オイディプス症候群

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あらすじ

2022年11月30日 オイディプス症候群 (創元推理文庫)

第3回本格ミステリ大賞受賞作!嵐で孤立した島で起きたギリシア神話をなぞるような奇怪な連続殺人の真相とは?矢吹駆シリーズ中の白眉謎の病に罹患したウイルス学者フランソワから預かった資料を、ナディア・モガールと矢吹駆は、フランソワの師マドック博士に届けるべくエーゲ海のミノタウロス島に渡る。島の館には十人の男女が滞在することになるが、嵐で島は孤立、ギリシア神話をなぞるように装飾された客の死体が次々に発見される! 奇怪な連続殺人の真相は? シリーズ中の白眉。第3回本格ミステリ大賞受賞作。解説=飯城勇三(「BOOK」データベースより)

評判

オイディプス症候群の評価:

7.00/10点 レビュー 2件。 B ランク

書評・レビュー点数毎のグラフです

平均点7.00pt

オイディプス症候群の総合評価:

8.17/10点 レビュー 35件。

感想一覧

サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

全1件 1〜1 1/1ページ
No.1
(6pt)

クローズドサークル本格ミステリならどんなに長くても苦にならない……そう思っていた時期がありました

ギリシャ神話の「ミノタウルスの迷宮」をモチーフに孤島に建てられた館で起こる連続見立て殺人事件。
1400ページを超える大作クローズドサークル作品であり、さらにクローズドサークルそのものも一つのテーマになっているメタミステリ作品でもあるという、まさにクローズドサークルマニアの私のためにあるかのような作品だと思ったのですが、読んでみるととにかく話がなかなか先に進まず、決して駄作とは思わないのですが、読んでて辛いものがありました。
クローズドサークル本格ミステリだったらどんな長くても無問題、むしろ望むところと考えていて『暗黒館』も『人狼城』も「なげー、なげー(笑)」言いながらも楽しく読んでいた私ですがこれはキツかったです。上の2作を読むのにかかった時間を足したののさらに倍ぐらいかかって読みました。

話を無駄に長くしているのはやはりこのシリーズの特色である哲学的なペダントリー。
ギリシャ神話は好きなのでそれ自体は割と興味深く読めたのですが、如何せんクローズドサークルシチュエーションとは相性が悪い。連続殺人犯と一緒に閉じ込められてる状況でそんなこと話してる場合じゃないだろっていうツッコミが頭をよぎるし、かと言ってそれを無視すると今度はせっかくのクローズドサークルの緊迫感が失われてしまうという。

大掛かりな見取り図があった割にはあんまり推理やトリックに関係ないのも残念でした。



▼以下、ネタバレ感想

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マリオネットK
UIU36MHZ

Amazonレビュー

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

No.33
(5pt)

現象学的推理による本質的直観による探偵

笠井潔の代表作の一つであり、現象学的思索に満ちた長大な哲学ミステリー『オイディプス症候群』は、2002年に刊行された。
 全865ページという厚さは、その重厚さと深遠さの象徴であり、簡単に読書は難しい。
本書を読む者には、相応の覚悟と根気が求められる。本書は哲学・思想の論議と、それを基にしたミステリー的展開とを両立させる、難解でありながらも読む挑戦を強いられる。本書は、単なる推理小説にとどまらず、フッサール現象学やイギリス経験論、さらには東洋哲学や宗教思想との融合を追究した、思想的な作品である。

 本書の中心的テーマの一つは、「現象学的本質直観」の概念である。この用語は、フッサールの哲学において極めて重要なものである。フッサールによれば、「本質直観」とは、個別具体的な事象を超え、その背後に潜む普遍的な本質を直観的に捉える認識の能力である。リンゴの色を見たとき、その具体的なリンゴの色彩を超え、すべてのリンゴに共通する「赤さ」を把握しようとする知的態度こそが、「本質直観」の意義である。

