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猫を抱いて象と泳ぐ
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猫を抱いて象と泳ぐの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.35pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全138件 41~60 3/7ページ
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リトル・アリョーヒンの友だちは一つの場所に囚われた者たちばかり。デパートから降りられなくなり一生を過ごした象のインディラ、壁の隙間で死んでしまった少女の幽霊ミイラ、太り過ぎてバスから出られなくなったマスター。そしてリトル・アリョーヒン自身もチェス盤の下に囚われている。けれど盤下から、広くて深いチェスの海に泳ぎだすことができる。薄暗い海の底にいるようで、息苦しく切ない、素敵な雰囲気の物語でした。小川洋子さんは、世界の片隅にいる人を大切に掬い上げ、静かな物語にしている気がします。 | ||||
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物語の始めのインディラのエピソードは秀逸だ。そこではリトル・アリョーヒンの死者に向ける眼差しの深さ、繊細さが鮮やかに描かれている。 やがてリトル・アリョーヒンにとって生きている者の世界と死んだ者の世界は同じ変わらないものであることがわかってくる。 チェスの海を死者たちと生き生きと泳ぐリトル・アリョーヒンの描写がそれに重なる。 「あの一瞬だけ、犠牲を払うタイミングが遅れた。もう取り返しがつかなかった。どんなにささいなミスだと思っても、絶対に許してもらえない時がある。」 これはマスターの言葉で、チェスのことを言っているようでもあり、大切な人の死を言っているようでも ある。 私たちは長く生きているうちに、こんな気持ちを経験しなければならない時がくる。けれども時の流れと共に私たちは現実の忙しい生活の下に大切な人の死を押し込めてしまう。しかしリトル・アリョーヒンはそうはしなかった。彼はこの世を去って言った者たちの痛みを自分の痛みのように感じ、いつも死者の傍らにいた。リトル・アリョーヒンは、私たちに代わって死者を悼んでくれているのだなと思えてくる。「ミーナの行進」のミーナのように「外」の世界に彼が出られなかったのは、私たちに代わって引き受けた代償だろうか。 作者はそれに報いるようにリトル・アリョーヒンを、この上ない慈しみをもって描いている。 リトル・アリョーヒンに出会えた読者はきっと彼に魅了されるだろう。 読み終えた時、リトル・アリョーヒンに「ごめんね」と言ってじっと抱きしめたいと思った。 | ||||
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屋上から出られなくなった象。 バスから出られなくなった巨体のマスター。 「大きくなること、それは悲劇である」。 そう考える、主人公のリトル・アリョーヒン。 小川洋子ワールド全開の作品だが、 物語に通底するテーマ性について考えさせられる。 読み返すほどに、物語に深く入っていける作品だと思う。 | ||||
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少年は、幼い時から、数々の身近な死を経験し、考え、悼みながら人生を送ります。 私も母を亡くしたばかりで、この小説を読みました。 人生とは、甘くて美しい記憶なのだ。 様々な感情、人に対する愛情、気持ちは、たとえどんなに強いものでも、人は死んでしまえば何も感情を頭に思い浮かべることは出来なくなります。全ては、沙羅双樹の花の色の如く、風の前の塵に同じ。 しかし、だからこそ浮かび上がる人の感情や生命の尊さとでも言えば良いのでしょうか。それが、如実に伝わる小説でした。 私の母は、この小説を読んでいる途中で亡くなりました。若くして急死でした。命のはかなさ、あっけなさ、を感じました。母の納棺の際、この小説を棺の枕元に入れてあげました。母には「猫を抱いて像と泳ぐ」そんな旅にこれから出て欲しいと思いました。 母が亡くなった後、私はこの本を購入し読みました。この本は私にとって母を悼む本でした。母が読み途中だったため読んだだけであったのに、この本の内容はまさに母の死にシンクロしていてとても驚きました。 まるで母からの、遺族の気持ちケアをするためのプレゼントだったようにも思えました。 | ||||
