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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。
そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。 さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。 本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。 まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。 それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。 街中で幸せを祈らせてほしいという修業に興味を持った松本が出くわす、マンションの1室で行われる講話、そしてひっきりなしの入会の勧誘、更に合宿と称した監禁状態での洗脳行為に暴利としてか思えない高額な参加費やテキスト料。 これらは作者自身が実際にその手の新興宗教の集会や講習、そして合宿に自腹を切って参加しないと書けないことばかりだ。もし彼が実際に入会したのであれば、新人賞の応募作品でここまで金を掛けて取材したことになり、その気合の入り方には驚かされる。 また新興宗教が実に“おいしい商売”であることも詳らかに書かれる。 本書が刊行された90年代初頭の時点で日本に存在する新興宗教の数は23万にも上っていたことや元手がかからず、出版物やグッズ、財施などでどんどんお金が入ってくること、宗教法人であることから税の優遇措置を受けており、さらに33種類に亘る収益事業を許されていること。 浴場業、料理飲食業、遊技業、遊覧所業、貸席業、理容業、美容業、興行業、不動産販売業、倉庫業、駐車場業、金銭貸付業とほとんどの業種が網羅されている。 これらは巨大な宗教団体が政治内部にも強いコネが古来からあることからこれらの優遇措置が認められてきた悪しき風習と云えるだろう。 ただこれほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。 どうにもこの男に対して嫌悪感が先だって罵詈雑言が止まらない。 微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。
さてその短編集の1作目は本書の表題作「ドランのキャデラック」だ。 妻を殺された相手に復讐するどこにでもいるような中年オヤジの奮闘譚というどこにでもあるような題材である。彼は頭の中に響く亡き妻エリザベス励ましの言葉にほだされて復讐の方法を思い付き、そしてその決行のために典型的な中年太りの身体を鍛え、そして工事現場で修業をして重機の運転を身に着ける。彼が思い付いた復讐とは敵が運転するキャデラックを偽りの工事の迂回路におびき寄せ、大きな落とし穴で敵の愛車キャデラックごと生き埋めにすることだった。 この実に荒唐無稽な復讐を成すために身体を鍛え、重機の運転を身に着けるというのはよくあるが、数学者の友人に自身が創作しているSF小説のためと偽って必要な落とし穴の寸法を割り出してもらうところはキングならではのディテールが細かさだ。いわゆる荒唐無稽な話をリアルにするアプローチの仕方が面白い。 そして復讐成就のために偽りの迂回路案内の看板を用意したり、復讐の相手が通る前までにただ一人でアスファルトを剥ぎ取り、巨大な落とし穴を満身創痍になりながら掘る一部始終は絶対不可能と思われる状況に立ち向かう冒険小説の主人公のようでなかなか面白い。 次の「争いが終わるとき」はハワード・フォーノイというとある作家の手記である。 いやはやこんな話を思い付くのはキングしかいないだろう。 とにかく手記を遺すことに拙速な作家の手記から始まり、やがて自身が超天才であることとさらに弟もまた誰も予想がつかないことを発想する超天才であることが次第にわかり、そしてその弟が発明した世界平和をもたらす蒸留酒へと至る。 何の話をしているのか皆目見当のつかない発端から、超天才兄弟の生い立ちと現在までの経緯、そして手記の体裁で語られることの意味が最後で判明する展開含め、物語自体に謎が含まれており、技術としてはかなり高い作品だ。 それに加えて最後のオチも面白いのだからキングはすごい。しかし繰り返しになるがこんな話、キング以外誰が思い付くだろうか。 次は厳格な教師が登場する「幼子よ、われに来たれ」だ。 生徒に慕われる者、生徒に見下される者、はたまた特に話題にも上らない者など教師にも色々いるが、本書に登場するミス・シドリーは昔気質のいわゆる“教室の支配者”のような厳しい教師で自分の授業中の私語は許さなく、また他の科目の教科書を開くことも許さない、生徒から恐れられている先生だ。 しかしそんな教師も異形の物に対峙すると1人の女性となる。 彼女が見たのは本当に異形の物だったのか、それとも気が触れた彼女の妄想だったのか。 生徒に舐められまいと厳格に振舞う先生が自分を恐れない生徒に出くわすと自身の精神基盤が不安定になることはよくある。自分の教義に生きる者ほど他者にもそれを要求し、それに従うことが当たり前だと思うようになるが、それが適わなくなると意外にも脆く崩れていく。 しかし本作の邦題は内容から外れているように思う。原題は“Suffer The Little Children”、つまり「幼子に苛まれる」だが、なぜ「幼子よ、われに来たれ」としたのだろうか。 次も異形物だ。「ナイト・フライヤー」は地方の小空港で連続する殺人事件を週刊誌記者が追う話。 オカルト専門の週刊誌では吸血鬼などは特別なものではなく、存在して然るべきらしい。私はこの話を読んでいるとき、そんなものをまともに追い求める雑誌があるのか判断つかなかったため、吸血鬼ありきで記者が取材していることになかなかのめりこめなかった。 この手の週刊誌がキングの創作か判らないがこの導入部をすんなり受け止めるか否かで物語の没入度が変わると思う。私はキングの作品を読んでいるにもかかわらず、妙に常識に囚われた頭で読んだのでのめり込むまで時間がかかってしまった。 キングが書きたかったのはこの手のベテラン記者であっても、本当のモンスターには恐怖を覚えることか。そしてその光景を一生抱えて生きていくと述べる記者の独り言は実に説得力ある。これぞ恐怖、これぞトラウマだ。 ちなみにこの週刊誌記者リチャード・ディーズは『デッド・ゾーン』に登場していたというのは作者の作品解説で知った。 またまた異形物が続く。「ポプシー」はギャンブルで多額の借金を抱えた男の悲惨な末路を描いた作品だ。 『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックが再び舞台となるのが「丘の上の屋敷」だ。本書の序文によれば本作が収録作中最も古い作品とのこと。 キングの数あるホラー作品のテーマの1つに“サイキック・バッテリーとしての家”というものがある。それは家そのものが住民やその土地に影響されて負のエネルギーを溜め込み、恰も生きているが如く住民たちに災厄をもたらすと云う考えだ。 本書はその系譜に連なる1編で、財を成すたびに増築を繰り返した住民が遺した屋敷に纏わる話だ。 そして上にも述べたようにその家が建つのはあのキャッスルロック。キングによって作られた町の1つであり、そして崩壊を迎えた町だ。つまり町そのものも忌まわしき因縁があり、さらにそこに建てられた屋敷もまた不穏な雰囲気をまとっている。また崩壊後のキャッスルロックに残された老人たちの物語が集って語るような退廃的な雰囲気も感じられる。キングが親しんだ彼が作った町への鎮魂歌とも云える作品だ。 最初に読み終わった時はこの話はキング特有の丘の上に屋敷を建てた事業家の盛者必衰の歴史を綴ったものかとだけ思ったが読み返すとこれは意志持つ屋敷の話だと気付いた。 本書最後の収録作の題名「チャタリー・ティース」はゼンマイ仕掛けの足がついた入れ歯のおもちゃの名前を指す。私はこの題名で初めて知った。 本作はキング作品のジャンルの1つ、“意志ある機械”のお話だ。機械とはいえ今回はゼンマイ仕掛けのおもちゃで、電気で動くものではない。今まで見たこともないほど大きなゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃを譲り受けた男の危機をそのおもちゃが救うと云う思い付いてもキングしか書かないようなお話だ。 読んでいる最中、荒木飛呂彦氏が漫画化したような映像が頭に浮かんだ。 冒頭にも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目だが、本書だけで320ページ弱ある。これが4冊続くとなると軽く1,200ページは超える分量。本書には7作が収録されているが、これだけで通常の作家ならばこの1冊で十分な分量である。 その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。 そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。 この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。 またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。 しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。 「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。 そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。 そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。 西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。 そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。 この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。久々唸らされた作品だ。 まだ3冊も残っているのにここでベストを上げるのは早計かと思われるが、そんなことは関係ない。それぞれを独立した短編集と捉えてとりあえずそれぞれの1冊でベストを挙げることにしよう。 しかしこの頃のキング作品がどんどん長大化しており、饒舌ぶりに拍車がかかっていると思っていたが、それは本国アメリカでもそうらしく、『ザ・スタンド』から『ニードフル・シングス』に至る作品群では書き過ぎだと非難されたとある。 大作家だからこそ、またページ数が増せばその分価格も高くなるからこそ出版社もまた読者も長大化ぶりを歓迎していたかと思ったが、やはり海の向こうでも読者の思いは一緒であったか。 しかしそんな非難を受けてもキングの創作意欲というか頭に浮かぶ物語は減らないようで、短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。 ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。 それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。
アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。 本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。 通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。 まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。 さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。 そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。 前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。 ヴェラ・ドノヴァンにはいわゆる彼女なりの流儀があり、それをきちんとこなさないと家政婦の職を首にされてしまう。2度同じミスをすれば給金が削られ、3度目のミスで首になる。その流儀は以下の通り。 シーツを干すときは洗濯バサミは4つではなく6つ使わなくてはならないこと。 焼き立てのパンを出したら置く棚の場所も決められている。 自分のことはミセス・ドノヴァンと呼ぶこと。 浴槽はスピック・アンド・スパンを使って磨くこと。 ワイシャツやブラウスのアイロン掛けの際、襟に糊をスプレーするときはガーゼをかぶせてから行うこと。 揚げ物するときは台所の換気扇を回すこと。 ゴミ缶はゴミが回収されたら近くにいる者が元の所へ戻すこと。その際ガレージの東側の壁に沿って2個ずつきちんと並べ、蓋は逆さまにして載せること。 ドアマットは週に一度ほこりが舞い上げるぐらい叩くこと。そして元に戻すときは必ず“WELCOME”の文字を外から来た人が読める方向に敷くこと、などなど。 特に凄絶なのは彼女の下の世話だ。キングはこの下の世話の戦いだけで20ページも費やす。 3時間ごとにおまるを持っていけばその都度、小を足し、お昼の排泄の時は大も一緒に足すが、なぜか木曜日だけは不規則でヴェラとの頭脳戦だったと延々と語られる。シーツを汚されるのが先か、見事おまるを用意するのが先か。もよおしていない時にあらかじめおまるをするのはヴェラにとっては言語道断。 そんなドロレスの“糞”闘ぶりが延々と描かれるのである。そして最悪なのはまんまと相手に出し抜かれ、痴呆老人の如くシーツのみならず、ベッドからヴェラ自身、そしてカーテンまでが糞まみれになった時もあった、なんてことまでドロレスは告白するのだ。 このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。 そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。 しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。 そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。 また彼女にはジョー・セント・ジョージと云う夫がいるが、これがキング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。 暴力亭主であり、定職を持たず、さらには自分の娘にも性的虐待を行うろくでなしである。 彼女はそんな夫との16年の結婚生活の間に3人の子を儲けた。長女のセリーナ、長男のジョー・ジュニア、次男のピート。これらの子供たちもまた父親に対して抱く気持ちは三者三様だ。 まず長男のジョー・ジュニアは暴力を振るい、怒鳴り散らす父親を恐れている。 逆に次男で末っ子のピートはジョーのお気に入りでジョーのように悪びれてそれを痛く気に入られて褒めてくれる父親を慕っている。 一方、娘のセリーナは少し複雑だ。 夫ジョーは家族に日常的に暴力を振るい、それはドロレスも例外ではなく、しばらくは耐えていたが、ある日抵抗してからジョーはドロレスに手出しをしなくなった。 それをたまたま見ていたのがセリーナで彼女はその時に母に脅され、血を流す父を見て可哀想に思うのだ。そして逆にそんなひどいことをする母親を憎み、彼女の代わりに父親に優しくしようと誓う。そして事あるごとにセリーナは父親の傍にいるようになるのだが、彼女が成長するにつれて父親は娘に“女”を感じるようになり、性的悪戯を仕掛けるようになる。 またセリーナは父親からいかに母親がひどい人かを刷り込まれていたので、そのことを母親にも相談できずに次第に家族の中で孤立していくのだ。 ヴェラ・ドノヴァンは次第にドロレスに心を許すようになる。そして時々、日曜か夜中に彼女は妄想に陥る。綿ぼこり坊主が襲ってくるという幻覚に囚われ、ドロレスに助けを乞うことが多くなるのだ。 最初ドロレスはそれが彼女の幻覚でそんな綿ぼこりはないにも関らず、追い払うふりをしてヴェラを安心させる。しかし彼女もまたその幻覚を見るようになる。 綿ぼこり坊主とは綿ぼこりのような生首で、目が両方ともでんぐり返り、口がポッカリ開いて、ギザギザの長いほこりの歯がびっしり生えている化け物だ。このイメージはまさにキングらしい。 そして弱みを見せられるのは相手を信頼をしているからこそだ。ヴェラが弱みを見せた時、ドロレスは彼女にとってなくてはならない存在となった。それはドロレスもまた同じだ。 皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。 その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。 さてキング作品は数多く映像化されているが、本書もまたキャシー・ベイツ主演で映画化されている。この65歳の老女の一人語りという実に地味なお話がどのように映像化されたのか実に興味深い。なぜなら上に書いたように結構生々しいシーンばかりがあるからだ。 しかしなかなかテレビ放映がないのは現代の放送コードをクリアできないからだろうか。BSあたりで是非とも放送してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カリ・ヴァーラ警部シリーズ4作目にして最後の作品。しかしそれは作者が想定していたシリーズの最後ではない。
