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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数217件
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人生の酸いも甘いも経験した大人たちを書かせたら一級品の作者による初の短編集。
開巻の1本目は「アメリカン・ルーレット」。 元相場師で今作家というおよそ作者自身を投影したような主人公。ここに書かれているバブル時代に合った高額金を賭け合う秘密の麻雀クラブは作者自身が経験したことだろう(しかし時効になっているのかな?)。 相変わらず気障な台詞回しが気になるが読み心地は悪くない。 「イヴの贈り物」は大手商事会社の部長である主人公戸辺と若い娘との交流の話だ。 亡き娘の代わりとばかりに可愛がる女性と大手企業で働く男の交流を描いた作品と思わせて、後半はガンに侵され余命幾許もない男の復讐の話へと展開する意外な物語運びが印象に残る。 戸辺と恵子の交流は男にとって理想的な関係であるのだが、結局借金で高利貸しから風俗で働くことを余儀なくされた恵子の境遇を知らずに父親代わりにと振舞っていた男のエゴに過ぎないことが解るところが、男の身には抓まされる思いがする。末期のガンが発覚し、退職してまで恵子をレイプし、死に至らしめた男に立ち向かう姿も、女性の目から見れば単なる自己満足の世界に過ぎないのかもしれないがこういう話は結構好きだ。 クリスマス・ストーリーにまた名作が誕生した。 続く表題作はこれまた泣ける1作だ。 時折挿入されるナミカジキら三人のエピソードが眩しい。まだ無限の可能性を秘め、何をやるのも無敵感を感じていた若いエネルギーが溢れてくる。 白川氏の筆致は決して起伏に富んだものではなく、むしろあふれ出るエネルギーを抑制するかのように淡々と語るのだが、それでもなお彼ら彼女らの青春は太陽のごとき眩しさを備えている。 その眩しさがあるからこそ並木、その妹理絵、そして梶らの「今」が痛切に響いてくる。 「浜のリリー」も切ない。 法月のリリーと過ごした日々の回想が良くて、とても読んでいて心地よい。愛媛に住んでいた私にとって舞台が松山だったのもその一因かもしれない。都落ちの気分で東京から愛媛へ異動になった当時の主人公の心情も今月で東京から異動になった私の境遇と似たものがあり、さらに仕事は建築関係とのことでますます親近感が湧く。 そんな彼がフラッと入った高級クラブで出会った一人の女性がリリー。横浜のクラブで歌姫として鳴らしていた彼女の歌をここで聴いた者は誰もいない。必然の如く法月とリリーは付き合うようになっていく。 15年後突然のリリーの夫から呼び出しに抱える法月の不安。そしてやはり訪れる哀しみ。とても切ない。そして都落ちした法月のように私もこの地でリリーが見つかるのだろうか。そんな気持ちにさせられる一編だ。 最後の「星が降る」も切ない物語だ。 これも愛する者を死に追いやった者への復讐の物語。復讐の相手がノミ屋で復讐の方法が巨額の賭け金による多額の損失というのがいかにも白川氏らしい。 ただなぜかこの手のギャンブルや株といった自分のフィールドの話になると結末をぼやかした終わり方をしてしまうのだろうか?闇麻雀の世界を扱った「アメリカン・ルーレット」もそうだったが、株やギャンブルの世界の結果を書くといかにも作り物っぽいと思う作者の照れなのかもしれない。 実際にその世界に身を置いた人にはこんなドラマチックなことはそうそう起こることはない、と嘯いているのかも。 全5編。とにかく胸を打つ短編集だ。主人公や登場人物たちはどれも40代以上。そう、もはや限られた未来しか残されていない人々だ。 人生も半ばまで来た男と女たちの何かを諦めた思いが行間から伝わるのが非常に心に染み渡る。全てが丸く収まることはなく、良しとなるにはお互いが何かしらの痛みを伴わなければならない。理想に描いていた未来とは違った人生だがそれでも一生懸命に明日を生きる。夢とか理想とかそんなものではなく、生きていくために現状に甘んじ、しがみつく。 そんな人間たちの物語が本書には収められている。 若い頃に読んでいたならばこの作品の味はこれほどまでに深く心に染み込まなかっただろう。私も齢四十を過ぎた今だからこそ、そうこの物語の登場人物たちの年齢に近づいたからこそ胸に響く音ははるかに大きくなっている。 それは過去との対峙がどの作品にもあるからだ。前述したように今を生きることに体と心が馴れてしまった4、50代の男女に訪れる報せ。それは若かりし頃に付き合い、愛を交わした、もしくはバカをやって楽しく暮らしていた記憶を思い起こさせる。そのどれもが美しいからこそ胸にこみ上げてくる物がある。 そのこみ上げてくる物とはやはり喪失感だろう。 若い頃はこんな楽しく、またお互いを愛しむ日々が永遠に続くと思っていた。が、しかし今ではそう思っていた彼らとは疎遠になってしまい、日々の生活を送るだけになってしまっている。そして4、50代にもなると訪れるのが体への変調。死につながる病だったり、一生抱えていかねばならない病だったりする。そんな現実があるからこそ喪失感もまた否が応にも増すのだ。 そして人生を重ねたからこそ気付かされる人と人との思いもここにはある。特に良かれと思ってしたことが逆に相手にとって重荷になってしまう、愛しているからこそ、思い切り生きさせてやりたい、そのためなら自分とは違う相手と愛を重ねても構わない、などという若い頃には想像もできないような人と人との交わり方が白川氏の豊かな人生経験に裏打ちされた感情論が登場人物たちの口から繰り出される。 思わず頷いたことが何度あっただろう。 闇麻雀の話の「アメリカン・ルーレット」が巻頭を飾り、ノミ屋の競輪を扱った「星が降る」で幕を閉じるのは、切った張ったの世界で生きてきた白川氏の矜持かもしれないが、ギャンブルだけの話ではなく、先に書いた人生の折り返し地点に差し掛かった人々の人情譚の物語だ。 私が特に好きなのは「浜のリリー」だ。こんな話が私は読みたかった。 昭和の香りがするといえばそれまでだが、読み終わった後、暗い部屋でアルコールを片手にじっと浸りたくなる、大人の小説集。その味は一級であることを保証しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
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映像化作品が多い東野作品の作品の中でも抜群のサスペンスを誇る作品だが、なかなか映像化されなかった本書。
その理由が本書を読んで判ったような気がした。この作品は3.11以前に読むのと以後とでは全く読後感は違ったものになっただろう。 リモートコントロールされた無人ヘリコプターが原子炉上空に滞空し、テロの武器となる。この着想の妙には発表当時、これはすごいなと思ったものだ。 今や国民的ミステリ作家となった東野圭吾が1995年に発表した本書はそんなサスペンス巨編。今回のテロリスト「天空の蜂」が要求する条件とは ・稼働中、点検中の日本全国の原発を全て使用不能にすること ・建設中の原発の工事中止 3.11で原発への不安が叫ばれている昨今、なんともタイムリーすぎて背筋に寒気を覚えた(ちなみに私は渋谷で原発反対のデモ行進を目の当たりにした)。 この内容は現在デリケートすぎて確かになかなか映像化できなかったことだろう。原発反対派に強硬手段の一つのヒントを与えるようなものだ。 逆に発表後約四半世紀経った今でも絶版にならないことが不思議だと云える。 作中で原発周辺に住む人間達の心持が描かれる。原発があるということが生活に馴染みすぎていて異常時の脅威をなかなか現実的に捉えられないとある作中人物が吐露するのだが、これこそまさに3.11以前と以後の日本人の意識であろう。 さらに原発に危機が訪れていることを知り、コンビニに買出しに行く主婦たちの描写があるが、これも3.11で経験した我々の日常だ。 また原発産業に関っている会社が社員に反対運動に署名することに圧力を掛けたことや都会に住む人間の電気供給のためにゆかりも無い田舎の地で原発が築かれ、またその自治体も電源三法交付金という甘い蜜を吸い、と地域活性を促進させたいがために原発の誘致もする現状。 そして実際に原発が停止した際に訪れる様々な場所での影響―工場の操業の停止、百貨店内や都市を走る電車のエアコン停止などの節電対応など、本書に書かれているエピソードの1つ1つが今年我々の身に起きた東日本大地震による原発停止による節電生活を筆頭にした社会問題をそのまま表しており、フィクションとして読めなくなってくる。とても16年前の作品とは思えないリアルさだ。東野氏の取材力と想像力の凄さに恐れ入る。 そしてとにかく原発側の安全神話の妄信振りがこれでもかとばかり書かれる。 阪神大震災並みの地震が来た時、本当に壊れないのか? 航空機が落ちても本当に大丈夫なのか? これらに関して原発側は終始一貫して「壊れることは無い」、「システムが稼動しないことは無い」の一点張り。技術に絶対はないという定義に一切目を向けないほどの頑固さを発揮する。 この「航空機が墜落しても放射能漏洩事故は起きない」という安全神話がただの張子の虎であったことを知らされた。 即ち原発上空には飛行機やヘリコプターなど飛ぶことは禁じられており、周辺にも飛行場などは建設してはいけないことになっているから、飛行機などが落ちるはずが無いというなんとも薄弱な根拠でシミュレーションさえもなされていないのだ。 この考えが昨年まで浸透していたのかどうかわからないが、2001年にニューヨークで起きた9.11同時多発テロを見ればそれが机上の空論に過ぎないことが解るというものだ。 さらに原発職員と警察、消防の関係者との打合せの場でも制御棒が落ちて稼動停止することが当たり前であり、その装置が何らかの不具合で作動しないなどはありえないと妄信する原発側の発言なども出てくる。 しかしよくもこれほど企業体質や立場などを露骨に書いたものだ、東野氏は。 原発ジャックを起こした主犯の三島幸一は、ヘリコプターを開発した会社錦重工業の社員であり、会社の原子力機器設計部門に勤務している。ヘリコプターの設計に携わった湯原の同僚でもあり、新入社員の頃から人とは違った着眼点と鋭い洞察力を持ち、同期の中でも一目置かれていた存在だ。 その彼がどうして原発に対してテロ活動を起こそうとしたのか。それは作中でも最後の方に出てくる。 ところで私は真っ先に子供を救出した後なら自衛隊の戦闘機で空爆するという手があると思った。現に作中でもそれについて話しているが、うまく粉々になってくれればいいが、単に墜落を早めるだけの確率の方が高いと切り捨てられている。 しかし私は爆弾を搭載したヘリならば空爆するだけで内部の爆弾と反応して粉々になる確率の方が高いと思う。従ってこの部分に関してはお茶を濁した程度で終わっているような感じがして、ここが本書の設定の弱点だったように思えてならない。 3.11の東日本大震災から連日メディアで喧しく報道されている放射能物質拡散の脅威と反原発運動、そして放射能汚染の恐怖。この原子力発電は現代の社会に咲いた仇花なのだ。 もう無関心でいる時期は終わった。 1995年に著された作品だが、現在起こっていることが既に本書には予想として挙げられている。これらの事態と原発に関する知識をさらに深く得るためにも、そしてその存在意義を考えるためにも今この書を読むことをお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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処女作『流星たちの宴』は相場師の世界を扱った作品、云わば作者のフィールドを活かした実体験に基づく内容だった。
