■スポンサードリンク
イエスの涙
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
イエスの涙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全29件 1~20 1/2ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
十字架嫌悪シンドロームについて、私の心の謎が解けたような気がしました。感動しました。有難うございます。 また、最初読み進めているうちに、実話なのか、それともちがうのか、わからなくなるほど、リアルな内容だったので、 びっくりしましたが、すごく感動したので、マリアの涙も買って読んでいるところです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イエスが十字架で人類のため罪のあがないをしたのは事実。弟子が祈らなかったからどうのこうの言うのは変です。神様は始めから、イエスを拒まれるのはご存知だったはず。全知全能ですから。十字架の否定は神の否定につながるきがします。素人考えですが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ココロに残るストーリー展開。 歴史を知る者には、粋な内容であり気付かされる内容があった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
十字架の死はイエスの望んだ死と認識されているが、それは先入観なのではないか?実際は違うのではないか?というお話です。 ストーリーは読みやすく、個人的には初めから最後まで一気に読めてしまう内容でした。 十字架の死がイエスの望んだことであったかどうかについては、イエス自身がイザヤ書をはじめとする旧約聖書の預言書を成就するために来たと福音書に書かれているので、恐らく避けては通れない処刑方法だったのではないかと個人的には思うのですが、フィクションとしてこの話を読む分にはキリスト教をベースにした、例えばダン・ブラウンのダヴィンチコードのような、面白いエンターテイメント小説かと思います。 聖書を普通に読めば聖人崇拝やら十字架のペンダントやらが出てくる要素は無いように思うのですが、カトリック側では普通のことなので、もしかするとカトリックの風習に対して著者が良い思いを持っていないのかも? できれば、あとがきのようなもので、その辺に言及されてれば良かったかとも思ったのですが、そもそもあとがきがないので確かめようがないです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
特段のキリスト教の知識がなくても無理なく読み進められます。 必要な知識は作品中、紹介されていますから。 逆に一定以上の関心がある人にはつまらない作品ではないかと 思いました。 論争のシーンが最悪です。 人々が建前をいっているのか本音をいってるのかわからない。 切迫した心の揺れ動きが表現されない。 肝心のイエスの涙についても、 そのいみを最終結論としてしめしているのにすぎず 文学的には示されない。 わかりきった登場人物の動きは冗長に書かれるが 本当に人なら感じるであろう瑞々しさを持った 人の感情は皆無である。 つまり、文学的にも神学的にもつまらない。 大それたことと言うわりには、社会的な影響も描かれない。 かわりに、恋愛エピソードとミステリーが入るが、 これ余分なのではないか? 神学者である作者はだれにこれを示したいと おもったのか。アイデアに抜けがありすぎて 自然には受け入れられない。 焦点をいくつかに絞ってでもいいから、もう少し描いてほしかった。 登場人物の浅い穴だらけの推論だけですまされるのでは、 つまらなさすぎる。説得力にも欠ける。 神学者である作者はどのようにして、この考えをもったのか? 葛藤はなかったのか? 小説を書く実力がないのなら、 赤裸々にその過程を話してもらった方がよい。 こんな中途半端な作品では、作者がこの考えに賛成なのか、 それともお遊びでかいてみた、というだけなのか、わからない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ありがとうございます! 私が期待した通りの書籍でした! 感謝です | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私は、キリスト教をイエスの心情、神様の心情を求め得て、学んできました。その中で、神様やイエスが贖罪のために十字架にかかるために来ていないことは、明らかだと思えます。もし、そうであれば、それはきっと悪魔に近いとしか、考えられません。この本には、他にも重要な真実の内容が書かれています。ゲッセマネの祈りの意味や、なぜ、イエスが十字架の道に行かざるえなかったのか。それとピラトの心情。