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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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薬師寺涼子の怪奇事件簿シリーズ第5弾。第3作目の『巴里・妖都変』以来、もはや薬師寺涼子のパワーは日本では収まらないと見えて舞台を海外に設定する事になったが、本作ではカナダはバンクーバーが舞台となっている。
パリ、香港と来て、意外や意外、バンクーバーなのかというのが正直な感想。世界の主要都市といえば他にニューヨーク、ロンドン、シドニー、ベルリンなど他にもあるのに、なぜこの国?と思ってしまった。 ということで今回の敵は黒蜘蛛。もうハリウッドのB級ホラー映画なみの設定である。そしてそれは作者も自覚的で、グレゴリー・キャノン一世が往年のB級ホラー作プロデューサーでカルト的人気を誇る設定を用意し、なおかつ作中作で一本のホラー映画のシナリオを展開し、それが設定に大いに絡んでくるといった内容だ。 そして今回も薬師寺涼子の無敵ぶり、傍若無人ぶりは健在。というよりも以前にも増して拍車が掛かっている。ここまで来るともう涼子は単に運動神経抜群、才気に溢れ、更に超絶美人というありがちなキャラクターからさらに一歩抜きん出た存在となり、リアリティ云々を超越したキャラクターとなっている。 そして涼子の周囲を取り巻く連中も更にキャラクターに魅力を伴ってきた。涼子の天敵でメガネ美人の室町由紀子。その部下でオタクキャリアの岸本警部補。涼子の従者かつ戦闘員であるメイド、マリアンヌとリュシアンヌなど、オタクが萌える要素がどんどん投入され、ライトノベルの王道を闊歩していくようだ。実際、オタクたちにとってこのシリーズはどのような受け取られ方をしているのだろうか? 今回涼子が敵地に乗り込むのに扮したコスチュームはぴったりとした漆黒のボディスーツにマントとなんとアイマスク!これを読んで、私は『ヤッターマン』のドロンジョ様を思い浮かべてしまった。う~ん、どうしたんだろう、田中芳樹氏。 しかし、冒頭で話した今回の舞台バンクーバーならではという設定、ストーリーの妙味というのは無かった。今回ハリウッドの超大物プロデューサーを敵役に設定し、舞台を黒蜘蛛島という架空の島に設定した事から必然的に決まったような節がある。ここら辺が残念だ。 ともあれ、第5作もその破天荒ぶりは健在。ただシリーズも第5作を迎えると転機が欲しくなる。泉田がピンチになるとか、涼子のオーナー会社が乗っ取りに遭うとか、無敵のお涼の根幹を揺るがし、冷や汗をかかせるような話を用意してほしい。 でも田中氏はどうもこの作品でストレスを解消しているようなので、良くも悪くもマンネリできっとこのまま行くんだろうな。 |
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チャンドラー新訳短編集第3集。今回は長編『湖中の女』の原形となった短編の表題作が初読の作品。もっとも題名もそのままで、本作では原題そのまま。
まず最初はマーロウ登場の「赤い風」。本作ではマーロウはこの作品のみの登場だ。 後で述べる他の作品と違い、本作での特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。 マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。 女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。 次の「黄色いキング」ではホテルで用心棒をやっているスティーヴ・グレイスが主人公。 スティーヴの設定はタフで、女にもてると典型的なハードボイルド・ヒーローといったところ。この一作ではまださしたる特徴があるようには思えなかった。 そしてレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。まあ、本格推理物ではないので良しとするか。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。 ただ1つ印象に残った文章があった。 「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」 音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。 さて続く2編は短編「スマートアレック・キル」と「翡翠」に登場した探偵ジョン・ダルマスが主人公。 「ベイシティ・ブルース」、「レディ・イン・ザ・レイク」共に、ロサンジェルスで探偵稼業を営むジョニー・ダルマスの許にロスの保安官ヴァイオレッツ・マッギーから依頼の電話が掛かる形で物語は始まる。 まず前者はマッギー知り合いの探偵マトスンを助ける依頼。 後者はハワード・メルトンという化粧品会社支社長の失踪した妻の捜索が依頼。 「ベイシティ・ブルース」は最後に明かされる意外な犯人、複雑ながらもすっきりとする事件の構成など、完成度がかなり高い作品だ。 逆に「レディ・イン・ザ・レイク」は定型を脱していない感じ。 前者と後者でのダルマスの印象はけっこう違う。以前はダルマスもマーロウの原形のように感じていたが、「ベイシティ・ブルース」では減らず口と窮地を脱するのに他人に成りすましてドジを踏むところ、腕っぷしもさほど強くないところなど、若さが目立ち、ちょっと別の探偵という感じがした。 翻って「レディ・イン・ザ・レイク」では、むしろマーロウに近いといった印象。唯一異なるのはあくまでマーロウが己の教義のために依頼を果たすのに対し、ダルマスは仕事の最中に依頼人に金を吊り上げるよう要求したりするように金に卑しいところか。 さて最後は「真珠は困りもの」。遊蕩探偵?ウォルター・ゲイジが主人公。 実は本短編集ではこれが一番面白かった。恐らく親の遺産で悠々自適に暮らしているウォルター・ゲイジが婚約者の依頼で探偵を務める話。 このウォルターが坊ちゃんで、自意識過剰、自信家なところが他のチャンドラーの主人公と大いに違い、逆に他の短編に比べて特色が出た。特にウォルターがいきなり盗難の犯人と目したヘンリーに真珠が模造である事を話すところなど素人丸出しで、チャンドラーが他の探偵とウォルターをきちんと書き分けていることがよく解る。 最後の清々しい幕切れといい、本作でのベスト。 本短編集で特徴的なのは主人公を務める探偵を食ってしまうようなバイプレイヤーがいることだろう。 まず「赤い風」は終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。 また「ベイシティ・ブルース」では後半事件に関わってくるド・スペインのタフガイぶりが際立っており、ダルマスが食われた感じがした。特に上昇志向が強く、降格された恨みから犯罪まで犯すド・スペインのキャラクターの濃さは本短編集でも異彩を放つ。 そして「レディ・イン・ザ・レイク」では引退した保安官ティンチフィールドが物語に渋さをもたらす。事件の中を模索するダルマスに的確なアドヴァイスを与える老練な男だ。 そして「真珠は困りもの」では途中で仲間になるヘンリー・アイケルバーガーがまた素晴らしいキャラクター。強面で威丈夫の大男。腕に自信のあるウォルターを一蹴しながらも、協力を申し出る好漢だ。大鹿マロイといい、その原形であろう「キラー・イン・ザ・レイン」のドラヴェック、「トライ・ザ・ガール」のスティーヴ・スカラなどチャンドラーの描く大男キャラクターは総じて魅力的な輩ばかりである。チャンドラー自身、これらのモデルになった優しき大男との交流があったのかもしれない。 さて冒頭に述べたように短編集も3冊目。前短編集『トライ・ザ・ガール』の感想では、毎度同じような展開ながらも飽きずに読めると書いていたが、さすがにチャンドラーといえどもこれだけ似たような話を読まされると、疲れてきた。 曰く、事の発端→トラブル発生→死体と遭遇→関係者の間を渡り歩く→真相解明→乱闘シーンで死者が出る、とほとんどこのパターン。 細部の演出は異なるが、話の流れは全てこの流れで進められるため、読後の今振り返ってもどれがどんな話だったのか、ちょっと混在してしまう。 ここにいたって思うにチャンドラーはストーリーテラーとしてはあまりヴァリエーションを持っていなかったようだ。ストーリーの流れは常に定型を守り、そこに女や無頼漢、タフガイを絡め、物語に味付けを施すといった感じだ。そしてそれらキャラクターが途轍もない光彩を放つ時、傑作が生まれるのだろう。『さらば愛しき女よ』然り、『長いお別れ』然り、『大いなる眠り』然り。 最初の頃に見られた卑しき街をしたたかに生きる者どもの姿がここにいたって定型に落ち着いてきているのが、非常に辛いところ。今回の作品群には今までの短編に見られた叙情が薄まっているようだ。技巧で書いているような気がした。調べてみると本作までの短編が第1長編『大いなる眠り』以前に書かれた物らしい。このころおそらく短編に限界を感じたのかもしれない。次々と浮かぶプロットは複雑さを増すが枚数の限られた短編ではある程度妥協点を見出さなければならない。だからこそ長編へと創作姿勢が移行していったのではないだろうか。 今回はほとんどが典型的な話だったので、☆5つぐらいだなぁと思っていたが最後の「真珠は困りもの」が思わぬ拾い物だった。 よってかろうじて☆7つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今度の題材は劇場型猟奇的連続殺人事件。ギリシア神話に出てくる怪物をモチーフにした見立て殺人事件。
