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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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『寒い国から帰ってきたスパイ』で一躍ベストセラー作家になり、そして彼のスパイ作家としての地位を盤石の物とした“スマイリー三部作”の第1作が本書。
ソ連が英国情報部通称“サーカス”に潜入させたジェラルドと呼ばれる二重スパイを探し出すためにスマイリーは一度引退した英国情報部の調査に乗り出す。 そう、これは有名なキム・フィルビー事件を題材にした作品である。イギリス秘密情報部(MI6)で長官候補にも挙げられる上位職員でありながら「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれるソ連がイギリス上流階級出身者で形成したスパイ網の中の1人だ。 本書発表当時の1974年ではル・カレはまだ自身が英国情報部の元職員であったことを否定していたが、今回の新訳版は訳の刷新だけでなく、ル・カレが1991年に書いた序文が付せられており、当時の創作の裏話や彼の英国情報部員時代のことが書かれている。その中には題材にしたキム・フィルビーやKGBのスパイ、ジョージ・ブレイクのことを語っているが、ル・カレ自身はキム・フィルビーに会ったことがないまでも、彼はブレイクには異様に共感したものの、フィルビーに関しては自分に似すぎているため、嫌悪感を覚えたという。彼はフィルビーに別の自分を見出したようだった。 またこの序文には今では普通に使われるようになった諜報世界での隠語の数々が当時はまだ浸透していなく、長期に潜伏するスパイ、スリーパーなどのことをもぐらと呼ぶがこれもまた本書が最初だったとのこと。そして彼が創作したスパイの隠語は点灯屋(ランプライター)、首狩り人(スカルプハンター)、子守(ベビーシッター)と数々あり、本書で初めて出てくるが、なんとその中にハニー・トラップがあるのを初めて知った。つまり今でこそ一般的にも使われるハニー・トラップはなんとル・カレによって生み出された隠語だったのだ。ちなみに本書では“色仕掛け(ハニー・トラップ)”と表記されている。そんな背景から考えると本書はいわばスパイ小説の文化を創った始まりの書と云っていいだろう。 さてそんな伝説的作品で、かの有名なキム・フィルビー事件を題材にした本書の発端は次のようなものだ。 かつての同僚ピーター・ギラムに呼び出されたジョージ・スマイリーは英国政府の情報機関監査役オリヴァー・レイコンの自宅に連れて行かれて、そこにいた元東南アジア担当のエージェント、リッキー・ターからソ連情報部の大物カーラが英国情報部、通称“サーカス”内にジェラルドという二重スパイを潜入させているという情報が寄せられる。しかもそのスパイはサーカス内でも上位の人間であるらしい。スマイリーはレイコンからこのジェラルドの正体を炙り出すよう依頼される。 そこから物語の主軸は大きく分けて3つになる。 1つはかつてジョージ・スマイリーの上司でもあり、サーカスのチーフでもあったコントロールの下で台頭してきた部下パーシー・アレリンがマーリンという情報屋を掴んで彼を通してソ連の諜報活動の情報を得る、通称「ウィッチクラフト作戦」にて出世の階段を一気に登っていったこと。 2つ目は一方コントロールもまた彼がチェコスロヴァキアで計画していた大型作戦のために持っていた太いパイプ、通称“テスティファイ”と呼んでいたステヴチェクというチェコ砲兵隊の将官を得るが、逆に彼からサーカス内にソ連の二重スパイ、ジェラルドの存在を知らされ、彼もまたその情報を欲しがっているのが明らかになる。 そしてコントロールはそれがサーカス内トップの5人だということまで絞り込んだ。 その5人とはサーカスの後任チーフ、パーシー・アレリンを筆頭にサーカスのロンドン本部長となっているビル・ヘイドン、その補佐役であるロイ・ブランド、サーカスの首狩り人の責任者トビー・エスタヘイス、そして現役時代のジョージ・スマイリーだ。 因みに奇妙な原題はこの5人をマザーグースの表現を借りて鍵掛け屋(ティンカー)(アレリン)、仕立て屋(テイラー)(ヘイドン)、兵隊(ソルジャー)(ブランド)と名付けたことから来ている。題名のスパイはマザーグースにはなく、作者による替え歌(?)だ。なおエスタヘイスは貧者(プアマン)、ジョージ・スマイリーは乞食(ベガーマン)と散々な役が割り当てられている。 そして3つ目はスマイリーが過去の資料を当たり、当時の自身の記憶も手掛かりとして上の2つの大きな動きとアレリンとコントロールの対立を探り出し、容疑者を絞っていくパートだ。 このように書くとシンプルな物語だと思うが、内容はかなり詳細で膨大な数の登場人物が現れ、しかも内容も色んな方向に飛んでいくため、なかなか頭に入りづらかった。 ル・カレ作品は手強いと云われているが、それを初めて実感した。 政府の情報機関監視役から直接ジェラルドの炙り出しを依頼されたスマイリーを取り巻く環境は以前と比べ、だいぶん変化している。 例えば彼の上司であったコントロールは既に長患いの末、心臓麻痺で死出の旅に出ている。 そしてスマイリーは相変わらず情報部時代の癖が抜けず、常に自分の生活圏に変化がないか、五感を研ぎ澄ませている。 しかし二重スパイの炙り出しとはいえ、過去を調べることは自分自身の汚点とも云うべき忘れたい過去をも掘り返すことになるスマイリーは気の毒だ。 なんせ幾度も既に別居中の美しい妻アンが元同僚のビル・ヘイドンと浮気していたことを知らされるのだから。しかも彼が二重スパイ、ジェラルドではないかと過去を洗い出していくうちに、そのことに纏わるチェコで起きたエージェントのジム・プリドーが背中から拳銃で撃たれるような問題が発生し、彼が遅れてそのニュースを知り、オフィスに来たのは自身の妻とビルが寝ていたからだと明らさまに云われる。いやはや何とも云いようがない。 また作中でスマイリーが述べるように、彼ら情報部員は引退しても彼ら彼女らを狙う敵の目に常に脅かされる存在なのだ。 本書でレイコンを訪ね、二重スパイ、ジェラルドの存在を知らせに来る元英国情報部の東南アジア担当だったリチャード・ターもスパイ稼業から足を洗ったにも関わらず、彼が引退生活を送るクアラルンプールに彼に金を貸したと云って探しているフランス人が現れたので英国に逃げてきたとある。 また彼に二重スパイの情報をもたらしたソ連人女性イリーナは亡命直前にソ連に強制送還され、処刑されたことが後に知らされる。 作中、ついに二重スパイ、ジェラルドの正体が解った時、耳をそばだてて会話の一部始終を聞いていたピーター・ギラムが胸に憤怒を滾らせるシーンがある。 モロッコで惨殺された工作員たち、追放され、どんなに努力しても挫折ばかりの日々で若さが指をすり抜けるように失われていく。索漠感に常に囚われ、愛すること、楽しむこと、笑うことが出来なくなってくる。生きる指針にしている事柄が腐食し、自らに抑制を強いて尽くしてきた。そんな思いが彼の胸に次々と去来し、裏切り者へ全て叩きつけたくなる。 このギラムの想いはそのまま作者ル・カレの想いと云っていいだろう。自身、MI5の下級職員として働き、MI6への転属を申し入れ、新人訓練を終える頃に出くわしたのが二重スパイ、ジョージ・ブレイク逮捕の知らせだった。つまり彼もまた各国で潜入してスパイ活動をする工作員たちの苦悩を熟知しており、それゆえにそんな隠密行動を味方のふりをして敵側に情報漏洩する二重スパイに対して多大なる怒りを覚えていたのだろう。 そして彼はまたキム・フィルビーを嫌悪していた。 諜報の世界は感情よりもイデオロギーや自国の利益が優先され、いわば他国を出し抜くために有益な情報をもたらし、そしてまた敵国が被害を被るよう工作を施すのがスパイであり、彼ら彼女らの存在は極秘でもしバレたとしても自身の身分を明かしてはならず、速やかに命を絶つか、別のスパイによって粛清される運命で、中には既に戸籍上亡くなっている者もいるくらいだ。 つまり感情を排することこそが諜報活動では重宝されるが、ル・カレはそんな諜報の世界に身を置き、またそれをテーマに作品を書きながら、敢えて人間を、諜報の世界に所属する人々の感情を描く。 本書が私にとって3作目のル・カレ作品だが、それらを読んで感じたのは結末の余韻が実に抒情的なことだ。 スマイリー三部作の1作目と云われる本書は『寒い国から帰ってきたスパイ』よりも評価が高く、代表作こそコレだと推す人もいる。 正直ル・カレの作品は読後は感嘆はするものの、世評と自分が抱く感想との温度差に戸惑うこともままだ。 しかしこのように感想を書くために物語を再度繙いていくとそれまで見えてなかったものが見え、そしてそれがまた物語全体と最後の結末の余韻を色濃くさせ、しばらく心に留まり続けるのだ。 従って今の時点では本書の評価は7つ星だが、三部作全てを読み切った後はまた変わるかもしれない。 そしてこの三部作はソ連情報部の大物カーラとスマイリーと、英国情報部との戦いを描いているとのこと。 この宿敵の風貌は痩せた小男で髪は白髪交じり、しわだらけのおっとりしたおじさんというのがスマイリーの印象だ。 この後、どんな駆け引きや戦いが繰り広げられるのか、とにかく本書のストーリーが私の中で風化しないうちに三部作に手を付けることとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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私がレンデル作品を初めて読んだのが1998年。ウェクスフォード警部シリーズ第7作の『ひとたび人を殺さば』だった。
それから23年を経てようやくシリーズの第1作を手にすることが出来た。ただ訳者あとがきによればウェクスフォード警部シリーズの邦訳紹介はその『ひとたび人を殺さば』だったようで、本書はシリーズ第2弾として出版されたらしい。私は『ひとたび人を殺さば』を傑作だと思っており、恐らくはシリーズ訳出の試金石としてそちらが先に発表されたのだろう。 日本の翻訳出版事情はこのようにシリーズの順番関係なく評価の高い作品から訳出される傾向にあるが、これは作者の作品を刊行順に読みたい私にとってあまり歓迎したくない風潮だ。 この有名なシリーズのデビュー作にしては実に事件は地味である。 化粧気のない、しかし容姿は古風な美人といった感じのごく平凡な主婦の失踪事件から始まり、やがて農場の一角で遺体となって発見される。そして近くを捜索すると口紅が見つかり、その持ち主が中古車販売業を営む夫の妻だった。ただその女性は金満家の夫人らしく高価な服装と装飾品を身に纏った派手な性格の女性でかつては女優を目指していたというほどの美貌の持ち主。 この光と影のような対照的な存在である2人の接点についてウェクスフォード警部とその部下バーデンが調べていく。 また殺されたマーガレット・パースンズの夫ロナルドは身辺整理をするため、数多くの蔵書を整理するが、ウェクスフォード達はその中に高級な革装丁の詩集をいくつか見つけ、その中にドゥーンという男からミナという女性に宛てた愛の言葉が常に綴られているのを発見する。このミナが地味な女性パースンズ夫人であり、そして彼女には夫には内緒の相手がいたのかと更に捜査の手を広げていく。 地味な一人の女性の死。その犯人は正直現代ではさほど意外なものではない。寧ろ途中で私は犯人が解ってしまった。 本書は二項対立による先入観と時の流れによる人の変遷について書かれた作品であることが最後に判る。 二項対立とは被害者であるマーガレット・パースンズと彼女の遺体の傍に落ちていた口紅の持ち主ヘレン・ミサル、そしてミサル家の専属弁護士クォドラント夫妻の妻フェイビアの2組を指す。 前者は化粧気のない地味な古風な美人だが、わずかに肥満気味と、まあどこにでもいる主婦だが、それに反してヘレンは夫がカーディーラーを経営しており、生活は裕福でドイツ人の若い女性ベビーシッターを雇って子供の世話をさせている派手で美しい女性であり、一方フェイビアも弁護士夫人として優雅な物腰と高価な服を着た、いわゆるスノッブと揶揄される上流階級の女性たちだ。 おおよそ接点のないこの3人の女性たち。寧ろヘレンとフェイビアはマーガレットのような女性と近所付き合いすることすら歓迎しないと思われたが、実はかつて同じ学校に通った女学生であり、しかも当時親しい仲だったことが判明する。 そして女学生時代、マーガレットはその美貌と年不相応の落ち着いた雰囲気から先生からも綺麗で魅力的だったと評され、他の女学生達の憧れの存在であり、集合写真を写すときも中心で周囲が学生らしい若さを漲らせた笑顔を見せるのに対し、彼女だけが口角のみを挙げた大人びた微笑みを浮かべる表情を湛えていた。まさに価値観の反転である。 「人は見た目で判断してはいけない」と云われるが、その反面「人は見た目で8割が決まる」と見た目が重視される言葉もある。この価値観の反転はまさに相反する謂れによって我々が見た目に惑わされているかを如実に表しているようだ。 更にこの見た目に関する言葉はマーガレットという女性の人生に対して我々に余分な先入観を与えて離さないことが解ってくる。 「こう見えても私は昔はモテたのよ」と過去の栄光を懐かしむ人がいる。それは現在の自分を顧みて、若さが自分にもたらせた輝きや万能感を惜しむ気持ちが滲み出ている言葉だ。自分が最も輝いていた時期を懐かしみ、そして惜しむ気持ちは誰しもあるだろう。 しかしこのマーガレットは違ったのだ。彼女が亡くなった時に新聞に掲載された写真を見たかつての知人たちは「昔は彼女も美人だったのにねぇ」と半ば同情と哀れみを持ちながら、そして昔の美人も人の子だったとホッとするとともにちょっとした優越感を得る気持ちもあるだろう。 それでも私はやはり心に残るのはかつてみんなの憧れの存在であった女性がまだ30歳の若さであるのに全てを諦めたかのように化粧もせず、地味に生きていくことを選んだことだ。それが彼女の本質だとしてもその成れの果ての落差に何とも心痛を感じざるを得ない。 昔からかつては美貌で鳴らし、周囲の羨望の的であった女性が次第に老いていくことで老醜を露見していく様から「時の流れは残酷だ」と云われているが、しかしそれは実はかつての姿を知る他人が思うことであって、当人はそういう風には思っていないことが私には不思議である。 いや彼女は既に魂の充足を手に入れていたのか、齢30にして。 私は最初これは変われる人と変われなかった人との間に生まれた齟齬による悲劇だと思ったが、そうではなかった。大人になった人となれなかった人との間に生まれた軋轢の末の悲劇だったのだ。 大人になれなかったヘレン・ミサルとフェイビア・クォドラント。そして大人のように振舞っていたマーガレット・ゴドフリーは大人になってマーガレット・パースンズになったのだ。 しかしレンデルには感心させられる。実に人間臭い動機や考え、または性格が事件を生むまでに発展することを巧みに物語に、設定に取り込んでいるからだ。 上に書いたように、被害者のマーガレットはただただ自分の思うままに振舞っただけである。それが古風な美貌と超然とした態度によって大人びた雰囲気を醸し出し、周囲の憧れを生む。みんな彼女のようになりたいと思うようになる。 そしてそんなマーガレットに対して周囲は地味になった彼女に同情と憐れみを勝手に抱く。殺人事件の捜査をするウェクスフォードでさえ奇妙な女性だと思うほどだ。彼女にとってはそれが普通のことであり、何の不満も苦労もなかったのにも関わらず。それは上に書いたように成れの果ての落差に読者の私でさえ心痛を抱くほどだ。 そして裕福になってもマーガレットは自分に憧れていた女性が未だにその影を追い続けているのを知る。 本当に彼女は何もしていないのだ。彼女はただそこにおり、そして彼女らしく生活していただけなのに、周囲がざわめき、再び彼女を手に入れようとする。 しかも今度は親の加護の下ではなく、裕福でお金もあるのは自分自身という自負も添えて。そして愛が再び届かないと知ると殺したいと思うほどまでその愛はいまだに深かったのだ。 インフルエンサー。そう、まさにこのマーガレット・ゴドフリーは望むと望まざるとに関わらず、インフルエンサーになってしまった女性なのだ。 しかしそれでもやはり本書は地味である。余韻と皮肉を残しながらもウェクスフォードとバーデンという部下と上司のみが登場する、いわば伝統的なホームズ&ワトソンコンビを踏襲しただけの本格ミステリであり、後に登場するウェクスフォードの家族やバーデンの家族は影も形もない。 実は彼らが抱える家族の問題が事件とリンクすることで物語に厚みが生まれているのがこのシリーズの醍醐味なのだが、第1作の本書ではそれが楽しめないため、正直食い足らなさが残ってしまった。 正直本書がどれほど好評を以て迎えられたかが解らないが、2作目の『死が二人を別つまで』ではいきなりウェクスフォードとバーデン側からではなく、捜査を受ける側から書かれている。つまり2作目でいきなりアクロバティックなことをしているのだから、レンデルはウェクスフォード警部をシリーズキャラとして定着させたかったのではなかろうか。 一方でレンデルはウェクスフォード警部物を書くのに後年うんざりしているとインタビューで答えている。読者の要請があるから書いているだけで自分の本質はヴァイン名義で書くような純文学寄りのミステリなのだとも。 原題は“From Doon with Death”。『ドゥーンより死をこめて』。原題ではミナに愛をこめて詩集を贈ったドゥーンが犯人であると明確に示されているようなものだ。とかく昔のミステリは配慮に欠けた題名が多い。 しかし『薔薇の殺意』もまたあまり内容に即した物だとは思えない。 私も50を過ぎ、来し方去りし方に思いを馳せることも多くなった。 同窓会に行くと自分はどう見えるのか、またかつての憧れの君はどうなっているのかと時々思ってしまう。 しかし想い出は美しいままで、そして当時の想いもまたそのままで胸に封印しておくのが最良の選択だろう。 なぜなら私の人生は今ここに家族と共にある。もう余計な波風はいらない。 薔薇は殺意ではなく愛を添えて妻のために捧げようではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は森に迷った9歳の少女のサバイバル小説である。
この頃のキング作品にしては珍しく300ページ強の比較的短めの長編だーいやキングならばこれもまた中編と読んでいるレベルではあるがー。 主人公の少女トリシア・マクファーランドは両親が離婚して兄と共に母親に引き取られた、いわば母子家庭の環境下にある。 兄のピートは離婚を機に生まれ育ったボストン郊外の町から引っ越し、メイン州の南部の町に住むようになってから学校で孤立し、不平と不満の日々を送っているが、トリシアはどんな状況も前向きに捉える少女でペプシ・ロビショーという親友がいる。まあ親の離婚で中学で転校する兄の境遇とまだ9歳で小学校の転校という妹のそれとは確かに段違いの差があるだろう。ちなみにトリシアはもうすぐ10歳となる9歳であるから日本での小学4年生に当たり、既にクラス内に小さなコミュニティが形成されている段階だから、男子ならそれでも厳しいだろう。 その点、女子は順応性が高い。主婦でもすぐにママ友が出来たりするので。 話が脱線したが、物語はこのトリシアの母親キラ・アンダーセンが離婚してから家族の絆を深めるために毎週末に小旅行に行く習慣を新たに作り、今回アパラチア自然遊歩道に行った際に、ずっと口論を続ける兄と母親の後を歩きながら、尿意をもよおしたために脇道から少し茂みに入って用を足した後にはぐれてしまうことから始まる。 さて本来ならばこのような少女の失踪事件が起きると行方不明のトリシアの決死行のドラマと彼女を捜索する側のドラマも描くのが定石だが、キングはそうしない。その筆のほとんどが遭難者トリシア側しか描かれないのだ。つまりまたもやキングはこの1人の少女の孤独な戦いをじっくりとねっとりと描いていくのだ。 とにかくこの9歳の少女に次から次へと困難が襲い掛かる。 まず前半は慣れない森の中での行軍で木の枝や棘に腕などを引っ掛け、どんどん傷だらけになっていく。 さらに突然の雨が降り、ポンチョで雨を凌ごうとするが羽虫の群れが彼女の周りを飛び回る。 そう前半はこれら虫との戦いだ。 ユスリカやヌカカの大群に常に悩まされる。たかが蚊と思われるが、なんとジーンズの生地を通して血を吸おうとするのだ。アメリカは蚊さえも強靭なのかと驚いた。さらにスズメバチの巣を誤って刺激したがためにスズメバチの大群に襲われてしまう。 しかしとにかく執拗なのは蚊だ。人が立ち入らない森の中では、迷い込んだ9歳の少女は血も新鮮で格好の餌食なのだろう。日頃鬱陶しいだけの存在だが、ずっと付きまとわれると恐怖さえ覚えてくる。 彼女はそんな過酷の状態の中でも9歳の少女なりに生きる術を見出していく。 例えば虫に刺されて腫れ上がった顔や手足には泥を塗って防護し、またシップ代わりにする。私は黴菌が入って更に悪化するのではないかと思ったが、これが功を奏すのだ。 そんなまだ幼いながらも孤独な戦いを強いられたトリシアの拠り所は大好きなレッドソックスの試合中継を持参したウォークマンで聴くことだ。 特に彼女のお気に入りは題名にも掲げられている、当時抑えの切り札だったトム・ゴードン投手だ。 苦難と孤独感にさいなまれた彼女の生存への原動力がトム・ゴードンの活躍である。 “トムがセーブすれば、あたしもきっと救助(セーブ)される” この掛詞を唯一の頼みとして彼女は一歩、また一歩と森の中を進むのだ。 彼女の極限状態はますます高まる。