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ハーモニー
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ハーモニーの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.15pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全29件 1~20 1/2ページ
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【結末のネタバレあり】 巻末インタビューで著者が「敗北宣言」と述べているように、結論部分については、正直物足りなさが残るラストとなった。 個人的に一番気になったのが、ミァハという人物が、本当にこのような結論にいたるのだろうかという疑問である。 ストーリーではミァハは、生まれつき「意識」を持たない民族だったと明かされる。 そのため、全人類がミァハの民族のようになるだけと考えれば納得はできるのであろう。 しかし本当にそうと言えるのだろうか。 父のヌァザは、「社会と完璧なハーモニーを描くように価値体系が設定されている」と述べている。 つまり多様性の失われた、ひとつに価値観が統一された上での、意識の喪失ということになる。 このようなプログラムをミァハは肯定するのだろうか? 例えば、ミァハの一族がこの都市に住むか?と問われたとする。 はたして、全ての一族がここに住むことを選択するだろうか。 中には合理的な思考を経て、住まないという選択をする者が出る可能性も否めないはずだ。 人々から「迷い」を取り除いても、正解はひとつではないのだから。 他の例で考えると、無我の境地に達し、悟りを開いた僧侶たちが、この世界に訪れたとして、仏界(浄土)に辿り着いたと感じるのだろうか。 その場合も、ただロボットのようにプログラミングされた人々が暮らす都市を見て、憐れみとともに静かに通り過ぎるだけではないかと私は思う。 意識を失うということは、生き続ける意味も失うともいえるはずだ。 本来であれば(価値体系の設計がなければ)、食事を摂る意志を無くしそのまま餓死するものが現れる可能性だってあるのだ。 (WatcMeに感知されるだけだろうが) そのような観点から、この結末はミァハがたどり着くべき結論ではなかったような気がしてならない。 インターポールのヴァシロフは死の間際にこう言う「こいつが痛みってヤツなんだな。WatcMeとメディケアめ、人間の体にこんな感覚があるなんて、よく隠しおおせたもんだ。腹の立つ話だとは思えんかね。」 このような発想を持つ集団が、このような結末を望むのだろうか。 恐らく、もし著者に時間があれば、もっと時間をかけて結論を探すことができたのであろう。 しかし残念ながら著者に時間は残されていなかった。 著者による「敗北宣言」という言葉を聞くと、どうしても他の結末というものを考えてみたくなってしまう。 大変身勝手なこととは思いながらも、僭越ながら異なる結末というものを私なりに考えてみた。 以下が私個人としての結論案である。 ---------------------------------------------------------- ミァハは、自ら書いたプログラムにある細工を施していた。 プログラムが歌い出した瞬間、全ての人類に選択肢が示される。 社会とひとつになれば、全ての苦しみや恐怖から解放されます。 あなたは、あなたという意識を捨て、生命主義社会とひとつになって、生き続けていくことを承認しますか? Yes/No 生府の老人たちや、螺旋監察官たちは、想定していなかった事態に一瞬戸惑いはしたが、迷いなくYesを選択した。 (ウーヴェのようなものたちを除いて) 今回の事態に怖れを抱いていた者を中心に、医療社会に生きる多くの人類も、同様の選択をした。 そして、Noを選択した人類には、ミァハからのメッセージが示された。 「さあ生きて自由にハーモニーを奏でよう」 その後の社会では、紛争もまだ続いている、自殺だってその存在を消してはいない。 しかし、『空気』と呼ばれていたものは、もうそこには存在しない。 この社会では、お酒を飲んでいる者を見ても、誰も見向きもしない。 もちろん、司法は存在している。 殺人を犯せば罪に問われるように、飲酒が違法な地域や年齢では罪を償わされることになる。 しかし、空気という形で人々から自由を奪うことは、できなくなってしまった。 偏狭な生命主義者も、それを他者に押し付けるために必要な「意識」を失ってしまったのだから。 | ||||
