求婚する男
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求婚する男の総合評価:
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全1件 1~1 1/1ページ
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おいおい、どうしてこうなるの?なぜこの作家はハッピーエンドがこうも嫌いなのだろうか?たまには素直に物語を収束させてもいいんじゃないの? | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
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売人から這い上がって富を手に入れた男。恋人だったはず(!)の女性には、いつの間にか婚約者が。金を手に入れ、美しい女性から愛されても、どん底の頃出会った女性が忘れられず、想いは狂気を帯びていくというお話しである。 タイトルはそのまんま、主人公をあらわしている。普段はアウトローな男っぷりでありながら、愛する女性の前では情けない行動を取ってしまう主人公。純愛に絡め取られ、我を忘れていく姿には、同情すら覚える。同時に、愛する女性の欺瞞を上手く描いて見せてくれる。 ラストは想定内だが、単なるストーカー話しとして簡単に片付けられないもの哀しい余韻を残すのだった。 | ||||
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貧民窟出身のヤクザなガイは純情。ビビアンリーににた微笑の知的階層のレオノーラを愛し続けるが…。 『嵐が丘』のヒースクリフになろうとした男、というとわかりやすいと思う。 巻末に、翻訳者羽田詩津子さんのイギリスで、ガイやレオノーラのいた町を探訪する一文があり、町の雰囲気を伝えている。今でもこういう階級社会はあるのではないか。作者のルース・レンデルは古びない。 | ||||
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この中の男性ガイは、レオノーラを激しく愛し過ぎるあまり、正気と狂気の境を飛び越え、暴走してしまう。 そのため、この物語に描かれた内容は、あくまで、単なる、異常な人物の異常な愛、としてだけ、捉えられてしまう可能性もある。 しかし、必ずしもこのガイに、どっぷりと感情移入まではできないにしても、恋をすれば皆一度は、以下のような苦しみを味わったことはないだろうか? この男性のように、苦しい恋の果てに、ついには狂気にまで至ってしまうことは、ごく稀であるとはいえ。 なぜ、自分のことを決して愛してくれない相手、そして絶望感や苦しさ、切なさが深まるだけの恋なのに、なぜ、ここまで彼、彼女を愛し続けてしまうのか? なぜ、彼、彼女でなくてはならないのか?他に自分を好きでいてくれて、自分もすぐに幸せになれそうな恋が、振り向けばすぐ側にあるというのに。 しかし、このように自分に好意を持ってくれる相手を、そのまま素直に自分も愛することができれば、古今東西、これほど多くの男女が、決して報われない恋に、悩み苦しんだりはしないだろう。 そんな恋の不可思議さが、克明に描き出されているという点で、この作品はやはり傑作だと思う。 そして一見、もうじき、婚約者との結婚を控え、勘違い男に追いかけられ続けている、不幸な被害者であるかのように見える女性、レオノーラである。 だが、こんな彼女にも、決して落ち度はないとはいえないのが、ミソである。 そもそも、物語の後半で、ガイが相変わらず、本当に愛し続けているのは、かつての恋人レオノーラだけであると知りつつも、ひたすらありのままのガイを愛し続ける、ひたむきな女性セレステ。 彼女により、良識ある女性に見えるレオノーラの、隠された欺瞞、醜さが明言されるその時まで。 しかし、その前に、実は読者達も、とっくの昔に別れた元恋人と、しかも間近に婚約者との結婚までも控えているというのに、ガイといまだに恋人同士であるかのように、土曜日にランチをし続ける彼女の行動のおかしさ、これに対する違和感を、しばしば覚えるはずである。 むしろ、彼女のこのような行動は、別れた相手であるガイに対しても、そしてもうすぐ結婚する予定の、現在の恋人に対しても、不誠実なのではないだろうか? このように、別れてからも好きな女性と定期的に会ってもらえたら、まだまだ未練たっぷりの男性は、否が応でも、復縁に期待するのは当然である。別れてから、よりを戻す気がない相手とは、一切連絡を断つというのが、別れた相手に対する、本当の思いやり、誠意であることがわかる。 しかし、この物語のレオノーラはそうはしない。そして、それは自身も言っているような、何やら適当な綺麗ごとのような理由からではない。 ガイに対する、できる限りの、誠意からでもない。 要するに、女というものは、別れてからも、ひたすらに自分をいまだに愛し続けてくれる崇拝者がいるというのは、大変に心地よく、女心をくすぐられるものなのである。しかも、それが見栄えのする相手であるなら、なおさらである。 つまり、彼女はしっかりと今の恋人との将来の幸せも確保しつつ、またその一方では、こうした密かな愉悦をも、けして手放したくはないのである。 レオノーラの行動には、見事に、こうした女特有の嫌らしさやエゴが、描き出されていると思う。 もし、彼女がこうした半端な対応をせず、別れると同時に、ガイとは一切の連絡を絶ち、二度と彼と会わないようにさえしていれば、ガイとて、無駄な希望を持ち続けなくても、済んだかもしれないのである。 そしてついには、セレステと本当の幸せを掴む、という未来さえも、あり得たかもしれないのである。 このように、実はけしてこのレオノーラという女性も、かわいそうなただの被害者ではなく、ガイに無駄な希望を与え続け、彼の苦しみを深めさせた、実はある意味、加害者でもあるのである。 更にその母親も、なかなか嫌な感じの人物である。ガイのことを、あからさまに見下し、軽蔑し、彼のことを面と向かって罵倒する。 それにしても、外見だけでなく、内面もいい女、という感じのセレステ、しかもひたむきかつ、本当の愛情を自分に捧げてくれる彼女ではなく、なぜレオノーラのような、特にこれといって魅力的な部分も、ないかに見える女性に、ガイがここまで執着し続けるのか、その理由が大変に不可解かつ、大変もどかしかった。 だが、これも恋というものの、理不尽さ、不可解さの一つなのであろう。 この作品は、その恋という感情が強ければ強い程、苦しみも深まる。そして恋というものが孕む、一種の恐ろしさ、やはり恋とは一種の狂気である、という側面を余す所なく、描き出している。 | ||||
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レンデル純愛二部作の一作目。レンデルがきっつーいミステリ小説家だと思ったら大間違い!パトリシア・ハイスミスもそうだったように、物凄いロマンチストなのです。お話は主人公ガイは幼なじみの女性にとりつかれたように愛を捧げます。が、彼女は優しいが決してふりむきません。主人公の心理と泥沼に嵌っていく犯罪。八方塞がりの愛。次作、「石の微笑」と合わせて読みましょう。 | ||||
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