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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数201

全201件 21~40 2/11ページ

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No.181:
(8pt)

運命の2人、再び!

これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。

従ってそんな敵に独り昔ながらの方法で取材を続けるジャックはいつの間にかクレジットカードを無効にされ、携帯電話は使用不可になり、個人のメールアカウントさえも乗っ取られてしまい、更には銀行口座も空にされ、まさに八方ふさがりの状況に陥る。

その一部始終も詳細に書かれている。スケアクロウは自分が行っている犯罪トランク詰め殺人に興味を持つ人間が集まるサイト、トランク・マーダーサイトを立ち上げ、それを捕獲サイトとしてアクセスした人のIPアドレスを入手し、それを別のサイト、デンスロウ・データに転送してそこから犯人はIPアドレスを捕獲する。そうすることでトランク・マーダーサイトから逆に自分のIPアドレスを探られるのを防いでいた。

そして転送されたサイトから入手したIPアドレスからアクセス元を辿り、そのパソコンにアクセスして個人情報を盗み見て、そこから更にその人物が使っているであろうパスワードを推測し、その人物が利用しているポータルサイトにアクセスして、成りすましてサーバー内に侵入する。それからはまさに独壇場。本人が送ったメールは削除され、誤導する内容のメールを送付して、自分の思うがままに周囲を、本人を操る。クレジットカード、メールアカウント、携帯電話、銀行口座などウェブを介して変更、更新が出来るものは全て意のままに操れる。

特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。

また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。
つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。

さて今回の敵スケアクロウが殺害した女性はストリッパーであり、背が高く、長い脚と引き締まった身体つきをしており―FBI曰く、キリンのような女性―、膣と肛門を異物で何度もレイプした後、裸でビニールにくるまれて、その上から紐で首を絞められて窒息死させられる。そして下肢装具愛好者で拷問中にそれを被害者に付けていたと思しき痕跡が見られる。正真正銘のサイコパスだ。

そしてウェブサイトを自由に行き来できることから、そこで自分の好みに合った女性を見つけ、犯行に及ぶ。ジャックと取材していたアンジェラもスケアクロウの願望に見合ったがために、その毒牙に掛かってしまう。

そんな恐ろしい敵に挑むために再びタッグを組むことになったジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリングのそれぞれの状況は『ザ・ポエット』と本書では全く状況が異なる。

一介の地方紙の新聞記者に過ぎなかったジャックが『ザ・ポエット』の事件によって一躍注目を浴び、ロサンジェルス・タイムズ紙の記者になる立身出世の物語だったのに対し、本書は一度の離婚を経験し―なんとその相手はボッシュシリーズでお馴染みの新聞記者ケイシャ・ラッセル!―、そのロサンジェルス・タイムズ紙から解雇勧告を受けた立場であり、後任の新聞記者の引継ぎと教育を兼ねて最後のヤマとして取材している。
つまり上昇気流に乗っていたジャックに対し、本書では下降線を辿る新聞記者の起死回生の物語となっている。

一方レイチェルはFBIの花形部署、行動科学課のプロファイラーとして詩人の事件を担当していたが、ジャックとの件で新聞記者と寝た女というレッテルを貼られ、末端支部に左遷されてしまう。その後ボッシュと何度か組んだ事件でロスに再び戻り、諜報課勤務を続けている。但しそれは彼女の本分ではない部署ではある。

そして彼女は再び窮地に陥る。業務と称してマカヴォイの手助けをした際に専用ジェットを使用したことで経費濫用の罪に問われ、FBIを辞職させられる。

しかしその後ジャックの提案で独自で事件のキーとなるウェスタン・データ・コンサルタント社を捜査し、犯人の証拠を掴むことで再度FBIに復帰するのだ。

一方ジャックも事件の当事者の1人となることで一旦復職を許されるものの、その契約内容は収入減と各種手当が付かないという内容で、ジャックはそれを一蹴する。

ジャックもレイチェルも一旦は職を失いながらも、自分が見つけ、関わった事件で運命を変える。それは起死回生のチャンスだが、ジャックはそれでも自分に見合わない条件としてそれを蹴り、一方レイチェルはそれを受け入れ、再び殺人事件捜査の第一線へと戻る。

今回最も私が驚いたのがレイチェル・ウォリングのことだ。彼女は詩人の事件でジャックと恋仲になったことをFBI内に知られ、左遷され、長い間心が塞いでいくような閑職に追いやられた身だ。つまりそれは自らが招いたこととはいえ、ジャック・マカヴォイこそが彼女の輝かしい未来へのキャリアを棒に振る大きな要因だったことだ。そんな忌まわしい記憶が残る中に再びジャックに加担する理由が、彼女にとってジャックが“一発の銃弾”だったということだ。

これはボッシュがレイチェルに語った、誰でも1人忘れられない運命の人、心臓を撃ち抜かれた一発の銃弾のように、という説だ。つまりボッシュにとってエレノア・ウィッシュがそうであるようにレイチェルにとってそれはジャック・マカヴォイなのだ。

私はこれが非常に驚いた。ジャックはFBI女性捜査官の心を奪うほど人間的に魅力のある人物とこれまで思わなかったからだ。
新聞記者でいつもよれよれのコートを着て、煙草のヤニの匂いを漂わせて、警察やFBIに嫌悪されているような人物と想像していたからだ。私の中では俳優のマーク・ラファロのような風貌で、レイチェルは肩までのブロンドの髪をした細身の顔のクールビューティな感じで若い頃のティア・レオーニを想像させるような人物像である。
レイチェルがこれほどまでに惚れるジャックはよほどハンサムで魅力的なのだろうが、これにはどうも違和感がある。いや、単に私にとってお気に入りのキャラクターであるレイチェル・ウォリングがジャックに心底惚れていることに嫉妬しているだけなのかもしれないが。

ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。

解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。
そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。

一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。
高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。
コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。

本書の題名であるスケアクロウ、即ち案山子はデータ管理会社におけるセキュリティ責任者の俗称だ。田畑を荒らしに来る害鳥たちから守るために付けられる見張り役、案山子のように、ウェブ世界の中を徘徊するハッカー、特許ゴロ、コンピュータ・ウィルスたちを見張り、データを守る存在だ。ウェスタン・データ・コンサルタント社でその任に当たるウェスリー・カーヴァ―がこの連続殺人鬼であることから題名は来ている。

一方ジャックの上司であるドロシー・ファウラーがその名前から『オズの魔法使い』の主人公に擬えられていること、そしてこの作品にも案山子が登場していることは何らかのメタファーなのかと思ったが、これが本当にそうだった。

しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。
そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。

しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。
そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。

ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。

しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。
そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。
某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。

つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。

しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。

ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。

悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。


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マイクル・コナリースケアクロウ についてのレビュー

No.180:

ZOKU (光文社文庫)

ZOKU

森博嗣

No.180:
(8pt)

まさに世代ど真ん中でした

犯罪未満の壮大な悪戯を世間に仕掛けて喜ぶことを目的とした黒古葉善蔵率いる非営利団体Zionist Organization of Karma Underground。通称ZOKU。

それに立ち向かうのは木曽川大安率いる科学技術禁欲研究所Technological Abstinence Institute。通称TAI。

この2つのチームの戦いを描いた連作短編集が本書である。

まず第一話「ちょっとどきどき」では暴音族なる騒動が世間に起こっていることが語られる。
まずはイントロダクションとも云うべき1編。お騒がせ悪戯集団ZOKUの悪戯の数々とそれを防ぐTAIの面々の顔合わせだ。

続く「苦手な女・芸術の秋」ではTAIの木曽川大安の秘書、庄内承子が初登場する。
なんと本書ではTAI所員のヒロインの永良野乃がエース揖斐純弥に惚れてしまうという事態が起こる。単にシリーズを続けるだけでなく、登場人物たちに発展を見せる、流石は森氏。エリート然とした揖斐のやや子供っぽい側面と思いもかけないところから来るプレゼントに恋愛経験の浅い永良野乃がほだされていく一部始終が描かれていて好ましい。

「笑いあり 涙なし」ではZOKUにも新キャラクターが登場する。
前回で揖斐に興味を、いや恋心を抱き出した永良野乃の揖斐へのアタックは本書でもまだ続く。いやむしろ前回では意識し出して手探り状態だったところに、最後揖斐が全く野乃のことを意中にないことが判明しただけに逆に野乃のプライドに火が着いて自分の方に気を向けさせようともっと積極的に、明らさまに気持ちを出していく様が描かれる。
一方ZOKUではバーブ・斉藤というまた濃いキャラクターが登場する。秘密兵器として満を持しての登場だが、直接ロミ・品川とケン・十河との絡みがないのでまだまだイントロダクションと云ったところだ。

展開に捻りが利いているのが「当たらずといえども遠からず」だ。
封筒に書かれた内容通りに従うと馬券が当たり、福引で特等が当たるという、ミステリとしても非常に興味深い題材。そして永良野乃の望みが巨大ロボの操縦という途方もない物だったことから、なんと計画が頓挫してしまう。実に意外な展開だ。
しかしそれよりも30半ばのロミ・品川と新入社員の20代半ばのケン・十河のジェネレーションギャップ溢れる会話が実に面白い。スカートめくりの件は爆笑もの。しかしスカートめくりかぁ。既に私が小学生の頃でも1,2人、しかも低学年の時にそんないたずらっ子がいただけである。本当に学校で流行っていたんだろうか?

最後の「おめがねにかなった色メガネ」は森氏らしくツイストが効いている。
敵同士が仲がいいとこんなツイストの効いた展開をも起こりうるのか。機関車好きの木曽川と派手好きな黒古葉。しかしそれぞれの所有する乗り物に密かに憧れを抱いていたことを率直に打ち明け、それぞれの立場を一日交換して思いを果たそうという、何とも子供じみた、いや少年の心を失わない大人たちの遊び心が横溢している。それを果たすためにそれぞれがお面を被ってやり過ごすのが面白い。黒古葉は縁日で売っている類の鉄腕アトムのお面を被り、一方木曽川は頭からすっぽり被るスペクトルマンのマスク―実にマニアックだ―を被る。逆にこの2人がそれぞれTAIやZOKUでやり過ごす様子と少年の頃のように機関車、ジェットの操縦席に座って胸躍らせるシーンが印象強くて、正直今回の悪戯についてはどうでもよくなってしまう。


さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。

犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。

それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。

さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。

一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。

木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。

各編の悪戯は暴音族、暴振族、暴図工族、暴笑族、暴占族、そして暴色族。

ある特定の場所のみに騒音を発生させる、振動を発生させる、色んな制作物を置いて、そのまま放置する、笑う場面でない時に笑いを起こす、占いで未来を当てて、次には大外れを食らわす、希望した色とは違う色が出てくる。

物によっては軽犯罪にも該当するし、子供の悪戯の延長でしかないことを費用と労力を大いにかけて全国に亘って行う、それがZOKUだ。

それを阻止するために警察に協力して彼らを追うTAI。

このような善対悪の物語は総じて悪の方に魅力があるのだが、流石はキャラ立ちの森作品、そのキャラクター性は双方勝るとも劣らない。

まずTAIの面々はそれぞれ苗字が河川、それも中部地方を流れる川の名前になっているのが特徴(永良野乃だけ漢字が異なるが)。
そしてTAIの頭脳、揖斐純弥と木曽川の孫でヒロインである永良野乃との恋の駆け引きが本書の読みどころの1つとなっている。とはいっても永良野乃が一方的に揖斐を好きなだけで自分に振り向かせようと揖斐にモーションを掛けるが発明好きの揖斐は朴念仁で気付いているのか気付いていないのかまともに取り合わない。彼にとっては野乃は単に所長の孫でTAIのメンバの1人でしかないのだろうが、例えば靴をプレゼントするが、それに合う服がないので野乃が履かないでいるとその靴に合う服を買ってあげるよ、なんて云われれば女性はその意外な提案に自分に気があるのかと思うはずである。こういうやり取りが女性のみならず、私のような男性も思わず微笑んでしまうのだ。
なお永良野乃は敵ZOKUのメンバーの1人、ケン・十河がファンになるほどの容姿の持ち主である。

揖斐と野乃の歳の差は12歳で揖斐の方が年上。犀川と萌絵の関係や、保呂草と紫子の関係のように森氏はこの年上男子に年下女子が一方的に恋をするという設定がどうも好きなようだ。

またZOKU側の面々の名前はカタカナ表記の名前に日本の苗字と一昔前の芸能人のようなネーミングが特徴。ロミ・品川とバーブ・斉藤はその元が解ったがケン・十河は解らなかった。

そして年増の―といっても30代半ばらしいが―ロミ・品川もまた揖斐に潜在意識下で恋心を抱いていることが判明する。

そしてこの30代半ばのロミ・品川と新入りのケン・十河のジェネレーションギャップによって起こるトンチンカンな会話が実に面白い。特にスカートめくりの件は爆笑ものだった。ちなみに私はロミ・品川に近い側の人間。

最初の3編はZOKUとTAIの真っ向勝負やTAIの野乃がZOKUにさらわれる、野乃が囮になってZOKUたちをおびき寄せる、といった真っ当な善対悪の構図で物語は描かれるが、4話目になると野乃の意外な希望から思った以上に金がかかり、計画が途中で頓挫したり、双方のボスが一日交換ボスになるといった森氏ならではの展開を見せる。そう、このTAIの所長木曽川とZOKUのボス黒古葉もまた実に憎めない人物なのだ。

一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。

そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。

幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。


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ZOKU (光文社文庫)
森博嗣ZOKU についてのレビュー
No.179:
(8pt)

チャンドラーの文体でロスマクの緻密なプロットで物語を紡いだ理想のハードボイルド小説

探偵沢崎シリーズ第2作。
今回沢崎はいきなり事件の渦中に巻き込まれる。低い声の女性から家族の行方不明についての相談という依頼の電話で指定の場所を訪れるといきなり誘拐事件の現金の運び屋として指定されるのだ。そしてそのために沢崎自身も誘拐事件の共犯者の1人として警察に目を付けられる。

本来依頼人が来て事件を調べていくうちに、事件の関係者から脅迫を受け、またいわれのない誹りを被る、更に自身にも危険が及ぶというのが作者原尞氏が尊敬するチャンドラーのハードボイルド小説だが、今回作者が選んだのは沢崎自身をいきなり事件の真っ只中に放り込み、そして警察から犯罪者の1人として疑われる、ノンストップで訪れるハードな状況なのだ。
しかもそれら一連の流れは実にスピーディ。冷静な沢崎を翻弄する犯人の手際の良さ、そして沢崎に訪れる不測の事態、更にそれによって起こる誘拐された少女の死と原氏は次々と沢崎にピンチを与え、休む暇を与えない。
そしてそれは読者もまた同じで、次から次へと繰り出される犯人の工作に沢崎同様にどんどん事件に引きずり込まれていく。

物語の流れは実に淀みがない。
起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。
無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。
真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。

そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。
更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。

例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。

そして失踪した沢崎のパートナー渡辺賢吾が過去に絡んだ事件も明らかになってくる。

そして偶然にも沢崎は容疑者を追っている最中にこの渡辺と邂逅を果たす。それは一瞬の間のことだ。彼はその一瞬で渡辺と目が合い、また離れていく。
その一瞬にそれまでの彼らの足取りが凝縮されたような印象的なシーンだ。

また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。

ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。
特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。音大の教授をしている父親の指導でヴァイオリンを始めるが挫折してその親へ反抗するかのようにロック・ミュージックの世界に身を置き、その日暮らしを続けるような身。音楽イベントを企画するが採算が取れなく数百万単位の借金を抱えるが、それを返済するだけの、色んなバンドやアーティストのバックバンドとして引き合いで演奏する技術と信頼がある。