 これにより、感覚的経験から抽出される普遍的真理の確立と、その基盤を支えるための現象学的還元の方法論が生まれる。すなわち、先入観や自然的態度を一時的に判断停止(エポケー)し、純粋な意識の構造を分析し、背後の本質を直観することが主眼とされる。

 笠井潔がここで展開する「矢吹駆」の「本質直観」は、これらと一線を画している。それは、あくまでミステリー的探究において、個々の事件の背後にある根源的な思想や歴史的背景を直観的に「見抜く」ことを目的とする、独自の応用思想である。言わば、フッサールの哲学的手法をミステリー作法に転用し、「事件の深層に潜む意味や背景を直観的に理解し」ようとする、アクティブな認識の仕方である。

 例えば、首のない死体の出現という奇怪な事件が起きた場合、その場の事実や証拠の羅列だけでは解決できない。探偵の矢吹駆は、「なぜ首を隠す必要があったのか」「なぜこのような方法で死体を残すのか」といった問いを立て、その背後にある思想や背景を直観的にとらえる。これは、表層的な論理証拠の積み上げを超えた、事件の背後に潜む「意味の系譜」を見抜く行為のようだ。こうしたアプローチは、従来の探偵小説の枠組みにはない、哲学的奥深さと思索行動を伴う。

 この点で、フッサールの「本質直観」と、笠井の「矢吹の本質直観」は、目的において明確な差異を持つ。前者は抽象的な哲学的作業として、個々の事例から普遍的な本質を抽出することに終始するのに対し、後者は事件の「意味」を解明し、社会的・歴史的な側面を直観し、深層にある思想展開や文化的背景を掘り起こすことに重きを置く点で異なるのである。

 さらに本書は、哲学的な論議だけにとどまらず、東洋思想や宗教的な概念にも踏み込む。笠井は、ヒンドゥー教の聖者が語る「彼方にあるものは彼方にあるものだ」「ここにないものはどこにもない」との言葉に、フッサールの現象学のエッセンスを見出す。これは、「ここ」(phenomenon)と「彼方」(beyond)を二分しない、今ある現象そのものの深さを追究する思想といえる。ヒンドゥー思想の「梵我一如」「アートマンとブラフマンの一体性」も、認識の根源にある「自己と世界の絶対的同一性」を示し、現象学の「事象そのものへ」の態度とも共鳴する。

 このように、フッサールの「現象学」は、「事象の純粋記述」を目的とし、「先入観排除」の通奏低音を奏でる。彼の「志向性」に着目した理論は、「対象の意識的構造」を明らかにし、外部世界の本質に迫るための方法論を提供した。一方で、イギリス経験論の系譜を持つ伝統は、「感覚経験のみが知識の源泉」とし、「外界の本質の直接知識は困難」という懐疑的立場をとる。これに対し、フッサールは、「意識の構造」に着目し、「意味」や「志向性」の働きにより、外部現象の本質へと至る道を切り開こうとした。

 ハイデッガーの哲学も絡む。彼は、「私の死を死ぬ」ことの哲学的意義を、個人の非代替性と孤独性において解釈した。死は、「他者にとっての出来事」ではなく、「私にとっての究極の一回限りの経験」であり、その瞬間、あらゆる他者や外界は閉ざされる。自己の死と向き合うことにより、より深い自己理解と自己の実存性を高めることが可能とされる。これは、自己喪失や解放を説いた東洋思想や、西洋の存在論とも呼応し、また、本書の中核的テーマの一つとなる。

 物語の一環として、ナディアと矢吹の哲学的対話も重要な役割を果たす。「自分が悪であることを知った時、どんなに苦しいことか」と矢吹は語る。これは、自己認識と責任の問題を示唆し、悪と闘うこと、それ自体が「究極の離脱(解脱)」につながるという思想を反映している。彼の言う「地上に還って悪と闘え」という言葉は、まさに探偵の倫理と重なる。通常のミステリーでは、謎解きが主な関心事であるが、笠井は「悪と対決し、その本質を理解することこそ、真の目的」と位置づける。

