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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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一応第2作目が出ているがシリーズと呼ぶには憚れるのが警視庁刑事明日香井叶とその双子の兄で探偵の明日香井響が探偵役を務める殺人方程式シリーズ。
新興宗教の教祖が教壇のビルに篭って、祈りの儀式をしていたはずなのに、他のビルの屋上で頭部と左腕を切断された死体として発見された謎を探るという、本格ミステリ。しかしなんだか法月氏の某作に似ているなぁと思った作品だ。 館シリーズと本作ではどう違うかというと、館シリーズは日本なのにどこか異界に迷い込んだような味わいがあるのに対し、本作では実にオーソドックスな筆運びである。本格ミステリと呼ぶよりも本格推理小説の方が本作のイメージに合うだろう。 しかし小粒感はあるものの、実に端正な本格推理小説で、私はすっかり騙されてしまった。特に犯人を限定するある行動に対する叙述が非常にさりげなかったので、その思いはひとしおだった。 そして本書の特徴は、殺人をなすべく、本当に方程式が登場すること。通常「殺人方程式」という呼称は犯罪者が精緻に組立てた犯罪を表すロジックのことを指し示す。つまりそのロジックが数学の証明問題に類似しているから、そういう風に呼ぶのだろうけれど、本作では犯罪を成すための方程式が登場する。ちなみに方程式は数学ではなく、物理の方程式。そうと聞いて、忌避感を抱く方もいるかもしれないが、非常に有名な方程式で、しかも微分積分とかも使われていない、小学生の算数の知識で理解できますのでご安心を。 しかし、この主人公が非常に「創られた」感じがあり、感情移入できなかった。これは私の性格的な問題もあるのかもしれないが、兄弟なのに名前の呼び方がどちらも「きょう」と同じなのがいただけない。紛らわしいではないか!この辺の作者の価値観が全く解らない。なんとなく同人誌に取り上げられることを狙ったようなキャラクターである。 ぜひとも読んで欲しいとは勧めないまでも、読んで損することは無い程度にお勧めの作品である。 |
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このアンソロジーはシリーズ2冊目だが、確か原稿を公募した出版社の予想を超える応募数があったため、パート1と二つに分けて出版されたものと記憶している。従って本書は同時期の応募作によって編まれた物である。
ただ本書では当時既にミステリ作家であった司凍季氏が作品を寄せているだけで、これといった感慨は無い。が、近年になって短編集として刊行された田中啓文氏の「落下する緑」が93年刊行の本書に掲載されているのが特色といえば特色か。第1集はやはり購入者を惹きつけるためにそれなりの作品を集めたようで、また出来不出来の激しい玉石混交感もあったことで逆に特色が出てたが、第2集の本書は全体的に一定の水準の作品(プロ作家の司氏の作品も含めて)が揃えられており、可もなく不可もなくといった感じか。しかし田中氏の「落下する緑」は頭一つ抜きん出た感がある。先にも書いたが、近年になって編まれた田中氏の短編集の表題に同題が使われており、そのとき、既視感を感じ、『このミス』の解説を読んで「ああ、やっぱり!」と思ったものだった。 絵画を題材にした本格ミステリは1作は初期のこのシリーズに収録されており、そのどれもが秀作だったのを覚えている。この「落下する緑」もまた例に漏れず、味わい深い作品である。素人時代の応募作品ながら既に完成された端正さがある。 このとき(学生時分)に読んだのはこの2冊のみ。というのもその時点ではまだこの2冊しか出ていなかったのである。その後、刊行されるたびに買い続け、とうとう全15巻と特別編集版の3冊、さらにその後、二階堂氏によって引き継がれた『新・本格推理』シリーズまで買い続けた。それらの感想についてはのちほど。 石持浅海氏など、現在活躍する作家の登校時代の作品を読むにつけ、やはり後々作家になる人はその他の人たちは違う何かを感じた。プロになって短編集などに収録されない作品などもあるだろうから、資料的な意義から考えると結構貴重なシリーズなのかもしれない。 |
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島田荘司のミステリで一気にミステリ熱が再燃した私は当時、本格ミステリと名の付く物ならば何でも貪欲に読んでいたが、これもその1つ。光文社が本格ミステリを一般公募して鮎川哲也氏を選者として文庫型マガジンとしてシリーズ化した本書は、当時創元推理文庫の日本人作家作品を堪能していた私にとって、東京創元社が「鮎川哲也と13の謎」と銘打った叢書を刊行し、それに親しんでいたことと、同社が鮎川賞を設立していたこともあって、鮎川哲也=面白い本格という刷り込みがなされており、一も二も無く飛びついたものだった。
しかも当時鮎川氏は立風書房から5巻に渡る本格のアンソロジーを敬愛する島田氏と編んでいたのも、さらなる後押しとなった。今思えば当時この両巨匠は社会派推理小説とエンタテインメント小説に席巻されていた当時のミステリシーンに新本格の旗印の下、本格ミステリの復権のため、このような活動を精力的に行っており、私はその活動に同調し、そのまま乗っていったのだろう。 鮎川氏亡き後、二階堂黎人氏を編者にして『新・本格推理』と名を変え、年1回刊行されていたこのシリーズだが、現在活躍されている作家の中にもここに応募されていた方は多く、後述する以外では大倉崇裕氏、霧舎巧氏、黒田研二氏、蘇部健一氏、田中啓文氏、柄刀一氏、三津田信三氏、光原百合氏などなど、なかなか豪華なメンバーが揃う(以上、Wikipedia参照)。 その記念すべき第1集目の本書にはこのアンソロジーをきっかけにデビューした村瀬継弥氏と後の鮎川賞作家北森鴻氏の作品が掲載されており、その他には前述の島田氏と編んだアンソロジーのうち『奇想の復活』という巻に作品が載せられていた津島誠司氏、すでにプロ作家となって2、3作発表していた二階堂黎人氏、そして一昨年作品集が刊行されたアマチュア作家山沢晴雄氏の作品が盛り込まれている。 その後村瀬氏は2作ほど作品を上梓した後、活動停止状態だが、北森氏の活躍はミステリ読者なら周知の通り。