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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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お馴染みガリレオこと物理学者湯川学が活躍する短編集第2弾。
まず「夢想(ゆめみ)る」はある男の家宅侵入の話。 運命の人というのは誰もが抱くロマンティックな願望だが、本書はその運命の人が生まれる前から知っていたという証拠があるというなんとも不思議な関係を論理的に解き明かす。 あまりにも不思議な現象なので、これを論理的に解明するにはものすごいアクロバティックなことで、下手をすれば壁本の如き仕打ちになるようなトンデモ論理になるかと不安を抱いていたが、いやはやさすが東野氏、綺麗に解き明かしてくれました。 しかしこの年にもなると案外人間って単純に思考すると解っているから妙に納得してしまう。 次の「霊視(みえ)る」は恋人の死を友人の家で見た恋人の亡霊で知った事件の話。 複雑な犯行計画がある一つの不測の事態によって崩れていくというのは先般読んだ『嘘をもうひとつだけ』収録の「狂った計算」を思わせる。 「騒霊(さわ)ぐ」は誰もいない家で家具などがひとりでに突然動き出す家の話。 今回は論理的に説かれてもやはり死者の意志が働いたとしか思えない余韻があとを引く。 「絞殺(しめ)る」はホテルの一室で絞殺死体として発見された男の謎を湯川が解き明かす。 最後の「予知(し)る」は目の前で起きた自殺を隣人の娘が3日前に見たというお話。 個人的にこれがベスト。しかしこのシリーズの約束事を逆手に取った結末に思わずニヤリとしてしまった。カーの某有名作品を想起した。 探偵ガリレオシリーズ第2弾。今回も不可能趣味に満ちている。 本書に収められている不思議は予知夢、虫の報せ、ポルターガイスト現象、火の玉、予知視といったオカルト風味の不可解な現象であるのが特徴的だ。 そんな謎に湯川学は少ない証拠から閃いて真相を推理する。その様子はシャーロック・ホームズやブラウン神父といった古典本格ミステリ時代の探偵諸氏を髣髴させる。現代ならば東野版御手洗潔というのが妥当か。 今気付いたが、湯川学も御手洗潔も両方とも大学教授である。しかも御手洗シリーズの作者島田荘司氏も吉敷竹史という刑事のシリーズがあり、東野圭吾氏も刑事加賀恭一郎のシリーズがある。しかも両者に共通するのは刑事物とは思えないほど本格ミステリ風味に満ちているところだ。 なんだか合わせ鏡のような両者だ。 話が逸れたが、本書では謎の強さで云えば、冒頭の「夢想る」が強烈。なんせ女子高生の許へ家宅侵入した27歳の男がその娘が生まれる前からの小学生の頃から運命の人だと名前まで触れ回っていたという謎だ。これを東野氏は危ういながらも論理的に解き明かす。非常にアクロバティックだが一応納得はできる。 謎の強さで次点では「霊視る」と「騒霊ぐ」が並ぶ。前者は事件現場から離れた場所で彼女の亡霊らしき姿が見え、直後に調べてもらうと彼女が死んでいたという謎で、これも非常に複雑な構成な事件を上手く超常現象的謎へ繋げている。後者は誰もいない部屋で決まった時間にいきなり家具類が震えだすという謎は、自分も知っていた現象だっただけに謎解きまで解らなかったのが悔しい。 逆にシンプルながらも余韻が残るのが最後の「予知る」だ。隣の自殺を3日前に見たという娘の謎が逆に単純だと思われた事件の真相を明らかにするという、今までの構成とは逆のパターンを取っているのが面白い。しかし何よりもラストの余韻が抜群だろう。 また各編に書かれた科学的薀蓄も本書の読み所になっている。 さて昨年はガリレオ・イヤーともいうべき年。何しろ久々にガリレオの新作が出たのだ。 これからのガリレオ・ワールドの広がりを楽しみにしておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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古惑仔と書いて“チンピラ”と読む。馳作品にはお馴染みの呼称。中国語での呼び方。
本書は表題作を含む短編集。 最初の「鼬」は中国から来た売春婦に惚れた男の話。彼女の元締めを殺し、彼女を解放して一緒に暮らそうと決意をするが…。 これはまさに日本人とは違う民族性を上手く使った作品。しかし結末の虚無感と云ったら。 続く表題作は日本のやくざの娘の香港観光案内を任されたチンピラの話。云われるままに毒づきながらも従う古惑仔、家健。 流れるままの観光案内のように物語は進んでいくが、一転意外な結末を迎える。これまた何とも云いようのない話だ。 「長い夜」は大久保でアジア系の友人たちとつるんでいる日本人女性の話。 今でこそ大久保界隈は韓流ファンの聖地となっているが、昔から彼の地は在留外国人のメッカだったらしい。 そんな場所で遊ぶ日本人女性涼子。彼女は心は許しても金銭は許さない関係を貫いていたが、明日をも知れない容態のミャンマー人女性のミーナのためになんとパスポートまで売り渡してしまう。 こういった短編集にはクリスマスにちなんだ作品がつきものだが、本書では「聖誕節的童話」がそれに当たる。 いやあ坂道を転がり落ちるが如くの転落人生。全てが悪い方向に働いていく。やはり密入国と云う不法行為から始まった者には幸せの道など残されていないと馳氏は断じるのか。 ちなみに題名は「クリスマス・ストーリー」と読む。何とも皮肉なタイトルである。 「笑窪」もまた皮肉な物語だ。 普通に働いていれば身持ちもしっかりした手に職持った料理人だが、酒癖の悪さとギャンブル好きの血が災いをもたらすという阿藤良は典型的な馳作品の転落人生キャラ。しかもメグと云うマレーシア女性に嵌ってしまうという「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った転落人生劇場。 最後の「死神」はまさに馳作品に相応しい題名と内容だ。 運命論的な縛りに抗えずに導かれるまま破滅への道を進む。それは親の虐待に起因する業が多いのだが、本編の主人公阿扁は偶々街中で逢った密入国仲間がその直後に死ぬという偶然が続いたがためにそれを真に受けてしまった男だ。 カラオケでの福建省からの密入国者たちの仲間の壮行会の最中にモノローグとして挿入される死んでいった仲間たちのエピソードと主人公阿扁が堕ちていくまでの模様が語られる。またもや虚しい結末だ。 人生の敗残者たちの宴。 6編全てがアンハッピーエンドという馳氏らしい短編集。日常から非日常へ足を踏み出した人々の不穏な行く末、あるいは悲惨な末路を綴った物語集だ。 相変わらず容赦がない。 一編目の「鼬」の虚無感にため息をついたがその後の表題作の何とも悲惨な結末を筆頭に「聖誕節的童話」と「笑窪」の主人公らの転げるような転落人生模様はもう呆れるしかない。 さらに「長い夜」は親切が仇になってしまうという何ともいいようがない結末だ。ラストの「死神」も何かに引き寄せられるように死へ向かう連鎖に絡め取られていく男達の顛末だ。 各編に共通するのはアジア系民族が絡んでいること。そのほとんどが日本に不法滞在している者たちで、彼らのすさんだ生活と性格が短文を連発する文章ながらも詳らかに語られる。このテンポの良さでサクサクと読めるのにしっかりと彼らの堕ち様が腑に落ちるようになっているのは馳氏ならではの職人技だ。 しかし馳氏のメッセージは徹底している。6編全てに共通するのはあの有名な言葉だ。 「同情するなら金をくれ」 貧しいアジア諸国で生まれた人間は金はあるところから貰う、取るのが当たり前だ。同情や愛情などは何も生まれやしない。日々の生活が苦しいだけに楽して暮らしたいという願望が強すぎるのだ。 そんな人間の剥き出しの欲望を馳氏は徹底して訴える。愛などクソ食らえだ!と嘲笑うかの如く。 この救いのない人間たちの物語を読者はどんな気持ちで読むだろう。そして何故にこれほどまでに容赦なく主人公たちを貶めるのだろうか? どうしようもない現実が存在すること、我々の住む世界の紙一重の所にはこんな無残な人生と世界が潜んでいること。それを馳氏は見せたいのか? 暗鬱になるだけの物語6編。ここにもあそこにも不幸な奴がいることを知らされる。 頑張っていれば、努力していればいつか報われる、などは脆くも崩れ去る物語群。ゆめゆめ爽快感など期待して読まないように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野作品のシリーズキャラクター、加賀恭一郎が登場する短編集。
