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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数688

全688件 81~100 5/35ページ

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No.608:
(7pt)

我々の正気の立脚点はなんとも脆いものか

残念ながら2013年に亡くなった作者の、元々は『「通りゃんせ」殺人事件』という凡百なタイトルで発表された作品。本書はモチーフの童謡を「通りゃんせ」から「子取り鬼」に変えて加筆・修正されている。
日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。

その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。

今邑氏はそれまでの作品でカーの『火刑法廷』を彷彿とさせる、本格ミステリとホラーを融合した作品を書いてきた。怪奇現象としか思えない事件を本格ミステリとして解き明かした後に、不可思議な現象が起き、なんとも云えない余韻を残した作風が特徴であった。従ってそれまでの作品を読んでいる読者は平安時代から纏わる鬼女の伝説を擬えた怪奇的な見立て殺人と思わされながらも、ホラー文庫から出た作品ということもあり、やはりホラーなのでは、と実に不安定な状況の中、読み進むことになる。これが実に効果的であった。

本書のホラー要素とは前掲にもある子取り観音の逸話だ。

自分の娘を鬼にさらわれ、腸を切り開かれて殺されたことから絶世の美女と謳われながら、我が子を喪った苦しみから鬼女と化し、墓から自分の子の亡骸を掘り出して食らい、そして山奥に逃れて、時折人里に降りてきては里の子供をさらっては腸を食らっていたとされる桜姫の伝承から由来する子取り観音。子取り鬼の一節、「赤いべべ」はべべ、つまり着物ではなく、服を真っ赤に染めた幼女の血を指す。

そんな逸話が残る子取り観音を祀る廃寺で22年前幼い頃に子取り鬼をして遊んでいた千鶴たちと一緒に遊んで置き去りにされたことで、何者かによって我が娘を殺された妾、加賀道世とその息子史朗が再び夜坂に戻ってきてから起きた同様の幼女殺害事件。

この22年という歳月を経て再現される奇妙な符号。

東京で夫と死別し、夜坂に千鶴を連れて出戻る母と全く同じ状況で娘紗耶と出戻る千鶴。

夜坂を離れずにいる当時の幼馴染たち。

その幼馴染たちと廃寺で遊んでいる後に起きた幼女殺害事件。

幼馴染の1人は娘がその幼馴染たちと廃寺で遊んでいる時に首を絞められて亡くなっているのを発見される。

そして22年前に娘を亡くした妾の女性が老女となって再び夜坂に戻り、一人息子と以前住んでいた洋館に住んでいる。

全てが夜坂に残る暗い歴史、22年前の事件を再現するかのように全てが集まる。

大人になった幼馴染たちは今度は22年ぶりに自分たちの子供が殺されていくのを目の当たりにし、当時の忌まわしい事件の再現度を高めた千鶴の帰郷とこの加賀親子の再来こそが全ての元凶であると糾弾するようになる。そしていつの間にか周囲には加賀親子こそが、犯人である、22年前に殺された娘の事件を自分たちのせいにした恨みから復讐しているのだと思うようになる。
一方で子供たちが殺された晩に決まって掛かってくる子取り鬼の歌を歌う老女の声。一連の事件は子取り観音の仕業ではと千鶴は疑ったりもする。

人間の手になるものか、それとも不気味にほほ笑む観音像による人智を超えたものの仕業か。

何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。

結局一連の幼女殺害事件は、人智を超えたものによる仕業ではなく、狂える人たちによる凶行であった。
つまりはミステリであったが、ホラーではなかったかと云えばそうではない。本書はミステリでありながらやはりホラーであったと云えるだろう。

では本書における怖さとは何か?
次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。

しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。

その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。

幼い頃に妾として町中の大人から疎まれていた加賀道世。相手にしてはいけないと親から云われていた子供たちは彼女の兄妹とは遊ばなかった。町の廃寺で子取り鬼をしているところを訪れた道世から、うちの子と遊んでくれないかと頼まれ、周りの子供たちは拒む中、夫と死別して東京から出戻り、兄夫婦の許でぎこちなく暮らす千鶴はその兄妹にシンパシーを感じ、周囲の反対を押し切って妹のルリ子を仲間に入れてあげる。

しかしその後仲間たちは別の遊びをしに行くが付いてこなかったルリ子だけが後に首を絞められて廃井戸の中で遺体となって見つかる。

ルリ子を殺害したのは犯人なのに、誰とも解らぬ相手よりも顔を知っている子供たちに娘の仇と認めた道世は土屋裕司、髙村滋、山内厚子、深沢佳代、松田尚人、柏木千鶴らの家を訪れ、お前らが娘を殺したと罵倒する。そしてとりわけ仲間に引き入れた千鶴を最も憎悪をしていたことを22年後に兄の史朗から伝えられる。

更に娘紗耶の失踪をきっかけに実の子を亡くす山内厚子と深沢佳代は、同じく犠牲者がなぜ事件の素を作った千鶴の娘紗耶ではなく自分の娘なのかと世の理不尽さに憎悪し、その刃を千鶴に向ける。
つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。

更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。

本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。
片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。

洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。
しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。
友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。

それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。

以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。
人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。
しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。

特に上手いと思ったのは主人公の相馬千鶴の造形だ。

夫に先立たれ、幼い娘を連れて帰郷し、いとこ夫婦のところに居候することになった彼女。しかし余計なお荷物を預けられたと疎まれ、娘はなかなか自分の云うことを聞かない。更に幼女の殺害事件が起きるとたまたま娘の紗耶が失踪したことがきっかけだったことから自分のせいで娘が死んだと犯人扱いされ、そのことが町の噂になり、いとこ夫婦も家を出ていってほしいと望むようになる。
そんな環境の犠牲者と思われた千鶴が彼女も郁江から根無し草のような人生を送っている女性として悟らされることで、生活力のない女性、そのことで彼女もまた運がないだけでなく、自らも他者に頼ってばかりの、自立していない女性であることが解ってくるのである。
そして心のどこかで自分の美貌を誇り、初恋の男性だった高村滋が子供の産めない体になった妻の郁江を捨て自分に走ってくれるのではないかと期待していた甘さも判明する。それが単に思い上がりであったことを知った彼女が娘と逃げ出し、加賀邸に向かうラストは、彼女が裸足であることが象徴的だ。

300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。評価は☆7つだが、☆8つに近いと云っていいだろう。

既に夭折して新刊が望めない作者であるが、幸いにして私の手元には彼女の全著作が揃っている。3作読んでやはりこの作家は私に合っていると確信した。
恐らくは近い将来、昨今の出版事情を考えれば、ほとんど全ての作品が絶版となり、限られた作品のみが電子書籍化として残るだろうことを考えれば、これらの蔵書はまさに貴重。
まあ、そんな収集家的愉悦よりもまだまだ読める作品が沢山あることが素直に嬉しい。次作を読むのはまたしばらく後になるが、その時も期待通りのミステリが読めると思えると愉しみでならない。


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赤いべべ着せよ… (中公文庫)
今邑彩赤いべべ着せよ… についてのレビュー
No.607:
(7pt)

TVでは描かれなかったサイドストーリーが強烈すぎて

本書は2011年にNHKで放映された『探偵Xからの挑戦状』という番組のために書き下ろされた作品。これは現代の本格ミステリ作家たちによる視聴者参加型の推理番組で、そのうちの1つとして放映された。
従ってまず先に映像化があり、その3ヶ月後に刊行された、島田作品では唯一映像化先行の作品である。

従って映像化を意識してか、その導入部はかなりのインパクトを持って始まる。なんせ霧の中からゴーグルを掛けた男が現れて、巡査の前を疾走して消え去る。しかもその男のゴーグルの中の目は血走っており、さらにその顔は真っ赤で爛れているように見えたという、何とも映像的なシーンである。

ゴーグル男はその後も福来市の至る所に姿を現す。しかもゴーグルをつけた状態で。

つまり本来ならば犯罪者が自らの顔を隠す覆面としてゴーグルを着けていると思われるのに、このゴーグル男は犯行を行うときのみならず普通の生活をしている時にもゴーグルを着けているところが異なっている。スーパーでの買い物、定食屋での食事、更には銭湯での入浴時でもゴーグルをしている。
想像しただけでもシュールな光景で、しかも笑える。

日常生活でゴーグルをなぜしているのか?
その理由を示唆するサイドストーリーが交互に語られる。

このサイドストーリーはNHKの番組にはなかったもので、小説化に当たり、加えられたものだ。

島田氏はその作品のサイドストーリーに社会的弱者の生い立ちを絡め、豊かな国日本で社会の底辺でままならぬ生活を強いられている人物、もしくはある出来事・事件がきっかけで人生を狂わせてしまった人物のエピソードをかなりの紙幅を割いて語るのが特徴となっているが、本書では母子家庭で育った、幼い頃にその女の子のような風貌からある大人に性的虐待をされた男の話が添えられている。

ただその男に関してはその性的虐待の過去だけが人生に暗い翳を落とすだけでなく、彼が大人になって勤める住吉化研という原子炉の燃料を製造している会社の話が絡められている。
その会社が臨界事故を起こし、その場に自分もいたが、鉛スーツを着てゴーグルを掛けていたため、直接的に放射能を受けたのはゴーグル部分のみであることが示唆される。そしてウラン溶液を直接扱っていた作業者が2名が被曝し、その惨たらしい死に様が克明に書かれる。

さてこの住吉化研の臨界事故と、聞けばすぐにある会社が思い浮かぶだろう。日本のみならず世界をも騒がせた1999年9月30日に起きた茨城県東海村での臨界事故。この作品のサイドストーリーは実に読むのが辛かった。
舞台は東京都の福生市をモデルにしたであろう架空の市福来市と場所は変えているが、起こった事故の詳細は当時の事故の話とほぼ同じである。特に至近距離で被曝した被害者の生々しい描写には暗鬱にさせられる。当時の事故のことを知っている私でも改めてこんなひどい死に方があるものかと思うくらいだ。

ただ近くの公園で奇形の犬の死骸が沢山掘り出されたり、敷地内の森では自殺した家族の幽霊が出たりと、いかにも秘密主義の会社で不安を煽る描写が続くのには眉をひそめる。
その後の会社の対応については被害者サイドの話、もしくはこの事故のことを書いた文献—参考文献が書かれていないのでどの書物なのかは不明だが—を元に構成されたようで、一方的に会社側が悪者になっているように書かれている。町の至る所に現れ、都市伝説化したゴーグル男の棲み処とまで名指しで称されるようになる。

この辺の件については、いかにフィクションであれ、実際に起きた事故を、そしてモデルになっている会社があることを考えると不快でならなかった。そしてこの内容は場所や名前は異なるが明らかに特定の会社を示唆しているので、番組放映ではカットされても止むを得なかっただろう。放映時点で構想はあったかは解らないが。

そして今回の事件の真相—つまりゴーグル男がなぜゴーグルをしているのか?-については当時の番組を観ていたこともあり、記憶に残っていた。もう7年も前になるが、やはり島田氏の奇想は刺激的で、こんなこと思いつくのはこの作家しかいないと思えるほどインパクトの強いものだった。

しかしその番組を観ていてもそこに盛り込まれていないサイドストーリーの内容が強烈で、番組の時とは全く違うのではないかと思わされた。特にゴーグルの中は赤く爛れて血が流れていたと何度も繰り返されているところが不安を掻き立てられたように思える。映像を観た人も更に読み応えが得られるようにかなり肉付けしたのだろうが、私には少し、いやかなり刺激が強すぎた。

しかし覚えていたのはそこまで。

私が特に面白く思ったのは3軒目の煙草屋のお婆さんが見たくねくね動いていた若い男の真相。

本書は最盛期の島田氏の奇想溢れるミステリとしてまさにこの作家しか考えつかないアイデアと驚き、そして納得に満ちたミステリであり、最近の作品の中でも本格ミステリ度の高い快作なのだが、上に書いたようにミステリ性を装飾するサイドストーリーが私にとっては非常に辛い内容だっただけに島田氏の健在ぶりを素直に喜べなかった。
そのサイドストーリーについても事件の悲惨さを掻き立てる内容に終始しているのが残念でならない。