両者の熱心な読者ではないのでこのアンソロジーのみでの判断になるが、読後ほっこりと温かくなる、単純な謎解きに徹していない村瀬氏の作風の方が好みだった。 一方、プロ作家二階堂氏はさすがプロだけに筆達者振りを発揮。ディクスンのHM卿を主人公にしたパスティーシュ作品でその名も「赤死荘の殺人」。 また個人的に注目していた件のアンソロジーに作品が掲載されていた津島氏は期待はずれだった。ちょっと私には受け入れがたいトンデモ本格だった。 その他別の意味で印象に残ったのは太田宜伯という作者の手による「愛と殺意の山形新幹線」。このベタな題名の作品、なんと作者は高校生!従って文章は非常に拙く、人物の性格付けにもぎこちない物を感じた(大の大人が喫茶店に入るのが苦手だという性格はこの作者が高校生だからだろう)。題名から想起されるように時刻表を用いたアリバイトリック物であり、これは選者による鮎川氏の好みと高校生による投稿という意気込みに華を添えたに違いない。 総体的な出来はまあまあというところ。今読むともっと評価は低くなるだろう。なんせこの頃の私は未来の本格ミステリ作家の登場に立ち会えるかもしれないと、かなり新本格にのめりこんでいたのでがむしゃらに手を出していたから、そのときはそれなりに楽しんだ記憶がある。 無論、一度手をつけたシリーズは最後まで読む性質の私。次に刊行された2巻も買ったのは云うまでもない。 |
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CWA賞受賞でジェイムズ初期の代表作。本の厚みも1.5倍くらいになり、今のジェイムズの作風はここから本格的に形成されたと云える作品。
看護学校で起きた殺人事件をダルグリッシュ警視(実は『不自然な死体』で既に警視に昇格していた)が捜査に乗り出し、解き明かす。今まで名門の屋敷や休暇で訪れた村など、限定された場所ではありつつも、黄金期の本格をそのまま踏襲する実にオーソドックスな舞台設定であったが、本作以降、教会、出版社、原子力発電所など、舞台は色んな職場を舞台に、そこで働く、もしくは関係する人々の隠された軋轢を解き明かすという趣向に変わっていく。このような舞台設定を採用していくことで、それ以前の作品と違ってくるのは、物語が一種、業界内幕物となってくるところだろう。元々ジェイムズは確か病院の事務か経理をしていたという経歴の持ち主で、最初にこの看護学校を舞台に選んだのは自身が詳しい業界だったからというのは想像に難くない(その後調べてみたら、2作目の『ある殺意』で既に精神病院を舞台にしていた)。これはセイヤーズが自分がコピーライターとして勤めていた広告業界を舞台にした作品を書いたのと合致する、と『不自然な死体』に見られるジェイムズのセイヤーズ崇拝に拍車を掛ける理由付けとして書きたいところだが、概ね作家というのは自分の詳しい世界を舞台に作品を書く傾向があるのでこれはこじつけにすぎるというものだろう。 CWA賞受賞ということで、では何が変わったかというと特にそれほどの劇的な変化は見られず、従来から最たる特徴であったジェイムズの風景描写、人物描写、心理描写が登場人物がそれまでの作品と比べて増していることで、その分増えた結果、このようなページ数の増大に繋がったという傾向が強い。とはいえ、そこに介在する人間の悪意についてはさらに露骨に書かれ、実際その心情を登場人物がぶちまけるシーンもあり、実際に直面するとかなりドン引きだろうと思われる。 こういう誰もが殺人を犯す動機があるという作品は犯人当て趣向の作品では意外性を伴わない危険性があり、本作もそう。特に動機面についてはごく普通であり、CWA賞受賞作という前知識から期待感を持って読むと、ちょっと肩透かしを食らう感はある。実際私はそうで、それが上の☆評価に繋がっている。やはり『皮膚の下の頭蓋骨』のような、目から鱗が剥がれるような動機などあれば、もっと評価は上がるのだろうけど、初期の作品だからしょうがないか。 物語の閉じ方は降り積もった悪意が解き放たれる思いがする。知りたくない人もいるだろうから詳しくは書かないが、既にぎくしゃくして、いつ壊れてもおかしくない状態だった関係性を一旦清算し、新たなる出発を予感させる。これはその後、ジェイムズ作品で一貫して取り入れられている結末だ。 とまあ、『皮膚の下の頭蓋骨』、『罪なき血』と後の傑作を先に読んでしまったがためにその後に読んだダルグリッシュシリーズがこのような評価になってしまうのは残念なところ。原本の刊行順で読めばまた感想も変わったかもしれない。 |
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英国女流ミステリの大家P・D・ジェイムズ。彼女の代表シリーズといえばアダム・ダルグリッシュ警部物が連想されるが、それと双璧を成すのが本作を1作目とする女探偵コーデリア・グレイシリーズだ。しかし双璧と成すと云えど、実際にはこのシリーズ、たった2作しかない。なのに読者の支持は非常に高く、3作目を期待する声もあるほどだ(結局書かれなかったけど)。その人気の秘密は主人公コーデリアにある。突然勤めていた探偵事務所の上司の自殺でその事務所を弱冠22歳で引き継ぐことになったコーデリア。彼女のこの若さゆえにまだ残る純粋さが時に武器になり、時に仇となり、まだ彼女にとっては狭い社会との軋轢に悩まされるその姿に多くの社会で働く女性が共感したのだろう。
そんなコーデリアが引き受けた依頼は大学を中退し、自殺した青年の自殺した理由を突き止めて欲しいというもの。最初に手がける事件として、これほどコーデリアに向いている物もないだろうと思わせる、実に上手い内容だ。 とはいえ、事件はさほど印象に残るようなものでもなく、本作の主眼はやはりこのコーデリアが世間に揉まれ、亡き上司の教えを思い出しながら、徒手空拳で事件を探っていくその姿にある。特に私は捜査の途中、コーデリアが古井戸に落ちてしまい、そこから這い上がるシーンがあるが、そこにいきなり右も左もわからないところから必死に這い出ようとしているコーデリアの心情がメタファーとなっており、非常に印象深く残っている。 また本作の歴史的価値も高く、私がミステリを読み始めた頃、世間ではサラ・パレツキーやスー・グラフトンらに代表される4F物なる、女探偵を主人公にした作品が流行していたが、本作はそのブームに乗じた物ではなく、それに先駆けること10年以上も前に書かれた本格的女探偵物だということだ。