本書は所謂ハードボイルド作品。また警察小説とも読める濃厚な人間ドラマだ。 主人公は伊勢孝昭。暴力団佐々木組がバックに着く伊勢商事の社長。しかしその会社は表向きは都内で高級クラブやレストランを経営する会社で、伊勢自身も暴力団関係の仕事には携わっていない。そして彼には人を殺した過去があり、その時芳賀哲郎という名前も捨てていた。 彼の生き別れの妹が若き天才ヴァイオリニストである馬渕薫。 また伊勢の孤児院時代の友人が小料理屋を営む三宅慎二と銀座でホステスをしている藤城千佳子。千佳子は服飾デザイナーになるため上京したが夢破れホステス業に身をやつし、心身共に削れるような毎日を送っている。 そして千佳子の恋人でフリー記者の岡堀。彼はたまたま銀座で千佳子が出会った伊勢のことが気になり、身辺を洗い出す。 さらに伊勢の昔の恋人今日子はかつて伊勢が働いていた工場主の娘だった。 今の伊勢の周りにいるのは焼津時代に同じ釜の飯を3年食った布田と彼らを拾い、東京に連れて行った佐々木組の組長佐々木邦弘。 そして2つの殺害事件の捜査に携わり、徐々に伊勢、薫、慎二、千佳子たちの過去に迫る刑事佐古。 これら物語を彩るキャラクターのなんと濃密なことか。どこかで読んだような、借りてきたような人物ではなく、生活から人生の道程までしっかりと顔の皺まで浮かびそうなくらい書き込まれている。 処女作でも感じたがやはりこの人は“世界を知る人”なのだろう。この人でないと書けない雰囲気が行間から立ち上ってくる。 夢破れその日その日を無意味に生きる者。 運命に流され、それなりの生活を掴みながらも過去に縛られ過去を捨てようと努力する者。 夢に向かって邁進し、それを適えた者。 それぞれが今を生き、現状を保とうとつつましく毎日を営み、もしくは変えようともがいている。 そんな危ういバランスは抱え込んだ暗い過去が生んだ怨念によって変わってしまう。 作中主人公の伊勢が幾度か呟く。 生にはこれから生きることがはじまる生と、これから死ぬことがはじまる生とがある この言葉が象徴するようにこれは死に様を探し続けた者が生き方を見つけようとした者を救うための物語なのだ。 つつましく生きたいのになぜか人生の節目で裏切られ、真っ当な人生を進むことを否定される人々を書く物語は志水辰夫の作風をどこか思わせた。 そしてさらに繰言のように呟かれるのは 夢を見ることと祈ること、この二つを持ちつづけるかぎり、人間として生きていける。 なんとも気障な云い回しだが、人生の敗北者としてどこか諦観を持っていき続けてきた伊勢の最後の拠り所が夢と祈り。彼の夢とはかつて継父が船医として行っていた彼の地ペルーに渡ること、そこで第2の人生を送ることだ。 十年前に捨てた拳銃。つぎはぎだらけの地球儀。前者は運命を変えてしまう仇花であり、後者は死に様を見つけようとした男が唯一残した夢の名残。 こういった小道具が物語に深みと味わいを持たせる。 前作を読んだ時は作者独特のニヒリズムに惑わされ、その気障な云い回しと作者の理想像のような主人公梨田の造形に辟易したものだが、本書ではガラリと変わり、上に書いたように志水辰夫氏を思わせる叙情性と大人の小説という風格まで感じさせる。既に2作目にして化けてしまった感があるのだ。小説としてのコクを感じさせる。 登場人物といい、結末まで向かう構成の上手さとその必然性を作る小道具の周到さ。 特に上手いと思ったのは伊勢孝昭として他人の名を借りて生きてきた芳賀哲郎が本名に戻った後だ。それまでは伊勢孝昭としかイメージできなかった人物が、ある事件をきっかけに本名の芳賀哲郎としての空気を纏い、もうそれ以降は芳賀哲郎とでしか読めないのだ。同じ人物でありながら主人公が2人いるような感覚。 それは前半が会社の経営者の伊勢の物語から、施設時代に弟・妹のように可愛がっていた慎二と千佳子を守る兄、そして友人の無念を晴らす戦士である哲郎の物語へとシフトするのにこの名前の変更は実に有効的に働いているのだ。これはなかなか考えられた実に上手い構成だ。 そして最後に読んで立ち上る題名『海は涸いていた』の意味。 作者白川氏には是非ともこの路線で行ってもらいたい。今後未読の作品がどんなものか解らぬが本書のような濃厚な人間ドラマを期待してもいいだろう。 全く興味のない麻雀小説がなければもっとのめり込める作家だっただろうに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺人事件が起きずにこれほどハラハラさせられるミステリは最近読んだことがない。そう、“ラブストーリー”と題名に附されながら、これは極上のミステリなのだ。
本書での謎というのは実に上手い語り口で徐々に紐解かれる。 物語はまず2つの平行世界で繰り広げられる。共通するのはバーチャル・リアリティ(作中ではバーチャル・リアリティをさらに発展させた次期型リアリティという設定)をそれぞれの分野で外資系総合コンピューターメイカー、バイテック社のMAC技科専門学校で研究している敦賀崇史と三輪智彦と津野真由子の三人。 一方の世界では崇史と智彦は入社して2年目の社員で、智彦に新恋人が出来、崇史に紹介する。しかしそれは彼が学生時代に彼が乗っていた山手線に並行して走る京浜東北線に乗っていた憧れの君、津野麻由子だった。崇史は親友の幸せを祝いながらも、激しい嫉妬に襲われ、真由子を手に入れたいという恋情に駆られる。 もう一方の世界ではMAC技科専門学校での研修を終え、入社3年目の崇史は麻由子と同棲していた。しかし智彦が麻由子の恋人だったという夢を頻繁に見るようになり、深層心理で智彦に対して罪悪感を抱くようになる。そして当の智彦はバイテック社の本社、ロサンゼルスに赴任していたというもの。 この2つの世界の設定が交互に語られ、まずはどちらが現実でどちらがバーチャル・リアリティなのか、読者は混乱に注意しながら読み進めることになる。 やがて読み進むにつれてそれら2つの異なる時間軸で語られる話が1つのある謎に収束していく。 それは即ち、「記憶は改編できるか?」という謎だ。 『宿命』以後の東野作品を中期とすると、この頃のテーマに頻発するのが「記憶」ということになろう。『宿命』然り、『変身』然り、『分身』然り。そして本書然り。 これらの作品に共通するのは近い未来に成立し得るであろう医療技術が物語の発端になっていることだ。前掲の3作品については未読の方の読書の興を殺ぐといけないので敢えて触れないが、本書では現実と見紛うほどの非現実体験、即ちバーチャル・リアリティの研究から発展した記憶改編が技術として挙げられている。 記憶というのは果たしてなんだろうか?東野氏は『変身』で主人公成瀬にこんな台詞を云わせている。 「脳はやっぱり特別なんだ。あんたに想像できるかい?今日の自分が、昨日の自分と違うんだ。(中略)長い時間をかけて育ててきたものが、ことごとく無に帰す。(後略)」 「それは死ぬってことなんだよ。(中略)かつて自分が残してきた足跡を見ても、それが自分のものだとはとても思えない。二十年以上生きてきたはずの成瀬純一は、もうどこにもいないんだ」 自分が自分である為の証拠。それこそが記憶だと成瀬は激白している。 その記憶を改編することとは自分の足跡を消し、新たな自分を生み出すことではないか? そんな記憶は果たして自分の存在意義を示すのか? 特にこの記憶改編の仕組みを東野氏はぼやかさずに実に合理的に説明している。詳細は本書に当たられたいが、その方法論は実現可能ではないかと思わせるほど論理的だ。 本書では不良に2人囲まれてどうにか逃げ出したという事実を5人に囲まれてどうにか撃退したという風に大袈裟に誇張して語る行為を例に挙げている。 人は年を取るにつれ、現実と理想が乖離していくのを痛感し、理想が適わぬ夢であることを知り、諦めてしまう。だから人は少しでも理想に近づけたくてついつい嘘をついてしまうのだ。 年を取るにつれ、本書の登場人物が抱えるこの想いは痛切に心に響く。そしてそれ以外にも本書には私のツボとも云える設定が盛り込まれている。 まず冒頭の一行目からグッと物語に引き込まれた。山手線と京浜東北線というある区間では双子のように並走するこの路線をパラレルワールドに擬えるところが秀逸。 そしてそれぞれの電車に乗る人々はそれぞれの空間だけで完結し、同じ方向に進むのに何の関係性も生まれないという主人公敦賀崇史の独白がさらにツボだった。 そして毎週火曜日に路線を跨いで同じ車両の同じ位置に立つ女性に恋心を抱くという設定もツボだし、さらに親友の彼女がその女性だったなんてベタにもほどがあるが、好きなんだなぁ、こういうの。 多分これからあの区間を山手線、京浜東北線に乗るたびにこの物語を思い出しそうな気がする。 このような「運命の相手」が目の前に立ち、しかもそれが親友の恋人だったら?実に憎らしい設定ではないか? 主人公敦賀崇史が直面したのはこのような狂おしいまでのシチュエーションだ。親友との友情を取るか、それとも自分の恋情に従い、親友の恋人を獲るか?このなんとも先行きが気になる設定に加え、その本願が成就された1年後の崇史の姿が並行して語られ、そこでは次第に気付かされていく自らの記憶の誤差について崇史が独自に調べていくというミステリが繰り広げられる。 しかし何よりも本書はある一人の人物に尽きる。それは敦賀崇史の親友、三輪智彦だ。幼い頃の病気で右足を引きずるというハンデを背負った彼は明晰な頭脳を持ちながら、不遇な人生を歩んできた。そんな彼に訪れた大きな幸せ。それが恋人津野麻由子だった。 冒頭に私は本書はラブストーリーだと銘打ちながら実は極上のミステリだと書いたが、最後にいたってこれはなんとも切ない自己犠牲愛に満ちたラブストーリーなのだと訂正する。 こんなに心に残る話は無条件で星10を献上したいところだが、『魔球』同様、犠牲を被る相手に不満が残ってしまう。 特に今回は社会的弱者の立場の人間が自ら犠牲になるというのがどうしてもしこりとして残ってしまう。上にも書いたが、不遇な境遇を強いられた彼がようやく手に入れた唯一無二の幸せ。それさえも身障者という理由で諦めなければならないのだろうか? 誰もが幸せになるために選んだ道は実は誰もが不幸になる道であった。 謎は解かれなければならないのがミステリだが、本書においては知らなくてもいいことがあり、それを知ってしまうことが不幸の始まりであった。 『変身』では記憶を自らの存在意義の証と訴えた東野は本書では記憶のまた別の意味を提示してくれた。次は何を彼は問いかけるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第2作。
当初ディーヴァーはライムを単なるノンシリーズの登場人物として考えていたようだが、あまりにも好評だったため、シリーズ化したと述べている。これが今に至ってディーヴァー人気を決定付けるのだから、全く嬉しい限りだ。 さて今回のライムとアメリアの相手はコフィン・ダンサー。唯一の目撃者の証言からその上腕部に棺の前で女と踊る死神の刺青―表紙絵はそのイメージを捉えるのに大変助かった―があったことがわかり、それ以来通り名として呼ばれている。 前作と違うのは今回はあらかじめ敵の素性が誰なのか示されている点だ。匿名の誰かではなく、スティーヴン・ケイルという固有名詞を持った人物がターゲットを狙う様子が同時進行的に描かれる。 しかしだからといって油断してはいけない。何しろ作者はあのジェフリー・ディーヴァーだからだ。どこにどんなサプライズが潜んでいるか解らない。 特に冒頭のシーンには驚いた。 作品のイントロダクションとしてダンサーの最初の犠牲者が現れるが、この導入部のミスディレクションの冴えは久々にいきなり頭をガツンとやられるほどの不意打ちを食らった。最初の1章で既に私はディーヴァーの術中に嵌ってしまった。 また前作『ボーン・コレクター』の事件から1年半以上経ち、アメリアとライムの関係はもはや前作よりも深まっている。それは師弟関係としてもそうだが、お互いに恋愛感情を抱くまでになっている。 それがライムの葛藤を生み出す。四肢麻痺で現場に出られない自分の代わりに手足となって現場捜査をする存在であるアメリア・サックス。しかし現場の最前線に出ることは生命の危険度も増すことになる。従ってライムは大切な存在になりつつあるアメリアを危険な現場に晒すことを拒むようになる。 通常ならば相棒との信頼関係が深まることで、危険な現場ではお互いがお互いを守ろうとバックアップしあう姿勢が生まれるが、このライムという身動きの取れない人間だからこそパートナーに対する信頼と愛情が芽生えるにつれ、現場に送ることへの危惧と期待のジレンマに陥るというのは実に巧妙なプロットだ。 しかしこのライムの心境については作者はさらに巧妙な仕掛けを施している(かつての恋人クレア・トリリングはライムの指示で現場に向かい、ダンサーが仕掛けた爆弾によってこの世を去ってしまった)。なんとも細部に至るまで抜かりのない作品だ。 そして前作ではやたらと目に付いたライムの自殺願望は今回全く見られない。しかしそれは不自然とは思えない。なぜなら前述したとおり、前作から1年半経っており、彼はアメリアと一緒に仕事することで生き甲斐を見つけ、また技術の進歩から機械を介して照明を点けたり、CDをかけたり、電話を掛けたり、移動したりと健常者と変わらぬ生活をすることが出来るようになったからだ。 しかし今回はそれが逆に仇になる。音声で反応する機械は発生する側が冷静でないとなかなか認識しないのだ。それがゆえに詰まらぬミスで警察官を三名殺させてしまう。つまり自殺願望の鬱状態から新たに身障者が抱く錯覚がライムにとって一つネックになっている。 そして今回も詳述を極めた色んな専門的知識がふんだんに盛り込まれている。 まずは爆破犯に関する知識。概ね爆破犯は一つのテクニックを学ぶとそれを繰り返し使うことが多いとの事。つまり爆弾の種類、手法こそが爆破犯を限定する指紋の役割を果たすことになる。 また現場の血痕の形で犯人の意図や被害者の状況が判ったりもするし、指紋は同一人物の指紋であっても他の箇所から採取された指紋を繋ぎ合わせては証拠としては扱えないことも勉強になるし(アメリカだけの話かもしれないが)、映像解析をするならばJPEGファイルでは解像度が落ちるのでビットマップファイルで保存した方がいい、などとここまで細かい知識が開陳される。 しかし何といってもディーヴァーのその専門的知識が大いに活かされたのは物語の終盤にパーシーが航空機内に仕掛けられた爆弾との格闘の一部始終だ。 正に手に汗握るエンタテインメント。もうこれを読むと生半可な知識で書かれた航空パニック小説は読めなくなるなぁ。 特にこのシーンで重要な鍵となるのがライムの部屋の窓に巣食うハヤブサだ。このハヤブサは1作目から登場している小道具だが、本書では保護者の対象が飛行機業界の人間ということもあるのか、このハヤブサの物語に果たす役割が大きくなっている。 まさか1作目での心理描写用の小道具だと思っていたハヤブサがここまで物語に寄与するとは思わなかった。これぞディーヴァーの構成力の素晴らしさだろう。 そして素晴らしさといえば忘れていけないのはキャラクター造形だ 。2作目にしてますますライム、アメリア、ロン・セリットー、アル・クーパー、そして忘れてならない介護士のトムらのチームワークは団結力を増し、さらに前作では敵役でもあったFBI捜査官のフレッド・デルレイがチームにとって無くてはならない存在までになっている。 彼らに加えて新キャラクターの証人保護システム専門の刑事ローランド・ベル。温厚な性格ながら常に周囲に細心の注意を配り、保護者を守るためには自分の命を投げ出すことも厭わないプロフェッショナル。 