まず表題作はマンションで起きた自殺としか思えない墜落事件の真相を加賀が探るというもの。 加賀とバレエと云えば『眠りの森』を思い起こさせる。あの続編かと思い、同書を当たってみたが、違った。 バレエと云う特異な競技の、誰もが目にするレッスンを殺害方法に絡めるとは心憎い。そして動機はまたバレリーナ特有のプライドゆえの物だった。その道を極めた者たちにしか解らない心境だろう。 次の「冷たい灼熱」は夫が家に帰ると妻が死んでいたというショッキングな幕明け。 女性が家に帰るとそこには交際中の男の死体が倒れていた、と「冷たい灼熱」と表裏一体のような作品が「第二の希望」。 さて本書における個人的ベストが「狂った計算」。 第三者の目の前で起きた痛ましい交通事故。しかしそれは不倫相手でお互いを愛し合うようになった中瀬と奈央子が計画した犯行のはずだった。しかしそれは当初計画していた犯行のようにはいかなかった、と二転三転する事件の真相が面白い。 最後を締めくくるのは「友の助言」。 5編中最も短い作品。交通事故と云う事件であり、唯一殺人事件が起きていない作品で、事件も内容もシンプルだし、物語もシンプル。 これを最後に持ってくるのは単純に一番新しい短編だっただけなのか。だとしたら出版社もしくは作者は余韻を考えて、収録順に配慮した方がいいだろう。 加賀恭一郎5連発。執念深い捜査が持ち味の加賀の切れ味鋭い捜査が味わえる。 加賀刑事は東野作品における刑事コロンボのようなものだろう。倒叙物ではないが現場や関係者の言動から違和感を掴み取り、そこから推理を組み上げ、被疑者が自己崩壊するように誘導する。彼の執拗な尋問によって被害者は次第に苛立ちを覚え、墓穴を掘ってしまうのだ。 その手際はまさに詰将棋のよう。敵に回すとこれほど嫌な相手はいないと思わされる刑事だ。 つまり加賀が付きまとう人物こそ犯人だと云っているようなものだ。これはパターン化されているとはいえ、なぜか主人公に犯人ではないことを証明してほしいと思わされてしまう。それは加賀のネチッこい捜査に一種の嫌悪感を抱くからかもしれない。 そう、加賀はネチッこいのだ。 ネチッこい刑事と云えば、背が低く、加齢臭漂わせる中年太りで脂ぎった顔にいやらしい笑みを浮かべ、バーコードハゲがおまけについている風貌を思い浮かべるが、加賀は全くの正反対で背が高く、剣道の段位者であり、好青年の風貌を持つ。このギャップゆえに加賀の登場に思わず快哉を挙げるのかもしれない。 収録作中個人的ベストは4編目の「狂った計算」。夫婦仲がしっくりいかない者同士の計画的犯行を扱ったものと内容としてはオーソドックスなのだが、東野圭吾氏ならではの実にトリッキーな計画である。 小説が文字で表現される物語であることを最大限に利用した内容である。さらにすごいのはそのトリッキーな計画のさらに上を行く真相が用意されていることだ。計画的な犯行が偶然によって瓦解することの皮肉が上手く語られている。 しかし先にもちらっと触れたが、倒叙物でもないのに、刑事コロンボのように犯人が自己崩壊していく様を読者に見せるというのは実は半倒叙物とでも呼ぶべき新しい叙述形式なのかもしれない。 この後も東野氏は短編集を出版し、最近でもガリレオシリーズの長編作品が出版されたばかり。その旺盛な創作意欲には感服する。 本書は傑作と呼べる作品が集められたものではないが、加賀刑事の現時点で唯一の短編集ということで加賀ファンには素敵な小品集と云えるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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3編の中短編と2編のショートショートを並べ、ポーカーのフルハウスに準えた作品集。
構成も3編の短編の間に2編のショートショートが挟まる、ちょっと変わった構成になっている(目次では短編の目次にショートショートの目次が別々に表記されているため、その構成が解りにくくなっている)。 作品集の先陣を切るのは『ドン・ファンの死』という中編。なんとライツヴィル物。 『エラリー・クイーンの国際事件簿』に「あるドン・ファンの死」という作品があったのでてっきりそちらかと思ったのが、全然違っていた。あちらは犯罪実録物であるのに対し、こちらは純然たるエラリイ・クイーンが活躍する作品だ。 演劇の幕間で起きた殺人事件。被害者が末期の息吹と共に告げた犯人を示唆する言葉は「ザ・ヘロイン」。これでほとんど犯人は一人に絞られたもので、しかも凶器のナイフの所在は解っている。全てがヒロイン役のジョーン・トルースローを指しているのだが…という事件にエラリイが挑む。 ライツヴィル物というのがクイーン読者の興趣を誘う。しかしかつてのライツヴィルも年月の流れと共に人も過ぎ去り、エラリイの顔見知りの人物も少なくなっている。これは変わりゆく当時のミステリシーンを示唆したものかもしれないが、そんな中でも新任警察署長のニュービイに疎まれながらも事件に関わるのがけなげ。 ダイイング・メッセージの意味は案外簡単に解る。こういう時に翻訳物の限界を感じてしまうのが哀しい。 また犯人も物語の半ばで解った。事件としてはやはり小粒か。 次の「Eの殺人」は幕間の息抜きとも云えるショートショートミステリ。 ショートショートミステリということで限られたページ数で切れ味鋭い真相を明かさなければならない。それ故推理もどんどん進み、読者に考えさせる暇を与えない。 続く「ライツヴィルの遺産」もタイトルにあるようにライツヴィルが舞台になっているが、お馴染みのデイキン署長が健在なので時系列的に「ドン・ファンの死」よりも前。 資産相続のトラブルという極めてオーソドックスな内容の1編。犯人の動機と犯行は解るものの、犯人の決め手となる罠にはいささか疑問が残る。 色んな部分で整合性が取れないバランスの悪い1編だ。 次はまたもや幕間のショートショートミステリ「パラダイスのダイヤモンド」だ。賭博場で人気女優のダイヤが盗まれ、犯人もすぐに捕まるが、肝心のダイヤが見つからないといった話。 先の「Eの殺人」もそうだが、ミステリとしてはいささか弱く、逆に小咄のような作品だ。これも間抜けな犯人が最期に息を引き取る前に漏らした言葉「ダイヤモンド・イン・パラダイス」というダイイング・メッセージ物で、「ドン・ファンの死」同様、英語のカタカナ表記にせざるを得ないメッセージなのが残念。 ダイイング・メッセージ物は異国の作品だと言葉の違いという壁に突き当たるというのがこの2編でよく解る。 最後を飾るのは「キャロル事件」。クイーン警視とヴェリー部長刑事が登場する。 後期クイーンの、登場人物も少なく、また明らかに犯人と目される人物が犯行を犯したように見える事件をエラリイが解決しようとする物語。不可能犯罪や派手なトリックはなく、純粋にロジックで、しかも人の心理でさえもそれで解き明かす趣向となっている。 『災厄の町』、『フォックス家の殺人』、『十日間の不思議』などの一連の作品に連なる重い読後感を残す作品となっている。事件の真相自体は正直大したことはない。その物語の最中に語られる出来事がこの意外な真相を持たない事件にどんな意味があるのかを明らかにする。 人間の一見筋の通らない行動でさえもそれが何のためになされたのかをエラリイが陳述する時、実に人間臭い真相が現れてくる。 ライツヴィル物2編にショートショートミステリ2編。それに1編にクイーン警視とヴェリー部長刑事が登場するファンの心をくすぐる作品集…といいたいところだが、『エラリー・クイーンの冒険』などの初期の短編集と比べるとその出来栄えは必ずしも高いとは云えないのが哀しい所。 本書が出版されたのが1965年。長編では『三角形の第四辺』が発表された年。この頃は1963年に『盤面の敵』、1964年に『第八の日』と立て続けに他作家によるクイーン名義の作品が発表されていた時期であり、書評家たちが云っているように決して作品としては出来のいいものがあった時期ではない。各編の書かれた時期は寡聞にして不明だが、晩年の作品集であることには間違いはないようだ。 正直云って幕間劇のように挿入される2編のショートショートミステリは単なる筆休めのような軽い作品でロジックや推理の妙を愉しむわけではなく、純粋にオチを愉しむ作品となっている。この出来が良いかどうかはファン度の強さによるだろう。 中短編3編はエラリイのロジックが披露される純然たるミステリ作品。 凶器に使われたナイフの奇妙な窪みから犯人を絞り出す「ドン・ファンの死」。明白な動機を持つ兄妹の母殺しの意外な犯人が明らかになる「ライツヴィルの遺産」、そして容疑者の無実を晴らすためにエラリイが介入する「キャロル事件」。 「ドン・ファンの死」はクイーンの十八番とも云える小道具からロジックを組み立てるミステリで、これはなかなかの出来。 「ライツヴィルの遺産」は意外な犯人ありきで作られたようなバランスに欠く1編(しかし余談だが本編の登場人物の一人、恋多き娘オリヴィアの綽名が「ガガ」というのは面白い。レディ・ガガはこのことは知らないのだろうなぁ。なんせ本国アメリカではクイーンは既に忘れられた作家らしいから、彼女の人生に関わっているとは考えにくい)。 本書では後期クイーンの諸作品のテイストを最も色濃く感じさせる「キャロル事件」が佳作と云えるだろう。事件そのものは地味で、明かされる殺人事件の犯人も驚きはなく、逆に肩透かしを食らった感はあるものの、エラリイが最終9ページに亘って開陳する推理の道筋と犯行に至った犯人の心理はなかなかに考えさせられるものがある。 逆に人間というものはそれほど論理的に行動する生き物ではないという、推理を超えた推理を見せられた気がした。 しかし本書もまた絶版の1冊である。今回図書館で借りて読んだのだが、何かのフェアで復刊してくれないものだろうか? 古典ミステリの新訳が活発な昨今、よろしくお願いしたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ランボー怒りの脱出』の後に発表された本書は、なんと『ブラック・プリンス』のソールと『石の結社』のドルーがコラボするそれぞれの続編だ。
