贋作
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前作では右往左往しながらギリギリの完全犯罪を成し遂げたリプリー、今作ではやや安定感のある(?)犯罪者っぷりを見せています。 他方でやはり途中途中優しくしたり思い止まったり、サイコパスにしては妙に思いやりを見せ、そしていざとなったら至極真面目に始末する、どうにも憎めない不思議な犯罪者像でした。最近の過激でスピーディーな犯罪小説に慣れた私ですが文句なく面白いです。 | ||||
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前作で逃げ切った、リプリーが絵画の贋作の仕事をし・・・というお話。 今回も、この情緒的に問題のある、リプリーが犯罪を繰り返し・・・という展開でした。普通だと、こんなに自分の事ばかり考える利己的な主人公は、シリーズものの主人公になりそうもないですが、そこは才人ハイスミスだけあって、これだけ嫌な人格でも存在感があり、感情移入できる様になっております。 前作でも他人になりすましましたが、本作でもすでに亡くなっている画家に変装したり、その画家が生きている様になりすまして、偽物の絵画を販売したりしますが、前作でも殺した相手になりすましたり、と偽物とは何かを探ることで本物とは何か、を描いている様におもえます。本物とほぼ同じ出来のものは偽物なのか、本物よりもよくできた偽物に価値はないのか、という問題を提起している様にも思えます。 この後もこの主人公のリプリーのシリーズは続きますが、どういう風に話しが転がっていくのかが、予測のつかない感じで期待しております。 特異なキャラクターを主人公にした異色のシリーズの第二作。出来ればシリーズ順に是非。 | ||||
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前作「太陽がいっぱい」で、他人になりすまして完全犯罪を企んだトム・リプリーが、今度は贋作事件に関わっていく。贋作事件というのは、リプリー本人が首謀したような、彼自身のアイデアなのだが。自殺して亡くなった有名画家を生きていることにして、別の画家に贋作を描かせて売るというビジネスをやっていたところに、画を買った男から贋作ではないかという疑惑がかけられて・・・というのが話の大筋。贋作を描く画家は、亡くなった画家を敬愛しており、その画家に精神的に傾倒して、特異な精神状態にある。そしてリプリーが、亡くなった画家になりすまして、生きているかのように振舞う。亡くなった画家と贋作画家、画家になりすましたリプリーの3人のドラマといってもいい葛藤劇が展開される。リプリーも贋作画家の苦悩に、強く共感するような精神状態になり・・・。作者パトリシア・ハイスミスの贋作という行為に対する深い洞察が伺えるような面白い小説です。リプリーは、まさにハイスミスの分身といった感じ。パリ郊外の自宅を主な舞台に、ロンドンの画廊、ギリシャ、ザルツブルグにまで足をのばすリプリーだが、行った先での行動は、実際にハイスミスが(犯罪以外は)やってみたことではないのか?などと思わせる。そういえば過去の作品で、主人公の作家が著作中の登場人物の行動をやってみるうちに、犯罪に手を染めていくというようなのがあったような気がする。モーツァルトの博物館(生家)で揺りかごが置いてあったという場所に、模型でも置いておけばいいのに・・・とリプリー。ハイスミスが思ったことが、そのままリプリーの心の声になっているようである。また夕食やパーティでの同席者へのハイスミスの辛辣な目線などが、リプリーの心の声となって聞こえてくるのが興味深いというか、可笑しい。イタリア人の伯爵に対して「彼は口いっぱいに食べ物をほおばって、なおかつしゃべることができるというヨーロッパ人特有の才能をもっていた。アメリカ人がやれば・・・」などと、いちいち考えたりする。本作の話は、「太陽がいっぱい」から6年後という設定になっているが、執筆され発表されたのは15年後の1970年。当然ながら?作品の完成度も高まっているようで、読み応えがある。贋作にとどまらず、芸術作品に対する考察も興味深い、たいへん面白い犯罪小説です。あと、ザルツブルグの街を歩いたことがある人だと、細かい通りの描写などが楽しめるかもしれない。モーツァルト博物館は、直接ストーリーに絡むわけではないが、ハイスミスにとっては、芸術を考察する上で、重要な舞台設定だったのかな?と思った。もしくは、ザルツブルグに行くこと自体に意味があるのかもしれない。 | ||||
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映画の「太陽がいっぱい」はテレビでも繰り返し放送されていて 有名ですが、これは「トム・リプリーシリーズ」5作の内の一つに過ぎません。 トム・リプリーをアラン・ドロン、デニス・ホッパー、マット・デイモンなど、今までに 映画でトム・リプリーを演した男優を思い浮かべながら読んでいましたが、この「贋作」の トム・リプリーにアラン・ドロンはないな・・・と思いました。 「太陽がいっぱい」では、トムが捕まりそうな余韻を残して終わりましたが 小説では、毎回殺人を犯して、毎度逃げ切っています。限りなく怪しまれながらも。 フランス人の美人妻と結婚して・・・。 完全殺人を目指しても最後に捕まるのが相場ですが、捕まらないのは、それだけ 著者のトムに対する思い入れが強いからでしょうか。 | ||||
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リプリーシリーズは、「太陽がいっぱい」→「アメリカの友人」→「贋作」の順に読んだ。 「贋作」の文庫版が絶版のようだったので、「太陽がいっぱい」の後に第三作「アメリカの友人」を読んだのだが、どうにも第二作を読まずにいられなくなり、古本の「贋作」を読んだ次第。 いまさらだけど、主人公トム・リプリーは嘘つきで悪いやつだ。でも読んでいて、ピカレスクロマン、悪漢小説を読んでいる気にはならない。逆に彼のことを誠実な人だと感じてしまう。正邪の境目がよくわからないというか、ないというか。私の友人が「嘘は突き通せば本当になる」とすごいことを言っていましたが・・・。 「太陽〜」も「アメリカ〜」も読んでからずいぶん経つので細かいことを覚えていないのだけど、トムの相手のことの考え度合いはこの作品が一番強いような気がする。贋作者のバーナードやその元カノ・シンシアに対して。ま、トムは自分勝手にいろんなことを思い巡らせてるだけなんだけど。 こんな相手への思いや美術・音楽・ファッションに関する想いが素直で誠実なだけに、トムが「手を下す」のも小説の読み手はすんなり受けてしまい、嘘つきで悪いやつの話なのになんだか嫌悪感も感じず、どちらかというと憧れを感じてしまうんだな。 | ||||
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