 さらに、歴史的な背景も絡む。1968年の世界的な反体制運動群、フランスの五月革命、プラハの春、アメリカの反戦運動などを引き合いに出し、その時代の社会的変動を文化的背景としながら、矢吹駆や笠井の思想を展開させる。1968年は、「新しい時代の幕開け」かつ、「終焉」の象徴ともなり得る年として、著者の思想的スプリングボードに位置付けられる。

 知性と感情の相互作用もテーマの一つ。ナディアと矢吹の関係性を通して、「男が追いかけ女が逃げる」原理の心理、生物学、社会文化的根拠を考察。進化心理学、文化的ジェンダーステレオタイプに基づき、多層的な解釈を織り交ぜる。矢吹は、「身体的差異よりも、精神的・倫理的な価値の同一性」が人間の根源的な普遍性であるとする。

 こうした思索の合間に、クレタ島のエピソードや迷宮、ミノタウロス伝説といった文化人類学的考察も交え、儀式、魔除け、権力の象徴としての迷宮の歴史性を掘り下げる。迷宮は、ただの迷路ではなく、「死と再生の象徴」「未知なる自己の探索装置」としての深い意味を持っている。渦巻き模様は、生命の循環や宇宙の秩序の象徴であり、その形象は、自然界や神話の中に遍在する。

 最後に、物語のクライマックスにおいて、殺人事件の真相と共に、ウイルス拡散を企てるニコライイリイチの陰謀も明らかとなる。矢吹の「本質直観」により、事件の背後にある「オイディプス症候群」のウイルスの連鎖とその背景に潜む闇の意図が解明される瞬間は、まさに計り知れないスリルと思想的緊張に満ちている。

 総じて、『オイディプス症候群』は、哲学的思索とミステリーの融合を目指した、挑戦的かつ壮大な作品である。笠井潔は、単なる物語の枠を超え、読者に「深層の真実」に目を向けさせるための挑戦を仕掛けている。読者は、膨大な哲学的資料と物語の複雑な網の目を追いながら、自己と世界の根源的な関係性について、さまざまな視点から思弁し続ける必要がある。

 この作品を通じて、現象学の方法論が、ただの学問的な抽象ではなく、人間の存在理解や社会問題の解明にまで及ぶ可能性を示しているともいえよう。したがって本書は、哲学・思想の深淵を探求したい者、ミステリーの枠を超えた精神的な冒険を求める読者にとって、極めて意義深い書籍であると考えられる。
オイディプス症候群 (創元推理文庫) Amazon書評・レビュー: オイディプス症候群 (創元推理文庫)より
4488415113
No.32
(5pt)

現象学的推理による本質的直観による探偵

笠井潔の代表作の一つであり、現象学的思索に満ちた長大な哲学ミステリー『オイディプス症候群』は、2002年に刊行された。
 全865ページという厚さは、その重厚さと深遠さの象徴であり、簡単に読書は難しい。
本書を読む者には、相応の覚悟と根気が求められる。本書は哲学・思想の論議と、それを基にしたミステリー的展開とを両立させる、難解でありながらも読む挑戦を強いられる。本書は、単なる推理小説にとどまらず、フッサール現象学やイギリス経験論、さらには東洋哲学や宗教思想との融合を追究した、思想的な作品である。

 本書の中心的テーマの一つは、「現象学的本質直観」の概念である。この用語は、フッサールの哲学において極めて重要なものである。フッサールによれば、「本質直観」とは、個別具体的な事象を超え、その背後に潜む普遍的な本質を直観的に捉える認識の能力である。リンゴの色を見たとき、その具体的なリンゴの色彩を超え、すべてのリンゴに共通する「赤さ」を把握しようとする知的態度こそが、「本質直観」の意義である。

