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ペスト
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【この小説が収録されている参考書籍】
ペストの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全304件 281~300 15/16ページ
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「外観も活動も享楽さえも、すべて取り引きの必要によって律せられているような」(38~9頁)オランの人々を襲ったペストの惨劇。何も出来ずに斃れ逝く人々の傍らで、自らの義務を誠実に果たそうとする一群の人間がいた。人間存在の卑小さと偉大さを対比的に描いて雄渾なカミュの代表作にして、現代の古典。 「確かに神は存在しないに違いない。なぜなら、そうでない場合には神父などというものは無用だろうから」(172頁、喘息病みの爺さんの言葉) 「もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう」(185頁、医師リウーの言葉) 「僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」(244頁、新聞記者ランベールの言葉) 「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです ・・・ 僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」(245頁、医師リウーの言葉) 「僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です。自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです」(307頁、新聞記者ランベールの言葉) 「しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」(322頁、神父パヌルーの言葉) 「われわれはみんなペストの中にいるのだ」(375頁、自由人タルーの言葉) (心の平和に到達するためにとるべき道についてリウーに聞かれ)「あるね。共感ということだ」(379頁、同) 「人は神によらずして聖者になりうるか-これが、今日僕の知っている唯一の具体的問題だ ・・・ 僕が心をひかれるのは、人間であるということだ」(379~80頁、同) 「人間のなかには軽蔑するものよりも賛美すべきもののほうが多くある」(457頁) 登場人物から誰か一人選べと云われれば、やはり理性の人である医師リウーである。それにしても、最後の一文(458頁)には、何か映画のエピローグでも観ているような錯覚を覚えさせられた。 | ||||
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20世紀フランスを代表する小説家・劇作家アルベール・カミュ(1913-1960)が第二次大戦直後の1947年に発表した長編小説。アルジェリアの都市オランがペストに襲われて封鎖されてしまいオランの人々が病禍に抵抗するさまを描いた本作品は、発表当時、第二次大戦中ナチス・ドイツの支配下にあったフランスに於けるレジスタンス運動の比喩として読まれたが、カミュ自身はこうした固定的な読まれ方をよしとはしていなかったようだ。ひいては、自らの作品を「実存主義文学」として括られることも拒否していたという。 物語の叙述は、舞台となっている北アフリカの都市の気候のように重苦しい暑さと、困憊した不安な陰鬱さと、そこで登場人物たちが自らの生をその都度創っていこうとするところの「絶望」と、そうしたものによってべたりと貼りつかれているようだ。ペストという〈悪〉に反抗する人たちは、決して〈善〉の奥行きの無さを以ては描かれていない。カミュは、〈善〉を定型的に実体化することを意識的に拒んでいる。 「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです」「どういうことです、誠実さっていうのは?」「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」 「英雄」など現れることはない、【にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ】、彼らは抗った。「特効薬」など無かった、【にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ】、彼らは抗った。