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ブルックリン・フォリーズ
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ブルックリン・フォリーズの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.68pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全41件 21~40 2/3ページ
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訳者あとがきで柴田さんが「オースターの全作品のなかでもっとも楽天的な、もっとも「ユルい」語り口の、もっとも喜劇的要素が強い作品」と書いている通りだな、と思う。 登場人物たちはそれぞれに問題、というか、人生に引っ掛かりのようなものがあって、それぞれが世の大半の人々と同じくフォリー=愚者の対応・態度をとってしまうのだけど、それが微笑ましかったり身につまされたりする。 語り口からはオースター原作/脚本の映画『スモーク』を、挿話からは彼が編んだ『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』を思い浮かばされ、そういう意味ではオースターらしい作品なのかもしれない。 ハッピーエンドなんだろうなと感じながら読んでいたが、最後の最後で9.11に触れられていて、驚いた。 そう、なじんだ街や受け容れた人生を一瞬にして吹っ飛ばす、出来事。 この作品に登場する愛おしい愚者たちとテロという愚かしい行為の落差に、単純な幸福物語では終えられない現在を感じる。 それでも、多様であり、かつそれを認めていくことで未来に希望を抱くことができる、とも思う。 | ||||
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オースターらしい、ユーモアのある、いい小説だった。 | ||||
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なんという間抜けな悲劇の、幸せなハッピーエンドでしょう。 ハッピーエンドの四十六分後にまた、悲劇が始まるというのに! 愚かな行為が結果的に、賢い行為であったことに気付くという、 なんとも愚かで、同時に賢い人々の物語。 空のガソリンタンクに、自動販売機のコーラをいっぱいに詰め込んで、 車を走らなさせた少女の <愚行> は、 修理工場での調査でブレーキパッドが完全にすり減っていることの発見につながり、 三人の命を救ったのです。<愚行>が突然、<賢い行為>に変身する! 愚かな行為は、笑うしかありません。 一見、賢い行為や正しい行為は、時に危険な行為にもなり得ます。 この本の物語は、こんな風にコメントしているように思います。 おもしろかった。なんて面白いんだろう。 人生半分終わって棺桶に片足入っているような男がしみじみ、熱く語ります。 「舞台にずらりと並ぶ女性たちの歌と踊り」(訳者あとがき)のショーみたい。 若い女性だけでなく、少女もいれば、結構お年の人生を経験した熟年女性たちも登場する なんとも面倒くさいでショー。 男たちは入れ代わり立ち代わり登場するが、はかなくも、すぐ退場する。 そんなミュージカル・ショーのような、しょう・せつで、おもしろかった。 笑いと涙のドタバタ劇。人生の悲喜劇を描いていて、楽しくも悲しい。 人生そんなもんよ、肩の力抜いてみてください、と感じさせる脱力の力作。 救急車で運ばれてきたのに、こっそりたばこで一服する愚かな人間の幸せ。 何て言ったらいいのか。複雑すぎて、変顔になって笑える傑作。 鋭い目付きの <スクイーズ・プレイ> で人生に切り込んできたオースターさん。 デッドボールで出塁の、イテテの珍プレイみたいな切れ味のよい気の毒なストーリー。 本書では、<万事塞翁が馬>がテーマかも? 正邪の判断幅が広く浅く、珍妙で、優しくもユルい語りくちに好感を持ちました。 でも、そこはやっぱりベテランのオースターさんでした。 猫も杓子も、どいつもこいつも、お馬鹿で間抜けでドジでボケな人間たちの 抱腹絶倒のドタバタ喜劇。「樽入りの猿たち」(60頁)の物語には終わらせません。 幸せを感じさせるハッピーエンド。