さて私が前作を読んだのはちょうど11年前。まだ30代だった頃だ。当時の感想を読むとその時の私とはこの探偵沢崎シリーズを読んだ心持はいささか異なっている。

定義云々は別にして原氏の紡ぐ作品がハードボイルド小説の前提で話すと、ハードボイルドとはつまり自分を貫くために人に嫌われることを厭わない生き方と云えるかもしれない。
そして夜の世界に生きる人々の話であるとも。

それは作者自身が夜に生きる民族の一員であるがゆえにこのような世界が書けるのだ。
作者が本書の主人公沢崎のように自分の矜持を貫くがゆえに警察に疎まれ、調査に関わる人々に嫌悪感を示されるような人であるとは思えないが、作者の中に沢崎は確実にいる。
それはミステリマガジンで14年ぶりの新作『それまでの明日』刊行記念で組まれた原尞特集での過去から今まで至るインタビューからも原氏のどこか一般人と異なる生き方や性格からも推し量れる。つまり原氏は昔ながらの作家なのだ。

そして改めてこの探偵沢崎の物語を読んで今まで読んできたチャンドラー、ハメット、マクドナルドの系譜に連なるハードボイルドの探偵というのはなんと罪深き職業なのだろうかと感じた。

他人の依頼で人の生活に土足で立ち入り、あれやこれやと聞く。そして全てを疑い、手練手管を駆使して相手の弱点を掴むとそこに付け入り、協力を強制する。

自分が疑われることを好む人は決していないだろう。従って探偵が事件の調査のために出逢う人は決して良い感情を持たない。いや寧ろ災厄の運び手としてご容赦願いたい存在だ。
更にどんどん付け入り、そして知られたくない家庭の事情まで云わされる。

沢崎もまたそうだ。探偵という職業が長い彼もそういった人の心の隙間に付け入り、情報を得る、もしくは利用する術を心得ている。

しかしそうすることでまた彼も何かを失っているように思える。それは自分という人間に対しての好意であり、代わりに自己嫌悪を得るのだ。

かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。
そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。

他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。
探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。

特に今回沢崎が自分がまるで突然絡まれた事故のように関係した少女誘拐事件において、自分のヘマで身代金を渡すことができなかったがために殺されることになった少女に対して一種の引け目を抱いているだけに、被害者の家族関係者に容赦なく立ち入っては、無礼なまでに踏み込んで質問し、そして嫌われる。

特にそれが顕著に表れるのが被害者真壁清香の告別式に出席した時だ。沢崎にとっては言いがかりでしかないが、身内を、しかも幼い身内を無残にも殺された遺族のやりどころのない怒りが自分に向くのを知りつつも出席し、そして予想通りに清香の母親恭子とその従兄たちであり、また沢崎自身が調査した伯父の甲斐正慶の息子3人に献花を差し戻されて退出するよう促されながらも、そんなことを強要される覚えはないと再度清香の棺に花を捧げ、乱闘を引き起こす件は沢崎の愚直なまでの自我の強さを印象付けるシーンだ。
以前ならばこの沢崎の対応をカッコいいと感じただろうが、40半ばを過ぎた今の私は大人気ないと感じた。

しかしそうでもしないと事件は解決しないのだと最後まで読むと悟らされる。人の感情を揺さぶるほどに他者のプライベート・ゾーンに土足で入り込むほどタフでないと明かされるべき真実は白日の下に晒されないのだ。

真相に行き着くまでの関係者たちそれぞれが抱える大小の家庭の問題。

表面では解らないそれぞれの生活における負の要素が浮き彫りにされる。

本書は従ってチャンドラーの文章を備えたロス・マクドナルド的家庭の悲劇をテーマにした私立探偵小説だ。つまり本格ミステリ的要素を備えたロスマクのプロット力をチャンドラーの魅力ある文章で紡いだ、理想的な私立探偵小説なのだ。

これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。

しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。

私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。
前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。

次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。

沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。
私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。


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私が殺した少女 (ハヤカワ文庫JA)
原尞私が殺した少女 についてのレビュー
No.178:
(8pt)

色々含めて、ある意味ブラックすぎる!

ボッシュシリーズ13作目。
エコー・パーク事件を経たボッシュは未解決事件班から殺人事件特捜班へ異動。政治的な問題が絡んだり、有名人が関わっていたり、またはマスコミの注目を浴びて騒ぎ立てられるような事件を担当する部署とのこと。極めて困難で時間のかかる、趣味のように捜査が続くような事件を担当する部署とも云われている。執念の男ボッシュに相応しい部署だ。
そしてボッシュも本書で56歳になったことが判明する。白髪の面積が茶色地毛のそれを凌駕し始めているが、その体形は維持されており、衰えを感じさせない。

そして前作での宣言通り、エコー・パーク事件で重傷を負ったキズミン・ライダーは捜査の最前線での職務から離れ、元いた本部長室に配属になり、内勤業務に携わる。そして新たなパートナーはボッシュの20歳年下でキューバ系アメリカン人のイギーことイグナシオ・フェラス。

更にエコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングも再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。

そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。

しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。
但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。

そしてこのテロという規模の大きい事件がボッシュの捜査の前に大きく立ちはだかる。
彼が担当するスタンリー・ケント殺害事件はそのまま犯人と目されるアラブ系テロリストによって企てられようとするテロ事件を未然に救うための事件に大きくクローズアップされ、FBIによって事件そのものを奪われようとされる。しかも彼らが狙っているのはテロリスト並びにセシウムであり、殺人事件の犯人ではないのだ。

つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。

また天敵のFBIからどうにか捜査から弾き出されまいと孤軍奮闘するボッシュの捜査は相変わらずルール無視、いや己のルールに従う自分勝手な行動が目立ち、新パートナーのイグナシオ・フェラスも早々とコンビ解消を申し出るほどだ。
それがまた大局を見つめるFBIのレイチェルとそのパートナー、ブレナーたちの知的かつ冷静さを際立たせ、ボッシュの独りよがりさが読者にある種嫌悪感を抱かせるようになっている。この辺りの筆致は実に上手い。信頼のおける孤高の刑事ボッシュを我儘に自分の事件だとして勝手気ままに振る舞う解らず屋のロートル刑事に見立てさせるコナリーのストーリー運びの何たる巧さか。

また一方で上述したように9.11の同時多発テロ以降、テロに敏感になり、警察はじめ政府の捜査機関、情報機関が過剰に反応する風潮が当時のアメリカには蔓延していた。それは周囲もまたそうだった。

またミットフォードが携えていた小説がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったというのもある意味暗示めいている。新しいインフルエンザの蔓延によってほとんどの国民が死に絶えるアメリカを扱ったディストピア小説であるこの小説は、もしセシウムが悪用された時のロスアンジェルスの状況を示唆している。ただこれについては既読済みと未読済みの読者で受け取り方は異なると思うが。

私も同時多発テロの影響で観光事業が冷え込むハワイが激安価格で旅行プランをサービスしていたのに便乗してハワイ旅行に行ったが、その時のピリピリした通関審査の状況を思い出した。

9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。

色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。

そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。
“The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。

しかし冒頭にも書いたがボッシュももう56歳であることに驚かされる。歳を取ったことに驚くのではなく、56歳にもなるのにその傍若無人ぶりはいささかもデビュー作以来衰えないからだ。
歳を取ると人間丸くなるとよく云うがそれはこのハリー・ボッシュことヒエロニムス・ボッシュには全く当て嵌まらない。むしろ自分のやり方を新しい相棒にレクチャーし、継承しようとしている感さえある。
自分の生活を守るためにルールを重んじ、馘にならないように考えている新相棒イグナシオ・フェラスは彼に貴方が欲しいのは相棒ではなく使い走りだ、そしてそれは俺には当て嵌らない、だから誰か他の人間を貴方と組むよう上司に相談するとまで云わせる。
更にFBIに有利に事を進めさせないために情報の提供はせず、目撃者を隠すことまでする。また更にFBIに捜査から外させないよう、直属の上司を飛び越え、出勤前の本部長を訪ね、FBIに口添えすることまで依頼する。
常に彼は自分の目の前の悪を捕まえることに執着し、その気概は年齢とは無縁である。

しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。
それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか?

そして常に事件で出逢った女性と浮名を流すボッシュが長く関係を持つのがエレノア・ウィッシュとレイチェル・ウォリング、つまり2人がFBI捜査官の女性である、もしくは“だった”ことだ。仕事の上でボッシュはFBIの介入を心の底から忌み嫌う。自分たちの事件を横からかっさらい、または協力者と思わせていつの間にか蚊帳の外に置かれる彼らのやり方が気に食わないからだ。

しかし人として向き合った時に好感をボッシュは抱く。敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。
障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。

今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。

物語の最後に彼ら2人が再びエコー・パークを訪れるのは2人にとって袂を分かつことになったそれぞれの過ちを解消するためにスタート地点に戻ったことを示すのだろう。

レイチェル・ウォリングは決して新キャラクターではなく、彼の5作目に登場した人物である。そしてボッシュの扱う事件も―本書は違うが―過去の未解決事件が多く、常に過去の因縁が付きまとう。

にもかかわらず我々の前に見せてくれるのは新しい刑事小説の形だ。コナリーの視線は常に過去に向いていながらもそれを現代アメリカに見事に融合させている。

また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。
現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。

私は今本当にとんでもない作家の作品を読んでいるのではないかと毎回読み終わるたびに思うのだ。それは今回もまた変わらなかった。


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死角 オーバールック (講談社文庫)
マイクル・コナリー死角 オーバールック についてのレビュー
No.177: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

依頼人を信じる弁護士が抱えるジレンマ

ハリー・ボッシュシリーズを主軸としたコナリーのもう1つのシリーズ作品であり、今なお作品が発表されている刑事弁護士ミック・ハラーの、いやリンカーンを事務所にした一風変わった弁護士、「リンカーン弁護士」シリーズ。本書はその幕開けの第1作である。

さてこのミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。
まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。

犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。

父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。
マリファナ栽培で挙げられた密売人ハロルド・ケーシーの事件を扱ったかと思えば、その足で今回のメインの事件となる不動産会社経営のルイス・ロス・ルーレイの婦女暴行容疑事件の法廷に出廷し、保釈金を払って保釈することに成功し、そして更に無償で弁護を行っている売春婦のグロリア・デイトンの麻薬所持による起訴を検察と交渉して、取り下げさせる。コンプトン裁判所に行って麻薬密売人ダリウス・マッギンリーの代理人として判決の言い渡しに立ち会ったかと思えば、刑事裁判所ビルに向かってインターネットでクレジットカード番号と識別データを収集してそれを売り渡す常習詐欺犯サム・スケールズに有罪答弁を促す。さらに麻薬常習者のメリッサ・メンコフの捜査に不手際があったとして証拠の排除を申し立てる。

まさに東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。

いや100万ドルのローンが残っているハリウッドの100万ドルの夜景が眺められる自宅をホームオフィスにしているが、彼の秘書は自宅のコンドミニアムを仕事場としており、そして彼の仕事のファイルが収められている倉庫は過去に弁護を担当した依頼人の父親が経営している貸倉庫で、弁護料を賃貸料代わりにして借りている。しかも4台のリンカーンを所有し、走行距離10万キロに達するまで使った後は空港送迎用のリムジン・サービスに払い下げようと考えている。ちなみに今は2台目を乗りつぶそうとしている。そんな根無し草的なライフスタイルの弁護士だ。

そして彼の有能な調査員ラウル・レヴンは元警官でそのコネを利用して素早く警察から事件に関する資料を手に入れることが出来る。

そしてこのミッキー・ハラー、仕事も速いが私生活も速い。既に2回の離婚を経験している。1人目はヴァンナイス裁判所に配属されている地区検事補。彼女との間には8歳になる娘ヘイリーがいる。2人は時に一緒に食事をし、そして週末には娘に逢うことを許せる仲だ。

2番目に別れた妻はローナ・テイラーでハラーの秘書をやっている。彼女との間には子供はいない。

かつて生活を共にしながらも別れた相手と仕事を一緒にし、また裁判所で逢っても気まずくない関係を築けるハラーは女性から見て魅力のある男なのだろう。
しかしこれら2つの結婚が破綻してしまった彼はどこか生き急いでいるような感じがする。

また本書ではハラーの一人称叙述を通じて、裁判を有利に運ぶ、いわゆる法廷術とも云うべきノウハウが語られる。

まずは陪審員の選出で聖書を携えた人物がいることに気付き、売春婦という職業に嫌悪を抱くはずだと選出されるように便宜を図ったり、とにかくメモを取る記録係と称する人物に印象付けるよう話したり、自分の言葉を心に浸透させるための間の取り方や効果的な証拠の出すタイミングなど、いわゆるメンタリストが得意とする人心操作術が開陳される。それらを駆使するハラーはまさにプロフェッショナルだ。

上に書いたように登場するや否や複数の事件を抱え、リンカーンでロサンジェルス中を走り回り、依頼人に有利な判決を勝ち取ることに専念するハラーは、作中で述べているように自分の依頼人が有罪か無罪かには頓着せず、むしろ誰もが有罪であると考え、検察が掲げた証拠の山の中に潜むひび割れを見つけ、いかに覆すか、もしくは依頼人への刑をいかに軽減できるかに腐心する、いわばやり手のビジネスライクな弁護士のように最初は映る。

自分が豊かな生活を送るために半ば売名行為のように依頼を受け、成功すればその名を犯罪者に知らせてほしいとばかりに宣伝する。

しかしそんな彼も変わってくる。
かつて担当した婦女暴行殺人事件で有罪となったジーザス・メレンデスが無実であることを確信し、そして真犯人が依頼人である可能性が高まった時、彼は初めて自分が依頼人を見ずに状況証拠と検察からの書類だけを見ていただけだったこと、そしてそれが無実の人間を刑務所に追いやったことを悟るのだ。

弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。

以前の彼ならばそれを仕事と割り切って平然とやり遂げただろうが、冤罪者が彼の依頼人の1人であり、そして友人とも云える調査員を亡くした今では自分の職業が呪わしく思えて仕方がない。彼は初めてルーレイという邪悪な者を前にして、正義を意識したのだ。

悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。

「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」

これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。

さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。
ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。

元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。
身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。

単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。

「売春婦も被害者になりうるんだ」

私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。

今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。

またコナリー作品の主人公の特徴に彼らが一生抱えていく業を持っていることだ。
ボッシュは自身の生い立ち、ベトナム戦争に従軍した経験から心に暗い闇を持ち、自分が悪という闇を見つめながらも、いつか自分がその闇の中から覗いている自分を見る側に堕ちてしまうことを畏れている。

そしてミッキー・ハラーは今まで全ての人は有罪であるとみなし、彼は彼らを色んな法的手段を駆使して無罪にし、もしくは刑を軽減することを信条としてきた。しかし彼はルーレイという弁護を請け負う自分にも危害を及ぼす真の邪悪の存在に遭遇したことで自分がやっている弁護士という仕事の意義に揺らぎを覚え、そしてルーレイの代わりに無実のジーザス・メネンデスを有罪にして刑務所に収容したことを今後自分が一生抱えていく罪、業として再び弁護士の仕事に臨むことを決意する。
そこにいるのはかつてのミッキー・ハラーではなく、社会的弱者を救う正義の弁護士になった彼だ。それはつまり今まで超えられない壁として彼の前に立ち塞がっていた偉大なる父親であり、伝説の弁護士とされたマイクル・ハラーをミッキー・ハラーが超えるための第一歩の始まりとなるのかもしれない。

彼の卓越した弁護技術がこの後、真に救われるべき被告人に対してどのように披露されるのか。

息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。
またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。


▼以下、ネタバレ感想
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リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーリンカーン弁護士 についてのレビュー
No.176: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

土井超音波研究所の真の姿

Vシリーズもとうとう9作目。シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に登場した土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。
2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。

そして今回の謎は飛び切りである。
まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。

さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。

しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。

更に今回土井超音波研究所の地下室に潜入することを依頼した藤井苑子こと纐纈苑子も物語の背後で暗躍する。
テロリストの藤井徳郎の妻であった彼女がN大学の周防教授の部屋に忍び込み、なぜ教授の友人が送ったNASAの資料を盗んだのか?

