■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数896

全896件 481~500 25/45ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.416:
(7pt)

なんだかドラマチック

第2期クイーンシリーズと云われているハリウッドシリーズの1冊である本作はきらびやかな映画産業を舞台にしているせいか、物語も華やかで今まで以上に登場人物たちの相関関係に筆が割かれ、読み応えがある。恐らくこれは作者クイーン自身が遭遇したハリウッドという特異な世界に触発されたものであろう。
『中途の家』や『ニッポン樫鳥の謎』でも登場人物間の愛憎が描かれていたが、そのぎこちない筆致は頭で想像して書いたようにしか思えず、居心地の悪さを感じてはいた。しかし本書の中心人物であるロイル親子とスチュアート親子の罵詈雑言の応酬とそれに相反する素直になりきれない愛情の断片が垣間見える仕種や台詞にはそれまでの不器用な人間描写から一転して瑞々しさを感じる。
今回はこの両家、とりわけそれぞれの息子、娘であるタイ・ロイルとボニー・スチュアートの、お互いに惹かれあっているのに素直になれない関係が事件に関係しているという、“恋愛”をテーマにした事件を更に掘り下げている。

そして登場人物の描き方も今までの作品に比べ、随分印象が違い、物語に躍動感がある。
ハリウッドの天才児ジャック・ブッチャー、放蕩脚本家リュー・バスコム、宣伝部長のサム・ヴィクスなど脇を固める映画産業にどっぷり浸かった、興行のためならばどんなアイデアも拵え、金に糸目をつけず実行する常識外れの持ち主から、ハリウッドのゴシップに精通している絶世の美女でありながら群衆恐怖症であるポーラ・パリスに、登場人物表にも名前が記載されていないながらも印象を残すジューニアス医師にグリュック警視。そんな中でも何よりも特徴的なのは本作で事件の渦中に置かれるジャックとタイのロイル親子とブライズ、ボニーのスチュアート親子だろう。

上に述べたように今回は“恋愛”が事件に大いに関わっている。お互い長い間、反目していた両家が突然起きた化学反応のように惹かれあい、結婚を決意する。そのために起きた殺人事件。そして双方の親を亡くした後、歴史が繰り返されるようにその子供らも長年の確執が反転して愛に変わり、結婚を決意するが故にまた命を狙われる。
憎しみというのは愛情と裏表の関係にあるのはもはや周知の事実だが、クイーンがこのような物語を、ページを多く費やして書くことが驚きであった。

この頃、実作者のクイーン自身、ハリウッドに招かれ、脚本家として働いていたが、そこで要求されるのは緻密なロジックよりも面白おかしい登場人物たちが織成す人間喜劇というドラマ性である。
結末もそれまでの作品で人が人を裁くことに対し、苦悩していたクイーンが独りごちてシリアスに終わる閉じられ方から一転している。

このシーンが象徴するように、ハリウッドの経験が作品に大いに影響を与えたのはまず間違いない。
既に述べたが、何しろ登場人物の性格描写、また主人公クイーンの人に対する思いの強さが今までと断然違う。人を犯罪というゲームの駒の一要素としてしか考えていないような節のあった従来の作品群と比べると雲泥の差だ。
台詞も古典からの引用が極端に減り、ウィットに富んでいるのも注目すべき点であろう。

演出という意味では今回犯罪予告として使われたトランプのカード。これこそ非常にエンタテインメント性が強い。江戸川乱歩の『魔術師』で使われたカウントダウンやルパンの犯罪予告状といった、推理小説というよりも通俗犯罪小説という趣きが強いのも本作の特徴であろう。
特に第2の犯行ではそれを逆手にとってクイーンが罠を仕掛け、その瞬間に犯人と、しかも飛行機の機内という映像的な舞台で対決する辺り、今までにない凝りようである。

個人的にはこういう趣向は好きである。しかしクイーン=緻密なロジックというフィルターが邪魔をして、本作の評価を辛くしている。
本作で見られるドラマ性高い演出と事件の意外性、驚愕のどんでん返しが一体となれば、更にその評価は増すに違いない。非常に贅沢な要求なんだろうけれど。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ハートの4 (1959年) (創元推理文庫)
エラリー・クイーンハートの4 についてのレビュー
No.415:
(8pt)

初フリーマントルにうってつけ?

上手い。実に上手い。

相手に嵌められ、妻まで奪われて刑務所に入れられた男が出所を機に全てを取り戻すため、復讐を企む。今まで何度も使い古されたプロットであるが、そこはフリーマントル、普通の設定にしない。

なぜなら復讐者ジャック・メイスンこそ、元妻の安定した生活を脅かす悪の存在だからだ。彼はCIA勤務中はロシアに情報を流す売国奴であり、私生活では女を買うのは勿論の事、公然と浮気をし、妻に暴力を振るっていた最低の男なのだ。
この通常ならば主人公の宿敵となるべく恐怖の存在を逆に主人公として設定したところにフリーマントルの作家としての一日の長がある。

また逆を云えば、かつて自らの手で刑務所に送った男が出所し、主人公に復讐するという話もあるが、本書の特異な点は物語をこの同情すべからぬ復讐鬼側から描いたところにあると云えよう。

そしてこの復讐鬼ジャック・メイスンが通常設定されるようなサイコパス、性格異常者ではなく、元CIA諜報員であり、模範囚として減刑され、刑期を5年も縮めて仮出所した男であるという社会的常識を備え、かつ特殊な訓練を受けた男という点に注目したい。

元○○工作員、元グリーンベレーといった殺人能力に長けた復讐者という設定も往々にしてあるが、ほとんどの物語はその特殊性のみ取り沙汰され、復讐鬼=モンスターのような扱い方をされていたように思う。しかしフリーマントルはジャックをそう描かず、15年も刑期を勤めた出所者からスタートし、そこから社会への順応、徐々に復讐の計画を積み上げる過程、そして復讐を成すために積み上げる男として、元諜報員としての自信の回復、そして一方ではいざ実施となった段に逡巡する心理状態などを細かく描く。つまり復讐鬼が社会的不適合者という異常者というような定型を採らないところに本書の読みどころがある。

そして今回復讐を受ける側、ドミートリイ・ソーベリことダニエル・スレイターとアン、そして息子のデイヴィッド一家側の設定もまた巧みだ。

ジャックが出所する段になって、突然彼らに幸運が紛れ込む。ダニエルは自らが経営する警備会社に新規契約と大きな取引が次々と来るようになり、アンは自分たちの住む地方都市フレデリックで営む自らの画廊に有名な画家の個展を開く話が舞い込み、それを成功させたことでメディアの取材に引っ張りだこになり、街の名士となりつつあり、息子のデイヴィッドもバスケットの才能を買われ、大学からスカウトが来る。
こういった人もうらやむサクセスストーリーが、復讐を恐れ、証人保護プログラムの庇護を受ける彼らには災厄の種でしかならない。この大きな幸運がさらに大きな不運を呼び込むストーリー展開の妙と、証人保護プログラムの盲点を付くこのフリーマントルの着想に思わず唸った。

主題がはっきりしているだけに、物語の行き着く所は実に明確だ。即ち復讐は成されるか、成されないかだ。
こういう単純な構造の物語はそのゼロ時間に向かうまでのプロセスに読みどころがあると云えるだろう。同じ復讐譚を扱ったP.D.ジェイムズの傑作『罪なき血』が正に好例と云える。
フリーマントルの場合はと云えば、云わずもがなで、復讐する側とされる側の双方を丹念に描き、全く飽きさせず、“その瞬間”まで双方を振り回す。

またフリーマントルはアメリカの証人保護プログラムに警鐘を鳴らしている。この堅牢と思われたシステムが、実はいくつもの欠点があり、その成功実績は薄氷の上に立つ危うさ、いや逆に情報が隠されているだけに絶対安心という虚像でしかないかもしれないのだ。
エルモア・レナードもこのプログラムには『キルショット』でかなり辛辣な評価を作中で下しており、アメリカ国民(フリーマントルは英国人だが)の中でもその信頼性を疑われているのが解る。

しかし本書を読んでいるときはそんなことは考える必要はない。CIA、KGBは出てくるものの、従来のフリーマントル作品と違い、政治的駆け引きが一切なく、物語がジャックの復讐のプロセス1点に絞られて進むのが非常に読みやすい。
彼のスパイ物に横溢するディベートの応酬も醍醐味だが、こういうシンプルな構成であるが故に、彼のストーリーテリングの素晴らしさが引き立つ。ぐいぐい引き込まれる物語に委ねるだけでいいのだ。

一般的に国際謀略小説の重鎮と呼ばれ、その格調の高さから敬遠されがちなフリーマントルの作品だが(それでも毎年コンスタントに訳出されているのは売れているからだろうが)、本書は彼の本を初めて読む人にはそういった意味ではまさに“うってつけの”一冊ではないだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
殺人にうってつけの日 (新潮文庫)
No.414: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

なんだか日記を読まされているかのよう

本書は単純な構成ではない。実は作者自身と思われる理科系作家が上野の国立博物館でフーコーの振り子に出会ったことから小学校の頃の不思議な体験を思い出しながら物語を綴るという入れ子構造的な作品となっている。その物語はその小説家が小学校6年生の夏休みに出会った不思議な博物館の思い出、そして実在の人物であるフランスの考古学者オーギュスト・マリエットを主人公とした歴史小説であり、この3つの話が交錯し、お互い共鳴し合うという凝った作りになっている。

また語り手である小説家はほとんど瀬名氏の分身であるようだ。従って、この作家の私の心情はそのまま瀬名氏の言葉といっていいだろう。自分の創作手法と編集者が求める物との齟齬、物語の創作と人を感動させる手法、そして小説論など小説家としての苦悩が色々書かれている。

そして作中の小説家が吐露しているように本書は瀬名氏が物語作家になることに挑戦した作品だと云える。

では瀬名氏の小説は物語ではなかったかというとそうではない。起承転結があり、登場人物もステレオタイプ的でありながらも善玉・悪玉がきちんと描き分けられていた。ただそれらは主題となる専門的な学術分野の内容をふんだんに盛り込んだプロットを軸にして、動かされていたような様があり、あくまで主眼は最新科学をベースにした自らのアイデアだったように思う。従って読者はその専門性の高さに半ば驚嘆し、半ば難解さに理解を放棄していたようだ。実際『BRAIN VALLEY』は途中で挫折した読者も多かったと聞く。

その事を作中の小説家の口を借りて、自身が目指していた感動とは一般の物語で得られるものではなく、論理への感動、技術への感動、概念への感動であったと述べている。つまりあるべき物があるべき姿で収まる事、その完璧な世界が映し出す美しさを瀬名氏は感動と捉え、それを自身の作風とした。

しかし本作ではその学術的内容は極力抑えられ、登場人物の心情描写や、行間から匂いや温度までが感じられそうな風景描写に筆が割かれている。その結果、本作は片やノスタルジー溢れるジュヴナイルでもあり、はたまた19世紀のパリの万国博覧会のシーンや発掘ラッシュの19世紀のエジプト、もしくは紀元前のエジプトを精緻に描いた歴史小説の貌をも持つ、多彩な作品となっている。

前後したが前に読んだ『虹の天象儀』は本書の刊行後に著された物であり、『虹の~』が一人称叙述で語られ、主人公の心情描写に多く筆を費やしていることからも、本書が瀬名氏にとって作風の転換期となった作品であると云っても過言ではないだろう。プロット・構成・人物配置など計算し尽くして創作された物語よりも、作者の制御を離れて作中人物が勝手に動き出す、熱を持った物語へシフトする事に挑戦したのだ。

とはいえ、やはりこの作家の持ち味であるテクノロジーに関する内容は従来の作品と比べれば少ないものの、きちんと織り込まれている。特に亨が遭遇する謎の博物館が持つ人口現実世界と名づけられたシステムは今で云う仮想空間世界を更に発展させた物であり、これが恐らく近い将来実現する物ではないかと思われる。そこに加えた瀬名氏の物語としての嘘、仮想空間を現実に近づけることで計算の域外で起こる「同調」という現象が本作の肝だ。この「同調」を利用して、悠久の歴史に埋もれた事実や遺産を復活させる事がこの博物館の主目的であり、それが物語のクライマックスへの呼び水となっている。

この科学を超越した現象は『BRAIN VALLEY』で取り上げた形態共鳴という不可解な現象が下敷きにあると思われる。単に知識として蓄えたままにせず、それを換骨奪胎して新たな超自然現象を想像するこの手腕はやはりこの作家の特質と云えるだろう。

一方で作中に織り込まれた小学6年生が初めて手にした創元推理文庫に対する思い、エラリー・クイーンやルパン三世、ドラえもんといった実在の固有名詞が郷愁を誘う。特に本作の舞台となる博物館は人工現実世界が現実世界の物と同調し、融合しているところなどはドラえもんのどこでもドアに代表されるひみつ道具の発想と非常に似通っており、非常に影響が強く感じた。実際、最後に藤子・F・不二雄へ献辞が書かれている。

野心的な作品であることは疑いないが、語りたい事、試したい事が多すぎたためにちょっと凝りすぎたか。誠に惜しい作品だ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
八月の博物館
瀬名秀明八月の博物館 についてのレビュー
No.413:
(7pt)

瀬名氏は意外に熱かった!

