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ムーン・パレス
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ムーン・パレスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全104件 41~60 3/6ページ
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2年程前に一度読んだけれど、ふとまた読みたくなって再読しました。 オースターの作品は、少なくとも2回以上読むのが良い、と思う。(1回でも十分楽しめるけれど) 1回目はどうしてもストーリーに気持ちがいってしまい、「このくだり長いなぁ」とかいろいろ思うのですが、 2回目は文章そのものを本当の意味で楽しめました。柴田さんの訳は本当に読みやすい。 とくにオースターとの相性が良いのだと思います。 オースター作品の登場人物の中で、とりわけ私はこのマーコ・フォッグが大好きです。 いつも寂しくて孤独で、純粋で愚かで、そして青くて。読み手はいつの間にか自分を重ねてしまう。 そんな寂しさを隠して、他人には饒舌で陽気な振る舞いをするマーコ。 「月」は、ある意味「孤独」を象徴している。他の登場人物たちも皆、孤独を抱えているのがわかる。 でも孤独とは生きている証みたいなものだ。 最後のシーンで、夜空に月が上り、闇のなかにみずからの場を見出す姿が描かれる。 「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である。」 P172、401 夜になると太陽は沈んでしまうが、地球の裏側で月を照らしてくれている。過去が未来を照らすのだ。 闇の中の孤独は、「自分」という未来の光でもあるのだ。 多くのものを失った過去(太陽)は、今(地球)に隠れて、未来(月)を照らす。 「ムーンパレス」はそんな希望の物語であり、はじまりの物語だ。 | ||||
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大学生の主人公はある日唯一の肉親である叔父を亡くす。母子家庭に育つも10歳のときに母親を失った彼にとって、叔父は自分のアイデンティティの要をなす人物であった。心身ともにぼろぼろになった主人公は死の淵まで追いやられるが、友人や恋人の助けを借りながら次第に立ち直っていく。そんななか見た求人広告に応募すると、不思議な仕事が彼を待っていた。その仕事の内容は車椅子の老人の話し相手になるというものだった。 著者の多くの小説には自伝的要素が多少なりともはいっているが、主人公が著者と同じコロンビア大学の学生という設定だけあって(題名の『ムーン・パレス』も大学近くにある実在の中華料理店の名前らしい)、本書はその要素が比較的濃いように感じられた。くわえて他のオースター作品と同様、父の不在やあてもない旅といった設定はこの物語のなかでも重要なファクターとなっている。 著者初期作品に見られるハードボイルド小説の影響は、本作でも、主人公が暴力的な運命に巻き込まれ抗うことができないという不条理さに現れている。少し異なるのは、彼の他作品における旅が往々にして無目的かつ無軌道でなんら実りをもたらさないのに対して、本作では旅が自らのルーツを見つけるのに一役買うこと。その経験は主人公に必ずしも良い結果を生むわけでもないけれど、「旅」という非日常的なプロセスを経ることで課せられた試練をひたすら“耐える”という点は、青春小説の定型を踏襲していると言えるだろう。 ただ、試練を“くぐり抜ける”とは言いづらいのは、主人公がそれをきっかけにポジティブな変化を受けたとは断言できないうえ、最後まで試練の終わりが明示されないからだ。そのようなわかりやすい成長物語はもう説得力を持ちえないことを、筆者も了解しているのかもしれない。 | ||||
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君も通った私も行ったあのコロンビア大学の近所にあった中華料理店「ムーン・パレス」のオーナー一家の細腕商売繁盛記!っていうのはこれまた冗談で、実際のところ、この「ムーン・パレス」は前半にちょこっと出てくる程度、むしろ1969年7月にアームストロング船長が月面を闊歩した!、ゴルフのスイングを楽しんだ!という歴史的事実の方がこの作品には重要、年代的に重要・・・・・・・ 僕(マーゴ・フォッグ)の青春物語・・・・・といいたいところだけど、むしろトマス・エフィングことジュリアン・バーバーの青春血風録でもあるし、彼の息子ソロモンの青春風土記でもあるし、僕の元カノ・キティ・ウーのダンス武者修行でもある・・・・・・・・ 最後の方で、自分の実の父親!っていうのがマーゴには分かるようだけど、実はこれって、もう少し前の方でネタばらししてるじゃん!って、突っ込みたくもなる。 でも、オースターのストーリー・テリングの巧さは相変わらずで、この人の書いたもの、さらには柴田センセの翻訳したものは、決して速読じゃなく、じっくりと、読むことにしたい。で、本書もなかなかに面白く、読んでいることによって、至福のときを味わうことの嬉しさ、楽しさ、作者との一体感、登場人物との快い間柄・・・・を楽しむことができる。 | ||||
