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(短編集)
インド夜想曲
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インド夜想曲の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全41件 1~20 1/3ページ
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インドで行方不明になった知人を探す、というテーマなのに主人公が脈絡もなく旅をしていて、スラムに行ったかと思えば超高級ホテルに泊まったり…煙に巻かれた気分になりました。 誰かと話をする場面でも、お互いの質問に必ずしも答えておらず、話が噛み合っていないのに会話が淡々と続いたりします。 不思議なことに、意味が分からないのに不快にはなりませんでした。まるで夢を見ているような話でした。 最後まで読むと、最初からヒントが示されていたことに気づきます。 薄い本で字も大きいのであっという間に読み終わると思います。 | ||||
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この何気ない旅行記は静かな夜更けに読むべきである。ショパンの夜想曲などを聴きながら読んでいると心は軽くなってこの著者の旅行の同行者となって、著者と同じ匂いを嗅ぎ、同じ触感を感じ、同じ視覚まで共有した気になる。名著であり名訳である。 | ||||
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"これは、不眠の本であるだけでなく、旅の本である。不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している"1984年発表の本書は著者代表作にして映画化もされた、失踪した友人を"探して"インド各地を旅する思索と暗示に満ちたメタフィクショナルな十二の夜の物語。 個人的には主宰した読書会の参加者の方にすすめられて手にとりました。 さて『書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる』"顔のない作家"フランスのモーリス・ブランショの"夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ。"と意味深な引用の冒頭から始まる本書は、インドで失踪した親友のシャビエルを探して、イタリア人の主人公『僕』がインドに実在する都市、ボンベイ、マドラス、ゴアの3つの都市を訪れる【12のエピソードが約152ページで収録されている】というスタイルで。一見すると(あとがきではないが)"月並な旅行記"と思いきや、散文的でゲーム的【ミステリアスなメタフィクション物語】に仕立てられているわけですが。 イタリア文学の名翻訳者、須賀敦子の訳が素晴らしいこともあるのでしょうが、すらすらと読みすすめることが出来、最後の二章で一応のミステリー的な謎解きもあって【割とあっという間に読み終えた】のですが。ただ、その後に自然とまた最初から再び読み始めてしまう。そんな【不思議な中毒性のある作品】だと感じました。 また、本書で描かれる『インド』は作中に登場する印象的な人物、例えば過去や未来を見通すことが出来る兄、その兄を背負った弟コンビ他があらわすかのように、いかにも【アジア的な神秘さや、混沌に満ちた国】として描かれているのですが。残念ながら未だ未踏の国ですが、急激な経済成長を遂げた現在、比較して【実際の様子はどうなのだろうか?】そんな、ちょっと昔の旅行記的な楽しみもやはりありました。 イタリア現代文学の傑作として、また旅やインド好きな方、あるいはミステリアスな物語が好きな方にもオススメ。 | ||||
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どこの書評を見ても大変高評価な本ですが、自分にはそこまで響きませんでした。 序盤のサスペンス的な始まりはおもしろくなりそうな気配を感じたし、 文体からわいてくるにおいや湿度なども素晴らしく、バスの停留所にいる兄弟やスラム、 病院の迷宮のような雰囲気、くしゃくしゃになった巨大なペニスを腹の上にのせている老人など、 部分的には好みの描写も多々ありました。 しかしどうにも会話文になじめず、無機質なやり取りに感じてしまい、 頭にさっぱり入ってこず、自分には物足りませんでした。 描写は本当にすばらしいので、別の作品にも挑戦してみようと思います。 | ||||