 これにより、感覚的経験から抽出される普遍的真理の確立と、その基盤を支えるための現象学的還元の方法論が生まれる。すなわち、先入観や自然的態度を一時的に判断停止(エポケー)し、純粋な意識の構造を分析し、背後の本質を直観することが主眼とされる。

 笠井潔がここで展開する「矢吹駆」の「本質直観」は、これらと一線を画している。それは、あくまでミステリー的探究において、個々の事件の背後にある根源的な思想や歴史的背景を直観的に「見抜く」ことを目的とする、独自の応用思想である。言わば、フッサールの哲学的手法をミステリー作法に転用し、「事件の深層に潜む意味や背景を直観的に理解し」ようとする、アクティブな認識の仕方である。

 例えば、首のない死体の出現という奇怪な事件が起きた場合、その場の事実や証拠の羅列だけでは解決できない。探偵の矢吹駆は、「なぜ首を隠す必要があったのか」「なぜこのような方法で死体を残すのか」といった問いを立て、その背後にある思想や背景を直観的にとらえる。これは、表層的な論理証拠の積み上げを超えた、事件の背後に潜む「意味の系譜」を見抜く行為のようだ。こうしたアプローチは、従来の探偵小説の枠組みにはない、哲学的奥深さと思索行動を伴う。

 この点で、フッサールの「本質直観」と、笠井の「矢吹の本質直観」は、目的において明確な差異を持つ。前者は抽象的な哲学的作業として、個々の事例から普遍的な本質を抽出することに終始するのに対し、後者は事件の「意味」を解明し、社会的・歴史的な側面を直観し、深層にある思想展開や文化的背景を掘り起こすことに重きを置く点で異なるのである。

 さらに本書は、哲学的な論議だけにとどまらず、東洋思想や宗教的な概念にも踏み込む。笠井は、ヒンドゥー教の聖者が語る「彼方にあるものは彼方にあるものだ」「ここにないものはどこにもない」との言葉に、フッサールの現象学のエッセンスを見出す。これは、「ここ」(phenomenon)と「彼方」(beyond)を二分しない、今ある現象そのものの深さを追究する思想といえる。ヒンドゥー思想の「梵我一如」「アートマンとブラフマンの一体性」も、認識の根源にある「自己と世界の絶対的同一性」を示し、現象学の「事象そのものへ」の態度とも共鳴する。

 このように、フッサールの「現象学」は、「事象の純粋記述」を目的とし、「先入観排除」の通奏低音を奏でる。彼の「志向性」に着目した理論は、「対象の意識的構造」を明らかにし、外部世界の本質に迫るための方法論を提供した。一方で、イギリス経験論の系譜を持つ伝統は、「感覚経験のみが知識の源泉」とし、「外界の本質の直接知識は困難」という懐疑的立場をとる。これに対し、フッサールは、「意識の構造」に着目し、「意味」や「志向性」の働きにより、外部現象の本質へと至る道を切り開こうとした。

 ハイデッガーの哲学も絡む。彼は、「私の死を死ぬ」ことの哲学的意義を、個人の非代替性と孤独性において解釈した。死は、「他者にとっての出来事」ではなく、「私にとっての究極の一回限りの経験」であり、その瞬間、あらゆる他者や外界は閉ざされる。自己の死と向き合うことにより、より深い自己理解と自己の実存性を高めることが可能とされる。これは、自己喪失や解放を説いた東洋思想や、西洋の存在論とも呼応し、また、本書の中核的テーマの一つとなる。

 物語の一環として、ナディアと矢吹の哲学的対話も重要な役割を果たす。「自分が悪であることを知った時、どんなに苦しいことか」と矢吹は語る。これは、自己認識と責任の問題を示唆し、悪と闘うこと、それ自体が「究極の離脱(解脱)」につながるという思想を反映している。彼の言う「地上に還って悪と闘え」という言葉は、まさに探偵の倫理と重なる。通常のミステリーでは、謎解きが主な関心事であるが、笠井は「悪と対決し、その本質を理解することこそ、真の目的」と位置づける。

