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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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東野氏の短編集はこれまでにも『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』などが発表されていたが、それらは全て連作短編集で意外にもノンシリーズの短編集はこれが初である。
そんな短編集の幕を明けるのが高校を舞台にした「小さな故意の物語」だ。 東野氏得意の学園ミステリ。事件はシンプルでたった50ページの短編ながら図解を加えたトリックを入れ、更にどんでん返しをも含ませているのはこの作者ならではのサービス精神だ。 人の心の謎まで踏み込んだ真相はなかなか読ませる。この動機も昔の日本人女性ならば思いも付かなかったことだろう。現代女性の独立心ゆえに抱く一瞬の魔。単なる駄洒落のように見える題名も二重の意味―片思いの笠井の悪戯心と佐伯洋子が一瞬抱いた悪意―を持たせ、題名に無頓着だと思っていた偏見を覆すような見事さだ。 続く「闇の中の二人」も中学生とその担任教師が物語の中心。 この真相は解った。お昼のメロドラマが好んで採用したがるような内容だ。 物語に散りばめられたさり気ない伏線は実に作者らしいが、ちょっと単純だったか。それでもなお戦慄を抱くような冷たい肌触りを感じるのは巧い。 「踊り子」もまた中学生が主人公の作品。 なんともほろ苦い真相。「闇の中の二人」同様、思春期の衝動が運命に悪戯をしたかのような皮肉である。 「エンドレス・ナイト」からは学生から一般人に主要人物はシフトする。 真相も普通で、1時間の刑事ドラマを思わせるほどのベタな内容。ま、中にはこういうのもあるのは仕方ないか。 「さよならコーチ」はデビュー作『放課後』で扱われたアーチェリー部が舞台。しかし『放課後』が高校の部活であったの対し、こちらは社会人クラブである。 凄いシンプルな導入部でどこに謎が潜んでいるのか解らないほど自然な流れで進むうちに、隠された真相が見えるという技巧の冴えを感じる一編。 直美というアーチェリー一筋に若い時間を捧げた女性の絶望と愛情は同じようにスポーツの第一線で活躍した女性らには身に沁みるものがあるだろう。哀しい物語だ。 最後の表題作は凝った叙述が特徴的だ。 事件当夜と隠蔽工作を貫こうとする今の2つの時間軸で構成される作品。一人称叙述が非常に効果的に活きた作品。 冒頭にも述べたように、統一キャラクターで繰り広げられる連作短編集はキャラクター偏重の趣きが強いが、本作ではそれらを排し、トリックよりもロジック、さらに理論よりも理屈では割り切れない感情、人間の心が生み出す動機について焦点を当てているように感じた。 「小さな故意の物語」では嫉妬心から来る悪戯心と与えられる愛情に対する疲労感を、「闇の中の二人」では思春期にありがちな欲望と嫉妬心を、「踊り子」では淡い恋心を、「エンドレス・ナイト」はトラウマを、「白い凶器」は現実逃避から来る狂気を、「さよならコーチ」は人生を捧げたよすがを失った女性の絶望を描く。 唯一表題作が実にトリッキーな作品で動機も今までの東野ミステリにありがちな天才肌の犯罪者による、利己心だ。 ただ短編であるからか書込みが少なく、それ故それらの動機についてはちょっと踏み込みが足りないように感じた。「踊り子」、「エンドレス・ナイト」、「白い凶器」あたりは「小さな故意の物語」や「闇の中の二人」のような解決の後の真相をもたらすような二重構造が欲しかったところだ。 今回の作品集を読んで浮かんだ作家は連城三紀彦氏だ。特に表題作で明かされる真相には頭に描いていた既成概念を覆され、眩暈に似た感覚を覚えた。 以前にも書いたが、東野氏の最大の特徴は読みやすい文体にある。開巻して一行目からすっと違和感無く物語に入っていける透明感がある。従って読者はするりと物語の流れるままに身を委ね、登場人物と同化し、作中で起こる出来事をありのままに受け入れてしまい、気づいた時には思いもよらない展開の只中に晒されるような感覚を抱く。これはこの作家の最たる長所だろう。 個人的良作は「小さな故意の物語」と「さよならコーチ」。次点で表題作となるが、後日思い起こして話題に出るほどではない。技巧の冴えが目立つ故に軽く感じてしまう諸刃の剣のような短編集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』で通称“理系ホラー”で鮮烈にデビューし、理科系作家によるミステリ・ホラーのブームの引鉄となったのが1995年。それに先駆けて1993年、既に梅原氏は本書を以って理系ホラーを世に出していた。
しかし版元が朝日ソノラマと認知度がさほど高くない会社であったためか、この作品は一部の読書通のみ知られる存在に留まり、彼の作家としての評価は次作『ソリトンの悪魔』が発表される瀬名氏デビュー同年の1995年まで待つ事になる。それも恐らく瀬名氏そして角川ホラー大賞が起こしたホラームーヴメントに牽引される形だったのではないだろうか。 ともかくも本書はなぜ発表当時に注目されなかったのかが不思議なくらい、よく出来た理系エンタテインメント作品である。 本書は端的に云えば、最新のバイオテクノロジーの知識をふんだんに盛り込んだ、仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどに繋がる、イントロンから生み出された生命体GOOと超人間UB、即ちアッパー・バイオニックで組織された部隊との戦いの物語だ。それを上下巻併せて1,000ページ以上の厚みで語りつくす。 作者梅原氏が考案した、人間を超人化するNCS機能、即ち<神経超伝導>という現象は壮大な嘘なのだが、それを裏付ける専門的科学知識が精緻に詳細に説明され、読者にさもありなんと思わせる。この一連の創作作法は瀬名氏の『パラサイト~』も同じ。本書はそれと相似形を成す作品だといえる。 瀬名氏はミトコンドリアを、梅原氏はイントロン配列と双方とも怪物の根源を元々人間が、生物の中に備わっていたある組織に着目しているところが全く同じだ。だが、梅原氏は瀬名氏よりもエンタテインメントに徹しており、とにかく次から次へ読者を愉しませるアイデアを放り込み、読者にページを繰る手を休ませようとはしない。 野心溢れる科学者の挫折から端を発したイントロンから生み出された怪物GOOとC機関という隠密部隊の闘い。そしてUBという超人の誕生から、更にはUBとGOOとのお互いの存続を賭けた世界規模での戦いへと物語はどんどんスケールアップする。 従って本書に挙げられる専門的知識は遺伝子工学、生命工学の分野に留まらず、軍事兵器・銃火器にも渡り、しかもそれぞれが詳細かつ緻密である。生半可な知識では到底書けない類いの物ばかりで、この梅原克文という作家の懐の深さ・資質をこの1作で存分に思い知る事ができる。 途轍もない大きな球体が転がり、触手を伸ばして次々に生物を捕まえては同化し、吸収していくという、この地獄絵図のような様子を読んで思い出したのは石ノ森正太郎の『幻魔大戦』だ。他にもまだ本作に繋がるモチーフは見つかるのかもしれない。 恐らくこの作品にはクトゥルー神話と『幻魔大戦』といった梅原氏の好きな作品がいっぱいモチーフとして詰め込まれているのだろう。 逆に本書から後世の複数のジャンルに渡って影響を与えたのではないかと思われる作品がいくつか連想される。 1つは発売されるたびに人気を博し、ハリウッドで映画化もされたTVゲーム『バイオハザード』だ。 本書でもこの単語は使われているが、この「生物災害」という意味のこの単語は本来ならば、感染性の強い開発中のウィルスによる災害を指し、本書でもこのGOOとの闘いはバイオハザードとは見なされていない。しかしゲームは本書で取り上げられた実験で生み出された未知の生命体によって起こされる災厄そのものを示している。本書の内容の近似性と両社に共通する「バイオハザード」という単語から類推するに、恐らくあの大ヒットゲームはこの小説に着想を得ているのかもしれない。 サイバースペースでの戦いは映画『マトリックス』を想起させる。特に超人間UBという、人間の限界を超越した存在は同映画の主人公たちがダブる。 そんな本書だが、一貫してモチーフとして作中にも登場するのがちらっと触れたがラヴクラフトのクトゥルー神話だ。生命体GOOはかつて“CTHULHU”の頭文字を取って“C”と名づけられており、深尾の前に何度も立ち塞がるGOOのコードネームはダゴン102。サイバーホラーに古典ホラーであるクトゥルー神話をハイブリッドした作品なのだ。 元々クトゥルー神話自体、その世界観を複数の作家で共有し、物語世界を広げていくシェア・ワールド構想が成された物であるから、この作品もまたクトゥルー神話大系の一作品となるのだろうし、恐らく作者の意図もそこにあるに違いない。 さてこの未曾有のエンタテインメント作品で梅原氏が採用した文体はなんと主人公深尾による一人称叙述。このようなパニックホラーを描くとすればこの選択は非常に珍しい。多面的構造を採用せず、主人公深尾を常に戦場の第一線に置くという設定だからこそ、この文体を採用したのだろう。 その判断は正しかったようで、主人公の逡巡、苦悩が直截に響き、また常に闘いの最前線に置かれる深尾と共に一寸先に潜む危険を探る臨場感に溢れている。 この深尾という男は、作中でも語られるようにいつか1人で会社を興し、成功者を夢見る野心に満ちた遺伝子科学者だったが、自ら引き起こした惨劇を苦に政府の機関である遺伝子操作監視委員会に所属するエージェントに身を窶している。そのようなエリートにありがちな自分の実力に絶大な自信を持つナルシスト的側面と周囲を見下す視線を持ち、一匹狼を気取り、上司に歯向かう姿勢を備えて、また過去の過ちに常に自責の念を抱き、自ら危険に踏み込む自殺的思考―本書ではアープ症候群と呼ばれている―の持ち主だ。一緒に仕事をするにはいわゆる「イヤな奴」なのだが、その性格に合わせたハードボイルド調の語り口がマッチしていて嫌味を感じずに物語を読むことが出来る。 この文体は大いにチャンドラーを意識した物と思われる。多用される比喩がそれを特に裏付けている。しかしチャンドラーのそれとは違い、深尾が元科学者という特徴を出すためか、使われる例えも例えば「出会っただけで超伝導マイスナー効果のように反撥する」とか「全身のシナプスがアセチルコリンの分泌を停止したみたいだった」といった理系的専門用語を意図的に多用しているようだ。 この辺は物書きとして第一歩を踏み出した作家にありがちな、肩に力の入りすぎた感じが否めないのだが、私個人としてはそれほど悪くは感じなかった。 逆によくもこれほどのパニックホラーを一人称叙述で書き切ったものだと感心した。破綻無く進むストーリーテリングは重ねて云うが、梅原氏が既に作家としての実力を備えていることを見事証明している。 最新(1993年当時に構想のみされていたものも含めた)のバイオテクノロジーからダーウィンの進化論、そして恐竜の絶滅から新約聖書、サイバースペースなどなど、多種多様なジャンルを盛り込み、壮大なスケールで描いたスペクタクルホラー。 一言で云おうとすると、修飾語が多く付きすぎて収拾が付かなくなるほど、盛り沢山のエンタテインメント作品。 先に述べたように、本書の影響を受けたと思われる作品が好評を博している今、少し早すぎた作品だったのかもしれない。勿体無い。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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絶賛を持って迎えられた短編集『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルの初の長編は幽霊の復讐譚を扱ったホラーだ。