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カオスの国インドにて、主人公が失踪した友人を探して旅をする物語ですが、情景描写が秀逸で、スラム街の独特の匂いや幻想的なインドの夜の雰囲気が伝わってきます。 主人公が、旅の中での出来事を通して自分の内面を探究していくストーリーで、読む人や読んだ時期によって様々な解釈ができる奥深い小説です。 映画化もされているので、小説が気に入った方はそちらもオススメです。 | ||||
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プライム会員について連絡する方法がないのでこの場を借りて苦情です。 担当者の方、必ず伝えてください。 ・入会した記憶がないのに、11月から毎月500円の会費が徴収されている(カードアカウントから) ・仮に何かの操作で入会していたとしたら、非常にわかりにくい表示で、悪意のある巧妙さと感じる ・苦情を伝えようとしても、サイトの中に受け付けるところがない。または大変分かりにくくなっている。 苦情を受け付ける意思がないのか。 ・長年利用してきたが、最近傲慢さを感じる。他への乗り換えを考えている。 | ||||
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読む者の存在を揺るがす「メビウスの輪」形式の幻想・形而上学的小説の傑作。主人公が失踪した友人のシャヴィエルを探すためにインドの各地を訪れるという旅行記の様な体裁をしているのだが、上述した通り、読む者は眩暈感に浸らざるを得ない。インドという舞台設定も巧く、混沌、神秘的、汚濁、呪術的といったインドの世俗的イメージを本作に織り込んでいる。主人公とシャヴィエルとの詳細な関係を説明していない点もミソ。 主人公は各地であるエピソードに合い、必ずしもそれらの含意は一貫していない(理解出来ないものも多かった)が、幾つか挙げると以下の様。 ある駅で「肉体は魂を運ぶための鞄」と告げられる。極めて形而上学的で、<主人公=肉体>、<シャヴィエル=魂>とも取れる。それを強調するのが、子供の占い師の言葉で、この世には、<マーヤー=この世の仮の姿>と<アトマン=個人の魂>が存在し、「主人公はマーヤーで、そのアトマンは探せない」と断言する。すると、本作は<マーヤー>が<アトマン>を探す物語となる(即ち、2人は一心同体で、平たく言えば"自分探し")。また、修道士は「シャヴィエルなど存在しない。幽霊にすぎない。わしらはみな死人だ」と死生観を述べる。更に、アメリカのサラーリーマンは恒星の崩壊の過程とブラック・ホールの誕生に触れ、宇宙観とも死生観とも取れる発言をする。読んでいて途方にくれるのも無理はないと思う。 そして、ラストで一人称が一転してシャヴィエルに移り、「この本を書いているのは僕なんだよ」と述べるのだから、まさに「メビウスの輪」である。"まえがき"に本作は「不眠の本」とあるが、それに相応しい魅惑的な傑作だと思った。 | ||||
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女性の私には少し難しいですね でも興味深くスローペースで読んでます。 | ||||
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インド在住で、インドを学習中です。 インド学習の一環として、本作品を読みました。 自身が感じているインドとは違う部分がありました。 ちょっと美化しすぎな感じだと思いました。 同時に、イタリア人がインドを旅すると、こう見えるんだろうなぁ、とも思えました。 不思議で、素敵で、ミステリアスなインドの旅の描写だと思いました。 | ||||
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書き出しはボンベイのマリーン・ドライヴをタクシーで突っ走るシーン。空港を出てタクシーを拾ってホテルまで。不安と期待の入り混じる誰もが経験する旅の第一歩。ボンベイについたばかりの、恐らくは著者の分身である主人公とタクシーの運ちゃんとのやり取りを描いて、のっけから読む者をインドの旅へとトリップさせてくれます。トリップには薬物などによって幻覚状態になるという意味もありますが、本書がまさにそう。と言ってももちろんドラッグはでてこない。