また保護される側のパーシー・レイチェル・クレイも忘れがたい。決して美人でもなく、身長も低いがそのコンプレックスが原動力となって全ての航空機の操縦が出来、さらには整備も出来るパイロットの中のパイロット。彼の仕事に対する姿勢にライムは彼に通じるプロ意識を感じ、なんとライムでさえ説き伏せるほどの意志の強さを備える。 そして悪役コフィン・ダンサー。かつてライムが仕留め損ねた凄腕の殺し屋。爆破犯のセオリーを覆し、その都度新しい爆弾を作って殺しを遂行し、耳の形をいじったり、整形したり、傷痕を増やしたり、体重も増減させ、指紋さえも変えるという超人的な暗殺者。 わざと現場に証拠を残してライムに敢えて勝負を挑んだ前作の相手ボーン・コレクターとは違い、ダンサーは殺しの痕跡を残さずに現場を後にする。その中で残された僅かな証拠を採取し、知識と推理力を総動員して立ち向かうスティーヴン・ケイルとライムの応酬は敵の裏の裏を掻く“動”のチェスゲームの如き精緻さを極める。 いやあ本当にページを繰る手が止まらなかった。このダンサー対ライムの姿を描いた本書を読んでいる最中、大沢在昌氏の新宿鮫シリーズの第2作『毒猿』が頭をしばしば過ぎった。 また余談になるが『ボーン・コレクター』のウェブ上で挙げられた感想を読むと、ほとんどの人がリンカーン・ライム=デンゼル・ワシントンと脳内変換していたと書いてあったが、私は実はそうは思わなかった。もちろんこれは映画の影響によるのだが、作中の描写を読むと端正な顔立ちをした髪の長い髭を生やした白人という描写があったので、私は映画『7月4日に生まれて』で主演した時のトム・クルーズを擬えていた。本書で正にトム・クルーズのようなという一節を読んで我が意を得た気がした。 当初は作者は映画化されるときに、ライム役をクリストファー・リーヴを希望したという話をどこかで読んだ気がするが、リーヴに関しても本書では触れられているので映画化に対する不満やしこりがやはりあったのだろう。 これほどエンタテインメントに徹しながらも1作目以降映画化されていないのは不評だったのか、それとも作者の意向なのか判らないが、私見を云わせてもらえば、その理由の一端が本書の行間から見えたような気がした。 冒頭に書いたようにやはりディーヴァーはサプライズを仕掛けていた。しかもかなりメガトン級だ。 久々に地球がひっくり返るような錯覚を覚えたぞ! しかもその明かし方は前作よりもさらに磨きが掛かっている。 いやはや参りました、ディーヴァー殿。 さて次はどんなサプライズを、エンタテインメントを提供してくれるのか、非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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前作『犬の力』は同じマフィアの話でも麻薬を軸にしたメキシコマフィアの話だったが、本作はアメリカの裏社会を題材にした小説の定番ともいうべきイタリアマフィアのお話。
加えて齢60を越える元凄腕の殺し屋が命を狙われる本書はウィンズロウ色が色濃く溢れたオフビートな作品。しかも主人公フランクの趣味はサーフィンと私の好きな『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドと同じだから期待せずにはいられない。 そしてその期待は見事に適えられた。 とにかく主人公フランキー・マシーンことフランクがカッコいいのだ。 どんなタフな奴が来ても動じない度胸と対処すべき術を心得ている。よくよく考えるとウィンズロウ作品の主人公というのは自身の信ずる正義と矜持に従うタフな心を持った人物だったが、腕っぷしまでが強い人物はいなかった。つまり本書はようやくタフな心に加え、腕っぷしと殺人技術まで兼ね備えた無敵の男が主人公になった作品なのだ。 今まで伝説の殺し屋と噂されるキャラクターは色んな小説に出てきたが、その強さを知らしめるのは単に1,2つのエピソードだけでお茶を濁される作品がほとんどだった。しかしウィンズロウはその由縁をしっかりと描く。だから読者は彼がまごう事なき伝説の殺し屋であることを理解し、その伝説を保たれるよう応援してしまう。 物語はフランクがフランキー・マシーンになった「成り立ち」とフランクを殺そうとする者たちを探索する現代の話とが平行して進む。フランクが過去を回想するたびに、殺した人間の係累に思いを馳せ、もしやそれが現状の引鉄かと推測し、そこへ向かうといった具合だ。 『犬の力』では30年以上にも亘る麻薬捜査官とマフィアとの闘争を描き、上下巻併せて1,000ページを超える大著であったが、本書はフランクの回想シーンが1963年の19歳だった頃から始まることを考えれば、62歳の現代から振り返れば43年分の歴史が語られているわけだが、上下巻併せても630ページ弱で『犬の力』よりも長い。しかも字の大きさは『犬の力』よりも大きい(昨今の出版状況の厳しさが偲ばれる)から、1冊にまとまるくらいのコンパクトな長さである。 つまり本書がいかにスピード感あふれ、なおかつエッセンスが詰まった作品であるかが解ると思う。 そして抜群のストーリー・テラーであるウィンズロウ、この過去のパートそして現代のパートが共に面白い。 このイタリア・マフィアの悪党どもがそれぞれの思惑を秘めて絡み合うジャムセッションは全くストーリーの先を読ませず、以前から私が云っているエルモア・レナードのスタイルを髣髴させる。特に本作は悪役の描き方といい、ストーリーの運び方といい、そして女性の描き方も付け加えて、さらにレナードの域に近づいているように感じた。元々“生きた”文章を書くことに長けたウィンズロウだったが、本書はさらに磨きがかかっている。ここぞというところにこれしかないという台詞や一文がびしっと決まっているのだ。 さらになかなか解らないのがなぜフランキー・マシーンを消そうとしているのか?そしてそれは誰の企みなのか?というメイン・テーマだ。殺し屋稼業だから、過去の恨みは数知れなく、フランクは思いつく限り現代に禍根を残す人物たちに接触を図る。浮かんでは消え、接触しては否定される動機の数々。 それらを通じて語られるのはマフィアの世界の非情さ。使える者はとことん利用してあぶく銭を得てのし上がっていく。それを面白く思わない輩が武力を以って横取りしようと画策する。勝ち残るには権力とそれを保つ勢力が必要。だから下っ端は顔になろうと姑息な手段と殺しを請け負い、ボスへの信頼を得ていく。 前作『犬の力』では“犯罪はペイする”という言葉を立証するかの如く、メキシコの麻薬組織が他国の政府に資金援助をして磐石の組織基盤と資金システムを築いていくのに対し、本作のイタリア・マフィアはポルノ産業や賭博産業、高利貸し、クラブ経営といった浮世商売で一攫千金を狙い、他組織からの妬みと裏切りと麻薬とで崩壊していく。 フランクの元相棒マイク・ペッラが死に際に放つ「マフィアの世迷い言なんぞ、もうたくさんだ。そう、何もかも世迷い言だった。名誉も忠誠もあるもんか。初めっからなかった。おれたちは自分をだましてたんだ」述懐が象徴的だ。 そしてウィンズロウ作品の特徴の1つにプロットに政治が絡むことが挙げられる。表向きの目的に隠された政治的工作や陰謀、もしくは犯罪が絡む政治的倫理。それは初期のニール・ケアリーシリーズから盛り込まれていた。 特に本書ではその現在の腐ったアメリカ政治に対する作者の怒りとも嫌悪とも取れる“魂の叫び”が作品の最後の方にフランクの台詞として述べられている。その、政府が犯罪組織を撲滅したがるのは彼らが商売敵だからだという過激な論調は数々の職を転々としながら、自身も裏社会に通じてきたウィンズロウしか云えない言葉だろう。 というよりもこの部分がよくも検閲に引っかからなかったものだとアメリカ出版業界の懐の深さに感心する。 そしてまだまだ尽きないキャラクターのアイデア。本当に個性的だ。 主人公フランクは先に述べたとおりだが、彼のサーフィン仲間でFBI捜査官であるデイヴ・ハンセン。彼もある意味影の主役といえよう。『カリフォルニアの炎』のジャック・ウェイドを思わせる自分の信念と正義のために上司からの圧力にも屈しない不器用な男である。 そしてフランクの元相棒マイク・ペッラ。彼はフランクが抑制していた強欲を象徴する人物といえよう。フランクが長いこと彼と相棒そして友人として付合っていたのは彼の中に己の戒めるべき姿を見ていたからに違いない。久しぶりに見たマイクの凋落振りに自分の未来像なのかとフランクが絶句するところが象徴的だ。 また伝説の殺し屋フランキー・マシーンを殺して自らの伝説を築こうと息巻く若きマフィア、ジェームズ“ジミー・ザ・キッド”ジャカモーネも忘れられない男だ。ヒップホップに嵌り、エミネムのファッションを真似る男は組織のボスや幹部達を老いぼれと軽蔑し、かつてのイタリアマフィアの隆盛を取り戻そうと野心を募らせている。伝説の殺し屋を畏怖する人物が多い中で唯一恐れない男だ。 さらにフランクの別れた妻パトリシア、フランクの若き頃のボス、バップことフランク・バプティスタ、ラスヴェガスの高利貸しハービー・ゴールドスタイン、元警官でいくつものクラブを経営していたホレス“ビッグ・マック”マクマナスなどなど、フランクの過去に関わり、通り過ぎていった人物たちそれぞれも重ねられたエピソードが実に味わい深いゆえに鮮烈な印象を残す。 個人的にはフランクが標的として追っていたカジノの金を持ち逃げした警備主任のジョイ・ヴォールヒーズのエピソードの印象が最も強い。ほんの末節に過ぎないこのエピソードに追う者と追われる者の奇妙なシンパシーと逃亡人生の末路の悲惨さが痛烈に込められ、忘れがたい。こんなエピソードが書けるウィンズロウはどんな人生を歩んできたのだろうか? 今までウィンズロウの作品で唯一不満だったのは物語の閉じ方だ。ペシミスティックで感傷的な終わり方はどの作品も魅力ある主人公を書いているだけに、同じ物語の世界を旅してきた読者の一人として、なんとも不完全燃焼な感じを抱いていた。ニール・ケアリーしかりジャック・ウェイドしかり。 しかし本書はこれこそ私が待ち望んだ結末といわんばかりの、静謐さと希望が入り混じった思わず笑みが零れる極上の終わり方だ。だから私は迷わず星10を献上する。ウィンズロウ作品初の星10を。 |
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ニール・ケアリーシリーズ3作目の舞台はなんと地元アメリカ。西部の山奥でカウボーイたちの暮すオースティンのさらに奥、通称“孤独の高み”と呼ばれる集落だ。
物語は中国の山奥で早朝に伏虎拳の修行に励むニールの姿で幕を開ける。う~ん、なんとも映像的ではないか。映画『ミッション:インポッシブル』を髣髴とさせるようなシーンだ。 このような演出からも私立探偵物というよりも冒険活劇を前提にした諜報物を意識した作りであるのが解る。あざといと思いながらも語り口が絶妙だからこの導入部から既に期待に胸膨らむ自分がいた。 今回の任務はハリウッド映画プロデューサーの前夫に攫われた一人息子の奪還。 そして通常私立探偵物と云えば主人公の事務所に依頼人が訪れるというのが定番だが、このシリーズはニールの父親代わりのグレアムが依頼を告げ、事件を終えたニールの回想を思わせる独白で幕が開く。それは全て後悔の念であるのが特徴的。つまりグレアムはニールにとってかけがえのない父親でありながら災厄の天使でもある。そのとおり、この実にたやすいと思われた任務が、結果的にはニールのみならずグレアム、レヴァインをも巻き込んで絶体絶命の窮地にまで陥れる。 毎回このシリーズにはニールの行き先で出会う人との交流が物語の絶妙なスパイスとなるのだが、今回のゲストは“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”の牧場主スティーヴ・ミルズとその一家だ。彼が農業に見切りをつけ、妻と2人で辿り着いた安息の地“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”で如何に今のような牧場を経営するまでに至ったかが語られるのだが、西部開拓者精神を象徴するそのエピソードにグッと来る。2人の夫婦が掴んだささやかな成功と、一人娘の成長を見守るささやかな幸せ。 今はその至上主義が諸国の反感を買うアメリカだが、その国でもこんな時代があったのだと気付かされる。もしかしたらウィンズロウは今こそこういう精神が必要なのだと自国の読者に訴えたかったのかもしれない。 そして忘れてはならないのはヒロインの登場だ。いつもニールはターゲットの女性に一目惚れし、任務に逆らって我が道を行くのだが、今回の相手はターゲットでないところがミソ。オースティンで小学校教師をしているカレン・ホーリーがその相手で彼女は脚が長くて背が高く、幼い頃から山野を歩くため出ているところは出て、引き締まっているところは引き締まっているという抜群のプロポーションの持ち主。しかも笑顔で何人もの山の男たちをとろけさせるほどの魅力的な美人だ。まさに掃き溜めの中の鶴といった存在である。 よく考えるとこうも毎回美女が登場するというのもボンドガールのようで、しつこいようだがやっぱりこのシリーズはスパイ物だなぁと思ってしまう。 今回のテーマは西部劇だ。西部の山奥に行ったニールが乗馬を習い、大草原を駆け抜ける。クライマックスは現金輸送車強奪から白人至上主義集団の追っ手から逃れる一連の群馬活劇シーンは実に映像的。スリリングかつ躍動的で手に汗握るとはまさにこのこと。 ホント、ウィンズロウはなんでも書けるなぁ。 そして今回の展開は痛い。実に心が痛む物語だ。毎度毎度の潜入捜査ながら、マンネリに陥らず、物語に深みが増している。1作目に「潜入捜査の終わりは裏切りだと常に決まっている」と書かれていたが、今回はまさにそう。 白人至上主義で反ユダヤ人派の新興宗教グループの一員となった男に攫われた男の子を救出する為にあえてその身をそのグループに属させようとするニール。読者はニールが強盗団のリーダーとして力を発揮していく過程を頭で割り切れても心で割り切れない感情で読まされる。 しかしそれは命の恩人である気のいいカウボーイ夫婦と熱烈な愛情を注いでくれるカウガールを裏切る行為でしかない。減らず口と持ち前の世渡り巧さでどうにかそれを悟られずに済まそうとするニールだったが、狭いコミュニティの中でのこと、その二重スパイ行為が発覚するのは時間の問題だった。そしてその事実が発覚する瞬間。これが本書の白眉とも云うべきシーンだろう。 そして恩人のカウボーイ、ミルズの出自がユダヤ人であるところが実に巧い。自分の主義・真意を偽り、任務を全うしようとするニールの心引き裂かれんばかりの葛藤。 いやあ、3作目にしてこの濃密さ。ウィンズロウ、実に巧い!思わず目蓋に熱を感じてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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前作『十日間の不思議』で探偵としての自信を喪失したエラリイが今度対峙したのは、今までの事件とは毛色が異なる連続絞殺魔による無差別殺人事件。そして舞台もライツヴィルではなく、元々のホームフィールドであったニューヨークだ。
