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変身
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変身の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.07pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全288件 181~200 10/15ページ
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カフカの小説はまずこれから読むのがいいと思う。 翻訳は古いものだけど、やっぱりこれがベスト。 と感じるのは、これを最初に読んで感動したせいか。 | ||||
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多少の波はあったでしょうが、時代とともに評価されてきつつあると思います。不条理などといわれましたが、似たような形容で評された作品が落ちていく中、カフカの偉大さはそれらとは別次元であることを証明しつつあると思います。彼に影響を受けた作家は数多いと思いますが、表面的な模倣で終わっていると思います。高校生のころ初めて読んで以来数十回読んでいますが、しばらくするとまた手にとってしまいます。自分自身の内的な成長を確認させてくれる貴重な一冊です。 | ||||
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主人公が報われない。 色んな解釈ができる作品。 自らの体験・周りの環境と照らして 読むと面白い(虫→ニート等) | ||||
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装飾や思わせぶりが全くない現実的な文章。虫になるというある種SFじみた設定が淡々とした文体で続くのに、そこにユーモアやナンセンス味、おかし味というものは感じられないし、ホラーじみた怖さすら感じない。寧ろ、在りえない状況に際したグレーゴルとその家族の反応や対応が余りに自然すぎて、切ないだの悲しいだのといった感覚が室内を一歩たりとも出ることのない閉塞感と相まって感じられる。 今まで家族を養ってきたグレーゴルが虫になることで疎まれ、最後は彼の死が遺された家族の希望となってしまうというオチは究極のバッドエンド。切なさを残す後味の悪い終わり方。 ふと、介護に疲れた介護者が被介護者を殺してしまう昨今の事件を彷彿とさせた。虫になったグレーゴルというあからさまな出来そこないのお荷物を、それでも捨てきれない家族の情はこの場合逆に無情であるのかもしれない。いっそ逃がしてしまえばグレーゴルにとっても家族にとってもいい結果になったかもしれないのに、結局家のなかで、しかも父の投げたリンゴが致命傷となって死んでしまうのは悲しい。しかもあれだけ熱心に世話してきた妹が最後、捨てようと家族に提案するところも救いようがない。 何より、どんな扱いを受けても淡々としているグレーゴルの様子が無情を一段と強めている。憤りや不満などを一切嘆くことがないという部分がこの人物の特徴的な部分だと思う。 なすすべもなく死んでいったグレーゴル。死んでるか死んでないかもよくわからないような虫の、あのあっけないような死にざまにすべてが集約されている。 | ||||
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以前はただ単に名作だからという理由で読んで それなりに面白いとは思いながら、単に「奇妙な小説だな」ぐらいにしか感想は持っていませんでしたが 就活が上手くいかず、今まで自分が持っていた夢や、生きがい(と考えていたこと)が急にウソ臭く思えてきたとき なんとなくこの小説を読み返してみました。 すると、毒虫になった主人公が人間であったときの過去を引きずりなら苦しむ姿を、淡々と描写するこの文章が 痛々しいほど、自分に響いてきました。 今まで生きる糧にしてきた夢を捨てるか捨てないかで悩んでいる自分が、主人公と重なる感じがして、変な気分になりました。 間違いなく、すごい小説です。 | ||||
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中学生のとき以来に読み返した作品。 ある朝、グレーゴル・サムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドの中で、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた… あまりにも有名なフランツ・カフカ『変身』の冒頭である。 カフカは、この、突然に虫に変わってしまったグレーゴル・サムザの内面にコミットすることはない。いわば、デタッチメントと呼んでもいいような距離感を意図的に維持しているように感じられる。虫になってしまったグレーゴルは、そのこと自体を問うたり、ましてや苦悶することはない。彼の家族もまた、しかりだ。 家族を養うため、妹を音楽学校に行かせるために粉骨砕身、旅廻りの営業マンとして仕事をしてきたグレーゴル・サムザは、ある朝突然、巨大な虫に変身する。この物語が本当に異様であり圧倒される点は、「異様な」虫に変身したグレーゴルの存在が、むしろ「異様なもの」の対極にある「無」へと収斂していくところ、そして、「異様なもの」になってしまった彼を排除しようと努めていた彼の家族が、彼の「変身」を通して変容し、再生していくという展開だ。 