また今回はNASAの事件に関係した国際的なテロリストが絡んでいることもあり、他国の国際機関が事件に介入し、偶然当事者と間違えられた瀬在丸紅子たちが危害に遭うというスリリングな展開を見せる。レスラーを思わせる体格の中国系アメリカ人リィ・ジェンと小鳥遊練無の緊張感ある格闘シーンと、小鳥遊練無の少林寺拳法の師匠で紅子の世話役である根来機千英の達人ぶりを目の当たりにできる。格の違いを見せつけながらも紅子への忠誠を失わないその姿勢は根来の信念の深さを思い知らされるワンシーンだ。
彼が紅子の元妻林とその部下で恋人の祖父江七夏に対して嫌悪感を露わにするのを大人気ないと感じていたが、このシーンは彼こそが男であり、林が実に芯のない男であるかという格下げせざるを得なくなるほどの日本男児ぶりである。

祖父江七夏と瀬在丸紅子の潜在意識での格闘は続くが、その大いなる原因は2人の女性に手を出した林なのだから、彼が読者から嫌われて当然なのは今に始まったことではないのだが。

更にこの件で紅子の息子へっ君の誘拐騒動が起き、紅子のへっ君への溺愛ぶり、愛情の深さを読者は思い知らされる。七夏が云うようにかつては林のためなら息子も殺すことをできると云う冷淡なまでの林への執念を見せた彼女はその実、本当に息子に危難が訪れると普段の冷静さが吹き飛んでしまうほどの母性愛の持ち主だったことが解る。

そんな起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。

この辺が森ミステリの味気なさなのだが。

更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。
いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。

そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。
読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。

そしてこの纐纈苑子が小鳥遊練無にそっくり、いや小鳥遊練無が纐纈苑子にそっくりなことが最後の最後まで実に効果的に活きてくるのである。

ところで本書のタイトルは朽ちる、散る、落ちると3つの動詞で構成されており、これまでの森作品の中でも非常に素っ気ないものだが、各章の章題は「かける」で統一されながら、それぞれ「欠ける」、「架ける」、「掛ける」、「賭ける」、「駆ける」、「懸ける」、「翔る」と7つの同音異句動詞で構成されており、まさに動詞尽くしの作品である。

ただあまりそれまでの森作品と比べて題名の意味はよく解らない。

朽ちるとはまさに死のこと。肉体は朽ちても残るものがある。

落ちるとは藤井徳郎の行った犯罪とその死を指すのか。

しかし散るとは?
もしかしたら藤井のテログループが散開したことを示しているのだろうか。

このシリーズは保呂草の手記によって書かれていることがあらかじめプロローグに提示されているのが特徴だ。そして物語を読み終えた時、このプロローグを読むと浮かび上がってくるものがある。

本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。
彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。

さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。

西之園萌絵がお嬢様然とした世間知らずな学生であるのに対し、瀬在丸紅子もまたかつてお嬢様で常識を超越した存在であるのだが、彼女は祖父江七夏と元夫である林を取り合う、人間としての嫉妬や女としてのプライドと云った人間らしさを感じるからだ。
特に祖父江七夏と逢うのは嫌いではない、なぜならその間彼女は林と一緒にはいられないからだ、という凄い考え方の持ち主だ。

そして何よりも物語を引き立てるコメディエンヌ(?)小鳥遊練無と香具山紫子の2人の存在、そして危うい香りを放つ食えない探偵保呂草といったキャラが立った面々が前シリーズの登場人物たちよりも親近感を覚えさせる。森氏の文章力、キャラクター造形の力が進歩したこともあろうが、やはりこのキャラクターたちは実に愛すべき存在だ。

本書でとうとう紅子の息子のへっ君のイニシャルがS.S.であることも判明し、最後の最後で明かされるサプライズへ助走の状態であるーいや本音を云えば何も知らないで最終作まで読みたかったが、世間一般の森ファンはどうも作品間のリンクを吹聴したがる傾向があり、ネタバレを逃れるのは至難の業なのだ—。

さて心して次作を待つこととしよう。


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朽ちる散る落ちる―Rot off and Drop away (講談社文庫)
森博嗣朽ちる散る落ちる についてのレビュー
No.175: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

判らん朕どもとっちめる一休さんの優れたミステリ

本書はまさに掘り出し物だった。
デビュー以来歴史ミステリを多く書いてきた鯨氏が今回テーマに挙げたのはとんちで有名な一休宗純。

一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。

本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。
しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。

まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。

まずは皆に嫌われていた人買いの山椒大夫が虎に殺され、その読経を和尚の龍攀に代わって挙げることになった一休。そんな悪人に対してきちんと弔いをすることを寄すように云われながらもしかし坊主の務めは果たさなければならない。そこで一休が採った行動とは仏に背を向けて後ろ向きに読経をすることだった。
こんな失礼な読経に対して、一休は実に頓智に満ちた回答をする。

また和尚が小坊主たちに毒だから食べてはいけないとこっそり食べていた水飴を皆で平らげたことに対する絶妙な言い訳や和尚の碁友達の商人を追い返すために案じた「皮着たる者、門内に入るべからず」の策を切り返した商人に対して更にとんちで切り返したり、和尚に届いた謎掛けの手紙を瞬時に解読し、有名な「はしをわたるべからず」のエピソード、夜な夜な京の町を迷い出ては人を困らせるという衝立の虎を退治する話など世に知られたとんち話がきちんと本書には登場する。

更に出家の身でありながら魚の肉を食べたことに対しての受け答え、更にそれを聞いて畳み掛ける斯波義将の、ならば武士も通るからこの刀を飲んでみよという無理な申し出も巧みな論説で切り返す。

一方で足利尊氏が天皇家を南に押しやり、北朝、南朝と都が二分された京都。その後の南北朝の戦いの後、足利義満が南北朝の合体を実現し、その際に当時の帝、後小松帝の皇位継承者を出家させ、京都の事実上の統治者となる。しかし義満の周囲を固める者たちはその傲慢ぶりゆえに結束は決して一枚岩のような盤石さを持っていない。
そんな当時の不穏な世相が物語には色濃く流れている。

まず何よりも物語の中心となる密室殺人事件の被害者足利義満の悪役ぶりが凄い。
天皇に慇懃無礼に振る舞い、一介の武士の出でありながら自身の子義嗣を帝位に就かせようと企む。その権勢があまりにも大きくなり過ぎた故に天皇家も逆らうことが出来ないでいる。

しかし何よりもその権力を自身の好色ぶりに行使し、若い女性を自身の妾として次々と交わる傍若無人ぶりに胸がむかつく。
義満の側近とも云える三管領とその下の四職の1人、山名時熙はその妻美濃が義満の目に留まり、妾として差し出すことに。義満の実弟満詮はその美濃と義満が交わっている最中にその妻誠子を褥に差し出すように要求される。そして四職の1人、一色満範はまだ16歳の愛娘紗枝の躰を差し出すように強要される。しかもその直前に紗枝は父親の目の前でストリッパーよろしく一枚一枚衣服を脱ぎながら能を踊ることを強要される。
とにかくこの足利義満、真の悪の権化として描かれている。

威丈高に振る舞う武士や侍たちはもとより、それらを遥かに凌ぐ地位にある現将軍足利義持、三管領の細川頼長、斯波義将と四職の一色満範と山名時熙達、更に現天皇の後小松帝らでさえ、逆らうことが出来ぬほどの圧倒的な権力を誇り、黒を白と云わせることも可能な足利義満という絶対的君主が憚る権力構造の中に、まだ弱冠15歳の一休が知恵と勇気と度胸で切り返す、反権力主義の姿勢が今読んでも痛快で、実に気持ちがいい読み応えを与えてくれている。

そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。
ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。
一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。

そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。
つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。

さてそんな足利義満による絶対的支配構造の京都で不意に訪れる義満自害の事件。状況はつっかい棒にて開くことの出来ない究竟頂の中に押し入ってみるとそこには足利義満が首を吊って事切れているというもの。その奥の襖の向こうは鏡湖池で、しかもその池の周りは警備の侍でぐるりと取り囲まれている。
誰も忍び込むことの出来ない密室状態で明らかに自害と思われる状況なのだが、我が子の帝位即位と紗枝との交わいを控えた足利義満が自殺するとは思えぬことから、とんちで名を馳せた一休にこの事件の真相を探る命が義嗣より下る。

犯行の動機は義満を取り巻く人物にそれぞれある。
義満の息子で現将軍の義持は自分をないがしろにして実質的な権勢を誇る父親を憎んでおり、しかも弟の義嗣を自分より高位の帝位に就かせようとしていることが堪らない。
後小松帝も帝家に俗物の血が混じることを快く思っていない。
細川頼長は後小松帝の忠実な部下であり、その本意を汲み取っている。
その宿敵斯波義将は忠実さを見せながらもかつては足利家と同等の武将であったため、その部下の地位に甘んじているのが積年の屈辱として積もっている。
山名時熙は自分の最愛の妻を妾として召し捕られ、一色満範は最愛の娘の貞節をまさに奪われようとしている。

そんな誰もが殺害する動機を持ち、刃を心に隠し持っている容疑者達の中で一休の推理によって判明した犯人は読んでのお楽しみだ。

しかし犯人は判明するものの、あくまで足利義満は病死として片付けられ、真相は闇に葬られることになる。それは真の悪を滅ぼしたことに誰しもが安堵と感謝を覚えていたからだ。

これだけ書くと本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。

これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。
もうこれは見事としか云いようがない。
一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。

そして忘れてならないのは物語導入部に陰陽師の六郎太が一休の最後の愛人だった森女に尋ねた、足利義満が自身の死後に大文字の送り火をするように云い遺した真相もまた一休の強かさを印象付ける。大文字の送り火の由来は諸説あり、この真偽は定かではないが、これもまた鯨氏のオリジナリティ溢れた歴史解釈であり、最後の最後まで歴史の解釈の愉しさを我々に提供してくれる。

新説歴史短編集『邪馬台国はどこですか?』で鮮烈なデビューをしながらその後読んだ作品は歴史・史実の蘊蓄に溢れてはいるものの、作者自身の趣味趣向が先行して、はっきり云って読者を置き去りにするきらいのあった鯨作品だが、ここに来てようやく見事な歴史ミステリと出逢うことが出来た。
数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。
デビュー作で魅了された私が読みたかった鯨氏による長編歴史ミステリの半ば理想形のような作品である。

そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。

題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。
天晴、一休!
そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。


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とんち探偵・一休さん金閣寺に密室(ひそかむろ) (祥伝社文庫)
鯨統一郎金閣寺に密室 についてのレビュー
No.174:
(8pt)

車への憧憬を織り交ぜた青春ホラー

キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。

アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。
更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。

今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。

但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。

何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。
そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。
一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。

また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。

大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。

それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。

親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。

親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。

アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。

それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。

キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。

物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。

そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。

更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。

どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。

さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。

そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。

最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。

ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。

まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。
つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。

それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。
これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。

そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。

例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。
普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。
つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。

これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。
上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。

人の物に対する執着というのは物凄いものがある。
例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。

私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。
既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。
しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。


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クリスティーン〈下巻〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングクリスティーン についてのレビュー
No.173:
(8pt)

時には答えなくてよい返事もある

宮部みゆき氏最初期の短編集。私が彼女の短編を読むのは『我らが隣人の犯罪』以来。宮部氏の実質的なデビュー作であるオール讀物推理小説新人賞が収録されたその短編集には「サボテンの花」という、今なお忘れられない短編が入っており、長編のみならず、短編の巧さは実証済み。そんな期待値の高い中で読んだ本書は実に軽々と私の期待を超えてくれた。

冒頭を飾るのは表題作「返事はいらない」。
作品から時代が平成元年であることが読み取れるが、恐らく本作に書かれている銀行のキャッシュカードによる現金引き落としのシステムはその当時からあまり変わっていないのではないだろうか?本作ではそのセキュリティの甘さが詳らかに説明され、利用者である私たちの背筋に寒気を感じさせる。

主人公の千賀子と森永夫妻が行う犯罪は偽造キャッシュカードを使った現金横領で、それに関しては新味はないものの、果たしてこれほどまでに事細かくATM(作中ではCD機と書かれているところに時代を感じる)のシステムを語った作品はないのではないか?読書量の少ない私がたまたまそのような作品に出くわしていないだけかもしれないが、大抵のミステリでは偽造カードを使った犯罪が横行している、ぐらいの記述ではないだろうか。

本作ではあくまで銀行業界に対して警鐘を鳴らすために元銀行員と女性たちが犯罪を行うが、この安易さには各金融機関に本気でセキュリティに取り組んでもらいたいと痛感した。

本作はそんな銀行の現金引き落とし機に潜む罠が際立って印象に残るが、それだけに終始した話ではなく、ストーリーテラーの宮部氏ならではの、心がどこかほっこりする話になっているのが救いだ。

最後に判明する滝口の真意は罪を憎んで人を憎まずという彼の刑事時代の主義が表れているように思った。

次の「ドルネシアへようこそ」の舞台は六本木。
駅の伝言板に誰宛てでもなく、書いた伝言に見知らぬ相手から返事がある。しかも待ち合わせ場所は今評判のディスコ。
駅の伝言板、六本木のディスコ。まさにバブル臭漂う時代を感じさせる物語だ。今ならば自分のSNSに突然送られてきたメールがモチーフになるだろうか。それと比べると漫画『シティハンター』世代の私にとって駅の伝言板の方が実に魅力あるアイテムだ。

主人公が速記士を目指す専門学校生と、決して華やかな人物でないことに加え、対照的に常に有名人が毎夜集い、毎日がパーティのような六本木という場所が実に対照的であるのに加え、ドルネシアという名前の由来がこのミスマッチに有機的に結びつくところに宮部氏の上手さを感じる。
ドン・キホーテの妄想に出てくる姫の名前がドルネシア。その実態は単なる酒場女。しかしドン・キホーテはそんな彼女に憧れの君を見出す。それは見た目はみずぼらしくても実直な篠原伸治を指しているようだ。そしてまた店のオーナーでもある守山喜子もまた。

最後の一行で温かい気分にさせてくれる筆巧者ぶりが本作でも愉しめるのはさすがだ。

「言わずにおいて」は会社でつい課長に対して暴言を吐いてしまった女性がある事故に巻き込まれる。
上司に暴言を吐いて休職中のOLが自分を誰かに間違えたがために運転していた男が目の前で死んでしまう。その誰かがどうしても気になり、探しだそうとする物語だが、その過程が実に面白い。
一介のOLが果たしてここまでできるだろうかという疑問はあるだろうが、その捜査が女性ならではの視点で繰り広げられ、私には新鮮だった。自分と見間違えた時の写真のヘアスタイルから美容院を特定する辺りは男の私にしてみれば偶然にすぎると思いがちだが、案外流行りの髪型に固執する若い女性ならば評判の美容院へ通い、それがある意味ステータスとなるのだから、決しておかしな話ではないのかもしれない。

そしてようやく辿り着いた自分とよく似た女性の部屋に置かれていた手紙。そこに書かれた一連の事件の真相よりも長崎聡美は上司が自分のことをどのように思っていたかを知ったことが嬉しかったに違いない。こういう事件の核心とは別の部分にハッとさせる要素を入れるところが宮部氏は実に巧い。

しかしそれでも冗談とはいえ、経理課の課長が長崎聡美に放った台詞は今ならばセクハラで訴えられてもおかしくない内容だ。この時代はまだこんなことが自由に云えたのだと思うとさすがに隔世の感を覚える。