主人公は54歳のロックスター、ジュード・コイン。彼は厳格なる父親からの反発からロックスターになり、そして成功を収めて、今では半隠居状態だ。それはバンドメンバー3人のうち、2人を事故と病気で亡くしたことが彼から音楽活動の火を絶やしてしまったようだ。そして娘ほど歳の離れたゴスロリ系のファンを捕まえては同棲生活を送るという生活を送っている。 そしてジュードが今付き合っている女性がジョージアことメアリベス・キンブル。ストリッパーの身からジュードに拾われ、同棲している。この2人に降りかかる災厄が、過去ジュードの付き合った女フロリダことアンナの姉から送られてきた霊能力者だった義父の幽霊が取り憑いたスーツから始まる。 家族を間接的に失った遺族の復讐が動機と思われた怪異はしかし意外なバック・ストーリーが後半明かされる。 ジュードとジョージアの幽霊との闘いという図式で展開する物語はその実、別れた元彼女フロリダことアンナ・マクダーモットの物語でもあることに気付かされる。 またもう1つ、この小説が内包しているのはロックスターという特異な職業を持ち、人とは違った半ば自堕落な生活を送った男の回想だ。 父親に反発する事で家を飛び出し、ロックスターとして名を馳せ、生活に困らない金を既に稼ぎ、4年も新曲を発表していないのに未だにコンサートやTV出演の依頼が来る、人間として成功したという現状に翳を指すのは、自分の前を去っていった、あるいは自分から去っていった人々に対する喪失感だ。 自分のコレクションの1つ、スナッフ・フィルムを観たことで離婚した元妻が持っていた、自分勝手な行動に不平不満を云うことなく常に許してくれていたその包容力。 アメリカ全土のほか、世界をライヴツアーで一緒に駆け巡った今は亡き元バンド仲間。 とっかえひっかえベッドに誘ったグルーピーたち。 その中で数ヶ月間一緒に生活を共にした過去の女たち。 ずっと質問ばかりし、別れた後、浴槽の中で手首を切って死んだフロリダ。 恐らくこれらはロックスターには付き物のゴシップの数々だろう。人の数倍もの早いスピードで文字通り人生を駆け抜けるが如く、生きるスター達の心情とはいかなるものか。 来る者拒まず、去る者追わず。 ジュードは今まで護るということを求められるとその結果を考えず、なんでも受け入れすぎてきたのではないかと述懐する。一般人には想像できないスターの心境に対するこの心理描写は1つの解答例のようだ。 『20世紀の幽霊たち』の感想にも書いたが、読んでいる間、クーンツ作品を読んでいる既視感を感じた。主人公の心情と信条をくどいまでに細かく叙述する語り口、登場人物が幼少の頃に親から受けた迫害というトラウマ、そして何よりも物語のキーを握る存在が犬という共通性。 父キングの作品は読んだ事が無いので一概に比べられないが、クーンツの影響がそこここに見られた。 特に幼児虐待、家庭内暴力、近親相姦、親の死に立ち会わない子供ら・・・。 本書に挙げられる現代社会が抱える家族問題の問題はクーンツが最近よく取り上げる題材だ。そしてどの登場人物に関係するのは父親という存在に対する畏怖。これもクーンツが昔からトラウマの如く語り続けてきたテーマだ。 特にヒルの父親がキングである事実から類推するとこの登場人物たちが抱く父親への思いに注目していたが、意外にもジュードが幼い頃に抱いた父という障壁を乗越える手段はなんとも直接的であり、肉体的であった。二度と帰らないと決めた実家に戻って対峙した父親という精神的な壁の克服という側面をあえて避けたのか、それとも物語の都合上、ああいう形になってしまったのか解らないが、期待していただけにあの決着のつけ方は残念だった。 そして主人公に脅威をもたらす幽霊クラドックはクーンツが生み出す、主人公に絶望的なまでの無力感を感じさせる悪魔のような怪物ほど怖くは無い。共通するのは異常なまでの執着心と蛇が蛙をいたぶるが如き醜悪さ。それでも悪役の造型にはやはりクーンツに一日の長がある。 まあ、デビュー仕立ての作家をホラーの大御所クーンツと比べる事自体が過大な要求なのだろうけれど。 また本書の献辞は父親に捧げられている。アメリカ現代文学を代表する作家となった父キングを『20世紀の幽霊たち』を著す事でその呪縛から逃れ、改めて父親に向き合い、初の長編作品を世に、父に届ける事が出来たという自負が窺える。 とはいえ、私の感想としてはいささか饒舌すぎ、あと一滴のエモーションが欲しかったところだ。 本書は娘の自殺の逆恨みから生じた幽霊の復讐譚と、ホラーとしてはオーソドックスな題材だったが、『20世紀の幽霊たち』で見せたようにこの作家の持ち味は物語のヴァリエーションが非常に豊かなところだ。 その最たる特徴を活かして今後この作家でしか書けない長編ホラーが現れることを強く期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏、数年の沈黙を破っての大作。文庫版670ページ強を費やして語られる事件は御手洗シリーズの新作を待望していた読者の渇きを癒すのに十分な内容だ。
なんせ事件がすごい。 舞台はニューヨークのアパート、セントラルパーク・タワー。物語の導入部で語られる元女優が死の間際に話したたった15分のうちに34階の部屋から停電中に1階の住民を拳銃で殺して戻ってくる不可能状況から始まり、スーツを着た骸骨の顔を持った男が、ロックされたゲートを通り抜けて住民を射殺する事件。 さらに物語は53年前に遡り、そこで起こる不可解な連続殺人事件。3つの密室内で自殺したとしか思えない事件。さらに時計塔の大時計の長針の針を利用しての演出家の断頭殺人。そしてハリケーンの夜に突如起こったアパートのほとんどの窓が爆発した最中の建築家の転落死。貨物用エレヴェータに佇み、奇声を発する骸骨。それらの事件の陰に蠢くファントムという名の仮面を付けた怪紳士。 往年の島田氏のセンス・オブ・ワンダーが溢れんばかりに盛り込まれた奇想の応酬である。 そして本書に登場するのは若き日の御手洗潔。まだ石岡と出逢う前の、アメリカのコロンビア大学に留学していた頃の彼だ。 従ってここに出てくる彼は全知全能の神ではない。不可能状況・夢幻としか思えない奇妙な現象に惑わされ、思考する一個の探偵なのだ。石岡が主役を務める『龍臥亭事件』、『龍臥亭幻想』やレオナが主役を務める『ハリウッド・サーティフィケイト』などのスピンオフ作品に電話のみで登場して全てを解き明かしてヒントを与えるような超天才型探偵でまだないところがいい。 したがって非常に若々しい。『眩暈』までの作品でよく見られたフィールドワークに嬉々として没頭する彼の姿がここにはある。 なんとも嬉しいではないか。やはり御手洗はこうでないといけない。 さらに本書では舞台であるマンハッタンに纏わる様々な都市伝説が開陳される。マンハッタンの摩天楼が巨大な岩盤に作られていることは有名だが、その摩天楼が出来るに至った高層ビル競争の歴史、その地下には摩天楼に勝るとも劣らない巨大空間が広がっている都市伝説、そしてセントラルパークに纏わる逸話の数々。歴史の浅い国アメリカの中で最も急激に発展し、ロンドン、パリをも凌ぐ大都会となったマンハッタンという特殊な都市の秘密がストーリーに絡めて語られていく。 これこそ島田ミステリの真骨頂。本当に久々の本家御手洗シリーズを堪能した。 特にマンハッタンの地下王国についてはかなり信憑性が高いようで、マンハッタン界隈のホームレスの数が年々減っているようだ。しかもこれについては『モグラびと』なる本も出版されており、それに詳しく記載されている。 さて島田作品には従来からシャーロック・ホームズの影響が強く見られるのは知られているが、もう1つ特徴的に見られるのは乱歩の影。 今回は特に連続殺人事件の1つ、セントラルパーク・タワーの大時計の長針を利用した断頭殺人は乱歩作品でも幾度となく使われた殺人方法であった。 そして題名、連続殺人事件に現れては消える謎の存在ファントム、さらには物語の中心となるのが女優であることから容易に連想されるある有名な作品がある。そうガストン・ルルーのあの名作だ。これは島田流『オペラ座の怪人』なのだ。 ただあとがきにも述べられているが、本家が怪人と美女との悲恋の物語であるのに対し、本書はあくまでも不可能趣味、怪奇趣味を前面に押し出していること。従ってファントムが恋焦がれて止まないジョディ・サリナスなる女優がそれほど生涯を賭して守るほどの愛らしさ、崇高さを備えているとは思えなかったきらいはある。 とはいえ、さすが島田氏、最後に忘られぬ驚愕の真相を用意してくれる。 確かに摩天楼を形成するビルの頂上にはガーゴイル像など意匠を凝らした装飾が成されているのは映画でもよく見られたが、これを更に一歩押し進めたこの島田の奇想はなんともロマンティックだ。 そして物語全体に散りばめられた謎は今回も御手洗の閃きによって暴かれるが、果たしてこれを本格ミステリと呼んでいいものか疑問が残る。 確かに手掛かりとなる暗号もあれば、事件現場の見取り図も読者に提示されている。が、しかしそれでもこの真相を看破できる読者は皆無であろう。 また今回のメインの謎とされるたった15分間―その後物語が進むにつれてそれは10分間と更に短縮されるが―で1階から34階までいかに移動して殺人を成しえたかという謎の真相もまたある専門知識、いや薀蓄を知っていないと解けないものだ。唯一おぼろげながら真相が解ったアパートの窓が一斉に爆発した謎の真相もまた専門知識が必要であり、門外漢には全く解けないものだろう。 こうして振り返ってみると、もはや御手洗シリーズは読者との推理合戦の領域を超越し、作者の奇想の発表の場になってしまったのだなと一抹の寂しさを感じる。 しかしその作者の奇想が読者の予想をはるかに超え、実にファンタスティックである故に、私のような固定ファンがいつまでもいるのだ。この作風が許せる島田氏はやはり日本の本格シーンの中では唯一無二の別格的存在だといえよう。 久々の重厚長大の御手洗シリーズ。本作は往年の物と比べると勢いはやや劣る物の、その豪腕ぶり、斬新な奇想はまだまだ健在だと証明するに十分すぎる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ロボットが人間の生活に入り込んだ、今より少し先の世界をテーマにした短編群に「WASTELAND」という、ロボットのみが生存する近未来の地球を描いた短編が間奏曲のように語られる。
表題作「ハル」は愛玩用ペットロボットの名前が題名になっており、これにヒューマノイドが絡んだちょっと不思議な手触りのする作品だ。 人間が作った人工物が理論を超えた進化を遂げるというのは瀬名氏の過去の作品でも取り上げられていたが、これもそのテーマに沿った一編。ここではロボットに魂は宿るかという命題に取り組んでいる。近い将来、ロボットが単なる玩具や客寄せパンダではなく、一大産業として社会に本格的に盛り込まれていくであろう未来への警告か。 「夏のロボット」は子供の頃にロボットと不思議な人物と出会った出来事が語られる。 ロビタという人工知能を備えた学習型ヒューマノイドと娘の菜都美とのコミュニケーションで次第にロビタが人間に近くなっていくことに気付いた恵が至る真理が「ハル」とは同じなのにその受取り方が逆なのは面白い。片や畏怖や嫌悪感を抱くのに対し、恵は新たなる知性の出現の萌芽に地球上の唯一の知的生命体である人間が孤独感から解放されると喜びを示す。この感覚は理解できる。 個人的に好きなのは「見護るものたち」と次の「亜希への扉」だ。 前者の舞台はタイ。災害救助ロボット、地雷探査ロボットなど前2編にもまして現実味を帯びている題材である。リーというタイの寒村に住む女の子と犬とロボットの交流という、泣かせる要素を全て盛り込んだ作品である。読んでいる途中でリーの行く末が解ってしまった。 しかしここで語られるのはその悲劇を超えて尚且つロボット開発に挑むのかという杵島の覚悟を確認する物語。主人公はあくまで杵島というロボット技術者の挫折と再生の物語なのだ。 彼は災害救助にロボット技術者として携わるたびに、自分の開発したロボットが想像していた以上に役に立たない事に直面し、挫折感と徒労感を味わう。果たして自分は社会に貢献しているのだろうか、人間の役に立っているのだろうかと。しかし最後にパートナー岡田がかける言葉に救われる。 