2001年、祥伝社が400円文庫と銘打って、当時文壇で活躍していた作家達に200ページ弱の書下ろし作品を依頼するという企画があった。本書はその企画にて書き下ろされた瀬名氏のSF中編である。

瀬名氏といえばデビュー作が角川ホラー大賞を受賞した『パラサイト・イヴ』であることは有名だが、その後もSFサスペンス大作『BRAIN VALLEY』を上梓している。それらに共通するのは絶対的な専門的知識に基づいたフィクションの制作であり、どこか現代と地続きである事を感じさせていた(『BRAIN VALLEY』はあの結末が飛躍しすぎているきらいがあるが)。
しかし本書では現代科学では当面空想上の物と考えられているタイムスリップを扱い、大人のメルヘンともいうべき1編となっている。

しかし本書でのタイムスリップの扱い方はいささか趣が異なる。といいながらも斯くいう私も論じるほどタイムスリップ物を読んだ事がないのだが、その少ない知見に基づいて書くならば、通常タイムスリップというのは個人的な忌まわしい過去を清算する、もしくは過去の過ちを正すために奮闘するという流れでストーリーが運ぶと思うが、本作では主人公が好きな実在の作家織田作之助の夭折を防ぐこと、そして空襲で焼け落ちる毎日天文館からプラネタリウム投影機と日本の天文学界において貴重な資料である格子月進図を守るという、実在の歴史を改変することを目的にしている。
シミュレーション小説などでよくあるテーマかもしれないが、瀬名氏が書くタイムスリップ物と構えて手に取った私にしてはけっこう思い切った事をするなぁと思った。

勿論、これらの目的は達成されないのだが、代わりに主人公が得るものはある。それは五島プラネタリウムを勇退したその後の人生の目標だ。彼はそれを夢見て今後の人生を過ごす事が出来るのである。

そしてなぜこのような作品を瀬名氏が書いたのか。私が思うにそれはたびたび引用される織田作之助の末期の言葉、「思いが残る」というこの一言にインスパイアされたのではないだろうか?
「思い出が残る」ならば解るが「思いが残る」とはどういう意味だろう?そして織田作之助にとって残る「思い」とは一体何なんだろうか?そこからこの物語が紡ぎだされたのではないだろうか?

しかしこの言葉に対する瀬名氏の思いが強すぎて、いささかくどいところがある。理系作家とされる瀬名氏だが、その作風はドライではなく非常に熱い。
たださすが博識の作家瀬名氏、未知の知識を今回も与えてくれた。カール・ツァイスⅣ型プラネタリウム投影機に関する詳細な内容はもとより、ムーンボウという月の明りで出来る夜の虹なども教えてくれた。
また戦中の東京についても精緻に描かれており、書下ろし中編といえども手を抜かない創作姿勢が嬉しい。

しかしなんとも云えない読後感が残る小説である。具体的に云えないが、なんだかこそばゆい限りだ。
作者として思い入れを強く入れすぎ、読んでいるこちらが気恥ずかしさを感じるところがある。それとも少年の心とか夢とか清い愛とかに私が恥ずかしさを感じるように変わったのか。まあ、ちょっとしばらく考えてみよう。

虹の天象儀 (祥伝社文庫)
瀬名秀明虹の天象儀 についてのレビュー
No.412:
(7pt)

題名のようにシリーズ登場人物たちが“クロス”すればいいのに

フリーマントルが自身のノンフィクションルポルタージュ作品『ユーロマフィア』で述べていた、複数の国に君臨するそれぞれのマフィアによる犯罪ネットワークの構築、これが本書の主題である。一応本書では今回がまだその計画の端緒に過ぎないことが謳われている。
それはそうだろう。なぜなら私にはどうしても納得できない事があったからだ。

それはアジアと中南米の市場に関して何ら触れられていないからだ。
中国マフィアがアジアに、そしてアメリカに及ぼす影響力は無視できる物ではなく、特にアジアでの勢力は強大である。しかも人口が膨大であるから、莫大な利益を上げるには無視できないマーケットである。
また中南米も縦横無尽に張り巡らされた麻薬カルテルが多数存在し、定量的な麻薬の確保にこの地方のマフィアと協定を結ぶのは必要不可欠だろう。そこの詰めの甘さを上述のように、本作では取っ掛かりに過ぎないという表現で上手く逃げているように取れる。

これは西洋人の作家と日本人作家との違いもあるだろう。やはり西洋人であるフリーマントルはアジア圏内よりも欧米圏に精通しており、マフィアといえばロシア、イタリア、アメリカとすぐに浮かぶのだろう。
これが日本人作家ならば、例えば大沢在昌氏や馳星周氏ならばすぐさま中国系マフィア、韓国系マフィア、台湾系マフィアと近隣アジア諸国の勢力を題材に扱う事が多い。この辺が住む世界での違いだと感じた。

そしてこのマフィアの世界のなんとも恐ろしい事。敵・味方内部では裏切りの連続で腹の探りあいの毎日。そして誰もが一番上の地位を虎視眈々と狙っている。笑顔で右手で握手しながら左手は後ろに隠してナイフを持っている、そんないつも心を許さない日々を送る。今日の信頼が明日まで続くとは限らず、いつ自分も他の仲間と同様に報復の道を辿るかわからない。
かつて『ユーロマフィア』でフリーマントルは「犯罪はペイする」と述べたが、得られる富が莫大なだけにこのリスクと人間不信に満ちた世界から逃れられない輩が常にいるのだろう。私はこんな世界、御免だが。

我々が日々の暮らしの中で常に求めるのは何だろう?それは「安心」ではないだろうか。今の生活を続けられるよう、人は働き、糧を得る。それは「安心」を得るためだ。
しかし彼らマフィアはその「安心」が自らの地位向上、権力の拡大、更なる利益に特化しており、それが更に彼らの「不安」を助長し、どんどん排他的になっていく。「安心」を得るために続けた事が自らの「不安」を掻き立てるのだからなんとも皮肉な稼業である。

シリーズも4作目になって、今まで抜群のコンビネーションで二国間に跨る犯罪を解決してきたダニーロフとカウリーの2人にある変化が訪れる。
まずダニーロフは私怨からくる復讐を抱え、1人の警察官ではなく、己の正義のための死刑執行人として捜査に携わる。そしてこの復讐が本作のもう1つのテーマになっている。
なんと前々作でロシア・マフィアに爆死させられた愛人ラリサの仇が本作で出てくるのである。いつもは沈着冷静に行動するダニーロフが今回は右腕ともいえる部下のパヴィンや相棒のカウリーの忠告も聞かず、傲慢に捜査を進める。そのせいだろうか、ロシア独特の原理主義で巻き起こる上司との軋轢や彼らの“椅子取りゲーム”に翻弄されるダニーロフの微妙な立場に関していつも多く筆を裂かれているのに、本作では全くといっていいほど、ない。

そしてカウリーは、本作ではなんと下巻も100ページ辺りになってようやく自らが捜査に乗り出すのだ。なぜならば今回彼は作戦の統括管理官という立場になり、下院議長の甥である野心家ジェッド・パーカーが彼に代わって現場での指揮を執る事になるからだ。
これはチャーリー・マフィンシリーズでもナターリヤが同様の立場に任命され、作戦の成否の責任を一身に担う、云わばジョーカーを引かされた役を務めていたが、今度はカウリーがその役を負わされることになっている。従ってカウリーは自身の能力から来る失敗ではなく、部下の過信から来る失敗の責任をも負わされるのだ。つまりカウリーは今まで無縁だった中間管理職の危うい立場と長官の政治的駆け引きをも強いられることになっている。
これはチャーリーならばお手の物だが、カウリーは現場主義者なので、今まで上役との駆け引き、長官がホワイトハウスに向けて行う声明などには忖度する必要はなく、己が築き上げた地位を守るために自らの能力に頼み、事件に専心していた。この馴れない業務に対する彼の苦渋が今回はほとんどを占めているのが特徴的だろう。
従って彼は以前身を滅ぼすことになったアルコールに手を出す事になる。それの歯止めとして前回パートナーとなったパメラが生きてくるのだ。
彼の心の支えとなるのがパメラの役割だが、カウリーはまだパメラに全てを委ねてはいない。本当に愛しているのか、それとも単なる恋愛に終わるのか、まだはっきりしない。この2人の関係は今後も引き続き書かれることだろう。

そして今回の敵役のオルロフを忘れてはいけない。
ロシアの一介のマフィアから№1マフィアを葬る事でのし上がってきた男。しかし彼はコンプレックスの塊で誰も信用しない。自分がそうであったように、彼の取巻きが自分の地位を狙って、いつ寝首を掻かれるか、恐れている反面、拷問で人が苦しむ姿を見ることにエクスタシーを感じる男である。そしてそれが用心深さを生み、不安要素となる人間を容赦なく排除する。そして自分の犯罪ネットワークの構築にも周到な注意を払い、常にロシア民警、FBI、さらにドイツ警察の先回りをし、裏を欠き、更には爆弾を仕掛けて爆死させるという残忍さを披露する。

さて複数の国に跨る国際犯罪に対して関係諸国の諜報機関、警察機構が協力して合同特別捜査班を組むという趣向はこれまでチャーリー・マフィンシリーズでは何度も取り上げられたが、そのシリーズがイギリスの諜報機関に属するチャーリー側から描かれているのに対し、本作ではカウリーが属している関係上、FBI側から描かれているが、どちらもFBIが捜査の主導権を握りたがるというのは変っていないところが面白いではないか。
これは英国人フリーマントルの偏見なのか、それともやはり一般的なイメージどおり、アメリカとは常に世界のリーダーシップを取りたがる事に関する証左なのか解らないが。

しかしこれほど国際的な犯罪を扱ったシリーズ作品を手がけているのに、フリーマントルは自らの作品世界をリンクさせない。つまりチャーリー・マフィンシリーズにはカウリーやダニーロフは出ないし、逆もまた然り。
マイケル・コナリーやエルモア・レナードは積極的に行っているのに、なぜだろう?私はチャーリーとカウリー、ダニーロフ、更にはユーロポールのプロファイラーであるクローディーン・カーターが一同に会して捜査を行う小説を読みたいと思うのだが。

もしそれが実現すれば一個人読者としてはかなり胸踊る作品である。今年で御齢82歳のフリーマントルが存命中にどうかこの願いを叶えてくれる事を密かに願っている。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
トリプル・クロス〈上〉 (新潮文庫)
No.411: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

まだ闇残る時代のミステリ

京極夏彦氏鮮烈のデビュー作。綾辻以降の新本格から第2ステージに移行した本格ミステリシーンの時代の転換期の象徴とも云える妖怪シリーズ第1作だ。

とは云え、一読、実に真っ当な本格ミステリというのが率直な感想だ。
元々ミステリとは始祖ポーが、明らかに怪物の仕業である、または説明のつかない怪奇現象の類いであると思われた事象を実に明解な論理で解き明かすことを主眼にした文学形態である。つまり人々が恐れていた謎という闇の部分に論理という光を当て、人智の物とする行為。
この京極堂こと中禅寺秋彦の「憑物落とし」は正にこの行為そのものである。だからこの妖怪シリーズは妖怪というモチーフと物珍しさ、憑物落としという興趣くすぐる演出で新たな本格という風な捉えられ方をしたが、実は黄金期ミステリ時代への原点回帰的作品なのだ。

この現代社会にそぐわない憑物落としを違和感なく作品世界に落としこむために設定した舞台が昭和二十七年という時代設定である。戦後からようやく復興の兆しが見えてきたこの時代、闇夜はまだ怪異の居場所だった。そんな異界と斯界がまだ密接に隣り合っていると信じられていたこの時期こそ自身の作品を成り立たせるのがこの時代であったと後日作者自身が述べている。

