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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数902

全902件 881~900 45/46ページ

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No.22:
(7pt)

もう記憶が曖昧で…。

実はこの話は『湾岸の敵』と混同しているような気がする。というのも『湾岸~』と同じく物語の舞台が艦内であり、しかも調べてみるとなんと『湾岸の敵』の前日譚だというではないか。これは全く記憶にない。ただ本作では『湾岸~』が灼熱の地アラブだったのに対し、今度は極寒の地。こういう極寒の地を舞台にした物語の例に洩れず、そのトーンは重苦しく、陰鬱だ。もともと暗い筆致の作者だけになおさら重く感じた。しかし『湾岸の敵』で上がったクオリティをそのままに本作も重厚かつ精緻な描写で、読ませる内容だった。

その後、本国アメリカでは“The Passage”という作品が刊行されたらしいが、訳出はされていない。どうやらとうとう打ち切られたようだ。あまり売れなかったのだろう。4作目にして最後の訳出本となってしまった。

氷海の嵐〈下〉 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー氷海の嵐 についてのレビュー
No.21:
(7pt)

水を得た魚のような筆致

初の上下巻でしかも確かそれぞれ400ページぐらいの厚さだったが、とにかく読み終わるのに何日もかかった記憶がある。元々このポイヤーという作家はこの手の軍事小説が得意だったらしく、『冬山の追撃』は彼にとっては異色作であったようだ。なぜなら本作ではさらに事細かに軍用艦の設備やら装備やら操船用語などの専門用語が頻出し、しかも相変わらず文字は見開き2ページが真っ黒になるほど埋め尽くされていた。
この題名は90年に起きた湾岸戦争を大いに意識しており、本作の中の敵もイラクである(刊行は96年)。当時のこういう軍事小説ではもはや湾岸戦争を語らずにはいられなかったといえよう。

軍用艦の乗組員のサブストーリーなども手を抜かずに書かれていたので、次第にページが多くなったと思う。とにかく前2作とは格段の進歩の出来であったことは記憶に残っている。専門分野を扱ったせいか、水を得た魚のようにディテールが細かくなるに連れ、人物造形も増してきた。確か本書だったと思うが、変わった書き方をしていた。それは三人称叙述ながらある人物の視点を中心に物語が進行するのだが、次の章になるとこれがまた他の登場人物の中心視点に変わるという書き方だった。これだけ聞くと、物語の視点が統一されずに読みにくいのではないかと思われるが、そうではなく、例えば、その人物がある部屋に入って誰かと話していたとしよう。そこに新たに入ってきた人物でその章が終る。そして次の章ではその新たに入ってきた人物の視点で物語が進行するといった具合に、案外場面展開がスムーズだったような記憶がある。またこれが他の人から見た当の人物の印象なども判り、なかなか面白い話運びだなと思った。この手法で物語が進行すると、脇役のキャラクターの心情にも踏み込むことになるから自然、それぞれの人物像にも厚みが出てくる。だから本作を読んだ時は、これからこの作家は伸びてくるのではと思わせる期待感をもたらしてくれたが、そうは簡単には行かなかったのだった。

湾岸の敵〈上〉 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー湾岸の敵 についてのレビュー
No.20:
(7pt)

1作目の反動?

懐疑的ながらもとりあえず読み続けることにしたポイヤー。2作目は極太の海洋小説。サルベージ業を営む主人公のところに、第二次大戦中に撃沈させられたUボートの回収の依頼が来るが、もちろんそれはただの依頼ではなく・・・というのがあらすじだ。
今では、といっても案外前になるが、映画、ドラマ化もされた『海猿』やマンガ『我が名は海師』や『トッキュー!』など、海で働く職業について描かれた作品も多くなったが、当時、その手の類いのマンガは皆無に等しかった。いやこれは視野の狭い私が知らなかっただけかもしれないが。ということで本書の主人公が営むサルベージ業というのも、最初はなんだか解らなかった。逆に本書でサルベージ業なる仕事が海での救助や引揚げ業であることを知った。とにかく見開き2ページを文字で埋め尽くされたこの作品。未知の世界の専門用語がどんどん出てきて理解するのに苦労した覚えがある。

しかしそれでもなかなか楽しめたように思う。1作目がアレだっただけに、これは案外読めた。案の定、引揚げるUボートには第二次大戦というどさくさに紛れたある物が積まれてあり、主人公はその争いに巻き込まれていく。第一、引揚げるものが当時ナチスのUボートだというから非常に安直な設定であるし、こういう系統の作品ではもはや王道というべき展開。
今では記憶も希薄となっているが、この本でスキューバ・ダイビングに関する知識や前述のサルベージ業に関する知識を浅いながらも知ったように思う。そういう意味では得る物はあったのではないかと思う。
こういうのを冒険小説って云うのだろうなと思いつつ、もしかしたらこういうのが好まれる作品なんだろうかと世間の書評が気になったが、さほど話題にはならなかった。しかし、案外面白く読めたので、この後も彼の作品を買い続けることにしたのだった。

ハッテラス・ブルー (創元ノヴェルズ)
No.19:
(7pt)

続編の文庫化求む!

この作品も創元推理文庫でなければ購入しなかった。しかもこの作品は当時文庫目録には載っていたものの、どこの書店に行ってもその書影を拝めることすら出来ず、やむを得ず、御取り寄せの注文をして、ようやく手に入れた本だった。まだインターネットがそれほど普及していなかった頃の時代である。
私は興味を持った物は全て集めないと気がすまない性質でこれは今でも変わっていない。書店から注文の品が届いた旨の連絡を受けた時は喜び勇んで本屋に向かい、手にした本を見てなぜ入手困難だったか納得したものだ。
昔の創元推理文庫の背表紙には男の顔、猫、銃などのシルエットを模したマークが付けられており、それがジャンルを示していたのだが、本書はその昔の装丁だったのだ。だから案外この本を持っている人は少ないんじゃないかと思っている。
したがって例によってこの笠原卓という作家の前知識を全く持たず、ブランドへの信頼とまたぞろ収集癖の虫が騒いだがための衝動的な出会いだったのだが、これが思いもよらぬ拾い物だった。

その題名が示すとおり、本書の骨子は詐欺師たちのコンゲーム小説なのだが、それだけではない。手形詐欺を巡る詐欺師達の饗宴ならぬ競演に加え、なんとこういうコンゲーム小説には似つかわしい密室殺人と、通常私達が思っている本格推理小説とは一味違った趣があったのを覚えている。学生の時に読んだので、正直に云って手形詐欺の手口の件は十分理解したとは云えないまでも、最後に明かされる主人公の本当の目的なども含め、尻尾までしっかりアンコが詰まった鯛焼きのような小説だったと記憶している。数年後、同じ作家の手による『仮面の祝祭2/3』という作品を読むのだが、そのときの印象は本書を読んだ印象と全く変わらなかった。非常に堅実な筆致で、展開は地味ながらも内容は実にアクロバティックで、ロジックに徹した作品で非常に好感が持てた。