ちなみに4F物とは作者、主人公、読者、そして日本では訳者が全て女性(Female)という意味。 が、そんな名作も、当時まだミステリ読みとしてはさほど冊数をこなしていない私にしてみれば、いささか退屈を感じたのも正直な気持ち。特にこの作品は章立てが少なく、1章が60ページぐらいあったような記憶があり、細かい章立てでいつでも読み止める事が出来る日本その他の小説に慣れていた私にとって、ちょっと読みづらかった。私はどうもある区切りがないと、読み止めることが出来ない性質なのでこれにはちょっと困った。 小説には読む時期というものがある、というのが持論だが、正にこれはそういう意味では読み時期を見誤った作品といえよう。いつか機会があればもう一度読み直してみたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フィルポッツと云えば『赤毛のレドメイン家』と連想されるように、あまりそれ以外の作品については巷間に知られていない。しかし、逆にそれが仇になっていると私は思っている。
はっきり云って『赤毛~』は今読むとミステリの歴史に燦然と輝く名作かと訊かれれば、万人が万人とも首肯するとは限らないだろう。昔のミステリにありがちな冗長さを感じるし、同じアイデアでもっと優れたミステリが現在では存在しているからだ。だから『赤毛~』を読んで、「なんだ、フィルポッツとはこんなものか」と思われ、それ以外の作品に手を伸ばしていない方々が多くいると思う。しかし、私はそれは勿体無いと思う。なぜなら私は『赤毛~』よりも本書の方が面白いと感じたからだ。 本書は全く『赤毛~』とは設定が違う。なぜなら犯人は誰だという謎解きがあるわけではない。犯人は事前に解っており、探偵はその犯行を暴くために存在している。では倒叙物かと云われれば、そうとも云いきれないところがある。あえて云うならばサスペンスの部類に入るだろう。 本書の主人公は引退した刑事。彼が招待されたホテルで床に就くと闇から聞こえる子供の悲痛な叫び声。しかし子供の姿はどこにも見えなかった。気味悪がった刑事は宿泊客の1人、老婦人にその話をすると、それはこのホテルで亡くなった少年に違いないという。その婦人によればその少年は貴族の息子で、父親と付添夫とで滞在していたが、夜毎彼の叫び声が聞こえ、とうとう衰弱死してしまったのだという。元刑事はその2人が犯人に違いないと見当をつけ、犯罪を証明しようとするというのがあらすじ。 幽霊からのメッセージといささかオカルティックな導入で始まる本書の主眼はこの元刑事と犯人と目される男との頭脳戦・心理戦を楽しむ作品だ。 人間を描くという意味で、既に文学界の大家だったフィルポッツの実力は十分であり、この対決も様々な駆け引きが成され、読み物として楽しめる。『赤毛~』が視覚的に鮮烈なイメージの導入であったのに対し、本作では題名どおり「闇からの声」と聴覚的な導入であるのもなかなか興味深い。 で、本作はホラーではなく、ミステリである。従って冒頭の幽霊からのメッセージも合理的な説明がなされる。私は当時この真相が気に入らなくて、評点を1つ下げたのだが、今ならば、確かにこういうトリックはありえるなぁと思える。 ぜひ読むべきという作品ではないが、読むと意外に面白いといった類いの作品である。 |
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スコットランドヤードの敏腕刑事が休暇中の旅先で恋に落ちる。その女性は人妻であったが、彼女の夫は彼女の叔父に殺され、その叔父ロバートは行方しれず。かくして指名手配になったロバートが各地で現れるという報告が入るが、どうしても捕まえることは出来ない。そのうち、新たにピーター・ガンズなる探偵が登場して・・・というのが本書のあらすじである。
本作は乱歩が当時海外推理小説十傑に値する、と過大なる絶賛をされ、日本に紹介された作品。このフィルポッツというミステリプロパーではない作家の作品が世紀を越えて、今なお文庫で書店に行けば手に入る状況は多分にこの大乱歩の賞賛の影響が大きいに違いない。 そういう前知識があると、本書は多分肩透かしを食らうだろう。ただ、1922年という時代性を考えれば、本作はミスディレクションによる意外性と恋愛とミステリの融合を目指した画期的な作品であると云えよう。 当時イギリスで文豪として名を馳せていたフィルポッツが自身初のミステリを発表したのは60の手前と、時代的に云えば、晩年に差し掛かった頃になる。その動機についてはよく判らないが、やはりミステリ発祥の地イギリスならば、作家たる者、死ぬ前に一度はミステリを物してみたいという風潮があったのかもしれない。 で、文豪の名に恥じず、その描写力は実に絵画的。主人公の刑事が初めて事件の渦中の赤毛の女性と出逢う、夕日と彼女の赤毛が織り成すコントラストの描写など、目に浮かぶようだった。実際このシーンは本作でも象徴的なシーンとして捉えられ、私が持っている創元推理文庫版の表紙絵はそのシーンを切り取った物になっている。 イギリス中を逃げ回っては連続殺人を起こす怪男児ロバートの姿が伝聞によって伝えられるがその様子も頭の中で映像が浮かぶほどだった。特にこのロバートのまとう雰囲気は私がこの本を読んだ当時にまだ流行っていた『北斗の拳』に出てくるような不遜で怪力を誇る大男を連想させ、なんとも恐ろしい殺人鬼だと思ったものだ。本書を手に入れるとすれば、創元推理文庫版と集英社文庫版の2冊になる。後者については読んだことないのでわからないが、前者は訳が古く、かなり読みにくい感じがした。それでもなお、情景が目に浮かぶのだから、この作家の描写力はかなり高い。十分に本作を楽しむためにも、一刻も早い改訳を望む。 そして主人公の刑事は正に本作では道化役。ロバートが引き起こす惨事に常に後手後手に回り、全くと云っていいほどいいところがない。満を持して現れるピーター・ガンズなる探偵が正に全能の神の如く、この事件を解決するのである。 そしてこのガンズによって明かされる真相は実に意外。ミステリを読みなれた人ならば、予想の範疇であろうが、そうでない人にとってはなかなかに楽しめるものだろう。先に述べたが本作の主眼はミスディレクションの妙にある。これを成立させるために人妻に一目惚れする刑事を設定したと云っていいだろう。それまでの本格推理小説でかみ合うことのなかった論理性と叙情性を上手くブレンドし、それをトリックに繋げた作品だ。今で云うならば東野ミステリによく見られる仕掛けだと云えるし、その原型と云ってもいいのではないだろうか。 さて、件の乱歩、よほどこの作品を気に入ったのだろう、自作で本歌取りというか、まんま模倣をして1作作ってしまっている。これはもう人物と舞台設定を入れ替えただけといえるぐらいの出来で、しかも乱歩の代表作の1つとまでなってしまっている。ネタバレ防止のために敢えてその作品の名前を挙げないが、これはミステリ通にはかなり有名な話なので、恐らく大概の方がご存知だろう。それでもそれが茶目っ気だと許されるのも乱歩だからなのだろうけど。 |
