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充たされざる者
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充たされざる者の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.09pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全54件 1~20 1/3ページ
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けっこう面白かった。僕は『わたしを離さないで』『わたしたちが孤児だったころ』『日の名残り』という順番でカズオ・イシグロを読んできて、本書が4冊目である。最初はなんじゃこの長さはと思ったが、読み始めるとわりと退屈せずに一気に読めた。 訳者あとがきによると、「この作品はブラック・コメディーとして書いたもので、リアリズムの作家とは二度と呼ばれたくないというのが、本人の弁である」とのことで、主人公は「永久に目的地にたどりつけないカフカ的悪夢の世界に迷い込む」のであった。 核心に触れないもどかしさが延々と続くとでも言うべきか、訳の分からないものに急かされるように読者も主人公と一緒になってどんどん先へ進まざるを得ない、という不思議な小説だった。言うなればベルトコンベアーに載せられて、降りられない感覚に近い。 不条理だろうがパラレルワールドだろが、物語が面白くなければ数十ページでもつらいと思う。そういう意味では日本語にして900ページ超を読ませる物語の力が本作にはある。それがつまりイシグロ文学が多くの人を魅了するシンプルにして最大の理由ではないか。 | ||||
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K.イシグロさん3冊目ですがまだ読み終わっていません。これだけ厚い本もなかなかないでしょうが 難解ではありませんが読み易いけれど軽さはなく文章の展開が巧みで他の作品同様に重厚感があります。 謎めいた構成で引き込まれますね。 | ||||
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小説に「構造美」を求める人にとって、これほど緻密に整った作品はお目にかかれないだろう。 装丁で見られるように、読者は薄暗い一本道をひたすら歩かされる。カフカが迷宮であるなら、これは暗い街道だ。そもそも、カズオイシグロの作品には「語られざるもの」が主題であり、常に「語られる」ものから周りを見渡さなくてはいけない。一本道を歩きながら、ひたすら真っ暗な風景に向かって景色を投影しつつ歩いていくことになる。 作品の一番大きな仕掛けは、あとがきに書かれている。この仕掛けに気づけた読者にとって、900ページを超える道のりはさして遠いものではない。 | ||||
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個々のトラブル何れも非現実的だが、同時に各自の知悉する儘ならなさを延々語られた感じ。笑うには長い。 | ||||
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目的地は決まっているのに、町の人々によって絶えず横道に引き込まれ なかなかたどり着けない。 読んでいる私も、区切りの良いところで一度本から離れてほかのことを しようと思うのに、一区切りがとても長くて休めない。 それでも読んでしまう。カズオ・イシグロの文章構築力は素晴らしい! 私が時々みる悪夢にどこか似ていて、読み終わってとても疲れた。 | ||||
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カズオ・イシグロ作品の中でも賛否両論ある本作ですが、私は大好きです。 この夢の中のような現実感のない物語については、読者も辻褄を合わせようとしたり、論理的に理解しようとせず、主人公のライダーのように身を任せれば良いのです。饒舌な登場人物たちの話に耳を傾け、その世界に浸りましょう。 950ページの長大な小説ですが、私は終わるのが名残惜しくなるくらいずっと楽しく読みました。 こんな小説が可能なのは、カズオ・イシグロの力量が圧倒的だからでしょう。並の作家ではまず不可能だと思います。 個人的には、村上春樹の長編小説に近いものを感じました。おそらく村上ファンならきっとこの作品も気にいると思います。もし可能なら村上春樹の翻訳も読んでみたいですね(まあ無理でしょうが)。 | ||||