とにかく色んなテーマを孕んだ作品である。 一番解決が困難とされるのは動機も関係性もない人物が通りがかりに人を殺す事件だと云われている。本書はエラリイのロジックはこのような無差別通り魔殺人事件にも通用するのかが表向きのテーマであろう。 しかしそれを取り巻いて人種の坩堝と云われるニューヨーク市で起こる様々な移民が殺される状況下で想定される市民の暴動、さらに探偵としての自信を喪失したエラリイの奮起も読みどころの1つである。 そして犯人こと絞殺魔<猫>の正体は意外にも物語半ば、全400ページ弱のうち220ページ辺りで判明する。明確になった犯人対名探偵の対決という構図を描きながら、しかし最後にどんでん返しを用意しているのが実にクイーンらしい。 事件の特色も国名シリーズやドルリー・レーンシリーズ、そしてライツヴィルシリーズなどの作品からガラリと変わってきている。 今までエラリイが遭遇してきた事件は限られた空間・状況で限られた人間の中で起きた殺人事件が語られてきた。したがってエラリイは限定された人物の行動と性格を探り、それを論理的に検証して最も当てはまる人物を堅固なロジックで指し示すというものだった。 しかしライツヴィルシリーズ第1作の『災厄の町』では街の名士一家に起こる事件が小さな町ライツヴィルの民まで影響を与え、スキャンダルと狂乱を生み出す様子を表した。そこから更に事件の及ぼす外部への波及効果を広げたのが本書であろう。しかも殺人の対象は名士一家といった限定されたコミュニティではなく、ニューヨーク市民全員。無差別に絞殺し続ける正体不明の絞殺魔だ。 この影響範囲の拡大・事件の拡張性はクイーンとしても非常に大きな挑戦だったのではないだろうか。 連続絞殺魔対名探偵。これはパズラーでもなく、本格推理小説でもなく、もうほとんど冒険活劇である。 クイーンが古典的本格ミステリから現代エンタテインメントへの脱皮を果たした作品だと云えよう。 しかしそんな特異な事件でもクイーンのロジックは冴え渡るのだから驚きだ。クイーンのロジックの美しさを久々に堪能した。 そして理詰めの犯人追求ではなく、次の事件を予見してからの現行犯逮捕という趣向は今までの諸作でも見られたが、従来の場合はエラリイの意図を悟らせず、エラリイが犯人を罠に掛ける有様さえもサプライズとしていたのに対し、本作ではそのプロセスを詳らかに書くことで臨場感とスリルをもたらしている。 そして本編には戦争の翳が物語の底に流れている。笠井潔氏が提言した本格ミステリが欧米で発展した根底に戦争による大量死があったとされる「大量死体験理論」を裏打ちする内容が書かれている。 つまりこの作品は戦争という災厄によって無駄死にを強いられた多くの人間に対する弔魂歌なのだ。 誰が犯行を成しえたかを精緻なロジックで解き明かしてきたクイーンのシリーズが後期に入り、犯罪方法よりも犯人の動機に重きを置き、なぜ犯行に至ったかを心理学的アプローチで解き明かすように変化してきている。しかしそれは犯人の切なる心理と同調し、時には自らの存在意義すらも否定するまでに心に傷を残す。 最後の一行に書かれた彼がエラリイに告げる救いの言葉、「神はひとりであって、そのほかに神はない」がせめてエラリイの心痛を和らげてくれることを祈ろう。 次の作品でエラリイがどのような心境で事件に挑むのか興味が尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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93年に出版され、今なお評判が高く版を重ねているドン・ウィンズロウのデビュー作にして探偵ニール・ケアリーシリーズ第1作が本書である。
本書が斯くも高く評価されているのは、探偵物語としても上質でありながら主人公ニールの成長物語として実に爽やかな読後感を残すからだろう。 父なし児として売春婦の母親と一緒に劣悪な環境下で暮らし、掏摸で糊口をしのぎながらストリート・キッドとして生きていたニールが初めてしくじった相手が探偵のジョー・グレアム。二度目に遇った時はジョーが窮地に陥っているときで、ニールは咄嗟の機転を利かせてジョーを助ける。そこから探偵とストリート・キッドの師弟関係が始まる。 まずこの邂逅のエピソードが実にいい。 さらにニールが渋々引き受ける家出人探しの上院議員の娘アリーがお嬢様から転落していく一部始終、そして売女に身をやつしてしまいながら、母親から明かされるアリーの悲惨な境遇と心の叫び―父親である上院議員に幼い頃から性的嫌がらせを受けていた。しかも実の娘ではないことが解る―。 この衝撃の事実は本来ミステリ・エンタテインメント小説であれば物語の後半に持って来るべき真相だが、作者は早くもニールが捜索する前の家族への聞き込みの段階で明かす。それは物事は必ずしも一つの方向で見るべきではなく、多面的に見つめることで隠された真実が浮かび上がるのだと本書を読むにあたってあらかじめ注意を喚起しているかのように思える。 この予想は当たっていて、物語は二転三転して進行する。特にニールがアリーを見つけてからの展開はレナードの作品を思わせるような全く先の読めない展開で誰も予想できないだろう。 実際私は何度も予想を裏切られた。それもいい意味で。 また次期大統領候補の娘の捜索というメインのストーリーの合間に断片的に挟まれるグレアムがニールを教育し、一人前の探偵に育てていく探偵指南の挿話が実に面白い。 まずは部屋の掃除から始まり、料理の指導と人間として基本的なことから教え、その後尾行の仕方、顔の覚え方、探し物の探し方、姿の隠し方など、プロフェッショナルな探偵術を微に入り細を穿って教授する。これらの内容は実際作者は探偵をやっていたのではないかと思わせるほど専門的である。 訳者あとがきによれば作者の職業遍歴は実に多種多様で、履歴から人生を推測するだけでも実に様々な物語が展開しそうなほどだ。そしてその経歴の中にはその手のノウハウを身を以って経験するものがちらほらと散見される。 そして物語の各登場人物のエピソードの内容は実は社会の暗い世相を反映し、多様化する現代の病とも云える売春や近親相姦、麻薬密売に中国マフィアの台頭と気の滅入るような内容がふんだんに盛り込まれているのだが、上に述べたニールとジョーの師弟関係の挿話や“生きた”言葉を話す登場人物たちの会話のためもあって実に爽やかな読後感をもたらす。 リアルとフィクションのおいしい要素を上手くブレンドしたその筆致はレナードのそれとは明らかにテイストが違い、デビュー作にしてすでに自分の文体を確立している筆巧者なのだ。 さて本書の原題は“A Cool Breeze On The Underground”、直訳すると『地下に吹く一迅の涼風』とでもなろうか。 作中ニールがロンドンでアリーを捜索中、地下鉄を乗り渡る場面がある。そこでロンドンの地下鉄の暑苦しさについて語られており、涼風の可能性、存在自体をも否定するほどの暑さと述べられている。つまり存在しうる物でない物、一つの希望を表しているようだ。 また“Underground”は「地下」という意味に加え、「裏社会、暗黒街」という意味もある。すなわちこの一迅の涼風とは主人公ニールを指しているに違いない。裏ぶれた社会に青さと甘さを持ちながらも自らの道徳を大事に事件に当たる若き探偵ニール。このニールはチャンドラーのフィリップ・マーロウを現代に復活させた姿としてウィンズロウが描いた人物であるように思える。 ストリート・キッドから育てられた若き探偵ニール。若さゆえに自分の感情をコントロールするのに未熟なため、私立探偵小説でありながら青春小説特有のほろ苦さを醸し出す。 そして舞台はニューヨークからロンドンへ渡り、ヤクの売人にまぎれながらアリーを救出する活躍の様は探偵小説というよりもスパイ小説のような読み応えも感じさせる。 いやあ、これは版を重ねるわけだと頷かざるを得ない、本当の良作だ。 |
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第3期クイーンシリーズで後期クイーンの代表とされるいわゆる「ライツヴィルシリーズ」の第1弾が本作。
第1の事件として架空の町ライツヴィルの創設者となったライト家に起きた妻毒殺未遂事件を扱っている。 題名の『災厄の町』とはすなわちライツヴィルを指している。但しこの町に悪党共が巣食い、荒廃しているとか、基幹産業が斜陽になり、過疎化が進んでいるとかそんな類いのものではなく、町の著名人であるライト家に起こった妻毒殺疑惑事件について、町中の人間が伝聞からあらぬ噂を掻き立て、それが歪んだ憎悪を生み、容疑者のジム・ハイトのみならず、被害者のライト一家へも誹謗・中傷を浴びせていくという、1つの事件が町に及ぼす狂気を謳っているのだ。 扱う事件は妻殺し。夫であるジムは金に困り、飲んだくれ、しかも殺人計画を匂わす手紙まで秘匿していた、と明々白々な状況証拠が揃っていながら、当の被害者である妻が夫の無実を信じて疑わないというのが面白い。そしてその娘婿の無実を妻の家族が信じているというのも一風変わっている。 この実に奇妙な犯人と被害者ならびにその家族の関係が最後エラリイの推理が披露される段になって、実に深い意味合いを帯びてくる。 そして特徴的なのはエラリイが敢えて真相を語るのを先送りにし、今までの作品と違い、ごく限られた人物にしか明かさなかったことだ。 『スペイン岬の秘密』でも見られた、真相を明かすこと、犯人を公の場で曝すことが必ずしも正義ではないのだというテーマがここでは更に昇華している。 知らなくてもよいこと、気付かなくてもよいことを知ってしまったがために苦悩している。興味本位や己の知的好奇心の充足という、完全な野次馬根性で事件に望んでいたエラリイが直面した探偵という存在の意義についてますます踏み込んでいる。 さてこの幸せに見えた新婚夫婦の、知られざる狂気と殉教精神が故に起こった悲劇というモチーフはロスマクの諸作を連想させる。 私はそれが故に今までのロジックの妙で驚きを提供していた作品よりも余韻が残る思いがした。 もう1つだけ本書に関して付け加えよう。今回は『中途の家』以来となる法廷シーンが挿入されている。この辺の内容はけっこう手馴れた物で読み物としての面白さがある。通常法廷物であれば法廷シーンで一発逆転劇が繰り広げられるのだが、クイーンの場合は逆に容疑者が更に苦境に追い込まれていく模様が書かれており、逆に危機感を煽り立てるところに特徴がある。 クイーンが法廷シーンを盛り込んだのは当時人気を博し、ドラマにもなったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの影響を受けたからではないだろうか。出版社の要望もあったのかもしれないが、あくまで真相は法廷シーンではなく、古くから一同を集めて館で披露するスタイルを固執しているのがクイーンらしい。 しかし今なおミステリ評論家の間で俎上に上る後期クイーン問題。ようやくその入口に立った喜びは確かにある。 さて悩める探偵クイーンの道程を一緒に辿っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは傑作!正に掘り出し物だ。
