■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
7編の水をテーマにした連作短編ホラー集。神奈川県に住む老婆が孫娘に朝の散歩時に一週間お話をするという構成になっている。
まず「浮遊する水」はかつて角川ホラー文庫で編まれたホラーアンソロジーで読んでいたもの。夫との離婚を機に港区の埋立地に建てられたマンションに引っ越した母子家庭の一家が出くわす怪異譚。 埋立地、水道水といったじっとりしたイメージを喚起する文体は、粘っこさを感じさせる。これを読んだ後は社宅の水を飲むのが嫌になったくらいのおぞましさを感じた。切れ味素晴らしい短編。 続く「孤島」からは全て初読。大学時代の友人が第六台場という都会の無人島に女を捨てたという。その友人は夭折し、数年後、理科の教師となった主人公がひょんなことから第六台場の調査に参加する事に。そしてそこで出くわした物とは・・・というお話。 物語は読者の予想通りの展開を見せるが、東京のど真ん中、しかもお台場という地にある無人島を舞台にこういう物語を紡ぐという発想を買う。なんとも云い難い読後感を残す。 「穴ぐら」はあなご漁で生計を立てている漁師の妻が朝起きると失踪したという話。散歩がてら妻を捜すが見当たらない。戻っているかもと思い、家に帰ってみるがやはりいなかった。昨夜は酔っ払って早々に寝たはずだが、記憶が定かではなかった稲垣はその日はそのまま寝て、翌朝漁に出発した。 「浮遊する水」の変奏曲のような作。母子家庭から父子家庭(この場合は妻が失踪して一時的に父子家庭になったというものだが)という構成も似ている。しかしここで最も気になったのが主人公の稲垣裕之は幼い頃に親から暴力を受け育った男で、親となった今、同じことを子供にしているという点。暴力は遺伝すると昨今問題になっているものだ。そしてこれは自分にも思い当たる節があるだけに、いっそう印象に残った。 「夢の島クルーズ」は主人公が高校のOB会で知り合った男に誘われ、ヨットで東京湾クルーズに行ったことから物語は始まる。よくあるマルチ商法の勧誘だったことが解り、うんざりした主人公は夫妻の話に取り合わず、夢の島マリーナへの到着を今か今かと待ちわびていた。だがマリーナまで数キロというところでヨットがいきなり止まってしまう。スクリューを見ると、子供の靴が片方絡まっていた。それを除けてみたが、やはり動かない。キールに何か絡まっているのだろうと判断したオーナーは潜って取り除く事に。しかし浮上した男は顔面蒼白で、溺れかけていた。 都市伝説ホラー。ぶつっと切れるような形で物語は終えるが、ちょっとベタな感じ。それよりも知り合いに誘われてヨットのクルーズに参加か・・・。自分にも同様の経験があるだけに、主人公の心理が痛いように解った。 「漂流船」はなんと長編『光射す海』で登場した第七若潮丸、しかもあの主人公の一人真木洋一が参加していた漁の後日譚である。あの作品はホラー味はなく、一人の女性の正体を探るミステリだったが、これは古来からある海洋ホラーとなっている。 漁を終え、日本への帰路に出くわした一台のクルーザー。中には誰もいない。結局海保との相談で漁船が曳航することに。乗り込んだ機関士白石が遭遇したものとは? 作中でも書かれているがかの有名なマリー・セレスト号事件をモチーフにしている。しかしこれは純然たるホラー。怪異の正体がわかるまでは日誌の内容などぞくぞくすることしきりだったが、正体が解ると意外に陳腐な印象。 次の「ウォーター・カラー」は問題作。気鋭の小劇団がかつてバブル時代に活況を呈した複数階で構成されたディスコの跡地を利用しての公演中に水漏れというアクシデントに見舞われる。古参の劇団員で、演出家との意見の食い違いから直前になって役を降ろされた神谷が原因を突き止めにいくことに。 廃屋となったディスコの跡地のトイレ一面に流れる水、排水口に大量に詰まった色とりどりの髪の毛、と古来からホラーに欠かせないモチーフを使い、実際ドキドキしながら読んだのだが、最後のオチに愕然。これはちょっと奇を衒いすぎたといわざるを得ない。明かされる真相はホラーという読者の予想を裏切り、超えるものであるが、これをいい意味か悪い意味で裏切ったのかは読者によるだろう。 私は悪い意味でとった。 ラストの「海に沈む森」は感動の一編。洞窟探検を趣味している主人公が多摩川の源流を友人と遡るうちに前人未到と思われる洞窟を発見する。すでに結婚し、子供もいる主人公は人生守りに入り、躊躇うが友人にそそのかされ、入ることに。そして・・・という展開的には予想通りとなるのだが、そこからが素晴らしい。時代設定を1975年とし、そこから主人公が手紙を認め、放流する。そして20年後、成長した息子が訪れるといった展開を見せる。父と子の血の絆を感じさせる力強い一編だ。 そして語り部として設定されている老婆もこの手紙が実は老婆の生きる源となっているというのが最後になって解る。 この7編で舞台となるのは東京一円だ。港区の埋立地、第六台場、富津岬、東京湾に、鳥島周辺―ここも確かに東京だ―、芝浦運河沿岸に立つ雑居ビル、そして多摩川の源流。ほとんどが東京圏に住む読者ならば目にする、訪れている、もしくは行こうと思えば行ける場所だ。つまり作者は読者のすぐそばに怪奇は潜んでいると告げている。 そして全編を通して語られる水もホラーの要素としては欠かせないものだ。水の雫の落ちる音から、人智の及ばない海や未開の地下水まで様々だ。恐らくこれは作者自身が水と密接に関わっていることに起因するのだろう。特に漁、クルーズといった航海に関するものが多い。これは『光射す海』でも使われていたマグロ漁を作者自身が経験することで得た知識であり、自然そちらへ題材を取ることが多くなったのだろう。 ただ残念なのは、この短編が今までの長編に見られた題材のアレンジでしかないこと。漁やクルーズなど船に纏わる話、鍾乳洞探検、そして劇団の話などは『楽園』、『光射す海』の作品を物するのに取材した、もしくは自身で体験したものだろう。 しかし4作目にして、似たような印象を受けるのは意外と作者の引き出しが少ないのではないかと危惧してしまう。確かに読ませるが、初めてこの短編を読むならば、また印象は違っただろうが、続けて作者の作品を読んでいる身にしてみれば、またこの話か、と思ってしまうのは否めない。 次作の題材が新しいことに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
いわゆる新本格ミステリ作家と一線を画したその特異な作風で巷間を賑わせているこの作家。予てより興味があったが、ようやくデビュー作である本作に着手できた。
一読した直後の感想としては、なんとも云えない感慨が押し寄せている。島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を読んだ直後のよう、といえば判ってもらえるだろうか。 まず木更津悠也とメルカトル鮎という二人の探偵が同一の事件を扱う、この趣向が彼がデビューするまでの新本格一連の作品になかった趣向だ。今まで探偵の相手といえば、犯人を除き、警察であったが、ここにこの作品の斬新さがある(実は他にもあったのかもしれない。私が寡聞にして知らないだけで)。 そしてキリスト教、正しくはギリシア正教に彩られたペダントリーは小栗虫太郎氏の作風を思わせる。この作風・文章については後に述べよう。 そしてこの二人の探偵の間で繰り広げられる事件の解明が、何層にも入り組んだ真相を一枚一枚剥がすように明らかにされていく。そして最後には第3の探偵によって全てが明らかにされる。しかしそれは真犯人と探偵との間の秘密として闇に葬り去られるのだが。 この小説を読むのに、読者は予備知識を要求される。それは海外古典ミステリを読んでいることだ。でないとこの作品に散りばめられたペダントリー、特に連続殺人に込められたミッシング・リンクの妙は愉しみが半減するだろう。そしてこの一種ミステリマニアのための真相もエピローグにてある兆しがあったことを明かされる。 先に読後は島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を想起させると書いたが、これは真の真相の手前に明かされる真相にものすごい魅力があったからだ。これは前代未聞の密室の解明とも云える空前絶後の真相だろう。 死者が甦る世界で死人を出すことの必然性を解いた山口雅也氏の『生ける屍の死』のロジックを遥かに凌駕する真相だ。しかし、作者はこれをいとも簡単に切り捨ててしまう。そんなこと、あるわけないだろ!と自嘲するかのように。 しかし、この驚天動地の真相を覆す最後の真犯人は不要だろう。 というのもここに来て逆に不可能性が増してしまったからだ。 そして麻耶氏はそれについて一切言及しないのだ。 犯人を設定して、意外なミッシングリンクを創案して、連続猟奇殺人で和えて密室事件をトッピングし、瑕となる現実味には触れず、適当に流しました、そんな感じで作られたようですわりの悪さを覚えた。 読者はミステリに何を求めるのだろう? 整然としたロジックの美しさ、驚愕の結末、まだ読んだ事のない未曾有の真相・・・。 この作品に関して云えば、表の真相とされるこの密室の真相こそがまさに未曾有の真相であり、私個人的にはこれが非常に面白かった。だからこそ評価は☆1つ減点なのである。 そしてサブタイトルにあるように本事件は探偵メルカトル鮎の最後の事件である。 謎めいた探偵を出しておき、シリーズが進むごとにその謎に包まれたヴェールを徐々に剥がしていくのがシリーズ物の常套だが、この作者はそれをデビュー作にして見事ひっくり返している。なんとも大胆不敵な趣向である。 そしてこの作家がかつて本格ミステリにおいてタブーとされていたことにあえて触れていることからも本格ミステリの可能性を更に開かんと意欲的・実験的であるとも云える。ネタバレになるのでどのタブーに触れたかどうかは云えないが、裏返せばこの作家が若くして本格ミステリに精通していることの証左となっている。 あと若干21歳のデビューに関して各所で驚愕と云われているが、どこに関してだろうか? トリック?プロット?文章? 確かにトリック、プロットに関しては驚きはあるだろうがペダントリーに彩られた文章に関して云えば、頭だけで考えて作られた文章の域を脱しておらず、社会に出て触れるであろう、一般常識的な表現が欠如している。 つまりこの作者が十分衒学的であるのは認めるが、使い方が誤っているのに自覚的でない。単純に叙述すればいいところを敢えて普通に使わない単語を使用して、深みを持たせようとしているが、逆に知識の浅はかさを露見している。そしてこういう文章は21歳だからこそ書ける文章であって、逆に成熟すると恥ずかしくて書けない文章だ。実際私がそうだった。こんな持って回ったあらゆる知識を動員し、通常の表現に改革をもたらさんと一人気張って、勘違いの文章をばら撒いていた。 この辺は編集者ならびに出版社の校正部門が直してやらなければならない話なのだが、明らかに怠っている。講談社という大手出版社の仕事の杜撰さも白日の下に晒してしまった。 そして題名の『翼ある闇』。これは舞台となる蒼鴉城のモチーフでもある鴉のことだろう。この作家、数年後にまた『鴉』という題名の作品を書くのだが、よっぽど鴉が好きなのだろうか? 初めて読んだ麻耶作品。確かに一癖も二癖もある作家だ。その存在感はいまだワン・アンド・オンリーを貫いているようだ。次の作品をいつ読めるかは解らないが、また気になる作家が増えてしまった。困った事だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
国名シリーズ第3弾。