そして主人公の刑事深町のアドバイザー役として、かつてハリウッドで活躍した日本人怪優、団精二という人物を設定している。 団精二。この作品では日本人のイメージを覆す怪演でアメリカ映画界の人々に記憶を残し、俳優業に留まらず、前衛的な映画や演劇の創作を精力的に行うが、その内容のあまりの過激さに日本ではタブー視され、黙殺され続けた男、そして同性愛者でもある彼が、“恋人”の殺人事件の容疑者として逮捕されて以後、第一線から退いたと描かれている。この設定を見ると、すぐに思い浮かぶのがトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士だろう。 ストーリーは深町の捜査線上に次々と現れる斬られた頭部を内臓をほじくり出された胴体に埋め込んだ死体が各所に現れる有様と、深町と団との間に繰り広げられる推理、そして茅野美智子が招待されたパーティ、つまり殺人事件場面の3つの場面が並行して語られる。特に物語を彩るのが団と深町との間で交わされる推理談義における、ギリシア神話の数々。そして章題もまたギリシア神話をモチーフにしている。 そして明かされる事件の真相はなかなかなもの。今までの彼の作品では一番の物ではないか。しかし明かされる真相全てではなく、やはりこの猟奇殺人の動機だろう。特に“なぜ犯人は死体の首を斬り、胴体に嵌めて処理したのか?”の真相について、思わず「おおっ」と声を挙げてしまった。 この動機についてはもしかしたら鋭い人は気付くかもしれない。しかし私はこの作者の読みにくい文章に目眩ましを食らい、もろに嵌ってしまった。 なかなか戦慄を覚えた。一番恐れていたこういう猟奇的犯行の動機、死体細工の動機がこのように驚きを持って明かされて、ほっとしたというのが正直な感想。 とはいえ、疑問が残ることも結構ある。 犯人は時間をかけて死体をばら撒いているが、これは本当に必要だったのか? それから連想していくと、なぜ犯人は犯行現場から逃げ出さなかったのだろうかという疑問に行き当たる。 そんなことを考えたら、この物語は成り立たないよ、という人もいるかもしれないが、そこまで補完してこその本格ミステリだ。同じ劇場型猟奇的犯罪を扱った島田荘司氏の『占星術殺人事件』がその好例だ。 また前の作品の感想でも述べているが、この作者の云い回しは非常に理解がしにくく、突然の場面描写の変化に突っかかる事しきり。なぜこうも解りにくいのかと考えると、視点が急に変るからだ。例えば、相手と正面を向いて話している視点が、いきなり相手の背中から自分を見ている視点に変る、また主人公に起こった事をその主人公の主観に基づいて描くので、登場人物同様、読者にもいきなり何が起こったのかが解らなくなる。2番目については何がおかしいのか解らないと思うから例を挙げてみよう。 例えば、街をぶらついている男がいきなり開いたマンホールに落ちてしまうシーン。 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていると、余所見をしていた彼は眼の前のマンホールの蓋が開いている事にも気づかず、そのまま落ちてしまった。 これをこの作者風に書くと、 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていたが、次の刹那、気付いてみると、周囲は真っ暗だった。 周囲には饐えた臭いが立ち込み、臀部には鋭い痛みがあった。ふと顔を見上げるとそこには丸い形に空が刳り抜かれていた。 タケシは落ちたマンホールの底で恥ずかしげに周囲を見回した。誰もいるはずがないのに。 とこんな具合だ。これくらいだったらまだましだが、数行に渡って、いきなりの場面転換について叙述され、「な、何!?」と疑問符付で読み進むうち、ああ、こういうことだったのかとようやく解るのだ。別段、他の作家も使うのだろうが、普通ならそれはアクセントとして、読者の興味を一層惹きつけたい場面でのこと。この作者の場合は普通に読むべきところで方々あるのだから、突っかかって仕方がなかった。 そして最後の結末の呆気なさ。しかしなんとも読み甲斐のない結末だ。 これで奥田作品は最後。やはり消えゆく作家はそういう運命にあったのだと知らされた。“化ける”作家とそうでない作家の違いはほんの紙一重なんだろうけど、この作品で化けきれなかった奥田氏の浅さを見てしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の謎は大きく分けて三つある。
まずは通常のミステリに倣い、楡井殺害に関する謎。どうやって楡井に毒を飲ませたのか?犯行の動機は? 二番目は峰岸を犯人だと告発する者の正体。これは犯人側峰岸が探る謎だ。どうして告発者は自分が犯人である事を見破ったのか? そして最後は題名にもあるように、本編のモチーフであるスキージャンプに関する謎。日星自動車の杉江翔は一体どのようなトレーニングをして飛躍的にジャンプ能力を伸ばしているのか? 東野氏のミステリの優れたところはこういったモチーフが非常に魅力的な謎を伴っているところにある。今まで色んなスポーツを物語に扱ってきた東野氏だが、本格的にそれをミステリに融合させたのは『魔球』だったように思う。須田武志が最後に放った魔球の正体とはなんだったのか?これが一連の殺人事件と平行して語られる。 『魔球』は今にして思えば、本作へ先鞭を付ける足がかり的な作品だったのかもしれない。今回はジャンプを高感度カメラによる連続飛形モデルの加速度経時変化の力学解析、それを基にした水平方向、鉛直方向の加速度推移グラフといった科学的データを実際に提示して謎の解明を行う。魔球は一種特異体質とも云うべきその人しか出来ない球の握り方という具体的ながらも科学的根拠不明瞭なところに留まっていたのに対し、今回はかなり実践的な領域まで踏み込んでいるのが大きい。だからといって『魔球』が決してその真相について肩透かしを食らうような物ではなく、本作を読んだあとではこちらの方がより具体的に謎解きを行っていると云っているだけだ。 今回読んだのは角川文庫版で、どうやら新潮文庫版から一部改訂されたらしい。どの部分が改訂されたのかは読み比べてみないと解らないが、恐らくこの科学的分析は原版でもあったのだろうと思われる。 また平成の世になり、スポーツ工学の進歩は目覚しい物がある。マンガ『Dream』でも変化球に対するメカニズム―シームと呼ばれる縫い目の握り方による回転のかけ方の違い、それによる空気抵抗の流れ、抵抗力により減速していく際に生じる球の不規則性、etc―が具体的に書かれるくらいだ。恐らく『魔球』発表当時はまだそこまで変化球に関する考察・分析が具体的に成されていなかった事は容易に推察できる(なんせ昭和63年の作品だ)。 おっと横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。 日星自動車のチームが導入した方法というのは「サイバード・システム」と呼ばれるシミュレーション装置。これは擬似ジャンプ台で、5mの長さの板にローラーが付いてあり、これが角度を自在に変えられるようになっている。被験者はローラースキーを履いてクレーンで吊られた状態でこの上に乗り、そのまま滑空する。ジャンプ台はその速度・時間に合わせて角度を変え、あたかも本物のスキージャンプ台のようになり、踏み切りまでできるという物だ。 しかし、この装置の目玉はそんなところにない。理想形とされるジャンパーの飛形をインプットし、被験者に信号を送ることで矯正し、理想のジャンプを形成する事が出来るのだ。しかしその矯正方法に問題がある。理想飛形と異なる姿勢が発生すると被験者に不協和音が奏でられ、不快感をもたらす。被験者はこれを聞きたくないために矯正せざるを得ない。しかしその不協和音は人間の無意識の領域に記憶され、ラジオの音波の雑音で突発的行動を起こす副作用がある、とまあ、これが東野圭吾氏が考えた「鳥人計画」なのである。 電気系の大学を卒業し、電機メーカーに就職した東野氏の特色が非常に色濃く出た発想、テーマではないか。 そして本作発表から20年を経た21世紀の現代、このような訓練方法は採用されているのだろうか?このような大掛かりな装置が果たしてあるのだろうか? 私は意外に在ってもおかしくないと考える。 私はこれを読んだ時に映画『ロッキー4』を思い浮かべた。ソ連のサイボーグボクサー、イワン・ドラゴだ。彼もまた当時の科学の粋を結集して“作られた”ボクサーだ。東野氏の造語に倣って云えば、“サイボクサー”だ。育てる選手の身体に無数に付けられた電気コード、これはまさにこの映画で行われたドラゴのトレーニング風景そのものである。恐らく東野氏はこの映画をヒントにこのストーリーを考えたに違いない。『ロッキー4』の公開が85年、つまり昭和60年であるから、一応符合する。またこの映画では筋肉増強剤も併用されていた。 本作にて作者が云うように、一流のスポーツ選手というのは完璧無比なる強さを求める。それが故にドーピングなんかに手を出すのだが、彼ら・彼女らは確かに「バレなければやってもいい」、「みんなやっている事だ」といった割り切りがあるのだろう。競争心が歪んだ形で欲望に変異していくのだ。それはもはやスポーツが一個人の理想の追求や求道精神だけに納まらない莫大な利益を生む一大産業となっているからだ。 フローレンス・ジョイナーが早死にしたのも、当時“バレなかった”ドーピングの副作用によるものだろう。それでも人は強さを求める。そのために自分の身体がどうなろうが、構わないのだ。 世の中、要領のいい奴はいる。私などコツコツやるタイプだから、労力をかけずに上手くやる人間や、人の結果をそのまま転用して自分の成果とする人間に対して確かに悔しい思いがする。「何なんだ、あいつは」と確かに思う。 しかし殺意とこれとは別だ。それは私が犯人のようにある物事に人生を賭けていないかもしれないが、それでも他人は他人、俺は俺だと云い聞かせる自分がいるように思う。そこがどうしても共感できなかった。犯人が恐れたのは自分の人生の意味の喪失であり、片やこの私は普通、人生に意味などない、自分に迷いや悩みが生じたときこそ、人は人生に意味を求めるという観点に立っているから、これは当然の結果だろう。この共感の度合いこそが作品に抱く思いの強さに比例するから、本作はしたがって星7ツなのだ。 また唯一本作において推理に参加できる告発者の謎(実はこれも2つあるが前者の方)だが、これが解けなかったのが残念。うっかり読み通してしまい、最後の方で十分読み返すことが出来なかった。これは素直に悔しい。 最後に本作にて語られる楡井の人物像について。この不世出のジャンプの天才が天性の陽気さを放つ人物として語られる。周りにかけられるプレッシャーをそれとも気付かず笑い飛ばす、一種天然ともいえる陽気さ、そして常に話している内容は論理的でなく、イメージ先行型で、周囲の人は理解が出来ない。しかしここにこそ私は東野氏の上手さを感じた。 元巨人の長嶋茂雄氏が高橋由伸氏が入団したての頃、バッティングの指導をしたエピソードを思い出した。長嶋氏の指導は身振りを交えて次のようなコメントしたという。 「バッと来た球をバッと打つんだ」 そして高橋氏はそれが解ると云ったらしい。 天才には詳しい説明など要らないのだ。天性の感覚で感知するイメージを伝えるだけで天才同士は通じるのだ。そしてその感覚は私も解る。いや私が天才だといっているわけではない。あるレベルにいる物が体験するゾーンという物がどんなものにも存在する。それは決して説明のできる物ではない。感じるものなのだ。 そんな部分も含めてこの本はかなり色んな要素が込められている。 しかし惜しむらくはそれでもなお、こちらの意にそぐわなかった事。それはほんのちょっとの違いなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最高の頭脳ゲーム!高学歴、高水準のディベートゲームを堪能した!