これは不眠の本であるとともに旅の本である、という不思議なプロローグが示す通り、失踪した友人を探しにインドに来たはずの主人公は、行方不明の友人のことなどすっかり忘れてボンベイ、マドラス、ゴアと旅を続ける。ラストはゴアの高級リゾートで謎(?)の美女とのディナー。なんだ、ただの女たらしのイタリア男の旅物語か、と結論付けるのは早計。そう思ったあなたは、旅のプロセスの中で、随所に散りばめられたトリックを見落としているのかもしれません。時折、姿をのぞかせる失踪した友人の影・・・いや、そんなトリックなんて思い過ごしさ、などと嗤う人もいるかもしれませんが、そこで冒頭のプロローグに立ち戻って、そうなのだ、これは不眠の本なのだ、辻褄あわせなんて無意味なのだ、と自分自身に言い聞かせ、もしかしておれは著者のタブッキに弄ばれただけなのかも、と思ってしまう。濃密なインドの夜の闇。何といってもタイトルが夜想曲だ。こんなに強烈に夜のイメージを放つ小説はない!夢遊病者のごとくインドを彷徨う主人公と旅の途中で出会うどこか現実離れした人たち。彼らと一体となっていつの間にか読む者もインドの夜の闇に沈み込んでいってしまうような、そんな不思議な魅力あふれる小説です。 | ||||
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正直私には少し難解だったけど、不思議な魅力にあふれた作品です。 ふと稲垣足穂の「一千一秒物語」を思い出しました。 | ||||
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昔の世界文学全集には、イタリアものは入ってなかった。でも、面白い。 | ||||
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アントニオ・タブッキ 須賀敦子訳「インド夜想曲」を読了。欧州から友人を探しにインドにやってきた主人公が体験する12の物語。消息を絶った友人も主人公の詳細も明らかにされないまま、主人公は手がかりをさぐってインドを彷徨う。そこにはヨーロッパでは体験できない、インドであれば、、、と思わせる体験をする。そしてラスト。本作はミステリではないので、ラストは問題にはならないと思う。本作の味わいどころは、描かれている幻想的なインドでの体験や情景を感じることである。それを感じることが出来れば、作者の紡ぎだした幻想的な世界へのキップを手に入れたことだ。そして我々読者はその幻想世界に主人公と一緒に足を踏み入れればよいだけ。感じることがすべての物語である。 | ||||
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タブッキの代表作であり、メディシス賞(外国小説部門)受賞作。暗く不潔で、貧しく、困惑させられることが山積みで、それでいて、哲学的で神秘的なインドの魅力がタップリと塗り込められている。(これが本当のインドの魅力なのかは、実際は賛否両論かもしれないが。) 失踪した友人を巡る謎解き小説であると共に、オリエンタルな旅行小説のような味わい深いお話が淡々と進むが、最後にメタ小説的なトリックが明かされる。その鮮やかさがお見事なのだが、そこは流石イタリア人の小説家である。このトリックは大人の男(小説家)と女(写真家)の語らいの中で明かされるのだけど、この二人の距離感がセクシーなんだよな。こんな大人の距離感は、なかなか書けませんよ。 | ||||
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トリッキーな思索小説である。最後の逆転では思わず声を上げてしまうほど。してやられた口惜さは下手な推理小説より深い。豊崎由美氏によれば「批評とレビューの違いはネタバレするかしないか」にあるそうだから(豊崎由美『ニッポンの書評』)、ここのところはいくら気が逸っても書けない。 テーマが自分探しの旅であることは比較的早く判る。宗教的には、キリスト教グノーシス派やジャイナ教など原初宗教にある「心体二元論」を具象化した小説であると読める。こう言ってしまえば身も蓋もないが、ストーリーはそんな屁理屈を忘れさせるほど魅力に富んでいる。 語り手で古文書学者の「僕」、後段でルゥと呼ばれていたことが判る、が、インドで失踪した友人のシャヴィエル・ジャタナ・ピントを探して、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス、ゴア、カラング−テを巡る旅をする。旅行案内書では絶対に知れないもの、それは「臭いだ」だと「僕」は感じる。タブッキの嗅覚は鋭い。その旅の各地で様々人との出会いと会話が物語の骨子だ。