ここでの評価は当時読んだ時の感慨を基にしている。前にも書いたように当時学生だった私は本書を十分理解できたわけではないために、このような評価に落ち着いた。その後、私も『ナニワ金融道』や『クロサギ』といった書物(マンガかよ!)や昨今の振込め詐欺に代表される様々な詐欺の実態を知り、以前読んだ時とは知識の量が違っているので、もっと評価は上がるかもしれない。本書はそういう意味では再読の必要がある作品だ。
ところで東京創元社はかなり昔に単行本で上梓した同氏の続編『詐欺師の紋章』を未だに文庫化していない。作品の出来はわからないが、ぜひとも文庫化してほしいものだ。2年前ならばドラマ化された『クロサギ』の煽りを受けて、ある程度の部数の販売が見込めたものを。いや相変わらず商売下手な出版社である。

詐欺師の饗宴 (創元推理文庫)
笠原卓詐欺師の饗宴 についてのレビュー
No.18:
(7pt)

横溝ファンは必読?

一連の創元推理文庫の日本人作家作品に入っていたのがこれ。まだ日本のミステリシーンに疎かった私は無論の事、この作家についてはなんら知らず、紀田氏同様、創元推理文庫だから大丈夫という先入観で購入した。
本書は「探偵の四季4部作」と名のついた、世に知られる有名探偵小説シリーズの本歌取り作品シリーズの第一弾である。で、題名から解るように本書では横溝正史の金田一シリーズがベースになっている。なんでもあとがきに書かれているように元々この作者は横溝ファンであり、自身のペンネーム「正吾」も横溝「正史」の「し」を数字の4と読み換えて、それに1つ足したのだと述べられている(だから読み方は「しょうご」ではなく「せいご」が正しい)。

そんな作品だから、正典である金田一シリーズを読んでいる方が作者の散りばめた横溝作品に纏わるガジェットなり、稚気なりを楽しめるだろう。私は当時も今も横溝作品には映像作品でしか触れた事はなく、したがってここに収められているパロディの数々はそれと気づかず、この作品における演出だと思っていた(「きちがいじゃが・・・」というのも横溝作品では有名なフレーズらしいが、未だに本歌のどこにどのようにして云われているのか知らない)。

しかしそれでも楽しめた。それは私が本作でのあるトリックを看破できたから、なおの事、楽しめたのを覚えている。冒頭に挿入された図面をじっくり見て、作者のトリックを見破ることが出来たあの瞬間を今なお最近の事のように覚えている。
が、もし今本作を読むと、上のような評価には至らないだろう。トリックはあるとはいえ、ミステリとしての出来については今では恐らく凡作の類いになるだろうと思われる。私がまだミステリ初心者だった頃に読んだからこその7点評価だと断言できる。

その後私は彼の作品が文庫化されるたびに買ってはいたが、あまり出来が良くなかったので辞めてしまった。元々寡作な作家であり、その後買った作品も2冊ぐらいだったし、それらを読む頃にはこなれたミステリ読者になっていたため、本作で気づかなかった粗が目に付いてしまった。現在このシリーズは3部まで出ているようだが、その評判はあまり聞かない。
本書は駆け出しミステリ読者だった頃の仇花として私の記憶に残る作品となった。

探偵の夏あるいは悪魔の子守唄 (創元推理文庫)
岩崎正吾探偵の夏あるいは悪魔の子守唄 についてのレビュー
No.17: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ビブリア古書堂シリーズの原型

『11枚のとらんぷ』が非常に面白かったので創元推理文庫は私にとって信頼のブランドとなった。したがってまたムラムラと読書の虫と収集欲が頭をもたげてきて、とりあえず当時出ていた創元推理文庫の日本人作家の作品を手当たり次第、手をつけることにした。
その頃の日本人作家の文庫は今と違ってさほど点数も少なく、だいたい一作家一作品ぐらいの冊数だったので比較的容易に揃えることが出来た。まず手にしたのが本作。\1,000近くもする分厚い文庫本に怯んだが、古本屋探偵という魅惑的なタイトルに惹かれて読むことにした。

本書はその名の通り、神田神保町で古本屋を営む主人公が、仕事の傍ら、顧客が求める古本を探す探偵業も行っており、古本に纏わる色んなエピソードがふんだんに盛り込まれた好作品集となっている。とにかく何事も収集家の世界というのは一種の狂気を孕んでいるが本もそれに洩れず、とにかくすごい話ばかりだ。古本で家庭崩壊した者、幻の古書を求めて、終いには気が狂ってしまった者、本の重みで家が倒壊してしまった者などなど、世の読書家には身につまされる話もあり、他人事と思えず、一歩間違えば、これは自分かも?と妙な親近感を抱いたりもする。しかもこれらのエピソードは実際のモデルや実話も少なからずあるというのだからまことに本の道は奥深い。
また博学の紀田氏によって織り込まれる稀少本の逸話も興味深い。本書で挙げられる探索本はミステリの類いは確か1冊もないのだが、それでも本好きならば興味を持たずにいられない魅力を備えており、一体どんな本なんだろう、一度見てみたいと思わずにいられない。そしてそれらの本の来歴なども紀田氏の含蓄ある説明で面白く読め、こういう未知の知識を得ることを至上の悦びとしている私にはご馳走以外何物でもなかった。

本書の主人公が経営する古本屋の名前は「書肆・蔵書一代」という。これは古書収集というのは家族の理解を得られることは絶対になく、その蔵書は一代限りであるというところから来ているが、まさしくこれは私にも当てはまるなぁと思った。私が自分の読書量を度外視して次々に本を買うのを呆れて家内が見ている風景が目に浮かんだ。また新聞を読むときに必ず死亡欄から読むという話も面白かった。そこにもし名の知れた古書収集家の名があれば、家族はその書物の処分に困るだろうからお悔やみを云いがてら、引取りの約束を取り付けるというのだ。いやあ、もうこれは収集家の性ですな。
他にもデパートでの古本市の内輪話や神保町の古書店組合内で開催される競りの模様など、古書に纏わることなら満遍なく盛り込まれた作品群に、お値段以上、本の厚み以上の満足感を得ることができた。これをきっかけに紀田氏の古本ミステリを私は買い続けることになる。