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ディストピア的設定は面白く、現代の社会的風潮に重なる部分も多いため、現在と重ね合わせながら読むことができ、考えさせられる部分もある。描写や展開の早い部分、所々リアリティに欠けるところが残念ではあります。ストーリーの主軸部分における、「本当にこんな事なるかぁ??」って感じの、勢いで描いた感は、少し否めないところはあるかと思います。 | ||||
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Web3の台頭、ワクチンによる国家間のにらみ合いやマスク警察の登場、 果てはロシアの戦争まで、10年以上も前に予見している点は恐れ入る。 さすがは未来を見る文学だ。 しかし、肝心のストーリー展開がやや凡庸で予定調和的。世界観にうまく没入できなかった。 ただ、この作品が高く評価されていると言うことは、「もうこの国終わりだよ」と 嬉々として叫ぶ国民性のどこかに、ガチッとはまるフックが本書に内包されているのだろう。 | ||||
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漫画やゲームなどのメディアで表現規制が叫ばれる昨今。 それが技術的に可能になった未来のシミュレートとして、「ありえそうな末路」を本作は描いている。 淡々と、そして必然として終わっていく世界の様子は、ある意味でラストシーンに象徴されるような儚さと美しさを感じさせる。 ストーリーラインとして紆余逆説はあまりなく、決められた結末に向けて切々と要素を積み上げている印象だ。 謎や動機の部分は最終局面に至る前にほとんど出揃っており、後はどう着地させるのかという点だけが残る。 結末についても意外性はほとんどなく、本当に「綺麗に締めたなぁ…」という所感だった。 人を引き込むようなアクの強さは感じなかったが、その危うさと儚さを噛み締めて味わう作品である。 | ||||
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まず生府という設定に疑問が残る。福祉国家というものは、戦争における国民動員の産物である。ならば争いのない世界において、人的資源の観点から高度福祉社会が保たれるのだろうか? 実際現実においては、政治が企業や金持ちに制御され、結果新自由主義が蔓延し、コスト・カットとして医療費、労働規制の緩和による賃金の削減が行われている。資産家に有利なグローバリゼーションの推進と、国家の破壊により、全世界で格差が拡大しているのが現状だ。 たとえ作中のように大災禍によって、資本主義が壊され、生命主義が一時的に蔓延したとしても、それが長く続くかは疑問である。 確かに長期的な効率を考えれば、福祉社会は合理的な選択である。経済が、新自由主義が蔓延した後、停滞していったことは広く知られることである。しかし、現実にそれが改められる気配がない。 また意識の問題についても疑問が残る。意識や心と言ったものを消せば、本当に調和された世界になるのか?むしろ、非合理的な意識が消えた結果、社会は混乱し、果てしない争いが生まれるのではないか? 全体としての疑問点は、伊藤計劃が高度な福祉国家を合理的な選択による、唯一の正解として、ほとんど無批判に提示していることに集約される。これは少々爪が甘いのではないか? さて、ここでハーモニーを普遍的な青春小説として読むことを提唱したい。主人公の状態を三段階に分けてみると、社会に対する反抗(集団自殺)→自立するが、隠れて適度な逸脱行為を楽しむ→意識をなくす、となると思う。これを少し乱暴に抽象化すれば、反抗期→半大人半反抗期→大人、これは要するに、青年から大人になるまでを描く、青春小説だと考えて良い。たとえば、同時期に発表された(「ハーモニー」の約一年前)佐藤友哉の「灰色のダイエットコカコーラ」などはほとんど同じ筋書きだ。 少女が大人になるまでを、SF的な題材で鮮やかに描いた青春小説として、「ハーモニー」は評価されるべきだと思う。 | ||||