国際的犯罪阻止の協力に対し、自国に今後の利益拡大をもたらすべく、いかに有利に展開すべきか、いかに恩を着せるかを高度な駆け引きで展開するこの上ないディベートの嵐である。 常に勝利の道を模索しつつ、そして自らの保身のために逃げ道も確保しながら、相手を雲に巻きつつ、出し抜くチャーリー。 ロシアという社会主義の風潮残る国で、自らの特権を出来うる限り長引かせるために、常に身の保身を第一義に考えながらいざという時に責任の擦り付け合いで勝利する事に腐心する周囲の中で、孤軍奮闘するナターリヤ。 下院議員の甥という立場で上司やFBI長官からも疎んじられている明朗活発かつ猪突猛進な若さ溢れるケスラー。 そしてチャーリーの恋敵で軍人気質で常に作戦の先頭に立ち、指揮する事を欲する、完璧を自負する男ポポフ。 これらがそれぞれの思惑と自説の正当性を主張しながら、核物質流出事件に当る。 そしてさらに後半魅力的な人物が物語を彩る。頭脳明晰でFBI随一の核の専門家でありながら、一流モデル張りのスタイルと美貌、さらに自分の欲望に素直な女性ヒラリー・ジェミソン。これが下巻からモスクワに渡ってチャーリーとパートナーを組む辺りからまた面白くなってくる。 そしてこれら複雑な頭脳ゲームを恐らくキーボード上を踊るが如く美麗なメロディを奏でるように読者の眼前に提供してくれるフリーマントルの知性と筆の冴え。毎回思うが本当、この人の話は面白い。 しかし、今回はイギリス、ロシア、アメリカの三国に加え、ドイツがさらに加わっての合同作戦というのはいささかキャラクターの過剰出演を招いたようだ。 当初物語の主眼と思われた再会した2人、チャーリーとナターリヤの成り行きが、後半のヒラリーの投入で影が薄くなってしまった。 特にこの2人は作戦会議の場で初めて再開したときに交わされる会話の時のお互いの心理状態のやり取り、ポポフとチャーリーとの微妙な関係や、その後の2人の逢瀬など結構読み処があっただけに残念な思いがした。 更に若きFBI捜査官ケスラーがその未熟さからチャーリーに師事することで次第に捜査官としてのスキルを挙げていく成長過程も物語のサブストーリーとしてよかったのだが、これもまたヒラリーの登場で影が薄くなってしまった。 恐らくヒラリーというキャラクターがフリーマントル自身、非常に気に入ってしまい、またこのキャラクターがフリーマントルの意に反してひとりでに動き出してしまったため、その流れに委ねることになったのではないだろうか。 しかし、だからといって物語の構成が破綻したわけでなく、最後にサプライズをきちんと準備して物語が閉じられるのだから、やはり大した物である。 とはいえ、今回のサプライズは解ってしまった。やはり続けて読むとフリーマントルの手法も見えてくるということだろうか? 最後にもう1つ。 この前に読んだ同じ作者のダニーロフ・カウリーシリーズの『猟鬼』では、マールボロの箱をかざす事でタクシーが容易に止まる事を書いているが、本作でチャーリーが同じことをしようとすると、いつの時代の話ですか?とケスラーに気色ばめられるシーンがある。 『猟鬼』の原書発表が92年。本作の原書発表が96年と4年もの差がある。これはこの4年の間にロシアがそれほどまでにアメリカにおもねることなく、自立していった事の証左か、はたまた『猟鬼』におけるこの描写に対する不適当性に関する批判がフリーマントルにあったのか、定かではないが、なかなか面白いシーンだと思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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奥田哲也氏の小説は初めて読んだ。ちょっと斜めに構えた主人公の刑事の減らず口を織り交ぜた文体に最初はちょっと辟易したが、慣れてくるとなかなか面白い。
チャンドラーのマーロウを気取っていながら、あくまで三枚目であるという点が買える。我孫子武丸氏とはまた違った面白さがあった。 300ページに満たない本書はこの刑事の語りでほとんど全編ロジックが展開される。事件の渦中にある3人の男、加害者と目される片島青次、被害者と目される矢萩利幸、そして矢萩のボディガードとして事件に巻き込まれた新発田護のうち、誰が被害者で加害者なのかを3つの殺人事件でひたすらロジックの俎上で試行錯誤が繰り返される。 この非常に少ない人間関係を用いて語られる謎というのが矢萩利幸という名の人物が三度も殺人事件の被害者として挙げられるという点にある。関係者は3人。被害者も3人。では最後の犯人は?と謎を畳み掛けてくる。正にアイデアの勝利といった感じだ。 そして今回の主人公、名も無き私が実によい。後輩に見くびられないよう精一杯肩肘張って生きている三十代独身の刑事。毎晩遅く帰る生活で唯一の安らぎが読書。時たま近所の友人と場末のスナックで酒を嗜む。 一般的な刑事物に出てくる刑事とは一線を画す、小市民の生活が物語に時折織り込まれる。刑事ずれしていない刑事像をユーモア交えて語っている。 それは命のやり取り、人の人生に入り込んでいくような仕事をする人間ではなく、私も含めたあるサラリーマンの人生の一シーンのようだ。人の生き死にを生業としながらも、その実体はあくまで普通の人間なのだというところに好感が持てた。 と肩肘張った読み取り方を上に書いたが、作者の本質はもっと別なところにあるだろう。こういう刑事もいいもんでしょ?と読者に片目をつぶって微笑みかける、そんな作者の顔が目に浮かぶようだ。 非常に寡作な作家、奥田哲也氏。新本格ブームで次々と作家が頻出した90年のデビュー以後、発表作品はたったの5作。恐らく兼業作家なのだろう。 そして98年以降新作は発表していないようだ。ブームの衰退と共に消えていった数多の作家の中の1人、現状を鑑みるとそう結論付けられてしまうのは否めない。 しかし、佳作ながらも一読忘れ難い印象を残すこの作品。消え去るには勿体無いと心底思った。 |
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二階堂作品初体験。古き良き探偵小説の香り漂う本格推理小説だ。
そして本作は本格探偵小説信望者である二階堂氏本人が読みたくて渇望していた小説なのだろう。誰も書かないならば俺が書くという気迫が行間から湧き出てくるようだ。 この本の献辞は鮎川哲也氏に捧げられているが、乱歩作品へのオマージュである事は想像するに難くはない。 「地獄の奇術師」という人智を超えた殺人鬼の設定とネーミング、逆さ吊りにした女性の顔の皮を剥ぎ取っていく残虐な処刑シーン、警察監視下の中で起こる麗しき女性への傷害事件、毒殺事件に、三重密室殺人、密室内での銃殺事件、屋根裏を徘徊する殺人鬼、などなど、『魔術師』、『緑衣の鬼』、『屋根裏の散歩者』といった乱歩の名作のモチーフのオンパレードである。 そしてそれらの云わば時代錯誤な作品世界に現実味をもたらせるために二階堂氏は時代設定を昭和42年という、まだ日本の街に暗闇が残る時代を選んだ。 また探偵役の女子高生二階堂蘭子と語り役の高校生二階堂黎人が刑事事件に関わることが出来る設定として父親を警視庁警視正であるところ、蘭子が過去の事件を新聞と雑誌を読んだだけで犯人を指摘したことから警察も一目置くことになったところも、現代ならば現実味がないが、この時代ならば許容範囲かと思わせるギリギリの設定かなと苦笑した。こういうご都合主義も古き良き探偵小説ならでは、ということで案外許せてしまう。 上に述べたように、本作は不可能状況、不可能犯罪の連続なのだが、案外と作者の意図と犯人は透けて見えたように思う。尤もトリックは想定していたものとは違い、それについては作者に軍配が上がったのだが。 しかし、終章に蘭子の口から語られる神学的推理、形而上学的推理ははっきり云って蛇足だと感じた。あまりに抽象的過ぎるし、観念的過ぎるからだ。 二階堂氏は敬愛するカーのオカルティズムをも本作に持ち込もうと腐心したのだろうが、これは逆に本格探偵推理小説の狂信者といった印象を私に与えさせ、なかば呆れてしまった。熱意は買うが、自分の趣味に走り過ぎると読者はついていけなくなるからだ。 しかし、デビュー作にしてこれだけ書けるとは素直に感心した。随所に挟まれる過去のミステリを中心にした薀蓄も―多少目障りな感じがしなくもないが―造詣の深さを感じさせてくれた。 ただ昭和42年(1967年)に刊行されていない作品もあるのではないかと重箱の隅を突きたくなるきらいもあるが、そこは触れないのが華だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾はただでは転ばない、これが読後の率直な感想だった。