多分創元推理文庫で出ていなかったら、紀田順一郎という作家の作品も決して手にしなかっただろうし、またこのシリーズとも無縁だっただろう。島田氏から新本格作家と、新進の作家の方へ向けられていた私の目は創元推理文庫によって、ベテランの作家たちにもまだまだ面白い作品があることを知り、私のミステリ道はさらに深く深く潜っていくのであった。

古本屋探偵の事件簿 (創元推理文庫 (406‐1))
紀田順一郎古本屋探偵の事件簿 についてのレビュー
No.16:
(7pt)

あのサブキャラも捨てたもんぢゃない

『斜め屋敷の犯罪』で御手洗に翻弄される道化役の刑事を演じた牛越刑事が主役を務めるスピンオフ作品。あの牛越刑事が粘り強い捜査で犯人を突き止める社会派推理小説だ。読んだのは『火刑都市』の方が先だが、刊行されたのは本作のほうが先だったらしい。

道警の、札幌署に勤務する牛越刑事がトランクに入れられたバラバラ死体となった一家の父親の犯人探しに、出稼ぎ先の関東(確か千葉の銚子あたりだったように思う)まで赴き、地道に足で捜査を重ねる。私は先に御手洗シリーズを読んで随分経ってから本書を読んだが、『斜め屋敷の犯罪』での無能ぶりに牛越刑事なんかが主人公で大丈夫かいな?と思っていた。が、不器用で決してスマートといえないその捜査過程は実に我々凡人に近しい存在であり、極端に云えば読者のお父さんが素人張りに奮闘して捜査しているような親近感を抱いた。思わず頑張れ!と口に出して応援してしまう、そんなキャラクターだ。
先に読んだ『火刑都市』は物語が内包する島田氏の都市論、日本人論が犯人を代弁者にして色々考えさせられる重厚感があったが、本作はそれとはまた違った重みがある。特に本作で描かれる房総半島の淋しげな風景は私の千葉に対するイメージを180°覆す物であった。九州の田舎から就職して四国の田舎に住んだ身にとって、千葉のイメージとはディズニーリゾートや成田空港など、大都会東京の延長線上にある発展した県という意識が強かったが、本書にはその姿はなく、昭和の雰囲気を漂わせる重く苦しい風景だ。八代亜紀の演歌が聞こえてきそうな荒涼感さえ漂う。特に銚子は学生の地理の授業で習った醤油の名産地、漁業の発達した街というイメージが強く、栄えているのだと思っていたが、あにはからずそんな明るいムードは全くなかった。

トランクに詰められた死体というとやはり鮎川哲也氏の『黒いトランク』が思い浮かぶだろう。実は私は鮎川作品を読んだことないのだが、多分に島田氏は意識して書いたに違いない。思えばデビュー以来島田氏は何かと過去の偉大なる先達にオマージュを捧げるような同趣向の作品を書いている傾向が強い。本作もどうもその一環だと云ってもいいだろう。
で、ミステリとしてはどうかというと名作の誉れ高い『黒いトランク』のようには巷間の口に上るほどのものでもないというのが率直な感想。しかし牛越刑事の愚直なまでに直進的な捜査は読み応えがあり、その過程を楽しむだけでも読む価値はある。島田氏の登場人物が織り成す彼の作品世界を補完する意味でも読んで損はない作品だ。

死者が飲む水
島田荘司死者が飲む水 についてのレビュー
No.15: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

二度目の方が楽しめるかも。

本作は一風変わった小説である。4章で構成された作品だが、それぞれの章は全く独立した話(のように読める)。それぞれ島田氏特有の幻想的な謎が用意されており、主人公も違う。
まず第1章「丘の上」では東京の高級住宅街に住んでいるある主婦が隣りの老人の奇行に興味を抱く話。その老人は庭に出て大量の笹を集めたり、鏡で丘の上の家を照らしたりと奇妙な行動をしている。やがて主婦はそれは何か老人がただならぬことを企んでいるかと邪推しだすのだが・・・。
続く「化石の街」は新宿駅の地下に出没するピエロの話。そのピエロは街を徘徊しては怪しげな行動を繰り返している。やがてある男がそのピエロの行動に何か意図があるのではないかと思い、後を追ってみるが結局特別なことは起きなかった。しかし彼はその翌日に同じコースを辿る老紳士を発見し、声を掛けて、何をしているのかと訊くと「宝探しだ」という意味不明な答えが返ってきたのだった。
3章「乱歩の幻影」は実家が写真館である女性が昔現像を頼んだまま取りに来なかった客のフィルムを現像したところ、なんと江戸川乱歩その人の写真だったという、ミステリファンなら俄然興味が出るような展開を見せる。彼女はそのフィルムを持ち込んだ和装の女性に興味を抱く。
そして最終章「網走発遙かなり」は網走で起きた事件譚である。主人公の男性の父親はかつて有名な作家であったが、戦中北海道に疎開した時に、飲み屋の女性と懇意になり、道内を電車で旅行した際にその女性の恋敵に車内で射殺されてしまったのだ。しかし男性は当時の文芸誌に報じられた事件のあらましに腑に落ちないものを感じ、独自に捜査を始めるが・・・。

が、しかし本作に対する当時の私の評価は上で語るほど高くない。読書中、何度も「これ、長編だよな~?」と裏の紹介文を何度も読み返しながら半信半疑で読んでいた記憶がある。そんななんとなく腑に落ちない感じでの読書だったので、最後に全てが繋がるときに驚くというよりもなんだか狐につままれた感じがした。しかし前述したように短編のような各章は独立した作品としてもクオリティが高いのは断言できる。逆にそれがためにそれぞれの作品のベクトルが一定方向になく、個性の強さをお互いに発揮してしまった故に最後の纏まりとして統一感が欠けたように感じたのかもしれない。とはいえ、この感想は今になって云える事で、当時はやはり私自身が読者として未熟だったのだろうと素直に認めよう。


▼以下、ネタバレ感想
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網走発遙かなり 改訂完全版 (講談社文庫)
島田荘司網走発遥かなり についてのレビュー
No.14: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

島田流社会派ミステリ

東京各所で発生する連続放火事件を扱った本書は、それまでの作品でも顔を覗かせていた島田氏の都市論、日本人論が前面に押し出された島田版社会派推理小説だ。本作で主人公を務めるのが中村刑事。御手洗シリーズの短編「疾走する死者」で登場し、さらにもう1つのシリーズ、吉敷シリーズにも登場している刑事だ。御手洗シリーズに出ていた刑事が主人公を務めるのはこの他に『斜め屋敷の犯罪』に登場した牛越刑事の『死者が飲む水』があるが、両シリーズに跨って出ているのはこの人物だけだったのではないだろうか(後にある作品では御手洗シリーズのある人物と吉敷シリーズのある人物が邂逅するが、それはまた別として)?
とはいえ、この中村刑事は主役を務めるほど特徴的な人物かといえばそうではなく、むしろ人物としては地味。確か画家のようなベレー帽を被っているという叙述があったぐらいだと記憶している。したがってもちろん閃き型の天才型探偵ではなく、地道に靴底をすり減らして現場百遍を実践する努力型探偵だ。私は読んだことないが、クロフツのフレンチ警部シリーズのような人物像といえるのではないか。