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原著のペーパーバック版と、日本語訳された新潮文庫判を「同じ書籍」として扱う(kindle版がある、という認識)のはそろそろ改善されてもいい頃ではなかろうか。 | ||||
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ポール・オースターの小説は面白い。本作は89年発表の、言うなれば青春小説。舞台は69年のNYC。本作では三人の男の人生が語られる。トップバッターはマーコ・スタンリー・フォッグ(1946年生まれ)、次にトーマス・エフィング(1883年生まれ)、最後にソロモン・バーバー(1916年生まれ)。 父親不明の私生児として生まれ、9歳のときに母親にも死に別れ伯父に育てられたマーコはコロンビア大学の学生だが、伯父も突然亡くなったためにその葬儀代等で母の残した遺産を使い果たして、困窮してホームレスになるが、友人たちに救われる。そして何とか大学を卒業してバイトをはじめるが、その仕事が謎の大金持ちの老人で身障者のエフィングの身の回りの世話。そして最後にバーバーに出会う、という流れ。三者三様の人生が語られるワケであるが、マーコの寂しいけれど、伯父や友人たち、そして恋人に支えられた青春物語、エフィングの奇想天外な冒険譚、バーバーの誠実極まりない生き方など、相変わらずの与太話(笑)を交えた語り口は読む者を惹きつけて離さない。そして驚きのラスト! 物語の中でマーコが「太陽は過去、地球は現在、月は未来」という中国の占いの言葉に出会うが、この言葉が物語で重要な役割を果たす。この謎めいた言葉を本作に結び付けようとすると、太陽はエフィング、地球はバーバー、そして月はマーコ、となるのであろうか? | ||||
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まだ半分しか読んでいないのですが編集と最終チェックに問題があります。 あちこちに本来使用されているべき単語の代わりにおかしな単語(copy) という単語が挿入されていて全く意味をなしていないセンテンスがあちこちで出てきます。一旦出版社に戻してチェックするべきです。 このようなケースは初めてで正直驚いています。 電子ブックならではのアクシデントとでも言うべきでしょうか。 このような報告はどこに持っていけばいいのでしょう? ちなみに位置NO. 1425, 1474, 1515, 1771, 1772, 1797, 1810 などでその他にもまだまだ沢山。 パターンを見つけようとしたのですがわかりません。 一つだけ推測できたのはright というべき単語が入るべき場所に copy という単語が挿入されているような気がしますが、あくまでも私の推測です。 | ||||
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心の中に気持ちよく孤独と悲しみが流れてくる。 それらの感情はぼくたちを突き刺すのではなく、包み込む。 書き手が優しい心根なのだろう、自分に厳しく読者にやさしい小説だ。 喜怒哀楽の感情がバランスよくまぶされているだ しかし、バランスがよい分、ひとつの感情が突き抜けてこない。 そこが1つ物足りなく感じたところでもあろうか。 | ||||
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急に無性に小説が読みたくなったので、以前から友達が好きだといっているポール・オースターを読もうと思った。本当は原文で読みたかったのだけど、そんなことすると読むのが遅い私は3ヶ月くらいかかってしまうので、日本語訳で読むことにした。ある意味それは正解だったかも知れない。すごく読みやすかったのだ。いつも友達に言われていることは、オースターにはまるのは一人称で書かれているから、まるっきり主人公の視点を通して物語りが進んで行くような錯覚にすら陥るんだそうだ。確かに、映画「ジョン・マルコヴィッチの穴」の穴をくぐるように、ページをめくると主人公と脳みそや五感を共有しているような不思議な感覚にとらわれる。原文を読んでいないのでえらそうなことは言えないのかも知れないが、それでも、作品世界にのめり込める感じがすごく良かった。日本語訳が良いのも1つの理由だと思う。内容については何も書くつもりはないが、物語の荒唐無稽さが蓋然性の低さをある意味凌駕しているような、不思議な統一性が気に入った。また機会があったらオースターを読みたいと思う。 | ||||
