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万延元年のフットボール
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【この小説が収録されている参考書籍】
万延元年のフットボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全45件 21~40 2/3ページ
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近年、大江氏といえば憲法九条の護憲派として活動なさっていて、ネット上では激しく賛否のわかれることが多い作家ですが、たとえ彼と思想が真反対であってもこの小説は手に取るべきです。 劇的な方法で縊死した友人、アメリカで変わってしまった弟、その弟に憧れる親衛隊、障害を持った子供の父親である主人公、などなど全ての要素が絡み合って、万延元年に起こった一揆に繋がり、それを再現しようとする弟や、最後にはミステリ的な結末も用意されている本作は、現代日本文学における屈指の傑作であると思います。 確かに初めの数ページは難解であり、長々と続く主人公の精神描写が読み辛いと感じる人も多いと思いますが、気づいてみれば惹き込まれます。 ネタバレはなるべく避けたいので内容への言及は避けますが、神話を絡めた話の構想で彼の持ち味が最大限に活かされています。 講談社文芸文庫さんは少しお高い気もしますが、一読する価値のある小説だと思います。 | ||||
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大江健三郎の文学に勃起したレビュアーの多くが、傑作と語る本作品。 私が、大江作品の枕詞として語られる、 独特で強い感染力を伴う文体に身構えて頁を捲ったのは、 彼がノーベル文学賞を受賞した後のことだった。 私は菜採子への嫌悪感がどうしても拭えず、 結果、苦痛を伴う読書となった。 これはもう、文体云々ではない。 緊張感に溢れる人間関係、 万延元年の引用の妙、 大江作品に流れる主題も朧気にも理解しているつもりだし、 興味深いとも思う。 それでも尚、彼女らの話を知りたくないのだ。 私は、半ば義務感から、 どうにか物語の結末までたどり着いたが、 ラストの菜採子の提案が理解出来ず、 最後の最後まで、私は彼女に読書する気力を吸われた。 本作への多くの激賞を目にする度に、 私の読解力が不足しているのだろうか?と思ってしまう。 最終的に、蜜が菜採子と子供達を引き受けたように、 私がこの作品を引き受ける日が来るだろうか? 多くの読者が激賞する本作を、再び、みたびと観照したい。 | ||||
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本の内容のついてはみなさんそれぞれ意見はあると思いますが、私には大変すばらしい傑作だと感じる書籍です。 大江文学の集大成とか代表作と誉れの高いものですので難解ではありますが、素晴らしい作品であることは万人が認めるところです。 | ||||
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大江健三郎の代表作である。 故郷をもたないものの聖典である。 冒頭から、異様な雰囲気と、異常な文章の連続で、読者は混乱するであろうが、全体的な文學的構造は、さほど、複雑ではない。主人公たちの名前が、翻訳家の《根所蜜三郎》、蜜三郎の愛妻でアルコール中毒の《根所菜採子》、蜜三郎の実弟であり、左翼運動に蹉跌して右翼に転向した《根所鷹四》、というように、三人とも《根所》という苗字であることからも、三者三様に、《根っこの場所》=《故郷》を冀求する物語であることが察知される。 冒頭で、主人公である蜜三郎は、自宅界隈に穿鑿された、貯水装置用の空洞に蟄居して、《世界は存在しない》という《期待》に裏切られる。本作の主題が、《アイデンティティの喪失》および《アイデンティティの根源である故郷の喪失》であることが予告されることになる。蜜三郎が空洞に逼塞していたのは、精神に障碍をきたして療養していた翻訳家の友人が、暗澹たる自殺をしたことかららしい。蜜三郎が、翻訳を生業としていたのも、主題にかんがみれば、《世界を自分なりに解釈=翻訳する》という、《現実の世界の否定》と《自分の世界の渇望》という、故郷の問題に帰着するのかもしれない。本作が、現代の日本を舞台としながらも、摩訶不思議なる異国の風景を描破しているような雰囲気に囲繞されているのも、《蜜三郎の翻訳した日本像》とみれば納得がゆく。