作者であるカフカは、グレーゴルへのデタッチメントの姿勢を一貫して貫いている。とはいえ、虫になったグレーゴルは、彼を邪険に扱う家族を憎むどころか、家族を、とりわけ妹のことを想っていた。クライマックスで彼の妹がバイオリンを演奏するシーンを読んだときには、ちょうど、たまたまモーツァルトの『弦楽三重奏のためのディヴェルティメント』を聴いていたため、不思議な温かい気持ちに満たされた。グレーゴルは、バイオリンを演奏する妹に、「音楽学校に行かせてやろうと思っていたんだ」とクリスマスの日に告白することを空想する。この小説でもっとも美しいシーンだ。しかし、グレーゴルの夢想は、惨憺たる結果に終わることになる…。 家族は皆、虫になったグレーゴルを何ヶ月も見放し、その間に、それぞれが新しい仕事を始め、彼が死んだときには彼らはほんとうに安堵する。人間が虫に変身するという異様な設定が、家族のありかたを変え、排除すべき虫なるグレーゴルの死によって、家族は再生する。 この作品に描かれるのは、そういった皮肉だけにとどまらない。「異様なもの」なる存在物とそれに対峙する人間がどのように描かれるのか、ぜひ、一度は読んでほしい作品です。 | ||||
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家族一、家族思いで家族の為に尽くしながら、突然一夜にして巨大な虫、しかも毒虫に変身したグレーゴルは、次第に人間性を失いそうになり、虫の存在に移行してしまいそうになるが、必死に人間として留まろうとしてひたむきに生き、かろうじて人間らしい尊厳を保とうとしていた。 なのに、グレーゴルに尽くしてもらって生活を成り立たせていた家族は、グレーゴルの存在を蔑ろにし、何事もなかったかのように振る舞い、全ては現実に起こった事実にも関わらず、幻想でしかなかったかの如く、冷酷なくらい淡々と考えを切り替えて決断するのである。 ストーリーの最後では、お互いに自立に向けた旅立ちをしようと決意するものの、決して自力ではなく、目に写る存在に希望を抱いた新たな旅立ちを始めている。 これもまた、単なる幻想の世界に思えてくる。 だからこの家族には、またいつの日か、同じ境遇が訪れるのではないかという危惧さえ抱いた。 人間の心に押し寄せる依存と甘え、エゴと愚かさを、嫌というほど見せ付けられた小説である。 そして人間の存在意義と価値を見出だして生きること、人間の尊厳性に敬意を払うことの大切さを学ばせられた。 グレーゴルがやってきたことの、どこに非や間違いがあっただろうか。 自己犠牲とも捉えられるグレーゴルの家族に対する愛情と思いやりがもたらした功績は、全てが裏目に出て、何一つとして報われていないのである。 グレーゴルが働くことで、本来自力で働ける力があった家族は、動けない理由、働けない理由を作り上げて、生活の全てをグレーゴルに頼り切り、本来なら一人一人がやるべきことを疎かにし、努力なしに、楽をして自由に生きていたのである。 そうした家族の姿が、反対にグレーゴルの自由を奪い、その人生を束縛していたとも捉えられる。 グレーゴルは、身を粉にし、自由を失いながら懸命に生きていた。 それなのに、そのグレーゴルの生き方が、そうした怠惰なやる気の失せた家族を生み出したのだ等と、どうしてグレーゴルを責められるだろうか。 グレーゴルのせいで、実は家族が自立を阻まれて犠牲になっていたのではないか、などという責任転嫁をすることはできない。 責任は明らかに一人一人の中に存在しているのに。 出来事の全ては、自己責任でしかない。 人間関係のボタンの掛け違いは、その状況に順応して感覚が麻痺してしまったならば、ずれにずれて元に戻ることは不可能。 これは前にしか進まない「時間」というものが実証してくれている。 勿論新たなスタートを切らない限り、掛け合わせることは不可能になる。 小説には、それらしき表現はないのだが、グレーゴルの心に押し寄せていた疲弊感、我慢の限界値を超え、それ以上の生きる選択肢が見出だせない状況の中で、修復不可能な現実を思い知らされて行き詰まり、逃れようのない行き場のない不自由さに苦悩してもがいた結果が、現実では有り得ない変身をもたらしたのではないだろうか。 虫になったら虫らしく生きていく権利と自由さえある。 確かにグレーゴルは、僅かながらも虫としての自由と楽しみを見出だそうと、いや、見出だしていたのかも知れない。 しかし、言葉が通じないことで理解し合えない、共存できないことの不自由さと壁が生じる。 異質な存在に変身した人間を助ける者、救おうと心を寄せ、手を差し伸べる者は誰一人としていない。 存在を認めないのである。 不気味がり、とことん嫌い排斥しようとする。 そのあげく疎外されて孤独に陥り、否応なく来たるべき時間が訪れて葬られるのである。 凄まじい恐怖感に堪えて生き抜いたグレーゴルを、私は寧ろ褒めたたえたい。 グレーゴルが、家を支配して家族を追い出す、と考えること以外の選択肢を持たない家族の判断と決断の奢りが、実は本当に大切な存在を失うことになるのに。 尽くした者だけが自己犠牲を払い、役目が果たせない状況に陥ると、冷たく切り離され、見放され、見捨てられていく。 そして時間とともに、その存在すら忘れ去られていく。 ついには、覚えている者は誰もいなくなる。 親しかった人々の記憶から消え去る日が訪れるのである。 本当に大切な存在を忘れ果て、我が身を一番大切にする生き様もまた人間社会ならではのことなのだ、と認めなければならないのか。.....理不尽であるが。 | ||||