マレルの作品は一つの世界観を作っているのか、それともこれは彼の読者サーヴィスの賜物なのか、解らないが彼の作品を読んできた者にとっては至福の設定であろう。 『ランボー』のヒットに気を良くして、二匹目のどじょうを得ようとこの企画を形にしたのかもしれないが。ここにランボーも加わるともはや荒唐無稽を通り越して、マレルの商魂の逞しさに呆れてしまうけれども。 しかしそれでもなお元CIAエージェントのソールが石の結社の神父たちと戦ったり、ソールとドルーが手を組んだりするのはなかなか面白い。 そんなマレルの二大ヒーローが登場する事件とは世界各地で起こる老人たちの失踪事件だ。 さて本書のタイトルにも冠せられ、そして作中でも繰り返される「夜と霧」という単語はかつてヒトラーが勅令として発布したユダヤ人たちをいずこへと連れ去った「夜と霧の法令」に由来する。無知なる私にとって作者の創作かと思ったが、なんと実際に発令された恐怖の法令だったようだ。 そして被害者であった生き残りたちはかつての恐怖を再現しようと、今も名と身分を変えて生存するナチの残党とその子孫たちを同じ目に合わせるために仕組んだ作戦なのだ。 また作中、「消耗品扱いできる(エクスペンダブル)」という表現があった。読中私が頭によぎったのは映画の『エクスペンダブル』とジェイソン・ボーンシリーズ三部作だ。 前者は全くの偶然だろうが、やはり自作のヒーローを一堂に会して暴れさせるというのは昔からの創作者の憧れだったのかもしれない。最近はマーベルコミックのキャラクターが一堂に会した『アベンジャーズ』が好評を博したことだし。 しかしジェイソン・ボーンが作者の死後に映画化され、傑作となったのだから、次の題材としてマレルの『ブラック・プリンス』、『石の結社』、そして本書を3部作として映画化するのはなかなかいいアイデアではないかと思うのだが。 本国アメリカでももはや絶版となって手に入らなくなって、プロデューサーたちの目に留まらないのかもしれない。 短い章を重ねるスピーディな場面転換でアクション小説としては面白いのだが、逆にその短い章立てと切り替えの速さが小説としての味わいやキャラクターの深みを薄めている感がどうしても拭えないのだ。 マレルの場合はナチスの生き残りたちの恨みの深さやナチスのSS将校たちが戦時に行ったユダヤ人虐殺の惨たらしさは表現されているものの、転換の速さゆえに深く浸透して感じられなくなってしまっている。 作品に何を求めるかは読者次第であり、とにかく何も考えずに楽しめるアクション物が読みたいという方なら、この作品は最適だろう。特に『ブラック・プリンス』、『石の結社』を読了済みの読者ならばさらに愉しめるに違いない。 しかしそんな読者の一人である私はやはり小説であるが故のただ楽しかった、驚いた以外の心に響く何かを求めてしまう。 今後のマレルにそのような作品があることを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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小学生の頃、そのアクションに胸躍らせた映画『ランボー/怒りの脱出』の原作本。
冒頭、作者のマレルはランボーは前作で死に、本書では映画のランボーであると述べる。つまり作者自らが映画の反響によって書かれた作品だと認めているのだ。なんという潔さだろう。 それを裏付けるかのように本書のランボーは確かに違う。前作では誰かと話すことさえ億劫なヴェトナム帰還兵だったが、本書では現地で落ち合ったヴェトナム女性のCIA連絡員コーとよく会話を交わすのだ。 前作では憎悪の権化でしかない殺戮マシーンだったが、女性ゆえかも知らないが、その2人のやり取りではランボーは案外気の利いた男性であり、そこがまず違う。 また本書ではランボーの性格付けに筆をよく割いている。ランボーがいつでも泰然自若と冷静さを保ち、恐怖心を抱かないのは本書では“禅”の精神こそがランボーを無の境地に、全ての恐怖を感じない心境に達する秘訣だと述べている。 ちょっと時代は遡るがフリーランサーの殺し屋が登場する『シブミ』も殺し屋ニコライ・ヘルの絶対的な精神基盤を日本の精神シブミを体得したと設定している。武士道とか忍者とか当時は日本ブームだったのだろうか? しかしそれでも第1作のランボーの性格付けは踏襲している。過剰な拷問を受けることで彼の中に眠る獣性が目覚め、狂戦士の如く再び殺戮マシーンへと変身する。ワンマンアーミー、ランボーの復活である。 この辺の心理描写はまさに小説ならではの物。恐らく映画では火事場の馬鹿力で苦難から逃れるランボーに辟易したのではなかろうか?つまりそれこそがデウス・エクス・マキナと感じ、失望した観客も多かっただろう。 しかし本書ではその火事場の馬鹿力について丹念に説明を施している。この辺りは映画の欠点を小説で補っているようで好感が持てた。 上に書いたことからも解るように解説によれば本書はノヴェライゼーションらしい。従って実に映画に忠実で、小学校に観た映画というのに各シーンが瞼に甦ってくるような思いがした。 しかしノヴェライゼーションというのは通常売れない作家や専門の作家がやるものだが、本書では映画『ランボー』の原作『一人だけの軍隊』を著したマレル自らが書いたことが実に珍しい。邪推に過ぎるかもしれないが映画による版権と小説による印税の二兎を追ったのか? それはさておきマレルの諸作は物語の運び方やプロットの複雑さは一流作家の腕を見せるものの、キャラクターという点ではいささか弱さを感じるのは否めなかった。 そんな中、この映画化もされたランボーの造形は一つ抜きん出ている感がある。いやこれも映画化ゆえに他の作品の登場人物と等しく比べられていないのかもしれない。スタローンの個性の強さによる効果なのかもしれないが。 しかし本書を読んでホッとしたのはマレル自身がハリウッドアクション大作というドル箱作品を物にしたことで本来の作品の芯を失っていなかったことである。前作から引き続いて語るべきはランボーによる、ランボーのための、ランボーの戦争であることだ。このトリガーを弾く要素がそれぞれの作品では違うのだろう。 しかしヴェトナム戦争とはアメリカの中で本当に忌まわしい過去だというのが解る。戦争は敗北した側が被る損害がかなり大きい物だというのが解り、それゆえに人道的な行為さえもないがしろにされてしまう。 ヴェトナムに捕虜がいると解ったことでアメリカは救助隊を派遣しなければならなくなるが、それには膨大な費用と人員と時間が割かれる。さらには救助しても精神に異常を来し、真っ当な社会生活でさえ送れない人物もいる。そんな彼らの補償を政府は彼と家族に対して一生涯していかなければならない。 確かにこれは難しい問題だ。つまりマレルは本書で改めてヴェトナム戦争とはいったいなんだったのかを、ノヴェライゼーションでありながら訴えているのだ。 単に有名なアクション映画の小説化作品と捉えずに、一度手に取って読んでほしい。但し今では絶版状態なのだが…。 |
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エイブラハム・デイヴィッドソンによって書かれたとされる本書はクイーン作品でも異色の光彩を放つ。閉じられた世界での物語といえば『シャム双子の謎』や『帝王死す』などそれまでにもあったが、本書は世界観から創っているところが違う。
微妙に英語と異なる独自の言葉と宗教を持つコミュニティ。50年前に一度横領罪があったきり、その後半世紀に亘って犯罪の起きていない共同体クイーナン。そこは200人余りの住民で構成され、それぞれが役割を持って自給自足、地産地消の生活を送っている。 ひょんな偶然からそこに招かれることになったエラリイは来たるべき災厄の救世主として迎えられる。それは前もって予言されていたことなのだと教師と自称する統治者ウイリーは述べる。 そしてウイリーが予見していた大きなトラブルとは殺人。ウイリーの従者であった雑品係のストリカイ。そしていまだかつて嘘をついたことのないとされるウイリー相手にエラリイは捜査を進める。 ピーター・ディキンスンを髣髴とさせる異様な手触りを放つ作品。 閉じられた共同体であるクイーナンはアメリカにありながらアメリカではない。全ての物は村人の物であるという共産主義的社会。美術、音楽、文学、科学さえも存在しない。教典とされるのはMk'h(ムクー)の書と呼ばれる存在すらも危ういまだ見ぬ聖書。 犯罪そのものを知らない人々に対して指紋がどんなものかから教えるエラリイ。 そんな中で起きた殺人事件の真相は実はさほど意外なものでもない。限られた世界の中に限られた登場人物。推理をすれば真犯人が解る読者も少なくないだろう。私もその一人だった。動機もまた納得できる。 しかし本書はそれだけではない。この圧倒的に奇妙な世界は何が起因して創られたのか、本来の謎はそこにある。 そしてその正体を理解するには前知識が必要なようだ。そして残念ながら私にはそれがなかった。 エラリイが最後に目にするMk'h(ムクー)の書の正体を知っても衝撃は走らず、その内容がクイーナンの世界とウイリーが述べる予言にマッチする内容が書かれているのか解らないからだ。 しかし本書の真価は最後の最後に現れる本当の救世主になりうる男マニュエル・アクイーナの登場にあるのだろう。 この結末はエラリイの存在、到来自体を否定するものだ。 つまり本書はエラリイのための事件ではなかったということだ。 つまりは探偵の存在を否定する探偵小説。本書の本質とはまさにこれに尽きるのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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都会を舞台にマフィアややくざの世界を描いてきた馳氏が選んだのはなんと北海道の根室。