彼女は生きるためにリュックサックの中に入っていたお菓子類を食べてしまった後、雨が降った後の水溜まりから上澄み水を掬って、まだ濁っているにもかかわらず、飲み干したり、ゼンマイをそのまま生で食べたり―甘くて美味しいようだが―、川の水を飲んだり、ズタボロになったポンチョのフードを使ってニジマスを捕まえ、そして内臓を取り出し、生のままその魚を食べる。日本人も同じでしょと嘯くが、捕まえた魚を内臓取っただけでそのまま食べる―しかも頭も!―なんて生臭くてとても食えたものではないだろう。 そしてその追い打ちを掛けるかのようにトリシアはオタマジャクシさえも丸呑みするのだ。 そんな悪食を繰り返すため、彼女は嘔吐・下痢をし、熱を出したりする。この辺、キングはたとえ主人公が9歳の少女であってもその描写は容赦ない。 しかし生きるためにそんな悪食を繰り返さざるを得なかったトリシアを救ったのはチェッカーベリーとドングリだった。この2つは格別に美味く、彼女のエネルギー源となる。 そしてなんと大量にその2つを採取してリュックサックに入れて備蓄することを思い付く。9歳の少女にしては上出来だ。 やがて彼女には幻覚が見え、幻聴が聞こえだす。 彼女の救世主でもあるトム・ゴードンと意地悪小娘の話も含め、これらは全て彼女の脳内で行われた対話であり決して真実ではない。 しかしそれでも、特にトム・ゴードンの会話から得られるヒントはトリシア自身がそれまで行ったことのない場所でも与えてくれる、もはや天啓のようなものだと云えるだろう。 また私が今回最も不穏だと感じたのは実は本書の題名である。 『トム・ゴードンに恋した少女』 そう、過去形になっているのだ。キングの物語が全てハッピーエンドに終わらないのは有名だ。従って本書の主人公、弱冠9歳のトリシアはもしかしたら助からないのではないかと読んでいる最中、心中穏やかではなかった。 そして最後の大量のスズメバチや虫類に覆われた不気味な顔を持つ男は最後彼女をご馳走として救出されるまでずっと登場しなかった、彼女を見張る存在、アメリカクロクマの成獣を司るのか。 このクマはこれまでの脱出行でいつでも彼女を襲える立場にありながら、それをまるで最後のデザートを取っておくかのように時に彼女を見つめながら、また他の動物を寄せ付けないように周囲から守りながらトリシアの後を追う。 現代ならストーカークマになろうか。もしくは肯定的に云えば守護天使となるか。 そして最後に彼女に対峙した時、彼女の目の前で顔はユスリカやヌカカが零れ落ちるうつろな穴の開いた虚ろな顔をして彼女に襲い掛かる。 しかし満身創痍でありながらも彼女は“友人”トム・ゴードンの教えを守り、先手必勝で熊の追い出しを行ったのだ。 そしてどうにか彼女は救出される。クマと戦う場面に遭遇した猟師によって。私の不安が杞憂に終わってよかったと思った瞬間である。 さて本書の題名に挙げられているトム・ゴードンというレッドソックスの抑え投手だが、これは実在する選手だ。 キングがなぜこの実在の選手を題名に冠し、そして出演までさせているのか。 その理由は著者あとがきにも明らか何されていないが、レッドソックスファンにとってこのトム・ゴードンのその年の活躍と成績は印象深く、寧ろ彼が打ち立てたシーズン46セーヴ、連続43セーヴという驚異的な記録がかのチームをプレイオフまで導いたことの感謝なのかもしれない。後にも先にも実在する人物を題名に冠したのは本書だけなのだから、キングのこの時のトム・ゴードンに対する熱の入れようが解ろうというものだ。 しかし悲しいかな。最後にトリシアが心通じ合うのは一緒に暮らしている母親ではなく、別れた父親の方なのだ。 彼女が父親から貰ったトム・ゴードンのサイン入りのキャップこそが彼女を見事生還させる勇気のアイテムになったからだ。そして2人には野球という、いやレッドソックスという共有言語があるために言葉などいらない通じ合うものがあるのだ。 願わくばこの彼女と父親の魂の交流を機にこの夫婦が寄りを戻してくれればいいのだが。全てを語りがちなキングには珍しく、マクファーランド家の行く末について余韻を残した作品だ。 最後の一行の試合終了の意味が2人の不仲の戦いに対するものでありますようにと願ってこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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ガリレオシリーズ9作目。
4年ぶりにアメリカから帰国した湯川学が最初に手掛ける事件が本書。時は確実に流れており、湯川は准教授から教授に、そして友人の草薙も捜査一家の係長に昇進している。 久々のガリレオシリーズのメンバーが揃った本書で彼らが直面するのは23年前に少女殺害事件の最有力容疑者とされながらも徹底した黙秘権の行使により結局証拠不十分で無罪となった男の実家で3年前に失踪した成人女性の白骨遺体が見つかることで再度最有力容疑者に挙げられるのだが、再び同様の手口で処分保留となった後、殺害される事件だ。つまり周囲に憎まれた男がまんまと殺されるという、犯人側に肩を持ってしまう事件だ。 東野氏は殺害した側を応援したくなるように、読者心情を煽り立てるが如く、被害者である蓮沼寛一という男を唾棄すべき男として描く。 下層労働者として描きながら、暗い表情を湛えたその男は父親が元警察官であり、強引な取り調べで自供を引き出して犯人検挙率を上げて、それを誇らしげに家庭で語っていたことから、父親の権威主義出来な価値観を蔑むとともに反面教師として自供しなければ自分は罪を犯しても有罪とならないと学んだ。従って彼は警察の徹底した取調べにも関わらず、黙秘権を行使し、沈黙とはぐらかして決してボロを出さない。 本当に自分が犯行を行っていなければ無罪を主張するのだが、この蓮沼という男はそれすらもせず、寧ろ自分を犯人にしたかったら、決定的な証拠でも証人でも見つけて来いとばかりに小馬鹿にした態度で臨む。 そして大方の予想通り、酒の席で実に下らない、いや人を人と思わない、玩具か何かのようにしか思わず、最初の殺人も可愛がってやったら噛みついてきたのでお仕置きしたら死んだので埋めただけと子猫に例えて歯牙にもかけない。 つまりはこの蓮沼寛一という男は殺されても当然だ、いや寧ろこのまま生きていてこの世にいることで次の犠牲者が生まれる、殺されるべき人間だとして描く。 そしてその事件に立ち向かう湯川の変化も本書の読みどころだ。それについては後に述べよう。 物語のメインテーマは非常に単純だが、その真相は重層的で複雑である。 さて本書のテーマはタイトルにもあるように沈黙だ。出てくる人物は自分の秘密を守るためにずっと沈黙を続ける。 まずは本書の焦点でもある、二度に亘って殺人事件の最有力容疑者となりながらも無罪となった蓮沼寛一の沈黙だ。 彼は23年前の12歳の少女殺人事件と3年前の女性殺人事件において状況証拠ではあるが、自身と被害者を結び付ける物的証拠が挙げられながらも徹底した黙秘権を行使して無罪と処分保留を勝ち取った男だ。彼は自分の父親が警察官で父が容疑者を自分の脅迫めいた密室の取調べで自供を導き出したことを自慢しているのを幼き頃から苦々しく思っていたが、それを反面教師として逆にどれほど容疑が固まっても沈黙を保てば有罪にならないと確信した男だ。 その蓮沼寛一殺害の一端を担った菊野市の商店街の面々もまた沈黙する。ただ加担した者はもちろんのこと、知らずに協力していた者もまた沈黙する。それは知らないからだけではない。 特に今回のメインイベントである菊野市のパレードの責任者である宮沢書店の女社長宮沢麻耶は町の人々全員がお客様なのでその方たちが不利になるような話をしたくはないので沈黙罪という犯罪がないのなら黙秘権を行使するとまで草薙に面と向かって云う。 そして蓮沼寛一殺害の発端を作った増村栄治は優奈の母親で父親違いの9歳年下の由美子が本橋誠二と結婚する際に犯罪者の自分が花嫁の兄だということを知られないよう、妹とその夫に2人の関係について沈黙するよう懇願する。 そして新倉直紀は妻の留美が並木佐織を殺害したと話したことを隠そうして、佐織の父親の祐太郎が蓮沼から犯行の真相を聞けないように工作して妻の犯行を沈黙を以て隠そうとする。 沈黙は金と云うがそれぞれの沈黙がもたらしたものの中には金に値するものがなかったものもある。 沈黙を守ることは己の罪悪感や喋って楽になりたいという欲望との戦いだ。それに勝てないからこそ、人は沈黙を保てないのだ。 それを保てたのが真の悪人である蓮沼寛一であったことは実に皮肉である。 ところで私はこのシリーズを警察小説として読んでいなく、天才科学者が警察では想像すらできない真相を科学的論証に基づいて犯人へと導く、いわば現代に蘇った東野式ホームズシリーズだと思っていたが、今回では警察捜査の意外な情報が色々と得られる。 例えば高速のNシステムによる捜査記録は証拠として提出しないことになっていること。提出すればNシステムの仕組みや監視場所の詳細を法廷で明かさなければならなくなるから避けるというのが警察庁の方針であること。 指紋を残さないために手袋を着用するが、今では手袋痕を採取して犯行に使われた手袋を特定し、犯人の絞り込みを行うこと、等々。 また実は本書の殺人方法は海外古典ミステリのトリックを応用しており、作中でもその作品について触れられている。 メインの殺害方法の原典であるアガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』とジョン・ディクスン・カーの『ユダの窓』だ。敢えて作者はその作品を触れることで本歌取りであることを示している。 温故知新。それが本書の裏テーマだろう。 本書を読むことでこれら古典ミステリにも触れてほしいと云うのが本音だが、単に不可能的趣味に特化した古典ミステリよりも犯罪に加担したそれぞれの心情をも描いた本書を読んだ後では逆に物足りなさを感じることだろう。 しかし探偵ガリレオこと湯川学もずいぶん変わったものだ。以前は単にすっきりと答えの出る論理的解明や方程式など論理的思考だけに興味があったのに、人そのものに興味を持っている。 本書で彼が関わる定食屋「なみきや」の面々と常に相席となって会話を愉しみ、蓮沼寛一という悪をチームワークで殺害したことに心を傷める。単に悪いことをしたから彼らは裁かれるべきだとして割り切った答えを出さないのだ。 この湯川学の心境の変化は作中でも湯川の言葉を通じて語られる。彼は『容疑者xの献身』で友人の石神が真犯人を庇おうとした献身が自身が真相を暴いたことで水泡に帰したことを悔いていたからだった。 ドラマ『相棒』の杉下右京はどんな理由であれ、罪を犯した者は裁かれなければならないと徹底的な勧善懲悪論に立っているが、湯川は寧ろ殺されるべき人を殺した人々、罪を犯すことで救われる人々がいることを理解し、どうにか救済しようと苦心するのだ。 私は本書を読んだ後、これはもう一つの『さまよう刃』だと思った。娘を犯され、無残に殺された主人公の復讐は結局叶わなかったが、本書ではその無念を晴らすかの如く、復讐が成就する。 殺人は犯罪であり、被害者がどんな者であろうと罪は罪であるというのは真理であるが、それでも殺してやりたいと思うのが人間の心理だ。 真理よりも心理を採った湯川の今後の活躍が非常に愉しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は遅筆で有名な原氏によるエッセイ集。本書は1995年に発刊された著者のエッセイ集をもう1冊のエッセイ集『ハードボイルド』とに分冊したうちの1冊。
まず驚いたのは寡作家である著者が1冊に纏まるほどのエッセイを書いていたことだ。その内容は作者の遍歴と作者の趣味である音楽、とりわけジャズ、映画と小説について語られている。 私は本書を読む前に『それまでの明日』刊行を記念して特集されたミステリマガジンの記事を読んでおり、正直その時が原氏のインタビューやエッセイの初体験だったわけだが、その時抱いたのは私とは相いれない人だなぁという思いだ。 高校生の時にジャズに傾倒し、落第生となりながらもどうにか卒業して福岡の大学に行くがそこでもジャズにのめり込んで卒業後レコード会社に就職するも早速入社式の社長の訓辞が気に入らず、2カ月で辞め、ジャズ・ピアニストになり、それから映画の世界に入り、脚本を書くが1本も採用されず、そして小説を書いた結果、『そして夜は甦る』で鮮烈なデビューを果たし、その後も日本ハードボイルドの大家として現在に至っている。 しかしその経歴と寡作ぶりからも解るように、この作家、かなりの気分屋で、己の規範を崩さない男だ。 そう、彼自身の生き方そのものがハードボイルドに登場する、世の中を斜に構えて見つめる私立探偵そのものと云えるだろう。 さてそんな彼の本質が垣間見えるエッセイには、本書では西日本新聞に1990年7月から9月まで連載されたエッセイ「飛ばない紙ヒコーキ」と佐賀新聞に1990年7月から1991年1月に亘って連載された「観た 聴いた 読んだ」、毎日新聞で1991年1月から3月までの連載「視点」に加え、その他の初収録エッセイや書き下ろしのエッセイ、そして同級生の中村哲氏との対談が収録されている。 とにかく自分本位な男である。 ジャズとの邂逅は兄の影響だが、レコード店でマイルス・デイヴィスのLPを見つけて買わずに毎日通って視聴するふてぶてしさを高校生で既に体得しており、大学生になってますますジャズにのめり込み、大学のジャズ・クラブに所属するがそういう“クラブ活動”でジャズはやるものではないと退部する。そして個人的に外部でジャズを好き勝手にやっているとTV局のプロデューサーから呼ばれて演奏をしたりする。 提出期限ぎりぎりに卒論を仕上げ、期限までに出さなければならないのに時間に余裕があるからといってタバコを吸って休んでいざタクシーを拾って提出しに行こうとすれば満車ばかりで捕まらず、危うく卒業できなくなりそうになる。 ジャズ・ピアニストとなってからは日本列島を飛込みライヴで行脚する。まず中小の都市に着くとめぼしいジャズ喫茶に入ってその場でライヴの交渉をする。報酬について交渉し、1万5千から2万円の収入を得るとまた次の都市に行って同じことをする。 これはまさに今私が夢中になっているジャズ漫画『BLUE GIANT』の宮本大そのものみたいなのだ。 私は福岡生まれで、佐賀の鳥栖生まれで福岡の大学に通っていた作者とは親近感を覚えるが、公立の小・中・高を卒業し、一浪を経て大学に入学し、その後東証一部上場の企業に入社し、サラリーマンとなって現在に至るという堅実かつ典型的な普通の人生を歩んできた私とはかけ離れた綱渡りの人生である。 従って安定主義の私は原氏のような生き方はとても怖くてできなく、またあまりにはっきりと物を云う態度に眉を顰めて理解に苦しむところがあることは正直に告白しよう。 本書で最も驚いたのは中村哲氏との対談だ。 あのアフガニスタンで医療活動のみならず治水工事などインフラ整備にも尽力した日本人医師。そして2019年にアフガニスタンで武装勢力に銃撃され、死去した福岡の誇りだ。 彼と原氏が同級生であったことに驚き、そして両者ともまともに学校に通ってなかったことに驚く。普通の生き方をしていない2人だからこそ相通ずるものがその対談にはあり、これはかなり面白く読めた。 私が思うにはこのような人間こそが傑作を物にする、それも後世に残るほどの作品を書けるのだろうと思った。 普通の生き方では得られない経験と人生訓。そういう知らない世界が描けるからこそ、人々は彼の小説を読み、そして自分の人生ではできない反抗と隠し続けなければならない反骨心を代わりに見せてくれる主人公に共感を覚えるのだろう。 そして原氏そのものがそんな生き方をしているからこそ、彼の作品は輝くのだ。 彼の生活はとにかく自身の内に秘める欲求のままに突き進んでいる。 ジャズが好きだから勉強そっちのけでのめり込む。しかしそれでも中退はせず、高校・大学を―必要最低限の成績であっただろうが―卒業し、ジャズが好きというだけで見様見真似―聴き様聴き真似?―で我流でピアノを習得し、プロのジャズ・ピアニストになる。 そして上にも書いたように大学のジャズ・クラブは肌に合わず、辞めて独自で外部活動することで彼は現在も一線で活躍する日本のジャズプレイヤーと知り合うことになる。 興味深いのは処女作『そして夜は甦る』が生まれるまでの彼の執念とも云える拘りの創作姿勢だ。 映画のシナリオがなかなか映像化されないことから、それらを小説化するために海外のハードボイルド作品、私立探偵小説を読み漁り、そこでレイモンド・チャンドラーこそが自分の理想の文体だと悟り、文章修行をするが自分の理想の文章が出来ないまま、両親が相次いで病気がちになって故郷の鳥栖に戻って看病しながらも小説の習作に取り組む。やがて両親も亡くなり、遺された貯金も使い果たしたにも関わらず、一行も書けないままでいる、その拘りゆえに。 そして絶望の中、中学時代の恩師の「小説家になれ」の言葉を思い出し、習作の山を見返してようやく1行目を書き始め、11か月後に処女作が完成する。安定を求める私にはできないことだし、これほどの拘りと極限状態に陥った彼だからこそ、生まれた傑作だったのだろう。 そして時の人となり、日本ハードボイルドの第一人者となってからも彼は変わらない。 たった2作目で直木賞を受賞する快挙を成したときもインタビューで受賞の喜びはないと答え、受賞に恥じないような作家になるのではなく、賞の方が恥ずかしくなるような作家になってやると嘯く。 地方のテレビ局にコメンテーターとして出演を依頼されれば、「吉野ケ里遺跡だろうが、湾岸戦争だろうが、何の興味もない」と答えるだけだと云って断られる。 福岡に住んでいたのに博多山笠を大の大人がお尻丸出しで走り回って男らしいとは思えぬと歯に衣着せぬ物云いだ。 人間として魅力的かと云われればそうとは思わない。 生き方がでたらめだと思えば確かにそうだろう。 何物にも属さず、そして何者にも媚びず、自分が欲するままに生きる。 しかしだからといって暴力的ではなく、傍若無人でもなく不遜でもないが、頑固ではある。 世界が止めろと云っても、販売禁止指定アイテムになってもずっとタバコは吸うだろう。 そんな男だ。 本当に不器用な男だと思う。 しかし生き方が不器用なだけで音楽と映画と小説を観る目は確かで、その文章は練達の極みだ。 彼の生き方自体がジャズなのだ。生き方自体がアドリブとインプロビゼーションに満ちている。 それをカッコいいというには私は年を取りすぎた。寧ろ危うさが先に立つ。 こんな男がハードボイルドの第一人者だというのが悔しすぎる。 認めたくないが、認めざるを得ない。 そんな男なのだ、原尞という男は。 |
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前作『寒い国から帰ってきたスパイ』は世界的ベストセラーとなり、それがきっかけでル・カレは専業作家となった。その第1作が本書である。