予想以上に面白かった!ドキドキハラハラの連続活劇だ。 エニグマ強奪の任を受けてドイツ支配下のパリ潜入行を行うベルヴォアールが、盗賊時代の仲間達の協力を得ながらドイツの包囲網を常に相手の想定の斜め上を走りながら潜り抜けていく。 一歩遅れれば囚われの身となり、拷問に晒される状況下、時には鮮やかに、時にはギリギリの所で、はたまた敵の目前で包囲網をかいくぐるスリリングな展開が目白押しだ。 そんな物語を彩る登場人物たちの個性が際立っている。 まず主人公の盗賊、自らを男爵と名乗るフランシス・ド・ベルヴォアールの造形が素晴らしい。 フランス人で大泥棒の父と駆け落ちした鉄道王の娘との間に生まれたこの男は幼い頃から父の稼業を手伝いながら盗賊としての腕を着々と磨き、世界中で盗みを働く。サイゴン、マカオ、香港の東南アジアで活躍し、その後エチオピア、コンゴ、アルジェリアと西アジアから北アフリカを蹂躙。そして生まれ故郷のヨーロッパに戻り、大仕事を幾度と無く成功させ、ゲシュタポの金塊強奪事件で英国で捕まるまで一度も逮捕された事がない。変装を得意とし、人殺しは無論の事、銃器を使わぬことを信条とし、大胆不敵さと情の厚さを兼ね備えたその性格は、周囲の人物を魅了し、次々と仲間―女性の場合は恋人―に引き込み、協力者のネットワークを世界中に築き上げている。 彼の標的である暗号機エニグマを所有するドイツ軍にあって、彼の宿敵とされるのはルドルフ・フォン・ベック大佐。厳格なる職業軍人の血筋に生まれた生粋の軍人である彼は34歳にして軍情報部の大佐の地位にあり、ドイツ軍の本道を進むエリートである。 しかし彼は幼き頃からジュール・ヴェルヌの冒険小説を好み、バイロン卿やラファイエットといった自由のために戦ったロマンティックな勇士に憧れる心を持ち、またフランスの華やかな文化を愛でるロマンティストでもある。そして彼はベルヴォアールの波乱万丈の人生を読んで、かつて叶えられなかった理想の人生を彼に見る。敵でありながら憧れであるベルヴォアールを尊敬の心でもって相見える。 さらにパリでベルヴォアールを助けるブリュノー・モレールを中心としたかつての仲間たちも個性的であり、彼らは敵のドイツ軍、特にゲシュタポのパリ本部長クルト・リマーの残酷さが物語の闇の部分を際立たせ、陽と陰が適度にブレンドされ、読者のハートをゆすぶる。 彼リマーの残忍な手口によって拷問に晒され、命を落としていくレジスタンスにイギリス軍の協力者達。第2次大戦時のドイツ占領下におけるパリの明日をも知れない緊迫したムードが、このコンゲームにスリルをもたらしている。 さて、上に書いたベルヴォアールの経歴を読んで、何か連想しないだろうか。 そう、フランス人の大泥棒ベルヴォアールはもうルパンそのものである。これはバー=ゾウハーの手による怪盗ルパン譚、パスティーシュでもあるのだ。 本家ルパンが書かれた時代は第1次大戦から第2次大戦時の動乱の最中である。作者ルブランは篤い愛国者であり、実際ルパン物で自国フランスを救うエスピオナージュを書いている。しかしそれはあくまで怪盗ルパンの活躍を中心にした創作であり、全面的に政治的側面を押し出したものではない。 翻ってバー=ゾウハーによる本書はまずV-2ミサイルというドイツの脅威の新兵器がありきで、その侵攻を阻止するために暗号機エニグマの強奪という側面が浮かび上がってくる。つまりルブランの創作姿勢とは全く逆なのだ。 従ってバー=ゾウハーの書く怪盗ベルヴォアールの活躍は非常に現実的であり、緊張感溢れるスパイ小説としても読めるのだ。 いやあ、スパイ小説でありながら、ピカレスク小説でもあり、さらにルパンのパスティーシュでもあるという、非常に贅沢な作品だ。そしてそれを難なく作品として纏めているバー=ゾウハーの手腕に改めて感服する。 そして明かされる事実は情報戦の非情さを象徴するが如く、皮肉な物だった。 大局的勝利のために少数の犠牲を出すことも厭わない戦時中の歪んだ闘争原理。バー=ゾウハーはそんなパワー・ウォーに巻き込まれた尊い命の数々を描いたのだ。 しかしこの邦題はなんとも魅力がない。このガチガチの国際謀略小説を思わせる堅苦しい題名を見てこのようなドキドキハラハラの冒険譚を想像するだろうか。 バー=ゾウハーの多くの作品が絶版になった中で、なぜ1980年に訳出された本書が21世紀も18年過ぎた今なお刊行されているにはやはりそれなりの訳があるのだ。 それを想像させるにはこの題名が足を引っ張っているように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スティーヴン・キングの息子である新進気鋭のホラー作家の短編集。
まずシークレット・トラックとして謝辞に「シェヘラザードのタイプライター」が収録されている。 この短編集に対する暗示めいた作品だ。果たしてこれは作者不詳のタイプライターが紡いだ作品がこれから披露される短編なのだろうか、そんな謎めいた予感をももたらす小品だ。 「年間ホラー傑作選」はホラー小説アンソロジストが出くわす悪夢の物語。 ホラーを読み尽くした編集者がいつの間にかホラー映画の主人公になり、自滅の道を歩んでいくという内容でプロットとしては実にオーソドックスだが奇妙な肌触りの読後感がある。作中に梗概のみ語られる「ボタンボーイ」のグロテスクさとピーターを始めとするキルルー兄弟のフリークたちの饗宴ともいうべき邂逅のひと時は悪夢のような幻想味に満ちている。 「二十世紀の幽霊」は街の映画館に現れる幽霊の話。 名作映画『ニューシネマパラダイス』を髣髴とさせるようなセピア色に彩られた郷愁を誘う物語。幽霊が出るといってもホラーではなく、その幽霊イモージェンは『オズの魔法使い』公開中に脳内出血で死亡した女性であり、映画好きな幽霊。そして何よりも最後にアレックがイモジェーンと再会するシーンが美しい。絶妙にラストシーンへの伏線が効いている、実にアメリカ的なロマンティック・ホラーだ。 粗筋が書けないストーリーもこの中には収められていて、それは「ポップ・アート」と「うちよりここのほうが」がそれに当る。この2つに共通するのは親密な2人の交流を綴った内容だということだ。 「ポップ・アート」は個人的ベストだ。風船人アーサー・ロスことアートと主人公「おれ」が過ごした十代の楽しかった日々を描いた短編。これについては粗筋を書くよりも素直に読んでそしてジョー・ヒルの描くおかしく奇妙ながらも清々しく美しい友情譚に浸るべし。風船人という実にマンガ的なアイデアが見事に少年時代のキラキラした出逢いと別れの物語に昇華した傑作。 片や「うちよりここのほうが」は大リーグの監督アーニー・フィルツとその息子ホーマーの日常を描いた短編。事件らしい事件として公園で散歩中に浮浪者の死体をホーマーが見つける件があるが、そこはなんともするりと交わされている。なんとなく作者の父親キングとヒルの幼き頃の思い出といった感じがしないでもない。 小説や物語が書かれて幾千年も経った今、未だ読んだ事のない作品を生み出すということは太平洋に落とした結婚指輪を見つけ出す以上に不可能に近い。そんな現在でも傑作と呼ばれる作品が生み出されているのはひとえに小説家たちが既存の物語や過去の名作を独自にアレンジした新しい視点、趣向を取り入れて、可能性を広げているからだ。例えば本書で云うならば「蝗の歌をきくがよい」と「アブラハムの息子たち」がそれに当るだろう。 前者は朝起きたら巨大な昆虫になっていたフランシス・ケイの奇妙な2日間を描いた作品。この設定を聞いただけでほとんどの読者がカフカの名作『変身』を想起するに違いない。 しかしカフカが昆虫になり、戸惑いながら生きるグレゴールと突然の変異がありながらも日常を保とうとする不条理を描くことを主眼にしているの対し、ヒルは主人公フランシスが逆にこの事実を好意的に受け入れ、周囲がパニックに陥るという全く逆に設定で物語を切り出す。つまりカフカは不条理小説として人が巨大な虫になる設定を用い、ヒルは凡百の怪物が出てくるパニック小説に人が巨大な虫になる設定を用いているところが違う。現代の感覚ならばヒルのプロットの方が至極当然だろう。 しかしヒルが本家のオマージュとしてこの物語を捧げていると確実に云える。なぜならカフカのファーストネームはフランシスだからだ。 後者の「アブラハムの息子たち」は吸血鬼を扱った物語。主人公である2人の子供マックスとルーディの父親アブラハムはオランダから逃げるようにアメリカに移住した家族で、ラストネームはヴァン・ヘルシング。そう有名なヴァンパイア・ハンターのその後の物語をヒルなりに創造した作品だ。 しかし本書は吸血鬼が出てくるわけではなく、またヒーローだったヴァン・ヘルシング教授は厳格で戒律を守らない子供らに容赦なく暴力を振るう恐ろしい父親として描かれている。つまりドメスティックヴァイオレンス物として描いているのが斬新なところ。ヒーローの末期が必ずしも幸せとは限らないという実に皮肉な物語。 「黒電話」は監禁物だ。 本書の中では比較的定型的な作品と云えるだろう。失踪事件の多いアメリカの世相を反映した作品と云え、ある意味同様の事件に遭遇した大人たち、そして将来同様の事件に巻き込まれる可能性のある同世代の子供たちに向けるエールのような作品と見るのはいささか穿ちすぎか。 本作には最後に削除された最終章が併録されている。作者はこの作品を極力削ぎ落として完成させたかったようで、30ページに収めるべく、終いに最終章を丸々削除したようだ。 個人的な感想を云えば、この最終章があった方が好きだ。物語が引き締まる。削除前の作品では黒い風船を姉が見つける件が全くストーリーに寄与していないのも気になっていたので、この最終章はあってしかるべきだと思う。 いかに素晴らしい短編集といえども、全てが全て良作であるとは限らない。例えば「挟殺」と「マント」がそうだ。 「挟殺」はレンタルビデオ屋のバイトで母と2人暮らしをしているワイアットという青年が、バイトを馘になった直後に出くわすある事件現場での顛末を描いた小編。「マント」は子供の頃に母親に作ってもらったマントを着ていたら実際に宙に浮かぶ事が出来た男が、数年後マントと再会する話。 両方の短編の主人公は共に定職に就かずブラブラしているニートが主人公であること。彼らには思想も無く、従ってモラトリアム人間ではない。事件は起こるが、なんとも収まりの悪い締め方がされ、読者はどのような感慨を抱いていいのか、しばし途方に暮れる。 不思議な話続きでは次の「末期の吐息」の方が私の好みだ。死者の末期の吐息を集めた博物館の話。そこを訪れた家族に降りかかる災難と最後のセリフが絶妙。星新一のショートショートに似た質感を持ちながら、味わいは星氏の作品ほどドライではなく、叙情に満ちている。 で、次の「死樹」はわずか3ページのショートショートだ。樹木の幽霊について主人公の語りから始まり、最後になんともいえない余韻を残す。 「寡婦の朝食」は一読、トム・ソーヤの冒険、もしくはジェームス・ディーンの映画を想起させる話だ。 なんというか、この作品も特に何か起こるわけでもない作品なのだが、妙に心に残る。長編の1シーンを切り取った作品といった方が適切だろう。この後キリアンの旅にこの女性がどんな影響を及ぼすのか、逆にその後の話が読みたくなる作品だ。 「ポップ・アート」がベストなら、次の「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」はそれに次ぐ作品と云えるかもしれない。 アメリカン・グラフィティに彩られた在りし日の青春に戻るセンティメンタルな一編。映画『ゾンビ』の撮影現場でお互い死人の特殊メーキャップをしたままで再会するというシチュエーションがアイデアとして素晴らしい。よくこんな事考え付くものだ。 そしてこの作品がいいのは最後のセリフが絶妙だからだ。映画撮影という場面設定と2人の関係が見事にマッチしたセリフ。いや、好きだ、こういうの。 ここに収められている作品の多くは幻想小説の類いだが、その中でも「おとうさんの仮面」は読後、不安に掻きたてられる云い様の無い得体の知れなさを感じる。 旅に出て、いつもと違うところで過ごすというのは日常から逸脱した非日常性からどこか足元が宙に浮いているような落ち着かない感覚が付き纏う物だが、この作品は現実なのにどこか現実の位相とはずれた世界にいらされている旅先で抱くその落ち着きの無さを終始感じさせられる。 子供の視点から語ることで大人だけの間で交わされる密約のような物が行間から立ち昇り、表現のしようのない不安が胸にざわめく。森で出逢った2人の子供は恐らく僕の母親と父親の若かりし頃の姿だろうし、骨董品の鑑定士は冗談交じりに語られていたトランプ人間なのだろう。置き去りにされた父親は子供心に底知れぬ喪失感を抱かせるし、その理由は母親しか知らないというのも、誰もが子供時代に経験する知らないままにされていた事を連想させる。 約100ページと収録作品中最も長い「自発的入院」は本書の冒頭を飾った「年間ホラー傑作選」に似たようなホラーだが、出来は数段上。 ジョナサン・キャロルの作品に似た味わいと云えるだろうか、大人になった主人公が今なお忘れられない事件とそれに纏わる友と弟の不思議な失踪事件の顛末を告白した手記という体裁の作品。モリスによって地下室に築かれる段ボールの地下迷宮が独特の魔力を持ち、現実から異世界へ結ぶ入り口となるのも、モリスという不思議なキャラクターのせいか、説得力がある。乱歩の『パノラマ島奇譚』にも一脈通じる物があると感じるのは私だけだろうか。 実質的に最後の短編となる「救われしもの」はそのタイトルとは裏腹に読後、心に寂寥感が差し込むような作品だ。 結局「救われた」のは一体誰だったのか?非常に疑問の残る作品だ。誰もが不幸を抱えたままで物語は閉じられる。 そして「黒電話」の削除された最終章を経て、作者自身の手によるこれらの短編の創作秘話が語られ、この本は終わる。 結論から云えば、玉石混淆の短編集で、総体的な出来映えとしてはやはり佳作と云えるだろう。実質的な収録作品数が17作品というのが多すぎて、逆に総体的な評価を下げているとも云える。 個人的に好きな短編を挙げると、「二十世紀の幽霊」、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「末期の吐息」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」の7編。次点として「うちよりここのほうが」、「黒電話」―但し最終章も含んだ―、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」の4編。そうつまりこれら11編で本書が編まれたとするとこの作品の評価はもう1つ、いや2つは挙がるかもしれない。 