〕は穴の河の水を飲む。そこでイザナギはイザナミと別れ、〔諸君〕はコミと別れる。イザナギがやったような「見るなの禁止」を破る行為を諸君はしていないが、すでに現実世界ではイデアを含め登場人物のほぼ全員による、何らかの「覗く」という行為で禁は破られている。 そして何やかんやで四角い〔穴〕に入れた入れたと思ったら、ようやく出てきてみれば、それはお馴染みの丸い〔穴〕だった。 これはどういうことかというと、処女を暴いて〔穴〕に入り込んだ男のイデアは、その中で紆余曲折があり、再び出てきたときは〔穴〕の処女性はすでに失われ、そこは母なる〔穴〕となっている、ということ。そしてこれは〔諸君〕がいままで手を出してこなかった様々なアマテラス的〔穴〕と、今回やっと姦通したことを意味する。〔諸君〕を次の段階へ至らせるには、父を殺し、処女を母にし、その母から自身が再び生まれる必要があったということだ。 諸行無常。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 蹂躙された少女も、しばらく経ったら藪が生い茂ってもと通りに見えるけど、よく見たら母になってる。つまりもとの〔穴〕にあらず。 免色君の肖像画の隣には〔穴(母)〕の絵が飾られることにより、調和は訪れる。下記は本作品における春樹的方丈記 林の静寂の中では、時間が流れ、人生が移ろいゆく音までもが聞き取れそうだった。 一人の人が去って、別の一人がやってくる。 一つの表象が去り、、別の表象がやってくる。 この私でさえ、日々の重なりの中で少しづつ崩れては再生されていく。 何一つ同じ場所には留まらない。そして時間は失われていく。 時間は私の背後で次から次へと死んだ砂となって崩れ、消えていく。 私はその〔穴〕の前に座って、時間の死んでいく音にただ耳を澄ませていた。 最後の〔穴〕を女に読み替えすると現実味が増し、村上長明が見えてくる。 則天去私的な観点、個に関しては疲れたから考察しない。 ただ一つ、具彦の個人的行為であり、人生のテーマであった「鎮魂」を少女に「チンコン」と読ませたことは、個に対するささやかな否定として感じられ、それまでのカナ読みはすべてこれのための伏線かと思ったら笑えた。 | ||||
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今回の作品も、これまでの作品と同様に、孤独、死、別れ、静謐などを思い起こさせます。ストーリーは秀逸で、登場人物たちはこの先どうなるんだろうと思わせます。ページをめくらせます。そして、読者自身の内面の世界に引き込んでいきます。また、クルマ、音楽、料理などの固有名詞が豊富に登場し、それらがストーリーを引き立たせます。村上さんの深い知識と、それらをストーリーに結び付けるところは流石です。 只、結末のストーリーに物足りなさを感じました。ページの都合もあるのかもしれません。時間的に、空間的に、地理的に更に深く踏み込んでほしかった。また他者との関わりを諦めず、孤独から如何に脱却するか、結末のこの部分についてもっと紙幅を割いて欲しかったと思います。個人的には、上中下3巻の作品に仕上げられても良かったのかなと思います。 | ||||
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登場するアイテムの固有名詞が非常に細かくて具体的です。 まさに固有名詞の博覧会です。 凡百の作家なら、ここまで出ません(笑) さすが村上ですね。 音楽の知識も幅広い。ジャズ、クラシック、オペラ。 食器でいえば古伊万里にバカラなどぬかりがないですね。 車種でいえば、インフィニティーから、フォレスターまで。 | ||||
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今まで読んだ氏の小説の中では最も感銘を受けました。毎日少しずつゆっくりとストーリーを追い、主人公の行動や考えを自分と重ね合わせとても興味深い体験を共有した気がしました。不思議な話なのに本当にあった話として感じられるのは筆者の力量の賜物だと思います。 スポティファイでたくさんの音楽を聴きながら読み進めたのですが、無数の音楽の中で、フィリップグラス氏のグラスワークスというアルバムを聴いている時が最高に小説にのめりこめ至福の時を過ごせました。 後で調べると2016年に村上氏はグラス氏と朗読会を行なっています。村上氏も本作を執筆の頃グラス氏の音楽を聴いたので両作の相性が非常に良いのではと考えると自分だけが気づいた秘密のようで嬉しいです。他の人はどう感じるのでしょうか。 他の方の星は少し少なめのようですね。村上氏の過去の作品と比べて星をつけているかたも多いようですね。過去は過去、現在のこの小説をじっくりと読み自分が氏が伝えたいことに共感できたので私の評価は高くなっています。2作目に出てくる穴をくぐる時の閉そく感、とても恐ろしかったです。 | ||||