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カズオイシグロの小説を読んでて最も評価されるべきところは、信用できない一人称語りによる物語から感じる読者の認識を、再考させてしまう力だと思います。 登場人物の語りの心象が、視点の変化や時間の経過により、くるりと反転してしまうといった具合に。 そこに、語り手の記憶の曖昧さを加味することにより、この物語は、より一層イシグロ的"意味の場"の世界を確立したのではないでしょうか。 発表の時系列的には「日の名残り」の後の作品であり、その読者からするとこの作品のリアリズムからの脱却には戸惑いを感じるのかもしれませんが、イシグロ作品での普遍的なテーマである人間の深部にある性格表現の幅を大きく広げています。 イシグロ作品の中で重要なのは、登場人物の一人称語りの主観性は常に"可疑的"であるということの提示。 イシグロによって切り取られた語りによる"意識体験"を、読者は自身の洞察によって一旦は捉まえてしまうのですが、それはイシグロの綿密に操作された語りであって、常に裏切られるかもしれないという波乱を帯びているのです。 読者の登場人物に対する認識の信憑性は簡単に覆されたりします。 一言で言えば、一面的なものを示す物語ではないということ。 その部分に読者と物語とのインタラクティブな、そして固定化されることのない疎通が生成されるのだと思います。 結末を意味あるものとして期待して読んではいけないのかも知れません。 売れる小説を書くのではなてく、作家が書きたいものを書くという一貫したスタイル。 イシグロのその後の発表された作品も、つねに冒険的だと言えるでしょう。 主人公であるライダーに登場人物は次から次に自分の願いを頼み込みます。 ライダーがまるで救世主であり、すべてを解決してくれるはずだという思いで、寄ってたかってすがりつくみたいに。 洪水のようにライダーに押し寄せてくる住民の嘆願は、ある意味滑稽さを伴っています。 その願いというものもあまりに一方的であり、厚かましささえ感じられます。 嘆願してくる当の本人にとっては人生における最大の悩み事なのかもしれませんが、俯瞰して考えると、くだらないと言えばくだらないもの。そのくどくどとした長セリフの願い事の量は読んでて圧倒され、逆にそこが面白い部分でもあります。 ふと、この物語は喜劇なのかもしれないという思いが頭をよぎります。 救済される町の人達みんなに言えるのですが、なにか人として足りない部分を感じてしまいます。欠陥といえば言い過ぎですが。 しかしながら、そのことに町のすべての人が気づいていない。 外からやってきたライダーにはそれが解かる。でもライダーの忠告は人々にうまく伝わらないというもどかしさ。 そこからの眺めでは、人はこんなにも愚かな生き物なのかと。 ライダー自身もまるで、水中に腰までつかっているので水の抵抗で前に進もうとしても思うように足が繰り出せないといった夢を見ている感じで、途切れなくまとわりついてくる"遠慮のない願い事"という抵抗を受けてまったく前へ進むことが出来ません。 ところで、「充たされない者」とはだれなんだろう? その町に住んでいる人達みんなが充たされていない、というカフカ的夢を見ている風景が描かれているのかも。 ある意味、救いようのない図式。おろかな人間の生き方の縮図を見ているようでもあります。 そしてデフォルメされた人間の行動が、なにか身勝手で都合のいい人たちに思えてくる。 でも本人にとっては一大事であり一生懸命。そこがまた滑稽といえば滑稽な物語とも感じてしまう。 この物語は、ライダー自身が観たの夢の世界の物語だったのか。 時間軸がいきなり狂ったり、場所のいきなりの移動、ライダーの記憶の曖昧さ等々の配置が絶妙で、ライダーが見た夢を読者は追体験しているようにも感じます。 読み終わってふと頭に浮かんだのは、これだけ膨大な量の文字数を読んだのに、それに見合う報酬を受け取ったのかどうか測りかねないうちに物語が終わったということ。 それこそ、残ったのは「充たされない読者の期待感」かも。 これから読もうとする方は、一面的な答えを求めて読まない方がいいかも。 イシグロの文体が好きな読者なら、その術中にはまってしまうことは間違いありませんが。 言い方を変えれば、この長い物語のなかにずっと泳がされ続けるということになります。 | ||||