さて前作は何がそれまでのスパイ小説と異なっていたかといえば、それまでイアン・フレミングが創造したジェームズ・ボンドのような超人的な能力を持つ万能型スーパーヒーローとして描かれていたスパイを一介の組織に雇われた人間として描き、その隠密任務ゆえに常に孤独と忍耐を強いられる辛い境遇の人間であること、そして個人よりも組織、いや国家の利益を優先するがゆえに決して彼らの命は保障されないこと、いや寧ろその存在自体もないものとして使い捨てのコマのように扱われている事。さらには一般人には到底理解できない原理原則論に基づいて生殺与奪がなされることをまざまざと思い知らされたことがあげられる。 そして本書はさらにそれが色濃く描かれている。潜入工作員をスカウトし、そして育てる一部始終が色濃く綴られる。但し、前作と異なるのが諜報部(サーカス)と呼ばれる英国情報部ではなく、ルクラーク・カンパニーというルクラークという人物が率いる陸軍部内の諜報機関である。このルクラークはちなみにジョージ・スマイリーとは知己の間柄である。 さて本書では3人の潜行員の様子が語られる。 最初の潜行員ウィルフ・テイラーは今回の物語の発端となる、東ドイツの一角にあるとの情報が入ったソヴィエト軍のミサイル基地を上空から収めた写真のフィルムを、英国情報部の息の掛かったフィンランドの航空会社のパイロットから受け取って帰国するだけの任務だった。彼は空港でフィルムを受け取るが、ホテルへの帰路に車に撥ねられて亡くなってしまう。 2番目の潜行員ジョン・エイヴリーはその亡くなったテイラーの身柄と彼が受け取ったフィルムの受け取りに彼の弟という身分でフィンランドに入国する。しかし彼はマグビーと名乗っていたテイラーが本名を記した運転免許証や服を持っていたことで疑いを掛けられ、魂の冷える思いをする。一応命じられた任務のうち、テイラーの遺体の英国への移送は果たすが、フィルムについては受け取ることが叶わず帰国の途に就く。 まだ32歳と若い彼は自国に利益と平和をもたらす諜報機関という仕事に誇りと意欲を持っていたが、この初めての潜行任務で拘束されるかもしれない恐怖と周囲のフィンランド国民全員が自分をスパイであると見破っているかのような疑心暗鬼を陥り、自分の仕事に自信が持てなくなる。 そして最後の潜行員ライザー。彼はかつて20年前に陸軍に所属していたの青年兵士でポーランド人である。 ルクラーク・カンパニーの一員であるアドリアン・ホールデンが過去のファイルから見つけた強い意志を感じさせる目を持った風貌の写真から彼はライザーを今回の潜行員に選ぶ。 面白いのはこの三人の任務での待遇が異なることだ。 例えばテイラーは古参の部員であり、今回初めて潜行員に選ばれた男だが、彼にとって海外での任務とはそれまではマドリッドでどんちゃん騒ぎをし、トルコにも再三行った、いわば“美味しい出張”を体験してきた身だ。しかし単にパイロットからフィルムを受け取って帰国する任務で彼は車に轢かれて亡くなってしまう。 エイヴリーは部のボスであるルクラークを信奉し、彼の地位を押し上げるのに貢献したい、そのためには初の潜行任務を成功させなければならないと決意する、極めて真面目な部員である。 しかし彼は国の機密任務を話せない妻の不満を買い、そして初めての潜行任務で危うい橋を渡ったことで自分にこの仕事が合っているのかと疑問を覚えるようになる。特にフィンランドで孤独な夜を過ごしたことで自分には似合わない、荷が重すぎると感じる。 そして最後のライザーは退役した後、修理工場で働いていたが、かつての上司であったホールデンの訪問を受け、潜行員の任務を受けることにする。しかし元々兵士だった彼は今回要求される基地の情報を送るモールス信号に不慣れで、無線技術の専門家ジャック・ジョンソンの指導を受けながら訓練するが、何度も根を上げ、悪態をつく。 この3人を通じて諜報活動が私生活に及ぼす影響についてもル・カレは描く。 潜行先で亡くなったテイラーの妻と娘は政府からの援助も受けられるか解らない状況で明日を生きていかなければならなくなる。 エイヴリーは自分の仕事のことを妻に打ち明けることが出来ず、妻はそれが何も知らないまま、一人息子の子育て夫が帰ってこない家を守る日々に疲弊して離婚を切り出す。 そして独身のライザーは訓練の最中にロンドンで自由時間をもらうが女を買うことはできず、孤独な夜を過ごすだけだ。唯一彼は訓練に連れ添うエイヴリーに心を開いていく。そして彼は最後の最後で拠り所を見つける。 さらにスパイの心得や取るべき行動なども微に入り細を穿って記述する。 例えば初めて潜入任務を行うエイヴリーに対し、スマイリーはフィルムのサイズから質問し、泊まるホテルについて自分の一押しを勧め、ホテル内のレイアウトや贈る花束の花の本数や花の値段、時計をホテルの時刻に合わせること、タクシー代は渋らず、正規料金を払うこと、フィルムを受け取ったらポケットに入れて、カバンに入れてはならないこと、特にスーツケースは周囲の目を引くので危険云々。 このように細かい指令も含めてまさに一挙手一投足、指示通りに行うことを強いられるが、その3人の潜行員の任務を通じて知らされるのはどれほど綿密に計画を立てても、全くそのようにはスパイ活動は進行しないということだ。 常に変化し、また想定外の事態が起きる。それは事前の調査不足であったり、万に一つの最悪の事態に遭遇したり、もしくは協力者の感情の揺れによって余計な言動がなされ、そこから周囲の注目を浴びたりもする。 しかし何よりも潜行員自身が被る多大なプレッシャーによる焦りと緊張が生むミスによるところが大きい。 そして本書でもジョージ・スマイリーが登場する。物語の通奏低音のように彼は腕利きの諜報員としてその名を轟かせる。 彼こそは諜報に不慣れなルクラークたちに本当の諜報活動というものを教えるために来た、英国諜報部の原理原則そのものなのだ。 しかしよくよく考えると物語の発端は東ドイツにソヴィエトのミサイル基地が建設されているという情報を得て、それを探るためのスパイを潜入させよという内容。つまり本書ではアメリカが体験したキューバ危機をイギリスに準えたもので、本来ならばその事実が判明し、そこから国防のためにミサイル基地の殲滅を計画し、遂行するという流れになるのだが、本書はそこまで物語は続かない。 あくまで基調としては前作の流れを汲む、一介のスパイの悲劇を描いた物語なのだ。 つまり本当の諜報活動を熟知しているル・カレにとって基地の殲滅という行為は国際問題に発展する、いわば戦争であり、そんな戯画的なアクションは現実的ではないとして描かないのだろう。描くとすればあくまで国際間の政治家たちの駆け引きを描いて道筋をつける方向に進むことになるだろう。 しかし物語がシンプルなのに対して、細部に力を入れ過ぎたためにバランスの悪い作品になったことは否めない。特にメインの潜行員フレッド・ライザーの章は約250ページと420ページ強の本書でも大半を費やされているが、彼が実際に東ドイツに潜行するのは160ページ以上費やしてからだ。 つまりそれまではほとんど訓練シーンにページが割かれているのだ。 それはひょんなことから潜行員に選ばれた男の訓練の苦しみと任務の想像を絶する緊張感と国益優先のためにはリスクを排除するために命を切り捨てることさえ厭わない諜報の世界の非情さを対比させるには充分であったが、動きが少なく、地味すぎた。 しかし『寒い国から帰ってきたスパイ』と本書に共通するのは孤独なスパイの心の拠り所は女性ということか。 スパイがスーパーヒーローでもなく我々と同じ普通の人間、誰かの愛を欲する人間と変わらぬことを本書は前作でのメッセージを更に推し進めたように感じた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は妻を突然死で亡くしたベストセラー作家マイクル・ヌーナンが主人公の物語なのだが、その内容は実に流動的だ。
本書の大筋は妻を亡くしたことでライターズ・ブロックになった、つまり書けなくなった作家マイクル・ヌーナンが悶々とする日々を送る中、毎夜夢に登場するTRという正式名称もない町で買ったダークスコア湖の湖畔に建つ別荘へしばらく滞在し、そこで幽霊や生前の妻が取っていた奇妙な行動に出くわすという話だ。 しかしそれに加え、別荘のある町TRで彼は若き未亡人マッティー・デヴォアと知り合いになり、彼女が自分の娘の監護権を巡って争っている隠居したコンピュータ産業王マックス・デヴォアとの裁判に一役買うことになり、それが原因で彼は嫌がらせを受けることになる。 一方でマイクルは亡き妻ジョアンナが自分には内緒で死ぬ数年前にTRを何度か訪れ、調べ物をしていたことを知らされる。しかも彼以外の男性と親しく談笑していたこともマッティーの話で知るのだ。 ジョアンナの生前の不審な行動に心騒めかせられながらも、マッティーの娘を巡る監護権の争いは例え大富豪といえども老い先短い相手よりも立場は優位なため、裁判の結果は火を見るよりも明らかだったが、なんとその車椅子に乗った老人マックス・デヴォアからマイクルは執拗な攻撃を受けるのだ。 なんと湖の近くでマックスと出くわしたマイクルは彼に突き飛ばされて湖に落ち、そして彼の付き添いの秘書ロゲット・ホイットモアの投石で湖から上がることが出来ず、パニックに陥って死にそうになるのだ。 いやあ、この老いてなお自分の思い通りにならないと気が済まない欲望の権化マックス・デヴォアの醜悪さはキング作品でも一、二を争う悪役だ。 この執念深さに監護権争いの勝利目前にしてマイクルは絶望感を抱くのだが、突然それは好転する。マックスがいきなり自殺するからだ。 しかしこれもまだ続く悲劇の序章に過ぎないことがクライマックスで判明する。それについては後に述べよう。 ところで今回作家を主人公にしているせいか、ジョージ・スタークのような虚構のみならず実在する作家の名前が頻出するのもまた一興だ。 それら実在する作家を例に出しながら小説家であることの意義やメリットについても作家であるマイクル・ヌーナンの独白の形で語られる。 例えばミュージシャンは途轍もないヒットを生み出す代わりに飽きられると消えてなくなるが、作家は年を取っても新作を書き、またベストセラーを出せると説く。アーサー・ヘイリーやトマス・ハリスが『ハンニバル』を出してベストセラーになったことを引き合いに出し、ミュージシャンの例ではヴァニラ・アイスが挙がっているのは傑作だった。 また出せば50万部、100万部の売り上げが約束される作家は1年に1冊は出すことが求められ、愛好者の多いシリーズキャラクターを持つ―キンジー・ミルホーンやケイ・スカーペッタが例に上げられている―と家族と再会したような効果があるので奨励されるなど。 一方あまり出し過ぎると読者はつまらなく感じたりもするとも書かれている。 また日本では年末のランキングを意識して秋に小説の刊行が活発になるが、アメリカでも秋や新年に出版ラッシュがあるようで、本書でもクーンツが例年1月に新作を出すとかそれぞれの作家が出す作品がどのような類のもので、例えばケン・フォレットは過去の傑作『針の眼』に匹敵する新作を出すと云った情報交換がなされること、更には自分と同じ作風やジャンルの作家と出版時期が被ることでニーズを食いつぶすので避けることなど動向を気にしている様が語られる。 ところで実在する作家名と云えば、キング作品ではジョン・D・マクドナルドがやたらと登場する。今回もマイクル・ヌーナンが〈セーラ・ラフス〉での別荘生活を始めるにあたり、ジョン・D・マクドナルドの小説を23冊も持ってきたと述べる。 この作家、かつては日本でも訳出されていたがかなり以前からそれは途絶えていた。しかし本国アメリカでは評価が高く、作家の中にもファンが多い。 これほどまでにキングに取り上げられるだけにヘレン・マクロイなどのように日本でも再燃しないだろうか。東京創元社あたりが訳出してくれるといいのだが。 マックス・デヴォアの自殺でマッティーとの間の障壁が無くなったマイクルはマッティーへの思いを強める。 一方で彼女の監護権を争う弁護を請け負ったジョン・ストロウもまた彼女の魅力にほだされ、裁判が終了した暁には彼女へ交際を申し込もうと決断する。 それほどまでに会う男性が魅了されるマッティーだが、彼女が選んだのはマイクル・ヌーナンで、彼女はもう何も気にするものはないとマイクルに猛烈にアプローチを掛ける。なんと公然とキスを交わし、夜になって娘のカイラが寝た時間になったら会いに来て、抱いてと家の鍵を隠している場所まで教える。 まさに相思相愛で双方同意の下で熱い愛を交わせる間柄になったのだが、その夜マイクルは彼女の許を訪れず、代わりに奇妙な夢を見る。それはセーラ・ティドウェルがまだ存命で、町の老人たちが若かりし頃の時代に舞い戻りながらも、なぜか現代的な服装を着ている―ちなみにセーラが着ているのはマッティーがいつも着ている服なのだ―、夢ならではの不条理感に満ちた世界の中でなんとマイクルはマッティーの娘カイラと遭遇し、危機や楽しい時間を共有する。 そのことでマイクルはマッティーよりも幼い娘カイラに深い絆を感じるのだ。 これは自分と照らし合わせてすごく腑に落ちる思いだ。 夢で出逢う人は途轍もなく深い愛情を感じるのだ。 いや寧ろ夢で逢うことで自分がそれまで気付かなかった想いに気付かされるのだ。潜在的に行為を抱いていたこと、いや愛情を抱いていたことに。二度それを私は経験したことがあるのだが、その時の想いはいまだに色褪せない。 一方で彼は亡き妻ジョアンナへの想いも絶やさない。従って彼に知らせずに彼女が単独でTRに訪れ、しかも自分ではない年配の男性に腰に手を回されても嫌な顔をせず、寧ろこの上なく親しげに談笑する姿を見かけられた話を聞かされて穏やかではない。 しかしそのジョアンナの謎の行動は決して夫マイクルに対する裏切りではないことが判明する。 その男とはジョアンナの実の兄フランクだったのだ。その事実を知ることでマイクルは安堵と共にジョアンナへの愛情を再認識するのだ。 このようにキングは不安と安堵といった心の振幅を操作するのが実に上手い。そしてそれにも増して幸福と悲劇の振り幅が実に大きいのだ。 この上下巻1,180ページ強で語られる〈セーラ・ラフス〉とその別荘のあるTRを取り巻く不穏な空気、かつてそこに住んでいた今は亡き黒人女性シンガー、セーラ・ティドウェルと彼女の周囲の人間たちが幽霊として存在を仄めかしながら復活へと向かう雰囲気、そして主人公マイクル・ヌーナンが一目惚れした未亡人マッティー・デヴォアと彼女を疎外する大富豪マックス・デヴォアの脅威がひしひしと迫りくる不穏さをじっくりと700ページ以上に亘って描きながら、一気にマックス・デヴォアの自殺によって好転するのは前に述べた通り。 そして監護権はおろか、なんと8千万ドルもの遺産を条件付きで相続するというどん底からのV字回復を見せる。 そこからマイクル・ヌーナンとデヴォアとの監護権を巡る戦いに関与した弁護士ジョン・ストロウ、ロミオ・ビッソネットと彼の相棒の探偵のジョージ・ケネディを加えた4人で祝賀会をマッティーの家で挙げるのだが、そのシーンは本書でも幸福感が溢れたシーンでもある。 そしてそこからの悲劇。まさに天国から地獄へと突き落とされる途轍もない落差を見せるのだ。 これがクライマックスへ反転する悲劇なのだが、これは『ペット・セマタリー』(傑作!)でもあった展開だ。 最上の幸せからの悲劇への反転。これがキング流の揺さぶり方なのだ。 そしてマッティーが見せる死に行く母親が見せる母性の強さは短編「マンハッタンの奇譚クラブ」で見せたシングルマザー、サンドラ・スタンフィールドの深い愛を感じさせる。 さて本書のメインプロットはシンプルに云えば不当に虐げられて殺害された、浮かばれない亡霊の復讐譚であるのだが、その背景にあるのはいわば記録に残らない、だがそのことを知る住民によって語り継がれる街の黒歴史の物語であることだ。 主人公マイクル・ヌーナンが所有する<セーラ・ラフス>のある正式な名もない、TRと呼ばれるその町にはかつて名を馳せ、今なお彼女によって歌われた歌が現役歌手によってカバーされる黒人歌手セーラ・ティドウェルが住んでいた。 そう、マイクルの所有する別荘〈セーラ・ラフス〉こそ彼女が住んでいた家であり、その名の由来は彼女がかつて全米を魅了した特徴ある、顔を大きくのけぞらせて、髪の毛を腰のあたりにまで垂らしながら底抜けに明るい大きな笑い声をあげる魅力的な笑顔に由来している―なお作中でマイクルがこの名前をホール&オーツが歌っていたバラードの曲名みたいな名前だと述べるが、それは即ち“サラ・スマイル”のことだろう―。 しかし全米をその笑顔で魅了した有名人であった彼女でさえ、アメリカ社会に深く根差している黒人差別からは逃れられなかった。 この21世紀も20年が過ぎた今なお社会問題となって国中を、いや全世界を巻き込んだブラック・ライヴズ・マターが本書でも実に目を覆いたくなるような悲惨さで語られるのだ。 この差別の問題の根深さを思い知らされると共に、20年以上経っても変わらないアメリカの教育や意識変化の無さに憤りと共に呆れてしまった。 そしてもう1つ、町の黒歴史として忘れてはならないのが本書で初めてキングが創造した架空の町キャッスルロックの歴史も披露される。しかもそれは町が公式に編んだ町史という形でなく、在野の好事家マリー・ヒンガーマンという女性の自主出版書である。つまりこれもまた非公認のいわば黒歴史なのだ。 それは世紀の変わり目ごろに40人もの黒人が住み着き、その連中がセーラ・ティドウェルとレッドトップ・ボーイズというミュージシャン集団の一員で彼らが土地を買い入れ、住み始めたこと、そして当初有色人種が乗り込むことで反対運動が起きるが、それも沈静化し彼女とその仲間たちは迎い入れられたが、いつしかこの地を後にした。その判明していなかった黒人たちの撤収の本当の理由がセーラ・ティドウェルの悲劇であったのだ。 また本書で語られる差別はそれだけではない。マイクルが出会った実に魅力的なシングルマザー、マッティー・デヴォアに対する周囲の蔑みもそうだ。 シングルマザーへの侮蔑、そして有力な高額納税者の意に沿わないことで受ける閉鎖的な村社会特有の村八分状態。これらもまた差別の一種だ。 そして最後母親を喪ったカイラを引き取ることを決意したマイクル・ヌーナンだったが、弁護士ジョン・ストロウ曰く、それも時間が掛かると云われる。独身の男が女の子の親候補の場合、性虐待の恐れがあるという理由で。これもまた性差別である。 さてキングと云えば他作品とのリンクだが、本書も例外ではない。 本書の舞台はキングが創った架空の町デリー。そして『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックもまた登場する。それだけではなく、他作品の登場人物もまた登場する。 『ダーク・ハーフ』の主人公サド・ボーモントはその作品のクライマックスで彼のダーク・ハーフ、ジョージ・スタークと共同で書いていた『鋼鉄のマシーン』を出版したとき、本書の主人公マイクル・ヌーナンが2作目の『赤いシャツを着た男』を書いたころであり、そのサド・ボーモントも既に鬼籍に入ったと書かれている。そして『不眠症』で主人公を務めた老人ラルフ・ロバーツも登場する。 そして最後事件の収拾に来たのはキャッスルロックで保安官助手をしていたリッジウィック保安官だ。そして彼から前保安官アラン・バングボーンはニューハンプシャーに移ったことが判明する。 また<セーラ・ラフス>のあるダークスコア湖は『ジェラルドのゲーム』の舞台でもある。 ところで本書の舞台TRの生き字引ロイス・メリルは、メリル姓から「スタンド・バイ・ミー」の最悪の不良エース・メリルの血縁であると思われる。 この何とも不思議な題名、骨の袋。それはトマス・ハーディの言葉に由来している。 それはどんなに精彩豊かに描かれた人物であっても、所詮小説の中の人物は実在するくだらない人間には到底及ばない骨の袋に過ぎないという自己否定とも謙遜とも取れる言葉から来ている。つまりは小説内人物はどんなに魅力的であっても血肉を持つ実在する人間の存在感には到底敵わないと述べているようだ。 しかし物語が進むにつれて本当に骨の袋が登場する。それは〈セーラ・ラフス〉に取り憑くセーラ・ティドウェルとその息子キートの白骨化した亡骸を入れた骨の袋だ。これこそがセーラの怨霊の素であった。 スティーヴン・キングはまだ筆を折らない。世紀を超え、今なお精力的な創作活動を続けている。 ここで私は思うのはマイクル・ヌーナンはリチャード・バックマンに代わるキングの作家人生における人身御供だったのではないかと。キングも数々の作品を紡ぐにあたり、作家としては虚しさを覚えるこのトマス・ハーディの言葉は痛烈に響き、そして考えさせられたのではないだろうか。 しかし彼の頭の中にはマイクル・ヌーナンが述べていたようにまだまだ頭の中に始終聞こえてくる色々な声があり、湧き出るアイデアがあるのだ。このトマス・ハーディの言葉でさえ、題材と扱うほどに。 正直本書は数あるキング作品の中でも特段評価の高い本ではなく、キングと云えばコレ!というような作品ではない。 しかしキングの創作に対する考えやブラック・ライヴズ・マターや妻を亡くした男が目の前に掴めた幸せを奪われた哀しい作品として妙に印象に残ってしまうのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作最終作。
田中氏のシリーズ物は完結に数十年費やすことがざらなのだが、幸いにしてこのシリーズについては僅か10年で完結することになった。しかし3部作であっても10年も掛かるのが田中氏である。 さて1作目では月蝕島というスコットランド沖の孤島、2作目ではイギリス北部のノーサンバランドにある髑髏城と国外に出ないまでも日帰りするには遠く、その地に行くまでもが冒険となる場所であったのに対し、今回の舞台水晶宮は元々ロンドンのハイドパーク南にあったがロンドン東南郊外のシドナムに移築された建築物である。 そう、最終作の舞台はロンドンに住むニーダムとメープルたちが日帰りできる安近短な冒険舞台なのである。 それだけではなく、1作目の月蝕島、2作目の髑髏城が作者の創作であったのに対し、今回の舞台、水晶宮はかつて実在した建物である。この実在した建物の地下に広大な遺跡が存在し、そこを根城にする死神と名乗る仮面の男が今回の敵だ。 この<死神(デス)>と自らを名乗る仮面の男の正体はヴァネヴァー・ダグラス・コンプトンバーグという自身をメトセラの子孫だと名乗る67歳の医師だが、その容姿は都市不相応の若い美男子であり、バラクラーヴァの激戦を生き抜いた31歳のニーダムを凌駕する膂力を誇る。ちなみにメトセラとは旧約聖書に登場する有名な「ノアの箱舟」のノアの祖父で969年間生きたと云われている人物だ。 このコンプトンバーグは水晶宮の古代遺跡に遺された古書を参考にニワトリヘビや赤帽子(レッド・キャップ)といった怪物たちを生み出すマッドサイエンティストで、ニーダムとメイプル、ウィッチャー警部、そしてディケンズらはこれらの怪物たちとの戦いを余儀なくされるのだ。ちなみにニワトリヘビとはその名の通り、頭がニワトリの大蛇で捜索に来た警官隊たちを丸呑みにする。また赤帽子は血で赤く染めた帽子を被った妖精でこれもまた人を襲うのだ。 さてこれまでのシリーズでは19世紀に実在した人物たちが大いに物語に絡み、それら偉人たちの伝記では書かれていない蘊蓄が読みどころであったが本書でもチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンが登場する。と云われてもピンとこないだろうが、実はこれは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名なのだ。今回登場時はまだ同作を発表していない時期で売れてない作家の1人である。 彼が世界で最も早い時期のアマチュア写真家の1人であったこと、12歳以上の女性が嫌いな性格―女性恐怖症なのか、幼児性愛者なのかははっきりとしない―であることなど意外な情報が明かされる。 個人的には1,2作に登場したウィルキー・コリンズがいよいよ満を持してニーダムとメープルの冒険に参加するのかと思ったら、最終作の本書ではその影さえもなかった。その不足を補うかのように今回はディケンズが参加し、ステッキを用いて登場する怪物たちとの立ち回りを演じる。 蘊蓄といえば歴史好きの田中氏の趣味が横溢しているのも特徴で、例えば15世紀にはスコットランドの南西部、ギャロウェイ地方で25年に亘って旅人を襲っては食べていたソニー・ビーン一族という食人族がいたこと、昔、墓泥棒が盛んだったのは医学の発展のために死体解剖をするために医者がなかなか手に入らない死体を欲したから、等々。いわば教科書では習わないイギリスの闇歴史が語られ、それがまた実に当時のイギリスの風習や風俗を偲ばされ、不謹慎ながらこのシリーズを愉しみにしている一面である。 これまでのこのシリーズではあまり耳にしたことのない怪物が出てくるが、本書に登場する赤帽子は調べてみればよく見る醜悪な妖精で、ニワトリヘビはコカトリスを彷彿とさせる。ただ睨まれても石にはならないが。 最終巻である本書で気付かされたが、これら3部作が全て1857年にニーダムたちが経験した冒険であることだ。つまりある意味この年は彼とメープルの人生のターニングポイントであったと思える。 本書に登場する若干13歳の天才少年ジェームズ・モリアーティが今回最大のゲストだ。そうもちろんこの人物こそ後のシャーロック・ホームズのライバル、モリアーティ教授である。彼がライヘンバッハの滝に落ちて行方不明となったところまで語られるが、それが「最後の事件」のようにシャーロック・ホームズと共に落ちたことまでは語られない。ひたすら彼の天才性とその早すぎる死を惜しむニーダムとメープルの姿が語られるのみ。 作中の中での彼は物事を俯瞰してシニカルに見るひねたガキだが、メープルの言葉にのみ従うところを見ると少し年上の女性にほのかな恋心を抱くところを見せて、それまでにないモリアーティ像を描いている。 作者の田中氏がなぜ1857年という年を選んだのかも定かではない。歴史を繙くと有名な事件ではセポイの乱があったりアメリカで世界恐慌が起きたりしているが、本シリーズにはあまり関与はしなかった。 とにもかくにも作者はヴィクトリア朝時代を舞台にその時代を生きた偉人や著名人たちを自らの筆で描きたかったのだろう。歴史や風俗、そしてその時代に生きた人々の意外な側面が見れて個人的には楽しかった。 作者ももう御年72歳。 最近永らく中断していたシリーズに決着をつけているのは人生の後片付けをしているかのようだが、年上のスティーヴン・キングがまだまだ健筆を奮っているのだから、まだまだ衰えず、読者の留飲を下げるかつての田中氏の躍動感ある物語をこれからも紡いでほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズというよりももはやボッシュ&バラードシリーズとなったシリーズ2作目ではミッキー・ハラーも絡んで、正しく書くならばボッシュ、ハラー&バラードシリーズ1作目となるか。