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黒星警部シリーズ第1長編。新本格作家がよく付けるような実に衒いのない題名がついているが、ノベルスで刊行された当初は『鬼が来たりてホラを吹く』という実にふざけた題名がついていた。
さて本書もまっとうな本格ミステリ。山奥にある鬼面村(ちなみに読み方は「おにつらむら」)に訪れた黒星警部とフリーライターの葉山虹子が合掌造りの家が一夜にして消失するという奇妙な事件に巻き込まれるというお話。この作者は基本的にもうトリックは既に出尽くしているという認識が強く、これからのミステリは過去の先達が生み出した素晴らしいトリックを別の手法で料理した本格ミステリしか生まれないというスタンスにある。したがって『七つの棺』もそうだったが、本作でも過去の名作のトリックを模倣している。いわゆる本歌取りという手法なのだが、本書ではクイーンの中篇『神の灯』がそれ。そして未読の方が注意して欲しいのは本書では本家のトリックをばらしているということだ。幸いにして私の脳細胞はさほど優秀ではないので、その内容はすでに忘却の彼方にあり、多分クイーンの作品は前知識なしで読めるだろう。 黒星警部シリーズはその三枚目なキャラクターのせいもあって、ドタバタ劇風になっており、案外楽しく読める。パートナーの虹子と警部とのやり取りもほとんど漫才(ただの親父ギャグの連発だという向きもある)。殺人も起こるがどこか牧歌的に物語は進行する。 本書で起こる事件は先に述べたように、あえて前例を踏まえた上で作者なりの味付けがなされているわけだが、そのせいもあり、トリックだけでなく、舞台設定も借り物という感がしてしまう。 ただ大団円を迎えた後のツイストが効いている。これは敢えてある黄金期の作家がある作品でやった趣向を逆手に取ったものだろう(題名を書くとそれがそのままネタバレになるので止めておく)。この一つ手間をかけた味付けを私は買う。 こうやって書くと、私はどうも折原氏の真骨頂と云える叙述ミステリよりも、正統な本格ミステリである黒星警部シリーズの方が性に合うようだ。なんかまた読みたくなったなぁ。 |
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本作は当初「鮎川哲也と十三の謎」と題されたシリーズで『五つの棺』のタイトルで刊行された連作短編集だったが、文庫化になった際、2編足され、そして題名もそれに併せて変更された物。
デビュー作『倒錯のロンド』が凝りに凝った叙述ミステリだったのに対し、本作は実にオーソドックスな本格ミステリ短編集である。主人公は黒星警部で、本書が第1作目。この警部はシリーズキャラクターであり、叙述ミステリではない折原作品で主役を務める(全てではない)。 ただオーソドックスと書いているが、こだわっているのは全てが密室殺人を扱っている点だ。これは本歌取り(ほとんど題名のみだが)したジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』に倣ったものと思われる。実際、収録作の一編には「ディクスン・カーを読んだ男たち」というものさえある。 七編全てを覚えているわけではないが、この「ディクスン~」と1編目の「密室の王者」は未だに覚えていた。前者は確か某F原S太郎氏のトリック暴露本シリーズと云われる推理クイズの1つに取り上げられていたように思う。 後者は“No Smoking”の意味が印象的で、これは未だに駄洒落で使っているくらいだ(厳密に云えば、若干違うのだが)。 本書で初登場した黒星警部にも実は特徴づけが成されてあり、それは本格ミステリ好きの警官で、特に密室殺人に目がないというちょっと御茶目な男である。したがって「密室」と聞くと居ても立ってもいられなくなり、さらに単純な事件でもわざと難しく解釈してあわや迷宮入りさせようとする、実際にいれば絶対に同僚にしたくない人間ではある。 この後、黒星警部のシリーズは主に長編が書かれ、短編は確か今の時点で『模倣密室』1冊しかないはずだ。個人的にこの本は楽しめたので、出来ればこの路線でまだまだ作者には短編を書いてもらいたいものである。 |
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もうお分かりと思うが、折原一氏も創元推理文庫から作品が出ており、彼の作品の読者になるのは当然の流れであった。しかし刊行はこちらの方が先。本作は折原氏が当時江戸川乱歩賞に応募して惜しくも落選した作品。しかも受賞することで完成するという曰くつきの作品だ。そのアイデアが斬新だったせいもあり、当時の選考員の1人であった島田氏がこのまま埋もれさすには勿体無いということで、刊行されたのが本作である。賞に縁のない“無冠の巨匠”島田に見出されることがなかなか皮肉ではある。
折原氏と云えば、彼の作品の最大の特徴は叙述トリックにあると云えよう。昨今は「この作品は叙述トリックを扱ってます」ということ自体がネタバレだという声も聞くが、私は全くそうは思わない。なぜならば元々本格推理小説というのは作家対読者との頭脳ゲームであったからだ。だからクイーンは堂々と“読者への挑戦状”を自作に挿入していた。つまりこの作品で起こる事件というのは自殺ではなく、あくまで誰かがトリックを使って行った殺人ですよと読者と作者との間に前提条件があるのだ。それと叙述トリックであることを事前に断っていることに何の違いがあろう?叙述トリックが使われた作品ならば、作者が仕掛けた叙述トリックを読み解くことが読者の作者に対する挑戦である。確かに何の情報もない方が驚きは増すのは十分理解できるが、そういう人は何か面白い本はないかと他人の感想を参考にすることを止めなければならない。 閑話休題。 本作は『幻の女』という投稿作品を巡る2人の男の物語だ。