イエスの出生と、シスターの出生の繋がり。十字架に対する解釈は、真実を含んでいるように思います。ただのフィクションとしてではなく、キリスト教を知らない方には、ぜひ新約聖書とあわせて読んでほしい。あまりキリスト教が先入観として入っていない人の方が理解できる内容かもしれません。エホバの証人や統一教会など新しいキリスト教では、異端扱いされているところの解釈と非常に似ている。不信仰によって、メシアは、死の道を歩く。私たちが、もし今同じように、神の子、メシア、もしくは、神自身が来られた時に、イエス様の時と同じように、不信仰しないだろうか。異端として、扱わないだろうか。真実よりも、今の自分たちの考え方が正しいと思わないだろうか。ユダヤ人たちは、キリストを異端とし、正教会は、カトリックを異端とし、プロテスタントは、エホバやモルモンを異端とし、そっらのキリスト教は統一教会を異端とし、統一教会は、さらに新しい真実を異端とする。仏教での日蓮宗の歴史も同じように動いている。神様の心情を探し求めて、ただ神様の心情に従って、真理と真実のもとにこの世界に光がありますように、そして、光によってすべての人類の心情が癒され地球が地上天国となりますように。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読んでいて自然と泣いてしまいました。 キリスト教のことがとても分かりやすく書かれていて、 私は結構面白くて、いい作品だなあと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「私の心は誤解されてきた、私の心を理解してほしい。 」そんな、イエスの心情が私の心深くに語り掛けてくる作品でした。 「十字架嫌悪シンドローム」という、謎の症状を、一人の修道女がその原因を解き明かしまがら、真実のイエスの姿に出会っていく過程は圧巻で、ぜひこの本を体験してほしいと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
教皇パックス一世に真の宗教者の姿を見た思いがする。 読み終える最後の最後で、不覚にも泣いてしまった。 このような捉え方が許されるのなら信じてもいいかな?! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「神にとってイエス様の十字架は失敗だった」とする考え方、 若しくは「神はイエスをユダヤ人の王とするつもりで遣わした」 とする考え方は、結局のところ、イエス様がキリスト(すなわち 人間の心と魂との救世主)であることを否定していることになり ますね。 ということは、この書で展開されている考え方は、結局のところ、 イエス・キリストを信仰するものではない、ということになり ますね。 この書の著者の方が本当のイエス・キリストを信仰することがで きるように、私達はイエス様をキリストとしてこの地上にお遣わし になった神にお祈りしています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、システィーナ礼拝堂、 フランスのパレ・ル・モニアルの中世風の街並み、京都の桜が 似合う哲学の道が、情緒たっぷりに描かれていました。 「十字架嫌悪シンドローム」という事件を解明するため、 日本人の山本神父とシスター上野こころが、イエスとの 不思議な出会いを重ねながら、イエス・キリストの十字架の真実を紐解いて いきます。 この小説を通して、キリスト教に対する愛着と イエス様に対する慕わしさ、 信仰が深くなりました。 「私は、イエスの本当の愛と心情に触れたのかもしれない」 所どころにちりばめられた素敵な断片が、絶妙のタイミングで織り込まれていて、 清らかな涙がこぼれました。クリスマスにぜひお勧めです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イエス様は人類の罪を背負って十字架にかかられたというのが通説だが、実は生きて地上で愛の家庭をつくり、ユダヤ、ローマ、そして全世界を救いに導こうとしておられたのだと知って驚愕いたしました。イエス様の心の動きが手に取るように分かりやすく述べられていて必読に値いたします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