都会の喧騒もなく、ネオンもなく、はたまた民族が入り組んだ抗争もない。ただ北海道という地特有の事情、ロシア人を相手に利鞘を得る人々がいるという現実。一見大人しそうな街ながら裏ではお互いがお金を奪おうと虎視眈々と狙っている、陰湿な社会だ。 そんな町を舞台にした物語は至ってシンプル。東京のやくざの金を持ち逃げしたロシア女性のヒモをかつて根室で相当のワルと評されていた男が追ってくるという話。 その男山口裕司は自分の思い通りにならないと気が済まないタイプ。そして買った恨みは死ぬまで忘れない。子供の頃に受けた侮辱でさえも、大人になってまでもそれをネタに強請り、たかる男だ。 それを可能にするのは圧倒的なまでの暴力。威嚇ではなく、後先考えずに欲望のままに振るわれるから、誰もが恐れて止まない。それ故、裕司は街にとって災厄の元凶なのだ。 一方その片割れとされていた内林幸司はお互いの境遇が似ていた裕司と幼き頃に知り合ったのが間違いの始まりだった。一方が露助船頭の息子と蔑まれ、他方はアル中やくざの息子と忌み嫌われていた。幸司は裕司の暴力を恐れ、嘘をついて逃れていた。お互いがお互いを憎む間柄ながらなぜか離れられない奇縁を持つ二人。 と読んでて思ったのはこれはいわゆる成長したジャイアンとスネ夫の物語ではないか! クライマックスの極限状態の中、幸司はある心理に辿り着く。忌み嫌う二人はこの上なく似ており、それ故忌み嫌う。裕司は幸司で、幸司は裕司だ。 裕司の物は俺の物。俺の物は裕司の物。ここまで読むとまさにこの見方が正しかったことに気付く。 しかし基本的な物語の構造は一緒だ。どんづまりの現状から逃げ出すために汚い大金を手に入れようともがく底辺の男たちの物語。『漂流街』のマーリオ然り、『夜光虫』の加倉然り。舞台が根室に、登場人物らが変わっただけで描く物語は同じ。この辺に馳氏の作家としての物語創造力に首を傾げてしまう。 そしてクライマックスの壮絶な殺し合いも一緒。 一人、また一人とやくざであろうが庶民であろうが、議員であろうが、はたまた警官であろうがばったばったと撃たれ、死んでいく。生き残った人間は結局一人呪詛に憑りつかれたかのように憎むべき相手を探し求める。あれほど執着した大金など見向きもせずに。 ここまで書いてようやく私は作者の真意が解ったような気がした。あまりに不毛な物語の結末にいつものように白けてしまったのだが、つまり根室という閉鎖された町に突如現れた大金を手にするのは、狂った人間以外にありえないのだ。そして勝利者は狂者ゆえに本来の目的を忘れてしまうのだ。 しかしよくもまあこれだけ狂える人間を、執着心の強い人間を生み出せるものだ。特に裕司の造形は凄まじいものがある。幸司の物を欲するがために、幸司が恋した自らの妹でさえ凌辱するとは…。 また馳氏の特徴の一つが街を描くこと。それぞれの街が持つ雰囲気がそこに住まう、もしくはそこで生業を行う人間たちを形成し、またそれらの人間たちによって街もまた性格を持ち、変化し続ける。 今回の舞台根室もまた日本経済の歪みが特異性を生み出すことになった。ロシア人を相手に商売しなければもはや生き残る糧を得られない街。従ってそこの住民にとって北方領土問題の解決なんてものは逆に彼らの生きる糧を奪う行為に過ぎないのだ。その場所その場所に住まう人々にとって正論では割り切れない事情があることを知らされる。 そんな背景を馳氏は巧みに物語に取り入れるのが上手い。 そんなわけで馳氏の物語の熱といい、描く内容というのは買っているのだ。あとはあまりにステレオタイプすぎるプロットから脱却して唸らせるような新たな物語を見せてほしい。 |
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講談社が打ち立てた児童文学ミステリの叢書「ミステリーランド」シリーズの1冊として書かれたのが本書だが、子供向けというにはなかなかハードな内容だ。
透明人間になってしまったとしか思えない殺人事件の内容はもとより、事件の背景となる主人公ヨウちゃんの家庭環境や隣人真鍋さんとの関係など、およそ子供の読み物とは思えない内容に眉を潜めてしまう。 母子家庭で母親が水商売をして稼いでおり、ホステスのライバルがいて真鍋さんに財産目当てだと吹き込んでいたり、そんな女を憎々しく思い、殺意を抱く真鍋さんの描写、さらには子供が学校に行っている時間中の母親と隣人の逢瀬のシーンなど、大人の卑しい部分を若干オブラートに包んではいるが、はっきりと描いている。 これは島田氏なりに最近の子供はこれくらいのことは知っているという理解の上での創作なのか、それとも大人の世界の汚さを知らせるために敢えて書いたことなのか。いずれにしても真意を知りたいものだ。 重ねて表紙も含めて物語に挿入される石塚桜子氏のイラストは抽象的で観念的で禍々しくておどろおどろしく、怖さを助長させ、読者の子供諸氏はトラウマになるのではないだろうか。 とまあ、いきなりネガティヴな感想を羅列してしまったが、やはり島田氏、他のミステリ作家の一つ上を行く完成度だ。 しかもテーマも今日性に富んでおり、透明人間という幻想的な謎を合理的に解き明かすだけに終始せずに、社会性も絡める。久々に島田氏のストーリーテラーの力量に参ってしまった。 さらには密室からの脱出も温故知新でカーター・ディクスンの某作を思い出してしまった。 あのときの私の感想は批判的だったが、今回は密室を構成する人物にある設定をもたらすことで説得力を持たせている。 21世紀本格を目指しながら古典ミステリにも材を得る、島田氏のミステリマインドの幅広さに感服してしまった。 ただ惜しむらくは前述したようにこれが児童向けに書かれた物語として適切かどうかということ。恐らくは小学高学年以上を想定して書かれたのだろうが、「児童」という言葉の定義は6~12歳までと実に幅広い。本書を6歳が読んだ時の衝撃を考えると相応しい内容かと疑問視せざるを得ない。 本来、作品はそれ自身の出来栄えで評価すべきだろうが、本書に関して云えばやはりそういった外部要因が頭を過ぎらずにいられない。 しかし流石、島田荘司氏。 彼のミステリマインドと明日のミステリへの探求心は少しも揺るぎがないことを知り、ますますファンになってしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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待ちに待った『王者のゲーム』の続編がようやく出版され、そして無事訳出されることになった。これを愉しみにしていたわが身にとってなんと嬉しい出来事だろう。
しかし前作は上下ともに700ページを超える大著であったが、続編の本書は上下巻それぞれ400~440ページぐらい。さらには活字は大きくなり、これを前作の文字組で構成すれば一冊には纏まったぐらいのヴォリューム。そんな装丁でありながら、本体価格は各905円。ちなみに前作は各1219円…。 前作が出版されたのが2001年11月だから10年以上の隔たりがあるわけだが、コストパフォーマンス的にどうなのだろうかという疑問はある。 とはいえ、まあ、昨今の出版不況を考えるとこれも致し方なしか。出版に踏み切ってくれた講談社に素直に感謝の意を表そう。 刊行は10年後だが物語の中の時間で云えば、前回の事件から3年後、そして9.11からは1年半以上経った頃の話だ。つまりようやくグランド・ゼロを整備し始めながらも、まだテロへの恐怖が冷めやらぬ時期の頃だ。そんな中、アサド・ハリールはアメリカへ上陸する。 とにかくアサド・ハリールが絡むと物語も加速する。早くも前作取り逃がした獲物チップ・ウィギンズも開始100ページの辺りで早々に屍と化す―しかも至極凄惨な殺され方で!―。 そして引き続いて150ページ辺りですぐさまハリールはケイトを毒牙にかける。いやあ、デミルの筆は最初からフルスロットルだ。 そしてわずか9・11から1年半しか経っていないにもかかわらず、アメリカのセキュリティの甘さが作中では指摘される。特に小さな地方空港や個人で経営している航空会社でのチャーター便では身分証明のチェックがなく、しかも荷物検査もなく通されること―なんとハリールは銃をカバンにしまったまま搭乗するのだ!―。 私は2002年の2月にハワイへ旅行に行った際、その時のセキュリティチェックの厳しさには辟易したが、実際はこのようなものであったらしい。 さて前作は巻措く能わずのリーダビリティがあったが、今回は中盤のコーリーのパートで間延びしてしまった感があったのが残念だ。組織内のそれぞれの立場の人間の保身と手柄の取り合いといった政治的ゲームが物語の疾走感にブレーキを掛けたように感じてしまった。 後半ハリールが再度登場してからはアクションシーンの連続で緊張感が再び甦っただけに、この中だるみが勿体ない。 また最後の仕掛けも9・11にこだわるデミルらしいものだが、果たしてあの場にコーリーが行く必要があったのか疑問が残る。作中作者もコーリーに何故その場に向かっているのか自問自答を何度も繰り返させているが、それがコーリーという男なんだというのが最適な理由なのだろう。 前作を私が読んだのが2005年だから6年待たされた続編は私の期待に応えてはくれたが、期待以上だったかと云えばそうではない。やはりハリールの行動に焦点を当て、アクション重視で物語を運ぶべきではなかったか。 巻末の解説によればコーリーシリーズは今後も続くとのこと。本作以上のスリルとサスペンスを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今まで『夜光虫』以外は新宿界隈を舞台に物語を繰り広げてきた馳氏が選んだ地が若者の町渋谷。そのため、登場する人物も高校生と二十歳の男と非常に若い。