そしてそれが時折挟まれる幻想味溢れる眩暈めいた文体も相まって、独特の作品世界を構築する。理詰めで構築される博覧強記の京極堂の薀蓄語りとどこか情緒不安定な“信頼できない”語り手である関口の妄想めいた語り口が程なくブレンドされており、デビュー作とは思えない独自の作品世界と文体を既に確立しているのが素晴らしい。

またこのシリーズがなぜ斯くも人気があるのかがこの1作で解る。
非常にキャラクターが立っているのだ。

古本屋京極堂を営む陰陽師安倍晴明の流れを汲む元神主で憑物落としを副業とする中禅寺秋彦。
三文作家でワトソン役を務める俗っぽい語り手である関口巽。
出版社に勤める活動的な女性で京極堂の妹敦子。
そして眉目秀麗、何をやらせても非凡な才能を持ち、更に人の記憶が見えるという特殊能力を持った薔薇十字探偵社を営む榎木津礼二郎。
関口と榎木津の戦友であり警視庁の刑事である木場修太郎。
第1作から斯くも個性的なキャラクターが総出演し、それを自在に物語に配置し、躍動させる京極氏の筆の冴え。

そして全編に繰り広げられる薀蓄、これまた薀蓄の波。
民俗学から端を発す妖怪、幽霊の存在についての考察から宗教論に錬金術、はたまた大脳生理学から量子力学まで、その内容は幅広く、しかも詳細だ。しかもこれらは単なるガジェットではなく最後の憑物落としに実に有機的に結実するのだから読み落としてはいけない。

なおこれも翻って考えれば、黄金期ミステリを代表するヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスに由来している事が解る。先にも述べたがこのシリーズは実に本格ミステリの王道に忠実なのだ。

そしてこれら博学な知識を動員して説かれる論理はなかなか心地よい物がある。幽霊を視認する事と脳の作用に関する考察、歴史上の人物と御伽噺の登場人物の存在として等価性とそれに対する現実と想像との判断基準に関する考察、知性や道徳性が生物の種の保存という本能に及ぼす歪んだ価値観、などなど興味は尽きない。
その中でも特に他人の記憶が視覚化するという榎木津の特殊能力に対する京極堂の論理的推論は非常に面白い物があった。

その榎木津もエキセントリックな風貌も相まって御手洗潔が初登場した時を思い出させる印象的なキャラクターだ。個人的には一番好きなキャラクターである。

そして話が進むにつれて、噂の久遠寺医院は伏魔殿の如き様相を呈してくる。
蛙のような赤ん坊、産まれてまもなくいなくなる嬰児、これら奇妙な噂と謎が実に間然なくロジックで解き明かされる心地よさ。
しかしその真相は実に複層する狂気が折り重なった戦慄の真相。
惑う人ほど弱く、そして自らの視野を狭め、最悪の選択をする。
このあまりに非人道的な行為が今回の失踪事件に繋がるロジックの妙はおぞましさはもとより耽美な美しささえ感じるほどだった。
この業が“姑獲鳥”なる妖怪を生み出してしまったのだ。

とまあ、実に私の好みと合った作品で、ここまで激賞の連続だが、メインの謎に関する真相はいささか期待はずれという感がないわけではない。
二十ヶ月間も妊娠している妊婦、密室から失踪した夫の行方と非常に不可解かつ魅力的な謎を提示しているが、その真相との落差が激しかった。

今まで述べたように、この妖怪シリーズは決して斬新な本格ミステリではなく、むしろ過去のあらゆる分野からモチーフを取り出し、それを咀嚼した上で完成した物語という一枚の絵であることは識者であれば一目瞭然だろう。
しかしそれは全くこの作品を貶める物ではない。逆に温故知新の素晴らしき実践例だと私は褒めたい。

本格ミステリに必須ともいえる謎という暗闇に日本古来より伝わる妖怪という怪異を施したこのシリーズと作者の着想。更には知識欲の充足をも与えてくれる博学な作者のデビュー作とは思えぬ練達の筆捌き。
次作を早く読みたい気分で今は胸がいっぱいだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)
京極夏彦姑獲鳥の夏 についてのレビュー
No.410:
(7pt)

某書でネタバレ食らった作品

日本では邦題が示すように国名シリーズに数えられているが、原題は“The Door Between”と全く別。本国アメリカでも国名シリーズからは外されている、なんとも微妙な立ち位置にある本書。
因みに国名シリーズに数えるならば10作目と非常に据わりがいいため、これが故に日本ではシリーズの1作として考えられている節もある。しかし、私見を云わせていただければ、やはりこれは国名シリーズではなく、『中途の家』同様、第2期クイーンへの橋渡し的作品だと考える。

まず単純な理由を云えば、国名シリーズの専売特許とも云うべき「読者への挑戦状」がないからだ。しかしこれはほんの小さな違いといえよう。読み終わった今、この事件を読者が当てることはまず不可能だろうし、もし挑戦状が挿入されていたとしたら、アンフェアの謗りを受けることも考えられるからだ。

私が感じた大きな特徴は次である。
国名シリーズならびに悲劇四部作といったそれまでの長短編は発生した殺人事件に関わる複数の容疑者の中から犯人を搾り出す構成であったのに対し、『中途の家』と本作では事件の容疑者は1人に絞られ、その人物の冤罪を晴らすという構成に変わっている。これは『スペイン岬の秘密』で最後にエラリーが吐露した、自身が興味本位で行った犯人捜しが果たして傲慢さの現われではなかったか、知られない方がいい真実というのもあるのではないかという疑問に対する当時作者クイーンが考えた1つの解答であるのではないか。即ち部外者が犯行現場に乗り込んで事件の真実を探ること、犯人を捜し出すことの正当性を無実の罪に問われている人物への救済へ、この時期クイーンは見出したのではないだろうか。それは最後、真犯人に対してエラリーが行った行為に象徴されているように思う。

そしてもう1つ、敢えて『中途の家』との類似点を挙げると、それは恋愛の要素が物語に織り込まれていることだ。
しかしなんともぎこちない登場人物のやり取りは三文芝居を見せられているようで、上っ面を撫でただけのような感じがするのは否めない。ちょっと背伸びしているような気がする。

本書では犯罪のプロセスを証拠によって辿るというよりも、犯行に携わった人々の心理を重ね合わせて、状況証拠、物的証拠を繋ぎ合わせ、犯罪を再構築する、プロファイリングのような推理方法になっているのが興味深い。そしてその手法は事件が解かれた後にエラリーと真犯人の間で繰り広げられる第2の真相において顕著に見られる。
これは先に述べた物語に恋愛感情を絡めた事に代表されるように、作者クイーンは人間の心理への謎へウェイトを置くようになったのではないかと思う。
特に被害者カーレンの死の真相は、非常に観念的な要素を秘めているのがその最たる特徴だ。
そして文中の脚注でも述べられているが、そのカーレン・リースには実在のモデルがいるとのこと。そのモデルとなった女性エミリー・ディキンソンも女流詩人という文学者で厳格な父親の影響ゆえに、父の死後、自宅から一歩も外出することなく一生を過ごしたのだという。こういう奇異な生活をした人の心理こそエラリーは興味深い謎と思ったのではないだろうか。

これら第3者による事件の真相解明の意義、人間心理への興味については今後の作品を読むことでまた考察していきたい。

しかし10作以上も出しながら未だにクイーンの作品で描かれる警察の捜査には不可解なところがある。
流石にエラリーが殺人現場の持ち物を無造作に手袋もせずに触れる際に「指紋はすべて調べてある」というフォローが入るようにはなったが(それでも現場保存という観点からこの行為は問題ありだが)、今回はエラリーが屑箱からカーレンが死に至った凶器となる鋏の片割れが見つかり、しかもそれをクイーン警視が凶器と認識している箇所があるが、これはどう考えてもおかしいだろう。事件の凶器と見なされる物は重要証拠であり、これらは全て警察によって回収し、保存されなければならない。しかも拭われたとは云え、被害者の血液も付いており、ましてや冤罪に問われようとしているエヴァの指紋さえ付いている可能性もあるのだ。それを凶器と知りつつ、現場に放置しているとは全く別の世界の話だとしか思えない。
クイーン作品の、このような警察捜査に関する無頓着さが未だに解せない。

本書は前述したように「読者への挑戦状」は挿入されていないものの、一応読者が推理できるような作りにはなっている。いつもならば私は一応の犯人と犯行方法を推理するのだが、本書ではしなかった。
というのもある新本格作家の作品を読んだがために、真相を知っていたからである。
本書未読の方のためにその名を挙げておくとそれは麻耶雄嵩氏の『翼ある闇』である。私と同じ不幸に見舞われないための一助になれば幸いである。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ニッポン樫鳥の謎 (創元推理文庫 104-14)
エラリー・クイーンニッポン樫鳥の謎 についてのレビュー
No.409: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

気負い過ぎのデビュー作

既にベテランの本格ミステリ作家として活躍する芦辺氏の鮎川賞受賞作にしてデビュー作。
題名が示すように主要登場人物は二桁にも上る大学のサークル仲間。そのうち8人が死体になるという大惨劇。時刻表トリックに、密室殺人、暗号、毒殺に誘拐事件、更にはダイイング・メッセージと、本格ミステリで用いられるモチーフをふんだんに盛り込んだ贅沢な作品だ。

本書の特徴は冒頭に作者自ら本書で採用したトリックや事件の背景となる事件について断片的に語られていること。作者の弁を借りれば、謎解きの段になって語られる読者には知りえなかった犯行経路、機械的トリック、背後の事実をあらかじめ提示してそのハンデを解消させようというのがその意図であるが、読後の今ではそれもまた前知識になれこそすれ、これらの情報を以って、犯行及び犯人を特定するのは至難の技であるといわざるを得ない。
しかしそれは不満ではなく、これがまた謎解きにカタルシスをもたらす一因になっているのが憎めない。この趣向は古典ミステリにおけるクリストファー・ブッシュの『完全殺人事件』と類似しており、恐らく古今東西のミステリに精通した作者の事、この作品が念頭に置かれていたのは間違いないだろう。

そして物語の大半を登場人物の手記が占められている本作、前述のようにかなり数の事件が起きるだけに、構成はかなり凝っている。
なんと語り手である十沼自身も殺人鬼の毒牙にかかって亡くなってしまうのである。これには度肝を抜かれた。通常ならば物語の語り手とは犯人ではなく、探偵役もしくはワトスン役、更には傍観者という暗黙の了解があるが、それを覆すこの趣向にはニヤリとさせられた。
そしてようやく本作の探偵役である森江春策の登場。なかなか心憎い演出だ。

そして彼の口から開かされる連続殺人事件の構図は複雑で、とても一読者が看破できるような代物ではない。8件もの事件を時系列に並べるだけでも大変だし、読後の今、その込みいった事件の全貌を十全に理解できたかといえば心許ない。
これらふんだんに盛り込まれたトリック、ロジックを過剰だと切り捨てればそれまでだが、これも芦辺氏が敬愛する鮎川哲也史の名を冠した賞を何が何でも受賞したいが故にその時点での全てを盛り込んだ力作だと評価しよう。

しかし今後芦辺氏の数ある諸作でシリーズ探偵を務める森江春策だが、本書で受ける印象はさしたる特徴も無い、明敏な頭脳を持つ探偵である。関西弁をしゃべり、少し気が弱く、また大きめの頭にボサボサに伸びた髪、高からず低からずといった背格好と、エキセントリックという単語とはかなり距離を隔てた人物設定だ。作中人物の言葉を借りて作者は森江をチェスタトンのブラウン神父に擬えているようだが。まあ、このキャラクターも今後の芦辺氏の諸作で際立ってくるのだろう。

ただしかし、なんとも読みにくい文章。学生時代の、知識ばかり蓄え、社会性に乏しい青臭さを文章で表現しているのだが、悪乗りのように感じてしまってなかなかスムーズに読むことが出来なかった。
常に捻りを加えられたその文章は文字を追う目の動きをノッキングさせ、しばし理解に苦しむところがあった。これは奥田哲也氏の諸作を読んだ時と同様の感覚だ。
前述のように、これは作中の語り手である推理作家志望十沼京一の手記だと解るのだが、それでもなお、悪ふざけの極地とも云えるこの文体には参った。ここでかなりの人が嫌悪感を示し、読むのを止めてしまうのではないだろうか。