本作に至り、クイーンの推理小説というのは、本当に純然たるロジックゲームなのだなと理解した次第。つまりここに書かれている犯罪の捜査方法というのは実は全く皆無で、犯行が行われた現場に残された証拠―これは痕跡と云った方が妥当かも―、各登場人物のアリバイ、そして各登場人物の過去や人間関係を推理する材料として与え、さあ答えを出しなさいといった類いの純粋な頭脳ゲームなのだ。 だから前作『フランス白粉の謎』で感じた違和感もここでは踏襲されたまま。つまり、本作においても通常警察が犯人を断定すべく行うであろう、指紋の採取、血痕の採取もしくは唾液、髪の毛の採取などの鑑識による捜査が全く行われないのだ。 通常ならばこれほど犯人が犯行の痕跡を残すお粗末な犯行も珍しい。犯行に使った白衣、ズボンならびに靴、そして決定的なのはマスクまで残しているのだ。これだけあれば犯人は明らかになったも同然である。当時指紋による犯罪捜査、血液型検出による犯罪捜査方法は既に確立されていた。つまりこれらの衣類から指紋を採取し、更にはマスクに残った唾液からも犯人の血液型も検出されるので、もう犯人は解ったも同然である。あとは容疑者と目される人物を逮捕して、自白を強要するか、犯行が行われた事実を補完する更なる証拠集めに執心すればいいのだから。 しかしクイーンの推理小説では決してそういうことをしない。前にも述べたように、これはクイーンが考え出した頭脳ゲームの問題であり、読者に対する挑戦状だからだ。この姿勢を受け入れるか否かでこのクイーンに対する評価というのは大きく変わるだろう。 とにかく探偵クイーンが手に入る全ての事実を読者に提供し、その中で唯一犯行が可能であった無二の犯人を絞り込む事に特化しているため、犯行に至る動機が薄弱なのは否めない。よく考えてみればこれは前2作もそうだった。 そしてこういう小説だからこそ、チャンドラーやハメットが、およそ現実味の無い小説だと非難したのが大いに理解できる。 確かに今読むと、これはそれほど犯罪捜査科学が進んでいない、どこか別の世界で行われている犯罪なのだろうと首を傾げざるを得ないからだ。アンチ本格が出てくるのに十分なほどの非現実さがここにはある。 しかし個人的にはこれも是とする。『フランス白粉の謎』では納得行きかねたが、3作目にしてクイーンの小説に対する姿勢という物がわかったからだ。 恐らくそれはクイーン自身も自覚的だったのだろう。作中、クイーン家の召使いであるジプシー少年ジューナがクイーン警視にゆで卵を作ってやったらゆで過ぎて固ゆで卵になってしまったので、捨ててしまい、もう一度作り直した、なぜならクイーン警視は固ゆで卵(ハードボイルド)が好きではないからという件がある。このエピソードは作中では一度作り上げた推理をもう一度最初から作り直したらという意味で挙げられているが、それを示唆するのになぜ固ゆで卵を持ち出したのか。そう考えると思わずニヤリとしてしまった。 いやあ、クイーンは本当、面白い。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
精神病患者をテーマにしたミステリと1、2作目とはまたガラッと変わった作風である。とはいえ、1作目の『楽園』における南海の孤島を舞台にした話といい、2作目の『リング』で超心理学をテーマにした病理学へのアプローチも見られたことから、これらがその2作を基礎にして書かれているのは間違いないだろう。
で、3作目ながらもしっかりした筆致で相変わらず読ませる。入水自殺未遂で病院に担ぎ込まれた謎の女性の正体を、ミステリ仕立てで一枚一枚包まれたヴェールを剥がすかのように突き止めていく進め方はもとより、そこから一転して鍵を握る人物、真木洋一の遠洋漁業を舞台にした物語など、恐らく作者自体が経験したであろうリアリティを伴って語られる。 さらに本作の主人公ともいうべき存在、さゆりの担当医である精神神経科医師望月俊孝の、同僚女医との浮気などサイドストーリーも用意して、膨らみを持たせている。 特に真木とさゆりとの同棲生活の件にて触れられる、狂人の振舞いとも思えるさゆりの不可解な行動、そしてその根源となっている病気の正体(50万人に1人という稀有な遺伝性精神病「ハンティントン舞踏病」というモチーフ)はなかなかに衝撃的だ。久々に知的好奇心をくすぐられる思いがした。 そして最後にもたらされるそれぞれの登場人物の結末。感動な再開シーンの後に語られる皮肉な結末と、最後まで読者を飽きさせない運び方もなかなかだ。 300ページという薄さに展開するこれらの物語。非常にそつが無い。堅実な味わいがある。 しかしそれだからこそ突出した派手さもないとも云える。 しかしこれほどの作品でこういう評価はちょっと酷と云ったものかもしれない。安心して読める1冊、これがこの作品の評価として相応しい。評価は7.5点といったところだけど、やはり『リング』と比べると落ちるので、7ツ星としておこう。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
有史以前に引き裂かれた男女の世紀を超えた再会の物語。全3部に分かれた構成は連作短編集のよう。
有史以前のゴビ砂漠周辺にタンガータという砂漠の民の若者の1人ボグドの描いた絵は生命が宿っているかのようだった。彼は同じ種族の娘ファヤウを自分の嫁にすると固く決めていた。 彼は人間を描いてはならぬという部族の法を破って、その思いの強さからファヤウの絵を刻む。人間を描けばその者の命が亡くなるということをあとでボグドは知る。 13歳になり、種族の伝統に従って、ボグドは己の守護霊を得るために狩りに出る。狙うは伝説の赤い鹿。その血肉を食らえば、強靭な精霊が宿るとされていた。ボグドは一計を案じ、見事鹿を射止め、その血肉を食らい、精霊を自らに取り込むことに成功した。 やがてボグドは鹿の精霊を持つことで一族の中でも一目置かれる人物となり、次の首長になる事が確実視されていた。ボグドは自ら宿る鹿の精霊を民の守り神とし、石にその絵を刻んでいった。しかしそんな中、安楽の地を求め、旅する北の部族の族長シャラブがかつてボグドが残したファヤウの絵を認め、ファヤウを妻にすることを決める。 シャラブの部隊に急襲されたタンガータはなす術も無く、シャーマンと女どもを残して全滅する。しかし九死に一生を得たボグドはファヤウを奪い返すべく、シャラブの後を追うが、敢え無く捕まり、船に乗せられ、流されてしまう。 ある土地に漂流したボグドは、必ず自分の妻と子を取り戻すことを決意する。それは世紀を越えた長い旅の始まりだった。 これが第1部で物語の発端。そこから第2、3部と話は展開する。 第2部は一転して18世紀の太平洋上が舞台となる。アメリカの捕鯨船の乗組員が太平洋上の島タロファに流れ着く物語。 第3部は一転して現代のニューヨークが舞台。若き天才作曲家レスリー・マードフが神秘思想家ギルバート・グリフィスと共につい最近発見された巨大地底湖を一緒に訪れ、そこで作曲活動を行うといった話。 各編、コクのある物語で読ませる。 第1部の紀元前の遊牧民の暮らし、そしてボグドとファヤウそれぞれが体験する苦難の旅はよくもまあ、これほど書けたものだと思う。 そして第2部の大航海時代の南の島の話。これが個人的にはベスト。 捕鯨船が漂流する発端から、タロファという南の島の楽園での生活と文化、そして文化的先進国による略奪劇とスペクタクルに富んでいる。ここに出てくるライア、ジョーンズ、タイラー、エド・チャニング、その他途中で亡くなる人物たち全てに特徴があるが、やはり特筆すべきはタイラー。戦いこそ全てというこの人物の生き様に胸打たれた。 そして第3部。最後に音楽を持ってくるのが意外だった。 しかしよく考えてみれば、音は第1部から触れられていたモチーフで、古代の時代から一貫して人間の遺伝子に刻まれているのは音楽だというのが隠されたもう1つのテーマなのだろう。しかし読ませるが、『君の名は』のようにもどかしかった。せっかく舞台は整ったのだから、早く再会させればいいのにと忸怩しながら読んでいた。 そして気になったのが、ダイナモの燃料としてガソリンと書かれているところ。普通発電機は軽油なのだが、アメリカでは違うのか?またガソリンをポリ容器に入れているのも気になった。日本では危険物として禁じられているのに、アメリカではこれもOKなのだろうか? 三つの物語で共通するのは太陽に向かって跳躍する赤い鹿の絵。これが1万年の時を越えて、二人の男女の絆として引き継がれる。そしてその一族の細胞として宿るのはその至上の愛の遺伝子。つまりものすごいロマンティックな物語なのだ。 ボグドとファヤウ。この2人の焦がれるような再会への渇望が現代になってようやく成就する。しかしそれは単純にハーレクインロマンスのような単純な運命論によって描かれた物ではない。この2人の再会の物語を語るのに、作者は世界民族の起源論を展開する。 オセアニアに住むサモア人やアボリジニーを代表する原住民、そしてアメリカのインディアン(今ならネイティヴ・アメリカン)の祖先をモンゴルの大地に住んでいたアジアの民とするという民族起源論がまず作者の頭にあったのだろう。 これに悠久の愛の物語を絡めたというのが真実だろう。 この作家、こういう一見無関係な表題を組み合わせて物語を作るのが非常に巧いと感じた。 これがなんとデビュー作というのだから畏れ入る。そして2作目として、あの『リング』が生まれる。作者としてすでに書くべきテーマがあったのだろう。あとはそれを放出するだけの機会を待っていたという感じだ。 2作を通じて感じるのは、溢れる物語を早く出したいというエネルギー。 このエネルギー、どこまで続くのか、追っていこうと思う。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
説明不要のベストセラーホラー。貞子は独立したキャラクターとしてお笑い番組など各種メディアに登場するほどにもなった。
このビデオを観た者は1週間後に死ぬ。 古来からある不幸の手紙の現代版である。これを皮切りに「着信アリ」ほか色んな都市伝説ホラーが生まれたといっても過言ではない。 とにかくこの作品は当時それほどインパクトがあった。 で、私といえば、なんと映画も観たことがなく、この小説が全くの初見。 とはいえ、あれだけTVでCM、さらにTV放映、ドラマ化もされているので、なんらかの先入観は禁じえない。貞子も知っていたし。だから出てくる登場人物に出演俳優がダブってしまうのは避けられなかった。 で、肝心の作品の中身はといえば、やはり面白い。物語の読ませ方も上手い。そして確かに怖い。 書いていることに特別おどろおどろしさはなく、言葉も怖さを助長させるようなオーヴァーな表現は使われていないのだが、なんだか人を不安にさせる空気がこの中にはある。これは確かに映画化されるのもむべなるかな。 まずビデオの映像に描かれたモチーフを、これらがどんな意味を持っているのか、探り当てる。そしてその過程で現れる山村貞子という名の女性の存在。彼女の一族に纏わる因縁は坂東作品のホラーを思わせる(というよりもこちらの方が先か)。 そして山村貞子の存在の忌まわしさ。彼女の類い稀なる美貌にそぐわない報われない生い立ちとその一生、そして彼女に隠された驚愕の事実などなど、作者鈴木光司氏はクーンツのようにこれでもかこれでもかと超心理学、陰陽道、ウィルスなどあらゆる分野から人間の歴史の暗部に纏わる逸話を投入し、読者のページを繰る手を休ませない。 そして呪いを解くオマジナイが成就したと思われた瞬間に訪れる、山村貞子の本当の呪いの正体。この衝撃は今なお戦慄を伴うほど新鮮だ。 冷静になって考えてみれば、これはもう最初から眼の前に出されていたのである。全く以ってこの鈴木光司という名のマジシャンにまんまと騙されてしまった。 本書が発表されたのは1991年とある。まさに本作こそ、日本にモダンホラーの黎明を高らかに宣言する画期的な作品だったに違いない。 ビデオテープという文明の機器。怪異な映像。呪い。超能力。そしてウィルス。これら一見結びつきようのないキーワードを巧みに混ぜ合わせ、これだけのホラーを作り上げたこの作者の力量は、素直に素晴らしいと褒め称えたい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