読者を楽しませるのにこれほど貪欲なのかと改めて感嘆した次第。あくの強い押しでぐいぐい迫るクーンツのエンタテインメント性とは違い、淡々と物語を綴りながらも最後に思いもかけない真相が作者の手元から次々と現れてくる。 正にこれはトランプの神経衰弱に似たカタルシスだ。数字の判らない同じマークのトランプを徐々に捲る事で、何がどこに隠されているかが次第に解り、ゲーム終盤、怒涛の如く、バタバタバタと裏返っていく、あの気持ちのよさに似ている。 題名が示すように物語の舞台は十字屋敷と呼ばれる奇妙な作りの館と悲劇を呼ぶピエロの人形が物語を彩る。正に本格ミステリの舞台設定ど真ん中である。 2ヶ月前の不可解な死、四十九日のために一同集まった中で起こる殺人事件。密室でもない殺人事件。しかもピエロの一人称描写の段落で語られる事件の顛末から正直今回の内容は小粒だと思っていた。 しかし、東野圭吾はやはり只者ではなかった。ページ数にして320ページの長さながらもかなりの満腹感を提供してくれた。 特にデビュー以来、何かと作中で登場するピエロの存在を今回は物語の中心に据えたことからも作者の企みに期待していたが、きちんと応えてくれている。ピエロの人形の一人称という奇抜な設定に面食らい、多少の不安は感じたが、雲散霧消してくれたし、この企みがきちんと成功していることを付記しておこう。 数ある東野作品の中において、ベストに挙げられる作品ではないものの、一読忘れがたい余韻が残る良作だ。 出版後、18年以上経って今なお重版されるにはやはりそれなりの訳があるのだ。 |
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松濤禎という男の波乱万丈人生劇場とでもいおうか。とにかく色んな要素が詰まった作品である。
上越国境での鉱山採掘現場からストーリーは端を発し、酷寒の信州の山中での逃亡行。信州の寒村で鍬形とともに逃げ出した妾のサトの家に辿り着き、そこから北海道の小樽へ移り、そして一路ロシアのウラジオストクへ渡る。しかしそこでも探し求める人物には逢えず、国境警備隊の一員となり、朝鮮独立運動に加担する反乱軍の討伐を頼まれ、やがてソ連内で勃発する複数の民族間闘争の荒波に否応無く飲み込まれていく。 また敵役も移ろいゆく。飯場頭の河西重蔵を皮切りに、特攻くずれの野槌の田岡、軍隊時代の知り合い、清浦謙治、そして敵か味方かも解らぬ国境警備隊の氷川。更には俘虜の1人で松濤に憎悪の視線を向ける同行者辻川。ロシアの中国人組織を牛耳る男、郭大人。 そして松濤の捜索の支援をする人物も移ろいゆく。サトの実家で知り合い、道連れとなった小田切千佳、小樽の町で知り合った香坂蘭子と名乗る中国系の武器密輸行商人、そして「少尉」と呼ばれる千佳の面影を湛えた男。中国人組織に敵対するロシア警察の副署長カマロフと切れ者の部下ゼレージン。そして氷川に協力するブリヤート兵の長テンゲル。 明日の敵が今日の味方―正確には松濤を利用する側なのだが―、昨日の味方が狙うべき標的に目まぐるしく変わる。密かに慕う綾乃の、鍬形を捜してほしいというたった一人の願いで、松濤はソ連を取り巻く抗争の荒波に翻弄される。しかし、そんな松濤の行動原理は鍬形の捜索というかつて愛した女性綾乃の依頼よりも途中で出逢った小田桐千佳の存在によるところが大きい。 『君の名は』の如く、逢いたくてもなかなか逢えない2人。そんな2人が困難の末、ようやく逢えたというカタルシスを得られるシーンが少ないのが物足りない。ストイックな松濤がかなり年下の千佳に遠慮して自分の愛情を表に出さず、内心忸怩たる思いをしているのもこの長丁場を持たせるには結構きつい物があった。 上中下巻合わせて総ページ1,500弱の大作。上に述べたように主人公松濤の運命も起伏に富んでいるが、なぜか読後のコクが薄いように感じた。 それは物語の舞台が上越から小樽、そしてソ連国内の各所と次々に移るにしても、全てそれらは極寒の地。つまりそれぞれの追跡行が極寒の山中のシーンばかりなのだ。つまりこれこそが谷氏の得意とする分野なのだが、こう何度も続くと単調さは拭いきれない。発端→極寒の山中→新たな出逢い→極寒の渡海→捜索→極寒の中でのドライブ→極寒の山中での逃走・・・と終始こういった具合だ。 これほどの大作となるとやはりもっと色んなジャンルがミックスされた展開を期待してしまう。いや確かに山岳小説、エスピオナージュ、歴史小説といった側面を備えてはいる。が、上に述べたように本作は似たようなシーンの繰り返しで冗長な感じを受けてしまった。表現も今までの山岳小説に見られたものが使い回されていたのも気になった。 さらに先に述べたが、松濤と千佳との2人のシーンが松濤の内面描写だけで、2人の意思が通じ合うシーンが表立って出てこなかったのもやはり大きい。 私はロマンス小説は読まないが、やはりここまで松濤の一途な思いを描けばそういうシーンを求めるのが普通だろう。作者の照れ故か解らないが、プロローグにあれだけロマンティックなシーンを用意したならば、それに応えるエンディングも必要なのではないか。そうする事で題名の意味も補強されるだろうし。 しかし同じようなシーンが続くとはいえ、これだけ展開の目まぐるしい小説は韓流ドラマのような趣きを感じた。案外テレビでドラマ化すれば受けるかもしれない。 |
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村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』の好評を受けて、早川書房がチャンドラーの全短編集を改訳し、発表順に編纂した独自の短編集第1弾。
創元推理文庫の短編集も併せてチャンドラーの作品は全て読破したと思っていたが、いやいやまだまだ未読の作品があったのだ。こういう作品が入っていないとこういう企画物には手を出さない私。逆に云えば、未読作品があるということで本の虫が騒いでしまった。 それでその未読作品というのが2作目の「スマートアレック・キル」と6作目の「スペインの血」だ。 「スマートアレック・キル」はダルマスという名の探偵が主人公。脅迫を受けているという映画監督の依頼から麻薬の密売と酒の密輸に関するいざこざに巻き込まれるという話。 2作目にして、流れに任せるような形でどんどん物語は進んでいき、これまたどんどん一癖も二癖もある男女が出てくるが、プロットはしっかりしており、明かされる真相は納得がいくし、かなり練られた物だなと思う。禁酒法なんか出て来た日にはもろハードボイルドだなと思った。なお題名の意味は「利口ぶった殺人」。依頼人デレクの自殺を装った偽装殺人を指している。 「スペインの血」はチャンドラーでは珍しく警官が主人公の話。とはいってもやはりチャンドラー、描く警官像が違う。サム・デラグエラという純粋スペイン人を主人公にし、周囲の差別に屈することなく、殺された友人の事件の担当を外されながらも自らの主義に従って捜査を進める。 このデラグエラの造形がいい。スペイン人であることに誇りを持ちながらも組織の中で疎外感を感じている。しかしその事は決して表面に出さない。一人の時には弱さも見せる。人に好かれたいと思っており、女性の罵倒にめげる女々しさもあるが、自らの矜持は絶対に捨てたくない。そして仕事は決して諦めない。しかし正義を盲目的に振りかざすでもなく、他者との折り合いも付ける。自分の目的・利益を損なわない限りでは。 チャンドラーがもし警察物を続けて書いたとしたら、このデラグエラを主人公に添えただろう。それもまた読んでみたかった。叶わぬことではあるが。 残りの4作は再読物。 1作目「ゆすり屋は撃たない」は探偵マロリーが主人公。女優が若かりし頃に書いた手紙がスキャンダルのネタになるとの事でそれを取り戻すよう依頼されたマロリーがその女優が誘拐されると同時に自らもまた悪徳警官に連れられてしまう。 「フィンガー・マン」でようやく我らがフィリップ・マーロウの登場である。市の有力者であるマニー・ティネンがシャノン殺しに関わっていたとされる証言を大陪審にしたかどで、マーロウはティネンの友人であるこの街の影のボス的存在フランク・ドーアに狙われる羽目に。しかし、そんな中、友人のルー・バーガーからボディガードの依頼をされる。カナレスのカジノでぼろ儲けをする手があり、ついては帰りの護衛をしてほしいとの以来を渋々引き受けたフィリップだったが、カジノの帰りに暴漢に遭い、そしてルーが殺されてしまうという最悪の結果を招く。しかしそれはフィリップに冤罪を着せるためにドーアが仕組んだ罠だった。 「キラー・イン・ザ・レイン」の主人公には名がない。単なる「わたし」という名の探偵だ。本作は『大いなる眠り』の原形とされる作品。 トニー・ドラヴェックなる大男から娘カーメンをスタイナーという男から取り戻してほしいという依頼を受ける。