謎解きを終えて感じるのは作者の本格ミステリへの深い愛情である。古今東西のミステリを読み、さらにその研究を続ける芦辺氏が過去の偉大なる先達の遺産を換骨奪胎し、紡いだ本作からは彼らに対する深い敬意と本格の火を絶やすべきではないという信念が紙面から迸っている。それが故に筆が走りがちになっているのは否めないものの、この意欲と情熱は買える。

個人的には暗号を解けなかったのが悔しかった。以前ある推理クイズで同種の暗号を見抜いただけに。今私が読むと、上のような評価になってしまうが、もし私が新本格に夢中になっていた学生時代もしくは社会人成り立ての頃に読むとこの評価は変わったかもしれない。

彼がデビューした頃、新本格ブームに乗じて数多の作家がデビューし、また消えていった。
その中で生き残り、今なお精力的に作品を発表し、評価が上がりこそすれ落ちる事のないこの作者の作品をこれからも読み続けていこうと思う。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
殺人喜劇の13人 (創元推理文庫)
芦辺拓殺人喜劇の13人 についてのレビュー
No.408:
(7pt)

女の闘いはドライに書くほど怖さが引き立つ

父親が経営する会社―本書の場合は義理の父親だが―が悪事に加担しており、それを自分が引き継ぐ事になったら・・・という、クーンツ張りの巻き込まれ型サスペンスをフリーマントルが書くと斯くもこのように実に緻密な物語になるといった見本のような作品だ。

この、ある日突然自分の身に降りかかる災禍ほど恐ろしい物はなく、主人公と読者自身を同化させるとそれは尚更肌身に感じられてくるのだが、フリーマントルの場合はそれが一般の市井の人々のレベルではなく、ハイソサエティクラスの人物達の物語であるから、どうしても明日は我が身といった危機感を感じられないのが難点ではある。

物語は大きく分けて2つに分かれる。
まずいきなり人生最悪の状態に陥ってしまったウォール街一流会計事務所の後継者ジョン・カーヴァーの葛藤とマフィアとの戦いの決意をするまでの前半部。ここに絡んでくる2人の女性、妻のジェーンと愛人のアリスはまだ脇役と云っていい。どちらかと云えば独立した女性アリスの方が何かにつけジョンをサポートしており、パートナーの役割を担っている。

そして物語中盤、ジョンが亡くなってからはこの2人の女性の物語となる。ようやく原題の“Two Women”の出番だ。
この2人の立場は2人を追うマフィアの魔手をかいくぐりながら主客転倒して物語は流れていく。特に愛人であるアリスがその存在を知らないジェーンを半ば誘拐する形で連れ出す展開はツイストが効いている。

やがてアリスと亡き夫ジョンとの関係を知らされ、ジェーンにある種の芽生えが生まれてくる。これはお嬢様として育てられ、何不自由なく与えられた女性の自立がテーマになっていると述べたいところだが、どうもそう簡単に一言で済まされない読後感がある。

私が最後読んで思ったのは、女は怖いということだ。

女性は男性に比べて情理のバランスが取れているというのが通説だ。だから男は女には口では敵わないのだと云われるのだが、このジェーンとアリスも1人の男性を巡る正妻と愛人との関係なのだが、どうにもお互いを憎みきれない感情を持っている。それは一緒の男性をお互いに自分なりの方法で愛したからという理由から来ている。通常ならばここから2人お互いに手を組み、共同戦線を張ってマフィアから逃れ、FBIに協力するという形になるのだが、フリーマントルはそんな簡単には物語を運ばない。

こうして見ると本書のテーマとは、やっぱり女の恐ろしさではないかと思える。女性の微笑みの裏に隠された本当の思いとは誰も解らない。
フリーマントルがさほどドロドロとした女の戦いを描かなかっただけに、却ってうすら寒さを感じるのだった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
知りすぎた女 (新潮文庫)
No.407:
(7pt)

後期クイーン作品の萌芽

国名シリーズ9作目の本作は非常にオーソドックスな作品と云っていいだろう。
岬の突端に建てられた館。そこには1人のジゴロを中心に愛憎交じり合う娘と母親、そして来客者達。
それぞれに何か胸に秘める複雑な感情が渦巻く中、そのジゴロが殺される。そして捜査が進むうちに判明するのはそのプレイボーイが恐喝屋で、わざと不倫を唆して、その証拠を押さえ、金銭を強請っていたという、古式ゆかしい本格推理小説の典型とも云える作品だ。
しかし、今までのクイーンの国名シリーズではどんな作品でさえ殺人舞台の見取り図が添付されていた物だが、本作ではスペイン岬に立つ屋敷を舞台にした犯行を扱いながら、屋敷の見取り図が一切ない。つまり本書の謎とは屋敷の住人の配置とは関係なく、またそれぞれの部屋に特殊な仕掛けがあるわけでもない、トリックではなくロジックに重心が置かれた作品だと云える。

そんな話だから登場人物の相関関係を調べていくうちに自然と犯行の動機も解り、どのように犯行が成されたのかも解っていく。この辺は何の奇の衒いもなく、半ばで地元警視が開陳する推理と同様に私も考えていた。
しかしその流れにどうしても当てはまらない奇妙な1つの事実が歴然として存在する。それは被害者が全裸という状態で殺されていた事。捜査が進むにつれて関係者それぞれの思惑、関わりからパズルはどんどん完成していくのだが、この奇妙なピース1つだけがどこにも当て嵌まらない。本作の鍵は正にこの1点にあるといっていい。

この動機、犯行の流れが物語が進行するに連れ、徐々に整然と説明が付いていくのだが、どこか奇妙に食い違う箇所があるという味わいはセイヤーズの諸作によくみられる物だ。このプロットに介在する奇妙なピースが当て嵌まる事でガラリと変わる真実こそクイーンが本書で狙ったミスディレクションの妙だと思う。

そうミスディレクションこそ本書でクイーンが試したかったことだろう。

まず冒頭の誤認誘拐事件を仕組んだのは誰かというのはミステリを読み慣れた読者ならば容易に察する事が出来る。しかしこれが実に巧妙なミスディレクションだろうとこなれたミステリ読者ならば深読みしなければならない。
思えば本書の皮切りに神の視点である物語の記述者の手によって誤認誘拐事件の失敗が示唆されているが実はここから作者の巧妙なミスディレクションが始まっていた事に気付かされる。

そして明かされる死体が全裸だった理由はなかなかに興味深い。この奇妙なパズルピースこそ犯人を決定する唯一の糸口だったと云える。

もうお分かりだと思うが、今回の私の挑戦も敗北だった。
私が理論立てられなかった推理を鮮やかにロジックで解き明かすエラリイにここは素直に降参するしかない。逆にオーソドックスだと思われた本作もこの推理で流石はクイーンというべき作品になった。『アメリカ銃~』以降、立て続けに失望させられただけに、ようやく満足の行く作品が出たと安堵した。

しかし不満が残るのは結局のところ、犯人が捕まるのに決定的な証拠が無かったことだ。犯人が誠実な男であったために、自ら非を認め、逮捕に至っただけで、実はエラリイは状況証拠を並べただけに過ぎない。ここに本作の詰めの甘さがある。

また本作では珍しく指紋に関して注意が払われるが、それでもまだ認識が甘い。なぜなら犯行現場であるウェアリング邸でエラリイは所構わず触れるし、あまつさえ犯人が使用した電話をそのまま素手で扱うという不注意な行動を取る。
元々指紋、血痕、唾液といった人物を特定する証拠を基にロジックを組み立てる作品ではないと解ってはいるが、それでもこういう無頓着さにはどうしても嫌悪感を抱いてしまう。

今回、興味深かったのは今回エラリイは犯人を明かした後、後悔の念を示すことだ。なぜならば被害者は悪質な恐喝者であり、彼の死は賞賛されるべきことだった。そして犯人こそ正義があったからだ。
「わたしは人間の公平なんてどうでもいいと公言してきました。だけどそうじゃない、実に大事です!」
泰然自若とする犯人の誠実さにクイーンが初めて見せた苦悩。作品を重ねるにつれて単なる頭脳ゲーム、ロジックパズルゲームとしての推理小説から人を裁く事に対する意味への移り変わりの萌芽がここに見られる。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
スペイン岬の秘密 (海外)
エラリー・クイーンスペイン岬の謎 についてのレビュー
No.406: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

膨大な情報量の海を越えて物語は思いがけない彼方へ

世に「理系ホラー」なる新語を定着させた衝撃のデビュー作『パラサイト・イヴ』では遺伝子工学の観点からミトコンドリアを題材にした瀬名氏が今回取り上げたテーマは題名にあるようにずばり脳。
島田荘司氏が21世紀ミステリの提唱として取り上げたのも大脳生理学という脳の研究学問の分野であり、もしかしたら島田氏は本書を読み、本書に書かれた現象の数々に触発されて、新たなる幻想的な謎の創作の端緒を得たのかもしれない。そんなことを感じさせる、とにかく色んな要素が詰まった作品である。

刊行された97年時点での最先端の脳科学研究の内容と日本の関東から東北との境にあると思われる山中の村落、船笠村に昔から続く“お光様”なる民間伝承、そして主人公孝岡が遭遇するエイリアンによる誘拐(アブダクション)体験、さらには臨死体験からサイバースペース内で培養される人工生命へ、そして動物とのコミュニケーションの確立と、理系、文系、そして超常現象、動物行動学とおよそ交わることのないエッセンスが並行に、時に交錯して語られる。私はこの物語は一体どこへ向かおうとしているのか、非常に不安でならなかった。ホラーとして超常現象をあるがままに受け止めるべきか、それともミステリとして合理的解決されるべきとして読み進むべきか、読者としての立脚点をどこに置くか、非常に悩まされた。

しかしそれらはやがて合理的に結び付いていく。これに関しては物語の核心に触れる事になるので後ほど語る事にしよう。

さて自身薬学博士である瀬名氏の作品へのアプローチは常に一研究者の立場として描かれ、作中で開陳される専門分野の説明は他の作者が付け焼刃的に調べて、門外漢である一般読者と同じレベルでの叙述に留まっているのに対し、かなり専門的で説明も細微に渡り、論文を読まされているのと同様の難解さを提示し、読者への理解に苦痛を強いる。
今回も脳科学についてかなりのスペースを割いて読者に本書を理解するための前知識としてその内容を披露しているが、やはりかなり難解だ。主人公の孝岡の言葉を借りて作者が云うには、一応一般読者へ理解しやすいように随分省略しているようなのだが。

しかしその難解な文章を読み解いて、100%とは云わないまでも自分なりに理解できた内容はかなり刺激的なものだった。
私が理解したなりに単的に云えば、孝岡が研究するレセプター(受容体)というのは記憶を司る大脳の海馬、大脳新皮質に刺激を伝達する神経伝達物質グルタミン酸を文字通り受容する云わば門であり、神経細胞間に空いているシナプスと呼ばれる隙間に存在している。これが人間に記憶させる働きを担っており、このシナプスに刺激が多く加わるとレセプターを閉じている栓の役割をしているマグネシウムイオンが解除されて、カルシウムイオンが細胞の中に流れ込み、それがタンパク質を活性化する。そのタンパク質がレセプターを更に活性化させてグルタミン酸に対する感受性をもっと強くし、それが記憶となって脳に焼き付けられるということだ。
そしてその刺激が強ければ強いほど、短期記憶を司る海馬から長期記憶を司る大脳新皮質への伝達が容易になる。そして更に強い刺激は刺激を伝達する隙間シナプスをも増大させる作用があり、シナプスが増えることで刺激は更に伝達しやすくなり、海馬から大脳新皮質への伝達を容易にする。これが記憶のメカニズムだ。

ここで私が閃いたのは傑作、駄作と云われる小説、映画、マンガなどの創作物と佳作と云われるとの違いは脳への刺激への大小にあると云えることだ。未だに長く記憶に留まる名作、例えばミステリで云うならば『占星術殺人事件』のあの驚愕のトリックに『異邦の騎士』の忘れがたいセンチメンタリズムと御手洗の勇姿、『十角館の殺人』のあの世界が壊れる音が聞こえる衝撃の一行、映画で云えば『ショーシャンクの空』の眩しいほどに美しい最後の海岸での邂逅シーン、『E.T.』の人差し指を繋げるシーンなどは我々の脳に刺激を与え、シナプスを増大させる作用があったのだ。
また逆に非常につまらない駄作-弊害が生じるので具体例を挙げるのはあえて避ける―の類いもそのつまらなさが逆に負の刺激になり、シナプスを増大させ長く記憶に留まる。この二律背反が非常に面白いではないか。