さて物語はある警備員の焼死体発見から、彼が勤務中に睡眠薬を飲んでいたため、気づかずにそのまま焼け死んだという職務怠慢のレッテルを貼られた不名誉な死に対して、中村刑事が疑問を持ち、捜査するうちにある女性に行き当たり、その女性が鍵を握っていると判断し、その女性を追うという展開を見せる。そして東京各所で頻発する連続放火事件の捜査も同時並行的に行われる。
やがて浮かび上がってくる犯人の動機はどちらかといえば観念的である。ただこの常人に理解しがたい、一種狂気を感じさせる動機もこういう作風に妙にマッチしてあり、個人的には納得できた。
そしてこのような渋い社会問題を内包した作品であっても、島田氏はトリックを挿入することを忘れない。私はこういう社会派的な主題を掲げた作風にはこういった本格ど真ん中のトリックはミスマッチなのであまり好きではなく、この頃は特にその傾向が強かった。その後同氏の吉敷シリーズを読み続けていくうちに、その抵抗も少なくなり、むしろこれこそが島田社会派の味わいだと思うようになった。後に読んだ島田氏のエッセイの中に、大仰なトリックは今では忌避されがちだが、昔の社会派と呼ばれる松本清張氏や森村誠一氏の代表作にも大胆なトリックが使われていたのだ、だから何もおかしいことはないのだという文章を読んでから、島田氏が意図的にトリックを採用していることを知った。

さて本作で開陳される弱者へのまなざし、そして江戸と現在の東京を比較した都市論はその後島田氏の作品で頻繁に語られることになる。今まで島田氏が東京という大都会に対して持っていた不満をぶつけた最初の作品だと云っていいだろう。御手洗シリーズでは見ることのない、渋みの効いた語り口を体験するにはうってつけの好編だとお勧めする。


▼以下、ネタバレ感想
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改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)
島田荘司火刑都市 についてのレビュー
No.13: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

案外好きな作品ではあるが…。

さて歌野氏がシリーズ物を排して望んだノンシリーズ第1弾がこの『ガラス張りの誘拐』だ。本書の特徴はまず最初に第二の事件があって、第三の事件、そして最後に第一の事件が語られるという構成の妙にある。時系列に敢えて沿わずに進行する物語はそれ自体トリッキーであり、私は当時観た映画タランティーノの『パルプ・フィクション』を思い浮かべたものだ。
また語られる誘拐事件も犯人が警察を呼べとか、マスコミに知らせろなどと通常タブーとしていることを逆に被害者に強いるところがなかなかトリッキー。読者はその裏に隠された企みを推理しながら読み進めるがなかなか先が読めない。私もその一人だった。

一見何の関係もなさそうな事件が最後になって関連性を持って一つの事件になるというのは現在、連作短編集でよく使われている手法だが、あの手の作品にはちょっとこじつけというか強引さが目立つし、仕掛けが細かすぎて単に作者の自己満足に終っているきらいがないでもない。しかし本作では長編なのにそれぞれの章が独立している短編集のようだという全く逆の味わいがあり、私はこっちの方を好む。読了後私はすぐさま島田荘司氏の『網走発遥かなり』を思い浮かべた(あっ、そういえばこの作品の感想を書いていないや)。というよりも一読、これはこの作品へのオマージュに違いないと確信した。
逆に云えば、先にそちらを読んでいただけに本作における歌野氏の企みというか試みが二番煎じに感じてしまったのが非常に残念だ。『網走発~』と比べると、どうしても消化不良感が否めなかった。第ニ、第三の事件がもやもやとした形で括られることもあるし、なんだかやはりアイデアを支える技量が不足していると思った。

今までの感想にあったように私もどちらかといえば歌野氏を完成されていない作家として見ており、その成長を見守っているスタンスであるので、どうしても上から目線で批評してしまう姿勢が拭えなかった(これは今ではどうなのか解らない)。そのためもあり、彼の諸作については先達の作品の影がちらついて作品そのものへの正当なる評価が出来ていないように感じることがある。これは反省すべき点だと私も感じている。
さて私が歌野作品から遠ざかってかなりの年数が経ってしまった。そろそろ彼の作品に触れるべきかも知れない。あの頃と違って私もミステリを数こなし、作品ごとに作者の意図すること、行間に込めたメッセージ、テーマ性、そして当時の社会的背景などを考慮して論じることが、未成熟なりにも出来てきた。次の作品から一読者と一ミステリ作家として対等に取り組んで見ようと思う。

ガラス張りの誘拐 (角川文庫)
歌野晶午ガラス張りの誘拐 についてのレビュー
No.12: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

不遇の時代の力作

探偵信濃譲二を擁した「家」シリーズを書いていた歌野氏がいきなり書いたノンシリーズがこれ。とはいえ、本作の前に『ガラス張りの誘拐』という作品も出しているのだが、読んだ順番に沿って書くことにした。

さて本作では今までとガラリと作風を変えている。なんと主人公は江戸川乱歩と萩原朔太郎と実在の人物である。そして内容は乱歩が南紀白浜で出くわした首吊り事件の真相に二人が挑むという物だが、それだけではなく、それが実は乱歩の未発表原稿『白骨鬼』という作品であり、それが本物かどうかを探るという入れ子細工の作品になっている。

さて新本格世代でこのような作中作の意匠を凝らした作品といえば既に綾辻氏の『迷路館の殺人』があったが、歌野氏はこの趣向に乱歩の未発表原稿というさらなるハードルを設けている。単に作中の作品がミステリだけではなく、あたかも乱歩が書いた推理小説でなければならないのだ。今まで新本格デビュー作家1期生の中でも、技術の未熟さ、飛びぬけた作品がないことから、軽んじて見られていた傾向のある彼がいきなりこのような冒険に出たことは当時驚きであった。そしてその試みは成功していると断じていい。実際刊行当時、本書は世の書評家からも絶賛を受けた。なんせあの辛口推理作家佐野洋でさえ、本作を認める発言をしているくらいだ。これではすわ歌野氏もブレイクか!と期待が掛かったが、結局その年の『このミス』や週刊文春の年末ベストランキングには引っかからず仕舞いという結果に終る。
同時期にデビューした他の作家3人が『このミス』を筆頭に、年末の各種ランキング本に選出されるのに対し、歌野氏の作品はデビューして15年後、ようやく『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり『このミス』、週刊文春で1位を獲得し、ランクインする。その後も毎年とは云わないまでも数回ランクインしており、やっとミステリ作家として世間に認知されたような感がある。