既に有名な話だが、作者の交通事故死という不慮の死によって終結せざるを得なくなった最終作なのだ。 但し前作の感想で作者の夭折によって4作で完結となったこのシリーズは起承転結の結に当たる物語になるだろうと私は書いたが、果たしてどのようになっただろうか。 今回カリ達仲間が関わる事件は2つ。 1つはカリ・ヴァーラ自身に起こる数々の嫌がらせ行為の犯人を捜すもの。最初は脅迫状に包まれたレンガがガラスを割って投げ込まれたり、車の窓ガラスが全部割られたりと質の悪い悪戯の様相を呈していたが、やがて車の爆発と犠牲者を生むようにまでエスカレートしていく。 もう1つはカリの噂を聞きつけて訪ねてきたエストニア人の失踪した娘捜しだ。ヘルシンキで秘書の仕事があると云われて入国し、そのまま行方不明になったダウン症の娘の行方を探る。 1つ目の事件は内務大臣によってカリがサウッコの長男から奪った1千万ユーロを引き渡すための脅迫を行った彼の部下ヤン・ピトカネンの仕業だったが、内務大臣に手を引くように命じるも、今度は個人的な恨みでピトカネンは継続し、とうとう1人の犠牲者を生み出すようになる。 もう1つの事件はロシア大使館の人間が関わる人身売買組織が浮上する。カリはロシア大使の妻に接近し、いなくなった娘の行方を突き止める。 しかしこれらの事件はあまりメインで語られない。3作目でもその傾向はみられたが、本書でメインに語られるのは壊れてしまったヴァーラ夫妻の修復と彼らの命を付け狙う権力者たちを一網打尽にする工作の過程だ。 それらの物語は何とも痛々しい。精神的にも肉体的にも。 精神的痛みは何よりもまずあのケイトがカリ・ヴァーラの許を去ってしまうことだ。彼女は前作の事件で夫とその仲間たちを救うために犯人を殺してしまうが、それがもとでPTSDになってしまい、娘のアヌを連れて別居する。 それが前作での結末だったが、本書ではさらにアヌをカリの許において何も云わずアメリカに帰国してしまうのだ。彼女が戻ったのはジャンキーの弟ジョンの許だ。そこで彼女は人を殺めた自分は子供を育てるに相応しくない人間だと自責の念に駆られ、酒浸りの日々を送る。 1,2作の仲睦まじいヴァーラ夫妻を見ていただけにこの展開は何とも痛ましい。3作で確かにこの2人の関係は壊れてしまったのだ。 そしてそんなケイトをなお愛してやまないカリの想いもまた痛々しい。 しかしそれにも増して大怪我を負って不自由なカリとその娘の世話を献身的にする魅力的な美人看護婦、ミロの従妹ミルヤミのカリへの恋もまた痛々しい。 カリ自身も認める魅惑的でまぶしいほどの美人で知的で頭の回転が速く、ユーモアのセンスもあり、慈愛深く、親切で一緒にいて楽しく、そしてセックスアピールがものすごい。こんな完璧な美人であってもカリは妻への操を立てて魅力的を感じても決して抱こうとしない。 彼女はその時誰よりもカリを愛していた女性だったが、その恋は叶わず、涙に暮れる。特に自身の誕生日プレゼントとしてカリに抱いてもらおうと全裸で添い寝しながらも彼女を抱くことを頑なに拒むカリの隣でマスターベーションに耽る姿は何とも痛々しい。 しかし一方で前作で利き腕を犯人によって撃ち抜かれ、一生自由に動かせない障害を負うことになったミロは逆にそれまでの自己顕示欲の強さが前面に押し出されたいわば“大きくなった子供”の状態から大人の落ち着きと自信を持ち、成長した。 そして肉体的な痛さもまた本書は目立つ。 このシリーズはもともと1作目から陰惨な事件を扱い、死体に対する冒瀆的なまでのひどい仕打ちや痛々しい人の死にざまが描かれてはいた。 しかしこの4作目は折に触れ残酷な暴力シーン、殺害シーンが登場し、またはエピソードとして織り込まれる。 例えばピトカネンに雇われてカリのサーブの窓ガラスを割ったバイク乗りの1人をスイートネスは踏みつぶすように膝の裏から蹴りを入れて靱帯や腱を断ち切ればカリは仕込み杖のライオンの牙で脂肪を抉り取る。 スイートネスはイェンナと諍いになり、彼女に鼻を殴られて鼻の骨が折れ、横向きになる。それをカリは自己流でまっすぐにしようとして何度も失敗する。 また本書で初登場するスイートネスの従弟アイの生い立ちもすさまじい。 3歳の時にお菓子を取ろうとしたら母親に鉄のフライパンで叩かれ、手と手首の骨を折り、泣き叫んだところにさらに腹を立てた母親は煮えたぎるお湯にその手を入れて3日間放置したために神経が全て死んでミイラのような腕になってしまう。 このように、さながら流血だらけの残酷ショーのような強烈な描写がいつにも増して多かった。 私は本シリーズ第1作目の感想で作者トンプソンは扱っている題材と生々しいまでの陰惨な死体の状況が描かれていることからジェイムズ・エルロイの影響を多大に受けている感じを受け、このシリーズを「暗黒のLAシリーズ」に準えて、「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと書いた。 しかしその思いは本書を読み終わった今では少し変化している。 本書はフィンランド・ノワールともいうべき作品であるとの思いは変わらないが、一方でカリ・ヴァーラ警部のビルドゥングス・ロマン小説、つまり立身出世の物語でもあるのだ。 ヘルシンキ警察署殺人課の刑事で犯人追跡中に負った“名誉の負傷”によってフィンランドの一地方キッティラの警察署長となったカリ・ヴァーラは人種差別問題も含むソマリア系映画女優スーフィア・エルミ殺人事件解決を足掛かりに首都ヘルシンキ警察へ返り咲くも、夜勤担当の閑職を割り当てられ、優れたIQを持ち、MENSAの一員でもあるが、自己顕示欲が高く、人の秘密を知ることに執着するサイコパス気味な若手同僚ミロと組まされる。 しかし国家警察長官ユリ・イヴァロから“フィンランドの英雄”アルヴィド・ラファティネンの第2次大戦時のホロコーストの主導者としてドイツ政府からの引き渡しを食い止める任務を極秘裏に与えられ、なおかつゼネコン会社々長夫人殺害事件を担当して、思わぬ政府高官たちのスキャンダルのネタを掴み、さらにその困難な2つの任務をアクロバティックな方法で解決することで長官直々に非合法特殊部隊のリーダーに任ぜられる。それはマフィアらの麻薬取引資金、武器売買の資金を横取りして政治家たちの資金にするために組織された部隊だった。 そしてその部隊でカリは相棒のミロと用心棒的存在スイートネスら3人で次々とマフィアの金を奪い、麻薬不足で抗争が始まれば、自分たちに捜査が及ばぬよう抗争の犠牲者たちを極秘裏に消し去るという汚れ仕事を請け負い、さらにのし上がっていく。そして悪徳実業家ヴェイッコ・サウッコの息子誘拐事件を担当し、事件を解決するが、瀕死の重傷と愛妻ケイトとの別居という代償をいただくことになる。 そして本書ではそれまでの布石が一気に開放される。 作者の夭折によって本書はここまででシリーズを終えることになるが、私はこの結末でいいのではないかと思う。 「亢龍の悔いあり」という言葉があるように、上り詰めた者はあとは落ちるしかないからだ。3作目の結末で別居することになったケイトとの仲も彼女のPTSDからの回復とともに完全ではないが修復され、明るい兆しを孕んで終える本書こそシリーズの「結」に相応しいと思う。 回を重ねるごとにカリ・ヴァーラの任務が重くなり、それにつれ内容も過激になり、それが私生活にも侵食するようになってきた。従って本書のその後のカリ・ヴァーラの人生はさらなる苦難の苦難の道を歩むことになったことだろう。 北欧のフィンランドを舞台にした警察小説として始まったカリ・ヴァーラ警部シリーズは4作それぞれでその趣を変えていった。 特に本書は3作目からその傾向はあったが、事件そのものを語るよりも非合法部隊となったカリ達の悪行とそれによって精神が壊れていくヴァーラ夫妻が中心になり、事件は起こるものの、それらはサブでメインは超えてはいけない線を越えたヴァーラ達がいかに周囲の敵から身を護るかという物語へ移行した。 特に遺作となった本書では自分たちの身を護るために権力者たちを一斉に葬り、もはやカリ・ヴァーラ達は司法の側でなく、組織的な犯罪グループそのものとなった。 いやはや誰がこの展開を予想しただろうか。 そしてこのまま続けていけば必ず物語はさらなる過激さ・過剰さを増し、死人が増えていき、そして彼らの心的ストレスも増えていくことだろう。 夫婦の回復とカリの地位向上という明るい明日が見える結末で物語を終えるのを作者急死という不幸によって迎えることになったのは何とも皮肉としか云いようがない。 願わくば誰も彼らのこの次を書き継がないでおいてくれることを願おう。ここら辺がいい引き際と思うからだ。 カリとケイトのヴァーラ夫妻。 ミロ・ニエミネンにスイートネスことスロ・ボルヴィネン。 そして彼の恋人イェンナ。 彼らの将来が明るいものであることを祈ってこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ガンスリンガーシリーズ3作目の本書は前作で新たにローランド・デスチェインの仲間になったエディ・ディーンとスザンナとの邂逅から数か月経った、森で療養中のローランドが彼ら2人にガンスリンガーとしての技術を教えているところから始まる。
そして今回の目的は<暗黒の塔>を目指すとともに1巻で亡くしたジェイク・チェンバーズを再び彼の世界からこちらの世界に引き入れ、仲間にすることだ。 つまり前作で手に入らなかった3人目の仲間こそがこのジェイク・チェンバーズであることが明らかになる。 さてこのジェイク。最初にガンスリンガーの世界に来たときは彼の住む世界、つまり我々の住む世界でガンスリンガーの宿敵<黒衣の男>ウォルター・オディムによって道路に突き出された結果、車に轢かれて亡くなってしまい、そしてローランドたちの世界、今回<中間世界>と称されている世界に移るわけだが、そこでもローランドの<暗黒の塔>を取るかジェイクの命を救うかの二者択一の選択に迫られ、そして亡くなってしまう。 私が第1作目の感想に書いているように、このジェイクという少年がそのまま終わるわけではなく、本書で再び蘇る。中間世界で一旦命を落としたジェイクは再び我々の住まう世界で新たな命を授かり、日常を生きている。 しかし彼には以前自分が双方の世界で亡くなった記憶を持っていた。 この辺のパラドックスについてキングはローランドとエディとの対話で説明がなされる。 一本の人生の線があり、その時々で選択せざるを得ない状況に出くわし、そこで道が2つに分岐するが、それは実は2つではなく、その2つの選択肢と平行に別の分岐点が生まれ、それらが並行している。そして選んだ選択肢の記憶は残しながらも選択によって生まれた別の分岐点、即ち新たな世界に人は亡くなると移行し、再び人生を歩む。しかも一旦自分の世界と<中間世界>での記憶を留めたままに。 昔の映画で『恋はデジャヴ』という何度も同じ日を行き来する男の物語があったが、つまりはそれと同じか。 <中間世界>に来た人間は一旦そこで命を喪うとリセットされ、また別の次元の世界を生きることになる。しかし記憶は留めたままだから、自分が命を落とした事件も知っているのだ。 しかしそれが再び起こるとは限らず、実際、「その日」が訪れた際に死を覚悟したジェイクには結局前回自分を殺したウォルターは現れず、生き長らえる。 ただこういう設定はあまり好きではない。それはある特定の人物を特別視し、いくら死んでも再びどこかの世界にいて同じような暮らしを送るならばそこに死に対する恐怖が生まれないからだ。 したがってキングが描いたのはジェイクの「ここではないどこか」を渇望する心だ。ジェイクは自身が生きている現実世界よりもローランドが<暗黒の塔>を目指す<中間世界>こそ自分の居場所があると確信するようになる。物語の前半は生き死人と化したジェイクが本来いるべき場所<中間世界>に行くまでの物語を濃厚に描く。 このジェイクが<中間世界>に再び舞い戻るシーンは新たな生の誕生のメタファーだ。 例えば彼をこちらの世界に引き入れるためにはその場所を守る妖魔がおり、それと戦っても勝つことはできない。したがってジェイクを引き入れるためにはそれを引き付けていなければならないがその方法がセックスをすることなのだ。 セックスは妖魔の武器であると共に弱点でもあり、その相手をするのがスザンナである。即ちジェイクがこちらに世界に来るまでの間にセックスし続けなければならない。 そしてジェイクが<中間世界>に来るシーンについて作者自身も明確に比喩しているようにそれはまさにお産を象徴している。 我々の世界と<中間世界>とを結ぶドア。その中に入り込み、漆喰男によって<中間世界>への扉をくぐるのを阻まれていたジェイクをローランドが助け、そしてエディがローランドもろともジェイクを引き入れるさまをキングは産婆の役割を果たしたと例える。 つまり1巻で印象的な登場をしながらも特段目立った活躍もせずに消え去った少年ジェイクを再びこの物語に引き戻すことこそがシリーズの新たな生の誕生、即ちこの<暗黒の塔>シリーズの新たな幕開けを象徴しているのだ。 そして本書の後半は<荒地>を横断する高速のモノレール、ブレインを求める旅へと移る。そのブレインはジェイクが彼の世界の図書館で借りた『シュシュポッポきかんしゃチャーリー』に由来する。 このかつてはみんなの人気者だった物云う機関車チャーリーがその後に導入された最新鋭の機関車にその役目を取って代わられ、その機関士もまた配置換えされるが、イベントの日に最新鋭の機関車の異常が発覚し、忘れ去られていた存在だったチャーリーが再び日の目を浴びて再生を果たすこの物語は実在する絵本の話だが、これもまたジェイク自身の再生を象徴しており、そしてこの誰もが親しむ絵本のチャーリーと機関士ボブ、そして喜ぶ子供たちを描いた絵を見てジェイク達は和むどころか狂気を感じ、そして喜ぶ子供たちは無理やり乗せられて知らない場所に連れていかれそうになって泣いていると、全く真逆の受け取り方をする。 そしてそれはそのままキング自身が感じた恐怖の原初体験なのだろう。 我々の世代で人語を解する機関車と云えば『きかんしゃトーマス』だ。だからそれになぞらえて考えれば、確かにどこか不気味なものを感じる。 私が『きかんしゃトーマス』を観たのは幼少時代ではなく、我が子が興味を持ったからで、つまり大人になってから観たのだが、最初は確かに薄気味悪くてどこに可愛さを感じて、これほど人気があるのかが判らなかった。しかし次第に慣れてくるといつしかそんな思いは消え去ってしまっていたのだが、そんな恐怖を大人になっても覚えているのがキングの凄さか。ある意味、自身の子供時代をコミカルに描いた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこに通ずるものがある。 そしてそのモチーフをそのまま畏怖の対象としてキングはブレインという人語を解する機関車として登場させる。それはさながらスフィンクスのように謎解きに正解しなかったら容易に業火で焼き尽くす恐怖の存在として。 このブレインを始めとする機械たちは二極性コンピューターというものを備えていて、彼が<ラド>の町を制している。そこに住む人間たちの命は彼らによって生殺与奪されているのだ。物語の後半でジェイクを仲間に引き入れようと企む、圧倒的な絶望感を与えるほどの威圧感があるチクタク・マンことアンドリュー・クイックでさえ二極性コンピュータを恐れている。 そしてそれを裏付けるかの如く、<ラド>の町は町を管理しているコンピュータとブレインによって業火が巻き起こり、毒ガスが散布され、そしてそれらの名状し難い恐怖に囚われ、次から次へと自殺していく。それは将来機械に支配された社会の悲惨な末路を示唆しているかのようだ。いやもしくはいつか都会で起こるであろうサリン散布などの毒ガステロへの警告なのかもしれない。 ところで何とも憎たらしい存在として登場する超高速モノレール、ブレインだが、どうにか彼の掛けた謎を解いて車内に入ると最新鋭の技術と設備を備えた乗り物であることが判明する。 私が特に驚いたのは拡大透視装置と呼ばれる最新鋭のヴィジュアルモードだ。それは車体の壁に外の画像を映し出し、あたかも中空にいるかのように錯覚させる技術だ。実はこれは今開発がなされている、ドラえもんの透明マントの実用化ともいわれる光学迷彩技術だ。今導入が考えられている案の一つが自動車の車内の壁に施して外部の様子を見せ、360°死角なしでドライヴァーや同乗者が見れるようにして事故を未然に防げるようにするというものだ。 これをキングが1991年の時点で考えていたとは驚きだ。単なる着想の1つかもしれないが。 しかしキングがこのガンスリンガーシリーズの世界観をどこまで作っていたかは知らないが、私はどうも行き当たりばったりで書き始めたかのように感じる。 描かれている世界観がなかなか頭に映像として浮かばなかった。作者のイマジネーションが共有できないのだ。 特に本書独特の単語の意味を理解するのに記憶を掘り返す必要がある。もしかしたら<暗黒の塔>シリーズ用語集を作る必要があるかもしれない。 例えばようやく本書で最後の仲間ジェイクを得て3人の旅の仲間ができたが彼らのことを<カ・テット>と呼ぶこと。その意味は運命によって結束した人々の集団を指す。 その中の<カ>は1巻では邪な心を抱かされる力のように書かれていたが、正直あまり理解できていない。本書の目的である<暗黒の塔>を目指すにはどうしても通り抜けなければならない荒地は<ドロワーズ>と呼ばれていること ただし最後に登場する荒地の光景を見てスザンナが『指輪物語』の<モルドール>の中心、<運命の亀裂>というのは即ちこのことかと零すシーンでようやく共有できた。 そうそう忘れていた。本書が『夕陽のガンマン』と『指輪物語』に触発されて書かれていたことに。 とにかく今後どのように展開するのか、次巻を待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Gシリーズ3作目は嵐の山荘物だ。
岐阜県と愛知県の県境の山奥に位置する≪伽羅離館≫という屋敷で密室状態の中、超能力者と呼ばれている館の主、神居静哉が何者かによって殺害される。そして外部は雷雨降りしきる嵐でなぜか外部に通じる扉が鍵も掛かっていないのに開かない状態になる。 その事件に出くわすのが加部谷恵美ら3人と探偵赤柳初郎ら一行と神居静哉を取材に来た新聞記者富沢とカメラマンの鈴本、そして彼らを伽羅離館へ案内する不動産会社の登田達一行だ。 本書では上の密室殺人以外にもう1つ謎がある。 それは超能力者神居静哉が加部谷恵美をアナザ・ワールド、異界へと連れて行った謎だ。それは同じ部屋にいながら互いの姿が見えない、いわば異なった次元もしくは位相に連れていくというマジックだ。同じ部屋にいるのでその部屋にある物は触れられるのだが、他の位相にいる人物が触った者は別の位相の人間には触った者がいないのにひとりでに動いたように見えるのだ。 今までの森作品でも垣間見れたが、このGシリーズでは特に顕著でミステリで解かれるべき謎が全て明かされるわけではない。 密室殺人事件のトリックを解き明かした犀川創平に対し、警察は犯人は誰かと問うが、犀川は知りません、それを探すのが警察の仕事でしょうと一蹴する―この件はかなり笑った―。現実世界では当たり前すぎるが、この当たり前なことを本格ミステリで実践するところに森氏の強かさを感じる。 本書でも登場人物たちが述べるように加部谷恵美、山吹早月、海月及介らが遭遇する事件は押しなべてギリシア文字が関係しており、本書の奇妙なタイトルは被害者神居静哉が死の直前に聴いていたラジオ番組のタイトルに由来する。 この何とも腑に落ちない一連のタイトルの意味―『Φは壊れたね』、『θは遊んでくれたよ』、『τになるまで待って』―は不明なままであるのが本書の特徴であるが、あるいは森氏独特の言語感覚から生まれた言葉に過ぎないのかもしれないと思ったりもする。 そしてシリーズ3作目を読んでこのGシリーズのシリーズキャラクター達が出くわす事件は『四季』シリーズの『四季 秋』から『四季 冬』にかけての真賀田四季の歩みを語る過程に起きた事件の末節に過ぎないのかもしれない。 エピローグでは萌絵の叔母佐々木睦子の前に現れた赤柳初郎の髭を見て彼女は「年季は入っているようだが私の目は誤魔化せない」と述べ、微笑んで去っていく。 この赤柳の正体もおいおい明かされていくことだろう。 最初は何とも読者をバカにしたシリーズだと壁に投げたくなったGシリーズだが、3作目にして作者の狙いが見えてきたように思う。 森作品はシリーズを追うごとにミステリ風味は手を変え品を変え、ヴァラエティ豊かではあるのだが、謎解きの妙味はどんどん希薄になり、寧ろ投げやりになっている感さえ漂う。 ただGシリーズの読み方が3作目にしてようやく解ってきた。謎めいたタイトルについてはとにかくそれぞれの作品の中ではほとんど意味を成していないと理解しよう。 そして事件は十全に解決されないと腹を括ろう。 また真賀田四季の影が常に背景に隠れていると意識しよう。 赤柳初郎にはもっと注意を配ろう。 これら4箇条を念頭に置いて次作に当たろう。 そうすればもっと楽しめるだろうと期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は元々エラリイ・クイーンシリーズに一区切りをつけるために書かれた作品だと云われている。
