■スポンサードリンク
レベッカ
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
レベッカの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全67件 21~40 2/4ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
旧訳は風景描写の美しさでは勝るような気がしますが、せんべい、紅棒、せっぷん など時代を感じさせる語句が気になります(それぞれ新訳ではクランペット、口紅、キス)。 旧訳は主人公の貞淑、きまじめを、新訳は率直、無邪気を意識させます。全体にサスペンス性と文学性の旧訳、ロマンスと物語性の新訳という感じでしょうか。私は主人公の気取りのなさから生まれる小さなユーモアを丁寧にすくい取った新訳をとても楽しく読みました。 (旧訳)マキシムはロンドンへ行っているのだ。ひとりきりになれて、なんという楽しさだ。いや、わたしは、そんなつもりではない。そんなことを思うのは不誠実で、邪悪なことだ。わたしは、決して、そんなことを思ったのではない。 (新訳)マキシムはロンドンだもの。こうしてひとりでいるのは本当に楽しい。あ。いまのはうそ。こんなことを考えてはだめだ。裏切るみたいでいけないことだ。そんなつもりで言ったのではない。 (旧訳)わたしたちは、暗く茂った車道から、また明るい日向へ出た。しゃくなげの草むらが、頭上におおいかぶさっていた。花の季節は、まもなく過ぎてしまうだろう。早くも花の色は、盛りを過ぎて、いくらか色あせていた。来月にでもなったら、花弁は、一つずつ散り落ちてしまうだろう。すると園丁がやってきて、それを掃くだろう・・・。しゃくなげの美はつかの間の美だ。いつまでもつづく美ではない。 (新訳)鬱蒼とした私道を抜けて、再び明るい場所に足を踏み入れると、ツツジが出迎えてくれたが、花の盛りはもう過ぎようとしていた。満開をとおり越して、色が抜けはじめている。来月になれば派手な顔から一枚一枚花びらが落ち、庭師が箒で片づけるだろう。その美しさは移ろいやすく、長つづきするものではない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マンダレーの美しさと豪華さ、前妻レベッカの影に不安を募らせるわたし、家政婦頭の怖さ、どれも見事にストーリーが展開されていきます。 マキシムが秘密を告白してから、わたしが大人へと変化していく、マキシムを守ろうと決意していく。ハラハラドキドキでとても面白い名作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻は、上巻ほど読みやすさは感じませんでした。やはり「鳥」などの短編を味わってから挑戦した方が良いです。主人公の女性は親しみやすく感情移入しやすいです。ヒッチコックのDVDではジョーン・フォンティンが好演、犬のジャスパーも登場し、原作の幻想的な雰囲気を忠実に再現しています。原書はまだ積読ですが、ぜひ挑戦したいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マンダレイの自然描写がとても美しく魅力的です。原作は定評ある名作。デュ・モーリアの長編は初めてですが、古い翻訳とはいえ実に読みやすかった。HARPER社の原書も購入済みなので、誤訳とかもあえて気にせず楽しく読んでます。原書を入り手する予定なら翻訳本は一種類で良いでしょう。ヒッチコックのDVDも少しだけ観ましたが良さそう。デュ・モーリアとは好みも感性も合いそうです。下巻も楽しみです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上下巻ものの上巻、デュ・モーリア原作、黄金期のアメリカ ハリウッドでサスペンス名監督のヒッチコック氏により名優のローレンス オリビエと名女優のジョーン フォンティン共演で映画化もされ、その実に濃厚で奥が深く予想だに出来なかったストーリー展開で大ヒットをしました、早くに両親を亡くし未成熟なまま大人となった年若い女性、誰からも使用人のひとりとして見下された目でしか見られなかった私におよそ20歳近くも年上の裕福で素敵な男性のマックス・デ・ウィンターから突然に結婚を申し込まれる、それはロマンスとは程遠いものであったが、これで幸せになれる、だが、夢見た幸せの前に絶世の美女といわれた彼の亡妻のレベッカの黒い影が重くのしかかるのだった!