そして新宿、台湾では外国人マフィアが物語に複雑に絡んできたが、今回は純然たる日本人同士の抗争。渡辺栄司という高校生にして女子高生売春の元締めである男とそれを疎ましく思うやくざ。その中間に新田隆弘というやくざの下っ端が関わる。 一見普通の優男の高校生でありながら、周囲に恐れられている渡辺栄司と伝説のチーム金狼で火の玉小僧と恐れられていた暴力の権化新田隆弘。 彼の肉体と激しいまでの暴力を以ても栄司の恐怖に縛られた彼の仲間を屈することはできない。隆弘は今まで自分が暴力を振るえば回りが屈していただけにいくら殴っても屈さずに笑顔を絶やさない栄司の存在に恐怖を感じる。まさに精神が肉体を凌駕するとでも云おうか、異様な雰囲気を身に纏っている。 栄司の言葉には魔法が宿る。彼が囁くだけで関わる人々は心の奥底に潜む弱い部分を曝け出し、その弱点を克服しようと荒ぶる魂を表出させる。栄司の唇から出る囁きは甘美な毒なのだ。 その栄司に心の中を見透かされ、恐怖と共に栄司の言葉の魔法に取り込まれ、どんどん自我が崩壊していくのが栄司の彼女桜井希生の教師橋本潤子。 幼い頃に支配的な母親に抑制された生活を強いられ、自分の意見を持たなく、周囲の人間の言葉に流されるままの人生を送ってきた女。さらには最初の恋人に強姦同様のセックスを強いられ、男性不信から女性を、生徒に欲情を抱くようになった女。 物語は隆弘、潤子が栄司が持つ、ブラックホールの如き虚無に囚われて転落していく様が描かれる。 よくよく考えると馳作品の主人公は決して暴力が強い人間ではないことに気付かされる。不夜城シリーズの劉健一しかり『漂流街』のマーリオしかり『夜光虫』の加倉しかり。 今回の渡辺栄司という高校生はその最たるもので、喧嘩が強いわけでもない、腕っぷしが強いわけでもない。ただただ非常に頭が良かった。そしてなによりも恐怖を感じない。人間として大事な愛とか情と云った感情を欠落した人物なのだ。自分の欲望のために人を利用し、人を傷つけることを厭わない空虚な心を持つ男。 しかしなんというか高校生で女子高生の売春を取り仕切る渡辺栄司というキャラクター造形がマンガの域を脱していないというか、むしろマンガの原作を読まされているような気がした。 馳氏特有の路地の小便臭さまでが行間から匂い立つようなリアルさと熱が本書では感じられず、むしろ作り物めいた感じが拭えなかった。なんだか飲み屋で交わした会話のままに作ってしまったお話のような手触りがあった。 例えばこのように… “一番怖い奴ってどんな奴だと思う” “やっぱりどんな奴にも負けない喧嘩のプロ” “いや、おれは違うね。恐怖心を持たない奴が一番強いと思う” “お、それで小説1本書けそうだな” といった具合だ。 さてこの結末はこの作品がこれから始まる新たな物語の序章だということだろうか?高校生の若さで人の心の弱さに付け入り、どんな男でも女でも籠絡させる渡辺栄司。 この平成のメフィストフェレスは今後も人の心を操り、王として君臨するのか? 今まで馳氏が主役に選んだのは戸籍上日本人の外国人との混血児、もしくは中国系マフィアに翻弄される日本人だった。彼らへの強力な対抗馬として創造したのが渡辺栄司なのか? 今後の作品に注目したい。 ・・・しかしやくざがヴァイヴに怯えるかねぇ(苦笑)。 |
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クイーン中期において重要な位置づけとされるライツヴィルシリーズ。本書はその3作目にあたる。
戦争後遺症で神経を病み、ついに妻をその手にかける寸前にまでなったライツヴィルの英雄デイヴィー・フォックスの、自らを“生まれながらの殺人者”という烙印を無くすため、過去に起きたデイヴィーの父親の妻殺しの罪を晴らすのが今回のエラリイ・クイーンの謎解き。 しかしそのことは当時の事件に隠された真実を解き明かすことになり、フォックス家の忌まわしい過去を掘り起こすことになる。 さらにベイアードの冤罪を晴らそうと躍起になるエラリイだが、調べれば調べるほど被告側に不利になることばかり。 ベイアードの妻ジェシカが服毒したジギタリスは彼が供したグレープ・ジュースの中に入っており、それに触った物は彼以外いないのだ。エラリイは水道の蛇口、製氷皿に至るまで毒を盛った可能性を追求するがそれらは全て過去の捜査で立証されたものばかり。すなわち全ての状況がベイアードを犯人と示している。 これはなかなかに手強い謎だと痛感した。ものすごくハードルを挙げている。 読みながらこんな堅牢無比な謎をカタルシスを伴って解決してくれるのかと期待と不安が入り混じった気持ちを持っていた。 いやあ後半の二転三転する展開の読み応えといったら、数あるクイーン作品の中でもトップクラスではないか。地味な展開なのに読ませる。 エラリイが捜査を進めるたびに出くわす新たな証拠、それが逆にベイアードを有罪へと追い詰める物になったり、はたまた関係ないと既に証拠から除外されていた物がベイアードの運命のカギを握っていたり、実に読ませる。 そして二転三転する捜査の末、明らかになる真相とはなんとも云えない後味を残す。 世の中には知らなくてもよい真相もある。本書の真相はまさにそうだし、またこれはクイーン自身の手によるあの名作の変奏曲でもあると解釈できる。 さらに当初の問題であったデイヴィーの戦争後遺症が解消されるかどうかもまた不明である。色々なことが解決せずに残った作品だと云えよう。 帰還兵の戦争後遺症を扱った、クイーン作品の中でも珍しく社会的テーマを扱った作品だ。戦争後遺症は特にヴェトナム戦争でその問題が明るみに出たが、本書は同戦争が起こる前の1945年の作品(ヴェトナム戦争は1960年から1975年)。第二次世界大戦終結の年に発表されている。 従ってここで語られる戦争とはすなわち第二次大戦を指す。 この社会問題に本格ミステリを融合させる、つまり人間描写が欠点だった本格ミステリに人物像へ深みを持たせるために用いたファクターがこの戦争後遺症であったわけだが、それをさらにフォックス家という一家庭への悲劇へと昇華させる。 ライツヴィルシリーズは『災厄の町』でライト家の悲劇を、『靴に棲む老婆』ではポッツ家の悲劇を扱い、今回はフォックス家。この後の『十日間の不思議』ではヴァン・ホーン家の悲劇(悪夢と云った方が正解か)をと、一家庭をクローズアップした事件が特徴的だ。 しかし家庭内の悲劇というテーマはロスマク一連の作品を想起させる。しかしロス・マクドナルドが第1長編の『暗いトンネル』を書いたのが1944年、リュウ・アーチャーシリーズ第1作『動く標的』を著したのが1949年。全然クイーンの方が先なのだ。 どちらかと云えばチャンドラーの影響の方があったのかもしれない。つまりそれは街を描き、人を描くということだ。 読中しばしば感じたのは作中に現れるライツヴィルの住人達の面々と彼ら彼女らへ挨拶をし、思いを馳せるエラリイの姿。その快活な筆致はこれこそ作者クイーンが書きたかったことなのだろうと感じた。 そんな中でも今回悪辣ぶりが目立ったベイアードのお目付け役であるハウイー刑事とアルヴィン・ケインという薬剤師。 前者は事あるごとにエラリイの捜査を無駄なことを鼻で笑い、ベイアードに聞くに堪えない悪態、罵詈雑言の限りを吐き、更には自身の自由時間を確保するためにベイアードをベッドに手錠で縛りつけるという所業を行う。ベイアードを罪人として蔑み、エラリイを余計なことをしに来た余所者として面倒がる。 クイーン作品の中でもこれほどひどい刑事は見たことがない。何かこの頃クイーンの身辺で警察にまつわる不愉快事があったのだろうか? そして後者は女たらしで自分こそがライツヴィル一のプレイボーイでダンディだと勘違いしている輩。人妻リンダを手籠めにするために旦那デイヴィーと別れさせるために偽の証拠をでっち上げることまでする卑劣漢。本書ではことさらこの2人の卑怯ぶりが目立った。 しかし問題はこの作品が絶版で手に入らないことだ。これほど読ませる作品なのに。戦争後遺症に冤罪といった社会的テーマに、人間ドラマが加わり、更には本格ミステリとしてのロジックの面白さも味わえるという作品。ライツヴィルシリーズにおける家庭内悲劇を扱った作品としてぜひとも外せない作品だと思った。 今回偶々、市の図書館にあったので読むことができたが自分の手元に置いておきたい作品だ。近い将来の復刊を期待してこの感想を終えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1984年発表のマレルの手によるこの作品は義兄弟である二人のCIA工作員ソールとクリスがその育ての親のある陰謀により、罠にはめられ、世界の諜報部員たちのお尋ね者になる物語である。
しかし物語の構造はスパイ小説の例に漏れず複雑で、単純な復讐劇にはならず、彼ら2人の能力の高さを買って利用しようとするKGB高官なども加わってくる。 そしてこの物語にはもう1つ特徴がある。それはアベラール・サンクションなる施設の設定だ。 このアベラール・サンクションとは、第二次世界大戦前の1938年にヨーロッパ各国が抱える諜報機関の要人が極秘裏に集まって定められた、各国のスパイのための不可侵状態の避難所のことを指す。このアベラールとは1118年に弟子を孕ませた廉で追い出され、その後避難所を設立したノートルダム大聖堂の参事会員ピエール・アベラールの名に因んでいる。 アベラールの避難所は世界に7か所あるが、その上級施設が安息の家と呼ばれる物。これは引退したスパイたちが行き着く場所でもあり、もしくは政治的に抹殺され、行き場の無くなった官僚たちの隠れ家でもあった。 そこは不可侵であり、娯楽、女性、美食と望む物は金さえあれば全て手に入る楽園なのだが、唯一ないのが自由。安息の家はその実求められない自由に絶望した者たちが自ら命を絶つ墓場でもあった。しかしその事実は歴代の所長は隠し通しておかねばならない。 アベラール・サンクションはスパイたちの安息の地を提供しながら、そこを一歩出ると再び命を狙われる修羅場と化す。つまりアベラール・サンクションはスパイたちにゲームオーヴァーを告げるシステムと云える。何とも皮肉な話だ。 こういった背景を踏まえて描かれるマレルのスパイ小説はアクション重視の、映像化を意識したかのような作品である。短い章立てで構成され、実にテンポよく物語が進む。 現在の、例えばフリーマントルとかは1章当たりの分量が20ページくらいか。対してこの『ブラック・プリンス』は平均10ページ未満と実に短い。そういえばバー=ゾウハーも短かったように記憶している。昔のスパイ小説は情報過多に陥らず端的な描写に終始して、スピード感を重視し、それがまたある種の緊張感を生み出しているように感じる。対してフリーマントルは権力者たちがいかに優位に立つかに腐心しており、お互いの権威を保つためのディベートで構成されているから1章当たりの分量が否が応でも増すのだろう。同じスパイ小説でも書き手によればこれほどまでに書き方が違うのか。 上下巻に及ぶこの物語には孤児院に育てられたソールとクリスがどのように腕利きの工作員として育てられたかも語られる。その中で強い印象を残すのは彼らに武道を指導する元柔道世界チャンピオン、石黒ユキオの存在だ。 彼は二人に武道の心得、すなわち武士の魂を説く。恥をかくならばいっそ死を選べという高潔なる精神をソールとクリスに教え込む。