そのためか本書はクイーン作品史上、解決に至るまで最も永い時間が掛けられている。事件の発生から27年後になってようやく事件の真相が明らかになるのだ。 しかし物語の発端としてはそのさらに25年前から始まる。それはエラリイ・クイーン自身が生まれた年だ。 そう、本書はエラリイが生まれてから1957年当時に至るまで、本書刊行が1958年であるからほぼリアルタイムでの作家生活の道のりと共に歩んだ事件なのだ。 そのような背景もあって本書はそれまでのエラリイ・クイーンシリーズの作品とは思えないほど、ドラマチックな幕開けを見せる。 それは本書のキーとなる人物、若き新鋭の詩人ジョン・セバスチアンの出生の秘密から語られるからだ。 身重の妻とクリスマスの休暇をニューヨークで豪勢に過ごすことにした出版会社社長夫妻が遭遇した自動車事故の悲劇の最中で生れたジョン・セバスチアン。しかし彼は1人息子でなく、もう1人双子の弟がいたのだった。しかしその2人目の子供の出産が妻の命を奪うことになったことで夫は2人目の子を取り上げた老医師夫妻に渡してしまう。そして間もなく当人も事故の後遺症で亡くなり、双子の存在は老医師夫妻のみぞ知ることとなる。 そして四半世紀の月日が流れ、25歳となった遺児ジョン・セバスチアンが実の両親が遺した莫大な遺産を相続するその夜に奇妙な事件が発生する。そしてそこに居合わせるのがこの詩人ジョンの友人でもある、エラリイ・クイーンだ。 そしてこの時まだエラリイは処女作『ローマ帽子の秘密』を刊行したばかりの駆け出し探偵作家なのだ。この事件は彼にとって2番目の、実質的には最初の殺人事件であると書かれている。 つまり作家デビュー間もないクイーンに探偵役を担わせ、刊行前年に解決に至る設定を盛り込んでいることからクイーンの作家生活の裏側で本書の事件もまた進行していたことが明らかにされているのだ。 そしてそれは新人作家エラリイが登場することから原点回帰的な印象をも受ける。 本書はジョン・セバスチアン出生の1905年の出来事、25年後の遺産相続記念のクリスマス・パーティで起こる奇妙な事件、そしてさらに27年後の1957年それら全ての謎が解決するパートの3部構成になっているのだが、原点回帰を思わせる証拠としてなんと第3部に『ローマ帽子の秘密』からの引用という体裁ではあるが、「読者への挑戦状」が付されているのだ。 本書の謎は大きく分けて6つある。 1つは双生児として生まれながら、取り上げられた医師の子として育てられたジョン・セバスチアンの弟の行方。 2つ目はジョン・セバスチアン25歳の誕生日を祝うクリスマス・パーティに訪れた謎のサンタクロースの正体。 3つ目は12夜に亘って行われるクリスマス・パーティに毎夜届けられるメッセージカードとアイテムの意味。 4つ目はそれらを贈る人物は一体誰なのか? 5つ目は図書館で亡くなっていた謎の老人の正体。 6つ目は最終夜にジョン・セバスチアンを殺害したのは一体誰か? そのうち最たる謎は12夜に亘って開催されるクリスマス・パーティに毎夜謎の人物から贈られる謎めいたプレゼントとメッセージカードの意味だ。 第1夜では白檀の雄牛の彫刻と作りかけの人形の家、合金で出来た皮に包まれた駱駝の像。 第2夜では小さなドアとステンドグラスの窓で作りかけの家に合うものだ。 第3夜では鉤のように折り曲げられた釘が、第4夜では小さな木の柵が、第5夜では掌にXの文字が刻まれた石膏で作られた男性の手、第6夜は小さな鞭、第7夜ではなんと作りかけの家のために設えた小さな金魚鉢と小さな本物の魚が贈られる。 第8夜では鋏で胴体から切り離された人形の頭でおまけに片目がつぶられたような模様が書かれている。 第9夜では布で出来た猿の人形、第10夜で第8夜で贈られた人形の頭に上向きの歯が付け加えられていた。そして第11夜ではミニチュアの家の柱につける看板でXの文字が書かれており、そして最終夜の第12夜では最後の一撃と書かれたメッセージカードと共に宝飾がついたナイフがジョンの背中に突き立てられる。 そのいずれもがいつの間にか滞在客が気付かないうちに邸のどこかに置かれている―最後のナイフのみ被害者の背中に突き立てられるが―。 そしてこれら一見何の関係もなさそうなアイテムとカードの内容に若きエラリイ・クイーンは悩まされるのだ。 またしばしば記憶喪失に襲われ、また瞬間移動したとしか思えない状況で出くわすジョン・セバスチアン。常に同じ服を2着揃えており、また時に出版社々長のダン・フリーマンに遺産相続の暁にはもともと父親の会社だった出版社を自分に明け渡すことを申し立て、弁護士のローランド・ペインの女癖の悪さを脅迫のネタにして英文学教授をしている息子に自分の詩集を絶賛されるよう強要したりと黒セバスチアンが現れることの事実からエラリイは彼が実は双子であることを看破するが、ジョン・セバスチアンの出生の秘密の捜査を依頼したクイーン警視とその部下ヴェリーによって双子の弟がいたことは確認できたが、ある事実が判明し、エラリイの推理は敢え無く崩壊する。 これには意外な真相が待っているのだが、正直私はそれは解ってしまった。 あと本書では出版関係の仕事に携わる面々出てくるせいか、やたらと1930年当時の小説などに登場人物たちがやたらと触れているのが目立った。 例えばエラリイが読んでいる小説がバークリーの『毒入りチョコレート事件』であったり、第6夜では年配連中がヘミングウェイの『武器よさらば』、ピュリッツァー賞受賞作品のジュリア・ピーターキンの『スカーレット・シスター・メアリー』、チック・セールズの『スペシャリスト』などを俎上に挙げて文学談議に興じたり、ジョン・セバスチアンの部屋の書棚にレックス・スタウトの『神の如く』が置かれていたり、シンクレア・ルイスという作家についても語ったり、最終の夜でも文学の座談会に興じるなど、かなり頻度は高い。 それだけでなく、1957年に至るまでの時事についても触れられ、さながらクイーン作家生活の追想のような様相を呈している。 そんな意欲作であった本書は最後まで読むに至り、いささか肩肘が張りすぎたような印象を受けた。 真相を知ると時代が、世相が起こした事件であった。 そしてそれはそのまま作者クイーンが歩んできた道のりでもあった。彼が作家生活を振り返ったときにそれまでの歴史的出来事を物語に、ミステリに取り込むことを思いついたのが本書だったのではないか。 しかしこの本書の最後の一行に付された“最後の一撃(フィニッシング・ストローク)”に私は気負いを感じてしまった。 文学に行き、そして言葉に、文字に敏感であったクイーン自身が最後にたどり着いた一撃に関心こそすれ、さほどインパクトを感じなかったからだ。 作者のミステリ熱と読者の私の謎解きに対する熱に大いに温度差を感じた作品であった。 確かに力作である。 後期の作品においてこれほどの仕掛けと演出とそして複雑なロジックを駆使しただけにクイーンコンビの本書にかける意欲がひしひしと伝わった。やはりクイーンはとことんミステリに淫した作家であったのだ。 初心忘れるるべからず。本書はそれを自らの肝に銘じた作品ではなかっただろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『図書館警察』所収の中編「サン・ドッグ」でも触れられていたように本書は長らくキングの数々の物語の舞台となったキャッスルロックの物語である。
ニードフル・シングス(Needful Things)、つまり「必要なもの」とか「必需品」を指す言葉だが、本書における意味はそれぞれの客にとって「無くてはならない物」、もしくは「喉から手が出るほど欲しいもの」である。 リーランド・ゴーントの店は客が集めている物や興味を持っている物、更には小さい頃に欲しくて手に入らなかった物などが置いてあり、客がそれに触れると物に宿った記憶が呼び起こされ、頭の中に映像として浮かび上がる。そしてそれが客の所有欲を掻き立て、欲しくてほしくて堪らない衝動に陥るのだ。 何もかも犠牲にしても構わないほどに。 そんな激しいまでの欲望をゴーントは利用し、客にそれを買わせる。相場よりも破格に安い値段と足らない分を町の住民への悪戯との引き換えに。 そしておかしなことにそれらは喉から出るほど欲しかったものなのに、誰しもが使うことなく、もしくは飾ることも見せることもなくそっとタンスや倉庫の奥にしまうのだ。それを見せることで生れる妬みや嫉み、もしくはそれを横取りされるのではないか、更には壊されるのではないかという猜疑心のため、結局その欲しかった物は明るみに出ることはない。手に入れた者はそれをひっそりと眺め、そして愛でて愉しむだけだ。 これはまさにコレクターの心理だろう。絵画や骨董品のコレクターは稀少品や高価な美術品は飾るのではなく、倉庫に入れて保管するという。もし誰かに披露したかったらわざわざレプリカを作るか購入して飾るのだという。本当に手に入れたい物は皆そんな風に秘密にしておきたいのかもしれない。 しかしそれらはやがて持ち主の心を支配する。欲しい物、ようやく手に入れた宝物は持ち主の執着心を煽り、やがてそこから聞こえる声に従うようになる。 それはリーランド・ゴーントの声で、彼は物に囚われた人たちの心を操るように約束した悪戯をするよう促すのだ。 つまり彼らの手に入れたニードフル・シングはリーランド・ゴーントの依り代であるのだ。 しかしよくまあキングは人の欲望について様々な視点から語るものだと感心した。 喉から手が出るほど欲しい物とは人それぞれによって様々だ。 例えば蒐集家は長らく探し求めていたレア物を目にしてどうしても欲しくなるだろうし、子供の頃の思い出の品を見つけると同様に欲しくなるだろう。 また大ファンのアーティスト関連のグッズもまた垂涎の的であろう。 一方で自分の人生が崩壊しようとしているまさにその時にその状況を打開できるものが現れれば、何を差し置いても手に入れるだろう。 また長年悩まされる病の苦痛を少しでも和らげてくれるアイテムがあれば最初は半信半疑だったとしても実際にその効用を感じれば、もう手放せなくなるだろう。 つまり「喉から手が出るほど欲しい物」の理由は実にヴァラエティに富んでいるのだ。 これら町の人が欲しがるもの、望むものを売る謎の骨董屋≪ニードフル・シングス≫の店主リーランド・ゴーントの正体はキャッスルロックに折に触れ蔓延るフランク・ドッド、クージョ、サド・ボーモントのような系譜に連なる存在だ。 彼は人の心を読み、そしてその人の欲望を、願望を掻き立てる品物を提供することで人の心を操る。そして人の前から姿を消すこともできる能力をも持つ。 そんなゴーントの特殊能力を見抜く力を持った者がいる。その一人が保安官のアラン・パングボーンだ。 彼はキング作品に登場する“きらめき”という特殊能力を持った人物ではない。敢えて云うならば普通の人間だ。しかし彼には保安官の任務に対する忠実さという芯があり、そして怪異を目の当たりにした経験を持つ。 『ダーク・ハーフ』でサド・ボーモントという作家が生み出したもう一つの人格という異形の者を目の当たりにしたことで、彼にはその存在を認識したのだ。つまりリーランド・ゴーントにとって容易に操る事の出来ない、寧ろ自分の正体を見破る恐れのある人物、即ち天敵として立ち塞がる。 人間には2種類あると云うが、私にとってそれは“それを知る者”と“知らない者”だ。 “それ”とは何でもいい。例えば野球をやった者とやったことない者の2種類としよう。この2つの人間の隔たりはごく小さな違いなのだが、実は大きな差がある。プロ野球観戦1つ取っても野球をやった者とやったことのない者の知識の差や肌感覚、勝負の見どころや展開の予想はかなりの差があるのだ。 つまり経験の差ほど大きなものはない。従って怪異を経験したアラン・パングボーンは“それを知っている”がゆえに他者と異なるのだ。 それが如実に出てくるのが最後の対決のシーンだ。 誰しも近隣住民との間に何らかの不平不満を抱いているものだ。それは性格的に合わない、生理的に受け付けないといった本能から由来するものでいわゆる苦手意識から来るものだったり、表層化したいざこざや諍いが今に至って尾を引いていたりと、大小様々だ。 人はそんな負の感情を仮面に隠して世間に向き合い、近所付合いを続けている。 しかし自分に何か不利益なことや謂れのない悪戯といった害を被るとそれが引き金となって潜在下で押し留められていた不平不満が鎌首をもたげたかの如く、頭をよぎり、そして証拠もないのに犯人だと確信に変わる。 もしくは相思相愛だと思っていた関係もたった1枚の写真と手紙で愛から憎しみへと変わる。 または隠しておきたい背徳的な趣味嗜好を明らかにされることで怒りが生まれる。 我々の住む生活圏とはこんな些細な異物で狂う歯車のような微妙なバランスの上で成り立っているのだ。 キングはこの人間たちが持つ感情の機微を実に的確に捉えるのが非常に上手い。 例えば野球カードを集める少年ブライアン・ラスクは稀少なカードを破格の値段で手に入れる代わりにリーランド・ゴーントからウィルマ・ジャージックに悪戯を仕掛けるよう頼まれ、洗濯したシーツに泥を投げつけ、泥だらけにする。 攻撃的な主婦ウィルマ・ジャージックはそれを見て、犬の鳴き声で散々苦情を述べた女性ネッティ・コッブが犯人だと決めつけ、彼女に報復を図る。 幼い頃父親が車のアンテナに括りつけていたキツネのしっぽを手に入れた飲んだくれの労働者ヒュー・プリーストはその代償としてネッティ・コッブに悪戯を仕掛けるよう頼まれる。しかもシーツを汚した報復だとまるでウィルマの仕業であるかのように見せかけて愛犬のレイダーを万能ナイフで刺し殺す。 そしてブライアン・ラスクは再びゴーントに脅迫されるままにウィルマ・ジャージックの家に石を投げつけ、ガラスや家具、電化製品などを破壊する。まるでネッティの報復であるかの如く手紙と一緒に。 そしてそれが引き金になってネッティとウィルマはお互い憤怒に駆られて包丁で決闘し、絶命する。これがゴーントによる仕掛けの最初の犠牲者となる。 上に書いたネッティ・コッブとウィルマ・ジャージックの諍いはほんの一例に過ぎない。 保安官連中と利害関係と正義の狭間でいがみ合っている町の行政委員ダンフォース・キートンは横領の罪を暴かれぬよう次第に皆殺しへのシナリオを描き始めるし、教師のサリー・ラトクリフは同じ教師仲間で恋人のレスター・プラットの浮気現場の写真と手紙を盗み読んで嫉妬の炎を燃やす。 またカトリック派とバプティスト派の宗教の違いによる反目もある。 他にも数々の住民たちの些細で潜在的に抱いていた嫌悪感や怒りをチクリと刺し、増殖させる。 全ての人が全ての人とうまく付き合えるわけではない。複数の人が集まるコミュニティではそりの合う人合わない人がどうしても出てくる。 ゴーントはそんな人間関係の歪みを巧みに利用して全く関係のない客に品物を売る代償として悪戯という形で後押しすることで小さな火種を自らを焼き尽くす業火にまで発展させる。 やがてそんな悪戯が町の住民たちの猜疑心を生み、そして町の暴動を生む。 アメリカで、中国で起きた警察に対する、政府に対する暴動はそれぞれが小さな発端から市を、州を、国中を、そして世界中を巻き込む抗議活動に発展し、そして暴動へとエスカレートしていった。 さてキングは町の人々を、「その日」が来るまでの顛末を濃密に描く。 そのためキングの饒舌ぶりは今回拍車が掛かっている。上下巻ページに亘って語られるこの奇妙な骨董品を中心にした作品には随所にキングの与太話が詰まっている。 例えば新しい店が開店するだけでキングはそういう時の都会と田舎の人々の反応の仕方、もしくは知人が開く場合と外部の人が開く場合の対応などを4ページに亘って語る。 また出戻りの女性で裁縫屋を営むポリー・チャーマーズがキャッスルロックを身重の身で出て行き、17年後に戻ってくるまでの間のことを延々18ページを使って語る。 また保安官アラン・パングボーンの天敵ダンフォース・キートンがかつては生真面目な役人であったが、それまで縁のなかったギャンブルに嵌り、やがて公金を横領してまでギャンブルに染まっていく様を15ページに亘って描く。 そして『スタンド・バイ・ミー』に登場したキャッスルロック一の不良エース・メリルも物語の中盤になって現れる。既に齢四十八となったエースのキャッスルロックを離れ、戻ってくるまでの物語も11ページ費やされる。 つまりキングが選んだ主役はその住民たちだったのだ。 彼ら彼女らはそれぞれそこで生まれ、育った者もいれば、他所から来た者もいる。そして彼ら彼女らは一様に何の問題もなく、それまで生きてきたわけではない。 保安官アラン・パングボーンは町の有名人だった作家サド・ボーモントの奇妙な事件の後、妻と子供を事故で亡くし、哀しみに未だに浸り、そして遺された長男との関係に亀裂が入った状態だ。彼は妻と息子の事故が自分が彼女の状況に、脳腫瘍で頭痛に悩まされていた事に気付かなかったせいだと呵責の念に囚われている。 彼の恋人で裁縫屋を営むポリー・チャーマーズは若い頃の過ちで子供を妊娠し、キャッスルロックを出て行った。その後一人で子供を産み、育てていたが、ベビーシッターの不注意によってアパートが火事になり、子供を喪って町に戻ってきた。そして彼女は慢性的な両手の関節痛に悩まされている。 人は皆物語の主人公だという言葉があるが、キングは本書でまさにその言葉通りに皆が主人公の物語を紡いだのだ。 それを可能にしたのがキングの見事なまでのキャラクター造形の腕前だ。とにかく全てのキャラクターが立っている。 人にはそれぞれ個性と主義、信じる宗教など様々な相違がある。社会はそんな多種多様な人間が形成して創られる。それは人という輪っかが織り成す重なる部分、つまり公約数によってなされている。従ってその重なる部分以外はそれぞれが抱く他との異な部分であるのだ。 それはつまり護るべき自分のテリトリー、不可侵領域と云っていいだろう。そしてそこに土足で踏み入るような行為をした時、人はそれを護ろうとして攻撃的になる。 キングが本書で描いたのはほんの些細なことで人は不可侵領域に押し入り、そして諍いが起きて社会が崩れ去る様だ。 我々の共同体とはなんとも脆い楼閣であるのか。そして物語とは云え、その一部始終を上下巻1,300ページ強を費やしてじっくりとねっとりと見せつけられる後ではやはり人は心底信じあえることはできないのだと痛烈に嘲笑している作者の姿が目に浮かぶようだ。 私はこの作品を読んで想起したのが小野不由美氏の『屍鬼』だ。あの2500ページ強の超大作はキングの『呪われた町』のオマージュとされているが、吸血鬼を彷彿させる屍鬼の登場による外場村の崩壊を描いた濃密さは本書に通ずるものがある。 つまり『屍鬼』は『呪われた町』と本書のハイブリッド小説だったのだろう。 また本書の中で気になった点をいくつか挙げておく。 まずはエルヴィス・プレスリーだ。このエルヴィス・プレスリーは殊更アメリカ人にとって特別な存在であるようだ。クーンツもオッド・トーマスに登場させているくらいだ。 そして彼はキング・オブ・ロックンロールと呼ばれており、通称キングと云えば彼を指すらしい。しかし作者もまたキングと同じであることを考えるとどうもこのプレスリーの扱いに関しては作者自身の潜在下の何かが表出しているように思えるのだが、穿ち過ぎだろうか。 またポリー・チャーマーズがゴーントから買ったアズカの中に入っていた生き物が蜘蛛だったことについて。 この蜘蛛、割れたアズカから出てきたときは小さかったが、その後どんどん大きくなり、猫の大きさまでになってポリーと対決する。 このシーンを読んで想起したのが『IT』だ。デリーを恐怖に陥れた殺人ピエロ、ペニーワイズの正体もまた大きな蜘蛛だった。そして主人公たちは死に物狂いでその蜘蛛を退治するのだ。 尋常ならざるものの正体に2つの作品で蜘蛛を使うあたり、キングにとって蜘蛛というのは最大なる恐怖の対象なのだろうか?確かにキング以外にも蜘蛛は悍ましい恐怖の対象物としてよく扱われるのだが。 さて私は本書に対して思うところがある。 それは本書はキングにとって作家生命の再生の物語でもあったのではないかということだ。 この長らく親しんできたキングが生み出した架空の町キャッスルロックを舞台にしたこの物語はつまり当時スランプに悩んでいたキングが再生を図るための物語であったのではないだろうか。 登場する人物や舞台はそれまでのキング作品で登場したものばかりだ。 そしてキングもまた意識的にそれを作中で謳っている。 本書の前夜祭とも云える中編「サン・ドッグ」に登場するポップ・メリルの話から遡り、『ダーク・ハーフ』でサド・ボーモントと対峙したアラン・パングボーン保安官、彼はその後妻と子供を亡くしている。 『デッド・ゾーン』に登場する連続殺人鬼フランク・ドッドに「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良エース・メリルは「刑務所のリタ・ヘイワース」の舞台となったショーシャンク刑務所に入ったこともある。 そして彼が叔父のポップ・メリルが町中に埋めたお宝探しに焦点を当てるのは『クージョ』の舞台はキャンバーの家は廃屋になっている。 つまりそれらキングのキャッスルロック・サーガを意識的に取り上げることでデビュー作と同様の栄光を掴み、作家として更なるステップアップを望んだのではないだろうか? しかし全てを葬り去るために費やした分量はあまりに多すぎた。なぜならデビューの時とは異なり、キングの描いた世界には上に書いたようにキャッスルロックの住民、そしてそれに関わる人物が大勢いたからだ。 とはいえ、やはり上下巻合わせて1,315ページは長かった。 多くのキャッスルロックの住民が登場するが、最後の方はどんな人物なのか解らない者も大勢いたからだ。大量死の中に「その他大勢」と埋没させぬようキングは出来得る限り登場人物の多くに名を、職業を、役割を与えたが私の記憶力では追いつかなかった。 これから読む方はメモを取ることをお勧めしよう。 本書の後には『ドロレス・クレイボーン』、『グリーン・マイル』といった映画化もされた作品が生まれ、復活を遂げている。更にその後また低調期を迎え、2010年代に再び傑作群を物していく。 破壊と再生を繰り返す作家キング。彼がなぜ再び傑作群を発表するようになったのか、本書以降からそれまでの作品の変化を追う興味が湧いてきた。 物語の最後、ゴーントが去る馬車の腹には次のような一文が書かれていた。 “すべては買い手の責任” 何かを手に入れれば何かを喪う。 欲望に駆られて衝動的に買い物をすればそれには大きな代償を支払うことになる。 本書は物欲主義に陥った資本主義に対する警告を促す作品か。それとも単に何でも欲しがる子供たちに向けての説教のための物語なのだろうか。 ともあれ何かを買うときは慎重に考えることにしよう。 でないととんでもない代償を払わされることになる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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数あるチェスタトンのシリーズキャラクターにまた1人奇妙な人物が加わった―というよりも彼の描くシリーズキャラクターは全て奇妙奇天烈なのだが―。