結城昌治初体験。私がこの結城昌治という作家に興味を持ったのはどういう経緯だっただろう?当時私は色んなミステリガイドを読み漁り、そこに挙げられた名作(と云われている作品)を読むことを渇望しており、手当たり次第に手を付け、買い求めていった。
その性癖は今でも変わらず、毎年年末のベストミステリランキングが発表されると、そこに名前が出てきた新進作家にどうしても食指が伸びてしまう。自然、未読作家は増えていき、自分の趣味に合うのかどうかも解らないまま、本棚の空きスペースを等比数列的に減らしているといった有様だ。 で、この結城昌治氏だが、何が私にこの作家の名を記憶に留めさせたのだろうか? 確か今も続いている双葉社の日本推理作家協会賞の文庫化シリーズの1冊として彼の『夜の終わる時』がきっかけだったように思う。その時の文庫裏表紙の説明を読み、当時稲見一良や志水辰夫の諸作に惚れ込んでいた私は内容も読まずに購入した覚えがある。 そして当時の出版状況を調べて愕然とする。この直木賞作家であり、既に物故しながらも日本のハードボイルド界の先駆的存在といわれている作者のほとんどの作品が絶版となっていたからだ。それから私の結城作品の果て無き探索の日々が始まる。あれから十数年を経て、なんと光文社文庫から結城昌治コレクションが刊行されるようになった。なんとも嬉しい限りだ(とはいえほんの数ヶ月で刊行は途絶えてしまったのだが)。 さて前口上が長くなったが、初購入から十数年目の着手という事で、その1作として選んだのが本書『幻の殺意』だ。 内容は突然家族を遠ざけるようになった高校生の息子を心配する夫婦が、ある日息子が殺人犯の容疑者として捕まり、その事件の真相を父親が独力で探るという、非常にオーソドックスな設定である。 時代背景は終戦後約20年経ち、ようやくそれぞれが人並みの生活を送れるようにまで復興した昭和の時代だ。本作の物語の根幹は終戦後間もない明日を生きるのもしれぬ喧騒の中、生きるために必死にもがいた1人の男と1人の女の間に交わされた刹那の恋が、あるごく普通の家庭にもたらした悲劇を扱っている。 ミステリとしての味わいとしては特筆するところはあまりない。息子がひた隠す真犯人(と目される人物)の正体、謎の電話の主、藤崎清三の愛人の正体は、中盤辺りで解ってしまった。ただそこから更にもう一捻り加えてあるのだが、これが逆に陳腐さを覚えてしまった。よくあるヤクザ間の面子から生じるいざこざだからだ。 また本書におけるちょっと現実ではありえない警察の不手際に戸惑った。いくら容疑者の父親とは云え、警察が安直に被害者の愛人たちの居場所を教えるだろうか?捜査の守秘義務や関係者の基本的人権を無視した行為だろう。 また主人公の父親の方が知っている被害者の関係者を警察が知らないというのも気になった(しかも警察の知らなかったその人物は後々重要になってくる)。いくらなんでもこれは警察を無能に描きすぎだろう。それともこの頃の時代では、実際警察とはこんな物だったのだろうか? こういった瑕疵は気になるものの、最後に至る悲劇的結末はかのロスマクを想起させる。題名『幻の殺意』に込められた意味はここで生きてくる。 夫婦の幸せは幻の上に成り立っている―これこそ作者が本作で描きたかったテーマだ。まさに昭和の時代に起きた一家庭の悲劇の典型とも云える。大過無く夫婦生活を終えようとする家庭の中には実はこの幻に潜む醜い秘密が暴かれなかっただけの物もあるだろうと。私も祖父母の話を聞いたことがあるが、それは本当にドラマのような複雑な人間関係の話だった。 最後の方に出てくる一文 「そして幸福は、あるいは愛は、無知の上のみ築かれていくのか」 が痛い。 知らなくてよいことというのは確かにある。しかし本当にそれでいいのか?それは当事者のみが判断する事だろう。虚構の幸せか、現実の悲劇か?私ならどっちを選ぶだろう・・・。 しかし、私はこうも思う。 確かにその幸せは幻だったかもしれない。しかしその幻が解ける前はその幸せは確かに在ったのだと。それは幻でもなく、手応えの在った紛れもない真実だったのだと。 無から生まれ、また無に帰っていく、人の一生そのものが幻とも云える。しかしそれらの幻は確実に何かを残して消えていく。我々はそんな幻の中に生きている。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
世評高い山口雅也氏のデビュー作。本ミステリで解き明かされる命題は「なぜ死者が甦る世界で、あえて殺人を犯す必然性とは何か?」という非常に難しい問題だ。
そしてその命題を解き明かすための材料として、本作では終始“死”に関する考察が語られる。 “死”とは一体何なのか?では“生”とは?「肉体の死」と「精神の死」。“死”についてあらゆる角度から、西洋医学、東洋思想、キリスト教、仏教初め、世界各地の宗教における死生観、はたまた死学的見地から山口氏は“死”について考察の翼を伸ばす。 前半部は登場人物の一人、死学博士のヴィンセント・ハースが開陳する薀蓄と生ける屍となったグリンとの問答を通じて、山口氏による“死”に関する論文発表の場となっている。 そしてこれらが、最初に掲げた命題への解答となる論拠として色づいてくる。 ここの解答に至るまで、物語のそこここに散りばめられた伏線が確かに寄与しているのは解る。中には単なる洒脱なやり取りだけとしか思わなかった部分がこのロジックを解き明かす糸口になっていたりしている。 しかし、これはけっこう哲学的、観念的な論理ではないだろうか? 本作に収められた密室殺人、ビデオを利用した殺人犯の追究など、黄金時代の本格ミステリの復活を想起させるガジェットに溢れているのだが、結局のところ、これらは何のトリックも含まれない。実は本当に単なるガジェットに終わってしまっているのだ。これが非常に残念である。 630ページのこの作品に込められた衒学満ち溢れたこの物語の、最後を締めくくるにはこの論理だけでは、いささかパワー不足で、カタルシスを得られなかった。 刊行当時の1989年に、死者が甦る世界を舞台に殺人事件を扱ったミステリというその特異性はかなり目新しい物だったのだろうが、西澤保彦、石持浅海らがいる今ではそういった特殊な条件下でのミステリというのはさほど珍しくなくなってしまっている。そして本作のこの設定に関して、そういう世界観なのだとすんなり入り込め、世の書評家が述べているような、どんな手腕を繰り出すのかという興味はそれほどなかったのも一因だろう。 ところで、本作には希代のミステリマニア(賞賛を含めて敢えてそう呼ばせてもらおう)山口雅也氏のエッセンスが凝縮されている。 まずグリンの仇名の由来にニヤリとした。ロスマクの『象牙色の嘲笑』から来ているというのがいい。代表作の『さむけ』とかではなく、云わばどちらかと云えばマイナーな作品を扱ったところにマニア魂を感じる。もちろんそれはこの作品が死をテーマに扱っている事に十分配慮したからこその選択というのも忘れてはならない。 そして『縞模様の霊柩車』ならぬピンクのポンティアックの霊柩車というところもロスマクへのオマージュを感じていいではないか。 さらに霊安室の名前《黄金の眠りの間(ゴールデン・スランバーズ)》はビートルズの名曲。 チラッと出てくるニュース・キャスター、ドン・ランサーはダン・ラザーのもじりだろう。 またびっくりしたのがグリンとチェシャがトゥームズビルに向かう車中でチェシャが読んでいた本が《探偵実話(トゥルー・ディテクティヴ)》だった事。これ、実はこの前に読んだレナードの『ホット・キッド』に出てくるライター、トニー・アントネッリが寄稿していた雑誌なのだ。なんだかこの作品を読むためにレナードの2008年の新作を読むことが運命付けられていたかのような錯覚を覚えた。 そして棺桶暴走列車や霊柩車同士のカーチェイスなど、カーの笑劇(ファルス)趣味を思わせる趣向もこの作家としては自覚的なのだろう。 とまあ、古典を読んできた私にとって、この作品を読むことは読書の至福を味わうひと時であったのだが、それがゆえに一層勿体無い感じがしてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
この前に読んだ『キューバ・リブレ』の時は歴史小説だったせいか、なんだか盛り上がりに欠け、正直期待外れだったが、今回は違う。
レナード節が冴え渡るレナードしか書けない男たちの物語、しかも自身の原点であるウェスタン小説である。 そして今回は早速レナード作品の最たる特徴であるレナード・サーガのリンクが冒頭から出てくる。『キューバ・リブレ』で登場したヴァージル・ウェブスターが、主人公の1人カール・ウェブスターの父親となって登場するのだ。 本作で彼は既に47歳に石油長者となって隠遁生活を送る身になっている。その余裕は死線を潜り抜けた男が見せる余裕だ。『キューバ・リブレ』では戦艦爆破に巻き込まれ、運命に翻弄されるがままだったウェブスターがこんなキャラクターになってお目見えするとはなんとも感慨深い物がある。 そしてそのヴァージルが神経の図太いヤツだと一目置くのが息子カーロスことカール・ウェブスターなのである。 このカール、レナードの作品では今までにないヒーローである。恐怖心という物が抜け落ちたかのように、どんな状況においても常に磐石な自信を湛え、冷静沈着に振舞える男だ。 そして悪党を前にして述べる言葉は 「おれが銃を抜くことになったら、必ず撃ち殺す」 さらに今回特徴的なのは実は彼が真っ当な正義漢ではなく、実は根っからのガンマンなのだという事。 作中でもそれは他者の言葉を借りて表現されている。曰く、 「あなたはなぜ執行官になって銃を携帯する道を選んだのか。人を撃つのが好きだからよ。人を撃つのが楽しいからなんだわ」 そしてカール自身、今度の犯人を撃てば、彼の戦果に加わる事を密かに愉しんでいることを認める。 ただ、ここで留意したいのは彼は血を好む殺人者ではないという事だ。まず先に立つのは正義感。犯罪者を彼は人とは思っていない。そして彼はそれを仕留めるのが自分の使命だと固く信じている。 そしてもう1つ。彼はあくまで他者と純粋に勝負し、勝つ事が好きな男だということ。で、彼が選んだその勝負の方法というのが銃撃戦だということだ。 撃つか撃たれるか、死と隣り合わせの命のやり取りであるが、カールはむしろそれをスポーツの対決のように感じている。それは彼が一種変わった精神構造を持っているからだろう。 上の台詞が出てくる場面のすぐ後で、彼は銃撃戦が終わったときに体の震えているのに気付いたと述べる。ここで注目したいのは、体が“震えた”と書いているのではなく、“気付いた”と書いてあることだ。 つまり何事に対しても、精神と身体を切り離して観ること、行動できる客観的な男なのだ。そうカールこそは根っからの勝負師であり、負ける事を考えない真のタフガイなのだ。 一方ジャック・ベルモントは小さい頃に実の妹を溺死寸前までさせ、脳に障害をもたらしたエピソードを軸に、親の手の付けられない悪童がそのまま大人になった男で、根っからのワルである。 しかし、ワルはワルでもこの男、どこか抜けており、また自覚的でないため、常に自分を大物に見せようと人を小馬鹿にしながら、その実、相手から見下されているという三文悪党として描かれている。 