主人公は作家になる夢を捨てきれず、アルバイトで糊口を凌ぎ、毎年江戸川乱歩賞に投稿しては落選している山本安雄。片や新進作家として注目を集めている白鳥翔。この2人がこの1つの作品を巡って、盗作騒動を起こす。それに殺人事件も絡んできて、物騒な雰囲気を帯びてくる。がしかしそれは実は・・・というストーリー。 さてミステリ初心者がこれを読むと、作者の仕掛けた企みに首肯しづらいのではないだろうか?これはある程度本を読んだ人でないと、この仕掛けと作者の意図を納得できないと私は思う。どういうことかというとネタバレに近くなってしまうので避けるが、一読後、私が抱いた感想は「なんか・・・ズルい」である。 でも受賞して初めてこの作品は完成するという作者の意図を当時の選考委員も汲み取って、単独ではなくとも同時受賞とさせるくらいの洒落っ気なり、粋なところを見せて欲しかったなとは思った。 作家はデビュー作にその本質があると云われるがこの言葉がこれほど当てはまる作家もないだろう。その後折原氏は数々の叙述ミステリを世に送り出すが、私はまだほとんど読みきれていない。 |
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実はこの話は『湾岸の敵』と混同しているような気がする。というのも『湾岸~』と同じく物語の舞台が艦内であり、しかも調べてみるとなんと『湾岸の敵』の前日譚だというではないか。これは全く記憶にない。ただ本作では『湾岸~』が灼熱の地アラブだったのに対し、今度は極寒の地。こういう極寒の地を舞台にした物語の例に洩れず、そのトーンは重苦しく、陰鬱だ。もともと暗い筆致の作者だけになおさら重く感じた。しかし『湾岸の敵』で上がったクオリティをそのままに本作も重厚かつ精緻な描写で、読ませる内容だった。
その後、本国アメリカでは“The Passage”という作品が刊行されたらしいが、訳出はされていない。どうやらとうとう打ち切られたようだ。あまり売れなかったのだろう。4作目にして最後の訳出本となってしまった。 |
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初の上下巻でしかも確かそれぞれ400ページぐらいの厚さだったが、とにかく読み終わるのに何日もかかった記憶がある。元々このポイヤーという作家はこの手の軍事小説が得意だったらしく、『冬山の追撃』は彼にとっては異色作であったようだ。なぜなら本作ではさらに事細かに軍用艦の設備やら装備やら操船用語などの専門用語が頻出し、しかも相変わらず文字は見開き2ページが真っ黒になるほど埋め尽くされていた。
この題名は90年に起きた湾岸戦争を大いに意識しており、本作の中の敵もイラクである(刊行は96年)。当時のこういう軍事小説ではもはや湾岸戦争を語らずにはいられなかったといえよう。 軍用艦の乗組員のサブストーリーなども手を抜かずに書かれていたので、次第にページが多くなったと思う。とにかく前2作とは格段の進歩の出来であったことは記憶に残っている。専門分野を扱ったせいか、水を得た魚のようにディテールが細かくなるに連れ、人物造形も増してきた。確か本書だったと思うが、変わった書き方をしていた。それは三人称叙述ながらある人物の視点を中心に物語が進行するのだが、次の章になるとこれがまた他の登場人物の中心視点に変わるという書き方だった。これだけ聞くと、物語の視点が統一されずに読みにくいのではないかと思われるが、そうではなく、例えば、その人物がある部屋に入って誰かと話していたとしよう。そこに新たに入ってきた人物でその章が終る。そして次の章ではその新たに入ってきた人物の視点で物語が進行するといった具合に、案外場面展開がスムーズだったような記憶がある。またこれが他の人から見た当の人物の印象なども判り、なかなか面白い話運びだなと思った。この手法で物語が進行すると、脇役のキャラクターの心情にも踏み込むことになるから自然、それぞれの人物像にも厚みが出てくる。だから本作を読んだ時は、これからこの作家は伸びてくるのではと思わせる期待感をもたらしてくれたが、そうは簡単には行かなかったのだった。 |
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懐疑的ながらもとりあえず読み続けることにしたポイヤー。2作目は極太の海洋小説。サルベージ業を営む主人公のところに、第二次大戦中に撃沈させられたUボートの回収の依頼が来るが、もちろんそれはただの依頼ではなく・・・というのがあらすじだ。
今では、といっても案外前になるが、映画、ドラマ化もされた『海猿』やマンガ『我が名は海師』や『トッキュー!』など、海で働く職業について描かれた作品も多くなったが、当時、その手の類いのマンガは皆無に等しかった。いやこれは視野の狭い私が知らなかっただけかもしれないが。ということで本書の主人公が営むサルベージ業というのも、最初はなんだか解らなかった。逆に本書でサルベージ業なる仕事が海での救助や引揚げ業であることを知った。とにかく見開き2ページを文字で埋め尽くされたこの作品。未知の世界の専門用語がどんどん出てきて理解するのに苦労した覚えがある。 しかしそれでもなかなか楽しめたように思う。1作目がアレだっただけに、これは案外読めた。案の定、引揚げるUボートには第二次大戦というどさくさに紛れたある物が積まれてあり、主人公はその争いに巻き込まれていく。第一、引揚げるものが当時ナチスのUボートだというから非常に安直な設定であるし、こういう系統の作品ではもはや王道というべき展開。 今では記憶も希薄となっているが、この本でスキューバ・ダイビングに関する知識や前述のサルベージ業に関する知識を浅いながらも知ったように思う。そういう意味では得る物はあったのではないかと思う。 こういうのを冒険小説って云うのだろうなと思いつつ、もしかしたらこういうのが好まれる作品なんだろうかと世間の書評が気になったが、さほど話題にはならなかった。しかし、案外面白く読めたので、この後も彼の作品を買い続けることにしたのだった。 |
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この作品も創元推理文庫でなければ購入しなかった。しかもこの作品は当時文庫目録には載っていたものの、どこの書店に行ってもその書影を拝めることすら出来ず、やむを得ず、御取り寄せの注文をして、ようやく手に入れた本だった。まだインターネットがそれほど普及していなかった頃の時代である。