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意識はどこから生まれるのか。意識のハードプロブレムとも呼ばれるこの問題、脳科学者や哲学者などの間でけっこうもてはやされた時期があった。脳が発する単なる電気信号だ、いや違うそれではクオリア(自分が自分であるという意識)の説明がつかない、とかいうふうに。 オーストラリア人哲学者デヴィッド・チャーマーズが投げ掛けたこの問いが各界に反響を呼んだのが20世紀末だったので、当然伊藤計劃自身も見知っていたに違いない。闘病生活を送りながらの執筆だったため、書きながら“意識”が遠のくこともしばしばだったとか。 本作の随所に登場するHTMLもどきのタグが特徴的だ。読み始めは行数稼ぎかなとも思ったりしたのだが、小説後半にかけて表記の統一性が次第に失われていくところに、作家の病状悪化による影響を感じないではいられないのである。 主人公のトァン、友人でもあり敵となるミァハ、そして自殺するキアン。優しさを押し付ける社会に絶望した3人のJKが、自殺サークルを結成する小説冒頭などがとてもラノベ的と評される本作。癌を患っていた伊藤が自らの死(わたしがわたしでなくなる)を意識しながら書いたとすれば、むしろ自然な表現手法だったと思うのだ。 大森望などが本作をグレッグ・イーガンの難解小説と比べているが、“私”という1人称で綴られた本作は、ジェイムズ・ティプトリーJr.の『たったひとつの冴えたやり方』と同じ文脈で語られるべき小説のような気がする。(両作品とも)あえて作家とは正反対ともいえる人物を主人公にした理由がせつなすぎるのである。 | ||||
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SFが好きな人、興味がある人にはおススメです。 読みやすいのであっと言う間に読めます。 | ||||
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螺旋監察官の霧慧トァンを視点として描かれる2060年の未来の世界。人々は核戦争を経て、各々の身体を外注に管理させ、極めて平和で健康的な生活を送ることのできる生府の管理する環境を手に入れた。トァンは、女子高生時代の御冷ミァハの自殺により、彼女の影を追うように生活をしている。そんな折り、もう一人の同級生であった零下堂 キアンの不可解な自殺によって物語は転機を迎える。 以下、ネタバレ。 医療に管理され、痛みも苦しみも失い、自らの身体が社会の重要な資源として扱われる未来の世界は、紛う事なきディストピアであると感じることができるかどうか、がこの作品を身近に感じるためのポイントだと思う。健康で何もかもが仮想現実にナビゲートされ、医療サーバから健康的な指針を明示される。そこにあるのは、個を失いつつある世界。 勿論、この物語は、肺癌で亡くなった作者の影を感じざるを得ないテーマとなっている。医療に翻弄される作者自身が、その先に救いを求めた。身体を管理され、薄らぐだろうと思われる自らの意識と、死に向かっていたという状況が、この作品を、この作品のラストシーンをより感慨深いものとしている。そう読まれることは作者自身が望んでいただろうか。 文庫版は、当初真っ白なカバーに文字が配置されただけのものであった。そこに書かれているのは、「人間は、なぜ人間なのか。」という一文。物語の中で、手話だけの島の話が語られ、チェチェンを舞台にし、戦場でのタブーを生きることとして感じるという描写がある。無機質なサイバネティクスに愛着を感じ、復讐という主観さえも、全てを飲み込むことが進化だと物語は、描く。 意識というのは、選択を行わなければならない場合にこそ、意識として存在するのであって、選択する必要性を奪われてしまった場合は、意識は消滅すると。笑うことや楽しむことは選択の結果ではなく単なる行動としてそこで行われているという。HTMLのタグに良く似た装飾が本文にされているが、そこでは、最後にタグが閉じられて終わっている。 それならば、この完成したようにも見える人類のディストピアは、文献としてもう一段階先の誰かが見ているという存在を描いていると考えられないだろうか。 それがおそらく解放であり、希望である。そこに、意識は――。 と、良い点が色々あるのだが、マイナス面もある。バグダットの外側にWatch meをインストールしていない人間が存在していたのだから、全ての人類が意識を失っているとは思えない。また、ミァハの存在やら、小道具やインターポールなど、登場してくる人物が薄いのと、後出し気味な設定消化のためのモノや人達。伊藤計劃自信が解説の引用分で、感情が苦手でロジックを表現したいと書いているのが、まさにこのような印象に繋がるのだろう。 レイプによる肉体を傷つけられる事で生じる「意識」と、人間の選択のためにある「意識」の比較が上手く行っていたかというと、そこは印象が薄かった。主人公以外のキャラクターは、配置されているという印象が拭えない。 また、無意味にヲタク的な名前と会話に、性的な部分が過剰にあることが、物語から少々逸脱しており残念。男の作家だからこそ気になってしまう。 | ||||
