■スポンサードリンク
侍女の物語
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
侍女の物語の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.19pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全52件 41~52 3/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ディストピア小説である。部分的に直接的な描写方法も含め、内容はかなり「エグい」と言えるだろう。 語り手であり、かつ登場人物である「わたし」。自身の自由(というより基本的人権か)を奪われた状態におかれているらしいことが、冒頭読み始めるとすぐにわかってくる。どうやら文明化された国や地域で暮らすものには、現時点でちょっと考えられない事態。特定層に対する思想矯正、拷問の恐怖、情報統制、密告の奨励、個人の自律性の剥奪、もしくは教育を与えないまま世代交代を図るなど、これでもかというほどの歴史上人類が活用してきた手法が繰り出されていく。 読んでいて陰鬱になることこの上ないのだが、しかしページを操る手を止められない。ものがたりの作りは情報小出しにしながら進展していくパターンで、ややまどろっこしいという感もあるが、結局のところ読み進めるにつれ読者は着実にこの世界観に絡め取られていくのである。 なかなかちょっと絶妙な翻訳に助けられているところもある。通しで読んでいて、翻訳が難しそうな原文が想像できる部分があるのだが、まぁ余計なことを考えないで素直に読んだほうがよさそうだ。 ラストシーンをどう解釈するかは難しい。読み終えて、この絶望感溢れる社会描写をついつい現実の2017年の世界情勢に投影したくなる。しかしそれはsci-fiに対して野暮というものでしょう。オーウェル「1984」がまた売れているなどというニュースも見かけるが、それはそれ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
amazon.com「一生のうちに読むべき100冊」 柴田さんが選んだ海外小説「30冊」() などでも選ばれています。 読みやすいですし、映画化もされていますし、リストアップされるのも納得の作品でした。 文章のスタイルにもいろいろ工夫があって、訳文もよかったです。 とはいうもののディストピア小説ときくと昔1984年を読んだあとのトラウマなのか読む前から暗澹な気持ちになって食指がなかなか動かず、15年も積ん読になっていたことをまずは白状しておきます。 ディストピア小説って書くのはむずかしいのだと思います。 暴君や独裁者と自由を奪われ虐げられし市民という敵対関係を強調する構図は、ステレオタイプになって陳腐で平易な設定におちいることが多々あるのでは、とおもいます。 映画とか、水戸黄門もこのジャンルになるかと。 倒すべき相手が明確なので、勧善懲悪のストーリーになって、めでたしめでたしになってしまいます。これではすぐれたディストピア小説にならないですよね。 じゃあどうしたら不気味な社会を書き出せるのか。 それは権力をどうしたら描くことができるのか、ではないかと。 権力を描くって、暴君や独裁者やラスボスを登場させることではないです。 自分を縛っている制度、自分から自由を奪っている制度みたいなものでしょうか。 しかもその制度が嫌であっても、逃れるすべ(非支配者がいなくなると社会が成り立たないから)も、改正するすべ(権力側からは改悪になるから)もない。 権力や制度なんて抽象的なものを相手に打ち勝つことなんでできないですよね。 ミシェル・フーコーさんも言っていたかと思います。世界はすべて記号とか言語でできているけど、セクシャリティと権力は表すすべがない、と。 そんな言葉で表せない不気味なものを、身のまわりの言葉で表せる範囲でうまくあぶりだしているところが、本作の白眉なのではないでしょうか。 ---------------------------------- 原書は1985年に出版されています。ということは、あの1984年に執筆していたということですよね(おそらく)。 普通だったら二番煎じになってしまうところだと思いますが、本家に引けをとらないというか本家を超えている点もいくつかあります。 「それ」は、望むと望まざると誰の意志かわからないまま、そして自分は関係ないと思っている内に静かに否応なくやってくる、そして逃れるすべがなくなってはじめて絶望に気がつく、という不気味な過程をとてもうまく書いているということです。 古代ローマが共和制から帝政に移行するときも、もう征服するものがなくなって最期に自らを征服してしまったローマ市民。 