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贋作
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贋作の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全6件 1~6 1/1ページ
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前作では右往左往しながらギリギリの完全犯罪を成し遂げたリプリー、今作ではやや安定感のある(?)犯罪者っぷりを見せています。 他方でやはり途中途中優しくしたり思い止まったり、サイコパスにしては妙に思いやりを見せ、そしていざとなったら至極真面目に始末する、どうにも憎めない不思議な犯罪者像でした。最近の過激でスピーディーな犯罪小説に慣れた私ですが文句なく面白いです。 | ||||
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前作で逃げ切った、リプリーが絵画の贋作の仕事をし・・・というお話。 今回も、この情緒的に問題のある、リプリーが犯罪を繰り返し・・・という展開でした。普通だと、こんなに自分の事ばかり考える利己的な主人公は、シリーズものの主人公になりそうもないですが、そこは才人ハイスミスだけあって、これだけ嫌な人格でも存在感があり、感情移入できる様になっております。 前作でも他人になりすましましたが、本作でもすでに亡くなっている画家に変装したり、その画家が生きている様になりすまして、偽物の絵画を販売したりしますが、前作でも殺した相手になりすましたり、と偽物とは何かを探ることで本物とは何か、を描いている様におもえます。本物とほぼ同じ出来のものは偽物なのか、本物よりもよくできた偽物に価値はないのか、という問題を提起している様にも思えます。 この後もこの主人公のリプリーのシリーズは続きますが、どういう風に話しが転がっていくのかが、予測のつかない感じで期待しております。 特異なキャラクターを主人公にした異色のシリーズの第二作。出来ればシリーズ順に是非。 | ||||
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前作「太陽がいっぱい」で、他人になりすまして完全犯罪を企んだトム・リプリーが、今度は贋作事件に関わっていく。贋作事件というのは、リプリー本人が首謀したような、彼自身のアイデアなのだが。自殺して亡くなった有名画家を生きていることにして、別の画家に贋作を描かせて売るというビジネスをやっていたところに、画を買った男から贋作ではないかという疑惑がかけられて・・・というのが話の大筋。贋作を描く画家は、亡くなった画家を敬愛しており、その画家に精神的に傾倒して、特異な精神状態にある。そしてリプリーが、亡くなった画家になりすまして、生きているかのように振舞う。亡くなった画家と贋作画家、画家になりすましたリプリーの3人のドラマといってもいい葛藤劇が展開される。リプリーも贋作画家の苦悩に、強く共感するような精神状態になり・・・。作者パトリシア・ハイスミスの贋作という行為に対する深い洞察が伺えるような面白い小説です。リプリーは、まさにハイスミスの分身といった感じ。パリ郊外の自宅を主な舞台に、ロンドンの画廊、ギリシャ、ザルツブルグにまで足をのばすリプリーだが、行った先での行動は、実際にハイスミスが(犯罪以外は)やってみたことではないのか?などと思わせる。そういえば過去の作品で、主人公の作家が著作中の登場人物の行動をやってみるうちに、犯罪に手を染めていくというようなのがあったような気がする。モーツァルトの博物館(生家)で揺りかごが置いてあったという場所に、模型でも置いておけばいいのに・・・とリプリー。ハイスミスが思ったことが、そのままリプリーの心の声になっているようである。また夕食やパーティでの同席者へのハイスミスの辛辣な目線などが、リプリーの心の声となって聞こえてくるのが興味深いというか、可笑しい。イタリア人の伯爵に対して「彼は口いっぱいに食べ物をほおばって、なおかつしゃべることができるというヨーロッパ人特有の才能をもっていた。アメリカ人がやれば・・・」などと、いちいち考えたりする。本作の話は、「太陽がいっぱい」から6年後という設定になっているが、執筆され発表されたのは15年後の1970年。当然ながら?作品の完成度も高まっているようで、読み応えがある。贋作にとどまらず、芸術作品に対する考察も興味深い、たいへん面白い犯罪小説です。あと、ザルツブルグの街を歩いたことがある人だと、細かい通りの描写などが楽しめるかもしれない。モーツァルト博物館は、直接ストーリーに絡むわけではないが、ハイスミスにとっては、芸術を考察する上で、重要な舞台設定だったのかな?と思った。もしくは、ザルツブルグに行くこと自体に意味があるのかもしれない。 | ||||
