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ダーク・タワー3 荒地



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ダーク・タワー3 荒地の評価: 7.00/10点 レビュー 1件。 Cランク
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全1件 1~1 1/1ページ
No.1:
(7pt)

シリーズの再生と再出発の物語…のはずなのだが

ガンスリンガーシリーズ3作目の本書は前作で新たにローランド・デスチェインの仲間になったエディ・ディーンとスザンナとの邂逅から数か月経った、森で療養中のローランドが彼ら2人にガンスリンガーとしての技術を教えているところから始まる。

そして今回の目的は<暗黒の塔>を目指すとともに1巻で亡くしたジェイク・チェンバーズを再び彼の世界からこちらの世界に引き入れ、仲間にすることだ。
つまり前作で手に入らなかった3人目の仲間こそがこのジェイク・チェンバーズであることが明らかになる。

さてこのジェイク。最初にガンスリンガーの世界に来たときは彼の住む世界、つまり我々の住む世界でガンスリンガーの宿敵<黒衣の男>ウォルター・オディムによって道路に突き出された結果、車に轢かれて亡くなってしまい、そしてローランドたちの世界、今回<中間世界>と称されている世界に移るわけだが、そこでもローランドの<暗黒の塔>を取るかジェイクの命を救うかの二者択一の選択に迫られ、そして亡くなってしまう。

私が第1作目の感想に書いているように、このジェイクという少年がそのまま終わるわけではなく、本書で再び蘇る。中間世界で一旦命を落としたジェイクは再び我々の住まう世界で新たな命を授かり、日常を生きている。
しかし彼には以前自分が双方の世界で亡くなった記憶を持っていた。

この辺のパラドックスについてキングはローランドとエディとの対話で説明がなされる。
一本の人生の線があり、その時々で選択せざるを得ない状況に出くわし、そこで道が2つに分岐するが、それは実は2つではなく、その2つの選択肢と平行に別の分岐点が生まれ、それらが並行している。そして選んだ選択肢の記憶は残しながらも選択によって生まれた別の分岐点、即ち新たな世界に人は亡くなると移行し、再び人生を歩む。しかも一旦自分の世界と<中間世界>での記憶を留めたままに。

昔の映画で『恋はデジャヴ』という何度も同じ日を行き来する男の物語があったが、つまりはそれと同じか。
<中間世界>に来た人間は一旦そこで命を喪うとリセットされ、また別の次元の世界を生きることになる。しかし記憶は留めたままだから、自分が命を落とした事件も知っているのだ。

しかしそれが再び起こるとは限らず、実際、「その日」が訪れた際に死を覚悟したジェイクには結局前回自分を殺したウォルターは現れず、生き長らえる。

ただこういう設定はあまり好きではない。それはある特定の人物を特別視し、いくら死んでも再びどこかの世界にいて同じような暮らしを送るならばそこに死に対する恐怖が生まれないからだ。
したがってキングが描いたのはジェイクの「ここではないどこか」を渇望する心だ。ジェイクは自身が生きている現実世界よりもローランドが<暗黒の塔>を目指す<中間世界>こそ自分の居場所があると確信するようになる。物語の前半は生き死人と化したジェイクが本来いるべき場所<中間世界>に行くまでの物語を濃厚に描く。

このジェイクが<中間世界>に再び舞い戻るシーンは新たな生の誕生のメタファーだ。

例えば彼をこちらの世界に引き入れるためにはその場所を守る妖魔がおり、それと戦っても勝つことはできない。したがってジェイクを引き入れるためにはそれを引き付けていなければならないがその方法がセックスをすることなのだ。
セックスは妖魔の武器であると共に弱点でもあり、その相手をするのがスザンナである。即ちジェイクがこちらに世界に来るまでの間にセックスし続けなければならない。

そしてジェイクが<中間世界>に来るシーンについて作者自身も明確に比喩しているようにそれはまさにお産を象徴している。

我々の世界と<中間世界>とを結ぶドア。その中に入り込み、漆喰男によって<中間世界>への扉をくぐるのを阻まれていたジェイクをローランドが助け、そしてエディがローランドもろともジェイクを引き入れるさまをキングは産婆の役割を果たしたと例える。

つまり1巻で印象的な登場をしながらも特段目立った活躍もせずに消え去った少年ジェイクを再びこの物語に引き戻すことこそがシリーズの新たな生の誕生、即ちこの<暗黒の塔>シリーズの新たな幕開けを象徴しているのだ。