そして当事者性を排除して読むと、会社の決まり事というのは部外者にとっては実に奇妙に映ることがよく解った。何とも会社というのは世間一般と離れた独自の文化を持つ共同体であることかと改めて気付かされた。


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ゴーグル男の怪 (新潮文庫)
島田荘司ゴーグル男の怪 についてのレビュー
No.606:
(7pt)

いやはや男だねぇ

2008年に『ホット・キッド』と『キルショット』の文庫化以来、翻訳が途絶え、2013年に逝去したレナードの作品はもう訳出されることはないだろうと諦めていた。だからまさに青天の霹靂だった。
10年ぶりに未訳作品が刊行される、しかも訳者は村上春樹氏!何がどうしてこんな奇跡が起こるのかと不思議でしょうがなかったが、兎にも角にもそれは実現した。

しかも村上春樹氏が数あるレナード作品から選んだのは既出の作品の新訳版でもなく、はたまたレナードがベストセラー作家となった以後の作品でもなく、彼がまだデビュー間もない頃に書いていたウェスタン小説というのもまた驚きだ。特にこの手の作品はレナードが犯罪小説の大家として名を成していたために初期の作品については決して訳されないだろうと思っていただけに、三重の驚きだった。

そんな本書『オンブレ』には中編の表題作と短編の「三時十分発ユマ行き」の2編が収められている。

表題作は白人とメキシコ人の混血で、3年間アパッチと共に暮らした“オンブレ”の異名を持つジョン・ラッセルの物語。
“オンブレ”とはスペイン語で「男」という意味でトイレにも男子トイレを意味する言葉として書かれているほど一般的な名詞だ。確かディズニー・シーのどこかのトイレにも書かれていたはずだ。

このジョン・ラッセルと旅に同行することになった一行が同行者の1人、インディアン管理官のドクター・フェイヴァーが横領した牛肉の上積み金を追ってきた強盗一味と戦いを繰り広げる物語だ。

但しこのジョン・ラッセル、まだ21歳ながら、蛮族として白人連中に忌み嫌われていたアパッチと3年間共に生活をしていた経験から、白人たちとは異なった価値観、考え方を持つ。人の命を優先しがちな白人たちと違い、彼は常に自分の命を優先して物事に当たる。というよりも最大限に仲間の命が助かる道を選ぶ。
従って1人のために皆に危機が訪れることは選択しない。それが時には非情に映るようになる。

例えば少ない水を巡って昼に飲むとすぐに干上がるから夜に飲むことを仲間に強いるが、その約束を破って率先して水を飲んだ者を、仲間たちに災いをもたらすとして同行を禁じる。

灼熱の暑さに苦しんでいる者を助けようとする者をそうすることが敵に居所を知られる罠であると見破ると敢えて手を出さずに見殺しにする。

つまり彼は無法の地で生きていくために身に着けることになった考え方、そしてアパッチたちとの生活で培ったサヴァイバル術を実践し、自分の考えに従って行動しているだけなのだ。

その一方でアパッチに対する敬意も深く、野蛮だ、忌まわしいと一方的に忌み嫌う人々には容赦ない眼差しを向ける。

彼は決して気高い男ではない。但し常に冷静な頭で考え、行動する。そうやって生きてきた男だ。作中こんな言葉が出てくる。

 “ラッセルは何があろうと常にラッセルなのだ”

これほど彼を的確に表現している言葉もないだろう。誰にも干渉されず、従わない。しかしなぜか皆が頼りにしてしまう男、オンブレがジョン・ラッセルなのだ。

法という道理が通用せず、ただ生き残った者が正義である荒野。そんな最悪の環境下でインディアン管理官の横領した金を奪おうと追ってくる強盗達から逃亡と対決。
そんな極限状態の中で金と水の誘惑に人は惑わされ、自身にとって最も都合のいい解釈に従って行動するようになる。

そんな人の心の弱さを見せつけられる中、一人正論を吐き、常に気高くあろうとするマクラレン嬢の存在はある意味、本書における良心だ。
アパッチに襲われ、1カ月以上行動を共にした17、8歳の女性は、恐らくはその地獄のような生活で凌辱の日々を過ごしながらも道徳心を保ち、そしてそれに従って生きようとする。

今にも息絶えそうな人間に早く水を飲ませなくてはならない。
人を見殺しに出来ない。
皆で協力すればどうにかなる。

それは現代社会においても見習うべき前向きな姿勢だし、そして人として守らなければならない教義だろう。

しかしこの荒野や悪党どもとの戦いの中ではそれらが実に偽善的で自己満足に過ぎない戯言のように響く。
正しいことをすることで被る犠牲や危機がある、それがこの無法の地であることをこの正しき女性マクラレン嬢を通じて我々読者は痛感するのである。

そして正しきことをすることで訪れるのは哀しい結末だ。それが西部開拓時代のアメリカの姿なのである。

もう1編の短編「三時十分発ユマ行き」は3時10分に訪れる列車に乗せる囚人を預かった保安官が孤軍奮闘して囚人を救出しようと町に訪れる彼の仲間たちの襲撃を退け、無事列車に乗せるまでの顛末を語った物語だ。

援軍もなく、ただ1人の囚人の護送のためにホテルの一室で息が詰まる見張りを命じられた保安官補スキャレン。彼には3人の子供と女房がいて、月給150ドルで養っている。
強盗のジム・キッドは彼よりも若く、ともすれば10代の青年のようにしか見えないが彼は強盗稼業で彼以上の金を稼いでいる。彼にはなぜそんな150ドルぽっちの安月給で割に合わない仕事をしているのかとスキャレンを揺さぶる。

正直スキャレンにもはっきりした答えはできないのだろう。ただ彼は今までそうやって生きてきたのだから。
アパッチの反乱鎮圧のために組織された自警団に参加し、それが縁で保安官に気に入られ、月給75ドルから保安官補として働き出したスキャレンは150ドルまで月給が上がったことが誇りであった。堅実に生きることが当然のことだと思っていたに過ぎない。

しかしそんな彼に訪れたのが今回の災難。囚人護送のために囚人たちの仲間に囲まれた状況で無事に彼を列車まで届けなければならない。
そんな窮地に陥った時に不意に浮かんだ家族との風景。それはまさに彼にとって死を迎える前に走馬灯のように見えた過去だったことだろう。

そして彼はどうにか無事に囚人を列車に乗せることに成功する。生きるか死ぬかの境でどうにか生き延びたスキャレン。囚人のジムも感心して月給分の仕事を間違いなくしていると賞賛する。

それが仕事なのだ。手応えのある仕事をしているからこその代価。
そんな男の達成感がこの短い話の中に詰まっている。


レナード最初期の作品であるこの2編はブレイクしたレナード作品に登場する悪役ほどの個性はないが、その萌芽は確実にみられる。

白人とメキシコ人の混血であり、更にアパッチと共に暮らした経験を持つ“オンブレ”ことジョン・ラッセル。

牛肉の代金を水増しして請求し、その上澄み金を横領して私腹を肥やしていたインディアン管理官ドクター・フェイヴァーは自分の金を護るためならば若い妻をも見殺しにする、情理のうち理性の部分で物事を考える合理的な人物。

そしてアパッチにさらわれて1ヶ月間行動を共にさせられた気高き女性マクラレン嬢はどんな窮地に陥っても人として正しいと思ったことを貫こうとする。

翻って彼らを迎える悪人はさほど印象が強くない。乗客の1人だった除隊兵を押しのけ、彼の切符を横取りしてまで馬車に乗り込んだフランク・ブレイデンはフェイヴァーの横領金を狙った強盗団の一味だった。しかし彼は度胸はあるものの、タフではない。彼は自分より若いオンブレに最終的には恐れをなす男だった。

その他彼の仲間も大同小異と云った印象だ。やはり本書では主人公のオンブレが群を抜いている。

陸軍への物資補給を請け負う馬車隊の仕事をしていたジェームズ・ラッセルという男に拾われた虜囚イシュ・ケイ・ネイがやがてジョン・ラッセルという名を与えられる。5年後ジェームズ・ラッセルの許を離れ、インディアンの自治警察に入ってそこでチャトとチワワの部族との戦いで3人分もの活躍を見せたことから「トレス・オンブレス」の異名を貰い、“オンブレ”と呼ばれるになる。

21歳ながらそんな波乱万丈の人生が彼に年不相応の落ち着きと雰囲気を纏わせ、何物にも動じない、自分の芯を持った男として常に生き残ることを考えて行動する。

しかし彼が最後に起こしたのは1人の女性の訴えに応える、決して自分ではやらないことだった。

西部開拓時代にいくつもあったであろう“男”の短い人生の1つ。まさに西部の男である。

そしてもう1編の保安官補スキャレンもまた西部の男の1人。彼は任務のため、仕事のために命を張る。その頭に過ぎるのは3人の子供と女房。家族のことを思いながら家族のために命を賭ける。死ねば何も意味はなくなることは解っていながら、そう簡単に割り切れない。
なぜならそれを彼が求められたからだ。そんな不器用さが滲み出てて実に好感が持てる。

この2編を読んで思わず出たのは「男だねぇ」の一言である。

村上春樹氏が今更ながらにレナード作品を訳出することにしたのかはあとがきに書かれている。ただ単純に読み物として面白く、小説として質が高く、全く古びないからだと。
それは本書を読む限り、本当のことだ。
そして村上氏がこれほどまでにレナード作品のファンであるとは思わなかった。レナード作品のみならず映画化作品まで触れており、レナード作品がなかなか日本で人気の出ないことに不満を持ち、少しでもレナードファン開拓のために西部小説を翻訳したと書かれている。

いやはや一レナード読者としてこれほど嬉しいことはない。しかもあの村上春樹氏がこのように述べているのである。

チャンドラーに続き、これが村上氏によるレナード作品訳出の足掛かりとなって今後もコンスタントに氏の訳で出版されることを望みたい。
私はそれにずっと付いていくとここに宣言しておこう。


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オンブレ (新潮文庫)
エルモア・レナードオンブレ についてのレビュー
No.605:
(7pt)

コナリー版『幻の女』

コナリーのノンシリーズである本書はIT業界の若き社長ヘンリー・ピアスを主人公にした、消えたエスコート嬢の行方を追うミステリだ。

まず本書の題名はそのままピアスに間違い電話が掛かってくる原因となったエスコート嬢に電話番号を変えてもらうために探す内容そのままだが、原題は“Chasing The Dime”。直訳すれば「十セント硬貨を追って」となるが、これは将来高性能コンピュータが十セント硬貨ぐらいの大きさになることが予想されており、それを実現させたものが次世代のコンピュータ産業を制することになることから、コンピュータ技術者たちが鎬を削っていることを示している。それがIT産業でナノコンピュータの分野である分子コンピュータ開発で一足先に抜きんでいるピアスを取り巻く現状を表している。

まず驚くのがコナリー作品とは思えぬほど、全体的に軽みがあることだ。それは本書の主人公ヘンリー・ピアスはこれまでのコナリー作品では考えられないほど、浅薄で未成熟な人物として映ることに起因していると思われる。

34歳の新進のIT企業の若き代表は会社の部下の1人だったニコールという女性と別れ、未練たらたらな状況を変えようと彼女と住んでいた家を出て新しいアパートメントに移るが、新しい電話番号にはひっきりなしにエスコート嬢のことを尋ねる電話が掛かってくる。気になって調べたところ、これが飛び切りの美人で、自分と同じ電話番号をサイトから削除してもらうよう頼むためと口実にして消えた彼女の行方を追う。
若くしてIT業界の寵児となったために女性経験が浅い男の、実に青く身勝手な捜査なのだ。そしてその我儘な捜査に周囲の人間も巻き込まれて辟易する。

つまり他者との距離感に対して非常に鈍感で、自分の目的達成のためにどんどん他人のプライヴェートな部分にも踏み込んでいく。特にリリーの行方を追うために情報提供と協力をお願いするロビンは彼の行動が原因で自分も手ひどい目に遭う。それに責任を感じるピアスは何もできやしないのに助けると親切の押し売りのように何度も連絡を取り、終いには相手の怒りを買ってしまう。