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1部と2部を購入しましたが、とてもキレイな状態で満足です。 良い買い物ができました! 強いて言えばあくまで別々に送料がかかっているので、 1冊ずつ梱包でもう一層プチプチで包んだほうが安心感はあるかなと思いました。 と、いうことで★4.5ですかね。 | ||||
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村上春樹氏の才能は現実には存在し得ない空間を創造し、それを冒険する景色や心理を描写する能力は抜群だ。 人間の感覚は見る、聞く、嗅ぐ、味る、触る、と五つの方法がある。これらを文字だけで色、匂い、音、感触を伝達する才能が素晴らしい。 | ||||
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村上さんワールドが、たくさん盛り込まれた、読みやすい内容でした。 今までの作品をにおわせる所が、たくさんあって、難解すぎず、凝りすぎず、 読み物として、楽しめました。 | ||||
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著書の作品は長年読んできました。 皆さんご指摘のように、既視感たっぷりのお話ですが、 今回は最後、泣けました。初めて彼の作品で。 私たちは通常現実という「現れ」しか確認できないが、 もしかしたらそれは何かの反映であり、 現実を生きる私たちを支えるのは、実は...〇〇〇こと。 ラストの主人公の独白のために、 このながーい1000ページがあったのですね。 登場人物それぞれの人生が絡み合ったストーリがたどり着いたところは、 生きることを導いてくれる、とてもシンプルで精神的な「核」。 新鮮な村上春樹作品でした。 | ||||
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海外の作家で好きなのはヘミングウェイやトーマス・マンやカミュやサガンです。日本で好きなのは芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫です。 さてこの作家たちに共通することは何でしょう? みんな故人ということです。つまりは新作は読めません。 村上春樹も好きです。好きな作家の中でただひとり新作が読める作家なんです。村上春樹さん長生きしてね。お願いします。 | ||||
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直感的に「騎士団長殺し」という絵画が「箱庭」的だなと感じます。どうも、なにか怪しい。 ※「箱庭」とは、砂をしいた箱の中に、自由におもちゃなどを入れていくもので、「箱庭療法」(心理療法の1つです)に使用されるものとして知られています。これは心理学者である河合隼雄(先生)が1960年代に西洋から日本に持ち帰り、国内に広げたものです。なんとなく知っていらっしゃる方も多いかと思います。 秋川まりえが週に1度スタジオにやってきて、「私」と1対1になり、肖像画のモデルになるという設定もどこか心理療法を思わせます。やはり、怪しい。まるでクライエントと治療者のよう。 その線にそって読んでみると、「騎士団長殺し」は小説の中では、雨田具彦が描いた絵画として存在しますが、騎士団長・顔なが・ドンナアンナ含めて、このおもちゃ・人形たちを画中に配置したのは、この小説の書き手である村上春樹です。そういう意味では、「騎士団長殺し」という存在は、雨田具彦によって描かれた「絵画」であり、村上春樹の書いた「小説」でありながら、同時に村上によって作られた「箱庭」という存在になっているとも読める。二重メタファー構造になっている。 人を観察し「肖像画」を描くということは、「小説」を書くことでもあり、同時に「心理療法」を行うことと読み替えることができるように思える。 