スタイナーはポルノ関係の本やフィルムの貸し出しをやっている男だった。わたしがスタイナーの家を訪れた矢先に家中より銃声が響き、スタイナーが死体となって横たわっており、全裸の女がカメラを前にして椅子に掛けていたが、薬中で意識が朦朧としていた。その女カーメンをドラヴェックの家まで届けた私だったが、カメラからカーメンが映っている乾板を回収する事を忘れた事に気付き、再びスタイナー邸を訪れるが、死体は既になく、しかも乾板も無くなっていた。 そして「ネヴァダ・ガス」。ヒューゴ・キャンドレスは自分の車を偽装した毒ガス車に乗り込み、殺されてしまう。それが全ての始まりだった。たれ込み屋のジョニー・デルーズはモップス・パリシを警察に売ったことで命を狙われる事を恐れ、街を離れようとするが、悪漢に連れられてしまう。そしてあの毒ガス車に乗せられてしまうのだった。しかし、咄嗟の機転で難を逃れたデルーズは自分を襲った相手に報復するため、再び街に舞い戻る。 再読してやはり面白いと感じたのはこの「ネヴァダ・ガス」だ。他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。 そして全ての短編に共通するのはその流れるようなストーリー展開でどのような着地に落ち着くのか全く先が読めないことだ。 正直、1作目の「ゆすり屋は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。 しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。 そしてこれらの短編に出てくる探偵マロリー始め、ダルマス、そして「キラー・イン・ザ・レイン」のわたしもまたマーロウの原形だろう。しかし、やはりマーロウ登場の「フィンガー・マン」を読むとやはりマロリーもダルマスもマーロウの原形とは云いながらも、やはりマーロウは彼らとは一線を画した存在だと云わざるを得ない。 自身が命を襲われる事態でありながらも友人の頼みとあらば堂々と世間に身を晒すし、女の涙には騙されない。権力者にも屈しない、苦境に陥っても(表面上は)動じず、脅迫されても主義は曲げない。警察にも一目置かれている(後の作品では警察からも睨まれる存在になるが)。 そして今作におけるフィリップ・マーロウは「マーロウ」ではなく「フィリップ」の方だ。そう、若いフィリップ・マーロウだ。銃撃戦にも身を投じ、不利な状況も機転と行動力で自ら脱する。これこそフィリップだ。 また表題作にはその後のマーロウの名作の萌芽が見られた。プロットは『大いなる眠り』だが、大男ドラヴェックは『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイの原形だろう。全ての長編を読んだ今、こうやって改めて彼の短編を最初から振り返るのはチャンドラーの原点を知る意味では最良なのかもしれない。 そして今回、もっとも痛感したのが、チャンドラーが小説で描きたかったのがプロットではなく、ストーリーだったのだという事だ。彼はロスという街のもう一つの貌を描きたかったのだ。強請りやたかりで生計を立てる卑しき男どもの姿を。そんな男たちがやることなのだから筋が通っていなくて当たり前なのだ。なぜなら彼は彼らの矜持に従って生きている。彼らの主義を貫く事で生きているからだ。そして誰しもが他を出し抜こうと虎視眈々とチャンスを窺っているのだ。だからストーリー展開が先が読めない。これを読んでその面白さが解らない人がいるならば、理解する観点が違うのだ。チャンドラーの小説は理解する小説ではなく、雰囲気を味わう小説、小説世界の空気を感じる小説なのだから。 そしてもう1つ今回発見したことがある。この短編集に収められている作品に共通するのは、主人公である探偵の依頼人は全て最後に死んでしまうという事だ。 彼らは警察にも届けられない厄介事、もしくは誰にも相手にされなかった危険な揉め事を解決する最後の駆け込み寺として探偵の許を訪れる。チャンドラーはそこに救いを与えていない。これら初期の作品群は特にそうだ。 窮境に陥った者は人に頼ってはその運命からは逃れられないのだ、自ら克服していかなければならないのだと云っているわけでもない。みんな弱いのだ、そして探偵さえも、そう述べているように思える。一か八かの最後の賭けに出た者がそうそう成功するわけではない、しかしその印象は非常なまでに切って捨てているように見えないから不思議だ。みな踠きながらも一日一日を生きているのだ、その姿を描いている。 そしてそれは決して美しくない。みな卑しき街の住人なのだから。真っ正直な人間など実は一人もいなく、警察さえもそう。それが本当の世の中なのだ。それをチャンドラーは書いた、その思いがこれらの作品に込められている。 最後に今回の題名について。今回採用されている英単語をそのままカタカナ表記して題名しているというのはやはり、というかかなり抵抗を感じた。 「スマートアレック・キル」は「利口ぶった殺人」の方が、「フィンガー・マン」は「指さす男」もしくは「密告した男」の方が、そして表題作は「雨の殺人者」の方が断然いい。今の日本語で改訳するという今回の試みは非常に好ましく、その志に大いに賛成しているのだが、なぜ題名は「今の日本語」に改訳しないのか、かなり疑問が生じる。それとも英語が珍しくなくなった今、カタカナ表記こそが「今の日本語」なのか。 私はこれに対して断然NOを唱える。だから星は1つ減点。題名も内容の一部と考えるからこそ。 |
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単なる山岳小説と思って読むと、面食らうような内容だった。発端の導入部は単にマックスという男の特徴を印象付けるためのエピソードだと思っていたが、作者は初めから「これは単なる山岳小説ではありませんよ」と警告を促していた事がわかる。
主人公たちの行動を左右するのは実にスピリチュアルな現象である。主人公である日本人2人、筧井宏と加藤由紀は、イギリス人の2人、ジョージとデニスの「口寄せ」をし、登攀で訪れる悲劇を回避しようとするのだ。この小説はまさにこの非現実的な設定にノレるかノレないかに懸かっているといえる。 私はどうだったかと云えば、微妙だとしかいえない。 それはこういう現象を絵空事として簡単に否定できないからだ。 私の想像の範疇を超えた話だからでもある。 他の作家の山岳小説を読んだことがないので比較にならないが、谷氏の書く山岳小説は長編・短編含めてどこか宗教色が濃いものがあるのが特徴だと思う。 今回扱っているのはシャーマニズムだが、これまでにも輪廻転生や因習、呪いなどがテーマになっている。 それはこの作者が自ら世界の山々を登る登山家であることが大いに起因しているだろう。特にヒマラヤを題材にすることの多いこの作者が、ネパールやチベットの宗教色濃い習慣、考え方、しきたりに少なからぬ影響を受けているのは間違いない。 そして前にも述べたが、彼自身、極限状態のときに神の配剤としか考えられない事象を経験したのではないだろうか?だからこういう作品を何の迷いもなく書けるのだと思う。 迫力の登山シーン(特に唾棄すべき男にあえて唾を吐かなかったのが、貴重な水分を無駄にしたくないという描写には非常にリアリティを感じた)と超自然的現象である「口寄せ」、そして予知視、もしくは幻視。現実と非現実が渾然となったこの作品。 一見アンバランスに思えるが、地球上で最も宇宙に近く、酸素の薄い場所においては何があっても不思議ではないという作者からのメッセージなのかもしれない。 |
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亡命者をテーマにした5つの短編を集めたもの。
