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ウィステリアと三人の女たち
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ウィステリアと三人の女たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点2.78pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全18件 1~18 1/1ページ
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全体的に満足しています。 | ||||
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装丁に惹かれ購入、とても面白かった。作者の作品は乳と卵のみ読了していたが、そのときと比べ実力をつけている様子であり流石だった。とくに初めの二篇は女性がどうでもいい存在の女性を見るときの目線で描かれていて痛快。三篇目はすこし浮世離れしており、表題作である四篇目は個人的にはあまり印象に残らなかった。読むたびに色んな読書体験ができそうな予感。また読み返したい。 | ||||
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短篇集『ウィステリアと三人の女たち』(川上未映子著、新潮社)に収められている『ウィステリアと三人の女たち』は、正直言って、私好みの小説ではありません。作家が読者に何を伝えたいのかがはっきりしている作品でないと、私はいらいらしてしまうからです。 29歳の時、32歳の夫と結婚した「わたし」は、結婚生活9年目を迎え、夫に不妊治療への協力を頼むが、すげなく拒否されてしまいます。「それからわたしたちのあいだで子どもの話題が出ることはなかった。そして夫はわたしをセックスに誘わなくなった」。 わたしは、はす向かいの角地に建っている古くて大きな二階建ての家が壊されていくのを、二階のキッチンの窓から眺めています。 「(解体)工事の音が聞こえなくなったことに気がついたのは、三月の最後の週だった」。気になって、その家を訪れたわたしは、そこで数々の不思議な出来事に遭遇します。なぜか、そこに登場する女たちとわたしが一体化してしまうのです。 夢か現と幻か、数十年に亘る、複雑に絡まり合った出来事を体験したわたしは、激しい寒気を覚えて覚醒します。「どんなふうに家屋を出て、瓦礫が積みあがるぬかるんだ敷地を歩いて家に着いたのかわからない」。 「『何があったんだよ』。夫は見たことのないものを見るような目でわたしを見ていた。声は震え、表情は硬くこわばり、無意識のうちに後ずさりをして棚にぶつかったことにも気がつかないみたいだった。わたしは夫の顔をまっすぐに見た。瞬きもせずに凝視した。これまで威勢よく動きまわってきた口元の皮膚はだらしなく垂れ下がり。媚びとも怯えともつかない目は不安にゆれていた。この男は、こんな顔をしていたのだ」。 ある日、突然、不可解な夢のような出来事に遭遇し、出るに出られぬ迷路に入り込んだような体験をして、これまでの人生が一変してしまう――自分の好みか否かは別にして、こういう暗示的、幻想的な小説が存在してもいいのではないでしょうか。 | ||||
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う~ん、厳しなぁ。バックボーンがなさすぎるというか、確かに川上未映子節が遍在しており、独特の感受性から編まれる描写はいいんだけれども、研究していないんだよね、何か一つのテーマを掘り下げることをしてから、物語づくりに向かってほしいと思った。まぁ、ファッションブランドが鏤められた小品は中にはあったが、この分野を勉強したのかなぁ。勉強していて欲しい。コレ自分が知っている、好きなブランドの羅列だったら、ちょっとヒク感じさえした。 | ||||
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お金を出して買う価値はないかな。 中身の薄い短編の寄せ集め。その短編の数も少ないしよくこれで出版したなという感じ。 | ||||
