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トーマの心臓 Lost heart for Thoma
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【この小説が収録されている参考書籍】
トーマの心臓 Lost heart for Thomaの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 1~20 1/2ページ
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先人のアドバイス、というコトバが宙に向けて飛び立ち、消えていきます。 このリライトは、精密に成功したのだと確信しました。 原作は、10代のころ読み、別篇2話も読んで、作品全体に対するイメージは、かなり早い時期に決まっていたと思います。「御手は あまりに 遠い」に愕然としてから、いったいどれだけ過ぎたのでしょうか。 あとは、p.314です。 | ||||
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森先生が好きな萩尾先生が好きな「トーマの心臓」のノベライズ化です。内容?森のオナニーです。これじゃ「トーマの心臓」じゃなくて「森の陰茎」だよ。 | ||||
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最近、森氏のエッセイにはまっていて、まだ作品のほうは読んでいないのだが (なにしろ膨大な量があるので、どこから読んだものか見当がつかなかった・・)、 名作『トーマの心臓』のノベライズである本書を読めば、純粋に小説家としての 技量がわかるのではないかと思い、ためしに手に取ってみた。 感想はというと、読みようによっては素っ気なく感じられるほど抽象度が高い森氏の文体と、 原作の作品世界がなかなかうまく合っているし、一つの解釈としては全然ありだと思うが、 描かれなかった部分への物足りなさも若干残るというところだろうか。 本書による「解釈」の最大の特徴は、原作をオスカーの一人称小説として書き直したところにある。 このため、冒頭部でユーリがトーマの死に懊悩したり、エーリクに対して攻撃的な態度を取るところが すべてオスカーの視点だけから描かれることになり、この部分は確かに成功していると思うのだが (エーリクの良い意味でのナイーブさが、オスカーの視点から描かれるところも新鮮)、その一方で、 後半になってユーリが進路の大幅な変更を決意するまでの内面が全く描かれず、結末にかけて 若干の物足りなさを残したことも否定できない。 一人称で視点人物を固定すると、必然的に上記の限界が出てくることになるが、おそらく本書に 三人称での描き方はそぐわないものと思われる。最良の解決法は、オスカー以外にユーリ、エーリク にも視点人物を割り振り、一人称の話者が順番に交代する方法を取ることではなかったかと思うが、 これだと構成が非常に複雑になり、作品の規模も数倍になったことだろう。本書が一つの「解釈」 としてはありだと思う所以である。 | ||||
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森博嗣。 彼について想像してきたのは、無機的な人間だと思ってた。 でもこれを読んで、彼はとても人間が大好きな人なのではないかと思った。 しかも、根底から人間を信じていて、可能性を諦めてなくて、人に対してとても優しい人なんだと思う。 そう感じられる、本作です。 | ||||
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漫画は読んだことあります。この話を男性が書いたらどうなるのだろうと興味があり読んでみました。 原作の雰囲気を壊すことなく、安心して読み進められました。 文章も美しく、心地よかったです。 原作にあった恋愛要素は抑え気味ですが、これはこれで素敵なお話でした。 びっくりしたのは、登場人物が日本人だったことです。 でも、あまり違和感なく読めたと思います。 | ||||
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原作のきらびやかな感じが良い意味で抑えられ、より透明で、より詩的な作品になっている。舞台が日本であったり、少年たちのお互いへの気持ちが愛情より友情に近かったりと、そういった原作との相違も成功している。文章にも無駄がない。 ただ、無駄がなさすぎると言うか……。ユーリとエーリクの関係の変化や、ユーリがトラウマを克服した経緯や、オスカーのワーグナ教授に対する感情や、トーマの死の真相を、もう少し書いてほしかった。冷たい水のような文章なので、そういった箇所の熱が伝わって来にくい。原作が熱い物語なので余計にそう思う。 途中までは透明感の際立つ美しい作品だったけれど、最後の方でそういった物足りなさを感じたので、☆3つとさせていただきます。 | ||||