宮部作品の特徴の一つに登場する少年の瑞々しさが挙げられるが「聞こえていますか」はそんな長所が存分に活きた作品だ。
引っ越した先に残された電話に盗聴器が仕掛けられていた。こんな経験をすると誰もがぞっとするだろう。
そして前の住人を調べると特高に追いかけられていた経験もある人物。もしかしてスパイだったのではと、頭のいい小学6年生の峪勉が想像をたくましくし、知り合った大学生、鬼瓦健司の助けを借りて事の真相を解明していく過程が実に面白い。
この元三井邸の周囲の住民とそしてその息子夫婦たちを結び付ける数々の糸が有機的に絡んで、ある老人の寂しい気持ちが浮かび上がってくる結末に、なんだか遣る瀬無さを感じた。
師範学校の教師をしていた三井老人が息子に厳しかったこと。勉の母と祖母の間でお互いの価値観のぶつかり合いでなかなか折り合いがつかなかったこと。それぞれの人生で築かれた価値観を崩さないがゆえに生じる衝突。

しかし敢えて離れてみると、今まで一緒にいるのが当たり前だった存在が目の前からいなくなることで逆に相手のことが見え、優しくなっていく。
この人間のある種の滑稽さが起こした行動が勉にはスパイや幽霊のように見えていく。
老人の心境の変化が関わった人、そして後の住民にも予想もしない妄想や現象を引き起こす。まさにこれこそ人間喜劇だ。

ある女性の転落死を追う「裏切らないで」ではようやく刑事が主人公となる。
巨大都市東京に生きる若者の孤独と美しくあろうと努力する女性たちの虚飾の虚しさを扱った作品だ。
多額の借金を重ねながら、高級ブランドの服とバッグ、時計に装飾品に身を固め、綺麗であることが存在意義とした長崎から夢を求めて出てきた女性は、そんな煌びやかな装飾品に包まれながらも、実の無い空虚な人間になっていた。いつしか借金も自分の金と思うようになり、そして身分不相応の持ち物を持つことが自分を表現する手段だと錯覚した女性。そんな女性の末路が歩道橋からの転落死。
彼女の身辺調査を行う刑事の一人がその女性の部屋を見て「なにもない。あるのは借金の匂いだけだ」と呟く。その大量に抱え込んだ借金こそが彼女の正体だった。

しかし外から彼女を見る人たちはそんな彼女の中身のなさに気付かず、男たちは綺麗な女性だといい、女性たちの中には異邦人みたいな女性で、ただただお金を貰い、美味しいものを食べ、着飾り、見てくれのいい仕事に就いて金持ちの男を捕まえることだけを考えている人だといい、ある女性は世間知らずの女性だったという。

しかし若くて綺麗なだけのその女性を羨む女性がいた。その女性もまたかつては彼女のように着飾り、綺麗に見せ男たちの目を惹くことを自分の生きがいだとしていた。しかし30を過ぎて男たちが見向きもしなくなったこと、週末を一人で過ごすことが多くなったことで自分はもう終わった女性だと感じる。
全ては都会のまやかし。しかしそんなまやかしから覚めきれない女性たちが数多くいる。都会の、いや東京という都市の特異性を謳った力作だ。

最後の短編の主人公も宮部氏お得意の未成年。高校一年生の男子が従姉妹の悩みを解決する顛末を描いたのが「私はついてない」だ。
高校生の僕の一人称で語られる本作は語り口もユーモラスで読んでいて楽しかった。
浪費癖のある従姉のOLを助けるために両親の指輪を貸し出したところ、それも盗まれてしまう。しかしそれにはある女性の思惑が潜んでいた。

この裏切られた感はよく解るものの、その女性が自分の役回りはそんなものだと自嘲して諦観の域に達しているのが情けない。
実は私も似たような感情を抱くことがよくあるが、それでも悪意から何らかの報復はしたりしない。それをやれば自分はもう終わりだと思うからだ。周りがどう思おうと、それでも前を向く、そんな風に考えるようにしている。

しかし女性の強かさに溢れた1編だ。玉の輿に乗りながらも、婚約者には内緒で男友達と競馬に興じ、晴れの舞台を取り繕うとする従姉、金遣いの荒い後輩にお灸を据えると見せかけて自分への悪口の仕返しを知り合いを雇ってまで行ったその先輩。しかし実は最も強かなのは最後に出てくる主人公の母親だ。

唯一ほっこりとさせられるのは主人公の彼女だ。主人公よ、既に君は彼女の掌の上で踊らされているぞ!

だから最後の一行が色んな意味合いを伴って胸に飛び込んでくる。ホント、男と女って「おかしいよね?」


いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。

偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。
そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。

80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。

例えば表題作の偽造カード事件はもはや国際化してきており、ATMは日本に不法滞在している外国人のいいカモとなっており、同種の事件が後を絶たない。既に29年前に刊行された本書で詳らかにATMのシステムとその欠点を指摘されているのに、同様に本書に書かれている、膨大な設備投資のために金融機関の対策が後手後手になっているからだろう。
私は読んでいて他人事ではない恐ろしさを感じた。まずはATMでは絶対伝票は発行しないか、その場で捨てないようにしよう。

またクレジットカード破産や物欲に囚われた女性が多大の借金を抱えるのも現代と変わらない。現代はさらに多様化して仮想コインなども登場し、更に複雑化してきている。

しかし大量に物が溢れた時代だったことが顕著に解る。
誰もが着飾り、そして毎夜パーティーに繰り出すことをステータスにしていた時代。今でもそんな人たちはいるが、やはりバブル時代はじっとしていられない、魔力のようなものが潜んでいた時代だったのだろう。

そしてそんな時代では若さこそが武器だ。当時女性は夜な夜な出かけるための服を勝負服とか戦闘服とか表現していた。そしてもちろん同じ物を着ていては相手にバカにされるので新たに服を買い続けるしかない。しかしバブルとは云え、OLの収入は限られているから、借金が膨らむわけだ。しかしそうまでしても相手に勝たなければいけないという不文律があった。それは若さという武器があってこそだからだ。
彼女たちが周囲から持て囃される時間は実に短い。この頃の結婚適齢期は25歳前後だったそうだ。従って30を過ぎてからは見向きもされない。女性たちはそれまでに高学歴、高収入、高身長のいわゆる「三高」の相手を捕まえて結婚して幸せになるのに躍起になっていた。
こうやって書いていると実に懐かしさを覚えつつ、今になってみれば何もそこまでと思うが、それが彼女たちのステータスだったのだ。

そんな女性たちが牙を剥き、強かさを見せつけた頃の生き様が描かれている。それも宮部氏の優しさというオブラートに包まれているから、全く殺伐とした感じがしない。

返事はいらない。

これは本書の題名でありながら、冒頭に収録された短編の題名である。通常短編集の題名に選ばれる短編はその中でも最も優れた作品である場合が多いが、本書はそれに勝るとも劣らない粒揃いの短編集。そしてこの1編の短編の題名がそのまま収録作全体を通してのコンセプトのようになっている。

表題作では別れを持ち出された元恋人に対して未練を断ち切れない主人公が、自分からさよならという返事無用の言葉を元恋人に投げ掛けるために犯行の片棒を担ぐ。

「ドルネシアへようこそ」では誰に宛てるでもない駅の伝言板に残した待ち合わせ場所を記した伝言に、ある日誰かが返事を残す。それはバブルという虚飾に踊らされた女性だった。そして彼がその正体を知り、その女性を捕まえるために知らぬ間に協力をさせられたことを知った後、駅の伝言板に残されていたのは返事無用の招待の伝言。

「言わずにおいて」に出てくるのは自分を誰かと見間違って目の前で事故死した夫婦。その誰かの許に辿り着いた時に置かれていたのは一通の手紙。それは自分の探し求めていたことに対する答えと自分が暴言を吐いた上司が自分をどのように思っていたかを知らせる内容だった。それを知っただけでその女性にとって、自分の暴言に対して詫びたことに対して、上司からはそれ以上の返事はいらなかったのだ。

「聞こえていますか」では真意を知るために盗聴器を仕掛けようとしたのに、本音を聞くことが怖くて、結局できなかった1人暮らしの老人の寂しさ。厳この知りたいのに聞くのが怖いという心理は心に突き刺さる。

「裏切らないで」は返事をしたがために殺された女性がいる。返事をしなければ、彼女は生き、そしてもう一人の彼女も殺さずに済んだのに。

唯一これに反するのが最後の「私はついてない」か。主人公の僕は恋人からの返事を待っていた。そしてそれは最後に最高の形で返事が貰えるのだ。
返事はいらないというネガティヴな表現で始まり、返事が貰えた物語で閉じられるのはやはり意識してのことだろうか。

こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。
だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。

地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。

本書はそんな時代の、東京を映した短編集。
しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。
こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか?

解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。


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返事はいらない (新潮文庫)
宮部みゆき返事はいらない についてのレビュー
No.172: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

またもや東野圭吾は私を身悶えさせる

かつて東野圭吾氏は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。
本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。

本書では2つの家族を中心に物語が進む。

まず最愛の娘を強盗に殺害され、犯人に死刑の判決が下り、刑が成された後に離婚した中原道正と浜岡小夜子の夫婦。

もう1つは浜岡小夜子を殺害した町村作造を父に持つ花恵とその夫仁科史也の夫婦。

被害者側の夫婦と加害者を家族に持つ夫婦双方が同時進行的に描かれる。そのどちらの家族も決して幸せではなく、何がしらの問題を抱えている。

この浜岡小夜子の死を軸に不幸な、だがしかしどこにでもいそうな夫婦の抱える問題が次第に浮き彫りになってくる。

物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。

本書のプロローグで描かれるのは井口沙織という父子家庭で育つ女子中学生が1年先輩の仁科史也と出逢い、相思相愛が成就する場面が描かれている。

しかし本編で出てくる、医者となった仁科史也の結婚相手は花恵という女性で井口沙織ではない。しかも花恵の父親は浜岡小夜子を殺害した町村作造であることが判明する。

更に井口沙織は逆に浜岡小夜子が万引き依存症の記事を書くのに取材した対象者であることが解ってくる。この2人の接点が浜岡小夜子に収束していく。

義理の父親の犯した罪に深く反省の念を込め、小夜子への遺族に手紙を認め、直接お詫びをしたいと告げる仁科史也。一方で町村作造の生涯は実に取るに足らない男として描かれる。
偽造ブランド品を売って東京と富山を往復しているうちに花恵の母と知り合い、そのまま結婚してしまうが、会社が警察に摘発されると職にも就かずに家に居つくが、しばらくすると女を作っていなくなる。とにかく怠けることしか考えない男だ。

そんなどうしようもない男の犯した罪のために代わって遺族へお詫びをしたいという。しかも花恵が生んだ息子翔は史也の実の子でなく、結婚詐欺師によって孕まされた子供であることも判っている。史也が花恵と出逢ったのは花恵が将来を絶望し、富士の樹海で自殺しようとしていたところを史也が思い留まらせたことがきっかけだ。そしてその後の10日間、史也はお金を与え、晩御飯を食べに行くようになって花恵に結婚を申し込む。
このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。

そして今の仁科史也を形成する事件が明かされるのは物語の終盤だ。

結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。
しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。

愛する娘を喪ったことで共に裁判と戦いながらも最終的に離婚という道を選ばざるを得なかった中原道正と浜岡小夜子の夫婦は、地獄のような苦しみの中で共に戦った戦友でありながら、離婚後は相手のことを実は本当に解っていなかったことに気付かされる。

娘を自分の不注意で死なせたと自責の念に駆られていた小夜子はその後犯罪者と被害者について取材を重ね、死刑について自分なりの考えを持ち、原稿を書くまでのライターとなった、ペンを武器にした女闘士の如き女性だった。
しかしそんな彼女がなぜ穀潰しとも云われていたしようのない老人に殺されたのか。

一方有名大学の医学部に入り、そのまま附属病院に就職して順風満帆な人生を送っているかに見える仁科史也は、結婚詐欺師によって孕まされた元工員の女性を偶々自殺を踏み留まらせた経緯で結婚し、他の男の子供を自分の子供として育てる。穀潰しの妻の父が犯した罪を一身に背負い、家族を守ろうとする。

血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。

血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。

血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。

そしてどうしようもない父親だった町村作造が小夜子を殺害したことは彼が娘夫婦を守ろうとした最後の父親らしい行動だったのだろう。これもまた親と子の不思議な絆の形だ。

タイトルになっている「虚ろな十字架」とは中原の元妻小夜子が生前ライターをしていた時に認めた原稿『死刑廃止論という名の暴力』の中にある一節に由来する。
人を殺害した人間に有罪判決を下して懲役○○年と罰しても、出所すれば再発の確率が高い現実を顧みればその罰はなんと虚ろな十字架を縛り付けているのだろうかと書かれている。

つまり人を殺した人間を罰するには死刑しかないのだと娘を喪った小夜子は訴えているのだ。

娘を殺害された被害者となった彼女がこのような極端に針の触れた結論を出したことは解る。
しかし一方で死刑は単なる通過点に過ぎないことも解っている。なぜなら中原たちの娘を殺害したしがない窃盗犯は最終的には裁判に疲れ、死刑になったことを拒まなかった。
しかしそこには贖罪の念はなく、ただ自分の決定された運命を受け入れただけだったのだ。もはや彼にとって死刑は自分の人生を諦めた行く末に過ぎなかったことが語られる。

そして一方で中原夫妻も死刑になったことで最愛の娘の死が浮かばれたとは思っていなかった。ただ事件が終った、それだけだったと述べる。
しかしそのことを経験しながらもやはり一つの命を奪った人は同じようにその命を死刑によって罰せられるべきだと元妻の小夜子は決意したのだった。

彼女もまた娘を一人家に残したことを後悔し、その後再婚して子供を産もうとは考えられなかった。自分は子供を産んではいけない女性だという罪の意識に苛まれながら、事件や依存症などと向き合う人々を取材してきたのだ。
まだ若い妻の人生のやり直し、殺された娘の代わりの子を産むチャンスを与える意味で離婚を決意した中原の思惑とは全く別のことを小夜子が考えていたとは皮肉だ。

仁科史也は町村花恵を家族として迎えることで過去の罪を償おうと生きてきた。

死刑もまた贖罪であるが、この仁科史也もまた贖罪だろう。
そして作者はどちらが罪の償いとして正しいのかと読者に問いかける。更に法律は矛盾だらけだ、人間に人は裁けないとまで述懐する人物もいる。

お母さんの留守番をしていて殺された子供。

留守番をさせて娘を死なせたことを抱えて生きていく母親。

娘を殺害された虚しさゆえに離婚を選んだ父親。

一文無しで空腹だったために小銭を稼ごうと泥棒に入った家に子供がいたことで通報されるとまずいからと短絡的に子供を殺した男。

他人の子供でありながら我が子として育て、また金に卑しい義理の父親を受け入れながら日々小児科医として子供を救う男。

男に騙され、絶望して死を選ぼうとしていたところを今の夫に救われた女。

無職で怠けることしか考えていないが、ある日人を殺害した父親。

犯罪者の義理の父親を持つことを大いに案ずる母親。

父子家庭で育ち、美容師になって上京し、結婚に失敗し風俗嬢となった暗い過去を持つ女。

男手一つで娘を育て、多忙な日々を送る中でも娘に気を配りながら、事故で死んでしまった父親。

様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。上に並べた今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。
それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。

死刑に値する愚かな犯罪者もいれば、刑に罰せられると等価の償いをし、周囲から必要とされる人もいる。罪を裁くとき、このように違った人生を歩んできた人々を一律のルールで裁くことが本当に正しいのかと考えさせられる。
しかし一方で近しい人を殺されたことで人生が変わってしまった人もおり、その喪失感を思えば加害者側の事情などは関係ないとも思える。
更に死んで当然だった、死んでよかったと思われる人もいる。そんな世の中の秩序を保つためにまた法律も必要なのだ。いやはや難しい。

深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。
人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。


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虚ろな十字架 (光文社文庫)
東野圭吾虚ろな十字架 についてのレビュー
No.171:
(8pt)

運命の女、再登場!