「奇跡的救済」など起こり得べくもない、【にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ】、彼らは抗った。 □ 「不条理」と「反抗」、これはカミュの文学に於ける最も切実な主題であると云っていい。 では、カミュ云うところの「不条理」とは如何なる事態を指しているのか。彼の哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』(1942年)によると、彼の考える「不条理」とは、一応は以下のようなものであると云える。人間には世界を理性(logos)に基づいて意味付けしようとする本質的な志向性があるが、世界の側は人間の理性を一切受け付けずこの志向性を常に裏切る。このように人間と世界とが相対立した状態、人間と世界を結ぶ唯一の関係性が、「不条理」である。 生は、生の前には、何も無い。全て在ることどもは、生の後に続くものである。生それ自体以外に在り得ないという事態にあって、我々が我々自身以外に在り得ないところで、全てを選んでいくのだ。まず初めにあるところの生、そこでの生による選び。そうした、人間存在のそれ以上遡及することが不可能な突端・縁とでも呼ぶしかない次元を、カミュは何とか描き出そうとしたのではないか。この次元に於いて問題になることだけが真の問題なのだと、それ以外は擬似的・副次的な問題に過ぎないのだと、そのことがこの作品の中で反復変奏されている。そしてこの次元に於いてこそ、≪連帯≫が可能になるのである。 不条理のなか、「何か」であることを選び、以て際限無く反抗する、際限なく敗北し続けながら。そこに人間の自由がある。そして自由であるがゆえにこそ、他者との連帯の可能性がある。この生の自由こそ、連帯の可能性こそ、カミュが手放すまいとして何とかして表現しようとしたものだろう。 | ||||
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大地震、津波、原発事故、戦争、内戦、新型の感染症、気候変動による自然災害… これら世界規模のdisasterに直面している現代人に贈られたバイブルとして、 これからおおきな価値を持つ書物ではないでしょうか? アルジェリアの地方都市、オランを襲った疫病、ペスト。 それに対して立ち向かうひとびとの物語。 医師リウー、過去を持つ人物タルー、同僚医師カステル、リシャール、市役所臨時雇いの グラン、新聞記者ランベール、予審判事オトン、イエズス会士パヌルー神父。それに、 肺病病みのじいさん、リウーの母親。犯罪者コタール。 さまざまな登場人物がペストに打ち勝つために全力で働き、あるものは力尽き、 あるものは傷つきながら勝利する。 でも、多くの犠牲を払って。 まるで、カミュが21世紀の人間に贈った新しいバイブルのよう。 いちばん最初は高校生のとき。 それから、ときどき読み返しては、いつもなにか発見があります。 たとえば今回、新鮮に感じたのは、「パヌルーのから竿」という一節。 昔読んだときは、から竿とは何か、そしてここではなにを意味するか理解していませんでした。 今きちんと読んで納得できました。 また、昔の版と、ほんの少しすこし訳が違うところを見つけることがある。 オトン判事の息子の死の場面で、「助からないにしても、人よりは永く苦しむことはできたわけだ」 は、新しい版だと、「これで死ぬとしたら、人より長く苦しんだことになってしまうが」 になっている。これは、パヌルーの言葉。 これはさすがに、新しいほうでないと。 PS.2014年8月。 くしくも物語と同じアフリカで現在猛威を振るっているエボラ出血熱。カミュのペストは、まるでその予言のよう。 でも、医療従事者たちにとっては、現実のほうがもっともっと過酷。 カミュのペストの舞台がアルジェリアのオランという都市で起きた(という設定)のに対して現実のエボラ熱は 貧しい、インフラの整備もなされていないようなスラム街や、今もなお迷信が残るような農村で起きている。 一刻も早く終息する事を願っている。 | ||||
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死に至る病ペストが蔓延していくアルジェの町での様々な人達の人間模様を描いた作品です。究極の状況での独特な世界観を描いていると思います。 | ||||
