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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数688

全688件 161~180 9/35ページ

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No.528:
(7pt)

邦題は秀逸だが…

戦争小説でデビューし、その後も冒険小説、スパイ小説と様々なテーマを題材にしてきたマクリーンが今回選んだ題材はF1レースの世界。ある日突然トラブルに見舞われるようになったトップ・レーサーを取り巻く不審な事故を巡る物語だ。

本書ではもはやマクリーン作品の特徴となった、前段がなく、いきなり事件の途中から物語は始まる。そして稀代のトップ・レーサーと称されながらも、最近自殺行為とも云える際どいレースを繰り広げるジョニー・ハーローの一匹狼的な事件の調査をメインに物語は進行する。

マクリーンはジョニー・ハーローに対して外的描写のみで語るため、彼の心中は他の登場人物同様、読者には全く解らない。
本書ではいきなりレース中の事故で他チームのレーサーを死なせてしまう事件から幕を開けるため、まず読者にはジョニー・ハーローが作品で語られるほど凄腕のレーサーとは思えず、寧ろ心理の読めない孤高の、悪く云えばいけ好かないレーサーと映り、正直感情移入がしづらい人物となっている。そんな彼の真意は物語の最後に語られる。

一流レーサーともなると度胸とハートの強さが要求されるが、彼はまさに一つ抜きん出たメンタルの強さを持った人物と云えよう。その裏付けとして一連の事件に加担した人々に対して眉一つ動かさずに非情な制裁を加えることを全く厭わないことが挙げられる。
その冷徹ぶりはもはや一介のレーサーを通り越して、数々の修羅場を経験したエージェントのような趣さえある。

本書はマクリーン作品では実に読みやすい作品で、つっかえるところなく、クイクイ読めるところがいいのだが、その反面、マクリーン特有のメカに対する詳細な描写がほとんどないのが気になった。
ヨーロッパでは有名なモータースポーツに詳細な専門用語を並べることはもはや意味がないとまで思ったのか。いやそれとも晩年の作品は取材する時間をほとんど取らずにテクニックで小説を著していたのか、今となっては解らないが、マクリーンらしい熱が足らない作品だった。題材がそれまでのマクリーン作品の中でも異色だっただけにこれは実に惜しい。

真相も今にして思えばどちらかと云えばありきたりの内容だ。マクリーンの衰えを如実に感じさせる作品だったことが非常に残念だ。


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歪んだサーキット (ハヤカワ文庫 NV (255))
No.527:
(7pt)

チャーリー・マフィンシリーズへの大いなる助走?

フリーマントル4作目の本書ではアメリカ次期大統領の有力候補と目されるアメリカ大使が大統領選を優位に運ぶためにソ連に対して行った駆引きに巻き込まれる老スパイとイギリス人大富豪の姿を描いた作品だ。

フリーマントルの定番とも云えるスパイ物だが、本書に登場するのはナチス時代に収容所に入れられ、屈辱の日々の末に解放され、スパイとなったユダヤ系オーストリア人フーゴー・アルトマン。彼はアメリカとソ連の陰謀の渦中に否応なく巻き込まれる。

しかし本書では各国政府の思惑の狭間に翻弄されるのは老スパイ、フーゴー・アルトマンだけではない。上に書いたように作戦成功のキーマンとしてロシアによって標的にされたイギリスの大富豪でアメリカ次期大統領候補ジェイムズ・マレーの義弟であるジョスリン・ホリスもまた運命と云う名の歯車に巻き込まれる。彼はロシアに仕組まれたアルトマン、チェコ貿易相コーデス、東ドイツ貿易相ユンカースらによって国際的取引を持ちかけられることでスパイ容疑を掛けられる。

今まで順風満帆だった実業家がある巨大国家の思惑によって囮スパイに仕立てられるこの恐怖。知らず知らずに知り合った外交官が実は共産主義国から送り込まれたスパイだったことで自身にも容疑が掛けられる、まさに突然の災厄以外何物でもない。
本書にもちらりと出てくるがいわゆるキム・フィルビー事件に関わった人々は同様の恐怖のどん底に陥れられたことだろう。

ところで2、3作目に続いてフリーマントルは本書でも収容所に入れられた男を題材に選んでいる。恐らくは収容所をストーリーに絡めた2作目を著すに当たり、取材の過程でたくさんのエピソードを手に入れたのだろう。そしてそれらのエピソードを1つの物語に圧縮するには分量が多すぎて、3作も連続して収容所に纏わる男たちを主人公にした物語を綴ったのではないだろうか。

凄腕の、国に貢献をしたピークを超えた一介のスパイが、その実績ゆえにそれぞれの国の暗部を抱えていることを危惧した政府によって抹殺されることを余儀なくされ、どうにか自分の運命に抗う姿を描くのはフリーマントル作品には多々ある構成だ。そしてそのどれもが悲劇的な結末を迎え、読者を暗鬱な気持ちにさせる。

それは本書でも例外ではなく、熟練の老練さでロシア外相の指令に従い、行動し、自らのアメリカへの亡命をも成功させようと企むアルトマンの末路は想像以上に悲惨だった。

こう考えると用無しとみなされたスパイの悲劇的な末路を描くフリーマントル流常套手段を打ち破ったのが今なお新作が書かれている窓際スパイ、チャーリー・マフィンシリーズだろう。
そして同シリーズは第1作目が本書の後に書かれるのだ。

つまりこのフリーマントル的悲劇を知る者にとっては実はチャーリー・マフィンシリーズとは彼の作品群の中で異色の部類に入ると云えるだろう。

さて題名『十一月の男』は原題“The November Man”そのままである。この11月とは即ちアメリカ大統領選挙の行われる月を指す。
しかし一方で陰謀の渦中に飲み込まれようとしている富豪ジョスリン・ホリスもまたこの11月に大きな取引を控えていた。そしてアルトマンは来るべき11月を迎えることはできなかった。“Man”と原題では単数形が用いられているが、本書は男たちそれぞれが迎える11月を指しているのではないだろうか。

しかし毎度暗鬱になる物語を書く作家だ、フリーマントルは。
これらの作品群があって次作の『消されかけた男』が光るのかもしれない。今なお書かれ継がれるそのシリーズのマーケット戦略は見事に成功したわけだ。
それを当時のフリーマントルが実際に考えていたかどうかは解らないのだけれど。


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十一月の男 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル十一月の男 についてのレビュー
No.526:
(7pt)

先入観をもたずにどこまで読めるか

今では次世代を担う作家の1人となった道尾秀介氏のデビュー作が本書。ホラーサスペンス大賞の特別賞を受賞して刊行された。ちなみに大賞は沼田まほかる氏の『九月が永遠に続けば』だ。

さてそんな彼のデビュー作は怪異現象を解き明かす霊現象探求所なる物を開業している真備庄介が登場し、そしてそのパートナーは道尾秀介という作者と同姓同名のホラー作家という、探偵=作家の構図を持った作品である。

背中に眼のような物が写った奇妙な写真の被写体になった者たちが次々と変死を遂げる。その事件の発端となった福島県の山中にある白峠村には忌まわしい天狗伝説があり、4人の子供がいなくなるという神隠しの事件も起こっていた。さらには隣の町では霊の視える少年がいて、2人に関わっていく。

物語は怪奇現象としか思えない土俗的な伝奇色を濃厚にしていく。私は上にも書いたようにこの後の作品が続々と『このミス』でランクインされる道尾作品の本作は当時京極夏彦の百鬼夜行シリーズを髣髴させるという世評もあって、本作をホラーと見せかけて合理的な解決が成されるミステリだと思い込んで読んでいた。

しかし物語はすっきりと解決されない。合理的な解決でありながらもどこか割り切れなさの残る、中途半端な読後感が残ってしまった。

この一見合理的でありながらも不確かな物に解決を求める真相に今の私は正直戸惑っている。齢四十を過ぎると人間の心の不思議さや状況が人の心に及ぼす思いがけない効果などに対しても頑なに否定せず、納得できるようになったと思っていたが、それでもなお腑に落ちなさが残る真相、物語の閉じ方である。
そして今さらだが本書がホラーサスペンス大賞の特別賞受賞作であることに気付かされた。つまり本書はやはりホラー小説だったのだ、と。

物語にふんだんに盛り込まれる地方の因習や伝承に加え、実在する童話に少年殺しの意外な真相を絡め、更には東海道五十三次の一幅の絵を福島の山奥に残る天狗の忌まわしい殺戮の歴史に重ねて殺人者の狂気へと導くプロットはとてもデビュー作とは思えないほどの完成度だ。
しかしやはりもやもやとした割り切れなさが残るのは正直否めない。
先入観と云う物は全く恐ろしいものだ。
次こそはまっさらな心で物語に臨みたいものだ。


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背の眼〈上〉 (幻冬舎文庫)
道尾秀介背の眼 についてのレビュー
No.525:
(7pt)

もはやこれは商業主義以外何物でもない

ナヴァロンの巨砲壊滅はただの前哨戦に過ぎなかった!
満身創痍で瀕死の状態で任務を成し遂げたマロリー大尉とミラー伍長たちのまさに任務達成直後から物語は始まる。

2人は再びジェンセン大佐から新たな任務を告げられると、ようやく任務を終えて結婚式を挙げようとしていた不屈の男アンドレアを強引に引き連れてイタリアのテルモリへと向かう。今度は孤軍奮闘する7,000人ものパルチザン兵を救出するために。

しかしジェンセン、人遣い荒過ぎでしょう!
ほとんど生死の境を彷徨うほどの超難関な任務を終えた部下たちをたった30分しか眠らさず、飛行機に乗せて次の任務地に連れて行くなんて、今の時代ならパワハラ上司の極みとの謗りを受ける事だろう。

そんなパワハラ上司ジェンセンの有無を云わさぬ強引さによって今回もマロリーたち一行は困難な任務に赴くわけだが、1作目に比べると切迫感がないように感じる。疲労困憊なはずなのに1作目で感じた死線を彷徨うようなスリルに欠けるのだ。
物語のスケールとしては前作が1,800人のイギリス兵の救出に対し、今回は7,000人のパルチザンの救済と3倍以上になっているにもかかわらず、常に余裕綽々で全知全能の存在の如く、事に当たっているように感じる。寧ろ部下のレナルズのように眼前に起きている事態が解らなくて戸惑っていながら、マロリーに反発している姿こそが読者そのものを写しているかのように感じた。

それはやはりキース・マロリーがもはや生ける伝説の英雄となっているからだろう。前作登場時は世界的な登山家として勇名を馳せていたという設定ではあったが、読者にとってキース・マロリーは全くの門外漢であった。その男が満身創痍になりながら不撓不屈の精神で不可能と思われたナヴァロンの巨砲を打ち砕く姿に感動を覚えたものだった。

しかし今回のマロリーはその時の男とは違い、もはや一介の登山家ではなく、誰もが不可能を可能にする男としてヒーロー視しており、そしてマロリー自身も上に書いたように困難を困難とも思わずに誰もが呆気に取られるような無謀な計画を立てては完遂する有言実行の男になっている。
1作目では到底不可能とされた任務に何度もくじけそうになりながらも前に進んだ姿とはもはやかけ離れているのだ。“男子三日会わざれば刮目して見よ”という言葉があるが、キース・マロリーの人物造形の違いは危難を達成したが故の成長と見てとれるが、それにしてもその違いには戸惑いを覚えざるを得ない。

読者へのサーヴィス精神と云う観点から考えれば、救出すべき人員の数と巨砲ならぬダムの破壊と以前にも増してスケールアップしているのは定石通りと云えば定石通りだが、物語の深みが明らかに減じているのは非常に残念だ。

前作が作者2作目の意欲作であり、所謂「2作目のジンクス」を打ち破らんがために渾身の筆致で描いた苦難に挑む男達の物語だったが、それはデビュー間もない作家が持つ初々しさと粗削りさがいい方向に出た稀有の傑作だったと云えよう。
翻って本書はキース・マロリーと彼の仲間ミラーとアンドレア達ヒーローの物語であり、冒険小説ではなく映画化を意識したエンタテインメント小説となってしまっているのだ。特に原作しか読んでいない読者にはピンと来ないアンドレアの婚約者マリアはなんと映画でのオリジナルキャラクターとのこと。映画会社のいいなりになって自身のオリジナルをも捻じ曲げるとは、何とも情けない限りだ。

そして哀しいかな、本書以降、書評家たちのマクリーン作品への評価は決して高くない。この2作の明らさまな違いがその後のマクリーンの、テクニックだけで映画会社が喜ぶストーリー展開と派手な演出へと淫していった兆しが同じ主人公を使った本書で顕著に表れたように感じた。

ナヴァロンの嵐 (1977年) (ハヤカワ文庫―NV)
アリステア・マクリーンナヴァロンの嵐 についてのレビュー
No.524:
(7pt)

皆「明日を望んだ男」たちだった

フリーマントル3作目の本書ではエスピオナージュを扱う作家ならば一度は扱う題材、ナチスだ。ナチスの残党を追うモサドとそこから逃れようと身分を変え、潜伏している元ナチスの党員や人体実験を行った科学者たちの息詰まる情報戦を描いている。

オーストリアの湖から引き揚げられた箱の中にはナチスの残党に関する情報が収められたファイルがあった。ロシアの宇宙開発に携わるヴラジミール・クルノフは自分がナチス時代、ユダヤ人収容所で様々な人体実験をした責任者ハインリッヒ・ケルマン博士だったことを明かされてはならぬとベルリンへ乗り出し、ファイルを手に入れようとするが、バヴァリア訛りの謎の男に彼がケルマン博士であることを知られ、脅迫される。

この謎の脅迫者の正体と一連の事件の真相は物語の3/4辺りで明らかになる。

世界でも執念深さと世界中に散らばるユダヤ人と云う広範な情報網を持ったモサドという組織の凄さを改めて思い知らされた。

第3作目にして世界におけるナチスの存在の忌まわしさとモサドのナチスに対する復讐心の奥深さと執念深さを何の救いもなく描くとは、とても新人作家のする事とは思えないのだが。

また本書が発表された1975年はイスラエル問題の最中でもあり、また解説によれば実際に翌年の1976年に国際指名手配されていた元ナチスの党員が世界各国で自殺を遂げており、まだ第2次大戦から地続きであった時代だったのだ。

このユダヤ人大量虐殺を行ったナチスに対して異常なまでに復讐心を燃やすイスラエル政府の執念深さはマイケル・バー=ゾウハーの諸作で既に知っており、最近読んだノンフィクション『モサド・ファイル』は本作をより理解する上で非常によい参考書となった。
特に本書にも出てくるゴルダ・メイヤやモシェ・ダヤンといった実在の政治家は同書に写真まで掲載されているのでイメージも喚起しやすかった。書物が書物を奇妙な縁で結ぶことをまた体験したのだが、逆に云えばこのようなエスピオナージュの類を読むならば、『モサド・ファイル』ぐらいのノンフィクションは読むべきなのかもしれない。

題名『明日を望んだ男』はナチスの亡霊から逃れようとしたハインリッヒ・ケルマンやヘルムート・ボックら残党達だったのだろうが、それらに復讐を計画したナチスのユダヤ人収容所出身のウリ・ペレツもまた忌まわしき過去を清算して新たな「明日を望んだ男」なのかもしれない。
彼らが望んだ明日とは決して無傷では得られないものであった。それほどナチスが世界に及ぼした傷跡は深いのだと云う事を改めて教えられた。
だからこそいまだにナチスをテーマにした作品が紡がれるのだろう。本書はフリーマントルにとってナチス、モサドを題材に扱っていく足掛かり的な作品であったことはその後の作品からも窺える。

しかし本当に救いのない話だ。


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明日を望んだ男 (新潮文庫 フ 13-3)
No.523:
(7pt)

予想外の美しいロジックの本格ミステリ

泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第6作。なんと前作から11年ぶりの作品だ。
ブロックによれば彼の中にはいつも登場人物が住んでいるらしく、彼らが時々現れて新たな物語を教えてくれるとのことだ。久々にマット・スカダーシリーズの新作と殺し屋ケラーシリーズの新作を出したが、それも彼に云わせればまだ彼らが生きていたからだろう。