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映画の「太陽がいっぱい」はテレビでも繰り返し放送されていて 有名ですが、これは「トム・リプリーシリーズ」5作の内の一つに過ぎません。 トム・リプリーをアラン・ドロン、デニス・ホッパー、マット・デイモンなど、今までに 映画でトム・リプリーを演した男優を思い浮かべながら読んでいましたが、この「贋作」の トム・リプリーにアラン・ドロンはないな・・・と思いました。 「太陽がいっぱい」では、トムが捕まりそうな余韻を残して終わりましたが 小説では、毎回殺人を犯して、毎度逃げ切っています。限りなく怪しまれながらも。 フランス人の美人妻と結婚して・・・。 完全殺人を目指しても最後に捕まるのが相場ですが、捕まらないのは、それだけ 著者のトムに対する思い入れが強いからでしょうか。 | ||||
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リプリーシリーズは、「太陽がいっぱい」→「アメリカの友人」→「贋作」の順に読んだ。 「贋作」の文庫版が絶版のようだったので、「太陽がいっぱい」の後に第三作「アメリカの友人」を読んだのだが、どうにも第二作を読まずにいられなくなり、古本の「贋作」を読んだ次第。 いまさらだけど、主人公トム・リプリーは嘘つきで悪いやつだ。でも読んでいて、ピカレスクロマン、悪漢小説を読んでいる気にはならない。逆に彼のことを誠実な人だと感じてしまう。正邪の境目がよくわからないというか、ないというか。私の友人が「嘘は突き通せば本当になる」とすごいことを言っていましたが・・・。 「太陽〜」も「アメリカ〜」も読んでからずいぶん経つので細かいことを覚えていないのだけど、トムの相手のことの考え度合いはこの作品が一番強いような気がする。贋作者のバーナードやその元カノ・シンシアに対して。ま、トムは自分勝手にいろんなことを思い巡らせてるだけなんだけど。 こんな相手への思いや美術・音楽・ファッションに関する想いが素直で誠実なだけに、トムが「手を下す」のも小説の読み手はすんなり受けてしまい、嘘つきで悪いやつの話なのになんだか嫌悪感も感じず、どちらかというと憧れを感じてしまうんだな。 | ||||
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『贋作』はコン・ゲーム(詐欺)小説です。死亡した著名な画家ダーワットの贋作に手を染めた一味とその関係者が織り成す物語です。コン・ゲーム小説としての本書の醍醐味は、主人公トム・リプリーが二度にわたってダーワットに成りすまし世間を騙し通すシーンでしょう。一度目はロンドンのジャーナリスト相手に。二度目はロンドンの警視庁相手に。 ただ本書は、どうやって騙し通すかというコン・ゲーム小説本来の面白さだけでなく、以下のような哲学的な問いを読者に投げかけます。 もし画家が自分自身の作品よりも贋作のほうを多く描いたとしたら、 その画家にとっては贋作が自作よりもずっと自然な、ずっとリアル な、ずっとほんとうのものになるのではなかろうか?贋作を描こう とする努力が最後には努力の域を脱し、その作品が第二の本性にな るのではないだろうか? (29ページ) これはトム・リプリーの独白です。なぜ彼はこんなことを考えるのでしょうか?画家バーナードの贋作が、芸術(=虚実を超えて価値あるもの)と信じているからです。しかしバーナード自身は、トムの発案で、敬愛するダーワットの贋作に手を染めてはみたものの、アイデンティティー(自分らしさ)の喪失とダーワットへの裏切り行為に苦しみます。彼の恋人シンシアにもふられ、意気消沈し、全てはトムのせいだと彼を殺そうとします。他方でバーナードは、贋作を見抜いた美術愛好家のマーチンソンをトムが殺すと、その死体処理を手伝いもします。なんとも奇妙で複雑で歪んだ関係。 トムは妻エロイーズに、「あなたったら、自分を殴ったあんな狂人のことをなぜそんなに心配するの?」と聞かれて、「友情さ」と答えます。(301ページ)トムはバーナードに殴られただけでなく殺されかけた(エロイーズはそのことを知りませんが)のですから、「友情さ」という答えは、半分は妻に真実を悟られないための言い逃れですが、もう半分は本当の気持ちです。トムのバーナードへの友情を理解するためには、トム・リプリー・シリーズの第一作『太陽がいっぱい』に戻る必要があります。 『太陽がいっぱい』でトムは、ディッキー・グリーンリーフにあこがれ、彼の服をこっそり着たりしてともにすごしますが、ディッキーに嫌われ、彼を殺してしまうはめになり、ディッキーとの一体化に失敗します。そんな彼にとって、ダーワットと一体化できず苦しむバーナードは、自分の鏡を見るような存在だったのです(『贋作』でトムはディッキーの形見の指輪をまだはめている!)。 結局、バーナードは自分らしさを取り戻すことができず、オーストリアのザルツブルグで自殺を遂げます。トムはその場面を少し離れた場所から見とどけます。バーナードへの「友情」から、彼を自殺に追い込んだ自分を責めたりもしますが、騙し通すために、自分の身を守るために、バーナードの死体に細工を施すことを怠りません。トムは、どんな状況下でも、徹頭徹尾知能犯であり、コン・マン(詐欺師)なのです。 著者は、本物と偽物、真贋の境界線があやふやになったコピーだらけの世の中で、人はいかなる方法で才能を発揮するのかを、トムやバーナードを通じて描こうとしているのかも知れません。 | ||||
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