私は興味を持った物は全て集めないと気がすまない性質でこれは今でも変わっていない。書店から注文の品が届いた旨の連絡を受けた時は喜び勇んで本屋に向かい、手にした本を見てなぜ入手困難だったか納得したものだ。 昔の創元推理文庫の背表紙には男の顔、猫、銃などのシルエットを模したマークが付けられており、それがジャンルを示していたのだが、本書はその昔の装丁だったのだ。だから案外この本を持っている人は少ないんじゃないかと思っている。 したがって例によってこの笠原卓という作家の前知識を全く持たず、ブランドへの信頼とまたぞろ収集癖の虫が騒いだがための衝動的な出会いだったのだが、これが思いもよらぬ拾い物だった。 その題名が示すとおり、本書の骨子は詐欺師たちのコンゲーム小説なのだが、それだけではない。手形詐欺を巡る詐欺師達の饗宴ならぬ競演に加え、なんとこういうコンゲーム小説には似つかわしい密室殺人と、通常私達が思っている本格推理小説とは一味違った趣があったのを覚えている。学生の時に読んだので、正直に云って手形詐欺の手口の件は十分理解したとは云えないまでも、最後に明かされる主人公の本当の目的なども含め、尻尾までしっかりアンコが詰まった鯛焼きのような小説だったと記憶している。数年後、同じ作家の手による『仮面の祝祭2/3』という作品を読むのだが、そのときの印象は本書を読んだ印象と全く変わらなかった。非常に堅実な筆致で、展開は地味ながらも内容は実にアクロバティックで、ロジックに徹した作品で非常に好感が持てた。 ここでの評価は当時読んだ時の感慨を基にしている。前にも書いたように当時学生だった私は本書を十分理解できたわけではないために、このような評価に落ち着いた。その後、私も『ナニワ金融道』や『クロサギ』といった書物(マンガかよ!)や昨今の振込め詐欺に代表される様々な詐欺の実態を知り、以前読んだ時とは知識の量が違っているので、もっと評価は上がるかもしれない。本書はそういう意味では再読の必要がある作品だ。 ところで東京創元社はかなり昔に単行本で上梓した同氏の続編『詐欺師の紋章』を未だに文庫化していない。作品の出来はわからないが、ぜひとも文庫化してほしいものだ。2年前ならばドラマ化された『クロサギ』の煽りを受けて、ある程度の部数の販売が見込めたものを。いや相変わらず商売下手な出版社である。 |
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一連の創元推理文庫の日本人作家作品に入っていたのがこれ。まだ日本のミステリシーンに疎かった私は無論の事、この作家についてはなんら知らず、紀田氏同様、創元推理文庫だから大丈夫という先入観で購入した。
本書は「探偵の四季4部作」と名のついた、世に知られる有名探偵小説シリーズの本歌取り作品シリーズの第一弾である。で、題名から解るように本書では横溝正史の金田一シリーズがベースになっている。なんでもあとがきに書かれているように元々この作者は横溝ファンであり、自身のペンネーム「正吾」も横溝「正史」の「し」を数字の4と読み換えて、それに1つ足したのだと述べられている(だから読み方は「しょうご」ではなく「せいご」が正しい)。 そんな作品だから、正典である金田一シリーズを読んでいる方が作者の散りばめた横溝作品に纏わるガジェットなり、稚気なりを楽しめるだろう。私は当時も今も横溝作品には映像作品でしか触れた事はなく、したがってここに収められているパロディの数々はそれと気づかず、この作品における演出だと思っていた(「きちがいじゃが・・・」というのも横溝作品では有名なフレーズらしいが、未だに本歌のどこにどのようにして云われているのか知らない)。 しかしそれでも楽しめた。それは私が本作でのあるトリックを看破できたから、なおの事、楽しめたのを覚えている。冒頭に挿入された図面をじっくり見て、作者のトリックを見破ることが出来たあの瞬間を今なお最近の事のように覚えている。 が、もし今本作を読むと、上のような評価には至らないだろう。トリックはあるとはいえ、ミステリとしての出来については今では恐らく凡作の類いになるだろうと思われる。私がまだミステリ初心者だった頃に読んだからこその7点評価だと断言できる。 その後私は彼の作品が文庫化されるたびに買ってはいたが、あまり出来が良くなかったので辞めてしまった。元々寡作な作家であり、その後買った作品も2冊ぐらいだったし、それらを読む頃にはこなれたミステリ読者になっていたため、本作で気づかなかった粗が目に付いてしまった。現在このシリーズは3部まで出ているようだが、その評判はあまり聞かない。 本書は駆け出しミステリ読者だった頃の仇花として私の記憶に残る作品となった。 |
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『斜め屋敷の犯罪』で御手洗に翻弄される道化役の刑事を演じた牛越刑事が主役を務めるスピンオフ作品。あの牛越刑事が粘り強い捜査で犯人を突き止める社会派推理小説だ。読んだのは『火刑都市』の方が先だが、刊行されたのは本作のほうが先だったらしい。
道警の、札幌署に勤務する牛越刑事がトランクに入れられたバラバラ死体となった一家の父親の犯人探しに、出稼ぎ先の関東(確か千葉の銚子あたりだったように思う)まで赴き、地道に足で捜査を重ねる。私は先に御手洗シリーズを読んで随分経ってから本書を読んだが、『斜め屋敷の犯罪』での無能ぶりに牛越刑事なんかが主人公で大丈夫かいな?と思っていた。が、不器用で決してスマートといえないその捜査過程は実に我々凡人に近しい存在であり、極端に云えば読者のお父さんが素人張りに奮闘して捜査しているような親近感を抱いた。思わず頑張れ!と口に出して応援してしまう、そんなキャラクターだ。 先に読んだ『火刑都市』は物語が内包する島田氏の都市論、日本人論が犯人を代弁者にして色々考えさせられる重厚感があったが、本作はそれとはまた違った重みがある。特に本作で描かれる房総半島の淋しげな風景は私の千葉に対するイメージを180°覆す物であった。九州の田舎から就職して四国の田舎に住んだ身にとって、千葉のイメージとはディズニーリゾートや成田空港など、大都会東京の延長線上にある発展した県という意識が強かったが、本書にはその姿はなく、昭和の雰囲気を漂わせる重く苦しい風景だ。八代亜紀の演歌が聞こえてきそうな荒涼感さえ漂う。