切腹などを教える辺りはおよそ新渡戸稲造の『武士道』からの引用だと推察され、いささか時代錯誤の感も無きにしも非ずだが、この石黒ユキオとの交流の件はトレヴェニアンの『シブミ』を連想させられた。 『シブミ』の発表が1979年。本書が1984年だから、この頃はもしかして日本の武士、侍、忍者のブームがアメリカでは興っていたのかもしれない。 さていささか陳腐な題名に感じられる題名『ブラック・プリンス』は薔薇の名前を指す。CIA高官テッド・エリオットは手塩に育てた弟子、CIA工作員に薔薇の名前を準えて呼んでいる。クリスとソールの二人は黒に限りなく近い深紅の花びらを咲かせる品種<ブラック・プリンス>に因んでいる。 しかし原題は“Black Prince”ではなく、“The Brotherhood Of The Rose”、すなわち直訳すれば『薔薇の兄弟』となる。つまり原題も邦題も同じモチーフで語られているのだが、もし『薔薇の兄弟』ならば少女マンガ風と捉えられるか、もしくは同性愛専門誌『薔薇族』に因んで、BL小説風に捉えられるかと、妙な誤解を生むという懸念があったのではないだろうか? 例えば中間を取って『ローズ・ブラザー』とすればちょっとはマシになったのではないだろうか。いや五十歩百歩か(この感想は解説やあとがきを読む前に書いているのだが、訳者があとがきで同じことを書いているのには思わず笑ってしまった)。 閑話休題。 しかしこのような昔のスパイ小説を読むことは案外収穫がある。なんせ冷戦時代の教科書では習わない各国の暗闘が知識として得られるからだ。 今回はMI-6の高官であり、さらにCIAの創立に手を貸しながら、その実ソ連のスパイだったキム・フィルビーの一連の事件が本書の登場人物に深く関わりがあり、それがこの物語の最も深い謎として語られる。 恥ずかしい話だが、このキム・フィルビーという人物は本書を読むまで全く知らず、調べてみるとかなり有名な人物で、そして彼の亡命は当時かなりセンセーショナルな事件だったことを初めて知った。 まさにこれは収穫以外何物でもない。教科書では教えられてない歴史の勉強とはまさにこのことだ。 しかしこのクリスとソールの奇妙な友情は義兄弟という生死を共に分かち合った者たちしか解らない世界なのだろうが、今ならば一種BL小説のテイストもあると云えるだろう。今復刊すると意外な方面から反響があるのではないだろうか。 育ての親エリオットへの憎悪が単なる憎しみと嫌悪から成り立たないソールとエリオットの関係性は、スパイ育成がその人物の人生の根幹まで深く入り込んでいく行為だと知らされ戦慄を覚える。幼き頃に刷り込まれた恩情はなかなか憎しみだけで乗り越えられるものではない。最後のエリオットの対決が大いに心理戦であったのは実に興味深く感じた。 しかし前時代的ではあるが全然今読んでも遜色ない。しばらくマレルの作品を読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのノンシリーズ作品。2年前くらいから訳出されると云われていた作品がようやく日の目を見た。
物語は唐突に始まる。 いきなり弁護士夫妻の別荘を二人組の強盗が襲撃し、あっという間に二人は殺されてしまう。そこに居合わせた弁護士をしている夫人の事務所で秘書として働いている本業女優のミシェルと、通報を受けて非番の身でありながら現場に一番近い所にいたことで駆り出された女性保安官補ブリン。特にブリンは頬を弾丸に打ち抜かれるという重傷を負う。 かつてこれほどまでに深手を負ったヒロインがいただろうか?しかも女性の命ともいえる顔にいきなり重傷を負うのである。しかしこれでブリンという女性保安官補のタフさが読者の脳裏に焼き付くのだから、やはりディーヴァーの創作作法はすごい。 追う者と追われる者の物語。しかしディーヴァーならではのサスペンス豊かな状況でありながら何とも奇妙な味わいを見せる。 それは追う側も追われる側もお互いのパートナーに奇妙な友情が芽生えてくるのだ。 逃げる側のブリンとミシェル。前者はタフで生きる術、そして相手を出し抜く術を知った女性だ。後者のミシェルは都会暮らしで女優の端くれでスタイル抜群で身に着けている服も高級品ばかり。およそ山歩きとは無縁の女性だが、いわゆる吊り橋効果が作用して同族意識が生まれてくる。 また追う側のハートとルイス。片や職人と仇名されるプロの殺し屋で片や軽薄な人殺しをゲームの一環だと思っている男。最初ハートはルイスの考えの甘さを見下していたが次第にルイスのサバイバル知識の豊富さに感心し、対等のパートナーとして意識するようになる。 特に二人の交流シーンは男の友情が次第に芽生えてくる読み応えがあり、とても殺し屋二人とは思えない。むしろ狩りを楽しむ男二人のようだ。何とも奇妙な味わいをディーヴァーは演出したものだ。 そして逃げる側のブリンは立ち止まることを自らに禁ずる。その心情を表すエピソードにかつてブリンが高速で捕まえた容疑者の台詞にこんなのがあった。 「そりゃ動いているかぎり、おれは自由の身なんでね」 追われる者の拠り所になる台詞なのだが、これに似た台詞をディーヴァーの作品で私は読んでいる。それはリンカーン・ライムシリーズ第1作の『ボーン・コレクター』だ。アメリア・サックス初登場の場面でアメリアは次のように独りごちる。 走ってさえいれば振り切れる。 とにかく前へ。これがアメリアの信条。この台詞が前述の台詞に重なる。ブリンはアメリアに似た性格の持ち主なのだ。 そして敵役のハートの造形もまた魅力的だ。その筋の界隈の者たちから“職人”の異名で呼ばれる凄腕の殺し屋ハートは自分の痕跡を一切残さずに任務を遂行する。しかしそれはライムシリーズに出てくるような病的なまでに神経質な性格ではなく、プロ意識から生まれる注意深さと、あくまで沈着冷静で相手の心理を読み、二手三手先を読みながら追い詰める、ゲームの達人ともいうべき凄みがある。そしてハートは次第にブリンのサバイバル術に感心し、恋心にも似た関心を抱くようになる。 (以下ネタバレへ) ▼以下、ネタバレ感想 |
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『どちらかが彼女を殺した』に続く、結末を書かずに読者に推理を強要するミステリの第2弾である。
前作が容疑者2人だったのに対し、今回は3人。しかもその三人とも自身が手を下したと確信している。 新進気鋭の詩人神林美和子と婚約した落ち目の文化人穂高誠。彼に対してある特別な感情を抱いている3人。元恋人の雪笹香織、マネージャーでほのかに恋心を抱いていた女性を穂高に盗られた駿河直之、兄弟愛を超えた愛情を注ぐ妹を今まさに穂高誠に取られようとする神林貴弘。この3人が今回の事件の容疑者だ。 本書のメインの事件の被害者穂高誠という脚本家はこれまでの東野作品の中でも一、二を争う卑劣漢だ。 女癖が悪く、気に入った女性に次々に手をだし、関係がこじれるとマネージャーの駿河に尻拭いをさせ、罪悪感一つ抱かずにまた新しい女性へ手を出す。そして婚約者神林美和子との結婚も脚本や小説では成功したものの、ヒットをいまだに生み出していない映画で話題となっている美和子の詩を題材に映画を作ることで寵児となろうとしている、非常に打算的な理由からだ。 この穂高誠の設定を読んで思い出したのは『悪意』に出てくる小説家日高邦彦だ。しかし日高がいわば作られた偶像だったのに対し、穂高は真性の自己中心男である。 つまり読者の共感を覚えるのには極北に位置する人物であり、私も含め読者の大半は彼が殺されたことに快哉を挙げたことだろう。そんな死んで当然の男を殺したのは誰かというのが今回の謎だ。 しかし唾棄すべき人間が被害者ならば、それを殺した犯人に同情を覚えるのが読者というもの。読者の側とすればどうにか捕まらずにいてほしいと奇妙な共犯意識が芽生えるのも事実。こんな状況で犯人捜しを読者に強いる東野氏の演出がなんとも憎らしい。 さて肝心の謎解きの部分だが、前回よりもレベルが上がっているというのが正直な感想だ。最初に読み通した時は全く解らなかった。『どちらかが彼女を殺した』の方は加賀が仄めかすヒントについて記述されていた箇所が解ったものの、今回の事件は加賀が謎解きの手掛かりとしたポイントがどこのことを指すのか、全く覚えがなかった。 う~ん、これでは東野氏の云うただ単純に字面を追っているだけの読者に過ぎないではないか。 この感想は文庫巻末に添えられた袋綴じ解説「推理の手引き」を読んだ後で書いているのだが、それを読んでも全く分からなかった。というよりもこの手引きでさらに新たな手がかりが提示され困惑しているといった次第だ。むむぅ、この謎は難しすぎる。 ところで加賀刑事の尋問方法は刑事コロンボのようだ。一旦引き揚げると見せかけてまた戻って質問を投げかける。しかも直前の会話とは脈絡のないことを唐突に。 それは恐らく刑事の尋問で張りつめた緊張の糸が、刑事が去ることで緩められる、いわば無防備な心に付け入って動揺を誘うためだろう。本当に怪しい人物、つまり容疑者ならば不意の質問に動揺し、理論武装の殻が破れるだろうからだ。 私は逆に加賀刑事の尋問方法からコロンボのそれの意義を知らされた。 また今回複数の刑事が事件に携わるが、やはりその中でも加賀は異色の存在だったことが解る。本書は容疑者3人の視点で語られる一人称叙述なのだが、彼らの目に映るのは加賀の動じない性格に決して臆さない、ある意味無粋なまでに容疑者に介入してくる態度だ。そして彼らをして加賀を他の刑事とは一癖も二癖もある刑事であると思わせている。 これはやはり容疑者側の視点で書かれた『どちらかが彼女を殺した』、『悪意』、そして本作で加賀が今までの東野作品で一歩抜きんでた存在の刑事であることを読者に悟らせることに成功しているだろう。それはつまりノンシリーズ物を多く書いた東野氏が当時唯一加賀恭一郎をシリーズキャラクターにするために肉付けしなければならなかった部分に違いない。 この辺はセイヤーズがピーター卿をハリエット・ヴェインと結婚させるためにあえてシリーズを重ねて人間臭く描いていった創作意図を想起させた。 