最初の2編は男と女に纏わるKGB高官の話。 「パメラの写真」はアメリカ人女性パメラと結婚するため西側への亡命を図っているKGB大佐イワン・セロフが主人公。東ベルリンからベルリンの壁を抜けて西ドイツへと亡命する計画を立てたセロフ。微に入り細を穿ったその計画はまさに完璧と思われた。そしていよいよ実行の日が来た。 続く「二重亡命」はモスクワ勤務を命ぜられてから夫婦仲がぎくしゃくしたススロフ夫婦が主人公。イギリスへ亡命したススロフの後輩の信用失墜のため、アメリカへの偽亡命を計画する。 3編目「革命家」はリビアへ国外逃亡した元日本赤軍のヤマダ・ノブオが主人公。これは上の2編とは違い、平和な国で革命家として名を轟かせたい男の野心の話。パレスチナ解放機構の一員であるアハメドという名のテロリストに接触したヤマダはイスラエル首相とエジプト大統領の暗殺を依頼される。自分の名を売るチャンスとばかりにヤマダはその話に乗るが・・・。 「スパイ教官」は先の2編とは逆にCIAからソ連へ亡命したジョー・リバーズが主人公。アメリカからロシアへ亡命したリバーズはKGBでアメリカへ派遣するスパイの養成を行っていた。しかし、リバーズは今日こそがその日と疑っていなかった。今まで待ち続けたその日が来たのだと。 最後の表題作は2編目の「二重亡命」同様、偽亡命を扱ったもの。自らが手塩に育てたブーニンがアメリカに亡命した事でノスコフは第一管理部長の座を危うくしていた。部下であるパーノフと考え出した策はかつての上司であった自分がアメリカに亡命し、微妙に事実と違った情報を流す事でブーニンの信用を失墜するというものだった。それは同時に東京へ赴任している別の工作員の亡命を牽制する役割を果たしていた。提案はすんなり通され、ノスコフはアメリカへの亡命に成功する。毎月第5の日に故国へ帰ることを夢見ながら、ノスコフは確実に任務をこなしていく。 上に述べたように、内容的に重複する物も多く、この亡命者をテーマにした場合に意外とヴァリエーションが無い事に気付かされる。亡命者が亡命する際の緊張感、どのような緻密な計画を立てるのか、果たして成功するのか否かというのが亡命物のメインとなるのだが、短編である本作においてはその辺が軽く書かれており、フリーマントル自身、短編である事を意識して最後のどんでん返しに主眼を置いて著したようだ。 自らの謀略に溺れる者、自らの野心の炎に焼き尽くされる者、国から見離された者。ここに述べられているのは彼らの姿だ。 偽亡命物が5編中3編と最も多く、特に「二重亡命」と表題作はほとんど一緒といっていい。 前者がスパイの夫婦の確執に主眼を置き、物語がいきなり閉じられるのに対し(あまりに唐突に終わるのでビックリした。結局オチは何なの?)、後者は計画の裏側に暗躍する権力争いを主眼においているのが違う。前者から派生したような物語だ。 また4編目の「スパイ教官」はチャーリー・マフィンシリーズの1編(『亡命者はモスクワをめざす』)にも同様の設定が見受けられた。どちらが卵で鶏かは不明だが。 ストーリーテラーとして名高いフリーマントルだが、短編となるとどうしても似てしまうようだ。彼お得意のどんでん返しも長編の焼き直しのような感じがして、物足りない。 この前に読んだプロファイラーシリーズの短編集『屍泥棒』の時も同様の感想を抱いた。この作者、やはり長編向きだと思う。 |
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竹内しのぶ25歳独身。短大卒の大路小学校教師。丸顔の美人だが、ソフトボールのエースで4番を張っていた男勝りの姉御肌。彼女と彼女の教え子らが遭遇する5つの事件を扱った連作短編集。
「しのぶセンセの推理」はいきなり教え子の1人の父親が殺されるというショッキングな事件。 「しのぶセンセと家なき子」からシリーズのサブキャラクター田中鉄平が物語に大いに絡んでくる。 「しのぶセンセのお見合い」は新藤刑事の恋のライバル本間の登場する話。 「しのぶセンセのクリスマス」は本シリーズの中で一番奇抜な状況を扱っている。 そして最後の「しのぶセンセを仰げば尊し」は本作の掉尾を飾るに相応しいハートウォーミングストーリー。 大阪弁が軽快に飛び交うライトミステリ。しかし、小学校教師を主人公に扱っているが殺人事件の中には結構深刻な真相もあるので、子供が読むには高校生以上になってから読むのがいいかも。 しかし、十分大人である私にとっては逆に人間関係の陰惨さよりもノスタルジーを誘う事が多かった。 まず最初の1篇は真相に感心した。なかなか小説では思いつかない真相だと思う。 次の「~家なき子」はクラスに1人はいたゲームの達人というのが琴線に響いた。これもいたよ、やたらとゲームの巧い奴。私の時はファミコンも全盛だったが、ゲームの達人はゲーセンに一日中入り浸っていたんだけどね。 シリーズの折り返し地点の短編「~お見合い」で本間を登場させてシリーズにカンフル剤を打ち込む。逆に云えば、この短編からシリーズに彩りが出てきたように思う。しのぶセンセも恋相手が2人になり、魅力が行間から見えてきたように感じた。 そして個人的なベスト「~クリスマス」は殺人事件と思われる事件の凶器がケーキの中から現れるという謎が非常に魅力的。一見、その奇抜さのみ先行した設定かと思いきや、最後には鮮やかに凶器をケーキに隠した理由を解き明かしてみせる。 最後の「~仰げば尊し」は事件そのものよりもやはりシリーズの幕引きを飾るお話としての感慨が深い。もちろん布団干し中の墜落の真相は逆説めいていて面白いが。 ふと思ったのだがこれはもしかしたら北村薫氏に先行して所謂「日常の謎」系ミステリに成り得た作品集ではなかったということ。ファミコンゲームのひったくりやベランダからの落下の事件は正にそう。 基本的に「日常の謎」系ミステリは人が死ななくて、日常に潜む些細な謎、違和感に隠された意外な真相・思いがけなかった悪意を導き出すのだから、常に殺人が絡む本作品集ではそこが条件的に成り立っていない。そこが非常に惜しい。 そしてシリーズ全体を通してみると、作者が定石に乗っ取って各短編を紡いだ事が解る。 まずは主人公の紹介。次の短編でシリーズ全体を通して出てくるサブキャラクターの紹介。中盤において恋のライバルの登場。最後に締めの1編。正に淀みがない。 そしてこの頃から作者が色んなジャンルへ挑戦しているのが窺える。 デビュー作以降、主に学生時代を舞台に青春ミステリを書いてきた作者だったが、前作『ウィンクで乾杯』ではパーティ・コンパニオンを主人公にしたトレンディ・ドラマ(古いなぁ・・・)風ミステリに、本作では学校の図書館においてある『ズッコケ少年探偵団』シリーズのようなジュヴナイル・ディテクティヴ・ストーリーに挑戦している。そしてそれらにおいてもきちんと水準を保っているのがやはりすごい。 最後の短編で一応のお別れを告げたしのぶセンセ。しかしこのシリーズ、もう1作あるので、この後、どのような展開をするのか楽しみだ。 しかし、前にも述べたが、ホントこの作者、タイトルに対して頓着しない。『浪花少年探偵団』といっても活躍する少年はせいぜい2人である。題名よりも中身で勝負という事か。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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HM卿最後の長編。カー自身も最後の長編だと意識していたのか、本作には過去の作品に出て来た人物達が見え隠れする。
依頼人のヴァージニアの友人には『青ひげの花嫁』に出て来た弁護士が出てくるし、HM卿の執事は『青銅ランプの呪い』で出て来た当事者であるヘレン・ローリングに仕えていたベンスンだったりする。そして最後でありながら、実に微妙な謎を扱っており、非常に興味深かった。なんせ密室状態の中で盃の位置がなぜかずれており、なぜ犯人はこの盃を盗まなかったのかというのがテーマだからだ。 そしてその真相は正に本格ど真ん中。手品のようなミスリードを披露してくれる。が、本作のもう1つの魅力である密室の謎は正直がっかり。 そしてもはや恒例となっているHM卿の奇矯な振る舞いは本作においても踏襲されており、なんと今回は教会の夕べの集いにて歌声を披露するためにイタリア人の教師に師事しての歌の稽古中なのだ。そして『仮面荘の怪事件』や『赤い鎧戸のかげで』などでも見られたように、この奇抜な演出が事件の解決に一役買っているのだから畏れ入る。最後の最後まで生粋のエンターテイナーぶりを見せてくれる。 そして本作においてカーは登場人物の口を借りてミステリ論を開陳する。曰く、 (探偵小説は)手のこんだ、洗練された問題を提起して、読者にも謎ときの機会を公平に与えてくれるものでないと(いけない)。 さらに曰く、 問題は謎(中略)。謎が単純だったり、簡単だったり、謎でもなんでもないときは読む気がし(ない)。 まさしくこれこそカーが未来の本格ミステリ書きに託したメッセージではないか!それは2007年の今、まだ連綿と受け継がれている。カーの精神は確かに受け継がれたのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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物語は当初黒子が語る東亰に巣食う魑魅魍魎たちの起こす怪奇な事件をあまねく語り上げ、やがてそれらの怪事件を新聞記者の平河新太郎が香具師の万造と共に解き明かす構成を取っている。従って最初に見られた歌舞伎調の語りは次第になりを潜め、普通の文体へと変りゆく。