逆に可もなく不可もない凡百の作品は刺激も少ないから短期記憶となり、すぐに忘れてしまう。多くの作品がそうであろう。しかし見方を変えればそれら多くの作品が短期記憶の段階で留まっているからこそ、諸々の傑作が記憶の中で煌めいて頭に留まり続けるのだと云える。
しかし私は敢えてこのことについて2点、考えたい。

まず記憶の鍵となるタンパク質を活性化させるにはやはりタンパク質を常に摂取しておかなければならないということだ。読書好きで単に読破した本の冊数を誇るだけならばその限りではないが、一つでも多く読んだ本を記憶の留めたいならば三度の飯よりも読書ではなく、バランスの良い食事が読書の肥しになることを認識すべきだろう。
2つ目は佳作、凡作の類いであれ自分が読んだ本に対して記憶を少しでも多く留めたいのならば、単に読むのではなく、佳作でも凡作でも自分の脳に刺激を与えるような読み方、即ち行間を読むことを心がける事だ。本書で書かれた記憶のメカニズムに基づいて考えるならば、長く記憶しておく事とは即ちその人が刺激を受ける受け皿を常に用意している事によると考える。換言すればそれは好奇心をどれだけ持っていることかということだろう。
本作は単に脳の仕組みについて教えてくれただけでなく、今後も多く読むであろう本を記憶するにはどうしたらよいか―勿論それは読書に限ったことではなく、仕事、私生活、その他全てに当てはまる事だが―のいい指針となった。

知的好奇心を刺激される内容は他にもある。
特に非常に興味深かったのが、脳のメカニズムを科学的見地から突き詰めれば突き詰めるほど、感情や情動といった心の問題に行き当たるところだ。脳の各部位が何を司るのかは長年の研究の蓄積によって解明されつつあるが、では心は一体どこにあるのかという非常に原理的な問いに対してまだこれといった解答が得られていない。
そこには科学が超えられない歴然とした壁のようなものがあり、そこを突き詰めていくといつ人間は信仰を持つようになったのか、神の概念とは、といったような宗教的な論点に行き当たる。科学的に実証しようとしておよそ科学からは縁遠い神の存在へと行き当たるところにこの分野が抱える大きな闇があるといえる。

特にそれを象徴するのが人工生命という存在だ。それらはコンピューターのプログラムというサイバースペースで生きているのだが、プログラマーは単純な指令を2、3つ下すだけでコンピューターの中の生命は実に生物らしい振る舞いを行う。
なぜそれが起こるのかを論理的に説明するとなると研究者の数だけ定義が出てくると筆者は作中で述べている。そして結局のところ最も理解しやすい解釈というのが「機械が生命を模しているのではなく、機械もまた生命なのだ」という理だ。果たしてこれが真理かどうかは解っていないが、数式や論理といった無機質な世界に加え、気配、肌触り、手応えなる生命的直感を合わせて考えることでこの見えない壁が破れるかもしれない。これは茂木健一郎氏がいっている「クオリア」なる概念と何か関係があるかもしれない。

(以下はネタバレにて)


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
BRAIN VALLEY〈上〉 (新潮文庫)
瀬名秀明BRAIN VALLEY についてのレビュー
No.405:
(7pt)

フリーマントル版『24』!?

今回の作品は今までになく派手だ。ニューヨークの国連事務局タワーにミサイルが着弾するのを皮切りに、ボートの爆破、ワシントン記念塔の階段爆破、ペンタゴンのコンピューター・セキュリティー・システムを破ってのクラッカーの侵入、そして海を越えてモスクワのアメリカ大使館へのミサイル襲撃と、次から次へと事件が発生する。

フリーマントルの他のシリーズが発端の事件に絡んで政治的駆け引きや国交的な問題、各国の歴史の暗部の隠匿という妨害を主人公が知恵と行動力と大胆さでクリアしていく過程を描き、1つの事件をじっくり描くのに対し、確かにこのシリーズでは捜査中に殺人事件が連続して起きる傾向ではあったが、本作では前2作を上回る大規模テロが連続して起きるところがミソだろう。
これはやはり9・11が影響しているように思う。あの小説を超えた未曾有のテロは内外の作家に多大なショックを与え、それはフリーマントルも例外ではなかっただろう。特に世界のジャーナリズムに精通している彼にとっては。
一応作者本人は本作が9・11の前には既に書き上げられていたと言及しているが、事件後、加筆したともあり、少なくとも、いや大いに影響は受けている物と思われる。従ってあの現実を超えるにはもっと派手な事件を設定しないと現実を凌駕できないという焦りがあったのではないだろうか。それが作家の矜持を奮い立たせたように私は感じた。

本作でアメリカ・ロシアの二国間に渡って次々と襲撃する脅威を一言で云うならば次の一言に尽きるだろう。
テロの分業化。
民間人がテロリストから指示を受け、それぞれの職業を利用して資金調達、物資調達をし、テロに加担する。彼らは罪悪感を持ちながらも普段の生活では決して得られる事のない莫大な収入に目が眩み、止めることが出来ない。
そしてそれを可能にするのが、今やなくてはならないツールであるインターネットである。仮想空間に増殖し続けるサイトに集うハッカー、クラッカー達に法外な報酬をチラつかせて協力を頼む事でそれらはいとも簡単に成立する。本作ではアメリカとロシア2つの国に限定されているが、これらのテロは世界規模で起こる可能性を秘めている。

さてこのシリーズの前2作では割合ロシアのダニーロフ側に物語のウェートが占められていたが、本書では頻発するテロがアメリカという事もあり、カウリー側が前面に押し出されている。冒頭にいきなりカウリーが爆破テロに巻き込まれて重傷を負い、この事件を彼自身の事件として決意するなどと熱い一面を見せるのも今までになかった趣向である。
そしてダニーロフと云えば、前作の活躍により昇進し、ロシア民警の頂点、将軍になっていた。それから来る自信が彼を以前と変えており、泰然自若とし、大統領首席補佐官と内務大臣との権力抗争の狭間に置かれながらもそれを手玉に取るまでの落ち着き振りを見せる。破綻した私生活と愛する同僚の妻との愛情とでウジウジしていた彼の影は、物語の冒頭では見られるものの、最後では雲散霧消してしまう。

また今回から彼ら2人のコンビに新しいメンバーが加わる。パメラ・ダーンリーというFBI捜査官だ。彼女は強い上昇志向の持ち主で、ボート爆破に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったカウリーの代行を命ぜられる。これを足がかりに更に上を目指そうとする野心家だ。自分の未熟さを認めつつも、邪魔する者を排除する事を全く厭わない、攻撃的な女性である。
通常フリーマントルはこういった人物を空回りさせ、自滅の道を歩ませるのだが、パメラは大いに彼ら2人に貢献し、更にどんどん活躍の場が増えてくる。シリーズのマンネリ化を防ぐ一つのカンフル剤として彼女を導入したようだが、この扱い方は今までに見られなかった傾向だ。なぜならその押しの強さは恐らく読者全員の好意を得られないだろうから。
しかし物語が終盤に近づくにつれて、彼女のこのシリーズでの役割―ポーリーン去った後のカウリーの公私に渡るパートナー―もはっきりしてくる。

この作品は前作のタイトルどおり、ロシア民警ダニーロフとFBI捜査官カウリー2人の「英雄」の姿が描かれるが、彼らの私生活は共に幸せではない。
カウリーは寄りを戻しつつあった前妻のポーリーンに去られ、ダニーロフは元々上手く行っていなかった妻オリガがこの世を去る。しかもオリガは浮気が基で妊娠し、それを隠すためにダニーロフと寝ようとするが上手く行かず、中絶に失敗して死んでしまうという悲惨さだ。
仕事の出来る双方は温かな家庭に恵まれない。これは万国共通のアイロニーなんだろうか。

さてかなり練られたプロットで、意外性のある共犯者と相変わらずの筆功者振りを見せ付けてくれるのだが、どことなくアメリカの大ヒットドラマ『24』の影がちらついてならない。爆破テロもそうだが、特にペンタゴンの内部スパイの存在、そして次の脅威の萌芽を予兆する終わり方など、すごく既視感を感じた。最後の犯人を捕らえるシーンなどはそっくりだと云える。
どちらが先かという問題もあろうが、件のドラマを観た後で読んだがためにちょっと損な受取り方をしてしまった。

ここまで派手な事件を繰り広げると次作の展開を懸念する向きもあるが、その心配は無用だろう。なぜならそれはチャーリー・マフィンシリーズで既に何度も杞憂となっているから。
だから私は次作も大いに期待して待ちたいと思う。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
爆魔〈上〉 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル爆魔 についてのレビュー
No.404:
(7pt)

意欲は買えるが複雑すぎる

デビュー以来覆面作家として創作を続ける作家北川歩美氏のデビュー作。
ある日目覚めると女になっており、しかもその世界は五年後の世界だったというSFとしか思えないこの設定に論理的解明を試みた野心作。本作は当時日本推理サスペンス大賞に応募され、惜しくも当選を逃したが編集者の厚意により、加筆訂正をした上、出版された。
その選考会に参加したある書評家が某所で述べた、「実は今年最も印象に残った作品は某ミステリ賞に応募された『僕を殺した女』だったりする」というコメントが非常に印象に残っており、それが本作を、そしてこの北川歩美という作家に興味を覚える契機になったのは間違いない。

このどう考えても論理的に解明できない設定をどう料理するか、それを作者は作中人物の僕こと篠井有一の口から色々な推論を繰り広げる。

1995年のヒロヤマトモコと1989年の僕がお互いに異次元の扉を通った際に空間の捩れによって精神が入替ったというやはりSF的な論理展開を皮切りに多重人格論、2人の脳を入れ替えて起きた脳移植という推理。
精神異常者であった2人が精神病院で邂逅し、濃密な関係を築き上げていった際にそれぞれの心にお互いの人格が住み込んでしまった精神共有論。
篠井有一とヒロヤマトモコ2人の精神はそのままでお互いに性転換手術を受けた、などなど、その論理はどんどんこちらの予想を超えてエスカレートしては消去されていく。これは云い換えれば作者自らが合理的解決の選択肢を狭めていっており、かなりハードルの高い趣向をこらしていると云えよう。

特に混乱を誘うのはヒロヤマトモコなる女性の人生がそれまでに存在し、さらに彼女の意識に入り込んだ主人公篠井有一の人生も、失われた5年間の人生も存在するということだ。

さらに彼を取り巻く登場人物らも物語が進むにつれ、隠れた秘密が見えてくる。同性愛者、レイプされた女性から生まれた子供、近親相姦者と、アブノーマルな人間どもが織成すフリーク・ショーのような様相を呈してくる。

本作が刊行された90年代というのは、なぜか世間で自分探しというのが一大ブームとなった。バブル経済という幻想から覚めた人々が、それまで外側に向けていた意識を自分のアイデンティティという内側へ向けだした、そんな時代だった。
他者から見た自分とは一体どんな人間なのか。一番よく知っている自分のことを実はよく知らないのではないか。自然、小説やドラマもそれを扱った物が増えてきた。
特にTVでは『それいけ!ココロジー』という心理テストを扱った番組がちょっとしたブームになり、関連書籍も多く出た。本作も当時ブームだった「自分探し」をテーマにしている事は容易に読み取れる。

ただ謎は魅力的だが、最後に明かされる真相は複雑すぎる。色々詰め込みすぎで、特に後半はどんでん返しが執拗に繰り返され、その都度頭を整理する必要に迫られて、理解に困難を生じてしまうのが惜しいところだ。
方程式が美しく解けていく様を見ているというよりも、複雑で入り組んだ論理を勉強しながら読み解くといった感じか。
やはり魅力的な謎は割り算のようにスパッと割り切れるくらいの明快さを求めたいところだ。実にサスペンスフルな作品だっただけにそれだけが悔やまれる。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
僕を殺した女 (新潮文庫)
北川歩実僕を殺した女 についてのレビュー
No.403: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

『新宿鮫』とは違う新宿の貌

本書は書評家坂東齢人氏改め馳星周氏のデビュー作にしてその年の『このミステリーがすごい!』で1位を獲得した話題作である。
しかしその鳴り物入りの本書だが、発表後数年経った今読んでみると、なぜこれが1位?と首を傾げざるを得ない。