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まずこの本は少々わかりにくい表現があります。軽く読んだだけではその言葉がなにを示しているのか、表しているのかわからず終わってしまいます。正直、それが苦痛と感じてしまった時もありました。決して厚みのない本ではありませんので、最後まで読めるのだろうかと不安にもなりました。 ですが、読み進めていくうちに不思議とこの本の世界に引き込まれていくような感覚に陥ることが増えていきました。読むのが苦痛であったのに、徐々に徐々に、読んでいる時は気づかないほどゆるやかにのめり込んでいったのです。この本はチェスが重要な役割を果たしていますが、私のようなチェスになんの知識も持っていない人間もなぜかこの世界に引き込まれるのです。知らぬ間に情景を描いているのです。 取り憑かれたように読み進め、読み終わった後、なんだか心が別世界に行っていたような、フワフワとした気持ちになりました。 そこでようやく、私はこの本の世界にのめり込んでいたのだと気づいたのです。 | ||||
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『博士の~』を読んだときにあまり印象がよくなくて、『密やかな~』で素晴らしく感動して、今作ではまた、博士のとき同様、あまり面白くは無かった。 前半を中心に好きなシーンも沢山あって、マスターのバスのところや、少年がリトル・アリョーヒンとなっていくところなどは、小川氏ならではの描写というか、密やかだけどちょっとわくわくする感じが味わえた。 後半になるにしたがって、作品内の熱量と読んでいる自分の熱量との間に温度差がドンドン開いてしまった。 登場人物から心が遠く離れてしまい、勝手にすればいいじゃん、という気持ちが先行した。 読む側がリトル・アリョーヒンとその周辺に対して充分に興味なり好奇心なり魅力なりを感じとるより前に、地の文によってグイグイと「どうです?この子達って本当に繊細で美しいでしょ?」と押し付けがましく口やかましく薦められてウンザリしたという感がある。 せっかく三人称なんだから、こんなに主人公たちに肩入れしていない、もうちょっと中立な文章で読みたかった気がする。 それと、やっぱり「勝負」にこだわる気持ちの描写も必要だったと思う。 そこを語らずしてチェスの美しさ云々って言われても、やっぱり綺麗事にしか聞こえない。 それと、「大きくなることは悲劇だ」をあんなに強調して、結局なんなんだ、っていうのはある。 勝手に悪い方向に考えてナイーブになってるデリケートな子供、っていう風にも見えるし、一応思春期の男の子だったらもっと肉体的な意味でも葛藤があると思うし、人物描写が狭く掘り下げられてるというか、なんでこんなに悟っちゃってんのか説得力に欠けるというか。 結局、変わった価値観を持って、マニアックな視点でチェスを愛した子供のお話、という風に見えてしまう。 何か、マニアックな中にももう少し普遍性が見出だせれば…。 わからない、自分のストライクゾーンが狭いのかもしれないが。 | ||||
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小川さんの本はどれも好きですが、この本はその中でも特に良かったです。 | ||||
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体が大きくなりすぎてデパートの屋上から降りられなくなり、37年間デパートの屋上で愛嬌を振りまきながら一生を終えた象のインディラ。今その場所には、インディラを紹介する立て札とインディラの形見と思われる鉄製の足輪が残るのみ。それをじっと見つめる7歳の少年。 目の前に光景がまざまざと浮かび上がる本書冒頭のこのシーンから、小川洋子ワールドという美しく静かな海に心地よく漂うことになります。 少年は、生まれてきたとき上唇と下唇が癒着して生まれてきたがため、剥がされた唇には脛の皮膚が移植され唇には産毛が生えている。極端に口数の少ない子どもとして成長したがため友達はおらず、寝る前に想像上の少女「ミイラ」に話しかける毎日。 そんな少年にチェスのルールを教えてくれたのが、使われなくなったバスの中で暮らす、たっぷり太った巨体のマスターと猫のポーン。 少年にとって唯一の師匠であるマスターは少年にこう教えます。 粘り強くじっくり考えるんだ。そして最後に「慌てるな、坊や」と付け加えることを忘れない。 少年はそれを実現するため、しだいにテーブルチェス盤の下に潜り込むようになります。 彼にとって、むしろ駒など目の前にない方がよく見える。頭の中のチェス盤で奏でられるメロディの方がずっと繊細で深みがある。 この頭の中のチェスのメロディーが本書全体を包み込む美しき海を連想させます。 その少年の才能が開花し、ついにマスターに初めて勝利した日、少年はデパートの上で、猫のポーンを抱き、象のインディラとともに海を泳いでいるという不思議な感触を覚える。水はしんと冷たいのに少しも怖くはない。ゆったりとして身体中どこにも変な力が入っていない。このイメージが本書のタイトルになっています。 そして本書を読むと、チェスをしたこともないのに無性にチェスのことを知りたくなってきます。 「チェスは、人間とは何かを暗示する鏡なんだ」 「チェスの棋譜の数は宇宙を構成する粒子の数よりも多い。チェスをするっていうのは、あの星を一個一個旅して歩くようなもの」 本書ラストは美しくももの悲しい。 | ||||