斯様なる挑戦が、おなじく、翻訳家の友人の自殺で頓挫したわけだ。世界が消滅しないことを認識した蜜三郎は、アルコール中毒の愛妻菜採子のもとへゆく。ふたりのあいだには、脳髄に障碍をもった子供がいて、養育施設にあずけているらしいことがわかる。《根所》を喪失して、みずからが、あらたな生命の《根所》にならんとした挑戦も破綻して、夫婦生活は崩壊せんとしている。 軈て、亜米利加で左翼劇団に所属していた鷹四が帰国し、三人は、鷹四の友人達とともに、物理的な故郷である四国へ邁進する。根所兄弟の故郷では、《天皇》とよばれる在日朝鮮人によるスーパーマーケットが支配的な雰囲気となり、根所家の生家を隴断せんとしている。右翼に転向した鷹四は反撥し、《フットボール・チーム》を結成して、江戸時代後期の《万延元年の百姓一揆》を髣髴とさせるような、《天皇》への叛逆を蹶起する。 同時に、鷹四と《妹》の関係の謎や、在日朝鮮人に殺戮された《S兄さん》をめぐる謎がひもとかれてゆき、クライマックスでは、推理小説的仕掛けによるカタルシスに到達する。つぎなる生命のための《根所》となる決心をした菜採子、作中に登場する寺院の《地獄絵図》を《根所》としたともいえる鷹四、日本に《根所》を発見できず、阿弗利加への羈旅を決断する蜜三郎。此処で重要なのは、一人称の主人公である蜜三郎が最後に《根所》をもとめたのが、《人類の起源の大地》といえる阿弗利加である、ということである。斯様な挑戦が、成功するのか、失敗するのかはわからない。菜採子が本当に《根所》になれるのか、鷹四の闘争は無意味だったのか。大江健三郎の筆致は、戦後日本人の自我同一性の危機をとおして、根源にある現代人類の悲劇を爬羅剔抉している。 《小説は、彷徨者たちの家郷である》といった評論家がいた。 本作は、大江健三郎が大江自身の故郷をもとめた軌跡なのかもしれない。 | ||||
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旅行中、新幹線の中で読んだ。前から何度か挑戦していたが、読みづらさに挫折していて、これは時間をとらないと無理だな、と思っていた。 三時間後、読了した僕は興奮していた。こんなスケールの大きい小説が日本にあったとは、という驚き。僕は、大江健三郎がノーベル賞を受賞したのは安倍公房が早くに死んだからだと思っていた(今でも思っている)が、これに至っては認めざるを得ない。とんでもない作家である。 さて、大江健三郎の文章は読みにくい。日本語を英文法の型にあてはめて書いているということもあるが、これはむしろ六法全書や数学の論文の読みにくさに相通ずるのではないだろうか。つまり、法律や証明は解釈に幅があっては困るのだ。全体を敷衍すると、この小説は「筋が豊富」(大岡昌平)→「イメージが豊富」な小説である。天皇、歴史、小さな共同体、血の確執、差別感情、神話多くのイメージをはらみつつ、それを意味によってねじ伏せてやろうとする姿勢。ともすれば混沌とする種々の要素を解釈でもって捕まえてしまうのだ。その点、日常的な言葉で奇妙な混沌を混沌のまま描き出す安倍公房と対照的かもしれない。 そうしてみると、冒頭で語られる友人の縊死体は、踏み絵のように思えてくる。解釈されることを拒みながら、我々の想像力をかき立てる存在である。 全体として、あえて政治的な解釈を素通りするならば、この小説は想像力と現実の関係を描いているように感じた。 やはり、「蔓延元年」は大江健三郎の頂点かもしれない。多様なイメージを解釈によってねじ伏せながら、同時に立体的な広がりを見せるのが素晴らしい点なのだが、これ以降の小説は豊富なモチーフを含んでいるのに、結局「大江健三郎」に帰着してしまい、私小説的側面が目立って浅く感じてしまう。作家の興味が推移したというより体力の衰えではなかろうか。 | ||||
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大江先生の文章の難解さは、読んでいるうちに次第にわかってくると思う。 他のレビューを見たら、色々な書き込みあるのでそちらを参照にされたい。 私が、不思議に思うのはこの小説で、大江「蜜」三郎が、いかにどのような作用を しているかである。それは読んでからのお楽しみであります。 序盤で出てくるヘンリーミラーの「何でもいいから陽気にしていようじゃないか!」 から始まり、 驚愕のクライマックスへ。 「さあ、星のシトロエンに向かって出発だ!」 しかし、私は考えた。小学生に小石を投げられて片目が極度の近眼になったシーンを 何かしらの「太陽族」に対しての敬意なのか侮辱なのかがわからないという意味合い。 読み終わった後、本人が丸渕眼鏡かけて、幽かに微笑んでいるのもわかる気がした。 | ||||