 さらに、歴史的な背景も絡む。1968年の世界的な反体制運動群、フランスの五月革命、プラハの春、アメリカの反戦運動などを引き合いに出し、その時代の社会的変動を文化的背景としながら、矢吹駆や笠井の思想を展開させる。1968年は、「新しい時代の幕開け」かつ、「終焉」の象徴ともなり得る年として、著者の思想的スプリングボードに位置付けられる。

 知性と感情の相互作用もテーマの一つ。ナディアと矢吹の関係性を通して、「男が追いかけ女が逃げる」原理の心理、生物学、社会文化的根拠を考察。進化心理学、文化的ジェンダーステレオタイプに基づき、多層的な解釈を織り交ぜる。矢吹は、「身体的差異よりも、精神的・倫理的な価値の同一性」が人間の根源的な普遍性であるとする。

 こうした思索の合間に、クレタ島のエピソードや迷宮、ミノタウロス伝説といった文化人類学的考察も交え、儀式、魔除け、権力の象徴としての迷宮の歴史性を掘り下げる。迷宮は、ただの迷路ではなく、「死と再生の象徴」「未知なる自己の探索装置」としての深い意味を持っている。渦巻き模様は、生命の循環や宇宙の秩序の象徴であり、その形象は、自然界や神話の中に遍在する。

 最後に、物語のクライマックスにおいて、殺人事件の真相と共に、ウイルス拡散を企てるニコライイリイチの陰謀も明らかとなる。矢吹の「本質直観」により、事件の背後にある「オイディプス症候群」のウイルスの連鎖とその背景に潜む闇の意図が解明される瞬間は、まさに計り知れないスリルと思想的緊張に満ちている。

 総じて、『オイディプス症候群』は、哲学的思索とミステリーの融合を目指した、挑戦的かつ壮大な作品である。笠井潔は、単なる物語の枠を超え、読者に「深層の真実」に目を向けさせるための挑戦を仕掛けている。読者は、膨大な哲学的資料と物語の複雑な網の目を追いながら、自己と世界の根源的な関係性について、さまざまな視点から思弁し続ける必要がある。

 この作品を通じて、現象学の方法論が、ただの学問的な抽象ではなく、人間の存在理解や社会問題の解明にまで及ぶ可能性を示しているともいえよう。したがって本書は、哲学・思想の深淵を探求したい者、ミステリーの枠を超えた精神的な冒険を求める読者にとって、極めて意義深い書籍であると考えられる。
オイディプス症候群 (カッパ・ノベルス) Amazon書評・レビュー: オイディプス症候群 (カッパ・ノベルス)より
4334076416
No.31
(5pt)

現象学的推理による本質的直観による探偵

笠井潔の代表作の一つであり、現象学的思索に満ちた長大な哲学ミステリー『オイディプス症候群』は、2002年に刊行された。
 全865ページという厚さは、その重厚さと深遠さの象徴であり、簡単に読書は難しい。
本書を読む者には、相応の覚悟と根気が求められる。本書は哲学・思想の論議と、それを基にしたミステリー的展開とを両立させる、難解でありながらも読む挑戦を強いられる。本書は、単なる推理小説にとどまらず、フッサール現象学やイギリス経験論、さらには東洋哲学や宗教思想との融合を追究した、思想的な作品である。

 本書の中心的テーマの一つは、「現象学的本質直観」の概念である。この用語は、フッサールの哲学において極めて重要なものである。フッサールによれば、「本質直観」とは、個別具体的な事象を超え、その背後に潜む普遍的な本質を直観的に捉える認識の能力である。リンゴの色を見たとき、その具体的なリンゴの色彩を超え、すべてのリンゴに共通する「赤さ」を把握しようとする知的態度こそが、「本質直観」の意義である。