ロボットというのは希望の装置なのだという。誰もがロボットに希望を抱く。それは未来の象徴だからだ。だからその分失敗すると挫折感も大きい。恐らくロボット開発というのはその繰り返しだろう。しかしそれでもなお貴方はロボット開発は止めないだろう。それこそが大事だ。その努力を続ける事こそ理想に近づけく唯一の道なのだ。 このメッセージは瀬名氏がロボット技術者全てに送る励ましの言葉と私は受取った。 余談だが、地雷探査犬の名前アインシュタインに思わずニヤリとしてしまった。クーンツファンである瀬名氏の茶目っ気だろう。 そして「亜希への扉」はなんとも甘いラヴストーリー。 物語の冒頭で断っているようにこの作品はメルヘンだ。といっても模型が生命を宿してしゃべったり、動物がしゃべったりするような類いのものではなく、出来すぎたラヴストーリーと云えるだろう。 しかしこういうベタな作品もまたいいのではないか。それよりもこの作品で述べられる、成長期にある子供がロボットと交流して育ち、やがてロボットのAIを凌駕して成長してしまったときに直面する魔法が解けたときのような喪失感、そして永久的に動き続けるロボットに死のプログラムが必要になるというある人物の考えなど、実に興味深い。そこまで瀬名氏は考えているのかと驚嘆した。 また題名だがこれはハインラインの傑作をもじった物。これも作者の茶目っ気か。 そして本書の主題ともいうべき作品が最後の「アトムの子」だ。 各短編、そして幕間で挿入される掌編「WASTELAND」、これらに共通する1つの軸とも云うべき存在がある。それは鉄腕アトムである。マンガの神様手塚治虫が創作した人型ロボットこそ、日本のロボットの研究の始まりであり、究極形であり、ロボット研究者が至る道だという風に瀬名氏は述べている。その思いが結実したのがこの最後の短編だろう。ここで語られるのは非常に哲学的な話だ。 果たしてロボットに正義を教える事が出来るのか? そしてまた正義とは一体何なのだろうか? 本書の登場人物の一人の口から語られるロボットが正義を信じる理由が実に哀しいながらも腑に落ちる。人間でも機械でもない継子である彼らがアイデンティティを失う代わりに彼らは正義をアイデンティティとして生きるのだというのは実に興味深い考察だ。 これらの短編群は直接的には関わりは持たないものの、全てが地続きであり、同一の世界で語られ、呼応している。ファンタジックな装いの幕間劇「WASTELAND」もまた最終編「アトムの子」で地続きとなる。 そして本書に挙げられているロボットは実に多彩。愛玩用ロボット、学習型ヒューマノイド、対話型AIを備えた受付ロボット、災害救助ロボットに地雷探査ロボットなどなど。 これらのロボットと人間が共存する世界、そしてロボットを介して築かれる人間同士の絆がまずテーマの1つと云えよう。ロボットがコミュニケーションツールとして、生活のサポーターとして、はたまたパートナーとして人間の生活の中に介入する世界が描かれている。そしてそれらロボットを通じて得られる人間同士の新しい絆もまたそうだ。人間が作ったロボットによって生かされる人間もまたあること。ロボットがいたからこそ知り合えた人々の物語がここには綴られている。 そしてもう1つは人造物がある日突然人間の理解を超えた行動をするだろうという予見だ。特にある日突然飛躍的に発達・進化するという発想はデビュー作の『パラサイト・イヴ』以来、瀬名氏が必ず作品のテーマに盛り込んできた内容だ。 本書では人口の産物ロボットが人間が持ちうる雰囲気、気配といったプログラムできない、抽象的な部分を次第に身に付けていくこと、そして自らの死に際を求め、いずこへと消えてしまうといった都市伝説的事象などが語られている。 ここが瀬名氏という作家の面白いところと云えよう。自身博士号を持つ科学者であるのに、彼の面白いところは論理や理屈では説明できない存在を受け入れている。理科系作家でありながら精霊などといった超常現象を導入するファンタジーを創作するところにこの人の特異性があると思う。 しかし瀬名氏は2002年時点でのロボット工学の最新技術を取材し、それから類推される人々の生活への影響、意識の変化などをしっかり足が地に着いた物語を紡ぎ、ロボットを扱った作品にありがちな人間がロボットに支配される社会を描くデストピア型の作品を書いていないところが素晴らしい。 しかしそれでもロボットが発展する上で直面するだろう云い様の無い畏怖を抱くこともきちんと描いている。 本書に収められたメッセージはそのまま瀬名氏からロボット研究者たちへのエールと云っていいだろう。ロボットが果たして未来に役立つのか、単なる道楽で終わってしまうのか、研究者たちは絶えずその悩みと直面しているに違いない。瀬名氏は現在のロボット技術の進捗とその未来を作品として著す事で彼らの後方支援をしているのだ。 本書の舞台は2001~2030年という近未来。2002年に発表された当時、瀬名氏はこの頃既にロボットは人間生活に入り込み、無くてはならない物と想像していたようだが、2018年の今、残念ながらその予兆はあるものの、この予見はまだ先のことになりそうだ。 果たしてここに語られるような未来は来るのか、まだ先は見えないが、こんな未来はまんざら悪くないなぁと思わせる、心温まる作品群だ。 |
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【ネタバレかも!?】
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第2期クイーンシリーズと云われているハリウッドシリーズの1冊である本作はきらびやかな映画産業を舞台にしているせいか、物語も華やかで今まで以上に登場人物たちの相関関係に筆が割かれ、読み応えがある。恐らくこれは作者クイーン自身が遭遇したハリウッドという特異な世界に触発されたものであろう。
『中途の家』や『ニッポン樫鳥の謎』でも登場人物間の愛憎が描かれていたが、そのぎこちない筆致は頭で想像して書いたようにしか思えず、居心地の悪さを感じてはいた。しかし本書の中心人物であるロイル親子とスチュアート親子の罵詈雑言の応酬とそれに相反する素直になりきれない愛情の断片が垣間見える仕種や台詞にはそれまでの不器用な人間描写から一転して瑞々しさを感じる。 今回はこの両家、とりわけそれぞれの息子、娘であるタイ・ロイルとボニー・スチュアートの、お互いに惹かれあっているのに素直になれない関係が事件に関係しているという、“恋愛”をテーマにした事件を更に掘り下げている。 そして登場人物の描き方も今までの作品に比べ、随分印象が違い、物語に躍動感がある。 ハリウッドの天才児ジャック・ブッチャー、放蕩脚本家リュー・バスコム、宣伝部長のサム・ヴィクスなど脇を固める映画産業にどっぷり浸かった、興行のためならばどんなアイデアも拵え、金に糸目をつけず実行する常識外れの持ち主から、ハリウッドのゴシップに精通している絶世の美女でありながら群衆恐怖症であるポーラ・パリスに、登場人物表にも名前が記載されていないながらも印象を残すジューニアス医師にグリュック警視。そんな中でも何よりも特徴的なのは本作で事件の渦中に置かれるジャックとタイのロイル親子とブライズ、ボニーのスチュアート親子だろう。 上に述べたように今回は“恋愛”が事件に大いに関わっている。お互い長い間、反目していた両家が突然起きた化学反応のように惹かれあい、結婚を決意する。そのために起きた殺人事件。そして双方の親を亡くした後、歴史が繰り返されるようにその子供らも長年の確執が反転して愛に変わり、結婚を決意するが故にまた命を狙われる。 憎しみというのは愛情と裏表の関係にあるのはもはや周知の事実だが、クイーンがこのような物語を、ページを多く費やして書くことが驚きであった。 この頃、実作者のクイーン自身、ハリウッドに招かれ、脚本家として働いていたが、そこで要求されるのは緻密なロジックよりも面白おかしい登場人物たちが織成す人間喜劇というドラマ性である。 結末もそれまでの作品で人が人を裁くことに対し、苦悩していたクイーンが独りごちてシリアスに終わる閉じられ方から一転している。 このシーンが象徴するように、ハリウッドの経験が作品に大いに影響を与えたのはまず間違いない。 既に述べたが、何しろ登場人物の性格描写、また主人公クイーンの人に対する思いの強さが今までと断然違う。人を犯罪というゲームの駒の一要素としてしか考えていないような節のあった従来の作品群と比べると雲泥の差だ。 台詞も古典からの引用が極端に減り、ウィットに富んでいるのも注目すべき点であろう。 演出という意味では今回犯罪予告として使われたトランプのカード。これこそ非常にエンタテインメント性が強い。江戸川乱歩の『魔術師』で使われたカウントダウンやルパンの犯罪予告状といった、推理小説というよりも通俗犯罪小説という趣きが強いのも本作の特徴であろう。 特に第2の犯行ではそれを逆手にとってクイーンが罠を仕掛け、その瞬間に犯人と、しかも飛行機の機内という映像的な舞台で対決する辺り、今までにない凝りようである。 個人的にはこういう趣向は好きである。しかしクイーン=緻密なロジックというフィルターが邪魔をして、本作の評価を辛くしている。 本作で見られるドラマ性高い演出と事件の意外性、驚愕のどんでん返しが一体となれば、更にその評価は増すに違いない。非常に贅沢な要求なんだろうけれど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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上手い。実に上手い。
相手に嵌められ、妻まで奪われて刑務所に入れられた男が出所を機に全てを取り戻すため、復讐を企む。今まで何度も使い古されたプロットであるが、そこはフリーマントル、普通の設定にしない。 なぜなら復讐者ジャック・メイスンこそ、元妻の安定した生活を脅かす悪の存在だからだ。彼はCIA勤務中はロシアに情報を流す売国奴であり、私生活では女を買うのは勿論の事、公然と浮気をし、妻に暴力を振るっていた最低の男なのだ。 この通常ならば主人公の宿敵となるべく恐怖の存在を逆に主人公として設定したところにフリーマントルの作家としての一日の長がある。 また逆を云えば、かつて自らの手で刑務所に送った男が出所し、主人公に復讐するという話もあるが、本書の特異な点は物語をこの同情すべからぬ復讐鬼側から描いたところにあると云えよう。 そしてこの復讐鬼ジャック・メイスンが通常設定されるようなサイコパス、性格異常者ではなく、元CIA諜報員であり、模範囚として減刑され、刑期を5年も縮めて仮出所した男であるという社会的常識を備え、かつ特殊な訓練を受けた男という点に注目したい。 元○○工作員、元グリーンベレーといった殺人能力に長けた復讐者という設定も往々にしてあるが、ほとんどの物語はその特殊性のみ取り沙汰され、復讐鬼=モンスターのような扱い方をされていたように思う。しかしフリーマントルはジャックをそう描かず、15年も刑期を勤めた出所者からスタートし、そこから社会への順応、徐々に復讐の計画を積み上げる過程、そして復讐を成すために積み上げる男として、元諜報員としての自信の回復、そして一方ではいざ実施となった段に逡巡する心理状態などを細かく描く。つまり復讐鬼が社会的不適合者という異常者というような定型を採らないところに本書の読みどころがある。 そして今回復讐を受ける側、ドミートリイ・ソーベリことダニエル・スレイターとアン、そして息子のデイヴィッド一家側の設定もまた巧みだ。 ジャックが出所する段になって、突然彼らに幸運が紛れ込む。ダニエルは自らが経営する警備会社に新規契約と大きな取引が次々と来るようになり、アンは自分たちの住む地方都市フレデリックで営む自らの画廊に有名な画家の個展を開く話が舞い込み、それを成功させたことでメディアの取材に引っ張りだこになり、街の名士となりつつあり、息子のデイヴィッドもバスケットの才能を買われ、大学からスカウトが来る。 こういった人もうらやむサクセスストーリーが、復讐を恐れ、証人保護プログラムの庇護を受ける彼らには災厄の種でしかならない。