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全編にたちこめる不穏な予感。 全編にたちこめる迷路的なるもの。 全編にたちこめる悪霊的なるもの。 彼女たちは、この世界の不安定さを象ったかのような終わりのない迷路の中をひたすら歩き続ける。 好むと好まざるを問わず、彼女たちはその中を歩き続けることしかできないように。 その何処かに身を潜め、彼女たちが来ることを待っている悪霊的なるものがあるとしても。 この迷路の何処にも出口が無いとしても。 「ウィステリアと三人の女たち」は4つの短編小説を収めた作品集。 そのどれもで、何らかの形の「悪霊的なるもの」が登場する。それは小説を構成する要素の一つというものでは なく、それ自身が自らを語るのである。 それは、まるで、「悪霊的なるもの」がこの世界の必然であるかのように、まるで、それが、この世界を支えて いるかのように、それが、まるで、この世界を形作っているかのように、振る舞うのだ。 (1)軽くて速く機敏な、小鳥のような文体 文体は、加速度はあるのだが、その密度(のようなもの)は小さい。そのため文の質量(のようなもの)は小さく、 強度はやや弱く、波を切り開き前へ進む力はこころもとない。しかし、その分、スピードは速く、敏捷であり、 すばやく機敏にコーナーを曲がることができ、細かいステップを踏むこともできる。 イメージにおいては、突出したものが影をひそめ、調和的で、単純である。 たたみかけるように、文が繰り出されるのだが、それは小さな翼で羽ばたく鳥のように、せわしなく、小さな風を 引き起こすのみで、大きく深く複雑のものを、支え浮かし動かし運ぶことは、困難だ。 軽さと俊敏さを取るか、それとも、力と強度とイメージを取るか。 これは、 軽快なのか、それとも、空疎なのか。 単純なのか、それとも、純粋なのか。 陳腐なのか、それとも、「ありきたり」なのか。 これは、 進化なのか、それとも、退化なのか。 (2)「彼女と彼女の記憶について」、不可避的に ふと、気が付くと、いつのまにか迷路の中の袋小路の中にいて、その場に立ちすくむ。 迷路の中の袋小路(?)(はたして、そんなものが、存在するのか。) 遠くの方で雷の鳴り響く音が聞こえる。 空を見上げると、一面、黒い雲が覆っている。 やがて、ぽつり、ぽつりと雨滴が地面を濡らし始め、彼女たちは足早に駆け出す。 雨は激しくなり、行き場を失った地面の水は細い水流となって地面に無数の河を作り始める。それは徐々に集まり、 巨大な水の塊となって、洪水のように、迷路の中の全てを押し流し蹂躙してゆく。 彼女たちがそのことに気が付くのは、もう少し、後のことだ。 「彼女と彼女の記憶について」は、そんな感じの、不穏な予感に満ちた話だ。 この世界の暴力的なるもの、悪霊的なるものから、誰も逃れることができないということ。 どれほど準備し、どれほど気を付けていても、逃れられないということ。 不可避的に、無防備に、 (3)「シャンデリア」天国か、地獄か 残酷さを孕んだ鮮烈さ。 この非情なまでの酷薄さ。 一滴の血でさえ乾き切っている。 彼女が、行き着くところは天国か、地獄か。(たぶん、地獄) いや、すでに、この世界そのものが、地獄か。 もはや、付け加えることは何もない。 (4)「マリーの愛の証明」、映画のスープ これは私がずいぶん前に見た映画だ。 いや、正しくは「見たと錯覚した映画」だ。 シーンもカットも私の記憶の中に鮮明に残っている。錯覚とは理解しているのが、錯覚とは思えないほど、 くっきりとした映像なのだ。 マリーもカレンもアンナも、私は、「知っている」。 カレンがマリーに愛について問い詰める場面も、マリーのコップに何かが溜まってゆく場面も、ピクニックの 帰り道、「草原のゆるやかな斜面」を下る女の子たちの場面も、私は見た記憶がある。 監督は確か、ルイ・マルか、ラース・フォン・トリアーか、 題名が喉元まで出掛っているのだが、出てこない。(題名が不明なのは当然のことながら明らかなのだが) この既視感とも錯覚ともつかぬ、不可解な気分。 これは、まるで、映画の記憶を凝縮して固形化した「スープの素」のような小説なのだ。 濃厚にして懐かしくもあるフレッシュな映画のスープ。 湯で溶かして、ゆっくり、召し上がれ。 (5)「ウィステリアと三人の女たち」、花を全身にまとい覚醒するわたし、そして、道しるべ ウィステリアとは「藤色」のこと。 藤の花びらの藤色(ウィステリア)の渦によって、主人公は、身を投げ出すように、身を浮上させるかのように 覚醒する。 覚醒する。その時を得て。 本編では、これまで、立ちすくんでいた主人公が、闇の中で、「花を全身にまとう」というトリガーが引かれ、 体を震わせ熱を帯びて痛みとともに、覚醒する。 その荒々しく猛々しいまでの覚醒ぶりに、私は思わずたじろいでしまった。 その覚醒の過程で、藤の花びらが世界を覆い、藤色に世界が染まり、一転、世界が変わり、花びらが散る。 花びらが、まるで、舞台の幕のように、世界を回す。 さて、順を追って、話を進めるとする。 まず、この「ウィステリアと三人の女たち」では、それまでその姿を見せようとしなかった迷路的なるものが、 「夫」という装いで、その姿を現す。