ここに述べられた作品群を読むに当たり、読者はある程度の知識が必要である。しかしその知識というのは決して学問的、専門的な分野に関した内容ではなく、映画や音楽、ホラー小説といった大衆文化、ポップカルチャーに親んでいれば自ずと得られる知識である。 例えば「年間ホラー傑作選」ではある程度ホラー映画やホラー小説を読んで、お決まりのパターンを知っている事が前提としてあるし、「20世紀の幽霊」では過去の名作映画、特に『オズの魔法使い』が最後のシーンになくてはならないエッセンスとなっている。また「ボビー・コンロイ~」もロメロ監督を知らなくても楽しめるが、知っている人にとってはゾンビ映画撮影の内幕とロメロ監督の人となりを知ることができ、楽しめるだろう。 が、しかし逆に云えば、これらが未経験であったとしても本書を読むことでこの物語の真の結末のカギがそれらの実作に込められている事から本書の後でそれらに当る事で更に本書の味わいが増すとも云える。前知識として知っておくに越した事はないが、逆に本書でそれを知ってフィードバックして見る・読むのもまた一興だろう。 しかし、このジョー・ヒルという作家、非常に独特な雰囲気を持っている。最初の「年間~」を読んだ時は、世間の評価に対し、眉を潜めたものだが、続く「20世紀~」、「ポップ~」と読むうちに、尻上がりに良くなっていき、この微妙に最後を交わす語り口が堪らなくなってくるのだ。全てを語らない事で逆に読者に胸に迫る物を与えてくれる。カエルの子はカエルというが正にそれは真実であると云えよう。 しかしヒル自身はそのあまりに偉大な父親の名声がかえって足枷になっているような節が本作からも見られる。まずあえて「キング」という苗字を使わずにデビューした事が父親に阿っていない事を示している。が、しかしこれはヒルの一作家としての矜持だといえよう。父親の名声に頼らず、まず自分が作家として世に通用するのか試したいという挑戦意欲の発露というのは容易に受取れる。 が、しかしやはりヒルには父親の影に疎ましさを感じていることが窺える象徴的な1編がある。それは「アブラハムの息子たち」だ。 この物語は有名なヴァンパイア・ハンター、ヴァン・ヘルシング教授と息子との軋轢を描いた1編であり、その物語の終わり方がヒルとキングとの親子関係を暗示させる。有名な父親をどの子供らも尊敬しているとは限らない、むしろそれが永年の苦痛であったという告白文書として読み取れるところが非常に興味深い。 そしてこの作品を著すことで、さらにこの作品が世に賞賛を以って迎えられたことでヒルはキングの呪縛から解き放れたと解釈できよう。この作品は彼が書かなければならなかった物語なのだ。 また物語の語り手にティーンネイジャーが多いのが特徴的だ。純然たるティーンネイジャーが語り手を務める作品を挙げてみるとシークレット・トラックの「シェヘラザードのタイプライター」から始まり、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」、「黒電話」、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」、そして成長した主人公が10代の頃を回想して語る話として「二十世紀の幽霊」、「挟殺」、「マント」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」と収録作品17作中13作品と実に大半を占める。 それらに共通するのはちょっと現実とは少しずれた感覚・世界だという事だ。子供の頃というのは毎日が冒険であり、全てが新しく瑞々しかった。そういう風に映るフィルターを通して日々を過ごしていた、そんな感覚がある。 翻って大人になって過ごす日々は現実そのものであり、そこには何の不思議も新鮮味も無いのが大半である。このジョー・ヒルという作家は子供が抱く大人とは違って見える毎日の風景と子供が大人の世界から感じる違和感を表現するのが非常に巧みだ。子供だった私が知らないところで進行している何か、その解らなくてもいいのだが、知らないことがなんだかとてもむず痒くなるような云い様の無い焦燥感、不安を実に上手く言葉に表す。 いや正確にはそうではない。このむず痒さの根源となる「一体なんなのか、はっきりしてくれ」という答えを知りたがる読者の性癖を巧みに操作するような書き方をするのだ。だから作品によっては読者の抱く感慨というのは実に様々だろう。 特に「マント」、「死樹」、「おとうさんの仮面」なんかは中高生に読ませて読書感想文を書かせると色んな解釈の仕方が生まれてよいテキストになるのではないか。そういった意味ではエンタテインメント系の作家としてはこの人は文学よりだと云えるだろう。 ただ饒舌さを感じさせる文体はまだまだ刈り込める要素が多く、1作品における登場人物や舞台背景に対して非常に雄弁である。これは近年のクーンツ作品を連想させる。日本人作家が敢えて語らない事で怖さを助長させるのに対し、この作家は雄弁に語り、最後に語るべき内容をさらりと交わすことで読者への想像力に委ねるという手法を取る。ただ読み直すとまだまだページ数は減らせると思う。少なくともあと100~150ページは減らせるのではないか。 昨年のミステリシーンに一躍注目を浴びる存在となったジョー・ヒル。確かに彼は“書ける”作者である事は認めよう。ただ未完の大器だという感が強い。この後、彼がどのような奇想を提供してくれるのか、非常に興味深いところだ。 また追いかけたくなる作家が増えてしまった。困った物だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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旅先での一人旅の女性とのアヴァンチュール。そんな珍しくもない、誰にでも起こりそうな情事が思いもよらぬ災厄をもたらす。
そんなありきたりな設定に被害者を身分詐称を生業とする詐欺師に持ってきたところにフリーマントルのストーリーテラーとしての巧さがある。 特に今回はアメリカでももはや死滅状態であるクリミナル・カンヴァセーションという特殊な法律を持ってきたことが大きい。アメリカの州でもほとんどの州が既にこの法律を撤廃しているが、たまたま情事の相手の出生地がノースカロライナ州でそこにまだ現存していた事が主人公ハーヴェイに更なる災いをもたらしている。 よく他国の法律でこんな物を見つけたものだと感心した。 そして新聞であれば数行で済まされるような事件が当事者達には先進的苦痛を伴い、煩雑で不安な毎日を強いられる事をフリーマントルは事細かく書いていく。これこそ記事の裏側にある本当の事実なのだ。 そして法廷に突き出された者はそのプライヴェートが白日の下に晒され、何もかもが真っ裸にされる。私生活は無論の事、隠しておきたい過去、信条、既往症に他人に対する秘めたる思いまで、全てが暴露されていく。 特に本書で論点となっているのはクラジミアという性病である。どちらかといえばこれは密室で医者と患者のみで話されるべき内容であり公に開けっ広げに話されるようなことではない。しかし裁判では被告側の4人と原告側の4人、更には裁判官に陪審員に傍聴者らに自らの隠しておきたい恥ずべきプライヴェートを大の大人が誰がどのように性病を移したのかと熱弁が振るわれる。その様子は想像するだに滑稽である。こうなると裁判というのはもし勝訴したとしても、後に残るのは全てを世間に知られた個人であり、果たしてそれで何を得るのか、疑問に思ってしまう。 アメリカは訴訟王国と云われて久しいが、気に食わないことがあったからと云って、社会的制裁を加えるために容易に訴えを起こすより、それによって被る不利益、失う物を考えた方がいいのではないか、法廷ミステリではそう警鐘を鳴らしているようにも取れる。 しかし皮肉な事にその法廷シーンが実に面白い。下巻冒頭から繰り広げられる裁判シーンは本書の白眉と云えるだろう。 とどのつまり、一時期法廷ミステリが活況を呈したのは、一般人にはなじみが無い世界である珍しさもさることながら、他人のプライヴェートがどんどん暴露されてしまうことを知る読者の野次馬根性を大いに刺激している事も認めざるを得ないだろう。結局のところ、他人の不幸ほど面白い物はないということか。 本書でもその例に洩れず、法廷シーンで繰り広げられる原告側、被告側双方がやり取りする揚げ足の取り合い、トラップの仕掛け合いはものすごくスリリングである。言葉の戦争だとも云えよう。 元々フリーマントル作品には上級官僚が自らの保身、自国の保身のために行う高度なディベートが常に盛り込まれており、すごく定評がある。このフリーマントルのディベート力が裁判という舞台に活かされるのは当然であった。逆に云えばなぜ今までフリーマントルが法廷物を書かなかったのかが不思議なくらいだ。 さて読んでいて思ったのは、今回の主人公ハーヴェイ・ジョーダンはチャーリー・マフィンに非常に似ているということだ。身分窃盗という詐欺師を生業にしているが故に、公に顔を知られてはならないところはチャーリーがスパイであるという職業柄、同様の禁則を持っているのと同じだし、自ら保身のために自分が雇った弁護士以上の分析力を発揮し、逆に弁護士に突破口の糸口のアドバイスを送る。それは自分だけではなく、情事の相手アリスを守るためでもある。この点はチャーリーが英国のスパイでありながら、内縁の妻であり、ロシア民警の総元締め的立場にあるナターリアを同時に救うことに腐心するところを非常に似ている。 そして自らの生活を脅かす人物に必ず復讐を持って制裁することもチャーリーと非常に似ている。双方に共通するのは共に英国人であるということ。つまりこの自らの保身だけでなく、愛する女性を守らなけらばならないという騎士道精神が根底にあるからではないだろうか。 本書のタイトルであるネーム・ドロッパーとは有名人の名前を借りて、恰も自らが非常に親しい友人のように振舞う人を差す言葉らしく、ここでの意味は他人の名前を自分の名前のように使い、その存在を他者に認めさせるように使う人として使用されているようだと訳者は述べている。 ここで思い当たるのは果たして名前とはなんだろうかという事だ。 他人の名を借りて身分を偽り、それが偽造パスポートや偽造運転免許証、さらに社会保障番号を知ることで他人に成りすます事が出来る社会。しかしそれは結局他人の人生でしかなく、非常に空虚な物であると私は思う。なぜなら他人に成りすまし、それが社会で認められ、金融取引も出来てしまう反面、では一体本当の自分とは何なのだというアイデンティティが揺るぐような根本的な命題に行き着くからだ。 本書は身分窃盗であるジョーダンが本人であるハーヴェイ・ジョーダンとして訴えられることで、改めて借り物の人生を過ごしてきた自らについてアイデンティティの再認識が成される。だからこそのあの最後のセリフが活きるのであろう。 最近のフリーマントルは長く生きてきたせいか、人生に対して斜に構えた見方をしがちで、最後に英国人流の皮肉を以って物語を閉じる傾向があったが、本書は主人公が詐欺師という犯罪者にもかかわらず、非常に胸の空くエンディングが用意されている。 私はフリーマントルにこういう小説を書いて欲しかったのだ。 世間では全く俎上に上がることが無かった本書だが、それが不思議でならない。『殺人にうってつけの日』もフリーマントルを最初に手にするのに適していると書いたが、本書はこの結末も含めて、更にお勧めの1冊だ。近年のフリーマントル作品の中でもベストだとここに断言したい。 |
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死者が見えるという特殊能力を持った青年オッド・トーマスの物語。