この大きな幸運がさらに大きな不運を呼び込むストーリー展開の妙と、証人保護プログラムの盲点を付くこのフリーマントルの着想に思わず唸った。 主題がはっきりしているだけに、物語の行き着く所は実に明確だ。即ち復讐は成されるか、成されないかだ。 こういう単純な構造の物語はそのゼロ時間に向かうまでのプロセスに読みどころがあると云えるだろう。同じ復讐譚を扱ったP.D.ジェイムズの傑作『罪なき血』が正に好例と云える。 フリーマントルの場合はと云えば、云わずもがなで、復讐する側とされる側の双方を丹念に描き、全く飽きさせず、“その瞬間”まで双方を振り回す。 またフリーマントルはアメリカの証人保護プログラムに警鐘を鳴らしている。この堅牢と思われたシステムが、実はいくつもの欠点があり、その成功実績は薄氷の上に立つ危うさ、いや逆に情報が隠されているだけに絶対安心という虚像でしかないかもしれないのだ。 エルモア・レナードもこのプログラムには『キルショット』でかなり辛辣な評価を作中で下しており、アメリカ国民(フリーマントルは英国人だが)の中でもその信頼性を疑われているのが解る。 しかし本書を読んでいるときはそんなことは考える必要はない。CIA、KGBは出てくるものの、従来のフリーマントル作品と違い、政治的駆け引きが一切なく、物語がジャックの復讐のプロセス1点に絞られて進むのが非常に読みやすい。 彼のスパイ物に横溢するディベートの応酬も醍醐味だが、こういうシンプルな構成であるが故に、彼のストーリーテリングの素晴らしさが引き立つ。ぐいぐい引き込まれる物語に委ねるだけでいいのだ。 一般的に国際謀略小説の重鎮と呼ばれ、その格調の高さから敬遠されがちなフリーマントルの作品だが(それでも毎年コンスタントに訳出されているのは売れているからだろうが)、本書は彼の本を初めて読む人にはそういった意味ではまさに“うってつけの”一冊ではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は単純な構成ではない。実は作者自身と思われる理科系作家が上野の国立博物館でフーコーの振り子に出会ったことから小学校の頃の不思議な体験を思い出しながら物語を綴るという入れ子構造的な作品となっている。その物語はその小説家が小学校6年生の夏休みに出会った不思議な博物館の思い出、そして実在の人物であるフランスの考古学者オーギュスト・マリエットを主人公とした歴史小説であり、この3つの話が交錯し、お互い共鳴し合うという凝った作りになっている。
また語り手である小説家はほとんど瀬名氏の分身であるようだ。従って、この作家の私の心情はそのまま瀬名氏の言葉といっていいだろう。自分の創作手法と編集者が求める物との齟齬、物語の創作と人を感動させる手法、そして小説論など小説家としての苦悩が色々書かれている。 そして作中の小説家が吐露しているように本書は瀬名氏が物語作家になることに挑戦した作品だと云える。 では瀬名氏の小説は物語ではなかったかというとそうではない。起承転結があり、登場人物もステレオタイプ的でありながらも善玉・悪玉がきちんと描き分けられていた。ただそれらは主題となる専門的な学術分野の内容をふんだんに盛り込んだプロットを軸にして、動かされていたような様があり、あくまで主眼は最新科学をベースにした自らのアイデアだったように思う。従って読者はその専門性の高さに半ば驚嘆し、半ば難解さに理解を放棄していたようだ。実際『BRAIN VALLEY』は途中で挫折した読者も多かったと聞く。 その事を作中の小説家の口を借りて、自身が目指していた感動とは一般の物語で得られるものではなく、論理への感動、技術への感動、概念への感動であったと述べている。つまりあるべき物があるべき姿で収まる事、その完璧な世界が映し出す美しさを瀬名氏は感動と捉え、それを自身の作風とした。 しかし本作ではその学術的内容は極力抑えられ、登場人物の心情描写や、行間から匂いや温度までが感じられそうな風景描写に筆が割かれている。その結果、本作は片やノスタルジー溢れるジュヴナイルでもあり、はたまた19世紀のパリの万国博覧会のシーンや発掘ラッシュの19世紀のエジプト、もしくは紀元前のエジプトを精緻に描いた歴史小説の貌をも持つ、多彩な作品となっている。 前後したが前に読んだ『虹の天象儀』は本書の刊行後に著された物であり、『虹の~』が一人称叙述で語られ、主人公の心情描写に多く筆を費やしていることからも、本書が瀬名氏にとって作風の転換期となった作品であると云っても過言ではないだろう。プロット・構成・人物配置など計算し尽くして創作された物語よりも、作者の制御を離れて作中人物が勝手に動き出す、熱を持った物語へシフトする事に挑戦したのだ。 とはいえ、やはりこの作家の持ち味であるテクノロジーに関する内容は従来の作品と比べれば少ないものの、きちんと織り込まれている。特に亨が遭遇する謎の博物館が持つ人口現実世界と名づけられたシステムは今で云う仮想空間世界を更に発展させた物であり、これが恐らく近い将来実現する物ではないかと思われる。そこに加えた瀬名氏の物語としての嘘、仮想空間を現実に近づけることで計算の域外で起こる「同調」という現象が本作の肝だ。この「同調」を利用して、悠久の歴史に埋もれた事実や遺産を復活させる事がこの博物館の主目的であり、それが物語のクライマックスへの呼び水となっている。 この科学を超越した現象は『BRAIN VALLEY』で取り上げた形態共鳴という不可解な現象が下敷きにあると思われる。単に知識として蓄えたままにせず、それを換骨奪胎して新たな超自然現象を想像するこの手腕はやはりこの作家の特質と云えるだろう。 一方で作中に織り込まれた小学6年生が初めて手にした創元推理文庫に対する思い、エラリー・クイーンやルパン三世、ドラえもんといった実在の固有名詞が郷愁を誘う。特に本作の舞台となる博物館は人工現実世界が現実世界の物と同調し、融合しているところなどはドラえもんのどこでもドアに代表されるひみつ道具の発想と非常に似通っており、非常に影響が強く感じた。実際、最後に藤子・F・不二雄へ献辞が書かれている。 野心的な作品であることは疑いないが、語りたい事、試したい事が多すぎたためにちょっと凝りすぎたか。誠に惜しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2001年、祥伝社が400円文庫と銘打って、当時文壇で活躍していた作家達に200ページ弱の書下ろし作品を依頼するという企画があった。本書はその企画にて書き下ろされた瀬名氏のSF中編である。
瀬名氏といえばデビュー作が角川ホラー大賞を受賞した『パラサイト・イヴ』であることは有名だが、その後もSFサスペンス大作『BRAIN VALLEY』を上梓している。それらに共通するのは絶対的な専門的知識に基づいたフィクションの制作であり、どこか現代と地続きである事を感じさせていた(『BRAIN VALLEY』はあの結末が飛躍しすぎているきらいがあるが)。 しかし本書では現代科学では当面空想上の物と考えられているタイムスリップを扱い、大人のメルヘンともいうべき1編となっている。 しかし本書でのタイムスリップの扱い方はいささか趣が異なる。といいながらも斯くいう私も論じるほどタイムスリップ物を読んだ事がないのだが、その少ない知見に基づいて書くならば、通常タイムスリップというのは個人的な忌まわしい過去を清算する、もしくは過去の過ちを正すために奮闘するという流れでストーリーが運ぶと思うが、本作では主人公が好きな実在の作家織田作之助の夭折を防ぐこと、そして空襲で焼け落ちる毎日天文館からプラネタリウム投影機と日本の天文学界において貴重な資料である格子月進図を守るという、実在の歴史を改変することを目的にしている。 シミュレーション小説などでよくあるテーマかもしれないが、瀬名氏が書くタイムスリップ物と構えて手に取った私にしてはけっこう思い切った事をするなぁと思った。 勿論、これらの目的は達成されないのだが、代わりに主人公が得るものはある。それは五島プラネタリウムを勇退したその後の人生の目標だ。彼はそれを夢見て今後の人生を過ごす事が出来るのである。 そしてなぜこのような作品を瀬名氏が書いたのか。私が思うにそれはたびたび引用される織田作之助の末期の言葉、「思いが残る」というこの一言にインスパイアされたのではないだろうか? 「思い出が残る」ならば解るが「思いが残る」とはどういう意味だろう?そして織田作之助にとって残る「思い」とは一体何なんだろうか?そこからこの物語が紡ぎだされたのではないだろうか? しかしこの言葉に対する瀬名氏の思いが強すぎて、いささかくどいところがある。理系作家とされる瀬名氏だが、その作風はドライではなく非常に熱い。 たださすが博識の作家瀬名氏、未知の知識を今回も与えてくれた。カール・ツァイスⅣ型プラネタリウム投影機に関する詳細な内容はもとより、ムーンボウという月の明りで出来る夜の虹なども教えてくれた。 また戦中の東京についても精緻に描かれており、書下ろし中編といえども手を抜かない創作姿勢が嬉しい。 しかしなんとも云えない読後感が残る小説である。具体的に云えないが、なんだかこそばゆい限りだ。 作者として思い入れを強く入れすぎ、読んでいるこちらが気恥ずかしさを感じるところがある。それとも少年の心とか夢とか清い愛とかに私が恥ずかしさを感じるように変わったのか。まあ、ちょっとしばらく考えてみよう。 |
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フリーマントルが自身のノンフィクションルポルタージュ作品『ユーロマフィア』で述べていた、複数の国に君臨するそれぞれのマフィアによる犯罪ネットワークの構築、これが本書の主題である。一応本書では今回がまだその計画の端緒に過ぎないことが謳われている。
それはそうだろう。なぜなら私にはどうしても納得できない事があったからだ。 それはアジアと中南米の市場に関して何ら触れられていないからだ。 中国マフィアがアジアに、そしてアメリカに及ぼす影響力は無視できる物ではなく、特にアジアでの勢力は強大である。しかも人口が膨大であるから、莫大な利益を上げるには無視できないマーケットである。 また中南米も縦横無尽に張り巡らされた麻薬カルテルが多数存在し、定量的な麻薬の確保にこの地方のマフィアと協定を結ぶのは必要不可欠だろう。そこの詰めの甘さを上述のように、本作では取っ掛かりに過ぎないという表現で上手く逃げているように取れる。 これは西洋人の作家と日本人作家との違いもあるだろう。やはり西洋人であるフリーマントルはアジア圏内よりも欧米圏に精通しており、マフィアといえばロシア、イタリア、アメリカとすぐに浮かぶのだろう。 これが日本人作家ならば、例えば大沢在昌氏や馳星周氏ならばすぐさま中国系マフィア、韓国系マフィア、台湾系マフィアと近隣アジア諸国の勢力を題材に扱う事が多い。この辺が住む世界での違いだと感じた。 そしてこのマフィアの世界のなんとも恐ろしい事。敵・味方内部では裏切りの連続で腹の探りあいの毎日。そして誰もが一番上の地位を虎視眈々と狙っている。笑顔で右手で握手しながら左手は後ろに隠してナイフを持っている、そんないつも心を許さない日々を送る。今日の信頼が明日まで続くとは限らず、いつ自分も他の仲間と同様に報復の道を辿るかわからない。 かつて『ユーロマフィア』でフリーマントルは「犯罪はペイする」と述べたが、得られる富が莫大なだけにこのリスクと人間不信に満ちた世界から逃れられない輩が常にいるのだろう。私はこんな世界、御免だが。 我々が日々の暮らしの中で常に求めるのは何だろう?それは「安心」ではないだろうか。今の生活を続けられるよう、人は働き、糧を得る。それは「安心」を得るためだ。 しかし彼らマフィアはその「安心」が自らの地位向上、権力の拡大、更なる利益に特化しており、それが更に彼らの「不安」を助長し、どんどん排他的になっていく。「安心」を得るために続けた事が自らの「不安」を掻き立てるのだからなんとも皮肉な稼業である。 シリーズも4作目になって、今まで抜群のコンビネーションで二国間に跨る犯罪を解決してきたダニーロフとカウリーの2人にある変化が訪れる。 