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うーん、萩尾望都さんも森博嗣さんも好きですが、この作品はやっぱり萩尾望都作品の方がワタシにとってはベストです。 | ||||
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同名の漫画がありますが、私は先にこちらを読んでしまいました。 無駄のない、美しい言葉のリズム。 あとがきに、この小説を読むと原作の漫画も読みたくなってしまうことを狙ったとありますが、 思惑通り、漫画も読みたくなり、買ってしまいました。 どちらもよい作品だと思います。 | ||||
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- オスカーの母は日独混血だし、 実家の酒屋から焼酎が送られてくる先輩はいるし、 駅まで見送りに来てくれた弁護士夫人は着物姿という、 日本を舞台にしたもう一つの『トーマの心臓』、 或いは大学生になった彼らの「XXXX年の冬休み」。 - 「人間に考えられないものなんて、なにひとつない。 考えられない、わからないものがあるとしたら、それは考えようとしないだけの話だ。 わかろうとしないだけのことだ。」 というワーグナ教授の言葉をここに書き留めておきたくなったのは、 (今更ではあるが)「1988年の夏休み」に較べて私が大人になったから、ということであろうか。 - | ||||
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原作の肝心なところが、全て吹っ飛んでしまっている。 「これではトーマが「あてつけ」で死んだように見える。 ユーリがエーリクに「秘密」を打ち明けるまでの経緯、軽すぎ。 しかも設定が日本の大学」!?10代半ばの透明感が、あの作品の核なのに… 森先生の作品は全て拝読しておりますが、これは…残念でした。 | ||||
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原作ファンにとってドイツのギムナジウムは、「ポーの一族」にも出てくるいわばブランドのひとつ。読者たちは、今風に言うと、あの制服姿の少年たちに萌えた。そのブランドを外して小説化するのはとても勇気のいることだったと思う。作品のどこをどう読んでも、設定を少し昔の日本に変える必要はないようだったが。 舞台設定を変えたことで、登場人物たちの置かれている状況も変わる。話の大筋はそのままなので、人物の行動や心の移り変わりがわかりにくくなっている。 例えば、なぜユーリはこんなにも悩んでいるのか。これは原作発表当時でも、低年齢層の読者にはわかりにくかっただが、少し気をつけて読んでいけば、中学生でもだいたいわかるように描かれていた。 そのユーリの苦悩の原因が小説にはない(描かれてない)。キリスト教圏に住み、人種的偏見に悩む原作のユーリとは違う。これでは、命を捨ててまでユーリを救おうとしたトーマの真意に行き着く人は少ないのではないか。 さらに、ユーリが新たな道として選んだのが神学校。この選択の持つ意味が原作と小説でかなり違ってくる。小説のほうは、例えば「医学や慈善事業を学ぶため留学する」とかでも良かったのじゃないかと思う。いきなり神学校は唐突だ。 ユーリ、エーリク、オスカーの性格の違いが薄まってしまったのも残念。後半は3人ともなにやら人あたりのいい好青年になってしまって、面白味がなかった。 原作のオスカーは言うべき時は大声でいう。上級生のバッカス達ともタメ口で話す仲。お茶会に誘われてもオスカーのほうが断ってるのであって、決して疎遠ではない。そのバッカスに敬語で他人行儀に話す彼の姿に、オスカーファンの私は「こんなのオスカーじゃない」と何度も思ってしまった。 原作ではオスカーはユーリの事件のだいたいの真相を翌朝には知っている。知っているから見守り続ける、というユーリへの思いがここには無い。 エーリクは気のいい利口なお坊ちゃんになってしまっている。唯一の身内を無くした彼の絶望感の表現は萩尾さんならではのものだった。それに、かんしゃく玉のエーリクと、彼とは水と油のユーリがどうなるのか、というわくわく感が原作にはあったのに。 彼等が大学生というのもちょっと…。原作の少年たちにある元気良さが欠けていて、すごく内省的でだんだんと沈痛な気分になってくる。 森さんが萩尾聖都を尊敬し、作品をこよなく愛しているということはよくわかる。そのあまりに、小説化する際、ハードルを自分で高くしてしまった感がある。 これが例えば、原作の登場人物をつかった新たなストーリーだったらもっと楽しめたに違いない。 ただ、これを機に萩尾望都の最高傑作がいまだ知らない人の目に留まれば、と思う。 原作には印象深いシーンがたくさんある。 心を閉ざしつづけるユーリが、エーリクが投げかけたある言葉で、トーマの自殺の本当の意味に気付くシーン。 校長を看病するオスカーが様子を見に来たユーリに語るシーン。 そしてまるでヨーロッパ映画のようなラストシーン。 森さんが意図したように、私も久しぶりに本棚から「トーマの心臓」を取り出すこととなった。 | ||||