更には過去に犯した悪戯半分の犯罪歴によって逆に刑事に失踪者捜しを装った失踪者殺人の容疑者として目を付けられ、窮地に陥ることになる。

更にはロビンとリリーがエロサイトに掲載したSMシーンを会社のPCで食い入るように見ているところを秘書に見られて、秘書の解任を求められるなど、いわゆる社会人としての常識に欠けた所が多々見られる。

このように技術オタクの若造が社会不適合者ぶりを発揮して自己中心的に振る舞い、周囲の目に気付かずに狼狽する様子がアクセントとして織り込まれ、ユーモアを醸し出しているため、私はてっきり彼が追っているリリーも元締めによってどこかで消されたと思わせつつ、物語の最終で元気な姿で登場し、そしてこのサエナイ君と最後は恋人となる予感をはらませてハッピーエンドを迎えると云うお気楽ミステリのように考えていたが、やはりコナリー、そんな非現実的なロマンティック・コメディを一蹴する。

リリーは結局遺体となって発見される。しかも何者かによってピアス名義で借りていたトランクルームの中に置かれた冷蔵庫の中に保存されるような形で。しかもそのトランクルームは6週間も前に借りられていた。
つまり一連の電話番号がエスコート嬢のそれと同じであることから始まる騒動はピアスを陥れるために仕組まれた罠だったことが判明するのだ。

窮地に陥ったピアスはこれが姉の死を模したものだと察し、その死について知る者こそが今回の一連の工作を実行した者だと推理する。

さてコナリー作品にはハリー・ボッシュシリーズを軸にしたいわゆるボッシュ・サーガが繰り広げられるが、ノンシリーズである本書も例外でなく、まずリリー殺害の容疑を掛けられた主人公のヘンリー・ピアスが紹介される弁護士はジャニス・ラングワイザーである。
彼女は『エンジェル・フライト』でボッシュと組んだ後、『夜より深き闇』でボッシュが手掛けた事件の次席検事補として登場し、華々しい活躍を見せ、読者に強い印象を残した人物。その後彼女は検事を辞め、刑事弁護士に転職したことが判明。そして彼女からは前作『シティ・オブ・ボーンズ』でのボッシュの―具体的に名前は出ないにせよ―退職も明かされる。

しかしシリーズのリンクはそれだけでなく、もっと驚くのピアスがなんとドールメイカー事件と関わりがあったことが判明することだ。

このことから本書はその他大勢として片付けられる人物にも一つの人生があり、そしてその人の死によって人生を変えられた人がいることを1つの作品として描いていることが判る。
やはりこれは9・11の同時多発テロで多くの尊い命が奪われたことに対する、コナリーなりの追悼の書と云えるだろう。大量死の中に埋もれた人々に名を与え、そしてその人の人生と遺族の人生を語ることを強く意識していると思われる。

インターネットが普及した時代でも幻の女を探すのは非常に困難であることが解る。しかし昨今のウェブ事情、町全体に仕掛けられた監視カメラやGPSなどの位置情報システムを駆使すればもっとたやすくなっており、ドラマ『CSI』を観ると実に鮮やかにミスター/ミスXの身元は明かされていく。
本書はインターネットが普及し始めた頃だからこその『幻の女』だった。
美しさを武器に大金を稼ぎ、母親に仕送りをしていた娘の結末にコナリーはあくまでも現代アメリカの残酷な現実を突きつける。

チャンドラーを敬愛し、その影響を包み隠さず自作に反映し、そしてロス・マクドナルドばりのアクロバティックなサプライズを物語に取り込む、まさに現代ハードボイルド小説の雄コナリーがノンシリーズで挑んだのはアイリッシュの変奏曲。
しかもそれを現代風にアレンジし、いささか軽めのテイストで信仰させながらも、やはり最後はコナリー独特の苦みを残す。

本書を最後にノンシリーズは書かれていない。いわばボッシュシリーズを幕を下ろそうとして新たな作風を模索していた頃の作品だ。
この後リンカーン弁護士シリーズという新たな地平を見出し、ボッシュシリーズと並行して書いていく。
本書はコナリーがそこに至るまで暗中模索、試行錯誤しながら著した非常に珍しい作品だ。現代ハードボイルド小説の第一人者として名高いコナリーもそんな時期があったことを示す貴重な作品としてファンなら読むべきであろう。


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チェイシング・リリー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.604:
(7pt)

謀略のダンスに踊らされた哀しき人々の物語

髙村薫氏は前作『神の火』で元原発技術者でスパイだった男、島田を主人公に原発襲撃を企てるクライムストーリーを描いたが、本書ではとうとう本格的な国際謀略小説を書いた。《リヴィエラ》というコードネームを持つ白髪の東洋人を巡るIRA、MI5、MI6のみならずCIAすらも加わってくる一大謀略小説だ。

物語の冒頭、日本の汐留インターで転がっていたIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの死体、その事件前に見つかった東洋人女性の射殺体と、その直前に警察に入った女性の声でジャック・モーガンが捕まり、リヴィエラに殺されるとの一報から警視庁外事一課、手島修三がこの事件を捜査が始まる。

しかし物語はそこから様々な国の諜報機関が追う謎の人物リヴィエラの捜査に向かうのではなく、手島がかつてイギリス大使館時代にリヴィエラを通じて知り合ったスコットランド・ヤード副総監のジョージ・F・モナガンの手紙を辿るように、このIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの生い立ちへと飛ぶ。

ジャック・モーガンの一生はリヴィエラという名の殺し屋との戦いに費やされたといっていいだろう。しかし彼は父親の仇であるリヴィエラに憎悪の炎を滾らせているわけではない。彼は自分が生きていくためにIRAのテロリストとなり、いつしか自分の存在意義を確認するために人生の目標をリヴィエラを討つこととした人間だ。

従って彼は父親を喪いながらも打倒リヴィエラを鼓舞しながら一流のテロリストとして日々腕を磨く復讐の鬼ではなく、同じくIRAの工作員だった父親の血を持つためか、持って生まれたテロリストの資質に気付いていくのである。どことなく冷めたテロリスト、それがジャック・モーガンの印象だ。

しかし彼は冷めていながらも最後の詰めで秘めていた感情が迸り、ミスをする。暗殺の任務で仲間だった1人が重傷を負い、足手まといになるので殺さなければ自分も捕まり、ましてやそのままにしては情報が漏洩するというテロリストの鉄則を、その仲間が昔親しかったピアニストと同じ目の色をしているというだけでそのまま放置してしまい、その後の任務に支障をきたし、自らがスコットランドヤードで指名手配され、IRAのテロリストから落伍する憂き目に遭う。

その後もCIAに雇われ、《リヴィエラ》をおびき出すためにIRAの残党の暗殺を頼まれる殺し屋になるが、任務は果たすものの、友人のピアニストとの再会で衆人環視の中で派手な殺人を犯し、逃亡の身となる。

子供の頃から愛を誓った女性ウー・リーアンとの平穏な暮らしを望み、それが目前まで迫りながら、その直前で自分の感情にほだされて行動する衝動が捨てきれない若さ、ナイーヴさを持つ男なのだ。

そんな流転する人生だから、しばしば彼は自分の存在意義を見失う。唯一のよすががウー・リーアンなのに破滅的な行動でいつも手の先から滑り落ちてしまう代わりに彼が見つけたよすがこそが父親を殺した《リヴィエラ》という白髪の東洋人。
そう彼が、自分が何のために生きているかを常に確認するために追い求める存在が《リヴィエラ》なのだ。

物語の中心は《リヴィエラ》という白髪の東洋人とだけが判明している謎の人物である。しかしこの謎の人物は姿を見せず、この殺害されたジャック・モーガンの、死に至るまでがメインに語られる。
つまり彼の死から始まるこの物語は詰まるところ、主人公の死から始まる物語と云っていいだろう。東京の高速で見つかった異国人の波乱万丈の人生に昔彼に関わった男がその過去へと踏み込んでいく。《リヴィエラ》という名を手掛かりにして。

複雑に絡み合った人物相関。それらは最初には明かされず、上に書いたようにジャック・モーガンの生い立ちに沿って現れてくる数々の登場人物がジャックに語ることで次第に明らかになってくる。

まずジャックの父親イアン・パトリック・モーガンはIRAのテロリストであり、彼は《リヴィエラ》の画策によってベルファストに亡命してきた中国人ウー・リャンを爆殺する。

この暗殺があらかじめ仕組まれた物だと気付いたイアン・パトリック・モーガンは息子を連れてベルファストを離れ、息子を義兄夫婦の許に預け、自分はパリでの潜伏生活に入るが、《リヴィエラ》によって殺害される。

IRAベルファスト司令部参謀本部長ゲイル・シーモアはこの仕組まれた暗殺とその後のイアン・パトリック・モーガンの殺害に《リヴィエラ》と通じていると思しきノーマン・シンクレアに疑いの目を向けるが、彼は白をきり、そしてゲイル・シーモアはジャックの伯父による密告で逮捕される。

ウー・リャンは中国政府のある秘密の資料を持っていた男で彼は香港のイギリス領事館にいた時、そこに居合わせていたのは世界的ピアニストでMI6のスパイでもあるノーマン・シンクレアと彼の音楽活動のマネジメントをしている《ヘアフィールド・プロモーション》のオーナーであり、しかも同じくMI6のスパイであるダーラム侯エードリアンの2人。

そしてダーラム侯の妻レディ・アン。中国人女性である彼女はかつて2人が愛した女性。しかし彼女は中国のスパイ。ダーラム侯は彼女と結婚することで自らの人生を棒に振った。

ウー・リャンの姪リーアンはジャック・モーガンが幼い時から好きだった女性。そして東京で偽名を使って恵比寿のアパートに住んでいたが、何者かによって殺される。

CIA職員の《伝書鳩》ことケリー・マッカンは中国と台湾の事情にCIAの中で最も詳しい人物。彼は自分の父親が《リヴィエラ》の工作の援助をしたという事実を知った時から《リヴィエラ》の正体を探ることに執念を燃やす。そのためには手段を選ばず、IRAのテロリストであろうと手を組み、姿を現さない《リヴィエラ》を炙り出そうと躍起になっている。

スコットランドヤード警視監ジョージ・F・モナガンはジャック・モーガンが起こした数々の事件を警察側から追う人物。MI5、MI6それぞれの強者とやり合いながら、IRAのテロリスト、ジャックを捕まえようと躍起になっている。

MI5職員のキム・バーキンは元スコットランドヤードの警官でモナガンの部下だった男だ。優秀だった彼はしかしテロリストのアジトを襲撃した事件で、アジトにいた少女の目の前で敵を射殺し、自分も重傷を負い、その事件で少女が精神病院に送られた。その事件が大々的にマスコミに取り上げられ、その責任を負う形で警察の職を辞した男。その後MI5にスカウトされ今に至るが、妻との関係も冷え切り、夜な夜な酒を飲み歩く虚無な日々を送っている。

その上司M・Gは最も得体のしれない男だ。親しみやすい風貌と仕草にも関わらず、全てを見通す“眼”を持っている。彼はモナガンとも親しく、そしてCIAのケリー・マッカンとも親しい、実に食えない男である。

そんな海千山千の諜報のプロ達が追う《リヴィエラ》の正体は物語半ばで明かされる。
田中壮一郎。かつてワシントンの日本大使館参事官だった男。今は大学教授をしている老人こそが長年追い求めていた《リヴィエラ》だったのだ。

しかし当時中国の機密文書に関与したダーラム侯とシンクレアが事の真相を話すと、それまで幾人もの人々が追い求めていたこの男よりも手島や《リヴィエラ》に古くから接触してきたMI6職員の《ギリアム》の強かさが立ち上ってくるのだ。

髙村氏の描く諜報の世界で生きる者たちは物語当初は第三者の目を持って物事を見つめ、決して主体的になるわけではなく、覚めた視座で物事を見、分析をする、そんな冷静冷徹な様子を醸し出している。平常心を保つために、ある者はユーモアを常に持ち、またある者は折り目正しい姿勢を保ち続ける。