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過剰な修飾、あふれ出る語彙、圧倒的な小説である。 現在の流行作家にも、饒舌体めいた文体を使う人はいる。 だが、本書は描かれたがっている内実が、次から次へと言葉を求めているかのようだ。 言葉の奔流が、無駄ではなくぜいたくと感じられる。 戦後からの脱却、地域社会の自立、地域文化の再発見と再評価、障害児という個人的な困難、学生運動のベクトルの矛先 … 時代と個人の問題が渾然一体となり、読者を巻き込んでゆく。 大江文学の最高到達点の一つだと、今回再読して確認した。 ただ、文学と世界の関わり方が、現在はこの地点から遠く変容しているのだ。 | ||||
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今から四半世紀以上前、講談社文庫(文芸文庫ではない)で読んだ。粟津潔の真っ赤なカバー画の本である。初めて読む大江健三郎の小説だった。冬の風の強いある日、西新宿の高層ビルの谷間にある喫茶店で黙々と読みふけったことを今もよく覚えている。「夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、」という冒頭の一文を読んだだけで、たまげてしまった。いまだかつて読んだことのない難解な文体だったからだ。それ以後、小説を読むと、その文体をとても意識するようになった。この小説でもっとも気に入っているのが第2章「一族再会」だ。空港ホテルの一室で、アメリカから帰国する鷹四を家族や友人が酒を飲みながら待つ場面である。そこで、とりわけ印象的なのが菜採子で、その言動には確かな実在感があり、女性としての魅力を大いに感じさせたものだった。おそらくゆかり夫人がモデルだろう。また、フランスの作家クロード・シモンが来日し、大江と対談した時、第3章「森の力」において、蜜三郎が森の中で湧き水を飲む場面で、透明な水の下に灰色や朱色の石が見えるという描写に感銘したと言っていた。この小説には、他にも多くの魅力があり、それをすべてここに書くわけにはいかないが、とにかく日本の土着の力をまざまざと実感させる傑作であり、ラテン・アメリカの諸作にも全くひけをとらないと断言できる。「すくなくともそこで草の家をたてることは容易だ。」という最後の文を読み終わった時の感動といったら筆舌に尽くしがたい。 | ||||
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17歳ごろに読んで、小説を書きたいという「淡い欲望」が吹き飛ばされました。 | ||||
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何十年も前にこんな凄い小説が書かれていたことに驚きですね。 全編にわたって張りつめた緊張感。 大江健三郎のなかではこれと『叫び声』が断トツに好き。 | ||||
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読む人間を選ぶ作品である. もちろん漢字が読めれば読破は誰でも出来る. しかしこの作品を理解するのはなかなか困難である. まぁ,まず読んでみてください. 内容についてのレビューは皆様が徹底的に書いているので 差し控えさせていただくとして, (少なくとも戦後の)日本文学で世界に問う事ができる 数少ない作品の一つである事は確かです. ただ,書かれた時代のせいか,非黄色人種コンプレックスというか, その点が読んでて引っかかった感じはしました. | ||||
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主人公が閉ざされた場所へ行き物語が語られ、主人公がそこから出て行くところで物語りは終わる。その形は「芽むしり仔撃ち」と共通しているものがあるが「芽むしり仔撃ち」が救いようの無い悲劇の形で終わるのに対して、この作品はある種の「希望」が描かれて終わる。 9年の時を経て大江氏の中で何が変化したのであろうか。大江氏は自らの「個人的な体験」を通して、人間存在の奥底に希望の種も見出したのだと私は信じたい。主人公は最終的に、残酷で不誠実で矮小な自分自身と向き合うことになるが、それでもその中でなんとか明日への一歩を踏み出していく。人はどうしようもない状況に陥った時、この作品の結末のような「希望」を信じることで、ぎりぎりのところで救われるかもしれない。そんな読後感に浸れる得がたい作品であると思う。 | ||||