石油王として莫大な富を稼ぐ父親を何とか懲らしめてやりたいと、愛人の誘拐まで行うが、計画の甘さから失敗し、刑務所入りを余儀なくされる。 相棒として雇ったと思われた男からは、実は小物だと思わわれていたことを知り、銃撃戦に紛れて射殺するなど、嫉妬と虚栄心の塊だ。 いわゆる典型的な“俺リスペクト型”で、自分はもっと周囲から恐れられ、名前が売れていいはずだと思っている男、ジャック。 実はこの展開は意外だった。これは今までのレナード作品に出てきた、根っからのワルなんだけど、どこか抜けている悪党と何ら変わらないからだ。 主人公のカールのライバルにしてはどうしても見劣りする。実際作中、何度かジャックとカールは邂逅し、そしてあるときはカールに捕らえられ、刑務所に送られるように、カールはジャックを歯牙にもかけていない。むしろカールは自分に相応しい敵となるべく、その時を待っているかのようだ。 そしてようやく迎える二人の対決シーン。実はこれが意外だった。自分への協力者を容赦なく殺す事で、精神的にもタフとなり、カールのレベルまで登りつつあったジャック。しかし最後の最後まで彼は三文チンピラのままだった。 う~ん、結構難しい。安直に語れない深みがある。これについてはしばらく考えてみよう。 さて物語はこのジャックとカールを中心に語られるが、彼らに纏わる登場人物も今回は出色である。 まずカールとジャックの時代を描写する上で、実際的にはその姿を見せず、あくまで他者の言葉を通じて語られる実在の銀行強盗チャーリー“プリティ・ボーイ”フロイド。 そしてそのチャーリーの追っかけであり、チャーリー・ギャング・グループの仲間を射殺した逸話を持つルーリー・ブラウン。 元FBIで独善的な正義を振り回し、自ら連邦捜査局員を名乗り、KKK団を率いて、黒人やイタリア系移民を狩るネスター・ロット。 学校の教師で30年間に出来た恋人は2人。そしてその2人目の恋人が銀行強盗だった女性ヴニシア・マンソン。 レナードはこれらをトニー・アントネッリという駆け出しの記者がカールないし事件の関係者にインタビューする形で話を紡ぐ。 これがもう独立した短編のように面白い。 特にこのトニー・アントネッリという作中話者を設定したのは今回の大きな効果だと思う。 彼がカールの伝説を作り、無法者ども達の逸話の語り部となり、物語に厚みを持たせている。 そういえば、この前の『キューバ・リブレ』でもニーリー・タッカーなるルポライターが出ていたが、今回はその時よりもさらに発展させ、活用している(面白いのはニーリーとトニーともにハーディング・デイヴィスなる新聞記者の文体に心酔していることだ。実在の人物か知らないが、もしレナードの創作ならば、彼の登場する物語も読んでみたい)。 権力ある者が法律を作り、常にどこかで生き死にのやり取りが繰り広げられる無法の時代に生きるタフで、アブナイ奴らが縦横無尽に動き回るこの作品こそ、私が読みたかったレナードの小説だ。 2005年発表とあるから、当時御年なんと81歳!こんなトンでる老人、日本にはいないだろう! ゴーストライターがいるかもしれないが、そんな下種な勘ぐりは抜きにして、レナードの若さに乾杯! ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
早川書房におけるチャンドラーの本邦未発表の作品を含めた全短編を、時系列に纏め、全て新訳で編纂された短編集も本作で最終巻。
最終巻の本書は前3集に比べて、もっともバラエティに富んだものとなった。 通常のハードボイルド系ミステリがメインなのは違いないが、それに加え、エッセイ、そして奇妙な味の短編2編に最後は映画用のプロット1編となっている。 下品な云い方をすれば最後の巻なので、チャンドラーが書いた物を余すことなく寄せ集めた雑編集本とも云えるが、3集目において同じような話の繰り返しにいささか辟易としていたので、逆に新鮮だった。 さて通常のハードボイルド系ミステリは表題作、「待っている」、「山には犯罪なし」、「マーロウ最後の事件」、「イギリスの夏」の5編。 表題作「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」はフィリップ・マーロウが主人公。 けっこう散文的な内容。しかし、依頼を受けて最初に訪れたところに死体があるっていうのはもはやチャンドラーの物語のセオリーのようになってきている。殺す対象が違うような感じもし、犯人の動機もちょっと説得力に欠ける。 ただ出てくる登場人物が全て特徴的。最初のアンナからジーター、アーボガスト、ハリエットにフリスキーとワックスノーズの悪党コンビ。そしてマーティー・エステルと、一癖も二癖もある人物が勢ぞろいだ。この作品からプロットよりも雰囲気を重視しだしたのかもしれない。 次の「待っている」はホテル探偵トニー・リセックが主人公でちょっと変わった雰囲気の作品だ。 一夜の出来事。それぞれの人物が何かを待っている物語。静かな夜に流れるラジオの音楽など、ムードは満点。限られた空間で起こる一夜の悲劇。それはトニーをこの上なくやるせない気持ちにさせる。その夜、トニーは兄を失ったが、代わりに何かを得たのか?それは解らない。 「山には犯罪なし」の主人公はLAの探偵ジョン・エヴァンズ。フレッド・レイシーなる男から送られた小切手同封の仕事の依頼の手紙から、ある山の保養地で秘密裏に行われている一大偽札事件に巻き込まれるという話。 もう典型的なチャンドラー・ハードボイルド・ストーリー。今まで読んできた短編と展開は同じく、探偵は右往左往と迷走しつつ、事件の本質に辿り着く。違いといえば、偽札に関する事件がナチスの隠し資金の生産という規模の大きな犯罪に至るところか。 とはいえ、最後の結末はなんなのだろうか?凡人の私には理解の出来ない結末だし、それゆえ、失望させられた。 一つ含蓄溢れた台詞があったので、ここに抜き出しておく。 「主人はあまりにも秘密を持ちすぎます。女性のまわりで秘密を持ちすぎるのは間違いです。」 実は今まで語られた短編で出てくるマーロウは初出時は別の主人公であり、純粋にレイモンド・チャンドラーがマーロウを最初から主人公にした短編はこの「マーロウ最後の事件」のみとの事。内容はまさしく満を持してマーロウを投入しただけのある作品となっている。 このシリーズでずっとチャンドラーの短編を読んできたが、ここに至って、ようやくマーロウ登場と思わせる短編に出会えた気がする。ここにいるマーロウこそ、チャンドラーが「むだのない殺しの美学」で最後に述べた理想の探偵象なのだ。女に優しく、惚れもするが、プライドを賭けて中途半端な真似はしない。気に入った依頼人の仕事は命に関わる事だろうが、やりぬく。 そして最後に明かされる真相もなかなかで、しかも今回マーロウの手助けをするアン・リアードンの造形は行間から色気が匂い立つようだ。実はこれ、以前アンソロジーで読んでいるのだが、恥ずかしながら設定のみは覚えていたものの、結末は失念していた。しかもその時感じた感想はほとんど上で述べたのとほとんど同じだ。 しかし、そのアンソロジーではアイキー・ローゼンシュタインはなんとイッキー・ロッセンとなっているのが、疑問。 そしてその時にも感じた不具合な邦題。原題の通り「The Pencil」に即した邦題の方がいいだろう。ちょっと過大広告すぎる。 今回初めて読む「イギリスの夏」は正確にはハードボイルド系ミステリとは呼べないかもしれない。イギリスの田舎町を訪れたアメリカ人が遭遇する愛憎の末のある頽廃的な悲劇を扱っている。 印象はハーレクインのような小説。イギリスの田舎の退屈で退廃した感じの雰囲気の中、全ての登場人物が没落していく。閉じられた社会に限られた人間同士。そこでは微妙な均衡で人間関係を保っているが、一度崩れるとそれは破局に向かう。そこに紛れた異邦人ジョン。彼のイギリスで出くわす一種悪夢めいたひと夏の出来事だ。 今回の短編集で異色なのはチャンドラーが次の2編のような「奇妙な味」とも云える幻想小説が収録されていた事だ。ともに再読なのだが、実は読んだのは学生の頃でもう十数年前。すっかり内容は忘れてしまっていた。 まず「青銅の扉」。 これは夫婦仲の悪いうだつの上がらない亭主が散歩中、出くわした馬車に連れられ、ある骨董商の競売に参加し、そこで青銅の扉を手に入れるところから物語は始まる。この重厚な扉は実は時空の狭間とも云うべき無の空間に繋がる扉で、主人公がこの扉で気に食わない人間を次々に消してしまうという話だ。 もう1篇「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」はその題名から本格ミステリを想起させるが違う。 これもうだつの上がらない亭主が主人公で、彼がビンゴ教授と名乗る奇妙な紳士から、嗅ぐと透明になるという嗅ぎ薬を手に入れる話。その透明になる薬を利用して妻の浮気相手を殺すのだが、そこから通常の透明人間譚とは違った全く予想外の展開を成す。 つまりチャンドラーは警察というのは本格ミステリに描かれるようにおバカではなく、そう簡単に容疑者を信じたりするものではない、あくまで問い詰め、とことんまで追い詰めるのだ。そして自説が間違っている事に気づいても決してそれを認めないのだというアンチテーゼを示したのだとも考えられる。密室殺人とファンタジー風味の透明になれる薬をチャンドラーがブレンドするとこんな話になるのだ。 次はプロットを1編。最後に収められた「バックファイア」は本邦初紹介の作品だ。妻を殺された男が知らず知らずに妻を殺した犯人と友情を築く話。そして男が妻殺害の容疑者を知ると・・・。 こういう設定はなかなか面白いと思う。ちなみにこの作品は買い手がつかなかったらしいが、それはそれで疑問に思う。 さて最後はエッセイ「むだのない殺しの美学」と「序文」。 「序文」はまさにある短編集に収められた序文なので、ここではあえて触れない。というよりも何もここまで収録しなくても・・・というのが正直な感想。ここまで収録するならば、チャンドラーが諸々の作家の作品に書いた解説も収録すべきだろう。あるかどうかは知らないが。 さて元に戻って「むだのない殺しの美学」だが、これはチャンドラーが探偵小説に関する自らの考察を述べた一種の評論。論中で古典的名作を評されているA・A・ミルンの『赤い館の秘密』、ベントリーの『トレント最後の事件』、その他作家名のみ挙げた諸作についてリアリティに欠けるという痛烈な批判をかましている。 その前段に書かれている「厳しい言葉をならべるが、ぎくりとしないでほしい。たかが言葉なのだから。」という一文はあまりにも有名。 本論では探偵(推理)小説とよく比較される純文学・普通小説を本格小説と表現している。そしてこの時代においては探偵小説は出版社としてはあまり売れない商品だと述べられており、ミステリの諸作がベストセラーランキングに上がる昨今の状況を鑑みると隔世の感がある。 チャンドラーはこの論の中で、フォーマットも変わらぬ、毎度同じような内容でタイトルと探偵のキャラクターである一定の売り上げを出す凡作について嘆かわしいと語っている。しかし私にしてみれば、チャンドラーの作品もフォーマットは変わらず、探偵や設定、そして微妙に犯行内容が違うだけと感じるので、あまり人のことは云えないのでは?と思ってしまう。 またセイヤーズの意見に関して同意を示しているのが興味深い。その中でチャンドラーは傑作という物は決して奇を衒ったもの、人智を超えたアイデアであるとは限らず、同じような題材・設定をどのように書くかによると述べている。これは私も最近、しばしば感じることで、ミステリとはアイデアではなく、書き方なのだと考えが一致していることが興味深かった。 