ホーン・フィッシャー。通称“知りすぎた男”。本書は彼の出くわす事件を描いた短編集である。 まず彼の自己紹介がてらの1作目「標的の顔」では彼のワトソン役となるジャーナリストのハロルド・マーチとの出遭いで幕を開ける。 知りすぎた男ホーン・フィッシャー初登場の本作は名刺代わりの挨拶的なミステリ。しかし新聞記者マーチと邂逅し、同じ目的地に向かう道すがらに出くわす人々の事を話すうちに彼がかなりの情報通、事情通であることが判ってくる。フィッシャーはその人の過去や経歴、癖や習慣なども知り尽くす、実に謎めいた人物として描かれる。 そして自動車事故と思われた射殺事件。知りすぎた男は即ち知りたがる男でもあった。彼はこの新たに起きた事件の謎を知るために名士が集う屋敷へと赴く。 早くもチェスタトンならではの逆説が堪能できる作品だ。 次の「消えたプリンス」は若かりし頃に出遭った事件の話だ。 本作は軽いジャブのような作品だ。この真相には私も気付いた。これは現代の捜査技術では銃弾の出所が解るだけに成立しない偽装工作だろう。 しかしブラウン神父シリーズもそうだったが、2作目で捜査の側の人間が犯人というのはチェスタトンが好む趣向なのだろうか。確かに意外性はあるが。 次の「少年の心」では再びホーン・フィッシャーはハロルド・マーチと登場する。 かなり物語の背景を掴むのに苦労する、実に解りにくい話なのだが、銀貨が無くなる事件が起き、そしてそれが見つかって、フィッシャーによる謎解きが開陳されて再び読み直すと作者が周到に手掛かりをばら撒いているのが解るばかりか、最初は意味不明だったフィッシャーの言葉が腑に落ちてくる。彼は最初から銀貨が誰がどのように盗んでいたのか知っていたことに気付くのだ。 大人になっても少年の心を持つ、それは即ち大人になり切れないという意味でもある。う~ん、身に摘まされる話だ。 「底なしの井戸」はとあるアラブのオアシスが舞台 船上で殺人事件が起きた時になぜ犯人は死体を海に投げ込まなかったのか?そんな不可解さに似た状況である。そして本作でも大義を重んじて小事を収めるフィッシャーの判断が下される。 それは事件の真相を明かせば英国が底なしの井戸に嵌ったかのようにその威光が失墜していくとフィッシャーは思ったことだろう。 物語の舞台は砂漠から今度は氷の張る池のあるイタリアへ。「塀の穴」はプライアーズ・パークという大きな庭園が舞台だ。 忽然と消えた地主の行方を追う物語。プライアーズ・パークを所有するブルマー卿の許を訪れた面々が仮装パーティと凍った池でのスケートに興じるが、翌朝地主が忽然と姿を消す。訪問客の中には妹の婚約者がおり、彼のことを好ましく思わない兄は彼に喧嘩を吹っかけていたことが解る。 正直この真相はアンフェア極まりないが、本作の狙いはミスディレクションにある。フィッシャーはだれそれが○○によると聞いて、人は自分で調べもせずに納得する。その危険性について述べているのだ。本作のタイトル「塀の穴」は実はまやかしの由来に来ていることを指している。人は権威ある者の言葉や話を真実として信じてしまう教訓から来ていることを考えるとなかなか感慨深いタイトルである。 「釣師のこだわり」は再びフィッシャーとマーチの政治要人巡礼の話だ。 突然亡くなった海運王の死。 しかしフィッシャーはまた動機があるがゆえに犯人ではないと述べる。 正直この内容はわかりにくい。しかしフィッシャーの大局を見つめる目は理解した。 しかし犯人が「塀の穴」と同じ設定なのが気になる。 ホーン・フィッシャーはかつて国会議員に立候補したことがあったらしい。「一家の馬鹿息子」はその時の顛末が語られる。 またも政治がらみの話である。フィッシャーが現在のような人脈を持っているのは彼の一族が広く政界に進出していたからだったことが判明する。そして彼もまたかつて国会議員に立候補し、見事当選したことが明かされる。 その時の選挙運動の顛末を語ったのが本作だが、今の選挙活動とは異なった内容で実に珍妙である。候補者が他の候補者の許を訪れ、共闘を申し入れたり、選挙から身を引くようにと話すのだ。これは主人公フィッシャーの知りすぎたゆえに行き過ぎた行動なのか、それともこのような活動が選挙時には日常茶飯事に行われていたのかは寡聞にして知らないのだが。 またホーン・フィッシャーはヴァーナーがどうやって地所を手に入れたのかも突き止める。 さて本書の最後を飾るのは「彫像の復讐」。 この衝撃の真相はしかし大局を見つめるからだからこそ出来た行動の結果だ。 ホーン・フィッシャー。自ら自身の信念に基づいて自分の人生を捧げた男だった。 “知りすぎた男”ホーン・フィッシャー。本書は彼の登場と退場までを描いた連作短編集だ。 1作目「標的の顔」で初お目見えとなるホーン・フィッシャーは登場する人物の為人、そしてディープな情報まで知っている、謎めいた知りすぎた釣り人として登場する。 そして話を重ねるにつれて彼の氏素性が判明する。彼はかつて当選しながらも一度も国会に行かなかった国会議員であった男であり、彼の親戚一同は政界に進出した上流階級の人物であった。実の兄ハリーは陰の政治家の私設秘書でもう一人の兄アシュトンはインド駐在の高官、陸軍大臣と財務長官を従兄弟に持ち、文部大臣を又従兄弟に持ち、労働大臣は義理の兄弟で、伝道と道徳向上大臣は義理の叔父であり、首相は父親の友人で外務大臣は姉の夫というまさに政治家一族である。 そして数々の事件を解決しながらも決して彼は司法の手に犯人を委ねない。彼は真相を知るだけでそれ以上のことをしないのだ。 それは過去数多の名探偵に見られた傾向であり、いわゆる謎さえ解ければ満足なのだという自己中心的な探偵の1人に思えるが、実は彼は大局観で以って物事を捉える。 例えば1作目の「標的の顔」では釣り師として登場する彼にとって大きな魚は逃がさなければならないという意味深な台詞が活きてくる。 また「底なし井戸」でも英国の威光が衰えるのを憂慮してフィッシャーは敢えて事件を隠匿することを勧める。 なぜ彼がいわばコラテラル・ダメージを重んじるのか。その理由も「一家の馬鹿息子」で明かされる。 ここで彼は必要悪を学ぶのだ。それが最初の短編で彼が述べる「大きな魚は逃がさなければならない」に繋がるのだ。 しかし彼のいわゆる大局観には現代の日本人の常識からみても首を傾げてしまうものもある。 例えば最後の短編「彫像の復讐」でハロルド・マーチがホーン・フィッシャーの忠告に従って彼らの悪行を見逃していたら、いつの間にかイギリス政府はとんでもない輩たちの巣窟になってしまったと云って、数々の悪い噂を並べる。 これらは正直今の時代では政治家生命を失うほどのスキャンダルだが、フィッシャーはそんな噂を持つ彼らを誇りに思うと云う。そんなことをやってまでも頑張っているからだと。 この発言は眉を潜めざるを得ない。我々は彼らを糾弾しようとする友人の新聞記者ハロルド・マーチ側に立つ人間だ。 有識者によれば本書執筆時のチェスタトンは当時の英国政治に不信感と不満を抱いており、その葛藤がフィッシャーとマーチ2人に現れているとのこと。つまり悪を認めながら必要悪として断じないフィッシャーの諦観とマーチが抱く義憤はそのままチェスタトンが内包していた思いなのだろう。 そして本書はまた1つ別の側面を持っている。 それはこのハロルド・マーチという新聞記者の成長譚でもあることだ。 新進気鋭の新聞記者として第1作に登場し、ホーン・フィッシャーと出遭って友人となった彼はフィッシャーの人脈を利用して他の記者では得られない政治家の情報を次から次とスクープし、最後の短編では当代一流の政治記者と云われ、自由な裁量権を与えられた大新聞を預かるまでになる。 彼はいわばフィッシャーによって育てられた、そしてフィッシャーの唯一の友人にまでなった男にまで成長するのだ。 しかし覚悟はしていたが、やはりチェスタトンの紡ぐ物語は衒学趣味に溢れ、なかなか本筋を追うのが難しく、一読目で状況を理解するのは困難で、粗筋を書くために読み直して初めて物語の筋とそして彼が散りばめた含みある言葉の数々が解ってくるし、こうやって感想を書くことで再び本書を紐解き、再構成していくことでこの連作群に込められた作者の意図が見えてくる。 本当の内容を知るために本書はまさに“二度読み必至”な作品なのだ。 そして久々のチェスタトンの短編集はやはり逆説に満ちていた。 1作目の「標的の顔」からそれが堪能できる。 見当違いの的に当てる射撃の下手な人物は名手だからこそ見当違いの的に当てることができた。 人の注目を浴びないように敢えて平凡で戯画化した風貌を選んだ。 2作目以降も例えば次のような逆説が出てくる。 そこにあるから逆に調べない。 明白な動機があるがゆえに犯人ではない。 また色んな警句にも満ちている。 人は人の話を聞いただけでそれが真実であると信じ、決して疑って自分で調べない。そしていつの間にかその誤った情報や言い伝えが真実となる。 自分は誰にも迷惑かけずに自立して生活していると主張する者ほど他人に依存している部分で大きな迷惑を掛けている。 それらの言葉の数々はこの令和の時代でも色褪せない機知に富んだ味わいがある。 またチェスタトンのシリーズキャラクターの特徴として通常の名探偵物が自分の事務所に依頼人が訪れて事件に関与するのに対し、ブラウン神父やポンド氏、そして本書のフィッシャーのように彼の訪問先で事件に遭遇することだ。従って物語の舞台は実にヴァリエーションに富んでいる。 イギリスの荒地の奥にある屋敷、アイルランドの塔、ロンドンのくたびれた礼拝堂跡、アラブの砂漠のオアシス、イタリアの広大な地所、イギリス西部地方の屋敷、などなど。 そして彼が最も活動的になるのが最後の短編「彫像の復讐」だ。 彼は英国を危機から護るために、文字通り東奔西走する。彼が貰草として重要書類を自ら携え、前線へ持っていく。 このフィッシャーの始末の付け方こそチェスタトンが当時の政治家に望んだ姿だったに違いない。 本書はそれまでのチェスタトン作品を読んでいるとミステリとしての謎としては簡単な部類に入るだろう。しかし真相に隠された犯人の真意やフィッシャーの意図は深みに溢れている。 本書は、彼は知りすぎているがゆえに自分の知らないことに興味を覚えるとホーン・フィッシャーの特徴が紹介されている。 しかし彼は知りすぎたがゆえに大局が見えたが、それを伝えるには時間がなかった。知りすぎたがゆえに自ら行動せざるを得なかったのだ。 そして周囲は彼の理解力に追いつかなかったゆえに彼の真意が解らなかった。 ホーン・フィッシャー。彼はチェスタトン作品の中で最も哀しい探偵であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2010年代のミステリ界の最大の収穫の1つとして質の高い北欧ミステリが次々と刊行されてきたことが挙げられる。
そして私もとうとうこのジャンルに手を出すこととなった。 しかし本書が他の北欧ミステリと一線を画すのはフィンランドを舞台にしながら作者はアメリカ人であることだ。 ジェイムズ・トンプソン。彼はフィンランドの妻を持つヘルシンキ在住のアメリカ人作家。数ある北欧ミステリの書き手の中でも異色の存在だ。 まず本書の目新しさはなんといってもそれまで日本人には馴染みの薄いフィンランドを舞台にしており、その風土や気候、文化に国民性が詳しく書かれていることだ。 人口は約550万人だが、暴力犯罪は多く、一人当たりの殺人件数はアメリカの大都市とほぼ同じで近親者による犯行が多い。殺人事件の検挙率95%とかなり高く、犯罪は多いのに死刑制度はない。そのくせ100年以上の中で有罪になった連続殺人犯はたった1人しかいない。 隠れ人種差別者で声高に明らさまに差別用語をまくし立てることはせず、暗黙的に差別する。わざと昇進させず、無関心を装い、蔑視する。 そしてアメリカ人ほど政治について語らない割には投票率は80%と関心は高い。 本書の主人公カリ・ヴァーラはフィンランド人で妻のケイトはアメリカ人でスキーリゾートの経営者をしていたが、フィンランドの会社にスカウトされ、<レヴィセンター>の総支配人となった。そしてそこで出会った警察署長カリと結婚したのだ。そして今彼女は双子の赤ん坊を身ごもっている。 翻って作者ジェイムズ・トンプソンはアメリカ人でフィンランド人の妻を持ち、ヘルシンキに住んでいる。つまり本書の主人公夫婦と作者は表裏一体なのだ。 そしてケイトのフィンランドについてのイメージギャップは我々日本人の読者が抱くものと同じだろう。 それはフィンランドという国のイメージは恵まれた美しい自然に囲まれ、秩序ある生活で国民の幸福度は高いというものだが、アメリカ人の彼女が実際に来てみると人々はあまり語らず、沈黙が多く、何を考えているか解らない無表情である。そして12月半ばからクリスマスまで日の光は差さない、極夜が長く続く。 氷点下が当たり前の環境下では人は無口になるという。日本でも東北の人のズーズー弁は寒さゆえに口をあまり開けずに話すからそのような話し方が生まれたという説もあるように、フィンランド人もあまり話さず、沈黙を以って“察する”のだ。 フィンランドは世界一自殺率の高い国のようで10万人に27人が亡くなっているという。それはやはり対話が少ないからではないか。沈黙は能弁ではないのだ。 更にフィンランドでは産休が105日あり、アメリカ人のケイトはそんなライフスタイルに馴染めずにいる。彼女は数週間産休を取ったら子供を保育所に預けて働くようだ。 この辺は日本人の感覚と似ている。つまりケイトの違和感はそのまま我々日本人の違和感となるのだ。 そんなフィンランドの、キッティラという地方都市で起きた殺人事件が本書のテーマだ。それは黒人映画女優が人とも思えぬ惨たらしい状況で殺害されているのが発見される。 全裸でマイナス40度の極寒の雪の中に半ば埋もれたその遺体は首に紐が巻かれ、身体全体が切り刻まれ、腹には“黒い売女”と蔑みの言葉が刻まれており、頭を金槌のような鈍器で殴られた痕跡もあり、割れたビール瓶が膣の中に挿入されている。そして彼女の両目は恐らくその瓶を使って刳り抜かれたようで、右胸の皮膚も一部切り取られ、遺体の傍に置かれている。 しかも彼女の遺体の周りには手足をばたつかせた跡、俗に“雪の天使”と呼ばれる天使の羽根のような痕跡が残っていた。本書の原題“Snow Angels”はここから採られているようだ。 このあまりに屈辱的な遺体の状況から黒人差別殺人の様相も呈してくる。 そしてほどなく容疑者が上がる。 それは彼女を愛人としていたヘルシンキの富豪セッポ・ニエミでしかも彼は主人公ヴァーラの元妻を奪った男だったという因縁の相手。従って元妻から過去の恨みから冤罪を着せようとしていると罵られ、更にはマスコミにリークさせられ、私怨逮捕の疑いを着せられるのだ。 しかも逮捕の決め手はセッポが遺体を捨てに来た車BMWの330iを持っていた事だったが、なんと彼女は複数の相手と性交を持っており、その相手のほとんどが同様の車種を持っていることが判明し、捜査が進むにつれて容疑者が増えていく奇妙な状況に陥るのだ。 BMWの330iは彼女が出演していた映画で使われた車種であり、彼女にとっても特別な、恐らくはセレブを感じさせる車だったのだろう。 更になぜかこの決して広いとは云えないキッティラで次々と人が死ぬ。 衝撃的なことにカリ・ヴァーラの片腕の部下ヴァリテリの息子ヘイッキが自宅で首吊り死体と発見される。しかも“彼(彼女)にやらされた”というスーフィアの事件に関与したかのような書を遺して。 更に彼のパソコンには女性との性交に溺れているかのような内容と黒人を蔑み、殺害するとまで書いた詩が発見され、ますます事件への関与が色濃くなる。 そして止めはヴァーラの元妻ヘリの死。彼女はヴァーラの妹が溺れ死んだ湖の氷の上でガソリンを溜められたタイヤを胴体に巻かれ、身動きできない状態で生きながら焼かれるという眼を覆わんばかりの拷問によって殺されるのだ。 さて黒人映画女優の死を発端にした本書は彼女の死を巡り色んなテーマが立ち上ってくる。 例えば本書メインの事件であるソマリア人の黒人映画女優スーフィア・エルミの目を覆うばかりにひどく拷問された死体はアメリカのエリザベス・ショートという娼婦が惨殺された事件、通称“ブラック・ダリア”事件を擬えていることでフィンランドの“ブラック・ダリア”としてマスコミに報道されることになる。 もしかしたら作者はこのカリ・ヴァーラシリーズをエルロイの「暗黒のLAシリーズ」に擬えて猟奇的殺人事件を扱った「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと思った。 そしてヨーロッパ特有の移民問題が本書の事件に絡む。 被害者のソマリア人は90年代にフィンランド政府によって受け入れられたソマリア難民の出だった。雪深き白人の国に突如として5千人以上の規模で流入してきた黒人。そして彼らはフィンランド国民同等の社会保障を受けることになり、それが国民たちの反感を生んだ。 更には混沌とした社会情勢の中で彼らはパスポートがないまま入国した者が多く、従って身分を偽ってそのままフィンランドで暮らし、そして一定の社会的地位と保障を得ているといった歪んだ構造になっているのだ。 つまり一つの事件、一人の死によってヨーロッパ社会問題を浮き彫りにする、ヘニング・マンケルのテーマの衣鉢を継ぐシリーズとしているようにも思われるのである。 そんな様々な要素を孕んだ事件の真相は何とも云えない苦いものだった。 気付けば死者が5人も出た陰惨な事件となった。 これほどまで多くの犠牲者を出した事件となかなか太陽が差さない、氷点下の日が続く極夜は決して無関係ではない。 この鬱屈した時期、フィンランドでは家庭内暴力が頻発する。 サイドストーリーとして街でも評判の荒くれ兄弟ヴィルタネンの従順な母親がとうとう酔いどれの暴力夫を刺し殺す事件が起きる。 更にヴァーラもまた自分の元妻がセッポに奪われた時に彼を殺害しようと思っていたことを告白する。 極寒の氷点下の土地では人が凍死するのは珍しくない。つまり彼らにとって死は珍しいものではなく、ありふれたものなのだ。 おまけに日が差さない極夜は人の心を凍てつかせる。話せば吐息が凍り付くので自然沈黙が多くなる。彼らは察することでコミュニケーションをとるが、それでは十分ではなく、話さないからこそ鬱憤も溜まり、そして死も身近であることから暴力が起き、そして人が死ぬ。 本書の悲劇は終わりなき夜、極夜が招いた悲劇なのだ。 そんな鬱屈した町キッティラ、いやフィンランドを舞台にカリ・ヴァーラとケイト夫婦は今後どうなるのか? 早くも冬の陰鬱なフィンランドの気候に、マタニティー・ブルーも相俟ってケイトはアメリカに帰ることを希望している。まずはその足掛かりとして首都ヘルシンキに、かつてヴァーラが住んでいた街に引っ越そうと計画している。 しかし極寒の地フィンランドであることには変わりなく、カリとケイトのヴァーラ夫妻の将来はまだ山あり谷ありだろう。 49歳という若さで夭折したトンプソンの描くヴァーラ・サーガはわずかに4作。この4作でこの夫妻と彼らを取り巻くフィンランドの事件は何を我々に語るのか。 じっくり味わっていこうではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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村野ミロ2作目の本書は失踪したAV女優の行方を追う物。それはレイプ同然に犯される様を撮影された一色リナという女優を探し出し、告発することを目的としたフェミニスト運動家の依頼を受けての物で、その後内容はディープでマニアックなAV業界へと踏み込んでいく。