よくぞこのような素晴らしい作品を世に出して下さいました! この上ない価値を持つ逸品だと思います。真にアッパレです。最大限の賛辞を贈ります。キリスト教徒をはじめとして一人でも多くの方々に読んでいただき、本書を通じて「現代版宗教改革」が促進されることを期待します。 私は、イエスを救世主/メシヤとして受入れてはおりますが、恐縮ながら「キリスト教」とは距離を置く者です。まさに、本書のテーマ通り「十字架は本来の神のご計画によるものではなかった」と考えていることが、他ならぬその主な理由の一つです。聖書をよく読み、それと並行してイエス前後のユダヤ人の歴史について冷静に考察するなら、十字架は神の第二次計画/Contingency Plan(危機管理計画)だったと考えざるをえません。その理由を以下一部列記します。なお、以後の聖句の引用は、全て日本聖書協会の新約聖書1954年改訳版によります。 (1)神の願いは、選民ユダヤ人がイエスを排斥することではなく、「ユダヤ人の王(栄光の主)」として迎えることだったと考えられること マタイによる福音書第2章1〜2節などによれば、イエスは「ユダヤ人の王(栄光の主)」として生を受けたことが分かります。それとは180度反対に、人々から嘲弄愚弄され、辱められ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、血まみれになり、十字架で無残な最期を遂げるように最初から計画されていたとは到底思えません。またユダヤ人も、メシヤが「ユダヤ人の王」として降臨されることを待望していたのであって、決して受難を迎えるメシヤを待ちこがれていたわけではありません。 そもそも、愛と善の神が人々の無知、不信、妬み、裏切り、暴力等の悪なる作用に基づいて摂理をなさるということ自体が全く腑に落ちません。また、もしイエスを十字架に追いやって殺すことが目的だったのなら、後述するように、主の行く道を整えるべく、偉大な洗礼ヨハネが準備される必要もなかったのです。 (2)イエスの言動の多くは、自身がメシヤであることを人々が信じて受け入れるようにするためのものであったこと 一方イエスの言動に注目すれば、行った数々の奇跡も含めて、その多くは自身がメシヤであることを人々に信じさせるためのものでした。また自分を受け入れない者たちに対し、幾度となく痛切に嘆かれています。 それらの例証となる聖句は、枚挙にいとまがないほどですが、もしも十字架が神のご計画であったのなら、そのようなイエスの言動は、その言動が意図する方向とは全く正反対の結果(自分が迫害、排斥され、結局は受難すること)を期待しながらの機械的で空虚なパフォーマンスだったということになりかねません。つまり、例えば、イエスが繰り返し「わざわいである」とした偽善な律法学者・パリサイ人たち(マタイによる福音書第23章)や裏切り者のユダは、神が望まれた十字架に貢献した功労者たちであり、彼らへの(表面上の)激しい批難は、イエスの本心からのものではない虚言だったということになります。それは、誰もが到底受け入れられない見方でしょう。 イエスと神は一体であり、その言動が神から来ていたものだとすれば、それに対する不信はすなわち神への不信を意味したものと思われます。そのことを神が願われたはずもありません。 (3)イエス以後、結果として、選民ユダヤ人から「天国は遠ざかった」こと はたして、ユダヤ人が長らく待望しイエスの降臨によって近づいた天国(神の国)は、結局のところ十字架によって到来したのでしょうか? いや、むしろ、イエス以後、ユダヤ人は天国を建設するどころか、それとは正反対に筆舌に尽くし難い苦難の歴史を歩んでいきます。結果的に見て、イエスの降臨は、彼らにとってはまったく「福音」どころではなくなりました。天国は、誰の目にも明らかに、彼らの切望とは裏腹に、素通りし、遥か彼方に遠ざかってしまったのです。 神がイエスの十字架と共に選民を不幸に陥れることを当初からご計画されていたというのでしょうか? だとすれば、それほど理不尽な話はないでしょう。そんなことなら、神が長い歴史にわたって選民を教育・保護し、時として試練を与え導いてきたご意図がどこにあったというのか、甚だ理解に苦しみます。むしろいっそのこと最も野蛮な民族を選民にした方が、イエスの愛を一層際立った形で顕現させるのに効果的だったかも知れません。 十字架を負ったイエスがエルサレムの娘たちに言い放った言葉は、まさに十字架が極めて望ましくない深刻な事態であり、それによってせっかく目前にまで近づいていた天国が大きく後退してしまうことを明瞭に告げています。そしてその宣告は、イエス以降におけるユダヤ人の歴史と整合しています。神もイエスもユダヤ人も決して望まない事態が起きてしまったのです。「神のご計画通りだった」というのは、実にとんでもない見方だと思います。もしも十字架において神のご計画が完遂されるのなら、イエスはエルサレムの娘たちに向かって大祝宴の準備をするように指示したでしょう。 そのような、(サタン以外には)誰も望まない悲劇が起きた主たる原因は、ユダヤの指導者たちが彼らの自由意志によりイエスを排斥し天国を閉ざしてしまったことにあります。ロマノ・ガルディーニ(Romano Guardini)が、その著書『主』(The Lord)の中で、ユダヤ人がイエスに反対した意思決定は「第二の堕落」と呼ばれるべきだと主張している通りです。 (4)洗礼ヨハネが重大な使命を全うできず、十字架への遠因を作ったと考えられること 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(ルカによる福音書第7章27〜28節) ヨハネは、文字通り解釈すれば、神の摂理において、モーセなど過去のいかなる偉大な人物以上に偉大な(偉大になることを期待された)人物であって、極めて重大な使命が賦与されていました。それは預言者エリヤとして神のおとずれの時を告げ、イエスをメシヤとして証し、主の(ユダヤ人の王/栄光の主として)行く道を整えることでした。しかし彼は、自身がエリヤであることを否認するなどその使命を果たせず、逆に十字架に繋がる致命的な遠因を生んでしまうのです。彼は非業の死を遂げますが、なんと、神の国においては、それまでの歴史上におけるどんな悪逆非道な者よりも低い奈落の底の底まで落ちてしまったと解釈できます。本来イエスの右腕として共に歩むべき立場だったにもかかわらず、逆にその意に背いて主の死への道を整えるというとんでもない罪を犯したのですから当然の報いとも思われますが.....。 しかし一方、仮に十字架が神のご計画だったとすれば、ヨハネは神に対して従順だったということになります。であるなら、彼は神の国において最小者扱いをされる謂れはないはずであり、その報いはあまりにも不条理と言わねばなりません。彼にとっても不本意極まりない話です。いったい彼はいかに振る舞うべきだったというのでしょうか? どうしても辻褄が合いません。 (5)ユダの裏切りについての評価に明らかな矛盾が生ずること 本作品の中にも書かれていますが、もしも十字架が本来の神のご計画によるものであったなら、ユダは讃えられるべきで、英雄扱いされるのが妥当でしょう。イエスとユダがハイタッチをしていてもおかしくありませんが、もちろん聖書にそのような記述は見当たりません。 実際はその逆に、ユダはイエスを落胆の底に陥れたので、イエスは彼に対し、それ以上ない非難の言葉を発します。ユダは現代においても最も忌み嫌われ蔑まれている人物の一人と思われますが、その事実は、「十字架が神のご計画だった」とする考え方とは決して相容れません。「サタンがはいった」(ルカによる福音書第22章3節)というユダが、神のご計画の遂行を後押しするということは絶対にありえないでしょう。 (6)第二アダムの貴重無二なご聖体を葬りたかったのは、神ではなく、サタンだったと思えること イエスは、アダム以来悠久の時(旧約時代)を経て、ようやく再び無原罪の肉体をもつ「第二のアダム」として来られました。その間、救世主を送るために、神は選民を導くなどありとあらゆる周到なご準備をされました。中でも、例えば、カール・ヤスパース(Karl Jaspers)の指摘した「枢軸時代」は、偶然の産物とは到底思えず、いち早く世界が救世主を受け入れるための神の啓蒙活動だったように感じられます。 そうして満を持して生み出したひとり子イエスの尊貴無二のご聖体の随所を深く傷つけ死に追いやってしまうことを、愛と善の源泉である神が願われていたというのでしょうか(?)..... しかも、人々の無知、偏見、不信、誤解、裏切り等々のネガティブな力を利用して...... 本当でしょうか? 上記(1)でも述べたように、私にはそれが正常な考え方とはどうしても思えません。そのようなネガティブな力はサタンの専売特許であって、決して神から来るものではないのですから。 我々にとって、ときには敵であるサタン側の視点に立って考察してみることも極めて有益です。敵を知らずしては戦えません(失礼ながら、キリスト教徒にはこの視点が決定的に欠落しているように思われてなりません)。サタン側から見て最も望ましいのは、無二のご聖体を持つイエスの一刻も早い死であったことは想像に難くありません。そのように考えた場合、「第二の堕落」とともに、イエスの受難を見ながらほくそ笑んでいたのはサタンの方です。決して神ではありません。 逆に、サタンが最も忌み嫌い、神が熱望されたものは何だったのでしょうか? それは、本来アダムが堕落せずに完成したはずの神の国をリブートするために第二アダム/主人公として降臨されたイエスが、「まことのぶどうの木」(ヨハネによる福音書第15章1節)として、生きて全人類に接ぎ木されることだったと考えられます。我々が急速に大量増殖するエイリアンに対して身も凍るような恐怖を感じるように、イエスに似た人間が大量増殖することをサタンは最も恐れるに違いないのです。 (7)再臨の意義が不明となること 十字架が神のご計画による必然的なものであって、その場で全ての人類救済の摂理が完結したとするならば、イエスが再臨を約束された意義はどこにあったのでしょうか(?)、理解に窮します。 私には、当初のご計画が遂行できず、イエスにはやり残した使命があったと考えるのがどう見ても自然です。上記の通り、せっかく目前にまで接近していた神の国が、人々の盲目、無知、不信などにより遥か遠くに後退してしまいました。それをもう一度呼び戻し、かつ人々がそれを受け入れる必要があります。つまり、「第二の堕落」状態から復帰しなければならないのです。 