ぬっとしたのっぺらぼうの灰色の塊のような「夫」。 「夫」は、迷路そのものとして登場し、その存在の捉えどころの無さとは裏腹に、その存在の圧倒性を禍々しいまで に見せつける。「夫」は、迷路の壁のように、棘のように「わたし」の前に立ちはだかり、「わたし」を刺し、取り 囲み、閉じ込め、押し潰そうとする。 そうした「わたしと夫」の間に解体される家が出現し、事態は様相を一変させてゆく。 「腕の長い女」に誘われるようにして、「わたし」は夜の闇の中、解体され半ば壊れた家の中に忍び込む。 そこで、ウィステリアと英語教師に会う。ひとつの幻影を見るかのように。 そこでは「わたしと夫」の関係を反転するかのように、「ウィステリアと英語教師」の関係が提示される。 何もかもが「わたしと夫」の裏返しなのだ。「わたしと夫」が物質的、現実的で、動物的な存在で生々しいのとは 対照に、「ウィステリアと英語教師」は陽炎のように非物質的、非現実的で、植物的な存在で淡くはかない。 そして、2つの関係をリンクするかのように、赤ん坊が、その不在の形で、宙に浮く。 一方では、手の中にとらえられないものとして、一方では、手の中からすべりおちたものとして。 わたしと夫、半ば壊れた家、ウィステリアと英語教師、宙に浮く赤ん坊、2つの関係と壊れた家、そして闇。 その重層した構造の中を、藤の花びらが渦巻き、「わたし」は、闇の中で、藤の花びらの渦の中に沈み、 藤の花びらを全身にまとい、 「わたし」は覚醒する。 そして、「声」を発見する。 そこでこの小説は終わる。 彼女がはたして、何処に辿り着いたのか、あるいは、辿り着けなかったのか。 その後日譚は、読者にゆだねられている。 覚醒した後、見つけた「声」こそが、迷路的なるものからの唯一の出口を指し示す道しるべだと、 私は思うのだが。その道しるべの指し示す意味を知るのは、彼女以外に誰もいない。 (6)ヴァージニア・ウルフと三人の女たち、そして、映画「めぐりあう時間たち」 ヴァージニア・ウルフと三人の女たち 「ヴァージニア・ウルフ」と「三人の女たち」という2つの言葉が組み合わさると、私の目の前には、たちどころに、スティーヴン・ダルドリー監督の映画「めぐりあう時間たち」が現れる。 この映画「めぐりあう時間たち」と小説「ウィステリと三人の女たち」は直接的には、何ら関係ないのだが、それは、もう私自身では、どうにも止めようがないことである。 「花はわたしが買いに行くわ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」) (もちろん、ヴァージニア・ウルフ、花、女性と女性とのつながり、異なる時間と場所での女たちの人生の交錯、 めぐりあう記憶など、符合する箇所がないわけではないが、それが特段の意味を持つことではないと、私は思う。) 映画「めぐりあう時間たち」は、2002年、アメリカ・イギリス制作、第53回ベルリン国際映画祭にて、 ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープの3人が銀熊賞を受賞した傑作だ。 三人の女たちが、異なった3つの時間と場所で生きる様が描かれるのだが、それが、やがてヴァージニア・ウルフの 作品を通して、「ひとつ」になってゆく映画。 ヴァージニア・ウルフを演じているのは、ニコール・キッドマン。彼女の映画作品の中でも「ドッグヴィル」と並んで、最高の作品と言ってもいい映画だ。 結果として、ヴァージニア・ウルフは、河に身を投じるのだが、映画はその残酷かつ、怖ろしいほどの美しい 光景を何一つ余すことなく克明に映し描き出す。 限りなく透明な水と揺れる水草、その中をヴァージニア・ウルフがゆっくりと沈み流れる。 ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」のように。 (7)連鎖反応的に、次々と、そして、大きなものの一部 なぜだか、理由はわからないが、川上未映子の小説を読むと、つい、別の何かを思い起こしてしまうのだ。 それも連鎖反応的に、次々と。 (しかし、そのことが川上未映子の小説のオリジナリティを、否定し損なうことにならないのは言うまでもない ことである。) ヴァージニア・ウルフ、めぐりあう時間たち、オフィーリア、メランコリア、ラース・フォン・トリアー ドッグヴィル、ニコール・キッドマン、ヴァージニア・ウルフ(振り出しに戻る) 私の頭の中を記憶とイメージが呼び掛け合い、それが反響して、ぐるぐる回るのである。 なんだか、「大きなものの一部」がちらちらと一瞬だけ姿を現し、すぐに消える、そんな感じなのである。 まるで、私の中に、これまで単独で存在していたものたちが互いに呼応し合い、未知の新しい星座が形作られ、 見い出されたかのような気分になるのである。 でも、それは、はっきり、言って、「ここちよい」のだ。 つまり、その「大きなものの一部」を再び見たいがために、私は、川上未映子の最新の作品集を手に取り 読むのだ。 | ||||