その、わずか四十六分後に起こった悲劇のことを 捨て台詞のように予告しています。 時間が来て、いったん幕が下ろされただけみたいなエンディングは、へたうまの風情。 静かな死に場所をさがす「私」の、どこまでも続きそうな、どうしようもない悲劇です。 320頁ほど読み終わってみれば、美しくも物悲しいハッピーエンドです。 なんともしまりの悪い、ホッとする悲劇。じゃあなくて、まるっきりの喜劇でした。 甘口と辛口がアンバランスに配置された、しっちゃかめっちゃかの味わい深い食い物のような物語。 切れ味もクソもあるかと言わんばかりの(言っちゃってる)ストーリー展開です。 パンチが効いていて心が痛いエピソード、手に汗握らないけれど涙が出る幸せな人間模様。 老いた「私」ネイサン(名前です。男です)がしみじみと語る物語。 主人公は、若きヒーロー、ネイサンの甥のトム。 トムは「私」の亡き妹の息子なんです。「私」の甥というわけです。 大学院までいった学者なのに、ちょっと人生につまずいて下町ブルックリンに住むことに。 本書『ブルックリン・フォリーズ』を読むと、 人生の悲劇は喜劇であり、喜劇は悲劇でもある、と思えてくるから奇妙です。 裏が表に、のマジックのような小説。マジックのような人生。 悲劇と喜劇を同時進行させ、より合わせられて、渦を巻くように メリハリのある人間模様が描かれます。 本書に登場するのは、ありふれた、普通の日常を送る人間たちばかりなのに、 それぞれがそれなりに、悲喜こもごもありながら、もごもごと ドラマチックな人生を送っています。 この小説のテーマは「沈黙」だ! と、宇宙に向かって心の中で叫びました。 アチャー。 テーマは、他にもいろいろあるでしょうに…… 男と女の愛というより、人と人の間の愛とか、 人を自由に開放する言葉と人を拘束する言葉の両方とか、 男と女の結婚の意味とか、遺産相続の対象とか、心の傷とか、 刺青で思い出す過去の記憶とか、…… 《備考》 <主な登場人物> 「私」こと、 ネイサン・ジョゼフ・グラス。Nathan は、Nathaniel Hawthorne から? 元保険外交員。肺ガン患者。娘レイチェルの父親。 トムの伯父。ナット伯父さん。元妻(ネイサン自身による名前削除)とは離婚。 『人間の愚行の書』を執筆中。盆暗(ぼんくら)の愚者ネイサン。 涙もろくなったただのじいさん。 愛人はジョイス。そして、いろいろあったけど、現在位置(X)では幸せ。 「レイチェル」こと、 ネイサンの娘。 「テレンス」こと、 レイチェルの夫。 「イーディス」こと、 ネイサンの元妻。レイチェルの生みの親。 「トム」こと、 トミー、トム・ウッド。ネイサンの甥。元学者。ネイサンはトムをドクター・サムと呼ぶ。 一時、ニューヨークのタクシードライバー。その後、古本屋ブライトマンズに勤める。 三十歳の若者。二十キロ太り過ぎ。ローリーの兄。 「ハリー」こと、 ハリー・ブライトマン(偽名)。ハリー・ドゥンケル(本名)。古本屋のオーナー。 ベットの元夫。フローラの父親。 元悪党。元美術商。元シカゴ市民。シカゴの画廊ドゥンケル・フレールの元オーナー。 オカマ。自分を「あたし」と呼ぶ。心臓発作で2000年に死亡。 遺産はトムとルーファスに半分ずつ。 「ベット」こと、 ハリーの元妻。金持ちドンブロウスキーの娘。フローラの母親。 「フローラ」こと、 ハリーとベットの間の娘。神経衰弱。躁病。計算が得意。 「ヴァレリー」こと、 ヴァレリー・デントン・スミス。画家スミスの妻。 スミスの死後、シカゴに戻ってきて、スミスの贋作を発見。 「ドライヤー」こと、 ゴードン・ドライヤー。スミスの死後、スミスの贋作者となる。 ホーソンの自筆原稿の贋作計画でハリーともめて、ハリーの心臓発作死の原因となる。 ナイフもピストルも使わない<殺人>。 「ルーファス」こと、 ルーファス・スプレーグ。ジャマイカ人。二十六、七歳の若者。オカマ。 男の子の体をした女の子。自分を「あたい」と呼ぶ。 ハリーによる三年間の金銭援助を感謝しながらも、ハリーの死後は、 おばあちゃんのいるジャマイカに戻る。 ハリーは遺産の半分をルーファスにのこす。 ハリーの灰をまく公園の森での、ルーファスのキャバレー・パフォーマンス。 「完全な沈黙」(236頁)を保ったまま、ポータブルCDプレーヤーに合わせ 「口パク」で歌うキャバレー・ソングの<絶唱>には、思わずなみだ。 おもいっきり泣きながら笑えました。 ルーファスは、完全なる女性<ホステス>としての美しさを披露した。 