最近でもAVに騙されて出演させられるレイプ被害が問題になっているが、本書はなんと30年前にその問題を扱った作品である。それほども前に既に問題視されていたのは寡聞にして知らなかった。 作者の江戸川乱歩賞受賞作にして村野ミロ第1作の『顔に降りかかる雨』でも失踪したフリーライターの行方を追う依頼であったが、その捜査の過程でミロはネクロフィリアや性倒錯の世界をモチーフにしたアングラパフォーマンスへと踏み込み、かなりディープでダークな世界を我々に見せてくれたが、本書も同じくこのレイプ被害と思われる理不尽な撮影と自傷行為の様子を淡々と映すといったAV業界の闇を浮き彫りにする。 AVも多々あり、普通AV女優が出ているものから、素人ナンパ物、そして特殊な趣味嗜好に特化した企画ものまで様々だ。その裾野は幅広く、全てを網羅するのは困難だろう。従って星の数だけAVがあれば星の数ほどAV女優もおり、そして1作のみで終わる女優未満のモデルもゴマンといる。本書に登場する一色リナもそんな泡沫モデルの1人である。 さて本書を一言で表すならばそれは“今を生きようと足掻く女たちの物語”だったことだ。 本書に出てくる女性たちは様々で主人公の村野ミロはじめ、依頼人の渡辺房江、彼女がレイプ被害を訴えるための神輿としようと考えているAVモデルの一色リナ。そして渡辺の活動を陰ながら支援するセレブの料理研究家八田牧子。 四者四様の女性たちの生き様がミロの捜査で語られる。そして彼女たちの印象はミロの捜査の成り行きでガラリと変わってくる。 まず依頼人の渡辺房江。最初彼女の印象は猪突猛進の、自分の目的のためには利用できるものは何でも利用する旺盛な活動家という印象で現れる。 彼女は己の正義、つまりAV撮影と称してレイプ被害に遭っている女性たちを救おうと奮闘し、何が何でもその生き証人として一色リナを探し出して訴訟を起こしたいと考えている。それは自身と経営する弱小出版社の名を高らしめることも想定してのことだ。つまり半ば売名行為でもある。 そしてその熱心さはミロの捜査の妨げになる。 しかし次第に彼女の行為は熱意が裏目に出ただけのことだと解る。強かな女性だと思っていた渡辺は、ミロが単に一色リナという女性を捜し出すことが依頼内容であり、そこから一色リナを担ぎ上げて渡辺の活動の協力をする気はないと断言すると態度を軟化させてミロの捜査を支援するようになる。 彼女の支援者八田牧子はテレビにも出演している有名な料理研究家であり、大手ゼネコン社長の妻であり、名門中学に通う2児の子供の母でもあり、全てを手に入れた、多くの女性の理想像とも云われている女性だ。彼女は一色リナが自分の子供だと云って付きまとわれており、自分が出演したAVのビデオテープを送りつけられるなど、半ば脅迫行為を受けており、彼女を探そうとしている渡辺房江に協力してスポンサーとなっているのだ。 一色リナを捜し出すという目的は同じだが、渡辺が一色リナを悲劇のヒロインに仕立て上げようとしているのに対し、八田は彼女を脅迫被害で訴えようとしている。まさに呉越同舟と云った状態であることが判ってくる。 そして彼女たちの依頼を受けて捜査をする村野ミロ。彼女の女性像について語るには後ほどにしよう。 最後の1人は渡辺、八田、ミロ3人の女性が足取りを追う一色リナだ。彼女ほど変幻自在に印象が変わっていく女性も珍しい。 依頼人を反故にして男と寝る女性探偵に自身の身体を傷つけることでしか金を稼げない女性からサイコパスへと転ずる失踪人。これは今までになかった新しい女性探偵小説かもしれない。 しかしこれらの設定からは主人公含め一切共感を生まないことも凄いが。 一方で本書に登場する男たちの印象はどこか薄い。 その中で最も存在感を示すのはミロのアパートの隣人の友部秋彦と一色リナのAVの販売会社クリエイト映像の社長、矢代亘の2人だ。 友部はバツイチのゲイで新宿二丁目でバーを経営している。彼はミロに紹介された弁護士に友人のニューハーフ礼矢の窮地を救ってもらったことが縁で彼女の捜査に協力するようになる。 ミロは友部の男の色っぽさと繊細さに惚れているが、彼とは寝ることすらできない。彼らは隣人愛で繋がっている同志という関係だ。 一方矢代亘はそのカリスマ性で色んな女性を魅了する会社社長で家族を持ちながら六本木の億ションを持ち、そこで気に入った女性と寝たり、自身もAVに出演したりする。肉体美を誇示し、その彼の魅力に敵ながらミロも抗えないでいる。 また他にはミロの父親村野善三がミロの依頼で北海道から上京して捜査に協力するのが新機軸だ。レイバンのサングラスを掛け、ツイードのジャケットに上下黒のシャツとパンツを履き、柄物のシルクベストを着こなすダンディだが、元探偵とはいえ、堅気には見えない風貌で登場する。 逆に探偵がこんなに羽振りのよさそうな格好をしていていい物かと首を傾げてしまうのだが。 そしてもう1人、事件の鍵を握る男性が富永洋平。彼はかつて一世を風靡したロックバンドのボーカリストでソングライターであったが、その後凋落して忘れ去られたアーティストである。 彼は自分の車の中で首を絞められて殺害されたことでニュースに取り上げられ、再び話題に上る。なお本書のタイトル『天使に見捨てられた夜』は彼の往年のヒットソングのタイトルでもある。 この元ロックスターと一色リナが繋がるのが『雨の化石』と呼ばれる謎の土の玉だ。 一色リナの足取りを掴むこの謎めいた土の玉『雨の化石』がミロを真相へと導く。 一色リナは自分の境遇をこの『雨の化石』に擬える。自分も灰に降った雨が固まってできたようなものだと。 そんな女と男の因果が絡み合った事件を地道に紐解いていく村野ミロ。 しかし12年ぶりに再会した彼女に対して、私は当時抱いていた主人公ミロに対する嫌悪感は結局変わらなかった。 女性探偵という物に私がか弱き女性が魑魅魍魎の社会の暗部で孤軍奮闘する姿を先入観として持っているのかもしれないが、この村野ミロは男に対する警戒心が弱いのがどうしても腑に落ちないのだ。 1作目も協力者でありながら敵役であった成瀬に平気で捜査情報をばらす軽率さが目に付いたが、本書でもミロは依頼を受けて探している失踪したAV女優の撮影をした制作会社の代表の矢代亘の放つフェロモンに抗えなくなり、二度も寝るのだ。 心では矢代のことを嫌いながらも彼の屈強な肉体と人を寄せ付けるカリスマ性に魅了され、身体が反応し、自分から求めてしまうのだ。そして仕事は軽蔑しているが貴方のことは好きとまで言葉に出す始末。 この、例え敵であっても女は相手が魅力的であれば寝る、それが女という生き物なの、という村野ミロの倫理観、もしくは作者のメッセージが私には気に食わない。 大人の女の不思議さを演出しているようだが、逆に村野ミロという女性の安っぽさを感じてしまうのだ。 私ならば強がっていても女性は男には弱いことを出すならば、生理的には嫌だが、ミロが求めるのではなく、レイプされる方を選ぶ。そしてレイプされて心が折れそうになっても、それが男の世界で生きていくことを選んだリスクであると立ち直る、そういう女性探偵の方がよほど共感できるのだが。 その嫌悪感はその後物語に大きく作用する。 私は女性探偵物をあまり読んだことないのだが、こんなひどい探偵はいないのではないか? これではただの男日照りの淫乱女である。そしてその事実を警察と実の父親にも知られ、ミロは更に深い自己嫌悪に陥るのだ。 さてそんなミロが屈辱にまみれながらも―自業自得も云えるが―辿り着いた真相は実に意外なものだった。 冒頭述べたように最後に判明するのは今を生きようと足掻いている女性たちの物語だった。 しかし唯一今を足掻いて生きていない女が主人公の村野ミロだ。 隣人のゲイの男に恋をし、叶わぬ恋だと一人で嘆くと、次は依頼人の敵であるAV制作会社の社長と寝る。 自分の本能のみに生きる女で彼女には軸がない。本来自分の規律で生きる探偵が意外なことに本書では最も信念を持っていないのだ。 一方でそんな状況を作ったのがエンタテインメントの世界の住民である事だ。 ロックスターだった富永が当時14歳の鳴滝牧子に手を出したために山川雪江の不幸と八田牧子の忌まわしき過去は始まった。 それは矢代亘が作っているAVが望まれない妊娠をしてしまった女性たちを生んでいる温床となっているとも云える。 登場人物の1人、レンタルビデオの店主がこんなことを云う。 アダルトビデオとは人の不幸を笑う物なんだと。 つまり本書は男たちの欲望で女たちの人生が蹂躙されていると暗に訴えているように思える。 “天使に見捨てられた夜”とは即ち男たちの欲望に蹂躙された女たちの夜だ。 西洋では赤ん坊は天使によって連れられるイメージが描かれているが、なるほど望まぬして得た赤ん坊はまさに天使に見捨てられた存在なのかもしれない。 本書に登場するAV制作会社社長矢代亘の姿はそんな男たちの欲望の権化なのだろう。そしてそんな彼に惹きつけられる村野ミロの姿は過ちを犯そうとしている女性の権化か。 いやはや桐野夏生氏は自ら生み出した探偵にそこまでの咎を負わせるとは何とも手厳しい。そして本書の内容は男性にとっても手厳しい作者からの忠告だ。 しかし男と女がいる限り、この“天使に見捨てられた夜”は必ずある。 判っちゃいるけど、止められないのよ。それが男と女なのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の季節の行事を絡めた4編と異色のミステリ短編5編が収録されている。
1年の始まりは正月だが、本書も「正月の決意」という作品で幕を開ける。 早くも東野氏の技巧の冴えが光る1編。正月の老夫婦のいつも通りの穏やかな風景から一転して神社で人が倒れているのを発見し、非日常が訪れる。 しかし正月早々に呼び出された警察官たちは昨夜の酒も残っており、士気が一様に低い。おまけに早く事件を解決して新年会に出席したいばかりに第一目撃者の主人公に嘘の証言を頼む始末だ。 そんな事件の真相は実にコミカルな物。 人生のおかしさを上手く描いた好編だ。 「十年目のバレンタインデー」はその題名通り、女性が愛を告白する日を扱っているが、その日は主人公峰岸にとっていつもと違う忘れらないバレンタインデーになった。 かつて愛した女性から10年ぶりに連絡がある。 男性にしてみればなんとも男冥利に尽きる話だ。再会してみれば当時と変わらず綺麗で、いや大人の落ち着きが出ただけに当時よりも洗練されている。しかも相手はまだ結婚してないと云う。更に再会のタイミングをバレンタインデーに合わせてきた。 ここまで来ればどんな男性も恋の再燃を期待するだろう。しかしそうはいかない。 しかしこの話、東野氏はある意味メタフィクションを意識して作ったのではないか。 というのもその作風の多様性と作品によって賛否両論が事あるごとにウェブで取り沙汰され、東野圭吾がファミリーネームで実は他に複数のライターがいて創作しているという都市伝説まで生まれているくらいなのだ。従ってこの峰岸はある意味、ある特定の読者が抱いている東野像を反映したものだろう。いやあ、何とも図太い作家だ、東野圭吾氏は。 「今夜は一人で雛祭り」は打って変わって子を持つ親の心配を描いた作品。 リアルな物語だ。手塩にかけて育てた娘は玉の輿に乗るのは嬉しいだろうが、果たして実の親としては本当に嬉しいのだろうか? 相手が地方の名家、いわゆるセレブであり、しかも相手の母親、つまり将来の姑は何かと手厳しそう。そんなところに1人の愛娘を嫁にやることの心配が濃く書かれている。 特に父親自身も妻が自分の実の母親から手厳しく躾けられていた経験を持ち、それを見ていただけに娘に対して同じ思いをしてほしくないと思う。この辺の設定は実に上手い。 しかし女は強い。姑に厳しく当たられながらも妻は上手にやり過ごしていたことを雛人形の飾りで三郎は知るのである。 京都女の強かさを思い知らされる内容だ。 しかし正直その内容は例えば星新一氏のショートショートに見られるような辛辣なものではなく、結末は実にハートウォーミング。 ところで主人公たちが試食会に行ったホテルはもしかしたらホテル・コルテシア東京なのかもしれない。そして三郎の雛人形の質問に対応したのは山岸尚美ではないかと思うのだが、どうだろうか? 「君の瞳に乾杯」は私もかつて若かりし頃に経験した合コンがテーマ。 いやあ、実にトリッキーな話である。30前でギャンブルにのめり込み、アニオタという冴えない男性像だった主人公が一転する。まさにツイスト感に溢れた作品だ。 次も上手さを見せられた。「レンタルベビー」は近未来の、タイトルが示す通り、赤ちゃんのレンタル業の話だ。 今、日本では少子化と未婚率の上昇が問題となり、毎年の出生率はどんどん下がり、2019年は政府予想よりも2年早くとうとう90万人を割ってしまった。それに加え、児童虐待問題も多々あり、折角生まれた子供も無事先人になれずに亡くなってしまうケースも増えている。 それはいわゆる日本の子育てにお金がかかる事と一方で経済格差が広がって、結婚したくても出来ない、子供を育てることができない家庭が増えていること、更には精神的に未成熟な夫婦が云うことを聞かない子供に暴力を振るうことなどが主な原因に挙げられている。 そんな中、本作に登場するレンタルベビーはまさに結婚、そして子育てのシミュレーションとしては実に有効だろう。人間と見まがうかの如き精巧さとなんと臭いや質感を再現したウンチまでし、夜泣きもすれば駄々もこねる。そして一方で言葉も覚えて「ママ」と呼び掛けたり、微笑んだりもし、子育ての大変さと愉しさをリアルに体験できるのだ。 そしてレンタル会社も急に発熱させたり、買い物に行けばどこかへいなくなったりといわゆる子育てあるあるトラブルを巧みに用意しており、利用者の心理を揺さぶり、ロボットに愛着を抱かせるようにしている。 しかしどちらかと云えばロボットとの共同生活という、藤子不二雄の『ドラえもん』から連なるオーソドックスなストーリーであるため、結末も予想できるのだが、流石は東野圭吾氏。私の、いや読者の想像の斜め上を行くのだ。 この結末には久々に星新一氏の切れ味鋭いショートショートを読んだほどの爽快感を味わった。 次の「壊れた時計」は打って変わって倒叙型のクライム小説。 依頼人のアリバイ工作のために犯罪を請け負う周旋屋という都市伝説的な話だが、ミステリの設定としてはオーソドックス。但し本書の主人公は周旋屋から仕事を斡旋される男がつまらぬミスで犯行が露見する話。 昨今の刑事ドラマも寧ろ防犯カメラに映ることを前提にしている内容が多い。東野氏の防犯カメラに対する認識の甘さが出た作品だ。 次の「サファイアの奇跡」は希少種の猫に纏わるお話。 不思議な猫の恩返しとも云うべき寓話か。青色の猫というのは青色の薔薇同様、非常に珍しい物らしく、ブリーダーの夢でもあるらしい。貧しい母子家庭で育った女性が小学校の頃に出遭った猫と、意外な形で再会し、そして青色の猫をどんどん生み出すブリーダーとなって裕福になるというお話だ。 しかしこれは今までの東野作品の中のヴァリエーションの1つとも云える作品だろう。従って本作に関してはそれまでの題材をミックスしてテクニックで書いた作品と思ってしまった。 さて4編目の季節の行事をテーマにしたミステリはありきたりだがクリスマス。その名も「クリスマスミステリ」と題名もど真ん中だ。 よくある男女の恋の縺れが殺人動機である本作はしかし東野氏らしいツイストを仕掛けてくる。てっきり毒殺したと思った相手が息を吹き返してパーティーに現れる。 この驚愕の展開に主人公は慄くが、相手は自分の不首尾を詫び、そして挙句の果てに自ら別れ話を告げる。男に取ってこれ以上願ったり叶ったりのことはないのだが、翌日彼女が遺体で見つかる。まさに上へ下へと読者を振り回す、ジェットコースターのような展開を見せる。 しかし本書はここまでだった。ただどうもアンバランス感が否めない。 また各登場人物の名前が黒須、鹿野、椛木、三田(さんた)とクリスマスに関連する名詞に擬えれていることから本作は東野作品にしては軽めのミステリの部類に入ると思われる。クリスマスを題材にしたミステリは傑作が多いが、本作は例外的にそれには属さなかった。 しかし次の「水晶の数珠」は最後を飾るに相応しい作品だ。 東野作品には色んなヴァリエーションがあるが、SF要素が入った作品も一大ジャンルを形成している。『時生』や『秘密』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』などがそれにあたるが、それらの作品から類推できるように東野氏のSF的要素を兼ね備えた作品はハートウォーミングな内容が多いことが特徴だ。そして本書もまたその系譜に連なる作品である。 度会家に代々伝わる水晶の数珠の秘密を語る話。 子どもを可愛がらない親はいない。表面では憎んでいるように思えても心の底では愛しているものなのだ。 2020年、東野氏は作家キャリア35年目を迎えた。 本書は2017年に刊行された短編集だが、雑誌掲載された短編を集めた物。最も古い収録作は1作目の「正月の決意」で2011年の作品で最も新しいのは「壊れた時計」で2016年の作品。 この事実を知って驚かされるのはそれぞれの作品のレベルが水準もしくはそれ以上の出来栄えであることだ。このことについてはまた後ほど語ることにしよう。 本書の背表紙の紹介文では季節の行事をテーマにした短編が収められていると書かれている。この季節の行事を扱った作品は「正月の決意」、「十年目のバレンタインデー」、「今夜は一人で雛祭り」、「クリスマスミステリ」の4編。 これらのうち前の3作はそれぞれ1月、2月、3月の行事をテーマにしていることから当初は各月の行事を扱ったミステリを書こうとしたのではないだろうか。 しかしさほどアイデアも固まらず、その後一気に12月の行事クリスマスをテーマにしたことからも察せられるように途中から行事に固執しない自由なテーマを扱った内容にスイッチしたのかもしれない。 その自由なテーマとは合コン、疑似家族、闇サイト、猫のブリーダー、俳優志願の男と様々でまたジャンルもミステリに特化せず、日常の謎系、倒叙物、SFからハートウォーミングと様々だ。 そしてそれぞれの作品には小技が効いており、話の内容に無理を感じさせない―いや中には感じるものもあるが―。 例えば「正月の決意」の正月早々に事件で呼び出された警察官たちの迷惑振りとコンパニオンが多数参加する新年会に参加するためにどうにか早く事件を解決しようと第一発見者に偽証を迫ったりするいい加減さに人間臭さを感じさせられる。そしてこの作品ではこの警察のいい加減さが見事なオチに繋がるのである。 一番驚いたのは「十年目のバレンタインデー」の露骨さだ。 主人公の作家は東野氏が日ごろネットなどで揶揄されている、いわゆる東野圭吾はハウスネームで複数の作家によって書かれているといった都市伝説を具現化したようなベストセラー作家であり、それらを逆手に取った、ある意味東野氏からの痛烈な仕返しとも取れる作品である。 「今夜は一人で雛祭り」は有名な童謡「うれしいひなまつり」に纏わる齟齬を上手く嫁姑の確執話へとつなげた手腕が光る。 恐らくそういえば雛祭りの歌って結構間違って雛飾りが解釈されているんですよねとどこかの担当編集者が語ったことが本作へと繋がったのではないだろうか。 「レンタルベビー」も精巧に造った赤ん坊ベビーに翻弄される女性の話だが、そんなに迷惑ならばすぐに返却すればいいのにという読者の思惑をきちんと想定して、早期返却には罰則金が掛かると設定しているのには唸らされた。こういう卒の無さに作家としての技術の高さが光る。 さてそんな中、本書のベストを挙げるとなると、「レンタルベビー」と最後の収録された「水晶の数珠」になるか。 前者は未来の育児のための予行練習として精巧な赤ん坊ロボットをレンタルするビジネスがあり、それを利用するカップルの子育て奮闘ぶりが描かれるが、これ自体はさほど目新しさを感じない設定である。独身女性が一人の赤ん坊に翻弄されるというのはよくある話なのだが、東野氏が優れているのはそんなありきたりな設定に二重三重にサプライズを仕掛けていることだ。上にも書いたがこれは星新一氏の切れ味鋭いショートショートに似た読みごたえを感じた。 後者は東野氏お得意のハートウォーミングSFだ。名家の長男が代々引き継ぐ水晶の数珠の秘密は今ではよくある秘密であるが、そこに“いつ父親がその力を使ったのか”という謎を見事親子の愛に繋げる東野氏の憎らしいまでのテクニックに唸らされるのだ。まさに本書のタイトル“素敵な日本人”のお話なのだ。 やはり東野氏は短編も上手いと改めて感じた。ウェブ上では東野作品は短編よりも長編が好きという感想が多く見られるが決してそんなことはない。短い中にも予定調和に終わらないツイストが盛り込まれており、最後にアッと云わされた。 通常ならば作家のキャリアも30年を過ぎればアイデアが枯渇し、いわゆる物語や結末に切れ味が無くなっていく。いや一流のベテラン作家ともなると凡百のアイデアをそれまで培った小説技法で上手く料理し、水準作ぐらいには仕上げるだろう。 しかし東野氏はどうだ。本書に収められた作品の数々はいまだに読者の想定を超えたサプライズに満ちている。 作家キャリア26年目から31年目の5年間という発表年月の幅があるが、そのどれもが水準作もしくはそれ以上の出来栄えである事に驚かされる―個人的に本書の中で一番内容的に劣ると思われた「壊れた時計」が2016年発表と本書の中で最も新しい短編であるのが気になるが―。 例えば私が読書を始めるきっかけとなった星新一氏は1,000編を超えるショートショートを書いたとして有名だが、それでも後期の作品は全盛期と比べるとやはり内容、質ともに劣化しているのは否めなかった。大作家という看板だけで収録されたのではないかと勘繰るような出来栄えの作品も複数見られた。 例えば私が星作品で衰えを感じたのは『どこかの事件』あたりだが、この時の星氏は作家キャリア28年目である。確かにそれまでのショートショート作品数と短編や長編の作品数を一概に比べることはフェアではないかもしれないが、それでも作家キャリア35年になろうとしている作家がこれほどクオリティの高い作品を提供していることに驚きを感じざるを得ないのだ。 つまり今、日本のベストセラー作品を35年目の作家が叩き出していることが凄いのである。 我々は本当に幸せな時代に生れたと感謝すべきだろう。なぜなら私たちには東野圭吾氏がいるからだ。 少年少女たちに読書の入口となってきた星新一氏、筒井康隆氏、赤川次郎氏、西村京太郎氏、内田康夫氏と連綿と続く国民的作家たち。東野氏は既にこの系譜に連なる国民的作家となった。さてこの東野氏に続く作家は誰なのか? それはまだまだ先の話になりそうである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京都にある星城大学に所属する文学好きが集まり、文芸部を立ち上げ、かつて名声を馳せた同人誌『あすなろの詩』復活を目指す学生たちの青春群像劇。集まった6人の若者たちの間で同人誌復活に至る道のりには文学談義のみならず、恋あり、自分の文才を信じた鍔迫り合いありといった文芸青春グラフィティが繰り広げられる。
