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あこがれ
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あこがれの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.68pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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15年ぶりくらいの川上さんでした。 その15年の間に1000冊は読んだわけですが、私はなかなか好きな作家さんってのが現れなくてハマらないんですが、これは完全にハマりました。 この作品で川上さんを追っかけようと決めたわけで。 大人が書いたとは思えないほどに子どもの心理描写の美しさが溢れかえっていて溺れそうになりました。 一部も二部も本当に素敵でした。 | ||||
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第一章の語り手は麦くん。父の記憶はない。ある日サンドイッチ売り場のお姉さんに惹かれる。幼なじみのヘガティーは会いたい人が居るなら会えるうちに会わないといけないという。勇気を振り絞って声をかける。あこがれは幼い恋愛感情なのか? 第二章はヘガティー。屁が紅茶のにおいがしたのでヘガティーだって。女のコなのに小学生らしい残酷なあだ名!そういえば小学生の頃、女のコなのに「検便」というあだ名の子がいた。親しみを込めて検便と呼んでいたのだ。ヘガティーは父子家庭で母の記憶はない。ところがある日、父には前妻が居たことが発覚。その女性との間に姉が居ることを知る。悶々とするが姉にに会いたいと憧れは押さえがたく会いに行く。 思春期前の繊細な感情、懐かしい感覚を思い出しました。ここには大人へのあこがれもあるのかも。 | ||||
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とてもよかったです。 | ||||
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予定より早く到着し、とても良い状態で届きました。 | ||||
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麦彦君がミス・アイスサンドイッチに抱いていた感情はあこがれなのか淡い恋なのか。 ヘガティーはお姉さんに会って何を伝えたかったのか。 思春期ちょっと前の子どもたちの心に寄り添うあたたかい物語。 | ||||
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物語は前後編にわかれ、それぞれ独立した作品として読める。 前半は麦彦が語り手。スーパーの店員であるミス・サンドイッチに麦彦は惹かれるが、ある事件をきっかけに会えなくなってしまう。落ち込む麦彦に、ヘガティーは声をかける。 後半は二年後のヘガティーの視点から物語が進む。ふとしたことから自分に腹互いの姉がいると知り、動揺するヘガティー。麦彦は、その姉に直接会ってみることを提案する。 麦彦とヘガティーは合わせ鏡の関係だ。ふたりとも片親を亡くし、遺された親との距離がうまくつかめていない。 そしてふたりとも、自分のいる世界の脆さ、儚さを本能的に知っている。逃げずにきちんと向き合っている。そのことがふたりの言動に説得力を持たせ、物語に陰影をつけている。 たとえば麦彦は、年老いた祖母の死を覚悟している。≪おばあちゃんは、たぶんきっと、そう遠くないうちに死んでしまって、そして、いなくなってしまうだろう。……そう思うと、胸の中にある空気がどんどん重たくなってどこにも逃げられないような気持ちになる。≫ 一方のヘガティーは言う。≪「誰かにあしたまた会えるのは、会いつづけてるからに決まってるじゃん。……人って、いつぽっかりいなくなっちゃうか、わからないんだからね」≫ ≪「だから会いたいときに、……会えるんだったら、ぜったい会っておいたほうがいいと思うんだよね」≫ 本書の終わりで、ヘガティーは、クリスマスツリーの前で寝るのをやめる。亡き母に宛てて手紙を書き、母親の死と自分なりに向き合った結果である。彼女はこれからも、前を向いて進んでゆけるはずだ。 ≪「肩くむとね、ちょっとらくになるんだよ」≫ ≪ちょうどおなじくらいの背のわたしたちの肩はおなじ高さでひとつになって、わたしたちはそのままじっとしていた。≫ 彼らのような関係性に私は憧れる。二人で過ごした温かい記憶は、きっと彼らを強くし、大人になったときに心の糧となる。≪なぜだかわたしは、今日のことを忘れないだろうなとそう思った。≫このヘガティーの直感は間違っていない。 前半は、幼い麦彦の思考を描くためだとは思うが、読点が続きどうしても読みにくさを感じてしまう。それに慣れることができれば、本書のリズム感に自然と引き込まれていくだろう。読後感は爽やかだ。 | ||||