前にも触れたが、他の3人に比べるといささか毛色の異なるこの作家がそれまで冷遇されていたように私は感じていたが、どうもそれは作者自身も感じていたようだ。そのようなコメントを『葉桜~』の頃のインタビューで触れている。そして本作は当時歌野氏がかなりの自信を持って世に問うた作品であったようで、これがダメならばミステリ作家を辞めるとまで思っていたらしい。実際彼はこの次の『さらわれたい女』という作品を出した後、長い沈黙に入る。
本書は歌野氏の夢破れた作品という位置づけであるが、上に述べたようにミステリ好きには堪らない趣向が詰まった作品である。ぜひ一度読んでもらいたいものだ。

そして読んだ人は私に教えて欲しい。本書の題名の意味するところを。

死体を買う男 (講談社文庫)
歌野晶午死体を買う男 についてのレビュー
No.11: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

トリックよりもストーリーよりも扱われている洋楽が最高!

前作がどうにも普通だったことを作者自身も反省してか、今作では探偵信濃譲二の死というセンセーショナルな題材を扱って、読者を煽っているのがいい。また劇団マスターストロークの公演に殺人事件が絡むあたりも、1作目のサークルバンド内で起こる殺人事件から発展させた趣向であり、工夫が見られるところも買える。
そして何よりも題名にある「動く家」が事件に絡んでいるところが前作と大いに違うところであり、しかもこの動く家の特徴を活かしたすれすれのトリックはこの手の細密なトリックが好きな人には面白く思えるものだろう。

しかしやはり惜しむらくはやはり作者の技術の未熟さがまだ見られ、登場人物が類型的であること。特に劇団という物語に膨らみをもたらす題材を扱いながらも、印象に残るキャラクターが一切いないのは痛い。ただ本作は冒頭で述べたように探偵信濃譲二の死を扱っており、それにより今まで地に足がついたように思えなかった彼に若干ながらキャラクターとしての特色が出たように思える(よく考えると後に作者の師匠島田氏が某作で同じようなトリックを使っている)。

1点の加点は非常に個人的な理由による。前2作を読んだ時点も判ることだが、歌野氏は自作に洋楽を絡めており、これが洋楽好きの私には少しばかりお気に入りだった。恐らくペンネームも作者自身が洋楽好きであったことに由来していると思われる。そして本作ではまず劇団の名前「マスターストローク」に琴線が響いた。これはもうQueenの2作目のアルバムに収録されている“The Fairy Feller’s Master-stroke(邦題「フェアリー・フェラーの神業」)”から取ったことは間違いない!なぜなら『白い家~』にはQueenの“Is This The World Created?”の歌詞が引用されていることからも、歌野氏がQueenファンであることは窺えるからだ。
また作中で扱われる歌が私の大ファンであるThe Policeの“Every Breath You Take(邦題「見つめていたい」)”だったこと、そして作中でこの歌に関する述懐が非常に的を得ており、私の心に響いたことが大きい。これのみで加点した。

とどのつまり、小説とはそういうものなのだと云える。読者も多種多様で作品のどこに惹かれるかは人それぞれだ。今までの歌野作品は無難にミステリし、無難に小説していた。だから印象に残らなかったのだ。こういうケレン味とまではならないが、サムシング・エルスを読者は求めているし、さらに云えば、感想も作品の出来・不出来だけに留まらずに話題が膨らむことも小説が内包すべき魅力だと考える。

あと非常に上から目線の意見で恐縮だが、未熟ながらも何とかしようという努力が見えるのが好ましい。今まで私も彼の作品に関しては酷評しているが、それなりに彼を買っているのだ。正直に云えば、それは彼を推薦した島田氏を信じていたからだと云える。我が尊敬する島田氏が見出したからには何か光る物があるに違いないからだと思ったからだ。一人の作家が成長し、世に認められるようになる、その過程を共に歩んでいるような気がした。いわゆる下積み時代のバンドやお笑い芸人をファンが育てている、それに似た気持ちで彼の諸作を買い続けているようなものだ。その後、数多の新本格ミステリ作家が現れては消えていったが彼は生き残り、幸いにしてそれは数年後、真実となった。
この後、信濃譲二シリーズは短編集が刊行されてからは新作が発表されていない。多分もう歌野氏はこの探偵を使わないだろう。私はその決断をよしとする。なぜならこの3作の後に読んだ作品の方が読ませるからだ。次からは私が読んだ歌野氏のノンシリーズの2作について触れたいと思う。

新装版 動く家の殺人 (講談社文庫)
歌野晶午動く家の殺人 についてのレビュー
No.10: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

期待しすぎました

実は大学生の頃に読んだのは『頼子のために』までで、その後別の作家に移った。これは単純にその頃出ていた彼の作品の文庫が『頼子のために』しかなかったからだ。本作を読んだのはかなり後で、数年経った頃。そして本作は『頼子のために』と『一の悲劇』と合わせて悲劇三部作という謳い文句でもあり、しかも先に書いた感想でも解るように、私の中では読後数年を経て、『頼子のために』の記憶は美化されていた。手にした時の期待感は推して量るべしだろう。

まず前知識としてあったのは「悩める探偵法月綸太郎」というキャッチフレーズだ。前作で「後期クイーン問題」に直面した法月氏(この場合、作者と作中登場人物両者を指す)は自らの存在意義を見出せず、苦悶する日々を送っている。シリーズでも最長を誇る本作は、実はこの悩みのためにほとんど進まないといっていい。本作の大半は法月氏の内部葛藤と答えの見えない問いに対する自問自答で覆いつくされている。確か精神錯乱者の書いたような内容が暴走している章もあったように記憶している。

この悩みのため、実は事件そのものに関する記憶が希薄。刺された被害者であったアイドル歌手が失神から回復すると無傷であり、刺した加害者が逆に刺殺体となって横たわっていたというパラドクシカルな発端だったが、結局どんな真相だったのか覚えていない。しかしもしこれを今読むと評価はもっと下がるのは確実だろう。『頼子のために』でも最後に探偵法月が犯人に下した所業について不評の声が上がっているのを目にしたが、本作でも法月警視が行った行為は一警察官とは思えぬ乱暴な行動を取っている。あいにくこの辺については当時全く考慮が届かず、そのまま読み飛ばしてしまったが、もしかなりミステリをこなした今ならば、その時点でもうこの物語を受け入れられないことは間違いない。だからあえて本書は再読しないようにしておこう。ついでに美しい読後感保持のためにも『頼子のために』も同様である。