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「個人的な体験」を読んだ後で、続けて本書を読んだ。 本書は、頭に異常がある障害児が生まれてからの話としてスタートするため、 「個人的な体験」の続編であるかの様な印象を受けるが、 登場人物の名前や家族構成等の設定は微妙に違っている。 しかし、主人公に大江氏自身を投影している事に違いはない。 物語の舞台は主人公の故郷である四国の山村へ飛び、百年前の一揆をなぞる様に、 弟の鷹四を中心に村人達の暴動が起こり、その過程で封印されていた先祖たちの真実や、 鷹四と死んだ妹の衝撃的なエピソードなどが明らかになっていく。 本書はプロットが緻密で、読み応えのある傑作である事は間違いない。 だが、暴動に直接関わることなく批判的に傍観している主人公の姿は、 当時の過激化する学生運動とは距離を置いて見ていた大江氏自身と重なるとは思うのだが 「個人的な体験」と比べると、ちょっと作り話っぽくなり過ぎて、 主人公に大江氏自身を投影する事に無理が生じているようにも感じた。 でも、独特な読みにくい文体にも大分慣れたので、他の作品も読んでみたいと思う。 | ||||
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読み始めた瞬間、この本の中に引き入れられてしまった。独特の文章で書かれた不思議な光景は頭の中に焼き付けられるほどの印象の強さを持っており、難解な文体もさほど苦にならず読み進んでいける、まさに日本文学屈指の名作だと思う。発生した暴動と万延元年の一揆が重ね合わされ、時系列が次第に曖昧になっていく様に感じられるのだが、そんな手法も驚くべき物だと言えるのではないかと思う。とにかくものすごいインパクトである。 心のどこかに暗い影の差している登場人物達の“新生活”を描く作品。弟の一揆の首謀者への憧憬から起こる暴動や、折に触れては語られる生涯を持って生まれた息子の存在など鮮烈な描写には事欠かない。それらも単にイメージをごった煮にしてしまうのではなく、それぞれ関連性を持たせて構成しているようで、本から受ける印象の割にはよく空中分解せずにすんだものだとそちらの方に感心してしまったりした。鮮烈、インパクト、という言葉を先ほどから多用しているが、印象しかのこらない作品ではなく、人物の人間性の描き方もえぐみや重みがあって凄く良かった。 値段に関して言えば、確かに文庫本には割に合わない値段だろうと思うが、単行本を買うつもりで購入すれば別に損にならない内容だと思う。ぜひ読んでもらいたい一冊。 | ||||
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人は程度の差こそあれ、人には言えないような痛みや苦しみ、悩みを抱えながら生きているのだと思います。そして、時々それらは当事者を危機的状況に追い込みます。一旦このような危機的状況に陥るとなかなか抜け出せません。なぜなら、そこから抜け出すには自分を変えなければならないからです。この場合、自分を変えるとはそのような痛みや苦しみ、悩みに対して正面から向き合って、それを乗り越えるということです。この小説は非常に簡単化すれば、人はどのようにして危機に陥り、どのようにしてそれを乗り越えるかを描いた作品だと思います。そして、読者も乗り越える苦労を追体験させられます。結構キツイです。個人的には、蜜の視点で読んでいたため、鷹と菜採に対する嫉妬という名の危機を乗り越えることができたかどうかは疑問です。ただそんな時、菜採の次の言葉を思い出します。「昨夜ずっと考えているうちに、私たちがその勇気さえもてば、ともかくやり始めることはできると思えてきたのよ、蜜」 | ||||