といった横道感想を経て、私はウェブ上で開陳されるネット名探偵たちの真相解明に目を通した。 ・・・今回も惨敗。 ただし今回の真相はウェブ上の推理を読んでもいささか歯切れが悪い所があるようだ。本当の真相は作者のみぞ知るのだろうが、これを是とするか否とするかは読者次第なのだろう。 謎は解かれるからこそミステリと考える読者はもやもや感が残るだろうし、逆に謎は謎のままだからこそまたいいのだと考える読者は是とするだろう。 私は『秘密』の後に書かれた(発表された)作品として本書を捉えると真相は一つでなくてもいいのではないかという作者の声を感じてしまう。 『秘密』の感想で私は結局藻奈美は藻奈美だったのか、それとも直子だったのかはそれこそ作者が読者に仕掛けた秘密ではないかと述べたが、本書もまたその延長線上にあるように思える。 単純にミステリとして作品にちりばめられた手がかりと伏線を拾えば、犯人は駿河と行き当たるだろうが、そこに残る「何故」もまた本書で書かなかった部分なのだ。謎が犯人に、そして真相に収束するのが本格ミステリだが、拡散するのもまたミステリだというのがこの頃の東野氏のミステリ観だったのかもしれない。 いやあ、今回は完敗でした。 またいつかこのような作品を書いてくれることを臨む。なぜならこの趣向が一番本格ミステリの愉しさを味わえるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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性欲に対する人間の異常なまでの欲望と情動をテーマに描いた短編集。
まず最初の「眩暈」の主人公は外資系のコンピュータ・メイカーで働く35歳の男の妄想を描いている。 電話回線を使ってのインターネット利用や、会社のインターネットを不正利用してエロ画像をダウンロードする、などとおよそ現代の会社のITセキュリティーの観点からは一昔前の感が否めないが、もちろん本書の本質はそこにはなく、35歳の、営業の激務に晒され、おまけに家に帰れば赤ん坊の夜泣きのために寝不足になり、かつて美しかった妻はその輝きを失いつつあるという倦怠期にある男の肥大していく、義妹への妄想にある。 果たして奈緒は隠れた痴女だったのか?そこを敢えて明かさないところが上手い。 続く「人形」は実に馳氏らしい、どろどろの因縁話だ。 なんともやるせなさが残る作品。ハッピーエンドなど望むべくもない陰鬱な設定と話だった。実に作者らしい。 馳作品と云えばやくざだが、「声」ではとうとうやくざが登場する。 主婦のちょっぴり危険な秘め事が、やくざと出逢ったことで転落の人生の第一歩を辿る。犯され、蹂躙され、女として人妻としての人格を否定され、堕ちていく聡子とやくざ俵の関係と、苛められていると疑いのある息子将人の友人との関係が最後にリンクするところに上手さを感じた。しかし、ホント救いのない話だなぁ。 そして締めの短編は表題作「M」。MとはもちろんSMのMのことだ。 話は単純に風俗、それもSMクラブに嵌った男がどんどん自分の貯金をすり減らし、ドツボに嵌ってしまうという、よくある話なのだが、これを馳氏は主人公稔に父親殺し、そして夜な夜な繰り広げられる夫婦のSM、鑑別所を出所した後に引き取られた叔母との性交の日々などを絡め、性と暴力の物語に仕上げていく。 まゆみへの愛に狂い、衝動的に人を刺していく稔の末路までを描かず、報われなさを描くことで稔をどん底に引き落とす。 全4編で構成された短編集。全てセックスに関する人間の情動を描いた作品だ。そして全てバッドエンドなのがこの作者らしい。 ネットに蔓延するエロ画像、秘密の出会い系クラブ、伝言ダイヤルを使った主婦売春、SMクラブとここに挙げられているのは誰もが街中で目にする光景だ。 電話ボックスのチラシや街中で配られるポケットティッシュの広告に書かれたそれらの情報に興味を持った方もいるだろう。好奇心に押されてちょっと勇気を出して踏み出すことで、いつもと違うディープな世界に迷い込む、そんな性の扉たちだ。 つまりは人間の、少しだけモラルを踏み外したいと思った時に、一番手っ取り早い方法が、これらセックス産業だと云える。本作の主人公たちはその陥穽に嵌り、人生を転落していく人々。ちょっと踏み外しただけで運命の歯車に巻き取られ、堕ち行くしかない状況へ追いやられる。それまでの長編で見せた転落人生劇場がこの約80ページの短編でも繰り広げられる。 馳氏のそれまでの作品は忌まわしい過去や血の絆に縛られた主人公がどんどん暴力的衝動を肥大させて、退廃への末路を辿るストーリーばかりだが、作品を重ねるにしたがってそれらの描写や行為もエスカレートしてきた。そして特に生々しいまでに描写が増えたのはハードSM、凌辱ポルノと云った感じの激しいまでの性描写。本書はその激しいまでの性への衝動が前面に押し出されている。 そして今までの作品と違い、主人公は他の民族の混血児などではなく、純然たる日本人。ただ彼ら彼女らは隣にいるようでいない人物でもある。 1話目「眩暈」の主人公はできちゃった結婚した35歳のサラリーマンで営業の激務に苛まれながらも帰宅後は妻の愚痴の相手に赤ん坊の夜泣きと疲労が募って仕方がない男。 2話目の「人形」は家族ぐるみで付き合いのあった隣人との間には両親同士が浮気をして性交を重ね、また娘、息子たちもまた性交を重ねていたという過去を持つ女性。 3話目の「声」では暇つぶしに始めた主婦売春が病み付きになり、やがてやくざに嵌められ、売春を強要される主婦。 4話目の「M」では両親が夜な夜なSMプレイを愉しみ、そんな父親を憎んで衝動的に殺害した青年。 こう並べると4話中半分は誰もが経験しそうな話でもあり、また片方は異常な家庭環境にいた者たちが壊れていく話である。 性と暴力、抑えられぬ情欲と衝動。お決まりの馳氏のカードばかりだ。ただ本書の主人公たちはいつもの作品と違って我々の身近にいそうな人々。 そう、ノワールは我々のすぐそばに潜んでいるのだというのだろうか?セックスという生物誰しもが持つ性欲をキーに馳氏は4つのノワールの扉を用意した。ここに書かれているのはいずれも救いのない話。同じように堕ちていくか、そうならぬようぬ踏みとどまるか?貴方ならどうする?と問いかけられているようにも思える。 今までの馳作品の中でも最も薄い作品だが、中に書かれた人間の激情はいささかも薄まっていない。これを単なるポルノ小説と捉えるか、暗黒小説と捉えるか。私はやはり何を書いても馳氏は馳氏だとその思いを強くした。 セックスとは男女を問わず獣になる瞬間であり、そこに本性が生々しく表せるからだ。やはりセックスもまた馳氏のノワールには欠かせない要素なのだ。 馳氏の、人間の心の闇への探究はまだまだ続きそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リー・オフステッドシリーズ3作目。
わずか10か月足らずでもう3作も訳出されたことに驚く。案外人気があるのだろうか? それはさておき、今回は海難救助サービスの仲介業者の役員研修に参加したリーが誘拐未遂事件と殺人事件に巻き込まれるというもの。その背景にはその会社が大きく発展するに至った1971年のある海難事故があった、というお話。 今まで妻シャーロットのロマンスミステリ風味が強かったが、本作では過去の因縁話が現代の事件に翳を落とすというアーロンの特色が色濃く出ている。 ロマンスの相手グレアムは警備コンサルタントの仕事が忙しく、世界中を駆けずり回っている身であり、物語の中盤に出てくるのみで大きく事件には関与しない。したがってロマンス色は薄目であり、逆に被害者である会社社長スチュアート・チャペルが、過去に同僚であるアンディ・ゴットリーブを見放した事件が意外な形で現代に因果を残していることが物語が進むにつれて明らかになってくる(とはいえ、終盤グレアムは大いに物語に関与し、また二人の関係に大いなる前進があるのだが、まあ、それはアーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズでも見られる程度のロマンスだと云えるだろう)。 ところでこのスチュアートが危うく遭難しそうになって仲間のライフラインを切断したという行為は何かを想起させないだろうか? そう、少し前に巷で話題となったハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義についての講義の内容だ。 急変した気候のために船は岩礁にぶつかりそうになっている。そんな中、海に潜った同僚は合図を送るも一向に浮上してくる気配がない。このような窮状で果たしてどのように行動するのか?つまり二人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にできるかという命題が示されている。 本書はなんとまだ前世紀の1997年の書。この手の話はミステリではよく取り上げられるといえばそれまでだが、22年も前の作品が現在話題になっている大学教授の講義とリンクすることに奇妙な縁を感じる。 そしてやはりエルキンズのキャラクター創作力とユーモアのセンスは素晴らしい。例えばこんな一節がある。 「角でばったり犬と顔をあわせた猫の反応を想像できる?」ペグはそう訊いた。「それがジニーよ」 この一瞬意味不明な比喩でなかなか頭にそんな猫が浮かばないのだが、エルキンズはまさに云いえて妙の人物を拵えてくる。どんな人物なのか?と知りたい方は本書にあたって確かめてほしい。 これほど面白く読みやすいコージーミステリなのだが、本格ミステリ要素が濃いのもエルキンズ作品の特徴。 以前からエルキンズの作品を私は素晴らしきマンネリと呼んでいるが本書もその例に漏れない。本書には時間が止まるような驚きや謎解きによって得られるカタルシスなんてものはないが、作品世界に浸ることで得られる読書の愉悦が確実にある。面白さ保証のエルキンズの次作を楽しみにして待つことにしよう。 ところで本書の邦題はあまり内容とは関係がないような…。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は一度1979年に出版されたが改稿と短縮を余儀なくされたものであり、それを1994年にリライトされた完全版である。