この歌舞伎調の語りが読み始めは小気味よく、江戸怪談の趣きに溢れており、かなりの力作だなぁと感嘆していたが、読み進むうちに通常の文体に移行するにつれてどうもしっくり来なく感じた。 というのもこの作者があえて明治時代の「東京」を語るのではなく、現在の歴史とは違ったパラレルワールドである「東亰」を設定したのには、これら魑魅魍魎の跋扈する異世界を描きたかったのが狙いだったと思ったからだが、にもかかわらず、出てくる人物名に板垣退助だの井伊直弼だの中江兆民だの歴史上の人物が、此の世界において成した同じ事件の数々の当事者として出てくるからだ。 おまけにそれら怪異の事象は全て人間のなせる業であるという、云わば怪奇小説に見せかけた推理小説だという物語の流れに半ば裏切りにも似た感情を抱いてしまった。 しかし、そこはこの作者。やっぱり解っていた。 ここに来てようやく作者の狙いが判明する。 明治維新後、文明開化の名の下、西洋化が蔓延り、街には瓦斯灯が点りだす日本にかろうじて残っている闇。しかし文明化の足音はこれら闇を排除し、神仏やまじないなどといった実体のない物までも排除する風潮が流れる。こういう伝承こそこと大事なのだと、そしてまだ魑魅魍魎がいても可笑しくない闇の残る明治時代の「東亰」をあえて舞台にした作者の世界観はやがて同年に発表された『姑獲鳥の夏』の京極夏彦に引き継がれることで一つのジャンルとして結実する。 作品自体はやはりまだ完成されていない原石のような肌触りが残るものの、その後、京極夏彦が起こした妖怪小説の大きな流れを思うと、後世に残した功績は大きい。エポックメイキングな作品として残るべき作品だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2時間サスペンスドラマ用といってもいい軽めのミステリ。読んでいて映像が眼に浮かぶし、実際に一度映像化されているようだ。
一介のコンパニオン・ガール香子が事件を調べる事を可能するにするために彼女のアパートの隣りに軽いノリの若い刑事芝田を引越しさせるという設定もご都合的だが、まあ良しとしよう。 たった300ページ足らずの本書だが、そんな中にでも密室殺人事件が取り上げられている。初期の東野作品は本当に密室物が多い。恐らく素人時代に色々なトリックを案出してストックしていたのではないだろうか。 今回はドアチェーンを使った密室トリックである。このトリックはギリギリ解明シーン前に答えが閃いた。しかし、犯行に至るプロセスはパズルのようなロジックで、しかも第2、第3の真相を用意しているのだから畏れ入る。そして主人公香子とちょっと間が抜けていつつも鋭い閃きを発揮する若き刑事芝田、そして理想の独身男性像を受け持つ高見などなど、キャラクターにも特色があり、単純な推理小説以上の面白みもある。こういった小品にも手を抜かないその姿勢には感心した。 しかし毎回思うが東野のタイトルのセンスにはちょっと疑問が残る。『放課後』、『卒業』、『秘密』、『片思い』など素っ気無い物、『ある閉ざされた山荘で』、『容疑者Xの献身』、『使命と魂のリミット』などすわりの悪い物など数あり、今回も『ウィンクで乾杯』と正にキオスクノベルスど真ん中だなあ。 しかもこれは改題されたもので原題は『香子の夢』なんだからあまりに素っ気無い。 今はネームヴァリューで売れるからいいものの、この頃はまだまだ新人で早く売れたかったろうに意外と淡白だ。それがこの作者らしさなのかもしれないが。 |
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いつもと変らぬ日が続くものと思っていた矢先の突然の異常事態。
今回のクーンツは怪物が登場するわけでもない、超能力を持った人間が出るわけでもなく、妻の誘拐という日常を襲う突然の凶事をテーマにしているので、逆にいつも以上に逼迫感があった。 クーンツは導入部が巧いとよく云われるが今回もその評判にたがわぬ求心力を持っている。いきなりの誘拐犯からの電話から始まり、そして街を歩いていた人がいきなり撃たれて死亡する。そして現れた警察は明らかに自分を疑っている。のっけからどんどん主人公を追い込んでいく。 そして兄から明かされる誘拐事件の真相。一介の庭師に訪れた凶事が実は犯罪に手を染めていた兄に起因しているとは。しかも偏狂的な教育者の両親に育てられ、半ば性格を歪められた兄弟の中でも優秀で人を惹きつける魅力溢れた兄その人が実は狂える犯罪者だったという事実。ここら辺の畳み掛けはクーンツのもはや独壇場だろう。よくこんな設定思いついたものだと感心した。 その後も主人公ミッチェルは息つく暇もないほど追い詰められる。手の汚れた資産家によって、離れた荒野に連れられ、始末されそうになったり、尊敬していた兄に打ち勝ち、金を得るも、その直前でタガートの訪問を受け、気絶させたり、そしてそのために警察に追われたり、逃亡の際に車を盗もうとしたのがばれて、警察に包囲網を敷かれたりと色んな仕掛けを用意してくれる。 ここまで主人公を窮地に追い詰めながらも、常に物語はハッピーエンドに締めるのがクーンツの特徴なのだが、今回はその物語の収束の仕方があからさまに唐突だったのにビックリした。 奥付を見ると2006年の作品であるから新作であるのには間違いないのだが、この飛躍的な物語の決着のつけ方はかつてのクーンツの悪い癖を彷彿させた。アメリカを代表する作家のやる仕事ではないのではないかと率直に思う。 今回の作品の底に流れているのは、人は愛のためにどこまで出来るのかというテーマだ。物語も大きく3章に分かれており、それぞれ「愛のために何をするか」、「愛のために死ねるか。人を殺せるか」、「死がふたりを分かつまで」という風に愛を至上としてどこまで自己犠牲出来るかと謳っている。 そして今作品のタイトル『ハズバンド』に込められているのは、妻が愛の誓いを立てた者は夫のみなのだという思いだ。これは結婚式によくある誓いの言葉なのだが、これを単なる台詞でなく、主人公の行動の原動力としているところがすごい。あんな常套句を元にこういう物語を考えるのだから、それはそれでクーンツの非凡なところなんだろうけど。 とどのつまり、ひっくり返せば本作においては愛の名の下では、何をやっても許されるのだと開き直っている感じがしないでもない。だから最後に物語を剛腕でねじ伏せたのか。それともこれはクーンツが実の妻に宛てたラヴレターの一種なのか。う~ん、変に勘ぐってしまうなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとカー作品で怪盗物が読めるとは思わなかった。しかもその怪盗が実に変っている。銃を携帯しているが人は殺さず、唯一2人だけ怪我を負わせた程度。そして最たる特徴は猿の顔の意匠がついた鉄の箱を常に携えているというのだ。
そして本作の謎はこの怪盗アイアン・チェストが何者なのか、そしてコリアーがほんの数秒の間にどうやって鉄の箱とダイヤ原石の山を部屋から消したのかが焦点となっている。 今回のカーはかなりフェアプレイに徹したと思う。文章をよく読めば、アイアン・チェストの正体は解るし―実際、2人に絞っていたが最後の対決シーンで私も解った―、そこから最後に明かされる鉄の箱の真相もなるほどと納得が行くのである。 しかし、それでもやはり怪盗が嵩張る鉄の箱を携えているという設定には無理を感じる。HM卿はそれを怪盗の顔を忘れさせるためのガジェットだと論じているが、盗みに入る者が逆にそんな目立つ物を持ってくるだろうか?ただでさえ、帰りには盗品という荷物が加わるのに。こう考えていくと、本作ではまず鉄の箱のトリックが先にあったのではないかと思う。これを利用したいがために怪盗物の物語を肉付けしたのではないかと思えるのだ。実際、本作においてこの鉄の箱消失トリックはなかなかに面白く、そしてカー以外、考え付かないだろうというバカバカしさも孕んでいるのだ。 今回の物語の舞台はタンジールという北アフリカの国(市?)であり、ここではスペイン語、フランス語、アラビア語が公用語として使われている。英語は教育を受けた人たちでもわずかでしか喋る事が出来ないところであり、警視総監のデュロック大佐の勘違い英語も本作におけるギャグの1つになっている。 そしてHM卿の登場シーンは回を重ねる毎に派手になり、しかもよりドタバタコメディの度合いを強めているが、今回は本当に傑作!なんせお忍びで来たはずの―しかもハーバート・モリソンなる偽名まで使って!―訪れた旅先で、一国の大統領差ながらの手厚いセレモニー付きのお迎えと遭遇するのだから抱腹絶倒ものだ!しかもこれが事件の一連の捜査に密接に関わっているのだから、驚きだ。いやはやカーの隙のない演出に感嘆してしまった。 そしてこの異国の地において、HM卿は新たな一面、いや二面、三面を見せてくれる。まずは出鱈目なアラビア語を駆使してムーア人の心を摑むだけでなく、アラビア人の扮装をして、聖者さながら輿に乗って街を練り歩く。更には暗闇から襲い掛かるアラビア人の刺客を身軽に交わし、何の躊躇もなく、喉を掻っ捌くし、ボクシングの野試合ではレフェリーをも演じると、今まで観たことも、聞いたこともない設定が続々と登場する。特に本作においては従来の滑稽なデブのおっさんではなく、数々の修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の人物として描かれている。 今まで述べたように、本作ではHM卿の色々な面を見せつつ、密室からの大きな鉄の箱の消失とたくさんのアイデアが放り込まれているのだが、総じて考えるとやはり全体のバランスに欠いているように感じる。それは前にも述べた怪盗が鉄の箱を携えて盗みに入るという設定に非常に無理を感じるのだ。 更に加えてこの題名。題名に書かれている赤い鎧戸とは怪盗の相棒コリアーがタンジールで借りた部屋の目印として宿主に塗らした鎧戸のことだ。この影で行われた事が謎の中心だとカー自身、断っているのだろうが、ちょっとそぐわない感じがする。 それも含めて考えると本作はやはり佳作の域を出ないだろう。 |