結局延々と繰り返される法月氏自身の問題は結局答えは出ず、これはなんと『生首に聞いてみろ』が出るまで続いた。そしてどうやら『生首~』では、吹っ切れたように悩める法月の影はなく、淡々と探偵の役割を果たしているようだ(未読なので以上の話は各種の書評から受け取った私の印象)。

調べてびっくりしたのは、本作はなんと絶版になっているらしい。法月綸太郎といえばけっこうネームヴァリューもあると思うのだが、絶版になったりするんだなぁ。これはやはり上に書いた警察官とは思えぬ法月警視の行動によるところが大きいのだろうか。
本作で一応私が読んだ法月作品の感想は全て挙げた。振り返ると大した事書いてないなぁと思わざるを得ない。でもこれはこれでよしとしよう。

ふたたび赤い悪夢 (講談社文庫)
法月綸太郎ふたたび赤い悪夢 についてのレビュー
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(7pt)

こんな高校生いるか!と当時は思ったものだが…。

法月綸太郎と云えば、クイーン同様、作者と同名の名探偵が活躍(?)する法月綸太郎シリーズが有名だが、デビュー作はノンシリーズの学園ミステリである本作である。本作についてはその後ノーカット版が刊行されたようだがそちらは未読。
まず開巻一番に驚くのは目次に書かれた章題の多さ。確か60くらいあったように思う。綾辻氏の作品を読んでから、新本格ミステリ作家はそれぞれこだわりがあるのだろうと思っていたがこんなところにこだわりがあるのかとちょっと引いた記憶がある。それらの章題もハードボイルド的でなんだかキザな感じを受けた。
中身を読むと確かにキザだ。登場人物全てがなんだか精神年齢が少し高く、自分が高校生の時と比べると老成しているように感じた。しかしどこか青臭さ、高校生特有の全てを悟ったように物事を斜めに見るようなヒネた物の云いようは確かに高校生らしくもあるが、身近にこんな輩が居たら、かならず喧嘩を売っていたに違いない。

さて本書では島田氏が御手洗シリーズで本家シャーロック・ホームズを非難したのと同様に、本書でも法月氏が信奉するクイーンを非難する場面が現れる。それは主人公の担任の口からクイーンの『チャイナ橙の秘密』について痛烈な感想が開陳されるのだが、これを読んだ私はこの件を思い出して、思わず頷いてしまった。「まさになんなんだ、あれは」の作品だったからだ。この辺について語ると脱線してしまうので、ここら辺で止めておこう。

さて本書では教室から出された机と椅子の謎。血まみれの教室、密室の謎などが1人の高校生によって暴かれる。名探偵気取りの主人公(工藤くんだったかな?)がクラスメイトに訊き込みをし、教師と警察の睨みを交わしつつ、真相に肉薄していく(警察いたよな、確か)。
学園ミステリは私は好きなのだが、本作はあまり好きではない。不思議にこの作品を読んで私の高校生活を思い出すことが無かったからだ。初期の東野作品に活写される高校生活、有栖川有栖氏の大学シリーズの大学サークルの描写などノスタルジーに駆られることしばしばだが、本作にはどこか別の国の高校のような気がして、いまいちのめり込めなかった。多分その理由の大半は私が全く主人公に感情移入できなかったことによるだろう。
しかし読んだ当初はあまりこの作品から汲み取れる物は無いと思ったが、あの真相は高校生が読むと案外ショックなのかもしれない。高校生が気づく信頼関係が崩壊する衝撃があると今になって思うのだが、高校生諸君は一体どういう風に思うのだろうか。いつか意見を聞きたいものである。

密閉教室 (講談社文庫)
法月綸太郎密閉教室 についてのレビュー
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(7pt)

2作目のジンクス?

『十角館~』で俄然綾辻氏の次の作品への渇望感を感じた私は間髪入れずに本作へ手を伸ばした。いきなり始まる車椅子に乗った仮面の男と美少女という横溝的な設定は、1作目で綾辻氏の、本格ミステリのもっともディープな部分を好む性癖を知っていたので、今回は抵抗無くすんなりを物語世界に入っていけた。

結論を云えば、本作は水準作と云えるだろう。『十角館~』と比べると、などといった枕詞は必要なく、客観的にミステリの一作品として見た正当な評価である。なにしろ私には珍しく物語り半ばで犯人とトリックが解ってしまったので、その後の展開が犯人側の視点で読めた。物語を裏側から眺めるように読めたのは本作ぐらいだった。
しかし本書では異端の建築家中村青司を意識してか、本書の水車館は前作の十角館よりもなかなかにデザインが凝っている。十角館が案外にコテージとあまり変わらない建物だったのに対し、この水車館は城郭のような形をしており、ドラクエに出てきたようなどっかの国の城のようなデザインである。この狭い日本ではこれほど建ぺい率の低そうな個人の屋敷もないなぁと思うような非常に贅沢なつくりである。

かてて加えて、前作が孤島と本土の距離的な断絶、つまり彼岸と此岸で語られていたのに対し、本作では過去と現在という時間の隔離があるのが特徴。そしてその2つの間では微妙に叙述表現が変わっているが、これももちろん真相に大いに関わってくる。
さらに幻視家という特異な職業は(まあ画家の一種なのだが)、当時大学生の私の心を大いにくすぐり、その印象的なエンディングをそのまま使ってクイズを作ったくらいだった。
しかし本書の水車館はミステリとしての出来は普通であり、また水車という屋敷に備えられた印象的なオブジェがトリックにほとんど寄与していないというのが不満。
しかしこの不満は次作『迷路館の殺人』で一気に解消されるようになる。

水車館の殺人 (講談社文庫)
綾辻行人水車館の殺人 についてのレビュー
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(7pt)

御手洗初体験の短編集でした

本書が私の実質的島田作品初体験の作品である。それは私が大学1年の時だった。確かある月曜日の社会学の講義の際にいつもつるんでいた友達のうち、O君が読んでいた本がこの作品だった。なにげに「何、それ?面白いの?」と聞いたところ、「読んでみる?俺もう読んでるからいいよ」と云って貸してくれた。
その授業は本書の最初の1編「数字錠」を読むことに変ってしまった。

結論を云えば、なかなか面白かったというのが本音。それよりも文章の読み易さにびっくりした記憶がある。先にも書いたが、当時私は久々に読む推理小説にブラウン神父シリーズを読んでおり、その読み難い文章に「こんなもんなんだろう」と思いつつ、難解な文章を読み解くことがあえて読書の愉悦をもたらすのだ、と思っていたが、本書を読んでから、実はそれがとんでもない間違いだと気づいた。御手洗と石岡が依頼を受けて捜査するその過程は臨場感があり、云ったことのない東京や横浜の街並みも、異国の風景描写より遥かに理解しやすかった。
その90分の授業で読み終わったのはこの1編のみ。「面白かった!」といって返しそうとしたら、貸してくれるというので遠慮なく借りることにした。思えばこの時既に彼の策略にはまっていたのだ。