「ハニー」こと、 トムの妻。押しの強い、前向きな押しかけ女房。トムと正反対の性格。 「ジューン」こと、 ジューン・ウッド。<笑う女の子>。ネイサンの妹。トムの母親。 「BPM」こと、 ビューティフル・パーフェクト・マザー(美しき完璧な母親)とトムが呼んでいた女性。 「ナンシー」・マズッケリのこと。アクセサリーを制作販売。ジョイスの娘。 容貌は父親トニーから。ローリーと女同士の恋人に。 「ジョイス」こと、 「美しき完璧な母親」ナンシーの母親。美女ではない。 59歳でなくなった亡夫はハンサムなトニー(ジミー・ジョイス)。 ネイサンのプロポーズを笑って受け止める分別の女。 ネイサンとは性格が正反対。ブルックリン訛り。 「サム」こと、 ナンシーの息子。三歳。しゃべれない。あたりまえ。 「ジム、ジミー」こと、 ジェームズ・ジョイス。 サイレント映画の時代は終わったのに、仕事は映画の音づくり。 「マリーナ」こと、 マリーナ・ルイーサ・サンチェス・ゴンザレス。 コズミック・ダイナーのウエイトレス。ネイサンの憧れの人。 ネックレスをプレゼントして、ネイサン、彼女の夫とのゴタゴタ。 「オーロラ」こと、 オーロラ・ウッド・マイナー。ネイサンはローリーと呼ぶ。 ネイサンの妹ジューンの娘、すなわち姪。甥トムの妹。ルーシーの母親。 左の肩に大きな鷲(ワシ)の刺青。ポルノ雑誌やポルノ映画で金を稼ぐ。 狂信者の夫マイナーと住んでいたノースキャロライナからネイサンが救い出す。 ナンシーの下でアクセサリー作りで働く。似た者同士で、ナンシーと恋人に。 「ルーシー」こと、 物言わぬ、九歳半の女の子。オーロラの娘。トムの姪。 父親はビリー・フィンチかグレッグのどっちか不明。 養父は、マイナー。 「デイヴィッド・マイナー」こと、 デイヴィッド・ウィルコックス・マイナー。 オーロラの元夫。元ヒッピーから更生。正し過ぎる狂信者。 オーロラとは離婚命令書で離婚。 《追伸》 <人間の愚行を賢く観察した物語> 著者ポール・オースターは、 ブルックリンに住む男と女の愚行(フォリーズ)の数々を賢く観察し、 ひとつの物語としてまとめています。 ブルックリンに限らず、世界中の人たちも似たり寄ったりの愚行。 老いも若きも、白人も黒人も、大人も子どもも、親も子も、犬も猫も、レズもゲイも、 心の赴くままに、自由に、とらわれず、結婚などの古い因習からのがれ、 何かの因果だけを頼りに、寄り添うように支え合うように集まって、 過去の人生を忘れてしまったかのようなふりをして、傷口には決して触れないで、 みんなが身の丈でそっと優しく新しい生活を生きている。 そんな街みたいですね、ブルックリンは。 それにしても、人間って、なんて愚かなのでしょう。 永遠の愛を誓ったというのに、 たった三十三年でそれぞれ反対方向に歩き去るなんて。憎しみを残したままで。 離婚をするくらいなら、初めから結婚しない方がいいのでは、とも思いました。 愚かながらも優しくなれるし、不思議な心のひろさも身につけることもできるけれど、 愚かな行動を何度も何度も繰り返しながらも、何も学ばないというバカみたいな人生。 賢い人たちの犯す愚かな行動や過ちは、もっとたちが悪い、危険でもある。 戦争をなくすための戦い。 本書の主人公のネイサンの元妻のイーディスなど、 「序」では「イーディス」(8頁)と名前が明記されているものの、 最後の方では「(名前削除)」(408頁)とされている。あわれ。 ブルックリンに住む人たちは、寛大な心の持ち主が多いみたい。 古本屋のゲイのオヤジの「ハリー」も、そんな人間のひとり。 「辛口の科白(せりふ)を連発」(42頁)するものの、 「途方もない矛盾を平然と抱え込」む、仏のような度量を身につけています。 ネイサン自身が 「すごく女に惹かれるから、女が女に惹かれるのも納得できるんだと思う」(432頁) などと、新しい生活を始めたジョイスに言う。 「あんたって豚よ、ネイサン。そういうのに興奮するのね」(432頁) とネイサンはジョイスから言われる。 そう言いながらも、ジョイス自身が、 自分の娘とネイサンの姪とのレズ関係を何とか受け入れて抱え込む努力をしています。 豚のネイサンの年の功かも。 ジョイスもジョイスで、ネイサンからプロポーズされても、 結婚というかたちにとらわれない自由な心で生活したいとネイサンに答えます。 これも年の功というか、<今の時代の愛のかたち>への知恵なのでしょう。 