そして本書の後半は<荒地>を横断する高速のモノレール、ブレインを求める旅へと移る。そのブレインはジェイクが彼の世界の図書館で借りた『シュシュポッポきかんしゃチャーリー』に由来する。
このかつてはみんなの人気者だった物云う機関車チャーリーがその後に導入された最新鋭の機関車にその役目を取って代わられ、その機関士もまた配置換えされるが、イベントの日に最新鋭の機関車の異常が発覚し、忘れ去られていた存在だったチャーリーが再び日の目を浴びて再生を果たすこの物語は実在する絵本の話だが、これもまたジェイク自身の再生を象徴しており、そしてこの誰もが親しむ絵本のチャーリーと機関士ボブ、そして喜ぶ子供たちを描いた絵を見てジェイク達は和むどころか狂気を感じ、そして喜ぶ子供たちは無理やり乗せられて知らない場所に連れていかれそうになって泣いていると、全く真逆の受け取り方をする。

そしてそれはそのままキング自身が感じた恐怖の原初体験なのだろう。

我々の世代で人語を解する機関車と云えば『きかんしゃトーマス』だ。だからそれになぞらえて考えれば、確かにどこか不気味なものを感じる。
私が『きかんしゃトーマス』を観たのは幼少時代ではなく、我が子が興味を持ったからで、つまり大人になってから観たのだが、最初は確かに薄気味悪くてどこに可愛さを感じて、これほど人気があるのかが判らなかった。しかし次第に慣れてくるといつしかそんな思いは消え去ってしまっていたのだが、そんな恐怖を大人になっても覚えているのがキングの凄さか。ある意味、自身の子供時代をコミカルに描いた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこに通ずるものがある。

そしてそのモチーフをそのまま畏怖の対象としてキングはブレインという人語を解する機関車として登場させる。それはさながらスフィンクスのように謎解きに正解しなかったら容易に業火で焼き尽くす恐怖の存在として。

このブレインを始めとする機械たちは二極性コンピューターというものを備えていて、彼が<ラド>の町を制している。そこに住む人間たちの命は彼らによって生殺与奪されているのだ。物語の後半でジェイクを仲間に引き入れようと企む、圧倒的な絶望感を与えるほどの威圧感があるチクタク・マンことアンドリュー・クイックでさえ二極性コンピュータを恐れている。

そしてそれを裏付けるかの如く、<ラド>の町は町を管理しているコンピュータとブレインによって業火が巻き起こり、毒ガスが散布され、そしてそれらの名状し難い恐怖に囚われ、次から次へと自殺していく。それは将来機械に支配された社会の悲惨な末路を示唆しているかのようだ。いやもしくはいつか都会で起こるであろうサリン散布などの毒ガステロへの警告なのかもしれない。

ところで何とも憎たらしい存在として登場する超高速モノレール、ブレインだが、どうにか彼の掛けた謎を解いて車内に入ると最新鋭の技術と設備を備えた乗り物であることが判明する。
私が特に驚いたのは拡大透視装置と呼ばれる最新鋭のヴィジュアルモードだ。それは車体の壁に外の画像を映し出し、あたかも中空にいるかのように錯覚させる技術だ。実はこれは今開発がなされている、ドラえもんの透明マントの実用化ともいわれる光学迷彩技術だ。今導入が考えられている案の一つが自動車の車内の壁に施して外部の様子を見せ、360°死角なしでドライヴァーや同乗者が見れるようにして事故を未然に防げるようにするというものだ。
これをキングが1991年の時点で考えていたとは驚きだ。単なる着想の1つかもしれないが。

しかしキングがこのガンスリンガーシリーズの世界観をどこまで作っていたかは知らないが、私はどうも行き当たりばったりで書き始めたかのように感じる。

描かれている世界観がなかなか頭に映像として浮かばなかった。作者のイマジネーションが共有できないのだ。

特に本書独特の単語の意味を理解するのに記憶を掘り返す必要がある。もしかしたら<暗黒の塔>シリーズ用語集を作る必要があるかもしれない。

例えばようやく本書で最後の仲間ジェイクを得て3人の旅の仲間ができたが彼らのことを<カ・テット>と呼ぶこと。その意味は運命によって結束した人々の集団を指す。

その中の<カ>は1巻では邪な心を抱かされる力のように書かれていたが、正直あまり理解できていない。本書の目的である<暗黒の塔>を目指すにはどうしても通り抜けなければならない荒地は<ドロワーズ>と呼ばれていること

ただし最後に登場する荒地の光景を見てスザンナが『指輪物語』の<モルドール>の中心、<運命の亀裂>というのは即ちこのことかと零すシーンでようやく共有できた。
そうそう忘れていた。本書が『夕陽のガンマン』と『指輪物語』に触発されて書かれていたことに。

とにかく今後どのように展開するのか、次巻を待つことにしよう。


▼以下、ネタバレ感想

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