しかしそんな男たち女たちも人間であるかのように次第に感情を露わにしてくる。
露わにしてくるといっても、彼ら彼女らは決して本意を悟られないように表に出さない。表面は凪いだ海のように平静を装いながら、心中は嵐のように波立たせて。

友情、そして愛情。諜報の世界に住む人々にとって決して抱いてはいけない人間的感情だ。しかし彼らは正気を保つためにそれを大事にする。

読んでいくうちに結局彼らが諜報の世界に生きているのはひとえに誰かを愛し、また慕うがゆえに逃れられない楔のような宿命を背負った代償であることが解る。
深く入り込んでしまった関係は秘密を共有するようになり、それが自身の運命すらも絡み取られてしまい、気付いた時にはどっぷり諜報の世界という沼に嵌り込んでしまってもはや抜けられなくなってしまっているのだ。

特にジャック・モーガンは不思議な雰囲気を湛えた人物だ。彼と関わり合った人物は決して状にほだされず、理で以って行動しなければならない諜報の世界で生きる人たちがどこか放っておけないと思わせる。
テロリストとして殺し屋として凄腕の殺人技術を持ち、何人もその手で屠り、血にまみれていながら、ピュアな部分を失わないジャック・モーガンは彼らが無くしてしまったものを持っているからこそ、心を、感情を動かされ、それまで思いもしなかった行動に出させるのだ。

IRAのボスだったゲイル・シーモアはテロリストを辞めたいという彼に恩赦を与える形で粛清せず、両足に2発銃弾を見舞えただけで彼を解雇し、その後彼を殺し屋として雇った《伝書鳩》ことケリー・マッカンはジャックが自分の想定外の行動を取り、その都度自身の計画を狂わせていくのに、なぜか彼と行動を共にする。それまで培ったキャリアでも見通せない性格、心情を持つ、若きテロリストに魅かれる自分がいることに気付くのだ。

ノーマン・シンクレアも元MI6のエージェントながら、まだテロリストに身を落としていない時のジャックに日がなピアノを聞かせていた蜜月の日々を思い出に、その後テロリストとなった彼にその時の純粋な面影、芯に残るピュアな部分を見出す。

スパイやエージェントたちが常に客観的に物事を見据え、死と隣り合わせの世界で生きていくために冷静を強いられるのは、逆に云えばプライヴェートな部分で冷静さをかなぐり捨てたがゆえに既に過ちを犯したことを教訓にしているからかもしれない。だからこそ任務で私情を交えた時、それは彼の諜報の世界で生きる人間の運命の終焉になるのだろう。

清濁知り尽くした諜報の猛者たちがジャック・モーガンと関わることで私情に囚われてはいけないという絶対的原則を侵し、身持ちを崩していく。

そして『神の火』でもあったが、男同士の酒を酌み交わしての語らう、手島、キム・バーキン、ダーラム侯、そしてシンクレアの時間の親密かつ濃密さ。
東京でのコンサートに現れた《リヴィエラ》の前で演奏したシンクレアが最後に彼の目の前に立って1本のユリの花と共に、最後通告を突きつけた後、宇都宮のホテルまで逃亡し、そこでそれぞれがお互いの立場を無くしてざっくばらんにそれまでのいきさつを話すのだが、その語らいのなんと和やかなことよ。
そこにいる4人はそれまでの諜報活動でのヒリヒリとした緊張感から互いに解放されて、本音を打ち明ける、血の通った交流がある。こういうシーンを女流作家である高村氏が書けるところに驚きを感じるのである。

またロンドンの市街を中心に舞台となる外国の描写が実に微に入り細を穿っており、驚く。髙村氏は取材せずに資料のみから想像して書くのが常だが、流石にこれらの町並みは実際に過去自身が訪れた場所らしい。
聖ボトルフス教会やシンクレアが中国人諜報員に拉致されそうになるミドルセックス通りの露天街の喧騒、郊外にあるダーラム侯の所有するスリントン・ハウスの田園風景、ドーヴァー駅の雰囲気どう考えてもロンドンの交通事情やその他イギリスの土地鑑など、その時の体験が存分に発揮されていて実に瑞々しい。

政府の政治原理に踊らされ、利用されていった人々が、愛情や友情に厚い人間臭さを持っていただけに、喪失感が殊更胸に染み入ってくるのを抑えきれなかった。

東京で起こった1人の外国人の死。そこから派生したのは72年に起きたある機密文書を巡っての中国、アメリカ、イギリス3国の攻防だった。その秘密のカギを握るとされていた白髪の東洋人《リヴィエラ》。

政治家、諜報機関はなんとも些末な事実を隠すために事を荒立て、多くの命を犠牲にしてきたのか。
そして恐らく21世紀の今も更に多くの国を巻き込んで、こんな不毛な命のやり取りを伴った諜報戦が繰り広げられているのに違いない。
髙村氏の作品は今回もまた私を憂鬱にさせてくれた。


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リヴィエラを撃て〈下〉  新潮文庫
高村薫リヴィエラを撃て についてのレビュー
No.603: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

超越者たちのララバイ

受験生だった頃、また仕事に行き詰り、先行きに不安を覚えた時、こんな風に思ったことはないだろうか?

全てが見通せる、全知全能の神になりたい、と。

本書はまさにそんな能力を持った人間の物語である。

その人物の名は羽原円華。
不思議な能力を持った彼女と温泉地で起きる不可解な硫化水素中毒事故の謎を扱ったミステリだが、この羽原円華がどこか他の人間とは違った特殊な能力を持っていることが物語の冒頭でも仄めかされ、いわゆるミステリなのか超能力者が登場するファンタジーなのか、リアルとファンタジーの境を平均台の上を歩くかのようにふら付きながら読まされていく。

そんなミステリとファンタジーの境界線上にある物語を主軸にして複数のストーリーが同時進行していく。

まずは元警察官の武尾徹が過去の警護の仕事で知り合った開明大学の事務員、桐宮玲から羽原円華という10代後半と思しき女性の警護を依頼される話。
彼女を警護していくうちに羽原円華の周囲に不思議な現象が起きることに武尾は気付く。やがてある事件を境に羽原円華は武尾と桐宮たちの前から姿を消してしまう。

もう1つは温泉街で起きた硫化水素中毒事故の話。2件起きる話のうち、年の離れた夫を事故で喪った水城千佐都を計画的犯行と疑っている麻生北警察署の中岡が単独で捜査を進めていく。

もう1つは泰鵬大学教授の青江修介がこれら2件の不審な硫化水素中毒事故をそれぞれ地元の警察からと地元の新聞社から専門的見地から調査を依頼される話。
その2つの温泉地で青江は羽原円華と邂逅する。

これら3つの話がやがてそれぞれ関係する人物との共通項が見出されて、複雑に絡み合っていく。

とにかくこの同時並行して進む物語は一転も二転も三転もして読者を謎から謎へと導き、離さない。
最近の東野氏はこのようなモジュラー型のミステリを好んで書くようだが、そのどれもが先が読めずに抜群のリーダビリティーを持っている。特にそれぞれが独立しているように思える登場人物との意外なリンクが明かされていく手際は熟練の妙というよりも、物語の構築美を感じさせ、思わず嘆息してしまう。

そんな複合するエピソードのうち、本書の読みどころの1つとして作中登場人物の1人、映画監督の甘粕才生のブログを挙げたい。自宅で娘の硫化水素を使った自殺によって妻と娘を喪い、息子が意識不明の重体で発見されるという不幸のどん底から、息子の謙人が植物人間状態から奇跡的に回復していく一部始終を綴ったその内容はそれだけでもう1つの小説の題材として申し分ないものだ。

特に感じ入ったのは家族が亡くなって初めて家族が自分のことをどれだけ愛し、尊敬してくれたかを気付かされていく過程を綴った箇所。家族を亡くしたことで初めて家族を知る父の悲しみに溢れ、そして家族のことを知るために生前親しかった者たちを訪ねていく甘粕の道行は単なるエピソードの1つとして片付けるには勿体ないリーダビリティーと感銘を受けた。
逆に云えばこれだけのエピソードさえも東野劇場にとっては物語に奉仕するファクターの1つに過ぎない、つまりそれ以上の物語を提供する自信と自負に溢れていると云うことなのかもしれない。

このように東野氏は1つの小説になり得る題材を見事にミステリのツイストとして活用する。何とも贅沢な作家である。

この新鋭の映画監督として将来を期待されていた甘粕才生、そして主人公の羽原円華の父親で脳科学医療の権威、羽原全太朗も含め、その分野の先駆者、パイオニアといった常人を超えた偉業や功を成し得た人物がそれ故に陥る狂気が本書の隠れたテーマであろう。

本書の題名に冠されている耳慣れない言葉「ラプラス」、私はこの名前を中学生の頃に発売されたゲームソフト『ラプラスの魔』で初めて知った。ホラー系のゲームだったため、従ってそのタイトルに非常に似た本書もホラー系の小説かと思ったくらいだ。
この両者で使われているラプラスとはフランスの数学者の名前で全ての事象はある瞬間に起きる全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、それらのデータを解析できればこれから起きる全ての事象はあらかじめ計算できる決定論を提唱した人物で、それを成し得る存在を“ラプラスの悪魔”と呼ばれている。

羽原全太朗博士が中心となって手掛けている、人間の脳が備え持つ予測能力を最大化させる謎とその再現性を目的にしたラプラス計画はこの数学者から採られており、そして突出した予測能力をこの計画によって得た甘粕謙人が「ラプラスの悪魔」であり、羽原円華こそがタイトルになっている「ラプラスの魔女」なのだ。

冒頭に書いたように私もかつて全ての理を知る「ラプラスの悪魔」になりたかった。未来を知ることで不安がなくなるからだ。
しかし本当に全ての流れが見えることは人にとって本当に良い事なのかを改めて考えさせられてしまう。この件についてはまた後で述べよう。

物語は青江修介を狂言回しとしながら、やがてもう1人の能力者甘粕謙人にシフトしていく。

島田荘司氏のミステリでも大脳生理学を題材に人間の感情や精神についてそれぞれ大脳で司る部位などが詳らかに語られ、人間の意志が実はプログラム化された機能の一部であることが語られ、衝撃を受けたが、本書もまた同様である。
脳の研究が進むことは即ち人間の感情や意志をシステム的に解明することになり、それはプログラミングによって系統化され、そして人間は自分の意志で選択していると思いながら、実はプログラムによって動かされていたことを知らされるという、なんだか夢も希望も無くなる暗鬱な結論に達する不毛な荒野が目の前に広がっていくようでうすら寒さを感じてしまう。

そんな最先端の脳研究によって生み出された類稀なる予測能力を持つことになった甘粕謙人と羽原円華。
そんな2人が観ている世界は、風景について最後ボディガードの武尾は円華に尋ねる。
その答えは未来を知る者だけが放てる言葉だろう。既に40半ばの不惑の年ながらいまだに未来に不安を抱える私は安心を得るために未来を知りたいと思うが、解らないからこそ人生は面白いと云い聞かせるべきだろうか。

また一方で狂気の男甘粕才生についても理解できる部分がある自分がいる。映画という虚構を最高の形で作ることに尽力した男。そして書き上げたブログには彼の理想とする家族の姿があった。

青江修介は正直云って全くの部外者だった。彼は学者特有の好奇心を満たすためにこの事件に関わってきただけだ。
彼が知ったのは公表できない事実。好奇心が満たされた時、現実の虚しさに襲われたのではないだろうか。

それぞれの登場人物に私の一部が備わった作品であった。そしてそのどれもが迎える結末は苦い。
まだまだ未知なるものが多い世界。しかしそれらが徐々に解明されつつある。
しかし全てが解明された果てに見える景色は決して幸せなものでないことを本書はまだ10代後半の女性を通じて語っている。
我々の見知らぬ世界に一人立つ彼女がどことなく厭世的で諦観的なのが心から離れない。
悪に転べば誰も捕まえることの出来ない究極の犯罪者となる、実に危うい存在。
見えている風景がどんなものであれ、羽原円華は生き、そして立っている。その強さをいつまでも持っていてほしいと願いながらも、危うくも儚さを感じる彼女の前途が気になって仕方なかった。


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ラプラスの魔女 (角川文庫)
東野圭吾ラプラスの魔女 についてのレビュー
No.602:
(7pt)

タイトルの真の意味はどんでん返しの限界点を意味するのか?