まあそんな細かい話はこれくらいにして、感想に移ろう。 まず今回のボッシュの立場は刑事ではない。 前作『素晴らしき世界』で彼が予備警察官として雇われていたサンフェルナンド市警の同僚の自殺未遂を引き起こした廉で自宅待機状態である。従って一応予備警察官の職ではあるが、本質的には無職の男である。そんな立場でもボッシュは今回複数の事件に関わる。 1つは物語の発端となったボッシュに捜査のノウハウを教えた師ジョー・ジャック・トンプスンが生前遺しておいた未解決事件。ジョン・ヒルトンというゲイの青年が路地に停めた車中で撃ち殺されていた1990年に起きた事件だ。 もう1つはミッキー・ハラーが容疑者の弁護を担当したモンゴメリー判事殺害事件。そして最後の1つはバラードが深夜勤務で出くわしたホームレスの焼死事件だ。 3つの事件がそれぞれボッシュ、ハラー、バラードとそれぞれの事件であることが面白い。 そしてそれぞれの事件にも様々な特色がある。 まず1つ目のボッシュの師が遺した事件だが、この事件の再捜査をボッシュはバラードに協力を求める。 バラードは未解決事件のセオリーに則って当該事件の資料が収められた箱を開けると当時事件を担当した刑事2人はあまり積極的に捜査したようには見えず、更に最も奇妙なことにファイルのコピーを持ち出したジョー・ジャック・トンプスン自身が資料箱を開封した記録が全く残っていないことだった。 本当にボッシュの師はこの未解決事件に関心を持っていたのだろうか? そもそもなぜ彼はこの未解決事件のファイルを持ち出したのだろうか? 2つ目の事件に関わる経緯もまた特殊だ。 まずボッシュはこの事件の容疑者の弁護を担当したハラーの調査員として関わる。最近はハラーも殺人事件の弁護を引き受けることは少なくなっていたが、この弁護は裁判を担当するポール・ファルコーネから担当するよう強制されたのだった。 この裁判は本人の自白もあり、DNAも遺体から発見されたことから絶対的な犯人と目されており、容疑者ジェフリー・ハーシュタットの有罪は時間の問題と思われたが、その容疑をボッシュ自身がハラーの調査員として合理的解決に至らない証拠を見つけることで起訴が無効になる。 その裁判を無効にしたのがオキシメーターなのだ。このオキシメーターは実は頻繁に我々は目にしている。この器具は指先に嵌めて血中の酸素濃度を測定する道具である。そう、現在コロナ感染者で中等症と判断された患者が自宅療養中に経過観察するために用いられている測定器具なのだ。 このオキシメーターを殺害されたモンゴメリーの容態を調べるために駆け付けた救急救命士が使用したのだが、その直前に〈スターバックス〉で昏倒したハーシュタットにも使用していたことから彼のDNAがモンゴメリーに移ったとみなされ、証拠不十分として裁判が無効になるのだ。 いやあ、なんということだ。判事殺害事件調書に何気なく記載されていた救急救命士がその容疑者となった人物に対しても用いられていたことを結び付ける着眼の凄さ、そして何よりもコロナ禍だからこそ容易に理解できたオキシメーターという普段馴染みのない道具がすっと腑に落ちてくるタイミングに驚きを禁じ得ない。 またも本に呼ばれたという思いを抱いた。 これがミッキー・ハラーシリーズならばここで話は終わりだ。 しかしボッシュがここに関われば、その先に続く。彼がハラーの調査員として関わり、無効裁判となって閉廷する。つまり依頼人が犯罪者でない可能性が出たことから彼はまんまと司法の手を逃れ、世間を闊歩している悪を野放しにすることを許さず、真犯人の捜査に当たる。 そして3つ目の事件はナイロン製のテントと共に放火されたホームレスの事件で、ロス消防局の放火事件専門消防士と張り合うように捜査をしなければならないことから自分の手から離れるだろうと思われたが、被害者が資産家の放蕩息子エディスン・バンクス・ジュニアであったこと、更に酒酔い運転の4倍近い血中アルコール濃度が出たことが判明し、しかも一旦遺産を相続してから殺害され、その遺産が弟に相続権が移ったことから計画的な犯行である疑いが出てきたことを知らされる。そのため事件が強盗殺人課の担当、しかも宿敵オリバス警部へと移ったことが判ってから、彼女はどうにか食いつこうと水面下で独自に捜査を進める。そして彼女はホームレスたちの聴き込みから事件当夜エディスンがティトーズというウォッカを持っていたことを知り、深夜営業の店〈メイコーズ〉で買ったのではないかと教えられ、そこで監視カメラを確認すると1人の女性がATMで金を下ろしてからティトーズを買っていくのを見つける。 そこから捜査を続けて判明するのがなんとボッシュが調べていたモンゴメリー殺害事件との奇妙な繋がりだった。 さて前作『素晴らしき世界』で出遭い、コンビを組むようになったレネイ・バラードとハリー・ボッシュだが、まだお互いのことはそれほど知らず、今回初めてバラードはボッシュがミッキー・ハラーの調査員を務めていることを知って嫌悪感を示す。 そう、ミッキー・ハラーは今まで自分たちが捕まえてきた犯罪者を無罪にする、もしくは裁判自体を無効にする警察官にとって唾棄すべき敵だとみなされており、レネイ・バラードもまた例外でないことが判明するのだ。 ボッシュはハラーのことを弁護するが、彼女に彼が異母弟であることを明かさないところにまだ自分の中でもハラーの手伝いをすることが仲間である警察官を裏切っている思いが拭えないことが判る。 しかしその正しいことをしようとしても、ハラーの片棒を担ぎ、裁判を無効にしたハリーをロス市警の連中を許すわけがなく、電話をしても激しく突き放される。ロス市警時代に数々の功績を挙げたボッシュでさえ、尊敬を得られず、過去の人物として非難される姿は読んでて胸を痛める。 ではレネイ・バラードはどうか? 彼女はボッシュとは対照的である。前作でもそうだったが、今回事件のクライマックスで女殺し屋のカタリナ・カバと対決した際に瀕死の重傷を負うが、なんと彼女のために30人以上の警官が献血のために訪れたことが明かされる。そう、彼女には味方となる同僚がたくさんいるのだ。 ただ彼女も今回ボッシュの未解決事件の捜査のための盗聴許可を得るために不当にオリバス警部からサインを得て判事を騙して許可を得たり、ほとんど一般市民と変わらないボッシュを停職中の予備警察官なのだから刑事と名乗って構わないと捜査に介入させたりとボッシュに感化されたのか道を踏み外す傾向が見られた。信用を失わない程度にしてほしいとヒヤヒヤさせられる。 しかしやはりボッシュの前からは人は去りゆき、バラードの周りには人が集まるのだ。この対照的な光と影の、陰と陽の2人の刑事の対比がまた読みどころの一つなのだが、せめてバラードだけはボッシュの許を去らないでいてほしいものだ。 そのボッシュも齢70近くになったことが判明するが、作者はそれでもこの男に新たな危難を設ける。なんとボッシュは白血病に罹ったことが発覚するのだ。それは彼が過去に関わった殺人事件で大量のセシウムが奪われた案件で彼がそれを回収したときに被曝したことに由来すると考えられていた。 そう、その事件こそは『死角 オーバールック』で彼が扱った事件だった。2007年の時に刊行された作品の事件がこの2019年に著された作品に影響を及ぼす。 これなのだ。 これがシリーズを、いやマイクル・コナリー作品を読む所以なのだ。 それはシリーズを永らく読んできた読者だけが得られる単なる特権意識なんかではない。それはこのシリーズを共に歩んできたからこそ得られる愉悦なのだ。 そう、我々がボッシュの歩んできた半生を共に体験していることを実感させられるこの瞬間こそが読者としての報いであり、そして何事にも代えがたい黄金なのだ。 さて本書のタイトル『鬼火』は原題“The Night Fire”をそのまま訳したものだ。ファンタジー好きにはその言葉がウィル・オー・ウィスプといえば理解が増すかもしれない。それは夜に現れ、道行く人を道に迷わせたり、底なし沼に誘い込んだりすると云われている。従ってこの言葉には「惑わすもの」や「幻影」という意味もある。 今回その言葉そのままの意味で云えばボッシュとバラードが関わる3つの事件のうち、バラードが冒頭に出くわすホームレスの焼死事件がそれに当たるだろう。焼かれて溶けたナイロン製のテントが張り付いて亡くなった焼死体。 そして幻影という意味で云えばボッシュが自分に捜査のノウハウを教えた師が遺した未解決事件の真相によって悟らされる師の像がそれに当たるだろう。 そしてボッシュは事件の真相を知ることで師の本当の目的に気付き、それまで抱いていた師への尊敬が幻影だったと思わされる。 そして3つ目の事件は自白とDNAという揺るがぬ証拠があるが故に真犯人を「惑わされた」モンゴメリー判事殺害事件。これに関してはネタバレになるので敢えて書かないでおこう。 さてボッシュと娘マディの関係だが、女子大学で娘の進路に気を持たせているようだ。これまでの作品でボッシュはマディに射撃を教えたり、警察の捜査のことを話したり、恰もボッシュの後継者として育てている雰囲気があり、シリーズの行く末は親子刑事の誕生かと思っていたが、レネイ・バラードの登場でその流れも変わりつつある。マディの進路も警察官か弁護士かで迷っており、そして弁護士の方に傾いているようだ。つまりボッシュかハラーかと云えば、ハラー側に分があるようだ。 ボッシュは現在無職の身であることからもし彼女がロウ・スクールに行くことになった場合の教育費としてもまた過去の捜査によって自身が被曝したとしてロス市警と放射性物質の管理の杜撰さを指摘して病院を訴え、賠償金を得ようとしている。刑事でなくなったボッシュも必死である。 巻末の作品リストを見ればまだまだボッシュの物語は続くようだ。刑事でなくなったボッシュは悪をのさばらせさせないというその強い思いで犯罪者の摘発にまだまだ食らいついていくようだ。 「だれもが価値がある。さもなければだれも価値がない」を信条に抱いて。 ボッシュの人生はまだ続く。そして私がその人生を追うのもまだまだ続く。 ボッシュが生きている限り、いやコナリーが物語を紡ぐ限り、私はずっと追いかけていこう。 それだけの価値があるのだ、このコナリーという作家の描く物語は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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〈暗黒の塔〉シリーズ4作目の本書の中心はガンスリンガー、ローランド・デスチェイン若き日の物語が語られる。それは彼が愛した女性スーザン・デルガドとの出会いの物語だ。
しかしその前に物語は前巻のクライマックス、自殺願望のある超高速モノレール、ブレインとのなぞなぞ対決から幕を開ける。 世界中のなぞなぞを知り尽くしているブレインは悉くローランド達が繰り出す問題に答え、後が無くなっていくが、この状況を打破するのがエディ・ディーンだ。彼がいかにして博覧強記のなぞなぞ解答マシーン、ブレインに打ち克ったのかは読んでのお楽しみ。 そして彼らがブレインとの勝負に打ち勝ち、降り立ったカンサス州のトピーカで、彼らはその世界が“キャプテン・トリップス”の感染爆発後の世界だと知る。そう、この現実世界で猛威を奮っている新型コロナウイルスを彷彿とさせる超インフルエンザはキングの大作『ザ・スタンド』で登場したウイルスである。 つまりこの〈暗黒の塔〉の世界と『ザ・スタンド』の世界がリンクしたのだ。 しかも本書でこの感染症がレーガン政権の時期であることが判明する。ちなみにレーガンと当時の副大統領ブッシュは感染から免れるため、地下の避難所に逃げ込んだと書かれている。 さて本書のメインは若かりし頃のローランドの恋バナである。彼が父親のガンスリンガー、スティーヴンとその仲間の父親達によってとある理由で安全と思われていた場所に追いやられたのだが、そこでたまたま彼らの宿敵であるジョン・ファースンと繋がっている敵と出くわすことになる。 彼らはローランドの父親がガンスリンガーであることがバレないようにウィル・ディアボーンと名を偽って〈連合〉の遣いの計数者としてメジス郡の<男爵領>ハンブリーに来たことにしている。計数者とは〈連合〉で生活必需品や人手が不足する事態になった場合、遠隔地であるこの地から提供してもらうことになるため、馬や牛、更には漁に使う投網まで調べる職業らしい。 そしてこのローランドと同行するのが彼の親友たち2人、カスバート・オールグッドとアラン・ジョンズだ。彼らは銃を携行するもののローランドと異なりまだ見習いのガンスリンガーという身分だ。しかしこの2人の腕前もかなりのもので、銃以外にもカスバートはパチンコの名手であり、アランはナイフの達人でもある。 この時ローランド14歳。そしてその任務で彼は訪れたハンブリーの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となったスーザン・デルガドと出遭い、恋に落ちるのである。 スーザンはソリンの子、それも男の子を産むために宛がわれた処女であった。 一方ローランド・デスチェインは〈連合〉から遣わされた計数者という身で、しかも〈内世界〉から来たいわば首都圏からの役人といった身分だ。 しかし彼らはまだ弱冠14歳。それでも既にガンスリンガーとなっている彼はその身分を隠しながらも成人男性並みの落ち着きを持っている。 つまり町中に知られた権力者の愛人が調査に訪れた美男子の役人と道ならぬ恋に落ちる図式である。しかし元々スーザン自身もいわば愛人という情婦という立場なのだが、相手が町の権力者ならばそんな立場でも一目置かれる存在となっている。 そんな若い愛人を目の当たりにし、パーティーにも同席しながらも嫉妬に駆られないハートウェル・ソリンの妻オリーヴが実に素晴らしい人格者なのだ。彼女についてはまた後程触れよう。 このキング版『ロミオとジュリエット』とも云える二人の恋路はまず始まりまでが実にじれったい。 ローランドはスーザンの魔女リーアの許を訪れた後の家路でばったりと遭うのだが、彼はスーザンが愛人となる行政長官のパーティーに招かれ、そこで初めて会ったように振舞うように請われ、それに従うが彼女が自分をすげなく扱い、更に行政長官の愛人だと知ると素っ気なくあしらう。既にローランドに対していい感情を持っていたスーザンはそんな態度を取った彼に憎悪する。 しかし自分がスーザンに惹かれているのに気付いたローランドが謝罪の手紙を渡して二人きりで会うと彼らはお互いが惹かれ合っているのに気付く。しかしスーザンは自分が町の有力者の愛人である身分からローランドと逢うのは得策ではないとローランドの誘いを断る。しかしそれでも逢いたい気持ちが勝り、待ち合わせの約束をし、とうとう彼らは出会い、そして愛を重ねるのだ。 ここに至るのが中巻の240ページ。物語の約半分だから、まあ、何ともじれったい二人である。一昔前のラブロマンスのようだ。 しかしそこからはもう二人の思いは止まらず、秘密の待ち合わせ場所を選んではセックスに耽る。まあ、10代2人のセックスだからなんとお盛んなことか。そしてその若さゆえにもう止まらないのだ。 ローランドは自分が身分を偽って父親から重大な任務を授かっていることをどうでもいいと思い、スーザンもまた彼女が行政長官と褥を重ねるまで純潔を守らなければならないことなど他愛もないことだと思うほどに、2人の欲望は若さの勢いのまま、迸るのだ。 2人の恋はハリケーンなのだ。 この〈暗黒の塔〉シリーズはやたらとこのセックスシーンが登場するのが特徴だ。その行為が新しい何かの誕生を象徴しているからだろうか。 しかしこの2人の恋がローランド達3人組の絆に亀裂を入れるようになる。 ローランドをリーダーとして認めていた2人は彼の恋患いに腹を立て、特にカスバートはスーザンに憎悪を向けつつも、美しい彼女が自分ではなくローランドを選んだことを残念に思うと複雑な気持ちを抱き、その感情の乱れが行動に現れ、ローランドを殴りつけたりもするのだ。 この過去の話によってそれまでの様々な因縁が明らかになる。 ローランドの宿敵、魔術師マーテン・ブロードクロックは彼の父親の相談役であり、彼の母親を寝取った男であった。ローランドはマーテンによって成人の儀式に挑むよう仕向けられ、彼の武器の師匠コートをタカのデイヴィッドを使って打ち破り、師の武器の棍棒を奪い取ったのだ。その結果、マーテンを敵に回すようになったのだった。 このマーテンの復讐から逃れさせるため、ローランド達の父親はまだ未成年の彼らをニュー・カナーンより遠方の地、つまり最果てに近いメジスまで追いやることにしたのだった。 しかし息子たちの身を護るために使わせた最果ての地で偶然にも彼らは〈連合〉に歯向かう〈主人(グッド・マン)〉の仲間ジョン・ファースンのシンパたちと出くわす。 彼らが訪れたメジスにはシトゴという油井から原油を掘り出す機械がまだ稼働しており、元ガンスリンガーでローランドの師コートの父親によって追放されたエルドレッド・ジョナス率いるロイ・ディペープ、クレイ・レイノルズの〈名うての棺狩人たち〉と呼ばれる3人はジョン・ファースンに原油とそれを燃料にする武器を与えて、反乱を起こそうとしていることが判明する。 更にそこに住む魔女リーアが持つ水晶球がローランドの父スティーヴンが云っていた〈魔導師の虹〉であることも発覚し、それを奪還しようとする。図らずも彼らは戦いの渦中に身を投じていくのだ。この〈魔導師の虹〉についてはまた後ほど触れよう。 さてこのローランド・デスチェインとスーザン・デルガドの恋は彼がエディ達に悲痛な面持ちで語ることから、結末は推して量るべしである。 さてこのダークタワーの世界では我々の現代社会とのリンクが見られるが、今回も色々登場する。 例えば最初のブレインとのなぞなぞ対決ではマリリン・モンローの名が出たり、74年のアメリカのTVドラマ“All in the Family”のキャラクター、イーディス・バンカーなんてのも登場する―これがブレイン攻略の糸口になるわけだが―。 またクリムゾン・キングも登場する。もちろんこれはプログレバンド、キング・クリムゾンであり彼らのデビューアルバム『クリムゾン・キングの迷宮』に登場する真紅の王である。 などと書いていたらこのローランド達の住まう世界が我々の未来であることが判明する。つまり何らかの理由で現在の文明が失われた世界なのだ。その何らかの理由が最後になってキングのある作品と繋がることで朧気に見えてくる。これについては後で述べよう。 しかし今回でさらにキャラが立ってきたように思える。特にブレインとの決戦で自分の知能レベルまでブレインを誘い込み、日常の下卑たジョークをなぞなぞにして撃破したエディは意外性の男として認知させられた感がある。他の3人が難しいなぞなぞを思いついたり、思い出したり、案出したりして対決して敗れていくが、彼は何物に囚われず、自分のフィールドに持ち込んで勝負ができる男なのだ。作中の表現で云えば彼は自分の世界にぶっ飛ぶと悪魔さえ燃え上がらせることができるのだ。 また端役とはいえ、オリーヴ・ソリンもまた印象深い人物だ。町の権力者ハートウェル・ソリンの妻でありながら、公的に息子を産むためとして生娘のスーザンを愛人として宛がわれ、パーティーにも出席させられて並みいるゲストたちの相手を笑顔で迎えるホステス役をさせられる。 しかしそれでも彼女は夫を愛していた。そしてその夫が<連合>の反逆者の間者である〈名うての棺狩人たち〉の策略で暗殺されたことを悟り、監禁されたスーザンを救出しもする。なんと高潔で優しき女性であることか。 そしてローランドが愛した女性スーザン・デルガド。彼女は元々最高の家畜商人と云われたパット・デルガドの娘だったが、父親が不慮の事故で亡くなってしまい、メジスの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となることになったのだ。 しかし更にも増して存在感を醸し出したのがガンスリンガー、ローランド・デスチェインだ。彼の過去が語られることで彼の造形が深まった。 いやあ、まさか初対面の女性がときめくほどの美男子だったとは。そして彼の家族も忌まわしい過去を纏っていることが判明した。しかも最後の最後には彼が自分の母親を誤って撃ち殺したことも判明するのだ。 さて今回判明したのはローランドの住むこの〈暗黒の塔〉の世界には〈内世界〉と〈中間世界〉、〈終焉世界〉があることだ。そして〈終焉世界〉には希薄があり、それが不快な音を立てているようだ。ローランドは〈内世界〉の住民でニュー・カナーンという〈連合〉の中心の出身であることが判明する。 これが未来の我々の世界であるわけだが、外側に行くほど希薄という世界の境に近づく。その希薄は人間の神経を不快にさせるような音が鳴り、そして人の邪な心を肥大させるような声が頭の中で囁かれる。そしてそれに取り込まれると得体の知れない液体から伸びる手に捕まれ、肉が溶け、鼻を引きちぎられ、骸骨へと変貌を遂げて苦悶の悲鳴を上げながら死んでしまう。 そう、これはキングの中編「霧」を彷彿とさせる。 さらに魔導師マーリンの魔力が秘められている〈魔導師の虹〉なる13の水晶球があることも判明する。それらは〈十二の守護者たち〉が所有し、最後の1つが〈暗黒の塔〉にあることが明かされる。 そして今回そのうちの1つが今回ローランド達が訪れたハンブリーに住む魔女リーアがジョン・ファースンより借りた薄桃色の水晶球だった。つまりローランド達の〈連合〉の反逆者ジョン・ファースンが〈十二の守護者たち〉の1人なのだ。しかもこの水晶球は見つめる者を魅了し、我が物にしたくなる。そしてそれを見つめる者は精気を吸い取られ、どんどん老いていく。14歳のローランドさえしばらく覗いていただけで一部白髪になるほどだ。 そのような事実が判明しつつも本書はこれで終わらない。ローランドの昔語りが終わると今度彼らは〈暗黒の塔〉を目指す旅を再開する。 色々な憶測が出来る巻であった。そしてそれはこれまでキング作品を読んできた者だからこそ解るリンクでもある。キングは自身の読者を愉しませる術を心得ている。彼の膨大な著作を読む甲斐や意義を感じさせてくれる作家である。 やはり次巻を読むのは敢えて急ぐまい。次巻が刊行されるまでに著された作品群を読むことでこの〈暗黒の塔〉シリーズに内包されたキング・ワールドの断片やリンクが十全に理解できるだろうから。遠回りになるが、その遠回りに報いる読書の愉悦が得られるに違いない。 キング・ワールドの中核をなすと云われているこのシリーズの全貌がようやく見えてきた感があるが、まだまだサプライズを期待できそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョー・ヒルの今回は短編集。しかも父親スティーヴン・キングとの共作も収録されている。