まずダニーロフは私怨からくる復讐を抱え、1人の警察官ではなく、己の正義のための死刑執行人として捜査に携わる。そしてこの復讐が本作のもう1つのテーマになっている。 なんと前々作でロシア・マフィアに爆死させられた愛人ラリサの仇が本作で出てくるのである。いつもは沈着冷静に行動するダニーロフが今回は右腕ともいえる部下のパヴィンや相棒のカウリーの忠告も聞かず、傲慢に捜査を進める。そのせいだろうか、ロシア独特の原理主義で巻き起こる上司との軋轢や彼らの“椅子取りゲーム”に翻弄されるダニーロフの微妙な立場に関していつも多く筆を裂かれているのに、本作では全くといっていいほど、ない。 そしてカウリーは、本作ではなんと下巻も100ページ辺りになってようやく自らが捜査に乗り出すのだ。なぜならば今回彼は作戦の統括管理官という立場になり、下院議長の甥である野心家ジェッド・パーカーが彼に代わって現場での指揮を執る事になるからだ。 これはチャーリー・マフィンシリーズでもナターリヤが同様の立場に任命され、作戦の成否の責任を一身に担う、云わばジョーカーを引かされた役を務めていたが、今度はカウリーがその役を負わされることになっている。従ってカウリーは自身の能力から来る失敗ではなく、部下の過信から来る失敗の責任をも負わされるのだ。つまりカウリーは今まで無縁だった中間管理職の危うい立場と長官の政治的駆け引きをも強いられることになっている。 これはチャーリーならばお手の物だが、カウリーは現場主義者なので、今まで上役との駆け引き、長官がホワイトハウスに向けて行う声明などには忖度する必要はなく、己が築き上げた地位を守るために自らの能力に頼み、事件に専心していた。この馴れない業務に対する彼の苦渋が今回はほとんどを占めているのが特徴的だろう。 従って彼は以前身を滅ぼすことになったアルコールに手を出す事になる。それの歯止めとして前回パートナーとなったパメラが生きてくるのだ。 彼の心の支えとなるのがパメラの役割だが、カウリーはまだパメラに全てを委ねてはいない。本当に愛しているのか、それとも単なる恋愛に終わるのか、まだはっきりしない。この2人の関係は今後も引き続き書かれることだろう。 そして今回の敵役のオルロフを忘れてはいけない。 ロシアの一介のマフィアから№1マフィアを葬る事でのし上がってきた男。しかし彼はコンプレックスの塊で誰も信用しない。自分がそうであったように、彼の取巻きが自分の地位を狙って、いつ寝首を掻かれるか、恐れている反面、拷問で人が苦しむ姿を見ることにエクスタシーを感じる男である。そしてそれが用心深さを生み、不安要素となる人間を容赦なく排除する。そして自分の犯罪ネットワークの構築にも周到な注意を払い、常にロシア民警、FBI、さらにドイツ警察の先回りをし、裏を欠き、更には爆弾を仕掛けて爆死させるという残忍さを披露する。 さて複数の国に跨る国際犯罪に対して関係諸国の諜報機関、警察機構が協力して合同特別捜査班を組むという趣向はこれまでチャーリー・マフィンシリーズでは何度も取り上げられたが、そのシリーズがイギリスの諜報機関に属するチャーリー側から描かれているのに対し、本作ではカウリーが属している関係上、FBI側から描かれているが、どちらもFBIが捜査の主導権を握りたがるというのは変っていないところが面白いではないか。 これは英国人フリーマントルの偏見なのか、それともやはり一般的なイメージどおり、アメリカとは常に世界のリーダーシップを取りたがる事に関する証左なのか解らないが。 しかしこれほど国際的な犯罪を扱ったシリーズ作品を手がけているのに、フリーマントルは自らの作品世界をリンクさせない。つまりチャーリー・マフィンシリーズにはカウリーやダニーロフは出ないし、逆もまた然り。 マイケル・コナリーやエルモア・レナードは積極的に行っているのに、なぜだろう?私はチャーリーとカウリー、ダニーロフ、更にはユーロポールのプロファイラーであるクローディーン・カーターが一同に会して捜査を行う小説を読みたいと思うのだが。 もしそれが実現すれば一個人読者としてはかなり胸踊る作品である。今年で御齢82歳のフリーマントルが存命中にどうかこの願いを叶えてくれる事を密かに願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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京極夏彦氏鮮烈のデビュー作。綾辻以降の新本格から第2ステージに移行した本格ミステリシーンの時代の転換期の象徴とも云える妖怪シリーズ第1作だ。
とは云え、一読、実に真っ当な本格ミステリというのが率直な感想だ。 元々ミステリとは始祖ポーが、明らかに怪物の仕業である、または説明のつかない怪奇現象の類いであると思われた事象を実に明解な論理で解き明かすことを主眼にした文学形態である。つまり人々が恐れていた謎という闇の部分に論理という光を当て、人智の物とする行為。 この京極堂こと中禅寺秋彦の「憑物落とし」は正にこの行為そのものである。だからこの妖怪シリーズは妖怪というモチーフと物珍しさ、憑物落としという興趣くすぐる演出で新たな本格という風な捉えられ方をしたが、実は黄金期ミステリ時代への原点回帰的作品なのだ。 この現代社会にそぐわない憑物落としを違和感なく作品世界に落としこむために設定した舞台が昭和二十七年という時代設定である。戦後からようやく復興の兆しが見えてきたこの時代、闇夜はまだ怪異の居場所だった。そんな異界と斯界がまだ密接に隣り合っていると信じられていたこの時期こそ自身の作品を成り立たせるのがこの時代であったと後日作者自身が述べている。 そしてそれが時折挟まれる幻想味溢れる眩暈めいた文体も相まって、独特の作品世界を構築する。理詰めで構築される博覧強記の京極堂の薀蓄語りとどこか情緒不安定な“信頼できない”語り手である関口の妄想めいた語り口が程なくブレンドされており、デビュー作とは思えない独自の作品世界と文体を既に確立しているのが素晴らしい。 またこのシリーズがなぜ斯くも人気があるのかがこの1作で解る。 非常にキャラクターが立っているのだ。 古本屋京極堂を営む陰陽師安倍晴明の流れを汲む元神主で憑物落としを副業とする中禅寺秋彦。 三文作家でワトソン役を務める俗っぽい語り手である関口巽。 出版社に勤める活動的な女性で京極堂の妹敦子。 そして眉目秀麗、何をやらせても非凡な才能を持ち、更に人の記憶が見えるという特殊能力を持った薔薇十字探偵社を営む榎木津礼二郎。 関口と榎木津の戦友であり警視庁の刑事である木場修太郎。 第1作から斯くも個性的なキャラクターが総出演し、それを自在に物語に配置し、躍動させる京極氏の筆の冴え。 そして全編に繰り広げられる薀蓄、これまた薀蓄の波。 民俗学から端を発す妖怪、幽霊の存在についての考察から宗教論に錬金術、はたまた大脳生理学から量子力学まで、その内容は幅広く、しかも詳細だ。しかもこれらは単なるガジェットではなく最後の憑物落としに実に有機的に結実するのだから読み落としてはいけない。 なおこれも翻って考えれば、黄金期ミステリを代表するヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスに由来している事が解る。先にも述べたがこのシリーズは実に本格ミステリの王道に忠実なのだ。 そしてこれら博学な知識を動員して説かれる論理はなかなか心地よい物がある。幽霊を視認する事と脳の作用に関する考察、歴史上の人物と御伽噺の登場人物の存在として等価性とそれに対する現実と想像との判断基準に関する考察、知性や道徳性が生物の種の保存という本能に及ぼす歪んだ価値観、などなど興味は尽きない。 その中でも特に他人の記憶が視覚化するという榎木津の特殊能力に対する京極堂の論理的推論は非常に面白い物があった。 その榎木津もエキセントリックな風貌も相まって御手洗潔が初登場した時を思い出させる印象的なキャラクターだ。個人的には一番好きなキャラクターである。 そして話が進むにつれて、噂の久遠寺医院は伏魔殿の如き様相を呈してくる。 蛙のような赤ん坊、産まれてまもなくいなくなる嬰児、これら奇妙な噂と謎が実に間然なくロジックで解き明かされる心地よさ。 しかしその真相は実に複層する狂気が折り重なった戦慄の真相。 惑う人ほど弱く、そして自らの視野を狭め、最悪の選択をする。 このあまりに非人道的な行為が今回の失踪事件に繋がるロジックの妙はおぞましさはもとより耽美な美しささえ感じるほどだった。 この業が“姑獲鳥”なる妖怪を生み出してしまったのだ。 とまあ、実に私の好みと合った作品で、ここまで激賞の連続だが、メインの謎に関する真相はいささか期待はずれという感がないわけではない。 二十ヶ月間も妊娠している妊婦、密室から失踪した夫の行方と非常に不可解かつ魅力的な謎を提示しているが、その真相との落差が激しかった。 今まで述べたように、この妖怪シリーズは決して斬新な本格ミステリではなく、むしろ過去のあらゆる分野からモチーフを取り出し、それを咀嚼した上で完成した物語という一枚の絵であることは識者であれば一目瞭然だろう。 しかしそれは全くこの作品を貶める物ではない。逆に温故知新の素晴らしき実践例だと私は褒めたい。 本格ミステリに必須ともいえる謎という暗闇に日本古来より伝わる妖怪という怪異を施したこのシリーズと作者の着想。更には知識欲の充足をも与えてくれる博学な作者のデビュー作とは思えぬ練達の筆捌き。 次作を早く読みたい気分で今は胸がいっぱいだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本では邦題が示すように国名シリーズに数えられているが、原題は“The Door Between”と全く別。本国アメリカでも国名シリーズからは外されている、なんとも微妙な立ち位置にある本書。
因みに国名シリーズに数えるならば10作目と非常に据わりがいいため、これが故に日本ではシリーズの1作として考えられている節もある。しかし、私見を云わせていただければ、やはりこれは国名シリーズではなく、『中途の家』同様、第2期クイーンへの橋渡し的作品だと考える。 まず単純な理由を云えば、国名シリーズの専売特許とも云うべき「読者への挑戦状」がないからだ。しかしこれはほんの小さな違いといえよう。読み終わった今、この事件を読者が当てることはまず不可能だろうし、もし挑戦状が挿入されていたとしたら、アンフェアの謗りを受けることも考えられるからだ。 私が感じた大きな特徴は次である。 国名シリーズならびに悲劇四部作といったそれまでの長短編は発生した殺人事件に関わる複数の容疑者の中から犯人を搾り出す構成であったのに対し、『中途の家』と本作では事件の容疑者は1人に絞られ、その人物の冤罪を晴らすという構成に変わっている。これは『スペイン岬の秘密』で最後にエラリーが吐露した、自身が興味本位で行った犯人捜しが果たして傲慢さの現われではなかったか、知られない方がいい真実というのもあるのではないかという疑問に対する当時作者クイーンが考えた1つの解答であるのではないか。即ち部外者が犯行現場に乗り込んで事件の真実を探ること、犯人を捜し出すことの正当性を無実の罪に問われている人物への救済へ、この時期クイーンは見出したのではないだろうか。それは最後、真犯人に対してエラリーが行った行為に象徴されているように思う。 そしてもう1つ、敢えて『中途の家』との類似点を挙げると、それは恋愛の要素が物語に織り込まれていることだ。 しかしなんともぎこちない登場人物のやり取りは三文芝居を見せられているようで、上っ面を撫でただけのような感じがするのは否めない。ちょっと背伸びしているような気がする。 本書では犯罪のプロセスを証拠によって辿るというよりも、犯行に携わった人々の心理を重ね合わせて、状況証拠、物的証拠を繋ぎ合わせ、犯罪を再構築する、プロファイリングのような推理方法になっているのが興味深い。そしてその手法は事件が解かれた後にエラリーと真犯人の間で繰り広げられる第2の真相において顕著に見られる。 