さてそんな久々のシリーズ作品は日本人にはほとんど馴染みがないが、アメリカでは株や絵画の売買や不動産以上の投資効果があると云われる野球カードに纏わる物語だ。

といっても物語は単純明快のようで複雑に展開する。密室殺人あり、偽装殺人ならぬ偽装窃盗ありと、案外本格ミステリど真ん中の設定と新たなヴァリエーションを加えられて物語は進む。

演劇を観に不在になることが確実な裕福な夫婦の邸宅に忍び込むはずが、結局適わず、夜中に1本の電話を掛けるだけで終わる。しかし何の因果か、キャロリンと別れて家路に向かう途中で出くわした美女にしばらく海外旅行に行っている夫婦がいることを知らされて、そこに忍び込んで大金をせしめるが、その家のバスルームに死体を発見してしまう。
通常ならばそこでバーニイに殺人の濡れ衣を着せられるのだが、本作では電話を掛けた裕福な夫婦がコレクションしている貴重な野球カードが盗まれており、その容疑がバーニイに掛かって逮捕されるのだ。
さらに忍び込んだ先で出くわした死体はそのコレクターから野球カードを盗み出した当人だと以前出くわした美女に教えられる。しかし野球カードコレクターは実はカードは盗まれてなく、自分が売り払った後に盗まれたと証言して保険金をせしめたのだった。

とまあ、このように物語は二転三転、四転五転していく。登場人物の相関関係が複雑に絡み合い、これらが綺麗に繙かれるのかと心配するが、ブロックは最後の大団円で、バーニイは関係者を集め、推理を開陳する段になって、全てが鮮やかに解き明かされる。

それはなんとも美しいロジック。特にこのシリーズの前作や前々作ではこの本格ミステリ趣向を全面に押し出そうとしたせいか、却ってプロットが複雑になり過ぎて、読了後も煙に巻かれたような思いが残って釈然としなかったが、本作では実にシンプルに解き明かされ、カタルシスをも感じた。
ただエラリイ・クイーンらとは違うのは彼が直感的に推理を紡ぎ出しているところもあるところだが、それは許容範囲だろう。

また野球カードに熱狂するアメリカ人の心情は以前なら理解し難かったが、今ならば日本人もトレカ、つまりトレーディング・カードで同様な行為をしている人々もいるので、全く別の世界の話とまでには刊行当初の1994年に比べてはなっていないだろう。
とはいっても私はトレカも門外漢なので本書のように何万ドルもの価値のあるトレカがあるのかどうかは解らないのだが。

さて古書店主になってからのバーニイのシリーズでは本に纏わる薀蓄、特にミステリに関する小咄が多くて海外ミステリファンの心をくすぐるのだが、本書ではスー・グラフトンの作品に集中しているのが興味深い。
特に彼女の代表作であるキンジー・ミルホーンシリーズの『アリバイのA』に代表されるアルファベットをモチーフにした題名をパロディにしたやり取りが実に面白い。これは当時アメリカミステリ作家クラブか何かでスー・グラフトンとかなり親しくなったのだろうか?とにかく出てくる、出てくるパロディのオンパレード。最初から最後までこのキンジー・ミルホーンシリーズの題名をパロッたやり取りが繰り返される。

さて今までのこの泥棒探偵シリーズはバーニイが泥棒でありながら、アルセーヌ・ルパン張りに殺人を犯さず、しかも仕事の後は仕事の前と変わらぬように部屋を片付けて出ていく、スマートさを信条にした泥棒であり、その彼が図らずも殺人事件に巻き込まれて、窃盗以外の罪を着せられそうになるのを防ぐために自ら事件解決に乗り出すのが物語の必然性になっていた。
しかし本書では恒例のように盗みに入った先で死体を発見し、さらに彼に常に疑いを持つ刑事のレイ・カーシュマンに逮捕はされるものの、保釈金を払って出所してからは、彼に危難と云う危難は訪れず、寧ろ野球カードに纏わる人々たちに請われる形で盗みに関わっている。そして今までのシリーズの中で最も盗みを働いた作品でもある。
つまり野球カードの在処は判明し、もはやルーク殺害事件からは全く関係のない立場に置かれたバーニイはなぜか目の上のタンコブであるレイ・カーシュマンがその事件に執着していることを聞いて、事件解決の場を設けるのである。この辺は一見犬猿の仲に見えながらも奇妙な友情がバーニイとレイには介在するのかと思わされてしまった。

11年ぶりに書かれたこのシリーズもこの結末を読めば、もうこれで打ち止めかと思われるのだが、まだこの後も続編が作られた。これは嬉しい限り。

さあ、二見書房が『獣たちの墓』を(映画化のためとはいえ)新訳刊行したのだから、このシリーズもポケミス版のみの作品もぜひとも文庫化をお願いしたいものだ。頼みますよ、早川書房。


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泥棒は野球カードを集める (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.522:
(7pt)

脂の乗り切った頃のマクリーンは良い!

マクリーン第5作目の本書の舞台はもはや彼の独壇場とも云える極寒の地グリーンランド。国際地球観測年の観測隊の基地に突如不時着した旅客機の乗員たちを巡る物語だ。

5作目の本書でのマクリーンの筆致はまさに油に乗り切っている。極寒の地で我々の想像を超える世界と人間に降りかかる危難の詳細な描写は磨きがかかっており、読むだけで我々を氷点下100℃の世界へと誘ってくれる。

例えば観測隊たちが住んでいる組み立て式の建物ケビンは跳ね上げ式の扉がついているが、そこには叩き傷がついている。それはドアに付着した凍結した氷を砕かないと開けることが出来ないからだ。ナット1つ締めるのでも、凍りついたナットを手袋で温めなければ廻らない。
そんな細かいディテールが我々を極寒の地での生活にいざなってくれる。

そして金属に素手で触れるだけで手の皮は剥け、血まみれになり、スノーマスクとゴーグルをしなければ冷気で凍りついた空気中の水分が細かい刃となって目や喉を切り裂く。ほんの数分、外気に晒されるだけで凍傷に見舞われる。
そんな登山家でも音を挙げる厳寒の環境の只中にいるのは往年の名女優やセールスマン、上院議員に神父、等々とまさにこんな状況とは無縁の世界にいる人々たちだ。しかし彼らは生きるために馴れない環境でお互いに手を取り合って協力し合う。
そしてそうしている間にも刻々と彼らの命の灯火は削られていくのだ。次第に話し声も少なくなり、とにかく暖を取って無駄な体力を消耗せぬようにお互いに抱き合って蹲っていく姿は思わず唾を飲みこんでしまった。

そしてそんな中にも主人公メイスンたちを邪魔する人が潜んでいるサスペンス性もある。

不時着した旅客機の一行の中に潜んでいる悪党たちがいったい誰なのかと云う犯人捜しの妙味と極寒の地を苦難に次ぐ苦難、そして正体不明の犯人による心無い妨害と迫害が絶妙なバランスで溶け合い、サスペンスを盛り上げ、読者を飽きさせない。

しかし本書の前に書かれた『シンガポール脱出』や『最後の国境線』に比べてこのリーダビリティの高さは何故だろう?

それは本書の設定の明瞭さにあると私は思う。

正直に云えば本書のバックストーリーである最新鋭ミサイルの機密情報を狙う悪党と云う設定は単なる飾りに過ぎない。本書はやはりデビュー作と『ナヴァロンの要塞』に見られた厳しい自然環境の中で苦闘する一般の人々と健気で必死に生きようとする姿を描くことにあるのだ。

特に本書では主人公メイスンが観測基地に派遣された医師であり、それ以上でもそれ以下でもない人物であることが非常に興味深い。
今までのマクリーン作品は不屈の闘志を持つ軍人や仮の姿をしたプロのエージェントといった謎めいた主人公が多く、つまり常人を超えた能力を備えた人物が多かった。
しかし本書のメイスンは正真正銘ただの医師である。従って彼は見当違いの推理をしては誤りを繰り返し、また犯人に出し抜かれるような隙の多い行動が多く、失態を繰り広げる。だからこそ主人公を含めた登場人物たちに降りかかる災難が必然性を伴って感じられるのだ。

極端に云えば主人公メイスンは物語では狂言回しであり、、ヒーローは彼の部下で陽気で寡黙なエスキモー人ジャックストローであり、無線通信士のジャスであり、乗客の1人である若きボクサーのホープ、ジョニー・ザゲロであるのだ。

しかしこの頼りないリーダーが実に人間臭くていいのだ。医者でありながら早とちりをし、判断を見誤っては仲間たちに苦難をもたらす。しかしなぜか皆が頼りにするリーダーシップを備えているのだ。憎めないキャラクターだと云えよう。

さて本書の原題は“Night Without End”、つまり「終わりなき夜」だ。
13人の不時着した乗客の中に事故を起こし、また命を奪おうとする犯人が潜んでいる疑心暗鬼の中で生き残りをかけ、極寒の地を戦前のオンボロ雪上車で決死行に臨むメイスンたち一行の不眠不休の決死行を表すのに絶好の題名である。
それに比べると邦題の『北極戦線』は何とも味気なさを覚えてしまう。もっと小洒落た邦題は浮かばなかったのだろうか?例えば私なら『終わりなき北の決死行』とでも付けようか。

私はやはり妙に謎めいた設定を持ち込んで読者をじらさせる作風よりも本書のような明瞭な設定をリアリティ溢れる筆致で描くマクリーン作品の方が好みである。本書を読んでそれを改めて強く思った。


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北極戦線 (ハヤカワ文庫 NV 147)
アリステア・マクリーン北極戦線 についてのレビュー
No.521:
(7pt)

フリーマントルは初期からフリーマントルだった

本書が発表された1974年は冷戦状態にあった米ソ間がデタント、つまり緊張緩和の時代に入った頃だ。つまり国民が西側への接触を決して許さなかったソ連がその戒めを緩め、寧ろ世界へ国力を誇示する意向を示している。
フリーマントルはその様子をロシア人がノーベル賞を受賞するシチュエーションでその国威宣伝に携わる男の苦悩と危うい立場を描いている。

まずロシア人初のノーベル賞受賞者を出すという大役を任されるのが主人公のヨーゼフ・ブルトヴァ。かつて父の政敵だった現文化相ユーリ・デフゲニイによって父と共に失脚させられ、収容所生活を送っていたかつての対西側交渉のプロ。

その彼がノーベル賞を受賞させるために協力するのが片田舎出身の作家ニコライ・バルシェフ。このニコライは天才にありがちな社会不適合者の性格を持ち、多くの人々の前では萎縮し、酒に溺れて失態を演じる、世間知らずの文学青年だが、ジミー・エンデルマンというカメラマンを得て次第に尊大さを肥大させていく。

そしてヨーゼフの妻パメラはなんとイギリス人。イギリスへの帰国のチケットを持ち、夫不在の中、馴れないロシアでの生活に不安を募らせ、いつ帰国しようかと揺れている、精神的にも不安定な若き妻。

しかしノーベル賞作家と共にイギリスとアメリカの要人と会見し、駐在大使や文化省次官、そしてヨーゼフがそれぞれの思惑を孕みつつ、作家を餌にして失地回復や新たな出世の階段に上ろうとする丁々発止のやり取りはあるものの、題材がいかにも地味であることは否めない。
特に片田舎の在野の作家であったニコライ・バルシェフが突然得た名声の為に今までの質素な生活からは想像もできないセレブの世界に足を踏み入れ、自分を見失い、同性愛に目覚め、また麻薬に溺れるさまは典型的な成り上がり者の堕落物語である。
この政治的駆引きの嫌らしさとニコライと同行するカメラマン、エンデルマンが次第に傲慢ぶりを発揮し、倒錯の世界にどんどんのめり込んでいっては我儘を云ってヨーゼフを蚊帳の外に追いやる苦々しさを2つの軸だけで400ページ強もの物語を牽引しているかとは決して云えず、同じ話を交互に繰り返しているだけにしか思えなかった。ノーベル賞作家とカメラマンの傲慢な振る舞いに振り回されるヨーゼフが対峙すべき政敵との駆け引きに隠されたバックストーリーによるどんでん返しが最後に炸裂するのはフリーマントルならではだが、いきなり2作目にして400ページ強のボリュームで語るには題材に派手さがなく、小説巧者の彼でも“2作目のジンクス”があったのだなぁと感じ入ってしまった。

しかしデビュー作では爽快な読後感を与えてくれたのに、2作目にしてこの後味の悪さだとは。フリーマントルは初期からサディスティックな作家だったということが身に染み入るように解った。


▼以下、ネタバレ感想
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収容所から出された男 (新潮文庫)
No.520:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

21年という年月で変わった者と変わらなかった者

トゥローの作品は一貫して架空の都市キンドル郡を舞台にリーガル・サスペンス作品を紡いできた。従ってシリーズの登場人物たちはそれぞれの作品に顔を出し、関連性があった。
しかし本書のように再び同じ主人公が危難に陥る作品は初めてだ。本書はトゥローのデビュー作『推定無罪』の正真正銘の続編である。

21年前のサビッチが危難に陥ったスキャンダラスな事件は愛人の死を巡っての裁判でその時、サビッチは一度地に落ちたが、21年後は首席判事となり、最高裁判官の候補にまで上りつめている。

そしてこの21年後の今彼が直面したのは妻の死。しかしそれは検死の結果、自殺と判定されたが、過去の事件にあまりにも似通った状況からかつて敵として戦った検事側のトミー・モルトが再び相見えることになる。

しかしサビッチにとって最も致命的なのは元調査官アンナとの不倫関係。またもや21年前と同様の状況に陥っているのだ。
つまり前作と本作は表裏一体の体を成しているのだ。

首席判事まで上り詰め、最高裁の判事候補になろうとする男がなぜこうも女性問題で身を滅ぼそうとするのか。しかも21年前と違い、彼は60歳。21年前の39歳ならば、まああり得る話だが、もはや還暦の域に達した男が陥るスキャンダルではないだろう。サビッチはとことん女性にだらしないダメ男ぶりを今回も発揮する。

一方のアンナは34歳になりながら、バツイチの独身女性。男性遍歴は豊富だが、これまで長く続いたことはなく、22歳で結婚し、72日間の結婚生活を過ごしたに過ぎない。なぜか衝動的に落ちてはならぬ恋に落ちてしまう女性なのだ。
このアンナも社会的に高い地位を持ちながら、なぜ色恋沙汰にはだらしないのか。それはアンナ自身が次のように述懐する。

恋とは至高のものなのだ、愛が絡むとたしなみも分別も全て振り払うことが出来る、と。

好きになったら止められない、それがアンナという女性の本質らしい。

いやアンナを受け入れたラスティ・サビッチもまた衝動的に行動する人物だと云えるだろう。

男の女の恋情の機微。親と子が同じ一人の女性を愛する。偶然が招いたとはいえ、それがまた男と女の色恋沙汰の滑稽なところだ。
ロー・スクールを卒業して法律に携わる高潔な職業に就く者たちでも、こと恋愛に限ってはただの男と女に過ぎない。
いや寧ろ人を裁くという重圧とそれに掛かる膨大な資料と証言を相手に裁判に向けて下調べをしなければならない過酷な職業による我々の想像以上のストレスによってそれを発散するために愚かだと思いながらも愛欲に溺れ、浮世の辛さを忘れたがっているのかもしれない。
本書の面白さはミステリの妙味よりもそんなどうしようもない衝動に駆られる高等階級の人間たちのおかしさにあるのだろう。

また本書はトミーとサビッチという2人の男が歩んできた人生の光と影の物語と云えるだろう。
ロースクールの同級生でありながら、常にサビッチの後塵を拝してきたトミーはその風貌も相まって自信の無さが特徴で、逆にそれを長所に検事局のトップまで登り詰めた来た男だ。21年前、満を持して起訴に持ち込んだサビッチを、法廷の魔術師と称される弁護士サンディ・スターンによってことごとく反証され、打ち砕かれてからは特に用心深くなり、本書においても意気揚々の部下ジム・ブランドとは対照的に常に消極的な立場をとる。
しかし起訴してからは彼はそれまで携わってきた公判の中でもベストのパフォーマンスを出す。常に2番手に甘んじていた屈辱を晴らさんが如く。

このトミー・モルトを単純にコンプレックスの塊のような男とみなしてはならないだろう。
誰もが上昇志向を持っている法曹界というエリート中のエリートが集う業界で燻らせていた自尊心を回復するための、いわば己との戦いなのだ。私はこのトミーの心情に本書の妙味を感じた。

かつての雪辱を晴らさんとする男と男の矜持。そしていくつになっても愛を求める男と女の情念。
一つの事件を巡ってトゥローはそれらを訥々と綴っていく。

そしてトゥローの小説を読むと法廷は最上の劇場だと思い知らされる。
検事側が優位に立ったと思えば、翌日は弁護側が攻勢に出る。一つ一つの言葉に複数の意味を持たせ、一挙手一投足に百の言葉以上の含意を持たせる。

さらに双方の戦術によって無罪と有罪の天秤は激しく傾く。
特に今回は死者となったサビッチの妻バーバラの存在感がものすごく濃厚なのである。“死せる孔明、生ける仲達を走らす”とばかりにバーバラが仕組んだ数々の時限装置に被告人であるサビッチはもとより、弁護士、検事、判事らが奔走させられる。

人はそれぞれ秘密を持つ。それは家族であっても同じだ。
そして事件が起き、裁判という場が開かれ、四方八方から捜査のメスが入っても決して知られてはならない秘密は暴かれることはない。なぜならもはや裁判が真相を証明して正義を見せる場ではなく、一番納得のいくストーリーを仕上げて正義と見せる場となっているからだ。だから物事は常に歪められて解釈される。
ラスティ・サビッチ、バーバラ・サビッチ、ナット・サビッチ、アンナ・ヴォスティック、トミー・モルト、ジム・ブランド、サンディ・スターン。彼ら彼女らが知ったことは決して真実ではない。
彼ら彼女らは何を知り、また知らずに生きていくのか。そして今後知る機会があるのか。恐らくそれぞれが墓場で持っていかねばならないことだろう。だがそれでも我々はいくつになっても愚かなことをしてしまう。そしてそれこそが人生なのだ。


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無罪 INNOCENT
スコット・トゥロー無罪 INNOCENT についてのレビュー
No.519:
(7pt)

序文が復刊を妨げている所以か?