シャヴィエルは宣教師ザビエルにつながる。だから旅での想念も時空を越える。だが本当に彼は実在するのか インドという舞台を離れてこの小説は成立しないであろう。タブッキに限らず、インドという国は厭でも「人間存在の根本」を考えさせずにおかないように出来ているらしい。インドでは生の考え方が違う。一言で言えば「あるように、あるように」だ。「なるように、なるように」努力する思想ではない。不幸は「悲しい運命に生まれついたから」であり、人は「心筋梗塞以外のあらゆる病気で死んで行き」、「私は死にに行く」のである。「信じてはならない、あるいは求めてはならない、すべては神秘だ」、「インドで無神論者であることほど恐ろしい不運はありません」、そういう国だ。 興味あるエピソードも二つ。一つは夜行バスの待合所で会った賢い占いの兄弟とのやりとり。弟の背におぶさっている奇形の兄は、この小説を映画化した画面にも登場するが、本当に存在するらしい。兄は「あなたは舟の上にいる」という。訳のわからぬ「僕」だが、旅の終点の浜辺で何気なく乗った廃船の上で「全てが明白に」なる。素晴らしい伏線だ。もう一つはフィラデフィアで郵便配達をしていたという青年。帰国する際に唯一持ってきた電話帳を引いて、あちらでいつも郵便を配達していた「旦那(宛名に書かれたMr.という称号)宛てに、汚れたフィラデルフィアの海でない、カラングーテの美しい海辺の絵葉書に《郵便配達のトミーより、お元気で》と書いて、切手を貼らず(受取人払いで)に出す。 読んだ後で、直ぐに読み直したくなる小説である。私も数回読んだ。こんな本には滅多にお目にかかれない。 | ||||
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あっという間に、読了してしまいました。 よくある映画などの展開に慣れており、 最後のおちは、何となく読めましたが、 不思議な文体で良かったです。 | ||||
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現実の印度という場所よりも自分の記憶のなかの印度の情趣のほうに惚れ込んでいる私のような夢想家にとってはたまらない自分探しの旅風の幻想紀行です。 いつも旅の興奮が醒めないうちにノートに書き付けたような旅日記の類には嫌悪感が拭えないのですが、これはまさに自分が旅している間の無重力の感覚と気分をマジカルに反映していて、何ら違和感なく世界に入っていくことができました。 人生の桎梏から一時的に開放されて、抑えつけられていた欲望とあてのない夢が異郷の地で交錯し、また別の時間と場所に生きている自分の姿を思い浮かべているうちに、様々な像や物語の可能性が浮かんでは消えてゆく。実際には何も劇的なことは起こらない単調な独り旅を続けながらも、常に漠然とした変化への期待に胸を膨らますことをやめられない。そんな孤独な旅行者の心象が儚くも美しく焼き付けられていると思いました。 アラン・コルノーの映画版も非常に良かった。 映画は物悲しいヴィオリンの旋律と一昔前のボンベイの町並みの記録がえもいわれぬノスタルジーに誘うのです。 | ||||
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この小説は境界を行き来する。 インドとヨーロッパの間を。 ヒンズー教とキリスト教の間を。 スラムと超高級ホテルの間を。 自己と他者の間を。 夢と現実の間を 生と死の間を。 終わりと始まりの間を。 そして境界が次第にぼやけてくる。 ずっと変わらずあるのは夜だけだった。 欧米の小説にしては珍しく曖昧な、 気持よく煙に巻かれたとてもよい小説だった。 | ||||
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平日にも拘わらず寝過して下宿の朝食を食べられなかった。 充分寝た筈なのに一日中うつらうつらと半睡状態で過ごす。 寝台に寝っ転がり本書を読み出すが直ぐに寝てしまう。 覚めては読み、読んでは眠り、夢を見た。夢と本の内容が混然一体となり区別がつかなくなる。 元々明確な筋などない一夜の夢のような物語故、読み直さずそのまま読み続ける。 忽然と消息を絶った友を探し男は印度亜大陸を彷徨い歩く。探す男と探される男の立場が逆転し謎は謎のまま終わる。 理解の為には読み直すべきなのだろうが夢と一体となった読書体験も貴重。再読は又の機会に。 | ||||
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