最後に締めくくられるのは魅力のある主人公を設定すれば、それは芸術足りえる物になるという主張だ。そこに書かれる魅力ある主人公の設定はフィリップ・マーロウその人を表している。その是非については異論があろうが、間違いなくチャンドラーはアメリカ文学において偉大なる功績を残し、彼の作品が聖典の1つとなっていることから、これも文学の高みを目指した1人の作家の主義だと受け入れられる。つまり本作は最終的にはチャンドラーの小説作法について述べられているというわけだ。 ようやくチャンドラー短編集もこれで終わり。去りがたいというよりもやっと終わったかという一種の徒労感がある。 2集目までは十数年ぶりのチャンドラー作品との再会を喜び、悦に浸っていたが、3集目まで来ると、なんだか同じような話を何度も読まされた感を払拭できず、辟易した。 で、この4集目は長編『大いなる眠り』以後ということで、若干ワンパターンが改善されたように感じた。以前は見られなかった「青銅の扉」、「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」なる探偵に拘泥しない奇妙な短編も創作されているし、そしてやはり「マーロウ最後の事件」は全短編の中で随一の出来映えだ。 しかし、今までの全短編を含めて、総じてその難解なストーリー展開は結構苦痛を強いると思う。好きでないとなかなか浸れないだろう。そしてこの心境の変化に私自身、正直驚いてもいる。 文章は確かに素晴らしい。数ある文学者の中でもそれは至高の位置にあるだろう。しかしストーリーを語るのが上手いかと云われれば、イエスとは云い難い。もちろんクイクイ読めて、叙情豊か且つ爽快感をもたらす作品もいくつかある。しかし、展開はバリエーションに乏しい。これがチャンドラーの弱点だと思う。 あの頃の記憶は美しいままの方が良かったのかと思うが、今の年齢でチャンドラーを読みたかったという気持ちがあった。これがまた十数年後に読むと心持ちも変わるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
薬師寺涼子の怪奇事件簿シリーズ第5弾。第3作目の『巴里・妖都変』以来、もはや薬師寺涼子のパワーは日本では収まらないと見えて舞台を海外に設定する事になったが、本作ではカナダはバンクーバーが舞台となっている。
パリ、香港と来て、意外や意外、バンクーバーなのかというのが正直な感想。世界の主要都市といえば他にニューヨーク、ロンドン、シドニー、ベルリンなど他にもあるのに、なぜこの国?と思ってしまった。 ということで今回の敵は黒蜘蛛。もうハリウッドのB級ホラー映画なみの設定である。そしてそれは作者も自覚的で、グレゴリー・キャノン一世が往年のB級ホラー作プロデューサーでカルト的人気を誇る設定を用意し、なおかつ作中作で一本のホラー映画のシナリオを展開し、それが設定に大いに絡んでくるといった内容だ。 そして今回も薬師寺涼子の無敵ぶり、傍若無人ぶりは健在。というよりも以前にも増して拍車が掛かっている。ここまで来るともう涼子は単に運動神経抜群、才気に溢れ、更に超絶美人というありがちなキャラクターからさらに一歩抜きん出た存在となり、リアリティ云々を超越したキャラクターとなっている。 そして涼子の周囲を取り巻く連中も更にキャラクターに魅力を伴ってきた。涼子の天敵でメガネ美人の室町由紀子。その部下でオタクキャリアの岸本警部補。涼子の従者かつ戦闘員であるメイド、マリアンヌとリュシアンヌなど、オタクが萌える要素がどんどん投入され、ライトノベルの王道を闊歩していくようだ。実際、オタクたちにとってこのシリーズはどのような受け取られ方をしているのだろうか? 今回涼子が敵地に乗り込むのに扮したコスチュームはぴったりとした漆黒のボディスーツにマントとなんとアイマスク!これを読んで、私は『ヤッターマン』のドロンジョ様を思い浮かべてしまった。う~ん、どうしたんだろう、田中芳樹氏。 しかし、冒頭で話した今回の舞台バンクーバーならではという設定、ストーリーの妙味というのは無かった。今回ハリウッドの超大物プロデューサーを敵役に設定し、舞台を黒蜘蛛島という架空の島に設定した事から必然的に決まったような節がある。ここら辺が残念だ。 ともあれ、第5作もその破天荒ぶりは健在。ただシリーズも第5作を迎えると転機が欲しくなる。泉田がピンチになるとか、涼子のオーナー会社が乗っ取りに遭うとか、無敵のお涼の根幹を揺るがし、冷や汗をかかせるような話を用意してほしい。 でも田中氏はどうもこの作品でストレスを解消しているようなので、良くも悪くもマンネリできっとこのまま行くんだろうな。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
チャンドラー新訳短編集第3集。今回は長編『湖中の女』の原形となった短編の表題作が初読の作品。もっとも題名もそのままで、本作では原題そのまま。
まず最初はマーロウ登場の「赤い風」。本作ではマーロウはこの作品のみの登場だ。 後で述べる他の作品と違い、本作での特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。 マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。 女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。 次の「黄色いキング」ではホテルで用心棒をやっているスティーヴ・グレイスが主人公。 スティーヴの設定はタフで、女にもてると典型的なハードボイルド・ヒーローといったところ。この一作ではまださしたる特徴があるようには思えなかった。 そしてレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。まあ、本格推理物ではないので良しとするか。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。 ただ1つ印象に残った文章があった。 「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」 音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。 さて続く2編は短編「スマートアレック・キル」と「翡翠」に登場した探偵ジョン・ダルマスが主人公。 「ベイシティ・ブルース」、「レディ・イン・ザ・レイク」共に、ロサンジェルスで探偵稼業を営むジョニー・ダルマスの許にロスの保安官ヴァイオレッツ・マッギーから依頼の電話が掛かる形で物語は始まる。 まず前者はマッギー知り合いの探偵マトスンを助ける依頼。 後者はハワード・メルトンという化粧品会社支社長の失踪した妻の捜索が依頼。 「ベイシティ・ブルース」は最後に明かされる意外な犯人、複雑ながらもすっきりとする事件の構成など、完成度がかなり高い作品だ。 逆に「レディ・イン・ザ・レイク」は定型を脱していない感じ。 前者と後者でのダルマスの印象はけっこう違う。以前はダルマスもマーロウの原形のように感じていたが、「ベイシティ・ブルース」では減らず口と窮地を脱するのに他人に成りすましてドジを踏むところ、腕っぷしもさほど強くないところなど、若さが目立ち、ちょっと別の探偵という感じがした。 翻って「レディ・イン・ザ・レイク」では、むしろマーロウに近いといった印象。唯一異なるのはあくまでマーロウが己の教義のために依頼を果たすのに対し、ダルマスは仕事の最中に依頼人に金を吊り上げるよう要求したりするように金に卑しいところか。 さて最後は「真珠は困りもの」。遊蕩探偵?ウォルター・ゲイジが主人公。 実は本短編集ではこれが一番面白かった。恐らく親の遺産で悠々自適に暮らしているウォルター・ゲイジが婚約者の依頼で探偵を務める話。 このウォルターが坊ちゃんで、自意識過剰、自信家なところが他のチャンドラーの主人公と大いに違い、逆に他の短編に比べて特色が出た。特にウォルターがいきなり盗難の犯人と目したヘンリーに真珠が模造である事を話すところなど素人丸出しで、チャンドラーが他の探偵とウォルターをきちんと書き分けていることがよく解る。 最後の清々しい幕切れといい、本作でのベスト。 本短編集で特徴的なのは主人公を務める探偵を食ってしまうようなバイプレイヤーがいることだろう。 まず「赤い風」は終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。 また「ベイシティ・ブルース」では後半事件に関わってくるド・スペインのタフガイぶりが際立っており、ダルマスが食われた感じがした。特に上昇志向が強く、降格された恨みから犯罪まで犯すド・スペインのキャラクターの濃さは本短編集でも異彩を放つ。 そして「レディ・イン・ザ・レイク」では引退した保安官ティンチフィールドが物語に渋さをもたらす。事件の中を模索するダルマスに的確なアドヴァイスを与える老練な男だ。 そして「真珠は困りもの」では途中で仲間になるヘンリー・アイケルバーガーがまた素晴らしいキャラクター。強面で威丈夫の大男。腕に自信のあるウォルターを一蹴しながらも、協力を申し出る好漢だ。大鹿マロイといい、その原形であろう「キラー・イン・ザ・レイン」のドラヴェック、「トライ・ザ・ガール」のスティーヴ・スカラなどチャンドラーの描く大男キャラクターは総じて魅力的な輩ばかりである。チャンドラー自身、これらのモデルになった優しき大男との交流があったのかもしれない。 さて冒頭に述べたように短編集も3冊目。前短編集『トライ・ザ・ガール』の感想では、毎度同じような展開ながらも飽きずに読めると書いていたが、さすがにチャンドラーといえどもこれだけ似たような話を読まされると、疲れてきた。 曰く、事の発端→トラブル発生→死体と遭遇→関係者の間を渡り歩く→真相解明→乱闘シーンで死者が出る、とほとんどこのパターン。 細部の演出は異なるが、話の流れは全てこの流れで進められるため、読後の今振り返ってもどれがどんな話だったのか、ちょっと混在してしまう。 ここにいたって思うにチャンドラーはストーリーテラーとしてはあまりヴァリエーションを持っていなかったようだ。ストーリーの流れは常に定型を守り、そこに女や無頼漢、タフガイを絡め、物語に味付けを施すといった感じだ。そしてそれらキャラクターが途轍もない光彩を放つ時、傑作が生まれるのだろう。『さらば愛しき女よ』然り、『長いお別れ』然り、『大いなる眠り』然り。 最初の頃に見られた卑しき街をしたたかに生きる者どもの姿がここにいたって定型に落ち着いてきているのが、非常に辛いところ。今回の作品群には今までの短編に見られた叙情が薄まっているようだ。技巧で書いているような気がした。調べてみると本作までの短編が第1長編『大いなる眠り』以前に書かれた物らしい。このころおそらく短編に限界を感じたのかもしれない。次々と浮かぶプロットは複雑さを増すが枚数の限られた短編ではある程度妥協点を見出さなければならない。だからこそ長編へと創作姿勢が移行していったのではないだろうか。 今回はほとんどが典型的な話だったので、☆5つぐらいだなぁと思っていたが最後の「真珠は困りもの」が思わぬ拾い物だった。 よってかろうじて☆7つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今度の題材は劇場型猟奇的連続殺人事件。ギリシア神話に出てくる怪物をモチーフにした見立て殺人事件。