新宿を舞台にした犯罪を扱った小説といえば既に大沢在昌氏の『新宿鮫』という警察小説の傑作がある。
その新宿の代名詞ともいえる作品に怯むことなく新宿を描いた本作『不夜城』は大沢氏が警察の側から新宿を描いたのに対し、彼は犯罪者の側で新宿の更に奥の闇を描く。そこでしたたかに生き抜く在日アジア系外国人社会の混沌を浮き彫りにしていくのだ。本書は劉健一という男のピカレスク小説なのだ。

しかしその基本プロットとしては実にオーソドックスなスタイルを取っている。競合しあう複数の敵の間を直感と知恵、時には大胆なはったりで渡り歩きつつ、彼らを利用して生き残る健一の物語はハードボイルドの源流、ハメットの『血の収穫』以来、何度も使い古された王道の物語構造である。このプロットに新宿という無国籍地帯を舞台に設定し、そこに蔓延るアジア系マフィアで味付けをしている。
しかし私が思うに、馳氏は元々長年新宿のゴールデン街のバー『深夜プラス1』に出入りしていた人であり、新宿の街の、正確にはその夜の、只中にその身を置いていたので、自然にこういう物語が浮かんだような気がする。
後の各誌での彼のインタビューでは「自分で読みたいと思う小説がなかったので自分で書いてみた」と云っているが、自分の読みたい小説の題材が自らが身を置く新宿の街にあったことに気付き、書いてみたというのが正しいところなのだろう。だから『新宿鮫』という傑作があっても新宿という街を別の切り口で書けると踏んだに違いない。

その成果はありありと本書には現れている。
私が特に感心したのは人物配置の巧みさだ。東京を根城にする台湾系マフィアを軸に、その周辺を上海系マフィア、北京系マフィアと池袋を拠点にしながら新宿への侵出を狙っている福建系マフィアという対立構造も当然ながら、最も感心したのは健一と育ての親楊偉民との微妙な関係である。物語初頭では台湾人と日本人との混血児―半々―である健一が母親とともに楊の庇護下に置かれる事になり、その後呂方という獣のような台湾人を少年時に健一が殺す事で民族一家族を信条とする楊から縁を切られるようになった顛末が語られる。
私にはなぜ楊がその後も健一と付き合いを保っているのかが疑問でならなかったが中盤あたりで出てくる同じく半々の周天文が出てくるにいたり、実にこのアンバランスな関係が腑に落ちるのである。愛憎が絡み合うこの三者の三すくみ状態とも云うべき関係を次第に健一が凌駕していく過程は本作で健一が殻を破り、上への大きな一歩を踏み出すのに、ファクターとしてかなり有効に働いている。

ただ主人公とその連れ夏美に馳氏はいろいろ設定を詰め込み過ぎたような気がする。
台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた劉健一は少年時代は母親からの虐待から臆病に育ち、周囲から半々と蔑まれる日々を過ごす。やがて呂方という健一を忌み嫌う台湾人の少年ギャングの殺人を経て、家を出てオカマバーにウェイターとして働くようになる。その時に遭ったある女性との異常な体験、
それから呉富春と二人で組んでの盗難生活の日々、その後、陳綿という台湾の殺し屋に仕えて、白天という殺し屋と過ごした張り込みの夜の悪夢のような出来事、などなど。その1つ1つがかなり重い過去で、それが劉健一という人物を形成したという設定になっているが、個性的なキャラクターを創作するためとはいえ、陳列棚に並べるほど重い過去を連ねる必要が果たしてあったのだろうか?
そして小さな頃から多感な時期にかけて、これだけの目に逢えば精神崩壊するかと思うのだが、どうだろう?

そして相方の夏美も嘘に嘘を重ねて生きてきた女性。彼女の語る過去は物語が進むにつれ、二転三転し、終いには呉富春の実の妹で近親相姦を繰り返していたことが判明する。
なんというおぞましい設定だろう。普通こういう過去を持つと男性不信に陥り、こう易々と男のところに身を任せるようにはならないと思うのだが。

とこんな風に、印象的なキャラクターを作ることに固執してエピソードを盛り込んだにしては、彼ら2人のキャラクターの現在に過去との大きな乖離があるように感じてしまうのだ。そう他人の聞きかじった過去を自分の物と思い込んで生きている、そんな人物像のように思えてならない。

恐らくこれは「とにかく今ある物全てをこの物語に詰め込んでやる!」というこの作品に賭ける馳氏の意気込みの強さゆえだったのだろう。しかしそれが故に統一感に欠け、なんとも雑多な感じがしてしまう。

私が思うに、こういう手法を取るならば、シドニー・シェルダンがやっていたように、主人公二人の過去を時系列に交互に語っていく方が読者には二人の人格形成の成行きがわかってよかったのではないか。
ただこの小説はその手法は似合わない。本書のように今二人が置かれている状況と過去を同時進行で語るにはやはり1つ、最大でも2つ強烈なエピソードを挿入するに留めるのが無難であるといえる。
健一が語る様々な過去は、普通ならば他の登場人物、本書ならば元成貴、崔虎、周天文、楊偉民と一癖も二癖もある連中に配分する事でキャラが立ち、物語が際立つように思える。だから本書ではその手法で語られた呉富春の方がキャラクターとして一貫性があり、非常に印象に残った。

これが私が本書をして『このミス』1位に疑問を呈した理由なのだが、しかしやはり最後に残る読後の荒廃感、これは買える。騙す方より騙される方が悪いを信条に決して誰も信じることなく、いかに利用して切り抜けるかという社会で生きてきた劉の最後の決断は、これまでの小説とは一線を画すものだとは感じた。
私はこの結末をタブーだとは思わない。なぜならそこに至る健一、夏美の心情がしっかり書き込まれているからだ。裏切りの闘争の果てに残ったのは徒労感と燻り続ける父親同然だった楊への憎悪。そして劉健一は次の段階へと歩みを進める。

手放しで賞賛するには引っかかりを覚えるが、心に何かを残す作品ではある。
上述した不満点が今後の作品でいかに解消され、どのようなノワールを展開してくれるのか、次回作以降、楽しみである。



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
不夜城 (角川文庫)
馳星周不夜城 についてのレビュー
No.402: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

殺人方法も様々な連作短編集

倉知淳氏のシリーズ探偵猫丸先輩のデビュー作で、同時に倉知氏自身のデビュー作でもある。
本作は連作短編集で、7編の短編+α×2という構成になっている。そう、本作も若竹七海氏や西澤保彦氏の某作品と同じ、各短編に散りばめられたミッシングリンクが最後に明かされる趣向の短編集になっている。
さてそれについては後に述べるとして各編について順繰りに感想を述べていこう。

第1編「空中散歩者の最期」は猫丸先輩のキャラクターを語るのにうってつけの一編と云える。
導入部の幻想味、大掛かりなトリックによる真相と、大御所島田荘司氏が書きそうな作品。この真相については最初は眉唾物でなかなか信じられなかったが、高さと加速がつけば確かにありうるかもと納得。個人的には空中散歩者が宙を飛ぶ原理の着想が面白く、空中散歩者を主人公にした超能力物を読みたいと思った。

2編目の「約束」はガラリと趣向が変わって、ちょっとびっくりした。
子供を主人公にすること自体がもう卑怯とも云える泣ける一編。もう冒頭からその雰囲気満点である。
本作は隠された人間の悪意を看破する物で、若竹七海氏の作風を思わせる。ちょっと作りすぎのような感じもするが、こういう話に本当弱い。

「海に棲む河童」は1編目と同様、ファンタジックな物語で幕を開ける。
これも島田荘司氏の『眩暈』や『ネジ式ザゼツキー』を想起させる、一見ファンタジーとしか思えない話が実は真実であった事を論理的に解明する話。
面白いのは冒頭に付された御伽噺ががものすごい方言で読み難いことに配慮して、作者が本編終了後にその標準語訳を付けているのだが、今度は逆に注釈が多すぎて却って読み難くなっているところ。この辺は海外ミステリの過剰なサービスへの揶揄とも取れ、ブラックユーモアが効いている。

「一六三人の目撃者」は上演中の劇の最中で殺人が起きるという、夏樹静子の『Wの悲劇』を思わせる作品だ。
純粋にロジックで犯人を解き明かす1編。プロバビリティーの追求にのみ焦点を当てた本作は、従って最後に明かされる犯人の動機は一切謎のままに幕が閉じられる。
本作では猫丸が劇団員の1人として登場する。しかもかなりの演技派らしく、いつもと違う猫丸が見れる貴重な1編。

「寄生虫館の殺人」はどこかで見た事のある題名だが、中身は全然違う。
ちょっと強引過ぎるミスディレクションだなぁと思った。

NHKの受信料集金者が怪談のような奇怪事に遭遇するのが「生首幽霊」。
これはプロット創作の裏側が推理を重ねる事で見えてくるぐらいにかなり作り物めいた作品だ。長いアパートという設定で容易にある程度八郎が遭遇した事態の真相も予測はつく。

構成上、最後の短編なのが表題作「日曜の夜は出たくない」。
これは素直に上手いと認めよう。出来としても一番いい。よくあるサスペンス物だが、小技が効いていて、作者のミスリードになかなか抗えないようになっている。
そして明かされる真相も甘酸っぱい恋のノロケのようで微笑ましい。これが本作ではベストかな。

さてこれら7編の後、これらの短編に共通するキーワードがエピローグで明かされるが、これははっきり云って解明不可能、凝りすぎだろう。一応自分なりになんとか解き明かそうとチェックをしていったのだが、これほどまでに細部に渡ってチェックしないと解らない仕掛けだったら、驚愕とか感心とかを通り越して呆れるしかない。

さて本作で探偵役を務める猫丸という人物。その後シリーズ化されているが、確かに面白いキャラクターだ。当初は単なる小さな事件に興味のある素人探偵の域を出ていないキャラだったのが3編目と4編目では船頭のバイトだったり、劇団員だったり、と意表を突くシチュエーションで絡んでくる。
それが私をして猫丸というキャラクターに好感をもたらせることになった。

一番面白かったのはやはり4編目での劇団員としての猫丸だ。他の作品とは違うきびきびとした振る舞いは、俳優としてもその道のプロに演技を認められるほどの技巧派だと評され、そのギャップにニヤニヤしてしまった。

ただ1作目でアマチュア奇術クラブや同人誌、町内会の趣味の会合や断食会にも参加したりとどこにでも首を突っ込むと紹介されている割にはそのヴァリエーションが乏しかったのがちょっとがっかりだ。それについては次作以降に期待しよう。

しかしデビュー作である本書は脱力系でマイペースだと窺っている作者倉知氏の性格とは反比例して1作ごとに趣向を変えるなど意欲的な試みに満ちている。各編の感想にも述べたが島田荘司風ミステリあり、ハートウォーミングストーリーあり、ロジックのみを追究したミステリあり、サスペンスありと様々だ。
おまけに自身もエピローグで述べているように全ての殺害方法が違う。墜落死、凍死、溺死、毒殺、撲殺、絞殺、刺殺。デビューに向け、当時の全てを吐き出したような書きっぷりだ。そしてその努力が報われるように、本書はその年の『このミス』のベスト20にもランクインされ、現在も活躍が続いている。

ただやはり気になるのは読者が推理しようとするにはあまりに情報が少ないことだろう。私は与えられた謎を推理するのが好きなので、本作でも自分で謎解きに挑みながら読んでいったが、全敗してしまった。
しかし真相がぽんっと膝打つものであれば良いのだが、本作では真相に導くためにこじつけているようにしか感じられないのが惜しかった。しかし先に読んだ『占い師はお昼寝中』ではその辺は解消されているので、これはデビュー作ゆえの脇の甘さだろう。
これが私の負け惜しみかどうか、他に本書を読んだ人の意見を聞きたいところだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
日曜の夜は出たくない【新版】 (創元推理文庫)
倉知淳日曜の夜は出たくない についてのレビュー
No.401: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

日本ホラーブームの幕開け、そして理系ミステリの幕開けとなった作品

日本の新人文学賞でも屈指の難関と云われる日本ホラー大賞初の受賞作である本書はそれが単なる飾りでない事を証明する濃い内容の作品だ。というよりもこの作品が基準となり、同賞が難関となったと云っても間違いではないだろう。

発表当時大学の薬学部で博士課程だった瀬名氏。その専門分野をいかんなく本作に導入しているがために、中身は専門用語が縦横無尽に横溢してあり、門外漢である私はしばし内容を理解するのにページを捲る手を休めざるを得ない状況に陥った。
しかし、それでもリーダビリティが落ちなかったのは、作者の高度に計算された物語運びの妙にある。