アンソロジストとしても名高いエラリー・クイーンが犯罪に纏わる女性が登場するミステリを集めたアンソロジーが本書。女性探偵物に女性犯罪者の短編がカテゴリー別に集められている。

まず「女性の名探偵―アメリカ編―」の劈頭を飾るのはミニヨン・エバハートの女性ミステリ作家兼探偵のスーザン・デアが活躍する1編「スパイダー」だ。
怪しげで決して仲が良いとは云えない老女たちがもたらす暗鬱な雰囲気の中に部外者のスーザンが放り込まれ、事件が起きる。そして神経症の発作を起こした依頼人のスーザンはマリーが他の部屋で話していたのだと思えば、実は自分の部屋にいたというドッペルゲンガーを髣髴させる奇妙な体験をする。
実に古式ゆかしいゴシック風のミステリだが真相はなかなかトリッキー。
幻想的な謎とその合理的解決と黄金期ミステリそのものと云えよう。

次は昨年クレイグ・ライスとの合作が訳出されたスチュアート・パーマーの女教師兼探偵のヒルデガード・ウィザーズが登場する「緑の氷(グリーン・アイス)」は宝石を盗み出した強盗をウィザーズとその相棒のオスカー・パイパー警部が追う話だ。
警察の無線を傍受して事件の捜査に無理矢理介入するのがヒルデガード・ウィザーズの探偵スタイル。つまり相棒の警部オスカー・パイパーにとって捜査の邪魔をする目の上のタンコブという設定だ。
本作の事件は行方の知れない宝石泥棒を捕まえるというものだが、ミステリとしては凡作かと。

ポール・ギャリコの生み出した女性探偵サリー・ホームズ・レインはその名前から「シャーロック」の愛称で呼ばれている女性新聞記者で、編集者のアイラ・クラークと結婚している。「単独取材」では農場で宝探しごっこをしていた少年たちが農場主の夫人に散弾銃で襲撃されるという事件をサリーが潜入取材して調べるという物。
衝撃的な真相に未だに身震いしそうになる。21世紀の現代でもこの結末には戦慄を覚える事だろう。

1作目のミニヨン・エバハートと共に<HIBK“もしも知ってさえいたら”>派の代表としてベストセラー作家だったメアリ・ロバーツ・ラインハートによる女探偵ルイーズ・ベアリングが登場する「棒口紅」は精神科医に通っていた妻が突然自殺した奇妙な事件の物語。
夫婦生活の秘訣は適度な距離感だと云う事を改めて知った次第だ。

「撮影所の殺人」のカール・デッツァーは今では全く知られていない作家だが、彼の創作した女性探偵ローズ・グレアムは映画会社の監督助手という特殊な職業に就いている。
監督助手とは撮影中断されたシーンが再開される際に繋がれるシーンと食い違いがないかを確認する役目を担う。つまり観察力が要求される職業で、まさに探偵役にうってつけの役割と云えよう。
真相はいささか肩透かし気味だが、映画監督助手の探偵という設定はなかなかに面白い。

短編のみアンソロジーに収録され紹介されており、まとまった短編集はまだ編まれていないマーガレット・マナーズは先のカール・デッツァー同様に森英俊氏の労作『世界ミステリ作家事典』にも収録されていない作家だ。その彼女のシリーズ探偵スクウィーキー・メドウが登場するのが「スクウィーキー最初の事件」だ。
色々な何気ない伏線が最後の真相に結びつく点、そして取り調べを重ねるうちに人物像が反転する価値観の逆転が起こる点はミステリとしては及第点だが、昔のミステリにありがちな捜査の部外者が堂々と事件現場に立ち入って素手で色々と物色する描写を読むと、解ってはいるが何とも現実感の無さに辟易してしまうし、何しろスクウィーキーの傍若無人ぶりが好きになれなかった。
1作目でいきなり殺人課の刑事と友人と云う設定も都合よすぎか。今では忘れられた作家であるのも解る気がする。

ハルバート・フットナーのマダム・ロージカ・ストーリーが活躍する「ジゴロの王」は本書では86ページと最も長い1編だ。
観光地に巣食う金持ちのマダム達をターゲットにしたジゴロたちの犯罪グループを壊滅するという、それまでの女性探偵が関わる事件よりもスケールの大きな犯罪に挑むマダム・ロージカ・ストーリーは金持ちのマダムでありながら、犯罪者たちの陥穽を見極め、また犯罪者たちを目の前にしても動じない肝の据わった女性で、犯人の脅迫にも屈しない。現代女性もこの女性の強さには憧れを持つのではないか。
事件はマダム・ストーリーが自らを囮となって組織犯罪のからくりを暴こうとするもので、書物を使った暗号のやり取り等、クライム小説のような展開を見せながらも最後に明かされるグループの元締めの正体でサプライズを仕掛けるなど、なかなかに凝った作品で、最も分量の多い作品だが、決して冗長ではなく、起伏に富んだ展開で読ませる。
この作家の作品、いやマダム・ストーリーシリーズをもっと読みたい気にさせてくれた。

これまた今では知られていないフレデリック・アーノルド・クンマーの「ダイヤを切るにはダイヤで」ではエリナー・ヴァンスというどこかで聞いたような名前の女性探偵が登場する。
冤罪を晴らすために容疑者に探偵が接近するのではなく、冤罪を掛けられた関係者を近づかせて逆に罠を仕掛けてぼろを出させるという解決方法が珍しい。
最後の最後でタイトルの意味が解るのもなかなかだ。

シャーロッキアンとして有名らしいヴィンセント・スカーレットの女性探偵サリー・カーディフが登場する「オペラ座の殺人」は文字通りオペラ公演中に起きた殺人事件の謎を探る作品だ。
公演中の劇場で起きる衆人環視の中での殺人事件はクイーンやカーも扱った題材で謎としては魅力的なのだが、その魅力的な謎に比肩する魅力的な真相になかなか出会えないというのが実情だ(そういう意味では『ローマ帽子の謎』はかなり意外な佳作と云える)。ヴィンセント・スカーレットの本作も演劇の出演者が犯人だという意外性は買えるものの、謎解きの内容を読むとやはり無理を感じざるを得ない。
また探偵役のサリー・カーディフもいわゆる美人で聡明と云う男の願望を具現化したようなキャラクターでこれと云った特徴がないのが残念だ。この作家の作品の訳出が進まないのももしかしたら探偵役に魅力的な特徴がない故かと勘繰ってしまった。

クイーンの紹介文によれば恐らくこの作品が唯一の作品となるらしい。ヴァイオラ・ブラザーズ・ショアなる作家による女性探偵グウィン・リースが活躍する「マッケンジー事件」は39ページの分量ながらも実に起伏に富んだ展開を見せる。
この作品は実によく出来たミステリだ。

H・H・ホームズはアンソニー・バウチャーの筆名だが、本作「フットボール試合」は原稿用紙から印刷された出来立てホヤホヤの作品とのこと。
フットボールの試合に勝つために容疑に掛けられているフットボールの花形選手を釈放させるためにその付添いのかつての名選手が嘘の証言をすると云うのがいかにも熱狂的なフットボールファンの多いアメリカらしい。かなり強引な展開なのに何故か納得してしまう。
しかしながら犯人の手掛かりが賭博師の手にしたゲームの負けカードの数字に隠されていたというダイイング・メッセージを使いたかっただけの物語で、ダイイング・メッセージ好きのクイーンには大いに受けただろうが、トリックありきの作品になったのは非常に残念だ。

さてここからは第2部「女性の名探偵―イギリス編―」。先陣を切るのはギルバート・フランカウの「サントロぺの悲劇」は船上で起きた事件を探偵キラ・ソクラテスコが捜査にあたる。
本書が特徴的なのは探偵が推理を間違え、ワトスン役によって過ちを犯すところを救われるという異色の結末を迎えるところだ。
ただ何となく物語が上滑りな感じがするのが残念だ。

翻って次のF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」は実に濃厚。
この作品の探偵ソランジュ・フォンテーヌの造形が見事。悪を予感する霊的能力を持っている女性と作者は述べているが、このようないわゆる感受性の強い女性なのだが、このような設定はえてして実に都合のいい能力と捉えがちだが、作者はソランジュを通じて彼女の接する人物を実に精緻に描いていく。
つまり人物分析を詳しく書くことで真相が明かされた時のサプライズが実に効果的に生きているのだ。
特に渦中の人物アンガスの描写が印象的だ。印象は実に善良に感じるのだが、心底そうではなく、また邪悪かと疑えば、それもまた違う。
新しい恋に目覚めた男が離婚に同意しない妻の呪縛を解き放つという表向きのストーリーが整然であるがゆえに、その裏に隠されたストーリーの陰鬱さが際立つ傑作だ。
この霊感が強いソランジュ・フォンテーヌという女性探偵は使い方によっては万能すぎて読者は鼻白んでしまうが、本作はその特徴が見事に融合して成功している。

17ページという短い分量のグラディス・ミッチェルの「百匹の猫の事件」は女性探偵ミス・ブラッドレーが周期的な記憶喪失に悩まされる患者にあうことになる。
正直この前に読んだ「ロトの妻」が鮮烈すぎてこの作品の印象はその分量と同様とても、薄い。

ヴァレンタインの「銀行をゆすった男」はハリウッド映画にもなりそうな個性豊かな探偵チームが登場する。
実に面白い。
資金は潤沢にあるために報酬は不要とする<調整者>たち。その名の由来は「犯罪者と被害者の間にある不公平を調整するため」に存在しているからだ。この<調整者>たちは10代の娘しか見えない愛らしいダフネ・レインを中心に運動万能の伯爵の1人息子、探検家、演出家、刑事弁護士というメンバーで構成されており、悪を正すために有罪を証明するのが困難な犯罪者に立ち向かい、作戦を立てて悪を懲らしめるのだ。
う~ん、この明快さが何とも気持ちがいい。映画化するに相応しい題材だ。こんな作品が1929年に書かれていたことが驚きだ。

ファーガス・ヒュームの想像した女性探偵ヘイガー・スタンレーは質屋を営んでいるという変わり者だ。「フィレンツェ版の珍本」は彼女の店に持ち込まれたダンテの<神曲>の第2版を巡る物語だ。
100ポンドもの高価な本に隠された伯父の財産の在処が隠されているという魅力的な謎の真相が小学生の時に私がマンガで読んだ手法だったのに脱力した。

ステーシー・オーモニアの「恐怖の一夜」は寺院町イージングストークのミス・ブレースガードルが南アメリカから帰郷する妹を迎えに行った宿泊先のホテルの部屋にいつの間にか見知らぬ男性が寝ているという状況に出くわす。
貞淑なミス・ブレースガードルは男と一つの部屋にいることに恐怖を覚え、どうにかこの状況を脱しようとするが、やがてこの男性が死体であることに気付く。
正直この作品はこれだけの話である。
イングランドの外にも出たことがなく、男性との付き合いもしたことのない箱入り娘が出くわす見知らぬ男が部屋にいるというシチュエーションに戸惑い、最悪の状況を想定する動揺ぶりが細かく綴られるだけである。つまり世間ずれしていない女性にとっては見知らぬ男と一緒にいる事自体が一夜の冒険だというのがこの物語のテーマなのだろう。

さて第2部を締めくくるのは二大巨匠の手による作品。ガストン・ルルーの女性探偵レディ・モリーの「インヴァネス・ケープの男」とアガサ・クリスティーのミス・マープルが登場する「村の殺人」だ。
前者はある人物の失踪事件を扱った物。
しかしこのトリックが商店街を荒らし回る方法として有効なのかよく解らない。
一方後者の方はさすがの逸品といった作品だ。
片田舎で起きた一人の夫人の死。しかし平穏な村ではその事件でパニックに陥ることなく、牧歌的な雰囲気で物語は進行する。小さな村では村人は皆家族のような物であり、当然ながら被害者の過去も知っている。昔女中として勤めた屋敷で盗難事件が起きたことなど。そんなゆったりとした時間の中でミス・マープルによって明かされる事件の真相は穏やかな村に潜むどんよりとした悪意を読者に知らしめてくれる。
やはりクリスティーの物語は深い。

次の第3部「女性の大犯罪者―アメリカ編」では2編紹介されている。ジョン・ケンドリク・バングズによるパロディ、ラッフルズの妻が主人公の「鉄鋼証券のからくり」とフレデリック・アーヴィング・アンダソンの「贋札」だ。
前者はミセス・ラッフルズの所有する時価10万ドルの鉄鋼証券を担保に150万ドルをせしめる詐欺の一部始終が語られる。
これは古き良きアメリカだからこそ実行可能な詐欺だ。
何とも原始的だが、交通網が発達していない当時ならば有効な手だったのだろう。
後者は最後の最後まで女性犯罪者の正体が判明しないという特殊な作品。
紹介文にあるようにこの作品で語られる犯罪が明かされるのは物語の最後でそれまでは何が起こっているのか読者には解らない。
何が事件なのか解らぬまま、その裏に事件の翳が隠されているという趣向は当時かなり斬新だったのではないだろうか。

最後の3編は「女性の大犯罪者―イギリス編」。そのうち2編エドガー・ウォーレスの「盗まれた名画」とロイ・ヴィガーズの「グレート・カブール・ダイヤモンド」は女怪盗物だ。
それぞれ見つからない盗品を探すという同じテーマでしかも双方とも盗んだと見せかけて実は屋敷から持ち出していないというトリックを扱った物。
前者の女怪盗フォー・スクウェア・ジェーンは義賊でぬくぬくと肥え太った金持ちから有名な絵画を盗み出し、返却の代償として小児医院に5000ポンドの寄付を強要する。そして寄付の後、女怪盗はご丁寧に絵を返却する。
後者は女怪盗フィデリティ・ダヴがアメリカの鉱山王夫人が所望しているあまりにも有名な大型ダイヤモンド、グレート・カブールを所有者から見事盗み出すが、この怪盗は一歩もダイヤは屋敷から出ていないという。所有者は警察の手を総動員して屋敷中を探すが見当たらず、翻ってミス・ダヴはこのまま見つからなかったら、自分が20000ポンドで屋敷ごと買い取ると宣言するという話。
これはどちらかと云えばポーの「盗まれた手紙」を想起させ、そう考えるとチェスタトンの件はミスディレクションだったと思えるのだが、あまりにヒントが明らさますぎた。あと厳重なセキュリティ・システムのかいくぐってダイヤを盗み出す方法が全く語られておらず、「ミス・フィデリティ・ダヴならばこれくらい朝飯前」で済まされているのには苦笑を禁じ得ないが。
しかし両者はこれぞミステリとも云うべき女性版怪盗ルパンの登場だ。ミステリど真ん中の怪盗譚は明快で気持ちのいい物語だった。