ノンシリーズの『ザ・ポエット』を経て再びボッシュ登場。時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。
シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。その死体は映画プロデューサーのトニー・アリーソ。
さらに舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。

そしてこの事件がボッシュが殺人課に戻ってから初めての事件であることが明かされる。
前回『ラスト・コヨーテ』で自身の母親に纏わる事件を解決した後、強制ストレス休暇を取らされ、亡くなったパウンズの後任として配属されたグレイス・ビレッツ警部補からリハビリ期間として盗犯課に配属されるが、過去最低の殺人事件解決率を記録するとその梃入れとしてボッシュは殺人課に返り咲き、そして迎えたのが今回の事件である。

またかつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。
自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。

といいながらもやはり前作までの影は相変わらずボッシュを離さない。今回は1作目でパートナーとなった元FBI捜査官のエレノア・ウィッシュが再登場する。

私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。
そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。

今回ボッシュが手掛ける事件は明らかにマフィアの手口による、通称“トランク・ミュージック”と呼ばれる制裁方法によって殺された映画プロデューサー、トニー・アリーソ殺害の犯人捜しに端を発し、やがて彼が遊びで訪れていたラスヴェガスに舞台を移すと、そこから映画産業を利用したマネー・ロンダリングが発覚し、アリーソを洗濯屋として利用していたマフィアが浮上する。
更にそのアリーソが国税庁に目を付けられていたことが解り、自分たちの犯罪の痕跡を消すため、マフィアが放った刺客によって殺害された、それがこの事件の背景であることが解ってくる。

一方でメトロ市警はこれを機に長年目をつけていたマフィアの大物ジョーイ・マークスの手に縄を掛ける一世一代のチャンスだとしてボッシュに先駆けて行動し、さらにエレノアもまたジョーイの手下と関係があることが発覚して、そのことがボッシュを苦しめる。
さらには一度今回の事件について連絡した組織犯罪捜査課がアリーソをマークしていて盗聴器を仕掛けていたことも判り、一プロデューサー殺害の事件は各署、各課の思惑を色々と孕んで複雑化していく。

正直これだけでも十分お腹いっぱいになる内容だが、更にコナリーは爆弾級の仕掛けを投じる。

ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、これは実に驚くべき展開だった。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。

話は変わるが今回の事件で使われている映画制作を利用したマネー・ロンダリングはいかにもありそうな話である。映画制作費自体がブラックボックスであるがために資金を集めて実際その1/10程度しか使っていなくても帳簿上に恰も全額使ったように膨らませて記載すればなかなか発覚しない隠れ蓑である。
最近の政治資金問題と云い、まだまだこの世には色んな抜け穴が存在するようだ。

新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。
またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。
今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。

また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。

私は1作目の『ナイトホークス』の感想でエレノア・ウィッシュはボッシュの救いの女神であったと書いた。それを裏付けるかの如く、エレノアと再会したボッシュにとって彼女はもはや人生の伴侶だと、ただひとりの女性であると述懐する。
前作『ラスト・コヨーテ』で知り合ったジャスミン・コリアンは過去に人を殺したという謎めいた女性で命懸けでしがみつく存在であると云っていたが、その関係は遠距離恋愛のために長く続かなかったと片付けられている。
知り合った時の心情の深さに対して呆気ない幕切れにもしかしてエレノアとの関係もそんな風に終わるのでは?という懸念も拭えないが、自分の手で両手に手錠をかけた女性に対しては他の女性とは違った思いの強さがあるようだと信じたい。

やはり彼女はボッシュにとってウィッシュ、つまり希望だったことを確信した。前作で過去を清算したボッシュが前に一歩踏み出したのだ。



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トランク・ミュージック〈上〉 (扶桑社ミステリー)
No.170: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

地方新聞記者、奔る!

コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。

自分の双子の兄で殺人課の刑事だったショーンが自殺したというショッキングなニュースを知り、そのことを記事にしようと決意した弟ジャック・マカヴォイが事件を調べるうちに他の事件にも似たような符号があることに気付き、一連の警官の自殺事件の背後に潜む連続殺人犯の存在を突き止め、その正体を探ると云うのが大方の物語だ。

しかしコナリーは連続殺人犯“ザ・ポエット”をすぐには出さず、あくまで新聞記者ジャック・マカヴォイの取材を通じて一歩一歩その犯人の存在を浮き彫りにしていく。

そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。

ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。

主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。
コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。

物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。
大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。
自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。

ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。

そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。
小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。

またジャックには幼き頃に姉を亡くした苦い過去がある。
家族で湖に出かけた時に凍った湖の上を走った際に、それを引き留めようとした姉が、体重がジャックよりも重いばかりに氷が割れ、湖に落ちてしまったのだ。それを引き起こしたのが自分であるとその頃から悔恨の念に駆られている。だからこそ兄のショーンを再び喪った彼は犯人に対する強い憎しみを抱き、今度こそ兄弟の無念を晴らそうと躍起になっているのだ。
そして彼にはもう1つの理由があった。それはショーンの妻ライリーがかつての初恋の相手だったことだ。それも自分の不注意で相思相愛になりかけたチャンスを逃したためにその思いはジャックの中で途切れず、今もまだどこかライリーのことが気にかかっている。新聞記者としての名誉、ノンフィクション作家への足掛かり、姉、兄、そして義姉への贖罪、色んな要素が複雑に絡んでジャックの原動力となっている。

その連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。
その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。

しかし次から次へと矢継ぎ早に妙手を打ってくるものだ、コナリーは。

今回ジャックが一緒に行動を共にすることになったFBI捜査官の主だったメンバーはレイチェル・ウォリング、ボブ・バッカス、ゴードン・トースンの3人。
レイチェルとゴードンは元夫婦の関係で反発し合う関係である。レイチェルは最初は女ながらの凄腕の捜査官として登場し、ジャックを手玉に取ろうとしていたが、兄が殺されたことを知り、捜査に加わるようになってからジャックの世話役となり、やがてお互い恋仲になるまで発展する(逢って間もないのにすぐにベッドインする関係が実にアメリカ人らしいと思うのだが。やはりストレスの溜まる仕事をしている女性はどこかで発散させないといけないのだろうか)。

一方ボブ・バッカスはレイチェルたちの上司で良識派の人物。冷静に物事を判断しながらもジャックを、捜査官にありがちなように見下したような態度を取らず、むしろ今回の連続殺人事件を発見してくれた功労者として対等に扱う紳士だ。

そして最後のゴードン・トースンは典型的な高圧的なFBI捜査官で新聞記者であるジャックを目の敵にしている。おまけに元妻といい仲にあることを気にしてか、いつも嫌味をいい、そして見下した態度をジャックに向ける。ジャックはウォレンに今回の記事が先んじられた原因はこのトースンにあると信じて疑わず、いわば犬猿の仲である。

しかしコナリーは物語の中盤、反発し合う2人をパートナーと組ませて話を展開させていく。共に行動することでジャックはトースンが優秀なFBI捜査官であることに気付かされ、見方を変えるようになる。

このようにコナリーは登場人物をステレオタイプに描かず、意外な側面とミスマッチの妙を用いることで人物と物語に膨らみをもたらすのだ。次第にお互いの有能さに気付いていく展開は実に読んでいて面白かった。

さて物語は小児愛者であるウィリアム・グラッデンの話を合間に挟みながら展開する。<詩人>の特徴である子供を対象にした殺人事件、自分が誰よりも頭がいいと思っている優越感に満ちた人物、そして催眠術を掛ける能力を有していることなど、これらの条件が全てこのウィリアムに当て嵌まるが、私はこれこそ作者の巧みなミスリードであると思った。

人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。
コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。


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ザ・ポエット〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーザ・ポエット についてのレビュー
No.169:
(8pt)
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キングはこの地味な設定で書き抜くことをやってのけた

モダンホラーの巨匠キング初期の傑作と云われる本書は一般的に狂犬病に罹った犬が車に閉じ込められた人を襲うだけで1本の長編を書いたと評されている物語だが、もちろんそんなことはない。

ただ物語の始まりはちょっと異様な雰囲気に満ちている。
物語の舞台はメイン州キャッスル・ロック。そこは『デッド・ゾーン』でジョン・スミスによって正体が暴かれた連続殺人鬼フランク・ドッドが住んでいた町だ。そして連続殺人鬼の自殺は町に安全と安心をもたらしたが、同時に恐怖と悪夢の影を残し、今なお夜更かしする子供たちを寝かすときに「早く寝ないとフランク・ドッドが来るよ」という脅し文句が生まれるまでになっている。

そんな名残がまだ残る年に物語の主人公一家トレントンの子供タッドの押し入れにフランク・ドッドの幽霊が住まい、夜毎タッドを脅すという怪奇現象が語られる。

更に物語の中心となる対照的な夫婦の関係もクライマックスに向けて実に読ませるアクセントとなっている。

一方のヴィク・トレントンとドナの裕福な夫婦はしかし夫の独立でニューヨークからキャッスル・ロックという田舎町に引っ越した妻が日々の退屈を持て余して、家具修理業の男と浮気をし、それを浮気相手からバラされるという夫婦間の問題を抱えている。

もう一方のジョー・キャンバーとチャリティ夫婦は腕のいい自動車修理工だが、高圧的で暴力を振るう夫を恐れる妻が宝くじで5千ドル当てたのをきっかけに初めて夫抜きで友人宅へ愛する息子を連れて旅行に行く顛末が描かれる。

クージョに関わる二家族のそれぞれの事情を丹念に描き、下拵えが十分に終わったところでようやく本書の主題である、炎天下の車内での狂犬との戦いが描かれる。それが始まるのが233ページでちょうど物語の半分のところである。そこから延々とこの地味な戦いが繰り広げられる。

しかしこの地味な戦いが実に読ませる。

町外れの、道の先は廃棄場しかない行き止まりの道にある自動車修理工場。旅行に出かけた妻と子。残された夫とその隣人は既にクージョによって殺されている。更に閉じ込められた親子の夫は出張中で不在。
そして、これが一番重要なのだが、携帯電話がまだ存在していない頃の出来事であること。またその夫は会社の存亡を賭けた交渉に臨み、なおかつ出発直前に妻の浮気が発覚して妻に対する愛情が揺れ動いていること。
この狂犬と親子の永い戦いにキングは実に周到にエピソードを盛り込み、「その時」を演出する。

これはキングにとってもチャレンジングな作品だったのではないか。
今までは念動力やサイコメトリーなど超能力者を主人公にしたり、吸血鬼や幽霊屋敷といった古典的な恐怖の対象を現代風にアレンジする、空想の産物を現実的な我々の生活環境に落とし込む創作をしていたが、今回は狂犬に襲われるという事件をエンストした車内という極限的に限定された場所で恐怖と戦いながら生き延びようとするという、どこかで起こってもおかしくないことを恐怖の物語として描いているところに大きな特徴、いや変化があると云える。更に車の中といういわば最小の舞台での格闘を約230ページに亘って語るというのはよほどの筆力と想像力がないとできないことだ。
しかし彼はそれをやってのけた。

本書を書いたことで恐らくキングは超常現象や化け物に頼らずともどんなテーマでも面白く、そして怖く書いてみせる自負が確信に変わったことだろう。
だからこそデビューして43年経った2017年の今でもベストセラーランキングされ、そして日本の年末ランキングでも上位に名を連ねる作品が書けるのだ。

これは単なる狂犬に襲われた親子の物語ではない。物語の影に『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドの生霊がまだ蠢いているからだ。

私は本書の結末にキングとクーンツの違いを見る。
どんなに絶望的な状況に陥っても、必ずハッピーエンドをもたらすクーンツの作品はどんな困難でも必ず克服できると物語の裏にメッセージとして込めているからだろうが、逆に云えば結末が容易に付いてしまうのだ。
しかしキングは違う。彼は決して登場人物に容赦をしない。だからこそ物語の先行きが予想不可能で読者は終始心を揺さぶられ続けられるのだ。

こうなるとキングの作品はただ読んでいるだけでは済まない。各物語に散りばめられた相関を丁寧に結びつけることで何か発見があるのかもしれない。
キングの物語世界を慎重に歩みながら、これからも読み進めることとしよう。



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クージョ (新潮文庫)
スティーヴン・キングクージョ についてのレビュー
No.168:
(8pt)

教科書では学ばない西洋史の面白さが堪能できる

2003年から16年に掛けて講談社が企画した少年少女たちのための小説シリーズ<ミステリーランド>。
本書は田中芳樹氏がその企画のために書き下ろした1作であるが、まさに少年少女が胸躍らせる一級の娯楽冒険小説となっている。

カナダから単身フランスに渡ってきた少女コリンヌ。彼女は祖父と逢うが、祖父は自分の許を去ってカナダへ移住し、伯爵位を捨てて先住民と結婚した息子を許せず、コリンヌを孫娘と認めようとしない。代わりに出した条件はライン川の東岸にあるという『双角獣の塔』に幽閉している人物が処刑されたと云われているナポレオン皇帝か否かを確かめて50日以内に戻って来たら孫娘と認め、5000万フランの遺産も与えようという物。
タイトルの「ラインの虜囚」とはつまりこの双角獣の塔に幽閉された人物を指しており、決して某SNSに依存している人々を指しているわけではない。

そんな彼女に作家のアレクサンドル・デュマ、元海賊のジャン・ラフェット、そして身元不詳の剣士モントラシェが同行する。

デュマが同行し、更に一人の少女に彼を含めた3人のお供。そのうち2人は剣と銃の達人とくれば、これは『三銃士』以外何ものでもない。本書ではデュマはまだ駆け出しの作家だが、本書には明確に書かれていないものの、彼が経験したコリンヌとの冒険をもとに『三銃士』を著した、というのが裏設定ではないだろうか。

更に18世紀に流布していた『鉄仮面』伝説にコリンヌ達の時代にドイツで話題となっていた「カスパール・ハウザー事件」など後のデュマの作品のモチーフや当時の謎めいた逸話も盛り込まれ、まさに学校では教えてくれない世界史の、面白いエピソードに溢れている。

とにかくどんどん物語は進んでいく。この流れるような冒険の展開はヴェルヌの一連の冒険小説を彷彿とさせる。
田中氏特有の19世紀当時のフランスを筆頭にしたヨーロッパ各国の情勢、はたまた海を渡ったアメリカとカナダの状況などがほどなく平易な文章で織り込まれており、物語を読みながらそれらの知識が得られる贅沢な作りになっている。
特徴的なのは通常このような蘊蓄を盛り込む際、田中氏は自身の見解を皮肉交じりに挿入するのだが、本書では読者対象が少年少女であるためか、そのような文章は鳴りを潜め、むしろ教科書に載っていない歴史の面白さを教える教師のような語り口であるのが実に気持ちいい。

さらにパリに戻ってからコリンヌが知る真相は意外な物だ。いささか少年少女には解りにくい真相ではあるが、ちょっと聡明な子供であれば逆に大人たちの権謀詐術なども理解できる、いわばちょっとした大人入門的な役割を本書は果たしていると云えよう。

加えてやはり特筆すべきは魅力ある登場人物たちが全て実在の人物であることだろう。

作家のアレクサンドル・デュマはもはや上述している通り、説明するまでもない著名な作家だが、ジャン・ラフィットは海賊でありながらフランスの二月革命、ウィーンのメッテルニヒ宰相の追放、ポーランドの独立運動に尽力し、さらにパトロンとしてマルクスの『共産党宣言』の刊行にも助力した人物である。

またモントラシェことエティエンヌ・ジェラール准将は後にコナン・ドイルが著す勇将ジェラールその人であり、剣の達人として鳴らした人物である。
このジェラールはドイルによる創作上の人物らしい。すっかり実在の人物だと思っていた。

逆にこの中で私は主人公のコリンヌこそが唯一創作上の人物だと思ったが彼女もまた後にカナダでペンを武器にしてアメリカの奴隷解放に努めた実在の人物だった。

そんな偉人たちの偉業もまた簡略的ではあるが知識として得られる最高の冒険歴史活劇物となっている。

大人の視点から読むとコリンヌを取り巻くラフィット、モントラシェの2人の無双ぶり、またミスマッチと思われた作家デュマもその巨体を生かしたアクションであれよあれよと敵と互角に立ち向かうことで少しも主人公たちが窮地に陥らないところに物足りなさを感じるものの、本書が収められた叢書<ミステリーランド>のコンセプトである、「かつて子どもだったあなたと少年少女のために」に実に相応しい読み物であった。子供の頃に嬉々として冒険の世界に浸った読書の愉悦に浸ることが出来た。
こんな物語が書けるならば田中芳樹氏も安泰だ。未完結のシリーズ作品の今後が非常に愉しみになる、実に爽快な読み物だった。


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ラインの虜囚 (ミステリーランド)
田中芳樹ラインの虜囚 についてのレビュー
No.167:
(8pt)

“デッド・ゾーン”の本当の意味は?