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森博嗣のミステリーがあまり好みではないので、最初は躊躇したのだが、 読み始めると一気呵成だった。みずみずしく、とても感動的な作品だった。 読んで良かった、と心から思っている。 『トーマの心臓』という漫画を単にトレースした芸のないノベライズなどではなく、 その世界観を敷衍する形で新しいクリエーションをものしている。 パラレルワールドのような、いい意味で原作とは「似て非なるもの」だ。 戦前の日本が舞台であることがファンの間で大いに意見が分かれるようだが、 僕はあの頑ななまでのユーリのストイシズムを成り立たせるための ひとつの試みとして「あり」だったと思う。 そうした、息が詰まるようなユーリの描写にあって、 エーリクの天使性には真実ホッとさせられる。 オスカーを実質的な主人公にしたのも成功だったろう。 生きていくとは、靴ひもを毎日結ぶことである。 例え、結んでくれる人などいなくても。 軍国主義に傾斜していく時代の足音のなか、 少年たちの痛々しさが際立って胸に迫る。 その鮮やかな手腕を職人技と言わずして何と言おう。 森博嗣、いい仕事をしている。 | ||||
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確かに原作と設定が違うというところはあるのですが、(特に舞台が日本だという点とか)森さんの小説を通して萩尾望都さんが『トーマの心臓』で何を伝えたかったのかが、なんとなくですが わかったような気がしました。 他人と向き合うことを通して自分と向き合い、 自分は何者で、 どこからやって来て、 どこへ向かうのか、 どこへ行きたいのか を探し求める。 原作のイメージを壊したくないからまだ読んでないって方にもおすすめです。新しい角度から『トーマの心臓』をもう一度読むことができると思います(^^) | ||||
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映画化されたものと原作では原作の方が良かったなんてことが良くあるけれど。 森博嗣が書いたっていうから期待してたのに。 (彼の作品は今まで読んだものは素晴らしかった。) そもそも設定の変更自体が難しかったのでしょう。 こんなにガッカリして、☆1つしかつけないものは、私自身初めて。 残念です。 | ||||
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他の方も書かれていますが、謎の日本が舞台設定と登場人物がただの渾名という偽物感が最後までつきまとって、全く感情移入できませんでした。 森氏が表現したい世界を、わざわざ「トーマの心臓」から拝借して書いただけのようです。原作が大好きで、小説での描写を期待していただけにがっかり感が半端ないです。 ネタばれになりますが、まずエーリクがユーリに対し友情以上の感情を持たないまま、ストーリーだけは原作に忠実に終わります。 これだけでも意味が分からないのに、ユーリのトーマに対する感情描写も殆どありません。心理描写は語り手であるオスカーのみ。そのオスカーから見たエーリクのキャラクターに違和感を覚えます。 また、女性の保健医等原作に無いキャラクターを登場させる割には、他の同級生や下級生の描写も薄いです。 これが森氏のオリジナル作品であったなら、良い作品であったと思います。というわけで、☆一つです。 | ||||