 これにより、感覚的経験から抽出される普遍的真理の確立と、その基盤を支えるための現象学的還元の方法論が生まれる。すなわち、先入観や自然的態度を一時的に判断停止(エポケー)し、純粋な意識の構造を分析し、背後の本質を直観することが主眼とされる。

 笠井潔がここで展開する「矢吹駆」の「本質直観」は、これらと一線を画している。それは、あくまでミステリー的探究において、個々の事件の背後にある根源的な思想や歴史的背景を直観的に「見抜く」ことを目的とする、独自の応用思想である。言わば、フッサールの哲学的手法をミステリー作法に転用し、「事件の深層に潜む意味や背景を直観的に理解し」ようとする、アクティブな認識の仕方である。

 例えば、首のない死体の出現という奇怪な事件が起きた場合、その場の事実や証拠の羅列だけでは解決できない。探偵の矢吹駆は、「なぜ首を隠す必要があったのか」「なぜこのような方法で死体を残すのか」といった問いを立て、その背後にある思想や背景を直観的にとらえる。これは、表層的な論理証拠の積み上げを超えた、事件の背後に潜む「意味の系譜」を見抜く行為のようだ。こうしたアプローチは、従来の探偵小説の枠組みにはない、哲学的奥深さと思索行動を伴う。

 この点で、フッサールの「本質直観」と、笠井の「矢吹の本質直観」は、目的において明確な差異を持つ。前者は抽象的な哲学的作業として、個々の事例から普遍的な本質を抽出することに終始するのに対し、後者は事件の「意味」を解明し、社会的・歴史的な側面を直観し、深層にある思想展開や文化的背景を掘り起こすことに重きを置く点で異なるのである。

 さらに本書は、哲学的な論議だけにとどまらず、東洋思想や宗教的な概念にも踏み込む。笠井は、ヒンドゥー教の聖者が語る「彼方にあるものは彼方にあるものだ」「ここにないものはどこにもない」との言葉に、フッサールの現象学のエッセンスを見出す。これは、「ここ」(phenomenon)と「彼方」(beyond)を二分しない、今ある現象そのものの深さを追究する思想といえる。ヒンドゥー思想の「梵我一如」「アートマンとブラフマンの一体性」も、認識の根源にある「自己と世界の絶対的同一性」を示し、現象学の「事象そのものへ」の態度とも共鳴する。

 このように、フッサールの「現象学」は、「事象の純粋記述」を目的とし、「先入観排除」の通奏低音を奏でる。彼の「志向性」に着目した理論は、「対象の意識的構造」を明らかにし、外部世界の本質に迫るための方法論を提供した。一方で、イギリス経験論の系譜を持つ伝統は、「感覚経験のみが知識の源泉」とし、「外界の本質の直接知識は困難」という懐疑的立場をとる。これに対し、フッサールは、「意識の構造」に着目し、「意味」や「志向性」の働きにより、外部現象の本質へと至る道を切り開こうとした。

 ハイデッガーの哲学も絡む。彼は、「私の死を死ぬ」ことの哲学的意義を、個人の非代替性と孤独性において解釈した。死は、「他者にとっての出来事」ではなく、「私にとっての究極の一回限りの経験」であり、その瞬間、あらゆる他者や外界は閉ざされる。自己の死と向き合うことにより、より深い自己理解と自己の実存性を高めることが可能とされる。これは、自己喪失や解放を説いた東洋思想や、西洋の存在論とも呼応し、また、本書の中核的テーマの一つとなる。

 物語の一環として、ナディアと矢吹の哲学的対話も重要な役割を果たす。「自分が悪であることを知った時、どんなに苦しいことか」と矢吹は語る。これは、自己認識と責任の問題を示唆し、悪と闘うこと、それ自体が「究極の離脱(解脱)」につながるという思想を反映している。彼の言う「地上に還って悪と闘え」という言葉は、まさに探偵の倫理と重なる。通常のミステリーでは、謎解きが主な関心事であるが、笠井は「悪と対決し、その本質を理解することこそ、真の目的」と位置づける。