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1時間ぐらい聞きました。ナレーションもいいし、話もわかりやすいです。しかし、聞くのを断念した理由を書かせていただきます。 冒頭有名なピアニストがあるホテルにやってくる。本来なら多忙なピアニストにはゆっくり滞在してもらえるように極力そっとしておくところであるが、支配人、ポーターや周りの人たちがピアニストの応対のよさをいい事に、自分に都合のいいお願いをしていていく。ピアニストも断ればいいのに、そのお願いをできれば叶えましょうと答える。そのやり取りが、ああこんな事実際にあるよな、上手に描写されているな、他の人のレビューにあるように、ブラックユーモアと言えるのだろうなと思いながら聴き進んで行きました。しかし次第に、このホテルの人達の無神経さに腹が立ち、聞いているのが苦痛になってきました。ピアニストの社交性の良さ、人がいいからこんな対応ができるんだろうなと思いながら、「断ればいいのに」ともどかしく感じました。読者を楽しませるブラックユーモアを混ぜて書いてあると思いますが、私にはユーモアには感じられませんでした。ピアニストももっとはっきり断ればいいのに断らず、となんだか読んでいてストレスが溜まり出したので、聞くのを止めにしました。 多少でもご参考になれば。 | ||||
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迅速で的確な対応ありがとうございます | ||||
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イシグロの4番目の著作。文庫にして約940ページ、原著で500ページを超えるまさに浩瀚。 ただ、読み終えるのに苦労したのは、そのせいばかりでなく、これは夢なのか、回想なのか、改変された記憶なのか、判然としないままに、次から次へと場面が転換し、登場人物たちの饒舌とそれに引き回される主人公が、どこに向かっているのか、どうなっていくのかわからない不条理感と焦燥感が半端ないため^^; 誰しも、バスや電車に乗ったが、いつまでたっても目的地にたどり着けない悪夢を見たことはあると思うが、これが延々と続く感じ。 登場人物たちの独善的な語りからは、人間の虚栄、自己正当化が浮き彫りになってくるし、主たる登場人物たちも実は主人公の過去が投影されていたりと、そういう意味で、本作はそれまでのイシグロの手法の集大成であり、それを一層精緻な形で、虚構の入り組んだ大伽藍を構築したような作品。 もの凄い力業であり、イシグロ自身もこれまでの最高の自信作と言っていたようだが、必ずしも万人向けではないかも知れません。 | ||||
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図書館の本と比較にならないくらいとてもきれいです。包装も丁寧で 気持ちよく受け取れました。 | ||||
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前3作とがらりと変わった作品であった。このような作品も描けるカズオ・イシグロの力量を見た。夢の中の時間や空間のうつろい易さの表現は見事であり、シュールレアリズムの絵画を想像させる巧みな文章である。メタファーを用いた非現実的世界観は、村上春樹の作品に影響されたのではないかとも感じられる。まだ4作しか読んでいないが、次作も楽しみである。 | ||||