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最初の数ページは文体に慣れるのにやや時間を要しますが、一旦物語世界に入ってしまうと、あまり現実的ではないシチュエーションなのになぜか生々しい妙なリアリティを感じてしまう独特の雰囲気に引き込まれてしまいます。 理由は色々あると思いますが、川上さんの小説では、多くの読者が年齢に関わらず、いつかどこかで感じたことのある違和感をとても自然に登場人物に語らせるからだと思います。 この世界のたくさんのことと少なくとも本人的にはうまく折り合えないでいると感じている人にとってどこか救われる物語で、私は大好きです。 | ||||
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ニッポン放送の”あなたとハッピー”内のブックソムリエというコーナーで紹介されていたのを聴いていて、購入しました。 中瀬ゆかりさん(講談社出版部部長)の案内通り、思春期直前の少年少女たちのピュアな感情が現れていて、物語に吸い込まれました。 | ||||
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特別本好きでもなく、年に数冊読む程度の読者です。そんな私にとって読後感が最高でした。あと小学生の「あこがれ」の感情がよく書けているなぁという感想。大好きです川上未映子さん。 | ||||
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子供のころの純粋さを思い出して切なくなった。 失うことの切なさ、一歩踏み出すことへの勇気など 今では忘れかけていることが描かれていて 子供のころのそういう気持ちを思い出した。 | ||||
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やはり川上未映子は子供を主人公にするとピカイチです。 直前に読み終わった本が「外道クライマー」で、 そのギャップに戸惑いましたが、読み始めたら止まりませんでした。 小学生高学年のあだ名付の名人麦君と その名人におならの匂いが紅茶の匂いだったことから ヘガティーと命名された女の子が主人公のお話です。 第一章が麦君が語り、突然終わってしまいおいおいと思っていたら、 第二章はヘガティーの語りでしっかり続編が始まります。 正直これ程ませた子供はいるかなと思いますが、とても懐かしく読めました。 どうやら川上未映子は毎日かあさんにならずに済んだようです。 津島佑子が亡くなってからは唯一無条件で読める小説家です | ||||
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たぶん誰でもが経験した感情、今また疼くことを詩的な川上ワールドで甘く切なく語りながら、ラストはしっかりと大人である自分に向き合える小品である。 | ||||
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この作者の作品を読むのは初めて。文体になれるのにちょっと時間を要したが、次第に読点で連なる文章が、思春期の入り口に差し掛かった登場人物の内面を描くのにとてもふさわしく感じられるようになった。この作者のほかの作品も読もうと思う。 | ||||
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内容は二つに分かれていて、第一章は小4生のぼく(麦彦)の一人称で、同級生の女の子ヘガティーというあだ名の子、この2人が主人公である。物語はサンドイッチ屋にいるミス・アイスサンドイッチと勝手に名づけた販売員の話である。(おそらく)奇妙な顔をしたその女性に興味を持ったぼくと、ミス・サンドイッチとの顛末。 そして第二章は6年生になったわたし(ヘガティー)の異母姉(とその母親)また父親との顛末である。物語のなかで多くはあだ名で呼ばれ実名は分らない。また奇妙な小学生的な言い回しなどがでてきたり、そんなまだ未分明な2人の成長、というより気分のあり方かな、そういうものが描かれている。子供が主人公というのは前作の「ヘヴン」に似通っているわけであるがかもされる情緒は違うように思う。 多分タイトルの「あこがれ」にこの物語の意味がこめられているように思うが、私にはそこまで読みきれなかった。ただ読後感は悪くなかったといっておおこう。 | ||||