そして主人公の刑事深町のアドバイザー役として、かつてハリウッドで活躍した日本人怪優、団精二という人物を設定している。 団精二。この作品では日本人のイメージを覆す怪演でアメリカ映画界の人々に記憶を残し、俳優業に留まらず、前衛的な映画や演劇の創作を精力的に行うが、その内容のあまりの過激さに日本ではタブー視され、黙殺され続けた男、そして同性愛者でもある彼が、“恋人”の殺人事件の容疑者として逮捕されて以後、第一線から退いたと描かれている。この設定を見ると、すぐに思い浮かぶのがトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士だろう。 ストーリーは深町の捜査線上に次々と現れる斬られた頭部を内臓をほじくり出された胴体に埋め込んだ死体が各所に現れる有様と、深町と団との間に繰り広げられる推理、そして茅野美智子が招待されたパーティ、つまり殺人事件場面の3つの場面が並行して語られる。特に物語を彩るのが団と深町との間で交わされる推理談義における、ギリシア神話の数々。そして章題もまたギリシア神話をモチーフにしている。 そして明かされる事件の真相はなかなかなもの。今までの彼の作品では一番の物ではないか。しかし明かされる真相全てではなく、やはりこの猟奇殺人の動機だろう。特に“なぜ犯人は死体の首を斬り、胴体に嵌めて処理したのか?”の真相について、思わず「おおっ」と声を挙げてしまった。 この動機についてはもしかしたら鋭い人は気付くかもしれない。しかし私はこの作者の読みにくい文章に目眩ましを食らい、もろに嵌ってしまった。 なかなか戦慄を覚えた。一番恐れていたこういう猟奇的犯行の動機、死体細工の動機がこのように驚きを持って明かされて、ほっとしたというのが正直な感想。 とはいえ、疑問が残ることも結構ある。 犯人は時間をかけて死体をばら撒いているが、これは本当に必要だったのか? それから連想していくと、なぜ犯人は犯行現場から逃げ出さなかったのだろうかという疑問に行き当たる。 そんなことを考えたら、この物語は成り立たないよ、という人もいるかもしれないが、そこまで補完してこその本格ミステリだ。同じ劇場型猟奇的犯罪を扱った島田荘司氏の『占星術殺人事件』がその好例だ。 また前の作品の感想でも述べているが、この作者の云い回しは非常に理解がしにくく、突然の場面描写の変化に突っかかる事しきり。なぜこうも解りにくいのかと考えると、視点が急に変るからだ。例えば、相手と正面を向いて話している視点が、いきなり相手の背中から自分を見ている視点に変る、また主人公に起こった事をその主人公の主観に基づいて描くので、登場人物同様、読者にもいきなり何が起こったのかが解らなくなる。2番目については何がおかしいのか解らないと思うから例を挙げてみよう。 例えば、街をぶらついている男がいきなり開いたマンホールに落ちてしまうシーン。 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていると、余所見をしていた彼は眼の前のマンホールの蓋が開いている事にも気づかず、そのまま落ちてしまった。 これをこの作者風に書くと、 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていたが、次の刹那、気付いてみると、周囲は真っ暗だった。 周囲には饐えた臭いが立ち込み、臀部には鋭い痛みがあった。ふと顔を見上げるとそこには丸い形に空が刳り抜かれていた。 タケシは落ちたマンホールの底で恥ずかしげに周囲を見回した。誰もいるはずがないのに。 とこんな具合だ。これくらいだったらまだましだが、数行に渡って、いきなりの場面転換について叙述され、「な、何!?」と疑問符付で読み進むうち、ああ、こういうことだったのかとようやく解るのだ。別段、他の作家も使うのだろうが、普通ならそれはアクセントとして、読者の興味を一層惹きつけたい場面でのこと。この作者の場合は普通に読むべきところで方々あるのだから、突っかかって仕方がなかった。 そして最後の結末の呆気なさ。しかしなんとも読み甲斐のない結末だ。 これで奥田作品は最後。やはり消えゆく作家はそういう運命にあったのだと知らされた。“化ける”作家とそうでない作家の違いはほんの紙一重なんだろうけど、この作品で化けきれなかった奥田氏の浅さを見てしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今回の謎は大きく分けて三つある。
まずは通常のミステリに倣い、楡井殺害に関する謎。どうやって楡井に毒を飲ませたのか?犯行の動機は? 二番目は峰岸を犯人だと告発する者の正体。これは犯人側峰岸が探る謎だ。どうして告発者は自分が犯人である事を見破ったのか? そして最後は題名にもあるように、本編のモチーフであるスキージャンプに関する謎。日星自動車の杉江翔は一体どのようなトレーニングをして飛躍的にジャンプ能力を伸ばしているのか? 東野氏のミステリの優れたところはこういったモチーフが非常に魅力的な謎を伴っているところにある。今まで色んなスポーツを物語に扱ってきた東野氏だが、本格的にそれをミステリに融合させたのは『魔球』だったように思う。須田武志が最後に放った魔球の正体とはなんだったのか?これが一連の殺人事件と平行して語られる。 『魔球』は今にして思えば、本作へ先鞭を付ける足がかり的な作品だったのかもしれない。今回はジャンプを高感度カメラによる連続飛形モデルの加速度経時変化の力学解析、それを基にした水平方向、鉛直方向の加速度推移グラフといった科学的データを実際に提示して謎の解明を行う。魔球は一種特異体質とも云うべきその人しか出来ない球の握り方という具体的ながらも科学的根拠不明瞭なところに留まっていたのに対し、今回はかなり実践的な領域まで踏み込んでいるのが大きい。だからといって『魔球』が決してその真相について肩透かしを食らうような物ではなく、本作を読んだあとではこちらの方がより具体的に謎解きを行っていると云っているだけだ。 今回読んだのは角川文庫版で、どうやら新潮文庫版から一部改訂されたらしい。どの部分が改訂されたのかは読み比べてみないと解らないが、恐らくこの科学的分析は原版でもあったのだろうと思われる。 また平成の世になり、スポーツ工学の進歩は目覚しい物がある。マンガ『Dream』でも変化球に対するメカニズム―シームと呼ばれる縫い目の握り方による回転のかけ方の違い、それによる空気抵抗の流れ、抵抗力により減速していく際に生じる球の不規則性、etc―が具体的に書かれるくらいだ。恐らく『魔球』発表当時はまだそこまで変化球に関する考察・分析が具体的に成されていなかった事は容易に推察できる(なんせ昭和63年の作品だ)。 おっと横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。 日星自動車のチームが導入した方法というのは「サイバード・システム」と呼ばれるシミュレーション装置。これは擬似ジャンプ台で、5mの長さの板にローラーが付いてあり、これが角度を自在に変えられるようになっている。被験者はローラースキーを履いてクレーンで吊られた状態でこの上に乗り、そのまま滑空する。ジャンプ台はその速度・時間に合わせて角度を変え、あたかも本物のスキージャンプ台のようになり、踏み切りまでできるという物だ。 しかし、この装置の目玉はそんなところにない。理想形とされるジャンパーの飛形をインプットし、被験者に信号を送ることで矯正し、理想のジャンプを形成する事が出来るのだ。しかしその矯正方法に問題がある。理想飛形と異なる姿勢が発生すると被験者に不協和音が奏でられ、不快感をもたらす。被験者はこれを聞きたくないために矯正せざるを得ない。しかしその不協和音は人間の無意識の領域に記憶され、ラジオの音波の雑音で突発的行動を起こす副作用がある、とまあ、これが東野圭吾氏が考えた「鳥人計画」なのである。 電気系の大学を卒業し、電機メーカーに就職した東野氏の特色が非常に色濃く出た発想、テーマではないか。 そして本作発表から20年を経た21世紀の現代、このような訓練方法は採用されているのだろうか?このような大掛かりな装置が果たしてあるのだろうか? 私は意外に在ってもおかしくないと考える。 私はこれを読んだ時に映画『ロッキー4』を思い浮かべた。ソ連のサイボーグボクサー、イワン・ドラゴだ。彼もまた当時の科学の粋を結集して“作られた”ボクサーだ。東野氏の造語に倣って云えば、“サイボクサー”だ。育てる選手の身体に無数に付けられた電気コード、これはまさにこの映画で行われたドラゴのトレーニング風景そのものである。恐らく東野氏はこの映画をヒントにこのストーリーを考えたに違いない。『ロッキー4』の公開が85年、つまり昭和60年であるから、一応符合する。またこの映画では筋肉増強剤も併用されていた。 本作にて作者が云うように、一流のスポーツ選手というのは完璧無比なる強さを求める。それが故にドーピングなんかに手を出すのだが、彼ら・彼女らは確かに「バレなければやってもいい」、「みんなやっている事だ」といった割り切りがあるのだろう。競争心が歪んだ形で欲望に変異していくのだ。それはもはやスポーツが一個人の理想の追求や求道精神だけに納まらない莫大な利益を生む一大産業となっているからだ。 フローレンス・ジョイナーが早死にしたのも、当時“バレなかった”ドーピングの副作用によるものだろう。それでも人は強さを求める。そのために自分の身体がどうなろうが、構わないのだ。 世の中、要領のいい奴はいる。私などコツコツやるタイプだから、労力をかけずに上手くやる人間や、人の結果をそのまま転用して自分の成果とする人間に対して確かに悔しい思いがする。「何なんだ、あいつは」と確かに思う。 しかし殺意とこれとは別だ。それは私が犯人のようにある物事に人生を賭けていないかもしれないが、それでも他人は他人、俺は俺だと云い聞かせる自分がいるように思う。そこがどうしても共感できなかった。犯人が恐れたのは自分の人生の意味の喪失であり、片やこの私は普通、人生に意味などない、自分に迷いや悩みが生じたときこそ、人は人生に意味を求めるという観点に立っているから、これは当然の結果だろう。この共感の度合いこそが作品に抱く思いの強さに比例するから、本作はしたがって星7ツなのだ。 また唯一本作において推理に参加できる告発者の謎(実はこれも2つあるが前者の方)だが、これが解けなかったのが残念。うっかり読み通してしまい、最後の方で十分読み返すことが出来なかった。これは素直に悔しい。 最後に本作にて語られる楡井の人物像について。この不世出のジャンプの天才が天性の陽気さを放つ人物として語られる。周りにかけられるプレッシャーをそれとも気付かず笑い飛ばす、一種天然ともいえる陽気さ、そして常に話している内容は論理的でなく、イメージ先行型で、周囲の人は理解が出来ない。しかしここにこそ私は東野氏の上手さを感じた。 元巨人の長嶋茂雄氏が高橋由伸氏が入団したての頃、バッティングの指導をしたエピソードを思い出した。長嶋氏の指導は身振りを交えて次のようなコメントしたという。 「バッと来た球をバッと打つんだ」 そして高橋氏はそれが解ると云ったらしい。 天才には詳しい説明など要らないのだ。天性の感覚で感知するイメージを伝えるだけで天才同士は通じるのだ。そしてその感覚は私も解る。いや私が天才だといっているわけではない。あるレベルにいる物が体験するゾーンという物がどんなものにも存在する。それは決して説明のできる物ではない。感じるものなのだ。 そんな部分も含めてこの本はかなり色んな要素が込められている。 しかし惜しむらくはそれでもなお、こちらの意にそぐわなかった事。それはほんのちょっとの違いなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
最高の頭脳ゲーム!高学歴、高水準のディベートゲームを堪能した!