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レビューを寄せている方々の読後感にいちいちうなずいておりました。 原作を深く愛する者として、「おぉ、こういうことになるのかぁ」と一種不思議な感慨を持って読みました。男性作家の手によると、オスカーもユーリもより男性らしくなるのだなぁ、と。エーリクはかわいいけど。 戦前の、大正くらい?日本の全寮制男子校、しかも一貫校で大学院まであるのかなぁ…というような設定、どういう学校なんだろう…?疑問 森版『トーマ…』では、ユーリはなぜ心を閉ざし、トーマはなぜ死なねばならなかったのか、ということよりは、語り部であるオスカーの成長の物語としての側面が強いと感じました。 サイフリートは単なるボンボンのワルだし。(その思想において悪魔的で、邪悪な天才ではないよなぁ) だから、これを最初に読んだ若い読者の皆様は、オスカーを主人公だって思って読めば、それはそれとして「腑に落ちる」部分もあるのかなぁ。 だってオスカーの生い立ち自体とても刺激的。オスカーにとってユーリもエーリクも大切な友人。そうです、そうです。 私は原作でも断然オスカー派なんですが。(彼は待っていたんですよ!ずっと。) トーマの死も、エーリクの母の死も、オスカーの母の死でさえも、過ぎ去っていくもの、生きている側はそれを乗り越えて前へ進むものであり…いや、それはそうなんだけど。 ストーリーの後半とはいえ、わりと早目な部分でユーリが自分の将来をあっさり語ってしまうっていうのに対しては、原作派としてはネタばれ感があり、少々残念。 もともと原作はキリスト教的な罪の意識とかがベースにあるから、日本に移しかえると無理が生じるよなぁ、と感じていました。 私は、深い絶望と苦しみの果てに、再び光を見出し、飛翔して、神とひとり向き合うユーリに、キルケゴール的な哲学、いわゆる倫理の授業でいうところの「宗教的実存」を生きる、ってこういうこと?なぁーんて思っていたものだから。 ユーリが主人公、というのが原作、なんだと思います。 「登場人物の名前が同じ、まったく違う物語なのだ」と理解しました。これはこれで良いのです。 だからこそ、是非原作も読んで比較して、楽しんでいただきたい。 (くどいようですが、原作のためにはユーリの告白は早すぎるんだって) | ||||
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言わずと知れた萩尾望都の名作マンガの小説化作品。 原作と違い、大正か昭和初期の日本を舞台にした作品で、登場人物たちはそれぞれあだ名で「ユーリ」「エーリク」と原作の名前で呼ばれている。(オスカーだけはハーフという設定で本名) 原作とは別の作品と割り切って読んでみたが、主人公たちの設定が大学生のはずなのにどうしても高校生にしか見えず、物語にのめり込むことができなかった。 ただ、その内容は萩尾ファンとしては受入れがたいが、本書の出版は森ファンに萩尾名作を紹介したということで大いに意義があると思う。 原作者の萩尾望都は常に新しい試み・新しい作品を求めるあまり、過去の作品にあまり執着していない。そのため、若い世代に過去の名作が読み継がれていっていない。 例えば『ポーの一族』は「CREA」1992年9月号のアンケートで少女マンガ第1位だったのが、2008年9月号のアンケートでは24位と大きくダウン、さらに『トーマの心臓』に至っては前回10位から85位へと大暴落である。 それは、同時代の池田理代子『ベルサイユのばら』が前回3位に対し今回13位とあまり大きくは落ちていないことと比較すれば分かることで、作者が過去の作品について、新しく特集やイラスト集、新しい作品などの出版を通じてアピールしているかいないかの差であることは明らかである。 そして、このままでは未来に託されるべき文化遺産であるはずの萩尾作品が、若い世代に読み継がれないまま、いずれは消滅してしまうだろうとの危惧を抱いている。 願わくば、本書を読んだ新しい読者が、これを機に萩尾原作を読んでもらえればと思っている。 | ||||
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原作を読んだのはもう10年以上も前。しかしそのときの感覚が蘇る。 小説でも映画でも、原作を知っているものはどこか違和感があるものだが、 この『トーマの心臓』は原作と同じ世界が描かれていると感じた。 (後でamazonのレビューを読んで驚いた) ユーリの上品な立ち振る舞いも、秀才が集まる学校の雰囲気も、 オスカーの葛藤も全て森先生の文章で原作同様に美しく再現される。 原作と違うのは登場人物の存在感と臨場感。 言葉で表現されるオスカーの心には、ふれることができそうなくらい近くに感じる。 原作も是非読んでほしい。 両方とも傑作だと思う。 | ||||