久々のディーヴァーのノンシリーズ作品である本書は警護のプロと<調べ屋>と称される殺し屋との攻防を描いたジェットコースター・サスペンスだ。

主人公は連邦機関<戦略警護部>の警護官コルティ。6年前の事件で師であるエイブ・ファロウを殺害された警護のプロ。

対する敵はヘンリー・ラヴィング。凄腕の<調べ屋>でコルティの師ファロウを拷問の末に殺害した男。

<調べ屋>とはターゲットの人物の家族構成、仕事、交友関係、趣味などを徹底的に調べ、通信機器を傍受し、予定や行動を調べ、完全包囲してミッションをやり遂げる殺し屋。ヘンリー・ラヴィングはターゲットのみならず、その関係者、隣人などの交友関係の弱点やかけがえのない人物や物を利用して―コルティはこれらを“楔”と呼んでいる―、自分のミッションに組み込んで協力を余儀なくさせることを得意とする。
例えば普段から交流のある隣人の奥さんを人質に取り、命を助ける代わりにターゲットの家に銃弾の雨を放たせるなど、護る側、護られる側が予想もしていない方向から不意打ちを食らわせるといったものだ。

一方コルティはかつての因縁からラヴィングのやり口を熟知しており、あらゆる可能性を想定してターゲットの警護に当る。それは彼の同僚や上司であっても、与えられる情報が、ラヴィングによって楔を打ち込まれて恣意的に誤報を流していないか疑うほどの慎重ぶりだ。

そんな2人の極限の攻防はまさにターゲットの死を賭けた精緻なチェスゲームのようだ。
ディーヴァー作品の特徴に専門家と違わぬほどのその分野の専門的知識が豊富に物語に盛り込まれることが挙げられるが、本書でもこの警護ビジネスに関する知識がコルティの独白を通じて語られる。いくつか挙げてみよう。

サインカッティングという追跡技術は、森林の中で人を追跡する際に注目する微妙な変化を読み取る技術だ。例えば人が通ることで普段は日の光に向いている枝が裏返っていたり、小石やシカの糞が妙な場所に落ちていたり、落ち葉があるはずのないところに敷かれていたりという人為的な痕跡を見つけ、辿る方法だ。

ハリウッド映画の世界では出来栄えが気に入らなかった作品に自分の名前を出したくない時に使うアラン・スミシーという架空の映画監督の名前があるが、諜報活動の世界でもマスコミの目を欺くための架空の犯罪者の名前―エクトル・カランソと本書では述べているが、恐らくこれは偽名だろう。でないと本書でその存在がバレてしまうからだ―があるとは知らなかった。

また意外にも警護する側も敵に弱みを握られたり、拷問を受ければ警護対象者の情報を明かすらしい。任務よりも自分の命が大事であるのがこのビジネスの信条。
但しもしそうすれば会社の信頼は落ちるだろうから、それを覚悟した上での救済措置なのだろうが。

また本書がこの敵と味方の攻防をチェスゲームのように描いているのは作者も意図的である。
コルティの趣味はボードゲーム。プレイのみならず古今東西のボードゲームの蒐集も行なっている。さらにコルティは大学院で数学の学位を取得中にゲーム理論をかじっており、これを自分の仕事に活かしている。本書ではこのゲーム理論がところどころに挿入され、それがさらに本書のゲーム性を高めている。

囚人のジレンマ、合理的な選択、合理的な不合理、等々。

ディーヴァーのシリーズ作品であるリンカーン・ライム物、キャサリン・ダンス物が複数の手掛かりが示唆する方向性を見出す、いわば推理物の定型の中に数々のミスディレクションを散りばめ、サスペンスやどんでん返しの要素を盛込んでいるのに対し、本書ではコルティが想定する数々の選択肢から最良の物を選び、それをさらに敵が凌駕するコンゲームの要素を成しているのが大きく異なるところだろう。
複数の手掛かりから唯一解を導く、複数の選択肢から最良の手を選ぶ。
この2つは近似していながらも受動的、能動的という面で異なり、特にコルティはどちらかと云えば、追う側から逃れる側であることから、ライム物やダンス物での犯人側に心理に通ずるものがあるように感じる。

また追う者と追われる者のハンターゲーム以外にも、もう1つの謎としてライアン・ケスラー刑事を標的にした依頼人の目的が不明なことだ。金融犯罪を担当する彼が扱っている2件の事件について調べていくうちに、意外な展開を見せていくのもまたミステリの妙味となっている。

1件目はペンタゴンに勤める民間アナリスト、エリック・グレアムが遭った小切手詐欺事件。4万ドルもの大金を盗まれた彼はしかしコルティのライアン警護の最中、突然刑事訴訟を取り止めることになる。子供の学費のために大金が必要な彼がなぜ突然翻したのか?
それには“さる大物”から警察に捜査の取り止めを行う指示もあった。そしてグレアムはペンタゴンが定期的に行っている嘘発見器テストも風邪を理由に休んでいると、謎は深まっていく。

もう1つは牧師クラレンス・ブラウンによる貧民層へのねずみ講詐欺事件。しかし彼の身元を調べていくうちにこれも新たな事実が判明してくる。

更にはケスラーの車には彼の署でも使われている追跡装置が仕込まれていたことも判明する。

敵から身を護るためにケスラー夫妻と妻の妹マーリーはほぼ監禁状態を強いられるわけだが、そんな変化に乏しい生活ではストレスの溜まり、あらゆることが疑わしく思えてくる。特にコルティたちはそれを職業としており、あらゆる可能性を想定しなければならないから、情報量から推測されるパターンは膨大な数になるわけで、このような仕事はよほど精神的にタフでないとできないなと痛感させられる。文章からも制約された場所や行動による圧迫感がひしひしと伝わってくる。

これら疑わしい存在は下巻になって次々とその真相が明らかになっていく。

どんでん返しが専売特許のディーヴァー作品だが、本書におけるそれはどこかちぐはぐな印象を受ける。

しかし本書でディーヴァーが見せたかったどんでん返しがまだあったことに驚かされた。

色んな情報を盛り込み、読者を翻弄して追う者と護る側の攻防を見せながらも専売特許であるどんでん返しを盛り込んだディーヴァー印の作品でありながら、至る結末が尻すぼみであるがゆえに浅薄でちぐはぐな印象が残る作品だった。
残念。



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限界点
ジェフリー・ディーヴァー限界点 についてのレビュー
No.601:
(7pt)

同時多発テロの犠牲者たちへの鎮魂歌なのか

シリーズの大転換を迎えるとかねてから云われているボッシュシリーズ8作目の本書は今のところシリーズで唯一早川書房から訳出された作品だ。

事件はおよそ20年前に虐待されて殺害された少年の犯人を追うという、これまたかなり古い過去の捜査に当たるボッシュが描かれている。

その捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。

そんな古い骨から判明する事実は少年が度重なる虐待を受けていたと思しき数々の骨折の自然治癒の痕跡。そして度を越した虐待が彼を死に至らしめたという実に憤懣遣る方ない過去の事件が炙り出される―骨の鑑定を行ったウィリアム・ゴラーの、鑑定で過去と悲劇がはっきりと判るのに、皮肉なことにその人が生きている時点ではそれが解らないのだという吐露が心に痛く刻まれる―。
ボッシュはかつてFBI心理分析官のテリー・マッケイレブと組んだ事件で名もない少女の死の事件を扱っており、結局その少女の身元が判明しないまま今日に至っている。この苦い経験が少年少女という無力な存在に圧倒的な暴力や変態的趣味で死に至らしめる現在の悪魔たちに対して異常なまでに憎悪を掻き立てるのだ。

勿論それは自身もまた孤児だった過去に起因しているだろう。自分を捨てたと思っていた亡き娼婦の母親が自分に多大なる愛情を注いでいたことを知って、業からは解き放たれてはいたが、それでもやはり孤児院で育ったという過去は変わりなく、それがボッシュの人生に翳を落としている。

そして今回は相棒のエドガーがいつもより前面に出てくる。既に離婚していながらも子を持つ親として虐待して子供を死なせた大人に対して憤りを露わにするのだ。そしていつもより前のめりで捜査に当たる。今まで見たことのない「熱い」エドガーが本書では見られる。

またボッシュは本書でもまた新たな女性と出逢い、恋に落ちる。彼女の名はジュリア・ブレイシャー。34歳でポリス・アカデミーに入った新人女性警官。過去に民事弁護士をしていたが、業務に嫌気が差し、世界を旅していろんな経験をした後に警官になる決意をした、変わった経歴の持ち主だ。

彼女が今までのボッシュと付き合った女性と違うのはボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵だった時に遭遇した恐怖を彼女が知っていることだ。ボッシュ達が戦争で赴いたヴェトナムではそのトンネルは観光名所となっており、観光客が金を払って入ることが出来るようになっていた。彼女はヴェトナムを訪れた際に、そのトンネルを潜り、奥深く入り、そしてボッシュが戦争時代に経験した“迷い光(ロスト・ライト)”に遭遇したことがあった。誰もが共有できない特異な過去をジュリアは共有した相手としてボッシュにとって特別な存在となる。

弁護士だった親の敷かれたレールを嫌って弁護士を辞め、世界を見て回った後、戻ったアメリカで警官募集の広告を見てすぐに応募して警官となった彼女は自分が何か特別な存在になりたかったのだ。そして彼女は評判は良くないものの、抜群の検挙率を誇るボッシュを見た時に彼に自分を重ねたのだ。
肩の銃の瑕を負ったボッシュはそれだけで周りにいる警官とは違う特別な存在だった。上昇志向の強い彼女は自分も早くそんな特別な存在になりたかった。

まだ前途ある彼女がなぜ自分を特別な存在としたかったのか?

それはやはり同時多発テロという大量死が関係しているのかもしれない。それについては後述しよう。

さて事件は振出しに戻る。

この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。

家庭の中に隠された悲劇がボッシュの捜査で明るみに出される。
虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。

また本書が発表された時期にも注目したい。
本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。

そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。

いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。
ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。

これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。
やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。

そして前述したジュリア・ブレンジャーが特別な存在になりたかった理由もこれである程度氷解する。

未曽有のテロで死んだ人は名もなきその他大勢。そんな集団の中の無個性な自分になるのが彼女は怖かったのではないだろうか。だからこそ個としての存在を主張するために、彼女はボッシュに将来の自分を見出し、そして早くそこに近づこうとしたのではないだろうか。

本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。

シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。

本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。

しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか?
テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。
舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。

そんな大量死を迎えたがゆえに1人の少年の死に意味を与えるための捜査の結末は何とも煮え切られないものとなった。

これまでそのルールすれすれの、いや時にはルールすら破る危うい捜査を続けてきたお陰で、幾度となく辞職の危機に立たされていたボッシュ。しかし彼は結果を出すことでそれを免れてきた。

それは自身が刑事として悪と戦い、街を浄化することこそが生き甲斐であり、存在証明だと信じてきたボッシュの魂の砦だった。
従って警察上層部の、スキャンダルを葬り、穏便に事を済ませるために描いてきたシナリオに反発し、常に事件の真相を、真の犯人を捕まえることを信条としてきたボッシュ。

本書においても警察内部の者による捜査情報のリーク、またそれによって生じた容疑者の自殺、更に警官が捜査中に亡くなるという数々のスキャンダルが起こり、それに対して上層部の指示に従うように強要される。

しかしそれはこのシリーズの定番とも云うべき展開で、今回もボッシュはそれを克服する。

なぜか愛する者と長く続かないボッシュ。

かつてエレノア・ウィッシュ、シルヴィア・ムーアの2人と付き合ったが、いずれも自分を離れていった。しかし彼女たちは自らの意志でボッシュの元を去った。
ジュリアがボッシュにとって他の女性と違ったのは同じ暗闇を見た女性だったからだ。ヴェトナムの戦時のトンネルに入り、そして彼女は自分と同じ光、“迷い光(ロスト・ライト)”を見た女性だ。自分の人生に落とす闇の中で見出した光を見た女性という、ボッシュにとって彼女はこれまでになくかけがえのない存在だったと思う。
ジュリアはまさしくボッシュの「ロスト・ライト」、喪われた光だったのだ。