まず開巻最初に収録されている「スロットル」が早速そのキングとの共作に当たる。 本書のモチーフは映画監督スピルバーグのデビュー作『激突!』である。6万ドルをだまし取られたバイク集団<トライブ>が詐欺を働いた男とその彼女を殺害し、金を取り戻すためにその男の姉の許を訪ねる道中でいきなりタンクローリーに襲われるという物語である。 スピルバーグの『激突!』では1人の男が運転する車が執拗に絡まれ、襲われるというものだったが、本作ではバイク集団という複数の人物が虫けらのように吹き飛ばされ、もしくはゴミのように踏みつぶされ、道路の消炭のように死んでいく。この辺の残虐性はキングならではだろう。 そして本家が襲ってくる理由が不明なままで終わるのに対し、本作では理由が判明するのが異なる点だ。 次の「闇のメリーゴーラウンド」は若い頃の過ちを描いた作品だ。 短気な兄が恋人のお金をメリーゴーラウンドのスタッフが盗んだと思い込んで報復に向かった後、彼らが出くわすのはなんとメリーゴーラウンドの木馬たちからの復讐だったというホラーだ。 若き日の度が過ぎた犯罪めいた悪戯や往々にして大人になってからの思い出話や武勇伝になり得るが、本作ではいつまでも覚めやらぬ悪夢となって今後の人生にも付きまとわされる、取り返しのつかない過ちとして描かれているのが印象的だ。 続く「ウルヴァートン駅」はコーヒーチェーンの経営層の人間が出くわした怪奇の物語だ。 本作の題名となっているウルヴァートンはイギリスに実在する都市で駅も実在する。ヒルはその狼の名を冠した都市を異世界へと変えた。 そのトワイライト・ゾーンに迷い込むのはジミ・コーヒーの経営者の1人で海外進出を任されており、敢えてコーヒー店があるところに出店して地元の喫茶店含めて次々と潰れさせて独占する、“木こり”と異名をとる人物だ。 若い頃の放浪生活でどこに行こうが人は誰しもマクドナルドなどの一流チェーン店の物を欲すると云う真理を悟ってバーガーキングやダンキンドーナツを経てジミ・コーヒーに引き抜かれた男だ。彼の行くところにジミ・コーヒー以外草木も残らないというやり方ゆえに彼はありとあらゆる抗議を受けているのでスーツを着た狼を見ても彼に対する嫌がらせだろうと思っていたのだが・・・。 「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」もまたとある作家の名作をモチーフにした作品だ。 調べてみるとシャンプレーン湖は実在する湖でアメリカのバーモント州にある。ウィキペディアでも出てくるほど有名な湖らしく、しかもそこにはチャンプというUMAがいるとも伝えられている。 そう、本作はこのUMAの死体が現れる物語だ。 この湖畔に住むロンドン一家は両親と4人姉妹の賑やかな家族で主人公のゲイルは多感な女の子。二日酔いに苦しむ両親を起こそうと深鍋を被ってロボットに扮するお茶目な女の子だ。他の姉妹もそれぞれ個性的だが、ゲイルはその中でも最たるものらしい。そして姉妹よりも近所に住むクウォレル家のジョエルと遊ぶのを好んでいた。 そんな2人が発見するのが首長竜と思しき怪物の死体。この一大発見を早く大人たちに知らせたいのだがお互いの両親は昨晩のパーティでかなりアルコールを摂取したらしく、一向に起きる気配がない。 ジョエルは弟を使ってロンドン一家の母親を連れてこようとするが、母親はそんなことよりも早く朝ご飯を食べなさいと他の姉妹にゲイルを連れ戻させる。 この幻想味ある事件と日常生活の対比が本書では面白い。 しかし物語の結末は何とも残酷だ。 「フォーン」は狩猟好き誰しもが憧れる秘密の扉のお話だ。 金持ちの道楽である動物狩猟。大金を払ってアフリカなどへ行き、ライオンやサイなどを撃ち殺して剥製にすることを趣味にする、我々一般人とはちょっと次元の異なる世界だ。従って極力銃傷を残さずに仕留めるのが大事らしい。 そんな金持ちの道楽の究極はやはり珍しい動物を仕留めること。やってはいけない天然記念物を仕留めるのは禁断の果実だが本作では架空の獣、半人半獣のパーンのようなフォーンやキュプロクスが住まう狩猟区でそれらを仕留めることが出来る異世界への扉を紹介される。 しかしここからが意外な展開だがネタバレになるので止めておこう。 誰しも借りたままになって返していない物はあるだろう。「遅れた返却者」は借りっぱなしになっていた図書館の本を返す人々に訪れる奇跡の物語だ。 いやあ、なんと素敵な物語だ。 永らく延滞していた本を返したい人がいるが、事情により図書館に行けず、そのまま返せずに亡くなった人たちと過去に遡って出会い、延滞した本を返却してもらう代わりに、まだその人たちがいる時代には存在しない本を貸せ、そしてそれがその人のその後の人生を変える。 1冊の本がその人の人生を変えたといよく云うが、その運命の分岐点を演出するのが両親の死によって長距離トラックの運転手の職をクビになって、両親が前世紀から借りていた本を―物語の舞台は2019年だから少なくとも20年以上借りっぱなしだ!―返却しに来たことで移動図書館の運転手として雇われることになった青年というのも本が繋ぐ縁を感じさせる。 しかも例えばハインラインの『ルナ・ゲートの彼方』を返しに来た老人が渡される本が『ハンガー・ゲーム』だったり、ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手へのテロの報復を心配している女性が来れば、その女性がリーガル・サスペンスが好きだと聞いて20年後に出版される予定のスコット・トゥローの本を貸したりする。 そしてそれがその人にとって読むに相応しい本であるというのが素晴らしい。 そこに〈ハリー・ポッター〉シリーズがあろうが、〈ナルニア国〉シリーズがあろうが、その人にとって読むに値しなければそれは現代に存在する本としてでしかあり得なくて過去から来た返却者には目にも触れないのだ。つまりその本に“呼ばれない”のだ。いや、その人にとって必要とされる本だけを渡すことが出来るのだ。 但し、その人にとってふさわしい本ならばその後の人生が変わる。印象的だったのは『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を返しに来た少女が、次の最終巻が出るころには自分がガンで死んでいるだろう、それが心残りだと云ったのに対して、まだ出ていない『ハリー・ポッターと死の秘宝』を貸してやったというエピソードだ。 そんな素敵を演出できる移動図書館の運転手となった主人公が実に羨ましいではないか。 素敵な思惑と余韻を残して物語は閉じられる。傑作。 「遅れた返却者」が過去に遡る話なら一転して「きみだけに尽くす」は近未来が舞台だ。 結末まで読んで改めて題名を見ると何とも胸が痛む物語だ。 クロックワークと呼ばれる時間制限付きアンドロイドと事故によって寝たきりの身になった父親のために人生が一変した少女の一夜限りの夢のような誕生日を過ごす物語と典型的なシンデレラストーリー。1時間だけの、何でも叶えてくれる友人を得たアイリスは望んでいた〈スポーク〉という超高層タワーに上り、そこで星の出を見ることとスパークフロスという飲むと花火を発する飲み物を飲み、〈バブル〉という球場の乗り物に乗って〈スポーク〉から降りるというやりたかったことを全て叶える。 そしてタイムリミットが迫る中、彼女は最後驚くべき行動に出る。 現代のシンデレラは友達よりもお金なのだ。現実的なのだ。 ガラッと打って変わって「親指の指紋」は退役した元女性兵士の話だ。 ビンラディンによる同時多発テロによってアメリカはイラクにビンラディンがいると当時のブッシュ大統領が宣言し、アメリカはイラクに大量の兵士を派遣した。本作の主人公はその中の1人の元女性兵士でビンラディンのシンパと思われる人物たちの尋問と拷問の補助を行っていた。 時間軸としては退役して実家に戻った彼女が地元の酒場で働きながら生活を送っている風景が描かれるが、イラクでの尋問・拷問の日々でささくれだった心は地元に残った友人たちに対して、例えば酔っ払って前後不覚になった友人を介抱するのではなく、なんと戒めとでもいわんばかりに結婚指輪を盗むことまでする。それは全く彼女にとって不要な物であり、単なる出来心であったが、そういうことを罪悪感抱かずに行うほど心が死んでいるのが解る。 そんな中、彼女の許に何者かによって親指の指紋が付けられた手紙が送り付けられる。その親指の指紋の手紙は全て異なる人物の物だったが、おかれている場所が郵便受け、玄関、車のワイパーと次第にプライベート・ゾーンに近づいていき、最後は寝室の化粧台の鏡に貼り付けられる。 物語は何とも云えない余韻を残して終わる。 印象に残ったのは戦争とは国を守るために敵を倒しに行くことだが、彼女がそれを他人の身になにかをやれと求められることだと気付いたという件だ。戦うこととは敵を殺し、または傷つけることだ。そして戦争に出陣することはそれを強いられることだと気付かされる。お国のためにという大義名分の陰にはその後の人生を変えてしまう暗い現実が横たわっていることを思い知らされる部分である。 横書きでしかも三角形を基調とした変わった文字組みで語られる「階段の悪魔」の舞台はスッレ・スカーレというイタリアの片田舎だ。 赤い門に閉ざされた地獄へと繋がる階段と言い伝えられているイタリアの片田舎で主人公の少年はいとこに恋をしていたが、サラセン人の金持ち息子に彼女を盗られて激情のあまり殺害し、逃げ延びるためにその階段を下りていく。 そこで出会ったのは美しい顔の少年。 ただなぜヒルがこの作品を独特な文字組みで書いたのか解らない。 険しい山を行き来して暮らす主人公の心情を表したものだったのか。 恐らく三角形で組まれた文章は赤い門の奥にあるつづら折りになった地獄への階段を模しているのだろう。読者も共に地獄へ堕ちていく感覚を与えるためだったか。 内容は田舎町での恋愛が絡んだ殺人事件。しかしヒルは第2次大戦にイタリアも参加するようになったことを示唆することで奇妙な読み応えを残した作品となった。 次の「死者のサーカスよりツイッターにて実況中継」はタイトルそのままの作品だ。 死者のサーカスというゾンビによるサーカスの模様をツイッター形式で語った小説。どこにでも今どきの反抗期の女の子のつぶやきで終始語られる。 そして彼らが立ち寄った死者のサーカスではチケット売り場の売り子からは死臭が漂い、竹馬に乗ったリングミストレスが必死にゾンビから逃げ惑うショーで幕を開ける。彼女はもう6週間も囚われの身で観客に助けを求めるがそれもショーの演出だと思って取り合わない。 更にゾンビの大砲ショーは客席に向けて放たれ、ゾンビの破片がそこら中に散らばる。さらにライオンとの格闘ショーもあり、最初はライオンがゾンビを食い殺すが、次々と投入されるゾンビに終いにはライオンが餌食になる。 火吹き男は口の中に松明を押し込められてハロウィンのカボチャのように燃え盛り、絶命する。 そしていつの間にか家族の一員が磔になって手斧投げのショーの標的となって首の横に命中して退場。 そして再度登場した弟は手斧が首に刺さったまま登場し、舞台中央でリングミストレスを押し倒して食らいつく。 それまでは数々の演目をトリックだと云って解説していた父親もさすがにこれがリアルなゾンビの殺戮ショーだと気付くが最後はゾンビたちが客席に襲い掛かる。 翌朝の9時過ぎに主人公のツイッターが更新され、全てが彼女の演出であったかのように呟かれて閉じられる。 色んな意味合いを含んだ話だ。通常ならば語り手が出来事が終わった後に当時を振り返って物語を綴るが、ツイッター形式をとることでリアルタイムで物語が進行し、展開が見えないのがミソ。 特撮やCGやSNSとデジタル技術が進歩した現代の虚と実の境界線の希薄さを巧みに利用した作品だ。 次の「菊(マム)」は奇妙な作品だ。 何とも評し難い作品だ。 父親の許から逃げ出そうとしていた母親は夫が爆発物をこっそり製造しているのを知り、曾曾曾おばあさんの許に息子と共に逃げ出そうとするが、夫に見つかって食い止められ、発覚を恐れて殺されてしまう。この時点でこの家族が異様だというのが解る。 母の死後、息子は老女から菊の種を買うがそれを母の墓地に植えるとなんと母親の頭がいくつも根付き、彼女から父親が爆発物製造という罪を犯しているのを知らされる。恐らく彼はテロリストなのだろう。 この悪夢のような展開は夜驚症を患っている息子の視点で語られるため、彼の妄想なのかリアルなのか境界が曖昧のまま進行する。 父キングとの2作目の共作である「イン・ザ・トール・グラス」は明るい基調から一転して不穏な空気に包まれる作品だ。 背の高い草原と云えばキング作品ではおなじみのトウモロコシ畑を想起させる。本作はジョー・ヒル版「トウモロコシ畑の子供たち」と云いたいところだが、キングが共作に加わっていることから21世紀版と称するのが正確か。 1年7カ月しか年の離れていないツーカーの仲の兄妹という陽気な2人が迷い込むのは一度入ると抜けられない背高い草の生えた野原。しかしそこから抜け出すには禍々しい黒い岩に触れなければならない。 私は本作を読んで日本でも有名な妖怪譚「隠れ里」を想起した。しかし後半の展開は最近読んだキングの『デスペレーション』を連想した。キングの想像力の陰惨さは全然衰えを見せない。いやこれは息子の設定だろうか。とにかく気持ちの悪い作品だ。 最後の「解放」はある特殊な状況に陥った人々それぞれの点景を綴った作品だ。 飛行機に乗っている時、もし世界戦争が起きたら人々はどう思い、どう行動するだろうか。本作はそんな状況に陥った乗客と飛行機のスタッフの心の変化をそれぞれの登場人物に焦点を当てて描いた作品である。 アメリカ空軍の空襲のために空路を開けざるを得なくなり、最寄りの空港に着陸することを指示された機長が当該空港が核攻撃地点であることからカナダの空港へ進路を変える。少しでも生き延びるために。 隣り合わせた男女は人生最後の恐怖を和らげるように抱き合い、口づけを交わす。 いがみ合っていた乗客はやがて罵倒されても笑い飛ばせるようになる。 そんな悲喜こもごもの物語だ。そしてタイトルの「解放」“You Are Released”はまた何かのメタファーであると思える。それについては後で語ろう。 ジョー・ヒルも父親キング同様、物語が長大化しており、前作『怪奇日和』は1作がページ前後の中編集だったが、本書は好評を以て迎えられ、一躍ジョー・ヒルの名を知らしめた『20世紀の幽霊たち』と同様の30~70ページ前後の短編集であり、しかも父親キングとの共作も含んでいるとあれば期待も高まるものである。 『20世紀の幽霊たち』でもそうだったが、ジョー・ヒルの短編の舞台は何ともヴァラエティに富んでいる。 アメリカの路上にとある遊園地にあるメリーゴーラウンドやロンドンのウルヴァートン駅、そしてバーモント州のシャプレーン湖にアフリカの狩猟区から異世界の狩猟区、移動図書館、近未来の世界、ニューヨーク州のハメット、イタリアの片田舎スッレ・スカーレ、アリゾナのサーカス、どこかのアメリカの片田舎、カンザス州の背高い草原、ボストン行きの飛行機の中ととにかく同じところが一つもない。 そして内容もまた同様だ。 アメリカの路上を横断するバイカーたちを襲うタンクローリーの話に曰くあるメリーゴーラウンドの木馬たちに突如襲われる闇夜の悪夢、そして出張先のロンドンの列車内で遭遇する狼人間たちの群れ、そして湖に棲むと云われていた怪物との遭遇に空想上の動物たちがいる狩猟区での狩りで見舞われる意外な展開、過去に遡って延滞した本を返却してもらう代わりに運命を変える本を貸す移動図書館、人生のどん底にいる少女の前に現れた友達ロボットとの素敵な一夜、退役した元女性兵士が出くわす見えない脅迫者、片思いの幼馴染を盗られた嫉妬に駆られてその恋人を殺害した男が逃げ込んだ異世界、旅行中の一家が迷い込んだゾンビたちのサーカス、アメリカの片田舎でとある家族の不和と不思議な菊の話、妊娠した妹と共に親戚の家に行く途中で出くわした高い草原に迷い込んだ親子を救おうとしたことで自分たちも脱け出せなくなる兄妹の話、フライト中に核戦争が勃発した乗客と乗組員たちの心模様と扱うジャンルも様々である。 またそれぞれの物語で語られるエピソードや設定が何とも瑞々しい。 例えば「闇のメリーゴーラウンド」ではイケてる美男美女の兄妹が登場するが、主人公はそのイケてる妹の恋人だが、ごく普通の青年。そしてその兄も恋人は読書好きの大きな眼鏡をした胸の小さな女性でどう見ても性格も違い、見た目も不釣り合いなのだが、この兄妹にとってそれぞれの恋人がパズルのようにピタッとハマる存在であることや、その妹が主人公に平気でちょっとエロいジョークを云って困惑させるが、それが数年後かには喜ばしい思い出に変わるなどと云ったことなど、読者の心をくすぐる設定や文章がある。 私が特に気に入ったのは「シャプレーン湖の銀色の水辺で」の主人公の少女ゲイルとその3姉妹だ。これについてはまた後程述べよう。 あと気になったのは「ウルヴァートン駅」に登場するやり手の経営者ソーンダースの必勝法だ。この作品には実在するチェーン店が実名でいくつか登場するが、例えば彼がダンキンドーナツに移った時にスターバックスよりも売上が上回った時の撃退法などが書かれているがこれは本当だろうか。 本書の目玉はなんといっても父親スティーヴン・キングとの共作だろう。 そのキングとの共作は2編あるが、1編目が最初に収録された「スロットル」である。これはスピルバーグの『激突!』の本歌取りのような作品だが、タンクローリーに襲われるバイク集団の中心人物が親子であるというのが心憎い。いつも人を馬鹿にしたような態度を取る息子が恐怖に向き合った時にひたすら逃げるだけの態度を取る息子の姿に失望をしながらも、ただ一人ローリーに追われる身になった息子を思うときに蘇るのは幼き頃の肖像。 この父と子の物語を2人はどんな思いで書いたのか、興味がそそられるではないか。 もう1つの「イン・ザ・トール・グラス」は背高い草原に迷い込む兄妹の話だが、2人を導くのは子供の助けを呼ぶ声。つまりモチーフとしてはキング自身の短編「トウモロコシ畑の子供たち」を想起させるのだが、ある意味これはキングから息子へのバトン渡しを示しているのではないか。 ジョー・ヒルは作品はあとがきにも書いているが、過去の色んな名作から本歌取りをして作品を紡ぐことが多いようで、その中には父キングの作品も入っており、特に『ファイアマン』はもろ『ザ・スタンド』と設定が被っている。 それは一方で読者にやはり父親キングを超えることは叶わないのかと物足りなさを感じさせたが、本作を共作とすることでキングは父親から自身の作品の衣鉢を継いで伸び伸びと創作してほしいとメッセージを込めたのではないか。 そういう意味では「スロットル」もまた大型のタンクローリーが襲い掛かる恐怖はキングが昔から扱った“生ある機械の報復”のテーマを感じさせる。やはり本書で父は息子へバトンを託したのだ。 それは最後の収録作が「解放」、原題“You Are Released”であることが象徴的だ。 この物語はしっかりした結末が付けられているわけではない。