新型コロナの時代が始まり、 これまでの旧来の形にこだわっていては生きていけない時代となりました。 ブルックリンだけではなく、世界中が新型コロナで変わろうとしています。 《追追伸》 文庫化に当たっては、せめてタイトルくらい意訳して変えて欲しかったです。 例えば、ですけれど、 <ブルックリンに住む人々の愚行(フォリーズ)の数々、おばか人生大全集>とか、 <忘れてしまいたい、恥ずかしい、アホで間抜けな過去の失敗の詳細記録>とか、 <あまりにもバカバカしくて、全文削除したくなる愚行暴露の書>とか…… 面白すぎて、幸せになって笑っちゃう喜劇です。 お馬鹿すぎて、泣いちゃう悲劇でもあります。 | ||||
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気になるほどの使用感もなく、きれいな状態で届きました。 | ||||
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まだ読み切ってないですが、雰囲気があり、よさげです。 続きが楽しみであります。 | ||||
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散々色々な人物が登場し、悲喜こもごも人生のあらゆるシーンが描かれていますが、最後の最後人類でも最大級の愚行が行われ、たった数ページでそれらミクロ(私達)の人生なんて、マクロな出来事の前では足し算にも引き算にもなっていないんだ、個人の空間認識や時間軸は資本主義や国家という実態のない存在にいともたやすく変動させられてしまう。そんな世界のありのままの真実が描かれていた気もします。 とはいえ、話しの大半はオースターの全作品の中でも、かなり上位の明るい部類に入る方で(幻影の書やリヴァイアサンは暗い方、ガラスの街や写字室の旅は答えがどっかにぶん投げられる系。全部好きなんですが)どっちかと言うと映画化されたスモーク、ブルーインザフェイスに近い世界観です。 登場人物の大半はにくめないというか愛らしい人ばかりでオースター初心者の方にも勧めやすい作品だと思います。ネイサンがジャックレモン、トムがまんまトムハンクスとかで映画になってたら観てみたかったな、なんて妄想してしまいますね。 | ||||
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久しぶりにポール・オースターを読みました。大好きな映画の1つ、「スモーク」の舞台でもあったニューヨークのブルックリン。結論としては、面白かったです。しかし、人間関係が複雑で、誰と誰が兄弟で、誰が誰の奥さんで、といったあたりが、なかなか覚えられず、また、ストーリーも幾つかの話が並行して走る複雑なストーリーなので、前半は読むのが結構辛かったです。柴田氏の翻訳も、本作に関しては読み易いとは言えないと思います。 それでも読み進めるうちに登場人物達の次の展開が楽しみになり、ルーシーが出てきて、「ホテル・イグジステンス」に泊まったあたりから本格的に面白くなりました。そのため、前半は少し我慢が必要ですね。最後のオチは、ハッピーエンドとバッドエンドのミックス。全く予想していなかったオチで、不意打ちでした。 | ||||
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タイトルからして、ブルックリンの都会の粋な物語と思いきや、様々な場所での様々な人種と人間が織りなす愚行の詰合せ物語である。主役は、人生が半分以上終わりを迎え、心臓ガンを患い、生死を彷徨い、何とか生き延びたナット伯父さんだ。人生をある意味達観した彼は、日々日常に起こりうる様々な愚行を"ブラックユーモア風の珍事"として書き留めることを思いつく。 楽天的かつ悲壮的な愚行が日常生活の中にぎっしりと奥深く折り重なう。人生とは冒険であり、様々な要素が複雑に偶然に絡み合った奇妙で不可解なドラマである。残酷で不条理な現実に生きるも、そんな現実に背を向け、夢を妄想を追うも、人の勝手である。そのギャップで揺れ動く微妙な心理と駆け引きが、人生に深い闇と奥行きを生み出す。 勝ち組であろうが、英雄であろうが著名人であろうが、その華々しい人生でさえ、いつかはケチをつけられ、歪められ、事実すら省かれ、最後には消滅する。人間は忘れる生き物。だから、長年の積もり積もった不安と疲労と苛立ち、それに何時までも払拭できない失望と後悔に、何とか耐えられる。