哀しき超能力者の物語。

キングの、リチャード・バックマン名義の物を除いた長編第5作目の本書は事故により予知能力が覚醒した青年の物語だ。
1979年に発表された後、デイヴィッド・クローネンバーグによって1983年に映画化され、その映画の評価も高いという作品。そして今でもキングの名作の1つとして挙げられている。

そして本書は『シャイニング』を皮切りに特別な能力を持つ特定の人を扱った、つまりシャイン―かがやき―と称される能力を持つ者たちの系譜に連なる作品でもあるのだ。

まずシャイン、もしくは“かがやき”という特殊能力を持つ登場人物は『シャイニング』のダニー・トランス少年、『ザ・スタンド』でもマザー・アバゲイルがそれぞれ予知能力を持つ人物として登場した。前者はまだごく一部の人間にしか認知されていない一介の少年で、後者のマザー・アバゲイルは実質的な主人公ではなく、救世主的な役割を果たす人物であった。

この三者の能力も巷間に流布している超能力の種類で云えばサイコメトリーであり、彼らはサイコメトラーとなるだろう。
しかしダニー少年が生来この能力を備えているのに対し―マザー・アバゲイルもそうだったのかは記憶が定かではないため、割愛する―、ジョン・スミスの場合は脳の一部を損傷するほどの交通事故に遭い、約5年に亘る昏睡状態から目覚めてから能力が発動する。

さて今回ジョン・スミスが他の2人と大いに異なる点はその能力ゆえに人から畏怖され、時には、いや往々にして関わりを持ちたくないと嫌悪の対象になることだ。

まず『シャイニング』のダニー少年はその能力を隠して生活をしていた。さらに物語も冬の山奥のホテルのみが舞台であり、それも一冬の出来事であった。また『ザ・スタンド』の舞台は新種のインフルエンザによって死に絶えた世界であり、マザー・アバゲイルがその不思議な力で救世主のように崇められていた。
翻ってジョン・スミスは1975年のアメリカで超能力に目覚めた人物。人々は自分の秘密を暴かれることを恐れ、ジョンの存在を恐れるようになる。

ところで本書の題名ともなっているデッド・ゾーンとはいったい何なのだろうか?
交通事故に遭ったジョン・スミスの脳には不完全な部分があり、イメージが喚起できない、もしくは名称が浮かばない場面や物が発生する。それら欠落した部分をデッド・ゾーンと呼んでいることに由来する。本書の言葉を借りれば発語能力と象徴機能双方に障害を発生させている部分ということになる。しかしこの不完全な部分を補う形でジョンにサイコメトリーの能力が発動するのだ。

しかしこの能力は最終的には幼少の頃のスケート場で遇った事故にて既にその萌芽があったことが明かされる。そしてその時の衝撃に後に肥大する腫瘍が備わり、そしてそれこそがジョンの隠された能力を拡充していったこととジョンは理解するようになる。

そんな特殊能力に目覚めた青年の物語をしかしキングは相変わらず丹念に描く。例えば通常主人公が事故に遭って4年5ヶ月後に目覚めるとなると、事故のシーンから主人公が目覚めるシーンまで物語は飛ぶものだが、なんとキングはその歳月を丹念に描いてそれまでのジョンに関係していた人々の生活を描く。

まず恋人のセーラは弁護士の卵と結婚して、その夫も司法試験に合格して弁護士となっている。一番痛々しいのはジョンの両親ハーブとヴェラのスミス夫妻だ。もともと信仰に傾倒していた母はジョンが昏睡状態に陥ったその日からいつか目覚めると信じてますます信仰にのめり込む。キリストのみならず円盤に乗って宇宙に行って選ばれし民を連れてくるために戻ってきたという怪しい夫妻が運営するコミュニティにものめり込み、狂信ぶりに拍車がかかる。

さらにその後もジョン・スミスが各所で能力を発揮して事故や大惨事を未然に防いだり、連続殺人鬼の逮捕に協力したりとエピソードを重ねていく。

触れられるだけで自分の内面を丸裸にされるような思いがさせられ、周囲はジョンがサイコメトリーを発揮した後ではよそよそしい態度を取るようになる。また新聞記者はジョンの能力に興味深々であるものの、触れないでくれとはっきりと告げる。

更に連続殺人事件の犯人逮捕の援助を頼んだ保安官はジョンが発見した真相に嫌悪感を示し、その真実を認めようとせずに罵倒する。

卒業パーティーの会場が落雷によって大火事に見舞われることを予見し、パーティーの取り止めを促すが、人々はせっかくの晴れの席を台無しにされたと怒り、彼を非難する。息子の家庭教師にジョンを雇った実業家は理解を示そうと代わりに自宅をパーティーの会場にして、賛同する者のみを招待する。そして実際に火事が起こるや否や、人々はジョンの能力に感謝するどころか畏怖し、あまつさえ実はジョンが超能力で着火したのではないかとまで云う―ここで「小説の『キャリー』みたいに」と自作を宣伝するのが面白い―。

そしてようやく物語の終着点となるジョン・スミスの宿敵グレグ・スティルソンを目の当たりにするのが下巻の170ページ辺りだ。しかしそれまでのエピソードの積み重ねが決して無駄になっておらず、このクライマックスに向けてのオードブルであるところにキングの物語力の強さを感じるのだ―特に避雷針のエピソードは秀逸!―。

人に触れることでその人に関する未来や過去をヴィジョンとして捉える能力はしかし本書でも述べられているように、現実世界では人間はことが事実になるまでは本当に信じる気になれないのが世の常であり、人々はことが起きた後でその正しさを心に刻み込む。従って未来を正確に予見できるジョンは常に異端者であり、場合によっては忌み嫌われる存在になるということだ。
『ザ・スタンド』の舞台となった人類のほとんどが死に絶え、明日が見えない世界においてはこの能力を持つ者は導き手として崇められるが、では現実世界ではどうかというと逆に恐怖の存在となる。

苦悩する、理解されない救世主の姿が本書では描かれているところに大きな特徴があると云えるだろう。

ただ唯一の救いは作者が決してジョン・スミスをただの狂えるテロリストとして片付けなかったことだ。

さてキングに登場する人物、特に母親に関してはどうもある一つのパターンを感じる。
本書ではジョンの特殊能力を救済のために使うのだと告げ、死後もなお呪縛のようにジョンを苛んだ母親ヴェラはそれまでのキング作品に見られる、狂信的な母親像として描かれている。上にも書いたようにこの女性はジョンが昏睡状態に陥ってからは狂気とも云える神や超常現象にのめり込んでいく。

どうもキングが描く母親にはこのような神や信仰に病的にすがる母親がよく登場し、一つの恐怖のファクターになっているようだ。

また一方で男性には癇癪もちや暴力的衝動を抱えた人物も出てくるのが特徴で今回はグレグ・スティルソンがそれに当たる。彼の略歴が下巻の中盤で語られるが、高校を卒業して早くから独り立ちし、雨乞い師という異色な職業を皮切りに塗装業、聖書のセールスマン、保険会社外交員から政治家へと転身した彼は暴力と恐怖で敵を制圧し、ヒトラーを思わせるほどの雄弁な話術とパフォーマンスで人気を獲得していく。一皮剥けば野獣―本書では笑う虎と称されている―といった圧倒的な権力や支配力を備えた敵の存在はキング作品におけるモチーフであるようだ。

ところで本書ではちょっとした他作品とのリンクが見られる。ジョン・スミスがサイコメトリーを発揮したニュースを観て脳卒中を起こした母親が担ぎ込まれた病院のある場所がジェルーサレムズ・ロットの北に位置する町にあるのだ。即ち吸血鬼譚である『呪われた町』の舞台である。この辺りはキング読者なら思わずニヤリとしたくなるファンサービスだ。

さて2016年アメリカは第45代大統領にドナルド・トランプ氏を選出し、そして2017年就任した。この実業家上がりの大統領が本書で後にアメリカ大統領となり、全面核戦争の道へアメリカを導くと恐れられたグレグ・スティルマンと重なって仕方がなかった。
現実問題としてトランプ大統領は北朝鮮に対して核戦争も辞さぬ挑戦的な態度を取り続けている。本書はもしかしたら今だからこそ読まれるべき作品かもしれない。
彼らが選んだ大統領はスティルマンのように一種狂宴めいた騒ぎの中で選んだ過ちではなかったのか。1979年に書かれた本書は現代のまだ見ぬ過ちを予見した書になる可能性を秘めている。
実は本書のタイトル“デッド・ゾーン(死の領域)”はスティルマン選出後のアメリカをも示唆しているのであれば、まさにそれは今こそ訪れるのかもしれないと背筋に寒気を覚えるのである。


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デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングデッド・ゾーン についてのレビュー
No.166:
(8pt)

“黒い氷”には気を付けろ!

一匹狼の刑事ハリー・ボッシュシリーズ2作目の本書のテーマはずばり麻薬である。メキシコで安価に生産される新種のドラッグ、ブラック・アイスを巡って殺害された麻薬課刑事の絡んだ事件にボッシュは挑む。

ただそこに至るまでの道のりは複雑だ。まず今回3つの事件にボッシュは関わる。

1つはクリスマスの夜に発見されたモーテルでの自殺に見せかけた死体。これがハリウッド署の麻薬課刑事カル・ムーアの死体だった。自殺かと思われたがどうも殺された後に偽装されたことが判る。但しアーヴィング副警視正によってボッシュは捜査を外される。

2つ目はダイナーの裏で見つかった身元不明死体の事件。これは上司のパウンズから任された休職中の同僚ポーターが抱えていた事件だが、その死体発見者がなんとムーアだったことが判る。

3つ目はもともとボッシュが別に抱えていた事件、ハワイの麻薬運び屋ジェイムズ・カッパラニことジミー・キャップスが数週間前に殺害された事件だ。
これはメキシコから出回っているブラック・アイスという新しいドラッグが台頭してきたため、キャップスがその運び屋ダンスをムーアのところに垂れ込んだが、ダンスは証拠不十分で不起訴で釈放された後、何者かによって絞殺されていた。ボッシュはこの事件の捜査でムーアに情報を頼んでいたのだった。

3つの事件に絡むのはカル・ムーアであり、そしてその行先はメキシコのメヒカリという町に辿り着く。身元不明死体の胃の中から発見された蠅の死骸が放射線照射によって生殖抑制された蠅であり、それを育てているエンヴァイロブリード社の養虫場がメヒカリにあったからだ。

さらにブラック・アイスの生産者である麻薬王ウンベルト・ソリージョの秘密製造所はメヒカリにあり、またキャップス殺しの容疑者マーヴィン・ダンスは既にメキシコに逃亡し、恐らくメヒカリにいると思われたからだ。ボッシュはメキシコの麻薬取締局の協力を得てメキシコでの捜査を行う。

メキシコが麻薬に汚染され、警察や司法までもが麻薬マネーによって牛耳られていることは先に読んだウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』で既に知識として織り込み済みなため、ボッシュが彼の地の捜査で苦心惨憺するのは想像がついた。ボッシュに協力しようとするのはメキシコの麻薬取締局(DEA)の捜査官リネイ・コルヴォ、つまりウィンズロウ作品の主役であるアート・ケラーと同じ局の人間で彼もメキシコ司法警察は当てにするなとボッシュに忠告する。
実際今回の事件の被害者の一人であった身元不明死体についてロサンジェルスの領事館に照会している警官カルロス・アギラの上司グスタポ・グレナはどっぷり麻薬王ウンベルト・ソリージョの恩恵を被っているようでボッシュを軽くあしらおうとする。一方アギラは骨のある警官でしかも目ざとく上司が一蹴した被害者がエンヴァイロブリード社で働いていた事実を突き止める。

しかしそれがどうした?というのがメキシコである。
自分に都合の悪い事が起ころうが、見つかろうが買収した高官によって揉み消すよう頼むだけなのだ。そんな四面楚歌状態の中でボッシュはアギラという数少ない協力者と共に捜査を進めていく。

さてこのカルロス・アギラという司法警察捜査官も魅力的である。
麻薬マネーの恩恵を受けてどっぷりと黒く染まっている上司グレナとは異なり、中国系メキシコ人という出自から周囲にはチャーリー・チャンと揶揄されているがしっかりとした観察力とメキシコ人の風習を熟知した捜査に長けている。アメリカ人の常識で捜査をするボッシュには思いも付かない視点でサポートし、そしてそのアギラの指摘が事件の解決への糸口に繋がる。特に最後の驚愕の真相はアギラがいなければそのまま気づかずに真犯人が描いた絵のままで事件は解決していただろう。
1作目も含め、LAという土地柄のせいか、ボッシュとメキシコとの関係は案外に深く、ドールメイカー事件の失態で被った謹慎処分の期間と先般のエレノア・ウィッシュと組んだ事件で受けた傷が完治するまでメキシコで静養していたことから、今後もボッシュとアギラは領国に跨った事件で再び手を組むのかもしれない。

ボッシュという男は自分の人生にどんな形であれ関わった人間の死に対してどこかしら重い責任を負い、犠牲者を弔うかの如く、加害者の捜査に没頭する傾向がある。
前作『ナイトホークス』ではかつての戦友のウィリアム・メドーズを殺害した犯人を執拗に追い立て、今回はたまたま自分の担当する事件の情報を得るために接触した麻薬取締班の警部が自殺に見せかけて殺害されたことで彼は仇を討たんとばかりに捜査にのめり込む。

それは多分彼がヴェトナム戦争を経験しているからだろう。昨日まで一緒に飯を食い、冗談を云い合っていた連中がその日には一瞬のうちに死体となって葬られる。一時たりとも肩を並べた相手が翌日も同じように肩を並べるとは限らない、そんな生と死が紙一重の世界を経験したからこそ、袖振り合うも多生の縁とばかりに彼は自分の身内が死んだかのように捜査にのめり込む。それが彼の流儀とばかりに。

また今回ボッシュは自分の出生について長く触れている。有名な画家と同じ名前を付けた母親を過去に殺された事件があるのはデビュー作で触れられていたが、今度は父親のことについて触れられている。

またムーアの葬儀を行う会社はマカヴォイ・ブラザーズという。これも後に出てくるジャック・マカヴォイと何か関係があるのだろうか?
シリーズをリアルタイムで読んでいたら多分このようなことには気付かなかっただろうから、シリーズが出た後で読んだ私は後のシリーズのミッシング・リンクに気付くという幸運に見舞われているとも云える。まだまだこのようなサプライズがあるだろうことは実に愉しみだ。

本書の題名となっているブラック・アイスは今回の事件のキーとなるメキシコから流入している新種の麻薬の名でもあるが、もう1つ意味がある。
それは冬、雨が降った後に出来るアスファルトの路面凍結する氷のことだ。黒いアスファルトの上に張っているが、しかし見えない氷。ムーアの別れた妻シルヴィアが育ったサンフランシスコで父親が彼女に車の運転を教えていた時の言葉、“黒い氷(ブラック・アイス)には気を付けるんだぞ。上に乗っかるまで危険に気づかないんだが、そうなったらもう手遅れだ。スリップしてハンドルが効かなくなる”からも由来する。
実はこれこそがこの作品の本質を云い当てている。亡くなったムーアをはじめ、その他犠牲になった人々も気づかないうちに黒い氷の上に乗ってしまい、人生のコントロールを失ってしまった人々なのだ。そしてまたボッシュもその1人になろうとしている。しかしどうにか彼は寸でのところで踏み留まっている。
しかし彼が常にいつ刑事を辞めさせられてもおかしくない薄氷の上にいることは間違いない。己の信条と正しいと思ったことを貫くために、彼こそは黒い氷と紙一重なのだ。