国際的犯罪阻止の協力に対し、自国に今後の利益拡大をもたらすべく、いかに有利に展開すべきか、いかに恩を着せるかを高度な駆け引きで展開するこの上ないディベートの嵐である。 常に勝利の道を模索しつつ、そして自らの保身のために逃げ道も確保しながら、相手を雲に巻きつつ、出し抜くチャーリー。 ロシアという社会主義の風潮残る国で、自らの特権を出来うる限り長引かせるために、常に身の保身を第一義に考えながらいざという時に責任の擦り付け合いで勝利する事に腐心する周囲の中で、孤軍奮闘するナターリヤ。 下院議員の甥という立場で上司やFBI長官からも疎んじられている明朗活発かつ猪突猛進な若さ溢れるケスラー。 そしてチャーリーの恋敵で軍人気質で常に作戦の先頭に立ち、指揮する事を欲する、完璧を自負する男ポポフ。 これらがそれぞれの思惑と自説の正当性を主張しながら、核物質流出事件に当る。 そしてさらに後半魅力的な人物が物語を彩る。頭脳明晰でFBI随一の核の専門家でありながら、一流モデル張りのスタイルと美貌、さらに自分の欲望に素直な女性ヒラリー・ジェミソン。これが下巻からモスクワに渡ってチャーリーとパートナーを組む辺りからまた面白くなってくる。 そしてこれら複雑な頭脳ゲームを恐らくキーボード上を踊るが如く美麗なメロディを奏でるように読者の眼前に提供してくれるフリーマントルの知性と筆の冴え。毎回思うが本当、この人の話は面白い。 しかし、今回はイギリス、ロシア、アメリカの三国に加え、ドイツがさらに加わっての合同作戦というのはいささかキャラクターの過剰出演を招いたようだ。 当初物語の主眼と思われた再会した2人、チャーリーとナターリヤの成り行きが、後半のヒラリーの投入で影が薄くなってしまった。 特にこの2人は作戦会議の場で初めて再開したときに交わされる会話の時のお互いの心理状態のやり取り、ポポフとチャーリーとの微妙な関係や、その後の2人の逢瀬など結構読み処があっただけに残念な思いがした。 更に若きFBI捜査官ケスラーがその未熟さからチャーリーに師事することで次第に捜査官としてのスキルを挙げていく成長過程も物語のサブストーリーとしてよかったのだが、これもまたヒラリーの登場で影が薄くなってしまった。 恐らくヒラリーというキャラクターがフリーマントル自身、非常に気に入ってしまい、またこのキャラクターがフリーマントルの意に反してひとりでに動き出してしまったため、その流れに委ねることになったのではないだろうか。 しかし、だからといって物語の構成が破綻したわけでなく、最後にサプライズをきちんと準備して物語が閉じられるのだから、やはり大した物である。 とはいえ、今回のサプライズは解ってしまった。やはり続けて読むとフリーマントルの手法も見えてくるということだろうか? 最後にもう1つ。 この前に読んだ同じ作者のダニーロフ・カウリーシリーズの『猟鬼』では、マールボロの箱をかざす事でタクシーが容易に止まる事を書いているが、本作でチャーリーが同じことをしようとすると、いつの時代の話ですか?とケスラーに気色ばめられるシーンがある。 『猟鬼』の原書発表が92年。本作の原書発表が96年と4年もの差がある。これはこの4年の間にロシアがそれほどまでにアメリカにおもねることなく、自立していった事の証左か、はたまた『猟鬼』におけるこの描写に対する不適当性に関する批判がフリーマントルにあったのか、定かではないが、なかなか面白いシーンだと思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
初エラリー・クイーンである。30も半ばを越えて(当時)ようやく着手である。当初古めかしく感じた訳も思いの外、クイクイ読めた。
実は最初は非常に不安だった。この齢までなるとかなりの本も読んできたすれっからしの読者であるから、世評高いクイーンの諸作を純粋な気持ちで楽しめるのか、心配していたのだ。ホームズシリーズやルパンシリーズで感じた失望、最適な時に読むべき本を逃した喪失感、そんな感慨をまた抱くのではないかと。 しかし、杞憂とは正にこのこと!十分愉しめた。大人が読むに耐える小説になっている。 そして私、犯人解っちゃいました!Ⅱ-11章で天啓の如く、閃きました。正にこれしかない!といった感じでした。 ・犯人はなぜシルクハットを持ち去らなければならなかったのか? ・シルクハットはどこに隠されたのか? ・シルクハットを持ち去っても不審がられない人物とは一体誰なのか? この3つの疑問について完璧に解答できた。う~ん、気持ちがいい!このカタルシスこそ正に本格推理小説の醍醐味だ。 そして犯人が判ってから読むとクイーンの作品は非常にフェアプレイである事が判る。最後の謎解きの辺りでは、センター試験の答え合せをする時のようにドキドキした。なるほど、極上の知的ゲームである。 しかし、惜しむらくは作中でも書かれているように事件の真相が推理のみであり、物的証拠が得られず、しかも最後は犯人に罠を掛けないと逮捕できなかった点だ。世紀の名探偵エラリー・クイーンのデビュー作は磐石の推理と証拠の提示による解決ではなかったとは意外だった。 しかし、それを於いても久々に毎日本を読むのが楽しみだという気持ちになれた。推理小説に夢中だった小さい頃の想いが甦るようだ。推理小説とはこんなにも楽しいものだったのかとこの年になってさえ思わせてくれる。クイーンの作品は本当に素晴らしい。未来永劫読み継がれてほしい作家だ。 一般的には佳作の部類に入るであろう本作だが、本格ミステリの愉悦を再燃させてくれたことから8ツ星評価としたい。 後に着手する更なる傑作に思いを馳せつつ、この感想を閉じたい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ダニーロフ&カウリーシリーズ第1作目。
アメリカの政治原理とロシアの政治原理が交錯するやり取りは正にフリーマントルの真骨頂なのだが、今回はそれだけでなく、全編に事件解決の手掛かりが周到に散りばめられている、一種本格ミステリの要素も含まれているのだ。ここにフリーマントルのこのシリーズに賭ける意気込み、並々ならぬ創作意欲の迸りをびしびし感じた。まさに記念すべき新シリーズの幕開けだと云える1作だ。 図らずも第2作『英雄』から本シリーズに入ってしまった私。その時の感想に、『英雄』には前作の犯人と真相が明からさまに書かれていると述べてあるのだが、本書ではその人物がどのような者かは朧気ながら覚えていたものの、誰かまではすっかり忘れていた。 しかし、この前知識が今回の真犯人を当てる一助になった事は間違いないだろう。しかし、それでも巻末で繰り広げられるカウリーの謎解きに謳われたある文中の違和感には気付いたのだから、よしとしよう。 まあ、そんなことはさておき、今回、作者フリーマントルがロシア民警の警官とFBIエージェントを組ませて捜査を行うこの設定を思いついたのは単純に犬猿の仲とも云える相反する両国のミスマッチの妙と、水と油の関係の二国のそれぞれに属する者同士が国の利害を超え、結ばれる友情を描きたかった、それだけではないだろう。 90年代後半に起きたソ連の民主化政策、グラスノスチとペレストロイカという二大ムーヴメントによってもたらされた欧米的生活様式と価値観。それはまた同時に犯罪の欧米化を促す事でもあったのだ。従って、今まで官吏が独裁的に行う犯罪捜査では解決しえない類いの犯罪も頻発する可能性があり、それを解決すべく東側もアメリカ式の犯罪捜査システムの導入が必要になる。こういった洞察からこの二国間のそれぞれの腕利きが協力し合うという構想が具体化していったに違いない。これこそ、フリーマントルの素晴らしき慧眼だといえる。 そして本書を彩るのが登場人物たちの複雑な人間関係だ。 かつての同僚であり、友人の妻と不倫関係にあるダニーロフ。同じくかつての同僚で親友に妻を奪われ、そしてモスクワの地でその2人に再開することになったカウリー。 ダニーロフは不倫相手の夫婦の家に招待され、危うく不倫がばれそうになるし、カウリーは再びパートナーとなった元妻の略奪者と仕事に私情を挟まないよう、終始注意を払う。そして同じくパートナーの夫婦に食事に招待され、元妻への思いが再燃する。 そしてこの2人の色恋の挿話に対して、特に印象に残った箇所がある。 まずダニーロフは妻に不倫を疑われ、不倫相手のラリサに別れを告げるシーン。彼は最初はほんの遊びのつもりだったのが、なぜこれほどまでに深入りしてしまったのかと自問する。そして得た答えというのが、それが安心の裏づけだというもの。その気になればまだ美しい女を物に出来るという自尊心の裏づけなのだという述懐だ。 ここで私ははたと立ち止まる。男はいつでも自分を若いと思い、そして若く見せようと努力する。 かくゆう私もそう。それは老け込みたくないという気持ちから来るものなのだが、潜在的にはこのダニーロフが云うようにいつまでも女性の目を惹きたい、いつでも俺は現役なのだという自負心を抱きたいからだ。そして不倫はそれを裏づける何よりも証拠、男としての現役の証明なのだ。不倫は文化だ、などと触れ回る男もいたが、そんな軽薄な言葉よりもこちらの方がもっと真実味がある。 そしてカウリーはパートナーのバリー夫妻に自宅に招待され、夕食をご馳走になった後、一人考え込むシーン。元妻ポーリーンに「あなたは奥さんがいなくちゃならないタイプだもの」と云われたことを振り返り、激しく動揺するシーンだ。彼はその言葉で1人で生きていく事は大したことではないと思っていた矢先に常に孤独を感じていたことに気付かされる。しかし、結婚はその孤独を癒すためにする物とは違うとも解っている。では何なのかという自問に対する答えをカウリーは得ていない。 そこで私は考える。それは単純に失望なのだと。カウリーは元妻にまた一緒になりたいという言葉をかけてほしかったのだが、返ってきた言葉が、再婚していないのが意外だという意味の言葉だったからだ。まだ続いていると思っていたお互いの想いが他方では既に決着が着いていたのだと知らされた言葉に激しく動揺したのだ。その事に気付かず―敢えて目を向けず?―、自分が孤独を感じていることに向き合ってしまったのは、カウリーの未練を表している。これは振られたことのある男にしか解らない気持ちなのかもしれませんね。 さらにダニーロフはかつてある地区の署長をやっていた際に得た密売組織との“密接な関係”によって得た特権を異動によって破棄し、家庭の電化製品はもとより、その日着ていくスーツやYシャツにも困るような逼迫した生活を強いられている。皺の寄れた衣服が、スクラップ寸前のくたびれた電化製品の数々がダニーロフの眼に妻をも使用済みのように映らせている、この辺のフリーマントルの筆致の上手さにも唸らされた。 『英雄』を読んだ時に思ったのは、カウリーよりもダニーロフに関する叙述が多かった事だが、今回モスクワを舞台にした本書でもその比重は変らないように思う。確かにカウリーはアメリカ人であり、異国の地で勝手違う捜査を強いられる存在ながらも、ロシア語も堪能で、FBIロシア課の課長という役柄、ロシアにも精通しており、そのギャップが少ないように感じた。むしろロシアという特異な文化の中でのダニーロフの生活や性格が興味深く語られ、作者自身、取材の成果を存分に揮って楽しんで書いているように思えた。やっぱりダニーロフの方が好きなのだろう。 しかし今回のこのタイトル、フリーマントルの作品とは思えないセンセーショナルな題である。一瞬大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの1作かと思った。 訳者の松本剛史氏がこのシリーズのファンなのだろうか。それともこの後シリーズの邦題は『英雄』、『爆魔』と二文字で続くからディック・フランシスの諸作のファンなのかもしれない。まあ、どうでもいいことだが。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
奥田哲也氏の小説は初めて読んだ。ちょっと斜めに構えた主人公の刑事の減らず口を織り交ぜた文体に最初はちょっと辟易したが、慣れてくるとなかなか面白い。