最後を飾るのはフィリップ・オッペンハイムによる「姿なき殺人者」だが、物語のテーマはイギリスを騒がせている大犯罪王マイクル・セイヤーと隠退した元ロンドン警視庁刑事ノーマン・グレーズの静かな戦いだ。
逃げる犯罪王に追う元刑事。
一人の女性犯罪者の誕生を登場人物それぞれの視点で描いた佳作だ。


題名が示す通り、女性が犯罪にメインで関わる作品を集めたアンソロジー。

本アンソロジーもクイーン自身による、本書が編まれることになった経緯を語ったはしがきから幕を開ける。そこには古書収集家のクイーンらしく、女探偵の登場の変遷から現在に至るまでの道のりなど、歴史的価値の高い資料としての情報がいっぱい詰まっているのだが、このはしがきの内容は平成の世では実に問題が多い、男尊女卑の考えが明らさまに出ていて苦笑を禁じ得ない。このはしがきの内容のせいで復刊されないのかと勘繰ってしまうほどだ。

さて登場する女探偵たち、もしくは女犯罪者たちは概ね有閑マダムの暇つぶしのような探偵や犯罪者が大半で、中には退屈な日々を紛らすために警察との知恵比べや障害を乗り越えるため、つまりスリルを味わうために犯罪をしていると堂々と述べるキャラクターもいるほどだが、女探偵の場合はそんな中にも探偵を副業として正規の職業に携わっているのが特徴的だ。作家兼探偵、教師兼探偵、新聞記者兼探偵、映画監督助手兼探偵と、特徴的な職業を持ってるがゆえに事件に関わってしまう者もおり、そこに探偵小説の進化を読み取れたりもする。

女性は家を守るものとされていた時代で女性探偵が職を持っているのは非常に珍しいと思う。逆に時代に先駆けて自立した女性だからこそ探偵業も成せるという裏返しなのかもしれないが。

しかし本書に収められた短編ではまだまだ小説創作の技法が幼く、その特色を物語に活かせていないのが残念だ。

上下巻24編が綴られた本書の中で個人的ベストを挙げるとそれはポール・ギャリコの「単独取材」だ。女性新聞記者が探るニュー・ジャージー州の片田舎で起きた牧場主による子供への銃撃事件を取材すべく、お手伝いとして牧場に潜入したサリー・ホームズ・レインが最後に行き着くおぞましい牧場の秘密は今でも総毛だつほどだ。現代でも十分通じる本当のミステリだ。

そして次点ではヴァイオラ・ブラザーズ・ショアの「マッケンジー事件」とF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」、アガサ・クリスティーの「村の殺人」とそして最後のフィリップ・オッペンハイムの「姿なき殺人者」を選ぶ。単なるサプライズに留まらず、読後心に「何か」を残す作品たちだ。

「マッケンジー事件」はパトリシア・ハイスミスを思わせる成り替わり劇がもたらす運命の皮肉を、「ロトの妻」は惜しまれつつ亡くなったルース・レンデルが見せる価値観の逆転とそのためにじわじわと巻き起こる登場人物の真意の怖さを、「村の殺人」はのどかな片田舎に潜む悪意を、「姿なき殺人者」は犯罪者の誕生を実に印象的に語っている。

また収録されている作家たちにも着目したい。
まず第1作目を飾るのがミニヨン・エバハートというのがご時世を表していて興味深い。当時コンスタントに年1、2冊発表していた作家でアメリカ探偵作家クラブの会長も務めたほどの才媛だったようだ。恐らく本書が編まれた当時は作家として円熟期にあったのだろうが、現代ではもはや翻訳本は全て絶版であると時代の流れの残酷さを感じてしまう。

また森英俊氏による『世界ミステリ作家事典』に紹介されていて、今なお紹介が進んでいない、まだ見ぬ巨匠たちは彼女たち以外ではスチュアート・パーマー、ヴィンセント・スカーレット、フレデリック・アーヴィング・アンダスン、エドガー・ウォーレスだが、それ以外にも同事典に収録されていない作家がわんさかといた。個人的には上に挙げたベスト5の作家だけでも埋もれた作品を掘り起こしてほしいものだ。

私が選出した作品は5編だが、上に書いたそれぞれの感想に述べたようにそれ以外にも光る作品は多々あった。
24分の5。打率にして2割ちょっとだが、それでも本書は復刊されうるアンソロジーだと思う。
やはり障害はあの序文かな。そんな瑕疵に目を瞑って、ぜひとも復刊してもらいたい。


▼以下、ネタバレ感想
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犯罪の中のレディたち 上―女性の名探偵と大犯罪者 (創元推理文庫 104-26)
No.518: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

それぞれに容疑者xの要素が含まれている短編集

探偵ガリレオシリーズ4作目の本書はシリーズの原点に立ち戻った短編集。そして本書から当初TVドラマ版のオリジナルキャラクターであった内海薫が登場する。

「落下(おち)る」はマンションから転落した30歳独身女性の事件。
綺麗に片づけられた部屋でいかにして死体を飛び降り自殺したかのように見せかけるのか?部屋に残されているのは凶器と思われる蓋付の鍋と掃除機。
この謎掛けに対して湯川はピタゴラスイッチのごとく、非常にアクロバティックな実験をして犯行が可能であることを実証する。トリック成立の細かい説明のあたりは島田荘司氏の本格ミステリ作品の謎解きを読んでいるからのようで、非常に面白い。

2作目「操縦る」は放火事件を扱った物。
工業科学ともいうべき専門的な内容を事件のトリックとして応用するところに東野圭吾氏の先鋭性を感じる。
収録作品中2番目に長い本作はやはり事件に湯川のかつての師が関わっているところによる。それについては後で詳しく感想を述べよう。

続く「密室(とじ)る」でも湯川の知己の人物が登場する。
「操縦る」ではかつての恩師、そして本作では元同級生と湯川に縁のある人物に纏わる事件が並ぶ。
友人の経営するペンションの宿泊客が突然窓から抜け出て崖の下に転落したという何の変哲もなさそうな事件。これだけならば科学の天才である湯川の出番が必要ないと思われるのだが、きちんと本作でも最新科学がトリックに盛り込まれている。
今回は密室の正体が非常に面白い。とうとうここまで密室トリックは来てしまったのかという思いを抱いてしまった。正直このトリックは1回限りにしてもらいたい。
また宿泊ノートに綴られた何気なく子供が書いた風呂の感想から事件当時の不整合性を見破るところも科学の知識あっての故だ。なるほど風呂に入った時に時々出来る空気のつぶつぶは冷たい水に溶け込んだ空気が刺激されて身体に付着するからなのか。しかもこれは一番風呂でないと起きないとのことで、またも勉強になった。

2作目の短編集で印象に残った作品に「予知る」があったが、次の「指標(しめ)す」もそれに似た味わいの作品だ。
ダウジングとは曲げた針金を両手に持って地中に埋まっている水道管や金属を探し当てる方法で、本作によればまだ科学的根拠もなく、探し当てる確率も盲滅法に探すのとほとんど五分五分らしい。
そのダウジングを亡き祖母から譲り受けた水神様と呼ばれる水晶の振り子で中学3年生の真瀬葉月は行い、今まで色んな物を探し、また自分の人生の選択をしてきたという。その一種眉唾科学に今回湯川学は対峙するのだが、正直歯切れの悪い結末ではある。
つまりはダウジングの信憑性はまだ今の科学では証明できないだけであり、それもまた近い将来解明される科学の一種であると湯川は云っているのではないだろうか。真瀬葉月は「予知る」に出た本当に予知視できる少女の姿とダブり、もしかしたら敢えてダウジングの実験を湯川はしなかったのではないかとも思えるラストの余韻はなかなかだ。

最後の「攪乱(みだ)す」は湯川に恨みを持った人間が犯人となる。
本書で最長の最後を飾る本作はそれまでの事件と違って犯人は明確に湯川に対して挑戦状を叩き付ける。つまり今度の事件は今まで他者の事件だったのが、湯川自身に恨みを持つ人物による犯行なのだ。
そういう事態に陥ったのは湯川が警察の捜査に協力していることが一部マスコミに知れたことでかつて湯川に学会で恥をかかされた男が逆恨みで湯川に復讐をするため、自分の行う犯行方法を解き明かすことができるのかを湯川を名指しで指名することでその鼻を明かそうというのが犯行の動機だ。
いわば古典的な名探偵対犯人の構図なのだが、犯人が研究者にありがちな社会不適合者であり、自分のミスを他人のせいにする精神的に未熟な人物であり、また人を離れた場所から殺害する手段を持ちながら、世の中を騒がせ、湯川を挑発する幼さが典型的な現代の世相と云えよう。
また本作で使われたトリックはまたも普通の読者の知らないハイテクだが、使われている内容は昔からある理屈である。つまり古くからある知識に最先端の技術を応用してミステリを書く。これこそガリレオシリーズの醍醐味といえるだろう。


冒頭でも書いたが本書で特徴的なのはドラマのオリジナルキャラクターだった内海薫がレギュラーとして登場する点だ。そして彼女の登場は事件の捜査に奥行きをもたらしている。
今まではいわゆる普通の刑事草薙が難事件に直面して湯川に助けを求めるパターンで、このパターンは踏襲されているものの、湯川の非凡さを際立たせるためか、東大をモデルにしたと思われる帝都大OBでありながら草薙刑事はキャリアのエリートといった風格もなく、至極凡庸な刑事に描かれていた。
しかし女性の刑事である内海が捜査に加わることでそれまでの事件ではなかった女性特有の視点が加わって、警察の捜査に幅が広がっているのだ。つまり極端に云えば、無能な警察のように描かれていたのが、内海が入ることで日本の警察の優秀さが少しばかり加味されるようになったように感じた。

そして『ガリレオの苦悩』と冠せられた本書は『容疑者xの献身』を経てから書かれた短編で構成された作品で、各短編で見せる湯川の心情は『容疑者~』以前のそれとは明らかに異なり、それまで謎そのものに対する興味しかなかったのに対し、事件に関わる事での苦悩や事件の関係者の心情に対しての考察が見られるのが特徴的だ。

例えば1作目の「落下る」では自らの手でかつての学友であり、ライバルだった数学者石神を司法の手に渡すことになったショックからか、警察の捜査に非協力的になっている。
『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各短編では一見不可解な事象を解き明かすことに学者としての知的好奇心をくすぐられて、事件の解明に臨んでいた。それらの事件は湯川自身には何の縁もゆかりもない他人の身に起きた事件で、いわば他人事として捉えていたのだが、石神という自分の人生に関わり、また一人の天才として尊敬もしていた男の罪を自身で解き明かしたことによる精神的反動はこの天才科学者の心情に大きな変化をもたらしたようだ。

特に2作目の「操縦(あやつ)る」ではそれぞれ自分の大学時代の師が事件の犯人になっており、またもや自分の人生に関わる人間を司法の手に渡さなければならなくなる。本作の最後で学生時代の湯川を知る友永元助教授が科学しか興味のなかった湯川が隠された友永の真意を見破ることで人の心まで解るようになった湯川に驚きを示すのは、石神の事件を経てからこそだろう。

3作目の「密室(とじ)る」では大学時代の友人藤村の依頼で彼の経営するペンションで起きた事件の解明をするのだが、この作品にこそ湯川の心情の変化が如実に表れているように感じた。
謎自体は特段科学者の興趣を惹くものではないのに湯川は藤村の頼みから事件の調査を始めるが、恐らくは事件のあらましを訊いた時点で湯川には事件の構図が大体見えていたのだろう。
普通の生活を守るために犯行を実施せざるを得なかったとはいえ、罪は罪なのだと事件の真相を話す湯川の姿は石神の犯行を解き明かした時のそれと妙にダブった。

4作目の「指標(しめ)す」は先にも書いたが「予知(し)る」を髣髴させるテイストの作品だ。科学では証明できない不思議な事象を湯川は目の当たりにするが、敢えてそこに踏み込まない湯川の科学者としての懐の深さを感じさせる。

またこの作品では母と娘の母子家庭が捜査の対象であり、これが草薙にとって『容疑者xの献身』に出てくる花岡母娘を想起させる件が出てくるのがニヤリとさせられる。

そして最後の「攪乱(みだ)す」では湯川に勝負を挑む犯罪者が登場する。『容疑者xの献身』では湯川が天才だと認めた男石神と湯川の頭脳対決だったが、本作ではかつて学会で湯川に自身の研究について質問され、上手く応えられてなかったことで失墜した技術者が警察の捜査を手伝っている湯川に敵対心を燃やして犯行を実行するというものだ。
石神の時は偶然による対決だったが、本書では湯川に恨み(逆恨み以外何物でもないが)を持つ者が湯川自身に対して挑戦状を叩き付けているところが違うのだが、犯罪に加担せざるを得なかった石神に対して苦悶していたのに対し、本作では科学の技術を殺人に利用して世間を騒がせている犯人に憤りを覚えて対峙している姿勢もまた違う。

と各短編について湯川の心情の、いや人間性の変化を述べてきたが、それぞれの作品が実は『容疑者xの献身』の要素をそれぞれ分配させて成り立っている事に気付くことだろう。

かつて知的好奇心を満たす為、興味本位で警察捜査に関わっていたが、事件に関わることで自らもまた心を傷つくことを知った湯川。
かつての恩師や大学時代の友人の犯した罪を解き明かさなければならなくなった湯川。
健気に生きる母子家庭の親子が巻き込まれた事件に携わる湯川。
そして自らを敵とみなす犯罪者と対決する湯川。
それぞれが『容疑者xの献身』に込められたエッセンスだ。

そして湯川はあの事件で人の心の深みを知り、また作中でも人の心を知ることも科学で途轍もなく奥深いと述懐している。
これはかつて大学で理系を専攻し、トリックメーカーとしてデビューした東野氏が人の心こそミステリと作品転換したのに似ている。つまりこの湯川の台詞は作者自身の言葉と捉えてもいいだろう。

『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄しながら、敢えて現代科学の知識で本格ミステリを書いた『探偵ガリレオ』シリーズ。このトリック重視の作品に人の心の謎を持ち込んだ『容疑者xの献身』でこのシリーズも第2のステージに入ったと云えるだろう。

そして正直に云って『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各編よりも本書収録作の方が印象に残るのだ。これからのガリレオ探偵湯川学の活躍、いや事件への関わり方が非常に興味深くて読むのが愉しみでならない。


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ガリレオの苦悩 (文春文庫)
東野圭吾ガリレオの苦悩 についてのレビュー
No.517:
(7pt)

三つ子の魂百までのデビュー作

フリーマントルのデビュー作である本書はイギリスに亡命してきたソ連の宇宙科学者を尋問する聴取官の物語だ。

その主人公の聴取官エィドリアン・ドッズは決して魅力的な人物として描かれていない。

外見は痩せ気味のこれといって特徴のない男で35歳にして妻に愛想を尽かされた挙句、レズビアンの彼女の許に逃げられ、毎日のワイシャツとスーツのアイロンがけも儘ならず、しわくちゃのままに着用して秘書の眉を顰めさせ、その年配の秘書には手玉に取られ、遅刻や早退を思うが儘にされており、さらには完全に禿げ上がった頭髪を気にして周囲の人のみならず街ですれ違う人々のカツラを見破ることに専心しているという、およそ読者の共感を得られにくいキャラクターだ。

しかしこの男が尋問者として亡命者の前に立つと他に比肩する者がいないほどの洞察力と判断力を発揮する。12ヶ国語を話し、亡命者の専門とする分野の知識も身に着け、安易に会話の主導権を握らせない。