 さらに、歴史的な背景も絡む。1968年の世界的な反体制運動群、フランスの五月革命、プラハの春、アメリカの反戦運動などを引き合いに出し、その時代の社会的変動を文化的背景としながら、矢吹駆や笠井の思想を展開させる。1968年は、「新しい時代の幕開け」かつ、「終焉」の象徴ともなり得る年として、著者の思想的スプリングボードに位置付けられる。

 知性と感情の相互作用もテーマの一つ。ナディアと矢吹の関係性を通して、「男が追いかけ女が逃げる」原理の心理、生物学、社会文化的根拠を考察。進化心理学、文化的ジェンダーステレオタイプに基づき、多層的な解釈を織り交ぜる。矢吹は、「身体的差異よりも、精神的・倫理的な価値の同一性」が人間の根源的な普遍性であるとする。

 こうした思索の合間に、クレタ島のエピソードや迷宮、ミノタウロス伝説といった文化人類学的考察も交え、儀式、魔除け、権力の象徴としての迷宮の歴史性を掘り下げる。迷宮は、ただの迷路ではなく、「死と再生の象徴」「未知なる自己の探索装置」としての深い意味を持っている。渦巻き模様は、生命の循環や宇宙の秩序の象徴であり、その形象は、自然界や神話の中に遍在する。

 最後に、物語のクライマックスにおいて、殺人事件の真相と共に、ウイルス拡散を企てるニコライイリイチの陰謀も明らかとなる。矢吹の「本質直観」により、事件の背後にある「オイディプス症候群」のウイルスの連鎖とその背景に潜む闇の意図が解明される瞬間は、まさに計り知れないスリルと思想的緊張に満ちている。

 総じて、『オイディプス症候群』は、哲学的思索とミステリーの融合を目指した、挑戦的かつ壮大な作品である。笠井潔は、単なる物語の枠を超え、読者に「深層の真実」に目を向けさせるための挑戦を仕掛けている。読者は、膨大な哲学的資料と物語の複雑な網の目を追いながら、自己と世界の根源的な関係性について、さまざまな視点から思弁し続ける必要がある。

 この作品を通じて、現象学の方法論が、ただの学問的な抽象ではなく、人間の存在理解や社会問題の解明にまで及ぶ可能性を示しているともいえよう。したがって本書は、哲学・思想の深淵を探求したい者、ミステリーの枠を超えた精神的な冒険を求める読者にとって、極めて意義深い書籍であると考えられる。
オイディプス症候群 Amazon書評・レビュー: オイディプス症候群より
4334923577
No.30
(4pt)

本格ミステリのミステリ

いやあ長かった。
分冊でもない本書ですが、いつもの寝ながら読みには支える手が疲れました。

相変わらず著者も著作も全く知らずに、ただただ「本格ミステリ大賞受賞」というのと、この分厚さに惹かれて購読。なので矢吹駆が主人公の連作とももちろん知らず、とはいえ序章でザイールのジャングルの描写から始まる物語に、期待が膨らむじゃありませんか!
ミステリには興味があるものの、”本格”なるものがよくわかっていないのだけど「虚無への供物」や「ミステリオペラ」あるいは(ちょっと違うけど長いということでは)「薔薇の名前」は面白かったので、そんな趣のお話と勝手に思ってた次第。
で、読み進んでいくと、AIDSと容易に想像がつく”オイディプス症候群”という感染症とギリシャ神話、テラーであるナディア・モガールと現象学による探偵役の矢吹駆、そしとその天敵、あとは思想闘争やら推理小説の論評やらが話の中に錯綜して進んでいきますがーいやあ、難しかった。
ギリシャ神話にも詳しくないし、ここで語られるような哲学?論争にも昏い、ましてや”本格”というミステリの理もよく知らない人間にとっては、なんだかよくわからないうちに、それでも引き返せない物語を並走した感じです。
なので印象くらいしか思いつかないのだけれど、”本格”ミステリなるものが、きわめて演劇性の高いものであることと、(こう言っては何ですが)予期せぬことというのが都合よく物語の裏書をしているのは”本格”でも”非格”(なるのもがあるのかどうか)でも同じなんだなあ、と思いました。その点、自分としては、動機にしろ殺害方法にしろ、そういったハプニング抜きの、堅牢に構築された理論というのを期待したかったのですが、その点は少し残念でした。とはいえ、これだけ長い物語を最後まで読ませられたということでは、やはり面白かったのだと思います(多少、歯切れが悪いが)。