内村鑑三が展開した再臨運動(1910年代終盤)についてもよくよく考察する必要があると感じます。内村は、既存のキリスト教に限界を感じ、再臨による救済を切望しました。詳細は割愛しますが、彼について学べば学ぶほど、「神のご計画どおり十字架で全てが成就された」とは思えなくなります。 以上記述してきた通り、「十字架は神のご計画であり必然だった」とする前提では、いくつもの矛盾、不条理、不整合、理不尽さ、腑に落ちない点などに直面してしまいます。これこそおかしな「洗脳/マインドコントロール」ではないのか(?)、という気さえしてきます。その思考回路には、本来あってはならない「反転増幅回路」が組込まれているように見えます。洗礼ヨハネ、偽善な律法学者・パリサイ人たち、そして裏切り者のユダは、イエスが憤慨されたとおり、神の本来のご計画遂行に対して間違いなく著しくネガティブな働きをしたのです。にもかかわらず、「反転増幅回路」は、彼らの計り知れない大罪を相殺/忘却させるだけでなく、場合によってはその極性を「反転」して彼らをポジティブな働きをした功労者か(?)と幻惑させるような強力な悪魔的機能を有しています。それは、彼らの神への歴史的背反行為を無罪化するように装い、正当化すべく、おそらくサタンが仕込んだと思われる極めて危険な回路なのです。冒頭で述べた「現代版宗教改革」においては、その回路のデバッギングを優先的に行わなければなりません。 (8)計画変更があったと考えられること 例えばイザヤ書第53章などは十字架の必然性を暗示するかの如き内容であり、それを根拠に「十字架は神のご計画の成就だ」と主張される方々がいます。しかしその一方で、例えば「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリント人への第一の手紙第2章8節)などは、明らかにその逆を示唆しています。このように、一見互いに矛盾する双方の聖句が厳然と存在しています。従って、この矛盾/パラドックスが解かれない限り、十字架の真の意義が解明されることはあり得ません。 その矛盾は、エンジニアリングをはじめとする多分野で問題解決に適用される「革新的問題解決手法(TRIZ)」の一解決法でもある「時間による分割」によって解決されると私は考えます。その解決策は、今回対象とするケースにおいては、ある時間帯を境にして、その前後に異なる計画がそれぞれ成立していたという考え方に基づきます。第一の計画は、イエスを王とする天国建設という初期目的を完遂するための計画であり、第二計画は、無念にも第一計画が挫折した場合にやむなく実行に移すContingency Planとしての十字架です。 第一計画から第二計画への移行の起点は、ヨハネがその重大な使命を果たせなかった時にあります。彼の失敗により、ユダヤの指導層はイエスを受入れることが極めて困難となりました。それによってイエスは、「律法や預言者を廃する者」と評価され、またメシヤどころか「悪霊どものかしら」と侮蔑されるようになるなど、窮地に追い込まれました。ヨハネは、十字架への直接原因を生成したわけではないにせよ、その失敗の比重は特別に大きかったと言えます。本来なら神の摂理における史上最大の人物として期待された彼が、それとは真逆に史上最小者にまで堕ちてしまったということは、当時における超特大の悲劇的事件であり、それは神のご計画変更につながる動機として成立し得る十分なインパクトがあったと考えられます。 それを踏まえ、イエスはやむをえず底辺の人たちに接触をしますが、その過程で得た弟子たちも結局は頼りにならず、そのため十字架への道が次第に決定的となっていきます。イエスが、自身が殺されてその三日後によみがえることを弟子たちに伝えたことから、ペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言い、それに対してイエスが「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と応じた(マタイによる福音書第16章21〜23節)ため、そのことを十字架の必然性の根拠とする見方もあります。しかし、そのやりとりは、ヨハネの死によって十字架が(ほぼ)不可避となった以後のものであったことを知るべきです。彼の悲報に接した後のイエスに関する描写からは、その時の落胆失望ぶりがひしひしと伝わってきます。「時間による分割」の境界となる時間帯はその辺りにあり、その時間帯こそが、第一計画の断念から第二計画遂行への移行期でした。 ゲッセマネは、第二計画遂行の覚悟を決める場だったように感じます。その場でのイエスと弟子とのやりとりは、「十字架が神のご計画、必然」という前提では全く解釈不能です。イエスが、個人的事情などによって死ぬほどまでに悲しまれたり悩んだりされたとは決して思えません。ルカによる福音書第22章44節は、深刻極まる計画変更に伴って激しい葛藤を抱きながらも十字架に臨む覚悟をされている様子ではないでしょうか。