但し鯨氏のこと、そこには平成のトレンディドラマを彷彿させるような華やかさはなく、どちらかと云えば昭和臭が漂う。 主人公の甲斐京四郎はミステリに傾倒する作家志望の大学1年生。しかしミステリに特化した読書のため、文学に関する造詣は深くない。 彼と大学受験時に邂逅し、文芸部「星城文学」立ち上げの中心人物となる玉岡千春はその若さとは裏腹に文学的知識が豊富な青年で部員たちもその造詣の深さには一目置く。 天間留美子は玉岡と高校時代の同級生でその時に文芸部の部長副部長の仲であり、また付き合ってもいた。しかし彼女も将来小説家の夢があるが、父親の厳しい躾がトラウマとなり、天真爛漫ながらも複数の男と寝ることで父親への復讐をしている、少し歪んだ性格の女性。 大牟田敦生は柔道部員のような体格をしているが、小説好きで色んな作家の本を読んでおり、読書をしているところを玉岡に見られ、甲斐に勧誘される。一旦は断るものの、天間留美子に一目惚れして入部する。彼は小説家志望ではない。 虎尾剛志は他の部員と異なる2年生だが、1年の時にプレアデス文学賞に作品が佳作入選した経験の持ち主で、その実力を買われてスカウトされる。玉岡と留美子の文学の知識の豊富さと鑑識眼の確かさに興味を持ち、入部し、部内では玉岡と互角かそれ以上の造詣の深さを誇る。 最後の入部したのが奥中かおりで、彼女は詩人志望で既にいくつか詩を書いている。江川文太郎を尊敬しており、その流れで「星城文学」に入部する この5人の男女は上に書いたように単に文学に対する鑑識眼の優劣を競い合うのではなく、男女の恋の縺れも発生する。 高校時代から天間と付き合っている玉岡は情事を重ねながらも彼女が自分から心が離れていることを感じている。 大牟田は天間留美子に一目惚れし、勇気を出して告白すると、いわゆる“サセ子”であった天間はその日のうちに大牟田とセックスをする。そして天間は彼の子を孕む。 主人公の甲斐と虎尾は奥中かおりを取り合う仲になる。最初に誘ったのは虎尾の方だが、文学的知識はあり、そして1年年長という大人な態度にかおりも魅かれるが、その武骨な風貌がどうしても受け入れられず、結局かおりはハンサムでスタイルもいい甲斐と付き合うようになる。 この男女6人が週に1回集まっては既存作品の合評会を行ったり、自作の合評会を行っては最後はいつも行きつけの飲み屋で飲み会をして語り合う。典型的な大学生ライフの模様が繰り広げられる。 そして作中では奥中かおりの自作の詩やショートショート大会で主人公甲斐が印象に残った天間留美子のショートショート、更には『あすなろの詩』の創設者江川文太郎が同誌に掲載した短編「悪夢は素敵」が織り込まれるなど、なかなか意欲的な内容となっている。 文学好きという共通項で集まった仲間はしかし既に大学生という半分大人のような存在で、それぞれに野心や欲望を秘めている。 上に書いたように真っ先に挙げられるのは部内の男女関係の縺れだ。玉岡と天間は以前恋人関係にあったが、天間の心は既に離れており、単に身体を重ねるだけの関係になっている。彼女は父親の厳しい躾に反発して彼の望まない娘になろうと意図的に複数の男と寝る。 大牟田はそんな彼女の真意を知りながら、彼女を自分に向かせようと天間留美子を清濁併せて愛そうとする。 奥中かおりを巡っては虎尾と甲斐が争う。最初に仕掛けたのは虎尾で、映画を観に行くとデートに誘って成功するが、二度目のデートでホテルに誘うと断れる。 一方甲斐は勇気を出して奥中をデートに誘うがあいにく虎尾との先約があった彼女はそれを断り、奥中が自分に気があるとある程度持っていた自信が崩れ、心神喪失気味になるが、虎尾のことを振った彼女から呼び出しを受け、逆に告白されて付き合うようになる。その後も妊娠した天間が甲斐に相談した時に話が長くなって香との約束の時間に遅れてデートがキャンセルになった時に偶々天間と一緒のところをかおりに見られて、二人の関係に罅が入るものの、その後誤解であることが発覚し、再び寄りを戻す。 一方野心と云えば、やはり部の創設者玉岡と既に文学賞で佳作入選の経験のある虎尾の水面下での戦いだ。合評会で見事な鑑識眼で的確な批評をする虎尾と玉岡の目に見えぬ火花を散らすやり取りはどちらが実力として上なのかを知らしめるための戦いでもある。 そんな中で玉岡は文学賞に応募し、見事最終候補に残るが、虎尾は最終候補に残ったと云っても10作のうちの1作でしかない、あまり期待しない方がいいと牽制する。 そんな男女間のやり取りと玉岡と虎尾の戦いを含めて各部員たちの文芸作品に対する造詣の深さに感じ入る主人公甲斐京四郎は、いわばミステリ好きが高じて作家になる夢を抱いた単なるミステリ読者にすぎない。つまり我々読者を投影したような存在である。いや甲斐は我々読者よりも読書量の少ない、本読みの卵のような人物だ。 それらに加えて「あすなろの詩」第1号の発刊に向けて、創作活動に励み、資金集めに東奔西走しながら、とうとう彼らは刊行にこぎつける。そして約束通りに北海道合宿へと臨む。 とここまでが前半。 しかし後半になると物語はガラッと様相を変える。 無事『あすなろの詩』創刊号を発行した「星城文学」の一行は高熱で自宅療養せざるを得なくなった甲斐京四郎を除いて、大牟田の別荘へ合宿に行く。そしてそこで連続殺人事件に巻き込まれるのだ。 電話が通じず、外は嵐で町へも下りれない、典型的な“嵐の山荘物”ミステリの状況下で般若の面を被った犯人に次々と殺される。夜中に一晩につき1人ずつ殺されては離れで首吊り死体のように吊るされ、陳列されていく。 般若の面を着けた殺人鬼が最初に奥中かおりの部屋を訪れて殺し、次に大牟田敦生が殺され、そして玉岡千春が第3の犠牲者になり、最後虎尾と天間2人が玉岡の首吊り死体を発見したところで停電になって終える。後日病気から回復して大牟田の別荘を訪れた甲斐京四郎に部員5人全ての首吊り死体を発見される。 般若の面は大牟田の別荘に以前からあった物で被ると精神が錯乱し、人を殺すと云う謂われがあり、更にこの別荘で人殺しがあったという。 私はどちらかと云えば鯨氏のミステリはダジャレや言葉遊びのような強引な印象を持っていただけに本書の端正さは意外だった。しかしよくよく考えるとあの歴史ミステリ『邪馬台国はどこですか?』でデビューした作家なのだから、論理的ミステリに長けた作家ではあるのだ。 真相に対して、そんな馬鹿な、あり得ないと若い頃の私なら一笑に付していただろう。しかし今、例えばコロナウイルスの影響で外出自粛や宴会の禁止などの制約下の中でストレスを感じているからこそ、この動機は案外腑に落ちた。 しかしこんな特殊な状況でなかったら理解しなかったかと云えば、ある程度人生経験を重ねてきた今なら、周囲の環境や人の言動、そして物に宿るバックストーリーが人の心に作用し、思いも寄らぬ言動を招くことは十分理解できるので受け入れやすくはある。 また一方でこの大牟田の別荘はスティーヴン・キングが云うところのサイキック・バッテリーでもあったとも考えられる。「星城文学」の部員の面々は人殺しの過去があるこの別荘の孕む因縁に囚われたのだ。 これはやはり上に書いたようにコロナウイルスの影響下である事、そしてこの本を読むまでにキングの作品を読んでいたことと、それを論じた北村薫氏のエッセイを読んでいたというそれまでの読書遍歴があったことなどが重なったために理解は深まったといえよう。 私はまた本に呼ばれたのだ。 鯨氏の作品には博識ゆえの作者特有のお遊びが散りばめられているのが特徴だが、本書も同様。 特に新本格ミステリを題材にしたものが多く、例えば「星城文学」創立記念の飲み会で甲斐は新歓コンパでの一気飲みはご法度だけどと綾辻行人氏の『十角館の殺人』のエピソードを織り交ぜれば、大牟田の北海道の別荘は少し斜めになっていると島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』の流氷館を思わせ、ニヤリとさせられる。しかし実際に合宿が始まると斜めになっていることは一言も触れず、少し違和感を覚えるのだが。 またミステリ好きの甲斐と文学全般を読む他の面々との嗜好の違いによる疎外感も垣間見れて面白い。 例えば彼が好きな作家として井上夢人氏を挙げたが誰も知らなかったこと―こんなこと書いて大丈夫か?―や、合評会で泡坂妻夫氏の『しあわせの書』を推薦したが誰も賛成しなかったとか、髙村薫氏や奥村泉氏などページにぎっしり字が書かれた作品は苦手なのに対し、他の部員は苦にもなっていないといった、いわゆる一時新本格ミステリがブームになった時に増えたぽっと出の読者の素人ぶりが甲斐を通じて語られるのである。 特に面白いのは村上龍氏の『五分後の世界』の合評会の場面だ。上に書いた甲斐が見開きページにぎっしり文字が詰まった作品が苦手というのはこの合評会の中で出てくる心情で、そのことについて1ページ読むのに時間がかかることに対するストレスが招く先入観から来る苦手意識だと玉岡に説かれる。 これは海外作品を読むのが苦手というのに読み替えてもいいだろう。 だいたい海外作品を読まない人たちの多くはその理由として登場人物たちが頭に入ってこないと云う。それはカタカナの名前がどうも苦手だというのだ。ジョーやジョンやジェーンやジャックといった似たような名前が多く、誰が何をしゃべっているのか解らなくなるという。 これもまた先入観だろう。 なぜならマンガやアニメ、そしてゲームではカタカナの名前の登場人物が大半を占める。しかしだからと云って混乱しない。それは小説と違いヴィジュアルがあるからだろう。似たような名前でもヴィジュアルと結び付けることで同一化できる。文章だとそれが出来ないから混乱するという先入観から苦手意識が生まれているのではないか。 他にも都筑道夫は逆に「ページが文字で黒く埋まっていないと読む気がしない」と述べているとの感想もあったり、また小説を、物語が楽しいからこそ読むのに対し、髙村薫氏は今まで小説を楽しみを求めて読んだことはないとの言葉に衝撃を受けるといったことへの考えなども語られており、この『五分後の世界』の合評会には案外ページが割かれ、本の読み方や姿勢について様々なことが書かれていて、興味深く読めた。 また最後に付せられた参考文献に江川文太郎の著書が載っているのもまた作者ならではの虚構と現実の境を曖昧にさせる作者ならではだ。 大学時代、ワセダミステリクラブや慶応義塾大学推理小説同好会といった文芸サークルがなかった私にとって文芸部「星城文学」の活動はなかなか面白く読めた。SNSやブログに小説投稿サイトなど電子化での創作活動が進んでいる昨今、彼らのようにスポンサーを集め、同人誌を刊行すると云った活動がされているのかは不明だが、だからこそ昭和の香りを感じさせるノスタルジイを本書はどこか感じさせる。 もしかしたらこれは作者自身の青春グラフィティなのかもしれない。明日は作家になろうと常に思いながら創作に励んでいた作者の思い出がタイトルと同人誌に込められているのではないだろうか。 そして「星城文学」の面々全てが亡くなる結末は失われた過去への、もう戻れぬあの頃の思い出への作者なりの決着なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Gシリーズ2作目で今度のギリシア文字はθ。θといえばサイン、コサイン、タンジェントでお馴染み三角関数で使われる変数θと、英語の“th”の発音記号を想起させるなど、色々想像を巡らして読んでみた。
今回は那古野市で連続する飛び降り自殺の当事者が押しなべて身体のどこかに―1人は例外的に靴の中に―口紅でθの字が書かれている共通点がある。 このθ。時にカタカナでシータと評される今回のギリシア文字は作中それぞれの犠牲者で様々な意味合いを以って示される。 早川聡史はthetaの文字のあるURLを打ち込むと謎めいたサイトにアクセスする。そこではアクセスする者は信者となり、サイトとのコミュニケーションをシータと呼ぶ。 一方で3番目の自殺者田中智美のパソコンの壁紙には大きなθの文字が書かれており、彼女はそれを神の紋章と云っていた。 このように何やらカルト宗教的な色合いを秘めて物語は進行する。 更に前作同様本作でもタイトルと同じ文章が登場する。第1の自殺者早川聡史が自分宛てに送ったパソコンのメールに書かれていた一文が「シータは遊んでくれたよ」だった。 しかしやはり森ミステリには色んな疑問がどうしても残ってしまう。 例えば第2、3の自殺者の動機が不明だ。なぜ彼女そして彼は自殺したのか?そのような節もなく、唐突に。 そして第1の自殺者も引っ越したばかりのマンションから飛び降りているのも腑に落ちない。 そして相変わらず森作品における警察の情報の取り扱いは噴飯物である。 今回事件を担当するのは愛知県警の捜査一課の近藤だが、彼はC大学の国枝助教授の研究室に招かれて西之園萌絵、反町愛、加部谷恵美と海月及介、山吹早月、そして探偵の赤柳初郎らの前で捜査の進捗を語るのである。守秘義務第一、更には中に容疑者がいないとも限らないのにこれだけ警察関係者以外の人間に大事な捜査情報を語ること自体、現代の警察官がやることとは思えない。しかもコーヒーとケーキを食べながら。 そして犀川の存在は更に神格化されつつある。犀川は海月が気付く前に事件について彼と同様の結論に達していた。 どうも森氏は犀川を御手洗潔張りの超天才に仕立て上げようとしているようだ。 御手洗潔と云えば本書刊行の約11年後に同じく連続飛び降り自殺事件を扱った『屋上の道化たち』―その後『屋上』と改題―を上梓している。そして連続自殺事件と云えばジョン・ディクスン・カーの『連続自殺事件』を想起させ、その作品も高所からの落下がメインの謎であった。 しかしなぜかこの飛び降り事件物は傑作が生まれていない。どれも真相には微妙な感じが残ってしまう。 その呪縛からは本書も逃れられなかった。 本書で残る最大の謎はシータという謎めいたサイトだ。実はこれについては探偵の赤柳が保呂草潤平とコンタクトを取ることで少しばかり正体が明らかになる。 しかしやはり森作品は刊行順に読むべきだと痛感した。 また謎と云えば加部谷が赤柳との対話で発想する、前の事件―『Φは壊れたね』―と繋がりがあるのではないかという疑問だ。これはもしかしたらこのGシリーズ最大の謎かもしれない。 一連の妙に割り切れなさの残る事件の裏側には何らかの繋がりがある事を森氏は読者に暗示しているのではないだろうか。 しかし第1作に続き、本書もまたその真相にはモヤモヤとしたものが残る結末となった。いや、海月の事件に関する推理の内容は第1作に比べれば格段に納得できるものではあるのだが、上に書いたようにその他諸々については説明もないため、モヤモヤ感を抱いてしまうのだ。 また正直加部谷、山吹、海月らメインキャラクターの個性もまだ感じられず、キャラ小説としての妙味を感じないでいる。加部谷は森作品にありがちな、とにかく口を出したがる女性キャラ、狂言回し的な役割に過ぎない。個人的にはVシリーズの登場人物たち同等の愛着を感じたいのだが。 また西之園萌絵に続き、本書では彼女の友人でもあった金子の恋人反町愛も登場し、S&Mシリーズ後日譚めいてきた。 ただそんな趣向では私は騙されない。過去は過去として新たなキャラクター達がキャラ立ちしてこその新シリーズなのだ。 このGシリーズはキャラも含め、内容にモヤモヤ感が残ってしまうのだが、それがシリーズ最終のビッグサプライズに繋がることを期待して、次も読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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コナン・ドイル財団公認のホームズ譚続編を2作上梓し、もはやパスティーシュ作家として有名になったホロヴィッツが手掛けたのはイアン・フレミング原作の、世界でもっとも有名なスパイ小説007シリーズだ。しかもホームズ作品同様にイアン・フレミング財団直々に007シリーズの新作依頼がされたとのこと。
007シリーズの続編はこれまでもジョン・ガードナーやジェフリー・ディーヴァーなど錚々たる作家が書いており、ホロヴィッツもそのメンバーに名を連ねるようになった。 私が今回感心したのは物語の舞台を現代ではなく、過去、つまりイアン・フレミングが現役で新作を紡いでいた時代に設定しているところだ。しかも時代としてはボンドがプッシー・ガロアと共に組織を壊滅に追い込んだ『ゴールドフィンガー』の直後、つまり1950年代となっている。 ディーヴァーの007シリーズは物語の舞台を現代にし、またボンドも若者に設定しており、スマートフォンのアプリを駆使してスパイ活動する実に若々しい内容になっていた。それはそれで作者としての特色も出ており、興味深い物であったが、どうしても往年の007シリーズを映画でも見ている当方にしてみればどこか違和感を覚えたのは正直なところだった。 しかし本書は当時の時代設定でまだ携帯電話すらない時代だ。逆にそれが007シリーズならではの雰囲気を演出しており、私個人的には映画の007シリーズの世界に一気に引き込まれるような錯覚を抱いて、物語世界に没入することができた。 さてそんなホロヴィッツ流007はまずボンドがレーサーに扮してスメルシュが画策する現在優勝争いトップのアメリカ人レーサー暗殺計画を阻止せよという任務から幕を開ける。 私は007シリーズを映画でしか見たことがないので、敢えてそれをベースに述べるが、今までの007シリーズでも類稀なる身体能力を発揮してプロさながらの腕前を見せてきたボンドだが、流石にこれは無茶ぶりだ。 彼もカーレースが趣味で齧っているということで任務に選抜されたが、明らかに無理がある。そして彼の相手はロシアのトップレーサーで腕前は一流ながらも過去に他のレーサーを故意に事故らせたとして処分された男。更にレースが行われるのはドイツのニュルブルクリンク。 しかし読書というのはどうしてこうも私を導くのか。 このボンドがレースに挑むドイツのレース場ニュルブルクリンクは実在するレース場でしかも世界でも最も難易度の高いレース場として知られており、本書に書かれている様々な悪条件は決して誇張ではない。そしてそれを私はつい先週に観たF1レーサー、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントの伝記映画『ラッシュ/プライドと友情』で知ったばかりだ。ニキ・ラウダが全身大火傷を負う大事故を起こしたのがこのニュルブルクリンクだったのだ。まさに本書を読むに最高のタイミングだったと云えよう。 とまあ、知識があればあるほど今回の導入部の無茶ぶりが解ろうというものだ。 その後物語の軸は謎の韓国人実業家ジェイソン・シンことシン・ジェソンへと移る。 レース場でスメルシュの幹部とやり合っていた、1950年代当時ではまだ珍しかったヨーロッパの上層階級の交流場にいるアジア系のこの人物は人材派遣業で一大財を築いた男。 このスメルシュとの関係から繋がった糸はやがて偽札事件を追うアメリカの財務省に属する秘密捜査局の人間ジェパディー・レーンへとボンドを繋ぎ、更にロシアが画策するアメリカの宇宙ロケット打上失敗を絡ませたニューヨークの中心エンパイア・ステート・ビルの直下で地下鉄に乗せた、マンハッタン中心部を壊滅状態に陥らせるほどのテロ計画が発覚する。 つまり本書におけるボンドの敵はスメルシュではなく、韓国人の実業家シン・ジェソンだ。 彼は貴族階級の出で裕福な家庭に生れ、自身もソウル国立大学で経営学と法律を学び、英語もマスターしたエリートとして順風満帆な人生を送っていたが、朝鮮戦争で1950年6月25日に北朝鮮の韓国侵攻で避難生活を余儀なくされた。そして北朝鮮に加勢したアメリカ軍によって自分の家と祖母の命を失くし、ノグンリの橋に差し掛かった時にアメリカ軍用機から苛烈な攻撃を受け、一人命からがら生き延びた男だ。 妹を守ろうと胸に抱えて必死に避難したが、実は助けていた妹に弾が当たって自分の命が助かったという過酷な過去を持つ男だ。 そして去り際に祖母が渡してくれたブルー・ダイヤモンドを元手に人材派遣会社を立ち上げ、今の地位を築いた男だ。 このシン・ジェソン、なかなかの手強い相手でボンドは何度も窮地に陥る。 さて007シリーズの定番と云えばやはりボンドガールの存在だ。今回ボンドは3人の美女と出遭う。 1人目はプッシー・ガロア。彼女は前の任務ゴールドフィンガーの金塊強奪計画で知り合ったゴールドフィンガーの手先で同性愛者組織セメント・ミキサーズの首領で共に計画阻止を行った女性。 その任務の後、ボンドと共にロンドンへ渡り、同棲を続けていたが、ゴールドフィンガーの残党に拉致され危うく殺されそうになる。 2番めの美女はボンドにレーサーになるための訓練を行った女性ドライバー、ローガン・フェアファックス。 最初はボンドのレースへの挑戦を無謀だと思い、彼の運転技術を見くびっていたが、日に日に上達する彼を見直し、食事を共にし、その後一緒の部屋に行くまでになるが、プッシー・ガロアの拉致事件が起きて、ボンドと共にガロア救出へと向かい、なんとその後はガロアと恋仲になってアメリカに渡ることになる。 そして3人目の女性こそが今回のボンドガールだ。ジェパディー・レーン、Jeopardy、即ち「危険」をファーストネームに持つ彼女の正体については既に述べているのでここでは繰り返さないが、彼女の経歴もまた異色だ。 父親を6歳の時に亡くし、母親に捨てられ、路上生活を送っていたところを巡回サーカスに拾われ、そこで数々の曲芸を身につける。母が肝臓ガンで亡くなった後、叔父に拾われ、きちんとした教育を受けてアメリカ政府に仕える身になった。