オッドは死人が訴えるメッセージを読み取り、彼らの無念の死の元凶となった犯罪者を捕まえる事を厭わない。しかし彼はそれには決して銃を使わない。 オッドは朝起きると、まず今日も生きていた事に感謝し、その日一日奉仕して今日も生き延びられる事を祈る。 これらのオッドの性格付けと見なされていた設定が後半、彼のそれまでの人生に与えた影響によるものだというのが解る。 彼の両親は離婚しており、プレイボーイの父親と美しい母親は今でも健在だ。しかし彼らは社会的常識の欠落者、というよりも利己中心で自己保身の性格が突出した人物、つまり結婚生活に全く適していない人物なのだ。 特に凄絶なのはオッドの母親だ。彼女の場合は精神的不均衡に由来するものだが、自分を守るが故に他者との係わり合いを徹底的に嫌うその性格、そしてそれにより被ったオッドのトラウマを想像すると背筋が寒くなる。子供が風邪や病気で苦しんでいるのに、その世話に関わる事で“要求される事”を嫌い、それに対応する事で自分の何かが奪われていく負担を感じる母親が、オッドの咳を止めさせるために隣りに添い寝し、一晩中銃口を彼の眼に突き付けていたというエピソードは凄まじい。 この一種作り物めいている人物設定だが、実際にいるのではないか。モンスター・ペアレンツと揶揄される自分勝手な親が蔓延る世の中、全くおかしな話ではないと思えるのがなんとも痛ましいところだが。これを筆頭に狂気の90年代と作者が常々訴えている人間の利己主義の暴走が本書でも幾度となく語られる。 このような虐げられた幼少時代を過ごしたオッドがサイコパスにもならず、ダイナーのコックとしてつつましいながら恵まれた生活を送っているのは彼を取り巻く人々の慈愛と、彼の運命の恋人ストーミー・ルウェリンの存在。 特にストーミーはオッドの精神の拠り所であり、彼のこの上もない宝物だ。このキャラクターは白眉であり、理屈っぽいところは数あるクーンツ作品で見られるヒロインの典型なのだが、彼女に対するオッドの深い愛情がそこここに配されていることで、なんとも愛らしい人物になっている。 そして開巻一番驚いたのは今まで作品に挿入されていたクーンツ自作の詩が『哀しみの書』から『歓喜の書』に変わっていたことだ。世界は哀しみに溢れ、彼の描く世界・物語は恐怖の連続であり、登場人物たちはまともに見えて実は狂気と正気の淵でギリギリの均衡を保っている。終わってみればハッピー・エンドだが、物語はほとんど救いが見られない様相を呈しており、クーンツはその絶望を悲しむ、それこそ彼の作品自体が『哀しみの書』となっているように感じられる。 それがしかし本書では『歓喜の書』となっている。この答えは最後になってようやく解ったような気がする。それについては後述しよう。 さて本書を読んで連想するのはハーレイ・オスメント演じる死者が見える少年コール・シアーが登場するM・ナイト・シャマラン監督の映画『シックス・センス』。主人公オッド・トーマスはその少年が成長した姿のようだ。死者が見えるだけでなく、その能力を使って死者の悔いを晴らす、起こりうる惨劇を防止するために行動する彼の信条はあの映画の後の少年だとしても違和感がないだろう。 ちなみに映画は99年の作品で本書は2003年の作品だから、恐らくクーンツはあの映画を念頭に置いていたのではないかと思われる。そしてそれは最後の最後で明かされる、ある事実からもその影響が強く表れている事が解る。 そしてこの2003年という年に注目したい。この頃のアメリカは哀しみが国中を覆い、死の影が誰も彼もに付き纏っていた。それは本書でも語られている2001年の同時多発テロという空前絶後の悲劇によるところが大きい。 そして本書でもショッピングモール内での銃乱射事件というテロが物語のクライマックスになっている。これが本書におけるオッドの使命なのだが、この事件でオッドは最大の不幸を経験する。 物語半ばでもしやと想像していたことであり、でもハッピー・エンドで終わるクーンツだからそれはないだろうと思っていたが、作者は敢えてそれを用意した。 ここでクーンツが本書の冒頭に『哀しみの書』ではなく『歓喜の書』を挿入したのかが私には解った。哀しみを乗越えた後に歓びが訪れる、人はその困難に打ち勝たなければならない。そしてこれこそで哀しみに打ちのめされた人々に対するクーンツからのメッセージだったのだろう。オッドはそれの具現者だというのが最後に解るのである。 しかしなんとも遣り切れない思いが募る。クーンツがこの物語に込めたメッセージは解るがやはりこの結末だけは避けて欲しかったというのが本音だ。 しかしそれが故になぜ本書がオッドによる一人称小説になっているのかもまた読後に解るのだ。それは小説的技巧のみならず、なぜ彼がこの物語を紡ぐ事を友人の作家リトル・オジーに勧められたのか、それが実にストンと心に落ちてくる。そんな多重的な構造を含め、本書は最近のクーンツ作品でも群を抜いて素晴らしく感じるのだから全く皮肉な物である。 オッド・トーマス、君に幸あれ。思わず読後、こう声を掛けたくなる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2007年に亡くなった藤原伊織氏の江戸川乱歩賞受賞作にして直木賞受賞作。こんな説明が要らないほど有名な作品だが、確かにこれはとてつもないデビュー作だ。
まず冒頭の導入部。久々に晴れた日、公園まで散歩する主人公と休日を楽しむ人々の風景。そして突然の爆発。 静から動への反転が素晴らしく、一気に読者を物語世界に引きずりこむ。 主人公はアル中のバーテン島村圭介。それは偽名で元の名を菊池俊彦という。彼は過去園堂優子、桑野誠の3人で活動していたノンセクトの全共闘時代の闘士の1人だった。 彼が現在のように名を変え、人の目から隠れるようなその日暮らし、その場しのぎの生活を送るようになったのはこの全共闘時代に起こした犯罪が基ではなく、その後それぞれの道を歩き出した3人が人並みの生活を送れるようになったその瞬間に訪れたある爆発事故だった。その時の被害者にも警察官がいたという運命の皮肉。 そんな彼を取り巻く人物も血肉を持っている。島村のかつての友人桑野に優子は無論の事、新興の組を束ねるエリートヤクザ浅井に、優子の娘、松下塔子。 彼らに共通するのは栄光を掴みかけた喪失感だろうか。何かに失敗し、また這い上がろうとし、努力を重ね、そして再び成功に似た何かを掴みかけたその瞬間、運命が眼の前でそれを攫っていく。ただ彼らはそれをあるがままに受け入れる。何かのせいにせず、とにかく生き延びる事にだけ執着して。 主人公の島村の場合はそれはボクサーとしての栄光であった。 エリートヤクザの浅井にとって、それはノンキャリアながらも異例のスピードで出世していく警察官だった時だった。 園堂優子にとって、それは彼女が3ヶ月間、島村こと菊池と暮した短い日々だった。 桑野にとって菊池と優子の3人とともに戦った日々であった。 それらを語る文章になんの衒いも飾りもない。ただ少しばかりの感傷を織り交ぜ、物事が、時間が語られる。その行間に隠されているのは彼らが辿った人生の重み、深みだ。 素晴らしい。時間を忘れる読書を久々に体験した。 逃亡生活を送っていた島村を事件と向き合わせたのは偶然がもたらしたかつての友たちの死。彼らへの弔辞の代わりに誰が彼らを殺したのかを探る。 知らなければいい事は確かにある。笑顔で笑いあった日々、その眩しい思い出に隠された本当の心などはそれぞれの胸の内に仕舞い込んでおけばいい。答えを知る事で失う事があることだってあるのだ。 しかし、失う事ばかりではなく、確かに私こと菊池が得た物もあった。それはかつて一緒に暮した女性の娘の恋心だ。それだけが救いか。 10月の長く続いた雨が止んだ土曜日、新宿中央公園で起きた爆破事件。それは物語の始まりであったが同時に彼ら3人の終焉の瞬間であったのだ。 その運命の瞬間に居合わせた人々が形成する曼荼羅はいささか偶然に過ぎる感じもするとも云えるが、まあそれは措いておこう。 本書の題名にあるパラソルという単語は最後の最後にようやく登場する。ある登場人物がこの言葉に込めた意味とは、以前とは変わり果ててしまったある人物の中に最後に見出した少しばかりの優しさだったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第5作の『炎蛹』以降、シリーズの通奏低音ともいうべき存在感で物語の影の部分で暗躍していたロベルト・村上こと仙田勝が今回鮫島の標的となり、とうとうこの時が来たかと一言一句噛み締めるように読んだ。
そして今回の泥棒市場の撲滅に関わってくるのが鮫島のライバルで同期のキャリア香田。 しかし今回香田は今までと違い、公安の立場ではなく組対部の理事官として鮫島と対峙する。それは外国人犯罪者に家族を傷つけられたという個人的な怨恨が原動力となっていた。そしてまた仙田も元公安の人間。香田の真意に鮫島は疑問を募らせる。 今までお互い水と油のように相対し合ってた2人がお互いの正義を振りかざし、真っ向から対抗する。 香田は大局的な見方で、関西の大規模ヤクザの稜知会と手を組み、複雑化する外国人犯罪を根こそぎ掃討し、かつての警察とヤクザの持ちつ持たれつの関係というシンプル化を図る。対する鮫島は法を遵守する側が大局的な視点とは云え、法を破り悪に組する事に疑問を呈し、香田の正義に問いかける。 このシリーズを通してのライバル2人が今まで以上に熱い真剣勝負を交わす。 仙田、そして香田。 このシリーズを通して常に鮫島に立ちはだかった2人のライバルが本書ではクローズアップされる事で、警察が歩んできた歴史の闇と光、功罪を浮かび上がらせる。しばしば何が正義なのかを読者にも問いかける。 社会人も20年過ぎてこのシリーズを読むと、鮫島のかざす正義の旗印という物が実に純粋であることが解ってくる。そしてそれを貫くがために輝かしいキャリアとしての出世街道を外れ、あくまで警察官としての正義、遵法者としての警察官であろうとする鮫島の主張が現実離れしているように思えたことを正直に告白しよう。 香田と鮫島のどちらを選ぶかと問われれば私は間違いなく前者を選ぶだろう。大人になると「自分」を貫くことがいかに困難かを思い知らされる。そんな世の中にこの鮫島という男は貴重だし、彼を求める読者がいるのだ。 かつて第2作『毒猿』では東京で幅を効かせる中国系マフィアと暴力団の一大抗争をテーマにしていたが、18年後の本作では外国人犯罪者と暴力団が協力しあい、複雑な犯罪システムを築き上げている。一日千秋の思いがする。 そんな多様化した犯罪を以前のように単純化するために組対部が画策するのはコピーブランドの摘発を端緒に外国人犯罪者の一掃だったというのが面白い。これが果たして今の警察にとって現実味がある方法なのか、もしくは実際に計画されているかどうかは寡聞にして知らないが、よく考えたものだと感嘆した。 そしてその最高責任者として常に鮫島の前に立ちはだかる存在である香田を配したのが面白い。その動機―自身の家族を自宅で外国人犯罪者にて襲われた―も十分練られていて無理がなく、思わず唸ってしまった。 このように犯罪が複雑化し、細分化されるにつれ、事件も複雑化する。つまりそれはストーリーをも複雑化を招く。 しかし作者大沢氏は練達の筆捌きで同時進行する複数のストーリーを一点に見事収斂させる。毎度の事だが、本当に見事と云うしかない。 ちょっと下世話な話をしよう。本作のキーパーソンである呉明蘭なる中国人の女性盗品鑑定人。恐らくタイトルはこの女性を指したものだろう。 本作には銀座・六本木の夜をホステスとして渡り歩いたこの明蘭の過去を探るに当り、東京のクラブの内情が語られる。この辺は銀座・六本木の夜を颯爽と闊歩している大沢氏の本領発揮とも云うべきで、恐らく連日連夜足繁くクラブに通い、ホステスを口説きながら取材したに違いない。 そしてその“夜のクラブ活動”の成果を作品の緊張感を損なうことなく、淀みなくストーリーに溶け込ませるのはやはり熟練の技。十分経費として落とせる内容になっている。 さて90年に「卑しき街の聖人」という英題を付して現れた「新宿鮫」こと鮫島もなんと45歳を越える年齢になってしまった。 そしてシリーズの巻を増すごとに恋人、晶の存在が希薄になっているが、本作でも彼女の占めるウェートはわずかに過ぎない。この辺りは作者も幾分持て余し気味のような気がしないでもない。この2人の年齢を考えるとそろそろ次作あたりで何らかの決着がつくような気がする。 警官を集団における一つの駒としてではなく、一個の人間として描き、それぞれの正義観の狭間でもがき、葛藤しながらそれぞれが生き方を貫く極上の警察小説、『新宿鮫』シリーズ。 この作品の熱気はまだまだ冷めそうにない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『待たれていた男』では永久凍土から出てきた死体がアメリカ人とイギリス人、そしてロシア人の第2次大戦当時の身元不明死体という設定でチャーリーに再び危機を齎したフリーマントルだったが、今回はモスクワで起きた米露大統領射殺事件―1つは未遂―の現行犯がなんとイギリスからの亡命者の息子だという設定でチャーリーを事件の渦中に巻き込む。いやはやよくもまあ斯くも多彩な設定を思いつくものである。
そしてまたまたフリーマントルは素晴らしい手札を用意してくれている。 亡命者を監理するKGBのベンドール一家に関する資料は一体どこへ消えたのか? ベンドールが火曜日と木曜日に会っていた連中とは誰か? ピーター・ベンドールの日記や書類を持ち去ったKGB職員とは一体誰なのか? ロシア軍に所属していたベンドールに背後に潜む存在が解らない中、発射された銃弾5発のうち、2発と3発は口径が違う事が判明し、他の狙撃手の存在が浮かび上がる。更には銃弾の旋条痕から実は5発ともベンドールが放った物ではない事が浮かび、更に混迷を極める。そして尋問として呼び出されたベンドールの母親が獄中自殺したと思われたのが実は他殺であった事、それを筆頭にベンドールを取り巻く連中が次々と殺されている事。そしてなかなか口を割らないベンドールが時折口ずさむハミングは何の象徴なのか? そもそも何故、軍に所属していた頃から奇行が目立っていたベンドールのような不安定な精神状態の男を敢えてこのような重大な暗殺事件に狙撃手として選んだのか? 様々な事実が大きな組織、それもロシアの政治の一画を担う組織の翳をちらつかせるが、それが何なのかが新事実が解れば解るほど曖昧になっていく。 どんどん複雑化する状況に読者は一体この先どうなるのだろうかと安心する事を保証されない。そしてこの複雑に絡み合った数々の要因が最後ある一つのシンボルを中心にするすると解けていき、最後に明かされる事件の裏に隠された壮大な計画が露わになってくる。 特に冒頭で起きた狙撃手とTVカメラマンとの格闘の一部始終が、最後になって全く別の側面を持っていたことが明らかになるところはカタルシスを久々に感じてしまった。本格ミステリの謎解きそのものと云っていいだろう。そしてこの真相が解って初めて本書の原題”Kings Of Many Castles”の意味が見えてくる。 そして今回もものすごい知能合戦の応酬だ。三国共同捜査という形を取りながらもいずれも自分の地位、自国の優位を得んがために、協力の微笑みの裏でナイフを隠し持つ危うさを持っている。無害かつ見返りとして自分の利益になりそうな情報や証拠は共有化するが、自らの取っておきの武器となりうるものは決して明かさない。 そして各々がそれを隠し持っている事を三国捜査の代表者は笑顔や何気ない言動に隠された合図で知っているのだ。 特に今回は現行犯逮捕されたベンドールの尋問とナターリヤが行う旧KGBの亡霊とも云うべき連邦保安局のトップとの尋問がスリリングだ。 