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新刊ではなく、既に評価の定まった名作を一介のレビューアーが褒めることについて何の意味があるのか、とも思う。単に未読の恥をさらすだけだとも言える。しかし、それでも、恥を忍んでこの小説を強く薦めたい。 いや少なくとも僕がこれから書くことに何も感じなかったとしても、未読の方には書店や図書館でこの小説を見かけたら、最初の5頁だけ読んでみて欲しい。あなたの期待を裏切ることはないはずだ。 本のカバーには「ペスト防止に超人的努力を続ける医師リウー(主人公)」とあるが、上記解説にあるように特に目覚しい活躍(ハリウッド映画のような)するわけではない。スリリングな展開もない。淡々とまさに年代紀風に事実(として)ペンを進めていくだけだ。新聞記者であったカミュの筆の冴えを感じさせずにいられない。 これは負け惜しみかもしれないが、若い頃に読んだだけではこの小説の深さは分からないのではないか、と思う。finalventさん的に言えば「27歳にならないと」というか、愛する者、親しい者を失った悲しみを体験し想像できないと、この物語の持っている「命の重さ」を理解できないのではないだろうか。 話を戻すと。開高健や小松左京といったいわゆる戦中戦後世代作家の作品群は、この小説がなければ生み出されることはなかった、といっても過言ではないと思う。戦後文学の金字塔といわれる所以である。 繰り返しになるが、リウーは超人ではない。ごく普通の人間であり、自分と他人が「同じ人間である」という一点において「急ぎすぎもしなければ」「人間に絶望もしていない」一市民に過ぎない。 そして21世紀の今、「オラン市」は単なる都市のモデルではないのだ。僕らが住んでいるこの惑星そのものが「ある種の監禁状態」だと認識することが、現代のリウーに並びたいと願う人々に求められている。そうありたい、と強く感じた。 | ||||
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アルジェリアの港町オラン。 フランスの植民地であり、雑多な人々が緩やかな時間 を生きている。本作の舞台は気ぜわしい大都会でもな く、かといって田舎町というには大きすぎる地方都市 である。 本書冒頭には意味ありげにデフォー『ペスト』からの 引用が掲げられ、カミュの育ったアルジェリアを舞台 とし、さらに本作はナチスのパリ占領を体験したのち に書きあげられている。こうした背景や意味深な節ま わしからいろいろと想像をふくらませて、物語の構造 や各種のメタファーをひも解くようなやり方でテーマ を問うことは面白くもあるだろう。 ただ、私が特に強調したいのは、美しい文学的表現や 群像劇の主要人物のつきささるような言葉からなって いながらも、一流にエンターテイメントしているとこ ろである。純文学と大衆文学が意味のある分け方なの かわからないが、そのどちらの要求も満たす小説は傑 作と呼ばれるだろう。カミュ『ペスト』もそうした傑 作の1つである。 | ||||
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「新聞は当然、何事があろうとも楽観主義をという、つねづね教えられている禁令に従っていた。新聞紙上でみると、現在の事態の顕著な特色というべきものは、すなわち市民が示している「平静と沈着との感動すべき実例」であった。しかし、(中略)市当局によって示される「実例」などにだまされる者はなかった。」(283p) これは本書後半で描かれるペスト流行期の町の様子なのだが、何人かの他のレビュアーの方も触れている通り、震災後の日本のメディアと行政による放射能汚染への対応にまるっきり被るのが寒々しい。本書の大半は閉じ込められた町の中で人々がじわじわと死と向き合う描写で、実際、僕は途中までカフカを読むような心地で本書を読んでいたのだが、同じ「不条理文学」の一言で一纏めにされがちなカフカと違い、カミュは医者、新聞記者、役人、神父、犯罪逃亡者、ボランティア等など、様々な登場人物が各々の立場で「死」という逃れられない運命を前にいかに考え、煩悶し、抵抗/行動するかということを描写している。そのタッチは冷静で理屈にあった説得力とリアリティがあり、「不条理」でも何でもなかったりするのだが、敢えてこの言葉を使うなら、そのような個々のエピソードを包含する「世界」、そして何よりも「死」という誰も逃れられない運命に直面することこそが「不条理」なものなのではないだろうか。 上記のような生死論、南仏の太陽の光、といった要素は他のカミュの作品でも共通するなのだが、二十年程の短い作家人生のうち初期の五年を費やした本書は他の作品と違った緻密な構成とポジティブさがある。(登場人物の各々の役割や時代背景については訳者の解説が詳しい。)長い作品だが、突如終盤にストーリーが大きく動き出して、個々の登場人物の運命も激変するので、じっくり味わって読んでほしい。 それにしても、全体としては暗鬱としたストーリーなのに不思議とポジティブな読後感を与えられる点も「不条理」と言えなくもない。勿論、カミュの評論を読むと彼にとっての死生観や「不条理」の哲学はポジティブな要素を含んでいるので、これも当たり前と言えば当たり前なのだろうが。 | ||||