主人公永島利明のパートでは死亡した妻聖美の細胞を培養するプロセスが事細かに書かれ、聞き馴れない専門設備・器具の名称や専門用語の応酬に怯むものの、そのパートでは迫り来る得体の知れない何かに対する危機感めいた物がきちんと挿入されている。さらに話は腎臓移植を受けた麻里子のエピソードやその経過、そして生前の聖美と利明との馴れ初めなどが絶妙にブレンドされ、読み物として退屈を呼び込んでこない。実にバランスの良いストーリー運びである。

本作のプロットは実に単純である。人間にとって寄生して生存していると思われたミトコンドリア自身が寄生体そのものを凌駕し、逆に征服し、次世代知的生物に成り代わるというものだ。
本書が他のホラー作品と比べて一歩抜きん出ているのは、まずその壮大な嘘を博識な専門知識によって理論武装し、本当にありえそうな恐怖を齎したこと、そして従来人間に寄生し、征服しようとする存在は地球外生物が多かったのに対し、瀬名氏は元来全ての生物に備わっているミトコンドリアという存在に着目したこと、この2点にあるだろう。

そして本書が突拍子のなさを持っていないのは、寄生体であるミトコンドリアが人間のDNAを逆支配するという可能性がゼロではないことだ。現代の最新研究ではまだその証明がなされていないが、これから先、科学の分野が発展するにつれてこれら机上の空論であった事実が実はかなりの必然性を持った可能性となることもあるかもしれない。
そんな潜在的恐怖を抱かせてくれるところに瀬名氏の作品の特色があると思う。
それはやはり専門家としての瀬名氏の博学な知識がそれを裏付けているし、またそれが彼の作家としての他の作家と一線を画する特質であろう。

私が本書において特に驚嘆したのは腎臓移植手術に関する事細かな叙述である。例えば臓器提供者(ドナー)と臓器受容者(レシピエント)との間を取り持つ移植コーディネーターなる存在があることもその1つだ。
なによりも腎移植手術の件が特に興味深かった。メスを入れるところから、腎臓を摘出するまでのプロセスとそこから移植手術に移るまでの時間との闘いといった一連の流れが精緻な叙述で眼前に映像が浮かぶかのごとく描かれる。素人考えで恐縮だが、薬学部である瀬名氏が医学部の学生でも立ち会わないだろう内臓移植手術をかくも迫真性を以って描いていることに驚く。しかもこれはベテランの作家によるものではなく、新人賞に出された原稿なのである。取材費なども出ない作品の制作にここまでよく取材した物だと感心した。

そして瀬名氏が理系研究者が陥りがちな説明調文章を多用するわけでなく、作家として物語を形成する技量にも長けていることが本作ではよく解る。
本作は3つの大きな話が同時進行で語られるが、私が一番印象に残ったのはサブストーリーとも云える、腎臓移植を受けた麻里子のパートだ。娘とのギクシャクしたコミュニケーションに悩む父親と、麻里子自身が負った心の傷のエピソードについつい親の視点で読んでしまい、自分ならどう対処するかと考えさせられた。

また移植手術がレシピエントにとって必ずしも喜びをもたらすものではない事を本作では教えてくれる。
元々成功率が低い手術であるのに、患者は術後は普通の生活に戻れるものだと100%思い込む。それがゆえに拒絶反応が出て摘出しなければならなくなったときの落胆振り。更に麻里子の場合は、腎移植が仇になりいじめの対象になってしまう。特に彼女の、死体から摘出した腎臓を移植する嫌悪感からくる「わたしはフランケンシュタインじゃない」という悲痛な叫びが胸を打った。
こういう細かい人間描写が本作を単なるホラー作品ではなく、小説として真っ当な読み物にしている。

と、全面これ、賞賛の嵐となっているが、やはりエンタテインメントとしての勢いを減じているのが先ほどから述べているその圧倒的な量を誇る専門知識と専門用語だ。
これを語るにはこの知識が、この作業にはこういう装置が必要だ、だからそのことを説明するにはこの分野について触れておかねばならない、といった瀬名氏の読者に対する配慮が行間からも解るのだが、その親切すぎる配慮ゆえに情報量が多すぎ、読者の理解力をことごとく試すような物語の流れになっているのが惜しい。そういった理解しがたいパートについては読み流せばよいのだろうが、当方はそれがどうしても出来ず、理解するために何度も読み返してしまった。
この辺の匙加減がやはり若書きの至りというものだろうか。しかしそれを第1作目で求めるのは酷というものだろう。日本ホラー大賞の黎明を告げた本書はその賞に恥じない、力作である事は間違いない。

パラサイト・イヴ (新潮文庫)
瀬名秀明パラサイト・イヴ についてのレビュー
No.400:
(7pt)

ハングマン?

鮎川賞に応募した『慟哭』でデビューした貫井氏の『症候群』シリーズ第1作。
貫井氏といえば、『必殺仕事人』に代表される“必殺”シリーズの大ファンであるが、本作はその趣味を存分に活かしたシリーズと云えるだろう。ただ現代を舞台にしているので、同趣向の『ハングマン』シリーズの方が近似性が高いかもしれない。とにかく環敬吾率いる彼のチームのメンバーの召集シーンからニヤニヤしてしまった。

本作に登場する環率いるチームのメンバーは、平常時は土方をやっている倉持真栄、托鉢僧の武藤隆、そして警察の職を追われ、探偵業を営んでいる原田柾一郎である。
で、本作ではリーダーの環ではなく、メンバーの1人、原田にスポットを当て物語は進行する。原田が担当した失踪人、小沼豊の捜査と彼の家庭が抱える問題が交互に語られる。そしてこのサブストーリーとも云える原田の問題が環たちが捜査している事件と関連性が持ってくる。

この原田が抱える問題とは高校生になる娘の反抗期である。家族と一緒に過ごさなくなり、夜毎ライブハウスに友達と出入りし、帰りは夜遅く、久々に会ってみれば化粧をしている。さらには不登校が発覚するという、いわばどこにでもあるような反抗期なのだが、今や子を持つ親の身とすれば他人事とは思えず、私ならどう対処しようと頭に描きながら読んでしまった。

やがて事件は複層する失踪事からやがて若者達に蔓延しているイリーガルドラッグへと重心が移っていく。

特に注目したいのは本作に登場する犯罪の片棒を担いだ人々というのが、実は私たちとなんら変わりのない、ごく普通の人々だということだ。
彼らは現状に不満を抱きつつ、毎日を過ごし、その現状から脱出したいがために、一線を少しだけ越えてしまった人々なのだ。その一線というのが、誰しも抱く「このくらいなら大丈夫だろう」という軽い気持ちで始めた犯罪行為というのが非常に心苦しい。なぜならここに書かれている人々は自分かもしれないからだ。
こういう作品を読むと、我々の安定した暮らしというものがいかに危うい日常のバランスの上で成り立っているかが実感させられる。
失踪した彼ら・彼女らも毎日親や近所、会社の上司から与えられるプレッシャーから逃れるために自ら選んだ道であり、実際、事件の真相解明を依頼されたチームを束ねる環はこの一連の失踪事件に関しては主謀者である馬橋の改心を促しただけに留め、本質的な解決をもたらしていない。真相を解明し、後は当事者に判断を委ねるという形を取っている。

更に加えて、この馬橋という男が、昨今の大不景気で続出する首切り問題の対象となっている契約社員という立場が故にこのような犯罪に手を出したという事情も同情できるだけに切ない。

群衆の中の孤独。
東京ほどこれほどぴたりとくる街もないだろう。日本最大の人口を誇りながらも人はその群れの中でいとも簡単に掻き消えてしまう。小市民である彼らはそんな中で、限られたコミュニティにアイデンティティを見出しながらひっそりと暮らしている。
海外で暮らす今、失踪人たちの矮小さが痛切に響いた。

初の貫井作品だったが筆致は堅実で迷いがない。ただ器用すぎて派手さに欠けるとも思った。
あと失踪人捜しという物語の軸足がいつの間にかドラッグ密売グループの摘発に移っているのも、ぶれている感じさえある。
更には冒頭に述べたように作者自身がファンであるドラマシリーズを感じさせるため、物語や構成もドラマの場面が浮かぶきらいもあるが、純粋に愉しめはしたので及第点というところか。本棚に並ぶ彼の作品を次に読むのが楽しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
失踪症候群 新装版 (双葉文庫)
貫井徳郎失踪症候群 についてのレビュー
No.399: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

東野作品第二期の始まり

運命の悪戯、そうとしかいいようのない三人の運命、いや文字通り“宿命”を描いた作品。
晃彦、勇作、美佐子の抱えるやり場のない感情の行方、お互いの間を交錯する想いが届きそうで届かないもどかしさが読み進むにつれて胸に痛切に響いてくる。

小学校からのライバルであった瓜生晃彦と和倉勇作。片や地元有力企業の創立者の息子の御曹司であり、片や一介の警察官の息子。
しかし勇作は天性のリーダーシップと知性で学年の人気者になるが、どこか世の中を嘲笑っている晃彦は孤高の存在として誰にも取り成す事もなく、我が道を行く。しかしそんな彼が唯一気にしていた存在が勇作であり、事ある毎に勝負してきた。そして勇作は晃彦に小学校、中学校、高校とずっと勝てないでいた。
やがて2人は同じ統和医科大学を受験するが、晃彦は受かり、勇作は不合格で浪人生活に。その浪人中に美佐子と知り合い、再び同じ大学を受験しようとする。今度こそ合格確実という時に父親が脳溢血で倒れ、受験できなくなる。バイトをしながら受験勉強をするが、耐え切れなく、警察学校に入学する苦渋の選択をする。
典型的な勝ち組と負け組を描いた対照的な2人の人生。自然、読者は勇作を応援する側に回ってしまうだろう。

しかしこれこそ東野圭吾氏が仕掛けたマジックなのだ。
家族のみならず妻の美佐子にも決して心の内を打ち明けず、いつも一人超然と佇む晃彦。彼の真意が終章に至ってようやく読者の眼前に明かされる。このとき、東野氏がマジックを解くのに、指をパチンと鳴らした音が聞こえたような気がした。

とにかくこの3人の人生に纏わる奇妙な結び付きが、冒頭からモヤモヤとした形で少しずつ眼前に差し出されるが、それは眼の前の靄を晴らすのではなく、新たなる靄を生み出し、更に読者を物語の深い霧の中へといざなうようで、居心地の悪ささえ感じた。しかしこれこそ東野ミステリの特徴であり、私はこういう趣向のミステリを待っていた。

本作は三角関係という恋愛小説の色も持ちながら、青春小説の側面もあり、なおかつ明かされる三人の過去には科学が生んだ悲劇という通常相反する情理が渾然一体となって物語を形作っているのが特徴的だ。この絶妙なバランスは非常に素晴らしい。
特に科学の側面を全面的に押し出さず、あくまで人間ドラマの側面を押し出して物語を形成したのは正解だろう。やはり「推理小説」はあくまで小説であるから、物語がないと読者の心に響かない。
個人的には勇作と美佐子が若かりし頃に交際していた件がベタながらも鼻にツンとくるような甘酸っぱい感慨を抱かせ、非常に印象に残ったエピソードだ。読んでいる最中、尾崎豊の”I Love You”が頭の中を流れていた。


しかし東野氏の熱すぎず、かといって冷めすぎない抑制の効いた筆致がありがちな過剰演出を抑え、逆に読者の心に徐々に一つ一つの事実が染み込んでいく。そして最後に明かされる真実が哀切に響いてくる。
ミステリを書く上で、これは最大の長所であり、続けて読んでもくどさが無く、飽きが来ない。これこそ彼の最たる特質だろう。

考えるに、本作は東野氏の第2期の始まりを告げるものではないだろうか。
デビュー以後、一貫して学生・学校を舞台に紡いだ青春ミステリを『学生街の殺人』で以って一旦結着し、その後『魔球』、『鳥人計画』といったスポーツミステリ、『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』といったライトミステリ、『十字屋敷のピエロ』、『ブルータスの心臓』といったオーソドックスなミステリを経て、再び青春小説のテイストとそれまでに培った科学知識を応用したミステリのハイブリッドを目指した人間に焦点を当てた東野ミステリの始まり、本書はそんな作品のような気がしてならない。
デビュー当時の青春ミステリと違うのは既に大人になった彼ら・彼女らが過去を振り返るところにある。そして事件の鍵がその過去に因縁に深く根差しているところにこの第2期の特徴があるように思う。