しかしアメリカ政府から早く2人の宇宙技術者を渡すよう圧力をかけられているイギリス政府内ではイギリス首相エベッツの巧みな話術に翻弄され、自らの地位を危うくしてしまう。

このうだつは上がらないが、仕事をすれば切れ者でありながら、自分の仕事に対する実力へのプライドが高いがゆえに、常に他者との駆け引きを重んじて自身の地位の安泰と出世のためにあらゆることを利用しようとする上層部からの受けが悪いエィドリアンの姿はどこか我々サラリーマンに通ずるところがある。

しかし我々日本人のサラリーマンと違うのはもはや最後通牒が突きつけられる段になっても自らの正当性を主張し、上司であれ首相であれ、反撃して説き伏せさせようとする根性だ。
1973年の作ではあり、当時の日本のサラリーマン社会には詳しくはないのだが、このエィドリアンの抵抗は当時も驚きだったのではないだろうか。

そして最新作『魂をなくした男』で終結した三部作でも描かれていたのはロシアのKGB高官の亡命劇なのだから、文体、プロットともフリーマントルは変わっていないことに気付かされた。

更には『魂をなくした男』でも亡命を目の前にぶら下げた人参として亡命先の国から逆に情報を得ようとする実に狡猾なロシアのブラフを驚愕のサプライズと共に読者の前に示してくれたが、デビュー作の本書でも旧ソ連一流のブラフを見せてくれる。

まさに想定の斜め上を行くソ連の描いたプランの恐ろしさと巧みさ。家族を大事に思うパーヴェルの性格を利用して、恐らくは家族を人質に強要されたのだろうが、それを微塵とも感じさせないパーヴェルの狡猾さ。

第1章から各章の終わりに挟まれる委員長カガノフを中心としたソ連の秘密委員会の怪しげな会話、真意が読めないパーヴェルの行動などの本当の意味が最後になって明かされる辺りに新人作家でありながら既にデビュー当時からミステリマインドを持った作家だったことが解る。

しかし三つ子の魂百までとはよく云ったもので、この主人公を主体にしたメインストーリーが繰り広げる中で章の終わりにインタールードのように挿入されるソ連の秘密委員会たちによる謎めいた会議の様子は本書ではサプライズのために実に有機的に機能しているが、これはフリーマントル作品ではお馴染みの構成で既に本書においてフリーマントルのスタイルとして確立されているのに驚いた。

さらにはチャーリー・マフィンシリーズを筆頭に描かれるイギリス人への痛烈なる皮肉。
上にも書いたが常にロシア人は物事の深淵を透徹した視野で物事を考え、イギリス人は目の前に駆引きに終始して、物事の本質を見極められないというイギリス政府蔑視の姿勢が既に本作で確立されているのには苦笑してしまった。

重ねて云えば先にも述べたように最新作『魂をなくした男』とデビュー作の本書が奇妙に題材が酷似していることもその裏付けだと云えるだろう。
そう考えれば自分の禿げ頭にコンプレックスを抱いてカツラ愛用者を見破ろうとしている奇妙な性格のエィドリアン・ドッズは危機を感知すると幅広な形の足が痛むチャーリー・マフィンの原型だったのかもしれない。

また本書は題名がいい。
原題は“Goodbye To An Old Friend”でこれが最後の1行として現れ、実に切ない余韻を残す。
そして邦題は『~した男』とフリーマントル翻訳作品の題名のフォーマットを踏襲しながら原題を活かし、読後にその真意に気付かされる、ミステリのお手本のような翻訳だ。

ただデビュー作ということもあってか、本書は珍しく皮肉屋のフリーマントルらしくなくサプライズと深い余韻を重視したエンディングになっている。正直に云えばいつもこのような形で終わればいいのにと思うのだが。

さて冒頭にも書いたが、本書はフリーマントルが37歳の時に「デイリー・メイル」紙の外報部長時代の頃に通勤中の車内で書いた物で、これが好評を以て迎えられた、フリーマントルの作家活動のきっかけとなった作品である。こういう物語を通勤中に書くことも凄いが(多分多少誇張も入っているだろうが)、37歳で部長職に就いていることだ。
日本の会社では一流の新聞社では恐らく考えられないことだが、実力主義のイギリスではこのような人事もあり得るのだろうが、現代の大作家は勤め人としても凄かったということか。


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別れを告げに来た男 (1979年) (新潮文庫)
No.516:
(7pt)

マットの誓いを我々は待っていた

『墓場への切符』から始まったいわゆる“倒錯三部作”を経たマット・スカダーシリーズも第11作目では圧倒的な悪との戦いから解放され、以前のシリーズの趣を取り戻したような様子で幕を開ける。

今回の事件はある弁護士の死の真相を探るという物。しかしその犯人はすぐに逮捕されて証拠もあるのだが、犯人の弟から事件の再調査を依頼される。

弁護士を殺害したとされる容疑者はジョージ・サデッキというヴェトナム帰還兵の精神障害者。戦争の後遺症で定職に就くことが出来ず、マットの住むクリントン地区界隈で浮浪者の如く生活している生活困窮者だ。

つまり弁護士と云う社会的地位の高い者を殺害したのは世間ではさして関心も持たれない社会の底辺生活者。この社会的弱者の無実を晴らすためにスカダーは勝ち目のない戦いに挑むのだ。

そして捜査が進むうちにこの四方八方から見て全く以て健全だと思われた被害者の弁護士グレン・ホルツマンには何か隠された謎があることが解ってくる。

小さな出版社の顧問弁護士というさほど高給な報酬を受け取っていなかった男がニューヨークの高級コンドミニアムの28階という実に長めのいい部屋をキャッシュで買い、クロゼットの中には30万ドルもの現金が隠されていた。この身分不相応な金の出処に事件の鍵をマットは嗅ぎ付ける。

このグレンが謎の大金を手に入れる秘密の真相は実に意外な物だった。

さて暗鬱な“倒錯三部作”を経た本書はそれまでのシリーズには見られなかった軽妙さがそこここに感じられる。それは前作でマットが決意したエレインと結婚を意識しているためか、どこか二人の掛け合いにそれまでにない薔薇色めいた華やかさを感じるのだ。

そして今や名バイプレイヤーとなったマットの助手TJの活躍も文体の軽妙さに一役買っていると云っていいだろう。前作『獣たちの墓』で大活躍したTJが本作でも事件の目撃者捜しという大役に大いに貢献する。

アル中探偵で警官時代の過去の事件でトラウマを抱えて1人孤独に社会の底辺で生きる人々の間を渡り歩いていたマットだが、もはや彼は一人ではなく、チームが出来上がっていたのだ。これが物語のトーンを変えているアクセントとなっているのは間違いない。

しかし本書にはどこか死の翳が付きまとう。
それはシリーズが進むにつれて確実にマットもエレインも齢を取っているからだ。

さらにマットは被害者である弁護士の妻リサとも関係を持ってしまう。それは幸せな家庭を理不尽な仕打ちで唐突に壊された未亡人に対するケアなのか、それとも恋をしてしまったのか、マット自身も解らない。
しかし時々無性に電話をし、逢いたくなる。それはエレインに対する裏切りであることを知りつつも辞められない、ミック・バルーの台詞を借りればいわゆる“男の性”なのだ。

かつては世間では取るに足らない存在に過ぎない人間の尊厳を守るために生前親しんでいた依頼人のために事件を探っていたが、今では死が全てを忘れ去ってくれるかのごとく、依頼人も固執せずに容易に依頼を真相が解らぬままで断ち切る。
時代が移ろい、人の心も移ろうのだ。

それはマットとて例外ではない。

1人ではなく、護る者が出来たマットが辿る静かな足取りながらも味わい深い物語をこの後も期待する事にしよう。


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死者との誓い (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死者との誓い についてのレビュー
No.515: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

まだ読んだことのない物語がここにある

島田荘司氏のノンシリーズである本書は読者の予断を常に超え、全く想像のつかない展開で物語が進んでいく。
それはあらゆる学問や知識が動員された奇妙な、しかしそれでいて実に説得力のある話が展開したかと思えば、奇想に満ちた世界が連続する。

まず開巻一番、御手洗シリーズに負けず劣らずにセンセーショナルな事件が繰り広げられる。

木に吊るされた2人の女性の死体。1人は性器の周囲を抉られ、内臓が垂れ下がり、もう1人は腹を一文字に裂かれ、骨盤が真っ二つに割られ、前に腹が引き出されているという、まさに島田氏ならではの読者の想像をはるかに超える凄まじい有様だ。

この猟奇的事件を追うのはワシントン東警察署のロン・ハーパーとウィリー・マクグレィという2人の刑事。この人智を超えた殺人事件の謎を追う展開は海外ミステリの警察小説のような色合いをまとっている。

そんな犯行の動機が理解し難い事件の謎はこれまた理解し難い手掛かりをきっかけに犯人に辿り着く。それはある大学院生が書いた恐竜滅亡の謎について考察した論文だ。この内容が実に興味深い。
なぜ2億5千万年前に出現した巨大な恐竜が1億3,500万年もの長き間に亘って繁栄し生き長らえたのかを現代科学の知識から解き明かしていく。その一つ一つが新たな見地を開いており、まさに蒙が啓かれる思いがした。ちょっとかいつまんで書き並べていこう。

現在生存する生物の視点から考えると恐竜のスケールの大きさやその骨格の不自然はどうにも生存するには不便であり、恐らく自重によって内臓が圧迫され、長くは生きられなかったとするのが当然であり、また草食の首の長い恐竜も胃までの十数メートルもの距離をベルトコンベアのような機能を備えていないと食物を運ぶことは到底不可能であることやバランスを取るために長い頸部と尻尾を平行にして歩行したと推測されているが、これらは構造の観点から云えば、かなりの負荷が頸と尻尾の付け根に課せられ、現代では吊り橋のような構造にしないと長期に亘って支えられないことも挙げられている。

また5トンもの体重があると想定されるティラノサウルスが同等の体重を持つ象が4つ足歩行しかできないのに、2足歩行が出来たのか?
それを解決する1つの方法がカンガルーのようにジャンプしながら移動していたのではないかという説。

さらには翼竜など飛行する恐竜たちもまた今の鳥類のスケールから考えても到底空を飛べたとは思えないほどの大きさと重さを持っているのになぜ飛ぶことが出来たのか。

他にも太陽系の惑星に関する自転周期の奇妙な事実など単なる生物学を超えて物理学、構造力学、天文学の観点から疑問を投げかけているのが実に興味深い。
そしてこれら不可解な事実を一転して理解可能とするのが、恐竜たちが棲息していた時代は重力が今よりも軽かったとする説。それが故に最も自転によって生じる遠心力が最も大きい赤道周辺に恐竜がいたこと、そして現在の重力になったのは巨大隕石による衝突の衝撃によるものだという実に画期的な説だ。

この実に知的好奇心溢れる学説は全く以て知らなかった。どうやらこの説は前から出ていたそうだが、ウェブで調べるとトンデモ学説と断ざれたり、支持する声もあったりと様々だ。私はこのコペルニクス的転回であるこの重力説を支持したい。

ここまでが上巻の展開だ。そこから物語は文字通り目くるめく展開を見せる。

これはまさに島田氏しか書けない物語だ。題名が示すようにこれはまさに幻想物語だ。
第2次大戦下のアメリカを舞台に古代生物学、物理学に構造力学、天文学といった知識がふんだんに盛り込まれ、空想の世界を補強し、このとんでもない空想物語がさも実存するかのように島田氏は語る。

5つに分かれるこの壮大な幻想譚は1章では行間から血の臭いまでもが匂い立つほどの迫真性に満ちた人智を超えた猟奇的事件を語り、2章では重力論文なる、現代科学において規格外とされる巨大な生物、恐竜の存在とその絶滅の謎に対する学術的な話が展開し、3章ではアルカトラズ刑務所を舞台にした刑務所生活と手に汗握る脱獄劇が、そして4章では一転して島田ワールドとも云える空想世界の物語だ。
それは『ネジ式ザゼツキー』で語られた「タンジール蜜柑共和国」を髣髴とさせる「パンプキン王国」なる不思議の国の話。そしてそんなメルヘンとしか思えない世界が最後のエピローグで意外な真相と共に明かされる。

まさにこれはそれまでの島田作品のエッセンスを惜しみもなくふんだんに盛り込んだ集大成的作品と云えるだろう。

世のミステリ作家の想像の遥か彼方の地平を進む本格ミステリの巨匠の飽くなき探求心とその豪腕ぶりに今回もひれ伏せてしまった。
島田氏はまたしても我々が読んだことのないミステリを提供してくれた。
ミステリの地平と明日はまだまだ限りなく広く、そして遠いことをこの巨匠は見せてくれたのだ。まさに孤高という名に相応しい作家である。


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アルカトラズ幻想
島田荘司アルカトラズ幻想 についてのレビュー
No.514:
(7pt)
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イスラエルという国の抱える矛盾と苦悩

私は特段中東問題に関心があるわけではなく、意識的にムスリムやイスラエルにまつわる書物に触れてきたわけではない。これは私の特異な読む作家の選び方に起因しているだけであり、マイケル・バー=ゾウハーの作品を読むようになったのもその一環に過ぎなかった。
そして本書を手に取ったのも、私がシェッツィングの諸作を読んでいるからこそのごく自然な流れなのだ。

しかしマイケル・バー=ゾウハーとニシム・ミシャルとの共著『モサド・ファイル』を読んだのは本書を読むためだったではないかと改めて読書がもたらす見えざる導きという奇縁を実感せずにはいられない。
そういえば大学時代に専攻した科目に地域研究というのがあったが、あれも中東諸国を扱ったものであったから、もしかしたらそこからアラブ諸国には薄いながらも縁があったのかもしれない。

総ページ数1,870ページの上中下巻の大作で語られる物語の舞台は今最も危険だと恐れられているイスラム諸国。これは今なお抗争が絶えないイスラエルという歪んだ構造を持つ国が建国され、それに翻弄されたユダヤ人たちの苦難に満ちた物語である。

物語は大きく2つに分けられる。
1つは危険に満ちた彼の地で活動するドイツ人ジャーナリスト、トム・ハーゲンがイスラエル政府の闇の歴史に触れたがために政府と反政府組織に追われる身になった逃亡劇だ。

もう1つは20世紀初頭にユダヤ人でパレスティナに移住してきたカーン家とシャイナーマン家という2つの家族の通じて描いたイスラエルの建国から現在に至るまでの苦闘の日々だ。

610ページ以上もある上巻の内容はほんのイントロダクションに過ぎない。上に書いた話の幕明けが入れ代わり立ち代わり語られるだけで正直物語の全体像がはっきりと見えない。
物語の核心に迫るのは中巻になってからだ。イスラエルの情報機関<シン・ベット>の極秘データをコピーしたCDをトム・ハーゲンがハッカーから手に入れるところからようやく物語は動き出す。

CDに入っていたのはシン・ベットが行ってきた標的殺害の記録だった。これが公開されれば、イスラエルが秘密裏に行った暗殺の数々が白日の下にさらされ、また世界中に潜入しているシン・ベットのエージェントの存在が明るみに出され、各国政府のターゲットにされてしまう危険性を孕んでいた。
しかしCDの中身を見ただけでは部外者であるトム・ハーゲンにとっては何の意味もないデータに過ぎなかったのに、ベテランジャーナリストとしての勘と推察力から、ハーゲンはかつての首相アリク・シャロンに対して行われた行為、つまり入院した彼は意図的に誤った処置をされ、シン・ベットによって暗殺が計画されたことを読み取ってしまう。それが災いの素となり、ここからシン・ベットと謎の第3の追手にハーゲンは追われる身になってようやく物語が加速し出す。

しかしそれでも物語はアリク・シャロンが権力の階段を上っていく有様とそれに翻弄されるカーン家の歴史がところどころに挿入され、なかなか前に進まない。

しかし読み進むにつれてアリク・シャロンの幼馴染であるカーン家がイスラエル政府の、いやアリク・シャロンの“ブルドーザー”と称される強引な政治的手腕によって住むところを転々とし、軍隊に入った息子を喪い、コツコツと築き上げた一大農場を手放す羽目になり、難民同様の生活を強いられるようにまでになる。