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いやーー、すごい本を読みました。 様々な時間におけるたくさんの事件が、続々と、続々と出てきて、フォローするのが大変でしたが、それらが終末において、ものすごい勢いで解きほぐされていきます。というより絡み合っていく。その、緻密さがすごいです。 出てくる事件とは、思いつくままあげると、万延元年の一揆、60年安保、戦後すぐの兄の殺害、妹の自殺、障害を持った子供の誕生、妻のアル中化、友人の縊死、、、等等。 とってもスケールの大きい推理小説としても、非常に楽しめる感じです。 しかも、内容においても、人間の根幹に迫る(?)ようなものでもあるのです。 たとえば、鷹四(主人公の弟)は、「本当の事」を考えているんですが、本当の事とは、「ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事(P258)」なんだそうで。「そういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうる」かどうか、と問うわけです。兄の蜜三郎に。 で、鷹四の言う「本当の事」とは一体何の事なのか?小説の中の、どの事件に関連してくるのか?鷹四自身のどんな行動、identityに結びつくのか?と、ね。いやーすごい。すごいんですわ。 巻末の「著者から読者へ」で大江自身が「この小説は僕にとってまことに切実な意味で、乗越え点をきざむもの」と書いているように、著者にもこの作品に相当な思い入れがあるようです。ね。 が、読むにあたって、僕の方が「乗越え」ないといけなかったこともありました。 まず、血や肉の生々しい描写があって、時々しんどくなりました。それと、大江らしい難解な文体は、なれるまでずっとしんどかったです。主語と述語がやたら離れてるとか。 ともかく、読み応えありましたー。 | ||||
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初めて読んだのですが、ぼくは物凄い本だなと思いました。世間的に名作と呼ばれている、であるとか、著者がノーベル賞をとった、とか、基本的にそういうことにはほとんど興味がないので、ぼくはこういった場で確定的な物言いができる立場にないのだろうと思うのですが、少なくとも、ぼく自身の体験にかぶさってくる物語であったことは確かだし、物語が流れていくその流れ方もとても自然に思えました。何かを暴こうとする者、何かをなぞろうとする者、そんなつもりもないのに何かを暴いてしまう者、結果的に何かをなぞってしまう者、そういった人びとの織り成す悲劇とも喜劇ともつかない、でも確実に劇的な物語。 時代的なものか、それこそがいわゆる日本文学の日本文学たる「格調」というものなのか、決して読みやすい本でないことは確かですが、頑張って読み解く価値の十分にある本だと、ぼくは思います。 | ||||
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ある新聞紙上で町田康氏と大江氏との対談があり、大江氏は町田氏の「告白」を2回読んだとあった。 あの本に感銘を持ったという大江氏の書物として本書を初めて読んでみた。 しかしこちらに読書力がないからだろうか?! 読み進めるには進めるのだが何度も『?』というマークが頭に浮かぶ。 難解な表現というかテンポでなかなか中身を味わえない感じだった。 だから一般的な読書人には「やや難」と感じる気がする。 感銘の手前に再度の「把握」のため、2回読むしかない一冊と言える。 | ||||
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おそらく大江作品の中で最も知名度の高いタイトルというのがこれだろう。 実際、すばらしい作品だと思うし歴史的に意味のある作品だ。 だからこそもっと若い世代の人たちにも読んでもらいたいし、読まれるべき意味のある作品であると思う。 そうした名作が、たかだか500ページの文庫本がこの値段、お世辞にも「割にあった」とは言いがたい値段であることは悲しいし、純粋になぜだろうと思うし、この値段のせいで購入を思いとどまってしまう文学好きの高校生とか結構いるんだろうなと思う(ま、図書館で借りればいいんだけど)。 そこだけが残念だ。 | ||||
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昔、日本文学が好きなポーランド人に薦められて読みました。 確かに、傑作だと思ひます。 印象的だったのは、「スーパーマーケットの天皇」とか、「森の隠遁者ギー」と言った脇役の名前で、これらの脇役が登場すると、ドキドキして続きを読んだ事を覚えて居ます。 しかし、今思ひ出すと、余り印象に残っては居ない。 ・・・同じ大江健三郎の作品でも、「個人的な体験」は、私にとって、今も忘れる事の出来無い、感動深い作品なのですが、これは、何故なのだろう、と思ひます。 (西岡昌紀・内科医) | ||||
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