、読み応えのある名作に仕上がっていました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上下巻セットの下巻、デュ・モーリア原作、黄金期のアメリカ ハリウッドでサスペンス映画名監督のヒッチコック氏により名優のローレンス オリビエと名女優のジョーン フォンティン共演で映画化もされ、その実に濃厚で奥が深く予想だに出来なかったストーリー展開で大ヒットをしました、早くに両親を亡くし未成熟なまま大人となった年若い女性、誰からも使用人のひとりとして見下された目でしか見られなかった私におよそ20歳近くも年上の裕福で素敵な男性のマックス・デ・ウィンターから突然に結婚を申し込まれる、それはロマンスとは程遠いものであったがこれで幸せになれる、だが夢見た幸せの前に絶世の美女といわれた彼の亡妻のレベッカの黒い影が重くのしかかるのだった!、読み応えのある名作に仕上がっていました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
非常に面白く、迫力ある小説。解釈がいろいろ出来るので読書会に最適。 古い映画をDVDカしたものもある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新品同様のきれいな本が中古の安い値段で入手できた。到着も早い。新しい版なので活字が大きくて読みやすい。ゴシックロマンとして。心理小説として非常に面白い本。女性に人気が高い。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上下巻一緒の販売で買いやすかったし 値段も手頃できれいな状態だったので満足しています | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『レベッカ』(ダフネ・デュ・モーリア著、大久保康雄訳、新潮文庫、上・下巻。出版元品切れだが、amazonで入手可能)は、原作も映画もともに素晴らしいという誠に珍しい作品である。 名家に後妻として入った「わたし」を強く悩ませたのは、今は亡き才色兼備の先妻の影であったが、やがて、思いもかけぬ真相を覆っていたペールが剥がされていく。 この作品には、サスペンスのみならず、ロマンの香気も立ち込めている。 なお、翻訳に関してだが、同じ新潮文庫の新訳よりも、この大久保訳を薦めたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
急転直下の徹夜本。再読で、ラストまでの展開を熟知しているにもかかわらず、ページを繰る手が止まらないこの下の巻。最後まで一息に読 んで、そうして上巻巻頭に戻りたくなるだろう。 このたびは小道具もいろいろ楽しんだ。下巻最大のトピック、カロライン・デ・ウィンターの肖像はレーバーンの絵だそうだ。そうでもあろう。美し かろう。そしてセーラー姿のレベッカはボッティチェリの天使のような顔をした男の子のように見えるとか。さもあろう。美しいことだ。(レベッカ の行状はここまでしなくてもドラマとして成り立ったのでは、とも思うのだが・・・‥。) フランクのマキシムへの献身、愛、ひいては「わたし」への友情にひどく心打たれた。これはデンヴァース夫人のレベッカへの献身と対をなす。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作者ダフネ・デュ=モーリア(1907〜1989)。美しい人である。きわめて上質のサスペンス。ミステリー・ロマン。 文章にも仕立てにも魅力がある。まずタイトル「レベッカ」。うまいものだ。ただの一度も登場しないレベッカが、あるいは 彼女が支配していたマンダレイこそが主役ということだろう。 女主人公「わたし」ははにかみやの、感じやすい、想像力の豊かな女で、それだからこそ、 彼らがこう言っているのが見えるようだった 彼女はきっとこうしただろう 彼はこう言うに違いない。そして・・・ という、あったかも、あり得たかも、しかしまるであり得なかったかも、のシーンが次々に読者の前に繰り広げられる。そうして 読者は、彼女が「不在」の存在におびえるままにおびえさせられるのだった。 冒頭は「昨夜、わたしはまたマンダレイへ行った夢を見た。」これが作品の「今」であるが、その「今」から子ども時代へと、 マックスと出会う前へと、再び「今」へと思いは自在に行き来する。この書き振りも、思わせぶりが過ぎる、ということはなくて よどみのない、みごとなものだ。