前回ではウィッシュとつながりを見出したボッシュは今回もムーアの元妻シルヴィアとつながりを見出し、彼女の魅力に惹かれている自分に驚く。

ウィッシュに惹かれながらも彼女を人生のパートナーとして引き受けたときの責任の重さに身震いしたのに対し、シルヴィアに対しては自分と同類であり、一緒にいたいと願う。
今後2人の関係がどのように続いていくのか解らないが、その行く末はアクセントとしても実に興味深い。
しかし一方で前回公私に亘って相棒となったエレノア・ウィッシュからは刑務所から便りが来て連絡を取り合っているようで、今後ウィッシュが再度ボッシュと何らかの関係を持つのは時間の問題のようで、そのときこの3者の間でどのような化学反応が起きるのか、興味は尽きない。

警察の面子、それぞれの立場よりも自分が納得するために動くボッシュ。敵を作りやすいタイプだが反対に自分には出来ないことを貫くその姿勢に賛同する者も少数派だがいる。今回もあわや警察殺しの容疑者になり、さらには麻薬王の放った殺し屋に射殺されそうにもなる。失職の危機に見舞われながらも数少ない、しかし有能な協力者の力を得て、どうにかハリウッド署に踏み止まったボッシュ。

個人の正義と組織の正義の戦いの中で彼が今後も自分の正義をどこまで貫いていけるのか。
ボッシュが背負った業が重いゆえにこのシリーズが極上の物語になっているのがなんとも皮肉なのだが、それを期待してしまう私を初め、読者諸氏はなんともサディスティックな人たちの集まりだろうと今回改めて深く思った次第である。


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ブラック・アイス (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・アイス についてのレビュー
No.165: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

コロナ禍の今こそ読まれるべき大作

全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。
そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。
但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。しかしほとんど発表当時に書かれた物であることから、今回読むことにした。

まず1巻目を読んだときに思ったのは本書が軍によって開発された新種のインフルエンザがある事故によって外部に流出し、それがアメリカ全土を死の国に変えていくというパンデミック・ホラーだということだ。

軍が開発した新型インフルエンザ<キャプテン・トリップス>。それは感染率99.4%を誇る死の病でそれまで存在しなかった病原体だけに人間に抗体がない。そして万が一、抗体を生み出してもウィルス自身が変異し、人間を蝕んでいく、無敵の病原菌だ。

しかしそんな最凶最悪のウィルスが蔓延しながらも感染しない人物たちが登場する。
ステュー・レッドマン、ニック・アンドレス、ラリー・アンダーウッド、フラニー・ゴールドスミス、ロイド・ヘンリード、ランドル・フラッグ、ドナルド・マーウィン・エルバート。
彼らそして彼女に共通するのはなぜか唐突に一面に広がる玉蜀黍畑が現れ、自分が何かを探しているが、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるという奇妙な夢を見ることだ。

彼らそして彼女はそれぞれの場所で同じくウィルスに感染しなかった道連れを伴い、旅に出る。
ここでいわゆるパンデミック・ホラーと思っていた物語が転調する。通常ならば被害が拡大していくところに一筋の光のように病原体の正体とそれへの対抗策が生まれ、人類は救われるというのが一般的なのに対し、本書ではそこからアメリカが死の国になってしまうのだ。

つまり約500ページを費やされて描かれた恐ろしき無敵のウィルスがアメリカ全土に蔓延り、ほとんどの人々が死滅していく1巻はこの後に続く壮大な物語の序章に過ぎない。
そして2巻目はそんな荒廃したアメリカを舞台にしたディストピア小説になる。
騒動を鎮圧するために派遣された軍がやがて武器を振り回して小さな国の王になろうとし、殺戮を始める。メディアを使って公開死刑をし出す。略奪を繰り返し、本能の赴くままに行動する。その中にはウィルスに侵されて死を待つだけの者もいる。そんな無秩序な世界が繰り広げられる。

通常このようなディストピア小説ならば、全てが死滅した後の世界を舞台にし、なぜ世界が滅び、荒廃したかは単にエピソードとしてしか紡がれない。しかしキングは敢えてその経過までを詳細に書いた。なぜならそこにもドラマがあるからだ。
普通の生活をしていた国民が突然新種のインフルエンザに見舞われ、次々と死んでいく理不尽さ。これをたった数ページの昔語りで済ませることをキングは拒んだのだろう。
今日もまた昨日のように日常が続き、そして明日が訪れると信じて疑わなかった人々が、実はその人生に幕を引かなければならなかった突然の災禍。誰もがただの悪質な風邪に罹っただけだと信じて疑わなかったという我々の日常の延長線上に繋がるようなごくごく普通の現象がカタストロフィーへの序章だったというリアルさを鮮明に、そして手を抜くことなく描くことが本作を著す意義。これこそがキングが込めた思いだった。だからこそどうしても1978年発表当時の無念を晴らすことが必要だったのだ。

しかしデビュー6作目にしてこれほどの分量の物語を書くという心意気が凄い。本当に物語が次から次へと迸っていたことがその筆の勢いからも解る。

神は細部に宿るという言葉がある。
本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。

これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。
両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。
しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。
町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。
聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。
マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。
色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。

1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。

人々が死別した町で奇跡的に生き残った人たちが何をするか。これが非常に俗っぽくて逆にリアリティを作品に与えている。
ある者はヤンキースタジアムに行って裸でグラウンドに寝っ転がるのだと息巻く。
人から嫌われていた社会学者はようやくやりたくもない人付き合いから解放され、自分の好きなことに没頭できると喜ぶ。
人がいなくなった世界を存分に楽しむ者も出てくるのだ。

その他感染せずに生き長らえた人々の人生の点描をキングは書く。
病気を乗り越えたからといって人は死なないわけではない。九死に一生を得た後で自転車事故や感電事故、銃の暴発などで死ぬ人々。それは人生が喜劇であり皮肉で満ちていることをキングは謳っているかのようだ。

更に物語は変転する。各地の生存者たちは約束の地を目指すかの如くその町を離れる。そしてその道行でそれぞれに道連れが出来る。
サヴァイヴァル小説、もしくはロードノヴェルの様相を呈してくるのだ。

この第2部から1章当たりの分量が増大するのも大きな特徴だ。
社会に蔓延したウィルスによってもたらされた大量死により個の物語に特化してきた第1部が第2部になって生存者たちがそれぞれ邂逅し、新たなグループを形成しだす。それは即ち小集団の社会を生んでいく。大なり小なりの社会が生まれていく様子を大部のページを割いてキングは語っていく。

小説とは大きな話の中でどこかにクローズアップして語る物語だ。従ってたった1日の出来事を数百ページに亘って書く物もあれば、人の一生を語る物、百年、いや数百年の歴史を語る物、それぞれだ。何巻、何十巻と費やして書かれる大河小説もあれば、1冊に収まる小説もある。それらはどこかに省略があり、メインの、作者が語りたい部分を浮き彫りにして描かれるが、本書は全てが同じ比重で描かれている。だからこそこれほどまで長い物語になっているわけだが、キングはやはり書きたかったのだろう、全てを。頭に住まう人々のことを余すところなく描きたかったのだろう。

ステュー・レッドマンはオガンクィットからストーヴィントンの疫病センターを目指すフラニーとハロルドたちと合流する。

聾唖の青年ニック・アンドレスは知的障害の青年トム・カレンと旅程を共にする。

ミュージシャンラリー・アンダーウッドは女性教師のナディーン・クロスと彼女が拾った口の聞けない少年ジョーと出逢い、旅に出る。

それぞれが出逢いと別れを繰り返し、仲間を増やし、また仲間を喪いながら、ある目的地、ネブラスカにいるマザー・アバゲイルの許へと向かう。

皆が一同に会する安住の地はコロラド州ボールダー。そこを彼らは<フリーゾーン>と呼び、コミュニティが形成されていく。無法地帯と化したアメリカの再生の地、そして彼らを付け狙う<闇の男>に対抗する力を持つべく、彼らは町を復興させ、そして主たるメンバーで委員会を発足させ、秩序を、社会を再構成しようとする。

最終巻5巻はラスヴェガスで次第に闇の男の勢力が弱まっていく様が語られる。
善と悪。
この表裏一体の存在は一方が弱まると他方もまた同様に衰退していく、そんな不可解な原理が働くようだ。そして物語は善と悪との直接対決へと向かう。

キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。
そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

善の側の中心人物がネブラスカに住む108歳の老女マザー・アバゲイルことアビー・フリーマントル。彼女は“かがやき(シャイニング)”と呼ばれる特殊能力、予知能力を有する女性だ。そう、『シャイニング』で少年ダニー・トランスが持っていた同じ能力だ。

一方悪の側の中心人物はランドル・フラッグ。闇の男の異名を持ち、生存者の夢に現れては恐怖を与え、時に目を付けた人物の悪意を唆す。従って善の側にいる人々の中にも新たに生まれたコミュニティ生活の人間関係に苦しみ、また憎悪が芽生え、その心の隙間にランドルは囁きかける。
フラニーに惚れて共に行動しながら同行者となったステューに嫉妬するハロルド・ローダーとラリーを欲しいと願いながらも純潔を守り通そうとする屈折した感情を抱く元教師ナディーン・スミスがランドルの標的となっている。

この2人だけが超越した人間として書かれている。2人に共通するのは生存者たちの夢の中に出現することが出来ることだ。しかしランドル・フラッグは実に謎めいている。
マザー・アバゲイルが“かがやき”を備えていることが説明されているのに対し、ランドル・フラッグは特殊な“目”を持ち、千里眼の如く遥か彼方の出来事を見通すことが出来、さらに各地へ飛ぶことが出来るという説明があるだけだ。“かがやき”が善なる力ならば彼の能力は悪の力でまだ名前がないだけなのかもしれない。
しかし彼はどこにでも行けると思わせながらもマザー・アバゲイルたちが住む<フリーゾーン>へは赴かない。いや誘惑したナディーンたちの前に現れてはいるが実体化しているかどうかは解らない。彼の行動範囲には限りがあるということなのか。彼の領域があり、その中で自由自在に動けるということなのかもしれない。

人は未曽有の災害を生んで、ほとんどが亡くなり、また大いなる悪に打ち勝ってもまた同じことを繰り返すのだ。
人間社会はその繰り返しである。本書の言葉を借りれば、まさに回転する車輪の如きもので、歴史は常に繰り返される。それは即ち過ちをも。

また興味深いのはスパイとして潜入したデイナが闇の男が統治するラスヴェガスの方が規則正しい生活が成されていることに気付き、驚きを感じるシーン。
それは闇の男の機嫌を損ねぬように生きているからこそ、つまり恐怖が規律を育てているという皮肉。これは現代社会の規律を皮肉っているようにも取れる。
我々は何かを恐れているがゆえにシステムに固執し、それを守ることでうまく機能を社会にもたらせている、そんな風にキングは指摘しているように感じた。

色んな人生を読んだ。そして彼ら彼女らはいつしか自分を変えていった。

その中で私が最も印象に残ったキャラクターはトム・カレンとハロルド・ローダーだ。

トム・カレン。本書では言及されていないが彼もまた“かがやき”を備えた知的障害者だ。ニック・アンドレスと出逢う前の彼はパンデミックで人々が亡くなる前は両親とともに暮らすただ障碍者で、災厄の後では一人町に取り残された弱者に過ぎなかった。しかし彼は自分が何者かを知っていた。だから誰も彼を馬鹿にしなかった。彼がただ他の人よりもちょっと足らないだけだ。従って彼は愚直なまでに命令に忠実だ。その愚直さが実に微笑ましく、また感動を誘う。
そして彼はトランス状態に陥ると“かがやき”を備えたかのように先を見通せるようになる。最後まで底の見えない好人物だった。

ハロルド・ローダー。
美人で優等生の姉と常に比較され、劣等感を抱えて生きてきた彼は知識を蓄えることで自らをヒエラルキーの頂点に持っていこうとするが、持っていた劣等感ゆえに尊大さが目立ち、人を見下すようになる。パンデミック後も町でたった2人で生き残った憧れの君フラニーと親しくなることを期待するもすげなく断られ、道中で一緒になったステューに彼氏の座を奪われる。そこから憎悪がねじ曲がり、表向きは快活な笑顔を振る舞って協力的な態度を示しながらも<元帳>と書かれた日記には自分の憎悪の丈をぶつけ、日々復讐心を募らせる。

彼は常に人に認められたいと願った男だった。しかしいつも誰かと比較され、そして貶められていた。そのことがどうしても我慢ならなかった。しかし彼は自分が認められる道を見つけたのだ。嘘でも笑顔で振る舞い、皆の注目と関心を得るために嫌な仕事も率先してやることでとうとう欲しかった信頼、仲間を得たのだ。
しかしその頃にはもうすでに彼の心は病んでしまっていたのだ。彼はもうその安住の地に留まることを潔しとせず、初心貫徹とばかりに自らの憎悪に固執してしまったのだ。
人は変われるのに敢えて変わることを選ばなかった男、それがハロルドだ。彼の許を訪れ、情婦となったナディーンがいなかったらハロルドはそのまま<フリーゾーン>に留まっただろうか?
私はそうは思わない。彼が抱えた闇は簡単には晴れなかった、そして彼は自分の性分に正直に生きた、それだけだ。

ところで題名『ザ・スタンド』の意味するものとはいったい何なのだろうか?
本書では最後に闇の男が甦った際に「拠って立つところ」とされている。
なるほど、全てが喪われた世界でそれぞれがどんな拠り所を、己の立ち位置を見つける物語という意味なのか。善に立つか悪に立つか。しかし私は立ち上がる人々、即ち蜂起する人々という意味も加えたい。
最終巻、いや最終の第3部に至って挿入される引用文の1つにあの有名なベン・E・キングの歌“Stand By Me”の歌詞が引用されている。貴方が傍にいるから怖くない、と。だから私も立つのだ。

しかしキングはよほどこの歌が好きなようだ。ご存知のようにこの歌の題名をそのまま使い、映画化もされて大ヒットした短編を後に書いてもいる。歌い手の名が同じ苗字を冠していることもその一因なのだろうか。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。

2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

通常これだけの大長編を書いた後では虚脱状態になってしばらくは何も書けない状態になるのではないだろうか。読み終わった私でさえ、半ばそのような状態である。
洋の東西問わずそのような事例の作家が少なからず思い浮かぶが、キングはその後でも精力的に大部の物語を紡ぎ続けているところだ。彼の創作意欲は留まるところを知らない。
キングの頭の中には今なお外に出たくてひしめき合っているキャラクターが潜んでいるのだろう。天才という言葉を軽々しく使いたくないが、現在まで年末のランキングに名を連ねる彼はまさしく小説を書くために生まれてきた正真正銘の天才だ。

また本書ほど読む時期で印象が変わる物語もないだろう。
上に書いたように2,400ページ弱を誇る大部の物語はキングの色んな要素を内包している。本書が1978年に発表された当時にカットされた分を付け足した1990年に刊行された増補改訂版であるのは冒頭に述べた通りだが、この作品を1978年当時の作品として読むか、1990年発表の作品として読むかで変わってくる。
前者であればその後のキングの諸作のエッセンスが詰まっている、いわばキング作品の幹を成す作品と捉えるだろう。しかし後者ならばそれまでに発表された『IT』を凌ぐキングの集大成的作品として捉えた事だろう。
解説の風間氏がいうように私は前者の立場で読んだ。従って私の中ではキングはまだ始まったばかり。本書がこの後紡ぎ出した数々の作品にどのように作用しているのかを読むことが出来るのだ。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。
ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。

しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


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ザ・スタンド(上)
スティーヴン・キングザ・スタンド についてのレビュー
No.164:
(8pt)

美人ってどうして幸せに恵まれないのだろう?