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アルジェリアの小さな町を突如襲ったペストの流行についての記録というスタイルで書かれた小説。 ネズミの大量死という不吉な兆候に続いて患者が発生する。医師たちはその症状が既に撲滅されたはずの感染症であることに気づきながら、なかなか「ペスト」という言葉を発することができない。多くの患者が発生しているにも関わらず、公的な発表は相変わらず楽観的なまま。そして突然、「ペスト」が宣言されて町は封鎖される。電話の使用も制限された町で、外界との唯一の通信手段は電報となる。限られた文字数で何を伝えるのか。ついには、新しい言葉もなくなってしまう。 「毎日の仕事の中にこそ、確実なものがある」と信じる医師リウーは、自分の力の限りを尽くして患者を治療し、ペストと戦う。その戦いが際限なく続く敗北(=患者の死)であったとしても、「それだからといって、戦いをやめる理由にはなりません」と。 自分の愛するもののために生き、かつ死ぬことに心ひかれると語る新聞記者ベルナールに、「人間は観念じゃない」とリウーは返し、ヒロイズムなどという観念ではなく、誠実に自分の職務を果たすことが重要だと語る。 「彼(=リウー)がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ(中略)。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。」(p.431) ペストはただ単に疫病をさすのではなく、天災やファシズムのメタファーでもある。そして、次の言葉を読むと、本書が国境を越え、時代を越えて共有される真実を語っていることが痛いまでに理解される。 「彼らに欠けているのは、つまり想像力です。彼らは決して災害の大きさに尺度を合わせることができない。で、彼らの考える救済策といえば、やっと頭痛風邪に間に合うかどうかというようなものです。」(p.181) 今だからこそ、読まれるべき名著だと思う。 | ||||
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ペストというのはいろいろな意味合いにとれる。 この作品が書かれた頃は、ペストが蔓延したオランの町は、ナチスによって蹂躙されたヨーロッパの姿を象徴していた。 天災(戦争)という絶対悪に立ち向かう、名もない市民たちの連帯。 神を信じないと言い切る医師リウーの、誠実な生き方。 負け続けることがわかっていても、不条理に対して挑み続ける人間たち。 大学生の頃、この作品を読んで、人生がひっくり返るほど感動した。 そして震災後、ふと、この作品を読み返してみたいと思った。 震災に対して、我々には一体何が出来るのか? 多くの人たちが、自問するばかりの毎日だと思う。 何かヒントが得られるのではないかと思い、本棚から、黄ばんだ本をひっぱりだしてきた。 思った以上に訳文が難解で、よくもまあこんなものを読んだものだとは思ったけど 読後の清々しさは変わらない。 今、被災地ではたくさんのリウーが不条理と闘い続けているのだと思った。 神のいないこの国では、リウーの誠実さは、いわば当たり前のことなのかもしれない。 今、若い人たちに読んでもらいたい。 確かに、もう少し読みやすい文章なら・・・と思うのだが。 | ||||
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ペストを「震災」に読み替えてみると、おそろしいほどフィットする。 「世間に存在する悪は、ほとんど無知に由来するものであり、善き意思も豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害をあたえることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良であり、そのことは問題ではない。」 〜放射線に関する無知から、善意の悪や誤謬が蔓延。 「最初は正式の、後には間に合わせの職員であった看護人や墓堀り人夫も、多くのものがペストで死亡した。どんなに用心しても、いつかは感染してしまうのだった。しかし、驚くべきことは、病疫の全期間を通じて、この職業をやる人間に事欠かなかったということである。」 〜ボランティアと義援の輪は震災後何ヶ月経っても途絶える事がない。 