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全ての人間が健康に生きていくこと、それだけが目的となった世界。平和な予定調和をただ繰り返すだけの毎日。 そんな世界に生きていたら、私だって(世界に感謝しつつも)「自分の命は自分だけのものだ!」と大声で叫びたく なると思う。 しかし彼女はその後で、感情の消え去った管理社会に戻ることを選ぶ。そんな、まるでゾンビの群れような社会 に何の意味があるのだろうと思いつつも、今の世界の分断と混乱を見ると確かに意味はあるのかもとも考える。 キャラクターに文章が振り回されている感じもしましたが、退屈せず読めた。 (ここからネタバレ) なぜラストはハーモニーシステムが続く社会で終わるのか判らなかった。 反主流派の自殺誘導テロから社会を守るためにハーモニーシステムの稼働を実行したのは判るのだが、その後、 犯人(反主流派)は特定され、その自殺コードを書けるミァハは死んでいるんでしょ?後は、生府社会が反主流派 を捕らえて危険を取り除いてから、ハーモニーシステムを止めればいいだけでは? それは以前にミァハで実験済みなんだし。。。 | ||||
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いろいろなところで高く評価されている作品だし、作中でも言及のある フーコーの「生-権力」に隅々まで支配されつつある社会で、一人の少女が ひそかな叛逆を企てる・・、という設定はさすがと思わせるものがあったが、 夭逝した作者がこれを書いた時は既に闘病中だったためか、中盤以降の 展開がやや一本調子というか、描写などもあっさり書かれ過ぎているような 気がしたし、結末にもそこまでの衝撃や納得感がないのが残念だった。 ★★以下、物語の根幹に関わる記述があるので、未読の方は注意★★ 少女ミァハが「生-権力」に叛逆を企てる根本の理由は、彼女がチェチェンの 特殊な部族の出身だったからということになっているが、このような「超越的 審級」を持ち出すことは、この作品全体の説得力をかえって弱めていると思う。 むしろ、ある意味世界中でもっとも無菌的な空間と言える日本においてこそ、 とくに少女の間でそのような意識が尖鋭化するし、そのことに「チェチェン」の ような裏付けはとくに必要ない、という描き方にすべきではなかったか。 また、結末では人類全体の意識が消えることになっているが、正確に言えば、 作中に登場するトゥアレグ族やイラクの人民など、「生-権力」による監視体制 から洩れている人間が少数いるはずだから、彼らのその後が描かれないこと には、この作品は完結しないのではないかという疑問も感じた。 | ||||
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SFといえばこの人と言われるほどこのジャンルでは有名な作家ですが「虐殺器官」がいささか期待外れだったため本作もしばらく積んだままでした。しかしいざ読み始めると「虐殺器官」より取っつきやすい語り口と内容だったため、あっという間に読了。 作中にも出てきますがどこか「すばらしい新世界」を彷彿とさせる作風です。ディストピア物に分類されるのかな?政府ならぬ生府に個人情報をすべて開示し、生府からの指示に従って生活することにより健康と長生、そして平和を得た人々の物語です。 中盤までは世界観の説明と主人公の過去描写で消費されるため少々退屈。しかし中盤にある大きな事件が起こり永遠と信じられていた平和が破られ、そこから怒濤の展開で読ませます。 なぜ・どのようにしてその事件は起きたのかなど「虐殺器官」では曖昧にされていた核の部分が本作でははっきり書かれていたのでよかった。 そして「虐殺器官」のその後にあたる話が本作なんですね。人様のレビューを読むまで気が付きませんでした。言われてみればという程度のリンクなので本作のあとに「虐殺器官」を読んでもネタバレになるということは特にないと思います。 中盤からのストーリーが一本道すぎたため☆は減らしています。エンタメ性はやや低いため、どの人にもおすすめできる小説ではないもののSF好きな方なら満足度は高いはず。 変わった文体ですが、それすら意味を持たせて書かれていたのが斬新でした。 | ||||
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「虐殺器官」と対になる作品。 伊藤氏へのインタビューによれば、一人称で書くことにこだわりがあったそうだ。 そのため映像で見るよりも(私自身は映画の方は見てないので断定はできないが)本で読んだほうがいいのではないかと思われる。 読み易いが個人的にはそこまで印象に残る作品ではなかった。 また読者の理解を助けるためかもしれないが、若干説明がくどいように感じた。 | ||||