著者はミステリの評論でも高い評価を受けているだけでなくSFも著している人らしいのですが、「ミステリオペラ」の山田正紀も元はといえばSF書きだし、自分がなじみの半村良や筒井康隆なんかもミステリ(といわれる)ものを書いてるしなあ・・物語の広げ方と回収の仕方ということでは、SFとミステリも似ているところがあるのかも、なんて関係ないことも思ったりしました。
オイディプス症候群 (創元推理文庫) Amazon書評・レビュー: オイディプス症候群 (創元推理文庫)より
4488415113
No.29
(4pt)

本格ミステリのミステリ

いやあ長かった。
分冊でもない本書ですが、いつもの寝ながら読みには支える手が疲れました。

相変わらず著者も著作も全く知らずに、ただただ「本格ミステリ大賞受賞」というのと、この分厚さに惹かれて購読。なので矢吹駆が主人公の連作とももちろん知らず、とはいえ序章でザイールのジャングルの描写から始まる物語に、期待が膨らむじゃありませんか!
ミステリには興味があるものの、”本格”なるものがよくわかっていないのだけど「虚無への供物」や「ミステリオペラ」あるいは(ちょっと違うけど長いということでは)「薔薇の名前」は面白かったので、そんな趣のお話と勝手に思ってた次第。
で、読み進んでいくと、AIDSと容易に想像がつく”オイディプス症候群”という感染症とギリシャ神話、テラーであるナディア・モガールと現象学による探偵役の矢吹駆、そしとその天敵、あとは思想闘争やら推理小説の論評やらが話の中に錯綜して進んでいきますがーいやあ、難しかった。
ギリシャ神話にも詳しくないし、ここで語られるような哲学?論争にも昏い、ましてや”本格”というミステリの理もよく知らない人間にとっては、なんだかよくわからないうちに、それでも引き返せない物語を並走した感じです。
なので印象くらいしか思いつかないのだけれど、”本格”ミステリなるものが、きわめて演劇性の高いものであることと、(こう言っては何ですが)予期せぬことというのが都合よく物語の裏書をしているのは”本格”でも”非格”(なるのもがあるのかどうか)でも同じなんだなあ、と思いました。その点、自分としては、動機にしろ殺害方法にしろ、そういったハプニング抜きの、堅牢に構築された理論というのを期待したかったのですが、その点は少し残念でした。とはいえ、これだけ長い物語を最後まで読ませられたということでは、やはり面白かったのだと思います(多少、歯切れが悪いが)。

著者はミステリの評論でも高い評価を受けているだけでなくSFも著している人らしいのですが、「ミステリオペラ」の山田正紀も元はといえばSF書きだし、自分がなじみの半村良や筒井康隆なんかもミステリ(といわれる)ものを書いてるしなあ・・物語の広げ方と回収の仕方ということでは、SFとミステリも似ているところがあるのかも、なんて関係ないことも思ったりしました。
オイディプス症候群 (カッパ・ノベルス) Amazon書評・レビュー: オイディプス症候群 (カッパ・ノベルス)より
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