「彼らはまだ不幸と苦痛との態度をとっていたが、その痛みはもう感じていなかった。まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪いのである。」 〜いつ故郷に戻れるかも知れない被災地の方々の苦悩や絶望の今後が心配。 「行政当局は、強い感銘を与える、しかし何の事実も証明するわけではない実例の前に、最初楽観説を迎えた無定見さで悲観説に戻った。新聞は当然、何事があろうとも楽観主義をという禁令に従った。」 〜いまの政府、東京電力、マスメディアの楽観主義とソーシャルメディアの悲観主義に融和はない。 でも、50年以上前に書かれたこの小説には救いもある。 「彼がかちえたところは、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ。ベストと生との賭けにおいて、およそ人間がかちうることのできたもの、それは知識と記憶であった。」 「終わりを告げるこの物語を書き綴ろうと決心した。天災のさなかでおしえられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを。」 〜3.11以降の日本にも救いはあると信じたい。 | ||||
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よってたつ思想のないところで、人はいかにして善くあれるか? 現代日本でこそたくさんの人に読まれて欲しいな。 ただ、長いのと、ちょっと読みづらいのが難点。 中身は文句なし。 | ||||
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ありふれた日常に埋もれていた北アフリカの無味乾燥な都市にペストが発生する。 最初の数10ページは、鼠の死骸が大量に発生して死者が増加の一途を辿るという スリリングな展開。 それに続く、ペスト宣言が出た後のこの小説の中核部は、閉鎖された都市の中で 対策に奮闘する医師やボランティアの日々、患者とその家族の姿が描かれる。 ドラマティックな展開というものは少なく、感染が広がり閉鎖された生活が 新たな日常に成り代わったように淡々と描かれる。 一つ印象的だったのは、<この災いは堕落した世界に対する神の怒りであり、 我々はこの試練を喜んで受け入れなければならない>と説教をしていた神父が、 ボランティアに加わって少年が発作を起こしながら死んでいく病床に付き沿った後、 信仰は捨てないまま新たな考え方に変わるところ。 私なりの理解では、この神父の新たな考えは <この世界は解釈できない謎だらけだが、神を信じるか信じないかの選択では、 私には信じるという答しかありえない>ということになります。 この部分を読んでいると、「カラマーゾフの兄弟」の中で同じような問題に対し、 次男のイワンが <この世が神の意思でできているというなら、罪のあるはずのない子供が苦しむ 世界を作った神は認められない>と語った言葉を思い出しました。 ペストに限らず、訪れることを受け入れるしかない厄災というものがあります (天災、人災であれ個人の病であれ)。 誰でも自分の人生の前に突然暗い大きな穴が開き、そこに落ち込んでしまうことが ありえます。 このような事態になった時にも、焦らず絶望せず日常の中でむしろ淡々と戦うこと が必要(それはとても苦しいことですが)なのです。 注: <>は訳文のままでなく私がまとめた表現です。 | ||||
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[ASIN:4102114033 ペスト (新潮文庫)]ダニエル・デフォーの言葉を借りたエピグラフの一節「ある種の監禁状態を別のある種の監禁状態によって表現する」というところに、作者の創作意図とこの小説の寓意性を理解する手掛かりがある。ロビンソン・クルーソウがただ独り漂着した孤島で、いわば原始人の状態から「人間」への復活を果たす様子を描くことによって、デフォーが「文明人」には見えにくくなっている人間存在の基本的条件を再確認したように、カミュはペストの発生によって外部世界から遮断された「陸の孤島オランの住民」の生態を描くことによって、人工的な都市環境で生きる現代人には見えにくくなっている人間及びその共同的生の基盤を浮き彫りにしてみせたと言えるだろう。また「実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現する」というエピグラフ中の一節は、〈事実〉に含まれる真実に迫るために有効な〈フィクション〉の持つ意味合いを示唆しており、小説家としての彼の立場が示されている。