車から見たひとりの百姓娘。それを見て過ぎ去った瞬間をふたたびとらえたいと、だが引返して みたところで前と同じ経験をつかまえることはできまい・・・というようなことを考えている「わたし」の人物造型に真実味がある。 小生の生涯初の徹夜本であった。気がつくと窓の外が白くなっていたのだった。数十年ぶりに読み返してみたが、頗る上品で 格調がある。 映画「レベッカ」は必ずしもヒッチコック最良の作ではないが、なかなか(原作と同じ冒頭シーンは撮影トリック含めみごと) 雰囲気がある。デンヴァース夫人もかなり怖いが、やはりいいのは「わたし」のジョーン・フォンテーンでしょう。この人は顔に 「びじん」と書いてあるようかんじの美人女優だが、女主人公のおびえとけなげさをよく表現していました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昔読んで面白かったのは記憶にあったのだが内容をほとんど覚えてなくて再度読んでみました。 とにかく次へ次へ続きを知りたくなり睡眠不足にはなりましたが面白かったです。久しぶりにドキドキしました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
英語版をみてみると、確かに大久保訳では誤訳と思われる箇所があるようです。しかし、大久保訳のほうが「雰囲気」があります。正直なところ、茶菓子のクランペットが「汁の垂れる焼菓子」でも別にいいですと思う私ですが、勿論、そういう細かい部分が大切だという意見もあるとは思います。ただ、今の我々にはやや古めかしいと感じられる言い回し・表現・登場人物の言葉遣い等が、「ある邸宅の物語」、ゴシックロマンとしての雰囲気を醸し出していると思われます。とくに人物の言葉遣いは、年齢・階級差のある主人公夫婦のときに生硬な関係、大家の家政婦たるデンヴァース夫人(ダンヴァースという読みに多少の抵抗感あり)の貫禄などは、新訳では伝わってきません。このあたり、決定的に物語の雰囲気が異なっているように思いますので、誤訳があるからと片付けず、新訳と併せてぜひこの大久保訳も読んでみてもらいたいと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
以前に読んだ時には、話全体に流れる謎めいた雰囲気と やはり、死者にも関わらず、 「わたし」に対して強烈な存在感を発揮するレベッカ、 そして館の中で、カリスマとも言えるような存在だった レベッカとの比較に苦しみ、ダンヴァーズ夫人の敵意と その威圧感に怯える主人公の「わたし」、 ダンヴァーズ夫人の妄執、前半と後半でミステリーからサスペンスへの、 急激な展開の変化などが印象的でした。 しかし数年経ってから読み返してみると、 マンダレーの自然描写や数少ない、当初からの主人公の味方である、 親切だけれど、無神経な所があるビアトリス、控えめだが、終始主人公の 良き理解者であるフランクなど、主人公夫妻やレベッカ達以外の、 脇を固める人物達の個性にも目が行きました。 そして何よりも圧倒されたのは、まるですでにそれ自体が意志を持ち、 あたかも個別の存在として生命を持っているかのような、 マンダレーの存在感とその神秘性でした。 何よりこのマンダレーの存在が、この作品に強い神秘性を与えているのだと思います。 そして、印象的なのは「わたし」と「レベッカ」との関係についてです。 私は当初から、この「わたし」というのは、作者のデュ・モーリア自身の投影 ではないのか?という印象を受けてきました。聞く所によると、 デュ・モーリアは芸術家一家の境遇、そして写真からも伺えるその美貌などにも関わらず、 あまり社交を好まず、自然の中で過ごす方を好むような性格だったとか。 こういった作者の人柄も、どこか主人公の「わたし」と重なります。 そして本作中で、その強い存在感を発揮しているレベッカとは、 作者の理想としていた姿だったのではないのかな?と。 物怖じせず、マンダレーの華やかな女主人として君臨し 、客へのもてなしも見事にそつなくこなすレベッカ。 やはり、様々な要素が混在している小説だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