イギリス、フランスやポーランドに喧嘩を売っているのはナチスという一組織であって、ドイツ人の総意じゃないんだ、とか言っているうちにまきこまれてしまった戦間期のドイツ人。 無関心を気取ったり、関係がないっと思っていられるのも、実はそれ自体が与えられた自由であって、その自由を取り上げられてはじめてびっくりするでしょう。 答はいつも問いの中に内在する、ではないけれどこういう社会は兆候に気がついても、そうひどいことにはならないだろうと思っているうちにあっという間にそうなってしまう。 説明しすぎるとうそ臭くなりますしね、絶妙なストーリーテリングです。 また、「侍女」の制度、地位や階級によって服の色によって固定する制度、「救済の儀」「天使」「司令官」など聞いたことのない社会の制度をきちんと作り上げていることも重要ではないかとおもいます。 それから本作は主人公の一人称で語られますが、一人称はディストピア小説によくマッチしていますよね。 一つは、主人公にとって自明であるその世界はなかなか詳しく語られないので、不気味さが増すこと。 二つ目は、主人公の視点からだと支配者や権力者のことが類推でしか語られない。体制批判や転覆を抑えこむために情報統制のせいかもしれませんが、非支配階級からはうかがい知れないってことにするにはやはりこのスタイルしかないでしょう。 (もし権力者側からの視点で書いたら、ディストピア小説にならないですよね、虐げられるからこそのディストピアですもんね) 三つ目は、本作の一番秀逸な点と思ったのですが、あらゆる自由を奪われて出産器官としてのみ生存を許されている侍女として、また行方不明というかほぼ生存が絶望な夫も娘のことをおもう妻・母として、主人公は心の平衡を保つため様々なバリエーションの現在・未来を同時に想像する表現です。 夫が生きている場合、幽閉されている場合、もう死んでいる場合。 間違いなく死んでいると思っても、まだ生きているケースも一緒に想像してしまう。 男と密会する場面でも、現実的な殺伐としたシーンとともに、少しはロマンスがあるようなシーンも同時に想像してしまう。 オーウェルは会話のダブル・ミーニングを創造したけれど、アトウッドはもう少し人間らしい視点で絶望にひたる人間の思考の表現を創造してみせています。 --------------------------------- もう少し雑感です。 本書が書かれたソ連崩壊前の世界は単純でした。 そのあとグローバリズムとか新自由主義とかがきて、その反動でテロやら非対称とかいう世界の構造がもうどうなっているのか、一個人からは俯瞰しきれない世界になってしまった。 当時より、より不気味な社会というものをひしひしと感じています。 そんな今を本書以上に現在をうまく表現できるのでしょうか。顕在化しつつある「不気味さ」を語る言葉あるのか、もしくはここにあっても語りえない権力なのにさらに見えなくなってしまったらどう語ればいいのでしょうか。 こんな今こそ、読むべき書と思って15年分のホコリをはらって読んだしだいです。 ディストピアとは別にもう一つテーマがあるかと思います。 本書で侍女とよばれる女性は出産器官として存在している設定ですが、女性は物であるのか?奴隷であるのか?ということ。 これはついこの間までそうだったし、今もそうかもしれません。 レヴィ・ストロースさんは原始社会から女性はモノ扱いされて交換されてきたのだと言っています(結婚のことかな)。 ジョン・レノンさんもWoman is the nigger of the world.と歌っておられます(ちょっと違うかな)。 ここ50年ほど女性の地位が向上して、こういった問題は隠れてきているかもしれないけど、社会がすこし動揺すればすぐ以前の地位に貶められる、というか実は今も昔と変わっていない、ということではないかと。 ディストピア小説がSFだと思っていてはいけませんね。 少しだけ未来社会の予測、シミュレーションであるのかもしれません。 怖い予測結果ですね、これは。 そしてその少し先の未来はすでに目の前に見え始めているのかもしれません。 おすすめ(するもんじゃないですよね)ディストピア小説: 本書を入れて4作品が映画化されているし、4作品がハヤカワepi文庫だなんて、需要があるんですかねディストピア小説…… | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド著、斎藤英治訳、ハヤカワepi文庫)は、暗く恐ろしい近未来小説です。 アメリカ合衆国で、キリスト教原理主義者の一派がクーデターによって政権を奪取します。出生率の低下に危機感を抱いた彼らは、全ての女性から仕事と財産を没収し、妊娠可能な女性たちを「侍女」としてエリート層の男性の家に派遣します。