着陸前にロシアとアメリカの核戦争の開戦に出くわしたボストン行きの飛行機に乗り合わせた乗客と乗組員それぞれのエピソードが語られるだけである。そして機長は管制塔から指示されたアメリカの都市ファーゴが第一核攻撃地点だと判断して北のカナダに進路を取る。 私はこの作品が題名と云い、情況と云い、今後のジョー・ヒルの作家活動を暗示しているように思えるのだ。 ジョー・ヒルがカナダに活躍の場を移すというのではない。上の父キングとの2作の共演を終えて、彼は本歌取りをしても、自身なりの物語を生み出せばいい、そして父キングからそれは今まで自分の数多ある題材から取っても構わないと背中を押された、文字通りリリースされたように感じた。もちろん上に書いたように最近の作者は開き直って堂々と父親の作品の設定を似せて作品を書いてきたが、どこかしこりがあったのではないだろうか。 しかし今回ようやくそれが父に正式に認められ、重荷から解放されたように感じられるのだ。世間や書評家、そして読者はどうしてもジョー・ヒルを語るとき“スティーヴン・キングの息子”と付けてしまうだろう。それを彼は嫌がって自身の著者名にキングの名を付けなかったのだが、逆に彼は父があまりに偉大であるから、敢えてその看板を背負おうと決心したのであはないか。ただ彼は父の過去作の亜流であれ、自分の好きなものを書くと決意し、ある種憑き物を落としたかのように思えるのだ。 さてそんな本書のベスト作を挙げるとすれば「遅れた返却者」だ。これは本を愛する者全てに読んでほしい物語だ。 私はよく“本に呼ばれる”感覚に陥る。 それは特に何の意図もなく選んだ本たちの内容が何らからの関係性を持って数珠つなぎのようにリンクし、心にテーマが刻まれるような不思議な縁を感じることを云うのだが、本作もまさにそのようなもので、延滞した本を返しに来た、既にこの世にいない「遅れた返却者」が本来なら読む事の適わない21世紀の本を渡されることでその後の運命が変わるという設定が素晴らしい。まさに本がもたらす人生のワンダーである。 「読まずに死ねるか!」と云ったは内藤陳氏だが、もしそんな自分の死後に出版される自分好みの本を読むことが出来たなら、読書好きにとって本望に違いない。これはそんな読書家の夢を描いた作品だ。 次点では「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」と「きみだけに尽くす」の2作を挙げよう。 前者はレイ・ブラッドベリの名作「霧笛」の本歌取りとも云うべき作品だが、舞台をチャンプと呼ばれるUMAがいると云われている実在の湖シャンプレーン湖を舞台にし、首長竜らしき怪物の死体が打ち上げられているのを大発見だと近所に住む娘が叫ぶが両親は前夜のパーティーの二日酔いで寝てばかりで他の3人の姉妹は自分のことで取り合わない。この主人公のゲイルという女の子がお鍋を被ってロボットに扮するなど自分の世界を持った不思議少女であり、近所に住む兄弟の兄が好きで将来結婚を誓っているというのがまた私の心をくすぐった。特に2人が怪物の死体の発見した記念として歯を抜き取ろうとするシーンも郷愁を誘われる。 後者は未来を舞台にしたシンデレラストーリーで、題名は主人公に尽くすアンドロイドの献身を表している。主人公の未成年の女性は父親が突然仕事で再起不能となったため、予定していた友人との誕生日パーティーを取りやめざるを得なくなった。彼女が誕生日に行きたかったタワーに街角に立っていたコイン・フレンドというアンドロイドは有料で1時間彼女の友達になる。そのアンドロイドは116年前に作られたもので彼女をいつも街角で見ていたのだ。彼女は彼のサポートで憧れのタワーに上り、飲みたかった不思議な飲み物を飲み、乗りたかった乗り物に乗って、夢のような一夜を過ごす。不遇の若い女性に夢を与える典型的なシンデレラストーリーなのだが、最後の結末は何とも現実的で驚かされた。 この766ページにも亘る大著となった短編集をもしキングが著者ならば二分冊か三分冊で出版されただろう。 これはつまりはジョー・ヒルの版権料が父には及ばないからだろうか。それとも分冊刊行して売れるほどまだ知名度が低いからか。 いずれにせよ、原書と同様に一冊で出版したのは嬉しいことではある。 しかしこんなことを考えていること自体、やはり私も彼を一作家と見なしていなく、“キングの息子”というレッテルを貼っている事に過ぎないのだから、下衆の勘繰りと云われても仕方のないつまらない詮索だ。 そして私はやはりジョー・ヒルは長編よりも中編・短編向きの作家だと再認識した。上に書いたように本書の題材や舞台は実にヴァラエティに富んでいる。つまり彼の中にも父同様、沢山の物語が詰まっているのだ。しかしそれを長編化するとかなりのヴォリュームになることが最近の長編で解っているので、やはりエッセンスを凝縮した短・中編としてどんどん内なる物語を開放してほしい。そしてそれを父が読み、またキングも触発されて素晴らしい作品を紡ぐ相乗効果を期待したい。 しかしキングも既に御年73歳だ。それでもなおまだ新作を発表しているのだから畏れ入る。 しかしそろそろ次のキングが出てもいい頃だ。それがジョー・ヒルであることを期待しよう。 解放された彼が次からどんな作品を我々に見せるのかを私はこれからも彼の作品を追って行き、確かめていきたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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恩田陸氏の3作目となる本書は生まれ変わりをテーマにした物語だ。
25年前に夭折した画家高槻倫子の遺作展の会場を訪れた主人公古橋万由子は未発表の彼女の作品を見て妙な既視感を覚えることから自分が高槻倫子の生まれ変わりではないかと思われる。古橋万由子はデパートに勤める6歳上の姉万佐子と2人暮らしをしており、これまで一切絵を描いたことのないごく普通の女性である。2人は母親を早くに亡くし、父親に育てられた2人は神経質な子供だったとされている。 そんな平凡な日々を送っていた彼女が遺作展で「ハサミが…」とつぶやきながら気を喪ったことが高槻倫子の生まれ変わりではと倫子の息子秒に思われてしまい、彼に頼まれ、倫子が4人の人物のために描いた作品を渡す手伝いをする。そしてその過程で万由子は自身が高槻倫子から授かったと思われる、サイコメトリー、つまり物に触れたり、その人と会うことで過去の記憶を観ることが出来る能力を活かして高槻倫子の死の真相に迫るようになる。 その4人の受け取り方は四者四様だ。 初めて高槻倫子の作品を扱った画廊のオーナー、伊藤澪子は「犬を連れた女」という海岸の波打ち際を犬を連れて歩く女性を描いた作品を見て憤怒の表情を浮かべ、そんな絵はいらないから持って帰ってくれとすごい剣幕で怒りを露わにする。 当時世間を賑わせた青年実業家で高槻倫子の名を知らしめるきっかけを作った矢作英之進は「曇り空」というどんよりとした曇り空の海を描いた作品を見て安堵の表情を浮かべる。 高槻倫子の学生時代の友人で今は女子校の校長先生をしている十和田景子には「黄昏」という枯れた薔薇を持った2人の少女を描いた絵を見て、自分が倫子に憎まれていたと悟る。良きライバルであり、一緒にいることも多かったが親友と呼べるほど仲がいいとは云えなかった2人だけが解る関係性を持っていた彼女がいい意味で倫子の真意を知り、微笑む。 最後は高槻倫子が別荘にいた時に必ず訪れていた喫茶店経営者手塚正明は「晩夏」という片隅に1羽の青い鳥の入った小さな鳥籠のある夕暮れの浜辺を描いた絵を見て、素っ気なく受け取るだけだ。 また万由子もまた高槻倫子に関わることで身辺に不審なことが起きる。これ以上関わると碌なことにならないと告げる脅迫電話、遺作展最終日に会場が火事になる焼失未遂事件に自宅にばら撒かれたたくさんの魚の死骸とその上に撒かれた真っ赤なペンキ、そして不審な侵入者。 さて生まれ変わりが物語の中心だが、それ以外にも上に書いたように古橋万由子のサイコメトリーや近未来を幻視する能力だったり、臨死体験や幽体離脱などいわゆるオカルティックな内容が色々盛り込まれている。 ナイル川に対するピラミッドの配置が天の川に対するオリオン座を模しているという仮説や母親が出産の際に子供の苦痛を和らげるために分泌するホルモンが前世の記憶を消し去る作用がある、等々、オカルト雑誌「ムー」の記事のようなエピソードが語られ、またそれらは私も好きなものだから久々に楽しんだ。 本書で最も最たる特徴を持つのは高槻倫子という美しい夭折した画家に尽きる。 その美貌を誇り、他人の夫であっても自分に振り向かせようとする女性高槻倫子は世の男たちを魅了する一方、世の女性たちを敵に回す女性だった。彼女の生い立ちの報われなさと類稀なる美しさが彼女の歪んだ性格を生んでしまったのは何とも皮肉なことだ。 本書は上述のように恩田作品としては3作目にあたるが、自身のそれまでの発表作まで本書においてトリックに寄与していることに気付かされる。 本書を以て恩田氏が作品ごとにジャンルを変える作家であることがさらに強調された。 それはつまりポスト宮部みゆきとして周囲も見たのではなかろうか。 今なお旺盛な創作力で既成概念に囚われない自由な作風と設定の作品を次々と生み出している恩田氏のダイバーシティを認知させる意味でも、案外知られていないが本書の位置付けは重要な作品であると云えるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は先の『デスペレーション』の姉妹編である。しかし本書は1985年にガンで死亡したとされるリチャード・バックマンが遺した原稿を1994年、彼の妻が見つけ、それを基に手直しを加えて―という設定で―発刊された作品である。
姉妹編と云うのはキング名義で発表された『デスペレーション』と同じキャラクターが登場するからだが、キャラは同じでも役どころが異なっているのだ。 例えばタックという悪霊に取り憑かれた悪徳警官コリー・エントラジアンは元警官として登場する。但し彼は悪徳警官ではなくドラッグとは全く関わり合いのない生活を送りながらも麻薬検査で陽性反応が出たことで馘首させられたのだった。 『デスペレーション』でタックと対抗できる不思議な能力を持った少年デヴィッド・カーヴァーは本書では親子と子供の名前が入れ替わっている。職業は郵便局員と同じだが、両親がデヴィッド・カーヴァーとカーステン夫妻であり、子供たちがラルフとエレンである。そしてこの一家は本書では特別な存在ではなく、単なる災禍に見舞われた一家に過ぎない。 またピーター・ジャクソンとメアリ夫妻も、ピーターが『デスペレーション』では文学部助教授だったのに対し、本書では英語教師と教育に携わる面では同じだが、微妙に職業が異なっている。 『デスペレーション』ではマリンヴィルの付き人だったスティーヴ・エイムズは大学でエンジニアを選択しながらもドラッグや酒とギャンブルで身持ちを崩し、退学になった後はギタリストやDJやプロモーターなどの音楽稼業に身をやつす流れ者的存在として、知人を訪ねに西海岸に向かう途中にポプラストリートに迷い込んだヒッピー風の男として描かれる。 そして『デスペレーション』でもそうであったように彼はシンシア・スミスとそこで知り合う。ちなみにシンシアは通りにあるコンビニエンスストア、《E-Zストップ24》の店員という役回りである。 そして『デスペレーション』ではタックに憑りつかれる女性地質学者として登場したオードリィ・ワイラーはギャングによる仕業と思われる銃撃で亡くなった兄夫婦一家の生き残り、自閉症のセス・ガーリンを引き取る女性として登場。実は彼女の甥セスこそがこの摩訶不思議な物語の鍵を握る登場人物でもある。 ただし全ての登場人物が別設定というわけではなく、中には同じ役柄のキャラクターもいる。作家のジョン・マリンヴィルと元獣医のトム・ビリングスリーの老人コンビがそうだ。 そして新キャラクターも数多く登場する。 上に書いたセス・ガーリンやストリート唯一の黒人夫婦ブラッドとベリンダのジョセフソン夫妻。 ジムとデイヴの双子の息子を持つキャミー・リードにそのジムと付き合っている娘スージーを持つ母親キム・ゲラーとボヘミアン夫婦のゲアリとマリエルのソダーソン夫妻。 また第一の犠牲者の新聞配達少年ケアリ・リプトンに彼が一目で魅かれる赤毛の娘でスージーの友人デビー・ロス。 さらに既にポプラストリートから引っ越ししていないホバート親子に亡くなったオードリィの夫ハーブ。 ただ彼・彼女たちはもしかしたら鉱山町デスペレーションで名のみ、もしくは登場人物表に載っていない端役として登場したキャラクターかもしれないが。 さらに『デスペレーション』と異なるのは所々に色んな形態の文章や資料が挿入されていることだ。 手書きのポプラストリートの地図にウィリアム・ガーリンからオードリィ・ワイラーに送った絵葉書。そのガーリン一家が銃撃で殺される新聞記事、〈モトコップス 2200〉のキャラ商品雑誌記事、『モトコップス 2200』の台本、オードリィ・ワイラーのノートに書かれたセス・ガーリンによる絵とそのオードリィ・ワイラーの日記にデスペレーションの地質鉱山技師アレン・シムズの手記とヴァリエーションが様々だ。 本書のタイトル『レギュレイターズ』はタックに憑りつかれたセス・ガーリンが繰り返し観ている1958年公開のB級西部劇のタイトルで、映画評や台本まで挿入されるこの映画はしかし調べてみるとどうもこれはキングの創作らしい。 また物語の舞台ももちろん鉱山町デスペレーションではなく、オハイオ州のウェントワース近郊のポプラストリートである。南北に走るその通りを挟んで東西に建っている家の住民たちが彼らたちなのだ。 ただ物語が進むにつれて、鉱山町デスペレーションが物語に関わってくることが判ってくる。 そんな舞台と人物像を、いや配役を変えて繰り広げられる物語は6台のワゴンの乗った奇妙なキャラクターたちによる殺戮劇だ。6台の色違いのワゴンに乗っているのは発光する幽霊に軍服を着たエイリアンに灰色の肌をした無精ひげのバックスキンの猟師服を着た男、ナチの制服を着た顔が暗闇の男などなど。 モトコップスのキャラ達が使う銃は凄まじい破壊力を誇り、次々とポプラストリートの家々を廃墟に変えていく。なぜなら彼らの使う銃弾は通常のそれではなく長さ7インチほどの黒い円錐状のものだ。こんなものをマシンガンで大量にぶっ放すのだから一撃一撃の衝撃は通常の銃弾の数倍になるだろう。これも恐らくはモトコップスがアニメで使う銃弾なのだろう。 また敵はこのモトコップスだけではない。ハゲワシやコヨーテにクーガー。しかもそれらはかろうじてそれと解る不格好な見たことのない動物たちなのだ。なぜならそれらは幼きセス・ガーリンの画力によって生み出された獣たちだからだ。 なおこのコヨーテやハゲワシやクーガーは『デスペレーション』でもキャン・タックが使役する動物だった。 そしていつしかポプラストリート自体が鉱山町デスペレーションの街角へと変わっていく。 こんなアニメや戯画的な怪物たちが登場するポプラストリートの人々が迷い込んでしまった世界は今でいうなら『アヴェンジャーズ』の世界に紛れ込んだようなものだろう。娯楽映画として観ている分なら痛快だが、いざあの危地の只中に放り込まれたなら、右往左往してどうしようもない絶望感に浸ってしまうことだろう。 それを裏付けるかのようにポプラストリートの人々は極限状態の中、次第に本性を現していく。 ただ本書は荒廃感が漂う『デスペレーション』とは違い、最後に救いがある。 だからこそ私としては両者を比べた場合に本書に軍配が上がるのだ。 それはつまりスティーヴン・キングとリチャード・バックマンの対決でもある。最後の最後にしてバックマンはキングに勝ったのだと思うことにしよう。 キングの“ダーク・ハーフ”であったバックマンが“死後”ようやく日の目を見た、そんな風に感じた作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。
そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。 ロミ・品川とケン・十河、バーブ・斉藤と黒古葉博士が一堂に会するのが第1話「For fair against despair 絶望にあっても美のために」で、これはイントロダクション的な話だ。 舞台設定的なお話であり、まだZOKUDAMとTAIGONの直接的な対峙はないが、いわゆるキャラ設定がこの話で充分確立している。 続く第2話「Hardship incident to justice 苦難は正義のために」はタイトルは非常に立派だが、何のことはない、大雨で地下にあるZOKUDAMの基地が雨漏りにより水浸しになっていくのをロミ・品川とケン・十河が悪戦苦闘とするお話である。 しかし本作で判明するのは正義を行う側がZOKUDAMであり、木曽川大安博士が率いるTAIGON側が世界征服を建前に彼らのできる範囲で社会混乱を巻き起こそうと企む悪側の組織であることだ。つまり前作『ZOKU』とは設定が180°変わっているのだ。 また本作は雨漏りに対処するエピソードの中に様々な巨大ロボット物やヒーロー物の話を現実レベルに落とした場合に生じる不都合や疑問などが数々挙がって興味深い。これらについてはまた後ほど触れることにしよう。 第3話「Running into trouble expected 想定される困難のために」はさらに輪をかけて何も起きないのだから驚きだ。 しかしこの退屈を脱力的に1つの短編に仕上げる森氏の筆力には逆に感心してしまう。 第4話「Shaking off the temptation 誘惑に打ち勝つために」ではとうとうZOKUDAMの2人とTAIGONの2人が直接対峙する。 いやはやようやくライバル同士の巨大ロボット対決かと思いきや、なんとロボコンでの対決へと縮小される。しかもロミの冴えない玩具屋の倅の同級生宇多川まで組織に加入してロボコン優勝を目指すという、何か別の物語の展開へと発展していく。 そして初めて本書でロミ・品川とケン・十河のZOKUDAMコンビと永良野乃と揖斐純弥のTAIGONコンビが相まみえる。ロボコンの前夜祭のパーティ会場で女同士の戦いが繰り広げられるのだ。 ZOKUDAMの2人のチームワークを乱すためにロリータファッションでケン・十河の気を惹く永良野乃は作戦が的中し、ロミ・品川の嫉妬心を駆り立てるが、なんとその後は女の欲望が再燃したロミ・品川がケン・十河に必死にモーションを掛けるのだ。 理系男子に惚れた女性の切なさが沁みる話である。 そして最終話「Consciousness is half the battle 自覚があれば勝ったも同然」ではいよいよZOKUDAMとTAIGONの巨大ロボットの直接対決に至る。 このZOKUDAMとTAIGONの対決が幼馴染で有力者の2人、黒古葉博士と木曽川博士の巨額を掛けた壮大なお遊びであるのは1作目の『ZOKU』と同様。 しかしその終止符を打つためにお互いのロボットを完成させ、そして操縦士も訓練させ、最終決戦をしてから畳むことにしたのは潔い。 そしてそれまで決戦の時が来たと何度も云われ、そのたびに訓練とロボットの修正を繰り返す日々にうんざりしていたロミ・品川とケン・十河―彼はロミほどではないが―が目的が明確になったことでそれまでの煩悩から解き放たれ、巨大ロボット操縦士、いわば戦士としての意識に目覚め、感覚と風貌が研ぎ澄まされていく。その姿は実に尊く美しいのだ。 ケン・十河は巨大ロボットの訓練とその都度生じる不具合の修正について行われる技術者たちとのコンファレンスでそれまで単純に巨大ロボットの操縦に憧れていたマニアから戦闘そのものが人間たちにとって究極のアミューズメントであり、それを現実的に行うとすれば周辺住民への危害を最小限度に抑えるために飛び道具や火器の使用は控えるべきだ、そして行き着くところは大きな図体して二足歩行というバランスの悪い人間型ロボットよりも戦闘機や戦車のように武器をそのまま取り込んだものが最もバランスがいいのだとそれまでの考えを覆すような境地に至る。 一方ロミ・品川もそれまでマニュアルばかり読まされ、実機訓練でも事あるごとに不具合が生じて修正作業ばかりを繰り返してた日常にうんざりしていたのが屋外での実戦練習で感覚が研ぎ澄まされ、自分が求められて巨大ロボットの操縦士になり、そして澄み渡った空気と自然と満天の星空の下、仲間たちと一つの目標に向かって進んでいくことに充実感を覚え、戦士としての自覚が生まれるのだ。 そんな2人が悟りの境地に至って迎える最終決戦は、実に森氏らしい結末だ、とだけここでは評しておこう。 『ZOKU』の続編(実にややこしい表現だが)である本書は上にも書いたように前作の前日譚に当たる作品のようだ。 いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。なぜなら前作が森博嗣版『ヤッターマン』的な風合いをした善と悪の対決物であったが、ZOKUがいわゆるドロンボーサイドでTAIがヤッターマンサイドであったのに対し、本作ではTAIGONの方が悪で、ZOKUDAMの方が善と設定が入れ替わっているからだ。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。 そして今回巨大ロボット戦闘物の本書は物語が進むにつれて次第に設定がぶれていく。 例えば当初は怪獣を倒すためにZOKUDAMは2機の巨大ロボットを開発したことになっており、そしてその怪獣の1匹がTAIGONが敵情偵察のために送り込んだ捨て犬のブラッキーだと第1話では仄めかしているのだが、結局この犬は途中退場し、TAIGONのロボットとの対決という図式に切り替わるのだ。 しかしその後巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。 そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。 例えば巨大ロボットアニメでは普通主人公がいきなりロボットを操縦して敵を次々と他倒していくが、実際12メートルもの巨大なロボットはその機構自体が複雑であるため、マニュアルが存在するのは想像に難くない。そして本書ではまず操縦士の2人はその膨大なマニュアルを読んで理解することから強いられるのだ。 まず1000ページ弱の初級マニュアルから始まり、次に2冊のインストール編、そして4冊のカスタマイズ編に3冊のメインテナンス編、2冊のトラブル編と次から次へと読むべきマニュアルが渡されるのだ。まあ、多少(?)の悪ふざけが入っているだろうが、これが現実と云えよう。 また秘密基地で雨漏りが起きてもその場所が秘密であるために容易に修理屋を呼べないというのも妙にリアルだ。 そしてロボットが安定して二足歩行するためのバランス装置についても詳細に述べられていたり、電極を身体中に貼って操縦士の身体の動きを感知してロボットが動くと云うシステムも頭を掻いたり、目にゴミが入って思わず掻いたりすると自身で損傷してしまわないかとか、ロボットが自分で自分のことを殴ってしまわないように自己接触防止機能があるのなら、2体の仲間がそれぞれの機体を殴ろうとしているのも止められるようにするとどうなるのかを真剣に検討したりと変に細かなところでリアルなのだ。 あと特撮ヒーロー物に対する考察も面白い。 例えば世界征服を謳いながらも辺鄙な場所にしか現れず、しかも外国だと同時多発的に攻撃を仕掛けるのに対し、日本では一気に敵を多数送りださず、いつも1体のみであるのはやはり武士道的一騎打ちの精神が残っているからだとか、今まで考えもしなかったことを真面目に考察していて興味深い。 またTAIGONの2人、永良野乃と揖斐純弥は典型的な森作品の男女キャラと云えよう。理系男子に少し心惹かれる女子という設定はデビュー作のS&Mシリーズと全く変わっていない。少女漫画を自作していた作者にとってこの男子のツンデレ設定は王道なのだろう。 そしてZOKUDAM側が操縦者が搭乗して巨大ロボットを操るのに対し、TAIGON側は遠隔操作で操るタイプである。 また揖斐純弥は敵のロミ・品川とケン・十河の結束にヒビを入れるため、永良野乃にケン・十河の興味を引き付ける作戦に出るが、それがロリータ的メイド服のようなものを着せて思いっきり趣味に走る。 そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。 もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。 最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。 我々ヤッターマン世代はヤッターマン2号のアイちゃんよりもドロンジョ様の方が好きなのだ。従って実はロミ・品川の方を応援したくなるのは必定だろう。 案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。 もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。