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話の流れとして微かに関連しているので,虐殺器官も読もうとしているならば,虐殺器官を先に読むべきです. | ||||
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だが、この世界には、残り半分がある。救済は不完全だ。よって、この物語には続きが必要だ。 | ||||
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の書いた「あなたのための物語」の逆の話医療が完全に病を治せないやつ アナログハックのビターなやつにとびきりにがい楽園とか幸せって今此処にないもの此処じゃないところってこと存在しない物を求めるからこうゆう作品になるんだと思う不幸は今此の現在が不幸ということになるので実在する。幸福の形は一緒だけれども不幸の形は千差万別だって言うところからわかるけれど結局、昔のひとは、南に島に楽園があると思い込んでいたらしいけれど其の南の島で鬱の人は3倍不幸になるんだって南の島の人は幸福でないといけないのと貧しいのと鬱であるということだったかな?だから、永遠に別の文化に出会い続けなければ永遠の幸福は得られないのだ、その辺が答えかな | ||||
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内容、それのバックボーンとしての幅広い知識が感じられ本当によく出来た作品です。 ただ、全体として冗長な感じがします。更に推敲すればこの半分か2/3のボリュームになったかと。 来年公開される映画が楽しみです♪ | ||||
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虐殺器官が面白かった(語弊があるかもしれないが)ので、購入。 入院中の暇つぶしに読み始めたのですが… 引き込まれるけど、イヤな感触の話だなー。 虐殺器官では主だった“死のシチュエーション”が大量虐殺なのに対し、こちらはよりパーソナルな死、自死を多く扱っているからなのかもしれない。 主人公が女性である必然性はあるけれど、なんかビミョーにアニメっぽさを感じるのは、筆者が男性だから?百合萌え属性のある人は、本筋とは違うところでときめくかもしれない。 テーマとキャラでは、攻殻機動隊を連想し、ストーリー運びの流れは前作と比べてしまう…もちろん完全に別の話だけど、淡い既視感はちらつく。 だけど、物語としてのパワーはすさまじい。心身が弱っているときに読まない方がよさそう。 退院してから、読み直します。 | ||||
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面白い小説だと思うんですよ? 独特の世界観を構築する描写力は凄い、と思うんです。 しかし・・・終盤のお話の流れがよく理解できなかった(泣)。 上司から「世界はあなたの肩ににかかってるかもしれない」みたいなこと言われますよね? トァンは、結果として(内心はほぼ復讐の感情ですが)その期待に応えますよね? しかし何故、エピローグで老人たちはあのような決断をしたのでしょうか? 私の理解力が足りないのでしょうか・・・ そこら辺の論理構造を解説していただける方がいたら、ぜひお願いします! | ||||
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「虐殺器官」が物凄く面白くて、作者の本を全部一気買いしました。 わくわくして読み始めたのですが、なぜか「ハーモニー」はいまいちハマらなかった。 理由が自分でもよくわかりません。 設定は濃密だし、文章は巧みなのに変わりはないのですが。 作品の中を流れる緊迫感みたいなものが比較的に少なかったからかもしれません。 この作家を読み始めるなら、「虐殺器官」からが良いと思います。 | ||||
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内容としては、虐殺器官の続編という位置づけだと思います。 世界観は士郎正宗の作品群の影響を色濃くうけているような気がしました。 中盤〜最後にかけて若干駆け足になってしまっていて、謎なままな部分や不明瞭な部分がいくつか存在します。 そこらへんは改稿によりいくらでも変わったのでしょうがご病気のこともあってうまくいかなかったのかな、と思います。 この作品を手放しで褒めることはできませんが、改稿次第では00年代のSF最高傑作にも成り得たかもしれないことが何より惜しまれます。 | ||||
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