「侍女」たちはあくまでも出産の道具に過ぎず、監視と処刑の恐怖に怯えながら、儀式の夜に主人の精液を注入され、ひたすら妊娠、出産することを強制されるのです。 このような女性にとって何とも理不尽な近未来社会が、司令官の家に派遣されたオブフレッドという名の「侍女」によって語られていきます。本名を使うことを禁じられた「侍女」たちは、「オブフレッド」「オブグレン」といった、所有を表す「オブ」と所有男性のファーストネイムを合わせた名前で呼ばれるのです。「わたしは33歳だ。茶色の髪をしている。身長は、裸足で170センチ。昔の自分の容姿はうまく思いだせない。わたしは妊娠可能な子宮を持っている」。「愛が生まれるきっかけはまるでないのだ。わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない」。 「『五体満足じゃなかったのよ』と、オブグレンがわたしの耳のそばで言う。『結局、シュレッダーにかけられたのよ』。彼女はジャニーンの赤ん坊のことを言っている」。 ショッキングな状況設定だからこそ、女性と男性の関係、愛人(侍女)と妻の関係、監視される側の女性と監視する側の女性の関係、妊娠・出産が持つ意味、人工妊娠中絶の是非、女性と化粧・衣装の関係などの問題が鮮明に浮かび上がってくるのでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
侍女」。彼女達は、ギレアデ共和国において、貴重な国家資源である。「子供を産むことが可能な女」として。この国において、出生率は下降の一途を辿っている。環境汚染、エイズ、地震による原発事故、遺伝子実験…。 そんな環境の中で、子供を生む事が出来る女達は、侍女養成施設へ送られる。支配者層である司令官の子を産む道具として仕える様に教育されるのだ。 フェミニズム運動に携わっていた主人公の母や、「不完全女性」とみなされたり、体制に違反したり反抗した者は、コロニーへと送られ、死体や放射性物質の処理をさせられる。 「侍女」は希少価値を持ちながらも、高官達に産む子宮を差し出すだけの存在として、ほかの女達から、嫉妬や蔑みの目で見られている。 侍女の一人、「オブフレッド」(本名ではない。侍女は仕える高官の名前にofを付けた名で呼ばれる)が語る物語は、抑制の効いた美しい文と滑らかな翻訳で、長い物語がさらさらと読めた。然し、読み終わって、これは近未来ディストピアでは無く、過去にあった事、現在も何処かで起っている事だという気がしてならなかった。 ギレアデでは女に文字を教えない。女に書物は必要ない。産む、と言う事に全てが集約されて統制されているとさえ思う。 女に教育は必要ない。後継ぎを産む事が使命。嫁して三年子無きは去る。誰それの奥さん、誰それの女、と言う呼び方。足入れ婚。借り腹。代理母。フェミニズムは家庭を崩壊させ、出生率0へと突き進む危険思想。女は子を生む機械。etc,etc…。 祖母が、母や叔母が、私や友人達がたどってきた女としての道のりに、これらの言葉や思想は確実にあった。いや、今もある。ましてや地球上に女の人権を認めない国や地域はどれだけあるのだろう。 ギレアデ 共和国の「ギレアデ」は、旧約聖書に出て来るイスラエルの地名だが、本の中ではクーデターが起きた北米の何処か、という設定になっている。ギレアデの外では常に戦争が起っているようだが、侍女たちにはほとんど何も情報が入って来ない。バプテスト派を追い払った、クエーカー教徒の異端者を逮捕した、と言うニュースが入る所を読むと、個人の意思、個人の内面を尊重するプロテスタントの宗派が弾圧されているらしい。聖書の部分解釈を都合良く利用した全体主義的ギレアデの信仰と政治が歪んだ戦慄すべき社会を作っている。 印象に残ったのは、クーデターの始まりに、女性達は一斉に仕事を奪われ、カードで管理された財産は近親の男性に移される所。そして、侍女たちは名前を持たず、「オブグレン」とか、「オブフレッド」と言う、誰かの所有を表す「of」の後に仕える高官の名前を付けて呼ばれる。これは「結婚」する時、姓を変える事、仕事を変える事、家計を一つにする事に心理的抵抗を感じるのと似ているふと思った。 それと、作者が随所に言葉遊びや暗喩を用いている所。たとえば、乳と蜜の流れる土地、と言う聖書の記述があるが、「乳と蜜」という名の食料品店が出て来る。牛乳や卵を買うが、果物などは品薄らしい。野の百合を見よ、空の鳥を見よ、と言う記述からとったに違いない「野の百合」と言う洋服を注文する店。「食パンと魚」と言う店では魚を売るが、パンはほとんど売っていない。ここも、少ないパンと魚をキリストが多くの聴衆の為に増やしたエピソードを思わせる。それに、男の仕事=JOBと、ヨブ記(JOB記)を重ねているのには笑ってしまった。 また、文字に触れる事を許されていないはずの侍女の部屋に「信仰」の文字が刺繍されたクッションがある事。