しかし何とも感傷的な幕切れだろう。そして何よりも実に歯切れが悪い。

そして何よりも本書は『CSI;科学捜査班』の影響とみられる骨や遺物の鑑定が今まで以上に前面に出ていること、そして同時多発テロの影響が色濃い事など、コナリー作品としては外部による影響がそれまでになく多く見られ、それがゆえに歯切れの悪さとバランスの良さを欠いているように思える。

しかしまだシリーズは続く。ボッシュが自らの暗黒に向き合うとき、闇の側に立つのか、それとも光の側に留まれるのか、そんな不穏な期待をしながら読みたいと思う。


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シティ・オブ・ボーンズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.600:
(7pt)

訪ねる先はいつも雪

志水辰夫氏最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。

物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。

ただこの佐古田史郎には北海道に纏わる過去があった。それはかつて彼が親元を去っていった地だったのだ。

飲んだくれの父親とそれに従う母親、早死にした2人の兄に家を飛び出したきり帰ってこない兄の6人家庭に生まれた佐古田史郎こと鈴木四郎は、中学の時に母親を亡くし、父の再婚相手とその連れ子の妹になる娘と暮らすようになった。1人の弟が新しく出来、幸せになったかと思った矢先、父親が多額の借金を残して失踪し、継母方の親戚の家に移る。しかし居心地の悪さから東京で職を得て家族を東京に連れていくと宣言して17歳の頃に上京するが、上手くいくはずもなく、お金も無くなり、痩せた、小柄なおじさんを見つけ、金を奪い取ろうとしたところを返り討ちに遭う。そのおじさんこそが佐古田史郎の育ての親となる会長で、その後そのまま会長の妾の家に連れられ、住み込みで働くようになり、今の佐古田史郎に名前を変えて養子になったという経歴の持ち主。

彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。

そんな偶然が佐古田史朗の心に変化を生む。自分が捨てた義理の妹と弟の苦難に一肌脱ぐことを決意するのだ。

数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。
東京へ逃げ、極道の世界に身を落とし、自分を慕う弟子もでき、養子になって組の看板を担うほどにもなった。そんな裏の世界でのし上がった男が久しぶりに故郷に帰ってみれば借金に食い物にされて困っているかつての妹と弟の姿に出くわす。
昔は逃げることしかできなかった自分だが今は曲がりなりにも力がある。捨てた負い目を癒すために彼は自分の素性を隠して妹と弟、そしてその恋人の力になることを決意する。

それはかつて自分たちを捨てて失踪した父が自分の姿と重なったことも大きな一因だろう。勝手気ままに生き、実の母親を苦労で死なせ、再婚して更正したかと思えば小豆相場に手を出して失敗し、新しい家族を捨てて行方知らずとなった父親を憎悪した迫田はその実、居心地が悪くなって東京へ出ていった自分もまた父親と同じなのであることを悟り、そして恥じたのだ。

その父親が今では目も見えなくなり、捨てた妹が世話をして生きている。親だから世話をするのは当然と云わんばかりの傲慢さを持って。
それを目の当たりにしたことで佐古田は妹と弟の窮地を救う手助けをすることで父親とは違うのだと証明したかったのだろう。

何とも身勝手な男だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。

そう、この小説の時代はまだ昭和なのだ。
佐古田や島のストイックな生き様、さびれた場末でスナックを営むすみれこと鈴木陽子の、いつかすすきのに店を持つことを夢見ながらも借金や悪い男に騙され続けてきた、人生にくたびれた女性象、鄙びたアパートで同棲する佐古田の弟哲也と恋人の節子。節子は哲也の子供を妊娠し、大学を辞めて働いて所帯を持つことを決意した哲也に反対し、逆に子供の生めない身体になってしまった節子。
これらはまさに昭和のメロドラマを感じさせる。

そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。

雪。
それは史朗の心に降り積もる過去の澱。
父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。

訪ねる先は常に雪。
それは彼にとって過去を償うための障害だった。

それまで身元を隠したやくざ者として振る舞ってきた史朗が別れ際の最後になって自分の正体が知れた時、彼は逃げるように東京へ向かう。

もう1つの史朗の物語、自分を養子にした組の会長が亡くなったからだ。

過去を悔いるならば恥をかかなければならない。恰好ばかりを気にする極道者が善行をやるにはそれ相応の代償を払わなければならないのだ。
しかしこの恥はいい恥だ。なぜなら愛すべき者に認識してもらってかいた恥だからだ。
恥をかいてこそまた男は1つ上の階段を昇るのだから。

史朗の組の跡目問題など物語に散りばめた色々な話が回収されぬまま、佐古田史朗、即ち鈴木四郎の過去の償いの物語で終わってしまった。

もしかしたら作者は続編として佐古田の東京での物語を想定していたのかもしれない久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。
幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。が、結局今も書かれていない。


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尋ねて雪か (徳間文庫)
志水辰夫尋ねて雪か についてのレビュー
No.599:
(7pt)

永遠の命を得ることは永遠の退屈を得ることなのか

ノンシリーズだと思われた『女王の百年密室』は実は「女王」シリーズとなっており、本書はその第2巻。エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。

長い間マスコミからの取材を遮断して、島民たちは閉鎖された島の中で、聳え立つ城モン・ロゼの城主であるドリィ家の庇護の下、暮らしている。但し病院も学校もなく、医師、看護婦、教師も全てモン・ロゼに待機しており、必要な時に対応してくれる。そんな特殊な閉鎖空間だ。

この一切の取材を断っていた島の王がなぜかサエバ・ミチルの取材の申し出を承諾する。

そして取材に訪れたミチルの前で起きる殺人事件。今回の事件はいわば開かれた密室物だ。
大きな砂絵の真ん中に首なし死体が転がっているが、そこに至る足跡は被害者と検屍をした医者の物のみ。果たして犯人はどうやって足跡を着けずに被害者に近づいて首を切り、そして持ち去ったのか?

メインの殺人事件以外にも色んなエピソードに謎が散りばめられている。
本書の舞台となるイル・サン・ジャックは約30年前にそれまで森だった周囲が一夜にして海に変ってしまった不思議な島である。この一夜の不思議の謎と、いつしか島自体が一日で一回転して常に南に向いているようになったという自転する島の謎が仕込まれている。

本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。実際謎は上に書いた物だけに留まらない。

島民たちの不思議な振る舞いも謎の1つだろう。とにかく舞台、登場人物、風習、事件、それら全てにミステリの風味がまぶされている。

そして読者はこれが森ミステリであることを認識しなければならない。
その特徴はミステリの定型を裏切り、本当の謎は別のところにあることで、それは本書も同じ。

例えば長きに亘って取材拒否を行ってきた理由はドリィ家の忌まわしき過去にあった。

そしてミステリで云えば核となる殺人事件。砂の曼陀羅の真ん中に坐した老人の首なし死体。そこに至る足跡は検屍した医者のそれしかない、開かれた密室。
さらに第2の殺人も坐した老人の首なし死体。どちらも被害者が発見者に最初に現場に落ちている物を別の場所に捨てに行くよう頼み、その間に死んでいる。

この実に奇妙で不思議な事件。

これを皮切りにこのイル・サン・ジャックの壮大な謎がメグツシュカによって明かされていく。この謎こそが本書のメインの謎であった。

クラウド・ライツ、サエバ・ミチルの生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。

存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。

それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。
それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。
この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。

金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。
しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?
そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。

そんな驚愕の事実を森氏はサエバ・ミチルという特殊な存在を以て語る。

恋人のクジ・アキラをマノ・キョーヤの凶弾によって喪い、自身も瀕死の重傷を負ったことから、無事だった自分の頭部をクジ・アキラの身体に繋げて生き長らえている人造人間。更に彼は自分の意識をウォーカロンのロイディにアップロードして遠隔操作が出来るようになっている。
つまり彼自身の個体は頭を撃たれようが、心臓を刺されようがロイディがいる限りは消滅しない不死の存在なのだ。

しかし彼はそんな自分の身体と精神の乖離にしばしば疑問を持ち、自問する。
生きることとは?
死ぬこととは?
存在とは?
身体はなくとも精神があれば存在しているのか?
身体は所詮、単なる器に過ぎないのか?
作られた身体で感じる肉体性に時折喜びを感じながらも、どこか神経との繋がりに乖離を感じるミチルはしばしば自分の存在意義について問い掛ける。その姿は実は我々悩める現代人と何ら変わらないことだ。

何のために働く?
何のためにこんな苦しい思いをしてまで働く?
我々は何を生み出しているのか?
などなど、ふと苦しい時に自問する我々のそれとミチルの自問は変わらない。

ただ本書で興味深いのはアンドロイドであるウォーカロンと人間の差がどんどん縮まっているとミチルが認識しつつあるところだ。
彼の意識を封じ込めたロイディは即ち彼自身であり、彼は人造人間の身体を持つ人間だ。ならば人間の意識を持つロイディもまた人間になりつつあるのでは?などと錯覚する。そして人工知能を備えたロイディはミチルが心を揺り動かされるほど人間らしく振る舞い、更に女王メグツシュカの侍女であるウォーカロン、パトリシアとなんだかいい雰囲気だったりする。そしてそのミチルとロイディの秘密を見破ったメグツシュカはウォーカロンが人間に近づくためのヒントがこのミチルとロイディの関係にあると説く。

さて森氏のミステリのシリーズにはファム・ファタールとも云うべきミステリアスな女性がシリーズ全体を通じて登場する。

S&Mシリーズではなんといっても真賀田四季だろう。Vシリーズは主人公である瀬在丸紅子がそれに当たるだろうか?各務亜樹良もまたその称号に相応しいが少し弱いか。

そして本書ではスホがそれに該当する。前作『女王の百年密室』のルナティック・シティの女王、50を超えているのに人生の半分近くを冷凍睡眠で過ごしているため、20代の若さと美しさを保っているデボウ・スホ。
本書ではその母メグツシュカ・スホが登場する。しかも彼女はデボウを超える年齢であり、しかも彼女のように冷凍睡眠もしていないのに美しさを保っている、美魔女である。いやそんな世俗的な言葉を超越した存在として描かれている。

現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。

2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。

そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。
永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?
ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。

正直私はまさかこのサエバ・ミチルの存在性がここまで拡散するとは思わなかった。精神性とどこか乖離した肉体性を備えた特異な存在であったサエバ・ミチルはメグツシュカ・スホが理想形とし、そして到達した究極のフィギュアである。
しかし壮大と思えたその実験の行き先は無限に広がる虚無でしかないと思えたのは私だろうか?