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博士の愛した数式を読んで、小川洋子さんの作品に興味を持ったため、今回この小説を手に取りました。 作品自体は、とても美しい文体で、チェスのルールが分からなくても、 チェスの世界の雰囲気の一端を味わえる、優しくてきらきらした素敵な小説でした。 ただ、私は、途中から主人公にあまりにも共感を持てなくなり、読み進めるのが辛くなりました。 主要な登場人物全員が清く美しく、それでいて人間味がない。自分勝手に行動する主人公を誰一人諫めない不気味さと、それ故の、 主人公の独特の世界観を押し付けられているような息苦しさで、物語を楽しむことが出来ませんでした。 レトリックを美しくする余り、汚れたものは全て払いのけてしまった印象を受けました。 | ||||
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小川洋子さんの作品は、すごく好きなものと好きになれないものがあります。これは好きなタイプの作品でした。ただ、単行本で買ってしまったので、重くて疲れて読みにくくて、途中で文庫本を買ってしまいました。 | ||||
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普通に椅子に座って、普通に顔を観衆にさらして囲碁を打つことのできない棋士の物語。純粋さ故かとどきどきして読み進んでいくが、いつか世間にも明るみに出るという期待は最後まで満たされない。 | ||||
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18世紀に実際に製作された「自動チェス人形」(トルコ人)をモチーフとした抒情溢れる秀作。"リトル・アリョーヒン"と呼ばれる「自動チェス人形」中でチェスを指す(身体的には不遇の)少年の半生を描いた物語なのだが、読む者は優しさに包まれると共に、ある種の勇気を貰えるという素敵な仕上がりとなっている。「チェス(の棋譜)は美しい詩」と言い切る作者の「チェス観(将棋観と言っても良い)」にも感心した。実は私が本作を手に採ったキッカケは、羽生の「闘う頭脳」中に「羽生vs作者」の対談が掲載されており、その際、作者が本作(その当時は未完)の構想を述べていたからである。 表題中の「猫」及び「象」は各々チェスの駒の「ポ-ン」及び「ビショップ」を意味するが、それだけではなく、「象=少年がデパートの屋上で観て惹き付けられた象のインディラ=少年にチェスを教えてくれた忘れ難いマスター」、「ポ-ン=そのマスターが飼っていた猫=少年の相棒の少女ミイラ」という重層的な意味を持つ。これらと合わせ、少年の祖父母と弟、"老婆令嬢"(いずれも造形が素晴らしい)等の手助けがあって、初めて少年が自身の世界を切り開いて(泳いで)行けるという主旋律が、「チェスの棋譜」同様、美しい詩情を醸し出している。 終盤、"リトル・アリョーヒン"はエチュードと呼ばれる山奥の老人施設に移されるが、ここで少年がグランド・マスターと対局する(短い)シ-ンが本作の1つの白眉でもある。何故なら、上述の対談中で、作者は「天才」について語っているからである。このグランド・マスターとの至高の棋譜が"リトル・アリョーヒン"が実存した唯一の証拠という設定も心憎い。そして、"老婆令嬢"との再会も深い余韻を残す。記号のみで示した棋譜を中心に描きながら、これだけの詩情を醸し出せる作者の懐の深さには改めて感心させられた。 | ||||
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小川洋子さんの作品は初めてです。 描写力、表現力の豊かな人だと思いました。 チェスを知らなくても十分チェスの世界観に浸れます。 悲しいけど暖かい、切ないけど胸を打つ、とでもいえばいいのでしょうか、最後の方では思わず涙が出てしまいました。 昨年暮れに映画「ボビー・フィッシャーを探して」を観たのですが、この映画を参考にしたと思われる(本当に参考にしたかどうかは判りませんが)場面があって、おやっと思いました。 読み終わってし幸せとは一体何なのだろうと思いました。 | ||||