このカーン家が辿る数奇な運命は決して大げさな話ではないのだろう。常に周囲のアラブ諸国と、数多存在するイスラム原理主義者たちによって構成されるテロ組織の標的となってきたイスラエルという国が無理に無理を重ねて国政を維持するために行ってきた、無策とも思える政策によってそれこそ何千何万ものユダヤ人が人生を変えらざるを得なくなってきたほんの一モデルなのだろう。

世界各国に広がるユダヤ人。この旧約聖書の時代から存在し、今なお1,340万人がいると云われている、もはや原初の定義さえもあいまいになりつつある民族にはロスチャイルド家に代表される富豪もいれば、アインシュタインに代表される高い知性を備えた人物も輩出している。ノーベル賞受賞者の22%がユダヤ人であり、チェスのチャンピオンの54%を占めるという。
これら高い知性と文明、そして文化を育んできた彼らの歴史は迫害の道のりであった。そんなユダヤ人が突如聖書に謳われているシオンの丘、すなわちエルサレムに還って自身の国を持とうと提唱したシオニズム運動がそもそもイスラエル建国の始まりである。世界中に散らばるユダヤ人たちに安住の地を与えるためのこの運動が、1917年イギリス外相が支援を認めるバルフォア宣言を誘発し、1948年にイスラエルが建国される。

しかしエルサレムはまたユダヤ教のみならず、キリスト教の、そしてとりわけムスリムの聖地であったことがこの運動の大きな問題だった。
私はこの1点こそが、イスラエルという国が今なお抱えるアラブ諸国との紛争の火種だったように思える。

アラブ諸国が密集する中東とアフリカのいわば要の位置に突如ユダヤ人が押し寄せたがためにそれによって生まれた諍いは時間が解決するような程度の物ではなく、年月を重ねるにつれて刻々と深刻化するだけだった。

そしてもはや安住の地を得たユダヤ人はアラブ諸国の迫害を甘んじて受け入れなかった。彼らはモサド、シン・バットといった諜報機関を設立し、戦いを挑む。高い知性を持つ民族が作った組織はアメリカのCIAやFBI、イギリスのMI5、MI6に比肩するほど恐るべき組織となった。
『モサド・ファイル』で語られる彼らの活動内容は平和裡に暮らしている我々日本人には想像を超える内容であったことはすでにその感想に述べたとおりである。

しかし戦いは新たな戦いと多くの犠牲者を生むだけである。周囲の軋轢に押しつぶされそうになりながらどうにか国として機能するためにイスラエル政府は一つまた一つと領土を明け渡していく。そのたびに国民は移住を強いられ、難民同様の生活を強いられるのだ。

世界中に点在するユダヤ人たちに安住の地を提供する名目でいきなり作られた国でありながら、それがために周囲のアラブ人たちの反感を買い、常にテロと戦争の脅威にユダヤ人たちを晒し、穏やかな日々が訪れない。
ユダヤ人によるユダヤ人の国でありながら、その実ユダヤ人たちを苦しめている、それがイスラエルと云う歪んだ国の正体だ。そしてそれはやがてユダヤ人自身がイスラエルと云う国を崩壊させようという思想まで生み出す。

虐げられた国民の心を利用し、入植者の父と呼ばれている、いわば椅子られるの象徴的人物であるアリエル・シャロンをユダヤ人の手によって暗殺させようとする者。

ユダヤ教とイスラム教の聖地である神殿の丘を破壊し、世界中のムスリムの反感をイスラエルに向けさせて国を滅ぼそうと企む者。

物語の最後にシン・ベットの作戦本部次長のリカルド・ペールマンが述懐する。
自国を、国民を守るために周囲の国々と戦い、パレスティナ過激派集団と戦い、テロと戦ってきたのに平和が一向に訪れず、報復による報復が繰り返されるのみ。暴力の螺旋に取り込まれ、崩壊の道を辿っているのではないかと。

これほど国民や諸外国に愛されない国も珍しい。

本書はそんな周囲のアラブ諸国のみならず自国民からも恨まれるようになったイスラエルの元首の死の謎を扱った物語である。

しかし単純なエスピオナージュ的な物語ではなく、なぜそこまで疎んじられなければならなかったのかをシェッツィングはアリエル・シャロンの生い立ちと彼の友人とされる一国民であるカーン家の歩み、そしてイスラエル建国から現在に至るまでの闘争の歴史を踏まえてじっくり語っていく。

しかし私はこのイスラエルが抱える矛盾が生み出した悲劇を描くのに果たしてこれほどの分量が必要だったのか、はなはだ疑問に感じられる。実在の政治家をふんだんに盛り込みながら仔細に語る内容はそれが故に盛り込みすぎて冗長で冗漫に思えてならない。

相変わらず引き算をしない作家だという思いを新たにした。“調べたこと全部盛り”と勘繰らざるを得ないほど、情報過多であり、正直上巻の中身を読むと、これほどの紙幅を割く必要があったのかと首を傾げざるを得ないエピソードが満載である。しかも文体はどこか酔ったところがあり、その独特のリズムに馴れるのも難しいし、またなかなか頭に入ってこないきらいもある。

また過去のパートが異常に長く、これが現代の物語のスピード感を殺いでいるように感じた。
アラブの国々の真ん中に突如建国されたユダヤ人の国イスラエルの成立ちとこの国と周囲のアラブ諸国の因縁の争いの歴史は戦争と和平の道の二者選択の中で国内でも意見が割れ、矛盾を抱えて歴史を刻んでいくのだが、果たしてこれを詳細に語ることがこの小説にとって有益であったのかと疑ってしまう。
カーン家の苦難に満ちた人生の道程の物語も読ませることは読ませるが、これらのエピソードは通常の小説であれば物語の後半に1、2章割いてターニングポイントを子細に語ることに集中するだけで読者の心に、この一家族が抱いた苦しみを刻み込むに十分だろう。

そしてこれほどタイトルと内容がそぐわない作品も珍しい。原題が“Breaking News”だからこの邦題は間違いではないが、この題名から想起されるスクープや特ダネを追うジャーナリストたちの戦々恐々とした日々を描いた物語やもしくは戦地で死と隣り合わせのジャーナリストたちの紙一重の命を削る姿を描いた物語を想像するのだが、開巻してみればやり手のように見えるが過去の栄光に縋って落ちぶれつつある戦争ジャーナリストのグチの羅列だったり、シオニズム運動でイスラエルの地に移住してきた家族のアラブ人たちとの確執が延々と語られる。
物語の焦点が絞りにくく、自分が何の物語を読んでいるのか解らなくなることがしばしばだった。

何度諦めようかと思ったが、最後まで読んで思ったのは、読む価値は確かにあるという思いだ。
大著であり、上に述べたようにとにかく長すぎる作品だが、それでも得られるものはあった。

それはイスラエルという国に対する疑問だ。

世界でも有数の知性を誇るユダヤ人がルーツにこだわり、アラブ諸国のただなかに新たな国を敢えて作ったのだろうか。それまで慣習や言語の壁を乗り越え、世界中の国々に順応してきた民族がなぜ火の無い所に火種と油を注ぐような行為をしたのだろうか?
私はイスラエル建国の場所こそが最大の過ちのように思える。これが当時候補に挙がったウガンダやアルゼンチンだったらこんな血腥い歴史にはならなかったではないだろうかと強く感じる。

複雑怪奇な中東問題をこれだけの筆を割いてもきちんと書けたかが解らないと作者自身もあとがきで述べているように、読者である私も十分理解したとは云えないだろう。
ある程度前知識が必要な作品である。しかし世界にはまだこれほど危難に満ち、安寧とは程遠い国があるのだ。

そしてテロリスト集団イスラム国の標的に日本人もなっている昨今、既にこの物語は対岸の火事ではなくなっているかもしれない。
そう、もしかしたら今そこにある危機の1つなのかもしれない。


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緊急速報 〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)
フランク・シェッツィング緊急速報 についてのレビュー
No.513:
(7pt)

世紀末ゆえの割り切れなさ

ローレンス・ブロックの第3短編集。長編のみならず短編の名手であるブロック。今回もヴァラエティに富んだ作品集となっている。

まずはスカダー物の1編である表題作で幕を開ける。
ブロック自身がまえがきで述べているように本作は『聖なる酒場の挽歌』で起きる3つの事件の中の1編だ。このエピソードに2つの事件を肉付けしたのが『聖なる酒場の挽歌』であり、この作品がきっかけとなって『八百万の死にざま』で終焉を迎えようとしたマット・スカダーシリーズが再開されたのだから、ブロックにとってはマイルストーン的な作品となるのだろう。

「夢のクリーヴランド」は「世にも奇妙な物語」に使われていそうなおかしみのある1編だ。
夢の中でドライヴしているために寝た気がしないという実に奇妙な相談とそれを解決するこれまた実に奇妙な方法。そしてそれだけで終わらず友人も同じ夢を毎晩見て疲れている。しかもそれが毎晩3人の美女の夜の相手をするためにクタクタになっているという男の願望が詰まったような次の展開。
しかし他人の夢で起きたことが自分の夢で体験できるとは限らないのに男って奴は…。

「男がなさねばならぬこと」は奇妙な味わいを残す1編。
法の網をかいくぐり、暗躍する悪党たちに対して法の遵守者である警察は無力である。犯罪を犯したことは明白であるのに決定的な証拠がないばかりに逮捕できない。マット・スカダーでもその手の類の犯罪の容疑者がよく現れ、その都度マットを惑わしてきた。
そんな法で裁けない真の悪党たちを次々と暗殺する殺し屋を目の前にした警官が選択したのは法律的には許されないが、道徳的に実に納得のできる決断。こういうことは実際起きているのではないだろうか。

後のシリーズキャラクターである殺し屋ケラーが初お目見えするのがこの「名前はソルジャー」だ。
初登場の殺し屋ケラーのこの顔合わせともいうべき作品ではまだ彼がどういった人物かは解らない。依頼により、証人保護プログラムで身分を変えた男を見つけてもすぐには始末せず、いつも食事を共にし、また街をぶらぶらして満喫する。しかし彼が勝手に抱いていた妄想が崩れると、まるで夢から覚めたかのように非情なまでにターゲットを屠る。実に気まぐれな殺し屋である。
ケラーの為人については今後の作品群で理解していくことにしよう。

「魂の治療法」も実に皮肉な物語だ。
殺人を犯したという妄想に悩まされる男。それが妄想だと証明する刑事。
慣例や先入観と云うのは実に恐ろしい物だと笑い話では済まされない奇妙な味わいを残す1編だ。

短編集に必ず登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフは今回も例に漏れず登場だ。「エイレングラフの選択」では愛人殺しの容疑で捕まった女性の弁護を担当する。
相変わらずブラックな味わいを残す。

「胡桃の木」はなんとも暗鬱な物語だ。
レンデルの作品を髣髴させる、とても痛々しい夫婦の物語。
育った環境の、両親の影響で諍いを起こす衝動に駆られる夫婦。この負のパターンを打ち崩すべく妻が選択したのは夫を殺害する事だった。
寂寥感がただただ漂う1編だ。

さて泥棒バーニイ・ローデンバーは「泥棒はプレスリーを訪問する」で奇妙な依頼を受けることになる。
「エルヴィスはまだ生きている」とは有名な都市伝説の1つだが、彼の生家グレースランドが観光地となっており、この2階が観光客はおろかスタッフですら入れない万人禁制の聖域であるらしい。人は秘密があれば色んな想像を巡らせるが、この誰もが入れない2階でエルヴィスは生活しているのではないかと噂が立っているようだ。
実在する部屋の秘密を暴くのはさすがにブロックも躊躇らわざるを得なかったようだ。

「交歓の報酬」は誰もが抱く旅先の開放感を描いた作品。
海外旅行と云う非現実な空気に包まれるマジック・アワー。そんな時間や日々は日常の殻を破って冒険したくなるのが心情と云うもの。
旅先で親しくなった夫婦がスワッピングを愉しみたくなる甘美で淫靡なムードにほだされるが、物語は意外な結末を迎える。
しかしそれもまた白昼夢のような出来事。何が真実で何が虚構なのか、誰にもわからない。

「死にたがった男」はツイストの効いた一編。
想像の斜め上を行く結末に思わず唸ってしまった。アメリカの警察のずさんな捜査ならばこの方法は完全犯罪になりそうだ。

マット・スカダー2編目の「慈悲深い死の天使」は実に考えさせられる物語だ。
物語はちょうどエイズウィルスが突如流行した90年代初頭の世相を反映している。この未知の不治の病に苦しむ同性愛者たちに安らかな死と云う眠りを授ける女性はその苦しみから患者たちを解放するための言葉を授ける。
しかし物事は必ずしも上手く行かない。どんなに言葉を掛けようとなかな死出の旅に赴くことが出来ない患者もいるのだ。そんなとき、彼女は…。
スカダーはその事実を当人から聞かされながらも敢えて依頼人には話さない。それは彼女がやっていることが慈悲だと思うからだ。自らの保身やエゴの為に死を与える輩はどんな人物でさえも許さないマットだが、他者を思って行う殺人には寛大のようだ。
法律では裁ききれないことがある。彼女のやっていることは善か悪か解らないがマットにとっては悪い事のように思えなかったようだ。

「タルサ体験」は季節ごとにアメリカ国内旅行に出かけている仲の良い兄弟の旅行記。
犯罪大国アメリカならばありそうな話だけに怖さがひしひしと伝わってくる。

「いつかテディ・ベアを」も何ともおかしな話だ。
年に何回もアバンチュールを愉しむプレイボーイの映画評論家はテディ・ベアのぬいぐるみを抱かないと眠れないという設定は面白い。
同族意識が芽生えた二人は結婚するのだろうか?

「思い出のかけら」も奇妙な味わいを残す作品だ。
人に対する警戒心が強いアメリカなのに、大学の掲示板で車でシカゴまで乗せてくれる人を募り、誰とも知れない見ず知らずの相手の車に同乗するとはなんと無防備な女性だろうと思ったが、案の定、募集に応募した男性は快楽殺人者だった。
しかしそれだけでは物語は終わらず、とにかく奇妙な作品だ。

「ヒリアードの儀式」もなんと評してよいか解らない作品だ。
人生何をやっても上手く行かない時もあれば、何事も上手く進む時もある。アトゥエルというシャーマンが施す儀式はその人の持つ運を開放するきっかけを後押しすることかもしれない。
一見何の関係のないことがきっかけで運命が好転する、そんな人生の不思議さを語った作品なのか。とにかくヒリアードが受けた儀式で突然彼の生活が薔薇色に変わる根拠は全く解らないが、それでもなぜか納得させられる不思議な小説である。

本書での2度目の登場となる「エイレングラフの秘薬」では妻殺しの容疑者の弁護を引き受けることになる。
依頼人の冤罪を晴らすために別の角度から犯罪を捏造し、それによって依頼人を不起訴にし、別の犯人を仕立て上げる。
しかし有罪と無罪の境とはなんとも曖昧な物かとエイレングラフ物を読むと痛感させられる。

「フロント・ガラスの虫のように」もまた善悪の境を揺るがされる作品だ。
人は実はギリギリのところで善の境に踏み止まっていると思わされる作品だ。特に自動車の運転と云う非常に身近な行為にテーマを持ってきたところが上手い。
乱暴な運転をして、こちらに被害を被るような危ない目に遭った時、「いっそぶつけてやろうか」と思ったことは誰しもあるのではないか。長距離トラック運転手と云うストレスが溜まりがちな職業ゆえにその境界をいつ超えてもおかしくないのだ。そしてウォルドロンもまた…。

「自由への一撃」は銃を持ったある平凡な男がそのことで力を得た気になり、徐々に性格が変わっていく物語。
その男の心情は解るものの、なんと評していいか解らない作品だ。

たった7ページと本書で最も短い「どんな気分?」は動物虐待をしているのを見かねた男がその飼い主に制裁を加えていく。
老馬に激しく鞭打つ御者を同様に鞭打ち、飼い犬を蹴り飛ばす飼い主を安全靴で完膚なきまでに蹴り飛ばす。
ブロックのストーリーテリングの上手さが光る1編だ。