これは先に述べた物語に恋愛感情を絡めた事に代表されるように、作者クイーンは人間の心理への謎へウェイトを置くようになったのではないかと思う。 特に被害者カーレンの死の真相は、非常に観念的な要素を秘めているのがその最たる特徴だ。 そして文中の脚注でも述べられているが、そのカーレン・リースには実在のモデルがいるとのこと。そのモデルとなった女性エミリー・ディキンソンも女流詩人という文学者で厳格な父親の影響ゆえに、父の死後、自宅から一歩も外出することなく一生を過ごしたのだという。こういう奇異な生活をした人の心理こそエラリーは興味深い謎と思ったのではないだろうか。 これら第3者による事件の真相解明の意義、人間心理への興味については今後の作品を読むことでまた考察していきたい。 しかし10作以上も出しながら未だにクイーンの作品で描かれる警察の捜査には不可解なところがある。 流石にエラリーが殺人現場の持ち物を無造作に手袋もせずに触れる際に「指紋はすべて調べてある」というフォローが入るようにはなったが(それでも現場保存という観点からこの行為は問題ありだが)、今回はエラリーが屑箱からカーレンが死に至った凶器となる鋏の片割れが見つかり、しかもそれをクイーン警視が凶器と認識している箇所があるが、これはどう考えてもおかしいだろう。事件の凶器と見なされる物は重要証拠であり、これらは全て警察によって回収し、保存されなければならない。しかも拭われたとは云え、被害者の血液も付いており、ましてや冤罪に問われようとしているエヴァの指紋さえ付いている可能性もあるのだ。それを凶器と知りつつ、現場に放置しているとは全く別の世界の話だとしか思えない。 クイーン作品の、このような警察捜査に関する無頓着さが未だに解せない。 本書は前述したように「読者への挑戦状」は挿入されていないものの、一応読者が推理できるような作りにはなっている。いつもならば私は一応の犯人と犯行方法を推理するのだが、本書ではしなかった。 というのもある新本格作家の作品を読んだがために、真相を知っていたからである。 本書未読の方のためにその名を挙げておくとそれは麻耶雄嵩氏の『翼ある闇』である。私と同じ不幸に見舞われないための一助になれば幸いである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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既にベテランの本格ミステリ作家として活躍する芦辺氏の鮎川賞受賞作にしてデビュー作。
題名が示すように主要登場人物は二桁にも上る大学のサークル仲間。そのうち8人が死体になるという大惨劇。時刻表トリックに、密室殺人、暗号、毒殺に誘拐事件、更にはダイイング・メッセージと、本格ミステリで用いられるモチーフをふんだんに盛り込んだ贅沢な作品だ。 本書の特徴は冒頭に作者自ら本書で採用したトリックや事件の背景となる事件について断片的に語られていること。作者の弁を借りれば、謎解きの段になって語られる読者には知りえなかった犯行経路、機械的トリック、背後の事実をあらかじめ提示してそのハンデを解消させようというのがその意図であるが、読後の今ではそれもまた前知識になれこそすれ、これらの情報を以って、犯行及び犯人を特定するのは至難の技であるといわざるを得ない。 しかしそれは不満ではなく、これがまた謎解きにカタルシスをもたらす一因になっているのが憎めない。この趣向は古典ミステリにおけるクリストファー・ブッシュの『完全殺人事件』と類似しており、恐らく古今東西のミステリに精通した作者の事、この作品が念頭に置かれていたのは間違いないだろう。 そして物語の大半を登場人物の手記が占められている本作、前述のようにかなり数の事件が起きるだけに、構成はかなり凝っている。 なんと語り手である十沼自身も殺人鬼の毒牙にかかって亡くなってしまうのである。これには度肝を抜かれた。通常ならば物語の語り手とは犯人ではなく、探偵役もしくはワトスン役、更には傍観者という暗黙の了解があるが、それを覆すこの趣向にはニヤリとさせられた。 そしてようやく本作の探偵役である森江春策の登場。なかなか心憎い演出だ。 そして彼の口から開かされる連続殺人事件の構図は複雑で、とても一読者が看破できるような代物ではない。8件もの事件を時系列に並べるだけでも大変だし、読後の今、その込みいった事件の全貌を十全に理解できたかといえば心許ない。 これらふんだんに盛り込まれたトリック、ロジックを過剰だと切り捨てればそれまでだが、これも芦辺氏が敬愛する鮎川哲也史の名を冠した賞を何が何でも受賞したいが故にその時点での全てを盛り込んだ力作だと評価しよう。 しかし今後芦辺氏の数ある諸作でシリーズ探偵を務める森江春策だが、本書で受ける印象はさしたる特徴も無い、明敏な頭脳を持つ探偵である。関西弁をしゃべり、少し気が弱く、また大きめの頭にボサボサに伸びた髪、高からず低からずといった背格好と、エキセントリックという単語とはかなり距離を隔てた人物設定だ。作中人物の言葉を借りて作者は森江をチェスタトンのブラウン神父に擬えているようだが。まあ、このキャラクターも今後の芦辺氏の諸作で際立ってくるのだろう。 ただしかし、なんとも読みにくい文章。学生時代の、知識ばかり蓄え、社会性に乏しい青臭さを文章で表現しているのだが、悪乗りのように感じてしまってなかなかスムーズに読むことが出来なかった。 常に捻りを加えられたその文章は文字を追う目の動きをノッキングさせ、しばし理解に苦しむところがあった。これは奥田哲也氏の諸作を読んだ時と同様の感覚だ。 前述のように、これは作中の語り手である推理作家志望十沼京一の手記だと解るのだが、それでもなお、悪ふざけの極地とも云えるこの文体には参った。ここでかなりの人が嫌悪感を示し、読むのを止めてしまうのではないだろうか。 謎解きを終えて感じるのは作者の本格ミステリへの深い愛情である。古今東西のミステリを読み、さらにその研究を続ける芦辺氏が過去の偉大なる先達の遺産を換骨奪胎し、紡いだ本作からは彼らに対する深い敬意と本格の火を絶やすべきではないという信念が紙面から迸っている。それが故に筆が走りがちになっているのは否めないものの、この意欲と情熱は買える。 個人的には暗号を解けなかったのが悔しかった。以前ある推理クイズで同種の暗号を見抜いただけに。今私が読むと、上のような評価になってしまうが、もし私が新本格に夢中になっていた学生時代もしくは社会人成り立ての頃に読むとこの評価は変わったかもしれない。 彼がデビューした頃、新本格ブームに乗じて数多の作家がデビューし、また消えていった。 その中で生き残り、今なお精力的に作品を発表し、評価が上がりこそすれ落ちる事のないこの作者の作品をこれからも読み続けていこうと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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父親が経営する会社―本書の場合は義理の父親だが―が悪事に加担しており、それを自分が引き継ぐ事になったら・・・という、クーンツ張りの巻き込まれ型サスペンスをフリーマントルが書くと斯くもこのように実に緻密な物語になるといった見本のような作品だ。
この、ある日突然自分の身に降りかかる災禍ほど恐ろしい物はなく、主人公と読者自身を同化させるとそれは尚更肌身に感じられてくるのだが、フリーマントルの場合はそれが一般の市井の人々のレベルではなく、ハイソサエティクラスの人物達の物語であるから、どうしても明日は我が身といった危機感を感じられないのが難点ではある。 物語は大きく分けて2つに分かれる。 まずいきなり人生最悪の状態に陥ってしまったウォール街一流会計事務所の後継者ジョン・カーヴァーの葛藤とマフィアとの戦いの決意をするまでの前半部。ここに絡んでくる2人の女性、妻のジェーンと愛人のアリスはまだ脇役と云っていい。どちらかと云えば独立した女性アリスの方が何かにつけジョンをサポートしており、パートナーの役割を担っている。 そして物語中盤、ジョンが亡くなってからはこの2人の女性の物語となる。ようやく原題の“Two Women”の出番だ。 この2人の立場は2人を追うマフィアの魔手をかいくぐりながら主客転倒して物語は流れていく。特に愛人であるアリスがその存在を知らないジェーンを半ば誘拐する形で連れ出す展開はツイストが効いている。 やがてアリスと亡き夫ジョンとの関係を知らされ、ジェーンにある種の芽生えが生まれてくる。これはお嬢様として育てられ、何不自由なく与えられた女性の自立がテーマになっていると述べたいところだが、どうもそう簡単に一言で済まされない読後感がある。 私が最後読んで思ったのは、女は怖いということだ。 女性は男性に比べて情理のバランスが取れているというのが通説だ。だから男は女には口では敵わないのだと云われるのだが、このジェーンとアリスも1人の男性を巡る正妻と愛人との関係なのだが、どうにもお互いを憎みきれない感情を持っている。それは一緒の男性をお互いに自分なりの方法で愛したからという理由から来ている。通常ならばここから2人お互いに手を組み、共同戦線を張ってマフィアから逃れ、FBIに協力するという形になるのだが、フリーマントルはそんな簡単には物語を運ばない。 こうして見ると本書のテーマとは、やっぱり女の恐ろしさではないかと思える。女性の微笑みの裏に隠された本当の思いとは誰も解らない。 フリーマントルがさほどドロドロとした女の戦いを描かなかっただけに、却ってうすら寒さを感じるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ9作目の本作は非常にオーソドックスな作品と云っていいだろう。
岬の突端に建てられた館。そこには1人のジゴロを中心に愛憎交じり合う娘と母親、そして来客者達。 それぞれに何か胸に秘める複雑な感情が渦巻く中、そのジゴロが殺される。そして捜査が進むうちに判明するのはそのプレイボーイが恐喝屋で、わざと不倫を唆して、その証拠を押さえ、金銭を強請っていたという、古式ゆかしい本格推理小説の典型とも云える作品だ。 しかし、今までのクイーンの国名シリーズではどんな作品でさえ殺人舞台の見取り図が添付されていた物だが、本作ではスペイン岬に立つ屋敷を舞台にした犯行を扱いながら、屋敷の見取り図が一切ない。つまり本書の謎とは屋敷の住人の配置とは関係なく、またそれぞれの部屋に特殊な仕掛けがあるわけでもない、トリックではなくロジックに重心が置かれた作品だと云える。 そんな話だから登場人物の相関関係を調べていくうちに自然と犯行の動機も解り、どのように犯行が成されたのかも解っていく。この辺は何の奇の衒いもなく、半ばで地元警視が開陳する推理と同様に私も考えていた。 しかしその流れにどうしても当てはまらない奇妙な1つの事実が歴然として存在する。それは被害者が全裸という状態で殺されていた事。捜査が進むにつれて関係者それぞれの思惑、関わりからパズルはどんどん完成していくのだが、この奇妙なピース1つだけがどこにも当て嵌まらない。本作の鍵は正にこの1点にあるといっていい。 この動機、犯行の流れが物語が進行するに連れ、徐々に整然と説明が付いていくのだが、どこか奇妙に食い違う箇所があるという味わいはセイヤーズの諸作によくみられる物だ。このプロットに介在する奇妙なピースが当て嵌まる事でガラリと変わる真実こそクイーンが本書で狙ったミスディレクションの妙だと思う。 そうミスディレクションこそ本書でクイーンが試したかったことだろう。 まず冒頭の誤認誘拐事件を仕組んだのは誰かというのはミステリを読み慣れた読者ならば容易に察する事が出来る。しかしこれが実に巧妙なミスディレクションだろうとこなれたミステリ読者ならば深読みしなければならない。 思えば本書の皮切りに神の視点である物語の記述者の手によって誤認誘拐事件の失敗が示唆されているが実はここから作者の巧妙なミスディレクションが始まっていた事に気付かされる。 そして明かされる死体が全裸だった理由はなかなかに興味深い。この奇妙なパズルピースこそ犯人を決定する唯一の糸口だったと云える。 もうお分かりだと思うが、今回の私の挑戦も敗北だった。 