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「実にすばらしい! 実にすばらしい!」(441頁) 「とても面白い! とても面白い!」(441頁) 「この作品はブラック・コメディーとして書いた」とイシグロ本人が言いきる。「最高の自信作」 長篇小説。悲劇であり喜劇、ユーモアと怒りと憎しみの物語。 何が何だかズルズルと、分からないまま、引き込まれていく。 愛と人生の寓話に魅せられました。イシグロのフアンになりました。 たった三日間しかない滞在なのに、ハードスケジュールで時間が無いというのに。 町のひとたちに次々に横道にそらされる「わたし」は、ドタキャンの連打。どたばた喜劇。 そんなズルズルの「わたし」が語る、この町の不条理。悲劇の歴史。 「わたし」のいらだちと憤り、怒りは積み重なり、とうとう、と思いきや、 最後の最後まで爆発しないで、くすぶり続けて終わります。プシュー。不自然鎮火。 奇妙に「謙虚で慇懃な物腰の裏に隠れた誇大妄想……」(357頁)の人たちの 「あまりに裏のある、慇懃無礼な」(402頁)物言いと、「いかにも慇懃無礼な口ぶり」(406頁)と、 「高圧的な態度にいらだった」(440頁)「わたし」はついに…… 切れないで無事終わります。切れてほしかった。 内容は、文庫本のカバーイラストのように、暗くシュールで悪夢のような作品です。 「一貫して人間の独善性や自己正当化といったテーマを追求してきた作家」サー・イシグロが、 同じテーマでありながら、実験的アイロニーの手法で描き出しています。 語られていないことに意味を持たせる、という皮肉な語り手 イシグロさんの声なき声。 面白過ぎの、無口なお笑い芸人みたい。 なにがなんだか、こんがらがった夢の中のような、がらりと変わった作風です。 腎臓の形をした人造湖(370頁)、みたいな親父ギャグもないことはないですが。 「ライダーさま」と呼んで町の皆んなが尊敬する、世界的に有名な「わたし」が語る 「パラレル・ワールド」は、メチャクチャ精巧に入り組んだ全38章からなる四部構成です。 最後は「電車がとまると、わたしは……電車をおりる」(938頁) なのに「自分の座席へ戻ろうと歩き出した」(939頁) おしまい。 ん? 電車をおりてないじゃん。振出しに戻る、環状線か? おつかれさま。 火曜日、水曜日、木曜日というたった三日間の平日の町の、ありふれた 「驚嘆すべき小宇宙」(「訳者あとがき」より) 手のひらの中の大宇宙みたいな? 本書のタイトルの『充たされざる者』とは、誰ですか? おしゃべりな、ゴシップ好きのこの町のひとたち全員? ではないかと思います。 裏カバーの言葉の中に、「問題作」とあります。何が問題なのでしょう? 「日程や演目さえ彼には定かでない」こと? 「悪夢のような不条理」? 「奇妙な相談をもちかける市民たち」? 「町の危機」? 「欧米の批評家もいささかとまどったらしく、評価が二分」したことが問題みたい? 何が問題なのか? 終わりまで読んでも読者にはかいもく分からない。 五里霧中の悪夢のような、わけありの町の人たちの、わけのわからない問題らしい。 「わが町は危機に直面しております」(177頁) 「この町の危機については、当然ながらまだまだはっきりしない、謎めいたとさえ言える点がたくさんあった」(279頁) 「サトラー館! ああ、それだ。この町はいま危機的状況にある。危機的状況に!」(354頁) 「みなさんがこの小さな町で、こうしたありとあらゆる問題、一部の方の言葉を借りるならこの〈危機(傍点あり)〉に直面しているのも、まったく当然ではありませんか?」(477頁) はあ? 「ただし、問題は〈ある(傍点あり)〉んだよ」(51頁) 「どこかへ着くと、たいていひどい問題が待ちかまえている。根が深くて、一見手もつけられないような問題がね」(71頁) 「ついこのあいだ九番に何か問題が持ち上がっていたことが、ぼんやりと頭に浮かんできた」(78頁) 「要は物事をどう見るかの問題だ」(85頁) どうでも好きなように見てください! イラッ。 「わたくしの問題がお分かりでしょう」(112頁) 申し訳ないが、分かりません! イラッ。 「わたしのような部外者がそうした問題をはっきりと理解するのは、なかなかむずかしくてね」(145頁) 「わたくしにとっては、何よりも重要な問題です」(145頁) 「こうした家族の問題は……わたしはただの部外者なんだ」(153頁) あなたも家族の一員ですよ! 「わたしにとって、そんなことは重要な問題ではないんだ」(157頁) 「もちろん、問題は……」(281頁) 問題は何なんですか? 