最後を飾るのはまたもやマット・スカダー登場の1編「バットマンを救え」はマットが探偵事務所に雇われて海賊版のバットマン商品を町の露天商から回収する仕事に就く。しかしマットは言葉もろくに話せないアフリカ人たちから回収する行為に腑に落ちない物を感じていた。
本作も正しいことをすればそれにより不利益を被る人がいる。それらが社会的弱者であるとマットはどうしても非情になれないのだ。それが法律的に正しいことであっても社会の底辺で半ば犯罪に手を染めながらも必死に生きている人々と付き合いが深いだけに、いやそこにかつてアル中だった自分を重ねてしまうのかもしれない。
マット・スカダーと云う男の本質を謳った物語だと思う。


ローレンス・ブロック短編集第3集の本書はシリーズキャラクターであるマット・スカダー物3編、泥棒探偵バーニイ・ローデンバー物が1編、エイレングラフ物が2編、そして以後シリーズキャラクターになる殺し屋ケラー物が1編含まれた全20編で構成された実に贅沢な短編集である。

今回の作品では前の2集とは異なり、何とも云えない後味を残す作品が多い。

その何とも云えなさは大別すると次の3つに分かれる。

法律と道徳の狭間で善と悪の境が曖昧になる物。
例えば「男がなさねばならぬこと」、スカダー物の「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」がそれに当たるだろう。

次に人間の衝動の怖さを知らされる物。「魂の治療法」や「タルサ体験」、「思い出のかけら」が該当するか。

そしてとにかく煙に巻かれたような思いで終わる物。これは殺し屋ケラー初登場の「名前はソルジャー」、「いつかテディ・ベアを」、「ヒリアードの儀式」、「自由への一撃」になろうか。

収録作が80年代末から90年代に掛けての物が多いせいか、当時の流行を反映してサイコパス物や人間の不思議な習慣や行動に根差した作品が多く感じた。
これが発表当時、世紀末だったことに起因する特異性なのか解らないが、奇妙な味わいを残すオチが多い。割り切れなさとでも云おうか。

従ってウィットの効いたオチや切れ味鋭いオチを期待するといささか肩透かしを食らった感じがするかもしれない。
実際そういった類の作品は「夢のクリーヴランド」、「死にたがった男」、「どんな気分?」ぐらいしかなく、大半が敢えて結末をはっきりと書かないことで余韻を残すような書き方をしている。
これはブロックに限った話ではなく、国内作家でも見られる形で、いわゆる大団円的なフィナーレやスパッとした切れ味といったカタルシスを残す遣り方は少なくなってきており、登場人物たちの人生という1本の線のある時期を切り取った描き方をして、今後も彼らの時間が続いていくような区切のつかない終わり方が多くなってきている。これは物語の在り様の変化なのだろう。

さてそんな短編集の個人的ベストは「胡桃の木」、「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」、「どんな気分?」の5つを挙げる。

これら4作品に共通しているのは先にも述べた世紀末特有の厭世観がもたらす法律による善悪よりも道徳としての善悪、つまり死に値すべき者、そして死を望む者に敢えてそれを施す行為がなされていることだ。特に「胡桃の木」はDVに悩まされる暗鬱な夫婦関係と遺伝と云う家系の業をひたすら重く語り、最後にサプライズを仄めかす、まるでレンデルが好んで描く抗えない血の呪いといった運命の悪戯が描かれており、ブロックの新たな境地を垣間見たような気がした。

本集の前の2短編集よりも全体としての評価は落ちるが、だからといってクオリティが低いわけではなく、本書もまた短編のお手本ともいうべき作品のオンパレードである。
ただ扱っている題材やプロットが前2作とは異なっており、例えようのない余韻を残す。
世紀末だからこそ書かれた作品群と思えば、本書は今後文学史を語る上で貴重な資料となり得る短編集と云えよう。こんな短編集が絶版で手に入らないのは誠に勿体ない話である。


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夜明けの光の中に ローレンス・ブロック傑作集3 ローレンス・ブロック傑作選
ローレンス・ブロック夜明けの光の中に についてのレビュー
No.512:
(7pt)

新機軸への意欲的な作品

マクリーン16作目の舞台は厳寒の北極海。ベア島なる孤島に向かうハリウッドのロケ隊の一行。主人公はその映画会社オリンパス・プロダクションに雇われた医師マーロウ。
今までのマクリーン作品の読者ならば、厳寒の海が舞台であればまたも過酷な環境と苦難の連続の航海が一行に待ち受けているだろうと想像するが、本書はそんな読者が抱く先入観を裏切り続けて物語は進行する。

まず一行を運ぶモーニング・ローズ号、この豪華客船はかつてトロール船として海を馳せた老船である。そんなもはや老朽化という言葉を超えた船の乗客や乗組員が直面する災難は荒々しい波濤や物の数秒で凍てつくブリザードでも、触れるだけで大破するほどの絶望的な大きさを誇る流氷などが現れる極寒の環境ではなく、なんと激しい船酔いなのである。

この船酔いは主人公の医師マーロウによって集団食中毒であることが判明する。さらに死亡者が出るに至り、それは何者かによる毒殺事件へと発展する。
そんな不穏な空気を助長するかのように船内で連続して不審死や失踪事件が発生する。そして無線機も何者かによって壊され、疑心暗鬼の中、船は目的地であるベア島に到着する。
ここまでが物語の中盤だ。

物語の後半はベア島が舞台となる。そこでもたとえば『ナヴァロンの要塞』で我々読者をそこまでしなくてもいいだろうと思わせるほど危難に次ぐ危難、肉体の限界を超えた戦いが登場人物たちには待ち受けているわけではない。
まず到着早々にマーロウと親しくしていた航海士スミシーが失踪する物々しい幕開けを見せるが、実は航海士スミシーは主人公の医者マーロウと同じ組織に属するイギリス政府から派遣された者であることが判明する。彼らは第二次大戦中にナチスが各国から略奪し、世界中に隠した金、宝石、絵画、有価証券の在処を探る任務に就いており、映画製作者の1人で脚本家のヨハン・ハイスマンがその一人であることを突き止め、彼のそばについて隠し場所と思われるベア島のロケに同行したのだった。

そしてベア島に着くと一行は島にある観測隊が以前使用していた小屋に落ち着くが、いきなり第一の殺人が起こる。それを皮切りに次々と関係者が一人また一人と不審死を遂げる。犯人は島にいる関係者の中にいるというシチュエーション。
つまり厳寒の島で繰り広げられるのは何と本格ミステリでいうところの“嵐の山荘物”なのだ。しかしなんと島に留まっているのは主人公のマーロウを含めて22人にも上る。なんとも容疑者の多すぎる孤島物ミステリだ。

とこのように本書は極寒の海と島を舞台にしながらも従来のマクリーン作品の定型を全く裏切った展開を見せる。

そして物語は事件の謎を追いかけるうちに関係者たちに隠された過去を掘り出し、またマーロウの目的である盗まれた金の在処を探る冒険もあり、そして最後にはそれらの謎に加え、真犯人の思惑などサプライズが複層的に織り込まれている。そして最後には関係者を一堂に集めてマーロウによる推理が開陳され、黄金期の本格ミステリを髣髴させる。

しかし私が最も意外だったのは主人公マーロウの設定だ。ロケに同行する医師と見せかけて政府の者というのは確かにマクリーン作品の常套手段ともいうべき手法だが、今までの作品では掴みどころのない性格で一見軽薄そうな人物が実は情報部の諜報員だったという、素早い判断力と超人的な運動神経で危難を幾度となく克服するヒーローという設定だったのに対し、本書のマーロウと中盤で仲間だと知れる航海士のスミシーはスーパー・エージェントではなく、大蔵省の役人でしかない。
彼らは銃を持たず、また格闘術を教わっているわけでもなく、ましてや肉体の限界を超えて自然に立ち向かうストイックさもない。いわゆる我々のような一般人ぐらいの体力しかないのである。
このあたりからもマクリーンが新機軸を打ち出そうとしているのが行間からひしひしと伝わってくる。

さて毎回アイデア豊富のマクリーンだが、本書では彼の得意とする武器、兵器、機械や乗り物の専門知識や過酷な環境下で起こる災厄の詳細な描写はなりを潜めている。しかしマクリーン作品の中でも全450ページ弱という比較的厚い本書には第二次大戦後の世情やマクリーンの体験が盛り込まれているように感じる。

例えば映画会社の面々が登場人物の中心になっていることが本書では特徴的だ。
これはやはり出せば映画化と当時人気絶頂だったマクリーンが自作の映画化の際に接した映画会社の人々のその特異性が非常に印象に残っていたのではないか?元教師であるマクリーンにとって、何もかもが破天荒で常識外れが当たり前のエンタテインメント界の不条理さこそ、きな臭い陰謀を持つ組織の隠れ蓑として最適だと気付いたに違いない。

また本書の犯人の1人で中心的人物であるヨハン・ハイスマンはシベリアに囚われの身であり、そこから脱走して映画会社に入ったという異色の経歴を持つ。彼は第二次大戦中に二重、三重のスパイとしてソヴィエトとドイツを股にかけて活躍していたという彼の設定も昔アメリカ映画界を席巻した赤狩りの遺児を思わせ、また映画界で有名な人物が実は元スパイだったというのもキム・フィルビーを想起させる。

さて旧ナチスが隠した金の在処を巡って発生する連続殺人など一連の事件の真相はかなり複雑であるが、しかし、これらの謎が一気にマーロウの口から述べられるのはいささかバランスが悪いように思える。
確かにこれらは本格ミステリの典型であろう。マクリーンが本書で目指したのが本格ミステリであるならばそれも受け入れるが、マーロウが述べる内容は読者の前に伏線として提示されていない物も多く、マーロウが潜入する前に仕入れた情報に基づく内容の比重が大きい。
つまり意外な真相が明かされるものの、アンフェア感が拭えないのだ。
さらに登場人物の多さ。前述したように最終的に島に残る人物だけでも22人もいるのである。物語の前半はこれにモーニング・ローズ号の乗組員も加わり、大方30名前後の登場人物が出てくるのだ。
これだけ登場人物がいればやはり登場人物表は必要だろう。特に今回は船員のみならず映画会社という特殊な職業の人間たちばかりなのだから、人物紹介も容易であろう。
したがってそれらがないばかりに各登場人物たちの意外な素顔が最後で明かさされても、人物像がなかなか結び付かなく、サプライズを満喫できなかった。今回登場人物表を省いたのは出版社の怠慢と云わざるを得ない。

ただやはりマクリーンはサプライズを好む作風であるのだが、どうもそれがうまく機能していないように感じる。
今回は主人公のマーロウがそれほど思わせぶりではなく、また物語の中盤で自身の正体を明かすため、ほどなく物語に入り込めたものの、最終章で一気呵成にマーロウの口から新事実が次々に明かされる構成はやはりバランスが悪く、作者の独りよがりだという感は否めない。専門知識や機器の詳細などの微細な描写や説明、そして不屈の精神を持った人物の描写などは抜群に上手いのだが、物語を書くのがそれほど上手くないのだ。
本書のようにミステリ趣向の作品を読むと如実にそれが表れてくる。手掛かりや伏線の出し方の匙加減が下手だと云ってもいいだろう。

しかし後期に属する本書は世の書評家がいうほど出来が悪いとは思えなかった。
先に書いたように冒険小説と見せかけて実は本格ミステリ的という読者の先入観を裏切る作品であり、意欲的だ。恐らく北上次郎氏のような当時の書評家はリアルタイムでその時代の冒険作家の作品を読んできたがために、時代の変化に対応して作風を変え、新たなテーマを見つけ、変化し続けている作家たちに比べて相も変わらず同じ作風で不屈の主人公を描いているマクリーンがつまらなく思えたのだろう。それ故に後期のマクリーン作品の評判が悪いのではないか。
実際北上氏の『冒険小説論』ではそのように書かれている。しかし裏返せばそれは常に軸がぶれなかった作家だという証拠でもある。いわゆる北上氏がいうところの欧米の冒険小説家が直面した『70年代の壁』は今の読者にとっては壁でもなんでもない。『女王陛下のユリシーズ号』も『ナヴァロンの要塞』もこの『北海の墓場』も全て同じマクリーン作品なのだ。だから時代性に囚われず、純粋に作品の良し悪しで判断できる状況にあるのだ。

恐らく今後読むマクリーン作品の私の評価は世の中の評判とは異なることになるだろう。しかしそれこそ今過去の作品を読む意義ではないか。
後世の今、本書もまた全く話題に上らない作品だが、マクリーンが冒険小説と見せかけて本格ミステリ的手法で旧ナチスの財宝探しを描いた本書は定型を裏切っただけに私にとって案外印象に残る作品なのである。


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北海の墓場 (1979年) (ハヤカワ文庫―NV)
アリステア・マクリーン北海の墓場 についてのレビュー
No.511: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

理系教授の文学風味満載

S&Mシリーズもまずは5作目を経て一休みと云ったところか。本書はノンシリーズの連作短編集。

冒頭を飾る「虚空の黙禱者」は夫に突然失踪された1人息子を抱えた女性に纏わる物語。
夫の失踪の謎が最後に明かされる。残酷な行為はしかし田舎の牧歌的な風景でゆったりとした時間の中、明かされる。

詩のように紡がれる物語「純白の女」は一日に電車が一本しか止まらない田舎にある白い建物を訪れた一人の女性の物語。
ファンタジーのような世界観を乙女チックな詩のような文章で綴られる本作は物語の最後でサイコの様相を成す。90年代に流行したサイコ物の森ヴァージョンといった作品。

敏腕女性刑事物と思いきやそれが作中作であることが解る「彼女の迷宮」もまたサイコ物の変奏曲である。

「真夜中の悲鳴」では大学内での事件を扱ったオーソドックスなミステリ。
まず大学での実験風景が実に懐かしい。私は理論研究だったので実験室に籠っての卒業論文の作成を経験をしていないのだが、それでも大学の授業で体験した実験の匂いが漂ってくる。しかも主人公のスピカたちがしているのは深夜の実験。実に魅力的ではないか。
そんな中で発生している学内での連続暴行事件と実験で発見される奇妙な現象。それらが連続暴行事件の犯人に繋がる展開は実にオーソドックスで、主人公のスピカが犯人によってピンチに陥るのも定型と云えば定型。しかし最後の数行が効いている。

次の「優しい恋人へ僕から」は漫画同人誌仲間であるスバル氏と篠原素数が出逢った2日間を描いた作品。この内容は森氏の奥方が佐々木スバル氏であることを考えると半自伝的な小説だろうか。最後のオチは作者が見せた照れ隠しと取っておこう。

続く2編「ミステリィ対戦の前夜」と「誰もいなくなった」は本編ではあまり語られることのない西之園萌絵のミステリ研究会での活動を描いた作品。
前者はミス研の合宿に初参加し、そこでなんと殺人事件に巻き込まれる、と見せかけて…、といった話。
後者はミス研が学校でのイベントで仕掛けたある謎を巡る物語。学校の記念講堂で突如現れた焚火の周りで踊る30人のインディアンがどこから現れ、どこに消えたのかという謎をミス研が仕掛ける。しかし10組の参加者は誰も解らなかったのだが、犀川がその話を聞いた途端に謎を解き明かすという物。犀川の天才性を再認識させる短編だ。

ジャンル的には幻想小説になるだろうか。「何をするためにきたのか」は退屈な大学生活を送る甲斐田フガクが主人公。
因果律の物語。一見何の関係のない人間と事象が次々と連なることで運命の扉が開けるという一種人生の構図を表したような物語だ。
S&Mシリーズの『冷たい密室と博士たち』で犀川が云う、「役に立たないものだからこそ面白い」ことを突き詰めた作品だ。

「悩める刑事」は意外な結末が面白い作品だ。
どんでん返しが鮮やかに決まった作品。これは上手さを素直に認めよう。

「心の法則」は教授である森氏ならではの思弁的な小説と思わせてこれまた意外な展開を見せる。
幻想的な物語だ。どこまでが夢でどこまでが真か、その境界線があいまいになっていく。

最後の「キシマ先生の静かな生活」は大学の異端児であったキシマ先生と主人公の想い出を語った物語だ。
これはミステリではなく、回顧録といった方が正確だろう。その天才性故に大学で孤立した存在であったキシマ先生と彼が助手として所属していた研究室の院生だった私だけが知るキシマ先生の人物像。彼の我が道を進む人生は誰も侵すことのできない世界を形成している。最後はそこはかとない寂しさが過ぎる作品だ。