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本書を読む前、再度、原作を読んでみた。しかしやはりわかったとは言えなかった。いや子どもから大人、少年から青年へ成長する時期を切り取った魅力にあふれる叙情的な作品であること否定するつもりはない。ただぼくには多くの人が語るようには「理解(わか)った」と言い切れない。 基本的にノベライズ(小説化)作品はあまり読まない。もととなったオリジナルの作品、映画やマンガ、TVドラマを、敢えて小説に落とし込む意義をあまり見出さない。今回、本書を手に取ったのは「敢えて」である。「あの名作」だから手にとったのではない。あの名作をなぜ少女マンガのファンであった作家が敢えてノベライズ(小説化)に挑んだのか気になったからだ。おそらくどんな書き方をしても熱狂的なファンには受け入れられない。そのことを作家は、同じ少女マンガのファンとして知っている。それなのになぜ敢えて書いたのか。それがわかればと思った。そしてまたぼくがわからなかった原作の真の魅力を理解するためのきっかけになるかもしれないと思った。 しかし、残念ながら本書はぼくの期待に応えてはくれなかった。ユーリの同室のオスカーを語り手に選び、モノローグの形式で書かれた小説は、マニアでもないぼくにとっては決して原作の雰囲気を壊しはしない作品であった。そしてまたぼくの知る森博嗣という作家の作品でもあった。ただ残念なのは、決して原作を越えるものでもなく、また森博嗣という作家のオリジナルの作品にもなりえていない。原作があっても、そこに森博嗣という作家のオリジナルの作品になりえているならばまた評価のしようもあるだろう。しかし本書は森博嗣の文体で、森博嗣の作品であることは間違いないのに、そこまでで終わってしまった。原作を大きく逸脱することもない代わりに、原作をなぞるだけで終わってしまった。もし原作がなく、単体の小説として存在したなら本書は心を打たれる作品なのかもしれない。しかし本書は明らかに原作のノベライズであり、ノベライズに過ぎない。 マニアからすればあのシーンやあのセリフがないとかなぜ日本を舞台(!)にしたのかとか、自分の大事な作品を穢されたような想いを抱くのかもしれない。そういうファン心理を当時からの少女マンガファンであったこの作家が気づかないはずはない。 シーンやセリフの選択はともかく、なぜヨーロッパであるはずのギムナジウムを舞台にしないで、「日本」を舞台にしたのだろう。しかも登場人物たちを日本人の名前に変えるのでもなく、本書では原作どおりのカタカナの名前を呼び名として使い続けながら。 舞台設定を日本にしたということは、作中で説明されるのでわかるのだが物語の流れからしても決して舞台が日本である必要もない。また作中で説明がなければ、日本が舞台であることも意識されない。 そのことに呼応するのだろうか、本書では「国家のために」という言葉が使われていることがとても気になった。違和感。原作にはない「国」という存在を控えめに強調すること。それは本書にとってどういう意味があったのだろうか。 原作ファンでなく原作を知る者として本書は、決して悪いものではなかった。しかしそれ以上のものもない。原作発表当時のものではない、原作漫画家による数点の挿画は美しいものの、そこにまた何かを読み取ることもできない。原作を知っている人間は読んでみてもよい一冊かもしれない。ただ原作を知らない人間なら、わざわざこの小説を読むなら、わざわざ原作を読むことを勧めたい。 | ||||
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『トーマの心臓』を題材にした同人誌的な作品、と言えばわかりやすいかもしれない。 ある意味で二次創作的な作りとなっている。だから星は一つとする。以下はその理由。 オスカーが主人公ということ、舞台を日本に置き換えたことなどが良くも悪くも「森博嗣」の世界観となっているんじゃないかな、と。原作の大ファン(信者に近い)の著者が小説という枠組みの中でどこに視点を置くのかを考え、オスカーを選んだ。そうすることで萩尾先生の『トーマの心臓』を別の視点から心理的に追いかけるという設定になっており、森博嗣の視点が原作に介入し、ある種の「こうだったんじゃないか」的分析が垣間見えるのもまた同人的である。つまり、原作を知っていた方が入りやすい。また、これを読んでから原作に入っても良い。原作とワンセットで購入もしくは販売するのが正しい。そういったスタンスだ。と、なると萩尾先生のファンには物足りなく、森博嗣のファンにとっても消化不良な印象が否めない。結果、微妙な作品と感じる。ただ伝わってくるのは、森博嗣はこの仕事を受けて本望だった、ということかな、と。気持ちが入りすぎてるよ、文章に!と思った。綺麗すぎるというか。ノベライズというよりもリスペクトされた別作品だと思う。だから衝動買いより、冒頭の部分を少し読んでからの購入をお勧めする。なお、『スカイ・クロラ』の美しさ、哲学要素を求めているのならばこの作品は否。『まどろみ消去』所収の「純白の女」や「キシマ先生の静かな生活」が好きな人向け。つまり、彼の短編を許容した人向けだろう。ぎゅっと何かは詰まってる。 | ||||
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