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万延元年のフットボール
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【この小説が収録されている参考書籍】
万延元年のフットボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全45件 1~20 1/3ページ
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大江健三郎を考えるとき、川端康成や三島由紀夫と比べるとわかりやすい。 川端、三島は自分の生きている時代を題材にしないのに対して、 大江は題材にする。戦後の復興期、高度経済成長期の闇を徹底して書いてきた。 だからこそ障害をもった子供が産まれたことは、無視できないし、無視しないわけだ。 加えて自己とか故郷、アイデンティティというものを強く意識している作家だと思う。 主人公が妻と離婚寸前までいったのは、たぶんそういう意識の強さだと思う。 西洋文学的な愛や恋の意識は薄いから。 | ||||
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片目が潰されている主人公。これは「アグイー」の続編? 壊れた友人に壊れかけた弟(鷹)、そして主人公(蜜)夫妻も壊れかけ(障害児を施設送りにしてから)。 屋敷売却のため地元に戻って幕末に一揆を起こした曽祖父の弟と次兄の伝説を調査。鷹はよくヒロイズムで誰かを美化改変する癖がある。故郷の田舎の若者たち相手に指導者的地位を得て自分を発見、復古的ロマンに走る。蜜の妻まで寝取るが、昔妹を死なせたトラウマから逃げきれずに最後は自殺する。 鷹の死後、屋敷の解体で地下室が発見され、曽祖父の弟は実は脱走せずそこで生涯を終えていたことが判明する。 感動した蜜は、それまで保身的だった半生を改めて鷹の精神を継いでアフリカへ冒険の旅に出るのだった。 | ||||
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1967年作。初期の代表作の一つだが、何とも不思議な世界の小説だった。 万延元年(1860年)、幕末政変期に四国の森のある村で起こった一揆騒動と、1960年安保闘争で敗れた主人公の弟~そして、戦中強制徴用されてきた朝鮮人集落と戦後の混乱期のある襲撃事件~その後その一帯を買収し支配する「スーパーマーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人~100年の時を経て重ねられる「村人の暴力」「権力への対抗」とその敗北の重層構造。しかし、朝鮮人集落という設定は「芽むしり仔撃ち」でも出てくるし、大江氏の少年時代、実際に愛媛の村にそういう集落があったんだろうか? ここでは東大在学時の短編などより明らかに各センテンスが長くなっていて、中期・後期の「うねうねと曲折しながら前に進む」ような大江氏独特の文体の萌芽がある。そして中期以降の作品に登場する「隠遁者ギー」も出てくる。 支配への人々の闘い~敗れてなお生きていかねばならない生存者の屈折~村落共同体独特の人間関係・・・濃密な文体で綴られる物語は決して明るくはない。ラストに希望らしきものはあるが、私には東大在学時の短編諸作のほうがしっくり馴染んで読めた。 次は「洪水はわが魂に及び」を読んでみる。時代遅れの”大江健三郎マイブーム”~(*^^*) | ||||
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今年(2023年)になって、加賀乙彦氏、大江健三郎氏という私が長く敬愛してきた作家が相次いで亡くなった。とりわけ大江氏の作品は高校時代に耽読し、その後の私の人生の進路に深く影響を受けただけに感慨が大きい。その大江氏との出会いの作品がこの『万延元年のフットボール』にほかならない。 当時は講談社文庫版で書店に平積みになっており、真っ赤に塗られた顔が大きく描かれたグロテスクなカバーに興味を惹かれて買って読んだことを覚えている。 まず、冒頭から異様なイメージに圧倒される。夜明け前の暗闇で「失われた熱い期待の感覚」を探し求める主人公根所蜜三郎(「僕」の一人称で語られる)は浄化槽埋め込みのための庭の穴に降り犬を抱いて考え込む。主人公の友人は朱色の塗料で頭を塗って素裸で肛門に胡瓜をさしこんで縊死し、子どもは重度の障害で養護施設に入れられ、妻はアルコール依存に陥っているのだが、これらのイメージは繰り返し喚起され、小説全体の基調となっている。こうした冒頭の状況提示が、翻訳口調も交えた息の長い、ゴツゴツした文体(悪文ではない)で語られていく。難解でとっつきにくいが、読み進むうちに主人公の限りなく下降していく意識感覚に引き込まれるように小説世界に入っていく。 物語は、60年安保闘争に挫折した「悔悛した学生運動家」として登場する弟鷹四、その心酔者であるハイティーンの「星男」と「桃子」の登場を経て、郷里の四国山中にある窪地の村に舞台を転じるが、そこでも過食症の大女「ジン」(スターウォーズのジャバ・ザ・ハットを連想する)、戦時中に村で強制労働させられていた在日朝鮮人の成功者「スーパーマーケットの天皇」、元は徴兵忌避者の「隠遁者ギー」といった異色のキャラクターを配して、大江ワールドが形成されていく。 