で、本作の感想は上の評価の通り。普通に面白いといったところ。一般的に評価の高い「数字錠」だが、私はあまりそれほど感銘を受けなかった。後で御手洗シリーズに没頭しだして、この作品以降、御手洗がコーヒーを飲まなくなったのを改めて知った。

私にとって本書の目玉は2編目の「疾走する死者」である。これはもう御手洗の演奏シーンの素晴らしさに大いに魅了されてしまった。文字で書かれた演奏シーンから超絶技巧のギタープレイが奏でる爆音が、流麗なフレーズが聴こえてくる思いがした。いや実際頭の中では音楽が駆け巡っていた。この作品での御手洗のカッコよさは随一である。
満足の体で読了した私は本を返す際に「他にもない?」と訊いたのは云うまでもない。そしてそのとき既にO君の手には『占星術殺人事件』の文庫が握られていたのだった。

御手洗潔の挨拶 (講談社文庫)
島田荘司御手洗潔の挨拶 についてのレビュー
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(7pt)

シリーズ物として読むべき1冊

さて『占星術殺人事件』で颯爽と登場した御手洗潔だが、第2作目の本書は本格ミステリの王道とも云うべき館物だ。そして奇想島田氏はやはり普通の館では勝負を仕掛けない。タイトルにあるように全体が斜めに傾いだように建てられた斜め屋敷なのだ。この斜め屋敷、その特異な建てられ方故に滞在する人は遠近感がとりにくいという錯覚を覚える。よく遊園地などにあるびっくり舘と名づけられたアトラクション内で見られる、同一線上に立った大人と子供の背の高さが逆転するというあれだ。そんな話が本作には盛り込まれているのだが、実はそれこそ島田氏のミスリード。この館が建てられた目的こそ、ここで起きる殺人事件の真相に大いに関わっているのだが、これがもう唖然とする。常人であれば理解できない目的だ。この真相ゆえに「世紀のバカミス」とまで云われているが、この評価は致し方あるまい。恐るべき執念というよりも金持ちの道楽としか・・・おっとこれ以上はネタバレになるのでよそう。

本書に関する評価は案外高いが、私はこれに首を傾げてしまう。確かにこのトリックは読者の想像を超える物だが、ミステリとしてどうかと問われれば、佳作かなぁと思う。あの『占星術殺人事件』に続く2作目として発表された御手洗物という称号がどうしても付き纏う本書は、前作と比べざるを得ない運命にある。それと比べるとなんだか普通に物語は流れ、結末までミステリの定型を保って進行する。物語としての熱が前作に比すると減じているように感じるのだ。確かに誰しも初めての小説というのは今後の人生を大きく変える分岐点と成り得る可能性を秘めているのだから、自然、気迫がこもるのも無理はないだろう。しかし作家には1作目よりも2作、3作目としり上がりによくなる作家もいるわけで、そういったことを考えれば、この作品はもう少し推敲すべきではなかったかと思う。しかしこれは単なる私の個人的な嗜好によるものなのだろう。過去何度も行われたオールタイムベストでも100位以内に本書は選ばれているのだから。

あと、意外に他者の感想で語られないのは本書の文体。前作が通常の物語の文章に加え、冒頭のアゾート製作の手記、そして最後の犯人の告白文と複数の文体を駆使していたのに比べ、本作はなんだか文章が幼いような印象を受けた。小学校の教科書で読むような物語の文体、極端に云えばそんな感じだ。しかしネットで色々な感想を読んでもそのことには触れられていないので、もしかしたらこれも単純に私の嗜好によるものなのかもしれない。
本書でも犯人や塔の模様の謎(これは簡単だったね)は解ったものの、トリックは解らなかった。ただ本格ミステリでは真相が明かされた時に読者が感じる思いは概ね4種類に分かれると思う。

1番目はそのロジック、トリックの素晴らしさに感嘆する物。これこそが本格ミステリの醍醐味である。
2番目は解らなかったものの、特段感銘を受けなく、なるほどねのレベルで終わる物。ほとんどこのミステリが多い。
3番目は解らなかったものの、なんだこりゃ?と呆気に取られるもの。バカミスと呼ばれる作品がこれには多い。
4番目は真相が読者の推理どおりだったもの。これもまた作者との頭脳ゲームに勝利したというカタルシスが得られる。

で、本作はこの4分類のうち、3番目に当てはまる。しかしギリギリ許容範囲かなと思えるのが救いだ。実際本当にこのトリックが成り立つのか一度実験したいとは思うが。特に天狗・・・おっとヤバイヤバイ。
しかし雪上での殺人や屋敷の中での密室殺人など、好きな人には堪らない作品だと思う。また本作は後々のことも含めて、御手洗シリーズで読んでおいた方がいい作品ではある。その理由はここではあえて云わないでおこう。

改訂完全版 斜め屋敷の犯罪 (講談社文庫)
島田荘司斜め屋敷の犯罪 についてのレビュー
No.5:
(8pt)

魅力的な逆説集

『詩人と狂人たち』の出来栄えに失望した私は本作に関してはチェスタトンコンプリート達成(当時出版されていた分に関して)のための一里塚として惰性的に本書を手にしたのだが、これが当たりだった。
先に書いたようにブラウン神父シリーズでもチェスタトンが得意とする逆説を利用した短編は数多く収録されていたが、本書はその名の通り、逆説ばかりを集めたミステリ短編集である。
ブラウン神父シリーズの時に若干この逆説に慣れというか、飽きにも似た感慨を抱いていたが、そんなときでもこの短編集に収録されている逆説は斬新さに溢れた煌めきがあった。
どんな逆説か以下に挙げてみよう。

「三人の騎士」:死刑執行の中止を伝える伝令が途中で死んでしまったために、囚人は釈放された。
「博士の意見が一致すると・・・」:二人の男が完全に意見が一致したために、一人がもう一方を殺した。
「道化師ポンド」:赤い鉛筆だったから、黒々と書けた。
「名指せない名前」:国民から好かれていた思想家は政府から忌み嫌われていたが追放されなかった。
「愛の指輪」:ガーガン大尉は誠実な人がゆえに、不必要な嘘をつく。
「恐るべきロメオ」:明らかにその人だと思われる影法師ほど見間違えやすい物はない。
「目立たないのっぽ」:背が高すぎるために目立たない。