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どこかで読んだことがあるような、そんな文章が続いて、でも我慢して読み続けて、そのまま終わってしまう・・・という感じです。テーマはなに?作家はなにを伝えたくてこの小説を書いたの?伝えたいことなんてなくて、ただ感情のままに文字を並べているの? 女性の私でさえも、ここにでてくるステレオタイプの女性たちには感情移入まったくできません。 川上さんの、ファッションの話とか織り込んだエッセイは楽しく読めるので、小説家というよりエッセイストなのかもしれないですね | ||||
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この素晴らしい本の感想を誰かに伝えたいと思いました。その一つの媒体として、このブック・レビューが用意されているように感じました。 このレビューの場は、誰かにそう伝言してくれそうな友だちのよう。友だちつき合いの広い友人のように感じられます。 さて、この単行本には、川上未映子さんの中篇一篇と短篇三篇が一つにまとめられています。 2014年から2017年にわたって初出した作品が続けて一気に読めてしまいます。読者としてはたいへん便利な本です。 表紙の写真もすてきです。 木に登った二人の女性の笑顔が明るい。一人はおっかなびっくりの屁っ放り腰ですが、女性らしくて、ほほえましい。 表紙の金色の文字と草花の画も、白黒の写真を背景にすると、引き立ってきれいです。 藤棚から垂れ下がる藤の花のようでもあり、しばし表紙に見惚れました。 この本の中の「彼女と彼女の記憶について」と「シャンデリア」の二作品については、 それぞれの初出雑誌等のレビューとして既に投稿させてもらいましたので、 このレビューでは、この本の表題作「ウィステリアと三人の女たち」だけについて感想を記します。 この作品では、女が中心で回っている世界であることが印象に残りました。 天寿を全うした女ふたり(外国人教師とウィステリア)の人生と死が、赤ん坊のできない「わたし」の夫婦の話の間にしっかりと挟まって重なっています。赤ん坊の死と生が奇妙に絡まるように交差しています。この本の魅力の一つです。 女たちの心の世界、女の一生が夢をみているような言葉でみごとに描かれています。素晴らしい作品だと思います。 女たちは、あくまでも現実世界のなかにとどまり妄想、幻視しているように感じました。 ありもしないファンタジーの世界を勝手に作り出し、自ら勝手に落ち込んでいく男性作家の作品とは味わいがまったく違います。 あくまでも女の性(さが)の現実が、女の世界の中だけで語られています。 男は、影もない幽霊のようで、存在感まるでなし。『源氏物語』とは違います。 もちろん女だけの世界ですから、赤ん坊は生まれてきません。 でも、女だけの世界特有の愛は生まれています。それが生き生きと鮮やかに静かに描かれています。 女だけの、女同士の愛は、男たちの頭には理解困難なのかもしれません。「わたし」の夫のように無理なのかも。 とは言っても、死は男女共通の宿命です。結婚しても、しなくても。 この作品の中には、あふれる死の気配を感じます。 川上未映子さんをリスペクトして、死の言葉だけを抜き出して引用してみました。 「お向かいのおばあちゃん、亡くなったのかな」(117頁) 「居間がある種の殺戮とともに死んだ場所であるなら」(144頁) 「でも今はいない。死んじゃったんだよ」(161頁) 「ふた月もしないうちに、死んでしまった」(161頁) 「そしてその赤ん坊は死んでしまった」(162頁) 「いつ死んでもおかしくない生まれたばかりのわたしの赤ん坊がかろうじて息をしている」(162頁) 「癌が発見されてから三ヶ月もしないうちに亡くなってしまいました」(167頁) 「あの日、外国人教師の死の知らせを受け取った日が、ほとんど無限にくりかえされる」(170頁) 「吹雪のように花びらが散るなかでウィステリアは外国人教師の死を知る」(170頁) 「そう、彼女の赤ん坊が死んだのは、わたしが彼女との赤ん坊を望み、そしてこの腕の中でしっかりと抱いてしまったからだ」(170頁) 「彼女は苦しまずに天国へ旅立ちました」(171頁) この作品では、隣の古い家を壊す解体工事の音も耳に残りました。 「ほら、物が壊されるときって独特の音がするじゃないですか」(130頁) 「壊される音です」(130頁) 「それはかすかな音だった。