聖書の一節に、「信仰と希望と愛、この三つのものは限りなく残らん。然して最も大いなるは愛なり」というのがあるが、「希望」と「愛」のクッションは見当たらない。しかも「希望」と言う言葉が刻まれているのは古い墓石なのである。 この物語は、近未来ディストピアとして読むも良し、過去と現在の様々な因習を効果的に散りばめた架空の世界と読むも良し、聖書の言葉を歪めて解釈した宗教の暗い面を見る事も出来るだろう。また、女も産む性、いや人間の持つ性について考えさせられる物語とも言える。だが、これは決して架空の事では無いし、人間と言う種が存続して行く為にいついかなる所でも起きうる、起きて来た事なのだ。然し、陳腐なのは百も承知で言いたい。例え同じ様な状況であっても、一つだけ欠けていた「愛」をどう扱うかで、世界は全く違って来るのではないか、と。 オブフレッドは言う。「誰もセックスの欠如によって死にはしない。人は愛の欠如によって死ぬのだ。」この言葉を読んだ後に、思い返してかみしめた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
はじめは読み進めるのが大変でした。近未来のことながら、現代でも一部こんなことになりつつあるのではないか、と身震いする場面があくさんありました。転換についていきづらく、少し読みづらかったかな。訳のせいでもあるかもしれません。 力作とは思いますが、私が好きな本ではなかった理由で-1です。この作者のほかの作品も読んでみたいと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
純粋に本としては面白く読めたし、多くの人に手にとってほしい作品なので星は四つにしたが、絶対に子どもは持たないと決めている私にとって、内容は相容れない。女性の大半が子どもを産めなくなった時代、子どもを産むための道具とされている女性に同性として同情はするが、そもそも人類というのは続いていかなければならないものなのか。おのれの遺伝子を未来へとつないでいくのは生き物として当たり前の本能だが、それをあえてやめる、ということができるのは人類だけであり、それもまた進化の一つではないだろうか。優性保護と混同されるととても困るのだが、病気だの奇形だのとは全く関係なく、残さない方がいい遺伝子というものも世の中にありはしないか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作家が気になっているのでこれも読んでみた。すごい作家だと思う。 ボストン近郊の、ハーバードキャンパスを思わせる地域が舞台。設定は20世紀後半。ちょうどこれが書かれた時期(1985年)だと思われる。キリスト教原理主義者によるクーデタにより誕生した新国家ギレアデは女性を「生む機械」として扱い、出産能力のない女性は強制収用所を想起させる「コロニー」に送り、出産能力のある女性の一部は「司令官」の家に侍女として住まわせ月ごとの「儀式」により妊娠させようとする。ちなみに、聖書にそういう一節(子どものできない妻が侍女を代わりに孕ませようとする話)がある。語り手の侍女もまた、フレッドなる司令官の家に住まわされ、日々の行動を監視され、「儀式」に参加させられる。 と、設定は全くもって暗い。しかし、語り手は淡々と状況を受け止める。 <夜の闇が舞い降りて来る。いや、すでに舞い降りている。どうして夜の闇は、日の出のように昇ると言わないで舞い降りるというのだろう?日没のときに東を見れば、夜の闇が舞い降りるのではなく、昇るのが見えるというのに。闇は雲に隠れた太陽のように、地平線から空に昇っていくものなのだ。見えない火事からたち昇る煙のように。地平線のすぐ下に並んだ火災から、大かがり火から、燃える都市からたち昇る煙のように。> (p.349) この箇所がなんだか印象に残った。夜の闇は、この侍女を覆う状況の比喩である。闇は、突然降りて来るのではない。われわれの「燃える都市」から、自分たちの中から昇って来るのだ。 1985年といえば、オーウェルの『1984』を想起させるが、イランで原理主義革命が起こって間もない時期である。原理主義にひそむ非寛容を非難するのはたやすいが、それがわれわれの「自由主義」陣営からいつ「立ち昇って」くるかは分からないのである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