(ちなみにデフォ−は子どもの頃体験した1664-65年のペスト流行のすさまじい状況を、記録小説風の作『疫病年代記』に描いている。) 作者は、生誕と死によって限定された人生を一種の「監禁状態」とみなし、、ペストによって「監禁状態」に置かれた登場人物それぞれの生き方と、医師の仕事を地道に果たすリウの行動を対比しながら、監禁状態における自由の可能性を探ろうしたと思われる。描かれる絵図に特徴的なのは、パヌルー神父をのぞいて、「神のない」あるいは「神が沈黙している」世界に生きる者たちの行動が太い輪郭で描かれていることだ。 リウの最もよき理解者タルーは、この世界に存在する「絶対悪」と言うべきものに対してどういう態度を取るべきかを考えつづける。リウはそういう解決不能の形而上的問いを自分にたいして禁ずる。ペストという「悪」に苦しみ、死に怯えている人がいる以上、それを救うために全力を尽くすのが医師の務めだと考える。医師の仕事は「永遠の敗北」であるかもしれぬが、「敗北」を怖れない。彼が怖れるのは、人々が、そして自分が、監禁状態の中で掛け替えのない生を共有していることに無感動になることなのだ。「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪い」、と彼は言う。およそ10ヵ月に及ぶペストが、この町の住民の意識をどのように変化させたかは分からない。その間医師の職務に専念した一人の人間が、多くの市民の「声」を、できるだけ私情をまじえず客観的に記述したのが本書である。 ペストを契機として、小市民的と目されていた人物の「英雄的」行動による変身とともに、自分の利害に囚われた無惨な発狂者の行動も記録されている。だが、この小説が私たちを深く動かすのは、絶望的な状況にあっても「絶望に慣れること」を肯んじない人物たちの行動が描かれているからだ。「監禁状態」が終わる直前にペストに感染したタルーは、隔離病棟ではなくリウのアパートの一室で息を引き取る。彼の最後を見取るリウと彼の母親、それに対するタルーの無言の信頼を克明に描く一節は、映画の一場面を見るような緊迫感があり、この小説の白眉である。 | ||||
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細かい描写と、街がパニックに陥るまでの詳細な記録に、ただただ圧倒されます。読んでる間、実は作者が実際に、ペストを体験したんじゃないの?と勘ぐった位です。でもこれフィクションなんですよね。うーん、凄いの一言。 ストーリーとしてこれ程の傑作はないと断言できるのですが、なんというか、文章全体が読みづらい印象を受けました。和訳によるものか、カミュ独特の体裁なのか、フランス文学の決まり事なのかは分かりません。ただこの小説の事を「理解しづらい」のではなく、「読みづらい」と感じてしまったのは、私の読解力の乏しさに通ずるものだけではないと思います。 他の人が訳したものはないのかな。あれば一度読み比べてみたいものです。 | ||||
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偉大なるカミュの、代表作との呼び声もある『ペスト』。そもそも、何でこういう小説を書こうという気になるのか、凡人にはさっぱり分かりません。 しかも、ええっとアルジェリアではペストが流行したことがあったかな、とついうっかり調べてしまった。これフィクションですって? 登場人物は決して多くないけれど、極めて非日常的な「ペストの蔓延」という設定で、人間はどのようにふるまうのか、言わば想像で書いていることに なりますが、これは実にありそうだなと思わせられます。 特に、街の偉いさん方がペストと認定するかどうかのあたりは、実にリアル。絶対こうなるよな。 訳者あとがきはものすごく難しいことが書かれていて、こんなふうに読まなきゃいけないのぉ?、とも思ったけれど、まあ私の感想としては「読み通す のが決して苦じゃない小説」でした。 | ||||
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生と死、善と悪、そして神の救済の意味を問うた長編。 かつて熱烈なキリスト教信者であったカミュは、 創作を通じて神の存在を問い続けた。 「ペスト」はカミュの作品中、もっとも大きな構想、長いストーリー、たくさんの登場人物を擁した傑作だ。 タルーを始めとする登場人物は、必死に思考し、行動する。 ペストが蔓延した街は封鎖され、ストーリーは一気に加速する。 最後はどうなるのか、惹き込まれる。 テーマはずしりと重いのだが、 「ペスト」は娯楽小説としてのクオリティーが素晴らしく高い。 アルジェリアの港町の描写がすばらしくエキゾチック。 このノーベル賞作家の作品中、もっとも大衆的でもあると思う。 そこが特筆すべき点なのだ。 ぜひご一読を。 | ||||