鷹四は万延元年の一揆の主導者であった主人公らの曾祖父の弟に倣い、村の青年らを組織して、雪で閉じ込められ交通と通信の途絶えた状況下でスーパーマーケット襲撃の暴動まで起こすのだが、主人公は「社会に受け入れられている人間」と嘲られつつ距離を置き、異邦人として疎外感を深めていく。 暴動の顛末には触れないが、運動が自己目的化しその有効性を考えない点で、あたかも新左翼運動(後の全共闘)に対するカリカチュアのように見える。しかし、万延元年の一揆の真相解明と合わせつつ、最終的に大江はその失敗を描くだけでなく、成果も肯定しているようだ。 冒頭で提示された主題である主人公の「熱い期待」の喪失感と、物語の進行につれて深まる主人公と弟や妻との対立、葛藤は暴動の前後で頂点に達するが、鷹四の自死の悲劇を経た大団円で対立は和解へと向かい、「期待」は回復の兆し示して小説は閉じられる。いわば魂の死と再生の物語である。 大江自身がこの文芸文庫版のあとがきで書いているように、「青春のしめくくり」と「乗り越え点」に位置する著作といえる。 | ||||
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○大江健三郎氏がこの作品で試みようとしたこと、書き出しから終末部全体で結実していることを十全に読み取るのは、自分には非常に困難なことでありますが、それでもまず一読後の最初の感想は、小説家大江健三郎に強く勇気づけられた、ということです。 ○若い頃、三分の一程度読んで挫折したのを、折に触れてまた最初から読み始め、結果的に第一章だけを何度も読むことになったのですが、今回改めて冒頭から読み進めていくと、第一章が、極めてスリリングで、彼の現代詩のような、一見過剰で回りくどい読みにくさを感じさせる、なおかつ暴力的に迂回するゴツゴツした形容の洪水が、読み手の中にいかに様々な視点と奥行きを作り出しているかに気づき、ため息、ワクワクする興奮と感動を覚えました。 ○さて、「森に囲まれた四国の谷間の村」といういわゆる土着的で都会の洗練の対極にある舞台設定が、かつて読み通すことを阻害する一因にもなったわけですが、今回も、その読み進めづらさはありました。主人公「蜜」と「鷹」兄弟の先祖が主導した一揆と、現代の「安保闘争」の挫折との関わりは、単に過去の出来事を現代に置き換えて重ね合わせたいという強引(でいささか陳腐)な意図にも感じられ「スーパーマーケットの天皇」に対して結成されるフットボールチームも、もう一つピンと来ないところがあります。作品のタイトルにも与えられているフットボールは、実際、過去と現在を二重写しにしようとする、実際の効果よりも意図が勝りすぎて、どことなく空疎ですらあります。 ○しかし、私に感動を与えるその元は、「蜜」に対置された彼の妻と弟の存在と、彼らから突きつけられる言葉と行動に打撃を受ける、「蜜」(=私の中では大江健三郎自身)の気取らなさ、弱さを曝け出す、その傷だらけの姿に他ならないと言えるでしょう。 | ||||
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説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。 | ||||
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絶望にいた時に俺がしたこと 俺が抱える以上の絶望を探すこと それによって自分を慰めること 大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった けど大江健三郎の小説は良かった 俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は 光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。 | ||||
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終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。 【内容】 学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。 死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。 【感想】 全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。 一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。 精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か? 友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。 さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。) また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。 | ||||