その点は、本作品のテーマであるイエスのご心情と関連する内容でもあります。 なお、イザヤ書第53章のように、十字架の必然性を示唆するかのような種々の聖句は、「万が一ユダヤ人が不信に陥ればそのような悲劇が起こり得るという神のご警告」と捉えることができます。そもそも、目の前にいるお方がメシヤだと認識できたなら、誰もその方を殺したりはしません。その意味でも、繰り返しになりますが、イエスをメシヤとして証す使命を持っていたヨハネの責任は甚大でした。彼はイエスの右腕/補佐官として、命がけでイエスをお守りしなければならなかったと考えられます。 上記(1)〜(8)以外でも、例えば、イエスが十字架にかけられている間のルカによる福音書第23章44節の記述は、少なくともイエスの完全勝利を示唆するような「吉兆」を感じさせるものではありません。また、イエスの死後における使徒たちの言動から受ける印象も同様であり、聖書の随所において「十字架が神の本来のご計画」とは思えない要因に遭遇します。 しかし、上記のような「十字架は神の第二次計画/Contingency Plan」という仮説に立脚すれば、「十字架が必然」という前提で直面した様々な矛盾、不条理、不整合などが完全に解消されます。神の国実現のキーマンであったヨハネの使命遂行を妨害し彼を奈落の底に陥れたことも、ユダヤ人を盲目にしてイエスを排斥させ自ら天国を閉ざすように仕向けたことも、ユダに裏切り行為をさせたことも、イエスに対し無残な扱いをしたことも、それらネガティブな作為は全てサタンの仕業に帰着させることができます。勿論、神のご計画の中にサタンの専売特許を鏤めるようなことや、イエスの虚言パフォーマンスも決して必要ありません。洗礼ヨハネ、偽善な律法学者・パリサイ人たち、そして裏切り者のユダは、神の国実現に対する大妨害者・甚だしい「わざわい」となりました。神の本来のご計画を狂わせた彼らの歴史的大罪を無視あるいは忘却してはなりません。ましてや、彼らをわざわざ功労者に反転させるようなややこしい操作など一切不要ですし、そんなことは絶対にあってはならないことです。また、本仮説によれば、神のご計画とそれに対抗するサタンの策略、特に計画変更前後におけるイエスのご心情や葛藤及び弟子とのやりとり等々が、より立体的にあるいは四次元像的に把握できるようになります。さらには、イエスが再臨を約束された意図や内村の再臨運動についても合点がいくようになるでしょう。 選民であったユダヤ人に(ひいては全世界に)天国をもたらすため、神は周到にあらゆるご準備をされ、イエスも手だてを尽くされましたが、サタンの計略によって、結局彼らは時のしるしを見分けられなくなり、自ら天国を閉ざすことになってしまいました(第二の堕落)。そのような神とサタンの駆け引きと攻防の中で、計画変更が余儀なくされたのです。そして、やむをえず、次善策としてContingency Planを実行すべく、イエスは十字架を負ったということを知らねばなりません。 イエスの十字架での贖罪による恩恵は尊貴甚大なもので、私は決してそれを否定するつもりはありません。また、キリスト教の信仰についても、それが無意味だなどと言うつもりもありません。しかし甚だ残念ながら、十字架における贖罪は当初から予定されたものではなく、またイエスの完全勝利をもたらすものでもありませんでした。 その一方で、想像するに、キリスト教の立場においては信仰対象として100%完全なものを求める必要があったと考えられます。その必要性から、本来不完全だったものを完全だったと見るようになり、その歪みによって上述の矛盾や不条理等を内包するようになってしまったのでしょう。そのことが先述の「反転増幅回路」の正体だと思われます。それと共に、「罪ある人類が救われるためには、罪のない神の子の身代わりの死が必要であった」という教えは、一見もっともらしくはありますが、恐縮ながら、その「反転増幅回路」による後付けの論理/後知恵だったと結論づける以外にありません。 「事実は真実の敵なり」とは本当によく言ったものです。巨大な「キリスト教の史実」が、皮肉にも「十字架の真実」を覆い隠してきたように思えてならないからです。そのあまりの巨大さ故に、一般のキリスト教徒には、それが外部から見ていかに明々白々な矛盾に満ちていたとしても、自分たちの核心的ドグマを疑ってみること自体がありえないのでしょう。その意味でも本著者の着眼と洞察は見事であり、その勇気とともに心底から敬服致します。本書をきっかけに、多くの方々が一刻も早くその真実を悟り、「現代版宗教改革」が、望ましくは日本を起点として、巻き起こるよう願ってやみません。 大変長くなってしまい申し訳ありません。キリスト教徒の現状を思うとき、どうにもいたたまれない気持ちとなり、大半の方々が戯言にすぎないと判断されることも十分知りつつ、本レビューを投稿することに致しました。神の恵みが皆様に降り注ぎますように。