特に銚子は学生の地理の授業で習った醤油の名産地、漁業の発達した街というイメージが強く、栄えているのだと思っていたが、あにはからずそんな明るいムードは全くなかった。 トランクに詰められた死体というとやはり鮎川哲也氏の『黒いトランク』が思い浮かぶだろう。実は私は鮎川作品を読んだことないのだが、多分に島田氏は意識して書いたに違いない。思えばデビュー以来島田氏は何かと過去の偉大なる先達にオマージュを捧げるような同趣向の作品を書いている傾向が強い。本作もどうもその一環だと云ってもいいだろう。 で、ミステリとしてはどうかというと名作の誉れ高い『黒いトランク』のようには巷間の口に上るほどのものでもないというのが率直な感想。しかし牛越刑事の愚直なまでに直進的な捜査は読み応えがあり、その過程を楽しむだけでも読む価値はある。島田氏の登場人物が織り成す彼の作品世界を補完する意味でも読んで損はない作品だ。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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本作は一風変わった小説である。4章で構成された作品だが、それぞれの章は全く独立した話(のように読める)。それぞれ島田氏特有の幻想的な謎が用意されており、主人公も違う。
まず第1章「丘の上」では東京の高級住宅街に住んでいるある主婦が隣りの老人の奇行に興味を抱く話。その老人は庭に出て大量の笹を集めたり、鏡で丘の上の家を照らしたりと奇妙な行動をしている。やがて主婦はそれは何か老人がただならぬことを企んでいるかと邪推しだすのだが・・・。 続く「化石の街」は新宿駅の地下に出没するピエロの話。そのピエロは街を徘徊しては怪しげな行動を繰り返している。やがてある男がそのピエロの行動に何か意図があるのではないかと思い、後を追ってみるが結局特別なことは起きなかった。しかし彼はその翌日に同じコースを辿る老紳士を発見し、声を掛けて、何をしているのかと訊くと「宝探しだ」という意味不明な答えが返ってきたのだった。 3章「乱歩の幻影」は実家が写真館である女性が昔現像を頼んだまま取りに来なかった客のフィルムを現像したところ、なんと江戸川乱歩その人の写真だったという、ミステリファンなら俄然興味が出るような展開を見せる。彼女はそのフィルムを持ち込んだ和装の女性に興味を抱く。 そして最終章「網走発遙かなり」は網走で起きた事件譚である。主人公の男性の父親はかつて有名な作家であったが、戦中北海道に疎開した時に、飲み屋の女性と懇意になり、道内を電車で旅行した際にその女性の恋敵に車内で射殺されてしまったのだ。しかし男性は当時の文芸誌に報じられた事件のあらましに腑に落ちないものを感じ、独自に捜査を始めるが・・・。 が、しかし本作に対する当時の私の評価は上で語るほど高くない。読書中、何度も「これ、長編だよな~?」と裏の紹介文を何度も読み返しながら半信半疑で読んでいた記憶がある。そんななんとなく腑に落ちない感じでの読書だったので、最後に全てが繋がるときに驚くというよりもなんだか狐につままれた感じがした。しかし前述したように短編のような各章は独立した作品としてもクオリティが高いのは断言できる。逆にそれがためにそれぞれの作品のベクトルが一定方向になく、個性の強さをお互いに発揮してしまった故に最後の纏まりとして統一感が欠けたように感じたのかもしれない。とはいえ、この感想は今になって云える事で、当時はやはり私自身が読者として未熟だったのだろうと素直に認めよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて歌野氏がシリーズ物を排して望んだノンシリーズ第1弾がこの『ガラス張りの誘拐』だ。本書の特徴はまず最初に第二の事件があって、第三の事件、そして最後に第一の事件が語られるという構成の妙にある。時系列に敢えて沿わずに進行する物語はそれ自体トリッキーであり、私は当時観た映画タランティーノの『パルプ・フィクション』を思い浮かべたものだ。
また語られる誘拐事件も犯人が警察を呼べとか、マスコミに知らせろなどと通常タブーとしていることを逆に被害者に強いるところがなかなかトリッキー。読者はその裏に隠された企みを推理しながら読み進めるがなかなか先が読めない。私もその一人だった。 一見何の関係もなさそうな事件が最後になって関連性を持って一つの事件になるというのは現在、連作短編集でよく使われている手法だが、あの手の作品にはちょっとこじつけというか強引さが目立つし、仕掛けが細かすぎて単に作者の自己満足に終っているきらいがないでもない。しかし本作では長編なのにそれぞれの章が独立している短編集のようだという全く逆の味わいがあり、私はこっちの方を好む。読了後私はすぐさま島田荘司氏の『網走発遥かなり』を思い浮かべた(あっ、そういえばこの作品の感想を書いていないや)。というよりも一読、これはこの作品へのオマージュに違いないと確信した。 逆に云えば、先にそちらを読んでいただけに本作における歌野氏の企みというか試みが二番煎じに感じてしまったのが非常に残念だ。『網走発~』と比べると、どうしても消化不良感が否めなかった。第ニ、第三の事件がもやもやとした形で括られることもあるし、なんだかやはりアイデアを支える技量が不足していると思った。 今までの感想にあったように私もどちらかといえば歌野氏を完成されていない作家として見ており、その成長を見守っているスタンスであるので、どうしても上から目線で批評してしまう姿勢が拭えなかった(これは今ではどうなのか解らない)。そのためもあり、彼の諸作については先達の作品の影がちらついて作品そのものへの正当なる評価が出来ていないように感じることがある。これは反省すべき点だと私も感じている。 さて私が歌野作品から遠ざかってかなりの年数が経ってしまった。そろそろ彼の作品に触れるべきかも知れない。あの頃と違って私もミステリを数こなし、作品ごとに作者の意図すること、行間に込めたメッセージ、テーマ性、そして当時の社会的背景などを考慮して論じることが、未成熟なりにも出来てきた。次の作品から一読者と一ミステリ作家として対等に取り組んで見ようと思う。 |
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探偵信濃譲二を擁した「家」シリーズを書いていた歌野氏がいきなり書いたノンシリーズがこれ。とはいえ、本作の前に『ガラス張りの誘拐』という作品も出しているのだが、読んだ順番に沿って書くことにした。