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"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。 個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。 さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。 先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。 また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。 中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。 | ||||
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なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。 しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。 大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。 そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。 事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。 これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。 日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。 | ||||
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この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。 | ||||
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大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。 ・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。 自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。 | ||||
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作者32歳の作品。愛媛と高知の県境の森林に囲まれた谷川の流れる窪地の村を舞台に、安保闘争後の1962年秋から翌春にかけて根所蜜三郎(僕)と鷹四の兄弟を中心としてくりひろげられる物語である。時は、「スーパーマーケットの天皇」をめぐる出来事から伐採のため強制連行された朝鮮人グループと農家の次男三男を主体とするグループが襲撃しあった1945年敗戦の夏へ、さらに兄弟の曾祖父が指導者の一揆があった万延元(1860)年へ、さかのぼる。 | ||||
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『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。 そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。 日本人には珍しく、大江さんは「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。 愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。 | ||||
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ぼくは読了するのに2週間かかりました。 2日間くらいは読むのが嫌で読みませんでした。 1日によむりょうが極端にすくなく、 やっとのことで読了出来た感じです。 この小説は実存主義の影響をうけて遺伝とか先祖の過去とか人種差別とかあらゆる現在の可能性を否定するものを嫌います。 大江の文章をいちどで分かる人を尊敬すると評論家が買いていましたが、 思考回路がにているのかそんなにわかりずらくありませんでした。 僕が大学院で発表した英語の翻訳にそっくりだったのです。 おもしろくない作品ですが、安易にエンターテイメントに走らない作品でとゆうことはオリジナリティがありそれゆえに当然傑作です。 さすが大江の最高傑作です。毎年期待はしていますが。このままでは、村上春樹ではエンターテイメント性の強い作品が多くノーベル賞受賞は厳しいでしょう。 厳しいことをいうようですが、おそらく春樹は受賞できないでしょう。 大江健三郎は読者に媚びない本当の意味でノーベル賞作家です。 | ||||
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ヘイズコードが撤廃されたニューシネマ元年に書かれた。スチューデント・パワーによる1968年世界革命の一年前。ニューシネマもこの小説もこの時代に書かれたというより、この時代を準備したという感じ。 暴動が始まる直前の、中年男どもが本気で殴り合って、片方の歯茎が付いた歯が落ちているのを「蜜」が発見するくだりが良い。 『愛と幻想のファシズム』にも影響を与えていると思う。あちらは「鷹」の視点から見た『万延元年~』という趣。 大江にしても倉橋由美子にしても開高健にしても終戦時に多感な十代だったわけで、この世代の作家たちの作品は社会派的であることと内面的であることがごく自然に両立している気がする。そして、他の世代の日本の純文学はどれも単に内向的な気がする。 | ||||