女性が抑圧された社会というのは 過去の歴史の中で幾度も存在していて、日本もそうであったし 現在もほとんどの地方ではその風習が残っている。 私の母親がまさにそのような社会体制の中で生きてきたので この作品にはとても親近感がわいた。 英語の原文を読むことになったのだが、まあ大学生程度の 語学力があれば読み通すことなど簡単である。 ただ日本語訳のこのバージョンと原文にはいくらかの差があり 日本語化されたこの本はただのSF小説のようになって しまっているのが残念である。 また、この内容に共感できるかできないかは読み手の位置に 大きく左右されると思う。なので星は4つ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
発表当時話題にもなり、映画化にもなりました 近年絶版となっていただけに文庫での復活は嬉しいかぎりです。 この小説は近未来のアメリカが舞台ですが エイズや環境汚染に起因する出生率の低下により 女性が子供を産む道具として扱われ奴隷のような生活を送っています。 タイトルにもある侍女は、妊娠可能な子宮を持つた女性を意味します 主人公の侍女である女性には自由はありません 妊娠する為の道具でしかない彼女の生活 ファシズム世界を行き抜く恐怖が全篇に漂い 読者である私も息を潜めて読んでしまいます 大事件がこの作品にあるわけではないのに、スリル一杯なのは 管理されてしまう恐怖を著者の巧みな旨さが背後にある作品だから カナダを代表する作家は、日本ではあまり読まれないので知名度が低い が、時間を割いて読んで後悔しない力作です | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
近未来のアメリカ。キリスト教原理主義者たちのグループによって支配された社会。女性は一般の労働を禁止され、財産を没収され、政府の決めた僅かな種類の働き手として、各家庭に配置される。そしてその役割分担を決める上での線引きは、女性が若いか若くないか、健康か不健康か、出産可能か否か、反政府的でないか否か・・・によって行われる。 運良く出産可能、で社会に有益と判断されても、子供を産むための道具として、人間性を排除された形で他人の夫婦(子供のできない政府の高官夫婦)宅に配属され、愛の伴わない性行動のために日々生きることになる。「女に教育を受けさせるとろくなことがない」と言わんばかりに、文字を読むこともペンを持つことも禁止。自殺を防ぐ目的でガラスやシャンデリアが外されたり塞がれたりしており、言動は全てチェックされ、監視される。外出は必要最低限。常に全身と顔を覆い隠しておかなければならない。もし変な行動を起こせば処刑されるという恐ろしい世の中。観光でやってきた日本人を見て「あの人たちがうらやましい」と思う、そんな悲惨な国に変わっている。 女性の権利を剥奪し、出産のための道具にする、顔を隠す、監視される、そしてキリスト原理主義・・・・なんとなくアルカイダ政権下でのアフガニスタン女性を思いだした。宗教こそ違え、この物語がかなり前に書かれたことを考えると、この作者は現代社会を予見していたようですごいと思った。 どの国でもいつこのような理不尽な社会が成立するかわからない。小説の中ではアメリカだが、本当に近い将来アメリカで似たようなことが起こらないとは誰も言えないだろう。そして、もしかすれば、その「国」は日本である可能性だってあるのだ。 私自身、女として、アフガニスタンなどの虐げられ、権利を剥奪されて生きてきた女性たちが本当に可哀相で、自分がそういう地域に生まれなかったことは幸運だと思うし、彼女たちのために何かできることはないのか、また今後この小説のような社会を作らないためにできることはないのかを考えさせられた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
Blind Assasinでブッカー賞を受賞したアトウッドの代表作。受賞をきっかけに文庫本がいつでるのかと楽しみにしていました。内容は言うまでもなく、斎藤英治さんの翻訳もすばらしい。今回の文庫化にあたり、ちょっと手を入れておられるそうで、それもおいしいです。 この本は女性の苦しみ、悲しみを切実に訴えていて、読んでいて胸が詰まる思いになります。今まで、何度も読み返してもまったく古くならない一冊。15年も前に書かれた本ですが、特に「平和」の意味が問い直されている今だから、いっそう新鮮に感じられます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「侍女」は、主人の妻に替わって子供を産む身分である。 全身赤づくめの衣装。主人のために町まで買い出しに行くことが許されている。ただし、必ず他家の侍女と同伴のこと... 北米に誕生した男性中心国家「ギレアデ」では、すべての 女がその身分で文字通り色分けされ、拘束され、文字を読むことすら許されない。失った自由を振り返りながら、わずかな希望にしがみつくように齢を重ねる侍女の独白。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!