さて本作では今までとガラリと作風を変えている。なんと主人公は江戸川乱歩と萩原朔太郎と実在の人物である。そして内容は乱歩が南紀白浜で出くわした首吊り事件の真相に二人が挑むという物だが、それだけではなく、それが実は乱歩の未発表原稿『白骨鬼』という作品であり、それが本物かどうかを探るという入れ子細工の作品になっている。 さて新本格世代でこのような作中作の意匠を凝らした作品といえば既に綾辻氏の『迷路館の殺人』があったが、歌野氏はこの趣向に乱歩の未発表原稿というさらなるハードルを設けている。単に作中の作品がミステリだけではなく、あたかも乱歩が書いた推理小説でなければならないのだ。今まで新本格デビュー作家1期生の中でも、技術の未熟さ、飛びぬけた作品がないことから、軽んじて見られていた傾向のある彼がいきなりこのような冒険に出たことは当時驚きであった。そしてその試みは成功していると断じていい。実際刊行当時、本書は世の書評家からも絶賛を受けた。なんせあの辛口推理作家佐野洋でさえ、本作を認める発言をしているくらいだ。これではすわ歌野氏もブレイクか!と期待が掛かったが、結局その年の『このミス』や週刊文春の年末ベストランキングには引っかからず仕舞いという結果に終る。 同時期にデビューした他の作家3人が『このミス』を筆頭に、年末の各種ランキング本に選出されるのに対し、歌野氏の作品はデビューして15年後、ようやく『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり『このミス』、週刊文春で1位を獲得し、ランクインする。その後も毎年とは云わないまでも数回ランクインしており、やっとミステリ作家として世間に認知されたような感がある。 前にも触れたが、他の3人に比べるといささか毛色の異なるこの作家がそれまで冷遇されていたように私は感じていたが、どうもそれは作者自身も感じていたようだ。そのようなコメントを『葉桜~』の頃のインタビューで触れている。そして本作は当時歌野氏がかなりの自信を持って世に問うた作品であったようで、これがダメならばミステリ作家を辞めるとまで思っていたらしい。実際彼はこの次の『さらわれたい女』という作品を出した後、長い沈黙に入る。 本書は歌野氏の夢破れた作品という位置づけであるが、上に述べたようにミステリ好きには堪らない趣向が詰まった作品である。ぜひ一度読んでもらいたいものだ。 そして読んだ人は私に教えて欲しい。本書の題名の意味するところを。 |
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前作がどうにも普通だったことを作者自身も反省してか、今作では探偵信濃譲二の死というセンセーショナルな題材を扱って、読者を煽っているのがいい。また劇団マスターストロークの公演に殺人事件が絡むあたりも、1作目のサークルバンド内で起こる殺人事件から発展させた趣向であり、工夫が見られるところも買える。
そして何よりも題名にある「動く家」が事件に絡んでいるところが前作と大いに違うところであり、しかもこの動く家の特徴を活かしたすれすれのトリックはこの手の細密なトリックが好きな人には面白く思えるものだろう。 しかしやはり惜しむらくはやはり作者の技術の未熟さがまだ見られ、登場人物が類型的であること。特に劇団という物語に膨らみをもたらす題材を扱いながらも、印象に残るキャラクターが一切いないのは痛い。ただ本作は冒頭で述べたように探偵信濃譲二の死を扱っており、それにより今まで地に足がついたように思えなかった彼に若干ながらキャラクターとしての特色が出たように思える(よく考えると後に作者の師匠島田氏が某作で同じようなトリックを使っている)。 1点の加点は非常に個人的な理由による。前2作を読んだ時点も判ることだが、歌野氏は自作に洋楽を絡めており、これが洋楽好きの私には少しばかりお気に入りだった。恐らくペンネームも作者自身が洋楽好きであったことに由来していると思われる。そして本作ではまず劇団の名前「マスターストローク」に琴線が響いた。これはもうQueenの2作目のアルバムに収録されている“The Fairy Feller’s Master-stroke(邦題「フェアリー・フェラーの神業」)”から取ったことは間違いない!なぜなら『白い家~』にはQueenの“Is This The World Created?”の歌詞が引用されていることからも、歌野氏がQueenファンであることは窺えるからだ。 また作中で扱われる歌が私の大ファンであるThe Policeの“Every Breath You Take(邦題「見つめていたい」)”だったこと、そして作中でこの歌に関する述懐が非常に的を得ており、私の心に響いたことが大きい。これのみで加点した。 とどのつまり、小説とはそういうものなのだと云える。読者も多種多様で作品のどこに惹かれるかは人それぞれだ。今までの歌野作品は無難にミステリし、無難に小説していた。だから印象に残らなかったのだ。こういうケレン味とまではならないが、サムシング・エルスを読者は求めているし、さらに云えば、感想も作品の出来・不出来だけに留まらずに話題が膨らむことも小説が内包すべき魅力だと考える。 あと非常に上から目線の意見で恐縮だが、未熟ながらも何とかしようという努力が見えるのが好ましい。今まで私も彼の作品に関しては酷評しているが、それなりに彼を買っているのだ。正直に云えば、それは彼を推薦した島田氏を信じていたからだと云える。我が尊敬する島田氏が見出したからには何か光る物があるに違いないからだと思ったからだ。一人の作家が成長し、世に認められるようになる、その過程を共に歩んでいるような気がした。いわゆる下積み時代のバンドやお笑い芸人をファンが育てている、それに似た気持ちで彼の諸作を買い続けているようなものだ。その後、数多の新本格ミステリ作家が現れては消えていったが彼は生き残り、幸いにしてそれは数年後、真実となった。 この後、信濃譲二シリーズは短編集が刊行されてからは新作が発表されていない。多分もう歌野氏はこの探偵を使わないだろう。私はその決断をよしとする。なぜならこの3作の後に読んだ作品の方が読ませるからだ。次からは私が読んだ歌野氏のノンシリーズの2作について触れたいと思う。 |
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