注意深く耳を澄まさなければすぐに見失ってしまいそうな、それはとてもかすかな音だった」(177頁) 「細い糸のように震えながら、途切れながらまっすぐにわたしを求めているそれは、どこか遠くにありながら、しかしすぐそばから聞こえてくる音なのかもしれなかった。瓦礫のすきまから、粉々に砕けたガラスの破片から、切り倒される木の裂け目から、あるいはわたし自身の中から」(177頁) これらの音は、暗闇の中で「わたし」自身が壊されていく音のように、読者の頭には聞こえてきたはずです。見えないものの音だけが聞こえて来る不気味さ。真夜中に家に戻っても、妻とは分からず、「おまえ、誰なんだよ」と問う夫の声は、怖くて今にも消え入りそう。 妻から「この男」と呼ばれるようになってしまった夫との関係からは、バリバリ、ギシギシ、メリメリと切り裂かれていく音だけが読者には聞こえてきます。ダメみたいですね、この夫婦。妻はきっと家から出て行ってしまいそうです。夫だけがとり残されて。 あーあ、生きてくだけなら、この世に女だけで十分みたい。自分が好きになれる女、自分を愛してくれる女さえいてくれれば。 「外国人教師」のような女がいれば、男や夫はいらないのかもしれません。 夫がいなくたって、赤ん坊が産めなくたって、女の「わたし」と女たちだけで生きていけそうです。 この作品は、漫画(バンドデシネ)でも見てみたい。 雨に濡れた「わたし」の全身を覆う、ひしめくように張りついた鱗のような「藤の花びら」の画のような最後の場面は、きれいだろうな。 藤の「花びらが渦になってウィステリアを巻き込む」(171頁)場面も、できれば動画で観たい。絵になる場面だと思うからです。 日本画やアニメにもなりそうなほど、この作品のイメージは鮮烈です。言葉は穏やかですが。 こんな気持ちにさせてくれた、美しくも、死の気配が漂っている、不気味な中篇小説です。 <備考> 作品名の中の「ウィステリア」とは、老女の愛称です。 では「三人の女たち」とは? まず一人目は、「わたし」こと、語り手の三十八歳の女。結婚して九年になるが、子どもがいない女。 そして、二人目は、「わたし」が解体工事中の隣の家を見ていたときに話しかけてきた女。ときどき真夜中の空き家に入り込み、ただ座って、仰向けになってゆっくり瞬きをしてから、出てくる、ただそれだけという、腕の長い女。お化け女みたい。 最後の三人目は、老女「ウィステリア」と一緒に十年間、英語塾で子どもたちに英語を教えていた外国人教師の女。 「きみのことをウィステリアと呼んでもいいかと老女に尋ねる」(152頁)カッコイイ宝塚の男役のような英国人の女です。 | ||||
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村上春樹の作品の横流しといった感じです。買って読むほどのものではないかな。 | ||||
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著者のエッセイは好き。 でも毎回小説は期待はずれ。 小説は誰かや何かをオマージュしなければいけないのだろうか? その時々に流行ってるモチーフ(例えば今回なら同性愛)があって過去の他人の作品のムードを模倣してパッケージを替えて新たに生まれたかのように差し出されるけど、それなりの読書経験のある者からすれば舞台やシチュエーション、登場人物に既視感があって、このオリジナルは何だっけ?っていう。 まさにファッションで言うところの繰り返されるモードみたい。 今度はウルフかー‥‥‥ウルフ読み直したくなりました。 | ||||
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川上さんの小説は興味をもって見ています。女性の心理の複雑さが良くあらわされていると思いますが、 年代の相違から来るものでしょうか、理解できない部分もたくさんありました。時を置いて再読してみたら 違う感じが起こるかもしれません。 | ||||
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「彼女と彼女の記憶について」 「シャンデリア」 「マリーの愛の証明」 「ウィステリアと三人の女たち」 の4編からなる短編集。 どこかで出会ったような、出会わなかったようなあいまいな状況と登場人物たち。 妙な感じな文章で綴られるあいまいさが意外と心地いい。 好き嫌いはあるのだろうが、私は気にいった。 「シャンデリア」 が特に気に入った。 | ||||
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とりあえず、自分向けではなかった。嗜好の問題です 内側に内側に向かう「個人の葛藤」って辛気臭いな… ↑と思いながらも、読みさしで止めようとは思わなかったんで「引き」はありました ほどほどに楽しみました | ||||