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とにかく、この本にはまる人は、孤独を感じている人だと思う。主人公は、孤独な青年で、若くして母親とも死別し、叔父と暮らす日々。父親は、生まれる前から誰かわからない。そうこうしているうちに、同居していた叔父とも死別。どんどん生活が悪化し、ホームレス状態になったところを友人二人に救われる。そこから話が面白くなっていく。 3分の1あたりを過ぎたあたりから、話の内容がアートに染まっていく。美術館を主人公が訪れるシーンで美術の世界にはまった。図書館でオルセー美術館のカタログも借りてきた。美術とは何かを知りたいきっかけになったのが、『ムーン・パレス』。 物語自体は、悲哀に満ちた話で、思わず、「ああ、、、」と言ってしまう。ただ、はまる。 ストーリーで、「the Sun is the past, the earth is the present, the moon is the future(太陽は過去、地球は現在、月は未来)」というのがキーワードになっているのだけれども、果たして何を示していたのか、今も考え中。 出会いと別れ、そして最後は無。こんな感想を読んでみて思った。 | ||||
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ポール・オースターの1989年に発表された小説です。幽霊たち(Ghosts)が1986年で、リバイアサン(Leviathan)が1992年ですから(ついでに鍵のかかった部屋は1986年)、その間に発表されています。 僕は、このムーン・パレスを積ん読にしておいたのですが、一度読み始めると、そのくだらなさ、冗長さに、いやになりながらも惹かれてしまいました。なにしろ、3代にわたる、父に棄てられた、もしくは父親の存在を知らなかった男たちの物語なのです。しかも、それぞれの代の男たちが物語をもち、また、物語を語るのです。 もちろん、語り部のマーコに一番感情が移入されるようにできているのですが、いつの間にか、エフィングという老人の物語に心ひかれ、つぎに、彼の息子であると判明するバーバーの純粋で悲しい人生に惹かれてしまうのです。 とても、面白く、悲しい物語です。 | ||||
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小難しいヌーボー・ロマンのような作品やメタフィクションではなく、リアリズムのオーソドックスに面白い純文学はないかな?と探した結果、ポール・オースター作品の中でも一番レビューも多く評判もいいので読んでみた。まず、単純に面白い。抜群にスリリングで一時も眼が離せないというタイプではないが、著者の奔放な想像と構成がなかなかよくできていて楽しんで読める。ただ、難点をあげれば主人公の観念的で内向的な心理描写が一つ一つのモチーフを深めてはいるが、--(これが本作の魅力でもあるが)--逆にデッサンの完成度としては弱くしてしまっている。奥付を見るとアメリカで発表されたのが1989年とある。著者が本格的な執筆活動に入ったのは1985年あたり。従ってキャリア4〜5年の頃だ。この段階ではまだ作家としての自己表現衝動が練れて処理できるスキルは未習得な時期なので、仕方のない事とも思う。だが、ストーリーそのものはありきたりなエンタテイメント小説よりも遙かに工夫されていて、面白く、決して読んで損はない。〜ポール・オースターは最近の海外の純文学作家としては珍しく日本で文庫化される稀有な存在なので、他にもたくさんの作品が廉価で入手できる。著者の作品は本作とリヴァイアサン (新潮文庫)とシティ・オヴ・グラス (角川文庫)しか読んだ事がないが、初期のメタフィクションスタイルを脱してかなり幅広い作風を確立しているようだ。次は傑作の名高い幻影の書 (新潮文庫)あたりを読んでその変遷を楽しんでみたい。 | ||||
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MSフォッグという男の人生の一時をまるまる切り取った説明文みたいな感じ。 「これからどうしたものか、という僕にとってはおなじみの問題」この苦悶はわかる。何かしたいことがあるわけでもないのに、何かせずにはいられない。でもその何かがどうしても見つからないような、どうにも立ち行かない状況。その感覚が440pの全編にわたって漂っている。だから読む人にとってはどうにも捉えどころのないような話に思うかもしれない。 バイト先の老人が偶然自分と繋がりのある人物で、そこから知りもしなかった自分の父親へと繋がっていく、という設定の部分には、どうしてもご都合主義的な感が否めない。しかしあとがきで訳者も触れていたが、この話のご都合主義的な点を緩和させているのが、物語全体に漂う立ち行かなさ、絶望、救いの無さ、などの要素であると思う。これがあるから物語に深みも出るし、青春小説として成立している。 章の最初にちらっとネタバレするところや、中華料理屋ムーンパレスでのフォーチュンクッキーの文言が後々の伏線になっているところなどを鑑みると、相当綿密にプロットを組んでから書かれたであろうことがわかる。必要以上に長くて冗長な章はなかったし、ダレずに読める。何とも纏まりのない読後感ではあるが、それも含めてオースターの綿密な計算に基づくものであるのかもしれない。 翻訳が読みやすい。良文。 | ||||