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イエス様のシスター・テレサへの迫真の語りかけが感動をもたらしてくれた。キリスト者への熱烈なるの問いかけの書となり得る。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私はイエスキリストを信仰する者です。 小説としては面白いもので、あっという間に読んでしまいました。 作者は神学者だそうで、聖書に対するご自分の解釈を小説という形で表わしたのでしょう。 もしかしたら「キリスト教」そのものに疑問をもっているのかもしれません。 キリストの教えを人間中心にした「キリスト教」を、私も信じてはいません。 イエス様を信じています。 氏は神学者でキリスト教徒であるかもしれませんが、イエスキリストを信仰しておられるのではないのでょう。 「キリスト教」の教えに疑問を感じ世界平和を願うあまり、イエスキリストから離れています。 イエスの十字架にこそ真実があります。 シャビエル様、「キリスト教」ではなく、イエスキリストに向かい救いを求められますように。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人からの依頼によって購入。未読です。。。。。。。。。。。。。。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本を読んで目からうろこが落ちました。 ありがとう、神様! イエスの涙 サイコー | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
キリスト教の問題点を記されていたのが面白かったので☆5!!イエスが十字架にかけられた事に関する見解は、いままでのキリスト教では考えられないことで、波紋を、呼ぶのでは?また、カトリックにおいての問題点を浮き彫りにされていた。それが真実であれば、この本は、問題点の定義と、解決を促しているのでは・・・ 他のカトリック、プロテスタントの信仰を持つキリスト教の方々は、どのように思うでしょうか?読んでみて、いただきたいと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
聖書についての小説を書く事は、非常に難しいと思います。それは、聖書に書いて在る事に極力忠実でなければならないからです。自分の勝手な解釈や都合で書いてはいけないものと思います。また、聖書を読んだ事の無い人が聖書に関する事が書かれた本等を読む事によって、下手をすると誤解が広まってしまう恐れも有ります。聖書の写本の場合には、文字の大きさ等までも忠実に写します。真実は、最初から永遠に変わる事が有りません。聖書は今までに全く改ざんされた事が無く、最初に書かれたものと全く同じで変わっていません。 確かに本書で触れられている様に、カトリック、プロテスタントに関わらず、現在のキリスト教会には多くの問題が有ります。イエス・キリストの死と復活の直後の使徒パウロが活躍されていた頃の原始キリスト教会の姿から掛け離れ、世俗のもの・財産を所有し、権力を持つ程の大きな組織に発展し、聖書そのものよりも教会組織の教えを優先している傾向が、特にキリスト教徒が多数派を占める西欧諸国等に在ります。日本のキリスト者で思想家でもあった内村鑑三は、「無教会主義」を唱えて聖書の御言葉のみに忠実で有る様にと主張しました。 異端的な解釈・行動をする事には二つ有ります。一つは、その時点においての正統・常識とされるものが間違っている場合において、正しく修正すると言う意味での改革です。かつてのカトリック組織の腐敗のあった時にマルティン・ルターによって改革が行われてプロテスタントが生まれた事はこれに当たります。ルターは、聖書に立ち返って聖書の御言葉のみに忠実である様にと唱えました。 一方もう一つは、正しく修正する必要が無いのに、その組織や教え等を破壊する為に業と異端的な事を行って、煽り混乱に陥れる事も有ります。現在世界各地で民主化等と表面的に正しい改革を行なおうとしている様に見せかけて、実際はその国や組織、システムを破壊してその後に裏の奥の世界的権力が支配しようとしている事はこれに当たります。バチカンにユダヤ教のエージェントが侵入して、内部崩壊を促している現状も有ります。それ故に、聖書、キリスト教に関する書物や映画等はその様な意図が含まれている場合が有り、読書や視聴する場合には注意が必要となります。 偶像崇拝は律法で禁じられており、教会内に極力装飾品等を飾らずに質素で簡素である事が、本来は正しいです。そして、ネックレス等のアクセサリーに十字架等を使用する事も、良くないものと私は思います。しかし、質素な中に唯一つ十字架のみを掲げる事は、それを見てイエス・キリストが十字架上で私達の罪の為に犠牲になられた事を常に思い出して忘れない様にする為に、その象徴のものとしては正しいと私は思います。 