前者はなかなか突破口を見出せなかった尋問から、精神科医の助言を手掛かりにチャーリーが言葉巧みに相手の自尊心をくすぐり、徐々に有効な情報を引き出していくテクニックに感嘆する。 後者はKGBというロシアの高官の誰もが恐れる存在の象徴ともいうべき連邦保安局の長官カレーリンを相手に自らもKGBに所属していたナターリヤが知略の限りを尽くして堅牢なガードを突き崩していく。特にカレーリンは旧KGBでも百戦錬磨の猛者であり、情報戦には長けており、尋問者を手玉に取るように、更にはテストを行うかのように冷徹な微笑を浮かべながら応対する。その自負心を見抜き、相手に誘導されている事を気付かせないように詰め将棋の如く尋問を行うナターリヤ。この尋問に彼女らが背負う大統領代行の威光というのがロシア的で面白い。 ここで彼女らがこの連邦保安局の最高責任者に手玉に取られることは即ち彼女らをバックアップしている大統領代行の強さを挫く事になり、それは代行が大統領に選任された後、連邦保安局に対するその上下関係が継続される事を意味している。この2人のせめぎ合いは本書で最も息が詰まったパートだった。 こういう高度な駆け引きを彼らが出来るのは一様に彼らが自分の感情を制御する訓練を受けているからだ。一番危険なのは感情に左右され、自分を見失うことだ。相手をよく観察し、言葉の抑揚に注意し、発言に隠された意味を嗅ぎ取らなければならない。彼らも人間であるから相手のテクニックに揺さぶられ、感情を露わにするがそれを冷静に観察する第三者の目を持っている。 この辺のテクニックは私も仕事をする上で是非とも身に付けたい技術だ。 そして哀しいかな、彼らはそのような訓練を受けているがために、男女関係の駆け引きにおいても第三者の目を行使し、無防備に相手に身を委ねない。ほとんどこれは職業病と云っていい。 そしてチャーリーの私生活は前作に比べてあまり好ましくない状況にある。前作での事件でナターリヤ自身が彼との危うい均衡の中での生活に疲労を感じており、チャーリーとの心の触れ合いが減じている。例えば成長した二人の娘サーシャが学校で親の職業について友達同士で話すようになったことに過敏に神経をすり切らし、幾度となくチャーリーへの愛情と自分に向けられる愛情の有無を自問する。単にロシア側の情報源として自分との生活を続けているのではないかとあらぬ想像を掻き立てる。しかし常に先読みする能力に長けているチャーリーを頼りにしている自分がいることにも気付くのである。 作中たびたび登場人物の口から出るように本作の事件はダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件に酷似している。むしろダラス事件のロシア版といった趣きで、主犯と思われた人物が逮捕された後、それを暗殺する男が出てきて、またその人物も殺され、真相は闇の中、といった具合だ。 ただフリーマントルは本作ではきちんと決着をつける。それはこの作者が私ならケネディ暗殺事件をこのように解決するだろうと声高に叫んでいるかのようだ。 ただ1つ気になるのは、前作『待たれていた男』でも感じたが、もはやチャーリー・マフィンにもはやライバルはいないということ。今思えばナターリヤとの恋の宿敵であった『流出』で登場したポポフが最後のライバルだったように思う。 最大の敵はもはや自分というのがこの2作で共通する事だろうか。イギリスの情報部員という危うい立場でロシア内務省の上級職でしかも民警を取りしきる高職にあるナターリヤとの生活を死守するためにドジを踏まないよう事に当るチャーリーはアメリカとロシアのライバルどもと共同戦線を張りながらもその実、いかに自分が上手く振舞うかに腐心している。 前作と本作が似通っているのは米英露三国共同捜査という設定に加え、チャーリーの生活の維持というのが共通しているからだろう。悪く云えば本作は前作の数あるヴァリエーションのうちの1つとも云える。シリーズに新しい色を加えるためにも『亡命者はモスクワをめざす』で現れたエドウィン・サンプソンのような、一枚も二枚も上を行くライバルが欲しいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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各種オールタイムベストランキングで常に1,2位、少なくとも上位5位以内には位置を占める不朽の名作『Yの悲劇』。21世紀の世になり、かなりの小説を消化してきてようやく着手した。
舞台となるハッター家の邸に住まう、気ちがいハッター家と世間で揶揄される面々がいつもに比べて非常に強烈なキャラクター性を放っている。 傲岸不遜を地で行くエミリー・ハッターを筆頭に、精神的虐待で自身の私的研究室に終始篭っていた被害者ヨーク。世間で天才の名を恣にしている長女で詩人のバーバラ。学生の頃から今に至るまで夜の街で暴れては警察の厄介になり、各種の犯罪を犯しては母の権力でもみ消してもらっている無頼派の長男コンラッド。美貌を活かし、男をとっかえひっかえして、数多のスキャンダルを繰り返す末娘のジル。ハッター家に嫁ぐもエミリーの君主的支配からヨーク同様の生きる屍の如く毎日を送るコンラッドの妻マーサ。そしてコンラッドとの間に出来た二人の息子ジャッキーとビリーは狂暴かつ乱暴で悪知恵が働き、常に残忍な悪戯をして周囲を困らせている。そして聾唖盲の三重苦を背負ったエミリーの前夫との娘ルイザ。 なんともヴァラエティに富んだキャスティングではないか。今まで読んだ他の作品と比べても、エラリーが本作に多大なる力を注いだのがこの人物設定からも十分窺える。 そして『Xの悲劇』が様々な公共交通機関で起こる、云わば外に向けられた連続殺人劇であるのに対し、この『Yの悲劇』は古典ミステリの原点回帰とも云うべき、ハッター家という邸内で起こる連続殺人劇というのが非常に特徴的だ。これも作者が正面から古典本格に戦いを挑んだ姿勢とも取れる。 このクイーンの過去の名作への挑戦とも云える本書の感想を率直に述べよう。 確かに傑作。これはすごい。読み終わった後、鳥肌が立った。これほど明確なまでに探偵の収集した情報を読者の眼前に詳らかにした上で、最後の舞台裏の章で明かされる事件の真相の凄さ。本作で展開されるロジックの畳み掛けはクイーン特有のロジックの美しさというよりも、論理を超えた論理とも云うべき凄味すら感じさせられた。 この書を手に取るに辺り、多大なる期待と多大なる不安があったことをまず正直に述べておこう。なぜなら私自身、これまで数多の推理小説を読んできたと自負しているので、世の読書家、書評子の方々が諸手を挙げて傑作、傑作と囃し立てるほどの驚きは感じられないだろうと高を括っていた。が、全く以ってそれが自身の自惚れにしか過ぎないことが読後の今、痛感させられた。 ここで子供じみた自画自賛的主張を述べるが、真相に至る前に犯人は解っていた。私には十全に推理が組み立てられなくとも、読書の最中で、ふと犯人が閃く事がある。それは各登場人物の描写における違和感や何気なく描かれた一行程度の仕種だったり、探偵役の調査の過程で思弁を凝らした時だったり、添付された見取り図をじっと凝視している時に、電撃のように頭に閃くのである。時にはそれが作者の文体の癖からだったりもし、これになるともはや推理というよりも単なる勘であるのだが。 で、今回はレーンが実験室を調査中にふと閃く事があり、その直感を元に見取り図を見て、ある文字が頭に飛び込んできた時に、ざわっとしたような啓示を受けた。その時、浮かんだのは、この手の真相はこの小説が起源だったのかということだった。そしてこの時浮かんだ島田氏の本書の題名に非常によく似た作品について、恨みめいた感情を抱いたものだ。 だから舞台裏の最初でレーンの口から犯人が明かされた時、正に我が意を得たりといった満足感があった。この真相は発表当時は衝撃だったであろうが、今となっては一つのジャンルとなりつつあるこの手の真相を扱った小説、映画を観てきた現代人にしてみれば、それほど衝撃的ではないし、逆にこの趣向を使ってもっと戦慄を感じさせる小説は後世にも出てきており、何故これほどまでに今に至って傑作と評されるのかが疑問だった。 しかしそれから展開される探偵の推理と真相はページを捲る手を休ませないほど、微に入り細を穿ち、なおかつ堅牢無比のロジックが目くるめく展開する。 未だに「推理小説で凶器といって何を思い浮かべるか」という質問があったときに、「マンドリン」と答える人が複数いるという。それは暗にこの小説で扱われた凶器がその人たちの記憶に鮮明に残っているからなのだが、これは確かにものすごく強烈に記憶に残る。いやむしろ叩き込まれるといった方が正鵠を射ているだろう。 小学校で習う掛け算の九九や三角形の面積の出し方、円周率が3.14であることと同じくらい、死ぬまで残る記憶に残るのではないか。私も30過ぎて読んだが、多分今後このマンドリンという凶器とそれをなぜ犯人が使ったのかという理由のロジックの見事さは忘れられないだろう。 更にこの犯人であることを補完する証拠や犯人の心理がレーンの口から理路整然と次々に語られる。そしてこれが犯人が犯人であるだけに論理だけに落ちず、感情的にも深く心に染み込む理解となった。 そして読後の今、私が犯人を当てたなどは単なる直感に過ぎず、何の推理もしていなかったことが気持ちのいいほど腑に落とされた。自信喪失というよりも爽快感しかない。 そして最後の毒殺の真相。これがこの作品に他作とは一線を画する余韻をもたらしている。レーンのこの事件で感じた絶望が読後、時間が経つにつれ心の中に染入るほどに降り積もる。 読後の今、この作品を振り返ってみると、これはエラリー・クイーンが書いたとは思えないほど、暗い物語だ。家庭内の悲劇が事件によって暴かれる。これは正にロス・マクドナルドではないか。もしかしてロスマクの諸作品はこの『Yの悲劇』が下敷きとなっているのではないかとも取れる。 犯行の動機があまりに短絡的でありながら純粋かつ無邪気なところがこの驚愕を際立たせる。そして今現在、日本各地で起こっている衝動的殺人のほとんどがこの『Yの悲劇』と同様の動機であることに思い当たる。だからこそ現代でも燦然と輝く傑作なのか。 そして私はこれは未完の傑作だと考える。なぜなら冒頭のヨーク・ハッター氏の真相が明かされていないからだ。ヨーク・ハッター氏は果たして自殺だったのか、それとも?なぜヨークは失踪したのか? まだ『Yの悲劇』は終わらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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エラリー・クイーンが当初バーナビー・ロス別名義で世に放ったいわゆる悲劇4部作の第1作。名探偵ドルリー・レーンシリーズの幕開けである。
ドルリー・レーンとエラリー・クイーン。作者クイーンはこの2人の名探偵を実に特徴付けて設定している。 犯人が確定する絶対的な証拠を掴むまで絶対に真相を話さない、お互い引用癖があるという共通点はあるものの、片や大学卒でミステリ作家でもエラリー・クイーンは若さ故に先走る事があり、書物収集家でもある典型的なインテリタイプ。 片やレーンはかつてシェイクスピア俳優として名声を馳せた人物で、常に冷静に事件を見つめ、元俳優という職業を活かし、変装までも行って独自で捜査を行い、また演劇と犯罪とを結びつけて考える、そして耳が聞こえないというハンディキャップを負いながらも読唇術で会話ができ、なおかつ推理に浸るときには目を瞑り外界からの情報を一切シャットダウンすることができる深慮黙考型の探偵だ。古典ミステリの観点から云えば、このドルリー・レーンこそ昔ながらの名探偵像に近いと云える。 またこの作品、国名シリーズと違って、非常に古めかしい装いを呈している。 なにしろ冒頭は山奥に建つイギリス様式の、個人劇場を備えた豪邸ハムレット荘を訪ねることから始まるのだ。ニューヨークに住居を構える都会型探偵エラリーとは大違いの舞台設定だ。 事件は衆人環視の満員電車の中での殺人、また乗客の多数乗った連絡線からの墜落死とモダンな感じはするものの、レーン氏の風貌、文体などからもこれぞ古典本格ミステリといった風合いが漂う。こういうガジェット趣味は現代の新本格ミステリに通ずる趣向であり、読んでて非常にワクワクした。 さて読者への挑戦状は挿入されていないものの、国名シリーズ同様、犯人を当てられるだけの材料は真相解明には全て揃っていた。 そして本作が発表された1932年という年は他にも『ギリシア棺の謎』、『Yの悲劇』、『エジプト十字架の謎』というクリーン諸作の中でも代表作と呼ばれる4作品が発表されたクイーン最盛期の年である。 本作では殺人事件は3つ起き、それぞれの舞台は電車、定期船、電車と乗り物であるのが特徴。装飾は古めかしいが、殺人現場は非常にモダンである。 そしてこれら「動く密室」を設定しているのが、国名シリーズとは一線を画するといったところか。そして犯人逮捕シーンも最後の殺人の舞台となった電車内で行われる、劇的趣向が施されているのもやはり主人公レーンが元舞台俳優であることを意識しての事なのかもしれない。 本作のタイトル『Xの悲劇』の「X」の意味について、作者はきちんと答えを用意している。 その正体はなるほどね、という軽い意味合いのものではあるが、雰囲気や字面だけで題名をつける作品が多い中、こういう誠実さは非常に好感が持てる。それが果たして「悲劇」になったのかどうかは別にして、記憶に残るタイトルと正体であるのは間違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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