一作目がヴァイオレンス・アクション小説ならば二作目の本書はパニック・ホラー小説と趣をがらりと変えている。 かつて鉱山町として栄えた人口二万人ほどの町、そこにはかつてヒッピーたちと村人との間に死者が出るという忌まわしい過去があった。そして町の人々から信頼を得ている警察署長、そんな町に起こった雄牛が血の一滴も残すことないまま切り裂かれる怪事が起こる。やがて同種の被害が住民たちの間にも起こっていく。 とまあ、典型的なハリウッド映画的パニック物語である。 デビュー作『一人だけの軍隊』も実際に『ランボー』として映画化されたが、マレルという作家は実に映画向きの題材を扱う。 狂犬病と思しき症状を呈した犬が見つかり、そして野獣のようになった少年が現れ、それを皮切りに襲われた人々が同じような病に侵され、徐々に恐怖が町全体を覆っていく。奮闘するのはデトロイトから来た警察署長ネイサン・スローター。 そこに絡むのが編集長の命令で過去を回顧する記事を題材を訪ねに来たしがないアル中の雑誌記者ゴードン・ダンラップ。 そしてポッターフィールドを長く統治する市長パーソンズ。 街の治安を守ろうと孤軍奮闘する者と、落ちぶれた雑誌記者から何かスクープを手に入れて再起を図るジャーナリストと1970年代に起きたヒッピーとの抗争という忌まわしき過去を吹っ切り、安定を維持しようとする者。 それぞれがそれぞれの事情を抱えながら、彼ら3人を中心に物語は進行する。 そんな物語にサブストーリーとして加わるのが1960年代のフラワームーヴメント。ヒッピーのリーダー、クイラーが1970年にポッターフィールドの山奥に50エーカーもの広大な土地を購入して理想郷を築く。 彼らはしかし村人たちに厭われ、次第に忘れられていく。このサブストーリーが物語の終盤に大きくかかわっていく。 さてフラワームーヴメントに翳を落とすのはやはりヴェトナム戦争だ。デビュー作『一人だけの軍隊』もまたヴェトナム戦争帰りの軍人の物語。マレルはヴェトナム戦争を自身の小説のテーマとしているようだ。 この辺は彼の作品を読み進むうちにおいおい判ってくることだろう。 さて元々1979年発表の作品だが、その頃の小説の特徴なのか物語の合間合間に挿入されるエピソードが実に色濃い。 それは端役にしか過ぎない登場人物がポッターフィールドという田舎町に住むようになった経緯の話だったり、その町の歴史だったり、町にある文化財にまつわる逸話、狂犬病に関する知識だったりと様々だ。しかもその内容が箸休め程度ではなく、突然に延々と10ページも割かれたり、はたまた1章を費やしたりとやたらに長い。しかしそれでも内容は濃いため、実に読ませる。まるでサーガを読んでいるような気分になる。 改稿と短縮を余儀なくされたのはこの辺のエピソードの数々だったのかもしれない。 特に作者の創作であろうポッターフィールドの成り立ちが非常に読ませる。恐らくどこにでも存在するアメリカの僻地の旧鉱山町がモデルになっているのだろうが、マレルはその歴史を克明に描く。恰も実在の町であるかのごとく詳細に書く。 そういえば『一人だけの軍隊』の舞台もアメリカのマディソン郡にある片田舎の閉鎖的な町が舞台だった。そんな排他的な土地に紛れ込んだヒッピーという得体のしれない存在は何も危害を加えなくとも住民たちにとっては脅威だった。 そんな相互理解が及ばない状況だったからこそ起きた殺戮の幕開け。つまりマレルは閉鎖的な町も物語の主要因として考えているのだろう。だからこそできる限り詳細に描くのか。 本作で印象的なのは主人公の警察署長スローターだ。“屠殺者”という意味のラストネームで、大柄な体躯を持ち、デトロイト警察を引退して牧場を開こうとポッターフィールドに引っ越し、結局警察職に復帰した男。射撃の腕前は一流で、部下の信頼も厚い。いわゆる理想の上司なのだが、彼が臆病であることをひたすら隠しているところに興味を惹かれた。 彼はある事件(コンビニ強盗を働いた少年に散弾銃で撃たれ、瀕死の重傷を負った)で恐怖心を抱き、実は警察稼業を辞めて山奥で牧場でもやろうかと逃げてきた男だったのだ。しかし警察官しかしたことのない男には畜産業は無理で、周囲に求められるがままに警官に復帰したのだった。そんな彼の本当の姿を知られずに今までタフで理解ある、部下からの信望の厚い警察署長を務めてきたのだった。 つまりこのようなパニック小説で主役を張る人物が全て万能ではないのだということをマレルなりに皮肉っているのかもしれない。 さて町を恐怖のどん底に陥れた未知の狂犬病。その発祥の源はヒッピーのリーダー、クイラーが築いた理想郷のさらに奥、昔鉱山町だった跡地にあった。一念発起した住民たちはそこを一掃しようと乗り出していく。さらに途中にリーダーシップを放っていたスローターは市長パーソンズの策略で留置場に入れられてしまう、となかなか面白い展開を見せる。 (以下ネタバレへ) ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン後期の作品だが、ダイイングメッセージと意外な犯人、と少しも本格スピリッツは衰えていないことを示した佳作。
複数の女性を浮名を流す、石田○一のようなジゴロ、カーロス・アーマンドがいかにして前妻グローリーを殺したか?というのが今回の事件。 このカーロスがものすごい女たらしであり、さらには何故かほとんどの女性は彼の手に落ちてしまうという凄腕テクニックの持ち主。そして彼の殺人計画の片棒を担いだのがすみれ色のヴェールを被った謎の女。クイーンと相棒のスコットランド人の私立探偵ハリー・バークは事件のカギを握るこの「幻の女」を探し出そうと躍起になる。 つまり本書はいつもと趣向が変わっている。主犯が明らかになっているのだが、実行犯である共犯者を探し出すという物語なのだ。しかしこの趣向は物語が終わってから気付かされるのであり、今までのクイーン作品を読んだ読者ならば犯人捜しがメインだと思わされるのだ。 例えば『災厄の町』などの諸作に見られる価値観の転換という手法をクイーンはよく取る。従って今回も早々に判明する夫の妻殺害計画もまたこの価値観の転換により覆るのではないかと思わされるからだ。往年の読者でさえも自らの作品傾向を利用してミスディレクションする、というのは穿ちすぎだろうか? さらに今回は今までの作品で見られた趣向が織り交ぜられているにも気づかされる。トリックに関してもそうだが、それは他の作品を読んでない読者の興を削ぐのでやめておくが、特に近似性を感じたのが『ドラゴンの歯』。今回タッグを組むハリー・バークは『ドラゴン~』で相棒を務めたボー・ランメルだ。 両者が事件の関係者と恋に落ちるところなどもそうだが、更によく読めば今回の登場人物の名前の一部が『ドラゴン~』でも出てくるところなんかもそうだ―容疑者“カーロス”・アーマンドと執事のエドマンド・デ・“カーロス”―。 さらには被害者グローリー・ギルドの姪ロレット・スパニアが公演をするローマン劇場は第一作『ローマ帽子の謎』の舞台ローマ劇場と思われるし、物語の終盤に登場するJ・J・マッキューは初期クイーン作品で語り手を務めたJ・J・マックであろう。つまりこれは原点回帰の作品ともいえる。 『盤面の敵』(これは純粋にはシオドア・スタージョンとフレデリック・ダネイの合作だが)と本作と晩年のクイーンはいわゆる後期クイーン問題を経て、改めて原点に戻ったパズラー志向を目指したようだ。それには初期の荒唐無稽さはなりを潜め、中期から後期にかけて人の心の謎を織り交ぜ、地味ながらもあくまでロジックで事件を解き明かすことを追求している。この頃、ようやく自分の足元を見つめて自らの書きたい作品を書くことを再認識したのではないだろうか? しかし、とはいえ今回の真相には首を傾げざるを得ない。 またクイーンはダイイングメッセージが好きでよく作品で使われているが、本作のメッセージは実にシンプル。なんせ“face(顔)”の一語。しかもなんともありふれた単語だ。このメッセージに込められた意味はしかし実に深い。 この謎解きを読んだ時に、いくらなんでも死の間際にここまで機転を利かせたメッセージを残せるだろうかとはなはだ疑問だったが、ここで物語の初期に登場する同じ単語が浮かび上がる日記の白紙のページに浮かび上がる“face”の文字という伏線が生きてくる。 さて今回やたらと当時の風俗を忍ばせる固有名詞が頻出する。NASAやビートルズ、ジョーン・バエズ、プレイボーイにポップ・アート、etc。 もしかしたら今までもこのような固有名詞は出てきていたのかもしれないが、自分が知っている、いや地続き感を覚える固有名詞は初めてである。それまではるか昔の作家だと思っていたが、ここにきてようやく私の時代に繋がった、そんな思いがした。 しかし余談だがかつてのクイーン作品で女性のバストに注目した小説はあっただろうか?いやに出てくる驚くべき胸のふくらみという描写。これも当時活況を呈したグラヴィアの流行なのだろうか。前述の固有名詞の頻出と云い、今まで以上に現代風味に溢れた内容になっている。 シンプルな謎、そしてたった一つの殺人事件ながらも謎解きは複雑で、おまけにアイリッシュを髣髴させる「幻の女」探しと、晩年の作品ながらもミステリ趣向溢れる作品なのだが、ネタバレに書いた理由により、肝心の真相に納得がいかなかった。 本書巻末に添えられた著作リストによればクイーン作品はあと4作。そこに私が感じるミステリがあるのか。期待してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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