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嫌悪は大きく大きく膨らんでいく 一度、レッテルを貼られたらそれを覆すことは至極困難。 救われない。当たり前のように。 どうにかするにはどうしたらいいのだろう。 | ||||
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だがしかし、妙に気になって書店で購入してしまった。 ラストがわかっていても先を読まないと気が済まなくなるような感覚は読んでいて独特だった。 読み終わった後、一気に胸が熱くなり様々な感情が押し寄せてきた。 これが、これがカフカの世界なのだと初めて思い知った作品。 読破した今でも時々読み返します。 | ||||
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カフカの作品だからではなく。古典新訳文庫に含まれているから読んだ本である。本を買ってからなぜか変身だけは読まずに本箱に放置していた。今回、3年ぶりに本箱から引き出して読んでみた。カフカというとなんだか病的な顔でカメラを睨みつけている写真が有名だが、wikipedia によると職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかったと、とても優し人柄であったことが記されている。 ザムザはその名前の通り、もちろんカフカの分身だろう。真面目で、小心者、そして妹思いの優しいイイヤツだ。ところが、ある朝目が覚めると、巨大な虫になっている。それからがトホホの人生なのだ。家政婦にはくそ虫と呼ばれたり、家族から嫌われたり、家族を支えるためにひたすら働いてきたのにね。その凋落ぶりを楽しんでしまいました。 実存主義とか、生きる不安とか、決められた言葉にとらわれずに作品を味わうと。。何だか重ーい感じになるんだけれど、そうじゃない読み方もできると思う。 ザムザの生は、なんだか粗大ごみと呼ばれている世のお父さんたちと重なるよね。ザムザ、イイヤツだけにその扱われぶりがなんだか哀れで、そしてちょっとおかしいよね。 高校生の時に読んだときは、なんか切実な感じがしたけれど、翻訳のせいでしょうか? なんだか、自虐ギャグを見せられているみたいで、面白かった。 | ||||
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この本は10代の若い人より、20代半ば〜30代以降の大人に向いていると思った。 若い人が読書感想文目的で、薄い本だからといった感じで読むと疲れるはず。ご注意を! 大きな虫になってしまった主人公。いつも家族の為に生きてきた。 虫になっても頭と心は人間のまま。それが一番辛い。 主人公はある時は強く家族を思い ある時は家族を憎み、しかし虫のままだから何も出来ず、自室を這い続ける。 家族はそんな主人公をゴミのように扱うだけ。全く、醜いのはどちらだろう? 外だけ美しく飾っても無意味。中身が醜いほうが恐ろしいと私は思った。 この大きな虫についての解釈。年齢や時期や立場により変わりそう。何回でも読みたくなる。 しかしラストの虚無感。いい感じの読後感を与えた。人生、社会を上手く皮肉ってる感じだ。 高橋義孝さんの訳も軽妙。他社の訳よりストレートに響いたのでこちらを推薦する。 | ||||
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村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだが、本物のカフカを読まないとと思い、手に取ってみた。 ある朝ベッドで目を覚ますと自分は虫になっていた!という有名な物語の発端は衝撃的。そして、自分に対する家族の反応によって、孤独と疎外感にさいなまれ、やがて死んでいく。 ストーリーの滑り出しは奇想天外なのだけど、それからの展開はとてもリアルな心理理描写が特徴的で、内省的な示唆に富む。短編小説だけど、というか、それ故にこそ、迫真性が感じられる。この物語には色々な解釈があると思うので、その分、味が濃い。 | ||||
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ある朝、目覚めると毒虫になっていた主人公。 彼自身は、『前よりもいっそうはっきり言葉の意味がわかるようになった気がする』のに、自分の言葉は他の人間に理解されなくなってしまうという状況に陥ってしまう。 そして、そんな彼の役割は「一家の大黒柱であり、愛する家族の一員」から「邪魔者」へと変遷していき、それに伴い、『用心深く杖を突いていた』父は『しゃんとまっすぐに立って』身なりも整え、小使いとして働くようになり、体の弱い母は針仕事、音楽学校を夢見ていた妹は、店員の仕事を始める。 妹への愛情からした彼の「ある行為」が返って家族を追いつめ、彼への憎悪を増していく件は、とても切なかったです。 読んでみて、いろんな人物や心情の「変身」を描いた物語だと思いました。 「ある戦いの描写」は、私もよく理解できませんでしたので、またいつか読み直してみようと思います。 | ||||
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ある朝、夢から目覚めると自分が寝床の中でひっぴきの巨大な虫に変わっているのを発見する主人公。 謎は解明されぬまま、日々が過ぎていく…。 外形が変化することによって周囲の態度は豹変し、暗い闇の中へ葬り去られてしまう。 毒虫は「排除されるもの」のメタファーだったのではないでしょうか。 | ||||