今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。 工藤ナユタが体験する羽原円華とのエピソードは以下の通りだ。 ピークを過ぎ、引退を控えたスキージャンプ選手の見事な復活劇。 現代の魔球ナックルボールを投げる投手の球を受ける後継者候補の捕手が抱えるイップスを治す方法。 高校の恩師が川での遭難事故で植物人間になった息子に向き合うために行う事故の検証。 パートナーを喪った原因が自分がカミングアウトしたことだと自責の念に囚われるゲイの作曲家の再起を促すために探るパートナーが亡くなった登山中の事故の真相。 そして工藤ナユタが中学生の時に出演した映画で抱えたトラウマの克服。 それら4つのエピソードに加えて最後は『ラプラスの魔女』へと繋がっていく。 これら上に書いたエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。 スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。 ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。 例えば扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っていることだ。 1章の往年のスキージャンパーの不調ぶりを映像解析するシーンでは好調期と不調期のジャンプを映像で見比べて円華がほんのわずかな差異に気付いて「上体の突っ込みが早い」と指摘して、右足を怪我して全体的にバランスが悪くなっていると語れば、2章のナックルボールについては回転していないボールが不規則に揺れて落ちていくメカニズムを詳細に語る。 またそのナックルボールの取り方についても仔細に語られる。ナックルボールは急いで捕りに行こうとせずにじっくり球筋を見て捕球する必要があるが、一方で捕球まで時間がかかるので盗塁しやすくなる。そして捕手は盗塁を抑えようと早くナックルボールを捕りに行こうとして落球してしまい、それがためにミスがかさんでいつしか普通の球も捕れなくなる、捕手イップスに陥る。 特にナックルボールについては私もこれまでその仕組みに興味を持っていたことから、今回非常に専門的な内容を東野氏が実に素人にも解りやすい平易な文章で語ってくれているので深く理解することが出来た。 回転していないボールがわずかに盛り上がっているボールの縫い目に風の抵抗を受けることで回転し、それによって再び他の方向から風の抵抗を受けてボールが不規則に揺れて、予測不能の方向へと落ちていく。さらに揺れずに回転しないまま進むナックルボールもあるらしく、それは初めて聞いた。 また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。 スキージャンパーに妻と息子へ自身の最高のジャンプを見せるために円華はジャンパーの妻にジャンプの合図をさせれば、最盛期のようなジャンプができるだろうと確信してその役割を託す。 引退を控えた捕手の後継者がナックルボールを捕ることが出来ないことからイップスになってしまったのを、若い娘である自分でも青痣作るほど猛練習すれば捕れるようになるのに逃げてばかりで情けないと叱咤する。 川に落ちて溺れて一命を取り留めるも植物人間になってしまった息子をすぐさま泳ぎの得意な妻が飛び込めばもしかしたら助かったかもしれないと悔恨の日々を送る父親をくよくよ考えても仕方がないと諫める。 自分の決断の遅さで植物人間となった息子が妻と同様に自分を恨んでいるだろうと思い込む父親に息子と自分が遊んでいた時の音声を流すと脳が反応することを示して薄子が会いたがっていると教える。 大学の非常勤講師をしていたパートナーが登山の事故で亡くなったことが自殺であると悲嘆に暮れていたゲイの音楽家にそれが彼が受けた依頼のドキュメント番組のテーマソングを作るための素材収集としてその山特有の地形によって生み出される大地の息吹のような風音を録音するために訪れたことであることを証明する。 それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。 円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。 最盛期を過ぎたベテランスキージャンパーが小さい息子が往年の活躍を知らないため、ピザの宅配が仕事だと思われており、このまま怪我のせいにして本領を発揮できないまま、その勘違いを抱かせたまま、選手生命を終えることに腹を立てる。 今まで誰もなしえなかったナックルボーラーを自分の球が捕れるキャッチャーがいないからという理由で引退しようとするピッチャーにキャッチャーの後継者候補を一緒に育てようと鼓舞する。 聴く人が胸を打つ音楽を次々と生み出す作曲家が自分のせいでパートナーガ自殺したと思い込んで創作意欲を無くすことを勿体ないと思い、真相を明らかにする。 このように連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、『ラプラスの魔女』へのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。 そして青江修介登場のエピソードとも云える最終章「魔力の胎動」は温泉地で硫化水素中毒死した家族の死の真相を彼が解き明かす話だ。 硫化水素濃度が濃いため、立入禁止区域となっていたエリアになぜ温泉旅行に来ていた家族はわざわざ立入り、そして中毒死したのか? そして調査に来た青江達に何かと絡んでくる会社経営者の初老の夫婦は事件のせいでキャンセルが多いこの温泉街にわざわざ来たのか? 上記の2つの謎のうち、1つ目は子供想いの家族たちがボタンの掛け違いで起きてしまった哀しい事件だったことが判明する。家族旅行した親子が子供のために仕組んだ宝探しの地図に描かれた宝の在処を示した×印があろうことか立入禁止を示した簡素な×印とを勘違いしてしまったために起きた何とも云いようのない真相だった。 また会社経営者の男は以前からこの温泉街を訪れており、火山ガスが有害であることを知っていた。そして彼の経営する会社の業績が悪化しており、自分に掛けた生命保険金を家族や周囲の人間たちのために残そうと事故と見せかけて自殺しようとしたのだった。 しかし直前になってその温泉で一家心中のような事故が起きたため、今度は知り合いのホステスに頼んで自殺志願者を演じてもらい、彼女を助けるために誤って死んでしまったように見せかけようとしたのだった。 連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。 しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。 万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。
そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。 そう、本書はキングのもはや一ジャンルとなったサイキック・バッテリー物である。但し『シャイニング』や『ペット・セマタリー』のようなホテルや家ではなく、町そのものである。 物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。 よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。 そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。彼は自分の好きなように旅行者に絡んで職務質問をしたかと思うと有罪となる証拠を見つけ―もしくはでっち上げ―ると痛めつけた後、自身が統治するデスペレーション警察に連れて行き、牢屋に監禁する。彼は決して彼ら彼女らを殺さず、じわじわと嬲って愉しむ。 しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。 その予兆はまずその警官が放つ意味不明な言葉から始まる。彼は旅行者を尋問する際に時折「タック!」という言葉を放つ。尋問された旅行者はその意味不明な言葉に戸惑い、被害者の1人マリンヴェルは思わず意味を問うが、コリーはそれは自分が云ったのではなく、貴方が云ったのだとまともな返答をしない。 やがてそれは「タック・オー・ラ!」や「タック・オー・ウォン!」、「ミ・ヒム」、「エン・タウ!」などの理解不能な言葉が出てくるにつれ、コヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーなどを使役する呪文の類だと思わされる。 物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。そう、チャイナ・ピットの名は数多くの中国人の犠牲者が出たことに由来しているのだ。 その後2人の中国人たちが酒場に乱入して7人を撃ち殺すという事件が起きた。犠牲者の1人は坑道を塞ぐことを決めた鉱山技師だった。そしてその中国人たちは捕まった時に中国語で喚いていたが、なぜか周囲の人たちには生き埋めにされた中国人たちが復讐しに戻ってくると云っているのが判ったという。 しかしそれは後ほど捻じ曲げられた言い伝えであることが判明する。呪われた坑道から命からがら逃げ延びたチャンとシンのルーシャン兄弟がキャン・タによって狂ってお互いに殺し合う中国人たち―その中には兄弟の婚約者もいた!―を自身でツルハシを使って落盤を起こさせ、事故として報告したのだった。しかし結局彼らもキャン・タに取り憑かれてしまい、悲惨な末路を辿ることになる。 そしてこの得体のしれない悪と戦う囚われの旅行者たちの中で切り札となるのがデヴィッド・カーヴァーという少年だ。彼は家族旅行でラスヴェガスとタホー湖を訪れた道中でコリー・エントラジアンが仕掛けたハイウェイ・カーペットによって車のタイヤを全てパンクさせられてパトカーに乗せられてデスペレーションまで連れられたカーヴァー家の長男だ。 彼は前年の11月に親友が登校中に車に轢かれて重体に陥るという災禍に見舞われた。デヴィッドはその日たまたまウィルス性疾患に罹って休んでおり、友ブライアン・ロスのみが悲劇に見舞われたのだった。ブライアンは頭が変形するほどの重傷で意識不明の状態でもはや助かる可能性はゼロに近いと思われたが、デヴィッドは神に祈ることでブライアンが奇跡的に意識を取り戻して一命を取り留め、普通の生活を取り戻すまでになる。 それ以来彼はカトリックのマーティン師の許に通って信仰を深め、神に祈りを捧げることを日課とする。やがてそれは神との対話を実現することになる。そして彼が神と繋がった人物であることを示すように囚われの身となった仲間たちを救う導き手となる。 つまり本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。 昔の鉱業は死と隣り合わせの危険な仕事だった。いつ崩れるか判らない岩盤をツルハシやハンマーとノミなどで砕きながら掘進し、少しでも多くの鉱石を昼夜問わず、まとも立つこともできないような坑道の中で長時間、熱気と不自由な姿勢を強いられながら掘っていく鉱夫たち。やがて坑道の大きさが小さくなるにつれて体格の大きいアメリカ人たちにはもはや掘り進める作業には耐え切れず、呼び寄せた大量の中国人労働者が変わってどんどん休みなく掘り続ける。そして彼らは知らずに脆い岩盤の下に達し、落盤事故に遭ってある者は死に、またある者は生き埋め状態になってしまう。しかし経営者たちにとって当時は変わりはいくらでもおり、寧ろ救出しに行って二次災害とこの鉱山がもはや危険であるとの判断から救出せずに無駄死にすることを望む。 そんな忌まわしい歴史が今再び花開くことになったのは採掘再開をして忌まわしい石像たちが並んだ空洞を発見してしまったことだった。これこそが全ての元凶である。 この呪いの象徴として登場する小さな石像は様々な形状があり、奇妙にねじれた頭部と飛び出た目を持つ狼像や舌が蛇になっている狼像、その他蛇に片方の翼が欠けたハゲワシ、後ろ足で立ち上がったネズミなど、そんな醜悪な形をしている。そんな石像がチャイナ・ピットと呼ばれる露天掘りの坑道から出てきたことで人々は狂い始める。 そして今回の悲劇の発端が廃鉱になったと思われていたチャイナ・ピットの採鉱再開を計画し、そしてそれに見合う利益をもたらす鉱石を発見した鉱山会社に全てが集約されるだろう。 パンドラの箱を開けてしまった鉱山会社の愚行の産物。しかし同じ鉱山会社に勤める身としてはこの鉱山会社には同情を禁じ得ない。 世界各国の有望な鉱山がどんどん採掘権を取られ、寡占化している事に危機感を覚えるからだ。そして資金力のない鉱山会社にとって新たな鉱山開発は想定よりも鉱石が出なかった場合は、莫大な借金を抱えることになり、倒産の憂き目に遭ってしまう。私の勤める会社もそれまでは採算性の悪さから処分していた低品位の鉱石からメタルを取り出していることを考えると、他人事とは思えなくなってくる。 さて本書のテーマとして合言葉のように交わされるのは「神は残酷だ」のセリフ。 祈ることで奇跡を起こしたデイヴィッドは一方で神が全てを叶える訳ではないことを悟る。彼は神と繋がることで逆に神の意志を知り、神が誰かを助けるために犠牲を強いることを知る。全ての救いは等価交換であることを知るのだ。 彼は生き残りの仲間の最年少だが、神と繋がる能力のためにリーダーシップを発揮する。しかしその代償として最も犠牲を強いられた者でもある。 デイヴィッドはその都度神に問いかける。なぜそんなことを自分に強いるのかと。 そして小説家マリンヴェルは自身がデイヴィッドと同様に特別な存在であると悟りながらもその運命に逆らおうとする。それは自身にとってハッピーエンドにならないことが朧気に見えているからだ。 全ては神が仕組んだものだったのか。それは正直判らない。 ただ最後デスペレーションを去るデイヴィッドが手にした早退許可証の紙片は彼がオハイオの学校で去年の秋に木に打ち込んだ釘に突き刺したものだ。なぜそれがマリンヴェルの手に渡ったのかは判らない。 しかしそこにはマリンヴェルの、〈神は愛なり〉という聖書の言葉を信じて生きていけという激励のメッセージが添えられていた。 残酷な神の仕打ちによってその人生の幕を閉じた小説家がどうやってこの少年に紙片を渡したのかは判らないが、最後に彼が手向けたのは神を信じろという言葉だったのは深い。 実は鉱山業と神は縁が深い。 山には山の神がいると信じられ、今なお山の神に家族と事業の無事を祈る儀式が行われている。それは採掘作業が死と隣り合わせであり、一度崩れた岩盤から閉じ込められた人々を救い出すのが実に困難であるからだ。 そういう意味で云えばタックは邪な山の神なのではないか。鉱石という自然の物を山の身を削って掘り出そうとする人間たちに呪いをかける邪神、それがキャン・タックであったのではないだろうか。そんな不遜な人間から山を護るために彼はコヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーを操り、締め出そうと威嚇し、また時に殺戮を行ったのではないだろうか。つまり人間が踏み込んではいけなかった領域こそがキャン・タックの住処だったように思える。そこが〈絶望〉という名の町なのは皮肉というよりも必然であったように思える。 今思えば色んな暗喩に満ちた作品だったように思える。 環境破壊の元凶とも云われる鉱山業の人々に鉄槌を下すキャン・タックは山の神の怒りであるように思える。 しかし正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツ自身が大の犬好きであるためか、彼の作品ではしばしば犬が登場し、重要な役目を果たす物が多くあるが、その中でも最も評価が高いのは高いIQを持つ犬アインシュタインとアウトサイダーの戦いを描いた『ウォッチャーズ』だろう。
そしてそのアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。 作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。 『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。 クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。 さて本書は高度自閉症の少年ウッディことウッドロウ・ブックマンとその母メーガン、そしてミステリアムのキップと成り行きでこの犬をブックマン家に連れて行くことになった元海軍特殊部隊隊員ベン・ホーキンスと、以前の飼い主で資産家のドロシー・ハメルから彼女の全財産と共にキップの飼い主の座を譲り受けた住み込みの看護師ローザ・レオンらが導かれるようにブックマン家で一堂に会して、一種のチームとなる。そんな彼女たちを、自身の会社の研究所で培養していた古細菌を体内に取り込んで人獣化しつつある元CEOでメーガン・ブックマンの元恋人のリー・シャケットと、父親のヘリコプター墜落事故死が彼の上司で巨大コングロマリット、パラブル社のCEOドリアン・パーセルによる陰謀だったのではないかと彼のアカウントをハッキングしていたウッディを見つけて抹殺しようとする殺し屋集団〈アトロポス&カンパニー〉が抹殺しようと襲撃する。 この善と悪の戦いの物語なのだ。 善の側の登場人物の中心はなんといってもウッドロウ・ブックマンことウッディだろう。自閉症で生れ、11年間生きてきてこれまで一度も言葉を発したことがない。生まれて2,3年は泣き声を挙げていたがそれ以降はそれさえも無くなったと母メーガンの独白にはある。そして彼はIQ186を持つ天才少年で4歳で本を読み始め、7歳の時にはもう大学レベルの本を読んでいた。そして彼は天才ハッカーでもあり、自分の父親ジェイソンの死を上司による策略と疑って、2年近くに亘って書き溜めた『息子による復讐―忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』を書きあげる。 そして彼こそはミステリアムと人間を結び付ける鍵となる。キップ達ミステリアムは〈ワイアー〉と呼ぶ独自の遠隔通信能力で会話をし、仲間たちと連絡を取ることが出来る。幕間に彼らの情報発信の中心犬であるベラが全米で発見されたミステリアムの仲間たちについて常に発信している〈M通信〉が挿入される。そしてウッディはこの〈ワイヤー〉を使ってミステリアムと通信できる能力を持った人物なのだ。 これによってミステリアムのキップは引き寄せられ、途中で知り合った元海軍特殊部隊隊員のベン・ホーキンズを連れてウッディ達ブックマン親子と合流することになるのだ。 また彼の母親メーガンも自立した強い女性として描かれる。 3年前に巨大IT会社パラブル社に勤めていた夫を事故で亡くした後は大学後からも続けていた絵描きの才能を磨いて、絵を売って生計を立てている。しかも彼女の絵は評価が高く、ニューヨーク、ボストン、シアトル、ロサンゼルスに支店を持つ大手画廊と契約を結んでいるのだ。 また彼女は言葉を発しないウッディにこの上ない愛情を注ぐ。母親として何か声を掛けてもらいたい気持ちを抑え、100パーセント気持ちを分かち合えないことに胸を痛めながらも、息子が時折見せる笑顔を癒しとして生きる女性だ。そのため、ウッディが初めて言葉を発したときの彼女の感動が目に浮かぶようだ。 ただその言葉が「ちがうよ、キップっていう名前なんだ」と突如現れた犬に関する説明だったことは少しばかり母親としては残念だったのではないだろうか。しかしその後ウッディは母親にずっと感謝していたこと、愛していたことを矢継ぎ早に告白するのだ。その時の万感の思いが推し量られるというものだ。 ちなみに本書の原題は“Devoted”つまり「献身」だ。つまりこのメーガンの献身こそが本書のメインテーマなのだろう。 さらに彼女は悪玉のリー・シャケットが寄りを戻したくなるほど、また捜査を担当する保安官ヘイデン・エックマンが顔を思い浮かべて部下でもある自分の恋人のリタ・キャリックトンとセックスに興じるほど、そしてキップを連れてきたベン・ホーキンスが惹かれるほどの美貌を持った女性でもある。 一方でその美貌ゆえに同性からあらぬ憎しみを受けることもあるようで、リタ・キャリックトンはメーガンが男を手玉に取る女だと決めつけたりもする。 一方敵方リー・シャケットはクーンツ作品ではおなじみのいつもエゴと自尊心が肥大した登場人物で、困ったほどに俺リスペクトの性格が増長している。メーガンと過去に付き合って、ちょっと気に入らないことがあったので気を惹くために他の女性と付き合っている最中に有人のジェイソン・ブックマンに取られたことを根に持ちながら、今でもメーガンが自分のことを好きであると信じて疑わない男だ。それはジェイソンとメーガンとの間に生まれた子が自閉症の少年であったことで彼は彼女がジェイソンとの結婚を後悔していると決めつけているからだった。 彼は自分の会社リファイン社のスプリングヴィルの研究所が親会社のCEOドリアン・パーセルの命令によって行っていた古細菌を適用する不老不死の研究によって起きた火災事故から一人逃亡した人物だ。92人の社員を犠牲にして一人逃げ出した彼はその際に古細菌を吸い込み、逃亡資金として1億ドルを持ってメーガンと共にコスタリカに高跳びしようと彼女の許に向かう。それは夫を喪った彼女ならかつて自分と付き合っていた自分と一緒になりたいと思うだろうし、またコスタリカに自分が行きたいから彼女も従うだろうと何とも身勝手な理由ばかりを並べて行動なのだ。 また彼の上司ドリアン・パーセルもIT界の寵児で世界を制する者と称されながら社交的な活動は一切せずに冷凍ピザや冷凍ワッフルにアイスクリームなどを好み、数多くのゲーム機器を備え持ち、1000枚近いハードコアポルノのDVDを所有するという思春期真っただ中の大人になり切れない大人である。 クーンツは昨今のIT業界のトップは子供のまま大きくなった大人ばかりだと揶揄しているようだ。 しかし何とも呆気ない幕切れである。 またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。 しかし今後クーンツはこのミステリアムの連中が活躍する物語は書かないのだろうか? 例えばキップが述べている最高に賢いソロモンとブランディという犬のカップルも登場せぬままである。『ウォッチャーズ』の世界観を再起動させた本書によってクーンツはもしかしたら続編を書くかもしれない。 しかしやっぱりクーンツはとことんハッピーエンドの作家であると再認識した。 以前熱心な読者だった私はスティーヴン・キング作品を一つも読んでいなかったのでクーンツ作品を存分に楽しめたが、キング作品を読んでいる今ではクーンツ作品の粗さがどうしても目立ってしまう。 上に書いた纏め方もそうだ。ハッピーエンドに拘りすぎて、あまりに拙速、あまりに強引すぎるのだ。深みや余韻を感じられないのだ。 例えばメーガンがリー・シャケットに魅かれず、ベン・ホーキンスに興味を持ち、結婚するに至るが、これもリーが頭もよく、気も効くが感受性に乏しく、彼女の自閉症の息子が足枷になっているとしか思えなく、また彼女の描く絵も理解できないのに対し、ベン・ホーキンスが彼女の絵を見て感動し、そして彼女の美しさよりもこのような美しい絵が描ける内面の美しさに惚れる違いが描写されるが、これに準えるならばリー・シャケットがクーンツ作品であり、ベン・ホーキンスがキング作品とでも云おうか。 この差が今のキングとクーンツの訳出作品の数の差になっていると思うし、キングが何を書くか、どう描くかを熟考しているのに対し、クーンツはテーマやモチーフを変えて単に読者を愉しませるためだけの技巧とフォーマットに当てはめているだけのように感じてしまう。 それはこの前に読んだ田中氏の『髑髏城の花嫁』に登場する当時の人気作家ディケンズとサッカレーのエピソードと同じだ。そしてキングはディケンズに倣って分冊形式で『グリーン・マイル』を刊行したことを考えるとやはりこの2人は現代のディケンズとサッカレーの関係のように思える。 ただ2人が彼らほど仲が悪いかは不明だが。つまりキングが後に残る作家だとしたら恐らくクーンツ作品は後に残らないだろう。それはクーンツの既刊作のほとんどが絶版になっていることからも明らかである。 しかしこの作家は今後もこの道を進むのであろう。改めてクーンツ作品の読み方を認識させてくれた作品だ。 しかし今回は題材が良かっただけに本当に勿体ない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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田中芳樹氏の新シリーズ、ヴィクトリア朝怪奇冒険譚シリーズ第2作が本書。
田中氏のシリーズ物はなかなか完結しないので有名だが、本書においては三部作と決まっており、しかも最終巻も珍しく既に刊行済み。1作目の『月蝕島の魔物』が2007年、本書が2011年で最終巻の『水晶宮の死神』が2017年に刊行と本当に田中氏のシリーズ作品としては実にスピーディに完結しているのは奇跡に近い。 今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台。但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も同様。 まず物語の発端として十字軍の遠征がプロローグとして語られるが、それが7回に亘って行われた十字軍の遠征のうち、歴史上「キリスト教史上の不名誉」とか「十字軍の恥さらし」と呼ばれている第4回十字軍のエピソードである。 本来聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣されているのに資金難のため、ベニスの商人に多額の借金をすることになり、地中海の商業権を独占しようと企む彼らに唆され、同じキリスト教徒である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに攻め入った無様な軍なのだ。そしてコンスタンティノープルを陥落させた後、その悪行三昧が問題になり、北方の辺境への遠征を命じられ、あえなく撃沈することになった十字軍のたった1人の生き残りユースタス・ド・サンポールを、ダニューヴ河畔に聳える髑髏城の主、永遠の命を持つ絶世の美女ドラグリラ・ヴォルスングルが見初めたことがニーダムたちの敵となる新フェアファックス伯爵ライオネル・クレアモントに繋がる。 さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。 そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそう安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。 さて本書ではシリーズ1作目の後での出来事であり、直接的には関係ないのだが、1作目のアンデルセンとディケンズの旅のその後も語られる。 なんとアンデルセンがディケンズの家に泊まりに行き、親切にしてくれたことを吹聴したことで小説家志望の人間やファンの連中がアンデルセンに紹介状を書いてもらってディケンズの家まで押しかけ、自分の原稿を読むことを強要したり、出版社への紹介や家に泊めてくれと頼んだりとかなり迷惑したことが書かれている。アンデルセンがディケンズの家に泊まりに行ったことが史実だったことを考えるとこれもまた史実なのだろう。 また1作目に続いてウィルキー・コリンズが幕間でしばしば登場する。彼も直接物語には関わらなく、当時彼は人気作家だったらしいが、よほど田中氏はこの作家を気に入っているのだろうか。 そして田中作品には歴史上の蘊蓄が語られるのが常だが本書も例外ではない。例えば、ディケンズとサッカレーが当時仲が悪かったのは有名な話のようで、彼ら2人がインドカレー店でお互いに激辛カレーの我慢比べをするシーンでそれが強調される。 これは上の2大作家が犬猿の仲で会ったことに加え、インドから戻ってきたイギリス人によってインドカレーがイギリスで親しまれ、広く食べられるようになったことを示している。 またインドに赴任した総督は当時のイギリス大臣の5倍の年俸をもらっていたようだ。私の海外勤務中は1.8~2倍でそれでも多いと思っていたが、まさかこれほど差があるとは。 ただやはり向こうの気候や風土に合わなくて赴任中や帰任して死去する総督も多くいたらしい。 侵略者の彼らが行った功績の1つに「サティーの禁止」がある。当時インドでは夫が妻より早く死ぬと妻は一緒に夫と共に生きていても火葬にされなければならなかったらしい。常々インド人は家長の権力が強すぎて、それに逆らう者は家族であっても命を奪う思想が今でも残っているらしいが、非人道的な物凄い風習である。 またダニューヴ河口に全世界の7割のペリカンが繁殖のために集結し、ペリカンは大きな口で一気に魚を食べてしまうから当地の漁師たちに嫌われているいわば害鳥でもあるらしい。 しかしよくよく考えると基本的に鳥が空を飛べるのは自身の身体が軽く、尚且つ空を飛ぶほどの翼を動かす筋肉が発達しているからだが、水も含めてそれだけの魚を口に含んでも空を飛べるペリカンの筋力は物凄いのではないだろうか? つまりペリカンは案外食べると美味いのでは? またニーダムと戦友のマイケル・ラッドがライオネル・クレアモントを髑髏城に送る道中のダニューヴ河で大ナマズに襲われ、格闘するシーンが登場するが、この河には本当にヨーロッパ大ナマズという体長2mを超すナマズが今でも生息しているらしく、しかも人間を襲うこともあるらしい。単に冒険活劇のために設えた生物ではないようだ。 また本書ではスコットランド・ヤードの創設者の1人でイギリスで最初の刑事でもあるウィッチャー警部も登場するのだが、私がかねてより思っていたロンドン警視庁がなぜスコットランド・ヤードと呼ばれているのかが本書で語られる。スコットランドがまだイングランドと別の国だった頃にスコットランド王室の御用邸があり、両国が統合され、御用邸が無くなった広大な跡地に警視庁が建てられたことが由来のようだ。 こういった教科書では習わないエピソードが私にとっては非常に興味深く、面白い。 ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。 東欧の歴史は私が世界史を専攻していなかったせいかもしれないが、さほど日本人には知られていないように思われ、今回1907年の東欧を舞台であることから彼の地が歴史上いかに混沌としているかが解ってくる。19世紀には次々と正体不明の人物が国王を名乗っていたとのことで、更に本書の敵フェアファックス伯爵はそれらを統合するヴラヒア国王になるとの野心を抱いている。 上述のようにフェアファックス伯爵ことライオネル・クレアモントは髑髏城の主ドラグリラ・ヴォルスングルとユースタス・ド・サンポールとの間に生まれた子であり、髑髏城の最初の主はイエス・キリストや仏陀やモーゼさえも生まれていない昔からスカンジナビアに住んでいたナムピーテスというバイキングの有力な一党の一族で、その中の1人ハルヴダーン・ナムピーテスであった。このナムピーテスという名前はナウビトゥルというスカンジナビアの古い言葉に由来し、その意味は「死者をついばむ者」である。 そしてこのナムピーテス族は勇猛かつ残酷で他のバイキングからも一目置かれていた。そして彼らが東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに渡り、そこで産出される琥珀を運ぶ商隊の警護をして目覚ましい活躍を見せたのでヴラヒア国王の称号を授かったのだった。 ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。 目的の異なる人物たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。 そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。 あと今回登場するクリミア戦争時の戦友マイケル・ラッドの存在がほとんど生きてない。口が達者なお調子者のラッドはクリミア戦争が終わった後もスクタリ野戦病院でナイチンゲールの手伝いで戦傷者たちの世話をしていたが、衰弱したライオネルをダニューヴ河畔にある髑髏城に現地除隊証明書を渡すという条件で共に連れて行った仲である。ライオネルは無事髑髏城へ送ってくれた謝礼にそれぞれに2500ポンドを渡したが、ラッドはニーダムに金貨50枚を渡しただけで自身の分も含めて5000ポンドせしめた、何ともしたたかな男である。 またイギリス最初の刑事ウィッチャー警部も、ラッド同様にさしたる活躍も見せないままである。 とまあ、様々な役者が登場しながらも結末はいささか肩透かしを食らった感は否めない。 というよりも主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。 つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。 とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。 さて最終巻の2人の関係にも何か進展があるのだろうか。 しかし彼ら2人は小父と姪の関係であり、近親過ぎて結婚はできないはずだ。なので2人の間での色恋沙汰は期待できないだろう。 果たして田中氏はどんな結末を持ってくるのか。ただ単に後日談が語られるだけの味気ないものにならないよう祈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。
そう、本書は物語を逆行して語られる。従ってなかなか物語の全容が見えにくい。 しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。 いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。 しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。 例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。 このような最後の最後で計画の全容が判明する物語は数多あり、特にスパイ小説の類では複雑怪奇な構図が明かされるわけだが、その構成とほぼ同じである。 いわば本書は敢えて時系列を遡ることを想定して書かれた物語であると云えよう。 あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。 とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。 例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。 また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。 ただやはり本書はアラフィフの自分には場面転換、時間軸の巻き戻しに頭を慣らすのが難しかった。機会があればもう一度読んでみると、上の評価もまた変わるのかもしれないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は御手洗潔シリーズの1冊であり、京大時代の若かりし御手洗が解き明かした11年前、昭和39年に起きた密室殺人事件の謎を解き明かすミステリである。
さて最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。 実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。 一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。 さてそんなリアルな場所で起こる出来事は3つ。 1つは昭和39年のクリスマスイヴに起こる妻殺害事件。密室状態の中で家主の半井肇の妻澄子が絞殺された事件だ。 もう1つは同じ日の同じ家の2階で寝ていた娘楓に初めてクリスマス・プレゼントがサンタクロースから届けられる出来事。しかもそれは当時8歳だった楓がほしかったものだが、誰にも話してなかったという。 そしてもう1つは半井肇の姉美子が経営する喫茶店「猿時計」の壁一面に飾られている振り子時計は全て止められているのだが、そのうちの1つ、ヘルムレ社の高級振り子時計のみがいつの間にか動き出すという怪事。しかも両親を亡くして引き取られた楓は夜中に小さな猿が入って動かしているというのだった。 さてこの密室殺人は正直解ってしまった。 しかしなんとも身悶えしてしまう事件である。いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。 しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。 つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。 それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。 しかしそんな時代だったのだ、昭和は。 本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。 夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。 それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。 特に私が心を痛めたのは国丸信二の母親のエピソードだ。 男に騙され、結局肉体労働の土工をせざるを得なくなり、女手一つで息子を育てるために、街歩く女性が距離を置くほど汗まみれ、泥まみれで働き、そして工務店のつてで東京オリンピックの開会式のチケットをもらうが無理が祟ってその後半年で死亡する。 そしてその貰ったチケットで入場しようとした国丸はそれがその時各地で出回っていた偽物のチケットであることを知らされる。貧乏人はとことん報われないと思わされるエピソードだ。 ただ本書では解き明かされない謎も存在する。 まずプロローグで語られる夜中に集団で跋扈する落ち武者の霊の群れや楓が榊夫婦にヘルムレ社の振り子がひとりでに動き出す現象について夜中に小さな猿が忍び込んで動かしていると云った事の真意についても解らぬままだ。 今までの御手洗シリーズ、いや島田作品では全ての些細な謎まで合理的な解答がなされていただけに、不明なままで終わるこの2つの謎については違和感が残ってしまった。 とはいえ齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。 私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。 そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。 本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。 そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。 島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。 そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。 本書で京大時代に御手洗が知り合った予備校生サトル君は京大を落ち、同志社大学に合格して入学した。大学入学後にサトル君と御手洗との交流が続いているかは不明であり、今後ヤング御手洗の事件簿が書き継がれるかは不明だが、昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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