そしてその魅力は午前4時にも関わらずボンドに欲情を掻き立てさせるほどだ―というよりもボンドの性欲の凄さには驚かされるやら呆れるやら―。 そしてそのボンドの内面についても描かれるのが興味深い。 上にも述べたように私はフレミングの作品を読んだことがなく、映画でしか見たことないのだが、そのスーパーヒーロー然としたキャラクターはタフさが強調され、繊細さが描かれるようには感じられなかった。しかし本書ではボンドがスーパースパイであると同時に1人の人間としての弱さを備えていることも描かれる。 彼が色んな女性と色恋を繰り広げられるのは1人の女性と長く暮すことに苦痛を覚えるからで、一時の情熱にほだされるが長くは続かないことが吐露される。 またそれまでの任務が数限りなく悪の手下どもを抹殺してきたことに思いを馳せる。 絶大な権力を持つボスに家族や自身の命を盾にして好むと好まざるとに関わらず悪事に加担し、従わざるを得なかった、それまで普通の暮らしをしていた者もいるだろう、家族もいるだろう手下たちを殺してきた自分は果たして正しかったのかと自問する。“殺しのライセンス”を持つボンドは決して殺人機械ではないと自らを納得させることに成功する。 しかし毎回思うのだが、ジェームズ・ボンドはスメルシュやスペクター、またCIAやKGBにつとに知られた名前、コードネームだろう。 しかし彼はいつも他の職業に扮してもその名を名乗るのだが、なぜ偽名を使わないのだろうか。恰もスパイが来ましたと名乗り出ているようなものではないか。よほどその名前に誇りを持っているのか。 閑話休題。 常々述べてきたがホロヴィッツは本当に器用な作家だと今回も痛感した。先に述べたように時代設定を敢えて007シリーズがリアルに執筆されてきた1960年代にすることでシリーズ特有の雰囲気を味わえるし、また正典のキャラクターやエピソードもふんだんに盛り込まれ、地続き感が味わえた。 しかしやはりそれでもこれまでの作品にはどこか物足りなさが残るのは否めない。 それはやはり既存の有名シリーズのパスティーシュ作品であるがゆえに避けられないオリジナリティの欠如だ。 人気シリーズが作者の逝去によって続編が期待できないことはファンにとっては残念なことであり、その続編を他の作家が書くことは期待と不安が入り混じった物になる。ホロヴィッツはその器用さゆえに水準をクリアしているのが素晴らしいところだが、出す作品がいずれもパスティーシュになると、ましてや1つのシリーズのみならず、他のシリーズも同様に書くとなると、この作家は自身で新たな作品が創出できないのか、つまり既存の設定の上でしか書けないのかと疑いたくもなる。 彼のオリジナル作品である少年スパイアレックス・ライダーシリーズも必ずしもホロヴィッツの独自色が出ているわけではなく、既存のスパイ小説、特に007シリーズの影響が色濃く見え、寧ろ作者がそうすることで解る人には解るマニアックな愉悦を与えているような感さえある。 まさに職人作家とも云える才能と姿勢なのだが、水準は保てても突出したものが生まれないきらいがある。 しかしその懸念を振り払ったのが2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』である。この作品をようやく読むに至った。 それまでの作品で蓄えてきた技能と技巧がどのように結実したのか、じっくり確かめながら読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデルの短編集は過去に2冊読んでいるが、長編さながらに短編もレンデル特有の毒に満ちており、一読印象に残る作品が多いのが特徴。従って今回もそんな期待の中、読んでみた。
開巻最初の作品は表題作である夫婦の奇妙な“浮気”を扱った物。 男に対する免疫のない女性。 少し女性っぽく、そして女装をして完璧な女に成りすますことのできる男性。 女性は女性の心を持つゲイやオカマ、いわゆるトランスジェンダーに異性よりも抵抗なく接しやすいと云われるが、まさにクリスティンはその典型だった。 公の貌から私生活の貌へと変貌した男に怖さを覚える世慣れぬ女性の恐怖心がよく描かれた作品である。 次の「ダーク・ブルーの香り」も男と女の関係の話。 かつて愛した女性との再会を求めるのは女性よりも男の方がその思いが強いようだ。私も経験があるが、女性は恋に対して踏ん切りがつきやすく、別れてもすぐ次の恋に向かっていけるが、男は未練が残り、なかなか次に踏ん切れないでいることが多いのではないか。 斯く云う私もその経験者の1人なのだが。 本作の主人公の男もかつて別れた妻への思慕が募り、退職してから再会を望むようになった。彼の中に残る彼女の姿は若かりし頃の元妻の肖像。そして男は年不相応な若々しい風貌をしていることから、相手もそうではないかという錯覚に陥る。 このオチは容易に読めるだろう。 しかし愛は盲目で通常ならばそんな馬鹿な!と思われるようなことも盲目ゆえに信じてしまう。人を狂わせるのもまた愛なのだ。 「四十年後」はそのタイトル通り、回想の物語だ。 田舎の町で男女の不埒な関係がすぐに町中に伝わるような閉鎖された場所に送られた思春期の女性の回想譚。 出征中の夫を待つ美貌の妻。そこに現れた美男のパイロット。それを盗み見て男と女のロマンスと、セックスの妄想に耽る私。 いつの世も不倫に纏わる話の結末はこの上なく苦い。 いわゆる曰く付きの家というのがあるが、「殺意の棲む家」はそんな家を買った夫婦のお話だ。 幽霊が出るとか人殺しがあったとか、いわゆる曰く付きの家に住んだ人々には表面上は気にせずにいても、ふとそれが潜在的に意識され、そして妙な違和感を覚えるものである。スティーヴン・キングはそういう得体のしれない雰囲気を宿した物をサイキック・バッテリーと評したが、ある意味本作のカップルが買った家もそれに類するものだったのかもしれない。 真夜中に勢いよく閉まる窓。この実に些細な厄介ごとが、住民たちの神経を蝕んでいく。 「ポッター亭の晩餐」は一種面白みのあるデートシーンから始まるが、展開は予想外の方向へと移る。 イギリス男児特有のプライドの話。 最初はお財布代わりに誘われた男が、次から次へと高級料理を注文する女性に財布と心が蝕まれていく、半ばコメディな物語と思いきや、因縁の相手の浮気現場を目撃する展開になり、高額の食事代を立て替えられたことに奮起し、なけなしの貯金の中から鼓舞して返還をする若き男のプライドが示される。 原題の意味は「賄賂と堕落」だが、堕落は賄賂に屈したわけではなく、魂を売ったことに起因するのがレンデル流の捻りだ。 「口笛を吹く男」はレンデルでは珍しくアメリカと南米を舞台にした作品。 海外のメイドや使用人は手癖が悪く、すぐに家主の持ち物をくすねるが、本書のジェレミーもまたそんな盗癖を持った若者だ。そして彼がどこかの家の鍵を手に入れ、そこにある物をくすねてしまおうと企む。しかしそれは家主の壮大な復讐計画だったことが最後に判明する。 この復讐者マニュエルはいつも口笛を吹きながらその日暮らしをしている年輩の男性だが、のどかに見える口笛吹きが実は心の中では淡々と遠大な仕返しを練っていたと思うと、心に寒さを感じざるを得ない。 いわゆる老害を扱ったのが「時計は苛む」だ。 仲のいい老人たちが、いつか来るべき時と意識しつつ、また次第にボケが始まっていく恐怖に慄きつつもお互い行き来してそれぞれの生活に変化を与えながらその日その日を暮していく様を語りながらも、突然破局を迎える様がごくごく自然な成り行きで語られる。 欲しいと思った時計が既に売却済みだったことがしこりとなり、店に再び行ってみると店主は居眠りして気付かないので、思わず魔が差して時計を盗み出してしまう。 こんな些細な犯罪がやがて・・・。 特異な性癖を扱ったのが「狼のように」だ。 実に変わった内容だ。 40を超えた男が狼の被り物を着て狼ごっこに興じる。定職にも就かずアマチュア劇団に所属して役者として出演する生活を送る男。 しかしその狼ごっこがやがて彼の中で狼そのものと同化するようになる。 人間の心の狂気を必然性を以って語るレンデルだが、こんな話、レンデルしか書けない。 ちなみに原題の“Loopy”は英和辞典では「狂った」とか「ばかな」という意味が挙げられているが、本書ではラテン語で狼を表すルーパスから派生した言葉であるとされている。 次の短編「フェン・ホール」のタイトルは主人公プリングル達3人の少年がキャンプをしに連れられたリドゥン氏の家の名を指す。 父親の友人宅の近くでキャンプをすることになった彼らが遭遇した事故。それは前日の強風で倒れた木を剪定している時に起きた不意の事故。木を切った時にバランスが崩れ、根っこが穴に落ち、そこにいた妻が下敷きになって死ぬ。 しかしその前夜に夫婦が云い争う声を聞いていた彼らはそれが本当に事故なのか故意なのかが解らない。 不穏な空気を纏って物語が閉じられるのは次の「父の日」も同様だ。 結婚し、子供が生まれて家族が形成され、それは安らぎの場になったり、もしくは疎ましく思う場になったりと様々だが、愛情が強すぎるとそれを失う恐怖感に苛まれるようにもなるようだ。この実に特異な恐怖観念に囚われた男の話だ。 子供を大事にするあまり、外出時もベビーシッターに頻りに連絡を取り、安否を確認する、妻が綺麗になったら子供を連れて逃げやしないかと慄く。勝手な被害妄想だが、旅行最終日に現地の友人と食事に行った夫婦は夫しか戻ってこなかった。 彼の話では妻はその友人とドイツに帰ると云って家族を捨てたと云う。しかし彼の掌にはざらざらした石の表面に押し付けたような小さな穴がいっぱいついていた。それは滑りやすい崖で落ちないように踏ん張ったかのように。 果たして本当に彼の妻は家族を捨ててしまったのか。 それともいつか子供たちを盗られると思って夫が崖から突き落としたのか。 しかしこの結末はもはや自明の理だろう。 そして題名「父の日」には一読後、戦慄を覚える。のどかな言葉が一転して恐ろしさを帯びるところがレンデルらしいと云えばらしいが、それにしても…。 さて最後の短編「ケファンダへの緑の道」はそれまでとは毛色の違った作品だ。 何とも云えない味わいを残す作品だ。 小説家が小説家を語る時、そこには小説家自身が投影されているだろうと思えるが、レンデルは英国女流ミステリ作家としてP・D・ジェイムズと比肩する一流作家であるのに対し、本書に登場するアーサー・ケストレルは新作が発表されても批評家も取り上げない売れない作家であるところが興味深い。 本作はそんな不遇な小説家がヒットを放つ、というような話ではなく、あくまでレンデルはシビアに描く。 ファンタジーのシリーズ小説を発表しながら、決して書評に挙げられることはなく、毎月数多出版される作品群の中に埋没するだけ。従って毎回作品を発表した後は鬱に見舞われ、家に引きこもる。それを繰り返す。 そして初めて書評に挙げられた作品が最後の作品となる。 レンデルの第3集目となる短編集は1985年に本国イギリスで刊行された物で、バーバラ・ヴァイン名義であるの第1作『死との抱擁』が発表される前年に当たる。 ヴァイン名義の作品は犯罪を扱いながらも純文学に寄り添った作風であるのが特徴だが、その志向が滲み出ているせいか、本書収録の作品も純文学に寄り掛かったミステリが多いように思える。内容的には人間の心が思いもかけない行動を起こす物が多いように感じるのだ。 それは各編が男と女の関係の纏わる皮肉な結末を扱っているからだ。 特殊な不倫関係、別れた妻との再会を望む男、出征中の夫を持つ妻の不倫、曰く付きの家を購入した夫婦、父親の敵の浮気現場を見つけた息子、家主に隠れてセックスを交わす若い男女、40を超えたカップルと息子離れしない母親、価値観の違う夫婦、綺麗になった妻に子供と一緒に逃げられやしないかと恐れる夫。 そして内容は自分を変えたと錯覚したがゆえに陥った過ちだったり、幼い頃のトラウマとなったことが年月を経て判明した事実で自分の抱いた推測が確信に変わったり、噂だと一笑していたのにいつの間にかそれに取り込まれてしまったり、プライドを護ろうとしたことが相手に格の違いを見せつけられ、卑しき虚言者に陥る者や相手の寛容さを利用して金を騙し取ろうとしたが逆に罠に嵌る者もいる。 その中でも最も変わったのが「狼のように」に出てくるコリンとその母親だ。 後半に行くと更に真相は曖昧になる。 例えば「フェン・ホール」と「父の日」がそれに当たるだろう。 収録作品中男女の情愛がないのは「時計は苛む」と「ケファンダへの緑の道」だ。 前者は仲の良い老人仲間の話でそこにしかしそこには長らく築いた友好関係が存在するのだが、微罪によってそれが崩壊する、実に皮肉な様が描かれている。 後者は売れない小説家が初めて自作を批評される話だ。 この「ケファンダへの緑の道」が本短編集の中の個人的ベストだ。 全ての作品に共通するのは錯覚であれ、疑問であれ、懸念であれ、それらは最初はほんの些細な火種に過ぎない事だ。それがしかし各人の心の中で肥大し、暴走し、そして取り返しのつかないほどまで成長する。そしてそれが過ちへと繋がる。 それは我々一般読者でも抱くような小さな火種で決して他人事ではない。つまり日常と非日常の境は斯くも薄い壁で遮られているのだということ思い知らされるのだ。 しかし各編ページは少ないながらもなかなか入り込むのに手間取った感がある。長い物でも30ページ前後でほとんどが20ページ前後と実にコンパクトだ。 しかしそれでも読むのに時間がかかったのはレンデルの創作作法にある。 導入部がいきなり渦中から始まるため、各登場人物の設定やシチュエーションが頭に入ってこず、把握するのに何度も読み返す必要があったからだ。しかも案外各編の設定は特殊なため、なかなかその世界に入り込むのに苦労した。きちんと状況は書かれているが、数ページしてようやく設定が判ってくるため、それまでの地の文などに書かれた時間軸や場所、更に登場人物の相関関係、果ては性別までもが後からついてくる形となり、結構手こずった。 しかしそんな困難さが逆に物語の味わいを深めるのも確か。特に最後に収録された「ケファンダへの緑の道」を読むと主人公の口から小説をいかに読むかを示唆され、また悪意ある書評に対する作者への非難も行間から読み取れ、レンデルが目の前で訓辞を垂れているかのような錯覚までに陥る。 そしてこの作品の結びのように作者の思いが読者に届くことこそ小説家の本望だろう。私にはその思いは確かに届いた。 しかし作者の思いが届くには物語が読み継がれなければならない。レンデルの死後、彼女の作品の大半が絶版状態で読めなくなっている。英国女流ミステリ作家の大御所だった彼女でさえ、そんな 悲惨な状況だ。 今なお未訳作品も多いレンデル=ヴァイン。是非ともジョン・ディクスン・カーのようにいつか全作翻訳され、そして新訳復刊されるようになってほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ホロヴィッツがコナン・ドイル財団からホームズ譚の正典の続編を書くことを公認された作家であることは『絹の家』の感想に述べたが、本書はそれに続く第2弾の続編に当たる。
そして大胆不敵にもホロヴィッツはホームズとワトソンを一切登場させず、脇役であり道化役でもあったスコットランド・ヤードの一警部アセルニー・ジョーンズとアメリカから来たピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスを物語の主人公に据えた。 前作『絹の家』はホームズとワトソンによる真っ当なホームズ譚であったが、本書はホームズがモリアーティ教授と格闘の末にライヘンバッハの滝に落ちた直後から始まる。 モリアーティ教授と手を組むためにアメリカからイギリスへ渡ったアメリカの犯罪組織の首領クラレンス・デヴァルーを追ってロンドンまでやってきたピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスとモリアーティ教授を追ってスイスに訪れたスコットランド・ヤードの警部アセルニー・ジョーンズがコンビを組んで、ライヘンバッハの滝から上がったモリアーティ教授の物と思われる遺体から出てきた奇妙な手紙を発端に正体不明の犯罪者デヴァルー逮捕に向けて捜査を行うといった趣向で、ホームズとワトソンは一切彼らの捜査には関わらない異色な作品になっている。 そう、本書ではホームズの世界観をバックに2人の主人公が縦横無尽に活躍する内容になっている。 とはいえ登場するのは正典に所縁のある人物ばかりで、本書で主役の1人を務めるアセルニー・ジョーンズは『四つの署名』に登場したスコットランド・ヤードの警部である。 本書では親切なことに訳者による本書で登場するスコットランド・ヤードの面々が正典のどの作品に出たか詳しいリストがついている。 このアセルニー・ジョーンズ、私自身は忘却の彼方であるのだが、実は正典では無能ぶりが強調された警部として描かれているようだが、本書では実に緻密な観察眼と推理力を持つ、おおよそ正典では存在しえない優秀な捜査官ぶりを発揮する。 私は当初彼は滝に落ちて亡くなったと見せかけたホームズが成りすました人物だと思っていた。というのもその推理振りはホームズのそれを想起させるものであり、更に足が悪くて休み休みでないと歩けないという描写があることから、怪我がまだ治り切れないホームズであると思われ、更に彼の台詞「たとえそれがどんなにありそうにないことでも、問題の本質として充分考慮しなければならない」はホームズのあの有名な台詞を彷彿とさせるからだ。 しかし彼が妻による夕食をチェイスに招待する段になってその確信が崩れてしまう。 そしてその妻エルスぺスがチェイスに語る、彼が正典で被った屈辱から徹底的にホームズを研究して彼に比肩する頭脳明晰な捜査官になろうとしていることが明かされる。 つまりは本書においてのホームズはかつてその名探偵とその助手によってコテンパンに揶揄われることに一念発起して切磋琢磨したスコットランド・ヤードの警部である。いわば彼はホームズシリーズにおける「しくじり先生」なのだ。 上記のようなことも含めてシャーロック・ホームズのパスティーシュ作品である一方で批評小説でもある。語り手をピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスにすることで部外者の視点からホームズ譚について疑問を投げかける。 例えばライヘンバッハの滝でホームズとモリアーティ教授は対決するが、わざわざ敵の首領自身がスイスくんだりまで乗り込んでホームズと対決することが解せないとチェイスは問う。 更にホームズがこの後身を隠して自分が死んだことに見せかけようとするのも理解しがたいと述べる。 加えてその後セバスチャン・モラン大佐が突如現れて崖を下るホームズに岩を次々と投げ落とすのもなぜモリアーティ教授が格闘している時に加勢しなかったのかと問い質す。 まあこれはドイルが無理矢理ホームズシリーズを終わらそうとしたが、読者の猛抗議に遭って無理矢理再開したことの弊害を指摘しているだけなのだが。 更にスコットランド・ヤードの警察官たちの中にはホームズの推理に疑問を持つ者をいることが描かれる。 曰く、筆跡から書いた者の年齢まで解るものだろうか、歩幅で身長を本当に推定できるのだろうかと云い、今になると彼の推理は何の科学的根拠もない荒唐無稽な代物だとまでこき下ろす。 更には今までさんざんバカにされてきたことに腹を立てたりもする。 つまりホームズに頼ってきたスコットランド・ヤードの警部が物語の中心になることで警官たちのこれまでホームズという奇人に対して募ってきた本音が描かれるのである。 更に毎度同じことばかり云って恐縮だが、ホロヴィッツは読み度に実に器用な作家だなと思わされる。 例えば作中に大文字と小文字の入り混じった手紙が登場するが、それは大方の予想通り暗号なのだが、それを読み解くプロセスは正典の暗号小説「踊る人形」を彷彿とさせるのだ。 また正典の「赤毛組合」で登場した犯罪者ジョン・クレイとダンカン・ロスが本書に登場し、デヴァルー一味の逮捕に一役買う。しかし彼らの末路は何とも哀しいのだが。 しかしつい先月読んだ島田氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』でも正典の「赤毛組合」が下敷きになっており、何とも奇妙な偶然に見えざる手による導きを感じざるを得ない。 物語はその後意外な展開を見せる。 それまでスコットランド・ヤードの警部とピンカートン探偵社の調査員の物語だったのが最後になって題名となっているモリアーティの意味が立ち上ってくるのである。 そう、これは緻密な頭脳を持つ犯罪者モリアーティの恐ろしさを知らしめる物語である。 最後に付されたホームズのパスティーシュ短編「三つのヴィクトリア女王像」には再びホームズと共に長屋に住む年輩の夫婦が侵入した泥棒を殺害したことを発端にそこに住む3軒からそれぞれヴィクトリア像が盗まれる奇妙な謎を追うアセルニー・ジョーンズの話が添えられる。 そこに登場するジョーンズは他のホームズ譚同様にホームズの明晰な推理によって事件の解決がなされ、白旗を挙げる典型的なスコットランド・ヤードの警部像があるだけだ。そこにはチェイスが幾たびも感心したジョーンズの姿はない。しかしそれでも彼がホームズに憧れる契機となった若き肖像が写し出されている。 これは全くの私見だが、シャーロッキアン達を筆頭にするホームズ作品の愛好家たちが好むホームズのパスティーシュ作品は正典で名のみさえ出ながらも語られなかった事件や正典の中で触れられた出来事に由来する物語、即ち正典の隙間を埋める作品が好まれ、更にそれらをもう作者の筆によって読めなくなったホームズとワトスンの活躍を再現しているような作品が高く評価されているように思える。 従って本書のようにホームズの世界観をベースに置きながら主人公は別のコンビであるような作品は、例えその一方が正典に登場するスコットランド・ヤードの警部であっても評価が高くならないのではないか。 彼ら読者にとってやはり読みたいのは本家のホームズとワトスンによる新たな活躍なのではないだろうか。 そう思うのは先月に読んだホロヴィッツの『絹の家』や島田荘司氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』どちらもホームズとワトソンが主人公になったパスティーシュでどちらも『このミス』でランクインしているからだ。 そして本書の後、ホロヴィッツはホームズのパスティーシュ作品を2020年現在書いていない。それは本書の出来栄えにコナン・ドイル財団がお気に召さなかったのか、それともホロヴィッツ自身の意志によるものなのかは解らない。 本書はホロヴィッツが一ミステリ作家としてのオリジナリティを発揮することを試みた野心的な作品であることは想像に難くない。しかしそれは実にチャレンジングな内容であった。 この結末の遣る瀬無さを世の中のシャーロッキアンやホームズ読者がどのように捉えたのか。それが今なお彼が次のパスティーシュ作品を書いていない(書けてない?)答えのように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スカイ・クロラシリーズ4作目の本書での語り手はクリタ・ジンロウ。そう、1作目では既に戦死しており、その機体を引き継いだのがカンナミ・ユーヒチだった。