そしてすごいのは、小説の表面上は、画家が主人公の話が書かれていて、これだけでも充分に満足できる物語が語られますが、その裏面では「箱庭療法」を念頭に置いた別の物語が進行している。同じ言葉で描かれた世界が、少しづつ違う意味合いを帯びていく。物語が旋回し、言葉が変装していく。 「騎士団長殺し」という小説は、村上春樹が自分で作った「箱庭」をつかって、作中人物たちを「救えるのか」・「癒せるのか」ということに挑戦した意欲的な小説なのだと思います。さらに言うと、「箱庭」の作者は村上春樹自身ですから、小説の枠外ではクライエントは村上春樹であり、この物語を通して村上自身が救われるのかどうかも問われているように思える。この場合の治療者が河合先生だと仮定すれば、村上は物語を紡ぎながら、地下二階に降りていき、河合先生と「こころ」の対話を実践したのではないかと想像します。「河合先生、ご無沙汰しております」、と。 改めて、この人は超一流の小説家だと思いました。 実は、大変心配していました。ただのスケベなおっさんなんじゃないかと。確かに可能性も高いよなと。そうじゃなかったかも。よかった、よかった。 終盤の屋根裏のシーン、秋川まりえと二人で環をとじるシーンには胸が熱くなります。そこには間違いなく確かな救済の感覚があります。試みは成功したのでしょう。ものすごい達成だと思います。 また、作品(の裏面)をとおして、2006年に脳梗塞で倒れ、その後約1年間1度も意識が回復しないまま亡くなってしまった河合隼雄(先生)への深いリスペクトを感じます。というか、この物語の裏面部分は、はっきり言って河合先生絡みの話ばかりです。 「箱庭療法」に代表されるように、西洋と東洋の「こころ」の橋渡しのような仕事を実践された河合先生は非常に大きな存在だったのだと思います。ここらへんで、一度きっちりと書いておこうという気持ちがあったのかもしれません。 一例ですが、まりえは自分の胸が小さいことをちょっと病的に気にしていますよね。「私」にそんなことを言う。これ、まりえは本当はなにが言いたいのか。 心理療法の臨床的には、「父性」も「母性」も希薄な家庭で育っていて、これからきちんとした大人の女性に成長していけるのか不安だと、言っているんじゃないでしょうか。大人の女性になって社会的なペルソナを獲得できるのか不安だと。でも、この少女はそういうふうには言えないんですよね。言えないから胸のこととして言うんですよね。おそらく。河合先生なら、多分そう受け止めてくれる。「私」もそう受け止めますね。成熟した人間としての自然なやさしさがある。だから、まりえのために地下二階の世界まで潜っていくんだと思います。 まりえの方も地下二階まで潜っているわけですが。ここのシーンもいいですよね。母親の衣服(ペルソナ)に守られるシーン。まりえは母性に触れて戻ってくる。 一方で、本来まりえを救わなければならないのは免色のはずです。まりえは自分の娘であるかもしれないわけだから。でも、彼にはそれができない。その資格がない。穴の中に入ることはできるが、そこから先に潜ることはできない。 そして、物語の最後にシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起きる。河合先生の十八番、オハコです。全体のコンステレーションの中で子どもが生まれる。そして、「私」は、その子が自分の子どもだと信じられる。ゆるぎのない確信がある。もはや神話です。自分にとっては。 さらに河合先生絡みで、、、あまりにも長くなるので詳しく書きませんが、西洋の中央統合モデル(例としてのナチス)、日本の中空均衡モデル(例としての日本の戦争、そして免色)に続く、新たな第三の社会モデル(これからの世界で通用する新たな社会モデル)を提出している物語だとも感じました。 以上、すべて一読者の個人的な感想です。当たり前ですが。 ただ、久しぶりに読書を楽しみました。よい時間を過ごしました。混乱したけど。 河合隼雄と村上春樹。真に偉大な仕事をする人間は、本当に謙虚なんだなとも感じました。 ※余談ですが、絵画の時代設定が飛鳥時代であることも、河合先生からの連想で、文化庁長官時代に壁画破損問題があった「高松塚古墳」(検索すると、きれいな飛鳥時代の衣服が見られます)→「石室」(例の穴です)→「副葬品の仏具としての鈴」と、きちんとつながりが感じられます。 | ||||
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