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読みやすい文章、軽快なストーリー展開、読者を引き込ませる台詞。この本を読み終えたとき、とてもアメリカ的な小説だなと感じました。親族が死に、人生に何の希望を持たなくなった世捨て人が、すんでの所で偶然により救われる。僕がアメリカ的だと一番感じる箇所はエンターテイメント要素がたくさん盛り込まれているところです。それを具体的に説明するのは難しいんですが、この小説は少年の冒険欲を揺さぶるスパイスを含んでいると感じました。また、主人公がコンプレックスを隠そうと理詰めで自己正当化をする部分など、「わかってるなぁ」と共感する部分もあります。そんなに難しくない、気軽に読めるアメリカ文学の一つだと思います。 | ||||
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偶然この作家に行きつき、★5つの評の多さに誘われて読みました。 表現が悪いのですが、段落が長くだらだらした文体は読み進む意志が挫けそうになりました。しかしNYの描写は懐かしく、また初めての作家でしたので読みとおしました…。 人気の作家のようですが、読み物としては展開がある程度予想されてしまい、文体の問題もあり、私には「深い余韻が胸に残る絶品の青春小説(背表紙の紹介)」ではありませんでした。 | ||||
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村上春樹をはじめとした多くの若き日本の純文学作家がこよなく愛するポール・オースターの小説。 唯一の肉親であった伯父の死をきっかけに世界に絶望してしまう主人公が、 自らを取り戻すまでを不思議な物語とともに淡々と描く。 とはいえ、淡々としながらも小説の中には濃い時間が流れていて、かなり圧倒させられる。 じんわりボディブローのように響く名作です。 | ||||
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込み入っているようで、実は単純な流れが背後あるストーリー。展開はテンポ良く流れて行き、飽きさせない。キャラクターには深みが無いのが詠みやすい理由であるが、それが欠点になっておらず、むしろ引き込ませてゆく。大きく三部構成になっているが、ラストが以外と単純で、少々物足りなさが残った。 | ||||
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「足りないものは、誰かに補ってもらえ、 誰かが足りないものは、自分が与えてあげる」 そういった必然的な美しい宇宙の法則を感じた。 ギリギリを体験した者しか描写できない表現、そして、 「あ、これ翻訳ものだった」と思わせるのも柴田さんのすごいところだ。 公園での生活、盲目の老人の世話、最後の引き合わせまで 息をつくひまもないくらい、どんどん読んだ。 柴田さんにお会いした時、 「この本に中学生くらいで出会えるといいですよね」と言われたことを覚えている。 オースターの中で間違いなく1番好きな小説だ。 | ||||
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This story is about a painful but hopeful life of one penniless American young man who had fateful encounters with an attractive Chinese girl and with a blind and crippled wealthy old man both in New York, then learned from them that what is really important in life is located beyond the area where money can buy. I saw that love, sensitivity and empathy were the some of the examples the author indicated. As the old man once did so when he was young and had a question in life, the young man also traveled to the American West to look for the meaning of his life. Travel brings encounter, encounter produces discovery and it is accumulated as knowledge, which makes a man more far-sighted. This point was what I felt I was taught by this book. | ||||