チャンドラーのマーロウを気取っていながら、あくまで三枚目であるという点が買える。我孫子武丸氏とはまた違った面白さがあった。 300ページに満たない本書はこの刑事の語りでほとんど全編ロジックが展開される。事件の渦中にある3人の男、加害者と目される片島青次、被害者と目される矢萩利幸、そして矢萩のボディガードとして事件に巻き込まれた新発田護のうち、誰が被害者で加害者なのかを3つの殺人事件でひたすらロジックの俎上で試行錯誤が繰り返される。 この非常に少ない人間関係を用いて語られる謎というのが矢萩利幸という名の人物が三度も殺人事件の被害者として挙げられるという点にある。関係者は3人。被害者も3人。では最後の犯人は?と謎を畳み掛けてくる。正にアイデアの勝利といった感じだ。 そして今回の主人公、名も無き私が実によい。後輩に見くびられないよう精一杯肩肘張って生きている三十代独身の刑事。毎晩遅く帰る生活で唯一の安らぎが読書。時たま近所の友人と場末のスナックで酒を嗜む。 一般的な刑事物に出てくる刑事とは一線を画す、小市民の生活が物語に時折織り込まれる。刑事ずれしていない刑事像をユーモア交えて語っている。 それは命のやり取り、人の人生に入り込んでいくような仕事をする人間ではなく、私も含めたあるサラリーマンの人生の一シーンのようだ。人の生き死にを生業としながらも、その実体はあくまで普通の人間なのだというところに好感が持てた。 と肩肘張った読み取り方を上に書いたが、作者の本質はもっと別なところにあるだろう。こういう刑事もいいもんでしょ?と読者に片目をつぶって微笑みかける、そんな作者の顔が目に浮かぶようだ。 非常に寡作な作家、奥田哲也氏。新本格ブームで次々と作家が頻出した90年のデビュー以後、発表作品はたったの5作。恐らく兼業作家なのだろう。 そして98年以降新作は発表していないようだ。ブームの衰退と共に消えていった数多の作家の中の1人、現状を鑑みるとそう結論付けられてしまうのは否めない。 しかし、佳作ながらも一読忘れ難い印象を残すこの作品。消え去るには勿体無いと心底思った。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
二階堂作品初体験。古き良き探偵小説の香り漂う本格推理小説だ。
そして本作は本格探偵小説信望者である二階堂氏本人が読みたくて渇望していた小説なのだろう。誰も書かないならば俺が書くという気迫が行間から湧き出てくるようだ。 この本の献辞は鮎川哲也氏に捧げられているが、乱歩作品へのオマージュである事は想像するに難くはない。 「地獄の奇術師」という人智を超えた殺人鬼の設定とネーミング、逆さ吊りにした女性の顔の皮を剥ぎ取っていく残虐な処刑シーン、警察監視下の中で起こる麗しき女性への傷害事件、毒殺事件に、三重密室殺人、密室内での銃殺事件、屋根裏を徘徊する殺人鬼、などなど、『魔術師』、『緑衣の鬼』、『屋根裏の散歩者』といった乱歩の名作のモチーフのオンパレードである。 そしてそれらの云わば時代錯誤な作品世界に現実味をもたらせるために二階堂氏は時代設定を昭和42年という、まだ日本の街に暗闇が残る時代を選んだ。 また探偵役の女子高生二階堂蘭子と語り役の高校生二階堂黎人が刑事事件に関わることが出来る設定として父親を警視庁警視正であるところ、蘭子が過去の事件を新聞と雑誌を読んだだけで犯人を指摘したことから警察も一目置くことになったところも、現代ならば現実味がないが、この時代ならば許容範囲かと思わせるギリギリの設定かなと苦笑した。こういうご都合主義も古き良き探偵小説ならでは、ということで案外許せてしまう。 上に述べたように、本作は不可能状況、不可能犯罪の連続なのだが、案外と作者の意図と犯人は透けて見えたように思う。尤もトリックは想定していたものとは違い、それについては作者に軍配が上がったのだが。 しかし、終章に蘭子の口から語られる神学的推理、形而上学的推理ははっきり云って蛇足だと感じた。あまりに抽象的過ぎるし、観念的過ぎるからだ。 二階堂氏は敬愛するカーのオカルティズムをも本作に持ち込もうと腐心したのだろうが、これは逆に本格探偵推理小説の狂信者といった印象を私に与えさせ、なかば呆れてしまった。熱意は買うが、自分の趣味に走り過ぎると読者はついていけなくなるからだ。 しかし、デビュー作にしてこれだけ書けるとは素直に感心した。随所に挟まれる過去のミステリを中心にした薀蓄も―多少目障りな感じがしなくもないが―造詣の深さを感じさせてくれた。 ただ昭和42年(1967年)に刊行されていない作品もあるのではないかと重箱の隅を突きたくなるきらいもあるが、そこは触れないのが華だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
早川書房のチャンドラー改訳短編集の第2弾。本作も前作同様、未読の短編があったため、購入した次第。
で、その未読短編というのが冒頭の「シラノの拳銃」と最後の「翡翠」。「シラノの拳銃」に出てくるテッド・カーマディが収録作7編のうち、4編において主人公を務める。 「シラノの拳銃」はボクシングの八百長試合の約束を破ったボクサーへのマフィアの報復から話から、ある上院議員の隠し子のスキャンダルまで発展し、それが狂言だったという結構奥が深い話。題名の<シラノ>はカーマディが自分の所有するホテルで出会ったボクサーの女が勤めるナイトクラブの名前。 本作は何と云っても最後のシーンが忘れがたい。ナイトクラブの女ジーンが笑みを浮かべながら眠りに就くシーンにしみじみと心打たれた。 「犬が好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。題名の素朴さとは裏腹にカーマディの行くところ、死屍が累々と残されていき、激しい銃撃戦が二度も出てくるハードな内容だ。 しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。 「カーテン」ではカーマディは逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。 物語の展開から予想だにしない結末に至る本作。真相はかなり意外。金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。しかし、真相がこじつけのように思えた。よくよく考えると、なんかおかしい。 カーマディ物最後は表題作「トライ・ザ・ガール」だ。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。 そう、これこそ正に名作『さらば愛しき女よ』の原形。 ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。 そしてこの話の裏テーマというのは8年ぶりに出所した男が直面した、馴染みの店と好きだった街の雰囲気、そしてかつて愛した女、それら全てが変ってしまったことに対する戸惑いと哀しみなのだ。彼は居心地の悪さと居場所の無さを感じていたに違いない。そしてそうした彼の唯一の拠り所がかつて愛した女ビューラだったのだ。あまりに切ない物語。 この4編を通じて主人公を務めるカーマディという男の魅力も捨てがたい物がある。議員だった父親の遺産で悠々自適に暮らしている元探偵というチャンドラー作品には珍しい設定ながらも金持ちが故に抱える彼独自の哀しみ。親が汚職で残した汚い金を拒む事も出来ずに自嘲気味にその日を暮らす毎日。 しかしカーマディは2作目以降、「シラノの拳銃」の印象とはだいぶん違ってくる。むしろマーロウに近い感じだ。なぜチャンドラーがカーマディを主人公に長編を著さなかったのかが不思議なくらいだ(この感想を書いた後、解説で木村二郎氏が「シラノの拳銃」のテッド・カーマディとその他3編のカーマディは別人で、後の3編のカーマディはマーロウの原形だったと述べている。正に私の抱いた感想は正しかったわけだ)。 さて残りの3編について。 「ヌーン街で拾ったもの」は麻薬潜入捜査官ピート・アングリッチが主人公。ヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。 ハリウッドスターの売名行為で裏街のボスの手を借りるというのがちょっといただけない。あとで強請られるのが解っているのに、安直では?タイトルはダブル・ミーニングだろう。ヴィドリーが落とした包みではなく、金髪の女トークン・ウェアこそ「ヌーン街で拾ったもの」だろう。 「金魚」は我らがヒーロー、マーロウ登場の物語。元婦警の友人キャシー・ホーンから行方知れずになっているレアンダー真珠の在り処について有力な情報を教えるから探してほしいと頼まれるマーロウ。報酬は保険会社から支払われる2万5千ドル、これを情報提供者であるピーラー・マードと3人で分け合うという取り決めだった。マードの許を訪れたマーロウはそこで拷問に遭い、ショック死したピーラーの死体に出くわす。ピーラーの家を後にしたマーロウは保険会社を訪れ、正式な代理人として雇ってもらう。事務所に帰ったマーロウに知らない女から電話が掛かり、悪徳弁護士のラッシュ・マダーの許へ訪れるよう脅迫される。 レアンダー真珠を巡る丁々発止のやり取り。ハメットの『マルタの鷹』を換骨奪胎したかのような物語。 とにかく悪役の女性キャロルがいい!ストーリーの運びは定型なんだが、彼女の存在が物語に色彩を与えている。最後のサイプの妻がマーロウに仕掛けるフェイクなど、最後まで楽しめる作品。最後のシーンでビリー・ジョエルの”Honesty”の歌詞が浮かんだ。 “誠実、なんて寂しい言葉だろう” 最後の「翡翠」は「スマートアレック・キル」で主人公を務めたジョン・ダルマス再登場作品。社交界の名士リンドリー・ポールから彼の女友達が盗まれた希少な翡翠のネックレスを探し出すよう頼まれるという話。相変わらず入り組んだストーリー展開だが、霊能者が登場したりといささか意匠に懲りすぎた感も否めない。そのため、なんだかバタバタした展開になっている。 本作では「シラノの拳銃」、「犬が好きだった男」、「トライ・ザ・ガール」そして「金魚」の4編が秀逸。1つに絞るならばやはり「トライ・ザ・ガール」か。 今まで2冊の短編集を通じて感じるのは、20~30年代後半のアメリカを覆った荒廃感が物語の雰囲気を覆っていることだ。それは禁酒法統治下もしくはその余波が澱のように残る20~30年代のアメリカを覆う鬱屈感に他ならない。そんな世の中で誰もが心に病を抱えている。善人は不器用であり、暮らしは楽にならなく、器用な奴は相手を出し抜く事にその器用さを発揮し、誰もが悪人だ。 そしてチャンドラーが描く探偵マーロウ、カマーディらはそんなすさんだ街の中で減らず口を叩きながらも、どこか人を信じることを止めきれない、自分に正しくあろうと自嘲気味に生き抜く男たちだ。彼らは探偵という仕事を自らの糧を得るためのみならず、仕事に関わった自分を納得させるために損得抜きで夜を走っている。それはこの街に失われたと思われた何かがまだ残っている事を信じたいがために真実を追っているかのように思える。 そしてそれを表現するチャンドラーの描写力、文章力の凄さ、改めて痛感した。危険と隣り合わせの人間が配る視線や仕草をとっても、それら人物や状況を語る視点が違うのだ。少なくとも私にはこういった“眼”は無い。 そしてその文章に加えて、質が上がったストーリーとプロット。全てがそうだとは云えないまでも、入り組んだストーリーも単純に捏ね繰り回されているだけでなく、計算づくの上での展開だというのがよく解る。 毎度同じような展開だと思いながらも、なぜだか飽きずに読めるのが不思議だ。 未読短編だけを読むために買ったこのシリーズだが、チャンドラーの凄さを再認識するのに格好の機会になった。残る2冊も買うつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|