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題名にある「フットボール」という語句の印象で、軽い感じのエッセイ的な内容を思い浮かべてしまうと 打ちのめされてしまうかもしれない。 今でこそ表向き自由な印象を持たれるようになった日本人だが、その根底には暗く湿って閉ざされた、 何か別の得体の知れない、そして断ち切れない何かが脈々と受け継がれているようにこの本を読んで思う。 この作品の舞台は大江の生まれ育った故郷の「谷」だ。 大江が、一連の作品に故郷を思わせる場面や息子の光氏との関係を思わせる場面を描く事に、 自分を売り物にしている私小説作家と批判する方もいる。 だが、私は違うと思う。 うまく言えないが、私たちも皆、日々「自分」というものを描いている私小説作家であると思う。 この世に生を受けた苦しみや羞かしさの中に少しでも喜びを見い出そうとしながら、いつか、 何か得体の知れないものに褒められることを期待しつつ… 大江が、彼の作品を通じてそれらをさらけ出し、考えさせてくれることに、私は心が解き放たれる気がする。 私にとってはそんな作品である。 | ||||
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近年、大江健三郎という単語から彼の作品群を連想する人は多くはなく、政治的思想に関する意見が殆どを占めるであろうが、それは実に勿体無い事である。 「万延元年のフットボール」は、”故郷”という文学の世界で古来から幾度も追究されてきた人類永遠のテーマを基盤とし、障害を持った子供を産んだという彼自身の生涯に重大な体験を織り交ぜ、さらには万延元年の一揆と現代の個人店と巨大市場における社会的問題を重ね、純文学らしく芸術的かつ、娯楽性に富んで書かれた、近年稀に見る傑作であると言えよう。 | ||||
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ノーベル文学賞の対象作品と知った上で読み始めたが、第一章の自閉的とさえ言える文章に躓いた。 わざと難解にした文章がそれぞれ効果を持つものだと納得するにしても、違和感を感じる。 何歳で書いた作品なのか調べると、発表時32歳だとわかって納得した。 読む内にだんだんと物語に引き込まれていき、興味深い体験をすることができた。 | ||||
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きっかけがなければ、一生読まなかったかもしれないー。 読書会仲間のおじさまが、「読書会で読むことによって理解の幅が広がるかもしれない、 今読んでおかないと心残りになる。」とまでおっしゃるので、読んでみた。 実は、10代で大江氏の他の本に挑戦したのだが、独特の文体に馴染めずに 放り出してしまい、氏の本はそれまでに1冊も読んだことがなかったのだ。 今回も、冒頭の一文を見た途端に、読書心がひるんでしまったのだが、 今回は我慢に我慢を重ねて、意味が頭に入ってくるまで何度も同じ文章を目で追った。 するとふしぎなことに、頭(脳?!)が慣れてきて、外国語の直訳体のような氏の文章の言い回しが 気にならなくなり、かえって一定のリズムを伴いながら迫力を持って迫ってくるようになってきた。 一旦このリズムに引き込まれると、止まらない。読むスピードは加速していき、ページを繰るのももどかしい。 話の展開に自分の理解がついていかなくなって、慌てて前のページに戻ったりする。 ミステリー本ではよくあることだが、純文学然とした本書でも起こるとは、正直思わなかった。 登場人物は皆心に何かを抱えている人たちで、ギリギリのところで保っている状態。 舞台となる土地柄は、閉塞感も曰くもあるところ。 一筋縄ではいかない癖のある人物たちが集まったために起こる絡み合い、揉み合い。 何かが動き始めている、何かが起こりそうだという緊張感、緊迫感。 ザワザワ、ピリピリといった擬音語が、氏の独特のリズムを持つ文章の行間から聞こえてくる。 読み手の私は、何か分からない不安と緊張を感じながら、一気に読み進む。 するとそのうち、あれほど鬱屈していた登場人物たちに変化が起こる。 迷いの森にいた人々が、何かと決別し、周囲に流されず、意志を持って、潔く行動を起こし始める。 主人公はといえば、混沌からまだ抜け出せず、ひとり取り残された様子。 そのような主人公の側に立って、変わっていく周囲を驚きの目で眺めていると。 ー 聞こえてくるのだ。他の登場人物たちの声が。 「私たちは自分が何者であるかを知った。何をするために生まれ、 今まで何をしてきたかを理解し、これから何をすべきかもわかった。」 そして、最後につきつけられる。 「次はおまえだ。おまえは自分を知り得たか。」 氏のスピード感についていくのが精いっぱいだった私には、内容よりも先に、 このような本書からの強烈な問いかけを感じ取ってしまった。 他の方々のレビューのような事柄は、読み返した時にようやく考えることができるようになった。 以前の日本人作家とは画期的に違う作風。読む者を惹き付け圧倒する筆力。 まだ読んだことのない人には、ぜひとも勧めたい1冊となった。 | ||||
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