「この問題について話し合っていただけないかと」(326頁) 「何しろ根が深い問題ですから」(528頁) 引っこ抜いてあげましょうか? 「あなたのご助言をいただきたい問題が、この町の問題が、多々あるのです」(529頁) 多々多 「はっきりした答えは、クリストフさまにかかわる問題に尽きますでしょう」(730頁) 尽きちゃった 「今夜の催しの裏には、きわめて重要な問題があるのです。お間違えのないように。われわれの未来に関する問題、まさにこの町のアイデンティティーにかかわる問題なのです」(848頁) 未来はなさそうです。 問題あり過ぎの町。 〈舞台〉は、ヨーロッパのある町。「中欧の架空の町」(「訳者あとがき」より)。 「地方都市」(864頁)です。 「わたし」の小学校時代の故郷、イギリスのウースターシャーと重なるからややこしい舞台。 二重構造。 舞台となる「建物の多くは円形、物語は循環的だ」(「訳者あとがき」より)。 まわり舞台ときましたね。 「起きる出来事は荒唐無稽にして、夢とも現実ともつかない」(「訳者あとがき」より) ために、「わたし」の〈日程〉は、あるのかないのか…… はっきり言って、ありません。 これだも、長篇になるわけだ。 《備考》 〈登場人物一覧〉 長篇小説には、やっぱり巻頭に欲しかったです。 何が何だか「不可解なキャラクター」ばかりだからです。 「どうやら少年時代から青年、熟年、老年期までの語り手の姿が、『他人のかたち』で出てきてしまったものらしいのだ」(「訳者あとがき」より) 公私混同ですったら。 レオ・ブロツキー 「わが町の代表」(857頁)。「この町の名士」(874頁)。主人公? 脚に隠された傷を持った、酔っ払いのいかれたじいさん(89頁)。すねにきず。 ブルーノという愛犬と暮らしていたが、「死んだ」(257頁) 死んだ犬に、ライダーさんの最高の音楽を聴かせる、というオーケストラの指揮者。 ミス・コリンズ ブロツキーの元妻。「実は離婚していなかった」(419頁)。彼女もある種の主人公かも? ホフマン 五十がらみのホテルの支配人。 シュテファン・ホフマン ホテル支配人の息子。「いま二十三歳」(25頁)。ピアニスト。 クリスティーネ・ホフマン ホフマン夫人。 グスタフ 年配のポーター。娘ゾフィーとその幼い息子(孫)ボリス。「わたし」の義父? ゾフィー 「わたし」の妻(443頁) ボリス 「わたし」の息子、ということになりますね。 ミス・ヒルデ・シュトラットマン 若い女性。市民芸術協会スタッフ。 クリストフ 別名アンリ。チェロ奏者。「クリストフさんのリサイタル」(176頁)。 「負け犬の田舎音楽家」(346頁) ローザ・クレナー 現クリストフ夫人(184頁)。 ジェフリー・ソーンダーズ イングランドの十四、五歳の学校時代の同級生。模範生で学校一の人気者。 フォン・ヴィンターシュタイン 名士。「厳しい顔の男」(848頁)。 カール・ペダーセン 76歳。 フィオナ・ロバーツ 同じ小学校に通う、九歳くらいのころの仲よしだった女の子。 今は路面電車の車掌(300頁)。「二人の子供を抱えたシングル・マザー」(311頁)。 マックス・サトラー 百年前のこの町に住んだ、神話化した人物。サトラー館。 ジョナサン・パークハースト イギリスでの学生時代の顔見知り(532頁)。 オタマジャクシみたいな店主(572頁) 書店主。 オタマジャクシ(楽譜)専門書店だったりして? ジーグラー 「はげ頭の男」(849頁)。詩人。 「はげ頭」を売りにするお笑い芸人みたい。 | ||||
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次々と現れる登場人物の止めどない会話と、意外な因果関係。街なかと郊外をぐるぐる回りながら、実はどこにも行っていないような繋がりのある4次元空間のような場所。役に立たない、意味のない情報の垂れ流し。 核心にはいつまでもたどり着かないどころか、周囲の状況に安易に流されて、新しい状況にはまり込み、どんどん曖昧になり目的から遠ざかってしまう主人公。 カフカの一連の作品に比べると本書の主人公は自分からの働き掛けが乏しくて、中途半端なママ、周囲に流されがちだと思えた。主人公はそんな状況に切れて時折感情が爆発してしまうが、すぐに我に返るところも笑いを誘う。 ページ数が多いので最初はためらいもあるが、読み始めると、「いつ核心に近づくのか」が気になる。そのうち「今度はどう、はぐれてしまうのか」という気持ちに変わっていくだろう。そうすれば主人公に付き合っているだけで、読み進むのは苦にならないと思います。 | ||||