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ペストということばはこの作品においては三つほどの意味で使われている。 1)病名であり、小説は表層的には、ペストという病原菌・極限状態に立ち向かうひとつの都市の人々が織り成す人間模様というストーリー構成をとる。 2)世間一般の暗黙の常識。タルーが闘ってきた「死刑」というペストはこの意味である。死刑という制度を暗黙の領域として片付ける我々の思考がペストに冒されている。あるいはコタールにとってのペスト−−「孤独な、しかも孤独であることを欲しない一人の男をペストは一個の共謀者に仕立てた。なぜなら、明瞭にこれは一個の共謀者であるであり、しかも悦に入っている共謀者である」ということばも同じ意味になる。 3)完全な悪、完全な死、無差別な悪、意志のない悪、不条理な人生を終わらせる悪=死。さまざまなことばで述べたが、P330「一見無用な悪」ということばが大仰でなく適切かもしれない。叫びながら死なざるを得なかった罪無き少年に象徴されるような死、それに何らかの意味を付与したいのなら、ペストを許容する神という存在をどうあっても受け入れ諦念するか(どんな悪も神の摂理であるというライプニッツの予定調和説)、神への信仰を捨てるか(遠藤周作が「沈黙」で取った結論だ)、という二者択一を迫るようなペストである。 カミュにとって3)の問いが切実であったのは言うまでもない。岩を頂上まで運びながら、再び、岩が落ち頂上に運ばねばならない、そんな不条理な人生がどういう仕方で終わろうが、そこに神は関与しない、単に終わるだけだというメッセージがあくまで冷徹にペストによる死人を描写する文体から読み取れないだろうか? | ||||
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この物語には、実に多くの人間が、そして多くの人間の心が登場する。 「壁の内の人間」と「壁の外の人間」。 「嘆く人間」と「動く人間」。 「生きる人間」と「死ぬ人間」。 「信じる人間」と「信じない人間」。 「帰る場所のある人間」と「帰る場所を失った人間」。 ペストは、人々を容赦なく分断するが、同時に人々を強制的に平等にする。 死の恐怖は、誰にでも等しく訪れる。 その中でどう生きるか、どう選択するかで、その人の「生きること」の価値が問われる気がする。 ここには、同じ舞台で、さまざまな「選択肢」、そして人々の「選択」が提示されている。 自分だったらどうするだろうと、意識をペストの壁の中に放り込んで、自分なりの答えを見つけてみたい。 | ||||
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カミュの、ペスト蔓延下の人間描写や考察は客観的で冷めており、皮肉めいているとさえいえます。 私はナチスや戦争を連想せずに、むしろそのことに興味を覚えました。 タルーの慈善事業にさえ、安直な判定を下さず、的確で説得性のある(という印象を私は受けました)指摘で見事(?)にあしらっています。 私にはどうも、カミュは「常識的」とされている人間心理に疑問を投げかけているように思えるのです。 文句なしに世界の名著の1つといえます。 人生に一度は読むべきではないかと。 | ||||
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中世さながらに突然「ペスト」が蔓延した町。その発端から、蔓延の過程、その過程の中で暴かれる人間のエゴ、パニック心理、そして解決への努力等、様々な人間模様を描き切った秀作。作者に取っては、本書執筆前の対ナチス闘争を反映した政治に対する問いかけも含まれている。 この人間模様を冷静かつ臨場感溢れる筆致で描くため、敢えて三人称で書かずに、作品の冒頭から結末まで通して主要な役割を演ずる医者の目を通して描くという手法を取っている。しかも、この一人称が誰の手によるものかは最後まで伏せられているのだ。誰が見ても、一人称の書き手はこの医者しかいないと思えるのに、それを伏せておいた作者の考えは今でも理解できない。何か特別の理由があるのだろうか ? 「ペスト」の蔓延時には町は他の地域とは遮断されてしまう。この隔絶性が上記の人間模様をより鮮明に浮き彫りにしており、これが作者が「ペスト」を題材に選んだ理由であろう。隔絶した社会の中で恐慌が起きた状況を利用して、種々の人間模様を描き切った秀作。 | ||||
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