忘れる事で生き延びれるのだ。 人生とは失うもの。失ったものを埋め合わせする為に、周囲で起こりうる様々な愚行を取り入れる必要がある。人間は生きてるうちに、いろんな愚行を繰り返す。愚行という何気ないイベントが、深く暗い人生の闇の中に光を灯し、単調で色味のない筈の人生に、多才な色どりを醸し出し、神秘なる奥行きを与えてくれる。 この作品でのメインステージは、勿論ブルックリンだが、舞台は全米中に散らばってる。様々なステージで、そこに棲み着く様々な人種と人間の、それに見合った愚行が用意されてる。まるで、WRCのチャンピオンズモードみたいで、癖のあるステージごとに癖のある登場人物がいて、奇想天外な落とし穴とドロ臭い物語が待ってる。 ポール・オースター氏の引き出しの多さと深さには全く感服する。それが、プロットの多彩さと奥行きにつながり、長編モノでも全く読者を飽きさせないし、間延びさせる事もない。観察力と洞察力が高い次元で融合してる事の証だ。 笑えそうで笑えないこの愚行記は、人生を愉快に生きる上で、最高の贅沢になりうる。金がなくても、愚行という贅沢は可能なのだ。歳を食っても、愉快で爽快な充実した人生は送れる。肉体も精神も性欲も年齢とともに衰えるが、好奇心や知識欲は衰えを知らないどころか、益々増幅する。人は誰でも、何か変わった事が、面白い事がないかなって、無意識に妄想する。だから、何かが起こりうる可能性が充填してる都会が大好きなのだ。 一見、笑って済ませるようなありふれた愚行が、人生の大きな転機になるのを、ビッグチャンスに化けるのを、大衆は期待し、夢を見る。そんな夢を見てる間は、誰でも幸せになれる。夢が冷めても、過ぎ去った愚行を語り合う事で、赤の他人同士が見えない何かで結ばれる。コミニュケーションとは、そうあるべきだろう。 しかし、それらのゴマンと繰り返されてきたであろうありとあらゆる様々な場所での様々な人間の愚行は、いつかは忘れ去られ、消滅する。だから、愚行記というものが必要なのだ。著者が言うように、かくも本とは偉大なのである。 | ||||
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「静かに死ねる場所を探して」ブルックリンにたどり着いた主人公ネイサン、文学青年としての明るい将来を捨ててタクシードライバーを経て古書店員になった甥のトム、そしてトムの雇用主であり、詐欺で投獄経験のあるハリー。このいかにもイケていない男たちをめぐる再生の物語。 ただでさえ、オースター作品は読む手を休められないのだけれど、この物語での語り口は、彼にしては軽快で喜劇的なものだから、寝不足と引き換えに二日で読み切った。 堕ちてゆく男たちについては、これまで何度か取り上げられているが、本作での目線はこれまでになく暖かい。まだまだイケるよ、と背中を押しているかのように。実際、ネイサンは確実に成長した。根っこが蝕まれてさえいなければ、誰でも再生できるチャンスがあるんだよ。そう語りけているかのような、人間への、いや、もっと言うと、中高年への応援歌にも読める。 ところで、この物語では伯父ネイサンと甥トムが完全に同士になっている。そこには目上・目下の感覚はなく、互いを尊重しつつ目の前の問題に取り組んでゆく。こういう素敵な関係が日本で書かれるのは簡単でないだろう。 | ||||
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この本を読んで、ポール・オースターのファンになりました。翻訳もとても読みやすいです。柴田元幸さんの翻訳は素晴らしい。 | ||||
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私にとってオイスターを読むことは、一種苦行だった。なぜ、ここまで文章ともどもわかりにくく、屈折しているのか? それでも、なぜか気になって読まずにいられない、そんな作家だったのだが、これは別人ではないかと思えるほど、読みやすい。翻訳の柴田元幸氏によれば、「ゆるい」オイスターによる人間ドラマ。 文学者として挫折した甥のトム、出奔したまま、ポルノ雑誌で肢体をさらすトムの妹のオーロラ。オーロラの娘の物言わぬルーシー。 その他、作者の投影であるネイサンが否応なしに関わりを持つことになる、ブルックリンの人々。 その1人1人の人生を描いても、一冊の本ができただろう。