私が理論立てられなかった推理を鮮やかにロジックで解き明かすエラリイにここは素直に降参するしかない。逆にオーソドックスだと思われた本作もこの推理で流石はクイーンというべき作品になった。『アメリカ銃~』以降、立て続けに失望させられただけに、ようやく満足の行く作品が出たと安堵した。 しかし不満が残るのは結局のところ、犯人が捕まるのに決定的な証拠が無かったことだ。犯人が誠実な男であったために、自ら非を認め、逮捕に至っただけで、実はエラリイは状況証拠を並べただけに過ぎない。ここに本作の詰めの甘さがある。 また本作では珍しく指紋に関して注意が払われるが、それでもまだ認識が甘い。なぜなら犯行現場であるウェアリング邸でエラリイは所構わず触れるし、あまつさえ犯人が使用した電話をそのまま素手で扱うという不注意な行動を取る。 元々指紋、血痕、唾液といった人物を特定する証拠を基にロジックを組み立てる作品ではないと解ってはいるが、それでもこういう無頓着さにはどうしても嫌悪感を抱いてしまう。 今回、興味深かったのは今回エラリイは犯人を明かした後、後悔の念を示すことだ。なぜならば被害者は悪質な恐喝者であり、彼の死は賞賛されるべきことだった。そして犯人こそ正義があったからだ。 「わたしは人間の公平なんてどうでもいいと公言してきました。だけどそうじゃない、実に大事です!」 泰然自若とする犯人の誠実さにクイーンが初めて見せた苦悩。作品を重ねるにつれて単なる頭脳ゲーム、ロジックパズルゲームとしての推理小説から人を裁く事に対する意味への移り変わりの萌芽がここに見られる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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世に「理系ホラー」なる新語を定着させた衝撃のデビュー作『パラサイト・イヴ』では遺伝子工学の観点からミトコンドリアを題材にした瀬名氏が今回取り上げたテーマは題名にあるようにずばり脳。
島田荘司氏が21世紀ミステリの提唱として取り上げたのも大脳生理学という脳の研究学問の分野であり、もしかしたら島田氏は本書を読み、本書に書かれた現象の数々に触発されて、新たなる幻想的な謎の創作の端緒を得たのかもしれない。そんなことを感じさせる、とにかく色んな要素が詰まった作品である。 刊行された97年時点での最先端の脳科学研究の内容と日本の関東から東北との境にあると思われる山中の村落、船笠村に昔から続く“お光様”なる民間伝承、そして主人公孝岡が遭遇するエイリアンによる誘拐(アブダクション)体験、さらには臨死体験からサイバースペース内で培養される人工生命へ、そして動物とのコミュニケーションの確立と、理系、文系、そして超常現象、動物行動学とおよそ交わることのないエッセンスが並行に、時に交錯して語られる。私はこの物語は一体どこへ向かおうとしているのか、非常に不安でならなかった。ホラーとして超常現象をあるがままに受け止めるべきか、それともミステリとして合理的解決されるべきとして読み進むべきか、読者としての立脚点をどこに置くか、非常に悩まされた。 しかしそれらはやがて合理的に結び付いていく。これに関しては物語の核心に触れる事になるので後ほど語る事にしよう。 さて自身薬学博士である瀬名氏の作品へのアプローチは常に一研究者の立場として描かれ、作中で開陳される専門分野の説明は他の作者が付け焼刃的に調べて、門外漢である一般読者と同じレベルでの叙述に留まっているのに対し、かなり専門的で説明も細微に渡り、論文を読まされているのと同様の難解さを提示し、読者への理解に苦痛を強いる。 今回も脳科学についてかなりのスペースを割いて読者に本書を理解するための前知識としてその内容を披露しているが、やはりかなり難解だ。主人公の孝岡の言葉を借りて作者が云うには、一応一般読者へ理解しやすいように随分省略しているようなのだが。 しかしその難解な文章を読み解いて、100%とは云わないまでも自分なりに理解できた内容はかなり刺激的なものだった。 私が理解したなりに単的に云えば、孝岡が研究するレセプター(受容体)というのは記憶を司る大脳の海馬、大脳新皮質に刺激を伝達する神経伝達物質グルタミン酸を文字通り受容する云わば門であり、神経細胞間に空いているシナプスと呼ばれる隙間に存在している。これが人間に記憶させる働きを担っており、このシナプスに刺激が多く加わるとレセプターを閉じている栓の役割をしているマグネシウムイオンが解除されて、カルシウムイオンが細胞の中に流れ込み、それがタンパク質を活性化する。そのタンパク質がレセプターを更に活性化させてグルタミン酸に対する感受性をもっと強くし、それが記憶となって脳に焼き付けられるということだ。 そしてその刺激が強ければ強いほど、短期記憶を司る海馬から長期記憶を司る大脳新皮質への伝達が容易になる。そして更に強い刺激は刺激を伝達する隙間シナプスをも増大させる作用があり、シナプスが増えることで刺激は更に伝達しやすくなり、海馬から大脳新皮質への伝達を容易にする。これが記憶のメカニズムだ。 ここで私が閃いたのは傑作、駄作と云われる小説、映画、マンガなどの創作物と佳作と云われるとの違いは脳への刺激への大小にあると云えることだ。未だに長く記憶に留まる名作、例えばミステリで云うならば『占星術殺人事件』のあの驚愕のトリックに『異邦の騎士』の忘れがたいセンチメンタリズムと御手洗の勇姿、『十角館の殺人』のあの世界が壊れる音が聞こえる衝撃の一行、映画で云えば『ショーシャンクの空』の眩しいほどに美しい最後の海岸での邂逅シーン、『E.T.』の人差し指を繋げるシーンなどは我々の脳に刺激を与え、シナプスを増大させる作用があったのだ。 また逆に非常につまらない駄作-弊害が生じるので具体例を挙げるのはあえて避ける―の類いもそのつまらなさが逆に負の刺激になり、シナプスを増大させ長く記憶に留まる。この二律背反が非常に面白いではないか。 逆に可もなく不可もない凡百の作品は刺激も少ないから短期記憶となり、すぐに忘れてしまう。多くの作品がそうであろう。しかし見方を変えればそれら多くの作品が短期記憶の段階で留まっているからこそ、諸々の傑作が記憶の中で煌めいて頭に留まり続けるのだと云える。 しかし私は敢えてこのことについて2点、考えたい。 まず記憶の鍵となるタンパク質を活性化させるにはやはりタンパク質を常に摂取しておかなければならないということだ。読書好きで単に読破した本の冊数を誇るだけならばその限りではないが、一つでも多く読んだ本を記憶の留めたいならば三度の飯よりも読書ではなく、バランスの良い食事が読書の肥しになることを認識すべきだろう。 2つ目は佳作、凡作の類いであれ自分が読んだ本に対して記憶を少しでも多く留めたいのならば、単に読むのではなく、佳作でも凡作でも自分の脳に刺激を与えるような読み方、即ち行間を読むことを心がける事だ。本書で書かれた記憶のメカニズムに基づいて考えるならば、長く記憶しておく事とは即ちその人が刺激を受ける受け皿を常に用意している事によると考える。換言すればそれは好奇心をどれだけ持っていることかということだろう。 本作は単に脳の仕組みについて教えてくれただけでなく、今後も多く読むであろう本を記憶するにはどうしたらよいか―勿論それは読書に限ったことではなく、仕事、私生活、その他全てに当てはまる事だが―のいい指針となった。 知的好奇心を刺激される内容は他にもある。 特に非常に興味深かったのが、脳のメカニズムを科学的見地から突き詰めれば突き詰めるほど、感情や情動といった心の問題に行き当たるところだ。脳の各部位が何を司るのかは長年の研究の蓄積によって解明されつつあるが、では心は一体どこにあるのかという非常に原理的な問いに対してまだこれといった解答が得られていない。 そこには科学が超えられない歴然とした壁のようなものがあり、そこを突き詰めていくといつ人間は信仰を持つようになったのか、神の概念とは、といったような宗教的な論点に行き当たる。科学的に実証しようとしておよそ科学からは縁遠い神の存在へと行き当たるところにこの分野が抱える大きな闇があるといえる。 特にそれを象徴するのが人工生命という存在だ。それらはコンピューターのプログラムというサイバースペースで生きているのだが、プログラマーは単純な指令を2、3つ下すだけでコンピューターの中の生命は実に生物らしい振る舞いを行う。 なぜそれが起こるのかを論理的に説明するとなると研究者の数だけ定義が出てくると筆者は作中で述べている。そして結局のところ最も理解しやすい解釈というのが「機械が生命を模しているのではなく、機械もまた生命なのだ」という理だ。果たしてこれが真理かどうかは解っていないが、数式や論理といった無機質な世界に加え、気配、肌触り、手応えなる生命的直感を合わせて考えることでこの見えない壁が破れるかもしれない。これは茂木健一郎氏がいっている「クオリア」なる概念と何か関係があるかもしれない。 (以下はネタバレにて) ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の作品は今までになく派手だ。ニューヨークの国連事務局タワーにミサイルが着弾するのを皮切りに、ボートの爆破、ワシントン記念塔の階段爆破、ペンタゴンのコンピューター・セキュリティー・システムを破ってのクラッカーの侵入、そして海を越えてモスクワのアメリカ大使館へのミサイル襲撃と、次から次へと事件が発生する。
フリーマントルの他のシリーズが発端の事件に絡んで政治的駆け引きや国交的な問題、各国の歴史の暗部の隠匿という妨害を主人公が知恵と行動力と大胆さでクリアしていく過程を描き、1つの事件をじっくり描くのに対し、確かにこのシリーズでは捜査中に殺人事件が連続して起きる傾向ではあったが、本作では前2作を上回る大規模テロが連続して起きるところがミソだろう。 これはやはり9・11が影響しているように思う。あの小説を超えた未曾有のテロは内外の作家に多大なショックを与え、それはフリーマントルも例外ではなかっただろう。特に世界のジャーナリズムに精通している彼にとっては。 一応作者本人は本作が9・11の前には既に書き上げられていたと言及しているが、事件後、加筆したともあり、少なくとも、いや大いに影響は受けている物と思われる。従ってあの現実を超えるにはもっと派手な事件を設定しないと現実を凌駕できないという焦りがあったのではないだろうか。それが作家の矜持を奮い立たせたように私は感じた。 本作でアメリカ・ロシアの二国間に渡って次々と襲撃する脅威を一言で云うならば次の一言に尽きるだろう。 テロの分業化。 民間人がテロリストから指示を受け、それぞれの職業を利用して資金調達、物資調達をし、テロに加担する。彼らは罪悪感を持ちながらも普段の生活では決して得られる事のない莫大な収入に目が眩み、止めることが出来ない。 そしてそれを可能にするのが、今やなくてはならないツールであるインターネットである。仮想空間に増殖し続けるサイトに集うハッカー、クラッカー達に法外な報酬をチラつかせて協力を頼む事でそれらはいとも簡単に成立する。本作ではアメリカとロシア2つの国に限定されているが、これらのテロは世界規模で起こる可能性を秘めている。 さてこのシリーズの前2作では割合ロシアのダニーロフ側に物語のウェートが占められていたが、本書では頻発するテロがアメリカという事もあり、カウリー側が前面に押し出されている。冒頭にいきなりカウリーが爆破テロに巻き込まれて重傷を負い、この事件を彼自身の事件として決意するなどと熱い一面を見せるのも今までになかった趣向である。 そしてダニーロフと云えば、前作の活躍により昇進し、ロシア民警の頂点、将軍になっていた。それから来る自信が彼を以前と変えており、泰然自若とし、大統領首席補佐官と内務大臣との権力抗争の狭間に置かれながらもそれを手玉に取るまでの落ち着き振りを見せる。破綻した私生活と愛する同僚の妻との愛情とでウジウジしていた彼の影は、物語の冒頭では見られるものの、最後では雲散霧消してしまう。 また今回から彼ら2人のコンビに新しいメンバーが加わる。