森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。
また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。

“夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい”

メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。

このシリーズは次作『赤目姫の潮解』に続くわけだが、あいにく私はこの作品を持っていない。
本書で辿り着いた虚しさの行き着く先に森氏が用意したのは希望か更なる虚無か?
決して読むことのない続編の行く末は今後の手持ちの森作品で推測していくことにしよう。


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迷宮百年の睡魔 LABYRINTH IN ARM OF MORPHEUS (講談社文庫)
森博嗣迷宮百年の睡魔 についてのレビュー
No.598: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

思春期の万能感と無敵感を武器に少女たちは悪へと立ち向かう

東京創元社が新しいミステリレーベル、ミステリ・フロンティアを創設し、それまで聞いたことのない作家たちの作品が累々と出され、あっという間に『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』が週刊文春のミステリベスト10などの各種ランキングを騒がせるようになり、一躍ミステリ読者注目の叢書となった。
伊坂幸太郎氏、米澤穂信氏、道尾秀介氏など今のミステリ界にその名を連ねる新しい才能が次々とこのレーベルからは出ていったが、それまでライトノベルの分野で作品を発表していた桜庭一樹氏が初めてミステリ界でその作品を発表したのが本書である。そして本書をきっかけにミステリ界にその名が知られるようになり、それ以降の活躍はご存知の通りである。

物語の舞台は山口は下関市の沖合にある離島で下関とは橋で繋がっており、島の人々は漁業で生計を立てる者がほとんどで、中学までは島の学校に通い、高校からは下関市の学校に通うのが一般的になっている。そして橋が出来たことで島民たちは中学生たちも含め下関市にショッピングや娯楽を愉しみに出かけるのが通例で、また島民の流出が始まっており、さびれかけている。最近できたマクドナルドが老若男女問わず島民たちの憩いの場となっている。

そんな地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。

美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。

宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。

バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。
桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。

この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。

私は男だが、彼女たちの女子中学生の世界観はそれでも理解できる。子供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。

少女たちの日常は虚構に満ちている。
それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。
そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。

中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。
それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。

一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。

この辺は私もなんだか思い出すなぁ。
小学生の頃によく話していた女子に中学になって一緒のクラスになったので以前のように話しかけようとすると素っ気なく、無口になってしまっているのに、何スカしてんだろうと気分を悪くしたが、あれはもしかしたら大西葵が抱いていたような異性を意識する心のハードルが合ったのかもしれない。

また学校では明るく振る舞う大西葵が家では母親と上手く話せず、無口であるのも思わず同意してしまう。
既に中学生は社会性を備えてTPOに合わせて仮面使い分けているのだ。友達用の自分と家用の自分。それはどちらも自分でありながら、作った自分でもある。そんな自分を大人たちは知らない、昔は自分も中学生だったのに。

そしてそんな仮面がふと外れて巣の自分が現れる時、ずっと同じように続いていくと思っていた友人との関係に罅が入る。他のことに気を取られて生返事したり、メールした後にその内容と違うところをたまたま見られたり。そんな他愛もないすれ違いで彼女たちの友情は壊れたりする。そんな脆さを含んだ世代だ。

こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。

夏休みの終わりはまた日常の始まり。非日常の毎日だった夏休みに掛けられていた魔法は不思議なほどに解ける。
ゴシック趣味の服装をした宮乃下静香は再びクラスの目立たない女子となり、殺人幇助をした彼女を恐れていた大西葵は次第に自分を取り戻していく。

学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。

学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。
しかし違いは身体性、肉体性があること。

そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。
ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。

つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。
本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。

義務教育という庇護下に置かれた状態で自分を獲得していくのが中学生活とすれば、そこに何を見出すかはそれぞれによる。

大西葵はゲームの世界に逃げ込み、ネットワークで東京や大阪といった中心都市に住む人たちとバトルを挑むことで自分の居場所を実感する。
しかしそれも虚構に過ぎなかった。彼女が得ていた万能感は限られたセカイの中での物でしかない。

宮乃下静香は本の世界、物語の世界に没入することで知識を得、それを実行に移すことにする。大西葵という自分と価値観を共有できると確信した同志を引き込むために彼女は今まで蓄積してきた虚構の物語を自分流にアレンジし、そして本で得た知識と方式を自己薬籠中の物にして、葵を引き込んで未来を拓こうとする。
しかしそれも現実に照らし合わせれば、ただの物語好きな子供のゲームに過ぎなかったことを思い知らされる。

彼女たちが成し得た事、大西葵が成し得たことは偶然の産物に過ぎない。しかしそれを成し得たことで彼女たちにはもう一度同じことが出来ると錯覚した。

彼女たちは失敗を経験することでまた一歩大人の階段を登ったのだ。
これは彼女たちにとっては非常に良かったことだと思う。もしこの失敗がなければ彼女たちの虚構の万能感はエスカレートしていっただろうから。

現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。

そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。
今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。

彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。
リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。
もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。


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少女には向かない職業 (創元推理文庫)
桜庭一樹少女には向かない職業 についてのレビュー
No.597:
(7pt)

意外と考えさせられる内容

2000年代初期に祥伝社から400円文庫として250~300ページ前後の作家書下ろしの文庫がいくつか刊行された。これはそのうちの1編で、ものの1時間で読めた。

本書は戯曲の体裁で書かれており、文章魔王というこの世から小説を無くしてしまおうと企んでいる電脳世界に住む魔王を小説家志望の女性がノートパソコン片手に戦いを挑むというストーリーである。

とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。

まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。

一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。

この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。

そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。

ミユキが文章魔界道に入りこんで、旅のお供となるのが漫才師の青空球児・好児の2人。実名で登場する2人はお馴染みのギャグを披露しながらミユキと行動を共にする。
なぜこの実在の漫才コンビが登場するのかは不明。鯨氏と親交があるのだろうか?

ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。

この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。前の400円文庫で刊行された『CANDY』でも当て字やダジャレが横溢しており、文章遊びの嗜好の強さを感じたが、本書では更に拍車がかかり、存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。

例えば第一の番人との戦いは同音異義語を使って彼が繰り出す問題に回答する戦い。つまり「たいせい」という言葉ならば、「体制」、「耐性」、「大成」といった具合に、同じ音で意味の異なる単語を使って文章を作成して回答する、因みに第一の番人は『古事記』の編纂者である太安万侶。鯨氏はどうもこの太安万侶が好きらしい。これで何度この人物と鯨作品で出逢ったことだろうか。

そしてさらに最後に蒟蒻問答での戦いもある。これは作中の例を挙げれば、「パンを食べてても米国とはこれ如何に」という問いに対して同様に「米を食べててもジャパンというが如し」と同種の洒落を切り返すもの。

次の第二の番人は井原西鶴。彼との戦いは回文で問題に答えるという物。古今東西の作家をテーマに回文で切り返す。

そして最後の文章魔王との戦いは彼が書いたミステリを読んで、その内容の質問に同音異義文で応えるという物。例えば<今日は基地に帰る>に対して、<凶は吉に返る>と同じ発音でありながら意味の異なる文章で回答するゲームである。

驚くべきはこれらの戦いの分量の多さである。

第一の番人との戦いである同音異義語はさすがに4問程度だが、それ以降はとにかくすごい数だ。

蒟蒻問答では9つの問答が、回文ではなんと45個の回文が登場し、そして最後の魔王との戦いでは21の同音異義語文が応酬される。もはやこれは趣味の世界だろう。

最も面白かったのは回文対決。作家をモチーフにした問いの内容が非常に面白い。特に現代ミステリ作家では作家間で知られている内輪ネタを存分に披露しており、かなり笑わせてもらった。中には無理矢理回文にしたものもいくつかあるが、何よりもこれだけの物を作り出した鯨氏の執念に敬意を表しよう。

ジャンルを問わず書下ろしで中編程度の分量で400円文庫として刊行するこのシリーズでは『CANDY』の時もそうだったが、鯨氏は敢えて実験的な小説を意図的に書いているように感じる。こういう企画でしか刊行されないであろう小説を、昔からある日本語を使ったゲームを自ら創作して愉しんで書いているようだ。

しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。

例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。
作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。

かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。

だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。

また作中作として盛り込まれている大文豪の『小説とは何か』の内容も意味深い。
200年に小説が無くなり、ストーリィを作れなくなった人たちの社会で夢を売り物にしている会社を経営する2人の男女の会話で展開する物語だが、どんな物語も自分の想像で登場人物を設定できる夢があれば十分であり、ストーリィは小説でなく、これからは夢が代行すると書かれている。

これは恐らく当時問題になっていた活字離れに対する作者の考えを語った物だろうと思える。夢を見ることでストーリィ欲を満足させる社会は将来来ないと思うが、この2020年の現代で小説が無くなるという表現で思い至るのは昨今の電子書籍の普及である。
「小説」が無くなるのではなく、「紙媒体としての本」が無くなることを予見した内容とも取れる。厚みを手で感じ、ページを指で捲り、そして紙の匂いを感じ、目で文章を追い、読み終わった後も本棚でその書影を眺めるという五感で味わう読書をデータでしか行わなくなった味気なさを夢に置き換えると、まさにこの内容の未来が来ているように感じる。

流石に以前ほど全ての書物が電子書籍に取って代わられるという危機感は薄らいだものの、毎年減っていく全国の書店の数の恐ろしいまでのスピードを考えると果たして出版界の未来は?と不安に駆られてならない。

戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一編も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。


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文章魔界道 (祥伝社文庫)
鯨統一郎文章魔界道 についてのレビュー
No.596:
(7pt)

空虚な月は何を照らす?

コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。
まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。

そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。

そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。
前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。

今までのじっくり読ませる文体と違い、どこか軽やかな印象でクイクイと物語が進み、やもすれば物語の動向を十分に理解しないままにキャシーが物語のメインであるギャンブラーの持ち金掠奪計画まで一気に進んでいってしまうほどだ。訳者が今までの古沢嘉通氏と異なり木村二郎氏であるのも一因かもしれないが。

そのせいだろうか、どうも物語が浅いように感じられる。
故殺罪で刑務所に入った過去のある元泥棒の女性が、仮釈放でポルシェのディーラーに勤め、普通の生活を送っていたところにある事情から大金が必要になり、再び根城にしていたラス・ヴェガスで高額ギャンブラーをターゲットにしたハイローラー強盗を計画するが、その男はマフィアの金の運び屋で、その大金を持って帰ったことからトラブルに巻き込まれる。敵はホテルが雇った私立探偵だが、人格障害者である彼は凄腕の殺し屋でもあり、彼女を追う先々で次々と関係者を殺害していく。そしてその毒牙は彼女の大切な存在にも伸び、意を決した彼女はそれを救うために対決に臨む。そこはかつて自分の恋人が死んだホテルの部屋だった。

とまあ、実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。
コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。

ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。

また女泥棒のキャシーの造形も印象的ではある。
恐らくは男たちの目を惹く容姿をしている女性で、ヴェガスでブラックジャックのディーラーをしていたが、そこで出逢った強盗マックス・フリーリングと恋に落ち、そして彼の仕事を手伝ううちに一流の強盗の技術を身に着ける。出所後に大金が必要になり、仕事を紹介してもらうと、生活リズムを変え、必要な道具を揃え、万全の準備で臨む。
仕事もやるべきことを心得て躊躇がなく、不測の事態についてもあらゆる手段を熟知している。例えば隠しカメラでなかなか金庫のナンバーが見えなければ、もう一度金庫を開けざるを得ない状況を作るために、小火を引き起こして、ホテルの従業員に成りすまして避難を促し、金庫を開けざるを得ない状況を作り出すなど。これら一連の手口が詳らかに語られることでキャシーの凄腕ぶりが印象付けられていく。

更に仲介屋のレオ・レンフロのキャラクターもなかなか興味深い。迷信好きで古今東西の色んなまじないやジンクスを信じ、実践している。中国の風水、易経に占星術。ヴォイド・ムーンについて教えたのもこの男だ。

ジャック・カーチはキャシーの恋人マックスを罠に嵌め、死に至らせた私立探偵。そのことがきっかけで彼はホテルの当時警備課長で今は支配人となっているヴィンセント・グリマルディによって専属の探偵となり、色々な後始末を命じられ、どうにかこの状況から脱したいと願っている。
しかしこのようなキャラクターにありがちなうだつの上がらない男ではなく、躊躇いなく引き鉄を弾いて人を殺すことも厭わない。勿論証拠を残さないように細心の注意を払った上で。しかも車を見られた場合はナンバープレートを付け替え、追われないようにする。そして敵が手強いほど燃える男で常に人の優位に立って弄ぶことに喜びを覚える、人格障害者だ。
このしつこいまでに残虐な探偵もまた敵としては実に申し分ない。

これほどお膳立てがされながらもどこかB級アクション映画を観ているような感覚はなぜだろうか?