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滑らかな文章は好きだけど、本当にそれだけという感じ。マリーの愛の証明なんかは、この程度の思想しかないのなら書かないほうがいい。全部の短編が誰かの作品に似ている。 | ||||
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「すべて真夜中の恋人たち」がフィッツジェラルドの「すべて悲しき若者たち」のタイトルを模倣していることは言うまでもないが(あるいは本人的にはオマージュのつもりなのかもしれないが)、今作についてはタイトル、文体、世界観すべてが村上春樹の模写。村上春樹に捧ぐ、の一文が扉にあれば、まだ許容できた。あこがれが安易な模写に変わってはいけない。 | ||||
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星5など、どうせサクラが書き始めるのでしょう。中身はないです。本当にこの人、きちんと賞を取ったのかと勘繰りたくなる。この人が取れるなら他に1000人くらい受賞してもおかしくはない。 | ||||
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装丁だけ好み。小説は、つまらなかったです。 人気のあるタレント作家さんなので、私と個人的に相性が悪かったのでしょう。 表題作「ウィステリアと三人の女たち」は村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」と似ている気が。。。 内容でなく、タイトルのつけ方が。文体も似ていたな。 | ||||
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川上未映子は幾つかの作品しか読んだことがないが、身体の触れるきわめて微細な感覚が、この上なく透明に、美しく、そしてシュールに描かれているのが、その魅力だと思う。本作も、そういう点で、『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』や『すべて真夜中の恋人たち』と共通性を感じさせる。身体の触れるきわめて微細な感覚が、主人公の女性のアイデンティティを形成しており、その微細な身体感覚の中心には性愛があるのだが、『先端で・・』がきわめて先鋭に女性の性愛感覚を描いているのに対して、『真夜中』や本作は、微細な身体感覚の中心にあるのは、性はむしろ希薄で、暗闇の中でかすかに光る愛の感情である。周囲のものと触れ合う触覚と連続する自分の身体感覚の一番中心には、愛の感覚、愛の感情がある。本作では、「ウィステリアと三人の女たち」が登場するが、イギリス人の英語教師以外は、実は同一人物であるかのような感じを覚える。いや、三人の別の女性が、身体の触れるきわめて微細な感覚を共通の拠り所にして、互いに入れ替わるのかもしれない。そうした入れ替りを可能にしているのは、身体感覚の中心に愛があるからである。 『真夜中』がそうであったように、川上作品でもっとも素晴らしい箇所は、ほとんど光のない暗闇の中に、僅かな光があって、身体の微細な感覚をみずから楽しむ場面である。それは人間の生命の根源に触れる、きわめて切なく、儚い場面でもある。本作では、それは闇の中で身体にまとわりつく藤の花びらにも象徴されている。本作から一つ引用してみよう。「わたしは誰もいない空家を想像してみた。家具も、誰の息遣いもなく、暗闇以外は何もない部屋。夜のどこかにある光が窓をそっと通過して、やがて部屋を侵食しはじめ、だんだん青味が増してくる。するとさっきまで何もなかった床の真ん中が濃い青に膨らみはじめ、曖昧な輪郭が盛りあがるように現れる。しばらくじっと目を凝らしていると、それが仰向けになった女の体だということに気がつく」(p136)。私たちの身体感覚の中心にある愛は、このように現象するのだ。 他の方のレヴューで思ったのですが、村上春樹に似ているというのは、マイナスにはならないと思います。シェイクスピアなんか筋はほぼ全部パクリですし、文学作品は、その人にしかできない優れた表現によってその価値が決まるのです。川上未映子は、『先端で』で分かるように、第一級の表現者です。ただ、小説技法に未熟さがあるのも事実で、『真夜中』は脇役の記述が雑で類型的。でも、本作はそういう欠陥はないのでは。 | ||||
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