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アマゾンのレビューの評価が高くて読んでみたけど、なぜここまでの評価を得てるのか、世間の感覚と自分はずれてるのかと思った。 なぜ小説が面白いと思えなかったかというと、登場人物の行動動機が全然理解できなかったからだ。少年にチェスを教えたマスターはなぜあんなにも少年に親切なのか?あんなに親切な人なら遺体をバスから出すときに周囲が奇異の目で見ることはないと思う。マスター亡き後の少年がチェスクラブでからくり人形の中で働く動機もわからないし、ミイラが借金もないのにそこで働く動機も弱い。祖父母も少年が11歳のまま体が成長しないのに何の心配も見せない。少年の唇に脛の皮膚を移植したために、唇から脛毛が生えているという設定も少年が外見的に醜いという設定を与える以外の何かを感じなかった。物語も取ってつけたような感じだと思った。筆者はリトル アリョーヒンのような人生でも幸せだと思って書いたのだろうが、自分は全くわからない。 とにかく小川洋子作品を受け付けない自分の感性が狂ってるんだと分かってよかった。 | ||||
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自分はチェスを指しますが、チェスを知らない方でも、まったく問題無く物語にのめり込めます。 ゲームの展開の抽象的表現は奥深く、詩的でやさしく、時に残酷な世界の有り様と主人公が向き合う様は胸を打ちます。 クライマックスは電車やカフェなど、人前では読まない方が良いと思います。 同じ作者の「密やかな結晶」にも通じる静けさに満ちていますが、物語としてよりストレートに響いてくる作品だと思います。 | ||||
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美しい文章とはこういう本のことなんだなと感じました。 大人になって初めて、本を読んで涙が出ました。 オススメです。 | ||||
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不思議な題名にまず惹かれ読んでみたくなりました。 私の想像を絶する内容でしたがチェスを知らずともその世界の深さ広さを感じとれるものでした。 デパートの屋上から降りられなくなった象の悲哀に心を寄せる少年は、大きくなることを悲劇と捉えるようになります。 そんな少年のつつましやかな、それでいて美しく充たされた一生の物語です。 こんなに清々しく読み終えた小説に出あったのは久しぶりです。 | ||||
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象と出会い、ミイラと出会い、猫と出会い、チェスという広大な海に泳ぎ出した少年。 波はときに荒々しく、ときに静かに揺らめく、それでも少年は冒険を続けた。 海底から山頂へと泳ぎ、頂へと登り詰めた。 【e4】から始まった少年の冒険は【e4】で締めくくられた。 ミイラの一手めの【e4】、その光は少年を温かく包み込んでいるだろう。 とても美しく静かな物語。 | ||||
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この本の内容は全く知らないで購入した。 スタートから独特の世界が記載される。 やがて猫の意味も、象と泳ぐと言う表現も、次第につながりが出来てくる。 筆者の凄い表現が情景を浮かび上がら家でくる。 是非読んでみてください。 | ||||
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本書はチェスの稀代の差し手でありながら、その世界を目立たず、ひっそりと生きた主人公を描いた物語です。 評者にとってこれまで縁のなかった著者と作品でしたが、ここのレビューを読んだ時に感じた直感で手に取りました。 読了後、本を置いてみて、それが正しかったことを感じました。 主人公はチェス好きの少年で、かつての名人の名をとって「リトル・アリョーヒン」と呼ばれます。 周囲とあまり馴染めなかった彼が、良い導き手と邂逅して、小さなチェス盤から広がる広大な世界を探求していく様が生き生きと描かれていました。 「最強の手よりも、最善の手を」 評者はチェスのルールを知りませんが、詩的な言葉で描写されるチェス巧者の世界観、手に汗握るゲームの緊迫感、コマたちが織り成す躍動感から物語に引き込まれました。 また象徴的に込められた「猫」、「象」、「泳ぐ」などのキーワードが本文中を漂いながら伏線となり、結末に収束していく見事さには驚かされました。 これらはさながら美しいハーモニーや精緻なタペストリーを思わせるもので、本当に驚嘆しました。 ページを閉じてからも深い余韻が心に沁み込んできて、本書は今年読んだ中ではベストの小説になりそうです。 お勧めです。 | ||||
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