S&Mシリーズでデビューし、その後連続して『封印再度』の5作まで全て同シリーズを著してきた著者による初めての短編集、となるとてっきりS&Mシリーズの連作短編集かと思いきや、なんとシリーズとは離れたノンシリーズの短編集だった。全く人を食った作風の森氏らしい計らいだ。

しかしこれほどまでに短編を書き溜めていたとは思わなかった。その作風は実にヴァラエティに富んでいる。

景色を丹念に書き綴った田舎風景が印象的な作品もあれば、一転してファンタジックな詩を思わせる作品もある。そして奇妙な味のような作品もあれば、S&Mシリーズを髣髴させる大学を舞台にしたサスペンス物もあり、半自伝的な恋愛物もあったり、作中作に幻想小説と物語のエッセンスがふんだんに盛り込まれている。

森氏の作品の特徴である現役教授ならではの大学風景の瑞々しいまでの描写が本書でも見事に活かされている。
「真夜中の悲鳴」、「ミステリィ大戦の前夜」、「誰もいなくなった」、「何をするためにきたのか」、「キシマ先生の静かな生活」など11作品中5作品と約半分がそれらに該当する。
またそれまでのS&Mシリーズでもその片鱗が見られる幻想的な趣向が短編では全面に押し出されており、作者の自由奔放さが溢れている。「純白の女」、「何をするためにきたのか」、「心の法則」がそれらにあたるだろう。

そしてさらには理系の教授ならではの学問に特化した内容が実に専門的に語られているのも特徴的だ。その内容はもう理解できない者は置き去りにすることも厭わないほど容赦がない。しかしそれを理解できる自分がいるのがどこか誇らしくも思えたりする。

しかし一番面白いのは森博嗣という作家そのものだろう。なんせ現役の建築学科の教授、つまり理系の教授がこれほどまでに色んな物語を書いていることだ。特に1作目の「虚空の黙禱者」の匂い立つような田舎の風景描写には驚かされてしまった。

正直に話せばS&Mシリーズは大きな謎1つで400~500ページの長編を引っ張る構成に冗長さを覚えていたが、短編では森氏独特の奇抜なワンアイデアを中だるみなく楽しめることが出来、この作家は短編向きではないかと思った。
さて次からはS&Mシリーズ後半戦に突入する。とにもかくにも西之園萌絵の存在が私にはシリーズに没入する障害となっているので、今後の変化に期待したい。それとも私が萌絵に馴れるべきなのだろうか?

さて本書のタイトルは『まどろみ消去』。
私は本書を読むことで眠気も覚めるという作者の自信を森氏ならではの文体で表現した物だと理解していたが、英題は“Missing Under The Mistletoe”、直訳になるが『寄生木の下での消失』といささか幻想めいたタイトルである。この英題から想起させられるのは明るい日差しの中、寄生木の下で読んでいるといつの間にか異世界に連れて行かれた、そんなイメージだ。どちらにせよ、実に森氏らしいタイトルである。
さて貴方の眠気は覚めるだろうか?


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まどろみ消去―MISSING UNDER THE MISTLETOE (講談社文庫)
森博嗣まどろみ消去 についてのレビュー
No.510: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

虐げられた人々がいるからこその今を訴える作品集

海外放浪から帰ってきたばかりの当時京大の医学部の学生の頃の御手洗潔がサトルという京大を目指す予備校生に京大近くの進々堂で語った話を集めた連作短編集。

まず「進々堂ブレンド 1974」は軽いイントロダクションの物語。
若き思春期の苦い恋の想い出話。これはミステリではなく青春物語といったところだろう。

「シェフィールドの奇跡」は知的障害者の物語。
21世紀になって島田氏は脳生理学の分野を積極的に物語に取り入れ、精神異常者のみならず学習障害者、アスペルガー症候群など、現代細分化されている様々な知的障害者をテーマにした作品を著しているが、本書は知的障害者が被ってきた社会的差別、虐待を扱っている。
ギャリーと云う学習障害者が唯一の取り柄である他者より抜きん出た体格の良さと発達した筋力を活かして重量挙げの選手として成功していく物語はしかしそれまでに彼が強いられた数々の苛めや虐待、社会的差別が詳らかに語られ、胸が痛む。私自身、次男が軽度の知的障害者であるが故、無縁の話とは思えないだけに痛切に胸に響いた。
さすがに21世紀の今では本作の時代である1970年代の社会よりも同じ境遇にいる人々への研究と理解が進んでいる為、作中に書かれているほど厳しい現実ではないが、それでも自分たち夫婦が同化する錯覚を覚えた。恐らくそのような身内を持たない人々にとっては典型的な感動の物語なのだろうが、私にとっては応援歌のような物語であった。

続く「戻り橋と悲願花」でもマイノリティに対する虐待の歴史が題材に扱われている。
戦時下の朝鮮人が受けた迫害の歴史は島田氏にとって昔からのテーマの1つだった。あの名作『奇想、天を動かす』はその最たるものだった。
本書もまた日本に渡って豊かな生活を夢見た貧しい姉弟が辿った数奇な運命と太平洋戦争で行われた風船爆弾という史実と島田氏ならではのミラクルストーリーが混然一体となっている。
路傍の花としてよく見かける彼岸花をモチーフにその球根が毒性を持つこと、実は生物学的にも特異な物であることを京都の一条にある戻り橋が持つ歴史の由来を上手く交えながら感動的な物語に昇華する。まさに物語作家島田の独壇場とも云える作品である。

最後の「追憶のカシュガル」は春の嵐山を訪れた御手洗がサトルに語る、中央アジアに位置するウイグル族の街カシュガルで出逢ったある老人の話だ。
路傍の賢者とも云うべき風貌と学識を備えた浮浪者。しかし町の人々は彼を無視し、彼の歩く周囲から遠ざかる。そこには老人が悔やんで悔やみきれない若き日の過ちがあったからだ。
カシュガルと云う数々の民族によって侵略され、数々の民族が混在して世界侵略の要となった都市ゆえに時代の流れに翻弄された男の悔恨の物語だ。


日本の古都京都はその永き歴史ゆえに様々な言い伝えや伝承が今なお息づいており、点在する名所や史跡にはそれらが成り立った理由や逸話が残っている。

そんな古都にまさか御手洗潔が住んでいたとはミタライアンでも驚愕の事実であっただろう。しかも京大の医学部出身だったとは。
横浜の馬車道を住処にしていた御手洗が関西ならば神戸辺りが適所だと思うが、京都とは意外だった。そんな京大時代に御手洗は休学し、海外放浪をしていた。そして京大を目指す予備校生サトルを相手にその時に出遭った人々の話を始めるというのがこの連作短編集だ。

島田氏の物語作家としての手腕はいささかも衰えていない。
一軒だけ異世界のように存在するアメリカの雰囲気を湛えたスナックがある寒々しい日本海の漁師町の風景、イギリスのある都市に住む知的障害者を子に持つ親子を取り巻く街の社会事情、戦時下の日本に夢と希望を抱いて日本に渡った朝鮮人兄弟が辿った苦難の日々、そして最後は浮浪者として町の人々に忌み嫌われるようになった老人の過ちなど、実に心に痛く響く物語が収められている。
同じような経験をしたことがないのに、それぞれの物語の主人公の心象風景色鮮やかに眼前に繰り広げられるのはこの作家の筆力の凄さだろう。

そして特徴的なのは御手洗潔の短編集でありながら本書では御手洗潔は推理をしない。つまりミステリとしての謎はなく、御手洗はあくまで彼が海外放浪中に出逢った人々から聞かされた話をサトルに語るだけなのだ。
謎を解かない御手洗の姿がここにある。
しかしこれら彼が経験した出逢いは御手洗にとって人間を知る、歪んだ社会の構図を知る、そして島国日本に留まっているだけでは理解しえないそれぞれの世界のルールを知り、その後快刀乱麻の活躍ぶりを発揮する名探偵としての素地を形成するための通過儀式のように思える。社会的弱者に対する優しき眼差しはこの放浪で培ったものなのだ。

強い道徳心が差別を生む。

息子が知的障害者と知ってショックで子育てを放棄し、失踪する親がいる。

知的障害者というだけでスポーツ選手の代表になることを嫌う社会がある。

移民というだけで迫害する社会がある。

一見平和だと思える現代の裏には実はこのような昏い時代があったのだ。

今や社会は弱者に対して優しくなったと思う。バリアフリーは進み、知的障害者に対する理解も増え、学校では支援学級が必ず存在するようになった。
また外国人への規制も緩くなりつつあるし、さらにはトランスジェンダーへの理解も広がり、性同一障害者がテレビをにぎわすほどにもなった。

しかしそんな社会もかつて虐げられた人々の犠牲の上にごく最近になって築かれてきた理解の賜物であることを忘れてはならない。この御手洗潔が語る弱者への容赦ない仕打ちこそがほんの10年位前にはまだ蔓延っていたのだ。

本書は御手洗の海外放浪記であるとともに世界の歴史の暗部を書き留めておく物語でもある。
人間の卑しさを知った御手洗がその後弱者の為に奔走する騎士となる、そんなルーツが知れるだけでもファンにとっては読み逃してはならない作品集だ。


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御手洗潔と進々堂珈琲 (新潮文庫nex)
島田荘司御手洗潔と進々堂珈琲 についてのレビュー
No.509:
(7pt)

フェイクゲームはまだ続く

『片腕をなくした男』から始まる三部作の完結編である本書は相変わらずそれぞれの部門長の椅子の安泰と自らの進退を賭けたディベート合戦で幕が開く。

しかし前作『顔をなくした男』から3年弱も経っているので正直どんな話だったのかは失念していた。
しかしそこは筆巧者のフリーマントル。前作でチャーリー・マフィンがロシアの空港で撃たれるというスキャンダルを利用して危機管理委員会を開き、そこで議長の口を通して今までの事件のおさらいをしてくれる。

事件の発端となったモスクワ駐在イギリス大使館構内で発見された身元不明の片腕の死体。その事件の捜査のため、チャーリー・マフィンがロシアに派遣され、見事解決するが、一方で同時期に行われていたロシア大統領選挙で立候補していたステパン・ルヴォフ候補が実はCIAのスパイとされながら実はロシア側の二重スパイだったこともチャーリーは暴露してしまう。つまり片腕の死体の正体がルヴォフがKGB時代の同僚であり、彼がCIAに情報を提供しようとしたために抹殺されたのだが、ロシアはその秘密を暴かれる前にルヴォフの恋人と名乗るイレーナ・ノヴィコワという女性スパイを送り込み、陽動しようとした。
しかしそれをチャーリーが看破し、彼女は陽動の為ロンドンに送り込まれながらアメリカ側に移ることを選択し、CIAの手に渡る。しかしイギリスはロシア連邦保安局副長官という大物マクシム・ラドツィッチを亡命させ、手中に入れることに成功する。
しかしチャーリーは一方で妻のナターリヤ・フェドーワと娘のサーシャをイギリスへ亡命させるため、ラドツィッチの亡命を陽動作戦に使うが、ラドツィッチ亡命をなんとしても成功させようとするMI5部長ジェラルド・モンズフォードの陰謀によって暗殺させられそうとなり、凶弾に倒れる。

ただしこれら複雑な様相を呈する一連の事件の真相が解る3部作の完結編という重要な位置にある作品にしては実に動きのない話である。何しろ展開されるのはまず亡命したマキシム・ラドツィッチへのMI6による尋問と同じく亡命したイレーナ・ノヴィコワに対するCIAによる尋問、そしてナターリヤ・フェドーワに対するMI5からの尋問、そしてロシアに拘束されたチャーリーのロシア連邦保安局による尋問、そして英国官房長官アーチボルト・ブランドを議長にする危機管理委員会におけるMI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードを中心としたそれぞれの立場と自尊心を賭けたディベート合戦なのだ。

まず尋問シーンではそれぞれの尋問者が有効な手掛かりと情報を被尋問者から訊き出すための試行錯誤、手練手管が繰り広げられるが、被尋問者は自分の立場を有利に保つためにやすやすと情報開示しないため、延々と同じようなシーンが繰り返される。

また危機管理委員会も同じく日常的にいがみ合っているMI5とMI6との駆引きに終始紙幅が費やされる。特にチャーリー暗殺を企て、未遂と云う失敗に終わったモンズフォードはその事実を露見させないよう嘘八百を並べ、時に有意に立ち、時に八方ふさがりの状況に陥る、その繰り返しだ。

しかしやはり三部作の最後を飾る本書はそんな退屈なシーンを我慢するに値するサプライズが待ち受けている。下巻の230ページで明かされる衝撃の一行。

そこからの展開はまさに怒涛。五里霧中状態で暗中模索しながらチャーリー・マフィンをいかに救出する方策を決めあぐねていたイギリスの危機管理委員会がFBIとCIAと共同戦線を敷いてロシア側を欺こうと奮起する。
尊大に振舞っていたラドツィッチとFBIの尋問官を手玉に取っていたイレーナは一人の凄腕尋問官の軍門に下っていく。

その尋問官の名はジョー・グッディ。下巻の後半で登場しながらも堅牢なロシア側スパイの防御を切り崩し、ひれ伏せさせる尋問のプロ中のプロ。彼の登場で一気に物語が加速する。

その爽快さはそれまでの実に退屈な物語を我慢してきた甲斐があったと十分思わせるほどの物だった。

さらにチャーリーが解放された後の振舞いもまたチャーリー・マフィンと云う男の深さを改めて再認識させられる。
通常ならば監禁生活を強いられた者ならば解放される否や何をさし措いても家族と会うものではないだろうか。しかし完璧無比な諜報員であるチャーリーはその実に人間的な感情を敵国ロシアが利用していることを察して敢えてそれを味方にも悟られずに振舞う。それは彼の体内に追跡装置が埋め込まれていたからだ。チャーリーがそれを確信するシーンもさりげなく物語に溶け込ませているのだから、フリーマントルという作家の筆巧者ぶりには畏れ入る。

そしてナターリヤの過剰な疑心暗鬼ぶりも最後の最後でその真意が明かされる。

ただし、それでも小説全体の評価は傑作とまではいかなかった。それはやはり前述したように物語自体が全体的に動きに乏しかったこともそうだが、今回の訳は日本語として体を成していない文章がところどころ目立ったことも大きな一因である。
訳者は昨今のフリーマントル作品の訳を担当している戸田裕之氏なのだが、中学生や高校生が教科書に書かれた構文をそのまま訳しているような、実に解りにくい文章が散見させられた。例えば次のような文章だ。

(前略)いまは拒否している大使館との面会と、どうしても必要となる導きを得ることが出来るかもしれない。

あなたがわたしたちに協力し、あなたが心を開いて話してくれているとわたしたちが示すことが出来るかもしれない本当の何かを私たちに提供してくれ、(後略)

こんな実に読みにくい文章が続くのだ。しかも上の2つの文章は登場人物たちの独白である。
こんな言葉を話す人などいやしない。行間を読むような話し方をするインテリジェンスに携わる人々の特殊な会話を表現する意図があったのかもしれないが、このような文章では決して成功しているとは云えないだろう。
例えば私ならば上の文章は次のように訳す。

(前略)いまは大使館との面会は拒否しているが、いずれ必要となるきっかけが得られるかもしれない。

あなたがわたしたちに協力し、信用して話しているという確証めいた物が得られれば、(後略)

原文がどう書かれているかは知らないが、せめて日本語として文章を書くのであれば作者の意図する内容を噛み砕いてほしいものだ。

しかし最後の最後まですっきりとしない物語だ。
諜報活動には終わりがない。常に騙し騙されるかの戦いだ。結局本書でも何が本当で何が虚構なのか解らないまま物語は閉じられる。
私はこの三部作こそが長きに亘って書かれたチャーリー・マフィンシリーズの終幕として著された作品と思われたが、どうやらそうではないらしい。
窓際の凄腕スパイ、チャーリー・マフィンを世界は必要としている。“Show Must Go On.”


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魂をなくした男(上) (新潮文庫)