また本作が刊行された90年というのは一世を風靡した『羊たちの沈黙』が訳出された一年後である。つまりサイコホラー元年の翌年、世にはこの手のサイコホラー系ミステリが横溢していた。
そして本作もまたこの類いの影響下にあったに違いない。人の心こそ最も怪奇、恐ろしいというこのジャンルは当時画期的であり、東野氏はその側面に脳科学の分野にスポットを当て、独自のアプローチをしたに違いない。そして恐らく本作は後の『変身』に続く里程標的作品になっているだろう。

しかし本作はなんといっても文庫版の表紙のイラストに尽きる。この何の変哲もない屋敷のイラストが開巻前と読了後では全く印象が変わってみえる。
本書がスティーヴン・キングの代表的サイコホラー、『シャイニング』の表紙に酷似しているのは単なる偶然ではないのかもしれない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
宿命 (講談社文庫)
東野圭吾宿命 についてのレビュー
No.398:
(8pt)

パンデミックを前に政治家たちが狂宴する

とにかく冷静に読めない小説だ。なぜならあまりにリアルすぎるからだ。

老化が一気に進む恐るべき奇病のパンデミック(世界的大流行)を扱った本書。
前書きでも言及されている鳥インフルエンザから進化した新型インフルエンザのパンデミックが恐れられている昨今、正にタイムリーな小説だった。とはいえ、本作が書かれたのはなんと16年前の2002年。この頃、既に現在の新型インフルエンザの発症は実は予見されていることに驚いてしまった。

本作ではフィクションの形を取っていながらも実はかなり真実に近い内容だという。地球温暖化で北極・南極の氷が溶け出し、その厚い氷に眠っているのは古代に流行した未知の病原体であったというのが発想の素になっているが、実際にこういう事実は発見されているのだという。
本書の中には前書きにも言及されている、クジラやアザラシなどの海洋動物ではありえなかったインフルエンザの発症、世界最新の湖、バイカル湖に眠る紀元前数万年前の汚泥に潜むウィルスなど、世界的な異変の実体についても物語に盛り込まれており、これが絵空事とは思えない迫真性をもたらしている。

そしてこの時点でこんな小説が書かれているのにも関わらず、パリ協定から離脱宣言をしたアメリカはなんとバカな国だろうと義憤に燃えずにいられなかった。無論、フリーマントルはその事も念頭に置き、地球温暖化を否定したアメリカが、それが原因としか思えない未知の病原体の発症を認めるという一流の皮肉を使っている。これを物語の発端にすることこそ、フリーマントルが実施したアメリカへの痛烈な罵倒であろう。
しかしこの作家が凄いのはそのアメリカのシンクタンクの連中ならばこういうストーリーで温暖化を認め、逆にそれを糧にして更に世界のリーダーシップをアピールするに違いないときちんとシミュレーションし、淀みなく物語に溶け込ませているところだろう。本書を読んだアメリカ人のなんとも云い難い顔が目に浮かぶようだ。

裏を返せばフリーマントルがアメリカにパリ協定の同意をさせるにはどうしたらよいかを示した一つの指針であるとも云える。
あの国の巨大産業と政治との癒着が根源と成っている愚行を正すにはこういう人類を滅ぼすぐらいの奇病が発生し、それが地球温暖化が原因である事を認めさせるくらいでないと、あの国は決してその重い腰を上げないし、固い頭を柔らかくしないだろうと声高に叫んでいるように読めた。もし同様のことが起きた場合に、こうすればあの国も協定に同意するだろうというプロセスを、詳らかに記した一例とも云える。

そしてこういうパニック小説を書きながらもフリーマントルは内外の政治的駆け引きを盛り込む事を忘れない。調査の主導権を握ったアメリカではこの機会を利用して成り上がろうと野心を燃やすアマンダとポールのせめぎ合い、協力国の1つ、イギリスではクーデターに失敗した科学相ピーター・レネルが再度首相の支持者を略奪すべく、画策する。
はたまたそれらの国々が病原体撲滅が成功した暁に、世界中からの賞賛を得、国際的信用と影響力を獲得するために、また逆に病原体が世界中に蔓延し、戒厳令がもはや意味を成さなくなった時の事態に備え、責任逃れをすべく、政治的交渉・策略に頭脳の全てを傾ける。
未知の病原体の正体の解明、そしてそれを自身の地位向上に利用しようと画策する政治家たちの陰謀、これらが50:50の割合で絶妙にブレンドされて物語が進行していく。

意外だったのは今までのフリーマントルの諸作では最も人非人として描かれていたロシア人が、最も人道的な考えを持っていることだ。
曰く、哀しい事に、こういった各国の協調姿勢が医学的観点から観て世界保健機関WHOに警告を与える事は絶対に必要だという議論が一切無く、彼ら全てが真っ先に個人への反発もしくは政治的反動を最小限に抑えることに専心している。

逆に云えば、この小説が出るまで、なぜ今までのパニック小説にはこういった政治的駆け引きの一切が考慮されていなかったのだろうかと疑問を持ってしまう。それらはあえて添え物でしかなく、常に物語の核心は敵であるパニックの正体に注がれていた。
翻せばこれこそフリーマントルでしか書けないパニック小説という事なのかもしれない。

しかし畏れ入るのは、およそ門外漢である遺伝子学、ウィルス学、病理科学の分野に関して、かなり詳細な考察を述べていることだ。同じくこれら専門知識に関して無知である一般読者に理解させるために、それぞれの調査・検査のプロセスを事細かに、秩序立って述べる様は一朝一夕で仕入れた付け焼刃的な知識では到底書けない域にまで達している。
しかもこの未知の病原体の正体を数々の症例、世界中から寄せられた感染の情報を手掛かりにして、一流の頭脳集団がディスカッションを重ねて解き明かす様は、謎を解き明かすミステリになっているのだから脱帽である。この作家の取材力とそれを噛み砕く理解力の凄さを改めて思い知らされた。

そして本作ではこういうパニック小説にありがちなハッピーエンドが用意されていない。これはこのフリーマントルという作家が時折見せる非情などんでん返しである。正に衝撃のラストである。これは手遅れになる前に行動を!と叫ぶフリーマントルが投げかけた冷徹なる警告であろう。
しかし本書を読むには今が最適の時期だと改めて思う。今、正に新たなる未知の病原体の恐怖という危機に直面しているからこそ、多くの人に読んでもらいたい作品だ。

シャングリラ病原体〈上〉 (新潮文庫)
No.397: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

貴方は占い師を信じますか?

渋谷の道玄坂の老朽ビルの一角に「霊感占い所」なる事務所を掲げてはいるものの、生来の怠け者の性分から一向に商売っ気のない辰寅叔父。そこに大学入学とともに上京し、社会勉強も兼ねて助手のバイトとしてお邪魔した美衣子のコンビが織成す安楽椅子探偵型連作短編集。

まず「三度狐」は挨拶代わりの一編といった作品で、実に内容はストレート。
続く「水溶霊」では2作目であるがテイストはちょっと陰鬱な感じで異色な作品である。
次の「写りたがりの幽霊」は依頼人の話、辰寅叔父による霊鑑定、その後の真相解明とストレートな流れで小粒な印象だ。
往々にしてこういった連作短編集にはクリスマスを扱った作品が挟まれるが、それが本作「ゆきだるまロンド」。
5作目の「占い師は外出中」ではなんと助手役の美衣子が叔父に代わって霊鑑定を行うというスピンオフ的な作品。
最後を飾る「壁抜け大入道」は占い所を辰寅叔父が出て、実地検証に乗り出す事に。

本作は北村薫を起源とする日常の謎系ミステリで、殺人事件は一つも起きない。
また表紙ならびに挿画が若竹七海氏の『ぼくのミステリな日常』と同じ朝倉めぐみ氏であることからどうしてもイメージがダブってしまう。倉知氏の筆致も軽妙且つコミカルなところで、それを助長しているようだ。

さて出来映えだが、これは!と目を見張るものは正直云って、ない。謎の難易度も比較的軽めで、作品によっては霊鑑定に入る前に真相が解ったものもあった。

まず「三度狐」だが新居、小学生の子供、転校と自然に連想される環境の変化でかわいい犯行が自然に見えてきた。紛失物のありかに関する論理はちょっと危ういが、確かに子供の頃、床下によく潜っていたなぁと思い出した。

次の「水溶霊」も犯人はすぐ解るものの、この作品の主眼はやはりその動機。
確かにドロドロした内容ではあるが、美衣子が云うようには魂が冷えるような話ではないと思う。こういう陰湿な話は同趣向の話では若竹七海の方が上か。

なぜかクリスマスをテーマにした短編には名作が多く、そして「ゆきだるまのロンド」も例外ではない。冬の寒さを心温まる話で温める傾向にあるのか、ほっこりとなる優しい話だ。
不器用な旦那の秘密のプレゼントだと気付くと全てがするするするっと解けていく。特に美衣子の目を通して語られる依頼人の主婦の描写に対する視線が暖かで、ドッペルゲンガー現象というホラーなモチーフを扱いながら、終始物語はその主婦の近所で語られ、日常のよくある風景が目に浮かぶように打ち解けた雰囲気で語られるのもいい。

以上三篇が真相もしくは犯人が解った作品。それ以外の3編はどちらも解らなかった。

「写りたがりの幽霊」は普通に流れる物語にそのまま流された感じ。
心霊写真のトリックがこっちとしてはすごく興味があったのだが、それが意外にも大したことなく、子供の悪戯の域を出ていないのがガッカリ。

「占い師は外出中」も全く逆を想定していた。
最後の「壁抜け入道」は子供の視点という事を考慮に入れれば大入道の謎はギリギリフェアか。昨今の怪奇・幻想的な謎は話半分に読んで頭に入れるに限るというのが最近解ってきた。

全般を通じて共通するテーマというのは辰寅叔父の人間観察力によって暴かれる人間心理そのものだろう。魑魅魍魎の仕業としか思えない怪奇現象を解き明かす手掛かりは依頼人を取り巻く人間達の思惑によって起こる不自然さにある。これらの人間が彼らの不都合を取り繕うがために結果的に起きてしまった一見不可解な事象を人間の行動心理を以って解き明かすのが本作の主眼である。
それは大学生の美衣子がバイトがてら助手を続けているのが母親の頼みというきっかけはあるものの、自身の人間観察に役立つからだという動機に重きを置いているところからも明らかだ。

また本作の特徴として面白いのは従来の本格ミステリの依頼人が持ち込んだ事件を探偵が解き明かすというフォーマットは踏襲しているものの、依頼人にはそれらの謎が怪奇現象などではなく、人間によって為された事である事を直接依頼人には説明しないところにある。
霊鑑定士の辰寅叔父の依頼人に対してはあくまで彼らが持ち込んだ怪奇現象に対する対策を告げる―時にはお札を発行する―段階で留まり、それらが人為による物だとは決して教えない。しかし、その真意はほとんどその依頼人周囲の人間に―時には依頼人本人に―彼のアドヴァイスによって成される行為によって仄めかされ、悟らせられる(ようにしている)。
したがって霊鑑定の後、辰寅叔父と美衣子の間で成される謎解きはあくまで彼の推論であり、証拠も何もないので、実は単なる1つの解釈に過ぎないのだ。この辺が倉知氏の本格ミステリに対するしたたかな視座だと見た。つまり推理で解ける事が必ずしも真理では無いと既に自覚的であるように取れるのだ。だからこの占い師という設定は作者にとってミステリを書くには最適だろうと感じた。
またこの2人の問答を読むに当たり、もしかしたら実際、占い師なぞは仕事が終わった後、お客さんの背景についてこんな風にあれこれ想像を巡らせているのかもしれないなどとも思ったりもした。

倉知氏を取り巻くミステリ作家仲間から伝え聞く彼の人と成りから想像すれば、辰寅叔父は色濃く作者の性格が反映されているものと思える。書けば年末のランキングに入るほど、才能があるのにもかかわらず決して多作とは云えない作者の創作姿勢は、人を見抜く能力が卓越しているにも関わらず出来れば楽に暮らしたいと、金儲けに頓着せず宣伝なども行わない辰寅叔父とかなりダブる。
なかなか特徴がありつつ、面白い作風なのでこの寡作ぶりは勿体無いが、クオリティを下げない事ためなら、やはりこの作家はこのペースでいいのかも。残りの未読作品を読むのが楽しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
占い師はお昼寝中 (創元推理文庫)
倉知淳占い師はお昼寝中 についてのレビュー