1作目では明かされなかったクリタ・ジンロウの死と草薙の絶望についてようやくこの4作目で語られるのかという思いでページを捲った。 予想できたことだが、草薙水素は前作にも増して絶望している。彼女は会社のロールモデルとして生きることを強いられ、死と隣り合わせの空中戦闘に参加させられないことにフラストレーションをため込んでいる。 そして物語の終盤で語られる草薙水素の驚愕の秘密。 さてとびとびに読んでいるこのシリーズはそれまでの登場人物が密接に関わり合ってくるのできちんと備忘録として残しておかねばならない。 フーコは1作目から登場する女性で『スカイ・クロラ』では娼婦頭だったが本書ではクリタ・ジンロウの恋人(?)だ。 『スカイ・クロラ』でカンナミのパートナーとなる土岐野も本書で登場し、1作目で語られていたようにクリタのパートナーである。 そして本書のキーを握る人物相良亜緒衣は草薙の知り合いの医者だった人物だ。 また前作で草薙の取材をしていた新聞記者の杣中も登場する。 新たな登場人物としては草薙水素の異父妹でクサナギ・ミズキが登場する。但し風貌はまだ幼い少女だ。 そして情報部のコシヤマという人物も登場する。 これらの人物が今後の物語にどのように関わってくるのかもこのシリーズの興味の1つだ。 戦闘機のパイロットは常に死と隣り合わせだ。出発前に元気だったからと云ってそのまま基地に還ってくるとは限らない。 しかしそれでもなお彼ら戦闘機のパイロットは空を飛ぶことを止めない。その理由が本書には思う存分書かれている。 それは彼らが到達する天上は鳥さえも飛ぶことができない不可侵領域だからだ。その空と宇宙との間の澄み切った世界に入れるのは彼らパイロットの特権だからだ。 彼らが飛ぶのは敵と戦うためだが、そこに命のやり取りという意識はない。 彼らは存分に彼らしか到達できない世界で自由に飛んで戦うことを愉しむことができるからこそ飛ぶのだ。 そこで彼らは地球の重力からも解放され、全き自由が得られるのだ。この自由、そして不可侵の空にいることの無敵感こそが彼らに至上のエクスタシーをもたらす。 その純粋さは恐らく新雪のゲレンデを一番乗りで滑るスノーボーダー達が感じる喜びの数百倍に匹敵するのではないだろうか。 だから彼らは命を亡くすかもしれない戦闘機パイロットの職を辞めない。 例え敵に撃墜され、命を喪うことになっても、何物にも代え難い空での自由の前では死すらも安く感じるのではないか。 もしくは永遠の命を持つキルドレは普通に生活していれば無縁の命の危機をパイロットとなって戦闘に関わることで死を意識するスリルを味わうことができる。 あるいは長らく生きていることでもはや死を望んだ彼らが永遠の眠りを手に入れるために敢えて死地として空を選んだ者もいるだろう。 戦闘機乗りは地上では穏やかだが、空に出ると戦闘的になる者が多いと作中には書かれている。戦うことが礼儀だからだと語り手のクリタは述べる。 つまり彼らは命の駆け引きなしで空を飛ぶことに満足できなくなっているようだ。 敵を撃墜すると気分はハイになるとも書かれている。 人の命を奪ったのに彼らに残るのは“人を殺した”という罪悪感ではなく、敵を撃ち落としたという即物的な喜びだ。 一方で仲間が撃墜されるとその喪失感でしばし呆然となる。そんな時の食堂は閑散としているが、パイロットたちは彼らの死を偲ぶのではなく、寧ろ新しい人員がいつ補充されるかを考えているだけだとクリタは述べる。それはやはり自身も戦闘機に乘る駒の1つに過ぎないと思っているからだろう。 クリタ曰く、草薙水素が笑うのは空の上にいる時だけらしい。その時の彼女は実に愉しそうに、そして嬉しそうに笑うようだ。 そんなエピソードが草薙水素の絶望を更に引き立てる。 そして本書の最大の焦点である語り手クリタ・ジンロウの末路はどうなったのか? 1作目の『スカイ・クロラ』では草薙水素がクリタ・ジンロウを殺したとあり、それは彼が永遠の命を持つキルドレという呪縛から解放されたいがためにクリタが死を選んだとあったが、本書に登場するクリタは永遠の命を持つキルドレであることを寧ろ受け入れ、飛行機に乗りたいからキルドレであることを選び、死にたくないと公言している。 果たしてこの真逆なクリタの心情がいかにして180°変わるのか、興味を覚えながら読み進めた。 Flutter Into Life、“生への羽ばたき”とでも訳そうか。戦闘機乗り達は自分たちの生を実感するために命を喪うかもしれない空の戦場へと向かう。 この大いなる矛盾はもはや理屈ではなく、戦闘機乗り達が持っている共通項なのだろう。 命を賭けてまで辿り着きたい場所がある。その場所でしか味わえない自由がある。 草薙水素もクリタ・ジンロウも、そして黒猫こと元ティーチャも生きるために死地へ向かい、飛びたがっている。 生きている限り、彼らは飛び続けたいのだ。 ハリケーンや台風が訪れる前後の夕焼けは紫色に染まるという。本書の表紙が紫色なのはクリタ・ジンロウと草薙水素に大いなる人生の転換という嵐が、空を飛べなくなった災難が訪れたからだろうか。 願わくば草薙水素をもう一度空へと飛ばしてほしい。 しかしもはや残された空の色は哀しい色しかないのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2015年、私が最も驚いたのは御大島田荘司氏がホームズ物のパスティーシュを著したことだ。彼のホームズ物のパスティーシュと云えば直木賞候補にもなった『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』が有名だが、それが発表されたのが1984年。
そう、実に30年以上の時を経て再び島田氏がホームズ物のパスティーシュを発表したのだ。 なぜ今に至って御手洗潔シリーズのモデルとも云える彼の原点であるホームズ物のパスティーシュを著したのかが私にとって不思議でならなかったが、BBCドラマの『シャーロック』の放映をきっかけに昨今ホームズ物のパスティーシュが映画、ドラマのみならず国内外で発表されており、そのいずれもが正典をリスペクトした上質なミステリになっていることがもしかしたら御大のホームズ熱を触発して書かれたのかもしれない。 そして私はホロヴィッツのドイル財団公認の“正式な”ホームズシリーズ続編である『絹の家』に続けてホームズ物を読むことになった偶然にまたもや運命の意図を感じてしまった。 さて今回島田氏が紡いだパスティーシュはなんとあの有名な「赤毛組合」の事件がホームズを誤った推理に導くように画策された事件だったというもの。その裏側では更に別の犯罪計画が潜んでいたという、まことに大胆不敵な内容だ。 今までホームズのパスティーシュは数多書かれているが、それらは正典の中から登場人物やら事件やらをエピソードとして語るに過ぎなかったが、短編そのものをミスディレクションに使用した作品はなかっただろう。 島田作品の長編には本筋に関係したサブストーリーが結構な分量で収められているのが特徴だが、上に書いたように今回はそのサブストーリーがなんと「赤毛組合」1編がまるまる収められている。ドイルの生み出したシャーロック・ホームズとワトソンから御手洗潔と石岡和己のコンビの着想を得た島田氏がとうとう師匠の作品を下地に更なる高みを目指した本格ミステリを生み出すに至ったことに私は感慨深いものを覚えてしまった。 また先に読んだ『絹の家』でもそうだが、ホームズ物のパスティーシュには正典からのネタが織り込まれているのが常道だが、本書もその例に洩れず、いや洩れないどころか島田荘司氏の奔放な想像力で読者が予想もしていなかった使い方をしている。 そういう意味では上に書いた赤毛組合の使い方も島田流のアレンジだと云えるだろう。 また『絹の家』でも感じたことだが、私はいわゆるシャーロッキアンではないので本書に織り込まれたネタを十全に理解しているとは云えない。従って本書の中には正典に含まれていたかどうか不明なネタもある。 今回は麻薬中毒で全く使い物にならなくなったホームズに代わってワトソンが事件解決に乗り出すというものだが、本書で描かれるワトソン像は御手洗シリーズの石岡君そのものだ。 ホームズ抜きでホームズ短編を独自のアイデアで書いたことを誇らしげに思えば、今までのホームズ作品の中で一番の駄作と断ぜられ―因みにその作品は「這う人」というもの―、亡くなった兄の妻に交際を申し込めば、貴方にはもっといい人がいると云われて断られ、涙で枕を濡らすいじけぶりを見せる。 また一方でホームズはどうかと云えば『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』でも見られたように、島田氏はシャーロッキアンでありながらも自作で登場させるホームズをヤク中で奇怪な行動が目立つ変人として描く。 特に赤毛組合の事件を解決した後のホームズの体たらくぶりはここまで書いていいのかと思うほどひどい有様だ。 さて本書の最大の謎はタイトルにも冠されている「新しい十五匹のネズミのフライ」が何を意味するのか、そしてどうやって詐欺グループは難攻不落と云われる刑務所から脱獄できたのかの2つだが、この真相はなかなか面白かった。 いやはや作者は当時御年65歳だが、まだまだこんなミステリネタを案出する柔軟な頭を持っていることに驚かされる。 但し幸か不幸かこの一月でホームズのパスティーシュ物を2作続けて読むことになり、どうしてもその2作を比べてみてしまうのだが、ホームズの作風を、いやドイルの作風を忠実に再現しているとすればやはりホロヴィッツの『絹の家』に軍配が上がるだろう。 島田流ホームズのパスティーシュは上に書いたように本家をモデルにして書かれた御手洗シリーズのテイストがどうしても滲み出ており、正典の2人の性格や為人が島田流に料理されている感が否めないからだ。 さて最後に興味深く思った一節にちょっと触れよう。 ワトソンが自ら自信作として放った「這う人」がひどい駄作だと評されて世にも出なかったのに対し、編集者に急かされてホームズの奇行を基に無理矢理書いた「まだらの紐」が大絶賛を受けたことに対してワトソンは読者の好みというのが解らなくなったと漏らす。 それをホームズは全ては嘘八百であり、そんな嘘に読者は真実を見る、だから誰も何が受けるのかは解らないから他人の評価に一喜一憂する必要はないと説く。 これは今まで数多くの作品を放ってきた作者自身が抱き、目の当たりにした傑作と凡作の見えない境についての心情のように思えた。 常に作家は全力投球をしているがどうしても礼賛される作品とそうでないものが現れる。そして作家はどんな作品が受けるのかと研究を重ねるが、渾身の作品が世評が低かったときにショックを受け、落ち込み、もはや何を書いたらいいのかが解らなくなる。それがスランプへと繋がるのだろうが、結局傑作か凡作かは受け手である読者がどのように思うのかによるので誰も解らないのだと作家生活を40年近く続けている島田氏が説いているように思える。 そして今やネットで簡単に本の感想を公共の場で云い合える環境にある中で、作者の創作意欲を喪失させるようなひどい感想が散見されることもあるが、そんなものは気にせず、己の信じた道を進めばよいと諭しているようにも感じた。 本書が島田氏にとってどんな位置づけの作品なのかは解らないが幸いにして発表当時本書は『このミス』に久々にランクインを果たした。恐らく作者自身自信作として放ったが、あまり受けないことをも想定して上のようなことをワトソンの口を借りて話したのかもしれない。 恐らくこの島田荘司という作家は死ぬまで本格ミステリのことを考え、新しい力を支援し、そしてそれに負けじと自らも作品を発表し続けるに違いない。 まだまだこんな作品が書ける島田氏をこれからも私はその作品を買い続け、そして読み続けるつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年スパイアレックス・ライダーシリーズで日本に紹介されたホロヴィッツが年末のミステリ界のイベントであるランキング本に初めてランクインしたのが本書である。
つまり本書は初めてホロヴィッツがミステリ読者に認知されることになった作品でもある。 日本人というのはなぜかホームズのパスティーシュ作品に目がないようで、いわゆるシャーロッキアンと呼ばれるホームズマニアが多くおり、日本シャーロック・ホームズ・クラブなるものまである。そしてそういう方たちの中には自らホームズのパスティーシュ作品を手掛ける者もおり、本書の解説をしている北原尚彦氏はその第一人者である。彼の作品はまさに正典を読んでいるかのように忠実にシリーズの文脈や雰囲気を再現しているが、本書もまた同様に正典を読んでいるかのような錯覚に陥るほどの出来栄えだ。 それもそのはずで実は本書は通常のパスティーシュに留まるものではなく、コナン・ドイル財団から正典60編に続く61編目のホームズ作品として公式認定された続編なのだ。 そんな大業のためにホロヴィッツは自ら本書を書くに当たり、10箇条を設定し、その中の1つに19世紀らしい文章表現をすることを課していたのだ。 今回ホームズが手がける事件は≪ハンチング帽の男と絹の家≫と呼ばれる事件で時期としては『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』所収の「瀕死の探偵」事件以後に当たる。その内容はアメリカでの取引でギャングにつけ狙われることになった美術商の依頼で彼の身辺をつけ回すハンチング帽の男の正体を探ることに端を発し、その男の行方を探らせたベイカー街別動隊の1人が殺害される事態まで発展し、さらにその捜査の中で浮上した“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”なる不明な言葉の謎を探るうちにいつの間にか国際的な陰謀に巻き込まれるという実に壮大な事件である。 ホロヴィッツはそれまでのホームズ物にない、ベイカー街別動隊の仲間の死と“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”の謎が英国政府機関からも口止めされるほどの機密事項であることから彼の兄マイクロフトの助けさえも借りられなくなるという大きな試練を与えている。 そしてこのベイカー街別動隊の一員の死がその後作品でベイカー街別動隊が登場しない理由となっている。即ち子供を事件捜査に携わらせて危険な目に遭わせることをホームズは禁じたのだ。恐らく正典ではアクセントとして登場していたに過ぎないであろうベイカー街別動隊の登場について上手く理由づけまでするのだ。 またワトスンの妻メアリの死の前兆などにも触れられていたりと、こんな風に本書ではそこここにシャーロッキアンをくすぐるような演出や情報が取り込まれている。これも作者自身が積極的に正典から主な登場人物を意表の着く形で登場させると10箇条の1つとして入れているからだ。 従って本書の中に登場する数々の人名や事件の数々は正典とのリンクが多々見られ、生粋のシャーロッキアンならばニヤリとするに違いない。私もホームズシリーズは全て読んだものの、あいにくシャーロッキアンほどの記憶力と知識を備えておらず、どこかで聞いたことがあるがどの作品だったのかと記憶を掘り起こしてはみるもいささかも思い出す気配のない始末だった。 そしてワトスンによる序文にこの事件が今まで語られなかったのはホームズの名声を傷つける恐れがあることとあまりにおぞましく、身の毛のよだつ事件であったこととある。 往々にしてこのような話は読者の気を惹きつけるために煽情的に書かれ、実際はさほどと云ったものが多いが、本書はその言葉が示すように確かに今までのホームズ譚にはなかった、刺激的で痛烈な真相が暴かれる。 蓋を開けてみればイギリスの政界がひっくり返るような大スキャンダルと執念深いアメリカ・マフィアの意外な正体、その他色んな事実が判明する痛烈な真相であった。 まさにホームズ生前では語るのを躊躇われる悍ましい事件だった。 しかしホロヴィッツ、実に器用な作家である。複雑怪奇な事件を案出し、更にそこここに正典で語られる事件のネタを放り込みつつ、更に今回の時制がホームズが亡くなって1年後という回顧録の体裁を取っていることで、リアルタイムでホームズの活躍を綴っていた時には語れなかったワトスンの心情が思い切り吐露されており、それがまた実に面白い。 ホームズの引き立て役となったスコットランド・ヤードのレストレイド警部の作中での扱いに対するお詫びにベイカー街別動隊が必ずしも清廉潔白な一味ではなく、貧民窟で育った子供なりに手癖が悪かったことや彼らの生活環境が“最底辺”と呼ぶに相応しい劣悪な環境に逢ったこと、ホームズの兄マイクロフトに抱いた印象とその後の彼について、そしてホームズ最後の敵となったモリアーティ教授との邂逅と彼による刑務所に入れられたホームズの救済への意外な助力と、まさに「今だからこそ云える」話が盛り込まれている。 しかし一番驚いたのがホームズシリーズでも随一の人気を誇る『バスカーヴィル家の犬』のストーリーの流れを擬えたかのような展開だ。 あの作品では一旦ホームズは捜査の舞台から退き、しばらく語り手のワトスンだけの捜査になる。本書もまた同様に捜査の途上で亡くなったベイカー街別動隊の1人ロス・ディクスンの仇討ちとばかりにアヘン窟に乗り込んだホームズがその姉を銃殺した容疑で逮捕され、ワトスンは一人での捜査を強いられる。 『バスカーヴィル家の犬』ではホームズはロンドンでの別の事件の捜査に携わなければならない事態で一旦退場するのに対し、ホロヴィッツは本書でホームズ逮捕、しかも目撃者多数で「ハウス・オブ・シルク」という禁断の領域を侵そうとする彼の殺害計画が進行しているという絶体絶命な状況を演出するのだ。 そして彼が単に器用な作家に留まらず、センス・オブ・ワンダーを持っている作家であることが今回よく解った。 正直私は島田氏の作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。 また冤罪で捕まったホームズが脱獄する手法もホームズが変装が得意であることを上手く活かしてサプライズをもたらしている。また刑務所からホームズが脱走するシチュエーションはある意味ルパンへのオマージュではないかと思ったりもする。 また男娼の施設の名称が「ハウス・オブ・シルク」である理由もよく練られている。 まさに続編と呼ぶに相応しいホームズ作品だった。そしてそんな大仕事を見事にこなしたホロヴィッツはまさにミステリの職人である。こんなミステリマインドを持った作家が日本ではなく、英国に今いることが驚きだ。 さてこの職人、次はどんな仕事を見せてくれるのか、愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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