ぶつっと切れて章が終わり、意外な展開となって続くのは、柴田氏の名訳と相まって、読んでいて快感だった。 2011年9月11日の朝8時。ネイサンの、多幸的ともいえる世界を見る目とともに終わる。そこに、「それでも私はリンゴの木を植える」というような、肯定的な姿勢を感じた。それまでにたっぷりと、それぞれの物語を聞かせてもらったから。 だが、しかし。読み終えて、わからないというか、なんともおさまりの悪いものを感じたのも確かだ。 まず、「知的」という言葉が多用されているが、知的であるということは、それほどに重要なことだろうか。たとえば、ネイサンとトムが文学的な会話を交わす場面でも、工具箱を持つ人々が大勢いるダイナーで、という但し書きがつく。その工具箱を持つ人々にも、彼らの人生の物語があるわけで・・・ トムとの友情は甥、叔父の関係を超えたものなのだが、それにしても姪オーロラ、亡き妹ジューンへの愛着、オーロラが兄トムへ寄せる兄弟愛もわからない。これは本作に限らず、海外の小説を読んでいて、よく感じる「?」なのだけれど、これって、親子でも「I love you」といいあう文化のちがいなのかもしれない。 孫が生まれると知って、涙ぐむというのも・・・・。私はネイサンと同世代で、初孫も生まれたばかりなのだが、この箇所を読んで、なんだかしらけてしまった。涙ぐんだことも、ネイサンが執筆中の「愚行の書」に入れてほしい。 ーーと、ここまで書いて気がついた。「知的」の多用も含め、私はオイスターの釣り針に引っかけられたのかもしれない。 | ||||
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複雑な人間模様がスピーディーかつドラマチックに展開するので、簡単な人脈図を作りつつ読まなければ、いきなりルーシーなる9歳半の女の子が現れたり、ゴードン・ドライヤーなる悪人が出てきたりするので、「こいつは誰やったんや?」と分からなくなっちまう。だけど、そこはそれ、ストーリー・テリングの実に巧いオースターと彼の文体を実に小気味よい日本語に翻訳してくれる柴田センセとの名コンビのおかげで読者は最後まで全く飽きることがない。いやいや、残りページ数が徐々に少なくなってゆくのが名残惜しくなる。それほど、ネイサンとのブルックリン・ライフをもっともっと楽しみたくなるのだ。 神の存在を信じないユダヤ人、ネイサン・グラスが語り手であり、一応この物語の主人公だけど、それぞれの小咄が実に面白く、かつ柴田センセの言葉によれば「ゆるく」書かれているのがいい。 「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」シリーズの3冊目だそうだけど、まだまだいける!もう一丁花を咲かせてやろうじゃないかって雰囲気で終わっているのが実にさわやかで、清々しい。 そう、2001年9月11日の朝8時にこの物語は、ハッピー・エンドで終わっている・・・・・・・・・・ | ||||
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「本の力をあなどってはならない」。文末の一文にあるように、この物語は偉大な文学者たちへのオマージュである。そしてその賛辞は偉大とは対極にある「愚かしさ」に注がれる。 主人公は長年、損害生命保険業に携わってきた老齢の男で、肺ガンを患って孤独な余生を送っている。舞台はニューヨーク・ブルックリン。帰巣本能に憑かれたようにこの街に舞い戻ると、男はあるプロジェクトを思い立つ。それは、これまでの生涯における愚行を編んだ『人間の愚行の書』を著すことだった。しかしその時点では自らの生きてきた自省をランダムにメモ書きするという想定であったが、突如、物語は動き出す。金と女と欲望が引き金になって。 作者はこれを著すにあたって、骨格となるエピソードをまず思い立ったのではなかろうか。それはアメリカが誇る文学者エドガー・アラン・ポーとチェコのユダヤ人作家フランツ・カフカがいずれも40歳で亡くなったという事実だ(保険業に携わり、職業別死亡率について半生を費やした主人公の職種の意味がここにある)。 薄命の作家カフカは生涯最後の年に恋をした。相手となるその女性と公園をデートしている最中、人形を無くした少女と出会い、毎日、その子のために人形からの虚構の手紙を贈り続け、悲しみを癒したという。生前、評価されることがなかった点では共通する一方のポーは、死後も不運が重なり、四半世紀の間、墓標に名前が記されることはなかったという。