外国小説は翻訳によって作品自体が損なわれることを 今回まざまざと感じました 新訳のは買ってみて・・・お金をどぶに捨てたような気がします 残念 女性ならではの視点からどのように訳されるのか 期待していたのに はすっぱで拙い文章にあきれてしまいました 今の若い女性を意識しすぎたのかどうかわかりませんが・・・ この作品のゴシックロマンを十分に味わうには やはり大久保さんの訳でしか味わえないことを レビューとして書きたいと思います ぜひ読み比べてみてください ここまで違うとは・・・と驚かれますよ〜 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この読後感は何なのだろうと、頭がゆらゆらしています。 たぶん、冒頭の夢のシーンから“わたし”の視線に引き込まれ、茫然となってしまったラストまでずっと“わたし”と同化したまま読み切ったからでしょうか。 映画版・ミュージカル版と観てからの原作でしたが(内容にはちょっとした差異もあり驚きました)やはり原作は良いです!! 想像力をガシガシ刺激する文学の力を感じました。 そして、ああ、マンダレー。マンダレーこそがこの作品の主人公だったのだと、よくわかりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本の主人公は、名前が無い。「わたし」です。そして、いないのに存在するように話題になるレベッカ。イギリスの大邸宅マンダレーを切り盛りしていた女主人であった。それは、過去のことで、今は「わたし」が女主人。しかし、レベッカの存在が「わたし」をおびやかす。そして、意外な展開で、最後は、はらはらどきどきの場面展開となる。 読み継がれるだけのおもしろさのある小説だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語の始めに、結末が暗示されていたのだが、実際に読んでみると、ラストで急転直下。やはり、驚かされます。 主人公である「わたし」のある意味、成長物語であるのかもしれません。しかし、物語の本筋は、マキシムと前妻レベッカの闘争のような気がします。 物語中の、マキシムのセリフ―「いまでも結局はレベッカの勝利だったという気がしないでもない」 何もかも終わった後のはずの、物語の冒頭のマキシムの精彩を欠いた姿を見ていると、そんな感じがします。主人公が勝ち取ったはずのマキシムは、抜け殻のようで…。 物語は面白かったし、サスペンスの展開も素晴らしかったと思います。 ただ、古い由緒ある館―マンダレーという道具立ての割には、「ゴシックロマン」な雰囲気があまりしないのは、訳のせいもあるのかもしれません。 他を比べて読んだことが無いので分からないのですが、マキシム達の貴族階級にクラス感を会話では感じられませんでした。(ビアトリスの話し方とか。他の訳も同じかもしれませんが…) そういう意味での演出的効果が、ひょっとして他の訳に比べて足りないのかも知れませんが、話そのものは読みやすかったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
TVのリフォーム番組で、古くて狭いごちゃごちゃした家の中で見た時には普通のおばさんにしか見えなかった主婦が、リフォーム後の家の中で見た時に初めて実は結構美人だったことに気づくことがあるように、家(住環境)が人間を規定するようなところが確かにあると思う。 この物語の中では主人公夫妻の住まう屋敷・マンダレーの姿が微に入り細に入り執拗なほど丁寧に描かれており、それがごく自然に主人公の心象となって読者を物語の中へ導く役割を果たしている。冒頭の朽ちたマンダレーの描写からすでに、読者はかなり鮮明な感覚を伴って「マンダレー」に引き込まれて行く。 マンダレーは亡き前妻レベッカが今の姿にまで築き上げたもので、レベッカの象徴、分身、レベッカそのものとも言える。マンダレーの美しさ、マンダレーの不気味さは、レベッカの美しさ、レベッカの不気味さだ。そんな家の中では、主人公は名前すら持つことができない。 サスペンス的な展開はあらかた想像がついてしまったのだが(どこかで映画のあらすじでも目にしたことがあるからかもしれないが)、それでもなお先へ先へとぐいぐい読み進めさせる推進力を感じる小説だった。 名も無き主人公の思わぬ強さ、レベッカ(マンダレー)の思わぬ弱さも、この物語の見所である。 ただ、原書ではどんな表現だったのかは知らないが、ところどころ中途半端に古い若者言葉?(「サイコーにご機嫌」とか)で訳されている部分があって、思わず奥付の出版年を確かめずにはいられなかった。無理しなくていいのに、と思ってしまった。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!