やはりそれはコナリー作品の持ち味である、サプライズに欠けるところにあるだろう。
上述したように今回はキャシーが服役するようになった過去、そして仮釈放して真っ当な仕事に就きながらもいきなり大金が必要になる動機などが明確にされないながら物語が進み、次第にそれらが徐々に明かされていくというスタイルを取っている。

従って五里霧中で読み進めながら次第にキャシーの動機という霧が晴れ、全体像が明らかになっていくという謎が解かれていく面白みはあるのだが、正直インパクトはさほど強くなく、驚きよりも納得のレベルに落ち着いている。

一方でラス・ヴェガスという享楽の都に縛られた人々の話でもある。

キャシーは幼い頃からここに住み、そしてブラックジャックのディーラーとなって泥棒のマックスと知り合い、高額ギャンブラー相手の泥棒になった。

ジャック・カーチもまた父親がアメージング・カーチと呼ばれた、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・Jrとも何度も共演したことのある名のある手品師で、自身も子供の頃に父親のアシスタントとしてステージに立っていた男。
しかし彼の父親は酔っ払ったマフィアによって両手の指を粉々に折られ、再起不能のマジシャンにされる。また6年前のマックス死亡の事件で、《クレオパトラ》の専属の探偵となり、逆に当時警備課長で支配人に乗りあがったヴィンセント・グリマルディにいいように扱われる身となる。
ラス・ヴェガスで育ち、そしてラス・ヴェガスをこの上なく憎んだ男なのだ。

全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。

コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。
あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。
その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。

その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。

やはりコナリーはコナリーだった。

だからこそ邦題の軽薄さが目に付く。
『バッドラック・ムーン』は本書のモチーフとなっている悪運に見舞われるヴォイド・ムーンを示しているが、本書ではそのままの名前で使われている。つまり原題と同様に『ヴォイド・ムーン』でよかったのではないだろうか?なぜならVoidという単語には他に虚ろなとか中身のないとかいう、空虚さ、虚しさが込められているからだ。

全てが虚しい享楽の夜の塵となった。
しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。
彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。

キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。


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バッドラック・ムーン〈上〉 (講談社文庫)
No.595: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

謎の真相も捩れてます

Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。
そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。

但しいつものメンバーが西之園萌絵らと逢うわけではなく、保呂草潤平のみが邂逅する。そしてこの3人が出逢う場所が保呂草がずっと追っている美術品エンジェル・マヌーヴァの所有者熊野御堂譲氏のその美術品を保管している別荘である。

今回の事件は2つの密室殺人事件に1つの盗難事件。1つの密室殺人事件と盗難事件はメビウスの輪をモチーフにした棙れ屋敷で起き、もう1つの密室殺人事件は別荘から棙れ屋敷の間にあるログハウスで起きる。

本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。
36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。
そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。

そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。

しかし予想に反してこれら2つの密室は物語のメインではない。謎とされた密室殺人は実にあっさりと解かれる。

そして今回これらの謎解きには推理がない。冒頭のプロローグの保呂草の独白に「探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか」と述べているが、確かに今までのミステリにはないかもしれない。

これらの密室殺人が上記の手法によって解かれるということから実は本書における主眼ではない。
本書のメインは保呂草がずっと追い求めていたエンジェル・マヌーヴァがいかにして持ち去られたかという謎だ。

鎖で棙れ屋敷最奥部の部屋の柱に繋ぎ留められた美術品の短剣エンジェル・マヌーヴァ。その鎖自体もエンジェル・マヌーヴァ本体の一部でそれだけでかなりの美術的価値がある代物。それを引きちぎらずに持ち去るのはやはり大盗賊保呂草潤平だった。この時の保呂草の気持ちは正確には書かれていないが、恐らく物凄く感慨深かったのではないか。
その美術品が出てきたのはシリーズ5作目の『魔剣天翔』からで、この8作目にしてようやく手に入れたことになるが、単に間に3作を挟んだだけの年月ではなく、実に長い年月で…と危ない、危ない。このくらいにしておこう。

しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。
冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。
特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。

しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。
メビウスの輪を館として実物にした棙れ屋敷。この36の部屋で仕切られ、180度部屋が反転し、しかも両側に扉を設え、一方が施錠されないと他方が解錠されないという特殊な機構を持つ屋敷を提示しながらそこで起こる事件の真相は実に呆気ない物。
ログハウスの密室トリックは建築学の教授である森氏ならではの奇抜なアイデアが光るが犯人については寧ろ明確に語られずじまい。
エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。

つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。それについては後述することにしよう。

さて上にもちらっと書いたが、流石は建築学教授の森氏と思わされる内容が随所にあるが、一番感じ入ったのはこの棙れ屋敷が建築基準法に適っていないことが明確に示されていることだ。
二方向避難、無窓階など色々同法をクリアするのに必要な設備や開口が必要であるのだが、それを敢えて排除し、適法でないことを明確に示している。つまりはこれは建築物ではないことになるのだが、しかし部屋はあることで単なるオブジェとして扱われない。つまり違法建築のまま熊野御堂譲氏はこれを置いていることになる。個人の持ち物だから、建築基準法などどこ吹く風といった感じなのだろう。

またS&Mシリーズファンなら喜ぶであろうシリーズ後の近況が解るのも本書の特徴だ。
国枝桃子はN大学から異動になり、那古野市の私立大学の助教授になっていることが本書で明かされる。西之園萌絵はまだ大学院生だからシリーズが終わってすぐのことなのだろう。

また小ネタとして萌絵が国枝桃子に語る山小屋4人の話。寒さで眠らないように4人が四隅に立って真っ暗な部屋の中を壁沿いに歩いて次の角の人にタッチして、タッチされた人が同じように次の角まで歩いてそこに立っている人にタッチして、を延々と繰り返して寒さをしのぐ話が怖いと萌絵は云うが、国枝桃子はピンとこない。これは本当に起きたら怖いです、実際に。

さて本書の題名の英訳は“The Riddle In Torsional Nest”、つまり「捩れ屋敷の謎」という意味だが、HouseやResidenceとせずにNestとしたところに森氏の建築学教授としての矜持を感じる。

また邦題の「利鈍」は「刃物が鋭いか、鈍いかということ。賢いことと愚かなこと」という意味。
捩れ屋敷そのものは果たして聡い者による造形物なのかそれとも愚か者が作った役立たずの代物なのか。それは本書を読むことでそれぞれの読者が判断することなのだろう。

たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。
実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。
まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか?
そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか?
それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。


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捩れ屋敷の利鈍―The Riddle in Torsional Nest (講談社文庫)
森博嗣捩れ屋敷の利鈍 についてのレビュー
No.594: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

囲碁の知識があれば存分に堪能できる

2016年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治氏。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。

そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。これと第2作の『将棋殺人事件』、第3作の『トランプ殺人事件』を合わせて「ゲーム三部作」と呼ばれている。
ちなみに私が読んだのは第2作の『将棋殺人事件』の方が先。なぜなら当時そちらが先に文庫で刊行されたからだ。角川文庫のやることはよく解らん。

さて『涙香迷宮』では数々のいろは歌を用いた超絶技巧の暗号ミステリが展開されるそうだが、最初期の作品である本書も題名に掲げているように囲碁の盤面が暗号になっているという凝りようだ。

本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。
第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。
本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。

さて『ゲーム三部作』の第1作目である本書の探偵役は今に続く竹本作品で探偵役を務める牧場智久であるが、この時はまだ12歳ながらIQ208を誇る天才少年で囲碁の天才少年、昭和の小川道的と呼ばれるほどの人気ぶり、さらに周囲が振り返るほどの美少年ぶりというから天は二物も三物も与えたような誰もが羨む理想の探偵役として登場する。このシリーズは彼と姉のミステリ小説マニアの典子、そして彼女が助手を務める大脳生理学者須堂信一郎の3人が主要メンバーとして殺人事件に挑む。

今回彼らが出くわすのは棋幽戦という囲碁のタイトル戦の最中に首なし死体として発見された対局中の槇野九段と神奈川の村で発見された池袋で眼科医院を開業している斎藤敝二殺害事件。一見関係のない2つの事件と思われたが、後者の遺体の首に裂傷があったことから犯人が首を切断しようとしたところを誰かに見つかったため、途中で投げ出したと推理し、2つの事件を結び付ける。しかしこの2人に共通するのは囲碁をしている、その1点のみ。一方は名人。一方は玄人はだしの腕前を持つアマチュア棋士と普段は何の接点もない。こんな細い糸の連続殺人事件の真相は実に意外。

まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。あたかも犯人が被害者のように首を切って殺してやろうかとばかりに棋院で居眠りをしている間に首の周りに赤ペンで線を入れられたり、一人残された棋院で犯人に追いかけられたり、また街を歩いているところを犯人に追いかけられ、真夏の廃工場に閉じ込められたりと容赦ない洗礼を受ける。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。
これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。
こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか?

盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。
囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。

本書で感心したのは大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。
実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。

正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。
本書には囲碁はたった5つの原則で成り立っているから実は覚えるのは簡単と書かれているが、その後に出てくる「石の死活」、「月光の活」、「仮生」などなどちんぷんかんぷんだった。
また槇野九段最後の名勝負の碁石の配置の妙味などもその凄さを全く理解できなかった。やはりまだまだ五目並べが私にとっては関の山のようだ。
しかしそれでも本書は上に書いたようにミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。

さて続く第2作『将棋殺人事件』については既に今から約12年前の2006年に読了しているが、既に忘却の彼方だったので当時の感想を紐解いてみたところ、酷評だった。
私の感想によれば幻想小説風味が加えられており、案外文体も凝っていて私の嗜好に合わなかったようだ。大脳生理学者須堂による脳が人に及ぼす弊害によるミステリでもあるのだが、それは高く評価しているようだ。島田氏の21世紀本格として発表された同趣向の作品も同時期に読んでいながらこの評価をしているということはよほど合わなかったのだろう。しかし今読むとまた評価も変わるかもしれない。

とにかくこの須堂信一郎という「ゲーム三部作」ならびにそれに続く短編「チェス殺人事件」、「オセロ殺人事件」、「麻雀殺人事件」のみに登場する探偵には今回改めて興味を持った。この後の『トランプ殺人事件』もまたいつか読むことにしよう。


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囲碁殺人事件 (講談社文庫)
竹本健治囲碁殺人事件 についてのレビュー
No.593:
(7pt)

シリーズ10作目という節目の作品ではあるのだが…。

人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。

リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。

さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。
しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。

そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。
被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。

更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。

ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。

今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。

一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。

このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。

従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。

そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。
前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。
最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。
優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。

しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。
事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。

ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。

さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。

しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。
ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。

またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。

従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。

その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。

キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。
どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。

さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。

ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。

さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。

価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。
高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。

これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。

思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。
そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。
特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。

そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。

緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。

実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。
もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。

当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。
しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。

確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。
どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。


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ゴースト・スナイパー 上 (文春文庫 テ)
No.592: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

昭和要素満載の伝記ミステリ

デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。

私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。

質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。

また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。
そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。

本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。
明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。
今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。

そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。

タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。

その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。
山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。

そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。

ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。

そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。
その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。

いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。
彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。
高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。
そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。
つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。

本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。
特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。

誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。
もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。

そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。
本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。


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隕石誘拐―宮沢賢治の迷宮 (光文社文庫)
鯨統一郎隕石誘拐-宮澤賢治の迷宮- についてのレビュー
No.591: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

いつか書かれるであろう究極のミステリを求めて

作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。

このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。

1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。
この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。

そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。

まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。

まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。

現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。
まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。

そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。

そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。

まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。

推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。

それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。

つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。

そしてそれはそのまま真相に繋がる。

私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。

セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。
しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。

だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。

まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。

次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。
これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。
「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。
巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。

そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。
犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。
これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。

と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。

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46番目の密室 (講談社文庫)
有栖川有栖46番目の密室 についてのレビュー
No.590:
(7pt)

愛もまた幻?

これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。

島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。

まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。

幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。

しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。
幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。
このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。

彼女は今日も幻とデートする。
それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。
彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。
その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。
それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。
そしてまた刹那のデートを繰り返す。

そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。

上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。

例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。

そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。

それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。
記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。

この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。
私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。

だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。
まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。

と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。
海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。

さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。

なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。
この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか?

しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。

しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか?
私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。


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幻肢
島田荘司幻肢 についてのレビュー
No.589:
(7pt)

キングのお話と迫力あるイラストを楽しもう!

キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。

そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。
かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。

物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。
鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。
その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。

1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。
1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。

この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。

一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。

小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。
それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。
だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。

一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。

しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。


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人狼の四季 (学研M文庫)