ほかにも文学者の没年が列挙されているが、いずれも40歳以下で、ここが薄命と愚行を分ける分水嶺と見なしているようだ。 愚行の典型が哲学者のヴィトゲンシュタインだ。このエピソードもおもしろい。『論理哲学論考』を書き上げ、功成り名を遂げた知の巨人は、リタイア後の人生をオーストリアで教師として過ごすことになるが、学ぶ姿勢のない子どもへの体罰が過ぎて職を辞することとなる。再び哲学の道に戻り偉大な業績を残すが、教師時代の罪悪感にさいなまれ、かつての教え子に許しを乞うのだが、このあとの展開は本書でご覧いただきたい。生きながらえることには人間的な欲望がつきまとい、人間的であればあるほど「愚かしさ」から免れることはできないのである。 これまでオースターの本を読んできた人にとっては、本書に対して異質な感懐を抱くかもしれない。偶然が謎を呼び、不可抗力に引き寄せられるように転落する人間群像を描くという点ではオースター的なのだが、そこにあるのは暖かな慕情とでもいうべきものだ。その舞台として選ばれたブルックリンは、人間であることの「愚かしさ」を見つめる場所としてまことにふさわしい場所であるが、最後に9.11のあの惨事がエピソード的に触れられているということは、次回作は「ポスト9.11」の物語が用意されているということだろうか。 | ||||
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たとえ行動パターンは奇抜でも、ニューヨーカー(もしくはアメリカ人)も日本人も、その奥深い部分の心持ちは何ら変わらないんだなと、温かいような、ホッとさせられるような気持ちになりました。 細かく章で刻まれてますが、話があちこちへ飛ばず、一本道で追っていけるのでとても読みやすかったし、登場人物達の口調がとても今風で愉快でした。こちらは訳者の力ですね。 | ||||
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死に場所を求めていた、という冒頭は、これまで読んでいたオースター作品の独特の切羽詰まった描写の幕開けのように思えるのですが、実際には穏やかで緩やかな悲喜劇の始まりでした。 自分と他人の小さな愚かさを本に書き進めていく主人公。甥と姪、その子供、近隣住民とその家族など、登場人物が徐々に現れ、その中で自分と彼らの関係を作っていく様子の緩急がとても自然で心地よく読み進めます。 そして夏の終わりのちくちくと肌を刺激するような強い日射しが読んでいるこちらにも幸福感として伝わるようなラストシーン--愚者ばかりの人間たちの中で、それでも人は生きていることで幸福なんだという、それが9.11の直前として描かれることで作品の余韻が非常に大きなものになっています。ちょっとあざとい気もしますが、舌を巻くほどうまいラストシーンだと思います。 読後すぐは、技術的にはうまいながらも作風として平凡に感じられたのですが、時間が経つにつれてだんだんと好きになってきた作品です。オースターの初期作品ファンとしては、昔の作風にも未練はあるのですが、こんなふうなユーモアとペーソスあふれる人間喜劇を描くこともできる作家になったというのを評価したいです。 | ||||
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なぜか好きなポ−ル・オースター。読んだ作品はどちらかと言うと暗め。今回もそのつもりで読み始めたら、大違い。アマゾンで買ってよかった!どこかの書店で買って、帰りの電車で読み始めたら大変な事になっていたと思う。笑いが尾を引いて大変だった!!!果たして笑いを我慢できたかどうか・・・。とはいえ、オースターらしさは全開!いつもと違うのは、所々にちりばめられた、笑いの要素。オースターの作品をページターナーと評すると異論があるかもしれないけれど、個人的には『ブルックリン・フォリーズ』はそんな作品。 | ||||