と、ちょっと読んだだけでは???と首を傾げる逆説ばかりだが、これらの逆説がポンド氏によって非常に合理的に解説される。
中にはその逆説が成立する状況を想定しやすいものもあるが、そのほとんどは謎という魅力に満ちている。特に1編目の「三人の騎士」は「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打ってしまった。そしてこの1篇で私はこの逆説ミステリ集に取り込まれてしまった。
そして本書は最後に読んだだけあって、私の中でチェスタトンの評価を決定付けた作品集とも云える。最後が『詩人と狂人たち』だったら、今もこれほどにチェスタトンという名前は私の中に深く刻まれていたか、微妙ではある(でも『~童心』があるから、チェスタトンはやはり忘れられない作家ではあっただろうけど)。

現在この作品は絶版だが、この作品と『奇商クラブ』はぜひとも復刊して、多くの人に読んで欲しい短編集だ。
光文社が『木曜日だった男』みたいに古典新訳文庫で上梓してくれると一番いいのだが。

ポンド氏の逆説【新訳版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンポンド氏の逆説 についてのレビュー
No.4: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

最終短編集でも掘り出し物アリ

センセーショナルな題名が付けられたシリーズ最終巻。
さて本作では今までの短編集では2、3編の割合で収録されていた思い込みを逆手に取ったチェスタトンならではの逆説を取り扱った作品が数多く収録されている。
未読の方に先入観を与えて読書の興を殺ぐことを避けるために、あえて具体的な題名は挙げないが、収録作8編中5編と約6割をこの趣向の作品が占める。
これほど連続すればさすがに食傷気味と云いたくなるが、それでもまだ名作といえる作品がある。

その本を開いた者は神隠しに遭い、消失してしまうという呪いの古書。そしてその言い伝えどおりに本を開いた者が次々と消えていくという抜群に魅力的な謎を扱った「古書の呪い」は人間消失のトリックとチェスタトンの逆説が見事に融合した傑作だ。

その他白眉な作品として「とけない問題」を挙げる。世界でも有名な箱が修道院にやってくる。しかしそれを有名な盗賊が狙っているので助けて欲しいと請われたブラウン神父とフランボウは修道院に向かうがその最中に祖父が死んだので助けて欲しいという婦人から連絡が入り、その家に立ち寄ることに。そこでは既に祖父と思しき老人は木から首を吊って死んでおり、しかも体には剣が刺さっていた。さらに木の周辺にはその老人の物と思える手足の跡が散乱していた。この不可解な事件をブラウン神父が見事真相を突き止めるという話だが、これはある意味、推理小説の定型を打ち破った作品といえるだろう。

シリーズを読み通した者の性なのか、2作目の『~知恵』以降、事あるごとにクオリティが下がっているという言を連発しているが、それはやはり最初に『~童心』を読んでしまったからだろう。やはり第1作は傑作すぎた。もしこのシリーズを未読の方が取っ掛かりとしてこの第5作目から手に取ったならば、恐らく面白いと思うだろう。今になって思えば、チェスタトンはクオリティは保っていたのだ。ただ私は常に『~童心』クラスを求めてしまっていた。それだけのことだ。

さてこのブラウン神父シリーズ全5集を読むことで私の中で“チェスタトン”という1つのジャンルが出来てしまった。それはミステリを読む書評家も同様で、奇妙な論理、逆説が導入された作品を読むと「チェスタトン風」という枕詞が挿入されることからも明らかだろう。
この後、私はチェスタトンを追いかけることを決め、当事絶版本だったブラウン神父シリーズ以外の作品を求める長い逍遥が始まるのである。

ブラウン神父の醜聞【新版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンブラウン神父の醜聞 についてのレビュー
No.3:
(7pt)

ブラウン神父の推理方法が解ります

本作はまず「ブラウン神父の秘密」という短編で幕を開け、最後に「フランボウの秘密」という短編で閉幕する。内容的には神父が自身の推理方法について語り、その実施例として神父が解決した9つの事件が語られるという構成になっている。アルバムでいうところのコンセプト・アルバムのような内容になっている。神父の推理方法については後で述べることにしよう。

さて本作は第4短編集ということもあり、寛容に捉えてもネタ切れの感があると当時は思っていた。例えば、「大法律家の鏡」はもろ「通路の人影」の別ヴァージョンと云える作品だ。作者が得意とする思い込みを利用した逆説を用いた作品(「顎ひげが二つある男」、「マーン城の喪主」)もあり、連続して読んだ身としては小粒感は否めなかった。強いて挙げるとすれば「世の中で一番重い罪」と「マーン城の喪主」が一つ抜きん出いるだろうかというくらいで、それも『~童心』に入っていれば普通くらいの出来だと感じていた。
しかし今回諸作について内容を調べてみると、学生当時に読んだ印象とはまた違った印象を持つ作品もあった。特に「メルーの赤い月」で開陳される山岳導師なる隠者の特殊な心理は、海外で暮らすようになった今では理解できるが、当時はまだ海外はまだしも社会人にもなっていない頃だったので、何なんだこれは!と激昂したに違いない。
また本作には後の黄金期のミステリ作家、特にカーに影響を与えたと思しき作品も見られる。中でも「顎ひげの二つある男」のシチュエーションはあの作品を、「マーン城の喪主」のトリックはあの作品と思い当たる物がある。

しかし本書の注目すべき点は冒頭にも述べたブラウン神父の推理方法だ。彼は自分こそが犯人だという。それは彼が推理する時は自分も犯人になって考えるからだ。彼が犯人だったらこうするだろうと犯人の心理と同化することで事件の真相を見抜くと告げる。
なんとこれは現代の犯罪捜査でいうところのプロファイリングに他ならないではないか。本作が出版された1926年の時点で既にチェスタトンはこの特殊な犯罪捜査方法について言及していることが驚きである。勘繰れば、このチェスタトンの推理方法からプロファイリングが生まれたようにも考えられる。

小学校の時、児童版の名探偵シリーズでお目見えした時は、単に人物が神父というだけで、ホームズやミス・マープルその他と変らないという印象でしかなかったが、本作で神父の推理方法が明かされるに至り、その印象はガラリと変ってブラウン神父という探偵の特異性が見えた。神父ゆえの宗教的観点からの謎解きだけでなく、犯罪者の心理と同化するブラウン神父の推理は全く以って他の探偵とは一線を画するものだ。
確かに各編のクオリティは落ちている(それでも水準はクリアしているが、こっちの期待値が大きいばかりについついこのような云い方になってしまう)が、本作はこの、正に“ブラウン神父の秘密”が判るだけでも意義が高い。

ブラウン神父の秘密【新版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンブラウン神父の秘密 についてのレビュー