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ある朝、起きたら甲殻をしょった虫になっていた。 不可解。不条理。不可思議。 どういう言葉がいいか分からない。 作品が、何を目的としているかはわからない。 存在の基盤の稀弱さを語っているのだろうか。 カミュの異邦人と同じような文脈を感じた。 ちなみに、カフカとは、チェコ語で、カラスとのこと。 | ||||
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仄暗い部屋から明かりの下の家族を見つめる虫。 グレーゴルという人間はいつ死んでしまったのか。 読解力の乏しい方には厳しいかもしれません。 | ||||
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私は頭が良くないのでこの作品の意味が理解できませんでしたが、 好きな作品のひとつです。この作品を読む際には純粋に小説として読みましたので 突然、虫になってしまいその理由が最後まで明かされない、主人公は虫になったのに 平然としているなど、在来の小説にはないシュールな設定に挽き込まれました。 文章も間怠っこくないのでサクサク読めました。 展開の一部に、人間であることを尊重し部屋をそのままにしとく母と、 虫として生きやすくするために部屋をかたずけようとする妹のシーンは、おもわず考えさせられる場面 でした。 これからこの本を読まれる方は私のように難しく考えず気楽にこの作品を楽しまれてはいかがでしょうか。 | ||||
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物語の構成が極めてシンプルなせいか、サクサク読める。 読書速度に悩む私ですら二時間掛からずに読み終えられた。 読書通の方なら一時間掛からずに読めるのではないだろうか。 読書感想文に追われている生徒さんにもオススメである。とにかく読み終えるのが楽。 タップリ見積もっても三時間は掛からない筈。 肝心の内容についてだが、好みは分かれると思われる。 一方通行の上に救いようのない話なので、突き放される感覚を味わう読者も多いことだろう。 私個人はグレーゴル・ザムザの思考・行動・運命に変に共感するところがあった。 物語の最後の一行がひときわ不条理に感じられた。多分、これが良いのだろう。 なおグレーゴルを『毒虫』だと断定する記述は本文中にはない。 何ゆえ『毒虫』とされているのだろう。『衛生害虫』を『毒虫』と呼ぶのには語弊がある気がする。 | ||||
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細かなストーリーの展開も忘れてしまうほど久々に読みました。 そのためかいろんな先入観なしに、今までの自分自身の経験に引きつけて読むことが出来ました。 ある日突然巨大な毒虫になってしまったグレーゴル・ザムザですが、彼は3年前の父親の事業の失敗を経て一家全体を背負って立っていました。 彼の「変身」は確かにショックですが、まるで神様が「ごくろうさん!良く頑張ったね。ゆっくり休みな。」と言っているかのようです。 何故なら、父親も母親も妹も彼に頼ることなく働くようになり、将来に向かって歩き始めるからです。 それまでの家族やその他の人たちの反応は、冷た過ぎるかも知れません。 でも、世の中ってそんなものでしょう。 とは言うものの、解っていながらグレーゴルがもう一度人間に戻ったらなあと思いもしました。 | ||||
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フランスのマルセル・プルースト、イギリスのジェイムズ・ジョイス、そしてドイツのフランツ・カフカが、二十世紀の文学を変えた三大文豪だと言われている。カフカがトーマス・マンよりも上かどうか疑問はあるものの、少なくともそれまでにはなかった作品を提示したという功績に関しては、とりわけ純文学の世界ではほとんど絶対的な評価を獲得している。 カフカが文学にもたらした革命は「意味の脱臼」であると言われている。それまでの文学においては、物語の推移は意味によって連結されていた。作品は意味によって支えられていなければならなかった。ところがカフカはその意味を作品から取り去った。不条理文学と呼ばれるその作品は、唐突な展開と説明の脱落によって、今でいう「シュール」な雰囲気に満ちている。 ある朝主人公のグレゴール・ザムザが目を覚ますと、一匹の巨大な毒虫に変わっていたという有名かつ衝撃的な冒頭。その理由が全く分からないまま迎える死と、何事もなかったかのように再開される日常。その無意味な結末は、冒頭の無意味な変身よりも、そしていかなる有意味な結末よりもはるかに衝撃的である。 「意味の脱臼」をすれば不条理文学が出来上がるというわけではない。無意味な文章をいくら書き並べても、無意味な作品が出来上がるだけである。本書『変身』が読み継がれているのは、メタレベルにおいて「無意味という意味」が成立しているからにほかなるまい。画期的なだけに二番煎じを許さない本作は、小作品ながらダイヤモンドの輝きを持つ名作であると思う。 | ||||
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