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仕事を辞め、妻と別れ、死に場所を求めてブルックリンに越してきた初老の男ネイサン。 将来を嘱望された文学青年でありながら、論文に挫折し、一時はタクシードライバーに成り下がってしまった甥のトム。 誰とも疎遠になっていた2人は偶然にもブルックリンの古書店で奇跡の再会を果たした。 そこにバイで詐欺師でトムの雇主にして古書店の店主であるハリーを合わせた3人の小さな共同体生活が始まるのであった。 前半は結婚生活、家庭問題、死別や挫折など3人の悲劇的な独白で占められているものの、それぞれどこか前を向いた所があり、 ポール・オースターのウィットに富んだ文のおかげで、テンポよく興味を刺激されながら読み進めることが出来ました。 特に中盤以降、ルーシーが登場してからは暇さえ有れば読みふけるほどハマり込みました。 この笑顔がステキで頭のいい少女がなぜ、あえて喋ろうとしないのか。彼らの元に突然現れたのか。 解き明かされていくと同時に、変化していくネイサン達の心情に思わず感情移入してしまいました。 悲劇を抱えた(抱えることになる)人物の多い物語ですが、それでも読み終わった後には喜劇と思えたり、どこかしら光がさしている。 読んだあと温かくなれた作品でした。 | ||||
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ブルックリンを舞台に主人公ネイサンとその周辺の人間の再生の物語です。わかる人にはオースター自身が関わった映画「スモーク」、「ブルー・イン・ザ・フェイス(こちらはようやくDVD/BDで出ましたね)」を彷彿とさせる世界と言えば分りやすいかな。後半になるにつれよりメッセージも直接的になり、オースターの作品中最も「わかりやすい作品」だとも確かに言えます。読んでいる間は主人公の話す(書いた)物語の世界にじっくりと浸るといいと思います。ただ読み終わって本を閉じた後もう一度思い返してみると、主人公が世界に絶望していた甥・トムについてどう語っていたか、主人公が書いていたのは「愚行の書」。ということは、、、等、考えれば考えるほどこの本が単純ではないと思えてきました。皆さんも読み終わった後に自分なりにこの本の感想を考えてみてください。 | ||||
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朝日新聞の朝刊で、もはや何の噺だったのかも分からず意味不明の学校ネタと自動車ネタを小林秀雄の晩年の講演会の如く垂れ流している奥田英朗、伊坂幸太郎。そして吹けば飛ぶよなこんにゃく文体で下らないヨタ噺を書き飛ばして原稿料を略取している重松清に失望落胆かつあきれ果てたら、この1冊を手にとってみよう。 オースターは毎年1冊のペースで力作を出し続けているようだが、これは2005年の作品でニューヨークのブルックリン界隈に棲息する市井の人々のいかにもありそうで、しかし絶対にない話を抜群のストーリーテリング術を駆使、するのみならず、舌なめずりして楽しみながら書いている! から空恐ろしい。 「私は静かに死ねる場所を探していた」 という出だしからして読む者をじゅうぶんに惹きつけるが、続く数ページでもはや読者は完璧に著者が繰り出すものがたりの蜘蛛の糸の虜になってしまうに違いない。 んなわけであるからしてあらすじ等については触れないが、晩年のカフカが公園で出会った人形を無くして悲しんでいる少女のために、なんと3週間続けて渾身の力を振るって人形からの手紙を書き続けた、という感動的な逸話ははたして本当なのかしらん。 そんな手紙は少なくとも私が読んだ2種類の全集には収められてはいなかったが、これもオースターの「天才的な」作り話だったりして。 ともあれ小説家のプロの仕事の最良の見本が、ここにある。 | ||||
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9.11以降、右傾化するアメリカの中にあって、一時期は「ニューヨーク市独立論」さえ真剣に考える論評を書くに至ったオースターが、他の作品とは一味違う、まっすぐなアンチブッシュを打ち出した愛と決意の物語。ある場所のある時間の中にしか書けなかった唯一無二の物語にあふれる人間賛歌には、あの歴史的瞬間に向かっているNYの、真に人間らしい「そこに生きる人々」のレクイエムの気持ちが込められている。フランスっぽいオースターやマンハッタンっぽいオースター、アナザー・ワールドっぽいオースターがあるとすれば、これは下町オースター。こういうオースターにはめったに出会えないからこそ、何年も待っていた待望の翻訳に拍手です。 | ||||
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