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本屋さんで冒頭の英文を目にしてほれ込んで購入した一冊。極上の青春小説です。 柴田元幸さんのとても優れた翻訳も出ています。 (「なか見!検索」で冒頭が読めるので、冒頭部分と私の訳を載せます) It was the summer that men first walked on the moon. I was very young back then, but I did not believe there would ever be a future. I wanted to live dangerously, to push myself as far as I could go, and then see what happened to me when I got there. As it turned out, I nearly did not make it. Little by little, I saw my money dwindle to zero; I lost my apartment; I wound up living in the streets. If not for a girl named Kitty Wu, I probably would have starved to death. I had met her by chance only a short time before, but eventually I came to see that chance as a form of readiness, a way of saving myself through the minds of others. That was the first part. From then on, strange things happened to me. I took the job with the old man in the wheelchair. I found out who my father was. I walked across the desert from Utah to California. That was a long time ago, of course, but I remember those days well, I remember them as the beginning of my life. (拙訳)人類が初めて月を歩いた夏のことだった。当時僕はとても若かったけれど、自分に未来があるなんて信じていなかった。僕は危険な生き方をしてみたかった。行けるところまで自分を追い詰めて、それで僕に何が起こるのか見てみたかった。結局、それはほとんど失敗だった。少しずつ、僕の持ち金はゼロに近づいていった。アパートも引き払って、路上生活をすることになった。もし、キティー・ウーという女の子がいなかったら、僕はおそらく餓死してしまっていただろう。キティーには、その少し前に偶然出会っていたのだけど、僕はやがて、その偶然を、心構えの1つのあり方だと見なすようになった。他者の心を通して自分を救うことができるのだ、と。それが、始まりだった。それからというもの、奇妙なことが僕に降りかかるようになった。僕は、車椅子に乗った老人の面倒をみる仕事をした。僕は、僕の父親が誰であるのかを知ることになった。僕は、ユタからカリフォルニアまで砂漠を歩くことになった。もちろん、ずいぶん昔の話だ。でも、僕はその頃のことをよく覚えている。僕の人生の始まりとして。 | ||||
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よく指摘されることだが、いわゆる青春小説。 同じ青春小説といっても「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とは違う。 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が孤独にさいなまれながらも自己否定を続ける少年の物語ならば、 こちらは失っても失っても何かを掴み取っていくそんな青年の成長の話。 師であり唯一の近親でも会った叔父の喪失に始まり、祖父であり親友でもあった老人の喪失、そして最後に行き着いた父親の喪失、 と次々と大切な人々を失う。 しかし、主人公マーコは失い、傷つきながらも少しずつ何かを掴み取っていく。 人生において青春時代はもっとも輝かしいときといわれるが、その期待の半面無残な青春を送った人々も多いと思う。 あるいは毎日の仕事に疲れ果て、自分が何を残してきたのか疑問に思うこともあるかもしれない。 だが、この本はそうして猜疑心と喪失感にさいなまれた人生を送っても、そのなかには何かをつかみ取れる、すべてを失ってもまだ何か残っているという感じを読者に与えてくれる。 他のレビューでも指摘されているとおり、実は荒削りな部分もあり、統一感がない部分もある。一部にはあまり必要ではな異様に思われるエピソードもあるという意味で、もっと純化できる作品ではあったと思う。 しかし、それでもなおこの小説はなんとなく毎日を追いまくられている人々に人生の意義があることを思い出させてくれるはずだ。 | ||||
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