これは東西ドイツ統一という時代の変換期に、自らの恋愛を翻弄されたなんとも哀しい女の物語だ。

仕事は優秀で見た目も美人だが、既に38歳となり結婚適齢期は過ぎてしまったキャリアウーマンであるエルケ・マイヤー。昔付き合った男との間に生まれた自閉症の娘ウルスラを精神病院に預け、毎週日曜日に訪問しては絶望に暮れる日々を送っている。従って結婚願望はおろか、もう長らく男性との火遊びからも遠ざかっている、いわゆる日干し女だ。

独身生活が長いせいで単調な生活の繰り返しに安定を見出している。決まった手順で行動し、いつもの場所に駐車し、いつもの店のいつもの席でいつものメニューを食べ、いつもの時間に出勤する。食事中に愛車が傷つけられていないか不安で周囲を確認し、何もないことで安堵する。
これら一連の“儀式”を重んじ、そこに安心を覚える、半ば強迫観念に縛られたような性格の持ち主である。

一方翻って彼女の姉のイーダはうだつの上がらない郵政省に勤める夫と結婚して2人の子供を持つ母親だが、女性としての魅力を保っており、パーティでは夫の仕事仲間から云い寄られてきたりもする。社交的で人目を惹くことからエルケはひそかに憧れと嫉妬を抱いている。そして2人の関係は一見フラットでありながら精神的優位性が姉にある。

そんな彼女に目を付けたKGBが放ったセックス・スパイ(昨今ではもはやハニー・トラップでこの存在が珍しくなくなってきたが。ちなみに男性のセックス・スパイは“カラス”と呼ばれ、女性のそれは“ツバメ”と呼ぶらしい)オットー・ライマンはかつて東ドイツへのスパイ作戦で成功を収めたリーダー、ユッタ・ヘーンの部下であり、そして現在は夫で結婚後もKGBで働いている。かつての部下と上司の関係から妻ユッタはオットーに対して常に精神的優位性を示し、夫が服従することを好んでいる。オットーはそれに表向きはそのことに不満を示していないが、時折公私に亘って妻が見知らぬことを知ることで優位に立つことに喜びを感じている。

KGBの狙いはベルリンの壁が崩壊した後の東西ドイツ統一に向けてドイツ側、とりわけ西ドイツの中枢であるボン政府が社会主義側だった東ドイツとどのように協調していくのかを探ることだった。特にNATOとワルシャワ条約機構との結合を試みて新たなる政治的脅威になるのかが焦点であった。

特に物語の中盤以降、ソ連側がオットーに渡した3ページ以上に亘る膨大な調査内容のリストは―真実かどうかわからないが―当時のソ連がかつて第二次大戦で猛威を奮ったドイツの復活をいかに恐れていたかを示唆している。

この2人が出逢うのはなんと180ページを過ぎたあたりから。物語としてはおよそ1/3辺りである。それまでは延々とエルケの日常とオットー・ライマンの作戦準備が語られる。
一流のスパイとして女性を籠絡させる術を知り尽くしたオットー・ライマンの内面心理描写は女性心理、いや女性に限らずあらゆる人の心理を自由に操る術が豊富に織り込まれている。じっくり対象を観察し、あらかじめイメージを作り上げ、そのイメージがするであろう振る舞いや受け答えを想定し、対応する。そして自分が望む方向に導くのだ。

エルケの心の隙に付け入るべく、彼女の厳格なまでの単調な生活の繰り返しによる心の安定を切り崩して刺激を与えていく。例えば連絡先を教えても、掛かってきた電話には応えず、逆に自分の都合で連絡し、安堵を与える。必ず約束の時間には遅れていくし、相手がもう少し一緒にいる時間を延ばしたいと察すると理由をつけて退場する、2人の関係に絶対の自信を持たせない、自身の存在を当たり前に感じることは許さない、といった具合だ。今なら一流のメンタリストといったところか。

そんな駆け引きをしてようやくオットーがセックス・スパイの本領を発揮するのが物語も半分を過ぎた375ページ辺りだ。なかなかに長い前戯ではないか。

また面白いのはそれまで男に縁がなく、平日は仕事と自宅の往復、土曜日は姉とのランチ、日曜日は自閉症の娘への訪問と一つたりとも違うことなく、同じことの繰り返しだった灰色のエルケの日常がオットーとの出逢いを境に好転していくことだ。

まず首相府事務次官付きの秘書の立場から閣僚委員会の一員に抜擢され、更に政府の中枢に加わるようになり、昇進する。

さらに上司の事務次官ギュンター・ヴェルケの好意を買うことになり、たびたびデートに誘われるようになる、といった具合に一気にエルケの人生が色めき立つのだ。“あげまん”という言葉は知っているがオットー・ライマンはその逆の“あげちん”である(本当にこんな俗語があるらしい)。

そして当然ながらエルケが変わるように相手側も変わる。
あくまでプロフェッショナルを貫き、エルケを対象物として捉えていないと自負していたオットーはエルケの精神的拠り所になった後でも彼女に自分がスパイであり、自分なしでは生きられないのなら情報を漏洩しろと強制することを拒む。あくまでエルケとは恋人同士の関係で接しながら彼女の小出しにする情報を基にドイツ側の内情を構成し、報告するにとどめる。そしてもはや妻ユッタに愛情を感じず、エルケを心底愛するようになっていく。

またオットーの妻ユッタもあくまで仕事と割り切りながら、かつて部下と上司の関係だった立場が逆転したのを気付かされ、オットーに依存するようになる。そしてオットーの標的相手に嫉妬を覚えるようになるのだ。

やはりこれが人間なのだ。
仕事と割り切ってクールに振る舞えないからこそ人間なのだ。
そこに感情が、特に愛情が絡むことで論理的に組み立てられた作戦は綻びを生み出す。人間が介在するからこそ古今東西の作戦が失敗に終わり明るみに出ることになっているのだ。

しかし読み進むにつれて主人公エルケがだんだん可哀想になってくる。

以前のエルケならば自分に自信がないために、自分の魅力のなさを責め、すぐさま諦観の境地に陥るところだったが、今や東西ドイツ統一のための閣僚委員会の一員となり、記念すべき歴史的転換の只中にいるという彼女の自負が彼女の心を強くさせ、これは一人の男を賭けた対決なのだと自分に云い聞かせる。

もし仕事で見せる鋭敏さがこの時の彼女にあればライマンの行動のおかしさに疑問を持ち、嫉妬も手伝って再度彼の身の上調査に踏み切ったことだろう。
しかしせっかく掴んだ幸せを逃したくないがためにエルケの明晰さを恋が盲目にしてしまった。この辺は実にエルケが可哀想で仕方がなかった。

恋愛を武器にした諜報活動は物語が始まった時から誰かが傷つく結末になるのは約束されていた。
しかし登場人物に対して容赦のないフリーマントルは全ての登場人物に不幸を負わせる。

相思相愛でありながら政府の最高機密に携わっていた孤独な女性と、一流のセックス・スパイでありながら恋に落ちてしまった男。
このハーレクインロマンス的な設定も皮肉屋フリーマントルが描くと現実の厳しさと運命の皮肉さがたっぷり盛り込まれた、なんとも苦さの残る話へと料理される。
仕事のために嘘をつき続けた男とスパイであることを教えてくれればいくらでも情報漏洩をしたと誓った女。男は別れを恐れるために嘘をつき、女は別れたくないために真実を知りたがった。
これが男と女の違いであり、だからこそ悲恋の物語が今なお書かれ、尽きることがないのだろう。

ふと考えてみると本書はKGB側も描いており、作戦決行までのゼロ時間への準備段階から描かれているが、逆に書き方次第では実に面白いミステリになったかもしれない。

描写をエルケ側に絞って無味乾燥した毎日を描いたところに、かつて付き合っていた男とそっくりの男性との偶然の出逢いからラヴロマンスに至り、そこから急転してスパイ物に変転する語り方もあったのではないか。
しかしそれをやるともはや本当のロマンス小説になってしまうのか。だからフリーマントルは敢えて正攻法で臨んだのかもしれない。

しかし重ね重ねエルケが不憫でならない。人目を惹く容姿で仕事もできるバリバリのキャリアウーマンであり、それ相応の男の好意を惹き付けながら、なぜかその恋が成就しない。人生のボタンを常に掛け違えてしまう女性である。
孤独を紛らすために決まった時間、決まった場所、決まったイベントをこなすことで精神の安定を覚えている。

彼女はまたこの無味乾燥した毎日を過ごすかと思うとなんとも遣る瀬無い気分になってしまうのだ。
いつか彼女が正しくボタンを掛けられることを願って本書を閉じよう。


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嘘に抱かれた女 (新潮文庫)
No.163: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

負の遺産に向き合う者もいる

本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。
そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。

しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。
ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。本書ではその謎についても書かれているが、それについてはネタバレ感想にて。

そんな花にまつわる謎を孕んだミステリは一見関係のなさそうな2つのプロローグから始まる。

まずは東京オリンピックを控えた時代で、1人の生まれたばかりの娘を持つある夫妻に訪れた突然の災禍が語られる。

そして次に語られるのは思春期を迎えた中学生蒲生蒼太が、家族恒例の行事で朝顔市に行ったときに出遭った伊庭孝美という同い年の中学生との淡い恋と失恋のエピソード。
その2つを経てメインの事件である新種の花を巡った殺人事件が語られる。

まず一番胸に響いたのは冒頭のエピソードの中学生蒲生蒼太のエピソードだ。
毎年恒例の家族行事となっている朝顔市で出逢った同い年の中学生伊庭孝美に一目惚れし、メアドの交換を行って頻繁に出逢う様子は私も経験したことで当時を思い出して胸を温かくしたが、父親にメールを見られ、交際を禁じられた直後に彼女から突然の別れを切り出される件はさらに胸に響いた。
これも自分に同様の経験があるからだ。あの時の苦くて苦しい思いが甦り、とても他人事とは思えなかった。

各登場人物の設定も興味深い。とくに本書では2つの家族がメインとなって物語に関わる。

主人公の秋山梨乃はかつてオリンピック代表として将来を有望視されていた水泳選手だったが、原因不明の眩暈に襲われたことで水泳を辞め、大学と高円寺のアパートを往復する無為な日々を送っている。

また冒頭従兄の鳥居尚人は成績優秀、スポーツ万能、多種多芸な、何をやっても一流という理想の人物であり、大学を中退してプロのバンドになる道を選び、その夢も実現が間近に迫っていながら突然自殺してしまう。

さらに彼女たちの祖父秋山周治はかつて食品会社の商品開発の研究部に携わっていたが、そこで新種の花の開発を行っていた。そして退職して6年後、黄色いアサガオの開花に成功した矢先、何者かによって殺害されその鉢を奪われてしまう。

もう1人の主人公蒲生蒼太の家庭も特異な状況な家族構成である。

要介と蒼太という2人の年の離れた兄弟がおり、父親の真嗣は元警察官。そして妻志摩子という典型的な4人家族だが、実は要介は前妻との間に出来た息子であり、蒼太は後妻である志摩子との間の息子であった。従ってどこか蒼太は父親と要介に距離を感じており、それがもとで東京の家を出て大阪の大学に通っている。

更に捜査を担当する所轄署の早瀬亮介も被害者秋山周治とは縁があった。息子の裕太が巻き込まれた万引き事件で冤罪を晴らしてくれたのだ。
しかし彼は自身の浮気がもとで現在は妻と息子とは別居中という身。しかし裕太から自分の恩人を殺した犯人を絶対に捕まえてほしいと頼まれ、それが彼の行動原理となっている。つまり妻に愛想を尽かされたダメ親父の奮起の物語の側面も持っているのだ。

メインの物語はこの早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。

高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。
そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。
梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。

そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。
以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。従って上の概要もどこで区切ったらいいのか解らないほど魅力的な謎がどんどん出てきて、ついつい長くなってしまった。

後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。
祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。

そして秋山梨乃と蒲生蒼太側が追いかける謎も殺人事件が解かれると共に蒲生要介によって明かされる。

あまりにスケールが大きすぎて読後の今でも消化できないでいる。

しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。

このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。
特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。

本書は特に年末に開催される各ランキングでは特段話題に上らなかったが、それが不思議でならないほどミステリの面白さが詰まった作品だ。
実際、『流星の絆』や『マスカレード・ホテル』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など『このミス』ランク外の東野作品の方が面白く感じる。恐らくはあまりに映像的なストーリーゆえに投票者がミーハーだと思われるのを避けて敢えて選ばなかった結果かもしれない。
本書もまたドラマにするのに最適な題材であるが、この面白さはもっと正当に評価されていいだろう。

印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。
大人になって謎が全て解かれて、ようやく彼女はそれまでの経緯を話す。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。

2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。
本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。


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夢幻花(むげんばな)
東野圭吾夢幻花 についてのレビュー
No.162:
(8pt)

あの頃のあの女性に思いを馳せて乾杯

マット・スカダーシリーズ17作目の本書はなんと時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。
幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。

AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。

マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。

かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。

今回の事件は禁酒者同士の集まりAAの集会で設定されている禁酒に向けての『十二のステップ』のうち、第八ステップの飲酒時代に自分が迷惑をかけたと思われる人物を書き出し、償いをする活動がカギとなっている。ジャックがその段階で挙げた人物たちに過去の謝罪と償いをしていたことからそのリストの5人が容疑者として浮かび上がる。

しかし彼らの中には犯人がいないという意外な展開を見せる。
さらに容疑者の1人の元故買屋マーク・サッテンスタインが殺され、ジャックの助言者グレッグも殺される。マットはジャックの部屋から第八ステップで書いたジャックの全文を見つけ、ジャックがかつて行った強盗殺人の顛末とそこに書かれたE・Sなる相棒の存在に気付く。

そしてマットも意外な形で真犯人の襲撃に遭う。ホテルの部屋に戻るとそこにバーボン、メーカーズマークの瓶とグラスが置かれ、さらにベッドのマットと枕に同じバーボンがぶち撒かれ、部屋中一帯にアルコールの臭いが充満していたのだ。
禁酒1年目を迎えようとする直前でマットはまたもアル中になるのかと恐怖に慄く。禁酒中のアル中を殺すのに刃物も銃もいらないのだ。ただそこに強い誘惑を放つアルコールがあればいいのだ。 本書の原題である“A Drop Of The Hard Stuff(強い酒の一滴)”だけでも十分なのだ。

しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか?
ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。

恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。
エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。

しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。
それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか?

そして忘れてならないのは『死者との誓い』で病で亡くなったジャンとの別れの物語だろう。
お互い幸せを感じながらもどこかで負担を感じつつある2人。暗黙の了解であった土曜日のデートが逆に自由を拘束されるように感じ、デートに行けない理由を並べだす。これといった理由もないが、どこかで2人で幸せに暮らす情景に疑問を持ち、避け合う2人の関係。
大人だからこそ割り切れない感情の揺れが交錯し、そして決別へと繋がる。どことなく別れたジャンとマットの関係をきちんと描くのもまたブロックがこのシリーズで残した忘れ物を読者に届けるために時代を遡って書いたのかもしれない。

2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。
私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。

物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくありふれた人捜し型私立探偵小説であろう。
しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。

そして物語に挟まれるマットが対峙した過去の事件のエピソード。そして最後のエピローグで本書の物語に登場した人物や店のその後がミックとの会話で語られる。それらのいくつかはシリーズでも語られた内容だ。
とりわけジャンの死は。

古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。

しかし私のマット・スカダーは終われない。『すべては死にゆく』を読んでいないからだ。
二見書房よ、ぜひとも文庫化してくれないか。私にケリをつけさせてくれ。


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償いの報酬 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック償いの報酬 についてのレビュー