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期待通り期限内にきれいな状態で到着しました。その点で満足です。小説の内容は大変わかりにくいのですが、カフカの『城』に似た構成です。ただ、」不条理の文学ほど<怒って>いないので、日本人的かな?と思いました。 | ||||
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この英語版を読み切った人は日本にいったい何人いるんだろう? 個人的に読了者一人一人と握手して回りたい。マラソン完走後に近くの人とハイタッチするみたいに。 そのくらい忍耐のいる小説です。ゴールがあるのは分かるけど永遠にたどりつけないような悪夢。 イシグロファンの私でも、途中から読むのが修行のように感じました。 話の粗筋は置いといて(粗筋を知ったところでどうにもならない)、 読了後の「朝、目覚めた瞬間の頭の漂流感」みたいな心地が面白いです。 こんなにきちんとしてて、こんなにクリエーティブな小説家は他にいないと思います。 「読むのがつらい」とか言いつつも、彼の小説ではこれが一番お気に入り。 | ||||
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理解しようと思うほど、期待が裏切られ、主人公とともに迷宮に迷い込んで行く感じだった。それでも、このとてつもなく長く抑揚に乏しい物語を最後まで読ませてしまう作者の力に驚嘆する。 おそらく、この物語に説明のできる結末を期待するのは、違うのだろう。ただし、この覚めることのない悪夢、永久に出口にたどり着けない迷路、この恐ろしい閉塞感は、人間がどこかで体験しているものなのかもしれない。 | ||||
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なんと言ってもイライラの主な原因は、登場人物が揃いも揃って人間的に未成熟なことです。いかにも対人関係に熟達した者であるかのような過剰な丁寧語は未成熟さをごまかすための見せかけであり、少しの会話ですぐに露呈する未熟さを皮肉るのに効果的に使われています。ボリスですら年齢相応の子供らしさ(素直さや無邪気さみたいなもの)を欠いている〝未成熟な〟子供⁈のように思えます。 怖いのは、ボリスもホフマンもシュテファンもグスタフもブロツキーも皆恐らくライダー自身であるということです。どこまでが現実なのか曖昧な描き方をしていますが、全てライダー自身が見たくないし、認めたくない自分自身の姿なのだと思います。 村上春樹さんの名作短編『鏡』の中の語り手が感じたであろう恐怖に近いものをこの作品から受け取りました。 | ||||
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10年以上前、英語の勉強をしていた時に頑張ってなんとか通読しました。主人公が自分の意思に関係なく、訪れた町のなんだかわからない問題を背負わされたり、他人の家族の問題を自分の事のように受け止めなければならなかったりする状況に、読んでいていらいらし、更に描かれてる場面が夢なのか回想なのか今現実に起きている事なのかもはっきりせず、ただただ辛いだけの読書でした。当時は、内容が楽しめず理解できなかったのは英語力不足と、高尚な文学的テーマに馴染みがなかったせいだと思っていました。 その後、精神世界に興味を持ちスピリチュアル系の本を読むようになったのですが、最近ホ・オポノポノの本を読んだ時、あれっ?と思い当たりました。カズオ イシグロのあの小説はひょっとしてホ・オポノポノの説く、自分と他の人、自分と世の中の出来事は分けられないひとつのものであるという世界観を描いているのではないか?そう考えると、この物語が不条理ではない、意味に満ちた世界として立ち上がってくるのではないか? そう気づいてから、いつか読み返そうと密かに楽しみにしています。 | ||||
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