イエスが十字架に架かられた事は天の父である神の御心のまま、神の願いであって、その事によって世の全ての人の罪が許される為の犠牲となられました。イエス・キリストは世の最初から永遠に生きておられ、現在の私達もイエス・キリストを信仰する事によって罪がキリストの犠牲によって贖われて許しを得て、罪から救われます。此の事は真実であります。 新約聖書・マタイの福音書16章21〜23節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペトロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペトロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」。 この時のペトロは、イエスの人間の部分のみを見ているのかもしれません。 本書でイエスの孤独と悲しみの気持ちと言う本心が誤解されて来たとしているのは、イエスの人間としての部分のみを言っているのであって、イエスは人間として此の世に生まれて来られましたが完全な神でもありました。次のそれを表す御言葉が、聖書に在ります。 新約聖書・ヨハネの福音書1章1〜3節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」。 同書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」。 同・ヨハネの手紙 第一4章2節「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」。 「ことば」=「ひとり子」=「この方」=イエス・キリスト。「初めに」はイエス・キリストの永遠的存在を意味します。「神」=天の「父」。「父」と「子」(イエス・キリスト)と「聖霊」の「三位一体」の、創造主である唯一の神。 以上からイエスは100%完全な神であり、且つ同時に救い主(メシア)として人として来られた100%完全な人間でもありました。新約聖書・マタイの福音書8章20節以下に、イエス・キリストが自分自身を「人の子」と言われていた事が数多く書かれています。 また、聖書には人間の解釈は入っておらず、預言者、使徒を通しての神からの言葉、神の御心が書かれています。 旧約聖書・詩篇22章1〜2節「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」。 イエス・キリストが、十字架上で息を引き取られる前に叫ばれた事において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章46節)。 同書69章19〜21節「あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」。 以上「詩篇」は、ダビデの祈り(預言)。 「私は同情者を〜見つけることはできませんでした。」・・・イエス・キリストが十字架上で犠牲となられる直前、前日〜当日夜明け前までの間でのゲツセマネでの3回の祈りにおいて成就(下記の新約聖書・マタイの福音書26章36〜46節)。 「彼らは私の食物の〜酢を飲ませました。」・・・イエス・キリストの十字架上において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章34節)。 新約聖書・マタイの福音書26章36〜46節「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペトロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。』」。 ゼベダイの子は、ヤコブとヨハネ。ゲツセマネはエルサレム東郊のオリーブ山の北西麓。「杯」は、イエス・キリストが十字架上で私達の為に犠牲となられて流される血、イエス・キリストを信仰する人達との「契約の血」。 同書27章33〜37節「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである。』と書いた罪状書きを掲げた。」。 「彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け 」は、次のダビデの祈り(預言)の成就。旧約聖書・詩篇22章18節「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」。 新約聖書・マタイの福音書27章45〜46節「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」。 同書27章48節「また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。」。 同書27章50〜51節「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!