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いやあ、いいね、この世界観。大友克洋氏の『アキラ』に通ずるものがある。
谷氏のSF小説は初めて読んだが、実に躍動感があり、物語世界の構築がしっかりしている。山岳冒険小説よりもこちらの方が好みだ。映像化するなら押尾学、マンガ化するなら、士郎政宗氏か先に挙げた大友克洋氏あたりだろう。 何よりも登場人物が非常に魅力的だ。 男から性転換したエリコを筆頭に、類い稀なる怪力を誇るエリコの幼馴染みでルームメイトの女、胡蝶蘭(カチョーラス)。20世紀から生きているという噂のある情報屋、源爺。姑との軋轢であえて老婆に変る手術を受けた30歳の“老婆”、咲夜姫。長髪で中性的な容貌を持ちながらも、強引な捜査で危険の香りを漂わせる刑事、愛甲ヨハネ(これはいささか少女マンガ趣味ともいえるが)。エリコのクローンでありながら、残虐な貌とかつての弱かった男性時代の性格を併せ持った慧人ことワイレン。倒錯性交ショーの司会者でありながら、エリコを支援しつつ、寺尾医師との愛に身を投じるミズ・ヤンことシャオチン。風体の上がらぬ風貌で、ぼやきを呟きながらも警察たちを出し抜く探偵、棚橋。 彼らに加え、動物の組織を埋め込む違法な手術を受けた改造人間(フリークス)が横行する。サイの角と怪力を移植された一角獣。犬の鼻と脳を移植された殺し屋、などなど。 そして舞台は大阪、上海、東京から月面研究都市クラヴィウスと移っていく。 谷氏の描く未来像は派手派手しくなく、淡々と描写するからすっと頭に入っていくように感じた。月面へ降り立つシーンからクラヴィウスの景観など、よくある作者独自の逞しい想像力で構築した未来テクノロジー理論を熱く語り、どうだ、すごいだろうといわんばかりに読者をその世界観に引き入れようといった肩肘張った印象がなく、そこにあるかの如く語る筆致には好感が持てた。これは数多存在する少し先の未来を描いた映像が横行しているおかげなのか、それとももはやここに書かれていることが絵空事でなく、そう遠くない未来であるように認識できているからかもしれないが。 この物語において一番意表を突かれたのは主人公エリコ、その人だ。男から性転換した娼婦という設定ならば、通常は美人でありながら腕っぷしも立つ、そう田中芳樹氏のシリーズキャラクター、薬師寺涼子のようなイメージを抱いていたが、谷氏はあえて逆を行った。北沢慧人という男でありながら女性として生きる道を選んだエリコは、虐げられていたひ弱な過去と、どこか自分が普通とは違う違和感に対して正直に向き合った結果であり、女性となり、類い稀なる美貌と絶妙なプロポーションを持ちながらも、逆に元男ということで美女に対して引け目を感じるようになっているのだった。 なるほど、そういえばそうなのかも知れない。男として劣っている事を認め、女性になる事を決意したエリコはいわば、逃避者なのだ。 そして見た目も心も女でありながらも、やはり女ではないことに時折気付かされ、心を痛める。その痛めた心を癒す拠り所は男勝りの腕力を誇る女性、胡蝶蘭の豊満な胸の中に抱かれるその時なのだ。これこそエリコの不完全さを表している。女性でありながらも女性の母性を求める、このアンバランスさはどうだろうか。 谷氏はあえてエリコを強いキャラクターとして描いていない。元男でありながらも華奢なその体はあらゆる敵から自分の身を守る術を知らない。胡蝶蘭、愛甲ヨハネ、シャオチン、棚橋らの助けがなければ全然苦難を乗越えられないのだ。 しかし、物語の終盤、エリコは自分が完全に女性になった事に気づく事で強さを得る。それは正に「母は強し」ともいうべき、精神的強さだ。男が完全に男を捨て去った時に強くなる。本書はエリコにこういう設定を持ってきたことが非常に特徴的なのである。 そして物語の後半に現れる巨敵、弘田という政治家。極端な選民主義者であり、他者を自分の野望を達成するための道具としてしか見ない男―家族までもだ!―。その男が唱えるスローガンに美しい日本人を目指すというのがあり、非常によく似た人がいることに気付き、苦笑した。1999年に書かれた本書において谷氏はこういう政治家が数年後に出てくることを予想していたかのようだ。 最後に、本書に出てくる「クラヴィウス事例」なる設定について。 端的に述べれば、月面都市に移住した各国の子供たちの中で突出した才能を発揮し、リーダーシップと執るのが日本人だというのがこの事例の内容だが、これはなかなかに面白い。過去の歴史と現在の世界を振り返れば、世界に散らばり、成功しているのはユダヤ人と華僑と云われる中国人であるのだが、ここで敢えて谷氏は月面で力を発揮するのは日本人とした。 私はこの設定を読んだ時に、ある話を思い出した。日本人というのは西から流れて最後に極東の地に辿り着く事が出来た民族だから強いのだという説があるそうだ。山岳登山家でもある谷氏がたびたび極限状態に陥ったときに垣間見た日本人の粘りとか強さなどもこの設定には反映されているのかもしれない。 |
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山岳冒険小説、SF小説の旗手、谷甲州が手がけたホラー短編集。山岳小説をモチーフにしたもの、SFをモチーフにしたものもあるが、この作者には珍しく、日常を舞台にしたものが多かった。
まず作者お得意の山岳やネパールを舞台にしたのが「背筋の冷たくなる話」と「猿神(ハヌマン)」。前者は雪山登山中に雪洞で一夜を過ごす事になった2人の男が怪異譚を語るうちにある物が現れてくる話で、後者はネパールの辺境の村を訪れた男が遭遇する奇妙な風習に男自身が狂気に囚われてしまう話。後者はネパールに伝わる猿神伝説も織り込まれて宗教を題材する作者ならではの短編。 その他はいわゆる純然たるホラー。妊娠や恋愛、または家庭や親族のしきたりなど家族をモチーフにしたものが多い。それらに土俗的な風習や呪いを絡ませてホラーに仕上げているのが目立つ。 特に「武子」は、「武子」と書いて「たけし」と読む名前を与えられた男の日常で困った事の話から、意外な方向へと進む構成は思いもよらない展開だった。 収録作の中では「鏡像」と「三人の小人と四番目の針」が個人的には評価が高い。 まず「鏡像」は恐らく誰もが子供の頃に抱いた鏡の向こうには鏡の世界があるといった原初体験を扱っているのが面白い。 「三人の小人と四番目の針」はよくもまあ、こういうことを考えたものだと感心した。時計の針をそれぞれ家族構成に当て嵌め、語る様は非常にしっくり来ていて面白かった。大人の夜の営みさえも時計の針の動きに擬えるのには笑ったが、そこから最後にぞくりと来るオチに持ってくるのがなかなか上手いと思った。 その他短編というよりはショートショートになる「おとぎ話」、タダ電話を掛ける男に降りかかる都市伝説のような出来事「制裁」―しかしこの中で堂々とNTTという実在の会社名を出しているのにびっくりしたが―が面白かった。 この前に読んだ井上氏の短編集『あくむ』がどこか歪に物語を閉じるのとは違い、谷氏の短編はどれもきちんと閉じられる。 しかしそれ以上に谷氏が山岳冒険小説やSF小説だけじゃなく、こんなのも書けるぞ!と高らかに唱え、証明した事が本短編集における収穫だろう。特に子供を主人公に書かせるとこんなに面白い物が出来るのかと驚いた。この路線の作品ももっと読みたいと思った次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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