パメラ・ダーンリーというFBI捜査官だ。彼女は強い上昇志向の持ち主で、ボート爆破に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったカウリーの代行を命ぜられる。これを足がかりに更に上を目指そうとする野心家だ。自分の未熟さを認めつつも、邪魔する者を排除する事を全く厭わない、攻撃的な女性である。 通常フリーマントルはこういった人物を空回りさせ、自滅の道を歩ませるのだが、パメラは大いに彼ら2人に貢献し、更にどんどん活躍の場が増えてくる。シリーズのマンネリ化を防ぐ一つのカンフル剤として彼女を導入したようだが、この扱い方は今までに見られなかった傾向だ。なぜならその押しの強さは恐らく読者全員の好意を得られないだろうから。 しかし物語が終盤に近づくにつれて、彼女のこのシリーズでの役割―ポーリーン去った後のカウリーの公私に渡るパートナー―もはっきりしてくる。 この作品は前作のタイトルどおり、ロシア民警ダニーロフとFBI捜査官カウリー2人の「英雄」の姿が描かれるが、彼らの私生活は共に幸せではない。 カウリーは寄りを戻しつつあった前妻のポーリーンに去られ、ダニーロフは元々上手く行っていなかった妻オリガがこの世を去る。しかもオリガは浮気が基で妊娠し、それを隠すためにダニーロフと寝ようとするが上手く行かず、中絶に失敗して死んでしまうという悲惨さだ。 仕事の出来る双方は温かな家庭に恵まれない。これは万国共通のアイロニーなんだろうか。 さてかなり練られたプロットで、意外性のある共犯者と相変わらずの筆功者振りを見せ付けてくれるのだが、どことなくアメリカの大ヒットドラマ『24』の影がちらついてならない。爆破テロもそうだが、特にペンタゴンの内部スパイの存在、そして次の脅威の萌芽を予兆する終わり方など、すごく既視感を感じた。最後の犯人を捕らえるシーンなどはそっくりだと云える。 どちらが先かという問題もあろうが、件のドラマを観た後で読んだがためにちょっと損な受取り方をしてしまった。 ここまで派手な事件を繰り広げると次作の展開を懸念する向きもあるが、その心配は無用だろう。なぜならそれはチャーリー・マフィンシリーズで既に何度も杞憂となっているから。 だから私は次作も大いに期待して待ちたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー以来覆面作家として創作を続ける作家北川歩美氏のデビュー作。
ある日目覚めると女になっており、しかもその世界は五年後の世界だったというSFとしか思えないこの設定に論理的解明を試みた野心作。本作は当時日本推理サスペンス大賞に応募され、惜しくも当選を逃したが編集者の厚意により、加筆訂正をした上、出版された。 その選考会に参加したある書評家が某所で述べた、「実は今年最も印象に残った作品は某ミステリ賞に応募された『僕を殺した女』だったりする」というコメントが非常に印象に残っており、それが本作を、そしてこの北川歩美という作家に興味を覚える契機になったのは間違いない。 このどう考えても論理的に解明できない設定をどう料理するか、それを作者は作中人物の僕こと篠井有一の口から色々な推論を繰り広げる。 1995年のヒロヤマトモコと1989年の僕がお互いに異次元の扉を通った際に空間の捩れによって精神が入替ったというやはりSF的な論理展開を皮切りに多重人格論、2人の脳を入れ替えて起きた脳移植という推理。 精神異常者であった2人が精神病院で邂逅し、濃密な関係を築き上げていった際にそれぞれの心にお互いの人格が住み込んでしまった精神共有論。 篠井有一とヒロヤマトモコ2人の精神はそのままでお互いに性転換手術を受けた、などなど、その論理はどんどんこちらの予想を超えてエスカレートしては消去されていく。これは云い換えれば作者自らが合理的解決の選択肢を狭めていっており、かなりハードルの高い趣向をこらしていると云えよう。 特に混乱を誘うのはヒロヤマトモコなる女性の人生がそれまでに存在し、さらに彼女の意識に入り込んだ主人公篠井有一の人生も、失われた5年間の人生も存在するということだ。 さらに彼を取り巻く登場人物らも物語が進むにつれ、隠れた秘密が見えてくる。同性愛者、レイプされた女性から生まれた子供、近親相姦者と、アブノーマルな人間どもが織成すフリーク・ショーのような様相を呈してくる。 本作が刊行された90年代というのは、なぜか世間で自分探しというのが一大ブームとなった。バブル経済という幻想から覚めた人々が、それまで外側に向けていた意識を自分のアイデンティティという内側へ向けだした、そんな時代だった。 他者から見た自分とは一体どんな人間なのか。一番よく知っている自分のことを実はよく知らないのではないか。自然、小説やドラマもそれを扱った物が増えてきた。 特にTVでは『それいけ!ココロジー』という心理テストを扱った番組がちょっとしたブームになり、関連書籍も多く出た。本作も当時ブームだった「自分探し」をテーマにしている事は容易に読み取れる。 ただ謎は魅力的だが、最後に明かされる真相は複雑すぎる。色々詰め込みすぎで、特に後半はどんでん返しが執拗に繰り返され、その都度頭を整理する必要に迫られて、理解に困難を生じてしまうのが惜しいところだ。 方程式が美しく解けていく様を見ているというよりも、複雑で入り組んだ論理を勉強しながら読み解くといった感じか。 やはり魅力的な謎は割り算のようにスパッと割り切れるくらいの明快さを求めたいところだ。実にサスペンスフルな作品だっただけにそれだけが悔やまれる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は書評家坂東齢人氏改め馳星周氏のデビュー作にしてその年の『このミステリーがすごい!』で1位を獲得した話題作である。
しかしその鳴り物入りの本書だが、発表後数年経った今読んでみると、なぜこれが1位?と首を傾げざるを得ない。 新宿を舞台にした犯罪を扱った小説といえば既に大沢在昌氏の『新宿鮫』という警察小説の傑作がある。 その新宿の代名詞ともいえる作品に怯むことなく新宿を描いた本作『不夜城』は大沢氏が警察の側から新宿を描いたのに対し、彼は犯罪者の側で新宿の更に奥の闇を描く。そこでしたたかに生き抜く在日アジア系外国人社会の混沌を浮き彫りにしていくのだ。本書は劉健一という男のピカレスク小説なのだ。 しかしその基本プロットとしては実にオーソドックスなスタイルを取っている。競合しあう複数の敵の間を直感と知恵、時には大胆なはったりで渡り歩きつつ、彼らを利用して生き残る健一の物語はハードボイルドの源流、ハメットの『血の収穫』以来、何度も使い古された王道の物語構造である。このプロットに新宿という無国籍地帯を舞台に設定し、そこに蔓延るアジア系マフィアで味付けをしている。 しかし私が思うに、馳氏は元々長年新宿のゴールデン街のバー『深夜プラス1』に出入りしていた人であり、新宿の街の、正確にはその夜の、只中にその身を置いていたので、自然にこういう物語が浮かんだような気がする。 後の各誌での彼のインタビューでは「自分で読みたいと思う小説がなかったので自分で書いてみた」と云っているが、自分の読みたい小説の題材が自らが身を置く新宿の街にあったことに気付き、書いてみたというのが正しいところなのだろう。だから『新宿鮫』という傑作があっても新宿という街を別の切り口で書けると踏んだに違いない。 その成果はありありと本書には現れている。 私が特に感心したのは人物配置の巧みさだ。東京を根城にする台湾系マフィアを軸に、その周辺を上海系マフィア、北京系マフィアと池袋を拠点にしながら新宿への侵出を狙っている福建系マフィアという対立構造も当然ながら、最も感心したのは健一と育ての親楊偉民との微妙な関係である。物語初頭では台湾人と日本人との混血児―半々―である健一が母親とともに楊の庇護下に置かれる事になり、その後呂方という獣のような台湾人を少年時に健一が殺す事で民族一家族を信条とする楊から縁を切られるようになった顛末が語られる。 私にはなぜ楊がその後も健一と付き合いを保っているのかが疑問でならなかったが中盤あたりで出てくる同じく半々の周天文が出てくるにいたり、実にこのアンバランスな関係が腑に落ちるのである。愛憎が絡み合うこの三者の三すくみ状態とも云うべき関係を次第に健一が凌駕していく過程は本作で健一が殻を破り、上への大きな一歩を踏み出すのに、ファクターとしてかなり有効に働いている。 ただ主人公とその連れ夏美に馳氏はいろいろ設定を詰め込み過ぎたような気がする。 台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた劉健一は少年時代は母親からの虐待から臆病に育ち、周囲から半々と蔑まれる日々を過ごす。やがて呂方という健一を忌み嫌う台湾人の少年ギャングの殺人を経て、家を出てオカマバーにウェイターとして働くようになる。その時に遭ったある女性との異常な体験、 それから呉富春と二人で組んでの盗難生活の日々、その後、陳綿という台湾の殺し屋に仕えて、白天という殺し屋と過ごした張り込みの夜の悪夢のような出来事、などなど。その1つ1つがかなり重い過去で、それが劉健一という人物を形成したという設定になっているが、個性的なキャラクターを創作するためとはいえ、陳列棚に並べるほど重い過去を連ねる必要が果たしてあったのだろうか? そして小さな頃から多感な時期にかけて、これだけの目に逢えば精神崩壊するかと思うのだが、どうだろう? そして相方の夏美も嘘に嘘を重ねて生きてきた女性。彼女の語る過去は物語が進むにつれ、二転三転し、終いには呉富春の実の妹で近親相姦を繰り返していたことが判明する。 なんというおぞましい設定だろう。普通こういう過去を持つと男性不信に陥り、こう易々と男のところに身を任せるようにはならないと思うのだが。 とこんな風に、印象的なキャラクターを作ることに固執してエピソードを盛り込んだにしては、彼ら2人のキャラクターの現在に過去との大きな乖離があるように感じてしまうのだ。そう他人の聞きかじった過去を自分の物と思い込んで生きている、そんな人物像のように思えてならない。 恐らくこれは「とにかく今ある物全てをこの物語に詰め込んでやる!」というこの作品に賭ける馳氏の意気込みの強さゆえだったのだろう。しかしそれが故に統一感に欠け、なんとも雑多な感じがしてしまう。 私が思うに、こういう手法を取るならば、シドニー・シェルダンがやっていたように、主人公二人の過去を時系列に交互に語っていく方が読者には二人の人格形成の成行きがわかってよかったのではないか。 ただこの小説はその手法は似合わない。本書のように今二人が置かれている状況と過去を同時進行で語るにはやはり1つ、最大でも2つ強烈なエピソードを挿入するに留めるのが無難であるといえる。 健一が語る様々な過去は、普通ならば他の登場人物、本書ならば元成貴、崔虎、周天文、楊偉民と一癖も二癖もある連中に配分する事でキャラが立ち、物語が際立つように思える。だから本書ではその手法で語られた呉富春の方がキャラクターとして一貫性があり、非常に印象に残った。 これが私が本書をして『このミス』1位に疑問を呈した理由なのだが、しかしやはり最後に残る読後の荒廃感、これは買える。騙す方より騙される方が悪いを信条に決して誰も信じることなく、いかに利用して切り抜けるかという社会で生きてきた劉の最後の決断は、これまでの小説とは一線を画すものだとは感じた。 私はこの結末をタブーだとは思わない。なぜならそこに至る健一、夏美の心情がしっかり書き込まれているからだ。裏切りの闘争の果てに残ったのは徒労感と燻り続ける父親同然だった楊への憎悪。そして劉健一は次の段階へと歩みを進める。 手放しで賞賛するには引っかかりを覚えるが、心に何かを残す作品ではある。 上述した不満点が今後の作品でいかに解消され、どのようなノワールを展開してくれるのか、次回作以降、楽しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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