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かなりの過去になるが、その頃に考えていたことって 案外深く人生がわかったような理屈が、自分の中にはあった。 表現する言葉は持っていないし、 経験値もない。 でも、とてもおとなびた冷静さがあったような気がする。 この作者の本を初めて読んだ。 この年齢の子供たちが、言葉をうまく操ったら、 こんなふうに表現したかもしれないな、と思う。 このふたり、好きだな、と思う。 まわりの大人の事情はあるだろう。 その中で、ふたりがおたがいに不器用に思いやりながら、 今のことを理解しようとし、行動している。 生意気だけど、おとなびているけれど、 ちゃんと素直に、こどもとして。 ふつうに読むと、あこがれという題名に、あまりしっくりとこない。 田の書評を読むと、わかる人にはわかるのね、といったところか。 | ||||
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子どもの頃の、思春期の、とおに忘れてしまっている、忘れなければならなかった、忘れ去った複雑な感情。言葉にならないもの。社会の論理とは異なる考えの組み合わせ。 彼女の小説は、ひとを、生を、出会いを、誰かとともにいることを愛おしくさせる。 祖母を思い出し、祖父を思い出し、二度と会わない多くの人たちを思い出す。感傷は現実社会を生きるのに何の役にも立たないが、でも生の一部だ。生の或る層だ。たくましく器用に生きるしかないが、喚起される切なさは、人生に含まれている。 | ||||
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映画評論家の父の影響で、小学生にして早くも映画狂への道を歩み始めているヒロインのヘガティー。 作中の上映会で彼女がチョイスした二作品はいずれもマイケル・マン監督作品で、すでにシネフィル的素養の片鱗を見せつけてくれます。 ネタバレにならない程度に少しだけ真面目なことを言っておくと、彼女が執拗な反復の末に自らのものにしようとしたのがとあるアクション映画の銃撃戦シーンだというのが印象的でした。いくぶん象徴的な言い方をするなら、記憶のある種の空位状態を埋めるのに彼女の選んだ対象があの映画だったということです。そうした本作品の記憶をもとにしてその映画を見直してみると、特にあの銃撃戦シーンにはまた違った味わいが生まれるのではないかと思います。 映画的記憶ということを言うのであれは、本作のタイトル『あこがれ』は、フランソワ・トリュフォーの短篇映画『あこがれ』(1958年)からとったものと思われます。川上版『あこがれ』では、第一章「ミス・アイスサンドイッチ」(それにしても天才的な名付けですね。さすがに関係ないんでしょうが、アステア&ロジャーズを起用したミュージカル映画などで知られる監督のマーク・サンドリッチの名前を想起させる語感です)と第二章「苺ジャムから苺をひけば」で主人公とヒロインがそれぞれ「あこがれ」を抱く人をめぐるエピソードが繰り広げられていきます。第一章でヘガティーが麦くんに向けて言った「だからさ、会いたい人がいて会えるんならさ、会えるうちに会っておかなきゃいけないんだよ、ぜったいに」という(帯でも強調されている)台詞は、第二章でそのまま自分に返ってくることになり、作品内で綺麗な対応関係を作り出しています。 以下やや内容に踏み込んだ感想になりますが、個人的には麦くんのおばあちゃんの存在が印象に残りました。麦くんがおばあちゃんにまつわる多くの思い出を記憶していることは、彼が父親の記憶を持っていないことを際立たせます。この点はヘガティーが亡くなった母親のことを覚えていないこととも繋がっていて、この二人がお互いを求めあっているのは、記憶の不在をこそ共有できるからだ、という見方もできるかもしれません。 最後に、野暮を承知で書き加えておくと、『あこがれ』という本書のタイトルがトリュフォー由来のものであるとすれば、それは必然的に著者の配偶者である阿部和重の群像新人賞受賞作『アメリカの夜』(1994年)を連想せざるをえません(トリュフォーの同名映画の公開は1973年)。さらに言えば、ネットで検索すればその生涯を確認できてしまう有名人が両親であるというのは、幼い子どもを持つ著者自身の境遇と重なるようにも思います。じっさい、本作『あこがれ』の最後の一文は、著者のエッセイ『きみは赤ちゃん』(2014年)との連続性を思わせるもので、感動的です。 | ||||
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